Home  江戸・東京・武蔵 足立区 板橋区 江戸川区 大田区 葛飾区 北区 江東区品川区 渋谷区 新宿区 杉並区 墨田区 世田谷区 台東区 中央区 千代田区 豊島区 中野区 練馬区 文京区 港区 目黒区


Yahoo! JAPAN
 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来 東京23区辞典 引用自由
夢 日本人の、日本人による、日本人のための日本
北区の地名の由来
現在進行形の調査であれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心、御用心

 ご意見とご教示メール 

 
 ★各区夫々の主な記事
 Home   【巻末特集】 江戸・東京名数一覧   江戸東京   東京は首都ではない  皇室典範・女系天皇  
 足 立 区   ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住 都立舎人公園
 下山事件 西新井大師 大鷲神社 伊興寺町
 六阿弥陀 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺
 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋
 女子高生コンクリート詰め殺人事件
 【巻末特集】 官報による帰化した有名人 
 
 荒 川 区   あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町 三河島事故
 開成中学校・高当学校 尾久の原公園 大関横丁
 素盞雄神社 天王祭 大橋 谷中延命院一件
 「あしたのジョー」「巨人の星」
 【巻末特集】 江戸しぐさ
 【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女
 
 板 橋 区   自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故 松月院
 東京大仏 縁切榎 大東文化大学 帝京大学 板橋宿
 東京家政大学 中山道 板橋宿 国立極地研究所
 板橋事件 加賀藩前田家下屋敷
 
 江戸川区   葛西臨海公園 インド人 小松川女子高生殺人事件
 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松
 目黄不動 平井聖天 食用蛙供養塔 紅葉川高校
 江戸風鈴 立木観音 タワーホール船堀 雷不動
 
 大 田 区   池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ
 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社
 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷
 洗足池
 
 葛 飾 区   式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場 「こち亀」銅像群
 香取神社 東京拘置所 柴又女子大生殺人放火事件 
 男はつらいよ 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 新宿の問屋場跡 葛西神社
 葛西囃子 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 半田稲荷
 水元公園 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園
 
 北  区   静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村
 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋)
 
 江 東 区   外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺
 
 品 川 区   品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社
 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 
 渋 谷 区   明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院
 
 新 宿 区   浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム
 731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町
 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市
 
 杉 並 区   青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水
 
 墨 田 区   東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺 
 
 世田谷区   バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園 
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川
 
 台 東 区  浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神
 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 
 中 央 区   「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
 エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ
 カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋
 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者
 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス
 
 千代田区   靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 
 豊 島 区   池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園
 【巻末特集】 東京の暴力団
 
 中 野 区   新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園
 【巻末特集】 江戸城 城門と橋
  
 練 馬 区   いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん 
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院 
 
 文 京 区   狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 港  区   増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社    乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園
 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
 9・11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー
 
 目 黒 区   滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大
 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵
 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺
 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
 
   




北区の地形
 北区は、武蔵野台地の東北縁部に位置している。新河岸川の北側にある浮間地区を除き、京浜東北
線に沿って西側には台地が広がっている。これら台地には、石神井川や水路などによって削られて形
成された谷地が複雑に分布している。またこの台地部分を囲むように、京浜東北線の東側と浮間地区
には荒川・隅田川・新河岸川などの氾濫と蛇行により生じた広大な氾濫低地が分布している。
 


地形・地質と住宅地盤
 

 
台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている。
関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰岩質粘土に大別されるが、自然堆積したロー
ム土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良
好な場合が多い。区の西半、地図的にはJR線路の西側が高台になっている。戦前は陸軍が占有し、
軍都の名を縦(ほしいまま)にしていた。現在は、学校、集合住宅団地となっている。憲法を改正して
再軍備すれば、軍都再来を期して保有してあるのだ。あと20年を経ずして、日本は必ず軍事国家と
なる。

 
台地と低地の境
 台地の側面が低地側へと下っている傾斜面で、台地面と同様に安定した地盤となっている場所もあ
るが、後背地から浸透してくる雨水や地下水の影響で地盤が軟弱化したり、雨洗によって台地側から
運ばれて再堆積した軟弱土が分布する。また、人為的に造成されているため、場所によって盛土の厚
さが異なるように地盤のバランスが悪くなっていることがある。従って不同沈下を防止するような基
礎補強策が必要となることも多い。西ヶ原の明治通り沿線。鉄道沿線。

 
谷底低地
 台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布している。
台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地
盤となっている。したがって、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となる
ことが多い。石神井川沿線。

 
氾濫低地
 荒川や隅田川流域に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、軟弱な粘土やシルト
(泥地)が厚く分布しているため、長期的な沈下(圧密沈下)が問題になっている場所が多く、適切
な基礎補強策が必要となる。JR線路の東側で区の半分の面積を占める。岩淵・赤羽・志茂・王子・
栄町・豊島・堀船。
 


北区の変遷
 
現在の北区の区域に入る江戸時代の16ヶ村は、慶応四年(1868)六月十九日山田武蔵知県事
に属したのち、七月十七日田端村・上中里村・中里村・西ヶ原村と滝野川村の一部が東京府に編入、
九月八日明治改元。明治2年1月13日船方村・堀之内は小菅県に編入。同年1月28日岩淵本宿村
・赤羽根村・袋村・稲付村・神谷村・下村・十条村・豊島村・王子村の9ヶ村は大宮県に編入。9月
19日大宮県は浦和県に改称。明治4年11月13日に小菅県が、翌日浦和県が廃止され、それぞれ
東京府に編入した。同7年3月8日16ヶ村は大区小区制により第九大区に割り振られ自治権を喪失
したが、大久保利通の独裁政治は国民の反発を買い、不平武士の義挙、自由民権運動に発展、大久保
が西南戦争を引き起こして盟友西郷隆盛をも屠って権力にしがみつくに及んで、同11年5月14日
悪運が尽きたか麹町は清水谷の沢路で正義の刃によって斬殺された。親玉を取られて驚愕した内務官
僚は周章狼狽してなすところを知らず、2ヶ月後の7月22日大慌てに大区小区制を廃止、郡区町村
編制法」を施行して北豊島郡に復し自治権回復の道を開いた。同21年4月25日明治政府として初
めて地方自治を認めた「市制町村制」を公布、当区では翌22年5月1日同法により16ヶ村を統合
再編して岩淵町・滝野川村・王子村の1町2ヶ村となり自治権を回復した。同41年8月8日王子村
が、大正2年10月1日滝野川村がそれぞれ町制に移行。同15年10月1日荒川の整備により切り
離されて東京側にあった埼玉県北足立郡横曾根村大字浮間を岩淵町に編入、昭和7年10月1日東京
市周辺5郡を東京市に編入して20区を増設することになり滝野川区7町・王子区18町が成立。同
14年1月1日王子区内の町名改正で7町に減少。ただし軍用地は変更せず王子町・下十条町は残っ
た。同18年7月1日内務省は東京市の自治権が兄弟になることを恐れた内務官僚は「府県制」を改
正して新たに「都制」を作り東京府と東京市を廃し東京都を誕生させた。これで内務官僚に都合の好
い都政となるはずだったが対米戦に敗れ、結果日本はアメリカの植民地・属国となった。民主化を急
ぐアメリカは同21年9月27日内務省の権限を大幅に削減、都制・府県制・市制・町村制を改正さ
せて都知事・区長の任命制を廃して公選制に改めた。同22年3月15日戦禍からの復興のため滝野
川・王子両区が統合して新たに「北区」となった。同年4月17日「市制・町村制」が廃され「地方
自治法」が施行された。同37年5月10日「住居の表示に関する法律」が施行され、利便性のみの
追求で昔からの町名地名が大幅に消滅させられた。
 


 北の由来
 区名案には、飛鳥・赤羽・東北・城北・京北などがあったが、結局「区の位置を明確にする名前が
良かんべえ」ということで北区に落ち着いた。他区では「北」を忌み嫌って真北を東とごまかしてゲ
ン担ぎする中で、程度の低いことにこだわらなかった北区民は実に偉い!


■区章
 昭和27年7月1日紋章制定。「北」の字を図案化して、円形に翼形を付し、力強くダイナミック
で飛躍する北区の将来を表徴する。告示第44号。


■コミュニケーションマーク
 平成8年4月3日制定。北区側によれば、「さくら」の花びらで北区のイニシャル「K」をデザイ
ンしたもので、「花いっぱいの北区」をイメージした。北区のイメージを明るいさくら色に転換させ
るものである。また輪のつながりは「交通」のネットワーク、そして区民、企業、区を訪れる人々と
区のコミュニケーションや交流を表し、さらに、さくらの開花は、春の生命の息吹、「誕生」や出発
をイメージさせる。なお、「さくら」「K」とも世界中の人々に解り易く、国際的なデザインといえ
る。区内の駅などに積極的に用いられている。 
 


■区の木 
サクラ

 桜。昭和47年12月25日制定。サクラの仲間は、バラ科に属する樹木。バラ科には、約100
属、3000種の植物があり、全世界に分布している。分類学的には、バラ科はサクラ亜科、ナシ亜
科、バラ亜科、シモツケ亜科の4つの亜科に分けられ、日本にはいずれの亜科も分布している。
 日本には、サクラ亜科で主要なグループのサクラ属がある。サクラ属は落葉性で形状は高木、低木
など様だ。特徴としては、葉は互生で、鋸歯があり、托葉がある。また花は両性花で、がく片と花弁
は5枚(5数花)、多数の雄蕊があり、普通、雌蕊は、長い花柱となっている。
 果実は、核果で1個の種子がある。果実が食用とされるウメ、モモ、アンズなどは、桜の仲間で、
200種が主として北半球の温帯に分布している。ウメやモモ、スモモとサクラ属とは、①果実に縦
のくぼみがない、②内果皮に細かい毛がない、③頂芽があることなどで、分類されている。
 一般的に桜と呼ばれているのは、バラ科サクラ属の落葉性の樹木。サクラ属は主に北半球の温帯に
広く分布している。日本のサクラ亜属(ユスラウメなどを含まない))を細分して「群」として分類
すると、ヤマザクラ群・エドヒガン群・マメザクラ群・チョウジザクラ群・ミヤマザクラ群となる。
日本の山野に咲く主なサクラとしては、ヤマザクラ(山桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、カスミザ
クラ(霞桜)、オオシマザクラ(大島桜)、エドヒガンザクラ(江戸彼岸桜)、マメザクラ(豆桜)、
タカネザクラ(高根桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、チョウジザクラ(丁子桜)などがある。そして
これらの変種を合わせると、数10種以上が自生し、またこれらの種を基本に育種されている。栽培
品種は600種類以上にもなる。全世界にある花を楽しむサクラの殆どは、日本のものばかり。
 サクラの種は、葉の鋸歯の形や、鋸歯の先端の形、葉柄の毛の有無、蜜腺、鱗片、花序の形、萼片
の鋸歯の有無やその形、樹形、花期、花弁の色、形、枚数などで分類する。


■区の花 ツツジ
 躑躅。昭和47年12月25日制定。ツツジ科の植物であり、学術的にはツヅジ属の植物の総称。
但し日本ではこの中に含まれるツツジやサツキ、シャクナゲとを古くから分けて呼んでおり、これら
はしばしば学術的な分類とは食い違う。最も樹齢の古い古木は、800年を超え1000年に及ぶと
推定されている。ツツジ属の植物は、概ね常緑若しくは落葉性の低木から高木で、葉は常緑または落
葉性で、互生、果実は蒴花だ。4月から5月の春先にかけて、漏斗型の特徴的な形の花(先端が五裂
している)を数個、枝先につける。また花を上手に採ると花片の下から蜜を吸うことができ、第二次
世界大戦中は当時の子供たちの数少ない甘みとなっていた。
 ツツジ属は、大きくヒカゲツツジ亜属とツツジ亜属に分類されるが、便宜上落葉性のツツジ類と常
緑のシャクナゲ類とに分類される。日本で「シャクナゲ」と呼ばれるものはホンシャクナゲの仲間に
限られ、常緑であってもそれ以外の殆どは「シャクナゲ」とは呼ばない。ツツジは日本では古くから
園芸品種として交配され、数多くの美しい品種が生まれている。中でもキリシマツツジとサタツツジ
をかけ合わせて生まれたクルメツツジはその代表で、種類も多く色とりどりの花が咲き、満開の時期
はまさに圧巻である。ヒラドツツジも日本全国でよく見られ、花も大きく街路樹としても沢山植栽さ
れている。西洋では、アジアからヨーロッパに常緑のものが持ち込まれて園芸化されたものが、ロー
ドデンドロンと呼ばれ、またアメリカなどで落葉性のものが園芸化されてアザレアと呼ばれるように
なった。


■区の鳥
 制定していない。
 


■文化施設

 平成16年現在30町。区役所は王子本町にある。友好・姉妹都市は北京市宣武区・酒田市・群馬
県甘楽町・中之条町。文化施設は赤羽自然観察公園・古河庭園・飛鳥山公園・中央公園・名主の滝公
園・荒川知水資料館・紙の博物館・飛鳥山博物館・東京ゲーテ記念館・渋沢史料館・田端文士村記念
館・王子神社・王子稲荷などがある。国立国語研究所は立川に移転した。図書館は中央図書館の外1
5館もある。


■教育施設
 小学校40(区立38 私立2)
 王子第一・王子第二・王子第三(北ノ台を併合)・王子第五・荒川・豊川・堀船・柳田・東十条
 ・十条台・清水・赤羽・岩淵・第三岩淵・第四岩淵・梅木・神谷(神谷第二を併合)・稲田・八
 幡・浮間・西浮間・赤羽台西・(※赤羽台東は廃校し学区分散)・滝野川・滝野川第一・滝野川
 第二・滝野川第三・滝野川第四・滝野川第五・滝野川第六・滝野川第七・西ヶ原・谷端・紅葉・
 なでしこ(第二岩淵+志茂)・袋(袋+北園)・桐ヶ谷郷(桐ヶ丘+桐ヶ丘北)・としま若葉
 (豊島西+豊島東)・王子(王子+桜田)
 聖学院・星美学園

 中学校21(区立12 私立9)
 堀船・稲付・神谷・浮間・飛鳥・王子桜(王子・桜田)・十条富士見(十条+富士見)・桐ヶ丘(北
 +赤羽台)・明桜(清至+豊島+豊島北)・田端(新町を併合)・赤羽岩淵(赤羽+岩淵)・滝野
 川紅葉(滝野川+紅葉)
 駿台学園・聖学院・女子聖学院・桜丘・星美学園・滝野川女子学園・東京成徳大学・武蔵野・順天

 高校14(公立4 私立10)
 飛鳥・赤羽商・桐ヶ丘・王子総合(王子工業)
 駿台学園・聖学院・女子聖学院・桜丘・星美学園・滝野川女子学園・東京成徳大学・武蔵野・順天
 ・成立・安部学院


 短期大学
 星美学園・東京成徳・東京福祉

 大学
 東京福祉(王子)(※東京外語大は府中に移転)

 明治の早い時期から陸軍の施設が多く設置され、戦後は米軍に接収されていたため、返還後に住宅
団地・学校・公園に転換しやすかった。
 王子小学校は廃校となり桜田小学校が王子小学校に校名変更、赤羽台東小学校は閉校。王子中学校
と桜田中学校は統合して王子桜中学校になった。※東京家政大学・同短大は、本部が板橋区にあるの
で板橋区に詳細を記してある。なお建物の大半は十条台にある。
 




○北区の地名について説明を始めま~す! 



【赤羽】
(あかばね)1~3丁目                  最終昭和47年2月1日
 赤羽根村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に復し、同22年「市制・町村制」に
より岩淵町大字赤羽根となる。昭和7年王子区成立により明治18年開業の「赤羽駅」に合わせて
〝根〟の字を削除して赤羽町1~5丁目となる。同20年敗戦により町内の軍事施設を占領米軍が
接収。同22年王子区・滝野川区の合同により北区に所属。同37年2~4丁目の大部分(陸軍被
服本廠跡地など)を赤羽台とし、同39年新住居表示により5丁目の大部分を桐ヶ丘に委譲、同4
0年5~6丁目の各一部を赤羽西に、同46年7月1日一部を赤羽南に譲って、同時に赤羽町1丁
目・岩淵町2丁目の各全部に岩淵町1丁目・赤羽町2丁目の各一部をあわせた町域を1~2丁目に
分けて現行の「赤羽」とし、同47年赤羽町2丁目・袋2丁目・岩淵町1丁目をあわせた町域を現
行の「3丁目」とした。赤羽根村の当時から比べると東に移り、岩淵村・袋村を食った格好だ。軍
都赤羽の夢忘れ去れずといったところ。だから赤羽は赤羽駅だ!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」のほか『北区史』など。

 
赤羽の由来
①、赤穂浪士の赤垣源蔵は「赤埴」が正しく焼き物になる赤粘土のことだ。埴輪(はにわ)、埴瓮
  (はにべ)・埴物(はにもの)・埴師(はにし=土師)などいう。土器の生活の中で重要な位置
  を占めると赤埴もまた資源として大切にされ、地名や苗字に用いられるようになった。羽生、
  埴安がそうだし、羽仁、羽根、土師(はじ)がそうだ。港区の古川の赤羽根橋も赤埴による。
  北方に土器町(かわらけまち)があった。ここの赤羽根も元は赤埴で、岩淵に土取場があっ
  たようだ。
②、赤羽の「ハネ」は撥ねる・弾き飛ばすの「ハネ」で地崩れを表すという説もある。確かに赤
  羽根村は高台で崖下に岩淵宿があった。地滑りする環境だ。
③、インドネシア語で解すると「アカ・パネ」、「表面を削り取られた頭のような形の地」とい
  うことらしい。ちょと意味不明。禿山といいたいのか?
 元々赤羽は岩淵宿に従属した村で、大きい歴史のある岩淵を縮小して、赤羽をことさら拡大する
のは、軍都赤羽を記憶に留めさせよう魂胆、将来を戦前に戻したい内務官僚・軍部の衣の下の鎧が
見え隠れする。軍国主義者・国家主義者は官僚の中にまだまだ多い。今後新憲法制定=自衛隊の国
軍化=防衛庁の省昇格=新々憲法=完全再軍備=国防省設置=徴兵制復活という段取りで進んでい
く。後20年かかるかなぁ!

 朝鮮部落(コリアンタウン)
 戦後、陸軍施設跡地に屑鉄集めのバタヤ部落や朝鮮学校が続々できあがり、十条台には朝鮮大学
校に次ぐ規模の東京朝鮮中高級学校がある(最盛期には生徒数3000人にのぼった)。
 現在、朝鮮学校の生徒が減少しているのは、日本の学校、日本人の公立校に、通名で潜り込むた
めだ。日本人になりすまして日本人として就職する方が得だからだ。在日韓国人で、政治家、官僚
財界に君臨する人間も出てきている。併し心は韓国人のママで、日本に恨み心を板いている。
 


■赤羽駅

 赤羽1丁目1番1号にある埼京線・京浜東北線・東北本線・高崎線・湘南新宿ラインの停車場。同
16年の上野~熊谷間開通時には設けられず、品川線(品川~赤羽間)開通に伴って、明治18年3
月1日の開業。当時の駅は現駅の北、65番の西側辺りにあった。昭和4年現在地に移転。
 同47年線路区間表示が改定され、山手線池袋~赤羽間が「赤羽線」として分離改称。同48年4
月24日夜に順法闘争中の乗客とのトラブルから暴動が発生。これをきっかけに上野・新宿などでも
暴動(首都圏国電暴動)が発生したため、翌25日一杯まで首都圏の国鉄線が麻痺状態に陥った。同
53年10月1日東北新幹線の上野延伸工事とそれに伴う赤羽線10両化に伴う高架化工事のため、
当駅付近の東北貨物線が単線化される。その後、単線区間は東十条駅付近から荒川橋梁付近にまで延
長され、現在の5番線が完成・開通するまで単線運転が続けられた。同58年3月2日赤羽線の高架
が完成し、同線が発着する5番線を高架(現7番線)に切り換え。この高架ホームは将来的な赤羽駅
周辺の立体交差化を意識したものだったが、京浜東北線との相互の乗り換えが不便となり、完全高架
化完了まで利用客にはすっごく不評だった。同10月2日池袋駅の新ホーム使用開始により、8両編
成だった赤羽線は10両編成となる。同59年2月1日大宮以南で東北貨物線を経由する当駅止まり
の上り中距離電車を朝混雑時に運転開始。赤羽線の高架下を走る東北貨物線(当時単線)に7番線ホ
ームが設けられる。同60年東北新幹線の開業に伴い、見返りとして建設された武蔵浦和駅経由の通
勤新線(東北本線の別線)が開業し、当駅を介して赤羽線と一体化して列車を運行開始、赤羽線を介
して池袋~大宮間での運転が始まり、運転系統名を埼京線(通称)とした。
 
平成8年3月16日恵比寿まで延伸。同10年4月26日高架化が完了し「開かずの踏切」全廃。
同12月6日未完成だった東北貨物線上り線用の高架が完成し、当駅付近の東北貨物線が20年振り
に複線に復帰、5番線の使用開始。同13年11月18日ICードSuica供用開始。同14年1
2月1日には大崎まで延伸。同時に東京臨海高速鉄道りんかい線との相互直通運転開始。同17年4
月4日女性専用車両を朝のラッシュ時にも設定。朝のラッシュ時の女性専用車両の運行はJR東日本
では初めてとなった。同7月31日埼京線内全駅に東京圏輸送管理システム(ATOS)導入。同1
0月2日大宮駅埼京線ホーム~大崎駅~新木場駅~南船橋駅~大宮駅(高崎・宇都宮線ホーム)の経
路で団体臨時列車「埼京線開業20周年記念号」がハエ32編成で運転。同18年3月20日女性専
用車両をりんかい線からの直通下り電車にも設定。同21年12月28日205系1編成の1号車に
防犯カメラ設置。同23年3月26日駅ビル「エキュート赤羽」一部先行開業。9月23日北口コン
コースのリニューアル・拡張及び「エキュート赤羽」全面開業。

 ホームは、平成10年に高架化工事が完成し、島式4面8線の大規模な高架駅となった。東側から
1番線(京浜東北線南行き)、2番線(京浜東北線北行き)、3番線宇都宮線・高崎線上り・4番線
宇都宮線・高崎線下り、5番線湘南ライン南行き、6番線湘南ライン北行き、7番線埼京線北行き、
8番線埼京線南行き、と並び、緩行・快速・通勤快速の総てが停車する。なお新幹線は7・8番線の
頭上を通っている。
 改札は北改札と南改札の2ヶ所で、コンコース内には飲食店や無印良品などの店舗が並ぶ。特に駅
改札内に吉野家があるのは非常に珍しい。区役所は王子にあるが、街の規模も駅の規模も圧倒的に赤
羽のほうが大きい。実質的に北区の中心は赤羽と考えてもいいだろう。上野と北関東を結ぶ特急列車
も停車するので、ターミナル駅としての資格は十分だ。でっかい握りを握ってくれる寿司屋はまだあ
るんだろうか?

 
「街に緑を」「母子像」 ◇
 東口バスターミナルの端の植栽にある銅像。文化といえば文化だが、特になくてもいい気がする。
彫刻家救済委員会か。予算ありきだからねぇ・・・浪費も行政の内。

 
●痴漢逮捕
 令和元年5月31日朝の通学通勤時間、3人の女子高生に痴漢したとして電車から降ろされた30
代の男が、隙を見て走って逃げた。「逃げるな!」と大声を上げて追っかける女子高生に、乗客の一
人が足をかけると男は転倒、女子高生が追いつくも男はさらに階段を下りて逃げる。結局、男は追い
詰められ、隣のホームに辿り着いたところで、連絡を受けた駅員に取り押さえられて警察に引き渡さ
れた。3人組の女の子は、1人が駅員に通報、2人が追いかける見事な連携プレー。男はメタボリッ
ク・シンドローム、走って逃げるにはお粗末な体形。痴漢してる場合か、アホ、体鍛えろ。

 ●小学生 電車に接触死亡事
 
  


■自由の女神像

 赤羽1丁目3番5号第二羅針盤ビル(サウナ錦城)の屋上広告塔の上に立つ。


鯉とうなぎと まるます家総本店

 赤羽1丁目17番7号、赤羽駅東口駅前にある大衆食堂酒場。何と9時から21時半の営業、朝っ
ぱらから盛り上がっている。但し酒は3杯まで。基本は魚料理にこだわる店で、うなぎ魚介料理・
海鮮料理が主流。安くて美味く、赤羽名物の1つ、カウンターあり、座敷あり、宴会OKだ。ミシュ
ランもいいが、何てったって大衆食堂・大衆酒場が一番、3000円もあればおつりがくるぜ。
 


■赤羽小学校

 「赤羽小学校時代
 赤羽1丁目24番6号にある区立校。明治9年8月福寿院のお堂を借り「東京府第四中学校第十七
番小学赤羽学校」として開校として。同16年鉄道路線敷地にかかるため、宝幢院に移転、公立赤羽
小学校となる。同18年赤羽駅開設。同20年工兵隊設置。同22年岩淵町誕生。宝幢院内に校舎新
築移転。同26年神谷に分教場開設。校舎増築。同28年高等科設置、「東京府北豊島郡赤羽村赤羽
尋常高等小学校」と改称。同30年校舎改築2階建てとなる。

 [岩淵小学校時代
 同33年福寿院を仮教場として尋常科の一部教場とする。「岩淵尋常高等小学校」と改称。同34
年稲付分教場を置き、学級組織として学級を置く。このころ小説「大菩薩峠」の著者中里介山(弥之
助)教員として本校に勤務。同35年現在地に校舎落成移転。稲付分校を併合。神谷分教場は明和尋
常小学校として独立。同36年岩淵大火で校舎全焼。同37年校舎新築。同40年小学校令改正。尋
常科6年義務制、高等科2年となる。8月荒川土手決壊岩淵町浸水。工兵隊救助出動。同41年3教
室増築。
 大正3年旧校舎3教室改築。同6年夜半より10月1日にかけての大暴風雨のため、校舎の一部が
倒壊。同7年3教室改築。同12年第二岩淵小学校を分校。同13年2階建て10教室改築。同14
年2階建て10教室改築。応接室・衛生室・宿直室・小使室一棟・理科室一棟新設。同15年創立5
0周年記念式典。

 当時の校歌
    浅緑 澄み渡りたる大空の
    広きを己
(おの)が心ぞと
    諭し給える大御心
    暮れはかしこむ
    広き青空 おお我が心


 昭和2年大袋に分教場設置。同3年第三岩淵小学校を分館。同5年学校後援会設立。袋分教場を独
立させ第四岩淵小学校とする。同7年北豊島郡の東京市編入により王子区成立。「東京府東京市岩淵
尋常高等小学校」と改称。同9年高等科が独立し「東京府東京市岩淵尋常小学校」と改称。同16年
勅令148号国民学校令により「東京府東京市岩淵国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都
制施行により「東京都岩淵国民学校」と改称。同19年群馬県に学童集団疎開。同20年日本敗戦。
 同21年疎開解除により学童帰校。創立70周年記念式典・校歌制定。

 校歌
「高翔ける」 作詞・大木惇夫  作曲・飯田信夫
  1.高翔る赤羽の
    学び児 吾等 立つところ
    良き師の君の恵みあり
    光りを仰げ
    慈しみ合い敬いて
    いざ美しき民たらん
  2.若緑 武蔵野の
    春の子 吾等 和すところ
    親しき友の集いあり
    勇めよ心
    学びて伸びていたつきて
    文化の日本を打ち立てん
  3.海となる荒川の
    清けき流れ汲み取りて
    誠の泉 胸にあり
    望みに満ちよ
    生きとし生ける人皆と
    平和の幸を共にせん


 [赤羽小学校時代
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都北区赤羽小学校」と改称。学
校給食開始。北区成立。PTA発会。同25年給食調理室新設。同26年東校舎10教室と西校舎の
防災工事を行う。創立75周年記念式典・運動会。同27年創立75周年記念図書室開設。同28年
中央校舎8教室、職員室落成。校庭万年塀完成。同29年袋分校設立。同30年放送室設置。同32
年学校給食文部大臣賞受賞。創立80周年記念式典・鉄筋コンクリート造り講堂完成。同34年北区
教科書センター、稲田小より本校へ移転。プール完成。テレビ1台,区より配給される。校庭舗装改
修完了。同35年給食調理場改修。同36年文部省の学力テスト実施について、北区で一校抽出され
6年生に実施。同37年北区教科書センターを北区立王子小学校へ移転。第1期鉄筋コンクリート造
り校舎(普通教室6、音楽室、図工室、家庭科室、浄化槽、水道ポンプ室、屋上タンク)落成。同3
8年。第2期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室8、職員室、応接室、校長室、調理室、放送室、
用務員室)。新校舎落成式を兼ね創立88周年記念式典。鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室4、
理科室、図書室、保健室、物置、講堂への渡り廊下)落成。学校放送施設を新規に完成。校庭を全面
的に簡易舗装し100m直線コース設定。同39年校庭全面アスファルト舗装。同40年創立90周
年記念式典。同41年校庭開放。学童保育赤羽子どもクラブ開設。同44年プール改築。同46年木
造校舎・講堂解体。プール浄化装置設置。難聴学級(北区きこえの教室)開級。同47年心身障害学
級・難聴学級校舎完成。体育館完成。言語障害学級(ことばの教室)開級。校舎3教室増改。同50
年校庭ウォークトップ舗装。創立100周年記念式典・大運動会・大音楽会・餅搗き大会。同52年
視聴覚室完成 教育機器導入。同56年屋上に北区防災無線設置。同57年区内最初のウォークトッ
プ校庭舗装。同61年創立110周年記念式典。同63年給食用コレール食器導入。
 平成元年正面玄関に大時計設置。同2年パソコンルーム開設。同3年管理室(校長室・職員室・事
務室・用務主事室・調理主事室)冷房装置設置。同4年学校週5日制実施。韓国教育視察団来校。同
6年生ごみ処理機設置。同7年プール改修。同7年学校給食優良学校として文部大臣表彰。同8年創
立120周年記念式典・マーチングバンド結成。同10年ことばときこえの教室30周年記念式典。
同12年インターネット導入。同13年HP公開。同14年パソコン新機種40台設置。同16年各
学級LAN用ノート型パソコン34台設置。同18年創立18周年記念式典。同19年校舎・体育館
全面大改造。同20年きこえとことばの教室40周年記念式典。
 


■赤羽東公園(三角公園)

 赤羽1丁目43番18号にある区立公園。


■赤羽岩淵駅

 赤羽1丁目52番8号にある東京地下鉄南北線の停車場。平成3年11月29日駒込~赤羽岩淵間
開業と共に設けられた。平成13年には埼玉高速鉄道が開業し、南北線との直通運転が開始された。
ホームは島式1面2線構造で、地下3階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備されてい
る。改札口は1ヶ所のみで地下2階にある。出口は1~3の3ヶ所で、地上へ上がるエレベーターは
1番出口に併設されている。
 この駅は東京メトロと埼玉高速鉄道の境界駅だが、南北線の列車は終電を除いて全て埼玉高速線へ
直通するため、実質は中間駅となっている。駅の業務は全て東京メトロが行っているし、変わったと
ころといえば運転士が交替することくらいだ。
 


■赤羽萬歳館 → 赤羽映画劇場 
閉館

 赤羽1丁目55番8号(北豊島郡岩淵町98番地)にあった赤羽地区最初の映画館。大正14年に
「赤羽萬歳館」として開館。昭和2年「赤羽劇場」を併設。同5年赤羽劇場を映画館に改装。同15
年頃「赤羽映画劇場」に改称。同40年「赤羽東宝」と改称。同54年「ニュー赤羽映劇」と改称。
同57年閉館。 平成6年跡地にマンション「ウィローズ赤羽」が建った。
 なお、昭和59年ごろ赤羽東亜会館の赤羽東映劇場が「赤羽映画劇場」と改称し、平成3年に閉館
している。


■福寿院

 赤羽1丁目57番2号にある曹洞宗の寺。  


■赤羽オリンピア映画劇場・赤羽中央映画劇場 
閉館

 赤羽2丁目1番1号の西友赤羽店(旧赤羽2号店)のところにあった。昭和26年赤羽町1丁目6
7番地にオリンピア興業が「赤羽オリンピア映画劇場」を、同28年隣接地赤羽町1丁目21番地に
「赤羽中央映画劇場」を開館、同40年頃、両館とも閉館した。
 なお、西友赤羽1号館は、赤羽1‐1‐76のホテルMETS赤羽のところにあった。 


■赤羽カトリック教会

 赤羽2丁目1番12号にあるキリスト教会。昭和22年12月8日無原罪の聖マリアの大祝日に教
会の定礎式が行われ、同24年8月15日小教区として正式に赤羽教会創建。同26年11月土井大
司教の祝別式により聖堂落成。「被昇天
の聖母」に捧げられ、自然を愛し平和を求めたアシジの聖フ
ランシスコを師父と仰ぐ、コンベンツアル聖フランシスコ修道会によって司牧されている。
 赤羽教会の設立は、当初長崎を拠点として活動していたコンベンツアル聖フランシスコ修道会が終
戦後、東京に新しい修道院や神学生養成のための神学校の必要性を強く感じたことに起因する。ドナ
ト・ゴスチンスキー神父とゼノ修道士が派遣され、赤羽にその地をみつけ、戦争中の空襲で焼けた工
場跡のこの土地を、当時の管区長であったサムエル・ローゼンバイゲル神父がアメリカからの寄付金
で購入した。同26年に聖堂が祝別されたのを見た同神父は、25年後の教会記念誌に、

   この聖堂は私に、アメリカの多数の恩人たちの愛を語りかけるように迫ってまいりました。
   この恩人たちは、たびたび病気に苦しみ、或いは老衰の悩みにもかかわらず、寄付集めを
   して協力してくださったのです。


 と書かれている。当時は授産施設があったが、その後、教会付属の聖母の騎士幼稚園が設立され、
多くの卒園児を送り出している。かつては、赤羽駅のホームから見えた教会も、今は、高いビルに囲
まれて見えたり見えなかったり。北区の景観百選にもえらばれ、教会の庭には椿、梅、桜、藤など四
季折々の花が美しく咲き、地域のオアシスとしての役割も果たしている。被昇天祭には、マリア様の
ご像を御輿の山車のように引きながら、歌をうたい近隣の商店街を練り歩き、地域に親しまれる教会
を目指しています。
 


■岩淵中学校
 閉校
 赤羽2丁目6番18号にあった区立校。平成21年就学児童激減のため閉校となり、赤羽中学校と
統合して「北区立赤羽岩淵中学校」となった。
 


■赤羽岩淵中学校

 赤羽2丁目6番18号にある区立校。平成21年赤羽中学校と統合して「北区立赤羽岩淵中学校」
として開校した。

 校歌「
風上に立つ」  作詞・作:小椋佳
  1.この学び舎に友皆集い、
    励み努め夢を育む
    胸に宿す志は
    風上に立つ者 未来見つめ
    青春に鍛え、凛と磨き合う
    我が中学校 赤羽岩淵
  2.この学び舎に行き渡る愛
    祈り願い誇り高める
    心清く力溢れ
    風上に立つ者 時代創る
    青春に燃えて 真理歌い合う
    我が中学校 赤羽岩淵
    青春の絆 永久を誓い合う
    我が中学校 赤羽岩淵


■「プレゼント」
 赤羽2丁目6番18号、赤羽岩槻中学校前にある宮澤光造の彫刻。笠地蔵の話をヒントに、風の中
を飛んで行って花束を届ける少女を表現した5tの石。


■「○△□大拙考」
 赤羽2丁目9番3号つばさ薬局横にある登坂秀雄のオブジェ。


■「Silent Language」

 赤羽2丁目13番3号サトウビル(1階、藥マツモトキヨシ赤羽すずらんストレート店)前にある
安田明長作のオブジェ。


■「懐」

 赤羽2丁目16番1号、赤羽スズラン通りの岩蔵赤羽直売所前にある、吉野毅の上半身の女性像。


■庚申塔 移転
 赤羽3丁目1番先の交差点内にあったが、道路・交差点の拡張により赤羽1丁目4番満蔵院に移し
た。山型。
日月、青面金剛(剣人六臂)。 右面に「天明三癸卯年十二月吉日」、左面に「武刕豊嶋
郡袋村 講中二十一人」、台石正面に、三猿を刻んだ痕跡。


医王山宝幢院東光寺
 赤羽3丁目4番2号にある真言宗智山派の寺。初め浮間村西野(浮間4丁目 跡地は宝幢院屋敷と
いう)にあったものが移転してきた。本尊は薬師如来。寛正二年(1461)宥鎮和尚の開山。15
0年ほど後深承阿闍利と宥意和尚が中興。「新編武蔵風土記稿」に、慶安二年(1649)3代将軍
家光から10石の年貢課税免除の朱印を頂戴したとある。
 正面入口は常に閉じており、隣の通用門を入ると左手に小っちゃな不動堂、正面植込み手前に石地
蔵尊と「山王廿一社」と彫られ阿弥陀如来像と二猿を線刻した石塔がある。正面入口の右手に六地蔵、
境内左隅に文政十一年(1828)「東叡山御支配 先達」の銘がある出羽三山供養塔、大正9年銘
の「四国西国秩父坂東百八十八ヶ所参拝」記念碑、明治41年「馬持講中」銘の「南無馬頭観世音」、
大正8年銘の「信刕(州)善光寺参拝」の記念碑は建ててあるが、「大施餓鬼供養塔」など数個は放り
投げてある。境内全体がうす汚い。庫裏のほうだけは何とかしているが、僧侶の人間性とか、心が表
れているのかな? 「新編武蔵風土記稿」に、

   宝幢院
   新義真言宗、足立郡川口宿錫杖寺末、医王山東光寺末と号す。慶安二年寺領十石余の御朱
   印を附らる。草創の年代は伝へされと住僧の内秀永と云もの天文九年十一月廿一日寂せし
   といへば、其以前の草創なりし事知らる。本尊薬師を安す。大日堂。

 とあり、区の説明板に、

   宝幢院                           赤羽3丁目4番2号
   
宝幢院は医王山東光寺と号し、真言宗智山派に属する寺院で、本尊は薬師如来像です。寛
   正二年(1461)宥鎮和尚によって開山され、約150年後に深承阿闍梨及び宥意和尚
   が中興しました。「新編武蔵風土記稿」には、慶安二年(1649)に三代将軍家光から
   赤羽根村内に10石余の年貢・課役免除の朱印を付されたことが記されています。寺伝や
   浮間の古老の言い伝えによれば、かつてこの寺は、浮間村西野(現在の浮間4丁目にほぼ
   相当)にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽に移転し、跡地は宝幢院屋敷
   と呼ばれたそうです。
   境内には、区内最古の寛永十六年(1639)霜月十八日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔があ
   ります。板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像と2猿が線刻され、「山王廿一社」
   の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところがニ猿で
   あるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と山王
   信仰の結び付きを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結び付
   いて造立されたようです。
   その他に馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名を刻んだ馬頭観音塔や、
   出羽三山供養塔などがあり、この地の歴史を知る上で貴重なものとなっています。
   平成15年7月                       東京都北区教育委員会


 とある。北区観光ガイドマップには、

   かつては浮間の西野にあったといわれ、その跡は宝幢院屋敷と呼ばれていました。宝幢院
   の開山は宥鎮和尚の開基で、寛正二年(1461)です。慶安二年十月徳川三代将軍家光
   公より寺領として赤羽根村内に10石余を賜りました。明治維新後の神仏分離まで赤羽八
   幡人神社の別当寺でした。院前の道しるべは江戸中期につくられたもので、「東川口善光
   寺道 日光岩付道」「西西国富士道 板橋道」「南江戸道」と刻まれています。この地が
   交通の要であったことがわかります。

 とある。


 道標
 宝幢院門前にある。日光御成道・岩槻街道は赤羽の方から来て宝幢院にぶつかって直角に右に曲っ
て荒川に下りていく。道標は、向かって右面に、

   東 川口善光寺道 日光岩付道

 左面に

   西 西国富士道 板橋道

 と彫られており、ここから板橋道が分かれていたことが判る。「南江戸道」に従うと王子から本郷
通りに抜け、江戸へ向かった。

   道しるべ
   この道標は岩槻街道から赤羽宝幢院の前で、枝街道と分れる処に建てられた石造の道しる
   べです。正面に南江戸道、東川口善光寺道、日光岩付道、西側は西国冨士道、板橋道とし
   るされ、裏面に元文元年(1740)十二月建立と記してあります。北区に残る道しるべ
   としては貴重なもので、ここが赤羽方面から板橋方面にゆく重要な分岐点であったことを
   しめしています。
   昭和47年5月                          北区教育委員会

   
宝幢院前の道標                          宝幢院所在
   門に向かって右側の道標は、江戸時代の中期、元禄五年(1740)十二月に了運という
   僧侶によって建立されたものです。
   宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善
   光寺道 日光岩付道」・「西 西国冨士道 板橋道」・「南 江戸道」と刻まれています。
   日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿
   で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光
   に社参するための専用の街道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は西国へと
   向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口へと向かう冨士道へ通じていました。
   道標は、各々の方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、つぎに、これ
   から訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られた
   ものです。
   平成3年3月                           北区教育委員会



 
弘法大師修行像 ◇
 本堂前にある。現代では空海を見た人はいないのだから、各寺の弘法大師像は、彫刻家の思いのま
まで、夫々に異なるのはしかだがない。
 


広照山真頂院平等寺

 赤羽3丁目16番3号にある真言宗智山派の寺。創建年代は不詳、元徳二年(1330)銘の碑が
江戸時代に残っていたことや、本寺の錫杖寺が天平十二年(740)の創建と伝えられていることか
ら、古寺と推察される。僧宥深(寛正5年 1464年寂)により中興され、北豊島郡に多くの末寺
を擁していた。豊島八十八ヶ所霊場69番札所、北豊島三十三ヶ所霊場の9番札所。
 山門は閉まっているので脇の駐車場から入る。本堂の銅葺きの屋根の緑色が美しく重厚さがある。
本堂の右手が庫裏。左手は墓地。環八通りに面している。「新編武蔵風土記稿」に、

   真頂院
   新義真言宗足立郡川口宿錫杖寺末、廣照山平等寺と号す。本尊大日、中興僧宥深寛正五年
   八月十五日寂す。境内に元徳二年庚午六月日岩淵幸如法名恵観と彫たる古碑及文明中の碑
   あり。


 とある。
 


■赤羽三丁目公園
 赤羽3丁目23番19号にある区立公園。


■第四岩淵小学校

 赤羽3丁目24番23号にある区立校。昭和5年9月「東京府北豊島郡岩渕町立第四岩淵尋常小学
校」として開校。同7年北豊島郡の東京市併合により「東京府東京市第四岩淵尋常小学校」と改称。
同9年校地拡張。4教室増築。同10年校歌制定。
 同13年岩淵尋常小学校を分校(別に岩淵尋常高等小学校がある)。同14年地域の協力により校
庭舗装。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市第四岩淵国民学校」と改称。高等科
7教室併設。原因不明の出火で4教室を残して焼失。日米開戦。同17年袋国民学校を分校。同18
年都制施行により「東京都第四岩淵国民学校」と改称。地域の協力により復興校舎落成。同19年学
校給食(味噌汁)開始。高等科児童の勤労動員始まる。学童集団疎開。同20年4月初等科の授業閉
鎖。8月日本敗戦。9月授業再開。10月疎開解除により学童帰校。同22年高等科を岩淵中学校に
変更併設。10月戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都北区第四岩淵小学校」
と改称。同27年岩淵中学校転出。同29年創立25周年記念式典。同31年特殊学級設置。同34
年プール完成。創立30周年記念式典。同40~43年第1・2期鉄筋コンクリート造り校舎落成・
体育館完成。同43年創立40周年記念式典。同46年ソニー理科教育振興佳作賞受賞記念に日時計
設置。同48年ソニー優秀校賞受賞。同49年花いっぱい運動最優秀賞受賞。同55年創立50周年
記念式典。同56年創立50周年記念としてタイムカプセル埋設。同58年校庭グリーンダスト舗装
完了。同60年機械警備導入。同63年プール改修。校舎全面大規模改修。
 平成元年東京都学校給食優良校賞受賞。同2年管理室(校長室・職員室・事務室等)冷房化。創立
60周年子ども祭開催・記念式典。同4年宇宙授業参加・宇宙トマト栽培。同5年山形県酒田市と農
業体験交流開始。校庭全面改修(ラプテックス舗装)。同8年パソコンルーム開設。同12年インタ
ーネット接続。創立70周年記念式典。同14年非常通報装置(学校110番)設置。災害備蓄倉庫
設置。同15年校舎・体育館耐震化。

 
二宮金次郎胸像 ◇
 校門を入った左手にある。昨今〝歩きスマホ〟を助長すると評判が悪くなり、〝寸暇を惜しんで学
べ〟という教材なんだが・・・ ここのは胸像で、本を読んでいるのだが、薪は背負っていない。こ
れでは、特に金次郎でなくてもいいじゃん。最近は、腰掛けて読んでるのが出た。それでは〝仕事を
サボって盗み読み〟してることになるだろうよ。世界三大馬鹿といわれる学校の先生、頭悪いよな。


■赤羽三丁目児童遊園
 赤羽3丁目26番8号にある区立公園。


■荒川赤羽桜堤緑地
 赤羽3丁目29番の左岸土手にある区立公園。


■新河岸川緑地
 赤羽3丁目29番の隅田川(旧新河岸川)右岸河川敷にある区立公園。


■荒川赤羽緑地
 赤羽3丁目29番荒川右岸河川敷にある区立公園。


■新荒川大橋緑地赤羽三丁目児童遊園
 赤羽3丁目29番荒川右岸河川敷にある区立公園。主に野球グラウンド。

 



【赤羽北】(あかばねきた)1~3丁目              昭和39年6月15日
 袋村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、同22年岩淵町大字袋、昭和7年
王子区袋町1~3丁目、同22年北区所属。同39年一部を桐ヶ丘・赤羽台・赤羽に譲った残りの
袋町3丁目を現行の「赤羽北」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」のほか『北区史』など。

 
赤羽北の由来
 区の北をかつての軍都赤羽一色にしようとの権力の腹積もりだ。岩淵はその愚を権力に知らしめ
て先祖の名を残したが、袋町の土地の者は甘い汁に負けて伝統を放棄、ご先祖様に申し訳ないこと
をしてしまった。袋の由来は「小豆沢騒動(板橋区小豆沢に詳述)』の時の小豆の袋が流れ着いた
ことによる」というのは伝説。事実は地形が袋状にいり込んで窪になっていることによる。小学校
に袋の名が残るのが物悲しい。赤羽の北方の地の意。
 


佛護山満蔵院光照寺

 赤羽北1丁目4番10号にある真言宗智山派のてら。本尊は地蔵菩薩像。創建年代は不詳、僧源承
〔天正五年(1577)〕寂が中興した。北豊島三十三ヶ所霊場7番札所。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   満蔵院
   新義真言宗宝幢院末、佛護山光照寺と号す。本尊地蔵、中興僧源承天正五年示寂。


 とある。
 


■赤羽北児童遊園

 赤羽北1丁目5番4号にある区立公園。

 
庚申塔 移転
 南側の入口付近にあった。向かいの小袋庚申堂境内に移された。
 1.
日月、阿弥陀三尊種子。「奉供養庚申講中二世安樂処」「元禄壬午十五捻十一月廿五日」「施
   主 敬白」。下部に、三猿。
 2.種子(ウーン)、日月、青面金剛(合掌六臂)、邪鬼、三猿。「奉供養庚申二世安樂所」「寳
   永元甲申年九月廿三日」。


■堂山(真頂院墓地)

 赤羽北1丁目5番にある高さ16mの孤丘。赤羽台地から僅かに離れているのは、荒川の浸食作用
から免れて生き残ったことを物語る極めて珍しい自然現象といえる。昔の人々はこの独立した堂山と
八百比丘尼を結びつけた。若狭国(福井県)で人魚の肉を食べて800歳の寿命を持った尼が住んだ
といわれるのが「八百比丘尼伝説」だ。石段の登り口の左右に石地蔵がある。左の寛保二年(174
2)銘の地蔵に石段供養(完成)と記す。5mほどの高さの頂は平坦で東側半分は墓地で、夥しい墓
石群が乱雑に建つ。新しい墓碑は僅かで、江戸時代以前と思われる墓石が多く、投げ散らかしてある
ものもあって悲しい気持ちになる。堂山は阿弥陀堂が建てられていたことで阿弥陀堂山を略した呼称
だという。
 もう何年になるか、平成28年にはすっかり様変わりして、綺麗に整備され、墓石なども位置を替
えて並べ替えられ、山裾もコンクリートで土止めされ、樹木も何本かは断ち伐られたため、見た目綺
麗にはなったものの、味わいは失せてしまった。もう一代替われば均されてマンションが建つさ。
 さらに門扉で閉ざされ、関係者以外立入禁止の立看板が立った。

 
堂山の八百比丘尼
 今から千年以上も音のこと、当時の東京湾はとても深く入り込んでいて、現在の堂山は海中の小島
だったという。その小島に、ある日尊い仏像を携えた尼さんが小舟に乗って流れついた。その尼さん
があの有名な八百比丘尼だった。この尼さんは娘のころ世にも珍らしい人魚の肉を食べたとかで、そ
れからは年をとらなくなり八百歳までも生き長らえたとか。長生きしたのはいいが、親兄弟や村人も
死んでしまい、残された彼女は無情を感じて尼となって諸国修業に旅立った。その有名な尼さんが仏
像を携えて小島に流れついたのを知った村人たちは大変に喜んで、新しくお堂を建てて尼を住まわせ
教えを受けた。その謂れを詠みこんだ「堂山和讃」がこの地に伝わっており、かっては、善男善女が
この堂山のお堂に集って、

   帰命頂礼(きみようちようらい)袋村、堂山上にたち給う、阿弥陀如来はその昔、此辺千
   尋(ちひろ)の海の時、若狭の国より舟に乗り、八百比丘尼が来りけり・・・


 と随喜(ずいき)の涙を流しながら繰返し唱和していたという。今ではお堂もなくなり、和讃も聞
かれない。尼が流れ着いた時に舟のとも綱をつないだ杭に芽がふいて成長し、大木になったものの、
上に伸びないで横にのぴたので「倒れ松」と呼ばれたといいますが、どの辺りに生えていたのだろう
か。なおこの付近にその時乗ってきた小舟が埋まっているとも伝えられている。
 


■穀倉稲荷 ◇

 赤羽北1丁目6番1号にある。ごくらいなり 御蔵稲荷、守倉稲荷とも書いた。明治初めまで洪水
や飢饉の時の非常食備蓄倉庫としての稗蔵があった。ごくら→ごうくら→郷倉だろう。


 
小袋庚申堂

 境内の石仏群。右から弘法大師供養塔・阿弥陀三尊種子庚申待供養塔・阿弥陀三尊種子千日念仏供
養塔・庚申待供養青面金剛立像の4基が据えられている。もとは向かいの赤羽北児童遊園の入口付近
に建っていたのを昭和30年代前半に移したという。念仏供養塔は寛文八年(1668)銘のがあり、
袋・本宿・赤羽・稲付、神谷・蓮沼・根葉・志村・中■(野?)・落合・下青木各村の名主の名見え、
名の下に結衆何人と3人から数十人の人数を刻んでいる。小袋は、袋村が大袋小袋に分かれており、
その地域名。

   小袋庚申堂の石造物群
   この地域は、袋村と称され、村内は大袋・小袋の辻子(づし)と呼ばれる二つの地域から
   なっていました。ここは小袋という辻子だったので、庚申堂も小袋庚申堂とよばれるよう
   になりました。庚申堂には稲荷社の社殿の方から次のような石造物が安置されています。

   弘法大師供養塔
   阿弥陀三尊種子庚申待供養塔  元禄十五年年(1702)十一月
   阿弥陀三尊種子千日念仏供養塔 寛文八年(1668)二月

   庚申待供養青面金剛立像    宝永元年(1704)九月

   
庚申信仰についての石造物が2基あります。これは人の体のなかに住む三尸(さんし)と
   いう虫が干支でいう庚申の日の夜、体内から抜け出して天帝に悪事を告げ、人の命を縮め
   てしまうというので、虫が体内から出ないようにと一か所に集まって夜を徹して供養をお
   こなった 記念に、袋村講中の人々によって建てられたものです。
   弘法大師の供養塔は、真言宗を開いた空海の遠忌を記念して建てられましたが、一部が破
   損していて造立年代や造立者は詳らかでは ありません。
   千日念仏の供養塔は、時間や回数をきめて千日間、南無阿弥陀仏という名号をとなえれば
   浄土に往生できるという信仰儀礼の記念に建立された塔です。袋村を中心とする16ヶ村
   の名主や結衆(けっしゅう)によって建立されていますが、このような複数の村の人々に
   よって建 てられた供養塔はあまり例がなく、貴重な文化財といえます。
   これらは昔、現在の赤羽北児童遊園入口付近の路傍にありましたが、昭和30年代の前半
   現在地に移されました。
   平成7年3月                        東京都北区教育委員会
 



■稲荷の坂

 赤羽北1丁目6番と4丁目2番14号の間、星美学園の北側の杣道。

   稲荷の坂
   この坂道は、赤羽北1丁目3・4番先から赤羽台四丁目公園付近まで続きます。道筋とし
   ては赤羽根付村と岩淵宿の境付近で日光御成道(岩槻街道)と別れ、袋村を経て小豆沢村
   へと向かう鎌倉道でもありました。昔は坂を登りきると正面に富士山を望むことができた
   そうです。坂の名称は特にありませんでしたが、坂の途中にある稲荷社にちなんで稲荷の
   坂とよばれるようになりました。


■赤羽北一丁目児童遊園

 赤羽北1丁目10番8号にある区立公園。


■オブジェ ◇

 赤羽北1丁目13番10号ディアハイム赤羽南館の西側の広場(中庭)にある二葉の石造物。


■荒川赤羽緑地

 赤羽北1丁目22番荒川右岸にある区立公園。赤羽3丁目29番に続く。


■ひっぱりこ ◇

 赤羽北2丁目2番高架下の僅かな三角地の歩道の植栽にある。母子でひっぱりこしている銅像。島
田恭宏の作品。


■赤羽諏訪緑地

 赤羽北2丁目3番1号にある区立公園。細長い斜面地。


■秋田院薬師堂跡 ◇

 赤羽北2丁目11番6号の小さな墓地の囲塀の前に標柱が建ててある。

   
真頂院持 旧秋田院薬師堂跡地


■屋敷稲荷 ◇

 赤羽北2丁目11番13号民家の敷地内にある。


■遺体遺棄事件

 赤羽北2丁目11番19号タイムズ赤羽北第五コインバーキングに駐車していた車の中からミイラ
化した男性の遺体が発見された事件。平成30年6月5日20時ころ、悪臭がすると通報があり、警
察官が駆けつけると、停められていた軽自動車の助手席に毛布を掛けられた遺体が見つかり、車の持
主のパート従業員渡邊喜美枝容疑者(53歳)に事情を聴いたところ、「男性は、かなり前に亡くな
った」と話したことなどから死体遺棄の疑いで逮捕した。調べに対しては「遺体を放置していない」
などと容疑を否認しているという。渡邊は、遺体を乗せたまま車の中で生活していたとみられ、警視
庁は、男性の身元の確認を進めると共に詳しい経緯を調べる。


■袋小学校

 赤羽北2丁目15番3号にある区立校。平成14年北園小学校を併合。

 校歌
「朝日に輝く」 作詞作曲・不詳
  1.朝日に輝く富士の根は
    吾等が未来の希望のしるし
    此処に集いて共に睦ぶ
    楽しき学び舎 袋小学校
  2.夕日に煌く荒川は
    吾等が弛まぬ歩みの姿
    日毎集いて共に学ぶ
    平和の学び舎 袋小学校
  3.心も体も逞しく
    吾等は日本の光とならん
    朝夕
(あしたゆうべ)を共に励む
    栄えある学び舎 袋小学校
 


■石段の道

 赤羽北2丁目18番の法面にある雁木坂(石段)。特に名前はない。


■袋村の水神宮 ◇

 赤羽北2丁目21番19号、浮間中央病院の東隣にある。後ろの建物の向こうが新河岸川で袋河岸
の跡。昔、船主が水難事故から守って貰うために祀ったのだが、水害除けの水神宮へ変わった。現在
は諏訪神社の氏子代表が中心となって祭祀が行われている。毎年6月15日に水神祭が行われる。近
くにある7ヶ所の水神の中でここが一番立派。また祭が行われるのはここと志茂の熊野神社にある水
神宮だけだそうだ。

   袋村の水神宮
   この水神宮は旧は現在地より更に東北の新河岸川(旧荒川)沿岸にあったといわれます。
   昭和初期には、川の南岸に小さな入江があり、その北側の築山の上に石造りの祠が祀られ
   ていたそうです。 現在の場所に移されたのは、旧所在地を含む場所が日本製紙会社の 工
   場の敷地となったためでした。現在、そこは住宅団地となっています。
   祠は、江戸時代から人々の生活に欠かせない交通路としての隅田川の岸辺の水神として、
   船を使って生活を営んだ船持(ふなもち)と呼ばれた人たちから厚い信仰が寄せられてい
   ました。それと同時に、袋村は川の上流となる秩父地方に大雨が降ると天候にかかわらず
   洪水が起きる土地柄だったため、水神を祀ることによって水害を防いで貰おうという人々
   の願いも寄せられていました。
   明治中期に起こった大洪水をきっかけとして、水神宮は舶持が寄せていた水難除け・水運
   の安全といった祈願よりも、水害防止祈願が中心となって、盛大に祀られるようになりま
   した。こうした信仰の変化に伴って、信仰を寄せる人々の主体も、船持の人々から30軒
   ほどの水神講へと変化しました。
   今ではその講も講としての活動は見られなくなりましたが、諏訪神社の氏子総代が中心と
   なって祭祀が行われており、毎年6月15日に水神祭りが行われています。
   平成8年3月                           北区教育委員会
 


■袋児童遊園

 赤羽北2丁目22番10号にある区立公園。


■楠森稲荷大明神 ◇

 赤羽北2丁目24番21号にある両池田宅の間にある小祠。


■北赤羽駅

 赤羽北2丁目26番1号にあるJR埼京線の停車場。昭和60年9月30日の埼京線開業時にでき
た。ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、浮間口に平成21年3
月に設置。改札口・出口は西側の浮間口と東側の赤羽口の2ヶ所。いずれも地上1階にある。
 駅は新河岸川を跨いだ位置にあり、南半分は赤羽北2丁目、北半分は浮間3丁目に所属している。
 駅が河川を跨いでいる例は、都区内では他に東大島駅と新馬場駅がある。全国には、武庫川駅(兵
庫県・阪神本線)や、土佐北川駅(高知県・土讃線)などが有名だ。

 銅像
 球体を高く掲げる少年少女の像。無題。作者不明。
 


■赤羽北二丁目児童遊園

 赤羽北2丁目34番6号にある区立公園。


■宮の坂

 赤羽北3丁目1番2号の諏訪神社の前(北側)にある坂道。新しい道路が敷設される以前は直線の
坂だった。神社前で参道と交差し、北へ下っていく坂道だった。新しい道路は切り通したので、緩や
かになった。

   宮の坂
   旧袋村から赤羽に抜ける重要な坂で諏訪神社の参道に続く。「宮の坂」の宮はこの神社の
   ことである。今も舗装前の様子をを思い浮かべれば、樹木の多いこの坂は、浮間の桜草狩
   りの渡し場へのにぎわいがよみがえってくる。参道を切断し、二の鳥居前にできた切通し
   の新坂は宮の前の坂といわれ交通量も多い。             北区教育委員会

 新しい標柱。

   宮の坂
   坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指して
   おり、坂道はこの神社の参道を経て赤羽方面へと抜けていきます。
   神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た坂で、宮の前の坂と
   呼ばれています。この坂も宮の坂と同様に交通量が多い坂です。
   平成15年6月                          北区教育委員会


■宮の前の坂
 赤羽北3丁目1番2号の諏訪神社の前を切通したために東側に新しくできた坂道。標柱はない。



■諏訪神社

 赤羽北3丁目1番2号にある中社。側の十字路は元来なかったもので、前の道路は参道を断ち切ら
れて切り通されたもので山の一部だった。その新道(国道447号線)が参道を断ち切ったため、無
意味な参道が取り残され、神社名の標柱と5基の石仏が並んでいるのみ。

   東京都北区赤羽北三丁目鎮座
   
諏訪神社
   祭神 建御名方命
   由緒
   当社は、別当寺であった真頂院の寺伝によれば、応永参年(1396)九月同院第一世秀
   善和尚が創立したものと伝えられております。かって社前に袂杉と呼ばれた名木があり、
   この神社の神木となっていました。これはいつの頃か真頂院の和尚が諏訪(長野県)から
   両方の袂に入れて持って来た杉苗をこの神社の前と後に植えたものゝうちの前のものと伝
   えられています。
   現在この切株が本殿の裏に移されて残っています。
   新篇武蔵風土記稿には、この神社の末社に丸山権現と山王社があり、丸山権現がかっての
   袋村の鎮守で後にこの神社に改められた事や、山王社の傍の石碑(山王権現の石碑)寛政
   拾貮年(1800)建立に建久五年(1194)勧請と彫られているが、その出所は不明
   であることが記されています。              昭和五拾七年八月貮拾貮日

 参道(袋村の庚申待供養塔群)
 神社に向かって下り坂で宮前坂といったが、新道が2、3m掘り下げて作られたので神社の雰囲気
は随分変わり、石段が取り付けられた。その切通しの上に庚申塔が整理されている。
 1.駒型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿。「享保十九甲寅天十二月吉祥日」「左 板橋道」「奉
   供養庚申」「右 練馬道」

 2.駒型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「享保十七子十一月十五日」「奉供養庚申二世
   安楽処」「武刕豊嶋郡岩淵領袋村講中」
 3.駒型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿。「奉納庚申供養塔為二世安楽也」「天明五乙巳十月十
   一日」「右 大山祢りまミち」「左 いた者゙しミち」
 4.板状駒型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「武刕豊嶋郡岩淵領袋村」「奉供養庚申待
   二世安楽」「元禄十六年癸未年十一月十八日」

   袋村の庚申待供養塔群                     諏訪神社所在
   諏訪神社の社地には、袋村の人々が造立した7基の庚申待供養 塔があります。庚申待供養
   塔は、庚申塔とも通称され、最初は村の各地にありましたが、神社が真頂院を別当とする
   袋村の鎮守なので、 次第に現在の地に移設されました。
   この参道には、最も右側にある塔を除いた計4基の青面金剛立 像庚申待供養塔があります
   が、これらは元禄十六年(1703)十一月から天明五年(1785)一月(欠損)まで
   の間に造立されたものです。いずれも塔の中央には鬼を踏みつける青面金剛立像が刻まれ
   両側面には、塔を造立した趣旨や造立年代が刻まれています。またその下には塔を造立し
   た袋村の人々の名前が刻まれています。
   人の体内には三尸(さんし)という虫が住み、僅かな過ちをおかしても体内から抜け出して
   天帝に悪事を告げ、これを聞いた天帝が人の命を縮めてしまうという信仰があります。三
   尸が天に抜け出すのは干支でいう庚申の日の睡眠中だと信じられていましたので、この日
   の夜、人々は虫が体内から抜け出ないように一ヶ所に集まって徹夜で呪術儀礼と共同飲食
   の会を催しましたが、この会は、また村の人々の楽しい交歓の場でもありました。
   庚申塔は、こうした庚申信仰による集会の記念に建てられたもので、当時の人々の信仰や
   交流の在り方を偲ばせてくれます。
   平成3年3月                           北区教育委員会


 
境内
 さて社殿のある境内には、本殿のほか神楽殿と末社(八幡・稲荷×2・大六天・須賀)、末社(白
山、猿田彦)、神木榧の木、猿田彦大神と彫った石造物、袂杉の切り株、石仏群がある。別当寺真頂
院の寺伝によれば、神社は応永三年(1369)第一世秀善和尚が創立したものと伝えられ、祭神は
建御名方命(たけみなかたのみこと)となっている。かつて社前には「袂杉(たもとすぎ)」と呼ば
れた名木があり、この神社の神木となっていた。これはいつの頃にか真頂院の和尚が諏訪(長野県)
から両方の袂に入れて持ってきた杉苗をこの神社の前と後ろに植えたものの内の前のものと伝えられ
ている。現在この切株が本殿の裏に移されて残っている。

   諏訪神社                         赤羽北3丁目1番2号
   祭神は建御名方命です。別当寺であった真頂院(足立郡川口宿錫杖寺末寺)の寺伝によれ
   ば、応永三年(1396)9月、同院第一世秀善和尚が創立したものだそうです。末社に
   は、稲荷神社2社、八幡神社、須賀神社、白山神社、猿太彦神社があり、それぞれ、宇迦
   之御魂命、品陀和気命(応神天皇)須佐之男命、伊邪那岐命、猿田彦命を祀っています。
   『新編武蔵風土記稿』には、神社の末社である丸山権現がかつての袋村の鎮守で、後にこ
   の諏訪神社に改められたことが記されています。
   かつて社前には、袂杉と呼ばれた名木があり、神社の御神木にもなっていました。これは
   真頂院の和尚が、諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持ち帰り、神社の前後に植えた杉
   苗の内の一つでした。現在御神木の切株は、本殿の裏に移され、残っています。
   『東京都遺跡地図』に、この境内は弥生時代後期、歴史時代の遺跡で、弥生式土器、土師
   器が発見されていると記されていますが、学術調査は行われていないようです。
   『新編武蔵風土記稿』には、この神社の末社に丸山権現と山王社があり、丸山権現がかつ
   ての袋村の鎮守で、後、この神社に改められたことや、山王社の傍の石碑「山王大権現の
   石碑 寛政十二年(1600)建造」に建久五年(1194)年勧請と彫られているが、
   その出所は不明であることが記されている。
   昭和52年3月                          北区教育委員会

   諏訪神社                         赤羽北3丁目1番2号
   祭神は建御名方命です。別当寺であった真頂院(足立郡川口宿錫杖寺末寺)の寺伝によれ
   ば、応永三年(1396)9月、同院第一世秀善和尚が創立したものだそうです。末社に
   は、稲荷神社2社、八幡神社、須賀神社、白山神社、猿太彦神社があり、それぞれ、宇迦
   之御魂命、品陀和気命(応神天皇)須佐之男命、伊邪那岐命、猿田彦命を祀っています。
   『新編武蔵風土記稿』には、神社の末社である丸山権現がかつての袋村の鎮守で、後にこ
   の諏訪神社に改められたことが記されています。
   かつて社前には、袂杉と呼ばれた名木があり、神社の御神木にもなっていました。これは
   真頂院の和尚が、諏訪(長野県)から両方の袂に入れて持ち帰り、神社の前後に植えた杉
   苗の内の一つでした。現在御神木の切株は、本殿の裏に移され、残っています。
   平成14年3月                          北区教育委員会

 石仏群
 石仏群は境内の東南隅あり、右から昭和35年建立の「大々神楽記念碑」、昭和4年の「御大典石
垣記念碑」、天保七年(1836)銘の「石坂供養碑」「八日講所願成就」、安永七年(1778)
銘の庚申塔、左端の天保13年(1842)銘の庚申塔は、右面に「北 当村かしば」と袋村の河岸
場への道標銘があり、表面には「庚申 東 岩淵宿渡船場」、左面には「南 野みち」、裏には「西
 中山道志村ヨリ戸田渡船場」とある。野みちとは主要街道以外の一般道を指す。別当寺だった「新
篇武藏風土記稿」にはこの神社の末社に丸山権現と山王社があり、丸山権現がかっての袋村の鎮守で
後に諏訪神社に改められたことや、山王社の傍の寛政十二年(1800)建立の石碑(山王権現の石
碑)に「建久五年(1194)勧請」と彫られているものの、その出所は不明であることが記されて
いる。
 1.山状角柱型。正面中央に「庚申塔」、その右に「天保十三寅年」、その左に「東 岩淵宿渡船
   場みち」と彫り、右面に「當村かしは」、左面に「南 野みち」、裏面に「西 中仙道志村よ
   り戸田渡船」と刻む。
 2.駒型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「安永七歳戊戌九月吉日」「是より東 川口の
   わたし場十八丁」


■城北高等学校 閉校

 赤羽北3丁目5番22号にあった都立校。


桐ヶ丘高等学校

 赤羽北3丁目5番22号にある都立校。平成9年9月都立高校改革推進計画第一次実施計画策定。
都立の「城北高等学校(全日制、定時制)・北園高等学校(定時制)・赤羽商業高等学校(定時制)
・池袋商業高等学校(定時制)」を発展的に統合し、「北地区チャレンジスクール(仮称)」設置。
同10年城北高等学校に「北地区チャレンジスクール開設準備室」設置。同11年10月東京都立学
校設置条例の一部改正により「東京都立桐ヶ丘高等学校」を城北高等学校内に設置。
 同12年4月1日「東京都立桐ヶ丘高等学校」として開校。5月27日
開校記念式典。多様な指導
形態導入推進校指定。同13年都知事より訪問介護員養成研修事業者指定。同14年5月桐ヶ丘高等
学校と世田谷泉高等学校との学校間連携(単位互換)実施。

 校歌
「玉響(たまゆら) 作詞・小野寺萬亀子  作曲・加曽利康之
  1.若葉をかけて玉響の
    わきたつ桜ふんわりと

    声かけ合って学ぶ時
    憂いは清き命なり
    天空高く鳴く雲雀
    翼は遊々楽園
(がくえん)
    桐ヶ丘高校 風薫る
  2.青葉優しく幕が開き
    一人ひとりの晴れ舞台
    新しい世界創る時
    城北の花微笑み
    川面にきらら夢弾む
    空は紺碧楽園は
    桐ヶ丘高校 虹の橋
  3.振り向く紅葉夕日映え
    街には灯り燦々と
    拓き合う心響く時
    共に歓喜
(よろこ)び悲しみも
    悠久の春祈る旅
    星は輝き楽園は
    桐ヶ丘高校 限りなく
 


■殿山の坂

 赤羽北3丁目6番1号のお茶の水女子大学サイエンス&エデュケーションセンターの北側にある雁
木坂(段々の坂道)。かつては細い杣道だった。昭和20年の航空写真では、現在と同じ幅を示して
いるので戦前には拡幅されたようだ。写真では石段かどうかは判らない。殿山は坂上の旧地名。

   殿山の坂
   袋小学校前から台地へ登る階段の坂で、殿山の名は台地上の旧字名に由来する。昔、台地
   には人家は無く一望の畑地で、人がやっと通れる農道であった。    北区教育委員会


園児虐待事件

 赤羽北3丁目8番10号にある保育ルームキッズスタイルで起きた事件。平成28年1月15日午
後1時40分頃、保育士南木愛実(28歳)が、6歳男児に対して両手を紐で後ろ手に縛り、口や目
を粘着テープを貼ったり剥がしたりしたため逮捕された。「初めは躾の心算だったが、次第にエスカ
レートして虐待するようになった」と自供している。南木については、しばしば密告されており、多
数の子どもに日常的に暴力を振るってたことで、当局が立入調査する矢先、縛られた6歳児の両親が
警察に相談し、警察が職員に聞き取りを行って逮捕に繋がった。
 サド系の人間は虐待にエスカレートするんだよ。しないとヒステリックになって切れ易い。対人関
係は何時もギスギスする。虐待をしないとストレスになるんだ。こんな女結構いるよ。女は女神でも
マドンナでもない。正体は般若なんだからお近づきにならないことだ。


■袋町公園

 赤羽北3丁目11番10号にある区立公園。


■赤羽北三丁目第一児童遊園

 赤羽北3丁目14番6号にある区立公園。 


■赤羽北三丁目児童遊園

 赤羽北3丁目18番8号にある区立公園。


■軍境界石

 赤羽北3丁目21番21号先、電柱の根元に隠れるようにしてひっそりと建っている、「陸軍」と
読める軍用地境界石。陸軍赤羽火薬庫の敷地東北端を示すものと思われる。


■念仏坂

 赤羽北3丁目27番24号のスクエア北赤羽の北側の坂道。標識はあったが今は無い。名前の由来
は不明。一般には樹木が鬱蒼と生い茂って薄暗く、怖いので念仏を唱え乍ら上がり下りしたとか、追
剥か、強盗に襲われて死人が出たので念仏を唱えたというのが名の由来だが・・・


■ふか坂

 赤羽北3丁目27番のメガシティの西側にあり、南東に上る坂道。深坂、馬坂。鬱蒼たる奥深い森
の中をうねって上っていた。

   ふか坂
   赤羽三丁目と板橋区小豆沢四丁目の境を南西に登る坂道です。坂名は、うっそうとした樹
   木におおわれて、谷深い中を蛇行している坂であったことによります。坂を下って北へ行
   くと荒川にでます。そこは、かつて袋村河岸があり、地元では大根河岸とも呼んでいまし
   た。この坂は袋村河岸から中山道への通路にあり、馬坂とも呼ばれていました。
                                    北区教育委員会

 



【赤羽台】(あかばねだい)1~4丁目             最終昭和40年11月1日
 赤羽根村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡所属、同22年岩淵町大字赤羽根、昭
和7年王子区赤羽2~3丁目・袋町3丁目。同20年敗戦により町内の陸軍施設が米軍に接収され
た。同22年北区所属。同34年占領米軍から跡地が返還されると区内一の規模で住宅公団の住宅
団地が建設され、同37年赤羽町2~4丁目(被服本廠跡地)の各一部をあわせた町域に陸軍当時
の呼称である「赤羽台」と命名して現行の1~2丁目とした。続いて同39年6月15日新住居表
示により赤羽町2~3・5丁目と袋町1・3丁目の各一部をあわせた町域を現行の「3~4丁目」
とし、翌年1~2丁目にも新住居表示を実施しして赤羽台が確定した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」のほか『北区史』など。


 赤羽台の由来
 赤羽の高台の意。陸軍が呼称した通称もしくは隠語。旧赤羽根村の大半は赤羽台となった訳だ。
軍都として繁栄した当時を忘れさせない地道な努力が払われている。ちなみに「相武台」といえば
陸軍士官学校のことであるし、ほかにも振武台、宣武台、日吉台など軍は「高台」がお好きだ。4
丁目の星美学園(第一師団工兵大隊跡)に登る坂はいまだに「師団坂」「工兵坂」だ。だから赤羽
台は赤羽台団地だ!
 


■赤羽台東小学校
 閉校

 赤羽台1丁目1番13号にあったが、平成17年自主閉鎖した。学区は赤羽台西小学校に吸収され
た。これこそ統合して「赤羽台小学校」にすれば良かったのだ。西を残す意味がねえだろうよ。った
く。跡地利用は未定。赤羽台保育園が分園として使用している。
 


■うつり坂

 赤羽台1丁目1番先、赤羽台東小学校の北側の坂道。かつて坂の上には道祖神、庚申塔があったが
現在は団地の氏神「赤羽台猿田彦神社」に移して祀っている。

   うつり坂
   旧板橋街道の坂のひとつであったが、旧陸軍被服本廠が大正8年赤羽に移転してきた時か
   ら被服本廠通用門への坂となり、関係者以外の通行はできなくなった。戦後被服本廠跡地
   に赤羽台団地ができ元の坂道となった。坂名の由来は定かでない。   北区教育委員会


 新しい標柱。

   うつり坂
   赤羽台東小学校の北にあるこの坂は、旧板橋街道の坂道の一つです。大正8八年に旧陸軍
   被服本廠が赤羽に移転すると、被服本廠通用門への坂となり、関係者以外の通行は出来な
   くなってしまいましたが、戦後、被服本廠の跡地に赤羽台団地が出来たため、元の坂道と
   なりました。かつて坂の上には道祖神、庚申塔がありましたが、現在は団地内に移され、
   祀られています。
   平成15年6月                          北区教育委員会
 


■「希望」像 ◇

 赤羽台1丁目2・3番の間の緑地にある少年少女像。兄妹か?


■猿田彦神社・庚申塔

 赤羽台1丁目4番50号、UR都市機構赤羽台団地49号棟の東北の公園様空地の真ん中にある。
旧はうつり坂上にあったもので、4基の石造仏が、立派な小堂に祀られている。

           当 所
   
猿田彦大神 講中
           廿七人


 1.駒型。日月・青面金剛像・邪鬼
 2.板状駒型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。
 3.板状駒型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。

   赤羽台猿田彦小祠由縁
   記紀神話でご存知、この神は天孫ニニギノ尊を天の八衢に迎えた折、鼻の長さ七咫(12
   0cm)、背の丈七尺(200cm)、身長七尋(12.6m)、口と尻は明るく光り、国
   は八咫鏡のように丸く大きく真赤なホオズキの如く照り輝いていた。眼力に優れ、赤い顔
   の怪異な風ぼう・・・良く神社例祭のみこし先導役を努める天狗面の神が猿田彦神です。
   この神の道案内で無事、高千穂峰に降り、このことから猿田彦は〝導きの神〟〝道ひきの
   神〟と呼ばれ、道祖神にも通じ、また庚申の申がサルと訓ずることから、庚申さまにも置
   きかえられました。
   道祖神
   昔の中国では道の辻、村境に疫病災害をもたらす悪霊が入り込むと考え、その悪霊を追い
   出す神が必要になり、その神がさい(塞)の神です。集落の入口、辻、峠などで、境辻の
   神として主に石碑や石像の形で頑張っています。
   庚申信仰
   中国道教の思想で〝かのえさる〟の日に行った忌み禁  行事を中心とする信仰。人間の
   体の中には、
   上尸 人の頭に宿り、眼を暗くし、面しわを作り、白髪に。
   中尸 腸中に住み、五臓を損なわしめ、悪夢を見させて飲食を好む。
   下尸 足に住み、生命を奪い、精をなやます。
   という三尸の虫がいて、庚申の日の夜。人が眠っている間に、つまり から抜け出し、天
   に登り、玉皇天帝(北極星)に、その者の悪事、罪科を報告、それを聞いた天帝は、鬼籍
   台帳に記録し、その罪科の軽重で死期を決める。長生きしたいのは皆同じ。そこでこの夜
   眠らないで三尸の虫が抜け出すスキを与えず、仲間集ってごちそうを食し、徹夜で三尸の
    を唱えながら です。これを〝庚申待ち〟〝庚申講〟といいます。
   仏教では、天帝(帝釈天)の使者が青面金剛で、その呪法は伝尸病を治す。〝語音〟が似
   ているので庚申信仰と迎合。

   ここに祀られている庚申塔・道祖神は、旧赤羽台東小の北にあるうつり坂を登ったところ
   にありましたが、大正八年旧陸軍被服廠が赤羽に移転したとき、旧板橋街道の坂道のうつ
   り坂は本廠通用門の坂となり、関係者以外通行できなくなりました。そこでこの坂を登っ
   た所に祠を造り、江戸時代から明治中期頃までに造られた板橋街道沿の近場の石物を集め
   て祀ったようです。昭和三七年、赤羽台団地造成の時、現在地に再移築されました。

   この大連縄は2003年12月から福島県会津本郷町の赤塚さん一家のおばあちゃんを中
   心に家族全員で力を込めて編れた力作です。毎年新しい連縄を飾っていましたが、小祠に
   はもったいないため1~2年毎に取り換えようと考えています。

   屋根瓦修復は平成16年11月浄財と160名の方のご寄進により完成しました。

   銘水盤 大正7年7月1日 題経寺(柴又庚申堂)寺紋

   年紀不明 正面金剛像

   庚申塔台石 題経寺(柴又庚申堂)寺紋

   青面金剛像 (基碑正面 見ざる・聞かざる・言わざる) 享保五年(17二十)十一月
   吉日 年紀不明 青面金剛立像 邪鬼

                                   赤羽さるた彦の会

 文中「努める」は「務める」の誤記。伝尸病=結核

 
神棚
 堂内上部にあり、豊受大神の神璽が納められている。


■陸軍被服本廠

 赤羽台1・2丁目(赤羽台団地)全域がそうだった。軍服・軍靴・背嚢に至るまで被服軍装の研究
・製造・保管を目的とした。明治24年に被服倉庫を、大正8年に全施設を本所から移転した。この
本所の跡地が、大震災の際、ここに避難した3万人が大竜巻による火流に巻き込まれてほとんどが焼
死した「被服廠跡」で、現在の震災記念堂のある横網町公園な訳だ。
 明治19年独立機関となる。同24年赤羽台に被服倉庫を建設、同25年倉庫移転。大正8年麹町
・築地・本所深川に分散していた各被服倉庫も集結させて移転。陸軍被服本廠を本所より移設。総面
積9000坪、職員143名、職工800名。主な製造品は、軍帽・軍服・外套・背嚢・巻脚絆・軍
靴など兵隊の身の回り品、その他軍装の殆どを製造。衣料資源の窮乏と統制から民間の国民服まで材
料はほとんど国外からの輸入。工場の周囲には下請民間工場も多かった。赤羽駅から本町通り板橋踏
切を経て正門まで乗合バス(路線バス)が往復していた。
 空襲が激しくなると上尾に移転、戦後昭和35年まで跡地を米軍に接収され、戦車修理工場として
旧建物をそのまま利用していた。鉄条網越しには放置された戦車や軍用車が列が見られた。おいらも
見た時あるよ。特に朝鮮戦争の終了までは町にも米兵の姿があり、荒川で演習を行った米第8騎兵師
団の軽戦車が駅前を走り回るなど傍若無人なこともあったよ。同37年には日本住宅公団赤羽団地が
建設されたが、当時23区中最大の団地だった。
 


■赤羽台トンネル工事の碑 ✓

 赤羽台1丁目3番にある同4番と同6番を結ぶ赤羽台トンネルの上の広場に建っている。碑の下あ
るプレートに架かれた説明文は以下の通り。

   
赤羽台トンネル
   三千三百世帯の人々が生活する緑豊かな赤羽台団地に、赤羽地区のまちづくりを促ずため
   の都市計画道路の建設が提議された。団地を南北に分断するこの道路は、交通の利便性と
   引き替えに住環境の悪化と、生活の便益を損なうおそれがあった。このため団地住民は全
   面地下方式を強く主張し、行政は半地下掘割方式を提示し、両者のあいだに数年に及ぶ相
   克がつづいた。住民は悩み、考え、行動し、深い苦渋をもって行政側の要望を選択した。
   その後両者は深部に及ぶ円満な合意づくりをめざして、対話と研究に多大の努力をかさね
   たすえ、今ここに新しく修景された“赤羽台トンネル”の実現をみた。この地に住む人々
   の知恵とたゆみない努力の結晶として生まれたこの周辺環境が真に住民のためのものとし
   て末永く健全に守られ、育成されることを願い、ひたむきに取りくんだ多くの人々の努力
   の証として、この碑を置く。
                                   平成四年四月
                                   東京都北区
                                   赤羽台団地自治会

 赤羽台トンネルは2つある
 1つはこの赤羽台団地の下を通る道路トンネルだが、もう1つは赤羽の八幡神社、星美学園の下を
通る新幹線のトンネルだ。同じ名前だとは気が付かなかった。ネットを開くと両方とも出る。で、何
で区別がつかないようにしてるんだろうね。「JR赤羽トンネル」とか「新幹線赤羽台トンネル」と
か、「赤羽台団地下トンネル」とかさ。
  


■「希望」像

 赤羽台1丁目3番にある同4番と同6番を結ぶ赤羽台トンネルの上の広場に建っている男児と女児
の銅像。


■赤羽台猿田彦神社〝団地の氏神〟

 赤羽台1丁目4番73号にある小祠。赤羽台団地の東南側の緑地にある。手書きの説明板がある。

   赤羽台 猿田彦小祠由縁
   記紀神話でご存知、この神は天孫ニニギノ命を天の八衢に迎えた折、鼻の長さ八咫(12
   0cm)、背の丈七尺(200cm)、身長七尋(12、6m)、口と尻は明るく光り、目
   は八咫鏡のように丸く大きく真赤なホオヅキの如く輝いていた。眼力に優れ赤ら顔の怪異
   な風ぼう・・・よく神社例祭の先導役を努める天狗面の神が猿田彦神です。この神の道案
   内で無事、高千穂の峰に降り、このことから猿田彦は〝導きの神〟〝道ひらきの神〟と呼
   ばれ、道祖神にも通じ、また庚申の申がサルと訓ずることから庚申さまにも置きかえられ
   ました。
   
道祖神
   昔の中国では道の辻、村境に疫病災害をもたらす悪霊が入り込むと考え、その悪霊を追い
   出す神が必要になり、その神が「サイ(塞)の神」です。集落の入口、辻、峠などで〝境
   辻の神〟として、主に石碑や石像の形で頑張っています。
   
庚申信仰
   中国道教の思想で、〝かのえさる〟の日に行った忌み禁じの行事を中心とする信仰 人間
   の体の中には、
   上尸 人の頭に宿り、眼を暗くし、面しわを作り、白髪に。
   中尸 腸中に住み、五臓を損なわしめ、悪夢を見せて飲食を好む。
   下尸 足に住み、命を奪い精をなやます。
   という三尸の虫がいて、庚申の日の夜、人が眠っている間につま先から抜け出し、天に登
   り、玉皇天帝(北極星)にその者の悪事・罪科を報告、これを聞いた天帝は鬼籍台帳に記
   録し、その罪科の軽重で死期を早める。長生きしたいのは皆同じ、そこでこの夜、眠らな
   いで、三尸の虫が抜け出すスキを与えず、仲間集まってごちそうを食い、徹夜で三尸の名
   を唱えながら飲んだくれるのです。これを〝庚申待ち〟〝庚申講〟といいます。仏教では
   天帝(帝釈天)の使者が青面金剛で、その呪法は伝尸病を治す。語音が似ているので庚申
   信仰を習合。


 ※文中「連縄」とあるのは「注連縄」のこと。

   屋根瓦修復は平成16年11月浄財を160名の方のご寄進により完成しました。

   この大連縄は平成15年12月から、福島県会津本郷町の赤塚さん一家のおばあちゃんを
   中心に家族全員で編んだ力作です。毎年新しい連縄を飾っていましたが、小祠には勿体な
   いため、1~2年毎に取り換えることを考えています。

   猿田彦大神講中廿七名 嘉永四年(1851)■■の申。

   青面金剛 三猿 鶏 日輪 月輪 享保七年(1722)11月。
   本碑左右側面に■■(講中名あり 男20人 女20人)

   ここに祀られている庚申塔・道祖神は、旧赤羽台東小の北にあるうつり坂を登ったところ
   にありましたが、大正八年旧陸軍被服廠が赤羽に移転したとき、旧板橋街道の坂道のうつ
   り坂は本廠通用門の坂となり、関係者以外通行できなくなりました。そこでこの坂を登っ
   た所に祠を造り、江戸時代から明治中期頃までに造られた板橋街道沿の近場の石物を集め
   て祀ったようです。昭和三七年、赤羽台団地造成の時、現在地に再移築されました。

   年紀不明 青面金剛像

   庚申塔台石 年紀不明 題経寺(柴又庚申塔)寺紋

   青面金剛像(基碑正面 見ざる・聞かざる・言わざる)
   享保五年(1720)十一月吉日

   年紀不明青面金剛像

 この説明によると5基になるが。実際は4基しかない。


東洋大学 赤羽台キャンパス

 赤羽台1丁目7番11号にある。平成29年4月新しく開設されたこのキャンパスは、クラウドベ
ースの教育システムを取り入れた「スマートキャンパス」。キャンパス内の凡ゆるモノがデジタル化
(IoT化=Internet of Things)され、学内の情報や図書館のライブラリーなどの情報を、スマー
トフォンなどのデジタルデバイスと繋げリアルタイムに得ることができるキャンパスだ。キャンパス
内には多くのコミュニティ空間や小規模実習室があり、学生同士のアイデアを共有し実践できる環境
を整えている。情報連携学部と大学院。


赤羽台中学校 閉校

 赤羽台1丁目7番12号にあった区立校。平成18年閉校し、北中学校と統合して「北区立桐ヶ丘
中学校」となった。跡地は、京北中学校・高等学校・京北学園白山高等学校の仮校舎として使用の後
に建て替え、平成29年に東洋大学が移転予定。


■赤羽台西小学校

 赤羽台2丁目1番34号にある区立校。昭和37年「東京都北区立赤羽台西小学校」として開校。
7月校旗樹立。同38年
 平成17年赤羽台東小学校を吸収した。プール完成。同39年体育館完成。分教場だった赤羽台東
小学校を分校。同43年創立5周年記念式典・校歌制定。

 校歌
「風爽やかに」 作詞・小林純一  作曲・中田喜直
  1.風爽やかに吹き渡る
    緑の大地 此処に立つ
    明るい校舎 広い窓
    ここよ明日の日を飛び翔る
    若い鵬
(おおとり)育つ処
    赤羽台西小学校
  2.あの果てしない大空も
    遥かに続く町並みも
    広がる未来 示すもの
    「担え新しい時代を」と
    その日その日を学び励む
    赤羽台西小学校
  3.聞け 紫の旗の下
    心を合わす歌声が
    団地の空に今響く
    仰げ浮雲の行く彼方
    高く気高く富士も光る
    赤羽台西小学校


 同48年創立10周年記念式典。同49年ソニー理科教育優秀校賞受賞。同50年日本放送協会長
賞受賞。同57年創立20周年記念式典。同
61年パソコンルーム開設(パソコン21台)。
 平成元年1月26日北区パソコン教育実験校公開授業。同4年創立30周年記念式典。同11年
部省教育情報衛星通信ネットワーク参画
。同12年青少年赤十字(JRC)全校加盟。東京都吹奏楽
連盟コンクール優秀賞受賞。校舎耐震化。
同14年創立40周年記念式典。同24年創立50周年記
念式典。

 少女像 ◇
 正門を入って左に行ったところにある。
 


■団地の氏神 → 赤羽台猿田彦神社のことか?

 赤羽台2丁目1番の緑地帯にあるとあったが、赤羽台1‐4‐73の赤羽台猿田彦神社のことのよ
うだ。テレビで紹介されたのだが、団地住民がそう思っている訳ではない。そもそも「氏の神」とは
血族だから、どこの馬の骨か判らない者たちが寄り集まってるのに氏神はないだろう。江戸時代に各
所に建てられてたものを、邪険に扱う訳にも行かず、陸軍が集めたか、団地造成時に纏めたかは判ら
ないが、庚申塔が4基、お堂の中に納められている。その内右から2番目のものは右面に多くの女性
名、左面に同じく男性名が彫られている。祠の前の盥石(たらいし)には大正7年の銘がある。村人
が廠内に自由に入れなかったろうから、どこかに据えてあったものを後から持ってきたものだろう。
 ※実見しに行ったが見つからなかった。テレビで放映され、写真があるのだからあるのだろう。
 ただ、写真には赤い鳥居があるが、神社には鳥居はない。また小祠でもある。
 


■坂本庚申塔(坂本庚申堂) ◇

 赤羽台3丁目1番8号、うつり坂下、閉校となった赤羽台東小学校の北角のコンクリート崖下の小
さな祠の中にある。延宝八年(1680)九月四日に造立。「(梵字)奉造立庚申二世安楽処」蓮華。
塔形は板碑型。
 


■うつり坂

 赤羽台3丁目1番西から南西に上がって行く坂道。
 以前の標柱

   うつり坂
   旧板橋街道の坂のひとつであったが、旧陸軍被服本廠が大正8年赤羽に移転してきた時か
   ら被服本廠通用門への坂となり、関係者以外の通行はできなくなった。戦後被服本廠跡地
   に赤羽台団地ができ元の坂道となった。坂名の由来は定かでない。   北区教育委員会

 現在の標柱

   うつり坂
   赤羽台東小学校の北にあるこの坂は、旧板橋街道の坂道の一つです。大正8年に旧陸軍被
   服本廠が赤羽に移転すると、被服本廠通用門への坂となり、関係者以外の通行は出来なく
   なってしまいましたが、戦後、被服本廠の跡地に赤羽台団地が出来たため、元の坂道とな
   りました。かつて坂の上には道祖神、庚申塔がありましたが、現在は団地内に移され、祀
   られています。                          北区教育委員会


■軍境界石

 赤羽台3丁目4番にある第壱寶幢院墓地の西隅の外角にある、「陸軍」と刻まれた軍用地境界石。
元々ここにあったかどうかは判らない。道路の拡幅などで移設された可能性がある。赤羽被服廠は明
治24年、まず赤羽台に被服倉庫ができ、その後、大正8年に工場自体も本所区から移ってきて工場
と倉庫が統合されて「被服本廠」となり、その敷地は9万坪に及ぶ広大な工場だった。この巨大な工
場で働く作業員たちにより、当時の赤羽の街は活気に溢れていた。今では住民が高齢化し、小学校や
保育園は次々と廃統合され、戦後の高度経済成長期に建てられた赤羽台団地も整備されつつある中、
この境界石だけが当時の活気溢れた赤羽を伝えているのだろう。


■赤羽緑道公園

 赤羽台3丁目8番から赤羽西5丁目8番号に続く区立公園。東京陸軍兵器補給廠や陸軍被服本廠等
嘗ての軍事施設における物資輸送のために、今のJR赤羽駅付近から敷かれた軍用鉄道「東京陸軍兵
器補給廠専用線」の線路跡に造られた公園だ。緑道の中の道には、線路をイメージした線が描かれて
いる。太平洋戦争に敗戦するまではこのタイルの上を、陸軍の兵器や物資を満載した貨物列車が行き
来していた訳だ。赤羽は兵器や火薬、被服など軍需物資の一大集積地であり、陸軍の兵站を担う戦略
上重要な拠点だった。


■赤羽坂

 赤羽台3丁目11番と13番の間の坂道。師団坂から西に下って行く。「東京の坂風情」に、

   本来埼玉に向かう主要道だったが、付近が軍用地・鉄道用地・住宅地として開発されて地
   勢が変化し、勾配もなくなって痕跡というに過ぎない。


 とある。


■赤羽台公園

 赤羽台3丁目16番1号にある区立公園。


■桐ヶ丘体育館

 赤羽台3丁目17番57号にある区の施設。利用可能種目 バスケットボール(2面)・バレーボ
ール(2面)・バドミントン(6面)・ピンポン(14台)・体操・柔道・剣道・トレーニング・ア
ーチェリー・弓道。その地については、03‐3908‐2316へ直接電話すること。
 
地階 柔道場(66畳)・剣道場(115㎡)・会議室・トレーニングルーム・更衣室・トイレ・
    シャワー室
 1階 競技場(31m×29m)
 2階 観覧席(最大500名)
 弓道場 和弓(射程距離28m)洋弓(射程距離30m)
 ※頻繁に休館するのでよく問い合わせすること肝要なり。


■八幡小学校

 赤羽台3丁目18番5号にある区立校。昭和29年「東京都北区袋小学校分校」として開校。同3
0年「東京都北区立八幡小学校」として独立開校。同34年創立5周年記念式典。同37年校歌制定。
 同43年学校優良校表彰。同44年新校舎落成・体育館完成。旧校舎解体。同45年プール完成。
同50年創立20周年記念式典。同60年健康優良校。創立30周年記念式典。
 平成7年創立40周年記念式典。同17年創立50周年記念式典。同24年言語障害通級指導学級
(ことばの教室)・情緒障害等通級指導学級(八幡学級)開級。同27年創立60周年記念式典。


■八幡坂(やわたざか)

 赤羽台3丁目18番5号の八幡小学校の南にある東に下って行く坂道。大正8年うつり坂の代替坂
として開削された。田端4丁目に「はちまんざか」がある。
 区が設置した石の標識。傍らに「やはたざか」と書いた看板が建ててある。

   八幡坂
   板橋街道は、宝幢院前で岩槻街道(日光御成道)と分かれ中山道に至る道ですが、大正8
   年旧陸軍被服本廠が赤羽台に移転してきて、道の一部が敷地内に入ったので、一般の通行
   のため、同廠北側に設けられたのがこの坂道です。八幡坂の名は、この北にある八幡谷に
   因んだ地元の呼称で、それが定着したものです。
   昭和62年3月                          北区教育委員会


■赤羽台三丁目児童遊園

 赤羽台3丁目21番35号にある区立公園。


赤羽山法善寺

 赤羽台3丁目24番2号にある浄土真宗東本願寺派の寺。寛永十年(1633)浅草清島町に創建
し。大正10年赤羽に移転、同12年再度移転して現在地に。昭和34年に真宗大谷派に属し、同6
3年所謂〝お東騒動〟で東本願寺派となる。入口右に鉄筋コンクリート3階建ての法善寺保育園。黄
色い声が賑やかだ。本堂も立派な鉄筋コンクリートで、左に庫裏。墓地はない。


■長福寺

 赤羽台3丁目26番2号にある浄土宗の寺で、赤羽台の消防署の向かい側に位置する。普通の住宅
のような寺だが、石畳の脇に苔を置いたきれいな落ち着いた庭を有している。豪邸といった感じで、
ちっとも寺らしくはない。覗いてたら空き巣と間違えられるかも。
 


■赤羽八幡神社

 赤羽台4丁目1番6号にある。「赤羽八幡」として知られ、祭神は品陀和氣命(ほんだわけのみこ
と=応神天皇)、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと=仲哀天皇、応神天皇の父)、息長帯比
賣命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)。昔の赤羽・下・
袋・稲付の4ヶ村と岩淵宿の惣鎮守だった。伝説では延暦3年(784)征夷大将軍の坂上田村麻呂
が東夷征伐の折、この地に陣を取り、遙かに八幡三神を勧請して武運長久を祈った。その後源頼光が
社殿を再興、源頼政が改修、太田道灌の父資清が社領として土地を寄進し、文明元年(1469)に
道灌が社殿を再興したとあり、『岩渕町郷土誌』に太田康資の寄進状が載っている。江戸時代には3
代将軍家光の時に社領七石を与えられ、以後代々将軍家より御朱印を寄付された。この神社は武蔵野
台地の東北端にあり、その下には東北新幹線、埼京線が通り、北の玄関口として交通の安全を守護し
ている。現在の社殿は昭和6年の夏の竣工、同63年本殿が改築された。当社は、昔より武士の信仰
が篤く、現在では「勝負の神」として、受験生やスポーツ選手をはじめ広く信仰されている。神楽殿
を兼ねる絵馬堂に見事な大絵馬3枚が奉納されている。境内に八社合祀の祠・二社合祀の祠・古峰神
社堂・稲荷堂・北野神社の撫で牛・石の金精様・昭和46年銘の神域整備記念碑がある。神楽殿裏の
神輿庫の並びに第一工兵隊の営内神社「招魂社」が遷座されている。工一記念碑は第一工兵隊が南方
戦線で全滅したことを供養する碑だ。

   八幡神社
   赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和氣命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇。『日
   本書紀』によれば、応神天皇の父)、息長帯比賣命(神功皇后。『日本書紀』によれば、
   仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷五ヵ村(赤羽根村・
   下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり(『新篇武蔵風土記稿』)、現在もその地
   域の総鎮守となっています。
   創建年代等は不詳ですが、伝説によれば、延暦年中(782~806、平安時代)坂上田
   村麻呂(758~811。平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は
   模範的武将として尊崇され、征夷大将軍の職名は長く武門の栄誉とされた)が東征の途次
   このあたりに陣を敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長徳年中(995~9、平安
   時代)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154~56、平安時代)源頼政が修造を加
   え、応永(1394~1428、室町時代) 正長(1482~29、室町時代)の頃、
   地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として一貫文の地を寄進し、文明元年(1
   469、室町時代)太田道灌が社殿を再建したといいます(『岩淵町郷土誌』)。
   これはさておき、ここには太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)の、天文二○年(1551
   室町時代)の寄進状が伝えられており、その文面は、
    岩淵之内赤場根八幡領之事 合壹貫文之所者
    右爲社領如前々闕之候、且々私之修理おも加可申候、萬一自分を爲本無沙汰に付而は
    可放取者也、仍而如伴天文廿年辛亥十二月廿八日      太田新六郎康資 筆押
    八幡禰祇 朝日興五右衛門殿
   となっています。従って、この神社は、室町時代末期以前からあったことは確実です。
   また、『新篇武蔵風土記稿』に、「赤羽根村・・・今ハ東叡山及傳通院村内寶幢院八幡社
   領、入曾ノ村ナリ」と記されており、慶安二年(1649、江戸時代)に七石余の朱印が
   付されていることから(『岩淵町郷土誌』)、江戸時代、この神社は、年貢・課役の免除を
   保証された領地を赤羽根村内に七石余有していたことも確実といえましょう。
   現在の本殿は昭和六年改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますが、こ
   れは絵馬堂を兼ね、絵馬三枚が納められています。
   この神社が祀られている台地は武蔵野台地の東北端にあたり、東は荒川沿岸の沖積地に、
   西は八幡ノ谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器
   が発見されており、縄文時代中期・弥生時代後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡
   と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり、詳細は不明です(『東
   京都遺跡地図』東京都教育委員会)。
   この神社より星美学園敷地(旧陸軍第一師団工兵第一大隊兵舎跡)、国立王子病院敷地(旧
   陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬
   庫、作業場等跡)は、八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があ
   ります。
   明治5年稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同20年、第一・近衛両工兵隊の移転があっ
   て以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等が相次ぎ、赤羽は「陸軍の町」
   となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵
   舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦歿者の霊も合祀)などは、その当時の名残です。
   また、ここから星美学園に至る坂は、第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂と
   も呼ばれています。
   昭和54年3月                          北区教育委員会

   
「勝負事の神」赤羽八幡神社
   遠く平安時代の桓武天皇の御代(782~808)東北地方はまだまだ反乱多く、その征
   伐に桓武天皇は坂上田村麿を征夷大将軍として起用し、東北地方の征伐に向かわせた。
   途中、坂上田村麿はこの赤羽台の地に陣を張り、八幡大神を勧請し、武運長久を祈り無事
   東北地方を平定した。勧請された八幡大神は武力・知力の御徳高く、のちに源氏をはじめ
   武家の守り神とされた。赤羽八幡神社は平安初期の代表的な武将であり、国家守護の力と
   された坂上田村麿によってこの地に開かれた歴史により、武力・知力の「勝負事の神」と
   して、現在では受験生、スポーツ選手等から篤く信仰されている。


 
道標
 鳥居の先にある古い石造物。正面には

   
八幡宮 是ヨリ左ヘ一丁

 と彫られ、天保十一年の銘がある。

 
日露戦役紀念碑
 参道右手にある。赤羽兵事義会の建立、「東京帝國大學史科大學講師佐々木信綱識 弟子朝日重光
謹書」と刻んである。朝日重光はこの神社の神主だ。紀年は明治39年だが敢えて日付がない。裏面
に出征兵士の名が刻まれてる。

 
日露戦役紀年碑
 今一つある日露戦争の記念碑。明治39年に建てられている。4人の兵士の出征から帰国まで、参
加した戦闘などが簡単に書かれている。この土地から出征した兵士人なのだろう 文の最後には「神
職朝日重光識並書」とある。裏面に建設者として4人の名前が上げられているが、紹介されている四
人の兵士と同じ姓なので親か親族によって建てられたものか? 裏面に出征兵士28人の名前が刻ま
れており、故人は2人だ。

 
各種樹木境内奉納紀念碑
 これは日露戦争の時の神職と同じ名前なので明治42年の銘。

 
石坂碑
 石段下右にある。明治41年銘の碑。坂の山道を石の雁木坂(段々)に替えた記念だろう。

 神域整備完成記念石板
 石段の壁に新幹線が地下を通ることになって整備し直した記念銘板が嵌め込まれている。

   神域整備完成記念
   昭和56年八幡神社神域内に新幹線建設工事という創建以来、未曽有の難問に直面し、神
   社並びに役員は時代の趨勢を認識し、幾多の障害を克服して同年通過を承認、昭和60年
   3月竣工し新幹線開通。
   これを機に、参道大鳥居及び本殿、神楽殿、神輿庫、社務所を新築、拝殿を改修し、石段
   回り、築庭の全工事を完成。
   茲に、神域一新を記念し、神社の隆昌と繁栄を祈念し、神社役員が碑に名を刻し、永くそ
   の労を顕彰す。
   平成3年9月吉日                     八幡神社宮司 朝日辰夫


 越中立山登山記念碑
 石段の途中にある大正14年8月18日銘の碑。


 石段を上がり切ると左手に手水舎、正面が拝殿。狛犬は昭和63年製。社殿右手に神楽殿。

 稲荷社
 社殿右手にある小祠。

 赤羽招魂社
 社殿裏に神輿庫の左端にある。これは区の説明によると、かつて工兵第一大隊兵舎内にあったもの
で、正面に「赤羽招魂社」と彫られている円柱状の社号碑には「營内神社」、「明治三十一年四月鎮
座」などの文字が見える。招魂社は本来は招魂場で、薩摩・長州に多く、朝鮮式信仰だ。東京招魂社
(靖国神社)も長州が建てたもので、日本では死者の魂を招魂したり、鎮魂したりしはしない。日本
でやるのは成仏するように供養するのだ。薩長は、菊池族、隼人族、大内族など朝鮮系日本人が多い
から、そこに目を付けたユダヤが、それらを唆して明治維新を行わしめたもので、アーネスト・サト
ー、グラバー、ペリー、フルベッキ、キヨッソーネ、コンドルなどなどユダヤ人のオンパレードだ。
薩長の朝鮮系の若者はユダヤの手先となって日本を壊してしまった。ユダヤにとって何故明治維新が
必要だったのか? それはロシアのロマノフ家を打ち倒してその財産を奪うためだ。ロシア革命はロ
シア人が起した革命ではない。ユダヤ人によって引き起こされたロシア乗っ取りだったのだ。

 忠魂碑
 招魂社の近くにある。郷土愛なのか、村意識が強いというか、碑に名前を刻むのが好きな氏子だ。

 春日社・天祖社
 神輿庫の奥にある境内社。

 
合祀殿
 社殿左にある。鳥居を潜って入ると古い狛犬が据えてある。大国主・疱瘡・稲荷・住吉・大山・阿
夫利・御嶽・北野の8柱が一社合祀されている。稲荷の前には両狐が、北野の前の石段下には撫牛が
か置かれている。

 明治百年祭記念碑
 合祀社前の左手にある。昭和45年銘の碑。八幡神社青年総代睦會の建立。

 
御大典記念社殿改築碑
 合祀社前左手にある。昭和6年銘の碑。

 
古峯神社
 合祀殿の左手にある。前に大黒天とうさぎの石像が、これは因幡の白兎か? 古峯神社は火伏の神
で、明治39年の大火後、講ができて現在も続いているとのこと。

 
社務所
 一段高いところにある。

 
神域整備記念碑
 社務所前の駐車場の端にある。そこから東北・上越新幹線および京浜東北線と東北線、埼京線が分
かれている様子が見えます。

 
武州御嶽山 大々神楽奏上記念碑
 社務所前の植込みにある。碑の前に、あちこちから集められた狐像やら祠やらが並べてある。

 
伊勢忝拜記念
 昭和4年の奉納。これも名前のオンパレードだ。

 
師団坂側にある社号標柱
 「赤羽」の部分が後から嵌め込まれている。ここは袋村で赤羽とは無縁のところだから、「村社」
と彫ってあったのだろう。

 
絵馬
 絵馬堂に数多く残されている。

   赤羽八幡の絵馬額
   この八幡の創設は不明ですが、一説に延暦年間(782~805)坂上田村麻呂が東征の
   おり戦勝を祈って当社を祀ったものといわれています。その後、長徳年間(995~99
   8)に源頼光が社殿を再興したと伝えられています。いずれにしても古い神社であること
   はたしかのようで、絵馬堂内の数多くの絵馬額とともに有名です。
   昭和47年5月                          北区教育委員会



■赤羽八幡と新幹線
 神社の境内の下を東北・上越・山形・秋田・北陸新幹線が通っている。神社が鎮座する赤羽台は、
武蔵野台地が関東平野に突き出している東北端に当たり、神社は標高20m程の小高い山にあり、昭
和初期頃迄は「赤羽山八幡宮」と呼ばれていた。
 昭和36年に東北・上越新幹線工事が認可され起工されると、そのルート上、どうしても赤羽八幡
神社の小山を避けることは難しく、現在のような神社境内下をトンネルを掘り通過させるという設計
に決定してしまった。当社も、御神域の下を新幹線が通過するという前代未聞の設計に、地域氏子住
民と共に強く反対したが、最後にはその国策を受け入れ承認した。その間、当初の『大宮の手前まで
は地下トンネル化』の予定が、地質調査の結果、地盤が軟弱なために全面高架方式となったため、戸
田市や浦和市などからの反対運動が起きるなど、様々な問題もあったものの、同57年6月23日に
東北新幹線の大宮~盛岡間が開業し、同年11月15日には上越新幹線も開業した。
 そして同60年3月14日には、当神社地下を通る東北・上越新幹線の上野~大宮間が延伸開業と
なった。さらに同年9月30日には、新幹線の全面高架化の見返りともいわれる、赤羽~大宮間の通
勤ラッシュ緩和と与野・戸田への鉄道開通とを目的ともされる通勤新線「埼京線」も併設開通した。
 現在では、新幹線もさらに延伸され、平成3年6月20日には東京駅に乗り入れし、同5年には山
形新幹線が、同9年には秋田新幹線、長野新幹線が相次いで開業し、同27年長野新幹線が延伸した
北陸新幹線が開通し、当神社下、赤羽台トンネルを通過する新幹線の本数も増加している。
 普段何気なく利用している新幹線が、トンネルを入ると赤羽八幡神社の神域下で、神様に守られて
いる訳だ。これも遠く1200年前、坂上田村麻呂公が遥か京より東北地方を目指し、途中この地に
陣を張り、戦勝を祈願して八幡大神をお祀りしたこと、さらにその八幡大神は交通の守り神でもある
からなのか、赤羽八幡神社の下を新幹線が通過するのもある種の運命なのかもね。
 その新幹線だが、無論神社本殿下を通過はしてはおらず、社務所の下を通過している。その様子は
裏参道でもある坂道から明確に確認できる。また、その設計上、裏参道に設置されている大鳥居の間
を新幹線が通過して見える様子は、まさに日本全国ここだけの景観であり、テレビでも放映されるな
ど、鉄道愛好家の撮影ポイントとなっている。境内の南端からは、新幹線と埼京線がトンネル内に進
入して行く様子が見られる。この場所からは、神社のすぐ脇を通っている京浜東北線・宇都宮線・高
崎線や、時間によっては東武鉄道のスペーシアなどが通過していく様子も見ることが出来、電車好き
には堪らない絶景だ。
 神社下を新幹線が通過するという光景は、日本人だけではなく、海外の人には特に不思議な光景に
映るようで、過去にはドイツテレビや南ドイツ新聞の取材も受けており、ドイツ国内で放映されたよ
うだ。毎年1月には、赤羽駅・北赤羽駅・浮間舟渡駅の駅長さんをはじめ職員の方々の正式参拝も行
われるなど、この3駅に神社の御神札が祀られている。


赤羽工兵隊
 陸軍第一師団工兵第一大隊(赤羽台4丁目2番)と近衛師団近衛工兵大隊(赤羽台4丁目17番)
の俗称。関東大震災における活躍は見事なもので、東京下町の隅々にまで勇名を馳せた。工兵隊は1
師団につき1大隊しかないので、師団名で呼ばれた。第一工兵大隊跡地は星美学園に、近衛工兵大隊
跡は東京北社会保険病院(旧国立王子病院)なっている。両方をあわせて赤羽工兵隊と呼んでいた。
 花見の時期には開放されて市民も花見を楽しんだものだ。赤羽駅から本町通り板橋踏切、師団坂を
経て両工兵隊正門まで乗合バス(路線バス)が往復していた。
 錬兵場 両工兵隊の間の旧都営住宅を共用錬兵場にしていた。
 演習場 諏訪神社前の谷地から城北高校辺りまでを占めていた。大演習は荒川河床で行った。
 射撃場 旧赤羽保健所付近の谷地から今の八幡小の丘地に向かって小銃の射撃訓練をした。校舎の
     場所に台形に山を盛り上げて着弾地とした。側面から見ると三角に見えるので地元のから
     は三角山と呼ばれ、射撃場は「射的場」と呼ばれていた。八幡神社下から兵器廠を繋ぐ鉄
     道線路を越えて射撃したため、列車が通るときは訓練を中断、山の中央に赤い旗が立てば
     訓練中の印で、近隣の市民が通行止めになるなど悠長な面があった。

 ●陸軍第一師団工兵第一大隊工兵第一聯隊
 明治初期には東京鎮台として軍施設を皇居前に集結させ広大な旧大名屋敷地を利用していたが内乱
が落ち着くと順次中心地から分散させていった。明治7年東京鎮台工兵大隊として創設。同9年工兵
第一大隊(大手町)。同10西南戦争出征。20年8月大手町辰の口より現在星美学園のある3万坪
の地に赤羽駅の誕生を契機に、八幡神社の後背地を一旦東京府に供出させ、府の庁舎建設地と交換に
移転してきた。隊の司令官によると、

   孫子の兵法 地形第十
   我以って往くべく、彼以って来るべきを通という。通形は先ず高陽に居て糧道を利し、
   以って戦えば則ち利あり
   (交通の便よく高台の南に面して、手近に糧食を得られるところがよい)


 というのが選定理由だったという。同25年天皇行幸。同27年日清戦争出征。同37年日露戦争
出征、旅順203高地攻略戦において戦死者181名。大正4年6月天皇行幸。同3年第一次世界大
戦青島(チントウ)出征。同7年シベリア出征。同12年9月関東大震災東京府内復旧作業。赤羽付
近混乱警備。工兵橋・浮間橋架橋。浮間町民の寄附金が6000円だったので工兵橋が六千円橋とも
呼ばれた。昭和12年日支事変(日中戦争)で本隊は聯隊に昇格したものの、太平洋戦争に至って南
方派遣、フィリピンはレイテ島で玉砕(全滅)した。

 ●近衞師団工兵大隊 → 近衛工兵第二聯隊
 明治7年近衞聯隊創設の翌年「近衞工兵第一小隊」として編成、同10年西南戦争出征。同11年
「近衞工兵中隊」に昇格。同20年9月赤羽に移転。同25年天皇行幸。同26年「近衞工兵大隊」
に昇格。同28年日清戦争出征(大連・台湾)。同37年日露戦争出征(鴨緑江→旅順→奉天)。大
正3年第一次大戦(青島出征)。同4年天皇行幸。同7年シベリア出征。同12年関東大震災都内救
助復旧作業・赤羽付近混乱警備。昭和12年「近衞工兵聯隊」に昇格。同16年太平洋戦争では第2
5軍マレー作戦に参加、自転車を大量に使用した銀輪部隊としてマレー半島を駆け抜け、シンガポー
ル攻略戦に参加した。その後蘭印・スマトラ島掃討作戦に従事して以後同地の警備にあたる。同18
年5月14日近衛第二師団と改称に伴い「近衞工兵第二聯隊」と改称。一部兵力を一時的にアンダマ
ン諸島に配備したが、後日再びスマトラ島に配備、以後終戦までスマトラ島各所に分散待機したまま
無傷で終戦を迎えた。
 なお近衞第一師団工兵第一聯隊は、昭和18年東京の留守部隊で編成、近衞第一師団は終戦まで皇
居を守備した。森師団長を殺害した「八月十五日の動乱」を惹起した部隊である。森師団長殺害も動
乱も昭和天皇を軍国主義者から平和主義者へ転換するための、三笠宮のトリックだったという。ため
に阿南陸軍大臣は詰め腹を切らされたが、まあ天皇のためだから致し方あるまい。終戦内閣は総て朝
鮮系日本人によって組閣され、ミズーリ号の調印者たちもそうだという。
 


■師団坂(工兵坂)
 赤羽台4丁目1番(赤羽八幡神社の西側)から2番の星美学園の西側に沿って、同校の正門前まで
登って行く坂道。陸軍の師団司令部があった訳ではないが、第一師団と近衛師団の工兵隊戌衛地を造
成する時に衛門に通じるように新設した道で、工兵坂とでも呼べばよいものを、何故か師団坂と呼ん
だ。新河岸川に架かる橋は工兵橋と呼び、師団橋とはいわない。説明板に、

   
師団坂
   この坂は、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。
   
明治20年8月から九月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内から赤羽台四丁目内に
   移ってきたので、坂はつくられました。
   この坂は、「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。
   当時の工兵隊の兵営は「赤羽の兵隊屋敷」と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時
   の兵営開放などにより、付近の住民にも親しまれていました。
   現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊跡は学校法人星美学園
   の敷地となっています。                      北区教育委員会

 とある。
 


星美学園小学校・中学校・高等学校・短期大学

 赤羽台4丁目2番14号にある私立女子のミッションスクール。
文化十二年(1815)8月16
日イタリアはベッキ村にジョバンニ・ボスコ(後の聖ヨハネ・ボスコ)生誕。明治5年8月5日サレ
ジアン・シスターズ(扶助者聖母会)設立。

 昭和4年12月14日イタリアからSr.レティツィア・ベリアッティ他5名(扶助者聖母会)サ
レジアン・シスターズ来日。同15年12月14日「東京三河島星美学園」園舎落成。同18年5月
31日太平洋戦争のため静岡県清水市に疎開。同20年3月9日愚かなアメリカ軍の東京大空爆によ
り三河島星美学園全焼。3月15日戦争激化により疎開児童山中湖村に再疎開。8月15日敗戦。
 同22年1月10日都知事により「星美学園小学校」設置認可。4月1日「星美学園中学校」設置
認可。同23年3月10日「星美学園高等学校」設置認可。同26年3月10日学校法人星美学園設
立。同26年3月Sr.レティツィア・ベリアッティ初代理事長に就任。同28年1月8日「星美学
園幼稚園」設置認可。同35年1月20日「星美学園短期大学家政科」設置認可。4月初代学長Sr
.レティツィア・ベリアッティ就任。同37年12月校舎屋上にマリア像設置。同38年4月短期大
学保育科新設。同42年4月短期大学国文科新設。新幹線問題起こる。同49年中学・高等学校の普
通教室棟落成。同55年5月サレジアン・シスターズ来日50周年記念事業、星美学園中学・高等学
校の特別教室棟・体育館落成。同57年11月新幹線問題和解。同59年5月星美学園内遺跡(八幡
原遺跡)調査開始。同60年7月LL教室・屋外プール・南グランド完成。星美学園の地下のトンネ
ル(東北・上越新幹線)開通。同61年4月視聴覚教室開設。短期大学図書館・大講義室新築落成。
同63年1月ドン・ボスコ帰天100周年記念行事
校内放送設備の更新・整備。
 平成6年聖歌隊NHK全国学校音楽コンクール全国大会出場。同7年10月第1回星美彩開始。同
12年創立50周年記念行事・学園内LAN完成。同13年5月24日星美学園創立50周年記念式
典。同20年10月聖歌隊、第75回NHK全国学校音楽コンクール全国大会金賞受賞。同20年5
月「短期大学創設50周年」記念行事。同23年10月聖歌隊、第75回NHK全国学校音楽コンク
ール全国大会金賞受賞。
 


■アオノリュウゼツラン(青の龍舌蘭)開花 枯死
 赤羽台4丁目14番11号にある。場所は東京北社会保険病院の東南、八幡小学校北バス停留所の
側の石段の右(東)の三角地(現在空地)の直ぐ上にひょろひょろっと立っている。葉を広げた直径
は3m程。ブログに「ウネウネと波打つ力強い造形美にいつも見ほれている」とあった。その竜舌蘭
が、平成20年6月頃から電柱のように太い花茎が伸び始めた。今は優に5mを越して、7月29日
実に60年目にして黄色い花を開花した。
 メキシコ原産でテキーラの原料になる。地主の立て看板に、

   アオノリュゼツラン
   
青の竜舌らん
   竜舌蘭の開花は、60年間に一度と言われ、開花すると子孫を残し、枯れてしまうと言わ
   ております。
   原産はメキシコ等熱帯地方でテキーラ等の(お酒)原料や織物などの材料として使用され
   ております。
   (お願い)
   この竜舌蘭は個人所有のもので大切に長年育成した成果です。迷惑が掛からないようご見
   学下さい。                                 濱田


 とある。調査によると「青の竜舌蘭」は「花を咲かせると枯れる」らしく、ちょっと切ない。因み
に英名は「Century plant」で、「1世紀に一度花を咲かせる」という意味。原産地では
10~20年で花を咲かせるが、温帯では滅多に咲く事はないとか。そして枯れてしまった。
 


■軍境界石

 赤羽台4丁目15番5号先、赤羽台さくら並木公園の東端にある。ゴミ集積場になってる。


■赤羽台さくら並木公園

 赤羽台4丁目17番5号にある区立公園。この地は近衛師団工兵第一大隊の跡地で、戦後、国立王
子病院となったが、国立病院の統廃合で閉鎖となり、その跡に北区療育医療センターが建てられた時
に、南の斜面が整備されて区立公園となったもの。嘗ては射撃場だった。誤射した際にも弾が脇に逸
れないようにという配慮がなされている。当時の防空壕も残っている。
 住所を桐ヶ丘2‐11‐37と書いたものがある。道路向かいの所番地だ。


■赤羽台四丁目公園

 赤羽台4丁目17番47号にある区立公園。


■近衛師団工兵第一大隊 → 国立王子病院 
統合移転
 赤羽台4丁目17番56号東京北医療センターのところにあった。昭和20年10月18日アメリ
カ軍に接収された相武台陸軍病院が神奈川県相模原町
より移転。12月1日に厚生省へ移管し、国立
王子病院として発足。
 平成7年、国立立川病院と国立王子病院を統合。国立病院東京災害医療センターとして発足、立川
に移転。廃止後は社会保険庁へ時価譲渡。


■東京医療センター

 赤羽台4丁目17番56号にある医療機関。公益社団法人地域医療振興協会(JADECOM)が
運営を行っている病院だ。平成7年国立病院東京災害医療センターに移転統合した国立王子病院の跡
地を社会保険庁が購入、同16年、品川区にあった社会保険都南総合病院を移転し、東京北社会保険
病院して開院。同26年東京北医療センターと改称。

 



【赤羽西】(あかばねにし)1~6丁目               昭和40年11月1日
 稻付村(いなつけむら) 明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、同22年岩淵
町大字稲付、昭和7年王子区稲付町、同22年北区所属。同40年稲付町4~5丁目・稲付庚塚町
(いなつけこうづかちょう)・稲付島下町(しましもちょう)の各大部分に稲付町2~3丁目・赤
羽町・稲付西町・赤羽台の各一部をあわせた町域を現行の「赤羽西」とした。稲付の由来は、洪水時
に荒川沿岸の村々の稲が流れ着く意。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」のほか『北区史』など。 


 
赤羽西について
 赤羽駅の西側地区なのでその名としたが、赤羽とは無縁の稲付台地だ。
 


■赤羽西口再開発
 
赤羽駅西口地区は、住宅・都市整備公団(都市再生機構)による第一種市街地再開発事業によって
大きく生まれ変った。赤羽駅北口改札を出たところに西口と東口とを自由に往来できるコンコースが
ある。そのコンコースを西口側に出ると、目の前に次の3つの大きな建物が目に入ってくる。
  パルロードⅠ:専門店街「アピレ」+住宅「赤羽アボードⅠ」
  パルロードⅡ:専門店街「ビビオ」+住宅「赤羽アボードⅡ」
  パルロードⅢ:大型物販店舗「イトーヨーカ堂」+「日本フェルト」
         専門店街「ループ館」+公益施設「パルロード赤羽駐車場・駐輪場」
 戦災を免れたこの地区は、長い間戦後状態のままで雑然とした貧民窟を形成し、六本木材木町(六
本木ヒルズ)と同じ状態で、未整備のまま取り残されていた。駅西には、バスターミナルどころか、
バスが通れる幅員の道路もなく、タクシー乗場さえなかった。整備を求める声は昭和30年代から高
まり、都を中心に、区、権利者が共に再開発を模索してきたが、住宅・都市整備公団(現UR都市機
構)が北区の要請を受けて、同50年から取り組み、以来20年余の歳月を費やし、第Ⅰ期、第Ⅱ期
と事業を2段階で行い、平成8年3月31日に完工した。


■赤羽東映ピストル強盗事件
 赤羽西1丁目5番1号(稲付町3丁目27番地)に、昭和27年頃に開館した赤羽東映映画劇場。
昭和30年5月、当時は高度経済成長が始まり、映画も黄金時代で、5月の連休を「ゴールデンウィ
ーク(黄金週間)」という言葉を生み出した程、勢いがあった時代、映画館は巨万の富を築ける産業
の一つだった。松竹・日活・東映・東宝・新東宝の5社がお抱え俳優のオールスター作品をぶつけて
観客動員数を競っていた。この売上金を狙ってビストル(短銃)を持った強盗が赤羽東映に押し入っ
たということがあった。
 当時、赤羽には、線路東側に赤羽映画劇場(赤羽萬歳館)・オリンピア映画劇場(赤羽オリンピア
劇場)・中央映画劇場(赤羽中央劇場)、西側に赤羽文化劇場と赤羽東映映画劇場の5館があった。
赤羽第一映画劇場は同32年に開館している。
 赤羽東映は、赤羽西口再開発のため、昭和40年閉館。しかし昭和43年、赤羽西1‐39‐16
に東亜会館が新築され赤羽東映映画劇場が赤羽オデオン座とともに開館した。


■パルロードⅠ/アピレと住宅赤羽アボードⅠ
 赤羽西1丁目5番1号にある。


■「未来への讃歌」 ◇
 
赤羽西1丁目6番赤羽駅西口前バスターミナルの植栽に建つ川崎普照制作の銅像。 


赤羽会館文化センター

 赤羽西1丁目6番1号、赤羽駅西口にある。
昭和26年、赤羽会館が建っていた場所に、東京で初
めての公民館として「赤羽公民館」が建てられた。その後2度の改築を経て、赤羽公民館は「赤羽会
館文化センター」として蘇った。
 平成7年度からは、赤羽駅西口駅前第Ⅱ期再開発事業により新たに駅前にオープンしたパルロード
Ⅱの2、3階に移り、区民の生涯学習の拠点として、多くの区民に親しまれている。

 「のぞみ」
 1階にある裸婦像。市村祿郎の作品。


■パルロードⅡ:専門店街「ビビオ」/住宅「ビビオ赤羽アボードⅡ」
 
赤羽西1丁目6番1号にあるPC地下2階地上19階建ての再開発商住複合ビル。平成7年11月
竣。専門店街ビビオと赤羽文化センター、住宅赤羽アボードⅡからなる。


 
七福神のような彫像

 ビビオのイトーヨーカ堂側の歩道沿いに一列に並ぶ7本の円柱の足下に設置されている。但しこの
七福神には正式名称はなく無題。オブジェとして並べただけのものだから、「赤羽西口駅前七福神」
「赤羽駅西口七福神」でも、単に「赤羽七福神」でもよい。それでビビオ前の空きスペースは「ビビ
オ七福神広場」という。この作品は、アメリカの彫刻家ダグラス・O・フリーマンの作品で、ちょっ
と違和感がないでもないが、顔は東アジア人のそれで、外国人ぽくはない。神として祀ってある訳で
はないので、まっいいか。向かって右(南)から恵比寿・弁財天・寿老人・布袋・大黒・福禄寿・毘
沙門天の順に並んでいる。
 他に同人の作品が3点あるが、特に題名はなく、ライオンというか、怪獣というか、鳥というか、
ラドンというか、そんな説明のしようのない作品と、亀の上に少女が立っている作品、イトーヨーカ
ドー側に2点、アピレ赤羽に1点ある。

 赤羽文化センター
 再開発で2~3階に移転してきた。
 


黒石山宗泉寺

 赤羽西1丁目17番12号にある真宗大谷派の小寺。昭和初期に足立区で説教所として開かれ、第
二次世界大戦で愚かなアメリカ軍の空爆に遭い、現在地へ移転した。住宅街の住宅といった建物で、
敷地一杯に建物が建っており、境内は無い。屋根だけが寺院風だ。3階建てで1階は車庫。
 


静勝寺の坂(稲付城址の坂)

 赤羽西1丁目21番17号の静勝寺参道雁木坂(石段)。この坂を上がって行くと寺の南門に達す
る。右側に上って行く坂道には特に名はない。説明標柱無し。


■静勝寺坂

 赤羽西1丁目21番17号の静勝寺石段下から、南にくの字に上がって行く坂道。


■稲付城址=静勝寺
 赤羽西1丁目21番17号にある曹洞宗の寺院。じょうしょうじ 赤羽駅南口から徒歩数分で境内
下に至る。そこから50余段の石段を登りきると道灌山の頂上に達し、下界の喧騒が嘘のような静寂
がそこにある。今はビルなどで眺望を殺がれるが、北方の岩槻方面を展望するには最高のロケーショ
ンだったろう。亀ヶ池渓谷を北方に控え、日暮里の道灌山と連携すれば、敵の南下は容易ではない。
 寺の開創は文明十八年(1486)太田道灌が主君扇谷上杉定正に謀殺された後、永正元年(150
4)道灌の師越生龍穏寺五世雲綱俊徳和尚が稲付城内に小庵を結んで「道灌寺」と号したという。道
灌の死後もこの城には孫の資孝が居城し、後に後北条氏に仕えた。その子康資は後北条氏の家臣とし
て岩淵郷五ケ村を所領した。明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は、城址に堂宇を建立し、
道灌とその父資清の法号にちなんで自得山静勝寺と改め、その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田
道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺とした。「静勝」は、道灌の江戸
城の中心閣だった「静勝軒」から採っている。道灌は兵書『尉繚子(うつりょうし)』の中の、

   兵ハ静ナルヲ以テ勝ツ

 という言葉を好み、戒名も「香月院殿春苑静勝大居士」と謚された。静勝軒の建物は佐倉城に移築
されて「銅櫓」となったといわれたが、それも明治維新で取り壊されて今はない。写真は残っているが
単なる二階家で外観は美しくはない。

 稲付城跡は昭和36年に都の史跡に指定されている。
 位牌は本堂に祀られており、高い石段を登った突き当りに「御影堂」がある。 堂内に、元禄八年
(1695)僧風全作の「太田道灌の木像」が納められているが、享保元年(1716)と天保六年
(1835)に修理したとの記録がある。堂は享保20年(1735)の道灌250年忌に、道灌の
子孫の太田資晴が造営したもの。道灌像は港区の青松寺、墨田区の法恩寺などにもあったが、現存し
ているのはここだけだ。アメリカ軍の空襲の際、爆風によって厨子の中で跳ね上がり頭部を痛めたが、
都によって修復され現在に及ぶ。「新編武蔵風土記稿」の稲付村の項に、

   静勝寺
   禅宗曹洞派、入間郡越生龍穏寺末、自得山と號す、本尊釋迦外に辨財天を安す、是は境内
   亀ヶ池より出現せしと云長五寸許、開山雲綱永正十三年五月十五日寂す、寺傳に云、當所
   は太田左衛門大夫資長城壘を築きし舊趾なりしを滅亡の後雲綱禅刹を草創して道灌寺と號
   す、其後道灌六世の孫備中守資宗城蹟の地を皆寺に附し、道灌及其父備中守資清の法諡に
   取て自得山静勝寺と改む、今も境内地形高して門前の石階四十八級あり、亦境外西の方は
   低くして亀ヶ池鶴か堀など唱ふる所は、當時堀蹟なりと云、亦鐘銘に資長此地に於て城郭
   を築き城中池に臨て臺あり、静勝軒と名付など記せしは皆妄誕なり、殊に静勝軒は江戸城
   中の設なりし事、諸書に歴然たれば其餘の説の附會なるも推て知へし、姑く傳のままを録
   す。
   寺寶。
   竹杖一本。太田道灌所持のものなりと云、二股の竹にて長三尺、先の所は銅にて包めり其
   圖上に載す此餘道灌自筆の暮景集及ひ太田家譜等もありしか何頃にか失ひしと云。
   開基堂。開基道灌の木像を安す、長二尺許其圖左の如し。
   観音堂。十一面観音長一尺餘、越の泰澄の作にて道灌か守佛なりしと云。
   樓門。正徳五年鑄造の鐘をかく當寺草創の始末、及資清資長の法號太田源六郎資康以下九
   人の名氏を鐫す。
   五葉松。道灌手植の松といへり、根より五六尺上にて八方に枝葉茂りいとめつらしき形な
   り。


「北区文化財案内」に、

   曹洞宗。本尊は釈迦如来像です。この寺は、稲付城跡として都の旧跡に指定されています
   (ただし、都の旧跡の範囲は、特に限定されたものではありません)。稲付城跡は、この
   寺域から西にかけての丘陵一帯とされています。寺伝によれば、稲付城は太田道灌が築い
   たことになっていますが、まだ確証は得られていません。ただ、この地は、道灌歿後も太
   田氏の領地であり、寛永・寛政の家譜によれば道灌の孫資高は岩渕の砦におり、永禄(1
   558~70)のころ、資高の子新六郎康資は岩渕郷5ヶ村を所領としていた確証がある
   ので、太田氏にゆかりのある城跡であることは確実であるといわれています。そして、仮
   に、道灌がこの城砦を築いたとしても、この付近は当時豊島氏の勢力下にあったので、少
   なくとも豊島氏を滅ぼした後であろうと推定されています。永禄六年(1563)、康資
   は小田原北条氏に背いて挙兵、国府台の合戦に敗れて安房に逃れますが、その後の稲付城
   についてはよくわかっていません。


 とある。古い都の説明板は以下の通り。

   都旧跡 稲付城址
   所在 北区赤羽西一丁目二十一番十七号
   指定 昭和三十六年一月三十日
   太田道灌が川越、江戸、岩槻城を築城し、その連絡の城塞として築いたものが、この稲付
   城である。北方岩槻方面を展望する適地であり、道灌没後その子孫が居住していたと伝え
   る。
   江戸初期に子孫資宗が城跡に静勝寺を建立し、また元禄十二年(1699)には道灌木像
   を安置する道灌堂を建立した。現在の道灌堂は享保二十年(1735)の建立である。
   なお、稲付城は、     に関する史跡として注目すべきものである。
   昭和45年5月1日 建立                    東京都教育委員会


 山門脇の稲付城の説明では、

 
  東京都指定文化財(旧跡)
   
稲付城跡                       北区赤羽西1-21-17
   稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦
   跡です。
   昭和62年静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558~69)末頃
   から天正十年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
   また静勝寺に伝存する貞享四年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の
   地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察すること
   ができます。
   この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点を
   なしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻
   城を中継するための山城として築かれたのです。道灌の死後、この城には孫の資高が居城
   し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷5ヶ村を所領
   しました。
   明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清
   (すけきよ)の法号に因んで、山号寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代
   を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提
   寺としていました。
   平成13年3月                       東京都北区教育委員会

 
  東京都指定旧跡
   
稲付城跡                       北区赤羽西1-21-17
   稲付城跡は
   稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高21m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形
   を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも「堀蹟」と
   して登場します。
   現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、
   南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約12m
   深さ約6mの空堀の跡等が検出され、その際に16世紀前半頃の遺物が出土しました。
   静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木造座像が所蔵されています。寺伝によれば、城
   はこの道灌による築造とされています。今のところ築造した人物を特定する明確な根拠は
   ありませんが、荒川を全面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果な
   どから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。
   道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。
   平成25年3月建設                       東京都教育委員会

 だ。

 道灌堂/木造太田道灌坐像
 道灌堂の厨子内に安置されている。

   東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
   
木造太田道灌坐像 附 厨子1基(平成元年1月25日指定)
   右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日であ
   る七月二十六日にちなんで毎月26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌にあた
   る享保二十年 (1735)七月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保六年(183
   5)七月に製作されました。
   太田道灌(1432~1486)は室町時代の武将で扇谷上杉家に仕えて三十四度にも及
   ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(1457)四月に江戸城を築いたことで知
   られています。
   像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明十年(1478)二月頃から同十八年に没する
   までの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれてい
   ます。正面を向き、右手で払子(ほっす)を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて
   畳座に坐しています。像高は44.5cm、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎ
   で玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄八年(1
   695)静勝寺第六世の風全恵薫によって造立され、以後、6回の修復が施されました。
   現在の彩色は、昭和62年4月に行われた修復によるものです。
   像は道灌が没してから200年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝
   える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年1月に北区の指定有形文化財に指定されま
   した。
   平成8年3月                        東京都北区教育委員会

 また北区飛鳥山博物館には、木造太田道灌坐像の複製品、関連資料の展示がある。

 静勝寺除地検地絵図
 寺宝。北区飛鳥山博物館のブログに、

   静勝寺除地検地絵図・古文書(平成5年10月25日指定)
   静勝寺文書は、赤羽西にある静勝寺に伝存した文書群です。承応から昭和にいたる文書群
   のうち、近世文書68点が「静勝寺除地検地絵図・古文書」として平成5年に北区指定有
   形文化財に指定され、近代文書152点が「静勝寺近代文書」として平成4年に北区指定
   有形文化財に台帳搭載されています。
   静勝寺境内一帯は、太田道灌が築城した戦国時代の砦、「稲付城」跡でした。区指定有形
   文化財のうち、貞享四年(1687)の静勝寺除地検地絵図は、城塁配置を知ることがで
   きる最も古い絵図で、境内や付近の地形、稲付城の空堀の遺構が描かれています。この他
   絵図成立に関連したものや、境内の堂舎普請や太田道灌顕彰のための活動、寺院財政の一
   端を示す文書なども伝存しており、当時の静勝寺の様子を知る上でも貴重な資料であると
   いえます。


 とある。石段を上がった東門前左に地蔵尊立像がある。寛政六年甲寅二月吉日造立。

   このお地蔵さまは、寛政六年(1794)に建てられた石佛で、「江戸名所圖会」に図示
   されています。
   願主は次郎兵衛、世話人は弥惣右衛門、大五左衛門とあり、稲付村、静勝寺と刻られてい
   ますから、村人の浄財によって、岩槻街道に面した参道の入口(現在地)に安置して、萬
   靈の菩提を願ったことがわかります。
   お地蔵さまは、衆生の苦悩を代わって受けて下さると誓願された思いやりの深い菩薩です。
   他を思いやる心(菩提心)こそ、自他お互いを幸せにする基であり、世の中を明るくする
   道であります。
   お地蔵さまに手を合せて、お互いのぼだい心に目ざめ、ぼさつの行を生活することが、今
   日的信仰の実践であり、百八十二年前の願主の浄業に報ゆるものと信じます。
   昭和五十年四月八日修理開眼供養にちなみて静勝寺三十八世直永しるす

 
花木
 参道にソメイヨシノが10数本。正面に道灌堂(御影堂)その奥に弁天堂、境内奥の右手に本堂。
本堂の前にツツジ(オオムラサキ)の大株、道灌堂の横には梅ノ木。庫裏の前側の植込みにはウメ、
ツツジ、ツバキ、ボタン、ヤマブキ、水仙などが植えられている。


■稲荷社
 
赤羽西1丁目22番14号静勝寺参道石段途中右にある小祠。


■中坂
 
赤羽西1丁目22番と2丁目8番の間から西に上って、三日月坂と合流する坂道。説明標柱無し。
昔は湧き水があったという。姥ヶ橋地蔵堂のところに「稲付の小径」という説明板にその記載がある。


■稲付遊び場
 
赤羽西1丁目24番24号にある区立公園。


■三日月坂
 
赤羽西1丁目25番と4丁目4番との間の坂道。坂上で中坂と合流する。坂名は,坂上北側に三日
月茶屋があったことに由来する。近年まで坂の下に、標識に書かれている「道灌湯(赤羽西4‐4‐
10)」が営業していたが,平成18年に廃業したという。現在は古インランドリーだとか?

   三日月坂
   道灌湯から東南へ登り中坂へでる坂です。道灌湯のあたりに、大正3年に帝国火工品製造
   所(導火線工場)ができ、この工場のためにできた坂といいます。工場へ往来する馬車な
   どでにぎわいましたが、大正4年5月に工場は爆発事故で焼失しました。その後このあた
   りは住宅地となり、坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができました。坂名はこれに
   由来しています。また、道灌湯が開業したことから道灌坂とも呼ばれています
   平成5年3月                           北区教育委員会


■亀ヶ池弁天堂
 
赤羽西1丁目29番16号にある。今は僅かな池だが、昔はこの辺り一帯が大きな溜池で、古地図
に寄れば、稲付城西方の天然の防禦だったという。無数の亀が棲息していて、特に大亀は甲の周囲が
8、9尺もあり、小児はその上に乗って戯れたが、大人が行けば隠れて決して出てこなかったという
伝承に依りその名がある。現在の亀ヶ池弁財天の池はその亀ヶ池の名残りといわれており、中島に祀
られている祠はかつて亀ヶ池の一角にあった物といわれている。弁天は静勝寺の弁天堂から分霊した
そうだ。この付近が開けて人家も増え始めたころのある日、馬子が女の人を練馬の三宝寺池の辺まで
送り届けた。駄賃として貰った紙包みを開けなければ一生衣食に不自由しないといわれたが、馬子は
辛抱できなくなり、そっと包みを開いて見た。すると大蛇の鱗が入っていた。驚いて振り返ると、婦
人が大蛇に変身し池へと入っていった。その後馬子は死んだという。専門家は池の主が静かな三宝寺池
に移動したと見るべきだという。祠中には弁天像が納められているが、それは「金光明最勝王経」に
出ている武器を持った八手の姿をしている。静勝寺の弁天堂に祀られている像を模したものだ。マン
ションに挟まれた谷底のような空間に、賑やかに赤い奉納旗が沢山並んだ可愛らしい池がある。小さ
な赤い太鼓橋から幼児が亀を見て大喜びしていた。
 この弁財天では願いが叶ったらお礼の印に細い絵馬型の御札をかけるようになっている。毎年4月
1日に弁天祭が執り行われているそうだ。
 


■弁天池の坂
 
赤羽西1丁目29番16号の龜ヶ池弁天堂から北西に上がって南西に曲がり込む小さな坂道。昭和
20年と38年の地図では道筋が変っているので、この間に改変が行われた。説明標柱無し。

   弁天池の坂 べんてんいけのさか
   亀ヶ池弁財天の西から南に赤羽台団地へ登る坂で、昭和34年から始まった赤羽台団地の
   造成にともなってできた新坂です。
   かつては、亀ヶ池弁財天から東北に登る坂があり,これを池の坂といいましたが、団地造
   成の時になくなりました。
   坂名は,この池の坂と亀ヶ池弁財天にちなんでつけられました。
   亀ヶ池は大正元年11月にほとんどが埋立てられ,現在はわずかに亀ヶ池弁財天にその名
   残りをとどめています。
   平成5年3月                           北区教育委員会


庚申塔 ◇

 赤羽西1丁目36番1号赤羽幼稚園の突先のコンクリートの囲の中にある小堂。角柱に「
庚申」と
彫る。「昭和五年十月」「祭主 石井隆三」「行者 森みやじ」と刻む。隣に「雷神」がある。


大坂 ◇

 赤羽西1丁目36番1号の赤羽幼稚園のコンクリート囲いの傍に標柱が建ててある。西に上がって
行く坂道。

   大坂
   この坂は、赤羽根駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、
   赤羽から上の台(うえんだい)に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その
   昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動(きよたきふどう)の石段に対するものとして付けられま
   した。ここは狸(たぬき)にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。
   また、政右衛門(まさえもん)坂と呼ぶ人もいます。
   平成18年2月                          北区教育委員会


赤羽東映劇場・赤羽オデオン座 閉館

 赤羽西1丁目39番16号に、赤羽西口再開発のため、昭和43年東亜会館が新築され、赤羽東映
劇場(2階)・赤羽オデオン座(1階)が開館した。昭和59年赤羽東映は「赤羽映画劇場」に改称
し、夢よもう一度と足掻いたものの、あれほど飛ぶ鳥を落とす勢いだった映画産業も落日の時を迎え
て、平成3年最後まで赤羽地区に残った2館ではあったが、平成3年遂閉館し、赤羽地区から映画館
の総てがなくなってしまった。


■大坂(狸坂 政右衛門坂)
 赤羽西1丁目39番と41番の間を西に上っていく坂道。JR赤羽駅の西口を出て,線路沿いに2
00m程北に進み、モスバーガの手前を左に入ると、赤羽台団地に上る狭い道がある。ここが大坂。
赤羽幼稚園の北側の道だ。やや急な坂(高低差8m,平均斜度4.2度)。長さ110m。 車の通れ
ない狭い坂道で、坂下で左右に曲がる。
 赤羽台団地は、元陸軍被服本廠があった所で、戦後、東京23区で最初のマンモス団地(大規模集
合住宅)として住宅公団により昭和37年に建設された。JR赤羽駅から徒歩10分の立地にあるこ
とから 交通は至便。建物も 当時としては出色の出来映えといわれた。全戸数3373戸の部屋数が
あったが、築後40年を経過して老朽化したため、21世紀に入って、高層アパートに全面建替え。

   大坂
   この坂は、赤羽駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来が多い坂です。昔は赤羽
   から上の台(うえんだい)に登り旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小
   坂」と呼ばれた清瀧不動の石段に対するものとして付けられました。ここは,狸にまつわ
   る民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また政右衛門坂と呼ぶ人もいます。
   平成18年2月                          北区教育委員会


■小祠 ✔
 赤羽西1丁目41番4号にある小祠。


■稲荷社 ✔
 赤羽西1丁目41番5号にある小社。


■稲付一里塚跡
 赤羽西2丁目8番19号、岩槻街道静勝寺口から北に170mほど上った右側路傍に都の説明板が
ある。道路拡張工事が行われたので無いかもしれない。古い説明板は、

   一里塚(稲付)の跡
   この地には、古老などの言によると、岩槻街道の第二番目の一里塚(第一番目は北区の西ヶ
   原に現存)があったと昔から言い伝えられている。
   この一里塚は慶長九年(1604)江戸幕府の街道整備令によって作られたと思われるが
   幕末の頃には既に荒廃していたらしい。現在は勿論その面影はみられない。
   昭和48年1月                          北区教育委員会

 新しい説明板だが、これが残念ながら撤去されてしまった。。

   
稲付一里塚
   江戸時代、ここは稲付村と呼ばれて日光御成道の沿道に当たり、一里塚の築かれていた場
   所です。慶長九年(1604)二月、徳川家康は江戸日本橋を起点として全国の主要街道
   の一里毎に、榎を植えた塚を築かせ、街道の道程の目安としました。稲付一里塚も、こう
   した政策に沿って築かれた交通施設です。ここまでの道筋は本郷追分の一里塚で中山道と
   分岐し、西ヶ原一里塚を経て稲付村の一里塚にいたります。日本橋を起点とすると本郷追
   分が一里目、西ケ原が二里目、稲付の塚が三里目 (約11.8km)にあたり、この塚を過
   ぎると御成道の最初の宿場である岩淵宿に向かいます。稲付村内の御成道は総延長約六丁
   半 (約709m)で、幅は二間半(約4.5m)から四間(7.2m)位と記録されていま
   す。またこの一里塚のあった付近の街道上には、壱里塚という字から、道女喜に渡る幅二
   間半・長さ四尺 (約1.2m)の石橋があり、高札も建てられていました。
   日光御成道は、江戸幕府の将軍が、家康をまつる日光東照宮に参詣し、年忌法要を営むた
   めに通る専用の道だったので、このように称されました。また同時に江戸北郊の城下町で
   ある岩槻と江戸とを結ぶ街道でもあったので岩槻街道とも呼ばれていました。一里塚は、
   旅人にとっては歩いた距離や乗物賃の支払いの目安となり、陽射の強い日には木蔭の休憩
   所としての役割もはたしました。                  北区教育委員会
 


妙覚山普門院蓮華寺

 赤羽西2丁目14番20号にある真言宗智山派の寺。本尊は聖観音菩薩。創建年代は不詳だが、僧
宥鎮〔文明十八年(1486)寂〕により中興された。江戸期には14石2斗の朱印状を拝領、近隣
に末寺東曜山真性寺、五智堂を有していた。山門は楼閣を乗せた中国風の石門、あまり例を見ない鐘
楼門を潜ると左手に、江戸時代の墓石をはめ込み、四隅に宝篋印塔を配し、釈迦の悟りの地ブッダガ
ヤの仏塔を模した納骨堂がある。境内はすべて墓地で一杯、狭い参道を歩いて行くと堂宇が鉄筋コン
クリート造りだ。日当たりの良い高台に位置する本堂は庫裏を兼ねた大きな物。本堂の屋根の天辺に
は趣のある宝珠が避雷針を兼ねている。窓の上の壁には北斗七星を象ったという「九曜星」の紋章が
見える。九曜星の紋は屋根瓦にもある。屋根の棟角には瓦の鴟尾(しび 天守閣の鯱(しゃちほこ)
の原形)が載っている。この寺の朱印状は明治政府に強奪され、後にこれを入手した大宮の氷川神社
神職西角井家の『諸国寺社朱印状集成』の記載では、3代家光・8代吉宗・9代家重の3通が記録さ
れている。「新編武蔵風土記稿」に、

   普門院
   新義真言宗、足立郡川口宿錫杖寺末、妙覚山蓮華寺と号す。慶安二年寺十四石二斗余の御
   朱印を賜ふ。本尊正観音外に阿弥陀の銅像を安す。弥陀は何の年にや村内香取社(稲付香
   取神社)の後なる岩窟より出現すと云、徳治二年の開基といへど明據なし。境内に建武、
   徳治、嘉暦等の古碑あれば、若しくは是等に元つきて(基づきて)云い出せる説にや。中
   興僧宥鎮文明十八年五月二十一日寂す。庭中に垂枝の桜あり其枝数畝に庇蔭せり。
   鐘楼、延享五年鋳造の鐘をかく。


 とある。本尊は聖観音菩薩立像だ。
 


■陀枳尼天社(道灌山稲荷神社)
 赤羽西2丁目15番2号、普門院の直ぐ右傍に小さい祠と鮮やかな赤い鳥居が建っている。初午で
は普門院の住職が別当を務め、ここにはまだ神仏混同の姿を見る事が出来る。

 陀枳尼天
 真言密教では、稲荷神をインド伝来の女の鬼神・陀枳尼天(茶枳尼天・ダキニテン)と同一である
としている。稲荷は2つに分類される。五穀と養蚕を司る穀物神・農耕神としてのウカノミタマ(宇
迦之御魂・倉稲御魂)で稲荷明神として知られている。このお稲荷さん(稲荷神)は、京都の伏見稲
荷大社が信仰の発祥で、一般に伏見稲荷として知られ、全国3万余りの社の総本社となっている。こ
の社と合わせ、佐賀・祐徳稲荷大社、茨城・笠間稲荷神社を日本3大稲荷と呼ぶ。
 もう一方は、神社ではないが、愛知・豊川稲荷(正式名:円福山妙厳寺・曹洞宗)は、仏教のダキ
ニテンを稲荷神として祀ります(江戸の名奉行・大岡越前守が信仰したことで知られる)。開山の東
海義易の師寒厳義尹に始まる話、義尹が宋から帰朝する時に、突如として陀枳尼天が現れて「以後、
義尹を守護する」と告げた。それに感激した義尹は陀枳尼天を自刻し、妙厳寺の山門に鎮守として安
置したのが始まり。開山時には、様々な奇跡を起こして便宜を図ったといわれる。

 稲付の餅搗唄
 その初午祭の時に道灌山稲荷講の人達により唄い継がれている稲付の餅搗唄は、関東大震災前後ま
で残っていたもので、昭和40年頃静勝寺の参道下から清水小学校までの日光御成道沿いを氏子地域
とする道灌山稲荷講の人々により復活したものだ。餅を練る時に唄ったのが「稲付千本杵餅練唄」で
餅を搗く時のが「稲付千本杵餅撞唄」だ。唄はズシ(辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ
(催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々を回り、一晩かけて餅撞の手伝いをする時に唄わ
れた。この地域がまだ村落だった頃の話だ。稲付の餅搗唄は、毎年2月の初午の日に、赤羽西2丁目
に所在する道観山稲荷社で行われる餅搗きの際に唄われます。唄は餅を練る時に唄う「稲付千本杵餅
練唄」と餅を搗く時に唄う「稲付千本杵餅搗唄」があり、もともとは、この地域の人々がお祝いの餅
を搗く時に唄われていたもの。餅搗きは、3人ないし4人が臼を囲んで、唄に合わせて時計周りに周
りながら小振りな杵を交互に振り下ろし餅を搗きます。最後に仕上げ搗きをして搗きあがった餅は参
列した人たちにふるまわれる。

   東京都北区指定無形民俗文化財
   
稲付の餅搗唄           北区赤羽西2-14-20 道観山稲荷社地内
   江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄は
   住民が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は、毎年初午祭りのときに道観山稲
   荷講の人達によってうたい継がれています。
   餅は正月を祝って鏡餅として神棚に供えるとともに、これを雑煮にして食べたり、祝い事
   や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では、餅を搗く際に、臼のまわりに何
   人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振り下ろして餅を練ったり搗い
   たりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗くときうたったのが
   稲付千本杵餅搗唄です。唄は、大正12年9月の関東大震災の前後まではズシ(=辻子)
   と呼ばれる小地域共同体の若衆が、モヤイ(=催合)と呼ばれる相互扶助的慣行によって
   家々をまわり、一晩かけて餅搗きの手伝いをするときうたわれました。しかし、米屋が餅
   の注文をとるようになると餅を搗く機会が次第に失われ、モヤイによる餅搗き歌も姿を消
   していきました。
   昭和40年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって
   静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とするが道観山稲荷講の人々が
   初午祭に際して餅搗き歌を伝承するようになり、今日に至っています。
   平成8年3月                        東京都北区教育委員会
 


■「やわらぎ」 ◇
 赤羽西2丁目19番25号恭愛クリニックの入口側にある裸婦像。


■鶴と亀像 ◇
 恭愛クリニックの前庭水場にある。「鶴は千年、亀は万年」健康長寿の願い。


■ふくろうのポスト ◇
 恭愛クリニックの前庭植栽にある郵便受。


■裸婦像 ◇
 恭愛クリニックの建物入口にある。


■庚申塔 ◇
 赤羽西2丁目19番25号恭愛クリニック東の真正寺坂下路傍に横向きに建ててある。
山型板状。
日月、青面金剛像(剣人六臂)・邪・三猿。右面に「これよりいたばしミち」。左面に「明和六己丑
年霜月吉日」台石正面に「講中 廿二人」と刻む。


■真正寺坂
 赤羽西2丁目19番25号の庚申塔のところから西にM字にうねって、30番と33番の間まで上
がって行く坂道。坂名は、昔、坂上にあった「真生寺(しんしょうじ)」による。真正寺と書き換え
た理由は判らない。

   真正寺坂
   岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西に坂の北側(赤羽西2‐14‐6付近)に普門院松の
   真生寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和六
   年(1769)十一月造立の庚申塔に「これより いたばしみち」と刻まれていて、日光
   御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていることがわかります。稲付の人びと
   は縁起をかついで「しんしょう昇る」といって登ったそうです。
   平成5年3月                           北区教育委員会


■稲付香取神社
 赤羽西2丁目22番7号にある旧稲付村の鎮守。奥殿の中に安置されている朱塗りの本殿は、かつ
て上野東照宮の内陣だった物で、3代将軍家光の霊夢により稲付村に移されたという。植
 門前に「小林大豊の彰功碑」が建てられている。神楽殿の裏が崖で武蔵野台地の端っこ、十条方面
が見渡せる。

   香取神社
   御祭神 経津主神
   配 祀 大山咋神
   合 祀 建御名方神
   祭儀
   一、歳  旦  祭 一月一日
   一、初  午  祭 二月(初午の前日)
   一、祈  年  祭 二月二十八日
   一、大    祓 六月二十八日
   一、例  大  祭 九月十五日
   一、諏訪神社例祭 十一月二日
   一、七五三 祝 祭 十一月十五日
   一、新  嘗  祭 十一月二十八日

   一、大    祓 六月二十八日
                香取神社


 「新編武蔵風土記稿」に、

   香取社
   村ノ鎮守トス。長二尺六寸許ノ石ヲ神体トナセリ。普門院持。下同シ。末社稲荷、疱瘡神。
   諏訪社。

 とあり、「北区観光ガイドマップ」に、

   香取神社は旧稲付村の鎮守社です。創建時期は不明ですが、伝説によれば奥殿の中に安置
   されている朱塗りの本殿は、かつて上野東照宮の内陣だったもので、徳川三代将軍家光公
   が霊夢を見たことにより慶安三年(1650)に稲付村に移築したものとされています。
   境内には北区内では珍しい「力石」が7個奉納されています。


 とあり、「北区神社めぐり」に、

   創建時期は不明であるが、当社の朱塗りの御本殿は徳川三代将軍家光公により、慶安三年
   (1650)に上野東照宮の旧御本殿を移築したものとされている。境内には北区内では
   珍しい「力石」が奉納されている。


 とある。

   北区台帳登載文化財(有形文化財 建造物)
   
香取神社本殿                      北区赤羽西2-27-7
   香取神社本殿は、境内東側に位置する拝殿の後ろに設けられた本殿覆屋の中に安置されて
   います。朱塗りの三間社流造で、屋根は柿葺きです。石の亀腹の上に土台が据えられ、そ
   の上に高さ約10尺、奥行約8.3尺の社殿が建てられています。
   香取神社は、経津主神・大山咋神・建御名方神を祭神としています。『新編武蔵風土記稿』
   には、
     村の鎮守とす、長二尺六寸許の石を神体となせり
   と記述され、旧稲付村の鎮守でした。稲付村は十七世紀半ばの郷帳(『武蔵田園簿』)に
   「御神領」としるされ、東叡山寛永寺領に属していました。また、当社とも関係の深い法
   真寺(赤羽西二丁目)の開山證道院日寿は、東照宮の造営にも深く関与した南光坊天海の
   弟だったとも言われています。このため、香取神社の本殿は、この近辺に暮らす人びとに
   上野東照宮の本殿(内陣)を移築したものだと古くから信じられています。 上野東照宮
   の本殿とは、徳川将軍家が東叡山寛永寺を造営した際に藤堂高虎(津藩初代藩主)が建て
   たもので、その事業には徳川御三家が協力し、寛永四年(1627)に落成したことが知
   られています。
   平成24年3月                       東京都北区教育委員会

 
神楽殿
 参道右にある。第二次世界大戦で焼け、昭和30年に再建した。

 
正一稲荷社
 社殿左にある。赤鳥居が3つ。

 
末社
 稲荷社の右横にある合祀社。左から榛名・古峯・御嶽・阿夫利の順に4社。


 力石
 境内植え込みにある。昔、農村では江戸時代後期から明治時代にかけて、農閑期に村の力自慢の若
者達が俵の代わりに石を持ち上げて力比べなどをして楽しんだ。その名残の「さし石」と刻まれた丸
い石は境内の灯篭脇に残されている。軽い物で約71kg、重い物では約260kgもあるといい、
全部で7つの石が貴重な文化財として大切にされている。

   稲付村の力石                赤羽西2‐22‐7 香取神社境内
   ここにある7つの石は、その一つに「さし石」と刻まれている力石です。
   江戸時代後期から明治時代にかけて、稲付村では、春の彼岸がすぎるころ、少しの間、農
   作業に暇ができましたので、村の鎮守である香取神社の境内に、力自慢の若者たちが集まっ
   て、石の「サシアゲ」などして、力くらべをしたといいます。
   7つある力石のうち、5つの石に重さが刻まれています。軽いものでも、19貫目(約7
   1kg)、重いものでは55貫目(約206Kg)もあります。また6つの石には、「小
   川留五郎」と名前が刻まれています。留五郎さんは、稲付村一里塚跡付近にある根古屋の
   小川家の人で、力が強く、村相撲の大関を勤めたといいます。石鳥居の脇にある明治39
   年5月建立。「日露戦役記念碑」の有志者連名中にもその名がみられます。明治40年6
   月13日に51歳で亡くなりました。力石は小川家に保存されていましたが、昭和40年
   頃に香取神社へ奉納され、現在に至っています。
   力石は、鎮守の祭礼などで、これを持ち上げて神意をはかるための石占に用いられ、後に
   は若者たちの力くらべをするための用具ともなっていきました。この力石は往時の稲付村
   の風俗・習慣を示す貴重な文化財です。
   平成8年3月                           北区教育委員会

 富士登山記念碑・日露戦役記念碑・戦災復興記念碑・巨碑
 境内にある。


稲付山法真寺
 赤羽西2丁目23番3号にある日蓮宗の寺。本尊は十界曼荼羅である。岩槻街道からの入口にある
題目塔には元禄十一年(1698)銘で、

   伝教大師一刀三礼にて御彫刻、本門薬師如来

 とある。天正元年(1573)法恩寺の慈眼大師の法弟日寿を開山とし、京都山科の毘沙門堂門跡
守澄法親王が開基したといわれる。現在でも京都に行くと門跡寺院の格式で処遇されるそうだ。京都
の公家寺同様、塀に2本の白線を入れる権利を持つとか。御朱印状数通が現存し、慶安二年(164
9)に家光より受けた13石2斗の朱印状も残っている。香取神社の前にあった白壁の塀はこの寺の
墓地を取り囲むものだった。右手に妙法地蔵の佇む石段を昇ると良く手入れされた植え込みがあり、
大きな木造の本堂へと見事な日本庭園を巡るように参道が続いている。本堂前には桜の大樹があり、
春の満開時、薄桃色の花びらが間断なく降り注ぐ。暖かい春の陽射しの中でそれはそれは極楽浄土も
かくやと思わせる。境内には、深山の趣きの苔生した枯山水があり、鐘撞堂がひっそりと建つ。その
左手には開運三蛇弁財天が新しい白木の小さなお堂に奉られている。墓地に素翁高木善蔵の書の筆塚
がある。「新編武蔵風土記稿」に、

   法華宗江戸本所法恩寺末、稲付山ト号ス。寺領十三石二斗ノ御朱印ハ慶安二年賜ヘリ。開
   山證導院日壽 天正七年八月十九日寂。本尊三宝祖師ヲ安ス。
   三十番神堂。鐘楼、宝暦七年新鋳ノ鐘ヲカク。相生松、園ニ一丈余地上一丈許ニシテ楓樹
   寄生シ年ヲ経タレハ一樹ノ如クミユ其園前ノ如シ今相生ノ松ト記スハ土人ノ唱ニ従フ。


 とあり、「北区観光ガイドマップ」に、

   岩槻街道から法真寺に向かう入口には題目塔が建っていて、元禄11年(1698)銘で
   「伝教大師一刀三礼にて御彫刻、本門薬師如来」とあります。天正元年(1537)、慈眼大
   師(天海僧正)の弟・證導院日寿上人の開山で、開基は京都山科毘沙門堂跡守澄法親王と
   伝えられています。本堂、客殿、檀信徒会館の他、境内には三十番神堂・三蛇弁財天・咸
   得稲荷が奉納されています。手入れの行き届いた庭が素晴らしく、岩槻街道沿いであるに
   もかかわらず鳥のさえずりを聴きながら眺める枯山水は都内にいることを忘れさせてくれ
   ます。


 とある。

 
感得稲荷 ✔
 赤羽西2丁目23番3号にある小祠。
 


■稲付公園

 赤羽西3丁目19番5番にある区立公園。講談社野間清治の別荘跡を公園としたもので、稲付川渓
谷に岬状に突き出している西が丘の丘陵にあり眺望は頗る良い。山の杣道から野間坂を上がったとこ
ろにある。この辺りは「西が丘高級住宅地」といってよいロケーションだ。
 


■野間坂

 赤羽西3丁目19番5番の稲付公園(野間邸跡)の南側を西に上がって行く坂道。

   野間坂
   講談社の創立者野間清氏の旧別邸前の坂で、坂名もそれにちなむものである。その跡は現
   在「北区立稲付公園」となっている。                北区教育委員会



■鳳生寺坂

 赤羽西3丁目21番18号の鳳生寺門前に標柱が立っている。

   鳳生寺坂
   この坂は、鳳生寺門前から西へ登る坂で、坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から
   「六右衛門坂」とも呼ばれます。坂上の十字路を右(北)へ向かうと赤羽駅西口の弁天通
   り、左(南)へ向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。名称の由来となった鳳生
   寺は、太田道灌の開基と伝えられ、岩淵宿にあったものを移したので、現在も岩淵山と号
   しています。                           北区教育委員会


 六右衛門は鈴木六右衛門で、坂上にある旧家。水車の坂も六右衛門坂と呼んだが、稲付川の巨だ砂
水車を保有していたためだ。
 


岩淵山鳳生寺
 赤羽西3丁目21番18号にある曹洞宗の寺。前面の坂はそのまま「鳳生寺坂」と呼ぶ。法真寺よ
り谷の位置にあり、平らで広い寺域を持っている。文明十年(1478)建立、太田道灌の開基と伝
えられ、毎年2月には釈迦如来の大「涅槃図」が公開される。元々は岩淵宿にあったので岩淵山の山
号があるが、天正年間(1504~21)に現在地に移転した。寺門から石畳の参道を入って行くと
左手に大きく立派な木造の本堂が建ち、その前面はまるで校庭のような広い庭になっている。そそり
立つ泰山木は幹の途中でH型に繋がった非常に珍しい木相だ。さるすべりの古木や楓などの樹木が取
り巻く庭の外側は墓地になっている。赤ん坊を抱いたお珍しい地蔵尊がある。
 本堂内の板戸にはかなり古い四季花鳥図や竹林七賢人の図が描かれており、たおやかな顔をした珍
しい鉄製の観音像と白馬に跨った道灌の小さな像も残されている。本堂には如意輪観音を安置、本尊
は釈迦牟尼仏で脇侍は普賢菩薩と文殊菩薩だ。境内は広く、墓所は山の上まで一山が総て境内のよう
だ。明治7年に小林大豊は村人に推されて住職になったが、同9年辞職して代用小林尋常小学校を設
立した。香取神社にその謂れを記した碑が建てられている。「新編武蔵風土記稿」に、

   鳳生寺
   禅宗曹洞派、江戸芝青松寺末、岩淵山と号す。本尊釋迦開山玄欣文明五年九月二十三日寂。
   当寺も(静勝寺と同じく)太田道灌の開基といへと據とすへき事なし。


 とある。
 


■鶴ヶ丘児童遊園
 
赤羽西4丁目6番5号にある区立公園。


■弁天坂
 
赤羽西4丁目22番と23番の間から南に鶴ヶ丘児童遊園へ上って行く坂道。坂名の謂れは判らな
いが、坂下に「弁天坂下」のバス停がある。説明標柱は以前はあったが今はない。、


■赤羽三和児童遊園
 
赤羽西4丁目27番27号にある区立公園。


■蛇坂
 
赤羽西4丁目30・32番と38・37番の間を南に上っていく坂道。昔はうねうねうねうねと、
折れ曲がりながら登って行った。近代に入って整備された。

   蛇坂
   この坂は蛇のようにくねっているところから名がついた。蛇坂とその西にある市場坂の谷
   を北谷といった。谷の奥にわき水があり、釣堀があった。夏の夕暮れどきこの谷をうめつ
   くす程ヤンマが飛び交い、この坂でとんぼ採りをする子供達でにぎわったという。
   平成9年3月                           北区教育委員会


■庚申坂
 
赤羽西4丁目41番8号先の十字路からカーブをきりつつ西南に上がり、更に十字路から南へって
行く坂道。標識無し。坂上の字・庚塚(かのえづか)へ通ずるところからこの名が生れた。


天王山法安寺

 赤羽西4丁目42番2号にある日蓮宗系単立寺院。昭和3年頃までは法安堂といい堂下には3つの
泉があったという。周辺に願行の太鼓が響き、西側の庚申坂より先は草原が広がっていたそうだ。現
在も庚申坂と法安寺坂の角の上、大谷石の石垣上に高く位置している。階下のガレージのような造り
の中には浄行菩薩・釈迦牟尼仏・地蔵菩薩が安置され、線香や花が供えられていた。石段を昇った上
に門を構えて、大谷石造りの本堂や鐘撞堂が配置されている。入口は南京錠で閉されており、中に入
る事は出来なかった。坂の途中より背伸びして見てもよく判らない。鐘楼と本堂が見えるのみ。
 


■法安寺坂

 赤羽西4丁目42番と47番の間の法安寺の横を通る坂道。

   法安寺坂
   赤羽西保育園・法安寺の西を経て第三岩淵小学校の北東角へ登る坂。坂名は法安寺にちな
   んでいる。昭和3年頃法安寺は法安堂といい、堂下には3つの泉があった。周辺には願行
   の太鼓が鳴り響き、西側の庚申坂より先へ草原が広がっていたという。
   平成9年3月                           北区教育委員会


■平和坂
 赤羽西5丁目2番34号赤羽自然観察園の北側を西に上がって行く坂道。自然は標識があったが、
現在はない。


■赤羽自然観察公園

 赤羽西5丁目2番34号にある区立公園。
自衛隊十条駐屯地として使用されていた土地の一部に整
備された。当該地は谷状の地形を有し、湧水が存在しており、この湧水の保全・活用をするため、北
区では従来タイプの公園作りではなく、「自然とのふれあい」をテーマに新しい公園づくりを目指し
た。もともと自衛隊用地として使用されていた経緯から、緑の多い空間ではあった。しかし本来この
地域に形成される植生の回復のため、在来種に馴染まない樹木は撤去し、この地域に本来生息する植
物もしくは生息していた植物を植栽し、長期的に自然の回復を図る。「自然保護区域」及び「自然観
察区域内の湿地部分」などでは、放置を前提とした植生管理をしている。

 また、園内には子どもたちのスポーツ利用が可能な「多目的広場」やバーベキューができる「バー
ベキューサイト」も整備されており、自然とふれあいながら楽しめる公園となっている。

 
東京の名湧水57選(NO.14)
 陸上自衛隊駐屯地跡を利用した公園(平成11年開園)。縄文晩期の湿地‐沼地が保存されている。


 
旧松澤家住宅

 平成15~16年度にかけて、浮間から赤羽自然観察公園へ移築復原され、同17年4月17日に
区の昔の農村風景を再現した体験学習施設「北区ふるさと農家体験館」としてオープンした
 


■大塚古墳

 赤羽西5丁目3~7・11・12番、富士見坂上は善徳寺の東側の一帯にあった。周囲500mと
いうから直径で160mもある大円墳が、終戦後まであったが、取り壊してしまったという。昭和初
期には13の陪塚と思われる小古墳も点在していたそうだ。その斜め向かいの島下公園(しましもこ
うえん)の北側から縄文式や弥生式の土器が発掘されている。
 


■赤羽西図書館

 赤羽西5丁目7番5号にある。
 


■赤羽緑道公園
 
赤羽西5丁目8番から赤羽台3丁目8番に続く区立公園。


■稲付中学校

 赤羽西6丁目1番4号にある区立校。HP稚拙につき沿革不明。

 校歌
「桜並木に」 作詞・福田正夫  作曲・高田信一
  1.桜並木に花咲き揃い
    若葉の緑 日に燃えくれば
    溢るる血潮 胸に充て
    都の北 守る文化の子
    開くは光よ 稲付中学校
  2.富士は真白い清らな姿
    敬愛心を育ててくれば
    挙りて身さえも
    武蔵野台地の自由の子
    築くは平和よ 稲付中学校
  3.伝え高らに響くは城址
    床しきその名 継ぎ立ちくれば
    明るく努めて優良の
    幸い貫く努力の子
    輝く望みよ 稲付中学校
 


■赤羽西六丁目児童遊園
 
赤羽西6丁目3番10号にある区立公園。


■赤羽西六丁目第三児童遊園
 
赤羽西6丁目8番1号にある区立公園。


■島下公園
 
赤羽西6丁目10番12号にある区立公園。


■かなくさ坂
 
赤羽西6丁目10番12号と22号の間から西に下り、弧を描いて北に向かう坂道。

   かなくさ坂
   この坂は、島下公園(赤羽西6‐10‐12)の北側を東の方へ登る坂です。名前の由来
   については定かではありませんが、鉄分を多く含む湧水の影響で池土が赤錆色に染まった
   ことを、かなくさ(金属の匂いや味がすることを金臭いといいます)と表現したのではな
   いかという説が知られています。
   平成18年3月                       東京都北区教育委員会


■豊川稲荷大明神 ◇
 
赤羽西6丁目10番9号にある小祠。


■富士見坂
 赤羽西6丁目15番の北、都道445線の坂道。西側に下る坂で 昔は人家のない台地。富士山の眺
望がよかったんだ。

   富士見坂
   この坂を富士見坂という。このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかった
   ところからこの名がついた。江戸時代の「遊暦雑記」には、「左右只渺茫たる高みの耕地に
   して折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る。此景望又いうべき様なし」
   と記されている。かつてこの近くに周囲五〇〇余メートルといわれる大塚古墳(円墳)が
   あったが、いまはみられない。                   北区教育委員会


■大恩寺
 赤羽西6丁目15番19号にある日蓮宗の寺。寂静院日賢〔正保元年(1640)寂〕が、寛永元
年(1624)根津神社横(根津へ移転する以前)に創建したと新編武蔵風土記稿にある。明治維新
後現在地にやってきた。「御府内寺社備考」に、

   下総国中山法華経寺末、駒込不唱小名、寂静山大恩寺、境内年貢地千二百三十坪。寛永元
   子年建立。開山寂静院日賢正保元甲年八月二十四日化。本堂七間に五間。本尊法華題目、
   釈迦牟尼仏、多宝如来、四菩薩、四天王、三光天子、鬼子母神、十羅刹女。十二体厨子入
   各丈八寸余。日蓮大菩薩、開山日賢作ト申傳。日蓮像、丈一尺二寸宮殿入日親上人作。
   大鐘。元保十五年鋳造鋳物師田中丹後守作。三天堂間口二間半奥行四間半。大古久天丈五
   寸日蓮作ト申傳、毘沙門天丈一寸、弁財天丈六尺、前立大黒天丈五六寸程、三十番神各丈
   三寸斗。
   稲荷社、一間四方。以上丙戌書上


 とある。
 


獅子吼山専称院善徳寺
 赤羽西6丁目15番21号にある浄土宗の寺。享徳二年(1453)開山と伝えられかつては皇居
の吹上のところにあったが、徳川家康の江戸入城により、平川門外に移され、さらに日本橋馬喰町、
台東区松葉町と移り、大震災後の区画整理のため、昭和2年現在地に移ってきた。
 「御府内寺社備考」に

   増上寺末 浅草新寺町 獅子吼山専稱院善徳寺 境内古跡拝領地千九百三十一坪六合六勺。
   当時儀は享徳2年江戸城西坪根沢ニ於て起立有之。
   御入国翌年平川口へ移り、又三年を過、大船町へ移り、慶長十三年馬喰町追廻へ移り、明
   暦三年七月朔日浅草へ引移り申候。開山十蓮社楽誉上人、在住四十年、明応三年七月十六
   日、行年八十八歳にて遷化。
   本堂、本尊阿弥陀如来丈二尺五寸坐像。両祖師共坐像丈二尺。
   鎮守熊野社、神体幣束。(中略)
   地中 春翁院、坪数百二十二坪半。
   初代俊蓮社翁誉自然和尚、慶長三年九月十七日寂。
   仏像二間半ニ二間。前拝殿二間四方。
   本尊阿弥陀如来立像、二菩薩。以上甲乙書上

 とある。

 お竹大日如来像(お竹の墓如意輪観音)
 本堂前に如意輪観音像を彫った舟形の石仏があり、「お竹大日如来像」と記した立札がある。通称
「お竹大日如来の墓」といわれる石塔だ。このお墓の回りには真っ赤なのぼり旗が幾本も立てられ賑
やか。右の石柱には「お竹大日如来 延宝八年五月十九日」の銘がある。お竹さんの命日だ、今でも
この日に近い日曜日に「お竹供養」が行われている。(ただし山形県羽黒町の正善院では寛永十五年
(1638)三月二十一日を命日としている)
 如来とはいうものの、典型的な如意輪観音菩薩。右手は頬杖思惟の姿、転輪聖王座(右膝を立て膝
左足裏を重ねる)の姿勢。女性を救う仏として信仰される。因みに、上記正善院のお竹如来は大日如
来の形で、お竹の死後、主家佐久間家で彫り持仏堂に祀っていたものだ。
 お竹とは、中央区の大伝馬町1丁目の佐久間勘解由家の下女だった。因みに馬込家は2丁目の町名
主。お竹は、自分の食事を物乞いに施し、自分は流しの残飯溜に溜まった飯粒を干し飯にして食べ、
常に念仏を欠かさなかったという。ある日お竹の出身地山形から行者(武蔵国の淨蓮)が佐久間家を
訪れ、お竹を大日如来として拝んで帰った。4、5日後、お竹は屋上に紫雲棚引く内に成仏した。主
人は等身の大日如来像を作り供養した。この話が江戸中に広まり、如来像を拝もうとする人、数知れ
ない有様とり、それでこの話が江戸中に広まり、錦絵や草双紙の題材となった。佐久間家断絶後、信
仰は親戚の馬込家に引き継がれ、その土地が小津商店所有になり、現在本館ビルの片隅にお竹が使っ
た井戸跡と称して庶民信仰の記録に留めることになった。この寺のほかお竹の流し板が安置されてい
る佐久間家の墓所港区東麻布1丁目の心光院お竹大日堂は今も信者が多いという。

   知らぬが仏竹々とこき使い(川柳)
   お竹の尻を叩いたらカンと鳴り(川柳)


 仏つまり金仏の意だが、この寺には高さ50cmが寺宝とされている。鉄仏とは戦乱の世に焼けな
い仏として作られたものという。この寺の鐘は昭和50年ごろ桐ヶ丘団地の寺本少年が始めてから、
毎朝子供たちによって撞かれるとか。今も頑張ってんのかな?

 馬込勘解由家墓所
 墓地にある。

   馬込家墓
                       北区赤羽西6丁目15番21号善徳寺墓地内
   善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があ
   ります。
   御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が五
   街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運
   営にあたりました。また、他の町で同様の役職にあたる名主家とともに名字・帯刀を許さ
   れ、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見が許されていました。
   馬込家は、遠江国敷地郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘
   解由と称していました。馬込という家名は元和元年(1615)五月大坂落城の後、浜松
   宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家
   康から与えられたと伝えています。
   最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善
   徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松
   葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和2
   年4月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りまし。
   平成8年3月                           北区教育委員会
 


■赤羽西六丁目第二児童遊園
 
赤羽西6丁目38番4号にある区立公園。

 



【赤羽南】(あかばねみなみ)1~2丁目               昭和46年7月1日
 稻付村(いなつけむら)。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、同22年岩淵
町大字稲付、昭和7年王子区稲付町、昭和46年稲付町1~3丁目・岩淵町2丁目・赤羽町1丁目
の各一部をあわせた町域を現行の「赤羽南」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」のほか『北区史』など。

 
赤羽南について
 赤羽の南外側の意。何でもかんでも赤羽、赤羽。
 


■ぼったくり条例違反でキャバクラ店従業員逮捕
 赤羽南1丁目8番7号のキャバクラ「クラブ・プロビデンス」で起きた違法事件。
 令和3年5月13日、ぼったくり防止条例違反地区に新たに指定された赤羽地区で、客引きが連れ
て来た客を引き受けたとして、従業員四ノ宮裕一(49歳)が逮捕された。
 この日新橋でも、同様の罪で小林凌也(25歳)が逮捕されている。


赤羽消防署

 赤羽南1丁目10番4号にある。

 
●副士長が猥褻行為で逮捕
 令和2年11月5日、副士長の古池裕司(25歳)が猥褻容疑で逮捕された。古池は、去る10月
12日夜、知人らと食事した後、知人女性が酒に酔っているのを見透かして、「他の人も来るから」
と騙し、寮の自室に連れ込み、猥褻行為に及んだ。女性は間一髪で逃げ出し、警察に駆け込んだ。
 本人は否認している。
 


赤羽郵便局

 赤羽南1丁目12番10号にある。
 

赤羽消防署

 赤羽南1丁目10番4号にある。


赤羽会館
 赤羽南1丁目13番1号にある区の施設。区民の生活文化の向上、福祉の増進のための施設として
建設された。施設は各種交通機関に近くまた商店街にも近いとても便利な場所にある。区民の各種会
合や文化活動また地域での交流やふれあいの場として利用可能。
 6、7階区の業務室、5階赤羽図書館、4階大ホール・小ホール・第3~7集会室、3階第1~4
和室、第1~2集会室、2階赤羽会館管理事務所、赤羽地域振興室、赤羽しごとコーナー、リハーサ
ル室、講堂2階客席 1階講堂(舞台、客席、楽屋、控え室)、軽食堂。地下は駐車場となっている。

 のぞみ ◇
 館内にある市村緑郎の作品。
 


■赤羽図書館
 赤羽南1丁目13番1号の赤羽会館5階にある。 


■赤羽公園
 赤羽南1丁目14番17号にある区立公園。

 馬に乗る少年 ◇
 園の中央にある公園のシンボル。立ち上がる馬を御す少年の銅像。無題。

 
母子像 ◇
 園内にある赤子を抱いた母親像。


■赤羽南二丁目児童遊園
 赤羽南2丁目7番6号にある区立公園。

 「おいらは大将」 ◇
 赤羽南2丁目9番赤羽南2丁目児童遊園にあるガキ大将の銅像。
  


■稲田小学校

 赤羽南2丁目23番24号にある区立校。沿革不明。

 校歌「
紫匂う」 作詞・醍醐育宏  作曲・渡辺浦人
  1.紫におう筑波嶺を
    清かに巡る雲白し
    黄金の稲の穂 陽にかがよえば
    遠く果てなき希望が燃ゆる
    稲田 稲田 吾等の母校
  2.都の北に緑濃く
    甍も紅き学び舎に
    集いて学ぶ幸ある日々を
    智恵の言葉も明るく芽ぐむ
    稲田 稲田 吾等の母校

  3.春は飛鳥の花吹雪
    学びの庭に散り掛かる
    その気高さを心に秘めて
    正しく強く伸び行く吾等
    稲田 稲田 吾等の母校
  4.曙の空 薔薇色に朝風清く巣立つ日は
    高い文化と理想を乗せて
    翼折れよと羽ばたき行かん
    稲田 稲田 吾等の母校
 

 



【岩淵町】(いわぶちまち)                     昭和47年2月1日
 岩淵宿。鎌倉時代には岩槻街道の宿場・渡し場として開けていた古い町。赤羽根村などを傘下に
おいていた。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、同22年岩淵町大字岩淵本宿、
昭和7年王子区岩淵町1丁目。同22年北区所属。同47年新住居表示により岩宿町1丁目、赤羽
町1丁目の各一部をあわせて現行の「岩淵町」とした。結果かつての岩淵町の三分の一ほどにも縮
小されてしまった。
 昭和37年住居表示法の施行で中央権力は将来の再軍備を睨んで軍都赤羽の名を残し、それとな
く手を打とうとしたが、赤羽の親村である岩淵の人々にとっては格下の赤羽を名乗ることは到底我
慢ならぬことで屈辱以上のものがある。8年に亘る反対運動を展開、その結果中央権力は傲慢横暴
を停止し「2丁目は赤羽とするも、1丁目は岩淵町として残す」と敗北を認めた。地方出身者また
その子弟で構成される区の職員や自治省(旧内務省)の役人は「その日が終われば全てよし」だか
ら、どうしても自分のご都合主義だけを追求して土地の歴史や曰く因縁などには目を向けない。そ
れは人間の礼をわきまえない田舎者だから責められないが、かくて岩淵の人々は愚政に打ち勝ち、
先祖伝来の地名を守った証として八幡神社に「町名存続の碑」を建て後世の警鐘とした。いつの日
にか軍事優先主義を改めて赤羽の名を縮小する勇気ある若者も現れるだろう。
 岩淵といえば「岩淵葱」、これも消えた特産品だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」のほか『北区史』など。

 岩淵の由来
 ①、入間川(のち荒川)のほとりでゴツゴツとした岩場だったことから起きた。
 ②、アイヌ語で〝渡し場〟〝埠頭〟を意味する。
 との2説あるが、どうだか判らない。鎌倉時代の書『とはずがたり』の作者二条局が、正応二年
(1289)の暮れにここを通り、

   
雪降り積りてわけゆく道も見えぬに 鎌倉より二日にまかり着きぬ。かやうの物避りた
   る有様前には入間川とかや流れたる。向へには岩淵の宿といいて遊女どもの住み処あり


 と記している。応永二十三年(1416)駿河入道行宗が鎌倉公方の名で武州「岩淵郷」の橋賃
を鎌倉大蔵稲荷へ寄進したこともあり、正長二年(1429)鎌倉公方足利持氏の関銭一切の寄進
状には、

   武蔵国岩淵関所

 とある。この地が赤羽などと違って古くからの交通の要衝だったことが知れる。江戸時代を通じ
て日光御成道(岩槻街道)の第一宿で岩淵本宿・岩淵本宿村・岩淵町などとも書かれ、対岸の川口
と半月交代でその諸役を果たしていた。その頃の渡し場は新荒川大橋上流だったが、中世のころの
渡し場は八幡神社付近らしい。頼朝挙兵の報を聞いて駆けつけた義経の一行は、太井川(江戸川)
や隅田川や長井の渡しなどの湿地帯を避けて「こかわぐち(川口)」辺りで渡河し板橋方面に進ん
だと想定される。

 
日光御成道・岩槻街道
 中世以来の鎌倉街道中道(なかつみち)を前身として江戸時代に整備された日光街道の脇街道で
あり、徳川将軍が日光東照宮へ社参する際に利用された街道だ。本郷追分(文京区弥生一丁目)
で中山道から分岐し、幸手宿で日光街道と合流する。また、岩槻藩の参勤交代に使われたことから
「岩槻街道」とも呼ばれる。現在の国道122号線「ワンツーツー」だ。将軍が日光へ参詣の際に
は江戸城大手門から出発したという。

 
岩淵の渡し
 川口善光寺の渡し・川口の渡し 明治42年荒川大橋ができるまでは岩淵街道は、渡船または舟
橋で対岸の川口へ渡っていた。舟橋は中央部の舟を回転させて、川越夜船などを通過させるシステ
ムのもので、明治政府は財政の困窮から資力のある者に道路や橋や用水を建設させ、それの有料制
度を進めていた。この舟橋も栃木県人大野孫右衛門が渡した。
 


■岩淵小学校

 岩淵町6番6号にある区立校。昭和13年1月「東京府東京市岩淵尋常小学校」として開校。18
学級でスタート。校章制定。2月校舎落成。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市
岩淵国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都岩淵国民学校」と改称。
同19年群馬県榛名山町に学童集団疎開。同20年日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都北区立岩淵小学校」と改称。
同23年創立10周年記念式典。同33年創立20周年記念式典。同34年校舎大改修。同35年花
の学校として受賞。同37年全国花の学校コンクール優秀第一位受賞。同41年体育館完成。同43
年創立30周年記念式典。同44年学童保育「白梅クラブ」開設。同45年プール完成。同51年制
帽制定。同53年創立40周年記念式典。同63年創立50周年記念式典。
 平成6年ランチルーム完成。同9年パソコンルーム開設。同10年創立60周年記念式典。同20
年創立70周年記念式典。

 校歌
「富士と筑波の」 作詞・岩附良雄  作曲・高田三郎
  1.富士と筑波の山映えて
    流れも清き荒川の
    辺(ほとり)に建てる学び舎は
    ああ懐かしき我が母校
  2.梅も床しき岩淵の
    同じ窓辺に睦みつつ
    親しき友よ 諸共に
    学びの道に勤しまん
  3.自由の光 輝きて
    分けゆく道は異なれど
    希望に燃えて我が友よ
    永遠に文化を打ち立てん
 


■辻稲荷大明神 ◇

 岩淵町16番5号にある小さな神社。普段は閉ざしてある。石の立派な鳥居はあるが、社殿ではな
く小祠だ。住宅地の中の空地のようなところが境内だ。広くもなく、狭くもなく。
 


■岩淵庚申塔 ◇
 岩淵町22番17号メゾン・ド・マカロンの塀に貼り付けたように3基の石造物が建っている。三
叉路の電柱の根元だ。墨田川沿いには古くから、岩淵、下(志茂)、神谷、豊島、堀船など集落があ
り、それらを結んで自然堤防の上を通る古道、江戸時代にそこから伸びていった王子道、板橋方面へ
の道、その辺りに多く見られる。岩淵の「ふるみち」の狭い道の丁字路に、人家の塀に沿って2基の
庚申塔がある。西国、秩父、坂東、出羽三山、身延山と六阿弥陀の巡拝塔で、「みちしるべ」でもあ
ったようで、正面台座には「右下むら」とあり、向って右側面に「天保十五年」左側面には「為宿内
安全也」、又「宿内」としての人名が彫られている。庚申塔の前の道は「岩淵町郷土誌」によると天
王道という古道で北方の八幡神社に通じている。
 1.「奉造立庚申供養塔」「寛保三癸亥歳二月吉日」。下部に三猿。
 2.種子(ウーン)日月・三猿。「奉待庚申供養二世安樂所」「元禄六癸酉天二月廿一日」。台石
   正面に「右十五間行 之より左下村道」「天保三辰歳七月再建」
   塔身は元禄六年。台石は天保三年と別々だ。辻褄合わせをやったな。


■延命地蔵堂 ◇

 岩淵町22番20号、八雲神社の右隣の駐車場の入口右角にある。普段は扉が閉まってるが鍵は掛
かってない ので開いてお参りできる。
 


■岩淵八雲神社
 岩淵町22番21号にある。祭神は須佐之男尊。一段高く社殿のフロアがある。社殿と神楽殿が並
んで建つ。離れたところにちゃんとした区画を持って水神宮がある。この神社には社務所はないよう
だ。自治会事務所になっていて誰もいない。赤羽八幡の管理なのだろう。
 ここの氏子は胡瓜を食べなかったという。それは須佐之男が戦いの中、胡瓜の蔓に足を取られて倒
れ、目を突いたとか、胡瓜畑に隠れていて実を食べようとして折ったところ果肉の模様が気に入って
これを紋にしたためともいう。今もこの伝承を守って胡瓜を食べない家があるらしい。正月に餅を食
べない部落とか、伝承を背負うてあわび食べないとか、いろいろあるよ。迷信と嘲る勿れ、誰しも一
つや二つは持っている。区の説明板に、


   
八雲神社                           岩渕町22‐21
   八雲神社は、岩槻街道の東裏、荒川堤防の南側近くに鎮座します。この神社は、江戸時代
   に徳川将軍が日光東照宮に参詣する際に利用した日光御成道の第一の宿場として栄えた岩
   淵宿の鎮守社でした。祭神には須佐之男尊が祀られています。創建年代は不詳ですが、江
   戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」には、

      牛頭天王社、宿ノ鎮守トス、正光寺持

   とあり、これが「テンノウサマ」として親しまれていたことがわかります。また神仏分離
   以前には正光寺が別当寺でした。明治6年7月に村社に定められ、それ以来、赤羽八幡神
   社の兼務社となっています。境内には、本殿、幣殿・拝殿、神楽殿、末社水神社が配置さ
   れています。水神社は舟運業者の信仰を集めた神社です。祠の右側には「寛政十二庚申正
   月吉日」の年紀が刻まれています。また、勝海舟が荒川で足止めされたときに書いたとさ
   れる大幟旗も所蔵します。現在、本殿は、末社水神社の祭礼と、おもに隔年ごとの六月第
   1土曜・日曜に行われています。このとき、氏子たちによって神輿が巡幸されます。参道
   の端に「岩淵町、町名存続之碑」があります。
   昭和37年5月に「住居表示に関する法律」が交付されると、北区も住居表示の変更を進
   めました。由緒ある岩淵町の名を守るため、岩淵町1丁目の住民は町名存続運動を展開し
   ました。この石碑は、そのときの記憶を未来へと刻むものです。
   平成19年10月                         北区教育委員会


 とある。

 
神楽殿
 拝殿左にある。

 
水神社
 境内の北端にあるが、川の方に向いている。北側の手入口は閉じられているので、八雲神社の正面
から回り込まないと参拝できない。嘗ては荒川大橋際にあったが、河川改修のため境内に移された。

 
境内社
 白山・大六天・御嶽・稲荷・市杵島の5社。

 町名存続之碑 
 社殿の段の前にある。昭和37年公布の「住居表示に関する法律」は、その実施に当たり各地で問
題を起こし、結局法律は完全施行に至らぬまま頓挫、完全にお上げ状態で国は放置している。こんな、
権力にのみ都合のよい法律を鮴押ししようとするからこの様だ。東京では後100年たってもできっ
こない。権力はそっと逃げるぞ。権力の意向を受けた区は岩槻郷地区を軍国華やかなりし頃の赤羽一
色にせんものとして岩淵の名前を消そうと試みた。歴史的にも岩淵が古く、岩淵の方が栄えていた。
赤羽の名は単なる土壌の種類に過ぎない。岩淵町民に片田舎の赤羽の後塵を拝するを良しとしない気
概が復古した。赤羽の風下に立つのは許されないことだ。「岩淵町町名存続期成同盟」が結成され、
区や区議会に正論を展開、昭和46年区議会は区の愚を認めて岩淵町の存続を議決した。碑は翌年に
建てられた。碑文の碑が潅木の枝の下にあって読みづらいよ。

   岩淵町
   
町名存續之碑

   碑文
   昭和37年、住居表示に関する法律が制定されて以来、全国的に由緒ある町が次々に姿を
   消していく中で、我が岩淵町は歴史と伝統を尊重する為、極めて民主的な方法で、町民挙っ
   ての町名存続運動が8年の長きに亘って続けられ、遂にその真意が当局を動かし、昭和4
   6年9月の区議会で、名実共に岩淵町の名が存続することになった。
   さて岩淵の歴史は古く、遠く古代社会より交通の要地として発達し、室町時代に宿駅制度
   が整備され、岩淵宿と呼ばれるようになった。
   然しなんといっても岩淵が宿場町として発達したのは江戸時代であり、日光街道の脇街道
   つまり岩槻街道が出来てからのことである。特に将軍が日光往来にこの街道を利用したの
   で、別名を御成街道と呼ばれた頃である。
   然し明治になり鉄道が発達するにつれ岩淵宿も衰退の道を歩むようになっていった。
   だが地方行政が発達してゆく中で、岩淵本宿として近隣町村の中心的存在となっていった。
   こうした時の流れの中で、明治、大正と二回に亘り、岩淵を赤羽にしようとする行政機関
   の動きがあったが、。その都度我が先輩は岩淵の名を守り抜いてきた。
   このようなことを考えるとき、心ある人は今回の町名存続運動がどのようなものであった
   か、ということを理解していたゞけると思い、町民の皆さんのご協力をいたゞき、この記
   念碑を建立することにした。
   昭和47年5月                      岩淵町々名存続期成同盟

 きゅうり伝説
 古来より、岩淵では、胡瓜を食べない風習があり、現在でもそれを守っている人が多数いる。その
理由は以下の2点とされている。
 
1.須佐之男尊の伝説と社紋
 当社の御祭神である須佐之男尊が、胡瓜畑で難を逃れたため、御祭神をお守りした胡瓜を食べない
という説。また当社の御本社である京の祇園社(八坂神社)の神紋「五つ木瓜」が、胡瓜の切り口に
似ているから、恐れ多くて食べないという説。
 京都の祇園祭と博多の祇園山笠の祭りの期間中に胡瓜を食べないのも、神紋が胡瓜の断面に似てい
るからといわれている。
 
2.河童伝説
 ある日村人が川辺を歩いていると、お腹を透かし倒れている河童に出会い、自分の僅かな貯えの中
から、河童の大好物の胡瓜を差し与えた。
 河童はそれを食べて元気になると、主人である白蛇(龍)にこの出来事を話し、ここ岩淵には水害
を与えないようにお願いした。それ以来、岩淵には大きな水害がなくなった。村人は河童に感謝し、
河童の大好物の胡瓜を食べないようになったという説。
 日本には、「河童とは日本の自然が生んだ精霊である」という思想があり、河童=水神と見なす地
方もある。また、水神祭では河童にお供えするため胡瓜を川に流す風習があったり、胡瓜の初物は必
ず水神社にお供えするところもある。
 当社でも6月第1土曜日の水神社例祭には胡瓜がお供えする。
 なお、胡瓜の巻物をかっぱ巻きと呼ぶのも、胡瓜がが河童の大好物だからだ。

 蘇民将来の伝説
 昔、須佐之男尊(牛頭天王)が老人の姿をしてお忍びで旅をされた時、とある村人宅に一夜の宿を
求めた。併し神の姿ではないので、裕福な兄の巨丹将来は断った。貧しい弟の蘇民将来の方は気が優
しいので精一杯のもてなしをした。そこで須佐之男尊は正体を明かし「この村に死の病が流行っても
お前の一族だけは助ける」といったという。その後、死の病が流行った時、巨丹一族は病で死に絶え
たが、蘇民一族は助かった。但し巨丹の妻は蘇民の娘だったため、蘇民が事前に「茅の輪」を腰につ
けさせたので、ただ一人助かった。「茅の輪」が「大祓い」神事に厄除として用いられるようになっ
たのはこのためだ。
 また、「蘇民将来子孫之門」「蘇民将来子孫也」のお札も厄除札となっている。

 
勝海舟の大幟・大幟修復記念碑 ✔
 この神社の蔵には、勝海舟自筆の大幟旗が保管されている。これは明治になった頃、勝海舟が時々
軍艦の大砲の製造のことで川口に寄った折、荒川の氾濫により宿場である岩淵本宿に泊まって大変世
話になった礼に書いたといわれている。境内にその修復記念碑がある。
 


■荒川岩淵関緑地
 岩淵町23番45号にある区立公園。


23区唯一の造り酒屋 小山酒造
「丸真正宗」
 岩淵町26番9号にある小山酒造は、明治11年創業以来変わらぬ場所で、現在では23区でたっ
た一つの酒蔵として酒造りを続けている。秩父山系の浦和水脈からの良質な伏流水を地下130mか
ら汲み上げた仕込み水と、厳選された酒造好適米を使用して造られた酒は、柔らかなのどごし、すっき
りとした味わいを提供する。丸ごと本物の酒造りを信念に命名された「丸眞正宗」は、その精神をそ
のまま届けられるよう、心を込めて醸し出された酒をゆっくり味わってやんない。 えっ! 酒屋に行
きゃぁあんじゃねえか。社長が軍国主義者なのか、未だにスローガンは「愛酒報國」だ。工場を建て直
したが、昔のデザインのほうが酒屋らしく味わいがあった。昭和も遠くなりつつある。
 
酒の神様を祀ってあり、日中なら申し込めば参拝できるよ。 


■岩槻街道岩淵宿問屋場跡 ◇
 岩淵町26番9号小山酒店の直ぐ北にある石碑。かつて荒川を挟んで岩淵宿と川口宿があった。岩
淵宿は岩槻道の最初の宿場。日本橋から三里八町、宿の長さは四町二十一間、道幅四間とある。旅篭
屋は若松屋、大黒屋が有名で、本陣は小田切氏が代々勤めた。川口と合い宿として月の前半後半で宿
場の役目を交代した。実際には殆どが日光街道の千住宿を利用したのであまり活気はなかった。
 しかし宿場の機能とは旅人に宿を提供するばかりではない。むしろ江戸内外の物資の運輸や郵便通
信などの問屋場業務のほうが政治的社会的には重要で、多くは本陣が直轄して運営されていた。こと
に岩淵は街道交通に加えて荒川の上流下流の水運もあったのでその意味では物資が集積する賑わいの
ある町だった。

   
史蹟 岩槻街道岩淵宿問屋場阯之碑 


■岩淵かっぱ広場
 岩淵町28番11号にある区立公園。


■十王寺閻魔堂 廃堂 → 赤羽浄苑
 岩淵町28番16号にある閻魔堂のある墓地。十王寺は浄土宗の寺で正光寺の境外仏堂。諸記録が
失われていて由緒は不明。門前に「閻魔堂」と彫られた自然石が建っており、近郊の閻魔詣での人々
が参詣していた。墓地にはかなり古そうな墓石が並んでいるが、取り立てて紹介するものはない。
 と、ほったらかしにていたら、閻魔堂はなくなり、墓地も整然と整理され分譲墓地に変っていた。
坊主丸儲け、いよいよ十王寺も金勘定に走ったか?
 


弘誓山梅王寺
 岩淵町30番11号にある浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来像、かつては梅翁庵と号していた。正光
寺中興の小田切将監の墓所であり、「岩淵町郷土誌」には正光寺末となっている。毎年新荒川大橋下
で盛大な川施餓鬼(燈篭流し)を行っているそうだ。本堂の裏側に広く墓地が広がっている。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   中興の開基、小田切将監が墓所の庵なり。梅翁は則将監か号なりと云。弥陀を安す。

 とある。
 


岩淵大観音 天王山淵富院正光寺
 岩淵町32番11号にある浄土宗の寺。北本通りから参道が続く。山門(西門)は立派、境内も広
大だが、明治時代に銅鏡を集めて鋳直したという露出の観音像が黒光りで鎮座しているだけで、本堂
がない。昭和53年にホームレスが住み着いて火事を起こし、江戸期の建築物を焼失してしまった。
それで焼跡を整理した時、本堂の地下が信濃善光寺のお戒壇巡りのような構造になっていたことや、
江戸期の文書などが発見され、禍(わざわい)転じて福となった。岩淵で最も古い寺で、昔、荒川辺
に西光寺という寺院があり、延慶二年(1309)歿といわれる石渡民部少輔保親の開基とされてい
た。了誉上人が中興したが、のち衰廃していたのを慶長七年(1603)現在地に移建し、それに当
たった小田切将監重好の法号によって正光寺と改めたという。往時、縁日の植木市は大変な賑わいを
見せたそうだ。復興はあるのか? 本堂跡は駐車場になっている。区の道路が境内を貫くという計画
があるらしい。寺宝の聖観音菩薩像は行基の作と伝え、頼朝子育観音とも世継観音とも称する。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   正光寺 浄土宗芝増上寺末、天王山淵富院と号す。本尊弥陀長二尺五寸許 春日の作と云。
   相伝ふ、宿内荒川辺に往昔西光寺と号せし寺あり、開基は宿民仁右衛門の先祖石渡民部少
   輔保親と云、延慶二年四月朔日卒し、西光院祐誉道春と追号す、開山は記主禅師良忠、中
   興は了誉上人なりしか、後に衰廃したるを真誉龍湛と云僧、名主嘉右衛門の祖小田切将監
   重好といへるものと同意して、慶長七年今の地へ移し建立して正光寺と改号す。正光は則
   重好の法謚なり。寛永元年十一月十八日死す、龍湛は元和三年十月十五日化す。墓所に記
   主了誉龍湛の碑石、並ひ建、又昔は岩淵山と称せし由、是は西光寺といひし時の山号なる
   へし。西光寺蹟は明和五年九月伊那備前守検地して年貢地となし当寺の持とす。堂内に行
   基作の正観音を置、頼朝子育観音とも世継観音とも称す、由来詳かならず。
   稲荷社、天神社


 とある。

 
●本堂が建立されたよ
 平成23年に金剛組(日本最古の宮大工集団)によって建立された。1階部分は鉄骨造りの客殿、
その上が木造作りの本堂になるす。本堂にはエレベータで上がれるようになっており、車椅子の人で
も問題ない。本堂内部は石畳になっており、靴を脱がなくてもお参りができるようになっている。
 この建立を機に境内全体が整備され、山門前も小庭園が造成されたし、兎に角整理整頓された。

 
岩淵大観音
 山門の正面、本堂右手前にある。昔から岩淵は荒川の水害に悩まされてきた。明治3年、時の住職
はなんとか岩淵の人々を水害から守られるようにとの願いを込め、銅や浄財を募り3丈3尺(約11
m)の正観音を建立した。以来、岩淵大観音は地域の人々を静かに見守り続けている。

 
水子地蔵尊
 参道左方向、水屋の前にある。やんごとなき事情によって、この世の光を見ることのなかった小さ
な命の供養。水子の供養を通じて、後に生まれて来るであろう命の、無事の成長を願うと共に、地蔵
菩薩が水子と共に私達のことを見守ってくれることを祈念する。女の悩みは深い、男には到底理解で
きない女の業がある。だから女には優しくせえよ。

 
観音堂
 参道左手にある。源頼朝の守本尊である世継観音を祀っている。春日の作とも伝えられるこの像は
大変美しい容姿をしており、地域の人たちの信仰を集めている。周りには十二支の本地垂迹にあたる
諸尊像が8体お祀りされている。

 庚申塔・句碑
 庫裏の前に三角形の石碑があり、「庚申塔」と横書きした下に、

   月雪の奥ある花乃木曽路か南
         嘉永三庚戌春
         さくら庵加湧居士 敬白
 の句がある。庫裏横には十二支堂もある。

 
石橋十二ヶ所供養塔

 門前右にある。文政10年(1827)江戸は富沢町(中央区)の大塚善兵衛が建てた。これは石
神井川根村用水(稲付川)の末端の用水に12ヶ所の石橋を架けた時の記念だとか。


岩淵不動 薬王山瑠璃光院大満寺
 
 岩淵町35番7号にある真言宗智山派の寺。本尊は行基作の岩淵薬師如来。開山開基は不明だ。山
門は何故か閉ってるから脇から入る。左手は墓地。正面は岩淵不動堂、その左に本堂、本堂の右も墓
地。豊島88ヶ所巡りの第37番目。毎月8日が縁日。毎年2月3日午後4時頃から節分豆まき大会
があり80人程度の参加者があるとか。入口前の約70cmばかりの幸福地蔵は新しい。境内に庚申
堂、天神宮、三界満霊塔がある。「新編武蔵風土記稿」に、

   大満寺
   新義真言宗赤羽根村宝幢院門徒、薬王山瑠璃光院と号す。本尊大日。
   薬師堂、薬師は行基の作。


 とある。袋村の安養寺を併合したものと思われる。安養寺は同書に、

   安養寺
   新義真言宗赤羽根村宝幢院門徒、西岸山と云。不動を本尊とす。
   薬師堂、薬師は行基の作。


 とある。


 ●
幸福地蔵

 手に草鞋(わらじ)を持っている、一切の衆生を救わんがためにそれぞれの願い事、祈りが届くよ
うに、ワラジを履いて、常に私たちの傍に来て手を差し伸べたいという願いを持っているからだそう
だ。

 東久邇通禧の歌碑
 本堂前にある。これは先代住職の永信が親交の篤かった佐佐木信綱を師として「岩淵会」という歌
の会を結成し、歌会を催していたことによる。信綱が、明治29年に創刊した歌集「いささ川」の初
期のものや、岩淵会の歌稿や会員の短冊・色紙なども保存されている。
 この歌稿の中に永信が当時の風景を詠んだものがある。

   わが庵は蓮田続きの千町田
(ちまちだ)に 飛鳥の山も築庭(つきにわ)とみる

 これに信綱が朱を入れ、築庭を築山に訂正し、「実景よろし」と評を書いている。赤羽から飛鳥山
が見えた当時の風景が偲ばれる。

 弘法大師巡錫像 ◇
 境内にある雲水姿の立像。

 
岩淵天神
 境内にある小祠。
 


■脱法ハーブ吸引運転者衝突事故

 岩淵町36番先北本通りの赤羽交差点で起きた交通事故。平成26年7月5日午後11時50分頃
乗用車が突然急発進して川口方面への右折待ちをしていたタクシーとバイクに次々と衝突し、そのま
ま交差点を突っ切り、環八通りの反対車線を逆走、200m先のガードレールにぶつかってやっと止
まった。加害者と被害者3人が軽い怪我をした。これが日中なら大惨事となるところだった。
 事故を起こした男は北野良行(38歳)、運転中に脱法ハーブを吸引、意識朦朧となって事故を起
こした。北野の運転していた車の中から脱法ハーブが入っていたと思われる袋と吸引器具が見つかっ
た。北野は正常な運転ができなかい状態にあったとして過失運転障害の容疑で逮捕され、その後、危
険運転致傷に切り替えられた。池袋の事故以後、新宿区、文京区と脱法ハーブ吸引者の交通事故が連
続して起きている。なんとかならぬものかネ。
 


■仙甚橋親柱

 岩淵町38番1号シティタワー赤羽ステーションコートの東北角、遊歩道端にある。ここにあった
ものかどうか不明。昭和22年の航空写真には用水らしきものは写っていない。正光寺の門前に、石
神井川根村用水(稲付川)の末端の用水に12ヶ所の石橋を架けた時の記念だという「石橋十二ヶ所
供養塔」がある。これか?
 


■庚申堂 ✔

 岩淵町38番にある青面金剛庚申塔。未確認。


■岩淵の渡船場跡

 岩淵町41番先。この辺りに、例幣使街道(岩槻街道)の岩淵宿から入間川(新河岸川)を渡り、
川口宿に向かうための渡船場があった。江戸時代、ここは川口宿の飛地であったことから「川口の渡
し」とも呼ばれていた。渡船場は、奥州との交流上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府
を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれる。ま
た室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されたという。
 江戸時代、ここを通る道は、日光御成道と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備され
た。渡船場も将軍用と一般用に別れており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架け
られた。船橋は長さ65間(約117m)、幅3間(約5.4m)。
 一般の渡船場は、人用の船と馬用の船一艘ずつ用意されていた。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔
日で勤めてきたが、大名の通行などの際、近隣村で現在北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬
村の3ヶ村も勤めることになっていた。また対岸の河原にある善光寺が、名所として参詣者で賑わう
ようになり、開帳中は船橋が架けられたほどだった。
渡船場は、明治以降も利用され、同38年3月からは常設の船橋が架けられた。しかし交通量が増大
するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和3年9月、少し下流に新荒川大橋が開通すると、そ
の役割を終え、船橋は撤去された(平成7年3月 東京都北区教育委員会)。江戸名所図会に、

   川口の渡し(往古は、こかはぐちといへり)。
   『義経記』に、九郎御曹子(源義経)奥州より鎌倉に至りたまふといへる条下に、「室の
   八島をよそに見て、武蔵国足立郡こかはぐちに着きたまふ。御曹子の御勢八十五騎にぞな
   りにける。板橋にはせ附きて、『兵衛佐殿(源頼朝)は』と問ひたまへば、『おととひ、
   ここを立たせたまひて候』と申す。武蔵の国府の六所町につきて、『佐殿は』と仰せけれ
   ば、『おととひ通らせたまひて候。相模の平塚に』とこそ申しける」と云々。按ずるに、
   渡し場より壱丁ほど南の方の左に府中道と記せる石標あり。これ往古の奥州街道なり。こ
   れより板橋にかかり、府中の六所町より玉川を渡りて、相模の平塚へは出でしなり。


 とある。

 安藤広重「江戸百景めぐり・川口のわたし善光寺」
 「江戸百景めぐり」には北区では王子近辺が5枚書かれており、以北となると唯一左の絵の「川口
のわたし善光寺」の1枚だけだ。広重の絵には筏が描かれているが、昭和20年代でも見られた光景
で、荒川の水運を利用して秩父の材木が千住の材木問屋まで運ばれた。江戸市民は江戸近郊で手軽に
善光寺参りができるとあって、挙って参詣し、特に本尊の顔が拝める「御開帳」の日は参詣客が大勢
押し掛けて大層賑わったという。
 絵では、善光寺は上部黄色の四角の左にある、右下の「渡し船」1艘の他はすべて「筏」だ。入間
川(新河岸川)の渡船場は新荒川大橋のすぐ上流にあった。今は案内板が立っている。現在の荒川は
荒川放水路で、明治末から大正初めに開鑿した新川だ。しかも本来の荒川は、埼玉県中部を東流して
いたが、暴れ川であるため、川越で入間川(新河岸川)に瀬替えしたもので、旧荒川は小河川となり
「元荒川」と呼ばれている。
 


■荒川赤羽桜堤緑地
 岩淵町41番~赤羽3丁目29番に続く新河岸川左岸土手にある区立公園。


■新河岸川緑地
 岩淵町41番~赤羽3丁目29番に続く新河岸川右岸土手にある区立公園。

 



【浮間】(うきま)1~5丁目                   昭和41年10月1日
 足立郡浮間村。明治5年埼玉県所属、同11年「郡区町村編制法」により北足立郡編入、同22
年「市制町村制」により横曾根村大字浮間、同45年からの荒川の流路改修で本村から切り離され
て中島状態となったので、大正15年10月1日東京府北豊島郡に編入して岩淵町大字浮間、昭和7
年王子区浮間町。同22年北区浮間町。同35年浮間1~5丁目、同41年町域そのまま新住居表
示を実施して現行の「浮間」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」のほか『北区史』など。

 浮間の由来
 荒川に突き出した半島状態の様が浮島のように見えたので起きた地名。かつては「浮間ヶ原」と
呼ばれ桜草の名所だった。現在荒川・隅田川で桜草の自生地はない。明治以後の日本人は金儲けの
ために、豊かになる只それだけのためにために、大自然の心を捨てた。
 


■浮間橋の碑

 浮間1丁目1番、浮間橋の北の橋詰に大小2基ある。昭和3年に旧橋を架橋した際に建てられた。
旧は新幹線高架下の辺りにあったが、新幹線敷設のために昭和60年現在地に移設した。碑文に、

   浮間橋
   郊外浮間里有名櫻草鮮 北方隔水路對横曾根邊
   西南挟清流望志村翠煙 曩離北足立新併合岩淵
   此地如孤島交通常乗船 憂慮萬一事頻希架橋便
   里民咸應分醵出金六干 本町請軍衙以實情開陳
   近衛工兵来施工盡力研 今日橋梁成如長蛇横川
   昭和三年四月二十六日

                
建於岩淵町大字浮間
                
小柳通義撰文併書


   
(読み下し文)
   郊外の浮間の里は櫻草の鮮かさにて有名なり 北方は水路を隔てて横曾根邊りに對し
   西南は清流を挟みて志村の翠煙を望む 曩に北足立を離れ新たに岩淵を併合せり
   此の地は孤島の如く交通は常に船に乗る 萬一の事を憂慮して頻に架橋の便を希う
   里民咸
(みな)分に應じて金六干(円)を醵出し 本町軍衙(ぐんが)請うに實情を以て開陳す
   近衛の工兵来りて施工に盡力すること研なり 今日橋梁成りて長蛇の如く川に横たえり


 とあり、区の説明板に、

   ※旧説明文
   浮間橋の碑                       北区浮間1-1(左岸)
   ここに、浮間橋の架橋に至る由来を示す大小二つの碑が建っています。どちらも由来を後
   世に伝えようとしてたてられました。
   荒川は江戸時代より洪水が多い、荒れ狂う川として知られており、明治43年8月、関東
   平野全域と東京の下町をほとんど水浸しとする大洪水が起こりました。翌年、明治政府は
   洪水時の4分の3の水量を流すことができる新川を作ることを決定し、荒川放水路が設置
   されることになりました。しかし、この河川改修の結果、浮間は荒川と新河岸川の間に挟
   まれることになり、交通手段を渡船に頼らざるを得なったのです。そこで浮間の農家約6
   0軒が橋の建設を要望し、合計6千円を醵金(きょきん)して、赤羽台4丁目に国立王子
   病院跡に駐屯していた近衛師団の工兵隊に架橋を依頼しました。そして昭和の3年5月、
   幅2間、長さ65間半の木橋が架けられたと大きな碑には刻まれています。その後、浮間
   橋は昭和9年秋鋼板鋼桁製の橋に、昭和15年3月鉄製の橋へと架け替えられたのですが
   JR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替えられることになりまし
   た。そこで大きな碑は、最初の木製の橋を建設した人々の子孫が浮間橋記念碑保存会を設
   立して話し合った結果、昭和60年9月浮間橋脇に移設されたのです。小さな碑はこの移
   転の経緯を残すためにたてられました。
   平成8年3月                        東京北区教育委員会


   ※新説明文
   浮間橋の碑                       北区浮間1-1(左岸)
   荒川は江戸時代より洪水が多く、「荒れ狂う」川として知られていました。明治43年8
   月の大洪水をきっかけに大規模な河川改修事業に着手します。改修では、洪水時の4分の
   3の水量を流すことができる新しい川(荒川放水路)を開削する方式がとられ、元の荒川
   の流水量を調節するために岩淵水門が建設されました。しかしその結果、浮間は荒川と新
   河岸川の間に挟まれ、交通手段を渡船に頼らざるを得なくなりました。そこで浮間地域の
   人々が、現在の赤羽台4丁目にある東京北社会保険病院付近に駐屯していた近衛師団工兵
   隊へ計6千円を拠金して架橋を依頼し、昭和3年5月に幅2間、長さ65間半の木造の橋
   が完成しました。その記念に建てられたのが大きな碑(旧浮間橋建設記念碑)です。
    橋は昭和9年に幅8メートルの鋼板鋼桁橋になり、昭和15年には鉄橋に架け替えられ
   ました。しかしその橋もJR(旧国鉄)の東北・上越新幹線の建設計画に伴い再び架け替
   えられることになったため、旧浮間橋建設記念碑建立に関与した人々の子孫を中心に、記
   念碑の移設及び顕彰保存を目的とした浮間橋記念碑保存会が設立されました。碑は昭和6
   0年9月に現在の浮間橋脇に移設され、記念に小さな碑が建てられました。
   地元の人達によって建てられた大小二つの碑は、地域と浮間橋の関わりを永く後世に伝え
   ています。
   平成8年3月(平成17年一部改訂)              東京北区教育委員会


 とある。また小さな石碑は、荒川方水路(荒川)の開鑿により島状になった浮間地区が東京府北豊
島郡岩淵町に編入されたことを記念したものだ。

   大正十五年十月一日
   
浮間岩淵合併紀念
    建石者 立石弥平次
        伊藤 百蔵
 


■水塚

 「みづか、みつか、みずつか」とは洪水の際に避難する水防施設のことだ。母屋よりも数十cm乃
至2mほど高く盛土を施した上に設けられた倉などの建物、或いはその盛土をいう。洪水時にその建
物に避難し、少くの間生活が出来るようになっている このような構造物のうち、主に荒川流域、利
根川流域のものがこの名称で呼ばれる。全国的にあり水屋、段倉、水倉などの名がある。
 浮間の古い時代からの住民は、水害の恐ろしさを何度も体験し、秩父の山に雨が降りかかると一昼
夜で流れ下ってくる大水を恐れるという。川の堤を目安にして八合水とか六合水とか呼んだ。この辺り
の旧家は敷地に盛り土して上物を建てるのを常識としていた。特に一段と高くした上に建てられた非
常用の建物を「水屋」と呼ぶ。深い軒先に避難用の舟が吊してあった。4丁目13番の清水家や3丁
目5番の伊藤家などに今も見られる。水塚は神谷や堀船でも見られたし、現在荒川区の汐入地区(南
千住8丁目)の再開発では土地を嵩上げして高層住宅を建てている。栗橋の堤防が切れれば隅田川沿
岸の区は総て床上浸水する危険は現在もある。最近大水がないのでぼやーっとした住民が多いが、関
東地方を襲ったキャサリン台風は昭和22年のことで、東東京は沈没した。近年目黒川も多摩川も甚
大な被害を戦後にもたらしたし、杉並・中野の床上浸水は年中行事だ。お前さんとこは大丈夫かい?
 


温泉掘削現場ガス火災事故
 平成17年2月10日(木)16時55分ごろ、浮間1丁目1番7号の温泉掘削現場で、地中の天
然ガスが噴出し、石油ヒーターの火が引火して火災が発生。怪我人はなかったが、火災により掘削用
鉄塔が倒壊する恐れが出たため、近所の住民40人ばかりが近くの集会所などに避難した。火災はガ
スの噴出量が予想以上に多く、消火に手間取り、鎮火したのは、略丸一日後の翌11日(金)14時
35分だった。発注者:台東区北上野2丁目13番8号 三ツ矢林業株式会社、掘削業者:千代田区
神田司町2丁目14番 株式会社明間ボーリング東京支店が処罰されたのはいうまでもない。
 この2年後、渋谷区松濤1丁目の温泉「シエスパ」で爆裂事故が起こった。
 


浮間一丁目児童遊園
 浮間1丁目7番13号にある区立公園。


浮間一丁目緑地
 浮間1丁目8番1号にある区立公園。


浮間図書館
 浮間1丁目8番2号にある。
 


浮間北公園
 浮間1丁目11番11号にある区立公園。

 
「人と緑と太陽の道」
 園内にあるモニュメント。


浮間二丁目東児童遊園
 浮間2丁目2番5号にある区立公園。


北向地蔵堂 ◇
 浮間2丁目4番の立石駐車場の北の隅にある。堂内にある4基の石造物の内、中央の地蔵菩薩立像
は、享保六年(1721)正月吉日に造立されたもので、疣取地蔵(いぼとりじぞう)・身代わり地
蔵とも呼ばれている。当初は現在地よりも100mほど北、現在は荒川河川敷になってしまった位置
あったが、大正11年河川改修のため現在地から40mほど南の場所に移設し、昭和30年土地区画
整理事業の際に現在地に移転した。この像はかって浮間村の北の入口に外へ向けて建てられていたの
で、北向地蔵と呼ばれた。六道輪廻に苦しむ衆生を救済する地蔵菩薩は、道祖神と習合し疫病・悪霊
などが村内に入ってこないように村境に建てられた。
 向かって右の庚申供養塔は宝永ニ年(1705)に結衆21人が、また左の庚申待供養塔は、安永
六年(1777)に浮間村講中が、干支の庚申の日に徹夜して健康長寿を願う信仰にかかわって造立
したもので、ともに駒型で、正面には庚申信仰を象徴する1面六臂の青面金剛立像が浮き彫りにされ
ている。踏まれている邪鬼の頭は左側に位置するのが一般的だが、右の庚申塔の頭は右側にある。珍
しい。また地蔵菩薩立像と左の庚申待供養塔の奥に阿弥陀三尊種子の月待供養板碑がある。これは文
明十六年(1484)二十三夜講の結衆12人が、月の出を待って祀る月待ちの行事を記念して造立
した。この板碑は、大正11年河川改修工事の際に氷川神社付近で発見され、現在地に移された。狭
い敷地で「地蔵由来」の碑が石仏の後ろに閉じ込められてるので読み辛いこと夥しい。向かいの立石
家は旧家なのだろう。
 
宝永二年の庚申供養塔
 舟形光背型、日月・青面金剛(合掌六臂)・邪鬼・三猿。「奉供養庚申待講中 爲二十一人二世安
 穏也」「寳永貳 乙酉稔十月吉日 結衆講中」「武刕下足立郡平柳之内浮間村願主 西念」。
 安永六年の庚申供養塔
 駒型。日月・青面金剛(合掌六臂)・邪鬼・三猿。右面に「安永六丁酉二月吉日」。左面に「浮間村
 講中」

   北向地蔵堂                         北区2丁目4番先
   この堂内にある4基の石造物のうち、中央の地蔵菩薩立像は、享保六年(1721)に造
   立されたもので、疣取地蔵、身代り地蔵とも呼ばれています・当初は現在地より100m
   ほど北、現在の荒川の河川敷にありましたが、大正11年河川改修工事にともなって、現
   在地から40mほど南の場所に位置し、昭和30年2月土地区画整理事業の際に現在地に
   移転しました。この像はかつて浮間村の北の入口に外へ向けて建てられていたので、北向
   地蔵と呼ばれました。六道輪廻に苦しむ衆生を救済する地蔵菩薩は、道祖神と習合し、疫
   病・悪霊などが村内に入ってこないように村境に建てられました。
   その向かって右の庚申供養塔は、宝永二年(1705)十月に結衆二十一人が、また、左
   の庚申供養塔は安永六年(1777)二月に浮間村講中が、干支の庚申の日に徹夜して健
   康長寿を願う信仰にかかわって造立したもので、ともに、正面には庚申信仰を象徴する青
   面金剛立像が浮き彫りされています。また、地蔵菩薩立像と左の庚申供養塔の奥に阿弥陀
   三尊種子の月待供養板碑があります。これは文明十六年(1484)八月二十三日に、二
   十三講の結衆十二人が、月の出を待ってこれを祀る月待をの行事を記念して造立しました。
   この板碑は、大正11年の河川改修工事の時に氷川神社付近で発見され、その後、ここに
   移されました。
   平成6年3月                        東京都北区教育委員会


■浮間氷川神社

 浮間2丁目19番6号にある中社。創建年代は不詳だ、「新編武蔵風土記稿」に「浮間村の鎮守」
と記載されている。明治40年村内にあった第六天社・御嶽社・稲荷社・八王子社・猿田彦社を合祀
した。高い盛土(水塚)の上に社殿がある。社殿のはめ板には沢山の節穴があり、そこに笹を差し入
れ三回拳で叩き願望すると望みがかなえられるといわれていた。残念だがこれは社殿がコンクリート
製に建て替えられる前の話で今は穴がないよ。「万垢離(まんごり)」の祈祷神事は、毎年7月の『海
の日』だぞー! 枝垂れ梅と桜が名物。「北区神社めぐり」の浮間村の項に、

   氷川社 村の鎮守なり。神職尾熊式部。吉田家の配下なり。飯塚村に住す。
   御嶽社 天和三年九月の勧請なり。
   八王子社 稲荷社 何れも観音寺持。
   第六天社 大教院持


 境内に古荘幹郎陸軍大将の書になる「皇紀二千六百年国威発揚」の碑、「當所氏子中」「浮間由来」
碑、「敷石記念碑」「桜草保存の碑」「桜草一般開放30周年記念碑」、巨大なのは「整地碑」と大
正十年銘のある「承盛徳・神明照心魂」、「社殿建設記念の碑」は平成8年で最も新しい。

 ●浮間不動尊
 氷川神社の隣っちゅうか、右隅にある。神社と仏閣が同じ敷地内にあるのも珍しかろう。「新編武
蔵風土記稿」によれば、当時浮間に大教院という寺があり、「本山修験派なり、中尾玉林院配下なり、
不動を本尊とす」とある。そして氷川神社が合祀した第六天社を所有していた。その流れを汲む施設
だろう。大山の阿夫利神社に元文五年(1740)頃参拝した縁で万垢離の祭が始まったことにも繋
がっているかも知れない。像高は15cmばかり。元は4丁目11番(12番とも)にあったが、平
成3年に移した。
 


■屋敷稲荷 ◇

 浮間2丁目19番17号民家の敷地にある小祠。古い地図では農村であり、近い地図でも駐車場の
奥にポツンとある。取り残されたのかもね。


■傘屋庚申堂 ◇

 浮間2丁目24番28号の東南の立石家の角地にある。傘屋とは立石家の屋号だ。延享の頃(17
44~1747)に造立された庚申塔。陽刻は青面金剛、右手に剣を持ち、左手にショケラを提げて
いる。台座には3猿が刻まれているぞ。駒型。
日月・青面金剛(剣人六臂)・邪鬼・三猿。右面「青
面金剛 武刕浮間邑講中七人」左面「延享三丙寅十二月吉日」「地主川屋」。
 


浮間二丁目西児童遊園
 浮間2丁目26番44号にある区立公園。


■浮間ヶ原桜圃場

 浮間2丁目30番、都立浮間公園の一部にある。昭和30年江戸時代から昭和初期にかけてよく知
られた浮間ヶ原の桜草を保存するために設けられた。終戦後、浮間地区の急激な都市化により桜草の
絶滅を憂えた当地の園芸組合員が、各々の庭先に植えてあった桜草を、後に都立浮間公園となる一角
(後の圃場)に持ちよる。同35年浮間公園事業決定。同36年区が浮間区民の桜草に対する熱意を
受け、桜草保存事業を開始。同37年地元有志による東京都北区桜草保存会結成。同39年圃場一般
公開。同40年「さくら草まつり」開催開始。同42年都立浮間公園開園。同52年テレビで大々的
に紹介される。同63年圃場整備。平成元年新しい「浮間ヶ原桜草圃場」公開。
 栽培に努力している地元有志による東京都北区桜草保存会が、都の支援で運営している。失われた
自然条件回復まで人手で行おうと、根を土で覆い、葦簾(よしず)で日陰を作り、秋以後は覆いで暖
め、その絶滅を避け、毎年四月ごろに公開する。付近には桜草を中心にした植木市も開かれている。
我がアパートの下に毎年桜草が咲く。別に庭でも花壇でもないのだがびっしりと咲く。管理人が草む
しりのようにして毎年綺麗に刈り取るのだが毎年咲く。だから秋から冬にかけては土が剥き出しの状
態だ。地形的には台地の天辺で水場などない。誰かが植えつけて根が張っているのだろう。農業祭で
貰った芥子の種子を播いたら翌年花が咲き、管理人が刈り取ったが、翌年ところを変えて咲き、今で
はあっちこっちで咲いてる不思議。
 


■浮間公園
 浮間2丁目31・32番、板橋区舟渡2丁目1番にある都立公園。2区に跨るので都立となってい
る。旧荒川の流路を利用して池とし、魚や水鳥を放ち、周辺も整備されている。公園に恵まれない東
坂下や浮間辺りの家族連れが、荒川土手と共に訪れ賑わっている。公園の反対側は淡水魚場で釣堀も
ある。
 ゲートボール場、野球場、テニスコート、花畑、バードサンクチュアリー、水場、水性植物園、ケ
ヤキの森、つつじ山、八重桜、花壇、じゃぶじゃぶ池、ちびっこ広場、時計台、桜並木、ヒマラヤス
ギ、イチョウ、梅、水仙、辛夷(こぶし)、芝生広場、風車などがある。

 風車
 電気仕掛けで動く。風が吹くと逆に止めてしまう。風車の回りには花が咲いていて陶器の小人人形
などが置いてある。
 


北赤羽駅高架下児童遊園
 浮間3丁目1番51号にある区立公園。


「希望と緑の道」像 撤去
 浮間3丁目2番、高架下ライフ北赤羽店とセブンイレブンの間の歩道にある男の子と女の子が地球
ボールを掲げている銅像。浮間3丁32番29号の西の歩道上に移設した。
 


浮間小学校
 浮間3丁目4番27号にある区立校。昭和26年東京都北区立袋小学校の分校設置。6学級275
名。同28年4教室増築。「東京都北区立浮間小学校」として開校。同33年台風22号による床冠
水20cmのため臨時休校3日間・給食停止45日間。同33年分校設置。同34年分校を西浮間小
学校として分離。同35年校歌制定。

 校歌
「緑明るい」 作詞・牧房雄  作曲・八州秀章
  1.緑明るい朝空に
    希望と晴れる富士の山
    仰ぐ瞳も朗らかに
    笑顔 揃えて学び行く
    楽しい浮間小学校
  2.流れ豊かな荒川の
    堤を染める桜草
    心磨いて爽やかに
    共に仲良く励み行く
    嬉しい浮間小学校
  3.虹の七色 美しく
    都の北に立つところ
    強く正しく晴れやかに
    明日を目指して
    みんなの浮間小学校


 同36年プール(25×10m 6コース)完成。同38年創立10周年記念式典。同41年第1
期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎(普通3教室・理科室・家庭科室・音楽室他)落成。第2期鉄
筋コンクリート造り3階建て校舎(普通8教室・管理室5)落成。同44年第3期鉄筋コンクリート
造り3階建て校舎(普通8教室・玄関)落成。同45年第4期鉄筋コンクリート造り3階建校舎(普
通3教室)落成。同47年校庭舗装・花壇完成。同48年第5期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎
(普通8教室)落成。同49年第6期鉄筋コンクリート造り校舎(普通8教室・図工室・図書室)落
成。同50年創立20周年記念式典。同52年給食調理室改修。同54年校舎に校章取付。門に門標
取付。台風21号により倒木50本。同56年校庭ダスター舗装に切替。同58年創立30周年記念
式典。同60年郷土資料室開設。同62年体育館完成。同63年機械警備開始。さくら草庭園記念碑
除幕。
 平成元年校舎大規模改修。同5年創立40周年記念式典。同6年さくら草庭園完成。同7年算数T
T(Team Teaching 複数指導制)導入。同8年パソコンルーム開設。同10年さくら
草庭園記念碑建立10周年を祝う式典。同11年学校給食調理業務民間委託開始。同13年インター
ネット接続。同15年「うきうき池」造成。ソーラーシステム風力発電設備設置。校舎耐震化。創立
50周年記念式典。同16年校内LAN開始。同19年谷村教育基金によるさくら草庭園整備。余裕
教育プロジェクトによる新教育相談室。同20年パソコン機種変更。同21年「うきうき池」改修。
同22年竪穴式「うき住居」完成。北浮間駅高架下虹の広場壁画作成。全国ビオトープコンクール銀
賞受賞。特別支援学級4クラス開級。
 


浮間三丁目公園
 浮間3丁4番47号にある区立公園。


■浮間の渡し跡

 浮間3丁目6番17号にある。対岸の耕地に行き来するために、村が対岸(小豆沢4丁目26番と
27番の間の道付近)に船着場を設け往復した。渡船は一般の利用にも供され、渡船を維持すること
を条件に助郷が免除されていた。人用と馬用の2艘で、浮間村のみでが運営し、対岸の船着場も賃借
していた。上がり(運賃収入)は村の公共事業対策費に当てられた。乃ち神社の改修や道路の補修、
渡船場の維持などだ。桜草のシーズンには浮間橋近くに臨時の渡船が設けられもした。跡は護岸のコ
ンクリート壁の建設のため失われたが、近くの街角に水神・馬頭観音・庚申塔などが建っている。

   浮間の渡船場跡                    北区浮間3丁目6番地先
   ここにはかつて荒川の渡船場がありました。渡船場はこの説明板を川に向かってやや左手
   から対岸の板橋区小豆沢4丁目26番と27番の間を南北に通る道路へと結んでいました。
   明治44年から昭和5年にかけて行われた河川改修工事で荒川の流路が変更されたため、
   現在では渡船場のあった場所は新河岸川の流路となっています。
   江戸時代後期の状況を示す「新編武蔵風土記」には、浮間村の農民が、対岸にあった耕地
   との往来のために設けられたものでしたが、渡船場を維持するかわりに助郷を免除されて
   いたと記されています。明治初年の状況を示す「武蔵国郡村史」には、村道に属していて、
   村の南方、荒川の中程にあって、人専用1艘、馬専用1艘の計2艘が運航する民営の渡船
   であると紀されています。渡船場は浮間村が運営しており、小豆沢側の船着場も浮間村で
   借りていました。
   渡船場は、村社の修復・道の修繕・分教場の費用にあてられたといいます。村民は東京に
   行く時に利用しました。また浮間ば桜草の名所として知られていましたが、桜草の咲く頃
   には多くの人出がありましたので、現在の浮間橋寄りに臨時の渡船湯ができました。
   昭和3年5月下流に浮間橋が架設されると、渡船場は姿を消していきました。
   平成5年12月                       東京都北区教育委員会


 
石仏群
 右から、
 札所巡拝完遂供養塔
 百ヶ所の観音霊場、四国八十八ヶ所の霊場を巡拝した記念に孫が、文政元年(1818)の造立。
末裔が浮間に在住している。
 馬頭観音座像
 文化十年(1813)浮間村講中の35人が、往来する馬の安全を祈って造立したものだ。
 庚申塔
 笠付角柱 天保9年(1838)一面六臂で前の手は両手に女人の髪をぶら下げている。浮間の庚
申塔では一番手の込んだ彫りだ。
日月・青面金剛(剣人六臂)・二鶏・邪鬼・三猿。左面に「天保九
戊戌年六月吉日」。台石右面に「蓮沼村石工 小石川久左□」台石正面に「浮間村講中」銘と10人
の名前。台石左面に8人の名に続き「講元 松澤藤助」を刻む。
 水神宮

 いつ造立されたかは不明だが正面に水神宮と刻まれている。


   浮間渡船場跡の供養塔群               北区浮間3丁目6番地先
   4基の石造物は、向かって右から西国、秩父、坂東、四国八十八箇所供養塔、馬頭観音坐
   像供養塔、庚申待供養塔、水神宮の石祠です。この内水神宮の石祠を除く3基は、かって
   は現在地より100mほど北の浮間3‐7と浮間5‐3の境にあったといいます。
   札所についての供養塔は、浮間村の松澤伴右衛門という人物が、西国、秩父、坂東百ヵ所
   の観音霊場、四国八十八ヵ所
の弘法大師霊場を巡拝した記念に、孫にあたる林蔵が、文政
   元年(1818)七月に造立したものです。道行く人の助けとなるよう「右いヽつか・川
   口道」「左 浮間村」という道標銘も刻まれています。馬頭観音坐像供養塔は、文化十年
   (1813)十一月に浮間村講中の35人が、往来する馬の安全を祈って造立したもので
   す。庚申待供養塔は、干支の庚申の日に徹夜して健康長寿を願う信仰にかかわるもので、
   天保九年(1838)六月に浮間村講中18人が造立しました。正面には、庚申信仰を象
   徴する青面金剛立像が浮き彫りされています。
   水神宮の石祠は、何時造立されたのか不詳ですが、正面に「水神宮」と刻まれています。
   この付近に、かつては渡船場があり、往来の人々で賑わったことが偲ばれます。
   平成6年3月                        東京都北区教育委員会

 北区教育委員会の説明パネルもあり由緒が分かりよい。水神宮(龍)、庚申(猿)、馬頭(馬)と
いった動物に縁が深いのも面白い。


■庚申塔 ◇

 浮間3丁目11番26号、特別養護老人ホーム「浮間さくら荘」の右角路傍にある。旧は50m程
北にある北浮間郵便局の角に建ててあった駒型の青面金剛立像。寛政十一年(1799)の造立で、
前の手は右手に剣、左手で女人(ショケラ)の髪を掴んでぶら下げてる。以前は北浮間郵便局の倉庫
にあった。元々何処に建立したものか判らない。
 


■庚申塔 
移転
 浮間3丁目19番1号の北浮間郵便局の角にあったが、50mほど南の浮間3‐11‐26の路傍
に移設してある。
日月・青面金剛(剣人六臂)・邪鬼・三猿。右面に「寛政十一巳未四月吉日」。


浮間三丁目児童遊園
 浮間3丁24番14号にある区立公園。


銅像 ✓
 浮間3丁目27番の遊歩道にあるらしい。鳥を掲げる少年。


水を運ぶ少年像 ✓
 浮間3丁目29番にあるらしい。4丁目1番という説もある。水瓶を右肩に担いで運ぶ銅像。


浮間三丁目高架下児童遊園
 浮間3丁32番3号にある区立公園。


「希望と緑の道」像 ◇
 浮間3丁32番29号の西の歩道上にあるバスケットボールで上空のボールを奪い合う2人の少年
少女像。浮間3丁目2番、高架下ライフ北赤羽店とセブンイレブンの間の歩道にあったもの。


浮間中央児童遊園
 浮間3丁34番21号にある区立公園。


■子育地蔵尊堂 ◇

 浮間3丁目34番24号の角地にある。堂内には地蔵菩薩立像が2体、小さい方の像には文字は刻
まれてない。大きな方には、

   人生法界平等利益 観音寺住職 本願主啓経 法印宥■

 の銘があるが、建立年代は不明。その他「63人念仏結集年」の文字も見られる。

 庚申塔
 駒形一面六臂青面金剛立像で合掌している。安永六年(1777)建立。巡拝供養塔には

   天保八年北足立郡浮間村 尾熊源左衛門、西国・秩父・板東 為二世安楽也

 三大観音霊場で百札所を巡ったので二世安楽を願ったのだろう。願主の名は刻まれていても下の名
前だけが殆どで、浮間の農民だろう。一人だけ尾熊源左衛門と苗字付きがあるのは珍しい。江戸幕府
の『新編武蔵風土記稿』によると

   氷川神社 村の鎮守なり、神職尾熊式部:吉田家の配下なり、飯塚村に住す

 と記述があるから、その縁者の侍が浮間に在住していたのでしょう。
 


浮間4丁目高架下児童遊園
 浮間4丁1番9号にある区立公園。


無動山妙智院観音寺

 浮間4丁目9番2号にある真言宗智山派の寺。本尊は不動明王。武蔵百不動の一つ。元和元年(1
615)の開基という。入口を入ると右手の相当頑張っている鐘楼だが、昭和34年8月に修築、同
時に大梵鐘の新鋳をしたという。その前庭境内には六地蔵。入口左手に応召鐘が据えてある。戦時中
に供出させられたものが昭和58年実40年ぶりに奇跡的に戻ってきたのだ。観音堂は小振りだが立
派な造りだ。また浮間で1、2を争う太い幹のサルスベリが本堂の右手前にあり、見事な花を咲かせ
るので有名。サルスベリは百日紅と書き、夏の暑い期間100日間ほど咲くのでその名がある。彼岸
花(曼珠沙華)も有名で時期になれば、奥の墓地にたくさんの花が咲く。大晦日は除夜の鐘を撞かせ
て貰えるので毎年多くの善男善女が並ぶ。その鐘の音は浮間中に響き渡る。節分の豆まきも恒例。
 「新編武蔵風土記稿」浮間村の項に、

   
観音寺
   新義真言宗、川口町錫杖寺末、無量山妙智院と云。本尊不動を安ず。開山の僧を秀盛と呼
   べり。享保七年五月九日寂せり。
   衆寮。
   観音堂、正観音を安ず。行基の作なり。
   鐘楼、近き頃造りし鐘をかく。


 とあり、区のガイドブックには、

   観音寺は元和元年(1615)に開創されたと伝えられています。明治43年の大水害で
   は、本堂が床上浸水したため、樽を二つ並べてその上に本尊をおいて一晩中守ったという
   話しが残っています。また観音寺には釣鐘が二つあります。戦時中は武器を作るため、釜
   や銅像などの金属を供出させられ、観音寺も例外ではありませんでした。しかし幸いにも
   鐘はつぶされることなく、約40年を経た昭和58年に、浮間に帰ってきたのです。現在
   使われている鐘は戦後作られたものです。


 とある。

 
弘法大師行脚像
 境内にある空海(弘法大師)巡錫の雲水立像。

   
南無大師遍照金剛

 
観音堂・鐘楼・旧梵鐘・六地蔵
 境内にある。
 


「二人の少女」像 ✓
 浮間4丁目14番にあるらしい。背中合わせに腕を組み、1人が前に屈んでもう1人を持ち上げる
準備体操の1ポーズ。


新河岸東公園
 浮間4丁目27番1号にある区立公園。


■西浮間小学校

 浮間4丁目29番30号にある区立校。同33年浮間小学校分校設置。第1期鉄筋コンクリート造
り2階建て校舎(6教室・給食室・用務員室)落成。同34年「東京都北区立西浮間小学校」として
開校。同34年第2期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎(6教室)落成。同35年第3期鉄筋コン
クリート造り3階建て校舎(3教室)増築。同37年校歌制定。

 校歌
「煌く波に」 作詞・土岐善麿  作曲・渡辺浦人
  1.煌く波に広々と
    緑を移す放水路
    みんな揃って健やかに
    働く楽しさ逞しさ
    仰ぐ希望の空も明るく
    富士よ秩父よ 風晴れて
  2.その名も花も芳しく
    新たに茂れ桜草
    育つ力を競う時
    絶えまず学ぼう努めよう
    進む時代を何時も正しく
    強く生きぬく喜びに
     元気に仲良く集まれ此処に
     吾等の西浮間小学校


 同42年第4期鉄筋コンクリート造り2階建て校舎(1階1教室・2階2教室)増築。同44年創
立10周年記念式典。同46年第5期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎(3教室)。同53年ガス
FF暖房設置。同54年創立20周年記念式典。同57年鉄製プール完成。同58年体育館完成。校
庭グリーンサンド舗装。観察池設置。同61年校舎大規模改修。同62年防球ネット取付。同63年
さくら草圃場改修。
 平成元年屋上フェンスに校名掲示。創立30周年記念式典。平成4年青少年赤十字加盟。浮間舟渡
駅清掃によりJR東日本より感謝状。同7年生ゴミ処理機設置。同8年パソコン学習開始。同11年
創立40周年記念式典。同13年校庭舗装。非常時通報体制「学校110番」設置。同14年パソコ
ン機種交換。同16年多目的ルーム設置。英語活動開始。学校給食調理業務民間委託。同17年校舎
全面建替えのためプレハブ校舎に移転。同18年二学期制開始。同20年さようなら校舎の会。同2
1年4階建て新校舎落成し移転。プレハブ校舎解体。創立50周年記念式典。同22年郷土メモリア
ルコーナー設置。
 


■浮間中学校

 浮間4丁目29番32号にある区立校。北区の西北、荒川と新河岸川に囲まれた浮間地区に昭和3
4年4月1日に開校した。北区の中学校12校の中では一番自然環境に恵まれた学校だ。校舎の南側
にある広い校庭の外側には、北区立の少年野球場・少年サッカー場・緑地公園の造成が急ピッチで進
められており、平成15年から使用できるようになった。また校舎の北側には、浮間舟渡駅を挟んで
徒歩3分のところに、浮間が池を中心とした都立浮間公園が広がり、その北側には荒川が流れる。体
育の授業や部活動のトレーニング、そしてマラソン大会の会場として活用している。また広い校庭に
はスプリンクラーと夜間照明が設置され、野球、サッカー、ソフトテニスの公式試合会場としてもよ
く利用される。浮間小学校と西浮間小学校の卒業生の約85%が通学してくる。ここ数年間の生徒数
は400名を前後しているが、最近の高層住宅の増加傾向からみると、今後は生徒数が増加すると見
込まれている。沿革校歌不明。
 


■出世稲荷大明神 ◇

 浮間4丁目31番7号クリーンレジデンス前左端にある小祠。


■浮間舟渡駅

 浮間4丁目32番20号にあるJR埼京線の停車場。昭和60年9月30日の埼京線赤羽・大宮間
開業と同時にできた。ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済
み。改札口・出口は1ヶ所のみで地上1階にある。高架駅にもかかわらず、出口が北側にしかない。
 駅の所在地は北区浮間だが、大宮寄り半分ほどは板橋区舟渡に跨っている。駅名が合成になってい
るのはそのためである。浮間舟渡を出た埼京線は間もなく荒川を渡り、都区内を出て埼玉県戸田市へ
と入る。

 「たまのりNo.2」像 ◇
 北口広場の隅の植栽にある瀬戸剛制作の裸婦像。

 銅像
 ホールを持つ少年の側で右手を上げている少年像。未確認。駅周辺にあるらしい。


浮間釣り堀公園
 浮間5丁4番19号にある区立公園。


◆新河岸川 
 埼玉県から東京都を流れる荒川水系の一級河川。下流末で荒川と隅田川の分岐部に合流する。入間
川の分流を川越で集めて水源とし、上福岡・富士見・志木・朝霞・和光の5市を流れ、途中伊佐沼・
不老川・柳瀬川・空堀川・黒目川・野火止用水・白子川を拾って板橋区にやってくる。しかしこれは
自然流ではない。江戸時代〝知恵伊豆〟と呼ばれて3代将軍家光を輔弼した川越藩主松平伊豆守信綱
によって、多数の屈曲を持たせて流量を安定化させる改修が行われ、江戸と川越を結ぶ舟運のルート
として栄えた。江戸時代末期から明治時代初めが全盛期だった。東上鉄道の出現で衰退し、洪水を防
ぐという名目で流路が直線化されたため水量を保てなくなり、舟の運行ができなくなったことで水運
は終わりを告げた。
 水運は縄文以来旧権力であり、明治政府はアンシャンレジームのために鉄道を敷き、国道を整備し
た。陸運を把握することで権力を安定させようとしたのだ。赤字鉄道を抱えていたのもそのためで、
敗戦により鉄道が不要になると、民営化と称してバッサリと切り捨て、道路通運が儲かるとなると道
路行政に血道を挙げている。郵政の民営化もインターネットの登場によって不要になったから切り捨
てられた。川は荒川が改修されるまでは、朝霞の下内間木で荒川に注いでいたが、荒川放水路の新鑿
で、岩淵より上流も河道付替えが行われ、その時取り残された旧流路を繋ぐように新川が掘られ、下
内間木で新河岸川と繋いだので、新川は新河岸川の下流部ということになった。川口でそのまま隅田
川に繋がっているので隅田川の上流のようにも見える。
 3分の2が板橋区を流れ、3分の1が北区を流れる。そういう理由で橋は総て大正以後の新しい橋
ばかりだ。板橋区に、笹目橋・早瀬人道橋・早瀬橋・平沼橋・芝原橋歩道橋・徳丸橋・西台橋・舟渡
大橋・ガス管専用橋・蓮根橋・志村橋・平成橋が架かる。
 

 
新河岸橋新河岸大橋
 東坂下と小豆沢の境から浮間に渡された橋、老朽化により平成16年から架け替え、平成22年5
月31完成開通。新河岸橋は老朽化のため通行に重量制限があり10t未満の車両しか渡れなかった
ため、それで架け替えることになり工事が始まった。ところが、中々完成しない。東京都第六建設事
務所工事課では「平成21年3月末までに完成予定」と発表していたが、期限が来ても完成せず、1
年2ヶ月も伸びで漸く完成した次第。橋のネームプレートは浮間側と志村側ではそれぞれ「さくらそ
う」と「にりんそうが」取り付けられている。遊歩道への接続道路も出来て便利で素晴らしい。
 旧橋時代は橋下の土手道は通行できなかったが、新橋の完成に伴って通行できるようになった。

 
浮間橋 
 六千円橋 昭和3年地元民の6000円の基金により赤羽工兵隊が架けた長さ65間×幅2間3寸
の木橋。賃取橋(有料橋)だったが、東京府に移管し、同9年に長さ62m×幅8mの鋼桁橋、同1
5年長さ65m×幅8mのトラス鉄橋に架け替えられ戦災も免れたが、交通量の増大に抗し得ず、同
47年に長さ72m×幅23mの鋼鈑桁橋に改架、しかし東北・上越・長野新幹線の新設で鉄道鉄橋
の架橋があり、併設の埼京線の北赤羽橋の開設とともに、同58年4度目の改架を行った。橋の袂に
記念碑が2つ建っている。

 
工兵橋(中之橋)
 
昭和8年の新架。赤羽工兵隊が対岸の荒川河川敷の訓練場に通うために架橋した長さ58m×幅3
mの橋。現在は人道橋。当時の村民が六千円を集めて造ったので「六千円橋」とも師団工兵隊が架け
たので「師団橋」とも呼ばれたことがある。

 
新荒川大橋
 
荒川に架かる新荒川大橋が延長して一体的に架かっているので、特に別称はない。

 岩淵橋
 昭和55年の新架。長さ65m40cm×幅6mの人道橋。

 
志茂橋
 建設省の事務所の通用橋だったが、岩淵水門の公園化とともに一般開放された。長さ71m50c
m×幅6m50cmの橋。
 

 



【王子】(おうじ)1~6丁目                    昭和40年7月1日
 岸村→王子村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、同22年王子村大字王子、
同41年王子町大字王子、昭和7年王子と滝野川の一部で王子区王子町、同14年王子町の大部分
は下十条の一部を編入して王子1~5丁目、一部を下十条に譲って岸町。残余は王子町のまま同2
2年北区に属し同31年王子本町となる。同40年王子5丁目の一部を東十条3丁目に譲って新住
居表示を実施し現行の「王子」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」のほか『北区史』など。

 王子の由来
 むかし岸村に「御子神若一王子社(みこがみわかいちおうじしゃ)」が勧請されてから王子村と
改めた。王子とは熊野権現の遥拝所のことで、王子権現がいつ勧請されたのか、いつ王子村に改め
たのかは記録がない。八幡太郎義家が奥州征伐の折に社頭に甲冑を納めたという伝説を信ずれば平
安時代ということになるし、豊島氏が承久の変の手柄で紀州は三上庄の地頭職(じとうしき)を得
て、豊島庄を京都東山新熊野社に寄進、その時に勧請したというのを真に受ければ鎌倉時代という
ことになる。どっちにしろ豊島氏以来紀州との繋がりがより深くなり、王子・十条・飛鳥山・音無
川などの名をもたらした。岸村は海が入りこんでいたころの海岸に開けたことによる。「おうじ」
「きし」をインドネシア語で解釈すると「オウ・チ」「キヒ・チ」で、それぞれ「突出した丘が放
り出されている地」「切り落として放り出したような崖のある場所」ということになるらしい。
 ま、そんなとこだった。
 明治8年創業の王子製紙は今はないが、五丁目団地のところにあった。
 だから王子は王子神社だぁ!

   
こんこんと串刺しにする王子道(川柳)
 


■飛鳥の小径
 
あすかのこみち 飛鳥山公園の北側、線路との間に細い小道があって、そのまま歩って行くと公園
の西側、日本製紙の社宅、七社神社裏に出るのだが、その小道の南側がずっと公園の崖で、その壁面
に初夏から梅雨時にかけて紫陽花(アジサイ)が花をつける。平塚神社、城官寺、古河庭園に至る。

 
防空壕。
 戦時中、飛鳥の小径の斜面には防空壕が掘られた。併し防空壕とはいっても、旧渋沢庭園にあった
渋沢栄一の近代建築物を悉く焼き尽くす程の大量の焼夷弾による攻撃には耐えられず、多くの犠牲者
が出た。今ではアジサイの葉に覆い尽くされている飛鳥山の斜面だが、昭和30年くらいまではまだ
防空壕跡が残っており、壕からは時折焼け焦げた防災頭巾や白骨が見つかったとか。こんな悲惨な目
を経験したというのに、安倍晋三は「戦争をする国」にしようとしている。

 
顔なし地蔵
 飛鳥の小径の王子側の取っ付き、住所的には王子1丁目1番の飛鳥山公園に属しているのだが、公
園の階段横下に、荒くコンクリートを山積みしたような台座の上に建っている。胴体の方は普通なの
に、顔だけは、「とろけ地蔵」のようになってしまっている。高い位置にあるので判別し難いが、よ
く見ると目や鼻らしきものがあるように見えなくもない。この地蔵、かつては首なし地蔵だった。確
かによく見ると首と胴体のコンクリの色が違い、首の部分は新しく付け加えたような感じだ。
 このちょっぴり怖い地蔵も、飛鳥の小径を心霊スポットたらしめる一因になっているのかもね。
 


鳥山公園
 王子1丁目1番3号と西ヶ原2丁目16番に跨る区立公園。飛鳥山は滝野川村の範疇だったが王子
権現に寄進されたため王子村となった。公園は、八代将軍徳川吉宗の指示で1270本の桜を植え大
岡越前の時代、江戸庶民のためにこの地を花見の地としたのが始まりといわれる。その意味では日本
最初の公園といえ、江戸時代から現在に至るまで桜の名所となっている。幕府により上野の山では、
酒、団子が御法度で、一般民衆が飲めや歌えの花見が出来たのは、飛鳥山と向島であり、飛鳥山は江
戸市民に支持を受けた行楽地だった。

   飛鳥山浅黄の頭巾安い洒落(川柳)
   飛鳥山ばたら三味線百で借り(川柳)


 崖際に江戸時代の柵石がベンチ代わりに並べてある。崖からは土器(かわらけ)投げが盛んに行わ
れたが、麓の耕作地を考慮して焼物は使わなかった。

   飛鳥山落つればもとの土になり(川柳)
   土器が追々に飛ぶ飛鳥山(川柳)
   飛鳥山座頭おどけて一つ投げ(川柳)


 明治時代には東京各地の学校の運動会が開かれ、荷車で運ばれたオルガンの音や女学生の華やかな
衣装が色を添えたという。園内に北区飛鳥山博物館・紙の博物館・渋沢史料館が並んでいる。昭和24
年製都電6080型車両と蒸気機関車デコイチ(D51)も展示してある。スカイラウンジは平成5
年に解体撤去された。展望台は「北とぴあ」にできたのでそっちで遠望は楽しめる。

 山頂のモニュメント
 北端にある丸石を積み重ねて拵えた三角柱。正面に

   
飛鳥山
   標高二十五・四米

 と刻んである。歌川(安藤)広重の「名所江戸百景」の「飛鳥山北の眺望」と題して、筑波山を描
いているが、筑波山が見えるんだ。
 

 
あすかパークレール
 
高齢者、障害者や子供連れなど誰もが公園を利用しやすくするために、区が飛鳥山公園の公園入口
から飛鳥山山頂間に26000千万円かけて設置した昇降設備で、平成21年7月17日から運行を
開始している。運賃は無料で、運転時間は午前10時から午後4時まで(強風等悪天候の場合は、安
全確保のため運転を中止することがある)、運転日は12月29日から1月3日までを除く毎日(保
守管理などによる運休あり)。

   形式:自走式モノレール
   延長:レール延長48m(傾斜角度24度)

   車両:16乗り(椅子席6人、立席16人 )
   走行区間:飛鳥山公園入り口~飛鳥山山頂
   走行速度:30m/分(片道2分)
   
標高差:17.4m
   
運行方法:無人運転(押しボタン運転方式)
   安全安心:防犯カメラ(車内1基、乗り場2基)、インターフォン(車内)
   バリアフリー:車椅子・ベビーカーでも利用可

   管理人 :運行中は常駐

 
飛鳥山山頂モニュメント
 園内北方の広場にあるぐり石を積み上げた四角錐。人工の地形を含めれば「山」と付く地形で、東
京23区の最高峰は、都立戸山公園内の箱根山で標高44.6m。自然地形では愛宕山25.69m、
飛鳥山25.4m。その他の山としては室町時代、太田道灌の砦があった道灌山(荒川区西日暮里4丁
目)、そして西郷隆盛の弟従道の敷地だったという西郷山(西郷山公園/目黒区青葉台)等がある。
 飛鳥山は、江戸時代からの「官許の行楽地」だったという、由緒正しい公園、しかも飛鳥山という
自然地形だ。「山頂」がハッキリしなかったのは、少し情けない話ではある。区では「飛鳥山の標高
はこれまで目算で27mくらいだと推定されていました」とのことだが、実は北区役所横に46.6m
の三角点もあって、飛鳥山の標高は野放し状態だったのが真相。
 そこに目を付けた区が、飛鳥山モノレール(あすかパークレール)の開業を機会に、標高25.4m
の公共基準点と、飛鳥山山頂モニュメントを設置したという訳だ。つまり「山頂」が明確になったの
は、飛鳥山モノレール(あすかパークレール)開業の前年、平成20年と意外に最近のことだった。
 但し、この公共基準点の場所、平成5年までは、「飛鳥山タワー」と通称された回転展望塔「スカ
イラウンジ」があった場所で、その建設時に削平されて低くなっている可能性がある。

   
飛鳥山
   標高 二五・四米

 モニュメントの前にマンホールの蓋のような公共基準点がある。

   公共基準点
   公共基準点とは三角点と同様に、日本の国土の中に於ける位置(緯度・経度)が数値によ
   明確になっている、であり、全ての測量の基準として利用されています。

 岡野知十の句碑 
 北方の生垣の角にある。大正2年4月同人建立との記載がある。岡野知十は北海道日高の出身。本
名は敬胤、通称は正之助、別号は正味、旧姓は木川。明治28年毎日新聞に『俳壇風聞記』を連載、
当時の俳壇を新派の子規派をはじめ尾崎紅葉らの新派、また伝統旧派までを広く見渡しながら興趣深
く語る。評判を得『半面』を創刊、新々派と称し半面派を形成した。句集『鶯日』、編著『一茶大江丸
全集』『也有全集』などがある。墓地は多磨霊園。フランス文学者岡野馨は彼の実子(墓誌で名前を
確認できる)。
 

   佛生も復活も花笑ふ日に

 明治維新百年植樹記念碑
 
碑というべきか? 石を建てるほどのことでもない。飛鳥舞台の裏手辺りにある。

   
明治維新百年植樹記念碑

 櫻賦の碑
 明治14年佐久間象山の筆により勤皇の志を桜に託した詩を、門下生だった勝海舟、小松彰(松代
藩士)、北澤幹堂(正誠 まさなり)らにより建碑された。この碑は初め飛鳥明神の旧地「御立場」
(地主山、床几山)だった場所に2間半四方の敷地を確保し、そこに建立された。明治15年4月1
0日付で「本日建設致し候」と落成届が提出されている。徳川家の威力を示す場に開国を唱えた象山
の詩碑を建てることは、新しい時代の幕開けを宣言する意味を持っていたのだろう。
 スカイラウンジ(回転展望台)を建てるため現在地に移転させた。この工事の折、古代遺跡の多い
飛鳥山なので、古墳ではないか都立王子工高の考古クラブに発掘して貰ったところ。この発掘調査で
象山が暗殺された時の血染めの挿袋を納めた石棺を発見した。ところが空気に触れた袋は崩れたが、
蓋石の石室銘に、

   蔵之石室 永存天壤間

 と記した金石文が見つかったので、「これを書いた門人の意志を尊重しよう」という森正らの意見
により、碑の地下に丁重に埋設した。これに関してその後象山の故郷松代町(現在の長野市松代)よ
り区長宛てに感謝状が送られて来た。
 この賦で象山は、桜の花が陽春の麗らかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に
壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しい様は他に比類がないと云い、当時象山は門
弟吉田松陰の密出国の企てに連座したという咎で松代に蟄居中だったので、深山幽閉中で訪れ来る人
もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいる。この賦は象山
50歳(万延元年 1860)の作と云われ、2年後の文久二年(1862)孝明天皇の宸賞(しん
しょう)を賜った。象山は蟄居赦免となり翌年京に上り皇武合体開国論を主張してやまなかったが、
一徹な尊皇攘夷論者によって刺され、元治元年(1864)7月11日54歳の生涯を閉じた。この
碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意によって同門北沢正誠(まさなり)の文で、書は日下部鳴鶴(くさ
かべめいかく)だ。明治14年11月15日と刻まれている。

   櫻賦         桜の賦
   有皇国之名華     
皇国の名華あり
   鍾九陽之靈和     
九陽の霊和を鍾(あつ)む
   翳列樹之苯蒪     
列樹の苯蒪を翳(おほ)ひ
   ①樛枝之交加     
樛枝の交加するを➀(た)る (①は「享單」という漢字)
   稟妙色於自然     妙色を自然より稟(う)け
   煌妍茂而無瑕     
煌として妍(うつく)しく茂りて瑕無し
   冠羣卉而特秀     
群草に冠たり特り秀で
   亘終古而不差     
終古に亘って差(たが)はず
   故詠浪津於皇嗣    
故に浪津(なにわづ)に皇嗣たるに詠じ
   命開耶於邦媛     
開耶(さくや)に邦媛たるを命ず
   國舅忘老於染殿    
国舅は老いを染殿に忘れ
   王孫發感於渚院    
王孫は感を渚院に発す
   既乃惠風微動     
既に乃ち惠風微動し
   沖氣淑清       
沖氣淑く清らかなり
   庶艸始緑       
庶草始めて緑に
   百鳥和鳴       
百鳥和して鳴く
   於是紅苞舒榮     
是に於いて紅苞は榮(はな)舒(ひら)き
   ②蘂吐芬       
②蘂は芬(かおり)を吐く (②は「白票」という漢字)
   光色炫耀       光色炫(ひか)り耀き
   肸蠁豐醇       
肸蠁(きっきょう)として豐醇なり
   丹霞之晴輝     
丹霞の晴れ輝くを霏(こ)め
   散白日之景炘     白日の景(ひか)り炘(かがや)くを散ず
   滋鮮麗於晨露     
鮮麗なるを晨露に滋くし
   歛絢采女於夕曛    
絢采を夕曛に歛(おさ)む
   遠而望之       
遠くよりしてこれを望めば
   爛如卿雲垂翠微    
爛として卿雲の翠微を垂るるが如し
   近而睇之       
近くよりして之を睇(み)れば
   璨如珎珠綴林陂    
璨として珍珠の林陂(りんひ)を綴るが如し
   赫乎嘩々       
赫乎として嘩々と
   焜乎猗々       
焜乎として猗々(いい)たり
   爾其帶雨罩煙     
爾(なんじ)其れ雨を帯びて煙を罩(こ)め
   翻風嚮月       
風に翻って月に嚮(むか)う
   綢繆縟繡       
綢繆(ちょうびょう)として縟繡(じょくしゅう)
   縹緲髣髴       
縹緲として髣髴たり
   紛旖旎以陸離     
紛として旖旎(いじ)として以て陸離
   郁唵薆而馝馞     
郁として唵薆(あんあい)として馝馞(ひっぽつ)たり
   既的皪以氷浄     
既に的皪として以て氷のごと浄(きよ)く
   復縈盈其如雪     
復た縈盈とすることし其れ雪の如し
   至於雜松柏之葱菁   
松柏の葱菁たるに雑(まじわ)り
   靚峰巒之③④     
峰巒のキンギンたるを靚るに至っては(③「石欽」、④は「石金」)
   吐朱閣於遠寺     朱閣を遠寺に吐き
   靄翠樓於高林     
翠楼を高林を靄(こ)む
   沿水流而蔚暎     
水流に沿って蔚(さか)ん映え
   繞井閭而垂蔭     
井閭を繞りて蔭を垂れ
   固千象而萬趣     
固(もと)より千象にして万趣なれば
   羌難得而備譚     
ああ得て備(つぶさ)には譚(かた)り難し
   於是和樂公子     
是に於いて和樂の公子
   佳麗季女       
佳麗なる季女
   瓌姿綽態       
瓌(すぐ)れたる姿 綽(あでやか)なる態
   嫺都妖冶       
嫺都たり妖冶たり
   曳綺羅於西林     
綺羅を西林に曳き
   歩驌⑤於東野     
驌⑥(しゃくそう)を東野に歩ましむ(⑤は「馬霜」という漢字)
   憾春光之不長     春光の長からざるを憾(うら)み
   燐芬菲之易堕     
芬菲の堕ち易き燐(あわ)れむ
   折繊枝以相授     
繊枝を折りて以て相授(う)け
   弄殘葩而心寫     
殘葩を弄(もてあそ)んで心写(たの)しむ
   若廼崇堂曲榭     
廼ち崇堂曲榭の
   騒友詞賓       
騒友詞賓の若(ごと)き
   尊貯冽醑       
樽は冽醑を貯え
   盤登素鱗       
盤は素鱗を登す
   珎饋咸具       
珎饋 咸(みな)具(そな)わり
   副薦畢陳       
副薦 畢(ことごと)く陳(つら)なる
   面嘉樹坐錦茵     
嘉樹に面して錦茵に坐すれば
   金斝揮羽觴巡     
金斝(きんか)揮(ふるい)羽觴は巡る
   奮藻思以闘麗     
藻思を奮って以て麗しきを闘はせ
   馳妙辭而競新     
妙辞を馳せて新しき競ふ
   顧餘霞之散綺     
餘(残)んの霞の綺を散ずるを顧み
   竢雲月之飛輪     
雲の月の輪を飛ばすを竢つ
   又有天涯遊子     
又 天涯の遊子
   深閨少婦絪縕     
深閨の少婦有り
   感和氣之絪縕     
和氣の絪縕たるに感じ
   驚陽節之暄煦     
陽節の暄煦たるに驚く
   惜麗之徒芳     
珍麗の芳(かおり)を徒らにするを惜しみ
   恨歸期之屡誤     帰期の屡(しばしば)誤るを恨む
   羨黄鸝之耦飛     
黄鸝(こうり=うぐいす)の耦(なら)び飛ぶを羨やむ
   妬粉蝶之雙舞     
粉蝶の双つながら舞うを妬(ねた)む
   陟夷岡以徒倚     
夷岡に陟(のぼ)りて以て徒倚と
   憑華陰而掻首     
華陰に憑りて首(こうべ)を掻く
   望所思而不見     
思ふ所を望むも見えず
   愾長喟而遠幕     
長く喟(なげ)きて遠く幕ふに愾(いた)る
   更有梗概之志士    
更に梗概の志士
   倜儻之豪俊      
倜儻(ていとう)の豪俊有り
   睎芳野而大息     
芳野を睎(のぞ)んでは大息し
   哀皇業之不振     
皇業の振はざるを哀しむ
   臨奥關而彷徨     
奥関に臨んでは彷徨し
   欽上將之烈駿     
上將の烈駿を欽(つつし)む
   嘉高徳之刊榦     
高徳の幹を刊(けず)るを嘉(よ)みし
   題片言而暗進     
片言を題して暗(ひそ)かに進み
   雖忠誠之未報     
忠誠の未だ報報いずと雖も
   
永無慚乎王藎     永く王藎(おうしん)慚(は)ずる無し
   方華蘂之盛時     
華蘂の盛んなる時に方(あた)っては
   知物候之流運     
物候の流運を知り
   對落英之繽紛     
落英の繽紛たるに対して
   増感慨而自奮     
感慨を増して自ら奮(ふる)ふ
   是以都鄙尊卑     
是を以て都鄙の尊卑
   老少智戇       
老少の智戇(ちこう)
   觀斯華者       
斯の華を觀る者
   莫不目愛而色悦    
目に愛でて色悦び
   神感而情動      
神(こころ)に感じて情動かざる莫し
   若其勝地所宜     
其の勝地の宜しくする所の若(ごと)し
   則有寧樂故      
則ち寧樂(奈良)の故都
   嵯峨嵐山       
嵯峨嵐山
   醍醐白河       
醍醐白河
   小倉大原       
小倉大原有り
   与夫武之金井     
与夫(か)武(武蔵)の金井(こがねい)
   総之墨川       
総(下総)の墨川(隅田川)
   此皆都人之所周覧   
此れ皆都人の周覧する所
   士女之所遊觀     
士女の遊觀する所なり
   逮于動磯霞浦之澳   
動磯(小動)霞浦の澳(くま)
   岐蘇足柄之巓     
岐蘇(木曽)足柄の巓(いただき)に逮(およ)んでは
   亦有慕名賢之風雅   
亦名賢の風雅を慕ひ
   足優奬而盤桓     
足優奬して盤桓たるに足る有り
   夫何茲樹之奇特    
夫れ何(いずく)んぞ茲の樹の奇特なる
   泯景響於⑦漢     
景響を⑦漢に泯(つ)くし
   埏芬蕤於日域     
芬蕤を日域に埏(の)ばす
   攅壯觀於神甸     
壯觀を神甸に攅(あつ)め
   資豐壌之粋澤     
豐壌の粋澤を資(たす)く
   應皇化之焫煥     
皇化の焫煥たるに応じ
   寔儀光之獨異     
寔(まこと)に儀光の獨り異なる
   空寓内莫先      
空 寓内に先に莫ければ
   散譜類而夷考     
譜類を散じて夷考す
   豈桃李之足算     
豈桃李の算(かぞ)ふるに足りんや
   乃作頌曰       
乃ち頌を作りて曰く

   貞樹徠服育信州兮   
貞樹徠たり服して信州に育ち
   受命特立終不流兮   
命を受けて特り立って終に流れず
   螢潔無瑕豈不可喜兮  
螢潔にして瑕無ければ豈喜ぶべからざらんや
   窈窕自特章天地兮   
窈窕として自らを特して天地章らかなり
   澹然不衒嘉賓聚兮   
澹然として衒はざれば嘉賓聚(あつ)まり
   帝宮神寓無弗可兮   
帝宮神宇も可とせざる無弗し
   森林窮谷膺天光兮   
森林窮谷なるも天光を膺(う)け
   閴其無人自芬芳兮   
閴(しず)かに其れ人無くして自ら芬芳あり

   横艾淹茂春三月象山平子明手録于松城聚園楼
              
横艾(壬)淹茂(戌)春三月(万延元年三月)
              
佐久間象山平(啓)子明手づから松城聚園楼に録す

 碑裏の銘文は以下の通り。

   櫻賦碑陰記                            乾堂 北澤正誠
   嗚呼此先師象山佐久間先生櫻賦也先生博學通才夙負盛名嘗受譴幕府禁錮松代幽憤深慨作此
   賦以見其志事在文久壬戌距今奚二十一年矣忝 先朝宸賞海内傳誦以爲殊榮既而徴至京師痛
   論時務終爲忌者所戕悲夫先生歿後五年皇室中興群賢立朝經營規畫與其所策相符而今則海陸
   兵制學校技術凡百事業粲然具備於是先生之志始明於天下海舟勝君嘗從先生游頃者献其所藏
   遣墨於朝經今上御覧賜金若干君感激不巳欲傳恩典於不朽與同門小松彰牧野毅及正誠等謀勒
   櫻賦於石建之飛鳥山嗚呼先生大畧不得施於當時獨託詞賦以傳豈其素志耶雖然遠見深識節在
   帝心一篇遺墨與櫻花流芳千載先生亦可以瞑矣

 区の説明板は以下の通り。

   
桜の賦の碑
   桜の賦は、松代藩士で儒学者であったが、後に西洋の学問を学び進歩的考えをとなえ、明
   治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山の作である。この賦で象山は、桜の花
   が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しそ
   の名声は印度・中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門
   弟吉田松陰の密出国の企てに連座、松代に蟄居中であったので、深山幽閉中で訪れ來る人
   もないが自ら愛国の志操は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいる。
    この賦は象山五十歳(万延元年・1860)の作と云われ、二年後の文久二年(18
    62)孝明天皇の宸賞を賜った。象山は蟄居赦免となり、翌年京に上り、皇武合体開
    国論を主張してやまなかったが、一徹な尊王攘夷論者によって刺され、元治元年(1
    864)七月十一日五十四歳の生涯を閉じた。この碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意
    によって同門小松彰等によって建てられた。碑陰記は同門北沢正誠の文で、書は日下
    部鳴鶴である。明治14年11年15日と刻まれている。この下に挿袋石室が埋蔵さ
    れている。                        桜賦俗解参照 森正
                                  
東京都北区役所

 飛鳥舞台
 能舞台をイメージした檜造りの野外ステージ。各種イベントに利用できる。申込受付:使用希望日
の2ヶ月前からの同日より、道路公園課公園河川係窓口(第一庁舎3階16番)で受け付けてる。

 水上赤鳥の歌碑
 園内真中辺りにある石碑。大きな自然石に黒石の四角い銘板が嵌め込まれている。若山牧水系のぬ
はり(野榛)社の歌人らしい。わしゃ知らん。本名健二。

   そのかみの山をおほひし花ふヾき まぼろしにしてあがる噴水 

 聖観音菩薩像
 歌碑の東方にある。昭和51年の建立。赤堀信平が区へ寄贈したもの。赤堀は福島県出身。大正~
平成時代の彫刻家。明治32年3月15日生れ。朝倉文夫に師事。大正10年帝展に初入選。同14
年、同15年、昭和2年と同3年連続特選。同27年日本彫塑会会員となる。木彫、ブロンズを制作
し、特に肖像彫刻に優れた才能を発揮した。平成4年12月21日歿。行年93歳。 東京美術学校
(東京芸大)卒。作品に「尾崎咢堂胸像」などがある。

 
飛鳥山の歴史碑
 園内中央付近にある。隣に飛鳥山の碑がある。現代文で飛鳥山の由来を記載した碑は、昭和55年
国際ロータリー創立75周年記念に王子ロータリークラブが建立したものだ。ロータリークラブは、
ご多分に漏れず、ユダヤが拵えた国際親善と社会奉仕を目的とする情報収集機関だ。ライオンズクラ
ブと同じ実業人・専門職業人の国際的な社交団体。明治38年アメリカに始まった。

   飛鳥山の歴史
   飛鳥山公園は、明治6年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地
   は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。このあたりは古く
   から人が住んでいたらしく、先土器時代(日本で最も古い時代)、縄文時代、弥生時代の
   人々の生活の跡が発見されています。
   ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この丘の地主山(現在の展望台のところ)に飛
   鳥明神の神が祀られていたからと伝えられています。
   江戸時代の中頃元文2年(1737)徳川八代将軍吉宗が、この地を王子権現に寄進し荒
   地を整備して、たくさんの桜や松、楓などを植えたので、それからは桜の名所として有名
   になり、周りに茶屋などもできました。その説明は右手の大きな石碑に詳しく刻まれてい
   ますが、この文章がとても難しく、すでにその当時から読み難い石碑の代表になっていま
   した。
   飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、まるで落語に出てくるような
   仇討ちの趣向や、変装などのためにたいへんな賑わいでした。また東側の崖からは、カワ
   ラケ投げも行われ、土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが、明治の末になっ
   て、危険防止のために禁止されました。この山は東から西へのなだらかな斜面でしたが、
   道路拡張のためにせばめられ、先に中央部につくられていた広場の跡地に噴水ができ、夜
   は五色の光に輝いています。
   昭和55年2月吉日                   東京王子ロータリークラブ


 飛鳥山碑
 園内中心部にある。右に「日露戦争碑」、左に「飛鳥山の歴史碑」。碑は、総高218.5cm、幅
215cm、厚さ34.5cm。平安時代の末頃にこの辺りを拠点としていた豊島氏が熊野権現の神々
を勧請して祀ったこと、
四季を通じ景勝のこの地に、豊島景村が元亨年間(1321~24)に、熊
野飛鳥祠を迎えたことにより熊野に所縁の飛鳥山・王子・音無川の名を付けたことなどの由来が書か
れている。
しかし飛鳥明神は寛永の頃に王子権現に合祀されたので今はない。
 この碑は元文二年(1737)に王子権現別当金輪寺住持大僧都宥衛が建立し、碑文は儒官成島道
筑(鳳郷・錦江)、天額は尾張の医官山田宗純の書だ。石材は紀州から献上されて江戸城内滝見亭に
あったもの。建立に至る経緯については、道筑の子和鼎(かずさだ 龍洲)の『飛鳥山碑始末』に詳
しい。大正9年に東京府の史跡に指定された。碑の文字は石の疵に合わせた書体や古字・異体字を用
いているので難解。それで、

   飛鳥山何と読んだか拝むなり
   飛鳥山石仏がと戯け者
   飛鳥山どなたの墓とべらぼうめ
   この花を折るなだろうと石碑見る
   李白だと見えて石碑を読んでいる
   何だ石碑かと一つも読めぬなり


 など川柳で「石碑」と詠めば「飛鳥山碑」と決まっているほどだ。
 戦後森正が解読して区教委より『飛鳥山の碑』が刊行されている。碑文の文体は、中国の五経の一
つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治世が行き届いて太平の世であること
を喧伝したものと考えられる。では、その難解な碑文を紹介する。

 篆額

   
飛鳥山碑

 碑文

   惟南國之鎭曰熊埜之山有神曰熊埜之神實 伊奘冉尊也配祀
   伊奘諾尊事解王子或稱之三神事解別為飛鳥之祠三狐神副焉
   語有神史中別録藏焉誌曰在昔元亨中武之豐島郡豐島氏剏兆
   豐島郡為熊埜神座地之曰王子山之曰飛鳥盖自此始也熊埜之
   川曰音無川流象焉爾來四百有祀土人今以祀之如一日矣祀
   典曰熊埜之神春以花祀鼓之吹之旗之歌之舞之今之王子祀日
   鼓吹旗歌舞者其來也尚矣而世之邈祠宇荒壞風日不蔽越曁寛
   永中有司奉 命祇飾祠事乃因故兆新之遂遷飛鳥祠於本祠飛
   鳥之山有名無祠者由焉三狐祠僻在北溲云今茲丁巳春三月己
   亥我 后省畊之次規土封飛鳥之山獨詥祠無所與永屬奉祀者
   衛等恭奉祀乃蹈舞先手稽首敬凡之日於穆我 后事神以誠治
   人以明措則正施則行以諟樂郊爲神之郷神其不歆明悳惟馨初
   飛鳥之山蓬顆蔬壤雉兎徑焉 車駕之肇從紀蕃來也有司行邑
   吏㕡谿谷道泉瀑礐硞■确洄而旋乃植花木数千株内成游觀外
   便蒭蕘雇役数千人二紀之久猥大為美土花木亦為林毎春者爛
   熳焉豈惟種譱種乎祀典所謂春以花祀者冥契會之竒非耶抑亦
   國家之符也遂絶于石為表經銘曰 緜邈洪荒有神開垂跡廃
   紀東土是祀明明我 后來封其域神之春祐豐穰薦至水支繁衍
   其麗豈億八埏懷仁神祇饗悳千載懿範之石是勒、
   元文丁巳之秋      奉祠金輪寺住持權大遅都宥衞立
               東都圖書府主事鳴鳳卿代撰并書

 碑陰

   飛鳥山四至牓示 自艮至坤七十三歩 自巽至乾二百歩 加藤忠郁刻

 ※■は「砋」、碑文は上下に「止+石」に作る。

   東京都指定有形文化財(古文書)
   
飛鳥山碑              所在地 北区王子1丁目1番 区立飛鳥山公園
                      指 定 平成8年3月18日
   八代将軍吉宗は、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保五年(1720)から翌年に
   かけて、1270本の山桜の苗木を植栽した。元文二年(1737)にはこの地を王子権
   現社に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも解放されるよ
   うになり、花見の季節には行楽客で賑わうようになった。この碑文は、吉宗が公共園地と
   して整備したことを記念して、幕府の儒臣成島道筑(風郷、錦江)によって作成されたも
   ので、篆額は尾張の医者山田宗純の書である。碑文の文体は中国の五経の一つである尚書
   (「書」または「書経」ともいう)の文体を意識して書かれており、吉宗の治世の行き届
   いている太平の世であることを喧伝したものと考えられる。碑文には、元享年中(132
   1~3)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことから、王子・飛鳥山・音
   無川の地名の由来を説いて、土地の人々がこれを祀ったこと、寛永年間に三代将軍家光が
   
この地に改めて王子権現社に寄進した経緯などが記されている。
   異体字や古字をを用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり、「飛鳥
   山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよく
   知られている。
   平成9年3月31日 建設                    東京都教育委員会


   東京都指定有形文化財(古文書)
   
飛鳥山碑              所在地 北区王子1丁目1番 区立飛鳥山公園
                      指 定 平成8年3月18日
   八代将軍徳川吉宗は飛鳥山を整備し、遊園として一般庶民に開放した。これを記念して、
   王子権現社別当金輪寺の住職宥衛が、元文二年(1737)に碑を建立した。
   石材は、紀州から献上されて江戸城内瀧見亭にあったものである。碑文は幕府の儒臣成島
   
道筑(錦江)によるものである。篆額は、尾張の医者山田宗純の書である。建立に至る経
   緯は、道筑の子和鼎(かずさだ)(龍洲)の「飛鳥山碑始末」に詳しい。碑文の文体は、
   中国の五経の一つである尚書の文体を意識して格調高く書かれている。吉宗の治せが行き
   届いて太平の世であることを喧伝したものと考えられる。
   碑は、高218.5cm、幅215cm、厚さ34.5cm。元享年中(1321~24)
   に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことが記されている。続いて王子・飛

   鳥山・音無川の地名の由来や、土地の人々が王子権現を祀り続けてきたことが記される。
   最後に吉宗が飛鳥山に花木の植樹を行い、王子権現社に寄進した経緯などが記される。異
   体字や古字を用い、石材の傷を避けて字を斜めにするなど難解であるが、飛鳥山の変遷を

   理解する上で貴重な資料である。
   平成23年3月                         東京都教育委員会


 碑の前の広場は昭和15年幻の東京五輪の時に造成され、戦時中は軍事訓練場、戦後は一時野球場
となっていた。同40年都から区に移管されたのを機に大噴水の広場となった。
 中央の群像は「協」、四囲の乙女像は都市公園の目的の「静・想楽・安」と題す。
 この整備で近隣住民を悩ませていた広場の砂塵問題が解決した。区花ツツジの植込みも多く設けら
れ ラジオ体操の全国放送の海上として数千人が集まったこともあった。

 明治三十七八年戦役記念碑

 園内中心部にある。左隣に「飛鳥山碑」がある。日露戦役の記念碑、王子一帯は敗戦まで陸軍工廠
が集中した軍事産業地域だった。特に日本海海戦での勝因といわれる白瀬火薬(無煙火薬)の生産地
としても有名なことから、日露戦役に関する碑が王子周辺には多くある。この碑には王子地域から出
征した戦死者の名前が裏面に記載されている。


   
明治三十七八年戰役紀念碑

 静態保存車両
 こども広場にある。近年までは保存状態が悪く荒廃が著しかったが、平成17年の園内整備に併せ
て修復・再塗装が行われた。昭和18年製造国鉄D51形(デゴイチ)蒸気機関車853号機と昭和
24年製造東京都交通局6000形電車(都電)6080号の2両が展示してある。これらは子供の
遊び場となっており、乗っかったりぶら下がったり、それはそれは大変だ。

   都電6080について
   この都電6080は、昭和53年4月まで飛鳥山公園脇の荒川線を走っていた車両です。
   荒川線の前身は「王子電気軌道株式会社」といい通称「王電」の名で親しまれた私営の郊
   外電車でした。明治44年8月大塚⇔飛鳥山上間 2.45kmの開業がはじまりで、その
   後王子を中心に早稲田、三ノ輪、赤羽を結ぶ路線が完成し、昭和17年当時の東京市に譲
   渡されたのです。この車両は6000型と呼ばれており戦後はじめての新造車で、昭和2
   4年に製造されたものです。青山、大久保、駒込の各車庫を経て、昭和46年3月荒川車
   庫の配属となり、現役を退くまで都民の足として活躍していました。
   北区では都電のワンマン化を機会に交通局から譲り受け、子供たちの施設として設置した
   ものです。
   閉鎖時間 PM4:30~翌AM9:30          連絡先 北区道路公園課

 マーメイド像
 保存都電の側にある。


   
わたしのあゆんだ道(D51 853)  重量
   製造年月日 昭和18年8月31日   大きさ  空積  長さ   高さ  幅
   製造 工場 国鉄 鷹 取 工 場   機関車  70.70  1218cm  398cm  260cm
   配置 場所                   78.75
    昭和18年9月24日 吹田 機関区    炭水車  19.40t
    昭和21年1月1日 梅小路機関区        47.40t
    昭和21年5月8日 姫路 機関区
    昭和23年9月11日 酒田 機関区    性 能
                      気 筒 使用蒸気圧 火格子面積 全伝熱面積
   廃車年月日 昭和47年6月14日   (シリンダー)  15kg/㎠   3.27㎡   221.5㎡
                      55ф×60㎝
   総走行距離 194147.3km   最大馬力
動輪直径と配置 
水タンク燃料  積載量
        
(月へ2.5往復 地球なら48.5周)  1280馬力 140cm 1D1    20㎥    8t
   おねがい
   
1.機関車の高いところに上ったり下をくぐったり危険なことをしないこと。
   2.機関車の部品や機械をこわさないこと。         連絡先 北区道路公園課

 船津翁の碑
 こども広場の北方にある。明治初期の農業指導者である船津翁の偉業を記した碑。近世3老農の一
人といわれた船津伝次平の顕彰碑が故郷赤城山に向けて建っている。伝次平は名主をつとめ、赤城山
の植林等に貢献した。農事改良に熱心なのを認められ、駒場農学校教師、農商務省巡回教師となり、
全国を回って農事改良に努め、明治31年66歳で没した。碑の書は小野澗(鵞堂)で、彼は明治の
頃通信教育的な方法で書道指導して知られた人だ。


   船津翁の碑

   船津翁は、近世三老農のうち最もすぐれた人である。翁は実験と学理をもととし農蚕業の
   改良を唱え、足跡全国に及び近世日本の農事を刷新した。翁は幼名を市蔵と云い、天保三
   年(1832)10月群馬県勢多郡富士見村に生まれた。翁は父の教訓を守り農事に励み
   余暇に和漢の学問と和算を学び長じて名主となり赤城山麓の植林事業を指導し、又門松に
   用いる心松の伐採を禁止するなど多くの業績を残した。世は変わり、明治10年12月大
   久保内務卿の懇請により駒場農学校農場監督となり、後に農商務省に入り、かねて唱えて
   いた農事試験場が西ヶ原に設けられたのでここに転じ、在職20年各地に播いた農道農魂
   農学そしてあくまで土に立つ崇高なものは農業であることを説いて廻った。年老いて郷里
   に戻った時はさすがに身体は衰弱していて幾許もなく病の為この世を去った。今の静岡県
   の石垣苺の栽培法は翁の研究が最も高く使われている。
     
篆額は、小松宮彰仁親王、文は品川弥二郎で、書は小野鷲堂である。横井時敬(ときよし)
     
等の提唱によって全国からよせられた寄付金で明治33年12月に建てられた。この碑は
     
翁の郷里赤城山麓を向いて建っている。          船津傳次平翁伝 上毛篤農伝参照
                                    東京都北区役所

 飛鳥山古墳1号墳
 紙の博物館の東北方向にある。

   飛鳥山1号墳
   古墳時代後期の直径31mの円墳。平成元年の調査で周囲には幅3.8mの周溝が廻ること
   が確認された。また、平成5年の埋葬施設の調査で、切石を使用した横穴式石室が確認さ
   れている。石室は玄室の左側壁の最下段と床石の一部が原位置を留めている他は、大きく
   壊されていた。石室の形態は残された側壁から「同張型横穴式石室」と判断できた。石室
   内からは絶ち刀子の破片、鉄鏃、耳環、管玉、切小玉、ガラス小玉が出土している。公園
   内では他にも古墳の周溝が確認されており、古墳群が形成されていたようである。 


紙の博物館(飛鳥山3つの博物館①)
 昭和25年王子製紙株式会社の収蔵資料をベースに、わが国洋紙発祥の地である王子駅前に、和紙
・洋紙を問わず、古今東西の紙に関する資料を幅広く収集・保存・展示する世界有数の紙の総合博物
館「製紙記念館」として開設され、同28年財団法人「製紙博物館」となり、以来紙に関する古今東
西の資料を幅広く収集、保存、展示し、教育普及活動を行ってきた。紙をテーマとする世界有数の紙専
門の博物館だった。
 平成9年首都高速中央環状王子線建設のため現在地に新築移転し「紙の博物館」となり、同10年
飛鳥山博物館・渋沢史料館と共に「飛鳥山3つの博物館」として一斉オープン、同12年開館50周
年を迎え、この間に内外から多くの人々が訪れた。また館の活動としては、わが国伝統のすぐれた和
紙文化をはじめとして、紙を素材とした各種紙工芸品の手づくり講習会も開いており、〝紙〟全般に
ついての知識を深められるように努力している。更に現在の資源・環境・リサイクルなど学校教育で
取り上げられている〝紙〟を巡る今日的テーマについての社会教育施設としても一層有用な博物館を
目差している。頑張っているよ。有料だよ。平成21年公益財団法人となる。
 03-3916-2320
 「洋紙発祥之地」の碑は昭和28年王子製紙王子工場の正門跡に建てられ、工場跡地の再開発と共
に、当時の紙の博物館前庭に移設されたが、首都高王子線建設のため博物館が移転したため、現在は王
子駅前サンスクエアの敷地に存立している。また敷地内にあった機関車は苫小牧に返した。

 
飛鳥山博物館(飛鳥山3つの博物館②
 王子5丁目の十条製紙跡地にあった北区歴史資料館を発展的に移設したもの。北区内の歴史資料展
示ほかに特別のものは何もない。初め区職員五十嵐重作が、工事現場などで発掘した土器などを区の
協力で庁舎の一室に展示していたが、その後森正から江戸から明治へかけてこの付近の風物を描いた
錦絵や江戸古地誌類のコレクションを寄託され、これらの資料を元に区職員と区民の協力で庁舎内に
資料室が設けられ、十条製紙が移転するとき跡地に残った岸記念館が寄付されたのを機に、昭和52
年郷土資料館を開館した。さらにその後も区民の協力で民具、郷土資料、寄託品が提供せられ、平成
10年現在地に移ってリニューアルオープンした。開館は、月曜日(祝日の場合は翌日)・祝日の翌
日の休館日を除く毎日の10:00~17:00。
 03-3916-1133 有料だよ。

 平和の女神像 ◇
 博物館と史料館の間の辺りにある。区の説明板。

                      記
   この像は、日本と中国の国交正常化を記念し、人類の理想である平和と幸福を願って、北
   区民有志を中心とした「日中友好・世界平和祈念『平和の神像』建立の会」と北区、北区
   議会、北区自治会連合会、区内企業、関係団体等が力を合わせ、一九七四年に、飛鳥山公
   園に建立したものです。
   作者は、長崎市「平和祈念像」の作者として有名な故北村西望氏です。
   当初は、大噴水のあった中央広場に建立いたしましたが、1998年3月公園の大規模な
   改修に伴い、現在の場所に移設いたしました。
   なお、台座の裏に「女神像建立の辞」があります。

   作者 北村西望(きたむらせいぼう)
   188よ4年長崎県生まれ。1912年東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を首席で
   卒業後、北区西ヶ原のアトリエ(後に井の頭公園内へ移転)で数々の名作を製作、197
   4年日本芸術院会員、1958年文化勲章受章、1974年日展名誉会長、1980年東
   京都名誉都民、1981年北区名誉区民、1987年永眠。        東京都北区


 像台座裏の「建立の辞」

   女神像建立の辞
   人類の理想は、この世を平和幸福にするにある。しかるに歴史は戦いと侵略で綴られてい
   るといっても過言ではない。私たちは来るべき二十一世紀にこそ、この念願をぜひ達成さ
   せなければならない。それには四千年の文化と伝統に生き、博く人を愛する仁の教えで育っ
   た中国と、古来和を以って貴しとなした日本が協力して立ちあがることが肝要であり、そ
   れが両国民に与えられた使命だと信ずる。
   ここに両国の国交が正常化した機会に、日中友好・世界平和を祈念する北区民が、広くお
   謀り、日展会長北村西望先生の力作 平和の女神像 を由緒ある飛鳥山の名園に建立した
   のも、これを永く後世に伝えて人類の理想念願を揺るぎないものにしたいためである。
   一九七四年五月吉日              日中友好
                          世界平和  平和の女神像 建立の会
                                   会長 龍野定一撰
                                   卒寿 北村朔人書


 
渋沢史料館(飛鳥山3つの博物館➂
 住所が西ヶ原2丁目になるので「西ヶ原」に記述した。

 ※これより先は「■渋沢庭園」に記載する。 


■飛鳥大坂
 王子東口駅前から西南に急カーブで東南に登っていく坂道で、東京さくらトラム(都電荒川線)が
中央を走っている。本郷通りは北区飛鳥山公園付近で明治通りと合流して北西に進み、音無橋の手前
で大きく北東に向きを変えてJR線のガードを潜る。この大きくカーブする付近が飛鳥大坂。

   
飛鳥大坂
   いまはきわめてゆるやかな勾配だが、「東京府村誌」には「飛鳥山坂、木村(滝野川村)
   にあり、飛鳥橋の方に下る。長さ一町十二間三尺、広さ三間、坂勢急なり」と記されてい
   るように都内でも有数な難所であり、荷車の後押しで手間賃をかせぐ人もいた。昔は将軍
   家の、日光御社参の行列もここを通った。
     飛鳥山花見てかえるをとめらが道のみ坂をゆきなづみたり 太田水穂



■六石坂
 飛鳥山公園3つの博物館の南の本郷通りを南東に上がって行く坂道。

   六石坂
   東京府誌に「長さ二十四間広さ三間元と坂上に租六石を納る水田あり故にいふ」とある。
   江戸切絵図には「六コク坂」と記されている。この道は岩槻街道(旧日光御成道)で、飛
   鳥山の前へと続いているため花見どきなどには賑わいをみせた。付近にはこの辺りに鷹狩
   などにきた将軍の休み場としてのお立場もあった。
   昭和59年3月                              東京都


■黄色い矢印信号(音無橋交差点)
 王子1丁目2番先にある信号機。右下に黄色の矢印が出る。これは路面電車の進行可の表示で車も
歩行者も関係はない。この表示は、都内各地にあったが、42路線あった路面電車が次々と廃線とな
り、今は荒川線のみとなったため、ここにだけある訳だ。


■飛鳥山観世音聖徳院
 王子1丁目3番19号にある一応お寺らしい。粗末な民家風の建物。とても寺院を思わせる佇まい
ではない。入口付近には西洋の天使のような子供の石造物。似つかわしくはない。入口は閉ざされて
いて参拝できるような雰囲気ではない。何かおどろおどろしく、憑りつかれそうで怖い。君子危うき
に近寄らずって諺を頭に浮かべる。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
  


■王子駅
 王子1丁目3番23号にあるJR京浜東北線の停車場。明治16年7月28日日本鉄道上野~熊谷
間開業時に開設された。当初は上野の次の駅がこの王子だった。しかし現在発着するのは京浜東北線
の電車のみで、東北本線や高崎線の列車が停まらないのは困ったもんだ。大正4年には東京さくらト
ラム(都電荒川線)の前身である王子電気軌道が駅前に乗り入れた。その後、地下鉄南北線の駅がで
きたのはずっと後年の平成3年のことだ。JRの駅は築堤上にあり、島式1面2線構造。ホームと改
札階を結ぶエレベーターはまだ設置されていない。ホームの西側に宇都宮線・高崎線の電車が走る中
距離電車用の線路があり、さらにその向こう側は桜の名所として有名な飛鳥山公園になっている。J
Rの改札口・出口は、北口・中央口・南口の3ヶ所。みどりの窓口やびゅうプラザを備えるメインの
改札は北口。

 
「ふれあい」
 東口階段下にある壁画。ベルギーのルイ・フランセンの作品。飛鳥山を中心に過去・現在・未来へ
と区民の生活を家族に表現した。

   ふれあい
   このレリーフは、永遠に生命を支える水の流れと、飛鳥山を背景に、過去から現在・未来
   へと続く、時の流れの一ページとして、区民の生活を一家族に表象して描いている。
   1986年4月
   原   画:ルイ・フランセン
   題字・揮毫:北本正雄
   企画・協力:北区 東京都 日本国有鉄道
   制   作:財団法人 日本交通文化協会 現代壁画研究所
   寄   贈:王子信用金庫

 ●バス停で老人がバスに頭を轢かれて死亡するの事故
 平成25年2月1日19時半頃、都バスが停留所に入ったところ、佐藤秀治(83齋)が倒れ込み
左後輪で頭を轢いた模様。老人は病院に搬送されたが死亡が確認された。運転手西野孝司(43歳)
が逮捕された。


■馬頭観音 ✓
 王子1丁目4番1号石神井川橋の袂にひっそりとある。昭和20年に建てられた新しいものだ。


■洋紙発祥の地碑 ◇
 王子1丁目4番1号、JR王子駅前の商業施設 サンスクエア の前に石碑と説明板が建っている。
ここは渋沢栄一が日本で最初の製紙工場を作った場所で、戦前まで王子製紙の工場が操業していた。
渋沢栄一は欧州を視察し、明治維新後大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わり、退官後「第
一国立銀行」を創設、さらに東京海上火災保険、東京ガス、清水建設、王子製紙、新日本製鉄、サッ
ポロビール、帝国ホテル、日本郵船など、日本を代表する企業の設立に関与し、生涯に500社もの
企業に関わるなど超人的な活動をした。また教育にも情熱を傾け、一橋大学、日本女子大、東京女学
院などの学校の設立に奔走したとか。碑の建つところは正門跡だ。創立80周年記念建立。


   紙発祥之地
   此地ハ明治五年十一月渋沢栄一ノ発議ニ因リ創立シタル王子製紙株式会社ガ英国ヨリ機械
   ヲ輸入シ洋紙業ヲ起セシ発祥ノ地ナリ当時此会社ハ資本金拾五万円ヲ以テ発足シ同九年畏
   クモ明治天皇英照皇太后昭憲皇太后ノ臨幸ヲ仰ギ奉リ東京新名所トシテ一般ノ縦覧スル所
   トナレリ 同社ハ昭和二十四年八月苫小牧製紙十條製紙本州製紙ノ三社ニ分割スルニ至ル
   マデ名実共ニ日本洋紙界ノ中心タリキ茲ニ八十年ノ歴史ヲ記念シテ永ク洋紙業発展ノ一里
   塚トセン
   昭和二十八年十月            藤原銀次郎撰文 高島菊次郎篆額 近藤高美書

 碑陰

   明治 5年11月 三井組小野組島田組等ニヨリ資本金拾五萬圓を以テ創立
   明治 6年 2月 紙幣寮ノ許可ヲ得抄紙会社ト命名
   明治 9年 5月 製紙会社ト改称

   
明治26年11月 王子製紙株式会社ト改称
   昭和 8年 5月 王子富士樺太工業三社合弁
   昭和24年 8月 王子製紙分割苫小牧十條本州三社発足
   歴代首脳者
   
(省略)
   昭和28年10月 建                十条製紙株式会社社長 西 濟

 説明板の説明


   洋紙発祥の碑
   日本の洋紙生産は、明治6年ヨーロッパの先進文明を視察して帰国した渋沢栄一が「抄紙会
   社」を設立し、ここ王子に製紙工場を作ったことから始まりました。田圃の中、煙を吐く
   レンガづくりの工場は、当時の錦絵にも描かれ、東京の新名所になりました。その後日本の
   製紙業に大きな役割を果たしましたが、昭和20年戦災によりその歴史を閉じました。こ
   の碑は、工場創立80周年を記念し、昭和28年その跡地に建てられたものです
                                   日本製紙株式会社
 


■紙の博物館 移転
 王子1丁目4番1号のサンスクエアのところにあった。

 王子製紙4号機関車・貴賓車 移転
 敷地内王子駅寄りにあった。苫小牧の王子製紙専用線で使われていたサドルタンク機。昭和10年
橋本鉄工所製、ポーターのコピーといわれている。博物館の改築・移転に当り、平成8年苫小牧アカ
シア公園に移転した。現存している。後ろにあった客車は王子製紙専用線の貴賓車。

   軽便鉄道用 機関車
   この機関車は、明治41年以降王子製紙苫小牧工場が、水力発電所建設資材の運搬と同工
   場使用原木の輸送をした軽便鉄道に使われたものの一つである。
   後年は国立公園に指定された支笏湖観光客のために客車を連結をして便益をになった。
   鉄道は観光道路新設により、昭和26年廃止されたが、この機関車は40余年間運転をつ
   づけ、北海道開発に一役買った記念物である。

   
貴賓車
   この客車は大正11年7月22日今上陛下(当時摂政宮)が、北海道 視察の折、支笏湖
   へお成りの節、乗車された貴賓車である。
 


ミキサー車横転事故

 王子1丁目4番2号駅前交番の近く東京さくらトラム(都電荒川線)際で起きた交通事故。王子警
察署や東京消防庁によると、平成29年8月17日13時40分頃、ミキサー車は北本通りを南東に
走行。交差点で明治通りに右折しようとしたところでバランスを崩し、曲がりきれずに横転した。運
転手や通行人にに怪我はなかった。この事故で、車両から漏れたガソリンに引火する恐れがあるとし
て消防車3台が出動。事故処理のために明治通りの一部車線が通行止めとなった。現場は、王子駅か
ら東に40mの駅前交差点。ガードの直ぐ側だ。王子は事故が多いね。


国立印刷局王子工場

 王子1丁目6番1号にある国の機関。この工場では郵便切手と証券類を扱っており、紙幣は印刷し
ていないので強盗に入っても駄目だぞ。
 国立印刷局は、明治4年「大蔵省紙幣司」として創設され、8月に「紙幣寮」と改称。創設当初の
業務は、紙幣の発行・交換・国立銀行(民間銀行)の認可・育成等、紙幣政策全般だった。当時国内
では印刷技術が未熟だったので、政府は、近代的な紙幣の製造をドイツやアメリカに依頼してた。し
かし「紙幣は国内で製造すべきである」との声が強まったため、紙幣寮において紙幣国産化の取組が
行われることになり、併せて証券類・郵便切手(明治5年1月製造開始)の製造・活版印刷等の印刷
・製紙業務を行うこととなった。紙幣寮は、研究に研究を重ね、同10年10月15日に国産第1号
紙幣(国立銀行紙幣「新券」1円)の製造を開始し、名実共に我が国近代印刷・製紙のパイオニアと
しての第一歩を踏み出した。そして同31年11月1日に官報(明治16年7月2日創刊)を発行し
ていた内閣官報局と統合し、官報も含めた内閣所管の「印刷局」となった。その後、幾多の変遷を経
て、平成15年4月独立行政法人国立印刷局となり、現在に至っている。国立印刷局は創設以来、独
自の研究・開発により築き上げてきた高度な偽造防止技術と効率的で厳格な製造体制を以て、国民経
済にとって必要な製品を安定的かつ確実に提供し社会の信頼に応えてきた。これからも世界に誇る技
術と信頼を保持し、社会への貢献を目指していく。

 組織の変遷
 明治4年7月27日大蔵省紙幣司→8月10日大蔵省紙幣寮→同8年9月4日太政官正院印書局を
併合→同10年1月11日大蔵省紙幣局→同11年12月10日大蔵省印刷局→同31年内閣官報局
と統合し内閣所管の外局として印刷局と改称→大正13年12月20日内閣印刷局→昭和18年11
月1日大蔵省の外局としての印刷局→同24年印刷庁→同27年8月1日大蔵省の附属機関として大
蔵省印刷局→同59年7月1日大蔵省の特別機関として大蔵省印刷局→平成13年大蔵省の名称変更
により財務省印刷局→同15年独立行政法人となり「国立印刷局」となる。

 王子展示室 → お札と切手の博物館
 お札や切手の外に、葉書、印紙、官報やCD-ROMなど、国立印刷局が製造する主な製品を展示
していた。平成23年市谷の「お札と切手の博物館」が移転してきてリニューアルオープンした。

 お札と切手の博物館 移転
 昭和46年に印刷局創立100年を記念して東京都新宿区市ヶ谷に開設した。展示室では、お札、
切手、証券など、国立印刷局が製造してきた各種製品とともに、明治期以前のお札、諸外国のお札や
切手、印刷機器、お札の製造と深い関わりをもつ銅版画など、様々な資料を陳列し、お札の歴史、偽造
防止技術などについて解説している。お札や切手を通じた知識習得の場として活用すれば、結構知っ
たかぶりできるぜ。
 開館時間 9時半~17時  03‐5390‐5194


王子駅前公園

 王子1丁目7番1号にある。王子駅北口を出て岩槻街道(国道122号線)を越えたところの三角
地だ。ここは千川上水を引水した地下貯水槽の跡で、明治通りを挟んで向かい側の内閣印刷局抄紙部
(→大蔵省印刷局王子工場→国立印刷局王子工場)のための用水だった。この地に印刷局の工場が設
けられたのは明治8年で、それより2年前に渋沢栄一が石神井川の水を利用した我が国最初の洋紙製
造会社「抄紙会社」を建てていた。のちの「王子製紙」だ。用水は昭和46年まで使用された。

 
風のモニュメント
 園内東北角にある鉄骨のオブジェ。
 


「金色の卵」

 王子1丁目8番1号王子パークビルにあるオブジェ。
 


■東京地下鉄王子駅

 王子1丁目10番8号にある鉄南北線の停車場。平成3年11月29日駒込~赤羽岩淵間開業と共
に設けられた。ホームは島式1面2線構造で、地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーター
は完備している。東京メトロの改札口は地下1階にあり、通常の改札口とエレベーター専用改札口の
2ヶ所がある。出口は1~5の5カ所で、5番出口に地上へ上がるエレベーターが設置されている。

 
ふれあい
 高架下の出口脇に設置された壁画レリーフ。厚みのあるレリーフと波打つタイル模様が印象的なル
イ・フランセンの作品だ。

   ふれあい
   このレリーフは、永遠に生命を支える水の流れと飛鳥山を背景に、過去から現在・未来へ
   と続く時の流れの一ページとして区民の生活を一家族に表象して描いている。
   昭和61年4月                原  画:ルイ・フランセン
                          題字揮毫:北本正雄
                          制  作:財団法人日本交通文化協会
                               現代壁画研究所
                          寄  贈:王子信用金庫
 


■北とぴあ
 王子1丁目11番1号にある。北区の産業の発展と区民の文化水準の高揚を目的として建設された
北区のシンボルだ。館内には多彩な施設をもち、ホール、会議室、研修室、音楽スタジオ、トレーニ
ングルーム、さらに産業情報センターや消費生活センターが整った産業と文化の拠点だ。最上階の1
7階は展望ロビーになっており、南・東・北、三方向の景色を楽しむことができるよ。

 平和祈念像
 正面玄関前に置かれている。北村西望が北区の名誉区民(大正5年から北区内に住んでいた)であ
ることと、北区の平和都市宣言施行5周年を記念して、北村の遺族と長崎市などの協力により平成4
年に建てられた。長崎市のもののレプリカ。

 17階(最上階)
 展望ロビー・展望レストラン山海亭がある。

 「湖畔」 ◇
 17階展望ロビーにある川崎普照制作の裸婦像。

 結婚式場(14~16階)
 16階東武サロン天覧の間。

 ペガサスホール
 15階。可動式の舞台・客席が組める床面板張りの多目的ホールで、演劇、講演会などに最適。

 カナリアホール
 14階。姿も鳴き声も美しく世界中から親しまれており、そのさえずりは歌や音楽を連想させるこ
とからカナリアホールと命名した。サロンコンサート、ピアノ発表会、パーティーなどに最適。最大
椅子席11〇名。面積約148㎡(楽屋有り)。可動式舞台。幅3.6m×奥行2.4m×高さ30c
m。

 スカイホール
 14階。地上約60mに位置する高層階のレセプションホール。「空」や「天」を意味するスカイ
ホールと命名した。レセプション、会議室、研修会などに利用出来る。最大椅子席138名。面積約
184㎡。可動式舞台。幅3.6m×奥行2.4m×高さ30cm。

 
飛鳥ホール(13階)
 定員384名(椅子のみの場合)、288名(机使用時) 多目的な平床のホールで、各種集会や会
議、パーティーなどに最適。運動はできないぞ。ピアノ演奏やカラオケなどはできるが、和太鼓やバ
ンド演奏は、地下へ行け。中央で2分割しての利用もできる。社交ダンスでの使用は制限がある。

 
産業関係団体事務室(12階)
 北区商店街連合会、東京商工会議所北支部、王子法人会、王子青色申告会、東京税理士会王子支部
北区納税貯蓄組合連合会、北産業連合会

 
産業情報センター・(11階)
 産業振興課(産業振興係、観光担当、経営支援係、商工係、消費生活センター)、東京城北勤労者
サービスセンター

 
北とぴあ受付北区文化振興財団(10階)

 
会議室・和室・研修室(7~9階)

 プラネタリウム → ドームホール
 プラネタリウムホールは投影機本体の老朽化等により、平成26年3月末を以てプラネタリウムの
投影を終了し、同27年4月より「ドームホール」として、演劇や映画の上映、ライブなどが行える
ドームの形状を活かした珍しい多目的ホールに名称が変わった。定員150名。

 「INERTIA」
 アストロプラザ5階屋上庭園にある彫刻。大隅秀雄の作品。

 
男女共同参画センター(スペースゆう)、男女共同参画推進課 (5~6階)

 NTOボランティアぷらざ(4階)

 さくらホール
 2~3階 舞台間口は、14.5~18m(ポータルタワーにて可変)。奥行17.8。高さ7.2~
9m・幅22m。緞帳2、絞り緞帳1、吊りバトン16本、大迫り2基、スラディングステージ、音
響反射板、スクリーン、残響可変装置、その他 観客1300席。オーケストラ演奏、オペラ、演劇、
バレエなどに最適だとのこと。別途申込で大小7つの楽屋とリハーサル室が使用できる。受付は半年
前から。


 つつじホール
 2~3階 舞台間口は9m、奥行7.05m、高さ4.5m、幅18m 緞帳1、絞り緞帳1、吊り
バトン3本、音響反射板、スクリーン、ホリゾント幕、舞台幕 観客
402席。発表会、講演会に適
している。別途申込で4つの楽屋とリハーサル室が使用できる。
申し込みは半年前から。


 「スーザン」像 ◇
 2階にある朝倉響子の作品。文夫の次女、摂の妹。この子は外国人女性ばかりモデルとする。

 
総合案内・テナント(1階)

 
区民プラザ
 1階の正面玄関を入るとすぐに広がる4層吹き抜けの大空間だ。パイプオルガンのミニコンサート
や季節にあわせたディスプレイの展示などを行い、北とぴあを訪れる区民に親しまれている。

 
「聞く」 ◇
 1階にある北村治禧の裸婦像。

 
「世界中のすべての子供達へ」
 1階にある飾り物。20人の子供が遊んでいる。

 
展示ホール
 地下1階 展示のためのスペースで、絵画・彫刻などの作品展や、企業の展示発表会などに。いず
れも販売、契約行為はできない。550㎡。定員360名。2分割可能。

 音楽スタジオ
 地下1階 三つスタジオがあって、第1が広く、第2・第3がやや狭い。


 トレーニングルーム

 地下1階

 「シャドー」
 地下一階にある装飾。根津りえの作品。
 


■石人と望柱石

 王子1丁目11番1号北とぴあの敷地内の北側にある。この石造物は朝鮮で造られたものだそうだ。
中央にある人の像は石人といい、両端の柱は、望柱石(マンジュソク)という。通常、2体2本で一
対をなす。もともと中国で古くから造られていたものが朝鮮に伝わったということだ。

   ここにある石造物は、朝鮮でつくられたものです。中央にある人の像は石人といい、また
   両端の柱は望柱石といいます。ふつう、2体・2本でい一対をなします。中国では古くか
   ら宮殿・廟・墳墓の近くに置かれていました。唐の時代からは、墳墓の参道に規則正しく
   置く風習が盛んになりました。それが朝鮮に伝わり、それ以降の墳墓にはこの形態でつく
   られました。ここにある石人は花こう岩に文官を彫ったもので、日本の江戸時代にあたる
   朝鮮(李朝)時代後期のものです。また着用している衣の表と裏にある模様は役人の官位
   をあらわします。
   望柱石は墳墓の参道の入口に標識として置かれて、葱の花の形のような擬宝珠をのせた八
   角形のものです。その八角形の一面に獣が浮彫りにされ、また擬宝珠の下に雲形の模様が
   みられる点が特徴的です。
 


■都電荒川線(東京さくらトラム)

 前身王子電車の敷設目的は飛鳥山への遊覧客の輸送だった。それは明治44年大塚駅~飛鳥山上(飛
鳥山)の大塚線が第一号であることでも判る。
 


■庚申塔 ◇

 王子1丁目30番12号明治通りに面してある小祠。割れているが、大きく「庚申塔」と彫り、右
面に「寅歳霜月」、左面に「
□州豊嶋□豊嶌邑 世話人」と刻む。


■石人と望柱石

 王子2丁目1番1号の稲荷前ガード入口前にある。朝鮮で作られたもの、2体2本で一対となし、
墳墓の参道に置かれたもの。朝鮮韓国のものは置かないほうがいいよ。盗ったの盗んだのと言いがか
りをつけてくるから、触らぬ神に祟りなしってことよ。

   石人と望柱石
   ここにある石造物は、朝鮮でつくられたものです。中央にある人の像は石人といい、また
   両端の柱は望柱石といいます。ふつう、2体・2本でい一対をなします。中国では古くか
   ら宮殿・廟・墳墓の近くに置かれていました。唐の時代からは、墳墓の参道に規則正しく
   置く風習が盛んになりました。それが朝鮮に伝わり、それ以降の墳墓にはこの形態でつく
   られました。ここにある石人は花こう岩に文官を彫ったもので、日本の江戸時代にあたる
   朝鮮(李朝)時代後期のものです。また着用している衣の表と裏にある模様は役人の官位
   をあらわします。
   望柱石は墳墓の参道の入口に標識として置かれて、葱の花の形のような擬宝珠をのせた八
   角形のものです。その八角形の一面に獣が浮彫りにされ、また擬宝珠の下に雲形の模様が
   みられる点が特徴的です。


■北王子線 
廃線
 王子2丁目5番から北に別れていく引込線。東十条1丁目と王子2~4丁目の境を走り、日本製紙
物流東京事業部北王子倉庫(北王子駅)までの区間だった。
 昭和2年に北王子線・須賀線は開業した。王子~下十条(現在の北王子駅)間の王子線は、国鉄線
として開業する以前から王子製紙の専用鉄道として存在していた。専用鉄道が敷設された時期は不詳
だが、下十条駅にあった同社の十條工場は、明治43年5に印刷局の工場として開業し、大正5年7
月に王子製紙に払い下げられた。須賀線(王子~須賀間)は、大正15年9月に大日本人造肥料(日
産化学工業)の専用鉄道として認可されたのを編入したものである。
 田端信号場駅と同区の北王子駅(貨物駅)を結ぶ日本貨物鉄道(JR貨物)の鉄道路線(貨物線)
の通称だ。正式には東北本線の貨物支線だ。嘗ては途中から同じく貨物線の須賀線が分岐していた。
起点は王子駅だったが、国鉄分割民営化の際に田端操駅(現在の田端信号場駅)起点に改められた。
但し、それ以前から同駅が実質的な起点だった。また、東日本旅客鉄道(JR東日本)に借りている
路線ではなく、JR貨物が第一種鉄道事業者であるということも特筆だ。田端信号場駅の入換用のデ
ィーゼル機関車が、コンテナ車を牽引して1日4往復していた。機関車の前部には監視員が添乗し安
全確認を行っている。平成18年3月ダイヤ改正から、従来は有蓋車ワム80000で運行されてい
た列車がコンテナ化された。


■王子小学校(旧)

 王子2丁目7番1号にあった区立校。明治7年(荒川小学校のHPでは明治6年)に、王子村・豊
島村・神谷村・下村・岩淵本宿町・袋村・赤羽村・稲付村・上十条村・下十条村・小豆沢村・本蓮沼
村の12町村の初等教育場として荒川学校が中十条の西音寺に創立した。校名の荒川は、「荒川の内
側」の意なのだ。しかし児童増加と通学距離の関係から、豊島村にもう1つの学校「豊川小学校」を
開いて、荒川小学校を稲付村香取神社北辺に移転して区内2校制を計画したが、東京府は豊川小の新
設は認めたものの、荒川小の移転については、既に出来た学校に更に移転費用の補助金(借用金)5
00円の申請には許可を出さなかった。ならば三校制にすんべえということにし赤羽小学校を創立し
た。荒川小学校はその後、同10年4月に西音寺改築のため上十条雪峰庵に仮校舎を経て、9月に王
子亀山の王子抄紙外人社宅地に移転。同12年に十条側の児童のために元の近くの真光寺に分校を設
置。同11年大区小区制廃止と連合町村制によって王子村区域の単独経営となったため、同17年晴
れて「王子小学校」と改称。同年分校の方に荒川小学校の名を残した。同40年2丁目7番の旧地に
移転した。児童増加により昭和51年に十条製紙跡地に「桜田小学校」が開校したものの、少子化に
より児童減少。平成17年両校は統合し、校舎を桜田小学校とし、校名は「王子小学校」とした。王
子学級は、
不登校や対人面恐怖症、赤面症、情緒不安定など一般的状態で授業が受けられない児童のケ
アをする学級だが、統合前は「桜田学級」といった。現在は「王子学級」。
 


■王子小学校(新)・王子桜中学校
 王子2丁目7番1号にある区立校。平成21年王子桜中学校と一体の新校舎が落成して旧桜田小学
校校舎から移転。

 校歌「
桜に染まる飛鳥山」 作詞・生徒と教職員  作曲・羽田健太郎
  1.桜に染まる飛鳥山
    緑豊かな学舎に
    元気な声を響かせて
    心一つに楽しく学び
    未来を開くわたしたち
  2.力を貸そう手を延べて
    君と笑顔を交わしつつ
    友達一杯腕組んで
    大きな力で伸びるんだ
    心豊かに逞しく
  3.夢を語ろう 希望を持とう
    僕等の未来 創るため
    悲しみ苦しみ乗り越えて
    勇気を翼に飛び立とう
    あぁ我が母校王子小

 
「あさの母子像」
 正門を入った右手にある銅像。  


■王子中学校
 閉校
 王子2丁目7番1号にあった区立校。
 


■王子桜中学校(王子小学校)
 王子2丁目7番1号にある区立校。平成17年少子化のため桜田中学校と王子中学校を統合して、
桜田中学校の跡地に「北区立王子桜中学校」として開校。

 校歌
「君がそこにいるから」 作詞作曲・小野ゆかり  補作編曲からさき昌一
  1.桜の花びらの中で初めて君と出会った
    誰より不安な心を君はそっと包んで
    目を合わせることさえ恥ずかしくて唯俯いてた
    笑って貸してくれた消しゴム・・・君は友達
    嬉しい時も悲しい時も君がそこにいるから
    ここからゆっくり歩いてゆこう 王子桜中学校
  2.校庭から見上げる空に夏の雲が流れて
    風を追いかける君のシルエット 長い影を作る
    幾つもの〝かけ声〟が校舎の壁に木霊して
    煌く季節の中 探し続けよう 何時迄も
    流した汗は夢のかけら 君がそこにいるから
    今日から明日へ歩いてゆこう 王子桜中学校
  3.放課後 廊下に響くよ スニーカーの靴音
    頬の冷たさも忘れて繰り返せば夕暮れ
    汚れたジャージのまま得意な笑顔でピースサイン
    どれくらい沢山の〝想い出〟ここに溢れるだろう
    迷った背中 押してくれる 君がそこにいるから
    確かめ乍 歩いてゆこう 王子桜中学校
  4.12の季節を巡って白いノートも何時しか
    君の文字と色に染まる 確かな〝力〟として
    人は誰も弱くて だから強くなれるんだ
    人は誰も淋しくて だから優しくなれるんだ
    何時かはきっと愛せるように 君がそこにいるから
    遥かな時を歩いてゆこう 王子桜中学校
    嬉しい時も 悲しい時も 君がそこにいるから
    ここからゆっくり歩いてゆこう 王子桜中学校 王子桜中学校


 同20年小中一貫教育モデル校指定。同21年4月新校舎、旧王子中学校他の敷地に完成。小学校
棟と中学校棟をL字型一体配置とし、中央が共用ゾーンとなっている。旧桜田中学校校舎から移転。
 


■尾長橋歩道橋
 王子2丁目18番・22番、3丁目12番・22番に亘る、王子3丁目交差点にある。現在はどう
か判らないが完成当時は東洋一長いといわれたものだった。尾長橋は石神井川上郷用水に架けられて
いたものだが、東西に走る道路が用水の流路跡で、明治になって軍用鉄道が敷かれ、豊島ドック(現豊
島公園)に通じていた。北本通りを走る市電(都電)とは平面交差していた。終戦直後の地図にはも
う載ってない。
 


装束稲荷神社
 王子2丁目30番13号にある。周りがくすんでいるので原色の赤々しさは賑やかだ。広重の浮世
絵「名所江戸百景 王子装束ゑの木大晦日の狐火」は、大晦日の晩に関東中の狐が大榎の下に集まり
衣服を正して関東総社である王子稲荷に参ったという伝承をもとに描かれた幻想的な名作だ。

 と書いたら、王子の小太郎様からメールを頂戴しました。

   
さて、王子稲荷の関東稲荷の総司の「関東」とは、平安時代の関東であって、江戸時代の
   関東の概念ではございません。

   http://ojikitune.web.fc2.com/hi-index.html
  をご覧いただきたく、お便りさせていた
   だきました。ご参考にしていただけましたら幸いです。
                王子小太郎

 それで以下の説話を掲載させて貰いました。


   昔々その昔、大昔のこと、海辺が荒川を見晴らす傍まで広がっていた頃、岸村の近くの古
   くからある大榎の辺りに沢山の狐火がありました。狐火は、特に大晦日の晩に限りなく現
   れ、不思議なことに、沢山の時ほど、翌年の作物が実り多かったのでした。村の人々は、何
   か畏(おそれおお)かったので、誰も傍まで行く勇気のある者はいませんでした。
    或る時、村人たちは皆で話あって、代表を何人か選んで、狐火の傍まで行って見てみよ
   うということになりました。一番狐火の現れる寒い寒い大晦日の晩でした。村人の代表た
   ちが枯れ草をかぶって息をこらして遠くで見ていると、どこからとも無くそれはそれは沢
   山の狐火が現れて、大榎の傍まで来ると、不思議や不思議、あーら不思議、身仕度を整え
   た狐の姿に、次から次へと変わっていくのです。総ての狐火が装束を調えたると、一匹の
   白い狐が前に現れて、ゆっくり岸稲荷の方に向って歩みはじめ、残りの狐たちも列を作っ
   て従って行ったのです。その列は延々と続き、人家の無い岸稲荷の丘の中腹は、稲荷へ向
   こうて揺れる狐火で一杯になりました。
    次の年、岸村の辺りの村々は、それはそれは豊かな実りと、争いや災いの無い良い年と
   なりました。村の人々は相談して、岸稲荷の側らに、岸稲荷をお護りして貰おうと白狐の
   宮を建て、大榎を装束榎と名づけ、その根元に装束(しょうぞく)稲荷を設けてお守りす
   ることにしたのでした。


   元旦に関八州の毛を拾い(川柳)
   名高い榎僧正と御神木(川柳)
   あの榎から問ふのさと野掛けいひ(川柳)
   狐火の中に王子の松飾(川柳)
   装束の榎も年の一里塚(川柳)

 一本の大榎があったと伝えられる装束稲荷では、毎年大晦日の晩に篝火を焚き、20年来「狐囃子」
を奉納し続けてきたが、数年前から地域の有志数十人がそれぞれの格好で提灯をさげ行列を始めた。
古来の伝説伝承を狐に代わって人間が行うことで都会の中のふるさとづくりを目指そうというのだ。
今は大榎はない。往時は一面の田圃だから、ここから王子稲荷は見通せた。大晦日、漆黒の闇の中に
狐火が浮かんで往時稲荷の台地の方に流れていくようなロケーションだったのだ。狐火については、
燐燃焼説、夜光虫説、狐の尾が触れ合う静電気説、時期的なことから掛取りに行く墨堤の提灯の灯の
光の屈折現象だろうと侃々諤々の意見が戦わされている。

   装束稲荷の由来
   今から約千年の昔この附近一帯は野原や田畑ばかりでその中に榎の大木がありそこに社を
   建てて王子稲荷の摂社として祭られ たのがこの装束稲荷であります
   この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年十二月の晦日の夜関東八ヶ国の
   稲荷のお使が、この社に集まりここで装束を整えて関東総司の王子稲荷にお参りするのが
   例になっていて、当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊
   凶を占ったと語り伝えられています 江戸時代の画聖安藤広重もこの装束稲荷を浮世絵
   として残しています
   その後、明治中期に榎の大木は枯れ土地発展に伴いその位置も現在の王子二丁目停留所と
   なり社はその東部に移されました
   昭和20年4月13日の大空襲の際猛烈な勢で東南より延焼して来た火災をここで完全に
   食い止めて西北一帯の住民を火難から救ったことは有名な事実であります
   この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので社殿を造営せんものと地元有志の発起
   により多数の信者各位の御協力を得 て現在の社殿を見るに至りました
   この装束稲荷は商売繁盛の守護神のみならず信心篤き者は衣裳に不自由することなく又火
   防の神としても前に述べた通りで信 者の崇敬を高めています。
    例大祭 初午
    御縁日 毎月7日 17日 27日
   昭和29年12月吉日                     装束稲荷神社奉賛会

 装束榎の碑
 境内にあり、「装束榎」とのみ刻まれている。区の説明板は、以下の通り。

   子の狐火と装束榎
   かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。毎年大晦日の夜、
   関東各地から集まって来た狐たちが、この榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣した
   といういいつたえがあることから、木は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火
   によ って、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。
   江戸の人々は、商売繁盛の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も
   盛んになっていました。やがて王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつた
   えも広く知られるようになり、上の広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。
   昭和4年装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後
   に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成5年からは、王子の狐火の話
   を再現しようと、地元の人々によって、王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日
   から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷ま
   での道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。    北区教育委員会

 狐火
 「東都歳時記」に、

   大晦日 今夜王子稲荷のかたわら、装束榎の木へ狐多く集まる。関八州の命婦ここに集ま
   り、官位を定めるよしにて、狐火おびただし。その狐火、山路をつたい、川辺をつたう様
   を見て、明年の豊凶を占うとぞ


 と書かれ、また「江戸名所図会」にも、

   装束畠 衣装榎 毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐 おびただしくここに集まり来ること恒
   例にして、いまにしかり。そのともせる火影にて、土民明くる年の豊凶をうらなうとぞ、
   このこと宵にあり、また暁にありて、時刻定まることなし。

 と書かれてる。

 
歌碑
 手水盤の左にある。

   
いざあけん えび屋扇屋とざすとも 王子の狐かぎをくわえて  


■金子診療所
 王子3丁目15番6号にある。評判は悪く、ごみ屋敷的で、患者もあまりいないとか。
 所長は金子庄一郎。金子は在日朝鮮人で、開成、日本医科大を卒業しているらしい。実績は凄く、
日本製紙、富士ゼロックスプリンティングシステムズ、日立電子サービス、キリンビジネスシステム
の嘱託産業医、目黒区八雲体育館嘱託健康スポーツ医、川越同仁会病院(精神科)を経験している。


 ●乗用車暴走死傷事件
 平成27年8月16日21時40分頃、東池袋1丁目29番1号の池袋東口公共地下駐車場から明
治通りに合流しようとして、突然、暴走、やや右に逸れて歩道に突進、歩行者5人を跳ね飛ばし、東
池袋1丁目6番4号ZARA池袋店の入口左にぶつかって止まった。負傷した5人の内、薬剤師の江
幡淑子(41歳)が頭を打って重体(その後病院で死亡)、27~71歳の男女4人も足や頭に怪我
をして病院に運ばれた。運転していたのは所長の金子庄一郎(53歳)で、自動車運転死傷処罰法違
反(過失運転致死傷)の疑いで現行犯逮捕された。
 金子は、警察官に引きずり出される際、「酒を飲んで何が悪い!」など奇声を発して叫んでいたと
いうが、警察の調べではアルコールや薬物等の反応はなかったという。急発進しており、居眠り運転
の疑いもある。調べに対し「ラーメンを食べ終えて駐車場を出るところだった。運転していたのは間
違いないが、歩道上に突っ込んだ記憶はない」などいっているとか。金子は鶴見に墓参りに行った帰
りに池袋に食事のため池袋に寄ったもので、医師だけに反応の出ない薬物を服用していたのかもしれ
ない。


陸軍境界石
 ◇
 王子3丁目22番7号の道路の曲がり角、電柱の根元にある旧軍遺跡。ゴミ集積場。


王子税務署

 王子3丁目22番15号にある税金を集める国の機関だ。
 


王子警察署

 王子3丁目22番22号にある。明治43年3月13日当時、東京府北豊島郡(現在の北区、板橋
区の全域及び豊島区、荒川区、足立区の一部)を管轄区域としていた板橋警察署の「王子分署」とし
て王子権現坂下(王子本町1‐1)に創設され、王子、滝野川、岩淵、日暮里の4町を管轄した。そ
の後、大正8年6月11日に分署から警察署に昇格し、大正後期に入り王子町大字王子6丁目613
番地(岸町1‐6‐17)に移転した。この庁舎も時代文化の発展に伴う人口増加と、さらには地理
的な問題もあって、昭和28年3月王子3丁目の旧陸軍火薬製造所の一角に新築移転したが、18年
余の歳月を経て老朽化のため、同所に新庁舎建築が進められ、同48年2月20日鉄筋5階建て、建
築延べ面積2300㎡庁舎が完成して今日に至っている。

 署歌
「富士と筑波に」 作詞・張本松榮  作曲・王山英光
  1.富士と筑波に育ぐまれて
    確固不抜の誠心に
    飛鳥文化の愛をくみ
    護りてここに幾星霜
    その名は王子警察署
  2.朔風肌を刺す夜半も
    文化を築く黒煙に
    粛然歩歩は堂々と
    巡りて望む北斗星
    その名は王子警察署
  3.兇徒群がり猛るとも
    断乎と立ちて打ち慎め
    都北の備え揺るがじと
    団結固く護り行く
    その名は王子警察署

 ●和牛取り込み詐欺事件
 令和3年1月14日までに、食品関連会社から食肉などの高級食材を騙し取ったとして、詐欺の罪
で特定抗争指定暴力団山口組系の組員で伊勢原市在住の坂田宏樹(41歳)ら9人を逮捕した。全国
約10社から6000万円を詐取し暴力団の資金源とした。

 
●6億円詐取事件
 令和3年6月6日、嘘の発注で会社の資金を騙し取ったとして、システム開発会社「ネットワンシ
ステム(東証一部)」の牟田友英(42歳)を詐欺罪で、佐々木秀次(50歳)を背任で夫々逮捕し
た。2人は上司と部下で別々に犯行を行っていた。
 牟田は、平成26年12月頃、官公庁に納入する通信機器の購入費などの名目で、自社から取引先
に4億7600万円を支払わせて詐取、一部の機器は実際に納入されたが パソコン800台(1億
8000万円)を買取業者に売却し、6500万円を遊興費に充当した。
 佐々木は、令和元年6~9月頃、別の取引先にIT機器の保守管理業務を架空発注し、自社から取
引先に1億9000万円を振り込ませ会社に損害を与えた。佐々木は架空取引先から1億7000万
円をキックバックし不動産投資に使った。2人とも懲戒解雇された。
 牟田は別件で逮捕され起訴されている。
 
 


中央図書館 移転

 王子3丁目22番3号にあった。十条台1丁目2番5号に移転した。しかし分室が、南側道路を挟
んだ向い側、豊島1丁目14番12号に新設されている。
 


■王子庚申塔道標 ◇

 王子4丁目25番1号先の電柱脇の小さな三角スペースにある小祠。角柱型。
日月、の下に「庚□
□」と彫る。右面に「明治十二卯□・・□」「右□・・□」。左面に「左□・・□」。表面は剥落し
側面の道標銘は判読できない。資料に拠ると「右としま」「左かにわみち」と刻まれていたとか。


王子消防署

 王子4丁目28番1号にある。十条・東十条出張所を擁する。
 


北王子駅 廃駅

 王子5丁目1番40号を北端として北王子線(引込線)の貨物駅があった。


■置き配泥棒
 王子5丁目2番の王子五丁目団地で起きた置き引き事件。令和2年5月、団地内の一棟で、新型コ
ロナウィルス蔓延の影響で、感染を恐れて直接手渡ししない配達方法が流行、玄関先に置くという信
じられない環境の中、当然のこととして置き引き泥棒が出現した。14日、王子署に逮捕されたのは
高橋哲也(46歳)で、4月9日10~13時にかけて団地の廊下で、衣類や化粧品などなど114
点(40000円相当)の入った段ボールを盗んだ。この団地では弁当や食材なども盗まれており、
全国各地でも同様の事件が頻発している。世知辛い余のだなぁ。、


■桜田小学校
 閉校

 王子5丁目2番8号にあった区立校。昭和51年王子小学校から分校して「東京都北区立桜田小学
校」として創立。桜田学級(現王子学級)開級。同52年体育館・プール完成。同57年校舎増築。
同61年創立10周年記念式典。
 平成9年創立20周年・北区立情緒障害学級開設20周年記念式典。同17年就学児童激減のため
王子小学校と統合、新しい「北区立王子小学校」となる。



■王子小学校

 王子5丁目2番8号(桜田小学校跡地)に平成17~21年の間あった区立校。旧王子小学校跡地
に小中一体型の新校舎が落成して移転。
 


■王子神谷駅

 王子5丁目2番11号にある東京地下鉄南北線の停車場。平成3年11月29日の南北線駒込~赤
羽岩淵間開業とともに設けられた。ホームは相対式2面2線構造で、地下3階にある。ホームと改札
階を結ぶエレベーターは完備。改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。出口は1~3の3ヶ所。地上
へ上がるエレベーターは1番出口付近にある
 


■さくらだ郷土資料館

 王子5丁目2番12号にある。飛鳥山博物館も郷土資料館だ。 


■でっかん坊橋跡
 王子5丁目2番と4番の接するところ、王子5丁目団地敷地の東北端にある。かつて甚兵衛堀に架
かっていた橋。甚兵衛堀は、江戸時代に湿地の水を排水する目的で掘った堀で、大蔵省印刷局抄紙部
が、この排水路に目をつけて進出、改修して木橋に架け替えて石橋とし「大坊橋」とした。大正13
年抄紙部の敷地が十条製紙に払い下げられ、その時またまた改修されて鉄筋コンクリート橋に架け替
えられ「大防橋」と改称した。でっかん坊は、代田橋の名の由来となった「ダイダラボッチ」と同じ
巨人伝説による。大坊は大道法師伝説によるか? 大防は字を間違えたか、軍国主義的だと思ったか
だ。堀は昭和52年埋立、橋は同63年に解体撤去された。
 


王子第一小学校
 王子5丁目14番18号にある区立校。大正5年王子尋常高等小学校より分校して、「東京府北豊
島郡王子町王子第一尋常小学校」として開校。
 昭和元年創立10周年記念式典。同3年11月現在地に校舎落成。同7年北豊島郡の東京市併呑に
より「東京府東京市王子第一尋常小学校」と改称。同11年創立20周年記念式典。同14年校庭整
備・植樹。武道場新設。登棒・鉄棒・雲梯など遊具設置。二宮金次郎銅像除幕。同15年校歌制定。

 同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市王子第一国民学校」と改称。12月日米開
戦。同18年都制施行により「東京都王子第一国民学校」と改称。同19年群馬県勢多郡他に学童集
団疎開。同20年日本敗戦。疎開解除により学童帰校。同21年創立30周年記念式典。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都北区立王子第一小学校」と
改称。同24年給食調理室完成・給食開始。同31年創立40周年記念式典・講堂完成。同34年給
食調理室改装・校舎大改修。同35年プール・万年塀完成。同41年創立50周年記念式典。同43
年25mプール・体育館完成。同44年新体育館制完成。第5期校舎改築。同46年花壇・飼育小屋
・国旗掲揚台完成。同51年創立60周年記念式典。同55年鉄筋コンクリート造り校舎落成。同6
1年創立70周年記念式典。
 平成8年創立80周年記念式典。同9年パソコンルーム開設。同12年学校給食調理業務民間委託
開始。同13年校舎耐震化。同14年校庭特殊舗装。同16年校内LAN整備。同17年図書館整備
同18年創立90周年記念式典。同20年普通教室エアコン設置。壁面緑化開始
 


■神谷橋庚申堂 ◇
 王子5丁目20番3号、地下鉄南北線神谷駅3番出口を出たところにある庚申観音堂。堂内には銅
製の観音像と2基の庚申塔が安置してある。昔ここに有徳の尼が住んでいて、尼の死後も無人の庵か
ら鈴の音が聞こえるので、村人は庚申塔を建てて祀ったといわれる。堂前に数々の器に入れた水が供
えられている。商店街名にまでなっているこの庚申塔への信仰が伺われる。隣に屋根付きの由来記が
ある。

 古蹟観音塚之由来記 ✓
 抑々コノ古蹟ハ・・・

 庚申塔
 板碑型。種子(バク)の下、中央に「奉供養庚申二世成就所」、右に「武州豊嶋之郡馬場村」、左
に「寛文九己酉天十月吉日」。下部に蓮華。
 


■神谷堀公園
 王子5丁目28番にある区立公園。

 
「みどりの風」
 園内にあるボールを高く掲げる裸婦銅像。
 


■板橋火薬製造所王子工場 → 陸軍第二造兵廠王子工場跡

 王子6丁目の全域と3丁目22~23番が陸軍の火薬製造所だった。跡地は王子郵便局と、中学校
が2校、高等学校が3校などになっている。地図で見るなら6丁目だけが碁盤の目状に整然としてお
り、建蔽率に余裕がありすぎて不自然だ。
 
明治9年陸軍砲兵本廠板属廠が旧加賀藩前田家下屋敷跡地の石神井川沿いに建設される。ベルギー
より輪入した火薬製造機械・圧磨機圧輪にて黒色火薬の製造を開始。初期の製造所面積は約3万坪。
昭和20年の終戦時には15万2千坪まで拡大。同12年砲兵本廠改粗により東京砲兵工廠板橋火薬
製造所と改称。同27年日清戦争勃発により、無煙小銃用火薬の実用を開始。→黒色火薬から無煙火
薬への転換。
(黒色火薬は硝石、硫黄、木炭を混合し、無煙火薬は綿や紙などの繊維状の物を硝化して作られる)
同33年無煙猟用火薬の製造を開始→軍用火薬の需要減により、民間用の火薬製造。同39年黒色火
薬の製造休止。設備の一部を目黒製造所に移す。同44年NN猟用無煙火薬の製造を開始し、従来の
無煙猟用火薬の製造中止。
 大正12年火工廠体制に一本化され、陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所と改称。9月1日関東大震
災が起こるが、他所に比ペ、被害は少なかった。同14年軍備整理に伴う職工整理計画により、人員
整理を行う。全従業員数は150人程度。
 昭和6年火薬工場の製造工室を系統的に移設整備する。同10年NN猟用火薬の製造中止。粗質無
煙火薬で強力なマーズ猟用無煙火薬の製造開始。同12年支那事変発生後、軍需動員法が発令され、
休止設備の運転開始、全設備の昼夜操業が始まり、工員も大幅に増員される。→終戦時従業員数20
99人。同15年兵器本部の新設に伴い、火工廠は東京第二陸軍造兵廠と改称。同20年4月13日
の空襲て被害を受ける。8月15日終戦により73年の歴史を閉じる。

   板橋火薬製造所王子工場
   (現王子六丁目地区)
   かつて、この場所には板橋火薬製造所王子工場がありました。この工場の歴史は、板橋火
   薬製造所の分工場(現堀船二丁目)が、明治37年 大正5年に現在の王子6丁目を買収
   したことから始まります。
   分工場では、大正6年ころから、堀船にあった既存の生産施設をこちらに移し、この地で
   火薬・爆薬の製造を行っていました。両施設は専用軌道と俗に豊島ドックと呼ばれていた
   掘割で結ばれていました。ちょうどこの位置に豊島ドックの船溜まりがあり、かつてはこ
   こで小型船舶が方向転換したり、荷物の揚げ下ろしをしていたようです。
   板橋火薬製造所王子工場という名は大正12年からのもので、その後も組織改正により何
   回か名称は変わりましたが、太平洋戦争終戦時に活動を終了したときは、第二陸軍造幣廠
   (第一が兵器、第二が火薬)に属していました。
 


駿台学園中学校・高等学校

 王子6丁目1番10号にある男女共学の私立校。詳細不明。


王子郵便局

 王子6丁目2番28号にある。
 


■豊島中学校
 閉校

 王子6丁目3番23号にあった区立校。平成19年少子化のため豊島北・清至両校と統合して「北
区立明桜中学校」となった。
 


■明桜中学校

 王子6丁目3番23号にある区立校。平成19年豊島・豊島北・清至の3中学校を統合して「北区
立明桜中学校」として開校。
 


■清至中学校
 閉校

 王子6丁目7番3号にあった区立校。豊島清光伝説によると、清光は7仏を豊島各地に祀ったとい
う。その一つ「勢至堂」に因んでできた字「勢至」の近くにできた中学校は、勢至の〝勢〟を、清光
の〝清〟に替えて「清至中学校」と命名された。平成19年少子化のため豊島北・豊島両校と統合し
て「北区立明桜中学校」となった。

 校歌
「都の北のあさぼらけ」 作詞・伊地知斉  作曲・桑原亮介
   都の北のあさぼらけ
   清しく薫る花の庭
   望みを高く励み合い
   自主と心理の道開く
   我らが母港 清至中学校
 


東京成徳大学高等学校

 王子6丁目7番14号にある男女共学の私立高校。中高一貫の男子校が豊島8丁目26番にある。
詳細はそちら。


北高等学校(→ 飛鳥高等学校)

 王子6丁目8番8号にあった都立校。平成8年改組して飛鳥高校となった。
 


飛鳥高等学校

 王子6丁目8番8号にある都立校。平成8年都立高校としては初めての全日制・単位制普通科高等
学校として都立北高校を母体に創立された。現在では総合学科校に分類される。大学のようなシステ
ムの高等学校だ。

 校歌「大空に」 作詞・河上一雄  作曲・宮川泰
   大空に未来を見つめ
   はばたける 我ら飛鳥の若人よ
   学びの心 いと高く
   真理の途を求め行かん
 
  


白龍神社

 王子6丁目9番10号にある中社。鉛筆会社の社内社。

   白龍神社御由緒
   一、御祭神  白龍大明神
          青龍 明神
          黄龍 明神
          大山 大神
          一位 大神
   一、例祭日  9月10日
   一、御由緒
     守護神として先祖が奉斎してきた神社で、北海道斜里郡清里町緑に小林直喜が木工場
     を興し戦後現在地に移って鉛筆の製造を手掛け、白羊鉛筆株式会社(現、株式会社べ
     ネフォーム)の邸内社として祀り、平成5年ここに現社殿を修復・新装した。
   一、御神徳
     一位の木は別名アララギとも呼ばれ古くから笏の材料として用いられ、鉛筆の素材で
     もあった。家業の励みに日夜一位の神に感謝し、一位の自生する深山の神の御恩を仰
     いだ。山は白龍大明神(西方)青龍明神(東方)黄龍明神(中央)の水神によって水
     源を護り、その水によって木は栄え、木は山の湧水を豊かにする。全て神恩である。
     日夜御祭神に報恩感謝して努め励むことにより幸え給いて開運に導く神々である。
     平成6年9月吉日            株式会社ベネフォーム
                             代表取締役社長 岡秀一 敬白


須賀貨物線(→紀州通り) 撤去
 昭和2年王子駅と豊島天狗の鼻(豊島5丁目団地のところ)にあった日産化学を繋いだ貨物専用鉄
道。同45年ごろ廃線となり撤去。現在の紀州通り。




【王子本町】(おうじほんちょう)1~3丁目           昭和41年11月15日
 王子村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡所属、同22年王子村大字王子、同41
年王子町大字王子、昭和7年王子と滝野川の一部で王子区王子町、同14年王子町の大部分は下十
条の一部を編入して王子1~5丁目となり、一部を下十条に譲って岸町となった。残余は王子町の
まま同22年北区に属し、同31年講和条約記念町名地番整理で王子駅西の王子町を王子本町とし、
同41年に下十条町の一部を編入して新住居表示を完了、現行の「王子本町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」のほか『北区史』など。

 王子本町の由来
 王子神社のある本村だった昔の栄光を誇りとして本町とした。王子の由来は前項を見よ。


■音無親水公園

 王子本町1丁目1番1号にある区立公園。

   音無親水公園
   音無川のこのあたりは、古くから名所として知られていました。江戸時代の天保七年に完
   成した「江戸名所図会」や、嘉永五年の近吾堂板江戸切絵図、また、安藤広重による錦絵
   など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親
   しまれていたことがわかります。
   「江戸名所花暦」「遊歴雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもでき
   れば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれて
   おり、江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めにつ
   いて、飛鳥山が手にとるように見え、眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水
   の音が響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。
   こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和六十三年、北
   区は、この音無親水公園を整備しました。
     たきらせの 絶えぬ流れの末遠く すむ水きよし 夕日さす影
                        
飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より
   昭和63年3月                            東京都北区

   「日本の都市公園100選」は、公園緑地に対する愛護精神を喚起するため、全国から募
   集した都市公園の中から、勝れた景観、独創的なデザイン、個性的な施設などを総合的に
   判断して選定したもので、全国の都市公園の模範となるものです。都内では音無親水公園
   のほかに、国営昭和記念公園、日比谷公園、上野公園、水元公園、代々木公園が選ばれて
   います。                          平成二年五月二十三日


■三本杉橋跡碑 ◇

 王子本町1丁目1番24号、権現坂と森下通りの交差するところのマンションTKハイツ王子の入
口脇、街路灯と電柱の間に建っている。殆ど気づかれない。石神井川からの上郷用水に架かっていた
橋。日光御成道(岩槻街道)を通す重要な橋だった。将軍が日光参詣の折には必ず通った。
 


■権現坂

 王子本町1丁目1番24号の三本杉橋跡碑のところから南西に上り、次の辻を直角に南東に上がっ
て行く坂道。王子神社、かつての王子権現の鳥居前に出る。


   
権現坂
   権現坂とは、この坂を下った交差点から王子神社の鳥居付近まで登っていく坂道を言いま
   す。権現という坂の名称は、王子権現社の権現から採った名前ですが、これは、神仏分離
   以前の王子神社が王子権現と呼ばれていた点に由来しています。坂の下の交差点付近は江
   戸幕府の将軍が日光東照宮に参拝するための日光御成道の路上にあたり、ここは、三本杉
   橋という橋も架かっていました。三本杉橋は橋の袂に三本の杉があったのでつけられた名
   称といわれています。
   平成4年3月                           北区教育委員会



■王子大滝 消滅
 石神井川音無橋の下に堰があり上・下郷用水を分けていたが、改修によってなくなった。堰から落
ちる滝が、落差があったので大滝と呼ばれた。本流は飛鳥山の下をトンネルで流れる。上郷用水も下
郷用水(音無川・二十三ヶ村用水)も今はない。
 


■王子神社社号塔と石燈籠(一対)
 王子本町1丁目1番11号にある。

   元准勅祭 王子神社

   奉献 昭和十二年九月
      氏子總代高木靜馬


■王子神社
 王子本町1丁目1番12号にある。豊島氏が勧請したが、その時期は別当金輪寺に奉納された大般
若経の奥書によって文保二年(1318)以前であることが判る。豊島系図では景村が建てたとする
が、これは勧請ではなく、普請(建築)だろう。豊島氏縁の古社ということと、城北地区を代表する
神社なので、明治維新により姦賊大久保利通により東京に移らされた明治天皇の奉幣を受けて准勅祭
十社の内に入った。勝海舟が毎夜浅草から来て胆を練ったと戦後の小説にはよく書いてあるが、それ
は同じ王子権現でも牛島神社の方で(別冊『歴史手帖』No1)おっちょこちょいな小説家の早とち
りだ。作家の嘘はしょうのないものでね、文豪といわれた井上靖ですら平気でありえない大嘘をつい
ているのさ。『江戸名所図会』によると、康家・清光父子の祠もあったが、アメリカ軍が空爆で燃やし
てしまった。ただ「関の明神」だけが、戦後美容の神として復活した。境内に「王子田楽の碑」、社
殿改修記念碑がある。
 かつてはひるなお暗いほど鬱蒼と樹木が繁っていたという境内も、今は木などというものは天然記
念物の大銀杏がある程度で、哀れを留める。この神社のお守りは「槍」で、これは2cmくらいの三
角の槍先に、15cmくらいの細い柄をつけ、これで身体の悪い部分を撫でるとたちどころに治ると
ある。この槍は戦前まで行われていたこの社の祭礼槍祭の流れを汲んだもので、7月13日の祭礼に、
参拝者は小さい槍を社殿に奉納して、先に納めた人の槍と交換して持ち帰って、火災盗難のお守りと
し、次の年にもう一本を加えて奉納するのだ。

   槍祭稲も穂先の揃ふ頃(川柳)
   槍持ちの参詣もある十三日(川柳)
   王子と水木名の高い槍踊り(川柳)
   あつらえた槍で息子は啌(うそ)をつき(川柳)


 水木は元禄の頃、市村座で槍踊りを舞って好評を博した名優水木辰之助のこと。最後は道楽息子が、
この日参拝せずに手に入れた槍で遊里に遊んだことをごまかす様を読んでいる。

   王子神社(由来)
   御祭神  伊邪那岐命 伊邪那美命 天照大御神
        速玉男之命 事解男之命
   元亨二年(1322)豊島郡を支配していた豊島氏が、熊野の方向を望む石神井川沿いの
   高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として祀られるようになり
   ました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりま
   した。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの
   説があります。
   王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進を受け、江戸時代には
   徳川家康が社領として200石を寄進しました。これは王子村の村高の3分の2に当たり
   ます。別当寺は、王子神社に隣接していた弾夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に
   休憩する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と
   関係が深く、三代将軍家光は社殿を新造し、林羅山に命じて「若一王子縁起」絵巻三巻を
   作らせて奉納しました。
   家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も、五代将軍、十代家治、十一代家斉が社
   殿の修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社は17社を数えました。
   紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植
   樹して寄進しました。この後はなみの名所となった飛鳥山や王子神社周辺は、江戸近郊の
   名所として多くの人が訪れるようになります。特に7月13日に行われた王子神社の例祭
   は「槍祭」とも呼ばれ、小さな槍を買い求める人や田楽踊を見物する多くの人で賑わった
   ことが見物記などからうかがえます。
   明治時代に入ると、明治元年准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされま
   した。
   戦前の境内は「太田道灌雨宿りの椎」と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていた
   が、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは戦災を逃
   れた貴重な文化財です。戦後は氏子一同により、権現造の社殿が再建され、現在の景観に
   至っています。
   末社 関神社 蝉丸法師を祭神とし、理容業者より信仰されている全国でも珍しい「髪」
   の祖神です。
   平成25年6月                       東京都北区教育委員会


 「北区文化財案内」に、

   王子権現は、縁起によれば紀州熊野三所を勧請したもので、祭神は速玉之男命、伊弉册尊、
   事解之男命である。王子村は古くは岸村といったが、同社が勧請されて王子村と改めたと
   いう。勧請の年代は不詳であるが、康平年中(1058~65)源義家が奥州征伐(前九
   年の役)の時、ここで金輪仏頂の法を修せしめ、凱旋の日、甲冑を奉納したと縁起にある
   ので、それ以前の勧請であると推定される。文保(1317~19)、元弘年中(133
   1~34)豊島氏が修造し、その後小田原北条氏が社領を寄進していることが「小田原衆
   所領役帳」に記されている。天正十九年(1591)、社領200石の朱印が付され、寛
   永十一年(1634)徳川家光は酒井雅楽頭に社殿を造営するように命じ、林羅山にこの
   権現を新たに書くように命じた。天明二年(1782)、文政三年(1820)幕府によっ
   て修理が加えられている。祭礼は花鎮祭といい、3月10日に行われていたが廃されてし
   まった。また七月十三日の祭礼には田楽舞という式が行われており、正月13日には十八講
   が行われ、年中大小の祭礼は七十余りになる。
   以上は、王子神社について「新編武蔵風土記稿」が記すところを現代文に要約したもので
   す。・・・現在、王子神社の祭神は、伊弉諾尊、伊弉册尊、天照大神で相殿に事解男命、
   速玉之男命を祀っており、境内には大イチョウ、関神社があります。

 とあり、

 大銀杏
 かなり遠方からでもこの銀杏は見え、付近と異なる風致地区を形成している。大正13年の実測に
よると、目通り幹囲は6.36m、高さは19.69mであったという。枝はあまり多くないが、鬱蒼
としており、樹相は極めて立派だ。当社は豊島氏の旧跡であり、この銀杏も、その当時植えられたも
のであると伝えられている。傍らの都の説明板に、

   東京都指定天然記念物
   
王子神社の大イチョウ           所在地 北区王子本町1の1の12
                           指 定 昭和14年3月
   音無川(石神井川)左岸崖線の肩の部分に、一際高くそびえ立つ大イチョウです。幹囲り
   5.2m、樹幹の先端部は欠損していますが、高さは24.2mあり、全体的にはほぼ自然樹
   形を保っています。
   王子神社の創初については、飛鳥山公園内にある「飛鳥山碑」(都指定有形文化財・古文
   書)に書かれています。それによれば、元亨年間(1321~24)に豊島氏が勧請した
   ことが始まりとされていますので、その頃にこのイチョウが植えられたとすると、600
   近い樹齢と考えられます。
   戦災によって王子神社の社殿や太田道灌が雨宿りしたという伝説を持つシイの大木など多
   くのものが失われた中で、このイチョウは生き延び、今も高台から東京の街の移り変わり
   を静かに見つめています。
   平成23年3月 建設                      東京都教育委員会


 とある。


 王子田楽
 王子権現社(王子神社)に伝承された民俗芸能で、始まりは中世の頃といわれている。江戸時代に
は、旧暦の7月13日に境内の舞台(現在は滅失)で、花笠を被り、衣装を着けた躍り手が十二番の
演目を奉納したことが、当時の地誌などに記されている。戦争で長らく中断していたが、地域の人々
の努力により昭和58年に復興を果たしました。現在は毎年8月、王子神社の例大祭最終日の午後、
境内の仮設舞台で、地域の子供たちが踊り子となって執り行われている。

   東京都北区指定無形民俗文化財
   
王子田楽
   王子田楽は、豊かな実りと無事を祈って、毎年八月、王子神社の例祭で、神前に奉納され
   る伝統芸能です。花笠をつけ、鼓、筰、太鼓方が笛に合わせて踊る、全国でも少ない芸能
   です。しばらく途絶えていましが復元され、王子田楽衆と王子田楽式保存会により保存・
   伝承されています。                     東京都北区教育委員会
 


■髪の神様・関神社

 王子神社の境内にある。祭神に蝉丸・逆髪姫・古谷美女。戦災で焼け、昭和34年社殿再建、同3
6年毛塚造立。同45年社殿新築。平成10年「毛塚」も建て替えられた。病で髪が抜けた蝉丸が古
谷美女に命じて、姉の髪で鬘を作って貰い隠したという伝説に基づいて祭神としたもので氏子は映画
六社、かつら組合、人毛組合、床山組合、美容組合などだ。

   「髪の祖神」関神社由緒略記
       蝉 丸 公 神霊
   御祭神 逆 髪 媛 神霊
       古屋美女 神霊
   これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関
   の名で有名な「蝉丸公」は、延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であ
   り又、髪の毛が逆髪であるゆえに嘆き悲しむ姉君 のために、侍女の「古屋美女」に銘じて
   「かもじ・かつら」を考案し、髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪
   の祖神」と博く崇敬を集め、「関蝉丸神社」として、ゆかりの地、滋賀県大津の逢坂山に
   祀られており、その神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として、江戸時代、ここ
   「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。
   昭和20年4月13日、戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて、全国各地
   「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け、浄財を募り、
   昭和34年5月24日これを再建せり。               王子神社 宮司
   毛塚を由来
   釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき、貧女が自らの髪の毛を切り、
   油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌々と輝き、世に貧女の真心の一灯と
   して髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。
   毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和36年5月24日「関神社」境内
   に毛塚の塔を建立し永く報恩の一助とする。            関神社奉賛会
                                   東京人毛商工組合

                                   東京床山協会
                                   東京かつら協会
                                   関西かつら協会

 関神社再建碑
 社殿右にある。

 
毛髪塔
 社殿の左にある。

   この神社の由緒によると、関蝉丸神社の御神徳を敬仰する人たちが「かもじ(髪を結う時
   自分の髪に添え加える毛)業者」を中心として、江戸時代に王子神社境内に奉斎したこと
   を創始としています。「毛塚」は釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られた時、
   貧女が自らの髪の毛を切り、油にかえて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝
   いたという言い伝えから、毛髪を扱う業者によって毛髪報恩と供養のために昭和36年5
   月24日建立されました。
 
 


禅夷山東光院金輪寺跡

 王子本町1丁目1番7~10号(中央工学校ある一帯)と2番(区役所第二庁舎・清音閣)にかけ
てと名主の滝公園の南半にあった。明治維新の神仏分離令で廃寺となって今はない。現在金輪寺とあ
るのはかつての塔中「藤本坊」で、維新後にその名を襲ったものだ。『新編武蔵風土記稿』に、

   
(王子村王子権現社別當)金輪寺
   古義真言宗紀伊國高野山無量壽院末、禅夷山東光院と號す、京仁和寺の院家光明院を兼帯
   せり、相傳ふ康平年中源義家東征の時當所に於て金輪佛頂の法を修せしめ、凱旋の日甲冑
   を社頭に奉納し、且誅罰せる處の夷賊の魂の冥福を修せられ、迷走を禅楽に獲得せしめら
   れしゆへ、山を禅夷と號し、寺を金輪と稱すと云、古は新義なりしが、慶長十四年僧宥養
   台命によりて王子兩社の別當に補せられしより今の宗に改む、其頃關東にて古義真言宗の
   棟梁五ヶ寺を定められ、御黒印を賜ふ、當寺其一なり、故に宥養を中興開山とす、此僧は
   もと相模國大磯宿地福寺の住僧たりしが、天正年中東照宮へ謁し奉り、慶長十三年十一月
   浄土法華宗論の時證人として論席へ出ることを命せらる、明る十四年伊奈備前守をもて江
   戸邊の古刹御尋ありしに、金輪寺は古き草創にて今無住なる由を答奉りしかは頓て命あり
   てここに住職す、其後紫衣を勅許せられ、又時々御城へ召れて御祈禱を命せられ、或は法
   義など御尋あり、同き十九年大坂御陣の時御祈禱札を彼地へ持参し奉りしかば、御感あり
   て伏見城に於て酒食を給はれりと云、是より先権大僧都朝宗當寺に住職せしこと、慶長九
   年社頭にかけし燈籠の銘に見えたり、本尊金輪佛頂は行基の作、又権現の本地佛薬師阿彌
   陀千手観音を客殿に安置す、慶弔の頃東照宮此邊御放鷹の時當寺へ成らせられ、つひて台
   徳院殿大猷印殿にも御立寄あり、寛永十一年宮社別當御造營の時、金輪寺佛殿の西續へ上
   段御座處をも建させられしより、御膳所となり、其後享保五年修理を加へられし頃、南の
   方崕の端へ別に御座所を建續けられ且其前に舞臺を設けられしとなり、此御舞臺より咫尺
   に飛鳥山を臨み眼下には王子川漲り流れて、石堰に激せる水聲潺湲として響き、渓間の茂
   樹春花秋楓の鑑美を具し最絶勝なり、其圖上に出す、安永五年凌明印殿日光御社参の時御
   小休所に命せらると云、當寺御膳所の節年内初度には五香散と稱せる、神薬及野菜一臺を
   献上すること恒例にて、時服白銀若干をかつけらるといへり。

   寺寶
   屏風一隻。狩野洞雲筆にて西王母を畫く、有徳院殿賜ひしものと云。
   卓圍一鋪。文昭印殿御能装束にて造らしめ給ひ、月光院殿より御寄附ありしと云、裏書に
   従三位月光院殿正徳年中御奉納寶暦五年八世宥仙記之とあり。
   金色佛舎利一粒。寶筐塔中に納む、扉に四天王の畫あり。
   鹽山指出磯圖屏風一隻。古法眼元信の筆と云、千鳥の屏風とも稱す、
   茶銚一口。高五寸共蓋にて五七切の模様あり、釻付は松子なり、口の直系三寸九部蘆屋の
   釜と云傳ふ。
   五大尊畫像一幅。幅四尺許僧文覺の筆と云、以上四は北條氏直より住持宥養へ寄贈すと云
   傳ふ。
   兩部大曼荼羅二幅。弘法の筆と云、能登國能登郡石動山天平寺より寄附なり、裏書に奉修
   覆金子其寄進于時天正二年甲戌九月吉日石動山天平権大僧都玄秀修善院と記す。
   冷泉爲久卿和歌一幅。
   飛鳥山十二景和歌十二葉。元文四年の詠歌にて共に短冊なり、別紙に眞字の跋を書して一
   箱に入る。
   狩野友甫畫一幅。田家月出の圖なり、冷泉爲久卿住持宥衛に寄贈せらる、西三條大納言公
   福の筆にて、秋の田の露しくとこのいなむしろ、月のやととももりほりかなと、云讃より。
   無量壽佛像一幅。明人の畫彩色あり、柘植傳左衛門知清寄附。
   狩野尚信墨書十二幅(文面省略)
   宋板大日經一部。大永中北條氏綱相州鎌倉極楽寺に寄附せしものなり、當寺への傳来は詳
   にせず、經の首に極楽寺真言院と云印を押し、又氏綱寄納の時押たる印文あり。
   宋板一切經零本二冊。豆州走湯山般若印の蔵なりしを、文化年中院主周道より當寺に寄附
   すと云。
   (以下寺寶省略)
   御成門。寛永年中設けらると云。
   御膳水。近き頃新に掘せられし井なり。
   塔中。池上坊、月蔵坊、寶珠坊、藤本坊。


 とある。

 
五香湯
 この寺で出していた万病に効くといわれる「五香湯」は、今も扱っているようだが、現在では製薬
会社から買っているらしい。未確認。
 この五香湯を買う時は、大声で乞うのを通例としていた。

   五香呼ぶ声はつんぼを叱るよう(川柳)

 何故大声出すかというと、小声で頼むと弟子が調合した薬で終わってしまうが、大声なら住持の耳
に達するので、よい薬を調合してもらえるからだそうだ。またこの薬を求める者には食事を振舞った
らしく、

   白狐のやうな粥を出す金輪寺(川柳)
   金輪寺お薬取りを食づかせ(川流)
   五香を貰ひ飯を食い腰を曲げ


 王子神社の祭礼には、同社の別当寺であるのだ、十二坊から田楽舞を出した。その中には鎧をつけ
た法師が長刀を携え、7振の刀を帯して行進したり、白丁を着て立傘を持った者が金輪寺と王子神社
と7度半走って往復したりする。

   かにの足ほど太刀を差す金輪寺(川柳)
   法師武者ほど下戸のさす王子道(川柳)
   叡山は三度王子は七度半(川柳)


 墓地は1丁目3番の西半にあったが、石神井川の改修後に1丁目5番の阿弥陀坊跡地(現在地)に移
された。「北区文化財案内」に、

   禅夷山東光院金輪寺(旧金輪寺)旧金輪寺は、現在の王子郵便局周辺一帯にあった真言宗
   の大寺院でした。康平年間(1058~65)源義家が東征に際し、この地で金輪仏頂の
   法を修せしめ、凱旋の日、甲冑を奉納して相手方戦死者の冥福を祈ったことに始まると伝
   えられています。慶長十四年(1609)、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の命により、宥養
   上人が当時無住であったこの寺院の住職に任じられ、王子権現(王子神社)、王子稲荷神
   社の別当となり、またそのころ定められた関東古義派5ヶ寺のひとつにもなりました。寛
   永十一年(1634)将軍の座所が設けられて以来御膳所となり、享保五年(1720)
   その修理の際に舞台を設け、また、安永五年(1776)徳川家冶日光社参の際の小休所
   に命じられました。寺宝としては、「狩野洞雲筆屏風一雙」「狩野尚信墨画十二幅」「冷
   泉為久和歌一幅」「林信充作飛鳥山十二景詩一巻」「小田原衆所領役帳写一冊」など多数
   ありました。宥養上人は、時々江戸城に召されて祈祷を命ぜられ、法儀などについて将軍
   の質問に答えたこともある僧でした。
   また旧金輪寺第5世宥相上人は、元禄五年(1692)高野山に登山した時、同高室院に
   蔵されていた「小田原衆所領役帳」の写本を作りました。これらはいずれも火災により焼
   失しましたが、宥相上人写本の写しが内閣文庫に現存しています。


 とある。

 阿弥陀堂墓地
 王子本町1丁目5番17号にある。区役所第4庁舎の西側だ。


■音無橋

 王子本町1丁目1番8号先、石神井川に架かる橋。昭和5年の架橋。

   音無橋
   音無橋の名の由来は、築橋されている石神井川に求められる。石神井川は多摩地方から東
   流し、北区において隅田川に合流するが、王子権現付近より以東の路線はかつての滝野川
   あるいは、音無川と呼ばれている。音無川の名は紀州熊野権現本宮近くにある音無川に因
   んだものである。
   本橋は、昭和5年の架橋以来、周辺の交通の便を確保するとともに、地域の発展の要とし
   て機能している。


■清音閣

 王子本町1丁目2番12号にあるオーナーズマンション。一角にオーナーが住む総戸数44戸の賃
貸住宅で、構造は3mもしくは6mピッチ、梁は6mピッチのラーメン構造で、3m×3mを基本と
した植栽が各戸に付き、植物の成長や他の部屋からも緑が望まれるよう下階から上階をセットバック
させている。植栽された樹木は高木10種、低木18種以上で自然林に近い植生をめざしたとのこと
で、長年を経た現在でも自然林の趣がある。屋上もハイビャクシンで緑化されているとのことで一般
に見られる中層集合住宅とは違って戸建感のある集合住宅だ。計画に際して建蔽率や容積率に余裕を
残しているため周囲に対し圧迫感が無く、南東面の音無親水公園の緑と自然に繋がり一帯的緑地とし
ても周囲に認知されている。

 「くぬぎ林の中で」
 植栽にある中井川由季の彫刻作品。細長いカボチャのようなデザイン

 
「くぬぎ林の中で2」
 別の入口の前にある中井川由季の彫刻作品。細長いカボチャのようなのが3つ。


■阿弥陀堂

 王子本町1丁目5番17号の墓地内にある金輪寺の境外仏堂。もと禅夷山東光院金輪寺の塔頭で弥
陀坊と称していた。金輪寺が神仏分離令により廃寺となった後、真言宗霊雲寺派総本山霊雲寺第15
世正行大和尚が、藤本坊に金輪寺の寺号を継がせて、弥陀坊はその金輪寺の境外仏堂となった。豊島
八十八ヶ所霊場55番札所。
 正面左に、阿弥陀如来像、脇侍が、象と獅子に乗った仏像が面白い。
 再建された阿弥陀堂の向かいにある木食上人の墓は山下覚道のことで、火を通したものは一切食べ
ず「草食う坊さん」といわれた。覚道は阿弥陀堂の堂守をして貯めた金で貧しい人に米を恵んだり、
王子権現の石段を整備したりした。墓地入口の石仏も覚道の作だ。
 
 


■音無さくら緑地

 王子本町1丁目6番14号の石神井川旧河道にある区立公園。

 
緑のつり橋 ◇
 昭和29年石神井川遊歩道に架けられた。同33年の狩野川台風で遊歩道は壊滅、松橋、緑のつり
橋は流されたが、緑の吊橋だけが再架された。蛇行する石神井川の直線化が進むと、同55年蛇行部
は流路から切り離され、旧河道は「音無さくら緑地」となった。緑のつり橋も、架け替えられ、現在
の橋は、平成6年に架け替えられた4代目だ。そろそろ5代目か?

 
松橋 ◇
 公園橋。遊歩道と緑地に渡る橋。昭和55年以後の架橋。歴史上の松橋(板橋)とは無関係。  


■王子大坂
(地蔵坂、うとう坂)

 王子本町1丁目6番と24番の間を北西に上がって行く坂道。

   王子大坂
   飛鳥山に沿って東におりた岩槻街道は、石神井川を渡って左に曲がり、現在の森下通りを
   抜け、三本杉橋の石の親柱の①から北西に台地を登る。この坂が王子大坂である。岩槻街
   道は江戸時代、徳川将軍の日光社参の道で日光御成道と呼ばれた。登り口に子育地蔵があっ
   たので地蔵坂
とも呼ばれ、昔は縁日でにぎわった。また、坂の地形が、海鳥の善知鳥の嘴
   のようなので「うとう坂」の名もある。               北区教育委員会


■願徳寺

 王子本町1丁目8番9号にある浄土真宗大谷派の寺。
 


■馬の彫刻 ◇

 王子本町1丁目10番6号THE CENTER VILLEGE KOGA の入口にある。跳ねる
馬の背に片足で立つ裸婦。作者など不明。

 
銅版レリーフ 2枚 ◇
 玄関前の塀の壁に貼ってある。同じ構図、色が異なる。

 
ネコ2匹像
 塀の上にある。


■北区役所
 王子本町1丁目15番22号にある。

 
オブジェ
 正面のオープンスペースにある石柱とステンレスの大きな作品。

 
●生活保護費4300万円横領事件
 平成30年7月4日生活保護費支給担当の健康福祉部生活福祉課相談係主査(係長級)小林昇(4
6歳)が横領罪で逮捕された。直接の容疑は、平成29年4月から10月までの間、区職員を欺いて
区から生活保護費を不正に支出させ、約220万円を騙し取った疑いだ。小林は、平成22年5月か
ら同30年3月までの間、担当する生活保護受給者12人が死亡・転出しているにもかかわらず、そ
の事務処理を行わず、当該死亡者・転出者と面接したことを示す虚偽の「面接カード」を作成・提示
して経理担当を欺くなどして、当該死亡者・転出者の生活保護費を区から不正に支出させ、その一部
を自らの生活費や遊興費などに使うために騙し取った。小林が認めている不正支出は、現時点で12
件、約6500万円となる。この内、小林が3000万円、辞めた60代の元職員が1300万円。
この男、退職金も、着服金も返金していない。盗み得か、やれやれ。
 一方、経理担当を欺いた「面接カード」については、区の文書保存年限が一年であるため、詐欺行
為の裏付け資料として提出できる平成29年4月から同年10月までの期間における面接カードが現
存する死亡者3人分の不正支出額を219万9240円と確定し、区は、平成30年6月15日付で
小林を詐欺の罪で王子警察署に告訴していた。
 何故ケースワーカーが犯罪を犯すのか?
 ケースワーカーの仕事は、働かない老人、在日に金を渡す空しい仕事だ。人生としてあまりにもみ
じめだ。恐らく天を仰いで恨むだろう。そうすれば、こいつら(老人・在日)の金をピンハネしてや
ろうと悪心がむくむくと湧き上がってくるだろう。これからもどんどん起きる犯罪だ。

 
●またやった、生活保護費800万円詐取
 平成30年11月28日、元健康福祉部生活福祉課相談係主任主事石川憲一郎(62歳)が、平成
25年4月から銅30年2月までの間、生活保護費8040000円を詐取したとして逮捕された。
 石川は、担当する生活保護受給者が知人であり、既に区外に転出していて生活保護費の受領に来所
することがないことを確信していながら、平成22年3月から平成30年2月までの間、当該転出の
事実を隠し、「転出廃止」の事務処理を行わず、当該転出者と面接したことを示す虚偽の「面接カー
ド」を作成して経理担当に提示し、当該転出者が生活保護費の受領に毎月来所していると経理担当を
誤信させ、区から生活保護費を不正に支出させて騙し取っていた。元職員が認めている不正支出額は
現時点で約13000000円となっている。
 なお、生活保護費の受領印が押印されている支給明細書の文書保存年限が5年であるため、同明細
書が現存する平成25年4月から同30年2月までの不正支出額を8042050円と確定し、区は
平成30年11月13日付で、石川を詐欺罪で王子警察署に告訴していた。
 


■北区公会堂

 王子本町1丁目15番22号ある。データなし。
 


■順天中学校・高等学校

 王子本町1丁目17番13号にある私立校。天保五年(1834)福田理軒が「順天堂塾」を大阪
に創立。明治4年神田仲猿楽町に移転し「順天求合社」と改称。同27年「尋常中学順天求合社」を
設置。同32年順天求合社中学校に改称。同33年「順天中学校」に改称。
 大正2年神田の大火災で校舎焼失、校舎再建。同12年関東大震災により校舎焼失、校舎再建。
 昭和3年神田三崎町に校舎新設移転。同20年愚かなアメリカ軍の東京大空爆のため校舎焼失。同
23年戦勝国アメリカの強制による学制改革により「順天高等学校」となり「順天中学校」を新設。
同28年現在地に移転。同37年順天高等学校は女子高となり、中学校は閉鎖。同60年足立区新田
にグラウンドを購入し体育館など運動施設を移す。
 平成2年順天高等学校は男女共学に戻る。同7年男女共学の順天中学校開設。同17年新校舎落成
同27年杏林大学と高大連携協定調印。
 


■「天女の笛」像 ◇

 王子本町1丁目17番22号北区役所の第一庁舎左脇にある跳ねる馬の彫像。北村西望の作。

   天女の笛に題す
   耳をすますと
     どこからともなく
    何とも言えない
   笛がきこへることがある
   あれは世に言う
    天女の笛では
    あるまいか
   昭和五十七年三月吉日
        白寿 西望塑人 
 


王子子育地蔵尊(大坂地蔵堂) ◇
 王子本町1丁目24番8号、王子大坂(旧岩槻街道)と権現坂の坂下の追分、山本宅1階にある。
室町時代よりこの地所の持ち主により保護されてきた。大切にされていることが佇まいから感じられ
る。地蔵真言の「オンカカカビサムマエイソワカ」と唱えましょうと書いてある。なお王子大坂は地
蔵坂とも呼ばれた。

   
王子子育地蔵尊                 北区王子本町1-24-8所在
    王子の子育地蔵尊は、安山岩系の石を丸彫した、像の高さ122cmの石造地蔵菩薩立像
   です。釈迦如来が没してから弥勒菩薩が出現するまでを、仏教では無仏時代といいますが、
   地蔵菩薩は、この時代に人々を救済する菩薩と信じられてきました。
   当地蔵尊は、昭和20年4月13・14日の空襲によって火を浴び、像の表面が剥落して
   いるため、造立した年代や造立者はわかりません。
   昭和3年12月に出版された『王子町誌』によれば、子育地蔵尊は、同所にあった山本家
   の祖先が誓願して室町時代の末期、天文元年(1532)に建立安置し、当時の堂宇は元
   禄二年(1689)に改築したものだと記されています。現存の像の造立年代を判断する
   には資料が不足していますが、同所で古くから地蔵尊が祀られていたことが推測されます。
   また、その信仰については、「古来子育及商売繁昌の地蔵尊として信仰せられ、毎月四の
   日の縁日には参拝する者実に夥しく、縁日商人の露店を張るものも頗る多いので、その賑
   ひ真に筆紙の及ぶところでない」とあり、近代には子育地蔵として信仰を集めていたこと
   が知られます。
   お唱えする言葉   「おん かかか びさんまえい そわか」
   ※私有地に建っておりますので、静かにお参り下さい。

   平成28年2月                       東京都北区教育委員会



■「倭風人」

 王子本町1丁目27番15号東洋カイロプラクティク専門学院にある高畑輝康の彫刻。 


王子第二小学校
 王子本町2丁目2番5号にある区立校。大正7年王子、王子第一、荒川の3尋常小学校から4年生
以下734名を移して「東京府北豊島郡王子町王子第二尋常小学校」として開校。同11年2階建て
校舎(8教室)増築。同13年簡易建築校舎(特別教室2)増築。
 昭和7年北豊島郡の東京市併呑により「東京府東京市王子第二尋常小学校」と改称。同9年木造校
舎(7教室・1特別教室)増築。同11年木造校舎(9教室・2特別教室)増築。同16年勅令14
8号国民学校令公布により「東京府東京市王子第二国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都
制施行により「東京都王子第二国民学校」と改称。同19年群馬県富岡・下仁田に学童集団疎開。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都北区立王子第二小学校」と改
称。同23年PTA創設。同28年創立35周年記念式典。校章制定・校旗樹立。同29年校歌制定
・校地拡張。

 校歌「
桜咲き」 作詞・土岐善麿  作曲・信時潔
  1.桜咲き 若葉薫る春よ 夏よ
    遥かに霞む筑波を仰ぎ
    涼しい風の丘に立つ時
    体を 心を強く鍛えて
    楽しく学び 元気に遊ぶよ
  2.銀杏散り 富士は雪の秋よ 冬よ
    素直に 共に力を合わせ
    音無川の波も静かに
    弛まず進めば 空も開けて
    広がる道の皆良い子どもよ
    清く 正しく 明るいところ
    王子第二小学校


 同33年創立40周年記念式典。同37年プール完成。同39年国旗掲揚塔樹立。同40年登校班
制開始。同41年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室11・給食調理室)落成。標準服を制
定。同42年第2期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室6・職員室)落成。同43年第3期鉄筋コ
ンクリート造り校舎(普通教室5・校長室)落成。創立50周年記念式典。体育館落成。同44年鉄
棒、雲梯、岩石園、花壇、噴水池完成。同47年第4期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室2他)
落成。同50年防球ネット取付。同53年創立60周年記念式典。同59年社会科史料展示室新設。
同61年多目的室(和室)新設。校庭改修(全天候型特殊舗装)。同62年放送室改修。パソコン設
置。同63年創立70周年記念式典。
 平成元年校舎大規模改修。校地緑化。開放教室。同2年多目的ホール、ランチルーム新設。児童会
室、郷土史料室、視聴覚室改修。同4年正門改修。生活科室新設。同6年生ゴミ処理機設置。同7年
パソコンルーム開設。同8年教育相談室開設。奥田幹生文部大臣学校訪問。同9年郷土資料室改修。
同10年創立80周年記念式典。同16年校内LAN。同20年創立90周年記念式典。同21年校
舎耐震化。
 


■王子本町公園

 王子本町2丁目29番8号にある区立公園。


■軍境界石

 王子本町2丁目31番1号都営王子アパート3号棟西の道路端にある旧軍遺構。「陸軍用地」と刻
む。東京砲兵工廠銃包製造所の東南角に当たる。

 



【上十条】(かみじゅうじょう)1~5丁目            最終昭和42年5月1日
 上十条村。明治11年「郡区町村編制令」により北豊島郡に所属、同22年王子村大字上十条、同
41年王子町大字上十条、昭和7年王子区上十条町、同14年上十条町の一部と下十条町の一部が
合併して上十条1~5丁目と十条仲原に分かれた。同22年北区に所属。同41年11月15日1
丁目のみ新住居表示を行い、同42年2~5丁目と上十条町の残りに下十条町・十条仲原・稲付西
町の各一部をあわせた町域を現行の「上十条」とした。江戸時代に十条村が二つに分かれ京都に近
いほうが上方なので上十条村としたことによる。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『北区史』など。

 上十条の由来 
 十条村が上・下2村に分かれたのは寛永の頃とも、明治になってともいうが、江戸時代は台地の
上下で、便宜上区分けしていただけなのかも知れない。下十条の村人は「下」を嫌って「東十条」
を称えている。
 


■上十条しらかしポケットパーク

 上十条1丁目1番10号先にある小さな三角地。

 母子像
 三角地にある。昭和40年交通安全を祈願して設置された。


■上十条一丁目観音堂 ◇

 上十条1丁目10番9号オレンジコーポ1階雄飛堂薬局の右端前にある。右側に庚申塔。正面に大
きく「
庚申塔」と彫り、右面に「天保十五甲辰十月吉日」、台石正面に「原講中」と刻む。左側に馬
頭観音塔。

   上十条一丁目観音堂の由来
   当観音堂は、馬頭観音(向かって左側)と庚申塔を安置しております。文化九年(181
   2)の創建とも伝えられ、庚申塔の側面には「天保十五甲辰(1845)」の銘が刻まれ
   ています。
   馬頭観音は牛馬の、ひいては農耕の守り神、庚申塔は集落の守り神として信仰されました。
   江戸時代、このあたり一帯は畑が広がる農村で、この観音堂も豊穣と安寧を祈願するため
   集落の一隅に建立されたものと思われます。
   当観音堂は、古くは現在のバス通り側に面しており、縁日も開かれていました。大正10
   年それまで一時途絶えていた縁日を再開すべく地元有志が王子警察署に提出した「露店出
   店願」(現在、北区飛鳥山博物館所蔵)によると、縁日は毎月9・19日の午後6時~1
   1時に開催され、踏切際から王子方面に100m以上にわたり露店が建ち並んだものと推
   測されます。こうした縁日は、その後、昭和十年代初めまで開かれていたようです。
   現在の観音堂は、当地の有志によって昭和61年に建て替えられたものです。江戸時代以
   来、地蔵を見守りつづけてきてくれた当観音堂を、今度も末永くお祀りしていきたいもの
   です。
   平成22年1月吉日                   上十条一丁目観音堂保存会
                      
浄財は、当観音堂の供花、維持・補修費及び建替え
                      
費用積立等に充てさせていただいております


■十条駅

 上十条1丁目12番10号にあるJR埼京線の停車場。明治43年11月1日に追加開業した。赤
羽線の全通は同18年の品川~赤羽間開業時なので、それからだいぶ経ってからの開業だった。
 ホームは地上相対式2面2線構造で、各ホームは跨線橋で結ばれている。2本のホームを結ぶだけの
純粋な跨線橋がある駅は、都区内のJR駅では十条駅だけだ。改札口・出口は北口と南口の2ヶ所。そ
れぞれ北口は1番線ホーム、南口は2番線ホームに接している。駅事務室やみどりの窓口があるのは
北口。駅の周辺には、帝京大学医学部をはじめ、東京家政大学、東京成徳大学など大学が多い。

 
裸婦像 ◇
 西口駅前ロータリーの植栽にある。

 
時計塔
 西口駅前ロータリーの築山の天辺に建つ。いろいろと賑やかだ。
 


■十条野鳥の森緑地

 上十条1丁目22番30号にある区立公園。


■上十条二丁目ポケットパーク

 上十条2丁目13番1号にある区立公園。


王子第五小学校
 上十条2丁目18番17号にある区立校。沿革不明。

 校歌
「明るい光が」 作詞・勝承夫  作曲・下総皖一
  1.明るい光が満ち渡る
    この庭 この窓 子どもの世界
    王子第五は新しい
    日本の夢の湧く処
    みんな みんな 楽しく
    伸び行く吾等
  2.何時でも仲良く元気よく
    この胸 この腕 溢れる力
    王子第五は美しい
    桜が彩る城北の
    希望の泉よ
    張り切る吾等
  3.輝く
太陽 東京の
    この空 この風 漲る平和
    王子第五は進みゆく
    文化の国の若鳥の
    飛び立つ巣箱よ
    栄えある吾等

 生徒歌「ありがとう」 
  1.お早うと見守る笑顔でありがとう
    言葉にするのは照れ臭いけど
    何だかふっと嬉しくなる
    通学路の何時もの道
    いってらっしゃい気をつけてね
    そうこうして何時も
    誰かに見守られて生きている
    心がふっと明るくなる
    ありがとう ありがとう
    ありがとう ありがとう
    あなたにありがとう
    ありがとう ありがとう
  2.朝起きて美味しい御飯ありがとう
    言葉にするのは照れ臭いけど
    何だかふっと嬉しくなる
    通学路の何時もの道
    頑張れ 頑張ったね
    そうこうして何時も
    ありがとう ありがとう
    ありがとう ありがとう
    あなたにありがとう
    ありがとう ありがとう
    あなたにありがとう
    ありがとう ありがとう
 


■庚申塔 ◇

 上十条2丁目22番3号高木宅の門前右にある笠付角柱型(笠欠)、日月に「庚申塔」の文字塔。
文字の下に「上新田村」「前新田」「講中」を並べ、左面に「東王うじ道」と刻む。


■十条駅前児童遊園

 上十条2丁目27番15号にある区立公園。


■裸婦像 ◇

 上十条2丁目29番十条駅西口前ロータリーの植栽にある跪き両手を上に広げた女性裸像、同じも
のが2基。
 


■富士見中学校

 上十条3丁目1番25号にある区立校。昭和27年稲付中学校姥ヶ橋分校が独立して「東京都北区
立姥ヶ橋中学校」を仮称として旧北ノ台小学校の跡地に開校。5月「東京都北区立富士見中学校」と
命名。校章制定・校旗樹立。PTA発足。同28年現在地に移転。同29年分教場を王子第三小学校
内に設置。8教室増築。同30年校歌制定。

 校歌「
仰げば紺碧の
  1.仰げば紺碧の空広く
    若い瞳に力は燃える
    飛べよ若鳥巣立ちの庭は
    吾等 愛する富士見中学
    希望漲る吾等が母校
  2.果てなき武蔵野の夢残る
    椎の木立よ黒松林
    明日の日本の叡智の鳥は
    此処に集まり 此処に羽ばたく
    強く明るく吾等は進む
  3.花咲く学び舎に友を得て
    吾等 純情自律の気風
    伸びよ正しくヒマラヤ杉も
    映えて輝やく富士見中学
    永遠に栄えよ 吾等が母校


 同34年体育館完成。同37年創立10周年記念式典。ブロンズ像除幕。同39年北区中学校体育
大会男女総合優勝。同40年北区中学校体育大会男子総合優勝。同42年給食室完成。同47年創立
20周年記念式典。同48年プール完成。同56年新体育館完成。同57年LL教室開設。同57年
創立30周年記念式典。
 平成3年校舎大規模改修。同4年創立40周年記念式典。同14年創立50周年記念式典。同15
年校舎体育館耐震化。同24年創立60周年記念式典。
 


■上三ふじ広場

 上十条3丁目2番10号にある区立公園。


上十条図書館
 上十条3丁目3番9号にある。


上三ふれあい広場 → 上十条三丁目まちかど広場

 上十条3丁目8番7号にある区立公園。


仏海山雪峰院長泉寺

 上十条3丁目25番3号にある浄土宗の寺。かつては「長泉院雪峰庵」と呼ばれており、これは天
正年間(1573から92)に廃絶した長泉寺の跡に雪峰大覚という僧が享和二年(1802)に開
いた事に由来している。創建年代は不詳だが、「新編武蔵風土記稿」に記載はないものの、明治時代
末期に成立した北豊島三十三ヶ所霊場に雪峰庵と記載があることから明治時代に創建したものと思わ
れる。「日本寺院名鑑」には十条の尼寺と記されている。石畳の参道の右側は石塀が延び墓地を隔て
ている。2階建ての本堂の下には「願・宝・悲・憧・王・賀」を表わす金剛六地蔵が並んでいる。本
堂の石段を昇ると桜の木立が両側に迫り、風に大きく枝をそよがせ木漏れ日を足元に揺らす。春の寺
は一段と風情がある。境内には念仏行者が、

  鬼殺す心は丸く田の内に南無阿弥陀仏と浮かぶ月影

 という和歌を表すという丸の中に十字などのある花押を記している「徳本行者の念仏塔」がある。
これは近畿以東の各地に見られる。
 


■立正尊神教会

 上十条3丁目24番19号にある日蓮宗の布教所。
 


■長昌寺別院

 上十条3丁目24番19号にある日蓮宗の寺。本院が何処の長昌寺か判らないが浅草に日蓮宗長昌
寺という大寺がある。
 


■十条聖観音堂 ◇

 上十条3丁目25番3号、雪峰院の門に向かって右側に矢鱈けばけばしい赤色の冠木門があり、堂
があり、扉は閉ざされていて外から拜むようになっている。
この堂内には山下寛道作という中国風の
白衣観音立像が安置されて、中十条の西音寺が管理している。堂前には天明三年(1783)の大日
如来像や数多くの蛇を両手に
持つ延宝五年(1677)の青面金剛の庚申塔がある。毎月12日、付
近の人々が観音講を行ってるんだそうだ。

 庚申塔
 
日月・青面金剛(三面六臂)・二鶏・三猿。「奉造立青面金剛尊像一躰二世安樂処」「延宝五丁巳
年十二月吉日 施主敬白」と刻む。江戸初期の作品らしく、かなり個性的な構成だ。普通六臂のうち
一組の手は体の前で合掌するか、剣とショケラを持つが、ここは六臂が全て開かれていて、下の手に
は索と蛇を持つ。法輪を持つ手も上、右手はあまり見ない。彫り自体は細かく美しい。


■伏見稲荷大明神 ◇

 上十条3丁目25番17号庄野宅にある小社。


■長昌寺別院

 上十条3丁目25番19号にある日蓮宗の小寺。

 
稲荷社
 山門を潜った左にある。


■貴運山善光寺

 上十条3丁目26番3号にある天台宗の寺。
 


■上十条四丁目まちかど広場

 上十条4丁目1番1号にある区立公園


■姥ヶ橋地蔵堂(延命地蔵) ◇

 上十条4丁目12番4号、環七通り姥ヶ橋陸橋交差点を十条通りに入った鋭角の三角地にある。こ
の地蔵尊は、ある時子守をしていた乳母が誤ってその子を水死させてしまい、その乳母は責任を取っ
て橋から身を投げて死んだんだそうだ。それでこの乳母を哀れんで、土地の人々が建てたのが、この
延命地蔵だという。事実はどうだか判らない。こんな寝物語は各地にある。主家を恨んで道連れ自殺
したかも知れないだろ。何で乳母の死を憐れんで赤子の死は憐れまないんだよ。最初から矛盾した話
なのさ。これは何らかの理由で「うばがはし」と呼ばれる橋があって、その名の由来を後からこじつ
けたのさ。橋は、根村用水つまり稲付川に架かっていた。

   姥ヶ橋地蔵尊                      上十条4丁目12番4号
   この地蔵尊は、袈裟をまとい、右手に錫杖を執り、左の掌に宝珠を載せ、正面に向いて蓮
   華座に立つ、安山岩系の石材を丸彫りした地蔵菩薩像です。台座には「享保九甲辰天(1
   724)十一月吉日 石橋供養」の銘文が刻まれています。向かって左側の堂内には石造
   の子育地蔵尊がまつられています。説明板の横には、道しるべでもある小型の文字庚申塔
   と地蔵尊の由来碑があります。
   像は、「姥ヶ橋の地蔵様」として親しまれています。姥ヶ橋とは、稲付川に架かっていた
   橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用
   水として利用されていました。姥ヶ橋には、誤って子供を落として死なせてしまった乳母
   が、自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落としたという伝説があります。そして
   地蔵尊の造立は、乳母の供養のためと伝えられていますが、銘文によれば、川に架かる石
   橋の安全供養のためによるものです。
   また地蔵尊は、二つの道が出合う地点にあったことから「出合地蔵」とも呼ばれています。
   橋のたもとは、川口への交通路としても利用された十条・板橋道と中山道から分かれて王
   子稲荷へ向かう王子道とが合流する交通の要所だったのです。
   現在は環状七号線の建設で川は暗渠となり、姥ヶ橋も姿を消しました。しかし延命地蔵尊
   には参詣者の絶えることがなく、毎年八月二十四日の縁日には多くの人で賑わいます。
   平成8年3月                        東京都北区教育委員会

 庚申塔
 正面に「庚申」と彫り、
右面に「これより 右 王子」、左面に「これより 左 川口」と刻む。

 
「稲付の小道」説明板
 静勝寺のでの散歩の誘い。

   歴史と緑をめぐる散歩道
   
稲付の小径
   この小径は、姥ヶ橋延命地蔵からスダジイ・イチョウのしげる香取神社をぬけて、都選定
   旧跡の静勝寺(稲村城跡)までの、歴史的文化財と緑をめぐる散歩道です。
   この散歩道は、坂が多いのも特徴の一つです。木々につつまれた静勝寺の坂や、昔は清水
   が湧いていたという中坂、水車小屋があった水車の坂、そのほか真正寺の坂、野間坂など
   坂道の作り出す独得の雰囲気が、静かなたたずまいを演出します。
   緑と歴史にふれながら、なにげなく見過ごしてきた北区の魅力を再発見する散策をおたの
   しみ下さい。



■上十条四丁目児童遊園

 上十条4丁目17番2号にある区立公園


王子第三小学校
 上十条5丁目2番3号にある区立校。大正15年「
東京府北豊島郡王子第三尋常小学校」として開
校。昭和7年北豊島郡の東京市併呑により「東京府東京市王子第三尋常小学校」と改称。同16年勅
令148号国民学校令公布により「東京府北豊島郡王子第三国民学校」と改称。12月日米開戦。同
18年都制施行により「東京都王子第三国民学校」と改称。同19年群馬県に学童集団疎開。同20
年日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都北区立王子第三尋常小学校」
と改称。~平成までの沿革不明。

 校歌「
春はコバルト」 作詞・草野心平  作詞・渡辺浦人
  1.春はコバルト 冬は白
    積乱雲や秋の紅葉
    四季の総てを日輪は
    我が学び舎に光輝く
    吾等の母校 王子第二
  2.富士を遥かに仰ぎつつ
    高きを望む吾等の夢
    白き頂 理想とし
    相携えて励まなむ
    吾等の母校 王子第二
  3.吾等は若く 頬紅く
    紫匂う染井吉野
    真と善とをひたに追い
    未来の扉 開かなむ
    吾等の母校 王子第二


 平成7年北ノ台小学校と統合。同8年創立70周年記念式典。同10年プール付き体育館完成。同
11年才能開発実践教育賞受賞。同17年和室完成。同18年タイムカプセル開封。創立80周年記
念式典。
 


■上十条五丁目東緑地遊び場

 上十条5丁目3番1号にある区立公園。


■上十条五丁目緑地遊び場

 上十条5丁目4番2号にある区立公園。


武州御嶽神社 ◇
 
 上十条5丁目8番3号にある小社。創建年代は不詳だが、かつては王子第三小学校門前にあったと
いう。環状七号線の新設に伴い、昭和16年に現在地へ移転した。
 境内の石碑に以下の記述がある。

   御嶽神社ハ今ヨリ二百餘年前現東京府西多摩郡三田村ニ 大名持神、少彦名神、ヲ奉祀シ
   タル御嶽神社ノ分祀ニシテ武蔵國内ノ農民ハ家内安全五穀豊穣ノ守護神トシテ崇拝殊ニ當
   地ノ農民ハ崇敬ノ念篤ク分社當時ヨリノ講社ヲ継続シ毎年代参ヲシテ参詣シツツアリ古来
   の社祠ハ現王子第参國民学校ノ門前ニ在リ偶々東京府第七號環状線新設ニ當リ移祠ノ止ム
   ナキニ至レリ是ニ於テ各町関係者協議ノ上換地下附申請ニ努メ新ニ該敷地下附及ビ社殿竝
   ニ樹木補償料交付トナレリ依テ古皆遷宮當初ヨリ深キ信仰関係アル地元傳来ノ舊西町住民
   二十四名ハ工事完成ノ為メ建築費ノ一部ヲ奉納シ且ツ設計及ビ工事一切ノ責ニ當リ百八十
   餘人ノ勤労ヲ奉仕シ以テ竣工ヲ告ゲ昭和十六年七月三日遷宮式ヲ挙行シタルモノナリ。茲
   ニ移祠新築完成ヲ記念シ其ノ由来ノ稉概ヲ石ニ刻シ之ヲ後毘ニ遺ス。昭和十六年七月三日
 


■北ノ台スポーツ多目的広場

 上十条5丁目14番4号にある区立運動場。

 
道標
 東南の隅にある。「是より 南い・・」、「東 仲・・・ 東い・・・」とある。「仲」は「中宿
?」、「い」は「てたばし?」かな。
 


■庚申塔 ✓

 上十条5丁目14番6号にあるらしい。未確認。
日月・「庚申」。右面に「西 仲」「"東 王」、
左面に「是より南 いた」。裏面に「嘉永四亥年」と刻むとか。


大孝山神野寺

 上十条5丁目15番6号にある日蓮宗の寺。
昭和28年開基檀越神野家の丹精で智妙院日泰上人が
開山した歴史の浅い寺だ。開山上人遷化後は、第二世智妙院日円上人が法灯を継承しきたが、晩年は
病気療養等の事情により、その明かりはほぼ消えかかっていた。しかし平成21年8月仏縁を得て、
大本山池上本門寺に勤務していた安永秀岳上人を第三世住職として迎え、再び神野寺に明かりが灯っ
た、是からの寺だ。民家風の佇まいだが整理整頓されて清浄な雰囲気がある。
 


大孝山神野寺

 上十条5丁目15番6号にある日蓮宗の寺。
昭和28年開基檀越神野家の丹精で智妙院日泰上人が
開山した歴史の浅い寺だ。開山上人遷化後は、第二世智妙院日円上人が法灯を継承しきたが、晩年は
病気療養等の事情により、その明かりはほぼ消えかかっていた。しかし平成21年8月仏縁を得て、
大本山池上本門寺に勤務していた安永秀岳上人を第三世住職として迎え、再び神野寺に明かりが灯っ
た、是からの寺だ。民家風の佇まいだが整理整頓されて清浄な雰囲気がある。
 




【上中里】(かみなかざと)1~3丁目              最終昭和41年2月1日
 宮谷戸(みやがいと)村→上中里村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、同
22年滝野川村大字上中里、大正2年滝野川町大字神中里、昭和5年一部が昭和町1~3丁目にな
る。同7年滝野川区上中里町、同22年北区上中里町。同28年一部が中里町の一部を編入して上
中里1~2丁目、同40年7月1日新住居表示を実施して1~2丁目に分け、現行の「上中里」と
し、同41年上中里町の残り(明治通りの北部)を現行の「3丁目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『北区史』など。

 上中里の由来
 中里村より荒川上流沿いにあったことによる。旧称は宮谷戸、神社のある湿地帯の意だ。宮は当
然平塚神社。西ヶ原・宮谷戸・中里の一円は平塚で一くくりにされていた。
 


滝野川教会

 上中里1丁目1番12号にある。今からおよそ100年前の明治36年、聖学院神学校(聖学院中
学高等学校)で、聖学院通りに「滝野川教会発祥の地」の記念碑が設置されている)の構内に誕生し
た。この教会はアメリカのディサイプルス・オブ・クライストと呼ばれるグループの宣教師たちの働
きと支援によって建てられた。それ以来、この上中里の丘で、途切れることなく、礼拝を守り続けて
きた。滝野川教会は、総ての人々に神の愛と正義とを伝えるために建てられた教会だとのこと。
 会堂はフランクロイド・ライトの弟子で、タリアッセンに学び、またライトの日本における協力者
であった遠藤新を父に持つ遠藤楽によって設計された。
 ライトの伝統を受け継ぎ、しかし日本の風土に合った、しかもキリスト教の礼拝堂の本質をよく理
解して作られた会堂として内外から高く評価されている。ライトの弟子たちの仕事として、遠藤楽の
仕事として海外でも写真集やDVDで紹介されているとか。
 また平成16年には同じ遠藤楽の設計による100周年記念館が建てられた。この作品の設計を終
えた直後に遠藤楽は他界し、遠藤の最後の作品となった。最終的には遠藤の協力者だった藤川曜子の
協力を 得て完成した。
 


もち坂・モチ坂・黐坂(説明標柱)

 上中里1丁目7番7号と、中里3丁目16番20号先のJRのフェンス際に説明標柱が建ててある
が、周辺に坂道は見あたらない。JRの敷地内法面にあったようだが、昭和22年の航空写真では既
にない。同写真では、標柱よりやや東の曲がり角から東に下る細い線が見える。
 中里3丁目2番と3番の間を北に上がって行く坂道も「もち坂」だ。

   モチ坂
   
ここは坂の坂上に位置し、崕雪頽(がけなだれ)という急斜面を蛇行して下る坂道の跡が
   わずかに残されている場所です。坂は上駒込村から上尾久村方面へと向う上尾久村道の途
   中に位置していました。鉄道が通るようになると坂下には踏切が造られ、
   大正時代の末から昭和の初期には跨線橋がつくられるにいたりました。モチの木が坂上に
   あったといわれ、明治10年代の『東京府誌・村誌』にはモチ坂とありますが、この名称
   は後にはあまり使われなくなっていったようです。
   平成7年3月                           北区教育委員会

 標識の説明には「急斜面を蛇行して下る坂道の跡がわずかに残されている」とあるが,JR線路側
には金網が張られていて真下を見ることができない。対岸から見ても全面がコンクリートで固められ
た崖になっていて、坂道の痕跡があるとは思えない。ここは「モチ坂跡」というべきだ。
 「北区の歴史と文化財」にも,「かつて坂道が存在したところは、鉄道敷設部分にあたり、現在で
はその様子を見ることができません」と書かれている。


滝野川女子学園中学校・高等学校

 上中里1丁目27番7号にある私立校。大正15年山口鼎太郎・さとる夫妻によって「瀧野川女学
校」として開校。昭和2年2階建て校舎落成。昭和4年同窓会「芙蓉会」創設。同5年校章制定。同
6年「瀧野川高等実科女学校 (本科・選科・専攻科)」と改称。定員340名とする。同7年校歌制
定・「瀧女学報」発行。

 校歌
「若草萌ゆる」作詞・山口鼎太郎(校主)   作曲・小堺勝子(本校音楽教諭)
  1.若草萌ゆる丘の辺
(ほとり)
    かたばみの花 香り高く
    学びの庭に喜び満ちて
    望み豊けき乙女ぞ吾等
  2.松の操の緑深く
    清き姿を心に占め
    いざや学ばんこの窓に
    強く床しき乙女ぞ吾等
  3.朝日夕日の富士筑波
    空に遥けく仰ぎ見て
    高き理想を胸に抱き
    御国の礎 乙女ぞ吾等


 同8年生徒自治会発足。校旗奉戴。昭和9年生徒数急増のため元浅野侯爵別邸(現在地)を買収し
て移転。同11年籠球部(バスケットボール)創部2年目で東京府大会準優勝。同13年資材不足の
ため瀧女学報「あかつき」廃刊。同14年明治神宮国民体育大会に東京代表として初出場。同15年
創立15周年記念式典。同16年日米開戦。校舎の一部が東京防衛部隊の宿舎となる。同17年明治
神宮国民体育大会に東京代表として初優勝。同18年籠球部全日本選抜女子総合選手権準優勝。財団
法人「瀧野川高等実科女学校」設立。生徒数1112名。同20年愚かなアメリカ軍の東京大空爆に
よる被害はなかったため、校舎は被災者のための避難所となる。8月日本敗戦。生徒数624名・1
0学級。9月1日生徒数750名。
 同21年復学者・転入学者が増え14学級編成。「滝野川高等女学校」に改編。籠球部復活し都大
会優勝。同22年籠球部全国大会3位。戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により中学校を
新設、高等女学校を3年制に変更。同23年学制改革により高等女学校を高等学校に改称「滝野川女
子中学校・高等学校」となる。普通科・商業科・家庭科を設置。生徒自治会復活。隣接地を買収し校
地拡張。地歴部、中里貝塚遺跡の発掘調査、遺物を採集し脚光を浴びる。同25年創立25周年記念
式典。隣接地を買収して校地拡張。同26年私立学校法により学校法人「滝野川女子学園」に組織変
更。新しい校章制定・校旗樹立。同30年創立30周年記念式典。同33年「滝野川女子学園中学校
・滝野川女子学園高等学校」と改称・家庭科廃止。同35年房総千倉瀬戸寮・軽井沢高原荘を開設。
同37年バスケット部、協会推薦により日韓親善試合のため訪韓。同40年バスケット部、インター
ハイ準優勝・国体出場。同45年幼稚部開設。創立45周年記念式典。大体育館・プール完成。同5
0年バスケット部、NHK杯争奪選手権優勝。同60年進学校を目指し類型制の導入(普通科Ⅰ類、
Ⅱ類、Ⅲ類・商業科:経理コース、情報処理コース)。創立60周年記念式典。同61年特待生制度
の導入。中学再開。制服改定。
 


■上中里一丁目児童遊園
 上中里1丁目38番1号にある。


■上中里庚申堂①(上中里一丁目庚申堂) ◇
 上中里1丁目41番1号にある小祠。上中里2‐25‐4にも同名の庚申堂がある。
 享保六年銘の庚申塔。
種子(ウーン)、日月、青面金剛(三面、剣人八臂)、二鶏、邪鬼、三猿。
「奉供養庚申待二世安樂所」「享保六辛丑十月吉日」。
 堂横の立看板に貼ってある説明文。

   上中里一丁目庚申塔
   安置されている庚申石仏は、享保六年(1721)の銘があり、やや300年を経ていま
   す。石仏は三面八臂の青面金剛と言い、鬼の上に立っています。顔が3面、手が8本あり、
   槍などの武器を持っています。その下には三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が、両脇
   の上部には日月、下部には雌雄の鶏が彫られています。
   庚申信仰は江戸時代に大変流行し、各地に庚申塚・庚申堂・庚申塔などが建てられました。
   道教、仏教、神道などが混合した信仰で、長寿、無病息災などを祈り、夜籠(よごもり、
   徹夜)を行い、講などの互助的な活動を伴うこともあったといいます。
   、  


平塚山安楽院城官寺
 上中里1丁目42番8号にある真言宗豊山派の寺。元々は平塚三所明神に属する小庵だったが、筑
紫安楽寺の僧が訪れて阿弥陀仏を祀り、浄土宗から真言宗に改めた。寛永十年(1633)将軍家光
が病に倒れた時、かつて家光に仕えた山川城官貞久が、平塚神社に病気平癒の願をかけたところ、幸
い病いが癒えたので、家光は感謝して神領200石を寄進し、小庵を平塚神社の別当寺に改め、山川
の名を採って城官寺とした。住職の登城時には檀家を集めて俄かの武士行列を作り、住職は駕籠に乗っ
たという。土地の人々は住職を「旦那」と呼び、耕作時に住職を目にすると後ろを向いて見ぬ振りを
し、土下座することを避けたという。維新後は特別のこともなく、震災も難から免れたものの、昭和
20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により全山烏有に帰したが、辛うじて城官
供養塔と徳川家侍医
の多紀家代々の墓
東京都指定史跡)
は残った
豊島八十八ヶ所霊場47番札所、上野王子駒込辺三
十三ヶ所観音霊場6番札所。「北区文化財案内」に、

    城官寺は真言宗豊山派に属し、本尊は阿弥陀如来像です。かつて平塚神社の別当寺でし
   た。平塚神社入口にある石碑に、亀田鵬斎による城官寺の縁起が彫ってありました。それ
   には、甲冑塚に不思議なことがあるなどしたため、その傍に庵を建て僧を置いてこれを守
   らせたことに始まると記されていました(碑文は明治初年削りとられています)。
    元禄五年(1692)の縁起(同寺住職真恵によるもの)には、寛永十七年(1640)
   将軍家光が鷹狩りの途次、平塚神社を見て、誰がここまで造営したのかと尋ねたところ、
   将軍が病床にあったとき山川城官という者が平塚神社に平癒を祈願し、叶ったことを喜び
   ここまでにしたと村長(むらおさ)が答えたので、城官を召して、社領として50石、城
   官の知行地として200石を与え、寺号を改めて平塚山城官寺安楽院と称するよう命じた
   ことが「新編武蔵風土記稿」に記されています。
   この寺院の墓地には、昭和11年3月、都の旧跡に指定された多紀桂山一族の墓所があり
   ます。多紀氏は丹波康頼の後裔で、家康に仕え、元孝の代に奥医師となりました。多紀氏
   を名乗ったのも元孝の代で、それまでは金保氏でした。その子元悳(藍渓)は、明和二年
   (1765)、神田に躋寿館という医学校を建て、医学教育を始めました。寛政二年(1
   790)躋寿館は幕府立の医学館となり、元恵はその教授に任ぜられました。その子元簡
   (桂山)、元簡の子元胤らも奥医師として知られており、いずれもこの寺院に葬られまし
   た。亀田鵬斎は江戸時代後期の儒者で、荻生徂徠の古文辞学を排撃し、朱子学を重んぜず、
   寛政異学の禁では異端の筆頭とされました。書をよくし、草書は近世を通じての名手とい
   われています。


 とある

 多紀家代々の墓
 代々将軍の御典医だった。子孫のために幕府から頂くものを書物に換え2代藍溪は名を元徳といい、
享保十七年(1732)元孝の5男として生まれ、字は仲明、通称安元。広寿院のち永寿院と称し、
享和元年(1801)70歳で歿した。薬の価格を知ると治療に支障が出るからと故意に知らないよ
うにした3代元簡(もとやす)は、藍溪の長子として宝暦五年(1755)に生まれ、字を廉夫、幼
名は金松のち安長、桂山を号した。儒学を井上金峨に学び、医学を父について修学、考証医学の確立
者といわれている。56歳で急死した。墓誌は亀田鵬斎が書いている。4代元堅は、貧しい人々の治
療に応じ、これらの人々には夏は蚊帳、冬は布団を贈っている。8代元胤(もとつぐ)は、幼名を弥
生之助、長じて安良のち安元に改めた。字を紹翁といった。

   都旧跡 多紀桂山一族墓
   所在 北区上中里1丁目42番8号 城官寺
   指定 昭和11年3月4日
   多紀藍渓は桂山の父で、名医丹波康頼の子孫である。安永年間(1772~81)侍医と
   なり、法眼に叙し、やがて法印に進んだ。彼は製薬所を設置し、医官の子弟をことごとく
   就学せしめて教育に尽した。享和元年(1801)五月十四日歿。年七十。
   桂山は父藍渓のあとを襲い、幕府の医官となった。寛政二年(1790)侍医となり、法
   眼に叙し、医学教諭を兼ねたが、享和年間侍医を罷免された。その後著作に専心し、多く
   の医学書を残し、文化七年(1810)十二月二日、年五十六で歿した。
   元安は桂山の子で文政十年(1820)六月二日四十才で歿したが、桂山の二男元堅は別
   家を本石町に立て、幕府の奥医となり、法院に進み、医学館の教授となった。安政四年(1
   857)九月十四日に歿した。
   昭和45年2月1日 建設                  東京都北区教育委員会

 嘗ての立て看板(説明板)は以下の通り。

   多紀桂山一族の墓                  指定 昭和11年3月4日
   多紀氏は代々将軍家の侍医として名高い。
   桂山の父である元悳以下の墓が集まっている。多紀氏は明和二年(1765)躋壽館を建
   て医学教育をはじめた。寛政になって幕府はこれを納め、官立とし多紀氏を教授とした。
   桂山、名は元簡(もとやす)。博学多才で知られ、文化七年(1810)五十六才で死去。
   墓碑銘は高名な儒者亀田鵬斎の書いたものである。          北区教育委員会


「医心方」争剋
 多紀家は丹波氏族で、丹波氏は応神天皇の時に渡来帰化した漢の霊帝の子孫で父祖代々医術を持っ
て朝廷に仕え、丹波国に領地を与えられたことから丹波を氏の名とした。平安中期わが国最初の医学
全書である「医心方」三十巻を編纂したのが典薬頭丹波康頼だ。これは中国の『病源候論』と『外台
秘台』を土台に、隋唐の医書80余種を蒐集整理したもので、本場の中国でさえ散逸したものが多い
ため貴重な著述とされた。以来宮中奥深く収蔵され、容易に他見を許されぬまま数百年を経たが、南
北朝の騒乱のとき所在不明となり、応仁の大乱以後は丹波家の原典さえ失われてしまった。織田信長
が登場して社会がやや落ち着いた天正八年(1580)、病に侵された正親町天皇のため、時の典薬
頭半井瑞策が懸命に看病し快癒させたところ、その功により、何処に隠してあったものか秘蔵の名著
『医心方』全巻を拝領した。半井家は和気清麻呂の血を引く名家、医術で朝廷に仕える丹波家のライ
バル、丹波家にとっては耐えられぬ出来事である。やがて徳川の天下となり、京の医師は家康に招か
れて江戸に移り住んだ。曲直瀬、吉田、坂、岡本などで、その中に丹波氏の後裔多紀もあった。当時
の医師は医学学校で学ぶ訳でもなし、親から教わるままの医術で、門外不出の家伝の業であれば他家
のとの交流もなく閉鎖されたものだった。これではならぬと考えた多紀元孝は明和二年(1765)
私費を投じて神田に「躋寿館」という日本最初の漢方の学校を設立した。これが後に寛政三年(17
91)幕府の医学校となるのだが、当時はまだ私学、漢方医学を究明するにつれ、どうしても『医心
方』が必要となった。寛政元年(1789)元孝の子の藍渓はついに幕府権力を通して半井家に提出
を命じたが、二つとない貴重な書、半井成美も簡単に応ずる筈もない。幕府の向うに多紀家があるの
は知れたことだ。何のかんのと時間稼ぎをしてごまかす。それは子の清雅の代になっても変わらなかっ
た。天明八年(1788)京都内外18万戸を焼いた大火も口実とされたが、半井家の追及は過酷を
極め、清雅の子の広明のとき無念の涙を飲んで、藍渓の孫元堅の許へ提出された。もっともこの時提
出されたものは、故意にところどころを欠落させたもので、意味を完通せざる代物だった。時に安政
元年(1854)のことで、父祖3代60年余の争いだった。
 なお現在『医心方』全三十巻(半井本)は全巻を東京都が文化財として所有している。殆どが平安
時代の写本で、あとは鎌倉時代1巻と江戸時代2巻1冊だ。完本で欠落がないとすると、幕府に提出
したものは一体なんだったのか?
 駆け引きしている間に引き渡し用の写本を作っていたとしたら、これまた凄い執念だ。今この『医
心方』を学ぶのは中国の医師たちで、日本の西洋ユダヤ一辺倒の医学会は無視し続けている。医学の
未来は暗いぞ。
 


■蝉坂

 上中里1丁目47番1号平塚神社の東、上中里駅南口前から弧を描きながら南西から南へ上って行
く坂道。嘗ては「攻め坂」だとか。「北区の坂道」によると、平塚神社は平塚城の二の丸跡と思われ
るが、城に因んだ「攻坂」の転訛といわれるが,城としては「攻」を忌むとの説がある。

   
蝉坂
   六阿弥陀堂の途上でもある蝉坂という名称は江戸時代の後半にはあったようで、幕府の編
   纂した地誌『新編武蔵風土記』上中里村の項に「平塚明神ノ傍ニアリ、登リ三・四十間」
   とあり、このあたりから平塚神社の参道に沿って約54mから72m余を登る坂道だとあ
   ります。坂を登りきって少し歩くと日光御成道と合流しますが、西ヶ原一里塚の方向へ右
   折してすぐに左折すると六阿弥陀堂第三番札所の無量寺へと向かう道に入ります。明治時
   代初期の『東京府志料』では「或云、攻坂ノ轉訛ナリト」と室町時代の平塚城をめぐる合
   戦を彷彿とさせるような坂名の由来を記しています。現在の坂道は昭和十八年七月、昔の
   坂を拡幅して出来た道です。
   平成7年3月                           北区教育委員会


■平塚神社(平塚城址)

 上中里1丁目47番1号にある「平塚三所明神」だ。上中里駅南側の高台にあって豊島氏の平塚城
の一部(二の丸)と伝わるところに建つ。後三年の役の北進の途次源義家・義綱・義光三兄弟が平塚
城に立ち寄った。この時、義家は城主豊島近義の心行くまでの饗応に感じ甲冑一領と十一面観音像を
与えて北へ軍を進めた。その後のこと近義は子孫が鎧を着するに堪えざるを思い、元永のころ(12
世紀初期頭)城の鎮護にと鎧を埋めて平らな塚を築き、義家の武運に肖ろうと社を建てて祀ったとい
う。それがこの神社の創始となるととも地名の起こりでもある。それを記した縁起が社宝として残っ
ている。入口の社号塔は大きいぞ。境内に社号碑や巨碑もある。

   
郷社 平塚神社

 説明板に、

   平塚神社(旧平塚明神社)の略縁起
   平塚神社の創立は平安後期 元永年中といわれている。八幡太郎源義家公が御兄弟ととも
   に奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は
   拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さ
   がないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟
   を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。
   徳川の時代に、平塚郷の無官の盲物であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江
   戸へ出たところ検校という高い地位を得て、将軍徳川義光の近習となり立身出生を果たし
   た。その後、義光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将
   軍の行基はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光
   自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた。

 とある。

   源氏の棟梁 源義家を祀る
   
平塚神社(旧平塚明神社)
      御祭神
    八幡太郎 源義家命
   平安後期の武将で、源頼朝・義経や足利将軍家先祖、石清水八幡宮で元服したので八幡太
   郎と号された。前九年の役(安部貞任・宗任退治)、後三年の役をはじめ数々の戦を征さ
   れた。「天下第一武勇之士」と称えられ、全国の武士達が臣従した。その武威は物の怪で
   すら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白河上皇に献上された。
    賀茂次郎 源義綱命
   義家公の次弟。賀茂神社で元服したので賀茂次郎と号された。
    新羅三郎 源義光命
   義家公の三弟で、武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので新羅三郎と
   号された。笙の名手として有名。
      御神徳
   勝ち運、出世(就職、昇進、事業繁栄)、病気平癒、騎馬上達(交通安全)
   武芸(スポーツ)上達、開運厄除、心願成就 等
      略縁起
   平塚神社の創立は平安後期、元永年中といわれている。八幡太郎源義家公が御兄弟ととも
   に奥州征伐凱旋途中にこの地を訪れ、領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は
   拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さ
   がないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家。義綱・義光の三兄弟を
   平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。
   徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江
   戸に出たところ、検校という高い地位を得て、将軍徳川家光の近習となり、立身出世を果
   した。その後、家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。
   将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家
   光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたひ参詣に訪れた。
      主な祭日・行事
   大祭 9月14・5日  中祭 5月15日  小祭 1月15日
   祭日祭 1月元旦  節分祭 2月3日  大祓 6月30日・12月31日
   月次祭 毎月1日・15日
   厄払 病気平癒祈願 就職祈願 車輛祓い 初宮参り 七五三参り 地鎮祭
   上棟祭 神棚祓い 事務所開き、家・部屋などの清め祓い
   その他 諸祈願いたします。社務所までお問合せください。
   平塚神社社務所 〒114 0016 東京都北区上中里1丁目17番地1号
           電話03(3910)2860 ファクス03(3917)8389


 
武州豊島郡平塚郷上中里村平塚明神縁起(全三間)
 元禄五年(1692)城官寺住職真恵が狩野信良に描かせたものだ。その創建からの由来が絵巻2
巻、詞書1巻に記す。平塚城址 平塚神社の一帯。小名に角櫓、橋に外輪橋、坂に攻め坂(蝉坂)など
の呼称がるので城址といわれる。この城が一躍世に知られるようになったのは、関東を大きく戦乱の
世に導いた山内上杉家執事職を巡る長尾景春の乱の時だった。文明九年(1477)以来、豊島荘を支
配した豊島氏の当主豊島泰経は景春と結び、これに呼応した古河公方足利成氏とも連合した。当時江
戸城にあった太田道灌はすぐに鎮定軍を編成すると平塚城を攻め、城下に放火した。石神井・練馬城
の泰経の軍勢は道灌出撃の報に接すると、道灌の留守を狙って江戸城を攻めるべく出陣した。しかし
道灌はすかさず兵を返して江古田・沼袋にこれを迎え撃って破り、さらに進んで石神井城をも攻め落
とした。翌年改めて平塚城を攻めて豊島一族を滅亡させた。この時から豊島城は兵どもが夢の跡の城
址となったのだ。

 平塚神社文書
 平塚神社に伝存した文書群。これらの内、延宝二年(1674)から昭和29年に至る77点が、
平成3年に北区指定有形文化財(古文書)に指定されましたが、その後の調査で判明した文書も含め
ると総数は約2700点余となります。文化財に指定されている77点の文書群には、「平塚明神社
別当城官寺」が作成・集積したものも含まれている。これは、明治初年の神仏分離政策以前に平塚神
社が平塚明神社と呼ばれ、社領経営を別当の城官寺が行っていたためだ。内容に江戸時代における社
領の土地・年貢に関するもの、朱印状の写など朱印状に関するもの、明治政府による朱印取調べに関
するものが多くみられるところから、当時の寺社と地域住民の関係や、幕府および明治政府との関係
を理解する上で貴重な資料であるといえる。

 
神霊地の碑 ✔
 境内にある自然石の碑。写真はあるが詳細不明。

 
甲冑塚古墳(鎧塚、平塚)
 社殿裏にある。少し隆起している程度で、なるほどと頷けるようなものではない。奈良時代までの
当地は荒墓郷と呼ばれていた。「平塚」の地名の由来とされる“塚”は、神社社殿裏にあり、非公開
であるが、北区によって「甲冑塚古墳」として登録されている。神社に伝わる『平塚明神并別当城官
寺縁起絵巻』によれば、かつてここに豊嶋郡の郡衙があった。平安時代に秩父平氏豊島近義がこの場
所に城館(平塚城)を築てたと伝わる。平安後期の後三年の役の帰路に、八幡太郎源義家、賀茂次郎
義綱、新羅三郎義光の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしを受けた。義家は感謝の験として鎧一
領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き、埋めたのが塚の初
めとされ、「鎧塚」「甲冑塚」と呼ばれた他、塚が高くなく、平たかったことから「平塚」とよばれ
これが当地郷の地名の起こりとされている。

   
甲 冑 塚

   平塚城址と甲冑塚
   平塚城は豊島氏の居城であったといわれています。この付近には城に関する名称として、
   外輪橋、角櫓、せめ坂等の名称もあり、この付近一帯が城址と思われます。
   当時、鎌倉管領と執事上杉氏の争いから、豪族の勢力を左右する戦いとなって、ついに太
   田道灌と豊島氏の対立となりました。
   道灌は文明九年(1477)四月平塚城を攻め、練馬城石神井城と共に豊島氏勢力の根幹
   であったこの城も遂に落城したものといわれています。
   甲冑塚はこの境内神楽殿裏手にあります。八幡太郎義家が奥州を征服して、がいせんの際
   平塚城主豊島近義の館に滞在し、出立に際して鎧その他を与えて、厚志を謝した。
   その後、元永年間(1118~1119)に城の鎮護のため、裏山に甲冑を埋め、その上
   に塚を築き石碑を建てたと伝えられています。
   昭和48年6月                          北区教育委員会


 ※文中「鎌倉管領」とあるのは、「鎌倉公方」の誤記では?、若しくは「関東管領」。

 
境内社
 菅原神社、御料稲荷神社、大門先元稲荷神社、石室神社の4社ある。

   石室神社(石神明神)
   御祭神 蘓坂兵庫頭秀次命
   御神徳 社守 天災除 病気平癒
   豊島氏の後、平塚城主となった蘓坂兵庫頭秀次は平塚明神を篤く祀った。秀次はみまかり
   て社の外側に葬られるが、以降墳墓のあたりに毎年米が降るようになった。村の長老は秀
   次の石墳を石神明神と崇めた。石神明神は崇めれば必ず応えてくれ、水害や日照や疫病の
   除災に御神徳を顕したと伝えられる。


 
移植樹
 銀杏の木。

   上中里駅記念樹の移植について
   上中里駅は昭和8年7月1日に開業いたしました。
   上中里の有志の方々の8年余に及ぶご苦労が実を結び
   開業記念式典が平塚神社で盛大に催されました。
   昭和57年上中里駅改築の為、当時の関口駅長さんの
   御尽力により、この地に移植されたものです。
              平成12年6月8日
                   記録者 榎木武男


 
平塚城伝承地
 境内に説明板がある。

   平塚城伝承地                            平塚神社
   平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、
   「平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末
   期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。
   平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗
   応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没
   した後、城の鎮護のために拝領した鎧を域内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟
   の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑
   塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平
   塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(1478)
   一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。
   江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の
   病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資
   金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の
   忠誠心を暫くして知った家光は感激し、250石の知行地を与え、この内の50石を朱印
   地として平塚明神に寄進させました。
   平塚神社は、北区指定有形文化財の「紙本着色平塚明神別当城官寺縁起絵巻」、古文書「平
   塚神社文書」を所蔵しています(非公開)。
   立派なイチョウとケヤキの並木が参道にあり、節分には盛大な豆まきが行われます。
   平成4年3月                           北区教育委員会
 


■西方不動尊 ◇
 上中里1丁目47番34号、蝉坂に面してにある。平塚神社裏の崖下に昭和47年人工の岩山を築
き、享保二十年(1735)銘で光背の火焔のデザインがハート型になっている不動明王像と摩利支
天像の石仏を祀っている。摩利支天は陽炎や光線を神格化したもので三面六臂、猪に乗り災厄を除く
といわれ、武士の間で信仰された仏像でここの摩利支天の台石には「御嶽行心講」とある。この付近
に滝があり行場になっていたらしく、そこにこの不動明王像が安置されていたという。
 境内?にある恵比須と大黒天の石仏と宝珠の石柱。今少し関連性が不明。 

   長寿の心得
     
人生は山坂の多い旅の道
   還暦 六十歳でお迎えの来た時は、只今留守と云え
   古稀 七十歳でお迎えの来た時は、まだまだ早いと云え
   喜寿 七十七歳でお迎えの来た時は、せくな老樂これからよと云え
   傘寿 八十歳でお迎えの来た時は、なんのまだまだ役に立つと云え
   米寿 八十八歳でお迎えの来た時は、もう少しお米を食べてからと云え
   卒寿 九十歳でお迎えの来た時は、そう急がんでもよいと云え
   白寿 九十九歳でお迎えの来た時は、頃を見てこちらから
 


■中里貝塚・中里遺跡
 上中里2丁目2番・4番の上中里二丁目広場がそれで、国史跡に指定されている。縄文時代の「水
産加工場」と大々的に報道された。広場に中里遺跡がある。
 中里貝塚はJR上中里駅の東方に1km以上延びる縄文時代の貝塚だ。飛鳥山の台地の下に細長く
突き出た、かつての砂州の上に形成され、武蔵野台地を下から上を見上げるような低地にある。現在
は整備が行われ、周辺は市街地で、公園に説明板があるのみだ。縄文時代中期から後期の大規模な貝
加工場であったと考えられている。江戸時代から貝殻が大量に出土する「かきがら山」として知られ
その広がりは、南北1kmほどの規模になるものと推定される。明治19年白井光太郎によって「中
里村介塚」として初めて当時の学会に報告された。日本で最初に発掘された大森貝塚発掘から8年後
のことだ。和島誠一によって昭和33年に調査が行われ、貝層の中から少ない量ではあるが、縄文時
代中期の土器片が出土した。このことからやっと縄文時代の貝塚であることが分かった。平成8年に
は旧国鉄跡地の公園整備にかかわり発掘調査がなされた。同11年にもマンション建設に先立つ調査
が、同8年の調査地点の西120mのところで行われた。
 貝塚は奥東京湾西部の海岸線に沿っていることが明らかになり、邑の一角にできた貝塚ではなく、
集落から離れた浜にできた貝塚であり、周辺に居住する人々が協業して貝の加工を行っていたとみら
れている。その規模は幅約40m、長さ1kmにも及ぶという巨大な貝塚である。牡蠣(マガキ)や
ハマグリが大半を占め、春先のカキと初夏のハマグリが交互に貝層を形成し、高さ約4.5mにも及ん
で堆積している。
 遺構では、貝を加工したと考えられている皿状窪地が発見されている。砂の層を30cmほど盥の
ように掘り込み、底部に粘土を塗布し木の皮や枝を敷き、周囲を枝で覆ったもので、底部からは貝殻
や焼礫、炭化草木が検出されており、穴で貝を茹でたと考えられている。焼石で肉や魚を蒸し焼きに
した「集石土抗」と呼ばれる施設によく似ている。この施設は、大きな牡蠣の殻を開けるのに使った
と推測されている。また海中で牡蠣をつけるために立てたと思われる杭列や、焚火跡なども検出され
ている。通常の貝塚は生活遺物が出土するが中里貝塚には見られず、また牡蠣とハマグリしか見られ
ず、その貝殻の大きさは大きなもので12cmあまりもあり、牡蠣も10cm以上の大型のものばか
りであり、集落から離れ、内陸部へ干貝を供給する加工場に特化していたと考えられている。貝層の
一番下から自然のままのヤマトシジミの貝層が出てきた。このことから中里貝塚は浜に立地していた
「ハマ貝塚」だ。土器では、下位の貝層から中期中頃、上位の貝層から中期後半、最上位貝層から後
期初頭の土器片が石器と共に僅かに出土しただけで、魚の骨や獣骨は見つかっていない。
 


■上中里二丁目広場
 上中里2丁目2番1号と4番1号にあるにある。中里貝塚・中里遺跡上にあり、保存のために覆土
し、公園とした。全体をフェンスで囲ってあり、構築物はない。夜間は閉鎖される。

   「上中里二丁目広場」の利用について
   この児童遊園は、詐欺の通り夜間の閉鎖をします。
     4月~9月・・・午後6時から午前9時まで
    10月~3月・・・午後5時から午前9時まで
   鍵のかかっている間は、園内に入らないで下さい。
    みなさまのご理解とご協力をお願いします。
                北 区 河 川 公 園 課

 ※ブログによっては2丁目8番、2丁目19番としたものがあるが。8番には「国指定史跡中里貝
塚」の標柱が建っている。19番には広場となるスペースがない。

   中里貝塚 ②
   巨大な貝塚(右手の道路をはさんだ広場)に隣接して、こちらでは、砂浜の中に木枠のつ
   いた
1.6m~1.3mの楕円形の施設の跡が出土しました。砂浜の窪みにたまった粘土を
   利用したもので、中からは焼石やカキ殻などが発見されました。この施設は、貝を加工処
   理して身を取り出すためのものとみられ、使用方法は右図のように2通り考えられます。
   水揚げされた貝を浜辺で処理して身を取り出し、貝殻を前方に広がる海に向かって投棄し
   続け、貝殻がうず高く積もったものです。中里貝塚は「水産加工の場」を示す一連の作業
   工程がそろって残されていたのでした。
   この巨大な貝塚を作り上げた作業が少人数で行なわれたとは考え難く、組織的に共同作業
   が営まれていたことがうかがえます。
   平成11年3月                       東京都北区教育委員会

 ※なお「右図」は割愛する。


■中里貝塚
 上中里2丁目8番22号にある国の史跡。最大約4.5mの厚さの貝層を持ち、長さ約1km、幅約
70~100mに亘る日本最大級の、縄文時代中期中頃から後期初め(約4600~3900年前)
の貝塚。範囲(2丁目2番19号、2番20号、4番25号の大部分、8番3号、8番14号、9番
13号、9番14号)。指定理由は、

   最大で厚さ4.5m以上の貝層が広がる、縄文時代の海浜低地に形成された巨大な貝塚。焼
   き石を投入して水を沸騰させて貝の剥き身を取ったと考えられる土坑や焚き火跡、木道な
   どが確認されている。生産された大量の干し貝は、内陸へ供給されたものと想定され、縄
   文時代の生産、社会的分業、社会の仕組みを考える上で重要である。

 標柱が建ててある。

   国指定史跡 中 里 貝 塚 平成十二年九月六日建之

 説明板は以下の通り。

   中里貝塚 ①
   中里貝塚は、明治19年に学界で報告されて注目された貝塚です。110年の時を経て、
   平成8年度に本格な発掘調査が行われました。
   これまで貝塚は、台地上の村につくられる生活ゴミの捨て場と見られていました。しかし
   中里貝塚は低地に位置し、調査によって、国内最大厚4.5mを誇る巨大な貝層が発見され
   たのです。貝層からは土器のかけらや、魚や獣の骨などは見つからず、形の揃ったハマグ
   リとカキだけが捨てられていた、生活のにおいのしない貝塚なのです。
   この貝塚は縄文時代中期中葉から後期初期(約4500年~4000年前)に海岸につく
   られた貝塚です。海で採取してきた貝を浜辺で処理して身だけ取り出し、貝殻を海に向かっ
   て捨てていたのです。浜辺で貝を処理した施設は道路をはさんだうしろの広場で発見され
   巨大な貝塚は目の前に広がっていました。このように、大量に2種類の貝を取り続けてい
   たということは、ここに集まる縄文時代の人々は、貝を選定し、枯渇しないように浜を管
   理していたと見られ、自家消費するだけでなく、干し貝に加工して、石器の原料である石
   材と交換していたようです。
   中里貝塚は、海岸につくられた「水産加工の場」だったのです。
   平成11年3月                       東京都北区教育委員会


■上中里二丁目児童遊園
 上中里2丁目13番15号にある。


■顕法寺

 上中里2丁目19番5号にある寺。 


■上中里庚申堂② ◇

 上中里2丁目25番4号王子街道に面して小堂に3基ある。上中里1‐41‐1に同名の庚申堂が
ある。

 ①.笠付角柱型。種子(キリーク)。「奉建立庚申塔爲二世安樂也」「寛文五乙巳年九月吉日 宮
   谷戸村」「逆修」。下部に不見猿、右面に不聞猿。左面に不言猿を浮彫に刻む。
 ②.笠付角柱型。阿弥陀三尊種子。「奉造立庚申塔為二世安樂也」「寛文五年乙巳八月二十九日」
   下部に、不見猿、右面に不聞猿。左面に不言猿を浮彫に刻む。
 ➂.板状駒型。青面金剛(三面、合掌六臂)・三猿。「施主 おふへ」


■上中里駅

 上中里2丁目47番31号にあるJR京浜東北線の停車場。昭和8年7月1日に追加開業した。ホ
ームは地上島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。
 改札口・出口は1ヶ所のみで、ホームより高い位置にある。駅舎は線路の南側にしかないが、北側
へ抜ける歩道橋がすぐ傍にある。当駅の乗降客数は、京浜東北・根岸線の中で最も少ない。
 


■上中里三丁目児童遊園

 上中里3丁目12番4号にある区立公園。

 



【神谷】(かみや)1~3丁目                    昭和42年5月1日
 神谷村。明治11年「郡区町村編制令」により北豊島郡所属、同22年岩淵町大字神谷、昭和7
年王子区神谷町、同22年北区が成立して神谷町1~2丁目、同32年1~3丁目、同42年新住
居表示を実施して現行の「神谷」とした。神谷と書いて「かにわ」と読み、昭和7年王子区になっ
た時に「かみやちょう」と読みを変えた。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『北区史』など。

 神谷の由来
 「かにわ」の旧韻からして、蟹が群れ遊ぶ「蟹庭」か「蟹谷」が転訛したと考えられる。新宿区
には蟹川渓谷があったが、蟹は足の踏み場もないほど群棲する。豊島と神谷の間に渓谷があり、のち
短い圦堀が掘られて「神谷堀」と呼ばれたが、石神井川から引いた用水の排水と出荷用の河岸場と
して利用した。堀の上流の小川に「大坊橋」という橋が架っていて、デッカンボウ(巨人)が架けた
という伝説が残る。そんな伝説が生まれてもおかしくない環境だったのだ。町内で環七通りが北本
通りと交差する(宮堀交差点)。この立体交差から続く「新神谷橋」は隅田川最初の長大橋で、神
谷橋は神谷堀に架かり北本通りを通していた。だから神谷は「神谷堀公園」だ!
 


神谷一丁目児童遊園
 神谷1丁目5番1号にある区立公園。


宮堀ポケットパーク
 神谷1丁目5番27号にある区立公園。
 


宮堀児童遊園
 神谷1丁目5番28号にある区立公園。
 


宮堀の渡船場跡
 神谷1丁目と3丁目の境から足立区新田1・2丁目の境に架かる環七通りの新神谷橋のところに宮
堀の渡し舟があった。新神谷橋架橋のために昭和35年に廃止され、橋は同40年に開通した。開通
までの5年間は、下流500mにある昭和16年開通の新田橋を利用したようだ。
 渡船場跡の説明板が宮堀児童遊園内にある。

   宮堀の渡船場跡
   説明版の奥の川沿いには、大正時代末期から昭和35年にかけて宮堀の渡船場がありまし
   た。この渡船場が設けられたのは、荒川放水路が完成したことによります。明治43年8
   月の東京大洪水を教訓として翌年から荒川の河川改修工事が始められ、大正13年6月に
   荒川放水路の全線が通水しました。その結果、足立区新田町の一帯は放水路と隅田川に挟
   まれて島のように孤立した地域となったため、北区と新田地域との間を往来する2つの渡
   船場が設置されました。一つは野新田(やしんでん)の渡船場で、もう一つが宮堀の渡船
   場です。新田地域からさらに先の足立区側へ赴く時は、鹿浜の渡船場を利用しました。橋
   が少なく、鉄道や自動車が普及していない時代には、渡船は重要な交通機関でした。神谷
   や十条に住む人々は、宮堀の渡船場を使って、毎月21日の西新井の大師参りに出かけた
   り、鹿浜へ虫切りといってカンの虫治療に行ったりしました。また桜の咲く季節には、荒
   川堤へ花見に行く人々で渡船場は賑わいました。しかし交通量の増大に対応して、昭和3
   7年10月に新神谷橋の架設工事が着工され、同40年10月に片側車線が開通し、環状
   七号線が足立区側へ入ることなりました。宮堀の渡船場は、新神谷橋の架橋によってその
   役目を終え、昭和35年の冬に廃止されました。
   平成8年3月                        東京都北区教育委員会

 地下鉄・王子神谷駅の少し北側に 北本通りに面して 「産業考古学探索路」という案内の碑が建っ
ており、この中に 「宮堀の渡し(宮堀渡船場)」についての以下の説明が書かれている。

   宮堀渡船場

   宮堀の渡しとよばれる渡し船の発着場が、現在の新神谷橋のところに昭和30年代の末頃
   までありました。この渡船場は神谷と新田とを行き来する人々に利用され、荒川堤の花見
   や 西新井大 師へのお参りなどにも利用されていたよう です。しかし 環状七号線、新神
   谷橋の完 成により,、その使命を終えました。
 


神谷南公園
 神谷1丁目32番4号にある区立公園。


神谷小学校
 神谷2丁目30番5号にある区立校。沿革不明。稲田小学校と共に、神谷中学校と小中一貫教育を
行っている。


大東亜戦争犠牲者慰霊記念碑
 神谷2丁目31番10号と神谷公園の隙間にある。

   大東亜戦争犠牲者
   慰 霊 記 念 碑
   記
   昭和20年3月より同年8月までに神谷地区において空襲を受け亡くなられた一般住民三
   百数十名の遺体がここ神谷公園内に仮埋葬されました。
   昭和26年他え改葬されましたが茲に終戦三十年を迎え亡くなられた方々の霊をなぐさめ
   るため有志の人が心をあわせて建立したものです。
   昭和50年7月10日                     神谷二丁目中町会
                                  神谷中央通り親和会


■神谷公園

 神谷2丁目33番6号にある区立公園。

 神谷体育館
 園内にある区の施設。
バスケットボール(1面)、バレーボール(1面)、バドミントン(3面)
卓球、剣道、空手等に利用できる。優良。
 


■神谷中学校

 神谷2丁目46番13号にある区立校。昭和30年4月「東京都北区立神谷中学校」として開校。
PTA発足。校章、校歌制定。
 同32年校旗樹立。同35年創立5周年記念式典。北区体育大会において男子総合優勝。同37年
体育館兼講堂完成。同40年創立10周年記念式典。技術木工室・給食室完成。同42年完全給食開
始。北区中学校体育大会において総合優勝。同45年全日本よい歯の学校5ヶ年連続優秀校。第1期
鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室5、家庭科調理室、被服室、美術室、音楽室)落成。同46年
第2期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室10、給食調理室、保健室、事務室、放送室等)落成。
同46年バドミントン部、バスケット部東京代表として全国大会出場。プール完成。同47年第3期
鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室4、金工室、木工室、理科室2、図書室、職員室、校長室、応援
室、視聴覚室)落成。同48年新体育館完成。バスケット部男子、都代表として先刻大会出場。
同4
8年新体育館完成。バスケット部男子都代表として全国大会出場。同49年創立20周年記念式典。
同50年全日本よい歯の学校連続10年達成表彰受賞。同51年バドミントン部男子都代表で関東大
会出場。同52年バドミントン部男子都代表で全国大会出場。同53年バドミントン部男子都代表と
して全国大会出場。同54年バドミントン部男子都代表として関東大会出場。同56年バドミントン
部男子都代表として全国大会出場・準優勝。同60年創立30周年記念式典。
 平成4年ニューヨーク市中学生来日(来校体験入学)。同6年ニューヨーク市中学生来日(来校体
験入学)。同7年創立40周年記念式典。同9年校舎耐震化。同14年東京都教育委員会表彰「心の
教育」。同15年文部科学大臣表彰「心の教育」。同16年日本学校保健会表彰「心の教育」。同1
7年創立50周年記念式典。
 


■北運動公園
 神谷2丁目47番6号にある区立公園。昔は「北運動場」といってたように記憶する。戦時中は陸
軍の照空灯陣地跡で、照空灯はサーチライト、探照灯とも。岸飛行場の跡地だ。名前の「北」は、北
区の北ではなくて、この辺りの俗称「北町」による。
 


岸飛行場跡
 北運動公園の南北の幅を東に隅田川まで、西にJRの線路まで伸ばした範囲。大正5年築地明石町
の耳鼻科医岸一太が開設したのでその名がある。岸町とは無関係だ。風洞から電気熔鉱炉まで備えた
併設工場は中島飛行機(解体後富士重工業やプリンス自動車→日産自動車になったが本体はない)の
創始者中島知久平が参考にしたという。この工場では発動機までが製作されて、アルマン6型機4機
を陸軍に納入したが、時期が早かったためか僅か2年で閉鎖した。跡地は「飛行場原」と呼ばれてい
たが、後に理研の工場地帯となり、王子の北部にあたるところから「北町」と俗称された。北本通り交
番前の、といっても王子製鉄の跡に赤羽警察署が引っ越してきたので今はないが、その前にあった都
電「神谷3丁目停留所」は永らく「王子北町停留所」だった。
 


■赤羽警察署

 神谷3丁目10番1号にある。区の最北部の地域を管轄し、東は隅田川を隔てて西新井署、西は志
村署及び板橋署に、南は王子署に接し、 北は荒川を境に埼玉県警川口警察署と接している。

 
●高級食材取り込み詐欺事件
 令和3年1月27日、高級食材6000万円を騙し取ったとして港区の自営業高橋裕史(48歳)
を逮捕した。高梨は、既に1月22日横浜署に逮捕されている山口組系暴力団員坂田宏樹(41歳)
ら9人と共に、実態のない食品会社を騙り、代金を払う心算もないのに福岡県の食品会社から黒毛和
牛などの高級食材を騙し取った。事務所に架空の海外出張などを書き込んだホワイトボードを設置す
るなど取引を信用させていた。高梨は、この備品などの費用を負担して参加していた。

 
●特殊詐欺の受け子を逮捕
 令和3年5月12日、今年2月、区内に住む80代の女性が自宅に保管していた現金2100万円
を、受け子として騙し取った罪で、堀之内玲(32歳)を逮捕した。
 事件は、息子役の男が「カバンを落した。緊急に支払わないといけない」と電話をかけ、「カバン
が発見されたら返すので建替えて欲しい」と説明し、堀之内がJRの遺失物係に成りすまして連絡を
入れ「息子さんのカバンが見付かった」と安心させ、今度は上司を装って女性宅を訪問し、2100
万円を騙し取った。翌日、息子が電話してきて事件が発覚した。堀之内は惚けている。

 
●区職員を装い還付金詐欺
 令和3年5月17日、騙し取った金を口座から引き落として盗んだとして夫婦が逮捕された。
 夫婦は、松野剛(32歳)と松野えりか(32歳)で、去年4月、新宿区職員と偽って、60代女
性宅を訪問し、「還付金がある」と嘘を言って720万円を振り込ませた上、ATМから480万円
を引き出して盗んだ。毅は「何のことやらさっぱりわからない」と惚けており、えりかも「思い出せ
ない」とほざいている。2人はヘつの事件で掴まった際、離婚届を出してはいるが、事実の夫婦関係
は続けていて、詐欺グループ加わっていた。、


■赤羽稲荷大明神 ◇

 神谷3丁目12番1号にあるイオン赤羽北本通り店の敷地南西角にある。。


■神谷三丁目児童遊園

 神谷3丁目16番18号にある区立公園


■フィトネスジム代表による押し込み強盗事件
 神谷3丁目29番12号の2階建て住宅で起きた事件。令和3年1月20日朝4時前、女性専用フ
ィットネスジム「ビーストック」を経営する越前谷佳(えちぜんやけい 38歳)が住宅に押し込ん
で、寝ていた70代の住人に刃物を持って襲い掛かり怪我をさせたとして、殺人未遂の罪で逮捕され
た。コロナ禍で会員数が激減し、経営が立ち行かなくなりつつあり、子供のミルク代も事欠くように
なったことから強盗に至ったという。逮捕されればミルク代は稼げぬこととなるので、事実は現状か
ら逃げ出したかったのだろう。 


神谷山専福寺
 神谷3丁目32番11号にある真言宗智山派の寺。本尊は薬師如来、創建は不詳だが、江戸初期の
墓石が現存する。もとは赤羽3丁目16番の真頂院の子院の尼寺だったことから「尼寺」と俗称され
たが、今は尼寺ではない。豊島八十八ヶ所霊場39番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   泉福寺
   新義真言宗袋村真頂院門徒神谷山ト号ス本尊薬師


 とある。
 


区民センター神谷・神谷図書館

 神谷3丁目35番17号にある区の施設。

 「岸辺の散歩」
 入口前左手にあるオブジェ。田中毅の作品。作品と題名が一致しないというか、何を表現している
のか解らない高尚な一品。
 


■神谷三丁目南児童遊園

 神谷3丁目37番4号にある区立公園。


常住山自性院

 神谷3丁目45番1号にある真言宗智山派の寺。本尊の不動明王像は「水不動」と呼ばれ、御詠歌
に、

   神となり仏となりて水の中 火炎の中に立つは世のため不動明王

 とあるように、水害除けの仏さまと親しまれていた。ここには天文十一年(1542)を初めとす
る板碑があるほか、門の内外に数基の石仏がある。神谷地区の各所にあったものを持ち寄ったものだ。
その中に庚申塔が9基ある。地蔵・文字塔・青面金剛などに彫られているが、右手を保頬に当てて考
える形を取る如意輪観音思惟像を刻んだものが3基ある。「新編武蔵風土記稿」に、

   自性院
   新義真言宗袋村真頂院門徒常住山ト号ス本尊不動


 とある。

 ●庚申塔
 庚申信仰に伴う庚申待の守り神だ。これは61日目毎にやってくる庚申の日に眠ると、人間の体内
にいる三尸(さんし)という虫が体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の悪事を告げ、告げられ
た人は寿命が減らされるという。そこで庚申の碑は徹夜して眠らない。これが「庚申待」で、中国の道
教の三尸説をその源流のひとつとする。我が国では、庚申信仰は平安時代に宮中貴族の年中行事だっ
た。鎌倉時代になると幕府はこれに倣って守庚申の行事を行っていたが、室町時代に仏教と結びつき、
供養の思想より、庚申の主尊(山王21社・13仏・青面金剛など)を供養するための庚申板碑が現
れた。やがて江戸時代になると庶民信仰へと変わり、各種の庚申塔となった。そこに刻まれた仏は青
面金剛・阿弥陀如来・地蔵菩薩・帝釈天王・猿田大神などの神仏や三猿などで、観音菩薩を彫ったも
のは23区内でも20数基しかない、それなのに区内には観音像刻んだものが数基あり、その内の3
基がこの寺にあるのだから驚きだ。ビックリ!
 


柏木神社
 神谷3丁目55番5号にある。神谷村の鎮守だった。神紋が「重ね柏葉」なので氏子である村人は
柏餅を食べなかったという。もとは隅田川河畔に祀られていた。その当時は境内は川を上下する船頭
衆や旅人の休み場ともなったという。現在の神社の辺りは下十条村だったが、村人は下を嫌って昭和
14年に東十条と改めたが、国鉄の下十条駅が東十条に改称したのは戦後で、軍事施設は下十条町を
改めなかった。境内掲示に、

   柏木神社は、元享年間(1321~24)に神谷三丁目の荒川に面した地に、伊邪奈美命
   (女神)を御祭神とする神谷町の総鎮守神の社殿として建立された。安産の神として崇め
   ると共に、荒川を上り下りする舟の水路の安全を祈る「交通安全」の神様としても有名で
   あった。その昔は社域は広大で、神楽殿もあり、多くの樹木の聳える荘厳な森に囲まれて
   いたが大東亜戦争が激化するに伴い、境内は軍需工場に接収され、昭和18年12月現在
   地に遷宮された。昭和54年8月神谷町内外の氏子有志の奉賛により、現在の社殿が建立
   され、今日に至っている。


 とある。
 

 



【岸町】(きしまち)1~2丁目                 昭和41年11月15日
 岸村→王子村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、同22年王子村大字王子、
同41年王子町大字王子、昭和7年王子と滝野川の一部で王子区王子町、同14年王子町と下十条
町の各一部が合併してできた新しい町域の町名を、王子町の古称を復活させて命名した。昭和41
年新住居表示を実施して現行の「岸町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『北区史』など。

 
岸の由来
 かつて江戸湾が入り込んでいた当時このあたりは海岸だったので岸村の名が起った。町内に王子
神社と名主の滝がある。
 


■音無親水公園・武蔵野の路石神井川コース(石神井川遊歩道)
 
昭和54年の改修工事で完成し、江戸以来の滝野川名物楓(かえで)の植込みもある。音無橋の下
に熊谷源左衛門の碑が建っている。何をした人なのだろう? HPには名前さえ見つからない。

 そしたら、平成29年暮、突然、発見したよ! 王子村の村長だとさ。

 
熊谷源左衛門の碑
 明治初期、世の中は農業(米穀)生産中心の時代であり、東京周辺と雖も土地や水を工業のために
提供してくれるところはおいそれとなかった。
 その中で唯一王子村だけが、積極的に抄紙会社を受け入れたのだ。地元側で誘致の中心となって活
動したのが、当時王子村の組頭役だった熊谷源左衛門だった。
 当時、王子村は東京の一寒村であり、農業のみで生活するのは困難だった。そのため、春秋、王子
稲荷の参詣人や飛鳥山の遊覧者相手に飴菓子などを売り、または飲食店を開いて生計の不足を補い、
辛くも「炊煙を上げる」状態だった。
 明治6年9月、抄紙工場を王子に創設しようとの計画が持ち上がり、会社側から、工場用地の買収
や用水の分給について村に要求があった。この機を逃せば二度と村救済のチャンスはないと考えた源
左衛門は、工場誘致に奔走し、用水組合23ヶ村を説いて回り、用水66坪8合の分水を承諾させ、
用地売却を拒む村民を説く一方、会社に対しては永久用水費大部分の出費を約束させ、代地提供に応
じさせ、従業員の募集を王子村に於いて行うことを契約した。
 源左衛門は、維新以来衰微した王子村に抄紙会社を積極的に誘致することによって、地域の活性化
を図ったのだ。用水と土地を提供する代わりに、会社側の用水費用の負担と村人の雇用確保を約束さ
せる、現在では極当たり前になった企業誘致による地域振興の手法を、明治初年の段階で逸早く取り
入れたところに、源左衛門の先見性、洞察力が窺える。   

   熊谷源左衛門君碑
   東京府知事正三位勲二等男爵千家尊福篆額

   君名源左衛門 熊谷氏 武州北豊嶋郡王子村人 以天保十三年正月廿八日生 初專務千畔
   園 明治二年八月浦和縣■學以爲王子村組頭 後管於東京府 十四年十一月爲戸長 廿二
   年故村長 三十七年■月十七日以病歿于聯 享年六十有三 君資性寛恕 執事明夙注意水
   利 北豊嶋地勢概平指悉通溝渠 引河流以灌漑 而従來管理法未備動 輙致紛紜 君憂之
   創隣郷不相侵之約首設之 石神井分渠施及千川玉川派流盡締 盟無復献喧擾 君皆臾有力
   焉 又甞謂厚民生賑郷閭莫善於工業 時會諸工場興於是他者陸續相沓 其方相地也 民或
   不肯售善 則君介其間懇論應之 工事隆盛遂冠都下 其他設農耕試場及児童敎童莫不盡意
   官賞其攻賜金數次 郷黨亦懐德弗謑 今茲胥謀鐫石以垂後毘 銘日
    飛鳥崗下 南陌東阡 一望萬項 溝洫腴田 轟突駢植 煤烟衝天 丈夫勵業 子女爭先
    昔時碧落 茅茨采橡 分則櫛比 棟甍濇甑 謹勉在職 三十六年 攻防貞石 千載維傳
   明治三十八年十二月             東京府北豊嶋郡長從六位勲五等田中端撰
                                     香渓山内昇書


卵焼きの「扇屋」

 岸町1丁目1番7号新扇屋ビル1階にある江戸時代から有名な玉子焼きの店。今は対岸に場所を移
して新扇屋ビルとなり、今は貸しビルとなっているが、一階に小屋掛けで細々と玉子焼きを売ってい
るのがいい。元は対岸に海老屋とともにあったが、海老屋はもうない。落語の「王子の狐」の舞台と
なった玉子焼きが名物の店だ。幕末には外国使臣も招待されている。

   門口の海老は王子の飾りなり(川柳)
   扇屋へ馴染みになった三の午(川柳)
   扇屋も地がみの加護で繁盛し(川柳)
   扇屋へ花見一ト群たたみ込み(川柳)

 「地がみ」は扇屋の地紙と地神(王子権現・王子稲荷をかけている。

 
屋敷神? ◇
 新扇屋ビルの南の端にある小祠。
 


■権現坂ポケットパーク

 岸町1丁目4番1号、東北線52権現坂ガードの側にある区立公園。


■王子町役場跡

 岸町1丁目6番17号の岸町ふれあい館があるところ。、


王子山金輪寺

 岸町1丁目12番22号にある真言宗霊雲寺派の寺。旧禅夷山東光院金輪寺の塔頭で藤本坊と称し
ていた。旧金輪寺が神仏分離令により廃寺となった後、真言宗霊雲寺派総本山霊雲寺第15世正行大
和尚が、藤本坊に金輪寺の寺号を継がせて、王子山金輪寺となったた。豊島八十八ヶ所霊場55番札
所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場1番札所、北豊島三十三ヶ所霊場2番札所だ。本尊は釈迦如
来像と一字金輪仏頂尊像。「北区文化財案内」に、

   現在の金輪寺は、真言宗霊雲寺派、釈迦如来像と一字金輪仏頂尊像を本尊としています。
   この寺は旧金輪寺藤本坊です。 旧金輪寺は、万延元年(11860)火災により焼失し、
   明治初めの神仏分離令によって廃寺になったといわれています。その後、明治36年真言
   宗霊雲寺派総本山霊雲寺第15世正行大和尚が、地元檀信徒と諮り、残っていた藤本坊、
   弥陀坊のうち、藤本坊に金輪寺の名を継がせ王子山金輪寺としたものです。旧金輪寺には
   支坊が十二あったとする文献もありますが、明治36年の過去帳には、藤本坊、宝持坊、
   弥陀坊、薬師坊、池上坊、月蔵坊の名が挙げられており、六坊と考えるのが妥当と思われ
   ます。弥陀坊は、北区会館隣りの阿弥陀堂がそれです。


 とある。

   旧金輪寺
   禅夷山東光院金輪寺と号し、現在の王子郵便局周辺一帯にありました。(『新編武蔵風土
   記稿』挿画による)。
   この寺は、康平年間(1058~65)源義家が東征に際し、この地で金輪仏頂の法を修
   せしめ、凱旋の日、甲冑を奉納して相手方戦死者の冥福を祈ったことに始まると伝えられ
   ています。
   慶長十四年(1609)、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の命により、宥養上人が当時無住で
   あったこの寺院の住職に任じられ、王子権現(王子神社)、王子稲荷神社の別当となり、
   またそのころ定められた関東古義派5ヶ寺のひとつにもなりました。
   慶長の頃、徳川家康が■■の際この寺に立寄り、秀忠、家光も立寄りましたが、寛永十一
   年(1634)将軍の座所が設けられて以来御膳所となり、享保五年(1720)その修
   理の際に舞台を設け、また、安永五年(1776)徳川家冶日光社参の際の小休所に命じ
   られました。
   寺宝としては、「狩野洞雲筆屏風一雙」「狩野尚信墨画十二幅」「冷泉為久和歌一幅」「林
   信充作飛鳥山十二景詩一巻」「小田原衆所領役帳写一冊」など多数ありました。(同上『新
   編武蔵風土記稿』による)
   しかし、この寺は万延元年(1860)四月、火災によって焼失し、明治初年の神仏分離
   令によって廃寺になったといわれています。
   現在の金輪寺

   旧金輪寺には支院が六院ありましたが、その内の藤本坊、弥陀坊のみを残のみとなってい
   たところ、真言宗霊雲寺派総本山霊雲寺第十五世正行大和尚が、明治36年地元檀信徒有
   志とはかり、旧金輪寺藤本坊をもって金輪寺の名を継がせ、王子山金輪寺としたものです。
    旧金輪寺のありさまは「江戸名所図会」の挿画に描かれています。

 
へんろみち(弘法大師巡錫像)
 入口を入って右にある。建立者は戸張照子、将に歩き出さんとする像、この形は初めてだ。

 
庚申堂
 門前左にある。舟形光背型・日月・土蔵菩薩像・三猿。「武刕豊嶋郡谷津村」「延宝乙卯天十月六
日」「奉造立庚申供養二世安樂処」と刻む。

 堂前右に、

   
帝釋天三猴

 と刻む碑がある。裏面に「庚申講」と20人の名、「竿石寄付 板橋町 石工 清水■■」「谷津
組」を刻む。明治41年の造立。


■稲荷の坂

 岸町1丁目12番26号の王子稲荷の左側(南側)を日光御成道に上がって行く坂道。

   王子稲荷の坂
   この坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられ
   ています。また江戸時代には、この坂を登ると日光御成道があり、それを北へ少し進むと
   さらに北西に続く道がありました。この道は姥ヶ橋を経て、蓮沼村(現板橋区清水町)ま
   で続き、そこで中山道につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ、中山道から来る
   王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。           北区教育委員会


■王子稲荷神社

 岸町1丁目12番26号にある大社。但し氏子地域はない。国民総てが氏子?

   王子稲荷神社由緒記
   御祭神は、世に「稲荷大明神」と称え奉る衣食住の祖神で、古来産業の守護神として広く
   庶民がおまつりする神様であります。
   王子稲荷神社は、今から一千年の昔「岸稲荷」と称して、この地にまつられたお社で、社
   記に、「康平年中源頼義奥州追討の砌り、深く当社を信仰し、関東稲荷総司と崇む」
と伝
   えており、西暦1060年の平安朝中頃には相当の社格を有していたものと考えられます。
   元亨二年(1322)に近隣の地に領主豊島氏が、紀州の熊野神社を勧請し王子神社を祀っ
   た処から地名も王子と改まり、当社も「王子稲荷」と改称されました。
   小田原北条氏は当社を深く尊崇し、朱印状を寄せており、江戸時代には徳川将軍家の祈願
   所と定められて大層栄えました。
   代々の将軍の崇敬は、極めて篤く、社参は勿論三代将軍家光公は、寛永十一年に社殿を造
   営し正遷宮料として金五拾両、その他諸道具一式を寄進せられ、次いで五代将軍綱吉公は
   元禄十六年に、十代将軍家治公は天明二年(1782)に、それぞれ修繕を寄進されまし
   たが更に十一代将軍家斉公は文政五年(1822)に社殿を新築再建されました。
   八棟造り極彩色の華麗な社殿は、江戸文化の最高潮、文化文政時代の粋を伝え、当時の稲
   荷信仰の隆昌が偲ばれます。
   然し惜しいことに今度の大戦中の昭和20年4月13日愚かなアメリカ軍の空爆によって
   本殿などを大破しました。
   その後昭和35年に本殿の再建が行われましたので、現在の社殿は、拝殿幣殿は文政五年
   の作、本殿は昭和の作ということになります。また昭和62年には社殿の総塗り換えが1
   65年振りに行なわれ、神楽殿も新規に建て替えられました。
   翻って沿革を尋ねますと、江戸時代は所謂「神仏習合時代」で、御祭神についても『新編
   武蔵風土記稿』『江戸名所図絵』等に「本地は聖観世音、薬師如来、陀枳尼天なり」と記
   されています。
   王子稲荷神社は、明治維新まで禅夷山東光院金輪寺が別当として王子権現(王子神社)と
   共に管掌し、住民は「王子両社」と称して等しく氏神として崇めて来ました。現在は明治政
   府の神仏分離政策により廃仏棄釈が行なわれ、金輪寺そのものは二坊を残して廃寺となっ
   ています。
   当社へは遠方よりの参拝者が多く、諸方の街道筋に「王子いなりみち」という標石や、奉
   納石灯籠が建てられて、参詣人の道しるべを務め、又、飛鳥山の桜の花見を兼ねての行楽
   客もあり、門前には茶店、料理屋等が数多くありました。その内の一軒は現存しており、
   道しるべの灯籠の一部は、境内に移築保存(昭和32年)されています。
   境内は台地の中腹にあって、約2000坪、今では市街を見渡す眺めのよい高台ですが、
   昔はこんもりと茂った杉の大木に包まれて昼の暗く、山中には沢山の狐が安住し神使とし
   て大切にされていました。その跡は今も「お穴さま」として保存されてい増。狐に因む伝
   説は数多くあります、料理屋と狐を舞台にした「王子の狐」の落語は当時の様子をよく伝
   えています。
   又、江戸名所図絵、東都歳時記、新編武蔵風土記に記載する、〝毎歳十二月晦日の夜、諸
   方の狐夥しく、ここに集まり来る事、恒例にして今に然り。その灯せる火影に依って土民、
   明年の豊凶を卜す。云々゛という伝説は、最も有名で「装束榎」は、これらの狐が、身仕
   度をした処と伝えられる場所で、〝装束の榎まで待つ王子なり(東鳥)〟という句も残っ
   ており、その跡には、装束稲荷の祠が建てられています。徳川幕府代々の将軍家の厚い保
   護と共に、大老田沼意次が立身出世したのは、屋敷に稲荷が祀ってあったからという評判
   によることもあって、庶民の中に稲荷信仰が大層盛んになり、中でも王子稲荷の商売繁昌
   と火防せの御神徳は広く知れわたる処となりました。そして、江戸中期より二月の初午に
   は「火防守護の凧守」が授与されるようになり、これを祀ると火難を免れ、息災繁昌する
   とて社頭は賑いを呈し、これに因んで、縁起の凧を商う凧市が境内で開かれるようになり
   現在に至り、東京名物となっています。
   社宝には、絵画に、近世の大家柴田是真の「茨木」の扁額があります。これは、天保十一
   年のもの、作者の出世作といわれる名品で、昭和九年九月一日、文部省から重要美術品に
   指定されました。
   この図柄は、〝その昔、羅生門に出没して、京の民衆をおびやかしていた鬼女があり、渡
   辺綱という武将によりようやく退治されたものの、その七日後、渡辺綱の伯母にばけて訪
   れ、その折に切り落された自分の片腕を取り返すやいなや、元の鬼女の姿に戻り、地をけっ
   て空に舞い戻ってしまった〟という話の最高の場面を描いたものです。
   奉納者の砂糖問屋組合は、当時天保の改革で各方面の粛正をしていた幕府に対して、商権
   回復運動をしていたので、とりあげられた商権を鬼女の腕にたとえて大願成就を願意を籠
   めたものであるという挿話が伝えられています。
   拝殿の天井には、幕府の御殿絵師谷文晁の「竜」の板絵が二枚掲げられていましたが、そ
   のうち一枚の墨絵の方は、今回の修繕時に史料館へ収蔵され、代りに院展同人の画家・関
   口正男筆の「鳳凰」がはめ込まれています。


 ※社殿について、区の説明板には、文化五年(1808)の造営としている。?
 さて、成田山信仰については知られている市川団十郎が「暫」の上演の時には、王子稲荷に祈願し
て、大当たりをしたといわれている。「北区文化財案内」に、

   祭神は宇氣母智之神、和久産巣日神、宇迦之御魂神です。もと岸稲荷と称し、創建は不詳
   ですが、治承四年(1180)源頼朝が源義家の腹巻(鎧の一種)、薙刀等を奉納したと
   伝え、古くから関東惣社と称したということです。社殿は、寛永十一年(1634)王子
   神社と共に幕府の手で造営され、元禄十六年(1703)にも幕府によって造営され、現
   在の社殿は文政五年(1822)建立によるものです。「江戸名所図会」は、当時のこの
   界隈の賑わいを「実にこの地の繁花は都下にゆづらず」と伝えています。
    この神社には「額面著色鬼女図」があります。これは、天保十一年(1840)江戸の
   住吉明徳講(東京砂糖元売商組合の祖)が柴田是真に委嘱して描かせ、業界の守護神と崇
   敬するこの神社に奉納した絵馬で、渡辺綱に腕を切られた羅生門の鬼が、叔母に化けてそ
   の館を訪れ、すきをみて切られた腕を持って逃げる姿を図にしたものです。また拝殿およ
   び幣殿の格天井に、谷文晁による竜の絵があります。

 とある。

   稲荷ふ神位は旧き正一位(川柳)
   仰ケ只関八州の王司なり(川柳)
   お幟も五社五社と立つ王子道(川柳)
   王子から出たはおやまの正一位(川柳)


 
神門(東門)
 正面の表門。四脚門で随身門ではない。幼稚園が開園している時は一の段は幼稚園の園庭となるた
め閉鎖されている。

 
市杵島神社
 門を潜った右手、正面石段手前にある。幼稚園が開園している時はお参りできない。

 
古文篆の水盤
 石段上の右手にある。

 正面

   
盥漱水(古文篆)

 右側面

   
文化九年壬申二月初午
       猪口安左衛門

 左側面

   将赴詣■心已清又
   加以盥漱益浄面目
   透暎水則表裏最正
   爽焉奈有不受乎
     性間源敬之書


 ※■は「足」篇に「舌」という字。

 
社殿(拝殿・本殿)
 神社の中枢。石段正面にある。
第11代将軍徳川家斉により寄進されたもの。度重なる火災や昭和
20年4月13日の
空襲によって本殿などを大破したものの同35五年に本殿の再建が行われ、戦
火を逃れた拝殿幣殿は文政五年の造営で、
今もその当時のままに残されている。


 
拝殿の天井画
 院展同人の画家関口正男筆の「鳳凰」が嵌め込まれている。修繕前には幕府の御殿絵師谷文晁筆の
「龍」の板絵が2枚掲げらてていた。一枚の墨絵の方は資料館に収蔵されている。

 
社務所
 社殿右にある。

 
古文篆の歌碑
 社殿と社務所の間に本宮社への参道があり、赤い鳥居を潜ったところにある。

 
本宮社
 社殿と社務所の間からお参りする奥の院。

 お石様
 本宮社の左、赤鳥居の立ち並ぶ奥にある。社正面の手前に漬物石ほどの石が納められており、

   願い事を念じながら「お石様」を持ち上げ、
   予想した重さよりも、
   ※軽く感じたら、願いが叶いやすい
   ※重く感じたら、叶いづらいので、
    まだまだ努力が必要
          との言い伝えがあります。
   
無理をして腰を痛めないようにご注意下さい。
   
触ってご神徳を頂き、心願成就に向けて
                  お励み下さい。

 とのことです。くれぐれも強欲をかきませぬように。  

 
狐穴・石祠
 お石様の左の階段を上がると穴跡があり、石祠祀ってある。何時の時代か知らないが、実際に何組
かの狐が住んでいたことがあるそうだ。落語の「王子の狐」に出てくる、母子の狐もここに住んでい
たのか? 王子の狐はよく人を騙すという。落語の母狐は人に騙される哀れな狐だが、こんな話もあ
る。
 
「反故のうらがき」という随筆集に載っている話
 王子の金輪寺に所用があった武士が、帰りがけに飛鳥山の麓に差し掛かる。何処からともなく三味
線、琴、胡弓の調べが聞こえてきた。音を辿れば、一軒の家に行きついた。格子越しに3、4人のい
と艶やかな女どもが見え、誘われるままに上がり込むと、酒肴を勧められ、一夜濃厚な接待を受ける
ことになった。疲れ果てぐっすり寝込んだところ、翌朝目覚めるとそこは麦畑のど真ん中だった。 

 「関東」の定義
 関東とは「関の東」、関は関所、関門だ。ではその関は何処かというと、実は時代によって異なる
のだ。太古の昔、まだ日本が大陸と陸続きだった頃、見た訳ではないが、大陸にいた人々がナウマン
象を追って、樺太→北海道→本州と渉ってきて、山間に住みついた。縄文人だ。彼らは南下したもの
の濃尾平野止まり、西日本にはあまり行かなかったらしい。鹿児島に縄文遺跡があるので、西日本に
も縄文人は拡散したようだが、人口は圧倒的に濃尾平野以東に偏っていた。
 しかし稲作を持ってやってきたのが「後から来た人々」で、九州・瀬戸内に蔓延った。弥生人だ。
次第に東進して「ヤマト」として縄文人と遭遇し、やがて対立し抗争した。濃尾平野において長い戦
争が始まる。弥生人は鉄器文化を携えており、次第に東国「ヒノモト」縄文人を圧倒していった。そ
して敗北とまで行かなくも東国が折れ、一応の統一国家「大和朝廷」が成立した。考昭天皇の皇后、
継体天皇前皇后は尾張(おわり 正しくはうばり)氏だし、壬申の乱では大海人皇子へ私邸や資金を
提供するなど全面的に支援し、天武天皇の誕生に格段の功績を上げている。まあ対等合併をしたのだ
ろう。その象徴として伊勢神宮が共通の祖神との合意がなされた。現在でも総理大臣のお伊勢参りは
慣例行事というか任務だ。荒ぶる神「靖国」へのお参りはともかくも、天皇でさえ伊勢参宮はお務め
だ。伊勢神宮が日本のトップにあるのは氏の神ではなく、東西統合の国家の神だからだ。斎宮(いつ
きのみや)は天皇家から出る。
 この時の東国が「律令三関(りつりょうさんげん)」以東なので「関東」と呼ばれた。三関とは鈴
鹿・不破・愛発(あらち)の3つの関所で、平安時代に愛発の関は廃され、逢坂の関に代わった。従っ
て三関以西は「関西」であり、西日本全体のことで、近畿地方のみをさすようになったのは江戸以降
のことだ。
 律令によって行政区分は畿内七道とされ、その下に国が置かれ、東西共に33ヶ国、都合66ヶ国
となり、日本の代名詞として「六十六国」「六十余州」という言葉が生まれた。東国は、北陸道(き
たのくがみち)・東山道(あづまのやまつみち)・東海道(あづまのうみつみち)の3道と陸奥(み
ちのおく)に分かれた。東海道の国は(常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模・甲斐・伊豆・駿河・
遠江・三河・尾張・伊勢・伊賀・志摩)の15国、東山道は(近江・美濃・飛騨・信濃・武蔵・上野
・下野・岩背・岩城・出羽・陸奥)の11国。北陸道(佐渡・越後・越中・能登・加賀・越前・若狭)
の7国の総計33国となった。岩背・岩城は陸奥に統合されたので、実際は31ヶ国だが「東国三十
一ヶ国」とはいわない。
 徳川家康による江戸幕府の創始によって、「関東」概念には変化が生じることとなった。幕府が置
かれた江戸を防御する箱根関・小仏関・碓氷関より東の坂東八ヶ国が、徳川家の領地となり「関東」
と概念されるようになった。幕府の公式見解では奥羽も「関東」に含むとしていたが、勘定奉行の下
に「関八州取締出役」が設けられて、一般的には坂東8ヶ国のみが「関東」と認識されるようになっ
た。

 凧市
 代々の将軍の厚い保護の下にあり、大老田沼意次が立身出世したのは、屋敷に稲荷が祀ってあったか
らという評判によることもあって、庶民の中に稲荷信仰が盛んになり、中でも王子稲荷の商売繁昌と
火伏せの神徳は広く知れ亘るところとなった。そして江戸中期より二月の初午には「火防守護の凧守」
が授与されるようになり、これを祀ると火難を免れ、息災繁昌するとて社頭は賑いを呈し、これに因
んで縁起の凧を商う凧市が境内で開かれるようになり現在も東京名物となっている。毎年2月の午の
日に開かれる「凧市」は、度々大火に見舞われた江戸庶民たちが「凧は風を切る」として火事除けの
縁起を担ぎ、今尚親しまれている。

 大晦日の狐の行列
 また稲荷の関東総社といわれる。装束榎で装束姿となった関東八ヶ国の狐が参詣するという伝承が
あることから、

   元旦に関八州の毛を拾い


 と川柳は茶化している。無論毛は狐の毛だ。『江戸名所図絵、東都歳時記、新編武蔵風土記稿』に記
載される「毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐夥しくここに集まり来る事恒例にして今に然り。その灯せ
る火影に依って土民、明年の豊凶を卜す」という伝説は最も有名で「装束榎」は、これらの狐が、身
仕度をしたところと伝えられる場所で、

   装束の榎まで待つ王子なり(東鳥)


 という句も残っており、その跡には「装束稲荷」の祠が建てられている。
 国認定重要美術品の絵馬「額面著色鬼女図」、谷文晁の「龍図]を所蔵している。境内にある「狐
の穴跡」は、落語「王子の狐」の舞台にもなってるぞ。

 
南門
 稲荷坂の中途にある。こちらは常時解放されている。

 
史料館
 南門の鳥居を潜った右手にある。

 歌碑
 史料館前には稲荷の神徳を讃えた千種庵霜解の古碑がある。

   
かくてこそ、いのるかひあれ衣食住、なにくらからぬ三つの灯火

 信仰の徳を称え、幸福への道を教えるものだ。 

 額面著色鬼女図「茨木」
 
日本画家、蒔絵師として有名な柴田是真が天保十一年(1840)に描いたの大きな絵馬「茨木」。
この図柄は、その昔羅生門に出没して、京の民衆を脅(おびや)かしていた鬼女があり、源頼光の家臣
渡辺綱(港区三田出身)よりようやく退治されたものの、その7日後、伯母に化けて訪れ、その折切
り落された自分の片腕を取り返すやいなや、元の鬼女の姿に戻り、地を蹴って空に舞い戻ってしまっ
たという説話の最高の場面を描いたものだ。この絵の凄みは、見た者を慄然とさせ、是真の出世作と
なったという訳。後に歌舞伎化された時に是真が描いた「茨木」の看板絵は浅草寺に奉納されている。
絵馬を納めたのは、当時天保の改革で各方面の粛正をしていた幕府に専売権を奪われていた住吉明徳
講という砂糖商人の組合で、伝説になぞらえ専売権を「取り戻したい」と祈願して納めたものだ。そ
の後商人たちに専売権は戻ったといういうからご利益はあるぞ。奪われたものを取り返したい人はお
参りしてみな。正月3ヶ日と2月の午の日の10:00~16:00に社殿斜め向かいの史料館で公
開される。昭和9年9月1日文部省から重要美術品に指定された。

   王子稲荷神社と「茨木」の絵馬額
   神社の創建は明確ではないが、今から約800年前、治承五年源頼朝が八幡太郎義家の腹
   巻、刀などを寄進したと言い伝えられいる点からみても、当時すでに有名だったものと思
   われる。
   社殿は寛永十一年と元禄十六年幕府の手によって造営され、現在のものは文政五年の建設
   であるが、戦災で大分損害を被った。境内は約2000坪で、老樹や大木がうっそうとし
   て頗る閑静である。
   王子稲荷に多く寄進された絵馬のうち柴田是真の描いた「茨木」の額(額面着色鬼女図)
   は特に有名で、天保十一年、当時の江戸住吉明徳講(東京砂糖元売商組合の祖)が是真
   に委嘱して奉納したものである。是真の出世作と伝えられる傑作である。
   また拝殿幣殿の格子天井にえがかれた「龍」の絵は、谷文晁の筆によるみごちなものであ
   る。なほ、無銘であるが、「政宗」と鑑定されているものなど、刀二ふりがある。
                                    北区教委委員会
 ※文中「腹巻」とは、鎧の胴のことだ。

   国指定文化財
   
額面着色鬼女の図                        王子稲荷神社
   天保十一年(1840)、江戸の住吉明徳講(東京砂糖元売商組合の祖)が柴田是真に委
   嘱して業界の守護神と崇拝するこのこの王子稲荷に奉納した傑作図です。(昭和9年国の
   重要美術品に認定)
   この稲荷社の創建は明らかでありませんが、治承四年(1180)源頼朝が八幡太郎の腹
   巻・刀等を寄進したと伝えられています。稲荷社のうちでも関東総社と呼ばれるほどの格
   式をもち、江戸市民の篤い信仰を集めました。
   社殿は、寛永十一年(1634)、元禄十六年(1703)と造営され、現在の社殿は文
   化五年(1808)に建立されたものです。
   昭和47年5月                          北区教育委員会

 ※社殿について、神社の由緒には、文政五年(1822)の造営としている。?

   重要美術品 昭和9年9月認定
   額面着色鬼女の図                      王子稲荷神社所蔵
   日本画家・蒔絵師として著名な柴田是真作の額面着色鬼女図は、天保十一年(1840)
   2月初年に、江戸住吉の砂糖商人の同業組合の明徳講が、商権の拡大を願って奉納した絵
   馬です。
   源頼光の家臣である渡辺綱は、女に化けた茨木童子の退治に出かけ、鬼女の片腕を切り取っ
   てしまう。  は6日後に、伯母に化け綱の屋敷を訪れた鬼女が、腕を取り返すや否や、
   伯母から変じて目を怒らせ、口を開き、疾風のごとく空中に飛び去る場面を描いています。
   麗美な衣装とグロテスクな面貌との対照が場面の凄みを高め、人々を慄然とさせ、是真の
   名を世に知らしめる契機となったと伝えられます。
   王子稲荷神社は、江戸時代には関八州の稲荷の総社とも称され、江戸の人々の崇敬を集め
   ましたので、このほかにも谷文晁の板絵着色の龍図や数多くの文化財が保存されています。
   平成3年9月                           北区教育委員会

   圀認定重要美術品
   
額面着色鬼女の図                      昭和9年9月認定
   日本画家・蒔絵師として著名な柴田是真作の額面着色鬼女図は、天保十一年(1840)
   2月初年に、江戸住吉の砂糖商人の同業組合の明徳講が、商権の拡大を願って奉納した絵
   馬です。
   絵馬は、凡そ縦190cm、横245cmの大きさで、画面いっぱいには、酒呑童子の家
   来茨木童子が化けた鬼女の姿が描かれています。
   源頼光の家臣渡辺綱は、女に化けた茨木童子の退治に出かけ、その女の片腕を切り取って
   しまいました。6日後のこと、鬼女は、切り取られた腕を取り返すべく、渡辺綱の伯母に
   化けて、綱の屋敷を訪れます。鬼女は、腕を取り返すや否や、伯母から変じて目を怒らせ、
   口を開き、疾風のごとく空中に飛び去りました。
   この画の麗美な衣装とグロテスクな面貌との対照が場面の凄みを高め、人々を慄然とさせ、
   是真の名を世に知らしめる契機となったと伝えられます。
   平成22年11月                      東京都北区教育委員会

 
常夜灯道標
 南門を入った左側にある。鎌倉街道上道(中山道)にあったものらしい。高さ2.8m。寛政三年造
立。(竿正面)「王/子、稲荷大明神」、(竿右面)「これより/王子みち」、(竿左面)「古礼与
り/王子ミち」。竿は角柱。中台4面に浮彫。

 
神楽殿
 南門を潜った左手にある。神楽殿は昭和62年に社殿の塗り替えと合わせて、建て替えられた。


■三平坂
 岸町1丁目15番25号名主の滝公園の北側、岸町2‐2との境から西南側へ曲がりくねりながら
上がって行く坂道。坂名の由来は、江戸時代の絵図にある三平村の名からとも、室町時代の古文書に
ある十条郷作人三平の名からともいわれている。農家の人が水田へ下る通路であったが、名主の滝へ
の道としても利用されたようである。

   三平坂
   名主の滝公園の北端に沿って台地へ登る曲がりくねった坂道である。坂名の由来は、江戸
   時代の絵図にある三平村の名からとも、室町時代の古文書にある十条郷作人三平の名から
   ともいわれている。農家の人が水田へ下る通路であったが、名主の滝への道としても利用
   されたようである。                        北区教育委員会


■名主の滝公園
 岸町1丁目15番25号にある区立公園。安政年間(1854~60)に名主畑野孫八によって開
かれたものだ。敷地的には南半は金輪寺の寺域だった。台地の斜面と低地を利用した回遊式庭園で、
孫八は、明治27年刊行の増山守正編『明治新撰百家風月集』に王子で初めて茶を植えたとして、

   宇治に似よ新茶に水や王子園
   我が宿の滝の白糸清ければ繰り返しつゝ人のよるらん

 
を載せている。
 「男滝」は夏は子供の天国で、左手奥の「女滝」は、2人目の所有者垣内徳三郎苦心の作で故郷塩
原の風景を模したものだという。他に「独鈷の滝」「湧玉の滝」が復元されている。「王子七滝」の
現存する唯一の遺構だ。これらの滝は地下水をポンプで汲み上げて流されており、滝水は小川となっ
て園内を巡り大小の池に注いでいる。
 園内は人工飼育されたヘイケボタルが放たれ自生していることが確認されている。夏にはホタル鑑
賞会が開かれていたが、平成23年以降は中止されている。
 昭和13年、精養軒の所有となり、食堂やプール(名主水泳場)を営業していたが、戦災で焼失。
その後、荒れ果てたが、都が買い取り、橋や四阿(あづまや)などを補修し、同35年都立公園とし
て一般開放した。同50年、北区に移管された。崖上に名主の滝プールと児童公園を併設している。

 
●名主水泳場
 戦前まであった大日本水泳競技連盟(日本水泳連盟)公認の25mプール。昭和16年9月「東日
本記録会」と題して、児島泰彦(ベルリン五輪代表選手)ら当時のトップ選手が出場した公式大会が
開かれた。

 
小祠 ✔
 あるという。
 


■名主の滝ポケットパーク

 岸町1丁目15番30号にある区立公園。


■ちんちん山児童遊園

 岸町2丁目1番11号、都道455号線の高架下にある区立公園。

 
●造兵廠電気鉄道モニュメント
 公園の外側に造兵廠電気鉄道の軍用トンネルの石アーチがモニュメントとして残されている。トン
ネルはほぼ撤去されたが、一部が改修されて南橋トンネルとして供用されている。


■岸町二丁目児童遊園

 岸町2丁目5番16号にある区立公園。


■井頭まちかど広場

 岸町2丁目9番11号にある区立公園。

 



【桐ヶ丘】(きりがおか)1~2丁目                 昭和39年6月15日
 赤羽根村・袋村。明治11年~大正12年北豊島郡。同22年岩淵町大字赤羽根・袋。昭和7年
王子区赤羽5丁目・袋町1丁目。町域のほとんどが陸軍の火薬庫・練兵場・工作隊作業場・小銃射
場だった。同20年の敗戦により陸軍施設が米軍に接収され、同22年北区所属。同34年接収解
除になり諸施設地が返還された。昭和39年赤羽町3・5丁目と袋町1~3丁目の各一部をあわせ
た町域を現行の「桐ヶ丘」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『北区史』など。

 桐ヶ丘の由来
 桐の木が生えていたところに小学校が建てられて桐ヶ丘小学校となり、やがて都営住宅団地の名
前にも使用された。現在小学校は平成14年に桐ヶ丘北小学校と合併して「桐ヶ丘郷小学校」を名
乗っている。
 


兵器補給廠赤羽火薬庫
 桐ヶ丘1丁目1~17番に亘る面積(34000坪)を占めていた。明治5年まだ旧幕の残存勢力
と戦っていた明治政府のというよりも東征軍の武庫司が建設したものが前身で、その後陸軍が引き継
いだ赤羽で最も古い軍施設だ。同20年赤羽工兵隊が移転してきた後はそれらの火薬倉庫も兼ねた。
陸軍兵器補給廠に属し更に27000坪を拡張予定するほどの重要施設に成長した。この正面から人
工的な直線道路が十條村に向かって延びている。陸軍火薬製造所(現在の帝京大病院から家政女子大
辺りまでの地域)と結ぶ軍用道路だ。火薬庫の正門を出るとすぐ道は地形が谷越えとなる。今の自然
観察公園と島下公園の間だが、重くて危険な火薬を運搬するには道を平面にしなければならず、初め
から木橋を架けるか今のように盛り土していたのだろう。なぜ官軍は、当時のこんな僻地に火薬庫を
設置したのだろうか? まだ西南戦争の前で越後や東北に政情不安があって出兵するのに中仙道沿い
に置くのは都合が良かったか・・・それにしても街道からは離れすぎている。ともあれこの火薬庫の
存在が端緒となって、その後この地域十条・豊島・王子にかけての一帯を銃器製造と砲銃弾の製造の
メッカにしてしまった。
火薬庫はこの時点ではまだ面積が小さいがやがて何倍にも膨れ上がる。 


桐ヶ丘中央公園
 桐ヶ丘1丁目8番1号にある区立公園。


桐ヶ丘郷小学校
 桐ヶ丘1丁目10番23号にある区立校。桐ヶ丘小学校と桐ヶ丘北小学校が統合して「北区立桐ヶ
丘郷小学校」として開校。

 校歌
「夢が空飛ぶ」 作詞・さとの深花  作曲・越純平 伴奏・徳富健治
  1.夢が空飛ぶ 地球が廻る
    躍るペガサス 風の歌
    元気な体 漲る力
    優しい心に花が咲く
    皆キラキラ光の児童
(こ)
    桐ヶ丘郷
    進め 進め 胸張って
    未来
(あした)に向って
    GO GO GO 進もうよ
  2.皆 輪になれ 肩組み合って
    羽(はね)を広げた鳥になれ
    一緒に飛ぼう 約束しよう
    明るい希望の青空だ
    皆キラキラ光の児童
(こ)
    桐ヶ丘郷
    進め 進め 真っ直ぐに
    未来
(あした)に向って
    GO GO GO 伸びようよ
 


末廣稲荷大明神 ◇
 桐ヶ丘1丁目12番33号都営桐ヶ丘アパート34号棟の南にある小社。

   末廣稲荷大明神の歴史
   末廣稲荷大明神は、明治中期の頃より旧陸軍の用地であった当地に鎮座され、火薬庫の火
   防稲荷として敬われ、戦後引揚者、戦災者の皆さんが寮として改造された赤羽郷に入居、
   愈々住民が敬神の念を集めて毎年春、秋二回有志の人達が祭事を行っており、たまたま都
   の住宅局の用地計画に伴いその境内を狭められました。
   昭和四十八年九月都議会議員のあびこ清水先生のご協力を得て、都から助成金を頂き当時
   E地区自治会や地元の皆さんのご協力に依り現在の地に鎮座されました。
                      末廣稲荷大明神(平成二十四年二月吉日)
                           末廣稲荷大明神 監修 大橋 ミツ


桐ヶ丘遺跡

 桐ヶ丘2丁目の桐ヶ丘団地一帯の地下がそうだ。弥生時代住居址10基、土師器時代住居12基が
発掘されたが、縄文早期の土器も出土し、発掘地の西方約400mのところから先土器時代の礫群も
発見された。その頃から住み良い環境だったのだろう。
 


■北中学校
 閉校

 桐ヶ丘2丁目6番11号にあった区立校。学校の沿革・校歌不明。平成18年赤羽台中学校と統合
して桐ヶ丘中学校となった。同18~22年校舎を解体し、桐ヶ丘中学校用の校舎建設。
 


■桐ヶ丘中学校

 桐ヶ丘2丁目6番11号にある区立校。平成18年4月北中学校と赤羽台中学校が統合して赤羽台
中学校の校舎を利用して「北区立桐ヶ丘中学校」として開校。異性22年現在地に新校舎落成して移
転。
 校歌
「私たちは集う」 作詞・長田弘  作曲・信長貴富
  1.私たちは集う 丘の上
    心を共に結んで
    知る 楽しむ 遠くを見る
    知る 楽しむ 遠くを見る
    春 夏 秋 冬 そして春
    地球の呼吸に耳を澄まして
    私たち此処に樹を植える
    学びの樹を植える
    私たちの合言葉は 自主
    空へ 空へ向って
    私たちの桐ヶ丘中学校
  2.私たちは学ぶ同じ窓で
    思いを共に開いて
    感じる 考える 夢を見る
    感じる 考える 夢を見る
    春 夏 秋 冬 そして春
    季節の力 胸に溢れて
    私たち此処に種子を蒔く
    言葉の種を蒔く
    私たちの合言葉は 創造
    実りへ 実りへ向って
    私たちの桐ヶ丘中学校
 




【栄町】(さかえちょう)                       昭和41年2月1日
 西ヶ原村。明治7年大区小区制。同11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に復す、同22年
「市制町村制」により滝野川村大字西ヶ原、大正2年滝野川町大字西ヶ原、昭和7年東京市に編入
され滝野川区西ヶ原町。同22年北区西ヶ原町、同28年西ヶ原町の一部で成立。同41年新住居
表示を実施して現行の「栄町」とした。都電栄町停留所がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『北区史』など。

 栄町の由来
 町が発展して栄えるように祈念して命名した。全国各地にあるありふれた名前だ。
 


栄町南児童遊園
 栄町7番12号にある区立公園。


北龍山法音寺
 栄町14番9号にある浄土真宗大谷派の寺。 


栄町北児童遊園
 栄町24番12号にある区立公園。


栄町ふれあい公園
 栄町33番2号にある区立公園。


■宇都宮線の線路で小学生跳ねられ死亡
 令和3年4月1日20時過ぎ、栄町33番の第二王子踏切東の線路を歩いていた10歳の少年が、
後ろから来た電車に跳ねられ頭を強く打って死亡した。少年は千葉県市原市に住む小学5年生で、前
日家を出て行方不明になっていた。少年は引っ越したばかりで、「引っ越したくなかった」といって
家を出たという。


安部学院高等学校
 栄町35番4号にある私立校。昭和15年「滝野川第一商業女学校」として発足。同19年「滝野
川女子商業学校」と改称。同23年学制改革により高等学校に衣替え、「滝野川女子商業高等学校」
と改称。同25年創立10周年の年、現在地に移転。「安部学院子高等学校」と改称。同35年創立
20周年記念式典。同45年創立30周年記念式典。同55年創立40周年記念式典。
 平成2年創立50周年記念式典。同7年創立55周年記念式典。同12年創立60周年記念式典。
同17年創立65周年記念式典。同22年創立70周年記念式典。同27年創立75周年記念式典。
 


栄町西児童遊園
 栄町40番2号にある区立公園。


教科書の図書館‐東書文庫

 栄町48番23号、東京書籍の向かいにある。昭和11年に日本で最初にできた教科書図書資料館
で正式には「東京書籍株式会社附設教科書図書館東書文庫」という。文庫の母体である東京書籍は、
明治37年に小学校の教科書が国定化されるにあたって、同42年印刷・製本に翻刻発行のみを請け
負う翻刻発行と、その販売を目的とした会社だ。昭和9年会社創立25周年に当たり、その記念事業
として教科書専門の図書館東書文庫が企画開設された。以来戦前・戦中・戦後と地道な活動を続け、
蒐集した平安末期からの蔵書は15万冊に達した。利用者も日本全国だけでなく、世界各地から訪れ
る。入場無料、閉架式でカード整理。土日祝祭・年末年始は休館。メールにて要予約。平たくいえば
「おいそれとは見せねえよ」という気概。民間の蒐集だし文句はいえねえやな。 平成12年北区の
重要文化財に指定された。
 閲覧時間 10:00~16:30 無料 休館日は毎月HPの「お知らせ」に記載。
 貸出と複写、電話はお断り。問い合わせはメールだけだよ。礼儀を守りな!
 

 



【志茂】(しも)1~5丁目                        昭和42年5月1日
 豊島郡下村。八官新田。明治11年~大正12年北豊島郡、同22年岩淵町大字下、昭和7年王
子区志茂町1~3丁目、同22年北区に所属、同32年1~5丁目に再編、同42年3~5丁目を
シャッフルして全域で新住居表示を実施、現行の「志茂」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『北区史』など。

 
志茂の由来
 地名は岩淵下村の意。名は岩淵宿の川下にある村の位置関係を表したもので、室町時代からそう
名乗ったようだ。インドネシア語では「チモ」、「鳥がついばんだように小さな窪みが沢山ある土
地」ということだそうだ。なくもない。
 その下村が王子区の成立で町になった時「下町」にしなかったのは、維新後東京の低地を「シタ
マチ」と呼び慣わしており、そう読まれる惧れが多分にあるためいちいち「シモマチです」と断り
続ける必要のないよう「志茂」の字を当てたが村の字に志茂があったのでそれを採用した。但し意
味は判らない。町が面している新河岸川は荒川の改修後に旧荒川の流路を繋いで埼玉県の川を延長
したもので岩淵町との位置関係は今も変わりはない。八官新田は八官七兵衛という浪人が開発した
ことによる
 


■志茂町公園

 志茂1丁目5番1号にある区立公園。


■第二岩淵小学校
 閉校
 志茂1丁目18番17号にあった区立校。平成14年4月志茂小学校と統合し「北区立なでしこ小
学校」となった。
 


■なでしこ小学校

 志茂1丁目18番17号にある区立校。 


赤羽中学校 閉校

 志茂1丁目19番14号にあった区立校。
 


赤羽岩淵中学校

 志茂1丁目19番14号にある区立校。
 


恵日山円照寺

 志茂1丁目28番4号にある真宗大谷派の寺。 


■第二岩淵小学校
 閉校

 志茂1丁目34番17号にあった区立校。平成14年4月志茂小学校と統合し「北区立なでしこ小
学校」となった。
 


■なでしこ小学校

 志茂1丁目34番17号にある区立校。平成14年第二岩淵小学校と志茂小学校が統合して「北区
立なでしこ小学校」として開校。
 


志茂駅
 志茂2丁目1番18号にある東京メトロ南北線の停車場。平成3年11月29日の南北線駒込~赤
羽岩淵間開業とともに設けられた。ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。ホームと改札階を
結ぶエレベーターは完備されている。改札口は1カ所のみで、地下1階にある。出口は1・2の2ヶ所
で、地上へ上がるエレベーターは1番出口に併設されている
 


■志茂三丁目児童遊園

 志茂3丁目18番3号にある区立公園。


■志茂東公園

 志茂3丁目46番8号にある区立公園。


志茂熊野神社
 志茂4丁目19番1号にある。参道がやたらに長い。鎌倉末期の正和元年(1312)8月、下村
の西蓮寺住職だった淳慶が、紀州の熊野三社権現の分霊を招き迎えて創建したと伝えられている。以
来今日まで村の鎮守として志茂地区の神事・祭礼の中心をなしてきた。管理は赤羽八幡。
 境内には、享和四年(1804)正月建立の石鳥居、欄干の擬宝珠に文政五年(1822)の年紀
がみられる阿夫利神社や嘉永ニ年(1849)3月建立の富士講村上派の供養塔などがある。
 説明板に、

   熊野神社
   御祭神 伊邪那岐神
       伊邪那美神
       事解之男神
   御神徳 氏子繁栄 学業成就 災難除
       家運隆盛 交通安全 厄除開運
   由緒
   当社の創建については明らかでありませんが、別当寺である西蓮寺の鐘銘に「正和壬子年
   八月先師淳慶阿闍梨從紀州奉勧請熊野三社権現為当郷鎮守」とした旨が彫られています。
   当時の西蓮寺住職淳慶阿闍梨が紀州(和歌山県及び三重県の一部)より熊野三社権現を勧
   請して昭和元年(1312)八月に下村(現在の志茂)の鎮守としたと記されています。
   毎年二月七日には全国でも珍しい白酒祭りが行われます。
   なお、現在の社殿は明治百年記念事業として、昭和43年に改築竣工したものです。
   末社
   阿夫利神社 御祭神 大山津見命(おおやまつみのみこと)
   浅間 神社 御祭神 木花之佐久夜毘賣命(このはなのさくやひめのみこと)
   大六天神社 御祭神 淤母陀流神(おもだるのかみ)
   十二社神社 御祭神 速玉之男命(たまはやのおのみこと)
   御社殿右の末社には4社が祀られています。この社殿は旧熊野神社の御本殿です。これら
   4社は「講」として、村人が本来御本社に参詣するところ、当時の交通手段では多くの方
   が出向くことは容易ではなく、有志の方が御本社より勧請し鎮守と一体にして氏子の信者
   を仰いで今日まで来ています。
   なかでも阿夫利神社祭(5月7日)は五色の紙で御幣を切る事数十 これを奉納し、式典
   後参拝の方に家内安全、繁栄を願い差し上げて居ります。

 とあり、「北区神社めぐり」に、

   正和元年(1312)西蓮寺住職淳慶阿闍梨が紀州熊野三社権現を勧請し、下村(現在は
   志茂)の鎮守とした。2月7日に行われる「白酒祭り」は当社の特殊祭事で、参拝者に甘
   酒、短冊餅が配られる。

 とある。

 ●白酒祭
 オビシャ行事 毎年2月7日に同社では白酒祭と呼ばれる行事が行われる。この行事は元来正月七
日の年占いの神事の「御歩射(オビシャ)」の後に饗宴として催されていた。祭では1間四方の紙に
墨で丸く書いた円の中に「鬼」という字を書いて拵えた的を用意し、これを総代ら射手が弓矢で射抜
く。2本の内1本を空矢といって態と外すが、かつては歩射に使用した矢は魔除けになるといわれ、
昔は2本射て1本を籤引きで当った人が持ち帰った。御歩射が終ると、主催者が参拝者に白酒(今は
甘酒)と切餅を振舞った。この祭の名前の由来ともなった白酒は、元々は祭にあわせて逗子と呼ばれ
る村落内組織が持ち回りで荒川の水を汲んで仕込んだと伝えられている。関東では千葉県・埼玉県の
川沿いに多く見られるが、都内で伝承されている事例は極めて少なく、志茂地区の風俗習慣を理解す
る上で大変貴重な文化財だわい。その後荒川の水で仕込んだ白酒が振舞われるので「白酒祭」と呼ば
れ、珍しいこの行事は現在も伝えられている。境内の入口付近には、白酒祭に関する北区教育委員会
による説明板が設置されている。


   東京都北区指定無形民俗文化財
   
熊野神社の白酒祭 (オビシャ行事)      北区志茂四-一九-一 熊野神社境内
   熊野神社は、鎌倉時代末期の正和元年(1312)八月、下村の西蓮寺住僧であった淳慶
   が紀州の熊野三社権現の分霊を招き迎えて創建したと伝えられています。以来、同社は今
   日まで村の鎮守として志茂地区の神事・祭礼の中心をなしてきました。境内には、享和四
   年(1804)正月建立の石鳥居、欄干の擬宝珠に文政五年(1822)の年紀がみられ
   る阿夫利社や嘉永二年(1849)三月建立の冨士講村上派の供養塔などがあります。
   毎年二月七日に同社では白酒祭と呼ばれる行事が行われます。この行事は元来正月七日の
   年占いの神事である歩射(オビシャ)の後に饗宴として催されていたものです。祭では墨
   で丸く描いた円の中に鬼という字を書いて拵えた的を用意し、これを総代ら射手が弓矢で
   射抜きます。かつては歩射に使用した矢は魔除けになるといわれ、籤に当たった者が持ち
   帰れました。歩射が終了すると、主催者が参拝者に白酒(今は甘酒)と切餅を振舞います。
   この祭の名前の由来ともなった白酒は、元々は祭にあわせてズシと呼ばれる村落内組織が
   持ち回りで荒川の水を汲んで仕込んだと伝えられています。
   関東では千葉県・埼玉県の川沿いに多く見られるオビシャ行事ですが、都内で伝承されて
   いる事例はきわめて少なく、志茂地区の風俗習慣を理解する上で大変貴重な文化財です。
   平成15年1月                       東京都北区教育委員会


 
狛犬
 社前の狛犬(獅子)は獅子山形式。山の裏側には「大正11年」と刻むが、狛犬は、平成11年に
新調したものだ。子獅子が岩の途中にいる。獅子の崖落としだ。

 
社殿
 昭和43年に鉄筋コンクリート造りで建て替えられた。在日が扇動する全学連によって神社が燃や
されることが続いていた。一般の神社は国家神道とも、軍国主義とも、全く関係がない。在日全学連
が、靖国や護国神社を一社も狙ってないのは、それらは朝鮮教だと知っているからだ。日本の国を支
配しているのは在日だということを努々忘れる勿れ。

 
神楽殿
 社殿前右手にある。

 
恤兵會寄附金募集趣意書額
 神楽殿の裏に掲げてある。趣意の後は、100名以上の名前が羅列

   恤兵會寄附金募集趣意書
   数年来東亜ノ天候ハ其雲行甚ダ急ニシテ何時疾風迅雷ノ起ランモ計ル可ラザル有様トナリ
   心アルモノハ皆其成行如何ヲ焦慮シツツアリキ果セル哉本年二月十日俄然東亜ノ風雲ハ破
   裂シテ霹靂一声日露両国間ノ国交ハ断絶セラレ遂ニ両国民ハ茲ニ旗鼓ノ間ニ見ユルノ止ム
   ナキニ至レリ此ノ時局ヤ実ニ振古未曾有ノ大事変ニシテ帝国安危ノ岐ルル所ナリ帝国国民
   タルモノハ此際如何ナル態度ニ出デントスルカ平時其侭ニ事業ヲ進行スベキモノナルカ或
   ハ感奮激励シテ謂ユル軍国民ノ特別行動ヲ執ル可キモノナルカ余輩ハ然ク思フ国民ハ国家
   ノ要素タリ国家ガ活動ノ状態ヲ変ジタル時ハ其要素タル国民其モノモ亦之レニ適応シタル
   行動ヲ執ラザル可カラザルモノナリト其発動ノ形式ハ種々ナルベシト雖モ先ヅ自己ノ地位
   ト実力トヲ正当ニ看取シ其能力ニ応ジテ国民ノ義務ヲ尽スニアルノミ余輩ハ斯ノ如キ見地
   ニ拠リテ剣下国民ノ任務トシテ第一着手ニ尽スベキハ出征軍人及ビ其家族ヲ慰スルニアリ
   依リテ茲ニ恤兵金ヲ募集シテ軍士及ビ其家族ニ贈リ以テ忠君愛国ノ士気を鼓舞セント欲ス
   有志ノ諸君応分ノ寄附アランヿヲ望ム
   明治三十七年二月十一日                 岩淵町大字下恤兵會 敬白

 ※「恤兵」は「へいをあわれむ」と読み、兵士への贈り物のこと。軍歌「雪の進軍」の4番に、

   命捧げて出てきた身ゆえ
   死ぬる覚悟で吶喊すれど
   武運拙く討死にせねば
   義理にからめた
恤兵真綿
   そろりそろりと頚締めかかる
   どうせ生きては還らぬ心算


 という歌詞がある。また「ヿ」は便宜上の当て字だが、「事(こと)」の意。

 
四社合祀社
 社殿に向かって左横にある。文政五年(1822)の旧社殿だ。この社殿は北区の台帳登載文化財
(有形文化財 建造物)となっている。祀られているのは、阿夫利神社(大山祇命)、浅間神社(木
花咲開耶姫)、大六天神社(淤母陀流神)、十二社神社(速玉之男神)の4社。区の説明板は以下の
通り。

   北区台帳登載文化財(有形文化財 建築物)
   
阿夫利神社社殿(熊野神社旧本殿)     建築年代 文政五年(1822)
                          北区志茂4‐19‐1 熊野神社境内
   今では阿夫利神社として多くの人が参拝に訪れるこの社殿は、元は熊野神社の本殿とし使
   われていたものです。熊野神社は、正和五年(1312)に和歌山の熊野からこの地に熊
   野三社権現を勧請したことが創建と伝わっています。昭和43年に熊野神社の社殿が建て
   替えられる際に、本殿の社をここに移したもので、現在この社殿には阿夫利神社のほか、
   浅間神社、大六天神社、十二社神社が併せて祀られています。
   社殿の建築材には、年輪の詰んだ良質の檜と欅とが用いられ、蟇股や木鼻など、部材の各
   所には、江戸時代後期の様式の特徴も見られます。高欄の擬宝珠金物に「文政五壬午年歳
   五月」の印刻も確認できることから、成熟した規矩術に則って建立された近世社寺建築で
   あることがわかります。
   阿夫利神社の由来は定かではありませんが、元は橋戸の子育地蔵の裏手(志茂3、4丁目
   の境)に祀られていたものが、昭和に入り、熊野神社境内に移されたものです。かつてこ
   の辺りでは、毎年5月7日に旧下村の若い衆が集まって万垢離あるいは祈祷垢離などと呼
   ばれる行事を執行していました。数百本の御幣を挿した竹柱(ボンテンまたはボンゼンと
   呼ばれました)を作り、これを担いて「阿夫利権現六根清浄」と唱えながら荒川で水垢離
   した後、村内を練り歩き、氏子に挿してある御幣を配りました。
   平成24年3月                       東京都北区教育委員会


 梛野原稲荷神社
 社殿向かって左手にある。宇迦之御魂神を祀る。荒川放水路開削に伴い遷されて来た。荒川の対岸
にあった岩淵宿との入会の「梛野原新田」にあった稲荷を移したものだ。その稲荷の祭りの日に配ら
れる赤飯のおむすびを食べると虫に刺されないといわれていた。

 
水神社2基
 北に突き出ている旧荒川の流路に「梛野原の渡し」と「柳の渡し」の2つが記されている。水神祠
は、夫々の渡し場にあったものだ。弥都波能売神を祀る。熊野神社と他の末社は総て南面しているが
水神宮のみ川の方を向いている。

   
梛野原稲荷神社(なぎのはら)
   御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
   御神徳 五穀豊穣 災難除 商売繁昌
   荒川放水路は明治・大正時代まで、東京都・埼玉県一帯が大雨でにより度々洪水に見舞わ
   れ、住民は毎年悲惨な思いをしてきた過程で建設されました。
   梛木野原とは荒川の対岸にあって下村の飛地として放水路の出来るまで水田、畑として作
   物を生産していました。その地に当社は当時まで鎮座し、五穀豊穣と家内繁栄を願い村人
   の信仰を仰いでいましたが、放水路の建設により現在の地に移築されました。
   
志茂 水神宮
   御祭神 水波の売神(みすはのめのかみ)
   御神徳 水の恵み 水難予防 五穀豊穣
   穀物の豊作と洪水災害除け、農村の水の恵みを祈願されてきています。当社は後世まで水
   の有難さを求め、現在数少ない水神祭を引き継ぎ行っています。
   
御祭儀
    熊野神社
     例 大 祭   9月第1土曜日 日曜日
     元 旦 祭   1月1日
     白 酒 祭   2月7日
     祈 年 祭   2月21日
     大  祓   6月29日
     七五三祭   11月 日曜日(特定日及び祝日)
     新 嘗 祭   11月29日
     かまじめ   12月22日及び23日
     大  祓   12月26日
     お焚き上げ  12月二十七日~31日
    阿夫利神社祭  5月7日
    梛野原稲荷神社 6月13日
    水神宮祭    6月25日

 
神木
 熊野本来の梛の木だ。伊豆半島付近が北限とされ、この木は伊豆山神社の梛から氏子が育成し献木
したもので、北限ぎりぎりで生育しているのは、流石に神木だね。縁結びは間違いない。神社の案内
板は以下の通り。

   神木梛の木
   梛の木は遠く中国の海南島や台湾等に自生するが、太古の黒潮ラインに乗り、本邦南紀四
   国九州等の温暖な地方に定着した。イチヰ科の雌雄異株の常緑の高木です。
   梛の木は、伊豆半島が北限であると伝えられ、当神社の梛の故郷伊豆山神社には「此の木
   他国に稀なり」と記して有り、東京の北辺当神社で育つとはと感激しております。
                                (地球温暖化のためか)
   梛の木は古代より神社の境内に植えられて居り、奈良の春日神社には、平安朝900年頃
   の巨木あり、伊豆山神社には、今を去る1400年余の昔、山岳信仰の道開きとも仰がれ
   る役行者(小角)が、
      神木梛の樹上に大神の御影を拝して
      なぎの葉は千代に三千代を重ねつつ夫婦妹背の道はかならず
                        と歌われた誌があります
   鎌倉の尼将軍と名をはせた北条政子が、若き日に伊豆山に配流されていた源頼朝と梛の木
   の下で愛を誓って結ばれたロマンが良縁が結ばれる縁結びの神木とされています。
   後に 1192年 源頼朝 鎌倉幕府を開く。
   他にも梛の木の文献が数多く有りますが、当熊野神社の本宮紀州熊野那智の大社周辺にも
   梛の木有り、新宮熊野速玉大社には平重盛が植えたといわれる樹齢1000年の巨木有り、
   梛の木との関わり深く神木として大切に生育したいと思います。
   平成16年11月                            熊野神社
 


■熊野児童遊園

 志茂4丁目19番2号にある区立公園。


帰命山阿弥陀院西蓮寺
 志茂4丁目30番4号の真言宗智山派の寺。本尊は阿弥陀如来で木造坐像。高さ53.5cm、光背
・台座を含めた全体の高さは1.3m、材はヒノキで本格的な寄木造りの工法が取られている。北区内
では数少ない鎌倉時代初期に製作されたものであり、区の文化財にに指定されている。運慶作と伝え
られる毘沙門天像は寺宝となっている。この外付近で廃寺となった末寺3ヶ寺(地蔵院・満願寺・観
音寺)の本尊並びに熊野神社の神体が安置されている。弘安年間(1278~88)淳慶の開山と伝
え、境内には弘安九年(1286)銘だけのものなど十余基の板碑がある。梵鐘は戦後の新鋳された
ものだが旧鐘の銘文をそのまま彫ってある。それによると、正和元年(1312)先師淳慶が紀州よ
り熊野三社権現を勧請し、この村の鎮守にしたとある。この神体は仏像だったので、明治維新の神仏分
離の時に熊野神社からこの寺に移された。小型の厨子の中に三体の仏像がさらにそれぞれ厨子に納め
られている。豊島八十八ヶ所霊場38番札所。「岩淵町郷土誌」に、

   新義真言宗川口錫杖寺末寺 武州豊島郡岩淵之内下村・・・一、岩淵之内下村之鎮守熊野
   権現に而御座候・・・別当西蓮寺本尊太子之御作之阿弥陀尊に毘沙門雲慶之作 。これは
   貞享元年に西蓮寺および下村の名主、年寄、組頭の連名で寺社奉行宛に提出した朱印下附
   願状の一部です。貞享元年は西暦1684年五代将軍綱吉が在職していた時に当たります。
   西蓮寺は真言宗智山派、本尊は聖徳太子作と伝える阿弥陀如来像、ほかに運慶作と伝える
   毘沙門天像(寺宝)、熊野神社の神体だった三体仏、付近にあって廃寺となった末寺三ヶ
   寺の本尊が安置されています。廃寺となった末寺は、地蔵院、満願寺、観音寺で、本尊は
   それぞれ、地蔵菩薩、薬師如来、観音菩薩、いずれも下村内にありました。この寺の創建
   年代は不詳ですが、中興第二世長慶の墓碑に、文明二年九月二十八日とありますので、そ
   れ以前の創建と推定されます。文明二年は、西暦1470年、戦国時代のはじめ頃にあた
   り、京都では応仁の大乱が続いていました。
    境内には十余基の板碑があり、その最古のものは、弘安九年の銘をもったものです。弘
   安九年は西暦1286年、鎌倉時代、二度目の蒙古来襲(弘安の役)の5年後にあたりま
   す。板碑というのは供養塔の一種です。弘安九年の板碑は、前述の満願寺跡にあったもの
   が後、この寺に移されたものです。
   この寺には、文久二年(1862)寺子屋が開かれました。この寺子屋は、明治8年現在
   男子生徒42名、女子生徒18名で、明治35年明和小学校に合併しました。明和小学校
   は、同37年岩淵尋常高等小学校(現在の岩淵小学校の前身)の下分教場となりました。


 とあり、末寺3ヶ寺について「新編武蔵風土記稿」に、

   満願寺  西蓮寺門徒下ニヶ寺同し、東光山と号す、薬師を本尊とす。
   観音寺  普照山と号す、本尊正観音。
   地蔵院  摩尼山と号す、地蔵を本尊とす


 とある。

 木造阿弥陀如来坐像
 西蓮寺は、弘安十年(1287)に没した法印淳慶が開基とされる中世期創建の古刹で、阿弥陀如
来坐像を本尊として安置している。阿弥陀如来とは、西方極楽浄土にあって往生を願う人々を浄土へ
と迎え入れる仏だ。

   東京都北区指定有形文化財(彫刻)
   
木造阿弥陀如来坐像               北区志茂4‐30‐4 西蓮寺
   西蓮寺は、弘安十年(1287)に没した法印淳慶が開基とされる中世期創建の古刹で、
   阿弥陀如来坐像を本尊として安置しています。阿弥陀如来とは、西方極楽浄土にあって、
   往生を願う人々を浄土へと迎え入れる仏です。
   西蓮寺の木造阿弥陀如来坐像は、高さ53.5cm、光背・台座を含めると総高1.3mで
   す。材質は檜材、本格的な寄木造の工法がとられています。像全体は漆箔仕上げで、頭部
   は群青彩に塗られ、頭部にある肉髻珠や額にある白毫および玉眼は水晶製のものが嵌め込
   まれています。像は、右足を上に下結跏趺坐の座り方で、両手は衆生を浄土へ迎え入れる
   ための来迎印を結んでいます。
   均整のとれた体躯や浅く控えめな衣文には、平安時代後期の「定朝様」と呼ばれる仏像彫
   刻の作風が見られますが、引きしまった顔立ちと、胸や腹の厚みのある肉取りからは、鎌
   倉初期の新しい様式が感じられます。このことから、区内でも数少ない鎌倉時代の初期に
   製作されたものといえます。
   木像は、江戸時代と大正時代に修復がなされていましたが、平成8年に保存のための解体
   修復が行われ、造立当時の姿をよみがえらせています。
   平成13年7月                          北区教育委員会


 
弘法大師行脚像
 境内にある空海(弘法大師)巡錫の雲水姿の立像。

   
南無大師遍照金剛

 板碑群
 本堂・境内・墓地にある。

   東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
   
西蓮寺板碑群                 北区志茂4丁目30番4号 西蓮寺
   板碑とは、石で造られた供養塔の一種で、鎌倉時代から戦国時代に祖先の追善供養や来世
   の安穏を願って建立されたものです。西蓮寺には合計11基の板碑があり、2基が本堂内
   に保管され、1基が墓地内、残りの8基が本堂の前に並んで建てられている。11基の板
   碑の内、造立年代の判るものは5基あり、鎌倉時代2基、室町時代3基です。最も大きな
   弘安九年(1286)正月晦日阿弥陀一尊種字板碑は、2つに割れてはいますが、鎌倉時
   代の特徴を備えた区内でも2番目に古いものです。元は旧末寺の満願寺にあったもので、
   明治8年11月西蓮寺に合寺された時に移されたものと考えられます。この他の板碑も、
   昔から西蓮寺にあったものと、比較的最近付近から移されたものとがあるようです。
   また墓地の中にある文明庚子(十二年 1480)九月二十八日銘の板碑は、主尊に大日
   如来の真言と大日経の偈を刻んだもので、当時の住職だった長慶が自分と自分の周囲の人
   々の来世安穏を願って生前に建てたものです。
   これらは皆、阿弥陀如来や密教にかかわる信仰を表現しており、当時の人々の信仰のあり
   方の一端を示しています
   平成11年3月                       北区教育委員会説明板


 
サツキ
 本堂と客殿の前は、枯山水風のサツキ庭園になっており、5月下旬のには見事な花模様が繰り広げ
られる。


庚申堂 ◇
 志茂4丁目30番11号に綺麗に整備された堂がある。西蓮寺の境外仏堂だ。 ➀青面金剛像・三
猿。造立年不明。②手水石。「奉納」三猿。「大正六年十年十七日」。
 


志茂福聚観音堂 ◇
 志茂4丁目30番12号にある。廃寺となった西蓮寺末寺の観音寺の本堂を、新しい形の寺院を目
指し、鉄筋コンクリート造りで、道路に面して大きなガラスをはめ込み新築されたものだ。平成7年
真言宗中興の祖興教大師誕生900周年を期して建立された。24時間いつでもお参り出来るように
考慮されている。近代的な中にも荘厳さを失わないように建物・仏具一切のデザインを上田徹に依頼
したそうだ。結構狭い道に面してまるでサンルームのような建物が建っている。おみくじは自動販売
機であり、お賽銭は穴からガラスの中に滑り込ませるようになっている。近代的を目指したのは解る
が、感覚的には受け入難いイメージ。時を刻み歴史降った観音像の自ずと醸し出すありがたみが失わ
れてしまっている。
 


橋戸子育地蔵堂 ◇
 志茂4丁目43番2号に4基ある小堂。
 ①
地蔵菩薩(錫杖・宝珠)。右面に「庚申待供養二世安樂所」、左面に「元禄十三庚辰十一月立之
  敬白」。
 ②日月・大霊権現立像・三猿。「大霊権現」「元禄十四辛巳天正月十五日」。台石正面に、三猿。
  かなり小振りの台石上に乗っかっている。あと2基ある。

   橋戸子育地蔵堂
   ここに安置されている四体の石造は、向かって右側から、
   一、地蔵菩薩石像。江戸時代の元文三年(1738)の銘があり、下村の人々が建てたも
     のです。
   二、地蔵菩薩石像。同じく元禄十三年(1700)の銘があり、庚申塔として下村の人々
     が建てたものです。
   三、大霊(りょう:正式表記は旧漢字)権現石像。同じく元禄十四年(1701)の銘が
     あり、修行者が庚申塔として建てたものです。
   四、地蔵菩薩石像。銘はありません。
   で、現在、志茂銀座商店会が管理しています。現在の志茂は、江戸時代は下村でした。こ
   れは、岩淵本宿の川下の村の意味といわれています。また、ここは小字志茂に当たります
   が、現在の志茂の文字は、この小字の文字をとったものです。土地の人々は、ここを橋戸
   と呼んでいます。子育地蔵尊は、向かって右から二番目のものをいう場合と、この4体全
   部をさす場合とがあります。志茂銀座商店会の道は旧奥州街道で、由緒ある道です。土地
   の人々は、子育地蔵尊を守り、今日に伝えています、下村の人々は、村の安全を願って建
   て、以来、村の人々は諸々の願い事をし、いつの頃からか、母親を中心に子育地蔵尊と呼
   ばれるようになったものと思われます。               北区教育委員会
                                    志茂銀座商店会

    橋戸子育地蔵尊                       北区4‐43‐2
   御堂には四体の石像が安置されており、「子育地蔵尊」は、向かって右側から2番目の石
   像をさす場合と、この4体全部をさす場合とあります。
   (向かって右から)
     地蔵菩薩石像 元文三年(1738)地元の人々が造立
            したものです。
     地蔵菩薩石像 元禄十三年(1700)地元の人々が庚申
            塔として造立したものです。
     大霊権現石造 元禄十四年(1701)修行者が庚申塔
            として造立したものです。
     地蔵菩薩石像 銘はありません。
   現在、地蔵尊を安置している西蓮寺境外仏堂は志茂銀座商店会が管理しています。志茂商
   店街の道は中世から続く往還です。現在の志茂は、江戸時代には下村と呼ばれていました
   が、これは岩淵本宿の川下の村の意味といわれています。現在の志茂の文字は、小字志茂
   の文字をとったものです。
   それぞれの石像が造立された経緯は不明ですが、下村の人々が村の安全を願って地蔵尊を
   造立し、何時の頃からか母親を中心に子育地蔵と呼ばれる様になったものと思われます。
   御堂の前でお婆さんたちが集まり、念仏を行うこともありました。現在は10月24日を
   縁日として供養が行われています。子育地蔵尊は、地域の人々に守られ、今日に伝えられ
   ています。
   平成25年3月                       東京都北区教育委員会


■志茂四丁目児童遊園

 志茂4丁目46番6号にある区立公園。


■志茂五丁目南児童遊園

 志茂5丁目4番11号にある区立公園。


■志茂小学校
 閉校

 志茂5丁目18番1号にあった区立校。平成14年4月第二岩淵小学校と統合し「北区立なでしこ
小学校」となった。跡地は公園になる。
 


■志茂ゆりの木公園

 志茂1丁目18番1号にある区立公園。平成22年5月8日防災公園として開園 


■志茂五丁目東児童遊園

 志茂5丁目21番12号にある区立公園。


■水難供養地蔵(首なし地蔵) ◇

 志茂5丁目30番17号先、隅田川の土手沿いの道の端に建っている。首なしだというが木製の首
が付いている。悪い奴がいて首をどついて落とし持って行ったらしい。

   由来
   荒川に於て子供達の水難事故が多くその供養のために地元の有志の方により出来た地蔵様
   です。昭和40年3月14日寄贈
   川施餓鬼供養日  7月15日                  志茂五水門自治会
 


■志茂五丁目児童遊園

 志茂5丁目39番3号にある区立公園。


■荒川知水資料館
 志茂5丁目41番1号の荒川土手の上、新河岸川の志茂橋を渡るとすぐそこにある。
 AMOA(Arakawa Musium of Aqua)と略称する。ここは隅田川と荒川(荒川放水路)の分岐点
で隅田川に岩淵水門がある。その水門が老朽化したため、昭和57年に新しい水門(青水門)を設置
され、旧水門は撤去される予定だったが、付近住民のたっての希望で残されることになり、水門公園と
して開放されている。水門管理矯を渡ると切り離された土手の先端部が島状になっている。資料館は
その記念に作られたもので、荒川・隅田川をメーンに川や水について広範な資料が得られるように作
られている。パナマ運河博物館と姉妹協定を結ぶ。

 船堀閘門頂冠部
 資料館前にある異様なコンクリートの塊。閘門とは「二つの水位の異なる川または湖の間に設け、
水位を調節して通船させることを目的とした水門」だ。手っ取り早くいえばパナマ運河のシステムだ。
船堀閘門は江戸川区の新川に設けられた水門。昭和2年に着工され、2年後の昭和4年に竣工、同5
4年に撤去された。

 ●放水記念碑
 資料館の玄関前にある。大石に銅版の碑文がはめ込んである。

   此ノ工事ノ完成ニ
   アタリ多大ナル犠牲
   ト勞役トヲ拂ヒタル
   我等ノ仲間ヲ
   記憶センガ爲ニ
   
神武天皇紀元二千五百八十二年
   
荒川改修ノ工事ニ從ヒタル者ニ依テ


 と記し、個人の名前はない。これは主任技師青山士(あきら)が「たった一人の功績ではない」と
いって手柄を独り占めにしなかったことにより、青山の清廉潔白さが語り継がれている。彼は日本人
で只一人、パナマ運河建設に参加した技術者でもあるのだ。それに比べてダムなどにある仰々しい政
治家の名前入りの石碑だ。いかにも自分が作ったように喧伝する。或る馬鹿な県知事はダム湖に娘の
名前を付けていけしゃあしゃあとし、圧巻はその桃尻娘が汚職で逮捕されたために知事を辞任したこ
とだ。これを名作『父娘馬鹿』という。
 政治家に、清廉潔白という人材が枯渇払底したねぇ。戦後はこれといって見るべき者はいないが、
特に小泉、安倍と、資質も能力のない3世議員が続いて、物知り顔でやられちゃあ堪らない。タウンミ
ーティングだかなんだか、猿芝居の民主主義で通して、蛙の顔にしょんべんでいい気なもんだ。だか
らといって民主党始めの野党にも、これといった人材はいないし、ああ何と日本国民は不幸なことだ。
若手にも目ぼしいのは見当たらない。高倉健のようなサッパリした日本人はもうそだたないのかねぇ
・・・神様、頼むよ。

 丸太
 資料館脇の水神祠のところにベンチのように転がしてある。これは京成押上線の旧荒川橋梁の基礎
杭の1本だそうだ。現在はコンクリートパイルを打ち込むが、昔は丸太を打ち込んだ。沈み込みを防
ぐためだ。江戸城の石垣の下にも同様に無数の丸太が打ち込んである。只単に石を積み上げている訳
ではないよ。水神様にお参りして水門公園へ。
 


■摂政宮殿下御野立之跡

 志茂5丁目41番、赤水門の手前の土手の端に碑がある。特に説明の文はない。「大正十三年十月
二十五日」と日付があるから、関東大震災後の復旧と荒川放水路、完成したばかりの水門のご視察だ
ろう。摂政宮とは大正天皇の皇太子であった昭和天皇のこと。「摂政」とは「天皇に代わって政治を
摂る」ことで、当時大正天皇は病弱で皇太子が天皇の代行をされていた。摂政宮は「せっしょうのみ
や」と読むが、一般には「せっせのみや」と俗称されていた。
 


■旧 岩淵水門(赤水門)
 志茂5丁目41番にある。水門は新旧があって、荒川放水路の開鑿により大正13年に完成した。
昭和35年の改造で門扉が赤く塗られたので「赤水門」と呼ばれて親しまれ、昭和57年新水門の竣
工後に撤去される予定だったが、「記念碑として残して欲しい」との地域住民の切望に応えて当時建
設省としては異例の存置を決定した。国民を愚弄して我を通す官僚の中にも普通感覚の人間もいるに
はいるんだと感心する次第。そのために横の堤防が切り取られて新しい取水口が開かれた。岩淵水門
の意味は、単に水量調節水門が設置されたということだけでなく、昭和40年の「河川法」改正によ
り、水門から下流が正式に「隅田川」になったという訳である。こういうことを総合して、この水門
は歴史的文化的価値が高い。

 
赤水門保存問題

 荒川下流工事事務所は、平成13年から旧岩淵水門(通称赤水門)を建設当初の姿に復元して重要
文化財に指定する計画を進めている。この計画は、水門の塗装をコンクリート色に塗り替えたり、撤
去して平板な構造にするなど、区民が昭和35年以来慣れ親しんできた景観を大きく変えてしまう内
容であるため、地元を中心に「慣れ親しんできた景観を残してほしい」と反対の声が上げている。翌
14年に入り、諮問委員会「旧岩淵水門土木技術評価委員会」より出された提言をもとに、8~9月
には改修工事に入れるよう、荒下事務所は区民の意見に耳を貸さず、一時は発注の手続きまで進めて
いた。しかし住民運動と地元の熱い声に押される形で工事発注の手続きは中止され、再検討されるこ
ととに!
 赤水門の景観は「北区景観百選」「東京都指定重要文化財」「日本の近代土木遺産」などに指定さ
れ、客観的にも高い評価を得てはいる。北区・荒川のランドマークとして守り抜くため反対運動は頑
張るようだ。でも親しみはあるけど、昭和35年当時の中途半端な改造だからな、初期の状態に戻す
という荒下事務所の考えも間違ってはいない。
 


■新 岩淵水門(青水門)
 志茂5丁目41番にある。新水門は昭和60年の完成で門扉が青色に塗られているので「青水門」
と俗称されて親しまれている。
現在の荒川(旧荒川放水路)と隅田川(旧荒川)とを仕切る水門。以
前「荒川放水路」と呼ばれた人工河川を現在は荒川と呼び、かつての荒川を「隅田川」と呼ぶ。この
水門はこれらの分岐点にある。旧水門の老朽化、地盤沈下対策、また洪水調整能力の強化を考えて、
300mほど下流に作られた。昭和49年に着工し、同57年に完成した。事業費は約70億円。2
00年に1回の大洪水にも耐え得るように作られている。RC(鉄筋コンクリート)造りで、10m
幅のゲート3門で構成されている。平常時は水門を開け、荒川上流からの水を新河岸川からの水と共
に隅田川に流す。増水時には水門を閉じ、荒川上流と隅田川の水流と途絶させる。

   水門概要
   
岩渕水門について
   昔の荒川の本流は隅田川でした。ところが隅田川の川幅が小さく、堤防も低かったので大
   雨や台風時の洪水を防げませんでした。
   このため、明治44年から昭和5年にかけて新しく海に至る21kmの人工の川(放水路)
   を作り洪水のほとんどをこの放水路(現在の荒川)で流す事にしました。この放水路が元
   の隅田川と分れる地点に大正5年から13年にわたって作られたのが岩渕水門です。岩渕
   水門の大きさは、9m幅のゲートが5門ついています。大雨や台風の時にはゲートを閉じ
   洪水の大部分を放水路に流し、隅田川へは限られた水しか流さない働きをします。平常時
   は、水門を開放して船が自由に通れるようにし、またある程度の水を隅田川に流し、汚れ
   た隅田川の水をきれいにする役目を果たしています。水門の操作管理は、荒川下流工事事
   務所の岩渕出張所が担当し月に二回の点検をします。また洪水時の水門操作は水門上流側
   水位標(岩渕上)の水位を基準にして行ないます。岩渕上の水位がAP+3mまでは全門
   開放にしますが、水位が上昇しAP+3mを超える場合には、1~4号ゲートを基礎敷高
   1.8m、5号ゲート0.9mの位置まで降下させます。また水位が下降しAP+3mまで
   下がった時に全門を開放します。岩渕水門は以上のような働きをしています。
   なお水門についてのお問い合せは下記までお願いします。
                    建設省荒川下流工事事務所 ☎ 902‐2311
                           岩渕出張所 ☎ 901‐4240
 


■荒川赤水門緑地
 志茂5丁目41番11号にある区立公園。新岩淵水門の完成により、撤去される予定の旧水門が、
付近住民のたっての願いで残されて公園に整備された。

 「月を射る」
 赤水門の管理橋を渡ると旧土手の先端部が小島のようになっていおり、公園の完成と資料館の完成
を記念して『月を射る』と題した青野正作の鉄製のモニュメントが建っている。予め錆びることを計
算された作品で、ために赤錆びており、朽ちた煙突のようだ。対岸川口の超高層ビルとのアンバラン
スが絶妙だ。荒川リバーアートコンテストの特賞受賞作品だ。おいらこの除幕式に立ち会っちゃった
い。

 草刈の碑
 水門公園の土手上に建ててある。昭和32年に建てられたもので、大きな一枚岩の石碑で「農民の
魂は草刈りから」と彫り込まれ、昭和13年から6年間この土手の斜面では「全国草刈り選手権」が
開かれたとある。第2次世界大戦で中止となり、もし愚かな連中が戦争をばおっ始めなかったなら、
夏の甲子園の後、NHKでテレビ中継されて、それはそれは大変なことになっていたかもしれない。

 ●落雷死
 平成25年7月8日午後3時50分頃、志茂の荒川付近で落雷があり、男性3人が負傷したと11
9番があった。3人は病院に搬送されたが、1人が死亡した。2人は意識があるという。
 警視庁赤羽署などによると、3人は50~60代で、荒川の中州に釣りに来ていた。午後3時半ご
ろ、突然大雨が降り出したため、中州にある四阿に避難したが、横殴りの雨となったため、大樹の下
に移動して雨宿りをしていた。その時、落雷があり、3人が弾き飛ばされた。近くで釣りをしていた
北区の70代の無職男性は「3人と一緒に雨宿りしていて、木を離れたらバチッと音がした。振り返
ると3人が倒れていて、声をかけたが1人は動かなかった」と心配そうに話した。救急隊がかけつけ
てきた時、45歳の男性は既に心肺停止状態、病院で死亡が確認された。60代男性は重症だとか。
 雷が鳴っている時に、木の下に避難するのは最も危険な選択だ。高い木ほど落雷する。
 この日の夕立はゲリラ的で降雨時間も短く10~15分程度、落雷は埼玉・東京・千葉で500ほ
ども落ちたという。埼玉では家一軒が全焼した。
 

 



 十条の由来
 古代の条里制にちなむとする説(北区史)と豊島氏が紀州三上の地頭になったことで紀州の「十条
峠」から採用したという説(新編武蔵風土記)がある。但し和歌山県にあるのは「十丈峠」なのだ。
十条という地名が初めて記録に現れるのは文安五年(1448)の『熊野領豊嶋年貢目録』だ。それ
に「十条 作人平部」「十条郷 作人 三平」とある。十条村は、明治になって(寛永の頃だという
説もある)上下に分かれ、同22年それぞれ王子村の大字となった。昭和7年に王子区が成立した時
に上十条町・下十条町となり、現在は上十条・中十条・東十条・十条仲原・十条台・岸町・王子本町
に分かれている。十条が地形や建物による地名ではないのでここが十条というところはない。




【十条台】(じゅうじょうだい)1~2丁目            最終昭和42年5月1日
 下十条村。明治7年大区小区制。同11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に復し、同22年
「市制町村制」により王子村大字下十条、同41年王子町大字下十条、昭和7年東京市に編入され
王子区下十条町、同22年北区下十条町。同41年新住居表示により、下十条町・王子本町3丁目
の各一部をあわせた町域を現行の「十条台1丁目」とし、同42年下十条町の一部の町域を現行の
「2丁目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『北区史』など。

 十条台について
 石神井川に面した十条村の高台の意。この台も陸軍施設(東京第一造兵廠)があって陸軍がそう
呼称していたのを町名とした。十条については「十条の由来」を見よ。
 


北養護学校 → 北特別支援学校
 十条台1丁目1番1号にある都立校。ここは仕事で何度も行ったっけ。
 


中央公園
 十条台1丁目2番1号にある区立公園。公園内に、野球場、児童遊園、グラウンド、アーチェリー
場、テニスコート、東京都障害者総合スポーツセンター本館がある。
 

 
中央公園文化センター

 
建物は、戦前の陸軍東京第一造兵廠(兵器工場)の本部として昭和5年に建てられた。戦後造兵廠
の一部は米軍に接収され、昭和36年に「キャンプ王子」となり、同43年3月ベトナム戦争の激化
に伴い「米軍王子野戦病院」が開設された。併し野戦病院(battle field hospi
tal)の名が批判されると、「陸軍病院(Army hospital)」と改称した。やがてベト
ナム戦争が終結すると、同46年区をあげての返還運動と、多くの人々の努力が実を結び、日本に返
還され、同56年文化センターとして生まれ変わった。
 文化センターは、区民の学習と交流・文化創造の広場だ。区内の様々なサークル・グループの学習
・文化活動の場として利用されるほか、各種の講座・教室等を催して区民の生涯学習を応援している。

 「慈悲」像
 赤堀信平制作の母子銅像。

 文化センター図書館
 文化センター内にある。

 赤羽台第3号古墳
 この古墳の石室は、昭和57年7月東北新幹線工事に伴う赤羽台4丁目2番星美学園内発掘調査に
より発見されたもの。他に10数基の古墳、横穴墓群、多数の竪穴住居跡が見つかっている。北区の
歴史を知る上で貴重な資料であるため、石室をそのまま切り取って移設し展示している。この石室は
今から約1400年前の古墳時代に作られた横穴式石室です。現在は、石積みが2段しか残っていな
いが、当時は数段積まれ、その上に天井石をのせたものと推定されている。石材は、凝灰質砂岩で海
浜の自然石を用いたものだ。また床面には全面に小石が、一部に牡蠣殼も敷かれていた。
 石室の中には、人骨と共にガラス玉・碧玉製の管玉・耳飾りなどの装身具と直刀・矢の先に付けら
れる鉄鏃などの武器類が、副葬品として納められていた。

 皇后陛下行啓記念碑
 建物の右(東)側にある。

   皇后陛下行啓記念  昭和十八年 五月十九日

   東京第一陸軍造兵廠長 杉浦辰雄謹書


 
東京砲兵工廠銃包製造所のボイラー(部品)と鋼製耐震煙突銘板
 建物の近くにボイラー鉄扉、ドラム、煙突銘板が展示されている。明治38年、現在の十条台1丁
目一帯に「東京砲兵工廠銃包製造所」が開設された。日露戦争を機に弾薬(銃包)の増産が必要とな
ったことから、小石川地区より当地に移転・拡張したものだ。敷地内には銃包を製造するための煉瓦
造りの工場棟が多数建設された。銃包製造所では、製造に必要な工作機械の動力として英国バブコッ
ク&ウイルコックス社製のWIF型蒸気ボイラーが導入された。
 ボイラーの煙突には、東京芝浦製作所製の鋼製耐震煙突が使われました。この煙突は煉瓦造の煙突
の周りに鉄板を巻き、耐震性を高めたもの。高さ約30mの煉瓦造煙突は、地上から約mより上部を
全て鉄板で覆っている。

   東京砲兵工廠銃包製造所のボイラー(部品)と鋼製耐震煙突銘板
   明治38年、現在の十条台1丁目一帯に「東京砲兵工廠銃包製造所」が開設されました。
   日露戦争を機に弾薬(銃包)の増産が必要となったことから、小石川地区(現後楽園周辺)
   より当地に移転・拡張されたものです。敷地内には銃包を製造するための煉瓦造の工場棟
   が多数建設されました。銃包製造所では、製造に必要な工作機械の動力として、英国バブ
   コック&ウイルコックス社製のWIF型蒸気ボイラーが導入され、ボイラーの煙突には、
   東京芝浦製作所製の鋼製耐震煙突が使われました。この煙突は、煉瓦造の煙突の周りに鉄
   板を巻き、耐震性を高めたものです。
   ここに展示されている部品は、ボイラーのドラム・水管の一部・鉄製の扉、および、鋼製
   耐震煙突の銘板で、十条の自衛隊の施設建替の際に解体・保存したものです。銘板には銃
   包製造所開設年にあたる「明治三十八年九月竣工」の年代が入っており、これらは、銃包
   製造所の歴史を伝えるとともに、日本の近代産業遺産としても貴重な資料です。
   平成27年3月                          北区教育委員会

   
東京芝浦製作所製 明治三十八年九月竣工  


■国立王子病院 
統合移転
 十条台1丁目2番3号北区療育医療センターのところにあった。昭和20年10月18日アメリカ
軍に接収された相武台陸軍病院が神奈川県相模原町
より移転。12月1日に厚生省へ移管し、国立王
子病院として発足。
 平成7年、国立立川病院と国立王子病院を統合。国立病院東京災害医療センターとして発足、立川
に移転。
 廃止後は社会保険庁へ時価譲渡。跡地に東京北社会保険病院(現在は北区療育医療于センター)となった。1


北療育医療センター
 十条台1丁目2番3号にある。昭和37年「東京都立北療育園(肢体不自由児入園施設・病院70
床・外来診療)開園。同44年6月大田区に城南分園開園。同45年足立区に城北分園開園。同60
年北療育園を現在地に移転改築し「東京都立北療育医療センター」と改称。

 基本理念
  1.障害児者の生命を尊重し、最善の医療と療育の提供に努める
  2.障害児者の人権、生活、欲求を尊重し、本人の尊厳や利益が損なわれないように、利用
    者の立場をよく理解する。
  3.障害児者が一般市民としての生活が送れるように、社会参加の機会保証を積極的に援助
    する。
  4.障害児者の考えや行動を柔軟に受け止め、共感し、共に向上できる職員であることに努
    める
  5.障害児者の家族の良き相談相手になるとともに、良き協力者になります。

 とあるところをみると、今までこのようではなかったっちゅうこっちゃな?


 つどいの像
 外来入口脇にある3人の少年少女像。昭和40年小笠原安兵衛の制作。


■中央図書館
 十条台1丁目2番5号。赤煉瓦倉を改造し、附設建物を増築し、平成23年9月23日開館。旧住
居表示は1丁目5番、2番は旧中央図書館のところで文化センターになっている。
 パンフレットに、

   
赤レンガ倉庫について
   赤レンガ倉庫は、北区の近代産業の歴史や当時の建築技術を知る上で貴重な建造物です。
   ガラスを取り入れた近代建築と融合し、中央図書館の一部となって生まれ変わりました。
    建物名:東京砲兵工廠銃砲製造所(旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟)
    用 途:工場・倉庫
    建設年:大正8年
    構造・階数:レンガ造り・平屋建
    内間柱:鉄骨ラチス造
    小屋組:鉄骨トラス造
   明治38年、当時小石川(現・文京区)にあった東京砲兵工廠銃砲製造所が、日露戦争に
   よる弾丸不足を補うために、ここ十条台の地に用途を求め、工場を拡張させて移転してき
   ました。そして、大正8年、弾丸鉛身場として建設されたのが、この赤レンガ倉庫です。
   その後、日本陸軍の編成替えにより組織の名称は次々と変わり、昭和15年には、東京第
   一陸軍造兵廠第一製造所となりますが、終戦にいたるまで、この地で小銃や機関銃に用い
   る弾薬や薬きょう、火薬類の製造が行われていました。
   昭和20年8月に戦争が終わると、第一製造所の諸施設はアメリカ軍に接収されてTOD
   (東京兵器補給廠)第4地区となり、主にアメリカ軍の戦車整備工場となりました。そし
   て、昭和33年にその一部が日本に返還されると、翌34年には陸上自衛隊が入所し、武
   器補給処十条支所として活動を始めます。
   その後、防衛施設再編計画にともない、赤レンガ倉庫を含む一部が北区へと移管され、平
   成20年に北区中央図書館に生まれ変わりました。


 とある。

 「静思」像
 館内にある。静かに腰掛けている女性像。
 


稲荷公園 → 廃止 中央公園(旧稲荷公園)
 十条台1丁目4番にある区立公園。平成17年5月稲荷公園