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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

平成17年2月11日発信    リンクフリー
地名の由来 東京23区辞典 引用自由
 
夢 日本人の、日本人による、日本人のための日本
  大田区の地名の由来 
    現在進行形の調査であれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。時々御用心!

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大田区の地形

 大田区の地形は、池上通りに沿って、そのやや北側を境にして、北西部の高台と南東部の低地に区
分できる。高台は、武蔵野台地と呼ばれる比較的平坦な台地が広がっている。南東部の低地は、多摩
川最下流の三角州性低地と東京湾岸の海岸低地より構成されている。武蔵野台地には、呑川などの中
小河川沿いに樹枝状に谷底低地が存在している。
 


地形・地質と住宅地盤
 

 
台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰で覆われている。関
東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積したローム土
は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好な
場合が多い。池上通り以北の高台。山王・池上・馬込・久が原・雪谷・千束などの地と田園調布。
 

 
谷底低地
 台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布している。
台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地
盤となっている。したがって、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となる
ことが多い。旧矢沢川渓谷(田園調布の北)、呑川や内川の流域
 

 
多摩川三角州性低地、海岸低地
 多摩川沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、軟弱な粘土やシルト(泥地)
が厚く分布しているため、長期的な沈下(圧密沈下)が問題になっている場所が多いが、砂や礫のよ
うに粗粒な土で構成されている場所すなわち自然堤防などでは、その締まり具合によって住宅地盤と
しての評価が決まる。海岸低地は、東京湾沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。三角州性低
地と同様に地下水位が高く、上部には緩い砂や軟弱なシルトなどが分布しているため、標準的な基礎
では、十分な耐力を確保することが困難な場合も多い。この地域では、適切な基礎補強策が必要とな
る場合が多い。多摩川沿線、蒲田、六郷、羽田、糀谷、大森と埋立地。
 
 


大田区の変遷
 歴史
 海と川に臨み、武蔵野台地の先端に位置していることから、昔から人が住みやすく、交通の要路で
もあったため、区内には大森貝塚、多摩川台古墳群、池上本門寺五重塔など多くの史跡が点在してい
る。久が原小学校内の遺跡調査により先土器時代の住人の存在を確認、大森貝塚遺跡調査により縄文
時代の先住民の定住が判明した。また弥生時代の遺跡として山王遺跡がある。
 江戸時代は山農漁村で、特に海岸の大森・糀谷・羽田地区では昭和38年まで続いた海苔の養殖が
盛んに行われた。また東海道の街道筋に当たっていたため人馬の往来で賑わった。
 伝統芸能として「水止舞」や「禰宜(ねぎ)の舞」など数多く残っている。
 大正期以降に、中小工場が進出し、低地部は住宅や工場が密集する商業・工業地域を形成し京浜工
業地帯の一部となっている。台地部は、関東大震災後住宅化が進み、田園調布、雪谷、久が原など比
較的緑の多い高級住宅地を形成した。臨海部は埋立地からなっており、羽田空港をはじめトラックタ
ーミナルやコンテナふ頭、市場など物流施設の外、工場団地、野鳥公園など都市機能施設が整備され
ている。


 
東京府
 
現在の大田区の区域に入る江戸時代の47ヶ村は、慶応四年(1868)松村武蔵知県事に属した
のち、明治2年2月5日(9日?)品川県を経て、同4年11月5日東京府荏原郡に編入。同5年4
月上知堤方村を堤方村に、上知久ヶ原村を久ヶ原村に編入、西大森村・東大森村・北大森村を合併し
て大森村とした。同7年3月8日大久保利通の国家権力主義のため「大区小区制」の強化が図られて
自治権を奪われ、当区は第七大区に編入された。大久保の専制強圧政治は国民の大反発を買い、不平
武士の反専制運動・自由民権運動を招く結果となり、同11年5月14日悪運尽きた大久保は天誅を
受けて惨殺された。親分を失って内務官僚は驚愕のあまり為すところを知らず、大慌てに大区小区制
を引っ込めると「郡区町村編制法」を施行し自治権を旧に復した。同12年4月22日浜竹村・下袋
村・糀谷村は合併して糀谷村となり、同22年明治政府が初めて自治制を認めた「市制・町村制」に
より45ヶ村が大森・入新井・馬込・池上・調布・矢口・蒲田・六郷・羽田の9ヶ村に集約されるこ
とになり自治権はさらにまた少し回復した。同30年7月20日大森村が、引き続いて同40年10
月8日羽田村が、大正8年8月1日入新井村が、同11年10月10日蒲田村が、同15年8月1日
池上村が、昭和3年1月1日馬込村が、同年2月11日矢口村が、同年4月1日調布村と六郷村がそ
れぞれ町制に移行した。昭和7年10月1日東京市の市域拡大のために同市に編入されて20区増設
となり大森・入新井・馬込・東調布・池上の五町で「大森区」、蒲田・羽田、矢口、六郷の4町「蒲
田区」が成立した。

 
東京都
 同18年7月1日東京市の自治権を削減するため内務官僚は「府県制」を改めて東京府・東京市を
共に廃し、新たに「都制」を施行して「東京都」を誕生させ直轄管理を目論んだ。しかし「アメリカ
を殲滅する」と豪語して始めた戦争で陸・海軍共に敗戦したため、日本はアメリカの植民地・属国と
されてしまった。同21年9月27日民主化を急ぐマッカーサーは地方自治体首長の任命制を廃して
公選制としたが、これには権限が削減される内務官僚が少なからぬ抵抗を示した。しかし情けないこ
とに彼らはアメリカ人に人倫の道を諄々と説かれ、私利私欲と強圧政治の非を悟らされて己が非人間
的不誠実さに涙した。同22年3月15日今次大戦の空爆で都心区が壊滅的状況になり人口は激減、
戦禍からの復興のために都心区の廃置分合が進められ、当区では大森区と蒲田区が合併して一区とな
り「大田区」が発足した。


大田の由来
 区名案には東海・南・六郷・羽田・城南・森田・京南・港・本門寺・臨海など多くの案が出された
が論多くして纏まらず、結局大森・蒲田両区から一字づつ取る折衷案で合意した。しかし多くの人は
江戸にゆかりの太田道灌にちなんだ〝太田〟だと思っている。蒲森としなかったのは蒲の字が当用漢
字になかったから。東海道が通り、東方が海なのだから「東海」か「羽田」が妥当なところだったん
じゃないの。この区はこの方面にこそ未来がある。東海は最新の埋立地に命名された。従って大田区
大田は存在しない。
 

 
現状
 平成18年現在町名数は60。区役所は蒲田駅前にある。東海道線から西はほぼ住宅地で東は商工
業地と住宅地が混在する。文化施設は近代考古学の走りとなった大森貝塚・東京港野鳥公園・郷土博
物館。図書館は中央図書館こそないものの太田図書館を中心に16館もが揃ってる。友好・姉妹都市
は北京市朝陽区とマサチューセッツ州せーラム(アメリカ」。洗足池・池上本門寺あたりが観光地、
江戸名所「梅屋敷」は今はもうない。あと目ぼしいものは平和島競艇場・大田市場ぐらい、日本一の
超高級住宅地田園調布と区の4分の1の面積を占める羽田空港を抱える。埋め立てにより区域を1倍
半に広げ、10数キロ離れていた江東区が指呼の間だ。臨海トンネルで繋がっている。
 


■学校

 
小学校 区立59 私立2
 梅田・入新井第一・入新井第二・入新井第四・入新井第五・新宿・東蒲・南蒲・大森東・大森第一
 ・大森第三・大森第四・大森第五・糀谷・北糀谷・都南・萩中・中萩中・出雲・東六郷・六郷・西
 六郷・仲六郷・南六郷・高畑・志茂田・中富・山王・馬込・馬込第二・馬込第三・小池・池上・池
 上第二・洗足池・清水窪・久原・赤松・松仙・松雪・徳持・道塚・矢口・矢口東・矢口西・嶺町・
 千鳥・多摩川・相生・雪谷・調布大塚・東調布第一・東調布第三・田園調布・開桜(大森第二+大
 森第六)・羽田(羽田+羽田旭)・東糀谷(東糀谷+羽田旭)・おなづか(女塚+蓮沼)・蒲田(鎌田
 +北蒲)
 清明学園初等学校・文教大学附属小学校

 
中学校 区立28 私立1
 大森第一・大森第二・大森第三・大森第四・大森第六・大森第七・大森第八・大森第十・大森東・
 馬込・馬込東・貝塚・東調布・田園調布・雪谷・石川台・羽田・糀谷・出雲・六郷・南六郷・志茂
 田・矢口・御園・蓮沼・安方・東蒲・蒲田
 清明学園

 
高等学校 都立7 私立
 雪谷・田園調布・美原・大森・蒲田・つばさ総合・六郷工科
 大森工業・蒲田女子・東京実業・東京・日体荏原

 
大学
 東邦(医学部)・昭和(歯学部)

 
その他

 ものつくり大学ものつくり研究情報センター大田サテライト
 東邦大学医学メディアセンター看護学科図書館・東邦大学付属大森病院・山形大学地域共
 同研究センター大田サテライト・昭和大学歯科病院・東京工業大学(1部)
 


■区歌
(昭和29年制定)
  1.明け渡る新たな朝よ
    田園の緑も息吹く
    あゝこゝぞ あゝこゝぞ
    清かなる多摩の流れに
    乗せ行くは自治の歌声
    光あり吾等が大田
    光あり吾等が大田
  2.匂い立つ火花と汗に
    生産の幸呼ぶところ
    あゝこゝぞ あゝこゝぞ
    望みある日々を培い
    健やかに開く文化よ
    力あり吾等が大田
    力あり吾等が大田
  3.青潮に輝き映えて
    天翔ける翼の港
    あゝこゝぞ あゝこゝぞ
    甍の波 遠く連なり
    永久の栄え目指して
    誇りあり吾等が大田
    誇りあり吾等が大田


 昭和52年区政30周年を記念して、「すっきり音頭」という年配向けのものと「大田っ子の歌」
という児童向けの歌が制作された。


■すっきり音頭


■大田っ子の歌
  1.みんな集れ 大田っ子集れ
    ごらんあの空 さわやかに
    銀のつばさの その上の
    虹のむこうに夢がある
    元気に胸を組み合わせ
    若い力を 伸ばそうよ
 


■区の木 クスノキ
 楠・樟・楠木・楠の木。昭和51年に制定された。常緑の葉は陽光に美しく映え、成長が早く、し
かも公害にも強く、その逞しい樹形は風格ある高木となる。まさに発展する大田区を象徴する木とい
える。他に江戸川区が「区の木」に制定している。
 クスノキは、クスノキ科ニッケイの常緑高木。一般的にクスノキに使われる「楠」という字は本来
は中国ではタブノキを指。日本でタブノキは「椨」の字を用いる。別名クス、ナンジャモンジャ。但
し、ナンジャモンジャはヒトツバダゴなど他の植物を指して用いられている場合もある。
 


■区の花 ウメ
 鶯。クスノキと同じく昭和51年に区の花として制定されました。古くから大田区の土地に馴染み、
歴史的な由緒も深いウメ。花は清楚にして気品に満ち、早春、寒さに負けず咲くその姿は、若い世代
の人が多い大田区には特に相応しいものとして制定した。有りそうだがウメを区の花としているのは
23区では大田区のみ。
 バラ科サクラ属の落葉高木、またはその果実のこと。中国の長江流域が原産で、日本には8世紀半
ばに渡来した。日本の気候に馴染んでいないために、冬の終わりから春先に当たる2月中旬から3月
初頭、花粉を媒介する虫の少ない時期に花をつける。杏(アンズ)の近縁種であり、容易に交雑する。
野梅系の果実は小型であり、果実を利用する豊後系ではアンズとの交雑により大型化している。但し
完熟しても果肉に甘味を生じることはない。
 ウメは、薬としての乾燥梅実「烏梅(ウーメイ)」が輸入が先で、梅の木の苗が移植されたのはそ
の後のことだ。それで「烏梅の木」だと説明され、梅を「ウメ」と呼ぶようになったとか。
 


■区の鳥 ウグイス
 鶯。梅の咲く早春を告げる鳥として昔から人々に親しまれており、独特の澄んだ囀りは自然の尊さ
を感じさせる。安全で快適な、活力と思いやりのある文化・福祉都市を目指す大田
区の自然保護のシンボルとして平成2年に制定された。
 スズメ目ウグイス科ウグイス属に分類される。「ホーホケキョ」と大きな声で囀る。日本3鳴鳥の
一つ。山梨及び福岡の県鳥。体長15cm程度で、スズメ同大。体色は、背中がオリーブ褐色(鶯色)
で、腹面は白色、全体的に地味だ。雌雄とも同色。日本ではほぼ全国に分布する留鳥。但し寒冷地で
は冬季は暖地へ移動する。平地から高山帯のハイマツに至るまで生息するように、環境適応能力は広
い。警戒心が高く、笹の多い林下や藪を好むが、囀りの最中に開けた場所に姿を現すこともある。

 
鳴き声
 囀りは「ホーホケキョ、ホーホケキキョ、ケキョケキョケキョ……」、地鳴きは「チャッチャッ」
このうち「ホーホケキョ」が、接近する他の鳥に対する縄張り宣言、「ケキョケキョケキョ」が侵入
した者への威嚇とされている。因みに「ホーホケキョ」と鳴くのはオス。平地にて鳴き始める季節が
早春であることから春告鳥の別名がある。本州中部辺りでは2月初旬頃から囀り始め、8月下旬頃ま
でがよく聞かれる時期だが、10月頃まで弱い囀りが聞かれることがある。
 


■名誉区民

 なし
 


■大田区出身の有名人
 芦沢誠(アナウンサー)・上田剛彦(アナウンサー)・及川光博(歌手作家)・大田クルー(ヒッ
プホップグループ リーダーのサットンが区内出身)・押井守(映画監督)・品川祐(漫才コンビ品
川庄司の1)・鈴木聖美(歌手・鈴木雅之の姉)・鈴木雅之(シャネルズ→ラッツ&スターのリーダ
ー)・田代まさし(元タレント)。田中秀幸(声優)・谷啓(クレージーキャッツ)・長島一茂(茂
雄の子・タレント)・長山洋子(演歌歌手)。福田明日香(元モーニング娘。)・林正浩(アナウン
サー)・細野不二彦(漫画家)・松本伊代(タレント)・南佳孝(歌手)・矢野沙織(アルトサクソ
ホーン奏者)・渡辺真里奈(オニャンコタレント)
 

 


では謹んで大田区各町について始めさして頂きやす


 【池上】(いけがみ)                       昭和42年12月1日
 下池上村。本門寺領。徳川家康が池上村の東南の地域を本門寺に寄進して起立した。明治22年
「市制町村制」により池上村大字下池上、大正15年池上町大字下池上、昭和7年大森区が成立し
て池上本町となり戦後に至る。同42年新住居表示により池上本町と池上徳持町の大部分に、市野
倉町・桐里町・堤方町・梅田町・久ヶ原町・女塚1丁目・安方町・矢口町・調布千鳥町の各一部を
あわせた町域を現行の「池上」とし今日に至ってる。
 池上を名乗るが本村は上池台の方だ。だから池上は本門寺だ!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 池上の由来
 往時の洗足池(千束池)は広大で上池上の下辺りまであったので村名にしたという『新編武蔵風
土記』の記事に対して、『池上町史』では「洗足池は溜井(人工池)だから広大になるはずもなく
「天慶の頃(938~946)池を領した藤原祐忠が、池上を姓として高台に住んだことから村名
は起きた」と反論している。しかし「池亀」とも書いたというから実際はどうだか判らない。江戸
時代は洗足池に続く湿地帯で六郷用水が出来てから漸く水田が開かれた。現在ほぼ全域が住宅街。
池上は池東方の台地をいい「上池台」を指す。


池上線」 

 昭和51年 作詞・佐藤順英  作詞・馬飼野俊一  歌唱・西島三重子
  1.古い電車のドアのそば
    二人は黙って立っていた
    話す言葉をさがしながら
    すきま風にふるえて
    いくつ駅を過ぎたのか
    忘れてあなたに聞いたのに
    じっと私を見つめながら
    ごめんねなんて言ったわ
    泣いてはだめだと胸にきかせて
    白いハンカチを握りしめたの
    池上線が走る街に
    あなたは二度と来ないのね
    池上線に揺られながら
    今日も帰る私なの
  2.終電時刻を確かめて
    あなたは私と 駅を出た
    角のフルーツショップだけが
    
灯りともす夜更けに
    商店街を通り抜け
    踏切渡った時だわね
    待っていますと
    つぶやいたら 突然抱いてくれたわ
    あとから あとから 涙あふれて
    後ろ姿さえ 見えなかったの
    池上線が走る町に
   

    あなたは 二度と来ないのね
    池上線に揺れながら
    今日も帰る私なの
 


山大国院池上本門寺
 
池上1丁目1・2・31・32・34、3番、2丁目1・2・10・11番に亘る日蓮宗本門寺派
の総本山。
弘安五年(1282)秋、日蓮上人は病気療養のため身延山を離れ常陸に向かう途中、池
上衛門太夫宗仲の館に立ち寄り、館内(やかたうち)の法華堂開堂式を執行したといわれ、これが本
門寺の起源と伝わっている。その真偽はともかく上人は十月十三日辰の刻(午前八時頃)大坊本行寺
で入滅した。行年61歳だった。
 池上1丁目はほぼ本門寺とその塔頭。呑川を眼下にして静寂な空間がそこにある。東急池上線池上
駅は池上6丁目にあり、駅前から大井町へ池上通りが走る。
 平成13年に完成した「霊宝殿」では毎週日曜日、寺宝を展示公開してる。
 長栄山本門寺という名前の由来は「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日
蓮が名付けたもので、大檀越の池上宗仲が、日蓮入滅の後、法華経の字数(69384)に合わせて
約7万坪の寺域を寄進し、寺の礎が築かれたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされている。直
弟日朗がその経営に当たり、鎌倉の比企ヶ谷妙本寺と両山一貫制を敷いて布教の拠点とした。日蓮宗
の14霊蹟寺院、7大本山の一つに数えられている。


 日本国重要文化財
 五重塔・木造日蓮聖人坐像・兄弟抄日蓮筆
 東京都指定有形文化財
 宝塔・日蓮筆消息文・日蓮筆大曼荼羅・日蓮遺物配分帳・身延山守番帳・日朗筆大曼荼羅
 大田区指定有形文化財
 日朗聖人坐像・日輪聖人坐像・天海版一切経・木造柄香炉・梵鐘・紺紙金泥法華経六巻・池上本門
 寺文書一括・柄香炉・経蔵・日樹聖人五輪塔・本門寺の石段(此経難持坂)
 東京都指定旧跡
 南洲海舟評議の処(松涛園)・狩野探幽墓所

 
宝塔、附木造宝塔1基(昭和38年3月19日指定)
 かつて灰堂があったという記録が見られるが、この宝塔は棟札抄により、文政十一年(1828)
十一月十三日日蓮聖人の550遠忌を記念し、前犬山城主成瀬候らを本願主として再建された。作者
は小木新七その他。その後嘉永四年(1851)に修理されている。石造基壇は高い方形基壇および
蓮台形台座からなる。木造建築の軸部は平面円形でやや伏鉢状をなし、側柱8本を円形に配し、内部
には四天柱を立てている。伏鉢部の上に12本の側柱および8本の柱を円形に配して上層をなしてい
る。附の宝塔は四天柱の内に安置され、意匠は本堂塔に類似している。この宝塔は富山県本法寺蔵の
重要文化財絹本着色法華曼荼羅図に見える多宝仏塔に類似しており、建設時代は新しいが、宝塔形式
の遺構としてはほとんど類例がない。

 
梵鐘(昭和49年2月2日指定)
 正保四年(1647)加藤清正の息女で後に紀伊頼宣室となった瑶林院が寄進した。正徳四年(1
714)に紀州粉河の鋳物師木村将監藤原安成によって改鋳。その際初鋳当時の銘文がそのまま残さ
れ、縦帯の銘文は筆順に随った籠字筋彫りであるのも珍しい。その雄大さと共に豪快重厚な作風は都
内屈指といえよう。戦災による鐘楼の消失で一部に亀裂と歪みを生じたが、なお資料的価値は高い。

 
日朗聖人坐像(昭和50年3月19日指定)
 木造寄木造り、彩色、玉眼、像高45cm。大堂(祖師堂)内に日蓮聖人坐像(国重要文化財)を
中心に、向かって左側に本像、右側に日輪聖人坐像が対をなして安置されている。「新編武蔵風土記
稿」に、この像内に当時2世日朗聖人の真骨を収めていると記されているが、現在は見当たらない。
銘文がないのが残念であるが、肖像彫刻として芸術性も豊かであり、その彫刻の手法、様式などから
室町時代の作品と推考される。
 

   
石段を東風ごうごうと本門寺(川端茅舎
   
本門寺野分に太鼓打ち止めず(川端茅舎) 


 お会式法要
 
おえしき 毎年10月11日・12日・13日の3日間に亘って、日蓮上人の遺徳を偲ぶ法要が行
われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑わうよ。お会式または御命講と
呼ばれる宗教行事は、関東随一の祭りだ。江戸前期、本門寺の山号額の長榮山の榮の字が、火除けの
意味をもつことから、火事の多かった明治の火消したち(浅草下谷消防団が始めた)が、町内の日蓮
宗講の人たちと共に参詣に訪れたことによる。万灯は日蓮入滅の時、枝垂れ桜が満開だったため、そ
の花を現したものだ。それらの故事から、万灯供養の行列は、日蓮上人の忌日10月13日に、火消
し装束で纏をかざし、万灯を振りかざし笛や太鼓を奏でながらやってくる。夜7七時頃各地の講の万
灯供養の行列は、池上本門寺を目指してくる、古くは蝋燭の光で輝く万灯が、此経難持坂を登る光景
は幻想的で美しい。広重の浮世絵にもなっている。関東随一の祭りたる所以だ
 

 
「一天四海」の大石塔
 
霊山橋の西橋詰に建っている。文化八年(1811)辛未天十月中旬の建立。表に「南無妙法蓮華
経」と刻す。建てたのは何世かの貫主賜紫日攝。

 霊山橋
 呑川に架かる参道橋。総門までの左右にある寺内寺は別に記述する。
 

 
総門
 区指定有形文化財
 本門寺山内に現存する古い建築物の一つ。寺社へ参詣する人が最初に通る門で、清浄の心身にて通
らなければならない。記録は失われたが、元禄三年(1690)第22世日玄聖人の代の建立といわ
れ、高さ6.4m 主柱間5.39mあり、総欅素木造りで簡素かつ壮大な構えをしており、様式的にも
技法的にも、ほぼ妥当とされる。日蓮宗の総門として貴重であるばかりでなく、特に近世建築様式の
上で注目すべき点が多い。五重塔、大宝塔、経蔵などと共に、昭和20年4月15日の戦災を免れた
数少ない古建築の1棟として重要だ。昔から世に知られ、安藤広重の『江戸百景』『江戸近郊八景』
にも描かれて著名だ。大田区指定有形文化財 昭和49年2月2日指定。
 

 扁額「本門寺」 区指定有形文化財
 門より古く、寛永四年(1627)の本阿弥光悦の書で、旧は祖師堂と三門にも同筆の扁額があっ
たが、火災で焼失し、これだけが残った。額裏に、この額を寄進した由来が、15世日樹の手で記さ
れている。なお実物は宝蔵に格護され、現在掲げられているものは精巧な複製品だ。
 

 日朗菩薩草庵之地碑
 
区立池上会館の前庭にある。この辺りに日蓮の弟子日朗が草庵を結んだという。その頃は草が茫々
だったんろうな。池上区民会館の屋上に展望台がある。大田区南部が一望だ。屋上はそのまま本門寺
に地続きになってるから、エレベーターを利用すればいやいやそんな不謹慎なことを考えてはならぬ
ぞよ。信仰心のない奴だと思われて仏罰を食らっちゃう。此経難持坂、朗師坂を苦行して上がりなさ
れ。南無妙法蓮華経。
 

 七面天女碑
 
案内所の坊さんによると、七面(ななおもて)天女そのものを取っ払っちゃったので今はないとの
こと。その経緯については知らないという。日蓮とは切っても切れない七面天女を取っ払うとは、身
延山と喧嘩でもしたのかな?
 

 朗師坂
 区立池上会館西側の雁木坂道。急なので息が切れた。大田区民会館脇を曲折して上る石段坂。坂名
朗師とは日蓮門下六老僧の一人、日朗のこと。彼は祖師入滅後、寺窪(現在の照栄院付近)に草庵
を作り、以後30有余年毎日この坂を上り、山上の日蓮御廟所へ参拝したといわれる。
 幼少の頃より日蓮の門下僧となり、師孝に厚く奉仕した日朗の美談は『日蓮聖人伝』に数多く描か
れている。

   朗師坂 ろうしざか
   日蓮聖人の愛弟子日朗聖人は、祖師入滅後、ささやかな草庵をつくり、山上の日連聖人御
   廟所へ、毎日この坂を上って参詣したといわれる。

 坂下には,「史跡 朗師坂」という石碑が建っている。

   史跡 朗師坂
   日朗聖人ガ三十九年ノ間 日蓮大聖人ノ御墓所ヘ日日往復ナサレ給ヒシ坂ナリ
 

 日朗菩薩墓

 朗師坂を上がったところにあったが。日朗廟内に移した。説明板もそっちに建ってる。
 

 
此経難持坂 区指定有形文化財
 しきょうなんじざか 総門から境内に上がる雁木坂。この石段は加藤清正の寄進によって造営され
たと伝えられ、「法華経」宝塔品偈文(げもん=経典中の詩句で書かれた部分)九十六字にちなんで
96段に構築されており、坂名は偈文の冒頭の4字なのだ。元禄年間(1688~1703)に一度
改修されているが、造営当時の祖形を残しており、貴重な石段遺構だ。清正は、慶長十一年(160
6)に祖師堂(大堂)を寄進建立しているのでそのころの造営と思われる。この石段は、昭和49年
2月2日大田区の有形文化財に指定された。
 敗戦後、軽薄で愚かなアメリカ軍の馬鹿兵士がジープを持ってきて、他人の迷惑も顧みず、この坂
を上り下りして楽しんでいたそうだ。これが世界平和を口先で謳うならず者国家アメリカ国民のレベ
ルなのだ。我が国は、そんなアメリカの属国だぜ、日本は。安倍晋三がこの低レベルのアメリカに唆
されて憲法改正だとほざいて潰されちゃった。属国の分際で「自主憲法」なんぞある訳ねえだろう。
どんな改正憲法もならず者アメリカのお墨付きがなくっちゃあ、発効しねえんだよ。
 一見柔らかそうな安倍の口車に乗ってたら、臍かくことになるぜ。政治家は戦争をおっ始めても、
戦場には行かねえんだよ。騙されんなよ。沖縄から米軍がいなくなるこたぁねえよ。
 坂下にある説明板。

   大田区文化財
   
池上本門寺の石段
   この石段は、加藤清正(1562~1611)の寄進によって造営されたと伝えられ、「法
   華経」宝塔品の偈文九六文字にちなみ、九六段に構築され、別称を「此経難持坂」という。
   なお元禄(1688~1704)の頃に改修されているが、造営当時の祖型を残しており、
   貴重な石造遺構である。
   清正は慶長十一年(1606)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、この石
   段もその頃の所産と思われる。
   昭和49年2月2日 指定                    大田区教育委員会
 

 
おんな坂

 直線で真っすぐ上る此経難持坂は、青年でさえ途中で一息つきたくなるような急な辛い坂なので、
もともと此経難持坂の途中から右に折れる坂はあったが,平成14年そのおんな坂が改良されて下か
ら緩やかな石段ができた。 参拝客からの要望でもあったのだろう。以前は鳥居があったとか。長さは
此経難持坂の倍近くになる。

   
おんな坂 (今年4月開通)
   この坂を上ると本門寺の境内に着きます。
   正面の石段(此経難持坂)よりもずっと楽に歩けますので
   どうぞ歩いてみて下さい (但し宗務院の建物には入れませんので念の為)  池上本門寺

 宗務院

 日蓮宗本門寺派の中央行政機関で、全国の日蓮宗寺院の統括をはじめ、海外布教や現代宗教研究・
僧風教育など様々な活動を行っている。
 

 
朗子会館
 青少年からお年寄りまで、スポーツや学習会・講演会などを通して、共に学び集うことのできる施
設。最上階には池上スポーツクラブがある。
 

 
日蓮大聖人説法像 ◇
 宗祖700遠忌記念のとして、昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納された。制作
は、斯界の権威北村西望だ。長崎の平和像を作った彫刻家だ
。ここにはもと、明治時代の政治家星亨
の銅像があったが、星の遺族が銅像を撤去、台座を寄付して日蓮像が建立された。

   日蓮大聖人説法像 星亨銅像跡
   この像は宗祖第七百遠忌記念として昭和五十八年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉
   納されたもので斯界の権威北村西望先生の作品です。
(像の性質は純アルミ、高さ三・六米 重さ一瓲)
   もとここには明治の政治家星亨先生の銅像がありましたが、今般星家のご協力により台座
   を奉納頂きこの像を建立しました。
   昭和58年10月吉日                     大本山 池上本門寺
   

 
日輝上人嘆徳碑
 
日蓮上人説法像の左横のスペースに建っている。幕末頃の偉い坊さんらしいが、資料がなく詳細不
明。
 

 
橋本雅邦筆塚 移転
 
現在見当たらない。総合案内所でも判らないという。
 と書いたら、
 平成21年4年7日カノウテツヤさんからメールを戴きました。

   「大田区の地名の由来」拝読しました。橋本雅邦筆塚は、現在朗峰会館の松濤園内に移
   築されてます。その辺の情報や、昭和40年代の境内の様子の写真が、以下の本に出て
   います。御参考まで。『池上本門寺』 日本美術社 1966


 橋本雅邦(1835~1908)は、フェノロサや岡倉天心と共に新日本画の形成に尽力した明治
画壇の重鎮。絵を江戸幕府奥絵師化狩野勝川院雅信に学ぶ。代表作に「白雲紅樹」(重文・東京芸術
大学蔵「竜虎」(重文・静嘉堂文庫蔵)などがあり、その門下より横山大観、下村観山、川合玉堂、
菱田春草らを輩出した。
 この筆塚は熱心な日蓮宗徒でもあった雅邦を偲び、大正11年に門人によって建てられた。
 

 大震災供養塔

 日蓮像の左手にある。「大正十二年帝都大震災殃死者供養塔」とある。 

 
融女謝師忌碑
  天保七年丙申七月は読めるが何の碑やら説明もない。
 

 
三代中村歌右衛門碑

 歌舞伎役者。初代の子。本名大関市兵衛。屋号は加賀屋。寛政三年(1791)三代目を襲名。当
り役は「一の谷」「千本桜」など。文政元年江戸中村座に滞在中だけ芝翫(初代)を芸名とした。天
保六年(1835)に歌右衛門を四代目に譲り、玉助と称し俳名を梅玉とした。万能役者で演出の創
案、新意匠の工夫などに梅玉型を残した。天保九年(1838)歿、61歳。撰文の後に、海軍大将
加藤寛治・蘇峰徳富正敬・子爵小笠原長生が名を連ねている。総高500cm。
 この碑は、三代目中村歌右衛門の百年忌にあたる昭和十一年(1936)に建立されたもの。
 正面額には「三代目中村歌右衛門之碑」と海軍大将加藤寛治の筆で、その下には安田靭彦の筆にな
る線描の肖像が彫られている。碑文は徳富蘇峰の撰、書は小笠原長生の揮毫による。背面には初代か
ら5代までの中村歌右衛門、初代から3代までの中村歌六、初代中村吉右衛門の系統と、これを建立
した五代歌右衛門と初代吉右衛門の名が刻まれている。
 

 
鶴澤仙右衛門之碑
 でっかい碑だが、一体誰? 坊さんも知らない。明治39年建立 

 妙見堂道の石柱
 長栄堂の右角に建っている。そのまま進むと右に折れて妙見堂の裏に出る。永寿院、万両塚が左手
にある。
 

 新東京八名勝本門寺碑
 長栄堂の右角に建っている。総高168cm×幅92cm。昭和7年東京市は隣接5郡82ヶ町村
の編入によって、これまでの15区から35区になった。
 新市域の八名勝を選ぶ計画は、報知新聞社によって東京市拡張を記念する目的と、同社の新聞発行
2万号記念とを兼ねて行ったものだ。この選定は、同年8~9月の1ヶ月に亘り、広く市民から募集
し、投票によって決められた。池上本門寺は755614票で第一位となった。
 因みにに入選した八名勝は、池上本門寺・西新井大師・北品川天王寺・日暮里諏訪神社・赤塚松月
院・目黒祐天寺・洗足池・亀戸天神だ。
 

 長栄堂
 
当山の守護神「長栄大威徳天」を奉安している。その昔日蓮が佐渡に配流中、塚原三昧堂にて日夜
法華経読誦の折柄、初めて白髪の翁が現れ、「法華経の行者を守護し、別けて海上安全諸縁吉祥の守
護をなさん」と誓い、日蓮の生涯において影身に添って守護し、神変不思議の通力を現した。日蓮入
滅の後は、長栄山の名の如く、長栄威徳天と仰がれ、永くこの地に留まって末法万年の末までも、法
華経の信者・行者を守護すべしとて、無量の神力を以て済度する尊神だ。だから今日に至るまで威徳
いよいよ広大にして一山益々栄え、信仰帰依の人は守護利益を蒙らないことはないという。現在の堂
は昭和34年に再建された。毎月22日が縁日で、正月・5月・9月には大祭を行っているよ。
 

 
仁王門(三解脱門)
 昭和20年4月15日の空襲で灰燼に帰し、三解脱門は同52年に再建、仁王尊は同54年に新造
された。正式には三解脱門の略は三門、山門は延暦寺のを表すが、一般に寺の入口を山門という。三
門は伽藍の中心へ入る重要な門であり、三種の解脱(さとり)を求める者だけが通れる。多くは重層
八脚の仁王門とする。 例年盛大に厳修されるお会式の、お逮夜(10月12日夜)の万灯行列が支
障なく潜れるよう、通常より下層の桁と梁の高さを上げてある。扁額「長栄山」は第80世金子日威
聖人の揮毫になる。ちなみに「栄」の字は旧字だが、伝統的な慣習で、火伏せのため、冠りを「火」
2つでなく「土」2つとしてある。なお旧三門は、慶長十三年(1608)に徳川2代将軍秀忠公が
五重塔と共に建立。桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていた。『新編武蔵風土記稿』は、そ
れ以前の門を、天文年間(1532-55)第9世日純聖人の造立と伝える。旧扁額「長栄山」は本
阿弥光悦筆になり、関東三額の一つだった。ちなみに秀忠は、大客殿の正面にあった六足門も建立寄
進している(アメリカ軍の空襲で焼失)。また旧仁王尊だが、宗論による古川薬師(大田区安養寺)
からの勝利尊像で、上田一族の寄進になり、和銅三年(710)行基菩薩作と伝える古像であったと
いう。 

 大田区戦没者慰霊塔
 
仁王門の右横にある。天辺に鳥が羽ばたいている。

   慰霊塔建設誌
   日華事変太平洋戦争における戦没軍人軍属の英霊と戦災で犠牲になられた人々の幽魂を弔
   慰し恒久の平和を祈念するため慰霊塔を建設すべく大田区自治会連合会郷友会大田区遺族
   会及び有志は昭和35年7月大田区戦没者慰霊塔建設委員会を結成した
   区民の絶大なる協力と本門寺の好意を得て翌年9月23日この地に工を起し本日除幕の式
   を挙げるにいたった。塔内には日清日露の両役をふくめた区内五千有余に及ぶ犠牲者名を
   十八地区別の芳名録に謹記して奉安した。
   われわれはこの慰霊塔を仰いで今後益々複雑となる国際関係の動き処する決意を固め 祖
   国の発展と世界の平和に寄与することを英霊に誓いあわせてひの加護を願うものである
   昭和37年4月8日                 大田区慰霊塔建設委員会奉賛会
 

 ホーキ小僧
 
仁王門の裏右手にある石像。かわいい漫画チックな小坊主の像で、熊手は小さいながら本物だ。個
人の寄進になる。台座に句が刻んである。

    裏を見せ表を見せて散る紅葉

 平成18年10年25日匿名希望さんからメールを貰っちゃった。要旨は、

   大田区池上本門寺境内の「ホーキ小僧」の本名判明。東急沿線案内のポスターに「和尚さ
   んがね、
いつまでたっても仏様の教えを覚えられない小坊主の珍念に、「『ほうき持った
   らば、お掃除、お掃除!』とだけ覚えなさい」とね。珍念さん毎日々々箒木を持って「お
   掃除、お掃除」と唱えている内に「口で覚えるより、本当にお掃除をしたほうがいいや」
   と庭を掃き始めた。仏様のお言葉も、頭で覚えるより体で覚えることで始めて役に立つと
   いうお話                                  合掌

 平成21年4年7日今度はカノウテツヤさんからメールを戴きました。

   
「ほうき小僧」についてですが、これは、あの、児玉誉士夫が、奥さんの追善供養のため
   建立したものだとか。台座に刻まれている歌は、児玉夫人の詠んだものだそうです。鐘楼
   と梵鐘の再建でも、夫人の追善のため児玉誉士夫が資金を提供したものだそうです。その辺
   の情報や、昭和40年代の境内の様子の写真が、以下の本に出ています。御参考まで。
   『池上本門寺』 日本美術社 1966
 

 
前田利家室供養層塔 区指定有形文化財
 右手墓地の取っつきにある。昭和49年2月2日に指定された大田区有形文化財。

   大田区文化財
   
前田利家室の層塔
   この塔は、前田利家の側室寿福院が、元和八年(1622)に、自身の逆修供養のために
   建てた十一重の層塔である。このことは当寺十五世(復歴)日樹の銘文でわかる。
   寿福院ぱ、三代加賀藩主利常の生母で、秀吉没後、徳川家との微妙な臣従関係を解決する
   ために、江戸に差し出され人質となった。
   現在、相輪と上部の数層を失って、僅か五重を残すのみだ。屋蓋の反り具合から見て様式
   的に古い形を示し、注目される。
   なお天保四年(1833)の修復銘もある。
   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会
 

 加藤清正室供養層塔 区指定有形文化財
 
前田利家室供養塔のすぐ後ろにある。この塔は江戸時代初期に造立された軒の美しい層塔だ。元は
11層塔だったが、今は8層しか残ってない。初層塔身の銘文によれば、寛永三年(1626)加藤
清正(1562~1611)の室(夫人)であり、清正の嫡男忠広(1601~53)の母である正
応院が、生前に自己のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈るという逆修供養で建てたもの。本門寺
十五代日樹が開眼している。大田区有形文化財として昭和49年2月2日に指定された。

   大田区文化財
   
加藤清正室の層塔
   この塔は、江戸時代初期に造立された軒の美しい層塔である。現在では相輪も失われ、八
   層を残すのみとなっている。初層塔身の銘文によれば、寛永三年(1626)に十一層の
   石塔として建てられた。
   加藤清正(1562~1611)の室(夫人)であり、清正の嫡男忠広(1601~16
   53)の母である正応院が生前に自分のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈るという逆
   修供養のために建てたものである。本門寺15代日樹が開眼している。
   初層の塔身に追刻されている慶安三年(1650)銘は、正応院の命日である。
   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会
 

 
五重塔 国指定重要文化財
 関東に4基現存する幕末以前の五重塔の内、一等古い塔だ。本塔のそもそもの発願は、後に徳川2
代将軍となる秀忠の病気平癒祈願にあった。文禄二年(1593)のこと、15歳の秀忠が悪性の疱
瘡にかかり、一命も危うい容態に陥ってしまった。そこで熱心な法華信者であった乳母大姥(岡部局
→正心院)、大奥より池上へ日参し、厚く帰依していた第12世日惺聖人に病気平癒の祈願を託され、
「心願が成就の暁には仏塔を寄進する」との念で只管(ひたすら)祈った。その甲斐あって快癒し、
将軍となった後、その御礼と併せて武運長久を祈り、慶長十二年(1607)に建立〔露盤銘〕、翌
十三年に上棟式を厳修した
〔棟札銘・焼失〕。開眼供養の大導師は第14世日詔聖人、大願主が正心院日幸大姉(岡部局)、普
請奉行は譜代の青山伯耆守忠俊、棟梁は幕府御大工の鈴木近江守長次、鋳物師は椎名土佐守吉次だ。
いわば幕府のお声掛かりで建造された当時第一級の塔だ。にもかかわらず江戸建築が確立する前の桃
山期の建立であるため、特に構造上、過渡期の特色が濃厚。桃山期の五重塔は全国で1基だけであり、
文化遺産としての価値は極めて高いのだ。当初大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置に建てられた
が、直後の慶長十九年(1614)の大地震で傾き、元禄十五年(1701)、5代将軍綱吉公の命
で現在地へ移築修復された。その後数度の修理を経て、平成9年日蓮聖人立教開宗750年慶讃記念
事業の1つとして、全解体修理が施され、全容を一新した。特徴としては、初層のみを和様(二重平
行垂木・十二支彫刻付蟇股など)とし、二層以上を唐様(扇垂木・高欄付廻縁等)とする点、上層へ
の逓減率が少ない点、相輪長が短い点、心柱が初層天井の梁上に立つ点などがあげられ、極めて貴重
な塔建築である。なお平成13年に全面修復が終了した。高さ31.8m。
 

 
水難慰霊供養塔

 総合案内所の後ろ辺りにある。
隣に英文のものもある。
 

 
鳥獣魚虫供養塔
 
未確認。案内所の坊さんは「ないんじゃないの」という。
 そしたら平成18年8月25日匿名希望さんからメールを頂戴しました。

   石段を登って仁王門の向かって右手にある、大田区戦没者慰霊塔の向かって右の墓地へ通
   じる小道をちょっと進むと、右手に細長い石柱が立っています。ただ少し傾いていますが、
   今でも真新しい卒塔婆が置かれているので、供養に来る関係者がいるようです。
    今年の夏、五重塔の傍らの細川、上杉家のお墓の修復工事が完了したようです。本体の
   修復は終わっていたのですが、墓域周囲をコンクリートで固めた上で、かつて周辺にあっ
   た大小各種の墓石や石碑を設置しなおしていました。しばらく解体して別の場所に保管し
   ていて、組み合わせがわからなくならないようにガムテープ張って番号を記していました。
   今でもテープの跡が見えます。このお墓のすぐ後方には、まだ整備改修されていない大名
   のお墓があります。桜の木が生えて墓石を持ち上げてしまっている。(因みに、妙見道裏
   手の鳥取池田藩の奥方の墓は昨年(平成17年)発掘調査され、現在はキレイに復元され
   ました)。
    これらのお墓の後方、すなわち五重塔から北へ続く墓域は、南北にのびる台地上で、西
   側に南北にのびる谷(坂道になってる)を挟んで大堂等の主要伽藍が建つ台地を望み、東側
   は大田区立本門寺公園のある谷となります。この台地上の墓域は、享保頃の江戸時代後半
   の紀伊徳川家関連のお墓が多いところです。
    ずっと北へ墓地の中を進むと、まだ整備されてない大名のお墓がいくつか残っています。
   伊予西条藩松平家墓所(コンクリート製の石囲いで囲まれている)や吉宗が将軍になった

   あとに紀伊徳川家を継いだ
徳川宗直の娘の墓もあります。墓域の突き当たり東側の公園側
   との境は、公園側に降りて見ると、古い石垣が見られます。この墓域は元は紀伊徳川家な
   どの墓所用地として造営されたんでしょう。


 再メールがありました。

 
   鐘楼の裏手を降りて、車坂の切通しを横切ってその先の墓地がある高台を登りますと、明
   治の政治家の星亨の大きな墓があります。そのすぐ裏には奥州白河藩(福島県白石市)の阿
   部播磨守の母堂のお墓(らしい・・・) 周辺には家臣とか関係者の石塔が立っています
   が、空襲で荒れてからほとんど手付けずの様子。中には空襲の際の黒い煤が残っている石
   塔もあります。白石市教育委員会もその存在を知らず、いずれ調査に行きたいとの事でし
   た。そこは第二京浜の走る馬込方面を遠望できる眺めのいい場所です。荒涼としていて、
   歴史の変遷に思いをはせるにはいいかも。

 再々メールがありました。

   5月24日(平成19年)頃日本門寺参拝の折、鳥獣魚虫供養塔を見てまいりましたが、な
   んと跡形も無く撤去されておりました。理由は不明です。
 

 幸田家墓所
 幸田露伴夫妻・幸田文の墓などがある。やはり五重塔とは切り離せない広い墓域だ。露伴夫婦の墓
は左が露伴だよ。慶応三年(1867)神田生まれの小説家、文芸評論家。旗本幸田成延の3男で、
本名成行(しげゆき)、幼名は鉄四郎、別号は、蝸牛庵、笹の露、雪音洞主、脱天子など卓さんる。
尾崎紅葉と共に日本文学史にその名を残す「紅露時代」を築き、擬古典主義を代表する。東京大空襲
により住まいを失った露伴家族は、昭和21年1月下旬に千葉県市川市菅野に移り住んだが、露伴は
最晩年を迎えていた。同22年7月30日没。礼服のなかった永井荷風(同じ時期に菅野に住んでい
た)は、告別式を外で見送っている。
代表作は小説が『風流仏』『五重塔』『連環記』『雪たたき』
など、史伝が。『運命』『頼朝』『蒲生氏郷』『平将門』などがある。一族は、兄弟は実業家の幸田
成常、千島探検の郡司成忠、歴史家の幸田成友、音楽家の幸田延、安藤幸など。娘は作家の幸田文。
孫は同じく作家の青木玉。曾孫も同じく作家の青木奈緒がいる。玉が綴った『小石川の家』は、祖父
露伴と孫玉の抱腹絶倒・綺麗な言葉満載の一品。終戦後疎開先からの移動と市川市菅野での露伴終焉
の記録は感動ものであり、さらに母文最後の三日間を記す。
 最も新しい幸田文(文子)の墓 
 昭和27年「にごりえの街」に「一葉 樋口夏子碑」が建った時、世話人5人の中に幸田文の名が
あり、父に続く樋口家との関わりが感じられる。
 

 
力道山の墓・胸像・碑・副碑 ◇

 五重塔に向かって左手奥、大名墓所の裏にある。入口右に力道山の胸像、左に「力道山之碑」と碑
誌。揮毫は右翼の大立者児玉誉志夫。題目塔と墓碑が並んでいる。力道山は北朝鮮の人で、大相撲に
入り、関脇まで昇進したが、廃業してプロレスリングに転向した。アントニオ猪木やジャイアント馬
場を育て、日本のプロレス興行を確立したし、在日の職場を作り上げた。
 朝鮮の人は、諸事情により墓地を持たないものだが、珍しく墓を持った。

   大光院力道日源居士

   
力道山之碑

   力道山先生は名を百田光浩 九州大村の産 幼にして角界を志し 関脇に昇進せるも 1
   951年プロレス界に転身 爾来研鑚鍛錬 又多くの門弟を養成 後進の道を拓き 斯界
   の始祖と奈り隆盛を斎す 1962年WWA世界選手権を獲得名声世界に洽きも昨年末不
   慮の災に遭い急逝 時三十九才 一周忌に際し 門弟一同碑を献納 謝恩の意を捧げつゝ
   不滅の遺業を讃う                  1964年12月15日 建立

 
佐伯矩墓 ✔
 墓地の中に、一際目立つ写真付きの顕彰碑がある。銘文がある

   栄養学の父
   
佐伯矩博士顕彰碑

 と刻んでいる。中央5丁目の佐伯山にある、佐伯栄養専門学校の創立者「佐伯矩(さえきただす)
博士」の墓だ。大根から、ジアスターゼを発見した、偉大な博士。あの野口英世とも親交があった。

 狩野養信の筆塚

 五重塔北側の墓地西南側にある狩野養信筆塚、二城留守成島譲撰、弘化三年 備後守岡村直恒題額。
墓所は多宝塔東墓地にある。

   
會心齋先生筆塚

 有名人の墓碑

 安西浩(財界人)・池上宗仲(開基)・市川小団次(歌舞伎)・市川左団次(歌舞伎)・市川雷蔵
(映画俳優)・初代梅ヶ谷藤太郎(15人目横綱)・2代梅ヶ谷藤太郎(20人目横綱)・大野伴睦
(政治家)・片岡仁左衛門(歌舞伎)・川上彦斎(佐久間象山を斬った)・栗島すみ子(映画女優第
1号)・児玉誉士夫(右翼の大立者)・田村魚菜(料理人)・中村八大(作曲家)・永田雅一(大映
社長)・花柳章太郎(新派俳優)・星亨(政治家)・松本幸四郎(歌舞伎)・溝口健二(映画監督)
大野伴睦(政治家)など・・・ 大野伴睦の墓には虎の石像がある。
 



 境内に戻って 

 
浄行菩薩
 
仁王門の左手にある洗い仏。昭和45年森大造の彫刻。 

 日朝堂
 常唱堂、題目堂とも呼ばれ、本尊大曼荼羅とともに、眼病救護の行学院日朝上人像を奉安している。
日朝は応永二十九年(1422)伊豆佐美で生まれ、8歳で寺に預けられ、苦修錬行、日夜精進の行
学を続けた。かくて学徳兼備の誉れ高く、41歳のとき身延山11世法王となり、現在の隆盛の礎を
築き、関東布教をしては新寺41ヶ寺を建立した。61歳で失明したが、不惜身命の精進をしたとこ
ろ全快してまた見えるようになったという。67歳の春眼病消滅の本尊を書き、明和九年(1500)
79歳で遷化した。この日朝の徳を称え、堂に安置したところ、日を追って参詣者が多くなり、常に
題目を唱える修行の場として知られるようになった。アメリカ軍の空爆により堂は焼かれたが、近在
結社の人々の努力により昭和48年に再建された。今もお参りの人は絶えない。
 

 
鐘楼

 第17世日東聖人の代、加藤清正公の娘で御三家紀州藩祖徳川頼宣公の正室となった瑤林院が、正
保四年(1647)に寄進した。昭和20年4月15日愚かなアメリカ軍の空爆で焼失したため、現
在の鐘楼は、昭和33年に再建され、梵鐘は人間国宝・香取正彦の鋳造で、口径160cm、竜頭ま
での総高318cm、重量7tの巨鐘だ。

 
梵鐘(旧梵鐘) 区指定有形文化財
 大田区の有形文化財として昭和49年2月2日に指定された。正保四年(1647)加藤清正の息
女で後に紀伊頼宜室となった瑤林院(1601~66)が寄進したものだ。正徳四年(1714)に
紀州粉河の鋳物師木村将監藤原安成によって改鋳。その際初鋳当時の銘文がそのまま残され、縦帯の
銘文は筆順に随った籠字筋彫りであるのも珍しい。総高2m25cmもある都内随一の大梵鐘で、そ
の雄大さと共に豪快重厚な作風は都内屈指といえる。一部に亀裂と歪みが生じたため、使用できなく
なった。併し銘文など寧ろ学問的な面での資料性が高い。現在は傍らの堂に仮安置しており、何時で
も銘文が読める状態にある。

   この梵鐘は正保四年当山第十七世日東上人の代に加藤清正公の息女瑤林院の寄進によって
   新鋳されたのを七十年の後第二十三世日潤上人の代に改鋳したものであって爾来二百三十
   余年鯨音四郡に震い霊域に荘厳を加えていた然るに昭和二十年四月十五日空襲に戦災を蒙
   むり嫋々たる余韻を失うにいたった檀家総代児玉誉士夫はこのことを寂寥とし発願して新
   に梵鐘を造ったよってその搗初式に古い梵鐘を此處に安置して後世に傳えることとした。
   昭和三十九年十一月十三日


 ※文中の「蒙むり」は「蒙り」の送り仮名間違い。


 
日樹上人の五輪塔 区指定有形文化財
 鐘楼の右後ろにある。山内最大の五輪石塔で、総高約4m、戦災による破損が著しく、造立年紀銘
は見えないが、上から3段目の火輪斜面に「日樹」の花押(署名)が刻まれている。16世本門寺貫
主。寛文七年(1667)身延池上対論に敗れて不受不施と見做されて、同年は信濃国伊那谷飯田に
配流され、池上・比企谷両山より除歴。その後池上には身延の日達が入山し身延山に摂取される。し
たがって本塔は、日樹が不受不施事件で信州に流される以前の造立だ。しかも地輪をはじめ、塔の全
面に数百名の奉加社の名を刻みつけてあることは、日樹とその信者層、延いては江戸初期の池上本門
寺外護者の実態と、不受不施史研究上、極めて有力な資料だ。塔はスタイルがよく、これほどの大き
さの五輪塔は珍しい。昭和49年2月2日大田区有形文化財に指定された。 

 霊宝殿
  寺に伝わる寺宝を保存し、展示公開する施設。立教開宗750年慶讃事業の一環として平成13年
に完成。本門寺が格護している数々の霊宝を永代に亘って保全する。毎週日曜日に観覧出来る。
 慶額の文字「霊」「寶」「殿」の文字は、日蓮上人の直筆から取り出して組み合わせたもの。
 
本門寺の寺宝は大きく2つに分けられる。霊宝は、開創から現在まで730年余りの間に伝えてき
た文化遺産であり、日蓮聖人の大曼荼羅本尊(都指定有形文化財)や日蓮御消息文(都指定有形文化
財)をはじめ、日蓮遺物配分帳(都指定有形文化財)、身延山守番帳(都指定有形文化財)、日朗筆
大曼荼羅など、池上本門寺の歴史を物語る大切なもの。中でも日蓮聖人真筆の『兄弟抄』は、池上宗
仲・宗長兄弟に遣わされた御消息で、国の重要文化財に指定されている。
 また「兜木コレクション」は、法華経研究の第一人者で、立正大学名誉教授の故兜木正亨博士が収
集した1000点以上に及ぶ法華経研究資料。この中には日蓮聖人真筆『御所御返事』や日蓮聖人の
伝記絵巻である『日蓮聖人註画讃』(桃山時代)、平安時代前期の写経で、贅美を尽くした『妙法蓮華
経巻六』など、多くの貴重な文化遺産が含まれている。この「兜木コレクション」は、平成7年12
月に本納寺住職桐谷征一より寄贈されたものだ。
 

 加藤清正供養塔 区指定有形文化財
 霊宝堂の裏手にある。慶安二年(1649)清正の娘瑶林院(紀州徳川頼宣夫人)が父の没後38
年目の慶安二年(1649)六月十四日供養のために建立したもので、塔身・笠・相輪が完備してい
る。清正は、安土桃山時代の武将として有名であるが、熱心な日蓮宗信者でもあった。清正父娘の信
仰心と孝養心が窺える供養塔だ。
山内最大の宝篋印塔、でっかいよ!

   慶長十六年辛酉
   浄池院殿日乗台靈
   六月下浣四日遠行

 大田区有形文化財として昭和49年2月2日指定された。その説明板。

   大田区の文化財
   
加藤清正の供養塔
   山内最大級の宝篋印塔であり、塔身・笠・相輪が完備している。
   この供養塔は加藤清正(1562~1611)の息女で紀伊頼宜の室(夫人)瑤林院(1
   601~1666)が父清正の満38年目の忌日に当る慶安二年(1649)、その供養
   のために建立されたものである。
   清正は、安土桃山時代の武将として有名であるが、熱心な日蓮宗信者でもあった。加藤清
   正父娘の信仰心と孝養心が、うかがえる供養塔である。
   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会

 
水屋
 本当の御手洗(みたらし)口漱ぎ場。
 

 総合案内所
 最近建てられた。案内のほか、お守りや曼荼羅などを販売している。
 

 
墓石騒動
 「20年ほど前」というから、昭和末年から平成の初めごろ、墓石が境内に、敷石のように放置し
てあって、子どもや参詣人が踏んづけていたということがあり、心ある人が抗議して漸く寺が撤去し
たという騒動があったそうな。その情報を入れてくれた人が〝糞坊主〟と怒ってた。
 墓石を他の目的に転用することは良くあることだ。城の石垣や、石塀、敷石、石橋などで見かける
ことはある。正式には坊主が墓石から魂を抜き、石屋が削って普通の石に直して再利用するのだが、
ズルこいてそのまま使っている場合も少なくない。罰が当たると思うのだが、結構そんな人は鈍感で、
罰が当たっても気づかないでいる。
 

 
富士山詠歌碑
 大堂右手の墓域にある。

   
芳信一實法師富士山詠歌墓碑

   
ふたつなき慈悲のをしへは日の光 雲吹はらふみねの雪風

 大窪詩仏墓(小川家墓所)
 大堂右手の墓域にある。豊前守小倉藩主小笠原忠徴侯筆。明治10年9月に東京浅草光感寺より移
す。


   
詩佛大窪先生墓

 碑陰

   
大窪氏八萬靈之墓・大窪氏百二之墓


 小川泰堂の墓
 大堂右手の墓域にある。小川泰堂は『高祖遺文録』30巻の校訂と刊行、『日蓮大士真実伝』五巻
の著述をした人。詩佛の次女の婿だ。。


 蓮華経碑
 大堂右手の墓域にある。銘文は、「妙法蓮華經如来神力品巻第二十一」。天保二年。高祖550年
諱。中村佛庵書 窪世祥鐫 碑陰は:菊地容齋佛畫 碑陰記:某

   
空會別傳結要付屬

 各国水難死者供養碑
 大堂右手の墓域にある妙法塔。

   
南無妙法蓮華経 格国水難死者供養塔


 オネイダ号犠牲者供養碑
 大堂右手の墓域にある。明治2年1月24日、神奈川県横須賀市にある観音崎沖で起こったイギリ
スの貨物船ボンベイ号との衝突事故で大破し、明治政府から騙し取った巨額の金品を積んだまま、東
京湾に沈没したとされるアメリカ海軍船オネイダ号。サルベージが試みられた際、殆どの犠牲者が白
骨化した状態で発見され、五体満足な状態で引き揚げられた人の遺骨は横浜外国人墓地に埋葬され、
バラバラの遺骨や、救助活動で命を落とした日本人犠牲者の遺骨が、こちらに埋葬されたという。横
須賀米軍基地内にも慰霊碑がある。

   IN MEMОRY OF
   
SOME OF THE UNKNOWN DEAD OF THE U.S.S
   ONEIDA LOST IN YEDDO BAY
   JANUARY 24 1870 WHOSE REMAINS
   WERE HERE INTERRED B
■■■ ABLE
   
ND TENDER JAPANESE ■■■DS

   Inasmuch as ye have done it unto
   one of the least of these my
   brethen ye have done it unto me

 ※
は剥落。  

 
大堂(祖師堂)
 旧大堂は、昭和20年4月15日のアメリカ軍の空爆で焼かれてしまい、戦後は仮堂で凌いでいた
が、第79世伊藤日定上人が精力的に各地を行脚し、全国の檀信徒ならびに関係寺院などからの浄財
寄進を得て、昭和39年ようやく鉄筋コンクリート造の大堂の再建にこぎつけた。日定上人は落慶後
ほどなくして遷化されたため、大扁額「大堂」は第80世金子日威上人の揮毫になる。内陣中央の大
型御宮殿(建築厨子)に日蓮聖人の御尊像、いわゆる祖師像を奉安し、向かって左に第2世日朗上人
像を、右に第3世日輪聖人像を安置する。また外陣の天井画を大田区在住の川端龍子画伯に委嘱。画
伯は、その龍図の完成をみることなく逝去したが、奥村土牛画伯が眼を点じて開眼供養をとげた。未
完ゆえ龍と判別しがたいが画伯の遺作として、今も多くの人が訪れる。なお旧大堂だが、第14世日
詔聖人代の慶長十一年(1606)、熱心な法華信者として有名な加藤清正が、慈母の7回忌追善供
養のために建立、間口25間の堂々たる大建築であった。加藤清正が兜をかぶったまま縁の下を通る
ことができたと伝える。その壮観さを江戸の人々は「池上の大堂」と称し、これに対して上野寛永寺
は「中堂」、芝増上寺は「小堂」と呼んだという。旧扁額「祖師堂」は本阿弥光悦筆であった。同堂
は惜しくも宝永7年(1710)に焼失、24世日等聖人代の享保八年(1723)、徳川8代将軍
吉宗の用材寄進で、当時の倹約令に従い間口13間に縮小されて再建された。因みに吉宗は、大岡越
前守を普請奉行に、釈迦堂・大客殿・大書院なども建立寄進している。その総てがアメリカ軍の空爆
で燃され焼失した。
 

 日蓮上人坐像 国指定重要文化財
 大堂に安置され、像高85cm1mm、寄木造り、彩色、玉眼。日蓮上人像中最古のもので、彼の
雄偉な風貌を、目の当たりに伝える肖像彫刻中の優作でもあり、国の重要文化財に指定されている。
台座裏の銘文で、日蓮の7回忌に当たる正応元年(1288)に、直弟蓮華阿闍利日持と侍従日浄が
大願主になって造立したことが判った。また胎内には日蓮の遺骨の一部と、経巻を入れた青銅の経筒
が収められており、これに「大別当大国阿闍利日朗 大施主散位大仲臣宗仲 大施主清原氏女」と刻
銘されていることから、日蓮の最上足の弟子日朗と大檀越の池上宗仲夫妻も、何らかの形でこの像の
造立に関与したと考えてもよかろうと考えられている。昭和3年8月17日に重文に指定された。

 
日本看護婦会慰霊塔
 昭和12年に勃発した日華事変から大東亜戦争の終結までに日本赤十字社が派遣した救護班は96
0班、延べ人員33156人もの「戦時救護看護婦」を戦地に派遣し、戦地に於ける敵襲・病院船へ
の魚雷攻撃・内地の病院勤務中の空襲・原爆による殉職救護員は1143名、負傷者は4689人に
達したと云われている。しかし従軍したのは日赤の看護婦だけでなく、陸軍・海軍の応召看護婦、ひ
めゆり学徒隊等の女学生にも及び、その方たちの犠牲を合わせると殉職者の数は膨大な人数に上るが
正確な記録は残されていない。 

 
奉安塔宝輪

 尊像・真骨を納めた奉安塔の頂部。昭和29年大堂内陣の辺りに建立。同37年大堂再建のため霊
宝殿のところに移築。平成11年霊宝殿新築のため解体。同15年記念として宝輪だけをここに建て
た。

   奉安塔の由来
   當山は、昭和20年4月15日の空襲により、大堂をはじめ、殆どの建物を焼失するとい
   う、未曽有の災厄を被りました。しかしながら、戦後ただちに復興事業に着手し、まず最
   初に日蓮大聖人御尊像と御真骨を格護するための奉安塔が一字一石写経による浄財勧募に
   よって昭和29年4月に建設されました。
   奉安塔は、防火・防災のため、鉄筋コンクリート造り銅板葺きで、當初は、仮祖師堂の背
   後(現在の大堂内陣あたり)に位置しましたが、昭和37年に着工した大堂再建工事を横
   に、現在霊寶殿所在地に移されました。
   昭和39年に大堂が完成した後、しばらくの間は、御霊寶収蔵庫・納経塔などの役割を果
   たしてきましたが、日蓮大聖人立教開宗750記念慶讃事業「霊寶殿」建立のため、平成
   11年6月に解体されました。
   よって、ここに當山の戦後復興に大きな役割を果たした奉安塔の由来とその姿を刻み、相
   輪を留めて、ご協賛いただいた檀信徒の徳行を讃えるものであります。
   平成15年4月4日                      第82世 酒井日慈
 

 経蔵 区指定有形文化財
 最初の経蔵がいつ建てられたか未詳だが、『新編武蔵風土記稿』によると、宝永七年(1710)
焼失、享保二年(1717)第24世日等聖人が、徳川御三家水戸綱條を大檀那に再建したと伝えら
れている。現存の堂は、前掲本により、第34世日謙上人が日蓮上人第500五百遠忌の天明元年(1
781)に再建を発願し、3年後の同四年(1784)松平周防守の室浄心院智光妙受日成禅尼と松
平播磨守室遠紹院妙道日養大姉を本願主として再々建したという。当初の棟札は伝わらないが、堂内
の柱には、江戸後期に広範囲な周辺地域の寄進者の名が刻まれ、また銘札によって、第74世酒井日
慎上人代の昭和7年に棟梁小木新七薫雄が営繕したことが判る。木造重層、宝形造り。内部は、芯柱
を軸に、八角形の書棚が回転する輪蔵形式になっている。独立した堂宇のため、幸いにも昭和20年
4月15日のアメリカ軍の空爆の際も、五重塔・大宝塔・総門などとともに炎上を免れた。江戸中期
の本格的かつ大型の経蔵で、全国的にも注目される。
  なお堂内の輪蔵には、慶安元年(1648)に完成したという天海版一切経が架蔵されていた。
現在は別に保管している。昭和49年2月2日指定の大田区有形文化財。
 

 
ふじなお・お休処 
 大堂の左奥、玄関向かいにある。 

 客殿・寺務所
 昭和53年9月完成。地上2階、地下4階建て。総面積は延べ1780坪の鉄筋コンクリート製。
総受付・寺務所・書院・山主執務室・役課寮・学僧寮などがある。
 

 本殿
 昭和20年4月15日のアメリカ軍の空爆のため灰燼に帰した釈迦堂を再建したのが本殿であり、
場所は、旧祖師堂の左隣から境内の奥の方へ移した。同44年に再建され、現代的な鉄筋コンクリー
ト造りの仏堂建築として評価が高い。鉄筋コンクリート造り、寄棟造り裳階付本瓦葺き。間口25m
×奥行50m、棟高14m。開堂供養大導師は第80世金子日威上人。その後各地で模す例が増えて
いる。正面内陣には、久遠の本師釈迦牟尼仏坐像と、本化地涌の四大菩薩立像並びに大堂尊像を模刻
した祖師像を祀る。仏教美術協会(日本を代表する仏像制作グループ)の諸師が彫刻したもので、い
ずれも現代の仏像を代表する作品だ。
 因みに釈迦仏の胎内には、インドのガンジー伝来で故ネール首相より寄贈された釈尊の真舎利2粒
が奉安されている。なお古くからの釈迦堂は幾度となく罹災、天正年間の再建堂も宝永七年(171
0)に焼失、第25世日聖人代の享保十五年(1730)徳川8代将軍吉宗が母深徳院の追福のため
に再建した。旧扁額「釈王殿」は伏見宮親王宸筆だった。また旧一尊四士四天の尊像は、伝運慶作、
日蓮上人の開眼だったという。
 なお本殿東の柵際に歌碑があるが、よく読めない。案内もない。

 ●仁王尊像
 本殿に祀られている。総高3m60cm、桧の寄木造り彫。昭和54年彫刻家の圓鍔勝三の作で、
元プロレスラーのアントニオ猪木氏の体型をモデルに制作したとか。元は仁王門に祀られていたが修
復を期に本殿に移された。総高4m50cmと書いたものがある。 

 
御廟所
 本殿の裏にある。境内最奥の、築地塀で囲んだ浄域にあり、宗祖日蓮の灰骨を奉安する墓塔を廟堂
内中央に祀る。かつては昭和6年の高祖650遠忌に建てられた八角裳階付二重屋根の真骨堂があっ
たが、これも同20年4月15日のアメリカ軍の空爆で焼失した。同54年宗祖第700遠忌報恩事
業の再整備により、宗祖廟所が完全に復興した。なお、向かって左の廟堂には第2世日朗上人の墓塔
が、右には第3世日輪上人の墓塔が安置されている。
 

 
朗峰会館
 客殿の東側にある。総面積1152坪。地上4階、地下1階。講堂・結婚式場・宴会場・レストラ
ン・喫茶店・団体参拝の宿泊・休憩施設・駐車場などを完備。また小堀遠州の造園による池泉回遊式
の名園である松涛園を擁する。同園内には西郷隆盛と勝海舟が江戸城開城の会見をした会見の碑があ
り、東京都史跡に指定されている。
 

 
松濤園 都史跡
 奥庭。自然の窪地に作庭され、客殿から俯瞰できるという景観が特徴だ。池泉は豊富な地下水から
の湧き水による。作庭者は、京都・桂離宮や茶道で有名な小堀遠州と伝える。江戸時代各藩が競って
作庭するようになる大名庭園の祖形がここにある。そうした大名庭園を除くと、都内の由緒ある庭園
としては最大級の広さを誇る。大池に洲浜、織部井戸、船付場、鶴島、亀島、魚見岩、太鼓橋などを
配し、滝口方面に渓流と渓谷、沢渡り、滝見橋、松濤の滝などが配されている。それらが醸し出す静
寂かつ悠々とした雰囲気は何物にも代え難い。桃山期から江戸初期にかけて遠州が活躍した時代は、
当山の大復興期に当たり、日惺・日詔・日樹・日遠・日東各上人らが、加藤清正父子、徳川家康側室
養珠院(お万の方)、徳川秀忠乳母正心院(大姥岡部氏)、紀州徳川家、加賀前田家などの外護・帰
依を得て大伽藍が再建され、境内も整備される。そうした重要な時期に作庭されたものだ。
 一般に見学は禁止されている。但し特別の人の観庭は許される。特別の人になるためにはあること
をしなければならない。それは、それは、それは・・・クイズに答えることだ。境内のあちこちに散
策マップのようなものが置いてあり、そこに十一問の問題が書いてある。答えは難問で、相当な本門
寺の知識がないと解けないことになっている。それで無知蒙昧なお前さんとしてはどうすればよいか
ってぇと、坊主に袖の下を届ける必要はない。境内を巡れば、あちこちに説明板が立っていて、それ
にヒントが隠されている。それで全問正解間違いなし。ただしカンニングは許されない。各所に超音
波監視カメラが仕掛けてある。ご用心ご用心。とにかく全問正解で入庭させて貰える。お布施は初回
のみ5万円、少々お高いが、払わなくても入れてくれる。

 
茶室
 園内には「根庵」「鈍庵」「松月亭」「浄庵」の4棟の茶室がある。

 根 庵 三井の祖益田鈍翁(考)の庇護の厚かった陶芸家大野鈍阿の住まいだった。この建物
     と鈍庵」の2棟を裏千家から寄贈され移築した。「鈍庵」に対して根庵と名付けられ、
     8畳の茶室が2間、1回の最大収容人数は50名。
 鈍 庵 4畳中板の茶室で栗材を使った建物。「鈍庵」の名は、大野鈍阿が自らの名に因んで
     つけた。
 松月亭 庭の西の小高い見晴らしの良い場所に建てられた四阿で、茶会では立礼席として使用
     され、床机等を配し60名の席を作ることができる。
 浄 庵 平成4年に完成した茶室で庭園の一番高いところにあり、国賓などを接遇できる茶室
     は法華思想である「水」に因み「浄庵」と命名された。

 
南洲海舟評議の処
 松濤園内にあった四阿(あずまや)で、慶応四年(1868)三月倒幕軍の江戸城総攻撃を前に倒
幕軍の主席参謀だった西郷隆盛と幕府側の勝海舟が、この地で密かに会見をし、江戸城無血開城の交
渉を行った。この石碑は、昭和16年に建てられたもので、西郷隆盛の甥に当る西郷従徳の揮毫にな
る。なお本門寺には倒幕軍の本陣が置かれていた。昭和11年3月4日に都の旧跡に指定された。

   西郷
    勝 
両雄会見之処 

 紅葉坂
 
大堂の裏を東に下る坂道。本門寺公園前に、大田区が設置した標識がある。

   紅葉坂 もみじざか
   『新編武蔵風土記稿』には「紅葉坂、方丈の左の坂なり。裏門へ通う坂なり』と記されて
   いる。坂付近にはモミジの樹が多いことから、この名がついたのであろう。坂下で交差す
   る道を北に行くと,西側に松濤園という庭園があり,都の旧跡に指定されている「西郷、
   勝両雄会見の処」という記念碑がある。                   大田区

 橋本雅邦筆塚
 
九重の石塔。橋本雅邦(1835~1908)は、フェノロサや岡倉天心と共に新日本画の形成に
尽力した明治画壇の重鎮。絵を江戸幕府奥絵師化狩野勝川院雅信に学ぶ。代表作に「白雲紅樹」(重
文・東京芸術大学蔵「竜虎」(重文・静嘉堂文庫蔵)等があり、その門下より横山大観、下村観山、
川合玉堂、菱田春草らを輩出した。
 この筆塚は熱心な日蓮宗徒でもあった雅邦を偲び、大正11年に門人によって建てられた。
 

 歴代墓所(歴代聖人御廟所)
 車坂の通りを挟んで本殿西側の山上にある。宗祖日蓮上人の御荼毘所跡大宝塔の背後に新設された
大切な浄域の一つで、第4世日山上人以後の歴代貫首を祀る。一番高い所なので、晴れた日には、西
方にくっきりと富士山を望むことができる。なお左後方に開基檀越である池上宗仲公夫妻の墓碑があ
る。
 

 日朗聖人墓塔 区指定有形文化財
 車坂の通りを挟んで本殿

 日朗聖人墓塔 区指定有形文化財
 室町時代の応仁元年(1467)頃に第8世日調聖人によって造立されたと考えられる古い石塔。
形は日蓮宗特有の宝塔で、高さ1.6m、失われている反花座を補うと1.9mもある大きなものだ。
この形式の宝塔は、室町時代に南関東の日蓮宗寺院において多く造立されたが、日朗聖人塔はその中
でも特に大きいものとして注目される。塔身の正面に「一塔両尊(南無妙法蓮華経、南無釈迦牟莱、
南無多宝如来)」を、基礎の裏面には日朗聖人の没年元応二年(1320)や造立願主の名が刻まれ
ている。本塔の塔身部はその上部が頸型にすぼんでおり、このような塔身を宝塔と呼ぶ。正面に題目
と釈迦・多宝の仏名を刻み、基礎の裏面には、没年である元応二年(1320)と刻まれている。
 しかし塔身に乗る蓋の様式から見て、本塔はそれより後の時代の造立と考えられる。また本塔は区
内は元より、都下における中世石造宝塔として類例がなく貴重なものだ。
 昭和49年2月2日大田区有形文化財に指定された。

 
多宝塔 
国の重要文化財

 大坊坂を下りた中途にある。この地は重要な浄域の一つで、日蓮聖人御入滅の折の御荼毘所なのだ。
『新編武蔵風土記稿』などによると、かつては2×3間の灰堂があって、当初開基檀越の池上宗仲が
宝塔を作り、聖人の御余灰を中に盛って奉安したと伝える。現在は北側に第33世日謙聖人が天明元
年(1781)に造立した石碑の宗祖第500遠忌報恩塔が建つ。その霊場に建てられた木造の大宝
塔は、棟札(現存せず)抄により、第47世日教聖人代の文政十一年(1828)、宗祖550遠忌
を目前に、前犬山城主成瀬家家老浅野蔀を大本願人とし、飯田町福田長次郎を世話人として再建され
たことが判る。大工棟梁(工匠)は小木新七藤原信盛ほかだ。ちなみに日教聖人は、諸堂宇を精力的
に再建した功により「金槌教師」と呼ばれる。その後嘉永四年(1851)に修理されている。 な
お同六年(1853)に五重塔を修理した棟梁も小木新七藤原信久で、昭和7年に経蔵を修理した棟
梁も小木新七薫雄である。当寺御用達の大工として、代々小木新七を名乗ったことが判る。
 石造基壇は、高い方形基壇および蓮華形台座からなる。軸部は平面円形で、やや伏鉢状をなし、側
柱8本を円形に配し、内部の上に12本の側柱および8本の柱を円形に配して上層をなしている。附
の宝塔は、四天柱の内に安置され、10体の亀を配した迦葉座以外は、ほぼ大宝塔に類似している。
この大宝塔は、富山県本法寺所蔵の重文・法華曼荼羅図に見える多宝仏塔に近似しており、年代は江
戸後期と新しいが、境内に建立された大型の宝塔として全国的にも類例の少ない、極めて貴重な遺構
だ。入口に石塔が建ててある。

   
日蓮大聖人御荼毘處 多寶塔 

 
道標2基

 大坊坂から多宝塔に向かう石段下にある。祖師堂と祖師御硯水への道標。造立は元禄十年(169
7)、建てられていた元の場所は判らない。古い資料には「一区に道標がある」とあるが、このこと
らしい。

   右 祖師御廟處
   南無妙法蓮華経
   左 祖師御硯水

   祖師御廟處
   南無妙法蓮華経
   祖師御硯水道

 
大坊坂

 大堂から大坊本行寺(旧池上氏屋敷跡)へ向かう坂道。経蔵の裏に六層になった雁木坂がある。こ
こでいう
大坊とは、本行寺という本門寺の子院の一つであり、坂名もそれに因む。この大坊、乃ち本
行寺は元この地の領主
池上宗仲の屋敷だった。宗仲は日蓮を崇信し、日蓮の死後その屋敷を寄進し、
日蓮門下六老僧の一人、日朗の弟子である
日澄を開山僧として大坊を起こした。この大坊坂を上る第
三の踊り場から左に下る石段の先に朱塗りの宝塔がある。都の指定文化財で、またこの場所は日蓮を
荼毘に付した所でもある。

   大坊坂 だいぼうざか
   『新編武蔵風土記稿』に「大坊坂、方丈の右の坂なり、大坊へ行く道なればこの名あり」
   と記されている。本門寺山内西隅の石段坂で坂下に大坊と呼ばれる本行寺がある。
   昭和59年3月                              大田区

 
狩野家墓所
 宝塔東側の丘に、幕府絵師狩野家歴代の宝篋印塔と五輪塔が4基並ぶ。向って左から正信・尚信・
貞信・孝信と続く。特に孝信の墓は、その子探幽や尚信が造立に関与したものだろうか、素晴らしく
立派な宝篋印塔だ。探幽の墓は都の史跡に指定されている。
 狩野派は室町中期、正信によって始められ、明治時代に及ぶ日本絵画史上最大の流派である。画風
はだいたい宋元画の影響を受けて成立し、中期には装飾画の風を帯びたが、後、復した。武家政権と
結んで専門絵師の正統を誇り、探幽らの時期にこの風潮が特に強かった。しかし江戸中期以降は陳腐
に流れ、芸術的生命は反狩野派によって保持された感が強い。
 

 狩野探幽の墓 
都旧跡
 江戸時代前期の狩野派の画家。名は守信、幼名四郎次郎、また釆女、探幽斎・白蓮子と号す。慶長
七年(1602)京都に生まれ、狩野派中興の祖といわれる。若くして江戸に出、元和三年(161
7)幕府御用絵師となり、同七年(1621)江戸鍛冶橋門外に屋敷を拝領した。これによって探幽
の画系は「鍛冶橋狩野」と呼ばれる。寛永十五年(1638)に法眼、寛文二年(1662)には宮
内卿法印に叙せられた。代表作に『琴棋書画屏風』『東照大権現縁起』があり、他に名古屋城、二条
城などの襖絵など、美術史上重要な作品を多数残している。延宝二年に72歳で死亡した。
 徳利瓢箪型の墓は大正14年6月6日東京府において史跡に指定された。

 狩野榮川筆塚

 江戸時代中期の狩野派画家。寛政二年 嶺南金澤安貞撰 温故齋小峯典亶書。

   
禿筆晝塚之碑 榮川院狩野先生之筆塚

 狩野養川筆塚

 江戸時代中期の狩野派画家。文化五年。西城伴讀成島勝雄撰 彰考館生員大關庸徳書

   
筆塚之碑 故畫院法印養川先生筆塚

 狩野伊川筆塚
 江戸時代中期の狩野派画家。文政十一年 侍講成島司直撰 備後守平直恒書・篆額。

   
狩野伊川筆塚

 
紀伊徳川家墓所 区史跡
 この墓所は、養珠院〔お万の方 承応二年(1653)没〕および瑤林院〔寛文六年(1666)
没〕をはじめ、主として江戸藩邸で没した藩公の内室(奥方)を埋葬したものだ。夫婦別墓じゃん。
墓域の規模、構築の優美さなど、幕府直系大名の墓所としての威容を示している。
 紀伊徳川家は、徳川家康の10男徳川頼宣を家祖とし、江戸時代を通じて紀州藩(紀伊藩・和歌山
藩)の藩主だった。
 5代藩主吉宗と13代藩主慶福が、それぞれ8代将軍徳川吉宗、14代将軍徳川家茂となっており
御三家の中では唯一征夷大将軍を輩出した唯一の家である。 
 お万の方は、徳川家康の側室で、紀伊大納言頼宣、水戸中納言頼房の生母だ。その薫化により日蓮
宗に帰依した頼宣は、法化経を信奉することが篤かった加藤清正の息女の瑤林院を妻として以来、池
上本門寺との関係がより深いものとなった。昭和50年3月19日に大田区史跡に指定された。
 この墓所には藩公の内室や子供の墓塔が八基並んでいる。
 向かって右から

 「松寿院宝篋印塔」 頼宣の娘松姫の供養塔。
 「真空院宝篋印塔」 頼宣の子、四歳で夭折している。
 「養珠院宝塔」   徳川家家康の側室お万の方で、頼宣と水戸の
            頼房の生母である。本墓は山梨県の大野山本遠寺にある。
 「妙操院一重塔」  十一代将軍家斉の側室で六男斉順の生母。
 「天真院宝塔」   二代光貞の側室で伏見宮貞清親王の姫・安宮。
 「揺林院宝塔」   頼宣の正室で加藤清正の娘あま姫である。
 「寛徳院宝塔」   八代将軍吉宗の簾中で伏見宮貞致親王の
            姫・真宮。
 「霊岳院宝塔」   光貞の三女で吉宗の姉にあたる育姫。
 

 
車坂

 本門寺の表参道から見て西側、本町稲荷神社脇からカーブしながら本門寺境内経蔵脇へ上がる長い
坂で、両脇を大樹が覆う緑の美しい坂道。『新編武蔵風土記稿』には「車坂、経蔵背後の坂なり」と
あり、また『池上長栄山本門寺図』(天明元年=1781年)にも、車坂が描かれている。江戸時代には
既に荷車が使用されるようになったから、荷車を通す坂ということで車坂と呼ばれるようになったと
考えられる。馬坂(牛馬も通れる坂)と同様の由来だ。江戸時代には既にあった古い坂道。

   車坂 くるまざか
   『新編武蔵風土記稿』に「車坂,経蔵の背後の坂なり」とあり、また、「池上長泉山本門
   寺記」天明元年(1781)には、車坂が描かれている。昔からある古い坂道である。
                                        大田区


■川端茅舎旧居跡

 池上1丁目5番7号に昭和3年から16年まで住んでいた。洋画家を志し、岸田劉生に師事する。
静物画が院展に入選。岸田劉生没後は自らも病気がちになり、画業から遠ざかり俳句に専念する。主
な作品に「川端茅舎句集」「華厳」などがある。川端龍子は異母兄に当たる。

   本門寺近くに住んだ
   
川端茅舎 (1897~1941)
   かわばた ぼうしゃ Kawabata Bosha
   俳人
   a haiku poet
   -五重の塔の前の道をだらりと下り、本門寺裏へ抜けて旧座かを登りつめた左角-に川端
   茅舎が住んでいました。茅舎は、日本画家川端龍子の異母弟で、昭和三年、兄龍子の用意
   したこの家に父親とともに移ってきました。
   今では俳人として知られる茅舎ですが、この家に移るまでは俳句と同時に画業もこなす風
   流人でした。大正十年には洋画家の岸田劉生に師事し、同十二年に『静物』画が芸術院展
   に入選しています。
   一方俳諧誌に句が入選するようにもなり、昭和十三年には『ホトトギス』紙上で新進作家
   として取り上げられました。また画師である岸田の死と自分の病がもとで画業から遠ざか
   ったこともあって、この頃より俳句の世界に専念しました。
   川端茅舎は、馬込を描写した七句を残しています。
   参考文献 【ねんじんだより】野村裕講演会記録  染谷孝哉【大田文学地図】
   つばはいて はこべ花咲く 溝と知る
   せりの根を 洗いし溝に かみそりも
   草萌えて 馬大王座を 既に占む
   万福寺 門前あぜを 塗る田なし
   梅の丘を けずりてせりの 田を埋む
   鶯の 丘をラッパや 豆腐売り
   鶯の こだまの九十九谷かな


 
句碑茅舎
 角地に建ててある。青露庵とは、茅舎の戒名である青露院より採ったもので、正面の書は兄龍子の
書だ。生前は茅舎庵と称されたという。
 側面の句は茅舎の昭和6年頃の作品で、碑に刻された字は、短冊に書いたものを拡大して刻したも
のだという。

   茅舎
   旧居 
青露庵

   玉芒ぎざぎざの露流れけり 茅舎 
   



■寺内寺・山内寺院
(元の塔頭や支院) 


慈性山安立院

 池上1丁目7番1号にある本門寺塔頭。9老僧の1人日澄上人の庵室と伝わる。昔は本門寺裏門前
にあり「上之坊」といい、すぐに日恩上人に譲る。寺はその後荒廃したが、元治元年(1864)日
英上人により再興した。元応二年(1320)以前の開創。池上本門寺2世日朗聖人の直弟子日澄聖
人の開創。元は本門寺裏門の前にあり上之坊と称した。日澄聖人は池上宗仲公が館を寄進して大坊本
行寺を建立した時、招かれて事実上の開山となり、上之坊を弟子の日恩聖人に譲った。後に荒廃した
が、元治元年(1864)本門寺54世日英聖人により再建された。隣接の自證坊を江戸期に合併し
たと伝えられる。
 


蓮華山東之院
 池上1丁目7番7号にある本門寺塔頭。弘安五年(1282)日蓮聖人の直弟子6老僧の1人日持
聖人の庵室として開創。東之坊とよばれた。江戸末期に池上本門寺総門の外、本成院の向かいにあっ
た玄理坊と合併。その玄理坊は貞享年中(1648~88)の創建で古くは辻之坊と呼ばれた。
 天保十二年(1841)雑司が谷の感応寺が廃寺となった時、その余材を貰い受けて現在地に再興
された。再建に際し、徳川一橋家の奥女中などの加護、寄進を受けたので、「一橋池の題目堂」とも
呼ばれた。
 


■本門寺公園

 池上1丁目11番1号にある区立公園。


■大森第四中学校

 池上1丁目15番1号にある区立校。昭和23年入新井第四小学校内に8教室を借り、「東京都大
田区立大森第四中学校」として開校。同24年4月PTA設立。同12月現在地に新校舎落成して移
転。同体育館兼講堂完成。同37年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎12教室落成。同38年給食
調理室完成。ミルク給食開始。同45年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎増築。同47年新校旗制
定入魂式。同50年鉄筋コンクリート造り2階建て校舎・3階建て校舎増築。同60年鉄筋コンクリ
ート造り4階建て校舎特別教室増改築落成。同61年プール完成。
 平成5年パソコンルーム開設。同10年創立50周年記念式典。

 校歌
「潮風薫る」 作詞・五味吉義  作曲・片山頴太郎
    潮風薫る清陵の
    嶺には匂う桜花
    谷の紅葉の紅に
    甍ぞ映ゆる我が母校
     ああ新しき時代の潮
     響く行く手を
     望みて立てる
     丘の三年の春秋に
     仰げ菊のしるし
     久遠の星と輝くを
     清陵 清陵 我らが母校
 

 
学校チャイムの話
 学校の授業時限を知らせる合図は、ベルや鐘、チャイム、サイレンといろいろある。全くない学校
もある。で、あの4音のチャイムはどうして取り入れられたか、調べてみた。
 キーンコーンカーンコーン
 これは、イギリスはロンドンのウェストミンスター宮殿(国会議事堂)の時計塔ビッグベンの鐘の
音だ。そしてこのメロディは偶然そうなったのではなく、実はこの曲、イギリス・ケンブリッジ大学
の中心部にあるキングス・カレッジの近くに威風堂々聳え立っている、歴史ある大きな教会「グレー
ト・セント・メアリー教会」が、寛政五年(1793)または翌四年、改修工事で新しい時計が取り
付けられた際、新たに時を告げる鐘のメロディとして、今日の日本で「学校のチャイム」として知ら
れるあのメロディが採用された。メロディの作曲者については諸説あるが、当時まだ10代の音楽家
ウィリアム・クロッチ(Willam Crotch 1775~1847)が作曲したとする説が有力。
 なお、メロディの由来については、寛保二年(1742)に作曲されたヘンデル『メサイア』第三
部の楽曲がアレンジされた可能性を指摘する説もある。ヒントにしたんだろうね。
 その後、60年以上経過した安政六年(1859)、ロンドンのウェストミンスター宮殿にある時
計塔ビッグ・ベンが初めて鐘を鳴らした。そのメロディは、グレート・セント・メアリー教会が鳴ら
し始めた「学校のチャイム」の旋律だった。この曲は、ビックベンから、毎日正午に流れる。
 この鐘の音は新たに『ウェストミンスターの鐘(Westminster Chimes)』と命名され、現代のイ
ギリスでもこのメロディを奏で続けている。当時はイギリスを象徴するメロディとして、英国放送協
会(BBC)のラジオでもよく流されていた。
 また、19世紀フランスの作曲家ルイ・ヴィエルヌの「ウェストミンスターの鐘」という歴とした
クラッシック楽品ともなっている。
 これが日本学校の時限音になったのは・・・
 終戦間もない頃は、現在のチャイム音とは違い、空襲の時に鳴らされていた「ウーーーーン」「ジ
リリリリリ」などのサイレン音が、そのまま学校でも使われていた。併し、空襲の時に鳴らされたサ
イレン音を聞くと、当時の辛い思い出が蘇るので止めて欲しいという要望が、多くの生徒から寄せら
れていた。日本におけるウェストミンスターの鐘の導入には、3人の先人の貢献があった。
 偶々イギリスのラジオを聴いていた産業機器メーカーの石本邦雄が「これをチャイム音にしよう」
と思い立ち、昭和29年にチャイムを製造し販売を始めた。同じ頃、警報機メーカーの真島福子の旦
那が、「単純だからこれがいいのではないか?」とオルゴールに拡張子をつけて学校に販売した。
 そして昭和30年当寺、この大森四中で国語の先生をしていた井上尚美が、校長先生から「ジリジ
リ鳴るベルはけたたましくてうるさい。何かいい音はないもんかね?」と相談され、従兄弟で技術者
の加藤一雄と一緒にチャイムを開発することに・・・ チャイムの目的として第一に「時を告げる意
味」が重要だろうと考え、寺の鐘や鶏鳴など多くの候補の中から、「メロディがあっておしゃれな感
じがする方がいい」という理由から、石本の「ウェストミンスターの鐘」を採用したという次第。
 これがきっかけで宣告に広まっていったという。
 この他には、チャイコフスキー作曲の「白鳥の湖」の第2幕の開・閉幕の両シーンで使われる「情
景」という曲のメロディだ。ベートーベンの「エリーゼのために」、大中寅二の「椰子の実」なんか
も使われているらしい。音を鳴らさない学校は生徒の自主性を重んじて自分で時間を守る力を身に着
けさせることが目的だ。その代わりに設置時計が多くなる。
 因みに、お知らせ音 ピンポンパンポーン
 これは、コッス楽器の創設者山崎郁郎が考え出したものだ。
 NHKの時報音 ピッピッピッポーン
 この時報音は、3秒前から440Hz(実音でラ/Aの音)のトーンパルスを毎秒あたり0.1秒ず
つ計3回鳴らし(この3打音を「予報音」と呼ぶ)、最後に正時に880Hz(前述の音の1オクタ
ーブ上)で約2秒間減衰しながら続くトーンパルス(「正報音」と呼ぶ)を鳴らすというものだ(こ
れは現在も行われているラジオの時報音も同じ)。


■永寿院
 池上1丁目19番10号にある本門寺塔頭。ここは備中庭瀬藩戸川家下屋敷5000坪だったが、
戸川肥後守逵安が本門寺16世日遠に帰依して、日遠の隠棲の庵室に寄進したという。開創は寛永十
九年(1642)以前で、日遠の弟子日東により堂宇が完成。当初は日東の院号に因み「蓮乗院」と
呼ばれた。その後家康側室お万の方の孫芳心院(紀伊頼宣女、鳥取藩主池田光仲室)の帰依を受け、
宝永五年(1708)芳心院が没すると永寿院と改称。

   池上の寺めぐり
   
永寿院
   縁起
   寛永十九年(1642)以前の開創。備中庭瀬藩主 戸川逵安が本門寺十六世日遠聖人に
   帰依して自らの下屋敷五千坪を聖人の隠棲地として寄進し、日遠聖人の弟子日東聖人(本
   門寺十七世)により堂宇が完成した。当初は日東聖人の院号にちなみ蓮乗院とよばれた。
   その後、お万の方の孫芳心院(紀州家初代徳川頼宣の娘、鳥取藩主池田光仲の妻)の帰依
   を受け永寿院と改称。宝永五年(1708)に没した芳心院の墓所は「万両塚」とよばれ
   ている。

 「新編武蔵風土記稿」池上本門寺の項に、

   永寿坊
   御廟山の南方にあり。もと蓮乗院と呼ぶ。両山第十六代日遠上人の開基なり。その地はも
   と檀越戸川肥後守が下屋敷なり。日遠隠室造立のために寄附せし所なり。しかるに紀州南
   龍院殿の御実母養珠院殿大野本遠寺、紀州養珠寺の御建立あって、開山に日遠上人を招待
   せられけるにより、日遠は本門寺を弟子日東へ譲り、且当所庵室造立のことを託す。よっ
   て蓮乗院日東当院を立、故に人呼で蓮乗院といふ。後当院第六世日秀の時養珠院殿の御帰
   依ありし日遠の開基なるを以て、南龍院殿の御愛女因幡守光仲室、芳心院殿帰依し給ひ、
   その弟子永寿丸と申せしが多病なりしを、本門寺の祖師へ祈請をたて、もしつつがなく生
   長あらんには出家なさしむべしとありしに、其願むなしからず、人と也けれど、其剃髪を
   惜み永寿丸の代として観成院日遥を猶子とし、やがて当院へ住職せしめたり。其時芳心院
   殿より永寿院の号を賜へり。これ永寿丸を出家なさしむべしとの、願望にそむかざるの心
   とぞ聞えける。さて又芳心院殿より、寺院永代相続の料として米十二石と、月俸若干を寄
   附せらる。又紀州殿よりも月俸を賜へりとぞ。されば当院は戸川肥後守を開基の大旦那と
   し、芳心院殿を中興開基とす。本尊三寶祖師を客殿に安置す。又芳心院殿感得の立像釈迦
   佛あり。その絵日遠、日東等の曼荼羅数幅あり。


 とある。

 万両塚(芳心院の墓) 区史跡
 永寿院墓地の奥に独立してある芳心院の墓域ををいう。二重の周濠を擁しており、御陵を除けば個
人墓でこんな広大なお墓は見たことがない。ご婦人は得手勝手で我儘な動、いや失礼、我儘でいらっ
しゃるのが本能だけれでも、この姫は相当我儘だったようだ。夫は神経を途轍もなく痛めつけられた
ろう。
 芳心院〔宝永五年(1708)没〕は、紀州徳川頼宣の娘(養珠院お万の方の孫)で、鳥取藩主池
田相模守光伸の室だ。
 この墓所は約600㎡の墓域を有し、周囲に二重の堀溝が構築されている。当時その建設費が一万
両に及んだといわれ、俗に「万両塚」と呼ばれている。
 宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」(生前に墓を作る
などの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てたお墓であったことが
記されている。
 平成15年秋から万両塚の調査、改修工事が行われ、宝塔内部からは、法華経巻子本8巻と火葬骨
の収められた青銅製の骨蔵器が発見された。自身の法華経信仰を300年後の私たちに伝えてくれる
貴重なお墓。また、堀溝は芳心院が生前蛇嫌いであったために、没後も蛇を遠ざける目的で常時水が
湛えられていたと伝えられていましたが、今回の調査で堀溝に水が湛えられていた形跡はなく空堀で
あったことが判った。大田区史跡として昭和50年3月19日に指定された。

   芳心院墓所
   万両塚に埋葬されている「芳心院殿妙英日春大姉」は、徳川家康と側室お万の方の孫にあ
   たり、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室です。
   宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」(生前に
   墓をつくるなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建て
   た自分のお墓であったことが記されています。
   宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の納められた青銅製の骨蔵器が発見されまし
   た。自身の法華経信仰を三百年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。

   
万両塚をめぐる系図
   永寿院と芳心院
   祖母養珠院の仏縁で、永寿院に帰依していた芳心院は、息子永寿丸が多病であったため、
   本門寺の祖師に祈念し、もしつつがなく成長した時には出家させると願をかけた。この願
   はかなえられ永寿丸は立派に成長したが、その出家させるのを惜しみ、観成院日遥を猶子
   として、永寿丸の身代わりとなして、永寿院の住職とした。それ以前は蓮乗院という寺号
   であったが、芳心院より永寿院の寺号を賜った。

   芳心院の親戚関係
   徳川家康とお万の方の孫
   紀州頼宣の娘、池田光仲の妻、
   徳川光圀のいとこ、徳川吉宗の叔母

   〇芳心院 茶々姫=因幡姫
   寛永八年九月二十二日~ 宝永五年十一月二十八日(1631~1709)
   池田光仲 寛永七年(1630)~元禄九年(1693)
   長男池田綱清(後の鳥取藩主) 正保四年(1648)~正徳元年(1711)
   次男池田仲澄(後の鹿奴藩主) 慶安三年(1650)~享保七年(1722)

   〇養珠院 お万(萬)の方(徳川家康側室)
   天正八年 - 承応二年八月二十二日(1580~1653)
   徳川頼宣(初代紀州藩主)、徳川頼房(初代水戸藩主)の生母。
   大野本遠寺、紀州養珠寺を建立。日遠聖人が開創に当たった。

 
弥生住居跡
 弥生式土器の出土した場所は、竪穴式住居の跡であり、柱穴や竈の跡、建物周囲の溝などがはっき
り判る状態で発掘された。万両塚の墓域内だけでも約20棟の住居跡が確認され、池上の台地の上に
は、弥生時代の一大集落が形成されていた。中には火災にあった建物や、床を掘り下げてリフォーム
し、何代にも亘って住み続けた形跡が見られる。発掘調査の過程で、2000年前の弥生時代の土器
が多数発掘された。煮炊きに使う甕や祭祀に使う壺など割れた状態で出土した遺物を丁寧に繋ぎ合わ
せて復元し、本堂内に展示している。ヘラや縄などで模様が施され、漆で彩色したものも見られる。
いずれも南関東地方の弥生時代後期の土器の特徴を表している。

   堤方権現台古墳
   6世紀に前半に築かれた古墳。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』に、この地に
   あった熊野神社後方の塚から「古刀古器」が出土したという記述があり、古墳であること
   は推定されていました。
   万両塚周辺調査の際、古墳の周濠・埴輪・須恵器・土器が出土。平成19年には本格的調
   査を行い、馬具一式、木製の鞘に収められた鉄製直刀、鉄鏃を取り付けた矢が数十本等の
   副葬品が出土。さらに、刀の脇の土の部分に白いしみのようなものがあり、骨盤から下の
   下半身の骨格であることが確認されました。全体で4m程の木棺に副葬品とともに納めら
   れていたことが想像されます。
   なお、昭和7年に住宅が建てるために整地した際に、古墳の主体ごと上半身が削り取られ
   たのではないかと考えられています。

 森村桂旧居跡
 上記文中に「昭和7年の住宅」とあるのは、「天国に一番近い島」等で知られる小説家の故森村桂
の邸宅であったそうだ。

 
熊野神社跡

 万両塚の隣辺りにあったらしい。「新編武蔵風土記稿」堤方村の項に、

   熊野社 除地六畝二十歩、村の北方本門寺境内に続きてあり。此地の鎮守なり、社九尺四
   面南向、前に鳥居を建つ、柱間一間、毎年正月二十八日をもて祭禮をなせり。
   村民の持この社の後に小高くして塚の如くなるものあり、権現台と云、何れの頃か塚上の
   古松大風に吹おられし故、その根をほりしに古刀古器を得たり、されど異日祟りあらんこ
   とを畏れて、元の所へ埋めたりと村老の伝へなり。


 とある。
 


勧明山法養寺
 池上1丁目19番25号にある本門寺塔頭。本門寺12世日惶上人が開山となり、天正六年(15
78)神田三河町に創建、慶長元年(1596)に下谷稲荷町へ移転。江戸時代には江戸城西御丸と
大奥の祈祷所となり「わら店の法養寺」と呼ばれたという。境内に熊谷稲荷大明神を祀る、
 明治43年当地にあった妙教院と合併して翌年ここに移った。下谷時代、4代将軍徳川家綱の室高
厳院や紀伊徳川家の帰依を受け、幕府大奥の祈願寺として栄えたと伝える。
妙教庵は、寛延元年(1
748)9代将軍家重に仕えた妙教尼が再興した。

 
釈迦涅槃刺繍画像
 寛文三年(1663)紀伊徳川光貞室天真院が寄進した大幅。

 
日蓮聖人坐像
 像高49.4cm。区の文化財。
 


■心浄院
 池上1丁目19番28号にある本門寺塔頭。文字本門寺3世日輪上人が、日蓮の故郷安房や下総平
賀を遠く望む、この地に庵屋を作り「大泉坊」と称えた。日輪が在世中に日徳上人が再興して心浄院
と改称したと伝えられるが、享保元年(1716)火災で資料を総て焼失したため、年代などが不明
だ。また檀越の小木氏は日蓮が佐渡に流罪のとき、弟子の日朗に教化された島民で、日朗を慕ってこ
の地に移り住み、当院を興したとも伝えられる。「新編武蔵風土記稿」池上本門寺の項に、

   心浄坊
   山の東南の方堤方村の境にあり。もと大泉坊といへり。九老日輪上人のはじめ住せし地な
   り。後に日徳上人日輪の奮跡の湮滅せんことを嘆き、自ら中興せり。よりて日輪を開基と
   し、その身は第二世となれり。客殿六間に五間。本尊三寶及び四天王を安ぜり。

 とある。
 


■妙雲寺

 池上1丁目19番40号にある本門寺塔頭。元和元年(1615)長勝寺と同じ智雄院日正上人に
より開創。小湊誕生寺の末寺となる。守護神として若宮八幡社(堤方神社)を勧請したのもこの頃か
と思われ、後に妙雲寺が別当となる起因となった。
 駐車場入口にある庚申塔は青面金剛と三猿が「見ざる、聞かざる、言わざる」の謹慎態度を示して
浮彫りにされたもので、水をかけて祈願すると足腰が丈夫になると伝えられている。入口は料亭「明
ぼの楼」の門の跡だそうだ。「新編武蔵風土記稿」に、

   妙雲寺
   年貢地、村の北方養源寺の東にあり。法華宗、房州長狭郡小湊誕生寺の末山、玄性山と号
   す。開山智雄院日正は寛永十四年三月十八日示寂す。本堂五間六間半、本尊三宝祖師を安
   ぜり。門柱間九尺、巽に向ふ。妙雲寺の三字を扁す。
   三十番神社
   本堂に向ひ左にあり。本社一間四面、拝殿二間四方。神体束幣の像、三十体いづれも長七
   寸許。
   木下順庵墓
   此地は公のみゆるしをうけし墓地にて、村民をして守らしむ、順庵の事蹟は人も知りたる
   ことなれば略せり。よりてただ男寅亮の撰せる行賞、及びこの地に建る碑銘のみを左に録
   せり。(中略)
   旧蹟。中正庵蹟。稲毛道の北にあり。今廃て旧蹟となれり。

 とある。

   池上 寺めぐり
   
妙雲寺
   縁起
   元和年間(1615~23)長勝寺と同じ智雄院日正聖人により開創。小湊誕生寺の末と
   なる。守護神として若宮八幡社(堤方神社)を勧請したのもこの頃と思われ、のちに妙雲
   寺が別当となる起因となった。
   駐車場入口にある庚申等は、青面金剛と三猿が「見ざる、聞かざる、言わざる」の謹慎態
   度を示して浮彫りされたもので、水をかけて祈願すると足腰が丈夫になると伝えられてい
   る。


 庚申堂
 門前にある立派な小堂。舟形光背型 
青面金剛(合掌六臂)・二鶏・三猿。「妙法」「延宝八庚申
年一月五日」「桜井庄左門」の銘がある。



■あけぼの楼門跡
 池上1丁目30番29号、妙雲寺の駐車場の入口端に庚申堂と共に説明板が建っている。楼門は煉
瓦積み(タイル張りかも)の、郵便ポストを大きく高くしたような形のハイカラな門だ。寺では文化
財として残そうと努力したが、老朽化のため高祖遠忌を機会に取り壊したとか。

   曙楼門柱跡
   当山は江戸幕府の不受不施禁圧と明治新政府の廃仏政策の打撃により境内地の大半を失い
   ここに明治初期創業された料亭曙楼の門柱が建てられていた。木骨煉瓦造りの珍しい構造
   で保存を望む声も多かったが、木骨の腐食甚しく復旧不可能のため、日蓮聖人七百遠忌記
   念当山建設事業の折除却された。                      妙雲寺



長荘山養源寺
(池上七福神 恵比寿)
 池上1丁目31番1号にある本門寺塔頭。慶安元年(1648)松平右京大夫隆政の母養源院殿妙
荘日長大姉の発願により、荏原郡浜竹村の長勝山本成寺を、松平家の所有地だった現在地に移し、養
源寺と改称し、開山は本門寺18世円是院日躍上人を迎え、以後本門寺歴代の退蔵所となった。享保
四年(1719)と同六年(1721)の2度、8代将軍徳川吉宗の鷹狩の際の御膳所になった。文
化元年(1804)に焼失。以後は智海院日勝尼を初代として昭和20年までは尼寺だった。七福神
の恵比寿。本堂の奥が墓地、右手に庫裏、左は「でくの坊」、何の塾だか?
 呑川に養源寺橋が架かっている。
 尼僧5世小川智応は小岩宣要寺10世より 餅つき大会、バザー、盆踊りなど境内を解放した諸活
動が活発。境内に月刊「ナーム」など仏教書出版の水書坊の事務所、「南無の会」事務局がある。
 「新編武蔵風土記稿」堤方村の項に、

   養源寺
   除地一段七畝八歩、村内にあり。当院は池上本門寺歴代の隠居所にて、彼寺の塔頭なれば
   開闢の由来等は本門寺塔中に出せり。


 とあり、「新編武蔵風土記稿」池上村の項に

   養源寺
   檀林の東の方につきてあり。境内除地五百十八坪。其余山二段五畝二十七歩は見捨地なり。
   これらは皆堤方村の地なり。開闢の由来をたづぬるに、松平右近太夫その母養源院、菩提の
   ために建立して、両山十八世日輝上人を開祖とす。これ承応元年のことなり。その時浜竹村
   にありし長勝山本成寺と云寺院を移して、今の寺号に改めしと云。本尊三宝は日蓮上人の作
   なり。寺宝に、日蓮の筆一部一巻細字の法華経あり、養源院感得の経文なりといふ。その余
   にも什寶ありといへり。当院は本門寺歴代の隠居所なり。享保四年十一月六日、同六年十一
   月十一日、有徳院殿この邊御遊歴のとき、当院御膳所となりしとなり。


 とある。

 
柔心地蔵
 養源寺東入口の右方にある。
 


朗慶山照栄院善講寺
 池上1丁目31番10号にある本門寺の塔頭。
本門寺役寺3院家の一つだ。昔は「向林庵」あるい
は「南谷檀林立善講寺」とも呼ばれていた。
文保二年(1318)74歳の時退隠を決意 池上南窪
の地に草庵を結んだ。照栄院の濫觴だ。日朗は76歳で没し、その後草庵は荒廃に帰したが、嘉吉年
間(1441~43)に日鏡聖人が出て再興を果たした。寛文四年(1664)には加藤清正の娘瑤
林院が、夫の紀州徳川頼宜の現世安穏後世善処を祈念して妙見菩薩立像を当院に奉納した外、元禄年
間(1688~1704)には当院内の南谷檀林が開設され、檀林所(大学)となっていた。大坊本
行寺、理境院と共に池上三院家の一つだ。門前に妙見大菩薩の石碑がある。

   
厄除開運 妙見大菩薩

   池上の寺めぐり
   
照栄院
   縁起
   正応四年(1291)、日朗聖人の庵室として開創。日朗聖人没後荒廃したが、嘉吉年間
   (1441~1444)に再興された。元禄二年(1689)南谷檀林という僧侶教育の
   学校を開設、明治2年に廃されるまで多くの高僧を送り出した。本門寺の役寺としての三
   院家の一。
   山上の妙見堂に祀られる妙見菩薩立像は寛文四年(1664)加藤清正の娘瑤林院が夫の
   紀州徳川頼宣の現世安穏後生善処を祈念して奉納したもの。



 山門
 木造瓦四足門。昭和13年の建立。

 
南谷檀林跡の碑
 山門前脇の植栽の中にある。元禄元年(1686)本門寺第22世日玄は、照栄院の地に南谷檀林
を開創した。檀林とは「僧侶の学校」のことだ。現在の池上小学校、池上会館から照栄院の地に至る
一帯に総門、講堂、方丈、玄頭寮、板頭寮、首座寮、所化寮、食堂、玄文両談合場、妙見堂などを備
えていた。明治維新で廃檀となり、建物も取り壊されたが、現存している、天保七年(1836)再
建の「板頭寮」は、檀林の事務所に当たり、板頭(事務経営の長)の居室でもあった。池上山内の木
を用いて建てられたと伝えられる。現在、屋根は草葺の保護のため上から銅板で覆う等、当院の庫裏
(寺の台所、居室)として利用されてきたため、一部改造が行われている。板頭寮は照栄院書院とし
て現在も使用されており、檀林関係の文書や書籍もここに保存されている
 
昭和50年3月19日に大田区指定有形文化財に指定された。

   大田区文化財
   
南谷檀林諸堂の棟札(非公開)
   南谷檀林は、元禄期(1688~1704)に、池上本門寺附属する僧侶の学校として2
   2世日玄によって開設された。
   檀林の施設は、現存する板頭寮のほかに、講堂や学僧の寮等の諸施設が建てられ、整備さ
   れた寺観を有していたという。
   この「棟札」は、建築、修復の年代等を伝える13枚が残されており、すべて本尊(大曼
   荼羅)形式で書かれている。
   これらから、講堂は元禄元年(1688)に建立され、寛政六年(1794)再建され、
   嘉永元年(1848)に屋根が葺き替えられたこと等がわかり、貴重な資料である。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会

   大田区文化財
   
南谷檀林「板頭寮」遺構(非公開)
   南谷檀林は、池上本門寺に付属する僧侶の学校として、元禄期(1688~1704)に
   本門寺の南方(寺窪、南窪と称せられる地)に開創された。
   『新編武蔵風土記稿』によれば、檀林は、講堂、方丈、玄寮、板頭寮、首座寮、所化寮、
   談合場、食堂、妙見堂の施設を備えていた。
   「板頭寮」は、檀林の事務所に当たり、板頭(事務経営の長)の居室でもあった。
   現存している建物は、天保七年(1836)江戸後期に再建され、池上山内の木を用いて
   建てられたと伝えられる。
   現在、屋根は草葺きの保護のため上から銅板で覆う等、当院の庫裏(寺の台所、居室)と
   して利用されてきたため、一部改造が行われている。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会


 
照栄院文書
 主に南谷檀林関係の文書だ。これにより当時の僧侶の勉強の様子が判る。

   大田区文化財
   
古文書(照栄院文書) 非公開
     古  文  書   27点
     古  記  録    2点
     大曼荼羅本尊類   47点
     絵     画    7点
   照栄院は、日朗が隠棲した庵室として、正応四年(1291)に開創されたと伝えられる。
   大坊本行寺、理境院と並んで池上本門寺塔頭三院家の一つとして、重要な役職を果たして
   きた。元禄年間(1688~1704)僧侶教育のため池上南谷檀林が開設された。
   南谷檀林に関する史料をはじめ、池上本門寺関係の史料もあり、日蓮宗教団の歴史を知る
   うえで貴重な史料を多く伝存している。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会


 
日朗聖人坐像
 木像。

   大田区文化財
   
日朗聖人坐像(非公開)
   桧材寄木造 彩色 玉眼 像高42cm。
   日朗(1243~1320)日蓮の直弟子であり、本門寺二世、照栄院の買い残である。
   像底の墨書銘から、元和七年(1621)に造られ、本門寺16世の日樹(1574~1
   631)により開眼されたことが知られる。江戸時代前期の典型的な肖像彫刻で。区内に
   現存する開山像の中でも最古に属するものである。また「不受不施派」の中心人物であっ
   た日樹の自筆銘文が記された像としても注目される。
   照栄院は、日朗が隠棲した庵室の旧跡として、正応四年(1291)に開創されたとされ
   る。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会


 書院
 木造かや
葺きを銅板葺きに改造。天保七年(1836)南谷檀林の板頭寮として建てられたものを
明治6年から昭和14年まで本堂とし、以後書院に改めた。板頭は檀林事務の責任者。「向林庵」「立
善講寺」などの偏額がある。

 
たぬき汁
 当山の名物。本門寺の「延命草」、大坊の「ひきずり豆腐」とともに、池上の3大名物料理だ。
れは精進の建長汁(けんちん汁)で、正月2日の新年祈願会には檀信徒に、日朗聖人の命日の前日、
正月20日の朗師会には山内僧侶に供されている「たぬき汁」は、南谷檀林以来の伝統がある。
 60人前のレシピをお寺が紹介している。
 材料は、小豆3合・蒟蒻10枚・牛蒡10本・大根1本・里芋2山・人参数本、調味料は胡麻と味
噌を適量とある。出汁は取らない。
 まず牛蒡は小さめの乱切りにして水に浸け、一晩灰汁抜きする。蒟蒻を手で小さく千切り、ぐらり
とくるまで茹でる。その後水を換えて一晩おく。小豆も予め茹でておく。大根・人参は小さめの銀杏
切り。里芋は牛蒡の大きさに切り揃える。大鍋に胡麻油を入れて、煙の出る寸前まで熱める。よく水
気を切った牛蒡をしっかり丁寧に炒める。水気を切った蒟蒻、大根、人参、里芋を加えて、軽く炒め
る。お湯を注ぎ、ぐらぐらっと来たら、煮崩れを防ぐため、少量の味噌を溶く。灰汁を取り、小豆を
入れる。最後に味噌を足して味を調える。? タヌキはどうなってる訳 ???

 永代供養廟「久遠林」
 本門寺の五重塔の南下、池上会館の前、1146㎡の専用敷地にある。久遠林はその広さ美しさと
いった施設面だけではなく、個人の信仰の強調、二字戒名の提唱、塔婆の廃止といった実践面に特徴
がある。
「家」の観念が希薄になるにつれ、現代では「家の墓」の維持が難しくなってきた。信仰を
共にする個人が平等の立場で集まり、墓を永遠に守ることが出来れば、それは一つの理想だ。それで
質の高い個人共同墓を提供しようと永久供養廟を建設、日蓮大聖人の題目始唱750年を記念して、
平成14年に落慶を見た。緑の円墳を築き、地下に唐櫃(かろうと)を設けて遺骨を安置。墓参は墳
丘前の焼香壇で行う。五十年忌が過ぎると遺骨は唐櫃内の玄室で土に還され、墓碑銘も唐櫃の中に移
される。その広さ形といった施設面だけではなく、個人の信仰の強調、二字戒名の提唱、塔婆の廃止
といった実践面の特徴がある。

 
三宝尊像
 
西蒲田6丁目34番にある月村家の内仏として安置されていた。台座裏に銘文があり、天正三年(1
575)この地の豪族月村宗観が自身の逆修供養(生前に自分の後世菩提を弔うこと)のために造立
したものとある。この像の造立に際し、月村氏の菩提寺である池上照栄院の6世日説が開眼導師を努
め、8世日濃も花押を添えている。宗観に関する武勇の伝説はこの地に種々の形で残っている。『新
編武蔵風土記稿』が伝える池上常仙院の伝説では、宗観の葬儀を督したのは、池上本門寺の9世日純
だったという。しかし日純は天文十九年(1550)に寂滅しているので、年代的に25年ほどの開
きがあり、この像の月村宗観と同名ながら、同一人とは考えにくい。或いは常仙院伝説が年代を取り
違えているのか、それとも宗観の名が累代の襲名なのか俄かには決めがたい。西入口脇に墓石様の、
昭和36年に月村一族で建てた「月輪越後守入道宗観之碑」がある。その碑文に、宗観の残した帯刀
2振を国立博物館に預けてあると記してある。 

   大田区文化財
   
三宝尊像(非公開)
   桧材寄木造 金箔押 彩色。
   「南無妙蓮華経」の題目を浮彫りにする塔婆の左右に多宝如来と釈迦如来の坐像を配して
   いる。日蓮宗の本尊の祀り方の一つで一塔両尊とも呼ばれる形式で造像されている。
   台座裏の墨書銘から、天正三年(1575、御園村(現・西蒲田)の豪族月村宗観の逆修
   供養のため造立され、照栄院六世の日説が開眼したことがしられる。
   月村宗観には、葬式の時、大落雷があり、その右腕をつかみ取り去られたという伝説があ
   り、その存在を実証する資料である。昭和末年頃まで、月村家の内仏として伝存してきた。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会

 
妙見坂
 照栄院の裏手にある妙見堂に上る雁木坂道。妙見とは北斗七星を祀る信仰だ。

   妙見坂 みょうけんざか
   『大日本名所図会』には「妙見堂、妙見坂の上にあり。妙見大菩薩を安置す。寛文四年甲
   辰七月紀伊頼宣郷の造立せし所なり。即ち照栄院の鎮守とす』とあり坂名はこれに因む。
   また 照栄院には元禄期に南谷壇林が開設された。本門寺に寄進された妙見菩薩立像は の
   ちに壇林の守護鎮守として,坂上のお堂に移されたと伝えられる。
   昭和59年3月                              大田


 坂の左に石塔が建ててある。

   
北辰妙見大菩薩


 
妙見堂
(池上七福神 寿老人)
 妙見坂の上に現存する。奉安の妙見大士像は、寛文四年(1664)に加藤清正の娘瑶林院が、夫
の紀州公徳川頼宣の現世安穏後生善処を念じて本門寺に献じたもので、檀林創立の時、日玄聖人が檀林
守護のため移祠した。現在の堂は慶応二年(1866)の再建と考えられている。毎年冬至の日に催
される星祭りには沢山のお参りがある。
 北極星を仏教では北辰菩薩といい、別名を妙見と称する。北辰菩薩は国土を擁護して人民安楽をす
る仏と信仰された。江戸時代には江戸幕府を守ると信じられたのではないか。この北辰信仰も陰陽道
との習合が見られ、北方七宿の神獣である蛇と亀が眷属として守護神と信じられた。

   大田区文化財
   
妙見菩薩立像(非公開)
   木造寄木造り、玉眼、彩色、箔押。像高四三センチ。
   この像を安置する厨子扉に記された銘文から、寛文四年(1664)に、徳川家康の子で
   紀伊徳川藩の祖である頼宣の「現世安穏後世善処」を祈念して造像されたことがわかる。
   像背に、当寺の本門寺貫主日豊(1600~1669)の開眼墨書銘がある。製作年代、
   由来等が明確な妙見像として貴重である。
   頼宣の妻、瑤林院(加藤清正の娘)が、本門寺に寄進したもので、元禄期(1668~1
   704)に、南谷檀林(僧侶の学校)が開校された際に、その守護の尊像として当院に移
   管されたものである。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会


 チャンギー殉難者慰霊碑
 シンガポールのチャンギーでのBC級戦犯として処刑された軍人軍属の慰霊碑。敗戦により、チャ
ンギーでは戦争犯罪人とされた日本の軍人軍属の裁判が行われた。多くの被告が極刑を宣告されチャ
ンギーに於いて処刑された。照栄院の住職田中日淳上人は教誨師として、その処刑に立ち会った。
 幸いにして極刑を免れて日本に帰国した人々が相談して、妙見堂の地に慰霊碑を建立。以来、毎年
4月の第2日曜日に慰霊祭が営まれている

   
第二次世界大戦後、シンガポール地区においては、146名の旧軍人軍属が連合軍の軍事
   裁判により戦争犯罪者として処刑されたが、その大部分は誤った戦争の犠牲者としてこの
   ような悲運に哭かねばならなかった人々であった。しかもこの方々は祖国から見放された
   まま、不自然な「死」を前にして苦悩に苦悩を重ね、最後には「己の死が祖国再建の人柱
   となるのであれば、又世界人類の平和にもつながればよし」と絶叫して散華したのである。
   これら殉難者の往時の心情を思うとき、万斛の涙また新たなるものがあり、かかる悲惨時
   が決して再びあってはならないと誓うのである。今ここ池上の寂かなる杜をこの方々の安
   らかなる眠りの場と定め
碑を建て、以て所霊の冥福を祈る次第である。

 
田中(本隆)日淳上人 池上本門寺第81世貫主 
 大正3年、北海道乙部町の漁師の家に生まれる。昭和2年得度受戒(13歳)。同4年上京、池上
本門寺に入る。のち塔頭・照栄院に移る。石川日教上人(照栄院住職、後池上本門寺第77世貫主)
に師事。同15年立正大学卒業。同年応召。同20年、シンガポール陸軍第三航空司令部にて終戦を
迎える。戦後、チャンギー刑務所でBC級戦争犯罪人とされた日本軍人の教誨師を勤める。同22年
9月復員、11月照栄院住職。のち池上本門寺に勤務し執事・執事長等を奉職。同58年照栄院内に
チャンギー殉難者慰霊碑を建立。同63年池上本門寺第81世貫主(~平成12年)。
 平成7年第48代日蓮宗管長を兼務(~平成11年)。同22年7月18日照栄院内の向林庵にて
薨去。


 疣取(いぼとり)地蔵
 
妙見堂に向かって左側、チャンギー殉難者慰霊碑の隣にある。疣取地蔵に疣が取れるように祈願し
て、祠にある石を借りてその石で疣に朝夕当てると疣が落ちるといわれてる。疣が治ったお礼は石を
倍にして奉納するんだって。参詣の方の返す石が沢山になると土の中にお返しするそうだ。人間疣な
んて無いようであるもんだ。おいらにもあったが、どういう訳だか、お参り前になくなっちまったぜ
い。
 


■常仙院

 池上1丁目33番1号にある本門寺塔頭。鉄筋コンクリート造りの現代和風というか、インド風と
いうか、凝ったデザインの本堂だ。
一説によると、日朗の直系日範の庵室ともいう。天保十三年(1
842)鼠山感応寺の廃寺に当り、住持妙沾院日詮は当寺に隠棲し、感応寺の居間を縮小して移築し
たと伝えられる。昭和20年愚かなアメリカ軍の空爆により南谷檀林山門と共に全焼。戦後に復興し
た。
 53世野坂法山は仏像彫刻家であり池上本門寺の本殿に勧請の一尊四士像の内、安立行菩薩像、祖
師像を彫刻す。そのほか厳定院、東之院の祖師像など、その作品は全国に及ぶ。

   池上の寺めぐり
   
常仙院
   縁起
   天文十八年(1549)本門寺九世日純聖人の退隠後の庵室として開創。もとは玉蔵坊と
   称した。常仙院開創に関わる伝説によると、蒲田御園村の豪士月村宗観の葬送の際に落雷
   と共に妖怪が出現して死者の右腕を持ち去ったが、日純聖人の祈念によりその腕が戻った。
   日純聖人はこの怪異が自分の不徳の致すところとして本門寺を退き当地に隠棲したという。
   以来、雷除けの護符を乞う者が多く門前市をなしたと伝えられる
 


■鬼子母神堂

 池上1丁目33番3号にある。大正9年山田朝栄上人が子育て鬼子母神を勧請し、昭和6年本門寺
総門前に別院として建立した厳定院の境外仏堂
 


■本妙院

 池上1丁目33番5号にある本門寺の塔頭。本門寺2世日朗上人の弟子、九老僧
大円阿闍梨日伝上
人が庵室として池上西谷に開創し「妙蔵坊」と称えた。元亀四年(1573)火災で堂宇を焼失。池
上12世日惺は住持日院に材木金銀を与え、南之谷外溝の外の道傍に移築再興させた。日惺を中興開
山、本妙院日逗を初祖とする 池上22世日玄は元禄3年(1690)、防火整地のため本門寺正面
石段の改修・総門の建立を計り、当院と覚源院を現在地に移転させた。天保七年(1836)東隣の
玄理坊(失火後廃寺)の失火により類焼したが再建、昭和4年に現本堂を建立した。

   池上の寺めぐり
   
本妙院
   縁起
   本門寺二世 日朗聖人の直弟子日傳聖人が庵室として池上の西谷に開創。(年代不明)旧
   称は妙蔵坊。元亀四年(1571)火災で焼失。本門寺第十二世日惺聖人が当寺の住持、
   本妙院日逗聖人に再建の資助を与え、南谷外溝の道端に移築再建し、本妙院とよばれるよ
   うになった。元禄三年(1690)本門寺の防災のため支院の整備、配置換え、惣門の建
   立、此経難持坂(石段)の改修などが行われ、本妙院も現在地に移されたという。


■池上小学校

 池上1丁目33番8号にある区立校。明治11年「東京府第二中学区31番池上小学校」として、
池上本門寺境内の理境院本堂を借りて開校。児童100名、教員2名、主事1名でスタ-トした。同
14年現在地に1棟2教室の校舎落成。同30年校章指定。同35年「東京府荏原郡池上村尋常高等
小学校」と改称。同41年校舎増築。大正14年2階建て校舎1棟落成。
 昭和元年「東京府荏原郡池上町立池上尋常高等小学校」と改称。同7年荏原郡の東京市併合により
「東京府東京市大森区立池上尋常高等小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令により「東
京府東京市池上国民学校」と改称。日米開戦。同18年都制施行により「東京都池上国民学校」と改
称。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆のため校舎全焼。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法・地方自治法の施行により「東京都大田区立池上
小学校」と改称。同29年給食室完成。同31年児童文集1号発刊(詩集「いけがみ」の始まり)。
同33年火災により4教室焼失。同36年鉄筋校舎9教室落成。同37年プ-ル完成。同43年体育
館完成。特別支援学級設置。同50年鉄筋4階建て校舎落成。同54年創立100周年記念式典・記
念碑建立。同55年詩集「はとの目」(詩集「いけがみ」作品選集)が北原白秋賞受賞。同63年新
しい体育館とプ-ル完成。
 平成3年旧校舎改修。同10年校舎耐震化。同11年開校120周年記念式典。同12年地方自治
法の改正により東京都の冠称が取れ「大田区立池上小学校」と改称。同15年開校125周年記念式
典。同16年プール新塗装。同17年ALTによる英語活動が開始。同18年普通教室にエアコン取
付。同20年創立130周年記念式典。

 校歌「芙蓉の高嶺」 原詩・御滝国雄 補作・音楽部  作曲・南ひろし
  1.芙蓉の高嶺 軒端に望み
    緑に薫る長栄山
    伸び行く松の梢と競い
    聳ゆる学び舎 我が母校
  2.聖の鎮まる浄き処
    理想の華を培う庭
    集う友達 弛まず倦まず
    励む学び舎 我が母校
  3.古く巣立ちし学びの窓に
    絶えずかぐよう希望の光
    雄々しく高く諸手を上げて
    進む学び舎 我が母校

 
開校100周年記念碑
 学校正面にある。

   
池上小学校創立百周年記念碑

 
開校110周年記念碑
 学校正面にある。

   池上小学校の位置標
   北緯三五度三四分二五秒
   東経一三九度四二分三一秒
   海抜六・四七一メートル
 


妙祐山理境院
 
池上1丁目34番3号にある本門寺塔頭。正和元年(1321)本門寺3世日輪聖人の住坊として
開創。大坊本行寺、照栄院と共に池上三院家の一つに列せられ、古来より朱塗りの山門(赤門)を許
される。。延宝元年(1673)檀越長澤氏の母理境院妙性日貞尼の寄進の法功を称え元号に改称。
慶応三年(1867)官軍参謀西郷隆盛は当院を宿舎をあてたと伝えられる。明治11年堂宇を小学
校校舎に使用、池上小学校の前身となる。
朱塗りの山門。門前に石碑が建つ。

   
両山三世
   
當山開基 日輪上人草庵跡

   池上の寺めぐり
   
理境院
   縁起
   元享年間(1321~1324)本門寺三世日輸聖人の住坊として開創。本坊本行寺、照
   栄院と共に池上三院家の一つに列せられ、古来より朱塗りの山門(赤門)を許される。延
   宝年間(1673~1681)に長澤氏の母理境院妙性日貞尼の寄進の法功をたたえ理境
   院と改称。慶応三年(1867)官軍の江戸城明渡し要求の際に、官軍参謀西郷隆盛は当
   院を宿舎にあてたと伝えられる。明治十一年堂宇を小学校校舎に使用、池上小学校の前身
   となる。

「新編武蔵風土記稿」に、

   理境院
   惣門の内にあり。妙祐山と号す。三院家の一なり。舊くは久成院と号す。日輪本門寺をつ
   きて後当院を法弟日成に附属す。これ第二代の主也、遥の後延宝年中檀越長澤某の母理境
   院妙浄日貞田地若干を寄附せしにより、改て理境院と号すといへり。客殿七間に五間、本
   尊一尊四菩薩を安ず。


 とある。

 
不老門碑
 山門の名称か? 傍らにある石碑。

   
不老門

 
日輪上人草庵跡石標
 門前にある石標。

   日輪上人草庵跡

    由 緒  當院は元池上三院家の一 久成院妙祐山崇安寺と呼び 元享年中日輪上人草庵
   として創立す 後延寶年間長澤氏の母理境院日貞尼再興に努め 改めて理境院と穪するに
   至る 蓋し輪師は両山二祖朗尊と俱に両山興隆の基礎を築きたる偉匠なり 延文四年四月
   四日八十八歳を以て遷化せらる 昭和四十年先代大場耀秀師報恩信行を発願し、輪師會を
   設立し現董雅敏之を継承し茲に満二十年を迎え 依ってこれを記念し会員と諮って建立す
                               池上本門寺八十世日威誌之
   維時昭和四十二年四月四日                       輪師會建之

 銅燈籠
 境内にある。此経難持坂の近くだ。後ろに「玉垣寄付連名碑」がある。


■本町稲荷神社

 池上1丁目34番12号にある。「本門寺以外」の項に記載。
 


喜昇山本成院
(池上七福神 福禄寿)
 池上1丁目35番3号にある本門寺塔頭。当院は山号を喜昇山。池上本門寺の旧塔頭支院。寺伝に
よりますと、当院は佐渡阿闍梨日向上人の開基なり。日蓮大聖人の直弟で六老僧の一人にして、弘安
五年池上に御来向の砌、池上右衛門大夫宗仲は草庵を造り、日向上人を住まわせたといわれている。
当院は、初めは池上の北谷の地、桐ヶ谷の北の端、とどめきという所にあって、北の坊または喜多院
と呼ばれたが、日舜上人の代に東谷にあった本成坊が廃坊となったので、これと合併再興した。この
坊は日蓮大聖人の直弟で、中老僧の日源上人の庵室であったと伝わる。慶長年間に池上本門寺13世
日尊上人が当院を隠棲の場所と定め、寺域の整備、充実に心がけたので寺観は一新しました。その後
宝永年間の火災で焼失したので、15世喜多院日寶大徳が享保年間に現在地に移して再建、本成坊と
称するようになったといわれている。
池上七福神の福禄寿。山門の左側に観音堂がある。

   本成院縁起
   当院は山号を喜昇山、旧称は喜多院(北の坊)と称す。本門寺の旧塔頭寺院です。
   寺伝によりますと、当院は佐渡阿闍梨日向上人の開基なり。日蓮大聖人の直弟で六老僧の
   一人にして、弘安五年池上に御来向の砌、池上右衛門大夫宗仲は草庵を造り、日向上人を
   住居せしめたといわれています。
   当院は、はじめは池上の北谷の地、桐ヶ谷の北の端、とどめきという所にあって、北の坊
   または喜多院とよばれましたが、日舜上人の代に東谷にあった本成坊が廃坊になったので、
   これと合併・再興されました。この本成坊は日蓮大聖人の直弟で、中老僧の日源上人の庵
   室であったと伝わる。
   慶長年間に本門寺十三世日尊上人が当院を隠棲の場所と定め、寺域の整備、充実に心がけ
   たので寺観は一新しました。その後宝永年間の火災で焼失したので、十五世喜多院日實大
   徳が享保年間に現在地に移して再建、本成坊と称するようになったといわれています。                                            以上
                              
東京都大田区池上一丁目三十五番三号
                                    喜昇山 本成院

   池上の寺めぐり
   
本成院
   縁起
   弘安五年(1282)日蓮聖人の直弟子日向聖人の庵室として開創。はじめは池上の北谷
   の地「とどめき」という所にあり、北之坊または喜多院とよばれた。その後、東谷にあっ
   た本成坊が廃寺となりこれと合併、再興された。
   慶長年間(1596~1615)本門寺十三世日尊聖人の隠棲地として整備されたが、宝
   永年間(1716~1736)に現在地に移り債権、本成坊と称するようになった。

 
池上観音堂
 入り口の左にある。堂の右手前に住職の歌碑がある。

   この山に枯れし老松嘆きしが霊(みたま)に浮かぶ観世音像

 上手いのかねえ。韻は踏んでるけどねぇ。
 


■中道院

 池上1丁目35番5号にある本門寺塔頭。

   池上の寺めぐり
   
中道院
   縁起
   日蓮聖人の滅後、直弟子日頂聖人が開いた庵室を起源とする。もとは本門寺の南の谷の先
   にあり、いつの時代にか当地に移された。本門寺十世中道院日陽聖人がここに隠棲したの
   で中道院とよばれるようになる。本門寺二十五世日顗聖人の庵室(場所は不明)不二庵が
   日顗聖人没後の宝暦四年(1754)中道院と合併。かつては、日顗聖人の法脈に連なる
   本門寺貫首の退隠後の庵室であり、現在はその位牌所となっている。
 


■本門寺公園

 池上2丁目2番13号にある区立公園。


■真性寺

 池上2丁目9番6号にある日蓮宗の寺。開運厄除帝釈天として寛永二年(1625)に池上本門寺
16世日遠聖人によって麻布今井町に開創された。この寺に安置されている帝釈天像は、13代将軍
徳川家定の侍医佐竹文好の屋敷にあったもので、安政三年(1856)に当寺に遷され、幕末より大
正期にかけて庚申の日には麻布の帝釈天とよばれて縁日の市が立ち大いに賑わったという。戦災で全
焼したため、昭和27年現在地に移り再建された。「御府内寺社備考」に、

   池上本門寺末 麻布今井寺町
   微妙山真性寺、境内年貢地四百四十四坪内買添地百二十五坪 起立寛永二年 開山心性院
   日遠上人、寛永十九年三月五日寂、本寺十六世に御座候。
   開基旦那微妙院殿躰真日実大姉榊原氏の之中侍、子孫等相知不申候正保三丙戌年二月十三
   日死客殿。本尊宗法之通諸尊安置。以上戌子書上。

 とある。
 


大坊本行寺  日蓮聖人入滅の旧跡 都旧跡
 池上2丁目10番5号、本門寺の左奥西谷にある。ここは日蓮聖人入滅(臨終)の霊場だ。日蓮は
鎌倉中期の僧で日蓮宗の開祖。安房国に生まれ、若くして天台宗を学ぶ。長じて鎌倉・比叡山・南都
・高野山などで修行し、仏法の真髄が「法華経」にある気付き、厳しく他宗を排撃したため諸宗・為
政者から圧迫を受けた。晩年は甲斐国身延山久遠寺に隠棲し、弟子や信者の指導に当っていたが、今
より700余年前の弘安五年(1281)九月八日故郷安房の清澄山に戻ろうと、9ヶ年の間住みな
れた身延山を後にし、病める身体を栗鹿毛の馬に委ね、同月十八日ここ池上宗仲(鎌倉時代の工匠)
の館に立ち寄った。病重く療養に努めていたが、一時小康を得ると、弟子や信者に「立正安国論」の
講義をしたが、病いよいよ改まり、十月八日には本弟子六人(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)
を定めて後事を託し、十日には形見分け、翌日には14歳の経一丸(のちの日像上人)へ京都開教を
遺命され、枕元に大曼陀羅本尊を掛けさせ、十三日の辰の刻、弟子信者一同が静かに法華経を読誦す
る中、入滅した。この時大地は揺れ動き、庭の桜が一度に時ならぬ花をつけたと伝わっている。病中
の日蓮が、身延山を発ってこの地に移ったのは、法華経を説いた釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)か
ら艮(うしとら=東北)に当る士匠純陀の家で入滅した故事に倣ったものだろうと考えられている。
 日蓮の滅後宗仲は館を寄進して寺とし「長崇山本行寺」と号し、「大坊」と俗称された。入滅した
部屋の跡に建てられた堂を特に「臨終の間」と呼び、昭和11年3月東京府の史跡に指定された。堂
内には立正安国論を講義する時に寄り掛かったという「寄り掛かりの柱」を始め、中央に日蓮自ら鏡
を見て自刻した「自鏡満願の祖師像」並びに「池上宗仲公御夫婦像」等を奉安し、入滅の当時を今に
忍ばせている。昭和11年3月4日東京府史跡に指定された。

   池上寺めぐり
   
大坊本行寺
   縁起
   弘安五年(1282)日蓮聖人が入滅された池上宗仲公の館跡。日蓮聖人入滅後まもなく
   宗仲公が館を寄進して本行寺が開創された。日蓮聖人が最後の講義をされた時のときの、
   「お寄りのかかり柱」や、亡くなられるとき一斉に花が咲いたと伝えられる「お会式桜」
   が境内にある。
   なお「大坊」という呼び名は、池上本門寺の支院並びに末寺を代表するお寺であるという
   意味の尊称である。

 「新編武蔵風土記稿」本門寺の項に、

   日蓮入滅所大坊
   長栄山本行寺と号す。是宗仲の館跡にして、実に日蓮入滅の地なり。上人入滅の後宗仲其
   宅を捨て日澄に付す。日澄は日朗の弟子にして、宗道に志あつく、九老の仲尤尊宿にして
   法燈を輔くべき器なれば、宗仲深く崇信せし故此擧あり。日朗もまた軽んぜず、遂にこの
   坊の開山とせり。もと三院家の次第は、開基の人によれば照栄院・久成坊(理境院)と定
   むべきを、当坊は宗祖入寂の地といひ、ことに大旦那宗仲の宅跡といひ又開基日澄尊宿に
   して実に本他の棟を扶翼し、本門寺を補佐すべきの才あるにより、日朗在鎌倉の時は此人
   獨本門寺を守護せしによりて、第一とせりと云。
   表門、南に向ふ。
   日蓮入滅場。則客殿なり。六間に七間、南に向ふ向拝あり。本尊三寶を安ず。客殿の内一
   隔をなし、臨滅度の三字を扁す。古の家作近き頃までも存せしと云。今続に日蓮入滅の期
   に臨んで、倚そひしといふ柱一基あり。本尊日蓮の木像は長三寸許。日蓮在世の時その姿
   を鏡にうつせしを三法傍にありて彫刻せし像にして、宗仲夫婦の看経佛なりしとぞ。又か
   の夫婦の木像あり。長六寸許法軆の姿なり。本尊の側に安ず。宗仲法名は日宗、妻女は妙
   宗と号せしといへり。
   硯ノ井。客殿の東にあり。日蓮此水をもて本尊を図し、又譲状等をかきしと云傳ふ。
   祖水祖師堂。井の東にあり、九尺に二間、硯の井の側にあるゆへに此号あるなるべし。祖
   師の立像は長一丈六尺ばかり。
   灰堂。客殿の東南にして山下にあり。二間に三間、日蓮を荼毘せし所なり。当時宗仲宝塔
   を作り、余灰をその中に盛りて安ぜりといふ。
   裏門。西に向へり。


 とある。

   東京都指定旧跡
   
日蓮上人入滅の旧跡             所在 大田区池上2丁目10番5号
                           指定 昭和11年3月4日
   日蓮(1222~1282)は鎌倉中期の僧で日蓮宗の開祖。安房国に生まれ、若くして
   天台宗を学ぶ。長じて鎌倉・比叡山・南都・高野山などで修行し、仏法の真髄が「法華経」
   にあるとし、きびしく他宗を排撃したため、他宗・為政者から圧迫を受けた。
   晩年は甲斐身延山に隠棲し弟子や信者の指導にあたっていたが、弘安五年(1282)九月
   八日病の悪化とともに身延山を出発、十八日に武蔵国千束郷池上右衛門太夫宗仲の邸(現
   ・本行寺境内)に到着し、十月十三日の朝、この場所で入滅した。
   病中の日蓮が身延山を立ってここに移ったのは、その昔、法華経を説いた釈尊が霊鷲山か
   ら艮(東北方)にあたる工匠純陀の家で入滅した故事にならったものである。
   昭和52年3月31日建設                    東京都教育委員会


   東京都指定旧跡
   
日蓮上人入滅の旧跡            住所 東京都大田区池上2の10の5
                          標識 昭和11年3月4日
                          指定 昭和30年3月28日
   日蓮上人(聖人)(1222~1282)は、日蓮宗の開祖であり、「立正安国論」等の
   著作で知られています。日蓮は、文永十一年(1274)に鎌倉を去り、甲斐国身延山に
   宗教活動の場をうつしていましたが、弘安五年(1282)病の悪化により常陸国へ湯治
   療養に向かう途中、武蔵国千束郡池上右衛門太夫宗仲の館(現本行寺境内)で示寂しまし
   た。
   なお、病中の日蓮が、身延山を発って池上の地へ至ったのは、法華経を説いた釈尊が霊鷲
   山から艮のすなわち北東の方角に当たる純陀の家で入滅した故事にならったという説もあ
   ります。
   平成24年3月 建設                      東京都教育委員会
                文化財を大切にしましょう

   Historic Places
   
Nichiren Shōnin Nyūmetsu no Kyūseki
   (The place where Nichiren Shōnin passed away)
   
Landbarked in 1936,Designated in 1955
   Nichiren Shōnin(1222~1282)is the founder of Nichiren Sect (one
   of the Japanese Buddhist sects). and also known as the auther of "Rishou An
   koku Ron" and so on. Nichiren left Kamakura and shifted his main base of rel
   igious activities to Minobu Mountain in Kai Province in 1274.In 128
   2,Nichren passed away at the redidence of Ikegami Emon-notayū Munenaka (n
   ow Hongyōji Temple)in Senzoku District in Musashi Province, on the way t
   o Hitachi Province for curing his illness in hot spring.
   The reason why Nichiren shifted here from Minobu Mountain despite his illne
   ss, according to another account, is because he followed the tale of Shakamuni
   (Shiddhartha Gautama)who had entered nirvana at the house of Chunda which
   had been located to the northeast of Ryjjjusen Mountain Griddhakuta where
   hakamuni had preached Lotus Sutra.
                        Tokyo Metropolitan Board Education

 
御会式
 日蓮の命日の10月13日等に合わせて11、12、13日と御会式が行われる。中でも池上本門
寺は数10万人の参拝客で賑わう祭りで、日蓮の命日の前夜10月12日は、各地から集まった信徒
団体の集まり(講中)が、行列し万灯や提灯を掲げ、纏を振り、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えな
がら境内や寺の近辺を練り歩く。

 
妙法堂
 本坊の山門の右手前にある。妙法両大善神をお祀りしていることからその名がある。妙法両大善神
とは、身延山の峰に棲む二体の天狗で火難・盗難除けの神様のとして信仰されている。本行寺に所属
する。信者墓参の世話をしている。

 本坊山門
 妙法堂左横にある。赤門と称している。色は焦げ茶だ。

 宝物殿
 
本行寺が由緒寺院に顕彰された記念行事として建設されたもので、中には都重要文化財の法華経板
木、宗門最古の板碑、ほかには先師の本尊、書状類等53幅が奉安されている。屋
根の細く高い近代建築だ。

 
萬霊供養塔
 
水子供養、塔婆供養など、この寺に墓地がない者でも諸精霊のご供養のために建立した。

 御灰骨堂
 日蓮大聖人入滅の後、遺体を荼毘に付した際の御灰(中に真骨を蔵す)を収取し、安置してある。
現在の堂は、昭和54年3月本門寺より大聖人旧御廟所の建物を移築したものだ。

 旅着堂
 
寄棟造り木造茅葺き(現在は銅板で覆われている)のには、高弟の一人が、大聖人の遺徳を偲んで
彫刻した旅着姿の日蓮聖人像が安置されている。日蓮像の中では珍しい立像だ。建物は、享保十四年
(1729)久ヶ原の小原三朗兵衛が建立寄進したもので、立像安置のために建造された。

 
毘沙門堂
 毘沙門天は漢訳では多聞天とも言い、夜叉を従えて北方の守護神であり、暗黒界の長とされ鬼門の
守り神とされる。室町以前には、四天王中の最強神で護国・軍神・戦勝の神として信仰され、室町以
後は現世利益・財宝授与・福徳神として信仰があった。また毘沙門天は財宝がありすぎて、毎日三度
焼き捨てたといわれている。その福も父母・国土・衆生・菩提のいずれかをその目的にしなければ授
けてくれないといわれている。

 御硯井戸

 身延からご到着になられた翌日、日蓮がの井戸の水で墨を磨り、9ヶ年の間庇護をしてくれた波木
井実長に宛て、礼状を認(したた)めたという。

   此の硯井戸は日蓮大聖人が弘安五年九月十八日甲州身延山より此の地に御到着になり御使
   用になった霊水であります。


 瘡守稲荷・南無水神
 
江戸時代中期より五穀豊穣を祈り、特に病気除けのお稲荷様として、目黒区碑文谷に祀られていた
が、昭和57年に縁があって境内に移転した。

 納経塔
 平成9年10月12日に開眼供養が行われ、毎月の写経会でお書きになった御経を納めるため建立
した。

 鶴林殿
 山門を入った左手にある。日蓮宗檀信徒の葬儀、法要、また結婚式、お茶会、各種会合等に広く利
用して貰おうと、開基池上宗仲公第700遠忌事業として建築開業した。

 
池上幸健胸像
 池上家30代当主。

 庫裏
 寺務所ならびに法要控室、各種会合、茶室など、檀信徒の方々が広く利用できるよう設計されてい
る。昭和44年落成の3階建てのビル。

 本堂
 池上右衛門大夫宗仲が、日蓮入滅の後、その邸を寄進し一寺を建立、長宗山本行寺と称した。現在
のものは昭和56年700年遠忌記念事業として大改築した。

 
お会式桜
 本堂左手にある。日蓮の入滅の時に季節はずれの10月に花が咲いたという伝承があり、現在も1
0月頃に開花するそうだが、桜が秋に開花することは珍しいことではない。併し、このことから「狂
い咲き」「仇桜」「姥桜」などの言葉が生まれた。

   御會式櫻
   弘安五年十月十三日宗祖入滅に際し 庭前の桜花時ならぬに開き 法性の春をあらわした
   という お会式に桜をさす由来はここに始まる 今でも10月頃開き当時の故事を伝えて
   いる

   
御会式桜
   弘安五年十月十三日 日蓮大聖人が入滅の折、庭先の桜が時ならぬ花を咲かせたと伝えら
   れております。現在も旧暦十月頃には花を咲かせます 御会式の万灯に桜の花を飾るのは
   この故事に由来しています

 何桜にしろ、800年も寿命のある桜はねえだろう!
 お会式の万灯はこの桜を模しているって知ってた?

 
臨終の間・寄り掛かりの柱
 日蓮が入滅するまでの約1ヶ月、この柱に寄り掛かり、多くの弟子や信者に法華経や立正安国論を
講義した。その柱の一部は触れることが出来る。

 日蓮上人坐像
 像高57cm5mm、寄木造り、玉眼、彩色。胎内に、

   武州立花之郡稲毛庄沼部郷 施主 尾雲川 仏師 鎌倉伊予守忠盛(花押)

 と墨書されているが、造立年代はない。しかし像の形式や胎内銘の地名の記載方式から類推して、
室町期の作品だろう。

 
法華経版木
 桜材両面摺り、一部は片面摺りの版木で、法華経28巻全部が64枚に刻されている。奥書に、本
門寺12世日惺の代天正十八年(1590)に開板されたことを示すから、現存の法華経版木として
も、かなり古いものに属する都の文化財。
 正応三年の題目板碑と板碑群 正応三年(1290)の題目板碑は、上判部が欠失しているが、現
状でも長さ80cm、もし完形ならば優に150cmはあったものと推定される。区内最大の板碑だ。
しかも日蓮入滅後8年目に造立されたもので、日本最古の題目板碑でもあり、当地が池上氏の旧跡で
あることを考え合わせれば、池上氏と何らかの関係があるものと想像される。

 
本行寺文書
 当時の古文書類は、本門寺文書を補う史料性の高いものとして特に注目される。内容的には本尊(大
曼荼羅)25点・古文書17点・記録類8点だが、文和二年(1353)の本門寺3世日輪の本尊を
はじめ、室町期の当時歴代の本尊4点、天文二年(1533)の本門寺9世日純書状、同四年(15
35)の同11世日現書状、近世に入ると天海や崇伝らの書状もあり、貴重なものが多い。
 


■厳定院
(池上七福神 弁才天)
 池上2丁目10番12号にある本門寺の塔頭。正応二年(1289)日朗上人の弟子日尊の開創。
池上七福神弁財天。天文五年(1536)西之院のとなりにあった成就坊と合併し現在地に堂宇を構
えたと伝えられる。成就坊の境内にあった弁財天を池上七福神として石造りの弁天宮にお祀りしてい
る。

 
鬼子母神堂
 大正9年山田朝栄上人が子育て鬼子母神を勧請し、昭和6年本門寺総門前に別院として鬼子母神堂
を建立した。現在も池上1‐3‐33にある。


■西之院

 池上2丁目10番15号にある本門寺の塔頭。日蓮上人ご入滅後40~50年後に開創。日蓮の直
弟子日興上人の庵室として創建。開山は日法上人。はじめは市野倉村にあったが、いつの頃かこの地
に移された。寛永元年(1624)日法上人の寝室といわれる宝樹坊と合併し「西の院」と号した。
 


妙玄山実相寺
 池上2丁目10番17号にある日蓮宗の寺。天文十九年(1550)江戸馬喰町に開創したが、
暦三年(1657)振袖火事で焼失したため、浅草新寺町に移転させられた
寛保三年(1743)
呉服商「大丸」の店主の帰依を受け大丸寺と俗称される。大正12年本門寺24世日等が隠棲した庵
室妙玄庵と合併し、妙玄山と改めて現在地に移転した。
なお妙玄庵は、享保十二年(1727)大坊
坂の傍に創建され、妙玄坊、雲玄坊とも呼ばれた。
 16世日性聖人は本門寺41世へ。25世兼光院日慎聖人は本門寺74世へ。29世恵光院日慈聖
人は真間山弘法寺80世・本門寺82世へ。

   池上の寺めぐり
   
実相寺
   縁起
   天文十九年(1550)江戸馬喰町に開創。明暦三年(1657)明暦の大火の後、浅草
   新寺町に替地を拝領して移転。寛保三年(1743)に呉服商「大丸」の店主の帰依を受
   け、大丸寺と呼ばれた。大正12年池上の妙玄庵と合併して現在地に移り堂宇を建立。妙
   玄庵は本門寺二十四世日等聖人が隠棲した庵室で、享保十二年(1727)大坊坂のそば
   に創建され、妙玄坊、要玄坊とも呼ばれた。

 
山門 国選定登録文化財
 構造・形式:木造、一間一戸薬医門、金属葺き。間口3.6m 昭和3年建築。ケヤキ材による上質
な造りの一間一戸の薬医門だ。池上本門寺西側のこの地は、日蓮聖人入滅の旧跡として知られる本行
寺が隣接するなど、同門の寺院が通りに面して軒を連ねており、池上本門寺の北門前としての寺町の
景観を形成している。池上本門寺門前に広がる寺町景観に欠かせない存在である。
 平成15年3月18日国選定登録文化財(建造物)に登録された。


 
本堂 国選定登録文化財
 構造・形式:木造平屋建て入母屋造金属葺き。建築面積187㎡ 昭和3年の建築だが、日蓮宗の
本堂平面形式を保守しつつ、近代的な平面や細部意匠に特色を持つ日蓮宗寺院的本堂。
大正十二年(1923)池上の妙玄庵と合併して現在地に移り堂宇を建立。
平成15年3月18日国選定登録有形文化財(建造物)に登録された。


■覚源院

 池上2丁目11番5号にある本門寺塔頭。明徳四年(1393)の開創、はじめ蓮池院といい、池
上西谷にあった。天文二年(1533)
大坊ほか7ヶ寺が火災に遭った後、東谷に移り、妙法坊と呼
ばれるようになる。元亀四年(1573)再び焼失し本門寺祖師堂の東に移る。江戸前期、井出家の
厚い保護を受け井出寺とよばれたが、元禄三年(1690)本門寺の防火対策により西谷宝樹坊の跡
地(現在地)に移転。宝暦元年(1751)に井出為成の法号から覚源院と改称された。


■南之院
 池上2丁目11番15号にある本門寺塔頭。弘安五年(1282)に日蓮の直弟子日昭の庵室とし
て開創されたと伝わる。日昭聖人はこの庵室にあって池上本門寺を守ったと伝えられている。古くは
大坊の西側にあり、大成弁院とよばれた。江戸期には幕府の御用絵師狩野家の菩提所として大いに栄
えた。本堂内陣の竜の天井画は狩野探玄の筆による。また狩野家歴代の宝篋印塔と五輪塔が附近の墓
地にあり、代々の位牌が本堂内の位牌檀に祀られている。


 
狩野孝信の墓塔 区史跡
 この宝篋印塔の返花(かえりばなつき)基礎正面に、「慈父円大院孝信日養霊」と刻まれている。
狩野孝信は、江戸時代初期著名な画家狩野探幽の父親。また本塔の北隣の石塔は孝信の子尚信や甥貞
信の墓塔だ。本塔は、当代第一流の巨匠、江戸鍛冶橋狩野家が構築したものと考えられる。
 相輪や隅飾りの精巧さ、各所に陽刻された文様の美しさなど、この完備した豊麗さは、当時他に類
例を見ない傑作といえる。


 日照上人坐像
 寄木造り、彩色、玉眼、像高39cm。延宝三年(1675)の作。
 



■本門寺以外 


■川端茅舎旧宅跡

 池上1丁目5番7号にある。茅舎(ぼうしゃ)は、日本画の川端龍子の異母弟で、俳句で名をなし
た。青露庵というアパートの敷地の角に自作自筆の句碑がある。並んで立つ馬込文士村散歩のみち解
説板に、

   川端茅舎(かわばたぼうしゃ)(1897-1941)俳人‐五重塔の前の道をだらだら
   と下り、本門寺裏へぬけて急坂を登りつめた左角‐に川端茅舎が住んでいました。茅舎は、
   日本画家川端龍子の異母弟で、昭和三年、兄龍子の用意したこの家に父親とともに移って
   きました。今では俳人として知られる茅舎ですが、この家に移るまでは俳句と同時に画業
   もこなす風流人でした。大正十七年には洋画家の岸田劉生に師事し、同十二年に『静物』
   画が芸術院に入選しています。一方徘諧誌に句が入選するようにもなり、昭和十三年には
   『ホトトギス』紙上で新進作家として取り上げられました。また画師である岸田の死と自
   分の病がもとで画業から遠ざかったこともあって、この頃より俳句の世界に専念しました。
   川端茅舎は、馬込を描写した七句を残しています。


 とある。句碑の正面には「茅舎旧居青露庵」とあり、側面に

   玉芒ぎざぎざの露流れけり 茅舎

 と刻んである。青露庵とは、茅舎の戒名である青露院よりとったもので正面の書は兄龍子の書だ。
生前は茅舎庵と称したという。側面の句は茅舎の昭和6年ころの作品で、碑に刻された字は、短冊に
書いたものを拡大して刻したものだという。
 


■貴船坂

 池上1丁目と東隣の中央5丁目の真、貴船坂上から東南に下る坂道。詳細は中央5丁目に記載。。
 


■堤方神社

 池上1丁目15番2号にある。この神社は本門寺台地にあり、やや判りにくいところにある。昔は
若宮八幡社と呼ばれ、明治40年に三所神社(熊野神社)、同43年十二社神社・稲荷社、さらに境
内にあった稲荷社などを合祀して現在地に移転し「堤方神社」と改めた。
 幣殿・拝殿は天保十一年(1840)の建築。祭神は仁徳天皇。「新編武蔵風土記稿」に

   若宮八幡社 年貢地、村の南にあり、本社 九尺四方、拝殿 二間に三間、巽に向ふ、前
   に木の鳥居をたつ、両柱の間七尺、増上寺領内の鎮守にて村内妙雲寺の持


 とある。 


■開運弁才天
 池上1丁目16番9号横溝家敷地内にある小祠。未見。 


■相の坂 → あけぼの坂 → めぐみ坂

 池上1丁目19番35号の大森めぐみ教会の東側の坂道。昔は「相の坂」といい、明治19年に教会
のところに河野実成によって「明ぼの楼」という料亭が建てられると、「あけぼの坂」と呼ぶように
なり、昭和4年料亭が廃業し、同20年に教会が移転してきてからは「めぐみ坂」と呼ばれるように
なった。結構な坂道だ。

   めぐみ坂
   現在では、坂の西側にめぐみ教会があるため、めぐみ坂と呼ばれることが多いようである。
   かつては、昭和4年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」に因み「あけぼの坂」とも、
   古くは「相の坂」とも呼ばれた坂道である。                 大田区
 


■大森めぐみ教会

 池上1丁目19番35号にある。この精神的源流は、明治におけるプロテスタントの三大バンドの
一つ「熊本バンド」(明治4~9年)に遡り、同志社大学創立者新島襄の薫陶を受けた明治19年に
設立された日本組合教会の流れに属している。組合教会とは宗教改革者ジャン・カルヴァンの改革の
精神の流れに立つもので、元和六年(1620)アメリカに上陸したピルグリム・ファザースの教派
だ。日本組合教会(The Congregational Church)はその後、昭和16年)に日本キリスト教団(The
United Church of Christ in Japan)に合同して今日に至っており、我が国最大のプロテスタント教
派だ。世界基督教統一神霊教会(統一原理)、ものみの塔(エホバの証人)、モルモン教などとは一
切関係はない。
 大森めぐみ教会は、昭和2年12月4日岩村清四郎牧師が、現在の大田区中央7丁目、元の新井宿
6丁目に創立した。その半年前にめぐみ幼稚園を創立し、戦前は「めぐみ教会」と称していた。その
名前の謂れは、創立直前に岩村の長男恵一が天に召されたことにある。彼はこれを天の思し召しと受
け取って「めぐみ教会」と称した。昭和22年に東大森教会と合同したので「大森めぐみ教会」と改
称した。岩村は、さらに昭和14年4月めぐみ高等女学校を創立し、その敷地のために現在地池上1
丁目の土地を購入していたのだが、昭和20年5月の東京大空襲によって戦前の教会も幼稚園も女学
園も焼失し、直ちに現在地池上1丁目に移って今日に至った。昭和31年岩村信二が2代目主任担任
牧師になったが、親子2代72年間に亘って牧会を行ってきたというのは、我が国では珍しいケース
なのだ。平成12年4月に3代目主任担任牧師に土戸清牧師が招聘され、岩村信二名誉牧師、シュー
・ポール協力牧師の3名で教会の宣教と牧会の務め(ミニストリー)を担っている。礼拝を中心に礼
拝説教と聖餐式を中心に教会形成がなされ、さらに教会学校と教会内各部各会が活発な聖書の学びと
奉仕活動と信徒の交わりを展開し、教会の歴史に新しい頁を加えている。

   当地由来
   大森めぐみ教会の正門の傍らに建つ「木下順庵先生墓跡」の碑は、この地は江戸前期の儒
   学者として有名な木下順庵(1621~98)の墓があったことを伝えている。
   木下順庵は、5代将軍徳川綱吉の時(1687~1709)、幕府の儒官、将軍の侍講に
   挙げられ、新井白石ら多くの儒学者を育てた。その功により、元禄十一年(1698)に
   亡くなると、幕府よりこの地を墓所として与えられ、堤像(堤方)村村民荒忠七とその子
   孫が墓を守っていたが、大正3年全国の儒者とともに小石川の大塚先儒墓所に改葬された。
   明治期になって、この地で鉱泉が発見されると明治19年河野実成が大料亭「明ぼの楼」
   (明保乃楼 曙楼)を建て、光明館などの池上温泉場が設けられた。池上本門寺に連なる
   台地斜面にあり、遠く房総を望む景勝地であったことから、多くの政治家や著述家が訪れ
   た。田山花袋の『東京近郊』や徳富蘆花の『富士』などにも登場する。庭には無数の梅や
   南天等が植えられていたといい、今も庭内に残る二本の梅の木は、三代将軍家光(162
   4~50)のお手植え梅と伝えられる。
   この地に、大森めぐみ教会と幼稚園が移転してきたのは昭和20年5月のことである。大
   森めぐみ教会と幼稚園は、昭和2年大田区新井宿(中央7丁目)に岩村清四郎牧師が設立
   更に昭和14年めぐみ高等女学校を創立したが、不幸にして戦災によって焼失したため、
   教会と幼稚園だけがこの地に移転した。

 
木下順庵墓跡碑
 教会の入口を入って右の植え込みに建てられており、外から見ることができる。

 めぐみの丘
 池上本門寺山に隣接する東南向けの斜面にあり、敷地は2000坪、都内では一番広い教会敷地だ。
常時緑に包まれ、噴水のある池、樹齢60年の桜や泰山木、くるみの木など樹木がいっぱい茂ってい
る。現在の教会堂は昭和42年に建てられ、スイス、アルプスの教会のような礼拝堂と、わが国最初
のアルザス地方のオルガンが備えてある。
 


■虎大尽山本唯三郎の池上御殿(恵影山荘)
 御殿跡は、区の説明によると「大森四中の下」ということなので、池上1丁目21~26番+30
番の一帯と思われる。
 山本唯三郎は、明治・大正期の実業家で、成金の象徴のような人物だ。岡山県久米郡鶴田(現岡山
北区)で、鶴田藩士である坂斉正雪の次男として生まれた。まだ幼児の時に養子に出され、豆腐屋
の小僧として働いていたが、10歳の頃に職を求めて歩いて大阪に出た。新聞社の活字拾いをしなが
ら、夜は英語の学校に通った。16歳の時、一旦帰郷し兄の援助で閑谷学校に通い、続いて嘗て兄が
通った同志社に学ぶも、兄からの援助が滞るようになって同志社は中退に追い込まれた。併し山本は
札幌農学校
で学問を続けることができ、新渡戸稲造などの指導を受けた。札幌農学校を卒業後、新渡
の後援でまず石狩平野で開拓事業を手がけ、大地主となって成功を収めた。約10年間北海道で開
拓事業に従事していたが、中国の天津に渡り、石炭販売業を始めた。山本は松昌洋行という貿易商社
を設立して石炭や材木の貿易に従事していたが、第一次世界大戦の開戦を見て船舶輸送業を強化、こ
れが見事に当たり巨万の富を築いた。山本は大戦景気で成功した典型的な船成金だ。最盛期の資産は
約4千万円だったという大正5年、衆議院の補欠選挙が岡山県で行われ、山本は出馬するも落選。
また、かつて通った同志社に8万円で図書館(ヴォーリズ設計、同志社啓明館本館として現存)を寄
付、岡山市立図書館の工費・施設費18000円、郷里の久米郡の山本実業学校の設立に20万円を
寄付するなど、社会事業にも手を染める。大正区年、再び衆議院選挙に出馬するも落選、本業の実業
家としても第一次世界大戦終了後の不況の波をもろに被り、あっという間に財産を食いつぶしていく
ことになる。築き上げた財産を全て使い果たした山本は、胃痙攣のため昭和2年に54歳で自宅で急
死した。池上御殿は生前に売却している。

 
虎大尽
 山本唯三郎はその並外れた金の使いっぷりで知られた。その中でも特に大正6年に朝鮮半島で大規
模な虎狩り、名づけて「山本征虎軍」を行ったことが有名だ。山本は自らを「勤勉力行」の人物たる
ことを証明するために虎狩りを行うと称したが、世間では前年の補欠選挙で山谷虎三に敗れ落選した
ため、腹いせで本物の虎を狩る決断したと噂された。この虎狩り、規模が尋常でなく、マスコミ関係
者を含め総勢31名、現地で採用した猟師やポーターを数えると150名にもなった。山本征虎軍は
全体を8班に分け、1~5班は咸鏡道方面、7~8は全羅南道で虎狩りを、そして6班は別動隊とし
て金剛山で熊狩りを約1ヶ月に亘って繰り広げた。彼らは自作の゜征虎軍歌」「虎来い節」などとい
う歌を歌い、征衣身に纏い虎狩りに赴いた。1ヶ月間の成果は虎2頭、その他豹、猪、鹿など貨車1
両分になったという。虎狩り終了後、まず京城の朝鮮ホテルで、山縣伊三郎朝鮮総督府政務総監らを
招き、虎などの獲物の試食会を行い、更に東京に到着後、帝国ホテル清浦奎吾枢密院議長、田健治
逓信大臣仲小路廉農商務大臣渋沢栄一大倉喜八郎ら200余名を招き、大々的な虎肉試食会
を行った。当日は食堂の内外に虎狩りに因んだ竹林を配し、獲物の虎、豹、熊、鹿などの剥製を展示
山本自身が虎狩りの実演談を語り、更には舞台では虎狩踊りなどを披露した。だが、肝心の虎肉はト
マトケチャップでマリネにして提供されたが、試食に堪えられるものではなかったという。
 山本はこの破天荒な虎狩りで、世間から「虎大尽」と呼ばれるようになった。
 山本は朝鮮虎(アムールトラ)の標本(剥製)を皇太子(後の昭和天皇)に献上し、今一点は同志
社大学
に寄付した。アムールトラ、朝鮮半島では後に絶滅したため貴重な存在で、後者は平成23
年2月の同志社標本館(醇化館)の閉鎖時点でも現存していた



■本町稲荷神社

 池上1丁目34番12号にある。
前は別の場所(南側の土手)にあったといわれるが、大正9年に
長栄稲荷、玉造稲荷、田上稲荷の3社を合祀して現在地に移した。
 
大田区編纂の『史話20号「大田区の民俗こぼれ話」』によれば、

   大正期に入って、町内に鎮守が無いというのはおかしいということで、稲荷の4社を合併
   し、本門寺の南側雑木林を切り開いて社寺をつくり、現在の本町稲荷が創建されたのであ
   る。


 とある。
 


■池上梅園

 池上2丁目2番13号、本門寺の西北にある区立公園。開園時間は9時~4時。敷地の北半は美人
画で有名な日本画家伊東深水(朝丘雪路の父)のアトリエ「月白山荘」跡。戦後築地の料亭を経営者
小倉誠の手に渡り、小倉が南半を拡張して別邸として使っていた。昭和53年没後、遺族の意志によ
り庭園として後世に残すことを条件に区に譲渡された。
 開園は同年8月、面積は8500㎡(約2500坪)だ。園内には、白梅、紅梅、淡紅梅の一重咲
き、八重咲き、枝垂れ梅など様々な種類の梅(区の花)が約370本あり、初春には芳香を放ち、白
梅を追うかのように紅梅咲きつぎ、例年2月には紅白咲き乱れる。
 また、つつじ約800株をはじめ、スモモ、栗、柿など50種500余本の樹木があり、茶室、庭
石、燈籠、池、苔などの調和を配慮してある。池上山の斜面を利用した展望台から正面に見える富士
山の夕景は美しく、梅の季節(二月中旬)には大変に賑わう。規模は大きくないが、池上山の斜面を利
用した庭の造りは景観に奥行を与えている。展望台からの梅林の眺めは絶景。石川五右衛門もかくや
とばかり!

   勇気こそ地の塩なれや梅真白(中村草田男)
   白梅の中紅梅に近づきぬ(森澄雄)
   何時見ても梅寂光の中にあり(川本臥風)

 4月には桃、桜、躑躅が楽しめる花の園だ。ただし有料(100円)だよ。
月・3月を除く月曜
日(月曜日が休日の場合は次の平日)と年末年始。03‐3753‐1658

   池上梅園の概要
   池上梅園は、小倉誠氏が邸宅として使用していましたが、没後ご遺族の意志によって、東
   京都に譲渡されました。その後大田区に移管され、昭和53年8月に開園いたしました。
   園内には梅が368本あり、その他種々多様な樹木があります。面積は8539㎡です。
   自然の趣を生かしてありますので大切にいたしましょう。

 
聴雨庵
 昭和58年に芝白金の藤山邸から移築された茶室。外務大臣を務めた藤山愛一郎の所有だった。

友倶楽部から大田区に寄贈された。当時藤山邸には3棟の茶室があり、海外の来賓を招くなど民間外
交の実をあげたところでもある。戦時中の昭和19年には、東条内閣打倒密議が岡田啓介・米内光正
・末次信正らを集めて聴雨庵の中で行われた。聴雨庵の名前の由来は、愛一郎の父藤山雷太翁の号を
「雨田」と称したところからともいわれているが、確証はない。
 雷太は佐賀県伊万里市の出身。県会議長を務めた後、実業界に転進。藤山コンツェルンの創業者。
大日本精糖の経営者。日本商工会議所初代会頭。巨万の富は愛一郎が自民党の妖怪岸信介に騙されて
消されてしまった。なお総理大臣を務めた岸信介は、長州黒手組の親分で、スイス銀行に日本人で天
皇家より多い最高額の預金残高を持った。今はそれを安倍晋三が保有する。

 水琴屈
 聴雨庵の近くにある。竹筒に耳を寄せると、幽かな澄んだ音が聞こえるぞ。水琴屈は、縁先の手水
鉢や茶室の蹲踞(つくばい)で使い捨てた水が、地中に埋設された甕に滴り落ちると反響して、幽か
な琴の音に似た音が聞こえる装置だ。手水の余水の排水装置から発祥して、このような音の響きを楽
しむ装置へ改良発展したもの。ここの水琴屈は、区内雪谷の民家で発見された、昭和10年代初期の
もので、NPO法人「日本水琴屈フォーラム」により発掘調査された。燈籠と共に区に寄贈され、梅
園に移設された。

 
清月庵
 この茶室は、伊東深水のアトリエを設計した数寄屋建築の設計家で、江戸時代の大工技術を受け継
いだ川尻善治が自宅に自らの隠居用として建てた離れ家だった。川尻家は、大正の一時期、池上門前
で温室園芸と料理屋を営み、その一角にこの離れ家を建てた。その後、マンション建設が計画され、
保存運動が起こり、保存に尽力した区内在住の華道・茶道家中島恭名が買い取り、区へ寄付した。区
は、深水・善治の両氏とゆかりの深いこの梅園に再建して「清月庵」と命名し、平成元年から茶室と
して公開している。

 和室
 この地を所有していた小倉家の住宅。八畳間が3つあり、いずれも貸し出されている。

 
見晴台
 頂上にあり、梅園全体が見渡せる。梅の季節には「春が来た!」を実感できる。
 


■池上本町児童公園

 池上2丁目12番2号にある区立公園。


■古民家カフェ 蓮月

 池上2丁目20番11にある喫茶店。昭和2年築の元蕎麦屋「蓮月庵」の建物。2階は旅館や結婚
式場として使われた。これを改装し、当時の雰囲気を残して喫茶店とした。


■池上平和児童公園

 池上3丁目2番16号にある区立公園。 


■池上三丁目児童公園

 池上3丁目4番4号にある区立公園。


■馬頭観音菩薩塔 ◇

 池上3丁目19番6号の道路沿いに建ててある三段石塔。


■馬頭観音教会
(池上七福神 大黒天) ◇

 池上3丁目20番4号にある日蓮宗の寺。池上七福神の大黒天。3mほど地上げした上に住居兼用
の堂が建つ。馬頭観音堂と呼ばれる。
 


■池上警察署

 池上3丁目20番10号、国道1号線(第二京浜国道)に面してある。

 
●ギャンブル仲間暴行現金強奪事件
 令和2年9月7日、ギャンブル仲間の爺さん2人が喧嘩となり、年食ってる方が殴る蹴る付き落す
の乱暴狼藉を働き、脛骨と肋骨を折る重傷となった。住所不定無職の江端典二(78歳)は、ギャン
ブル仲間の部屋で、部屋の住人(70歳)と口論となり、殴る蹴るの暴行を働いた。住人が追い出す
と階段から突き落とし、介抱もせす、住人の携帯と現金75万円を奪って逃走した。
 間もなく逮捕されたが、本人は「携帯は持って行ったが、現金は奪っていない」と供述している。

 
●更衣室に侵入し警棒盗む
 平成25年3月29日、驚いたことに署内の更衣室に侵入して警棒と階級章を盗んだとして、出見
潤路(41歳)が、荒川区で逮捕された。
 さる24日、出見は、池上署2階の更衣室に忍び込み、警棒と階級章を盗んだ。25日、荒川区の
路上で煙草をポイ捨てしたところほ荒川署の警察官に見咎められ、職務尋問を受け、手荷物検査でカ
バンから真正の警棒が発見され、「池上署から盗んできました」と答えたため緊急逮捕されたもの。
 警察から盗む奴も異常だが、盗まれる警察も呆れるばかりた。

 
●強盗事件 大工古川純也逮捕
 令和2年11月29日、強盗犯として大工の古川純也(49歳)を逮捕した。さる9月、南馬込の
住宅に押し入り、玄関先で刃物を突き付けて現金を要求したが、住人の男性が抵抗したため果たせず
何も盗らずに逃走した。住人の男性は軽い傷を追ったが大事には至らなかった。
 警察は、防犯カメラの追跡から古川を割り出し逮捕に至った。
 


■「
小泉次大夫物語 用水工事」

 池上3丁目21番2号先、六郷用水北堀跡遊歩道の植栽に建ててある説明板。

   小泉次大夫物語
   
用水工事
   慶長二年(1597)の測量に始まる六郷用水の工事は、慶長十四年に主要水路が完成、
   小堀と呼ばれる各村への分水路工事も含めると14年という長い年月を費やした大工事で
   した。工事完成の時、次太夫は74歳の高齢に達していました。また、工事の途中、慶長
   六年には武蔵国稲毛・川崎の代官職を拝命しています。


■六郷用水物語標柱

 池上3丁目21番17号、国道1号線(第二京浜国道)のエネオス脇の六郷用水北堀の遊歩道に建
ててある。説明文はない。


■「
小泉次大夫物語 糀谷の領主」

 池上3丁目25番4号の六郷用水北堀跡の遊歩道に建ててある。

   六郷用水および川崎の二ヶ領用水の大事業を成し遂げた次大夫は、その功績により、本領
   七五〇余石のほかに、開発した新田の10分の一に当たる三〇〇石余の地(六郷領下袋村
   および麹屋村=現在の大田区北糀谷・西糀谷付近)を徳川家康がら拝領して糀谷の領主と
   なり、併せて実盛の刀を授けられたといいます。


■池上図書館

 池上3丁目27番6号のNTT池上ビルにある。

 
小泉次大夫物語 妙遠寺の逆修塔」
 図書館前の六郷用水北堀跡の遊歩道の植栽に建ててある。    
 


■八幡さま/徳持神社

 池上3丁目38番17号にある。創建は建長年間(1249~55)と伝え、豊前の宇佐八幡宮よ
り分霊を勧請奉斎、「御旗山八幡宮」とも称され、荏原郡池上村大字徳持の住民の守護神として尊崇
せられ、元徳持の南地区に鎮座、明治39年池上競馬場(目黒記念の発祥の地)設置の為、現在地に
移転、明治41年5月再建、同年9月15日徳持上宿に鎮座の稲荷神社を合祀竣工遷座を執行、社名
八幡神社を徳持神社と改称した。祭神は誉田別(応神天皇)と宇迦之御魂命(稲荷)。
 新編武蔵風土記稿」に、

   (徳持村)八幡社
   社地一段四畝十四歩、免田二十二歩。小名本村辻子徳乗院の地続きにあり、村の鎮守なり。
   勧請の年歴詳ならず、本社一間半四方、拝殿2間四方。前に鳥居あり、両柱の間八尺。祭
   礼八月十五日徳乗院の持。
   末社天神社。本社の右にあり、小祠。
   稲荷社。天神祠の並にあり、是も小祠、正一位伏見稲荷と号す。


 とある。


■毘沙門天/微妙庵
(池上七福神 毘沙門天)
 池上3丁目38番23号にある日蓮宗の寺。創建年代は不詳。本門寺の塔頭覚源寺の境外仏堂とし
て建立したという。この寺の本尊毘沙門天は、品川沖で当像を拾い上げたものだそうで、池上七福神
の一つとなっている。「新編武蔵風土記稿」に、

   微妙庵
   小名千本松にあり。二間半に三間、西向。いつの頃にか法華宗の僧を請して建立せり。本
   尊三宝を置く。本門寺塔頭覚源寺持。
   毘沙門堂。庵の北にあり。堂一間半四方、毘沙門木像五寸相傳ふ三十年ばかりさきに、村
   民品川沖より此像を得しにより、堂を構へしと云ふ。


 とある。
 


■「中土手」

 池上4丁目1番10号先北堀跡遊歩道に建ててあ説明板。

   中土手
   堤方の八寸から直流した六郷用水は、このあたりで呑川と合流し、現在の上堰橋下流(池
   上第二小学校付近)から双流橋付近までの呑川の中央に築かれていた「中土手」と呼ばれ
   た分水堤で分流され、東側は大森方面へ、西側は蒲田方面へ南下していました。
   この中土手はしばしば上流部の溢水の原因となっており、農業用水としての利用が減少し
   た昭和6年に撤去されています。


■堤方の八寸跡

 池上4丁目8番1号西南の十字路のところだ。

 六郷用水北堀跡遊歩道口に説明板が建ててある。

   歴史物語
   
堤方の八寸
   六郷用水北堀は、ここで直進して大森・蒲田方面への流れと、北に上って呑川をわたり新
   井宿方面へ向かう流れ、南へ下って女塚方面へ向かう流れとの三つに分かれていました。
   ここに設けられた堰はふつうの堰板ではなく、水流方向に直角に八寸角の角材かこまれた
   「八寸の水はかり」と呼ばれた独特のもので、この場所の名の由来ともなっています。


■池上門前児童公園

 池上4丁目12番2号にある


■六郷用水の跡の石柱

 池上4丁目13番8号の南の六郷用水北堀跡遊歩道に建ててある。


■題目塔(妙法塔)

 池上4丁目20番6号にある石塔。橋を渡ってまっすぐ行くと本門寺、見えている。


■萬屋酒店 
国選定登録有形文化財(第13‐0071号)

 池上4丁目23番6号にある。明治8年建築の池上本門寺門前町角にある伝統的町家形式の店舗。
平成12年2月25日国選定登録有形文化財(建造物)に指定されている。構造・形式は木造て平屋
建て寄棟造り瓦葺き。建築面積106㎡。厨子二階建て出桁造りの江戸時代以来の町家建築の形式を
よく残した建物で、旧平間街道(池上道)と本門寺前の町並みを代表する1つだ。
 本門寺参道と池上道の交差する角地という絶好の場所に、茶屋を開いたのが同家の始まり。明治期
に現建物が建てられたが、その後、台所の改造やトイレ、子供部屋などの増築もされた。内・外観と
もに殆ど変えることなく現在まで伝えられている。江戸時代の町家建築に見られる厨子二階出桁造り
の形式を採り、上げ下げ戸が旧状のまま残っている。
 


■久寿餅池田屋
(くずもち御三家①)

 池上4丁目24番1号にある。相模屋と参道を挟んで並んでいる元禄年間(1688~1704)
創業の老舗。派手な店構えだ。
 くず餅といっても、葛粉や餅米は入っていない。小麦粉の澱粉を1年以上発酵させて精製し、蒸し
上げて作る。和菓子で唯一の発酵食品で、酸味の中に素朴な滋味があり、黄粉と黒蜜をかけて食す。
賞味期限は2日。寺社周辺には、くず餅の店が多い。最も有名なのは亀戸天神で、文化二年(180
5)創業の船橋屋だろう。芥川龍之介、永井荷風、吉川英治ら多くの文豪に愛された。
 


■池上本門寺参道石柱

 池上4丁目24番14号先の遊歩道にある。


■くずもち相模屋
(くずもち御三家②) 平成30年1月20日閉店

 池上4丁目25番7号にある。池田屋と参道を挟んで並んでいる元禄九年(1696)の老舗。
 くず餅といっても、葛粉や餅米は入っていない。小麦粉の澱粉を1年以上発酵させて精製し、蒸し
上げて作る。和菓子で唯一の発酵食品で、酸味の中に素朴な滋味があり、黄粉と黒蜜をかけて食す。
賞味期限は2日。寺社周辺には、くず餅の店が多い。最も有名なのは亀戸天神で、文化二年(180
5)創業の船橋屋だろう。芥川龍之介、永井荷風、吉川英治ら多くの文豪に愛された。
 平成30年、諸般の事情により閉店した。

   謹告
   永らく御愛顧戴いた相模屋くず餅の販売は、平成三十年一月二十日を以て閉店させて戴き
   ました。
   約六〇年前から山本照、登代子が始めました。
   元禄九年 相模屋の創業以来、約三百二十年間、営業を致して参りました。
   謹んでお伝え申し上げます。                         早々
   平成三十年一月                         相模屋十二代店主

 ん? 横に別の貼り紙が・・・

   
新規開店の御挨拶
   このたび、兼ねてより準備しておりますくず餅のお店
   『藤乃屋』
   を3月中旬より開店の予定です。
   末永くご愛顧を賜りますよう心からお願い申し上げます。            店主

 ※文中の「兼ねてにり」は「予てより」の誤記。

名代くず餅藤乃屋
(くずもち御三家②)
 先代が亡くなり相模屋を閉店して、親戚が心機一転、名も「藤乃屋」と改名して平成30年3月に
開店した。「味が違う」とお叱りを受けないように、一応改名した。

 
道標
 相模屋の店先に置かれた道標は元禄九年(1696)建立と説明があり、「これよりひだりかわさ
きみち」「これよりみぎこすぎみち」と刻まれている。
 


■「六郷用水物語」

 池上4丁目25番9号先の遊歩道に建ててある区の標柱。


■住宅火災

 池上5丁目10番2号の佐藤貴之宅から、平成27年12月4日16時半頃出火、消防車25~3
0台が駆け付け、2時間後に鎮火した。火元と見られる家の70代の女性が煙を吸って病院に運ばれ
たが軽傷で生命に別条はなかった。隣家も佐藤家だが貰い火した。場所は池上駅の東、大森高校の北
の辺り。


■池上五丁目公園

 池上5丁目15番18号にある区立公園。


■女塚なかよし公園

 池上5丁目24番6号、27番16号に跨る区立公園。


■御休處浅野屋
(くずもち御三家③)

 池上6丁目2番15号、池上駅前にある宝暦二年(1752)創業の老舗。
くず餅といっても、葛
粉や餅米は入っていない。小麦粉の澱粉を1年以上発酵させて精製し、蒸し上げて作る。和菓子で唯
一の発酵食品で、酸味の中に素朴な滋味があり、黄粉と黒蜜をかけて食べる。賞味期限は2日。
 寺社周辺には、くず餅の店が多い。最も有名なのは亀戸天神で文化二年(1805)創業の船橋屋
だろう。芥川龍之介、永井荷風、吉川英治ら多くの文豪に愛された。


■池上駅

 池上6丁目3番10号にある東急池上線の停車場。大正11年10月6日池上電気鉄道最初の区間
である蒲田~池上間開業と同時にできた。翌年5月4日には雪ヶ谷まで延長した。ホームは地上相対
式2面2線。東急の駅では安全向上のために構内踏切の廃止が進んだが、池上駅だけは東急で唯一構
内踏切が残されている。改札口・出口は1ヶ所のみで、1番線側にある駅舎内にある。本門寺参拝の
ために作られた鉄道であり、駅だ。
 


常在教会

 池上6丁目21番22号にある日蓮宗の布教所。
 


■徳持ボニー公園

 池上6丁目30番11号にある区立公園。


徳持寺 霊山教会東京別院

 池上6丁目32番5号にある。京都東山の霊山(りようぜん)観音が本山。入口の左は鉄筋コンク
リート2階建ての受付兼催し場。庭がすばらしい。
 


■池上六丁目児童公園

 池上6丁目37番8号にある区立公園。


■池上競馬場跡

 池上6・7丁目の辺りにあった。明治39年3月、大森山王に住んでいた加納久宣が会長になって
組織した東京競馬倶楽部が池上徳持村の水田の中に作った競馬場。競馬場は、一周1800m、馬見
所の建物500坪、馬舎530坪あり、当時としては横浜根岸競馬場に継ぐものといわれ、春と秋に
開催されました。しかし競馬法改正にあい、馬券発行は賭博行為として禁止になり、3年で已む無く
廃止となった。
 馬場を作るために土を掘り上げたあとの池や、馬場のあとは茅が生え雑草が生い茂り田畑にもなら
なかったが、昭和11年に目蒲電鉄不動産部が造成し分譲地として売り出された。
 


■徳持小学校

 池上7丁目18番1号にある区立校。昭和27年池上徳持町42番地に「東京都大田区立徳持小学
校」として開校。池上小学校より1~5年生までの749名が移籍し、14学級に編成。同9月15
日開校式挙行(昭和41年度まで、この日が開校記念日。現在は9月10日)。同12月給食室竣工
・給食開始。同28年校庭にさくら100本、後援会により植樹。同30年創立3周年記念式典・校
章・校旗・校歌制定。

 校歌「晴れ渡る」 作詞・野村俊夫  作曲・古関裕而
  1.晴れ渡る大空遠く
    聳え立つ富士の高嶺
    清い姿を心に宿し
    常に正しい道を学ぶ
    ああ楽しい学舎
    徳持小学校
  2.太陽の光を浴びて
    健やかに伸びる若木
    力溢れる腕を組んで
    友と一筋 鍛え励む
    ああ楽しい学舎
    徳持小学校
  3.爽やかな緑の風に
    湧き上がる高い理想
    人の務めの訓えを守り
    共に明るい道を拓く
    ああ楽しい学舎
    徳持小学校
 

 同12月生徒の交通事故死により交通活動班発足し、集団登校開始、現在も継続中。同31年マラ
ソン大会始まる。現在も継続中。同33年児童数1504名 28学級(開校以来最多)。同34年
交通安全で、児童会警視庁表彰。同36年保健体育優良校として、日本体育指導者連盟より表彰。同
37年プール竣工。同41年体育館兼講堂完成。同42年開校記念日を9月10日に変更。同45年
図工室用陶芸窯ができる。同47年第一期鉄筋コンクリート造り校舎6教室・給食室。同48年第二
期鉄筋コンクリート造り校舎12教室落成。第3期鉄筋コンクリート造り北校舎落成。同51年アル
ミプール新設。同53年第四期鉄筋コンクリート造り西校舎落成。校庭整地。犬走り・教材園・遊具
完成。同56年給食室増築。
 平成10年地域開放用の集会室落成。同11年北校舎耐震化、校舎外壁塗装完了。同13年体育館
完成。同14給食民間委託。同11月開校50周年式典
 


大乗山曹禅寺
(池上七福神 布袋尊)
 池上7丁目22番10号にある曹洞宗の寺。当地区は古来より曹洞宗(禅宗)の寺院がなかったた
め、村上上憲が新寺建立を発願し、昭和7年矢口町に教会を開設、同14年新寺建立を東京都が許可
しなかったので、牛込白銀町にあった盛高院の寺号のみを移し、当地に堂宇を建立、寺号を改称して
曹禅寺とした。盛高院は、本寺昭和通り保善寺と併合し今日に至っている。現在の当寺堂宇は、戦災
後に再建した。この寺の布袋尊は池上七福神の一つとなっている。山門は鉄筋コンクリート造り。外
の看板には「池上大乗霊堂」とあり 、近代式墓地がある。

 
三条大橋の中柱

 本堂の右前にある。この欄干橋柱は、江戸時代(寛永年間)に建てられた東海道五十三次の終点京
都三条大橋のもので、昭和9年9月1日西日本を中心に大きな災害を及ぼした室戸台風によって決壊
したが、。その際東詰の一本だけが残った。その後、庭の装飾として法勝寺、時の名家中井邸に保管
され、八島邸(京都府左京区岡崎町)、岩崎邸(同白川)を経て現在に至る。
 縁あって昭和62年黄綬褒章受章庭匠長谷川栄次郎(大阪万博日本庭園及び京都国際会議場・平安
会館を作庭)の弟子高野寿より寄贈されたものだ。

 
観音像
 本堂前にある露仏。

   碑文
   昭和20年4月爆撃により50余名の生命を失ったこの地に大悲菩薩を安置して殉難者の
   冥福を祈り念ずると共に町内の平安と世界の平和を祈り願うものなり
   昭和43年10月10日                       壱世實道大憲


■徳持児童公園

 池上8丁目13番4号にある区立公園。


■徳持第二児童公園

 池上8丁目15番8号にある区立公園。


■徳持公園

 池上8丁目20番10号にある区立公園。


■池上八丁目児童公園

 池上8丁目22番4号にある区立公園。


■日体荏原高等学校

 池上8丁目26番1号にある私立校。体育館・グラウンドは道路向いの東矢口2丁目3番にある。
前身の
荏原中学校は明治37年に日本体育会会長子爵加納久宣によって設立され、今年で創立106
年となる。創立に携わった人々は、当時の教育が知識の詰め込みに傾く傾向にあったことを憂えて、
知育・徳育・体育の3つが調和された教育の必要性を訴えてきた。日本体育会は、この理想を実現す
るために、まず体育教師の養成機関を作った。日本体育大学の前身の体操学校だ。さらに教員養成に
必要な実習校として、日本体育会創立の13年後、本校は当時の荏原郡大井村に「荏原中学校」とし
て誕生した。以来優れた知力に加えて、健やかな精神と逞しい体力とを身につける教育を行ってきた。
この創立の精神「知・徳・体」を三位一体とする理想教育は、明治、大正、昭和、平成を通じて本校
における教育の根本精神として受け継がれ、次第に根を下し、実を結んでいる。火災と戦災、2度の
校舎焼失を経て、昭和24年に「荏原高校」となり、現在地に完成した新校舎で再出発した。その後
生徒数が急増し、体育館、プール、多摩川の第2グラウンドなどを増設した。同39年創立60周年
記念事業として鉄筋4階建校舎建設。同41年「日体荏原高等学校」と改称。同49年創立70周年
記念事業として武道館、温水プールを含む第2体育館を建設。さらに同59年創立80周年記念事業
では生徒集会所兼食堂を、同63年には記念体育館を新築し、平成9年の秋には2号館を建設した。
 長らく男子校だったが、少子化を睨んで、同10年男女共学に移行した。

 第一校歌
    永き歳月
(としつき)の学び
    吾等命となりて
    明日への教へを仰がしむ
    教へ教はる諸声の
    奥処の深きに
    吾等の歩みに辿る
    吾等の歌も歌はる
    永く歳月を亘りて限り無く


 第二校歌
  1.水清し多摩の流れ
    雲凌ぐ富士の高根
    何時も仰ぎて学びに励む
    力ぞ溢れぬ荏原の健児
    荏原 荏原 荏原高校
  2.葦茂る沼地拓け
    天
(そら)焦がす黒き煤煙(けむり)
    永き年月 苦難に克
(か)ちし
    雄々しき心ぞ荏原の健児
    荏原 荏原 荏原高校
  3.道遠く遥かなるも
    吾が希望
(のぞみ)今も燃ゆる
    精神
(こころ)鍛えよ生命(いのち)の限り
    栄誉
(ほまれ)は吾等荏原の健児
    荏原 荏原 荏原高校

 部活が盛んで野球部の甲子園出場、ラグビー・ゴルフ・器械体操・柔道などでも優秀な実績を多数
残している。

 応援歌
    多摩の流れを身に近く
    伝統誇る我が母校
    躍動させる若人よ
    強く明るくフェアに
    おお荏原 おお荏原


 卒業生にはこんな人たちが
 佐藤弘道(10代目体操のお兄さん)・中田大輔(トランポリン)・西川哲(プロゴルファー、菊
池桃子の夫)・井沢利光・丸山茂樹・中沢不二夫(初代パリーグ会長)・横沢三郎(パリーク審判部
長)・桑田武(プロ野球)・大後栄治(神大陸上監督箱根駅伝2回優勝)
 


池上道 相州鎌倉道 古東海道 平間街道
 古い池上道は、大森駅から環七の手前まで池上バス通り(池上通り)の八景坂(やけいざか)を下
り、大森郵便局の先の追分で、新道(池上通り)と別れて山王新三商店街に入っていく。環七通りを
越えると春日通りがかつての池上道だ。この道は池上通りとほぼ平行して進む。呑川は浄国橋で渡り、
本門寺前を過ぎ、池上警察署の先で第二京浜国道を越える。久が原と千鳥町1丁目の境の細い道を西
に行く。東急池上線千鳥町駅北の踏切を通って、千鳥町3丁目著目の五差路を歩行者専用道路に入り、
光明寺前に出る。環八通りが出来てこの辺りの様子が一変したので、古い道は判らなくなってしまっ
ているが、環八通りの「区民プラザ」の交差点を渡り、多摩堤通りの「下丸子駅前」交差点を越え、
南に進み東急目蒲線の踏切を渡り、西に行ってまた南下してガス橋に向かうが、この辺りは区画整理
で新道が作られたり、拡張されたり、直線化されたりで、昔のそのままの道は残っていない。多摩川
には平間街道の渡しの石碑もない。区教委の『古老聞書』によると、平間街道は近郷の農家が、野菜
を市場に運ぶため大八車や牛車に積んで運んだ産業道路だったという。池上本門寺参道入口にある「万
屋」の辺りは商家が建ち並び、池上警察署辺りまで町並みがあったらしい。松林があり千本松と呼ば
れてたとも。反対の大森方向は、途中に寂しい場所があり、子母沢原(シモサッパラ)と呼ばれてい
たんだそうだ。この道を明治末から大正にかけて、大森駅から池上本門寺まで乗合馬車が通っていた。
 荏原郡の古地図によると、大雑把だが新田神社、十寄神社を道の東に記している。距離は全く判ら
ないが、矢口を通ったとも考えられ、古道らしい道筋は多摩川まで残っている。
 


■平間の渡し(丸子の渡し) 
区史跡

  明和三年(1766)より始まった下丸子沼部(現田園調布本町)と上丸子(川崎市中原区)とを
結ぶ多摩川の渡しで、昭和初期まで存続した古くは「まりこ」ともいったといい。渡し守子の「も
りこ」が訛って「まりこ」となったともいわれるが、それはないだろう。ガス橋は、昭和6年ガス管
を渡すことが主目的で架けられた橋で
ガス管橋を補強するため頑丈に作り人道橋とした。橋の架橋
ですぐに渡しが廃業したのではないようだ
車が通れるような橋になったのは、昭和35年の改架か
らだ。大田区史跡として昭和50年3月19日に指定された。

   大田区文化財
   
丸子の渡し
   丸子の渡しは、沼部(現田園調布本町)と上丸子(川崎市中原区)とを結ぶ多摩川の渡し
   で、古くは「まりこのわたし」ともいった。渡し守子の「もりこ」が訛って「まりこ」と
   なったともいわれる。
   この付近は、すでに鎌倉時代の文書に「丸子荘」と記載されたり、また文明十八年(148
   6)から19年にかけて、京都から東国方面へ旅行した際の記録である「廻国雑記」に
    東路のまりこの里に行かかり あしもやすめずいそぐ暮れかな
   と詠まれた。中世以来の渡し場と推定される。
   江戸時代になると、中原街道が整備され、物資の搬入等に利用され、昭和9年丸子橋が完
   成するまで利用され、江戸東京の玄関口として 大きな役割を果たしていた。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会
 

 



 【石川町】(いしかわちょう)1~2丁目               昭和41年5月1日
 石川村。明治22年池上村大字石川。大正15年から池上町大字石川。昭和7年大森区石川町。
同22年大田区石川町。同41年新住居表示を実施、南千束町・雪が谷町の各一部を編入した町域
を現行の「石川町」として今日に至っている。区の西北部にあって目黒区に接する。町内に東京工
業大学のある住宅街。東急池上線の石川台駅がある。ただし石川台という町域はない。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 石川の由来
 町内を流れる呑川のこの辺りの古称による。水が石川原を流れていた。現在はコンクリート護岸
となって昔の佇まいを想像することは不可能だ。
 


■東京工業大学・石川台キャンパス

 石川町1丁目1番にある。大岡山キャンパスといわれるが半分は石川町にある。

 
出穂山稲荷大明神
 構内東側にある。

 
庚申塔
 稲荷の傍らにある。
右面「これより・・・」、正面「庚申供養」"享保十乙巳年十月吉日」、左面:
「これより・・・・」。


■神明坂
 
石川町1丁目2。3番の北側を東に上がっている坂道。名前は少し北に神明社(石川神社)がある
ことによる。

   神明坂  しんめいざか
   昔,坂のそばに、村の鎮守の神明社があったので、神明坂 というようになったと伝えられ
   ている。 神明社は,現在の石川神社である。
   昭和60年3月                              大田区
 


■石川町上の台公園
 
石川町1丁目3番2号にある区立公園。


■稲荷坂
 
石川町1丁目3番と4・5番の間の細い曲がりくねった東に上がる坂道。石川町上の台公園の南側
の道だ。名前の稲荷社は見当たらない。

   稲荷坂 いなりざか
   坂の由来は、坂の南側に稲荷社があったことによる。この坂道は、もとは洗足池の脇から
   九品仏に通じた古い道である。
   昭和60年3月                              大田区


■郷倉 
区有形文化財
 
石川町1丁目4番13号の鈴木家敷地にある。江戸時代に郷村に設置された公的な穀物倉庫で、都
内では残り少ないものの一つである。年貢米の保管をしたり、飢饉に備えて穀物を貯蔵するために利
用された。石川村は幕府の直轄地で、この倉は名主宅に置かれ、管理された。毎年収穫時には、詰め
替えが行われ、米100俵(約6t)分が格納できたという。元は、屋根は草葺きで、村道に面して
建てられていたというが、現在は鉄板に葺き替えられ、位置も僅かに移動されている。昭和49年2
月2日大田区の有形文化財に指定された。
 


■庚申堂
 
石川町1丁目13番4号にある小堂内に2基ある。
 ①角柱型 「
庚申供養」「享保十三戊申天」「石川村」「十一月吉日」と刻む。
 ②板状駒型 日月・青面金剛(剣索六臂)・三猿。「世田谷領之内石川村願主」「貞享元甲子天」
  「十二月廿九日」と刻む。


■桑の木児童公園
 
石川町1丁目17番13号にある区立公園。


■石川神社
 
石川町1丁目20番1号にある。神明坂から東工大の西側を入っていったところだ。かつての石川
村の鎮守。
 


■上呑川児童公園
 
石川町1丁目25番10号にある区立公園。


■東京工業大学・大岡山キャンパス

 石川町1丁目31番にある。表が目黒区なので目黒区に記した
 


■石川町二丁目児童公園
 
石川町2丁目2番14号にある区立公園。


■華園児童公園
 
石川町2丁目9番12号にある区立公園。


■石川町二丁目第二児童公園
 
石川町2丁目12番7号にある区立公園。


■石川町二丁目第三児童公園
 
石川町2丁目15番3号にある区立公園。


■石川公園
 
石川町2丁目19番1号にある区立公園。


■世田谷区立東玉川小学校

 石川町2丁目22番にあるが、何で世田谷区でないんだろうかネ?。住所的には校地の一部が奥沢
1丁目1番1号にかかっているので、そっちになっている。
 


■石川台中学校

 石川町2丁目23番1号にある区立校。昭和30年4月大森第六・田園調布・雪谷の3中学校より
分離合併し「東京都大田区立石川台中学校」として12学級576名で開校。同31年校歌制定。

 校歌:昭和30年6月14日本校にふさわしい 校歌を制定すべく、地域の父兄等に呼び かけて、
公募した。その中から、宮本映の作詩が選ばれ、それを基に正木遠音が補作して、現在の歌詞が生ま
れた。作曲は東京音楽学校教授長谷川良夫に依頼し、同31年1月18日盛大な発表会が催された。
  1.田園の緑を越えて
    渡り来る風も清かに
    花匂う自治の学び舎
    ああ母校 石川台中学
    友愛の微笑み交わし
    若き日の希望に燃えて
    集える我ら
  2.呑川の囁く畔
    遠霞む富士を臨みて
    只管に励む三歳よ
    ああ母校 石川台中学
    夢多き双葉の命
    溌剌と光りの空に
    伸び行く我ら
  3.白珠の清きが如く
    身と心 常に磨きて
    窮め行かん心理一筋
    ああ母校 石川台中学
    新たなる文化を目指し
    日本の未来を担う者
    若人 我ら


 同32年講堂兼体育館完成。北側校地を買収。校舎裏埋立。同34年第一期増築木造校舎4教室。
プール完成。同35年第2期増築木造校舎6教室。同36年第3期増築木造校舎6教室。同38年給
食室完成。ミルク給食開始。同39年創立10周年記念式典・石中音頭発表。耐寒訓練・駅伝マラソ
ン開始。同40年校庭グリーンベルト造り(カイヅカイブキ植栽)。同42年中華民国義務教育訪問
団来校。プール浄化装置設置。同44年鉄筋コンクリート給食調理室完成。創立15周年記念式典。
同49年第一期鉄筋コンクリート校舎落成。同50年第二期鉄筋コンクリート校舎落成。創立20周
年記念庭園完成。校庭整備スプリンクラー敷設。創立20周年記念式典。同51年旧講堂撤去、校庭
整地・撒水装置完成。校庭に欅10本植樹。同57年校庭白砂散布整地。同59年創立30周年記念
式典。
 平成3年コンピュータルーム完成。同6年創立40周年記念式典。同7年プール解体。同8年科学
センター開室。新プール完成。同9年給食調理民間委託。同10年校舎耐震化。同13年夏季林間志
賀高原最終。同14年1年東部町,2年野辺山 移動教室開始(以後毎年実施)。同16年創立50周
年記念式典。
 


■しばざくらきんたろう児童公園

 石川町2丁目24番2号、呑川に沿ってある。ふつうの街中の公園だが、春にシバザクラが咲くこ
と、元の地主が「金太郎」という名前だったのが由来だそうだ。
 


■石橋供養塔 
有形文化財
 
石川町2丁目28番4号先の、中原街道を通す呑川の石川橋の際の植栽の中にある。安永三年(1
774)ここに初めて石橋が架けられた時の記念碑で、雪ヶ谷村供養導師浄心以下5名の者が本願主
となって交通安全を祈念して建立した。円長寺12世日善が筆を執り、表に「南無妙法蓮華経」と題
目が刻まれ、脇に浄心ら5人の名前が彫ってある。側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花
押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院が何れも同宗であっ
たという地域的な特色によるものだ。昭和51年2月25日区の有形文化財に指定された。嘗てあっ
た説明板と現在の説明板を示す。

   大田区文化財 石橋供養塔
   高さ151cm 幅39cm 厚さ27cm
   中原街道の路傍にある、この供養塔は、
安永三年(1774)に、雪ヶ谷村浄心や澤右衛
   門ら6名の者が本願主となって呑川に架けられた石橋の安全と通行者の安全を願って建立
   したものである。
   ふつうの石破供養塔には、ほかの民間信仰を兼ねるものが多い。しかし、本塔は交通上の
   安全祈願だけを目的としており、しかも七字題目を彫った日蓮宗者の者であって、稀少な
   例といえよう。
   昭和51年2月25日指定                    大田区教育委員会


   大田区文化財
   
石橋供養塔
   安永三年(1774)に、雪ヶ谷村浄心ら6名の者が本願主となって建てられた供養塔で
   ある。
   石橋は現存しないが、呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられてい
   たことがわかる。
   正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名
   と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がい
   ずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。
   石橋供養塔は、他の民間信仰供養塔兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の
   安全という交通安全だけを目的としてたてられたものであり、貴重である。
   昭和51年2月25日指定                    大田区教育委員会
 


■石川台児童公園
 
石川町2丁目33番2号にある区立公園。




【鵜の木】(うのき)1~3丁目                   昭和43年9月1日
 鵜ノ木村。明治22年「市制町村制」により調布村大字鵜ノ木。昭和3年町制に移行して東調布
町大字鵜ノ木。昭和7年大森区の成立により調布鵜ノ木町と字大塚が独立して調布大塚町に分かれ
た。同22年大田区が成立。同43年調布鵜ノ木町の西半に調布嶺町2丁目の大部分をあわせた町
域を現行の「鵜の木」とした。このときに法律の主旨に従って〝ノ〟の字を平かなに改めた。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 鵜の木の由来
 『新編武蔵風土記』の神社の条に、

   伝承では鵜ノ森、烏ノ森(新橋)、鷺ノ森(白金)、鈴ケ森(大森)を合わせて「四
   つ森」と言い習わしている。現在来北蒲田村の八幡神社を稗田神社というのは誤りで、
   稗田神社は鵜ノ森の明神社である。その祭神が神武天皇の父親鵜茅葺不合尊(うがや
   ふきあえずのみこと)だったことから、いつしか明神の森を「鵜ノ森」と呼ぶように
   なり村も鵜ノ森村と称えるようになったが、1丁目にある光明寺の住職が〝鵜ノ木〟
   と書いたことで鵜ノ木村と改めた。


 とある。大田区役所総務部が監修した『大田区地名考』には、

   鵜ノ木明神の所在は明らかでなく、とにかく鵜の集まったも森があり、地名となり鵜
   ノ木と変化した。


 と結論し『大森区史』の別説を紹介している。すなわち、

   行基が開基の光明寺は、また弘法大師の再興と伝えられた。それはともかく武州の中
   でも屈指の古刹ではあるのだが、高僧が出ず沈滞の極に達していた。たまたま高僧が
   来るという流言が四辺に伝わり参拝者が引きも切らなかった。当時寺の下は九つの入
   江の一つ千鳥窪で潮が崖下を洗っていたが海上にポツンと浮かんだ黒点が見る見る大
   きくなると丈余の鵜の鳥で、その背に高僧が乗っていた。以後鵜の集まること物凄く、
   みな寺裏の池に住んだので池の水は真っ黒に見えた。やがて人々は鵜の木村と呼ぶよ
   うになった。


 と。往時七堂伽藍の立ち並ぶ威容は物凄く関東高野山として真言宗の大寺だった。江戸時代は浄
土宗に改宗し関東弘通最初念仏道場となった。大層繁盛した寺で多摩川の平間の渡しは光明寺参拝
のための渡し舟だったという。明神社は光明寺の境内にあったのかもしれない。今は環八通りが寺
域を削り喧噪の寺となってしまった。とまれ鵜ノ木は光明寺の森だ!
 だが本間信治は「古語ではウノは〝野〟の美称、キは〝際〟で、北方が久が原であるし、ウノキ
は野の際だ」と説いている。さもありなん。


■天明の森

 鵜の木1丁目1番5号にある天明家の屋敷林。この辺は天明姓が多い。
 


■護摩堂の洗い場跡

 鵜の木1丁目1番5号天明家の北側にあった六郷用水の洗い場。


■しんせい児童公園

 鵜の木1丁目2番14号にある区立公園。


■嶺の四庚申(嶺北向庚申)

 鵜の木1丁目2番18号石段を上がったところにある。①三猿。②
正面「奉納」。左面「明治三十
七年七月」「庚申」と刻む。③日月・青面金剛(剣人六臂)・邪鬼・二鶏・三猿。「于時享保七壬寅
年十月八日」「武州荏原郡六江領ノ内峯邑」と刻む。④三猿。


■天明の森
■天明茂光家母屋 
移築
 鵜の木1丁目5番1号にあったが、小金井の「江戸東京たてもの園」に移築した。
天明家は、鎌倉
時代に下野国(栃木県)鵜の木に移り住み、江戸時代には名主を務めた。かつて家の外には大きな竈
(かまど)があり、屋号を「竈様(へっついさま)」といった。大名が多摩川の鮎狩りなどに訪れる
ときは本陣を勤め、明治時代には村役場としても使用されたことがある。敷地の西側は江戸時代から
の大切な農業用水であった六郷用水に面しており、約3000坪余の広大な敷地を有していた。
 天明家の入口である長屋門には、明和六年(1769)の棟札があり、主屋も同時代の完成と推定
される。天明家に残る文書には、長屋門が文化三年(1806)に建て替えられたとの記録がある。
また屋敷の西側は、主屋完成後に増築された書院造りの建物で、修理の記録から文化五年(1808)
以前には完成していたことが判る。玄関には式台がついており、格式の高さを窺うことができる。
 長屋門・飼葉小屋などは、当時と同じ配置だ。また建築年は不明だが、昭和の初め頃までは屋敷の
東側に作業場、馬小屋、鳥小屋、米つき小屋が残っていた。また庭に移築された稲荷では、同30年
代まで毎年初午祭を行っていた。初午の日は、織を立てて近所の子どもを集め、菓子などを配ったと
いう。家の規模や造りから江戸時代の豪農の暮らしぶりが伝わる古民家だ。


 
古文書
 
代々名主を務め、明治初期には戸長を務めたため、鵜ノ木村の江戸期の民政史料約260点、明治
期のもの500点を伝存する。鵜ノ木村の村落構成や、この地域の概況を知る貴重な史料だ。この史
料は学界にも公開されていないらしい。先祖がよっぽど都合の悪いことをやっちゃったのかな?
 


■鵜の木一丁目横穴墓群

 鵜の木1丁目6番1号の鵜の木松山公園の東斜面、標高約12mの地点にある。多摩川流域の横穴
墓は、古墳時代から奈良時代(6世紀末~8世紀前半)にかけて、台地斜面に横穴を掘って造られた
地域の有力者の墓だ。大田区周辺の台地斜面では、鵜の木台地をはじめとして、今までにおよそ26
0基の横穴墓が発見されている。
 鵜の木一丁目横穴墓群は、七世紀後半から八世紀前半にかけて構築された。昭和61年の公園造成
の際に2基が、平成17~19年の公園整備で4号~7号墓が発掘調査されている。
 中でも6号墓は、大田区周辺に見られる特徴的な切石羨門構造をもつ貴重な横穴墓であることから
発掘当時の姿で保存してい。

   6号横穴墓について
   6号墓は、墓道と羨門および墓室からなり、全長11,3mと長大です。墓道は切り通し状
   で、被葬者を墓室へ運び、墓前祭を行う場所で5,9mあります。
   泥岩製切石の羨門は、高さ1m、幅0.7mあり、3段積の切石で閉じられていました。墓
   室は徳利を半分に割った形で、全長5.4mです。被葬者は墓室奥に、礫敷きの棺台に3体
   埋葬されていました。3体は、20歳前後2体と30歳以上1体です。内1体は、20歳
   前後の女性と判明しています。
   3体の被葬者が追葬されていることから、6号墓は、有力者の家族墓と思われ、その形態
   と付近の横穴墓の年代から奈良時代前後に造られたと考えられます。
 


■鵜の木松山公園

 鵜の木1丁目6番1号にある区立公園。


■河原坂

 鵜の木1丁目10番と12番にある坂道。鵜の木松山公園の南側の入口付近から西へ,途中直角に
南に折れる。

   河原坂 かわらざか
   現在の鵜の木2、3丁目付近は昔、多摩川の河川敷であったので、河原の地名がある。坂
   名の由来は、この河原に出る坂道であることによる。今は「切通」になっていてゆるやか
   であるが、以前は道幅も狭く急な坂で、河原の畑を往来する荷車などは難儀をしたという。
   昭和60年3月                              大田区


■天明の森
■天明秀穂家四脚門と母屋

 鵜の木1丁目12番11号にある。ともに江戸中期の建造になる村役クラスの農家。比較的旧状を
残しており、茅葺きのもので、区内では最古に属する。
 


青林山増明院金剛寺

 鵜の木1丁目15番5号にある新義真言宗智山派の寺。創建は不明だが、寺伝によると元和(16
24)以前とされているものの、寛文二年(1662)鵜ノ木一帯地が青山因幡守宗俊の領地となっ
た後、宗俊が開基、高野山より下向した長誉阿闍梨が開山となって、正保四年(1647)に開かれ
たとも伝える。境内にある享保十二年(1727)建立の供養塔の刻銘によると、中興は元禄十二年
(1699)映俊が再興したとしている。玉川八十八ヶ所霊場58番札所。境内には備前池田家の表
門であったと伝えられる武家屋敷門が山門として使用されている。「新編武蔵風土記稿」に、

   (鵜ノ木村)増明院
   除地二段余、村の南なり青林山金剛寺と号す。新義真言宗高畑村宝幢院の末なり。御入国
   の頃はわづかなる寮にて修験者住めり。今の如く一寺となりし年暦は詳細にせざれど、開
   山長誉元禄年中寂すといへば、起立の年暦も推て知るべし。開基は青山因幡守なりといふ。
   中興開山映俊 延享三年七月十八日に寂せり。
   門
   東向、両柱の間八尺。
   客殿。
   七間に五間。本尊大日如来座像、二尺一寸許なるを安置せり。
   供養塔
   境内にあり。碑文の末に、享保十二年とあり。其文の大略は元禄十二年の頃映俊と云僧、
   此地に来りすみ、宝永年中に至りて再興のことを企て、山を 鑿ち地を掘りしに、供養の
   器と五股鉾を土中より得たり。其さまいと古雅にて、後世冶工の手になりしものとも見え
   ず。思ふに此地の道場は古きことにて、戦国の頃兵火のためにやきのこりしもの、土中に
   埋もれしならんと云ことを彫りたり是等のことをもて見れば、御入国以前より修験のるい
   おりし寮なることしらるべきなり。
   伊勢宮二ヶ所
   一は境内背後の山上にあり。一は上り口にあり。共にわづかなる祠。
   三島社跡
   是も境内にあり。今は其処を三嶋の森と呼べり。


 とある。

 ●花の寺
 境内にはソメイヨシノ、シダレザクラが混在するので春は実に華やかで賑やか。シダレザクラは枝
振り・花の色・花の量の三拍子揃っているので、カメラマンがどっと押し寄せる。初秋の見ものは彼
岸前後に咲くヒガンバナ(マンジュシャゲ)だ。

 
弘法大師行脚像
 境内にある石像。  
 


■富士見坂

 鵜の木1丁目15番5号増明院の南の道を西にくねくね上がっていく急な坂道。上り切ったところ
で富士山が見えたのだろう。区の標識はない。


大金山宝幢院
光明寺
 鵜の木1丁目23番10号にある浄土宗の寺。寺伝によると天平年間(729~749)に行基が
開創し、弘仁年間(810~824)に空海が再興して「関東高野山宝幢院」と称した名刹。寛喜年
間(1229~32)になって、浄土宗西山派の祖善慧証空が再興して浄土宗に改め、関東弘通念仏
最初の道場となり、「大金山光明寺」と称するようになった。第3世行観覚融は、空海の興し
た密教の道場が浄土宗に替わったため、空海の興した密教の道場が消滅してしまうことを惜しみ、別
に西六郷に真言宗高幡宝幢院を創建、当寺は寺号の光明寺を、創建した真言宗寺院は院号の宝幢院を
通称としたという。延応元年(1239)に然阿良忠が住して西山派から鎮西派となり、現在に至っ
ている。また古い埋葬習慣である「両墓制」が今も残り、都内唯一の遺存例として民俗学上注目され
る。両墓制とは遺骸を埋葬した葬地のほかに、死者の霊を祀るために別に祭地をおく墓制。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   (鵜ノ木村)光明寺
   境内除地凡一萬坪。是も村の南方にあり。境内も元は今より廣かりしに故有て慶長の頃せ
   ばまりしと云。大金山宝幢院と号す。浄土宗京都知恩院末、中古善導大師の像当寺の池中
   より出現せしことありしに、時の住持記主禅師、彼大師善惠證空上人寛喜年中当寺を草創
   せり。其由来を尋るに、是よりさき弘法大師当所へ来りて勤業ありしのち、一寺となりて
   ありしを上人有縁の地なればとて、密教の道場を改めて浄土の寺院とせられけるとぞ。さ
   てこそ第三世行観上人、大師のあとの湮没せんことをおそれて、別に高畑村へ真言の寺院
   をひらきしといへり。事は宝幢院の條下につきて見るべし。抑善惠上人の事實を尋るに、
   寺傳に云、上人俗姓は源氏、村上天皇の皇胤加賀守親季が長男なり。治承元年十一月九日
   生る。甫め十四歳法然上人の弟子となり。道徳の聞えあり。宝治元年十一月二十六日寂す。
   歳七十一、善惠国師と謚せり。上人遷化の後第三世までは西山派なりしに、第四世記主禅
   師の時に至り鎮西派に改めてより、今も其教を奉ぜり。故にこの禅師を中興の開山とす。
   惣門
   柱間九尺東向、門外に関東弘通念仏最初の道場とかきししるしを建たり。門を入り右に清
   閑院と云う塔頭ありしに、今は廃して蹟のみのこれり。
   中門
   惣門の中にあり。是も東向。
   客殿
   八尺四方。是も東向光明宝林の四縁山大僧正満空書とあり。本尊観世音立像三尺なるを安
   ず。その余記主禅師位牌及木像等を安置せり。
   宝物
   扇面一枚。開山善惠上人、奥州白川関にて詠ぜし和歌を、上人の自ら片かなを以て書せし
   なり。
   袈裟二領。一は開山善惠上人の用ひし袈裟なり、一は鎌倉光明寺記主禅師の着用せし袈裟
   なり。
   印一顆。芝増上寺中興開山観智国師の所持なりしと云。
   六字名号二幅。一は円光大師の筆、一は観智国師の書なり。
   自然木の佛像一体。
   円光大師木像一体。長三寸五分。大師の自作なり。
   名号石一顆。讃岐国坂田より出現せり。坂田にて貝の鳴しことありし時、円光大師六字の
   名号を石に彫りて与へしかば、其声止みぬと、是も浮屠氏の虚誕なるべし。
   経文。経文の残骸にて、中将姫の書なりと云へど、筆勢も遵勁なれば男子の書なるべし。
   善導大師像一体。立像五尺ばかり。年暦しらず。当寺の池中より得たり。弘法大師の作な
   るべしといふ。本堂に安ぜり。
   額一面。大寶王の三字を書す。弘法 大師の筆なり。この額は弁天の社に掲げありしかど、
   其社は廃せり。今書院の前に弁天の祠あるは其蹟なりと傳ふ。
   雷斧一挺。長一尺四寸周七寸。
   鐘楼。本堂に向て右方丘上にあり。鐘の径り三尺余。銘は考證に備ふべきことなく、且享
   保年間の撰なればりゃくせり。
   雷留観音堂
   中門を入て右にあり。二間半に三間半。観音立像三尺、殊勝の古佛なり。裾の方焼損じて
   あり。当寺縁起に、寛喜の頃いづれかの年か六月九日、開山善惠上人鎌倉八幡宮へ十七日
   通夜し、満ずる翌朝門外に異僧に逢ひしが、彼僧此木像を授て去れり。この像しばしば光
   明を放ちければ、当寺を光明と号せりと。この寺之境内廣かりし頃は、この堂も今の処よ
   りはるかに隔てあり。逢い傳ふ新田義興の霊雷となりて、江戸遠江守を追ひし時かたへの
   辻堂をさして逃げると「太平記」に載せたるは、則この辻堂のことにて、昔の所にありし
   ころは、人家をはなれてありしさまおもひみるべし。その時雷火を防ぎし霊験あるにより、
   この名を負へりと。像のたたれしもこの時のことなるが、遥の後当寺の境内せばまりし頃、
   改めて堂を此地へ構へりと云ふ。
   腹帯地蔵堂
   是も中門を入て右にあり。堂は九尺に二間。本尊立像長八寸、弘法大師の作なり。腹帯と
   云こと縁故あらん。未だ詳にせず。
   弁天社
   中門を入て左にあり。二間に三間、神体一尺二寸。宝珠をまきし蛇形なり。年代を傳へず。
   井伊掃部頭納めしと云。右に宇賀神の像ありしなり。
   熊野権現龍爪権現合社
   中門を入て左の方小高き処にあり。前に鳥居を建てり。
   
   書院の前にあり。光明寺池と云。東西百五十間南北五十間許。相傳ふこの池古の多摩川筋
   にて、矢口村の沼に続しと、近き頃までは池と沼との間に塘ありしに、今は古のさまを失
   ひ、沼も亦水田となれり。或時この池の岸を修造せんとて、側の山の根を穿ちしに、石槨
   を得たり。其中に首領より手足に至るまで全く存せる枯骨あり。何れの年いかなる人の葬
   所にや。今石碑を立て入定の僧の屍骸ならんと、銘文に云へども、素より石槨中誌銘等も
   なかりしといへば、其實はしるべからず。境内背後の山に龍燈松と云松あり。此境内にた
   またま龍爪権現あるによりてかく名付しにや。この松いつのころにか枯れていまはなし。
   古碑
   境内鐘楼の傍にあり。相傳ふ当寺境内に古碑ありしに、素より○碑となり又は文字読得ざ
   るも多ければ、それをばここに埋めたりとて、其上に碑を建たり。側に貞永より天文に至
   るまでの古碑三十基余を積たり。されど法謚もなく年月をのみ刻みたるもの多ければ、今
   其年月法謚など見えたる碑を左にのせたり。明徳四年阿闍梨性賢、嘉吉三年道秀禅門、文
   安二年三月二日覚仙阿闍梨、文明四年十月慧蓮、明応二年十二月十一日祐林禅尼、文亀二
   年逆修秀意、永正二年妙心禅尼、永正七年六月二十八日妙忍禅尼、天文三年甲午性範大徳。
   稲荷社(藤森稲荷神社)
   大門前古松の傍にあり。藤森稲荷社と号す。

 とある。

 阿弥陀如来像
 本尊。三尊形式のもので、寄木造り、高さ1m。藤原期の仏師で名匠と謳われる仏師法眼左京康知
の作と伝えられる。

 
善導大師立像
 御影堂に安置されている。高さ1m64cm。厨子入りの木像で、作風は古様を示す。秘仏とされ
毎月14日だけ開扉される。

 四天王立像
 善導大師像の厨子の置かれた壇上の四方に安置されている広目天・多聞天・持国天・増長天。台座
裏の銘文で元江戸城内紅葉山の大猷院廟(家光廟)にあったが、のちに芝の増上寺下賜され、さらに
明治初年にこの寺に移されたことが判る。。承応三年(1654)に幕府の命で、仏師法眼左京康知
が作ったもので、江戸初期の代表的作品でもあり、都の文化財に指定されている。

 
地蔵菩薩立像
 像高60cm7mm、彫眼、荒彫り、一木造り。首部は別木と思われ、帯の結びが特殊なところか
ら「腹帯地蔵」とも呼ばれ、安産の祈願仏とされる。古くからこの像が檀家の家々を巡回して、出開
帳供養をする習俗があり、民俗学上の注目がある。
 伝説によると、弘法大師(空海)が、百姓の妻の難産を救ったとき、邪心の夫が、杵で空海を撲ち
殺そうとした。ところが手に杵がついて取れなくなった。驚いて前非を悔い、仏心を起こすと、杵が
離れたので、弘法大師はこの杵で木像を刻んだといい、杵作り地蔵とも呼ばれる。杵で作ったにしちゃ
あ仏像は大きいなぁ。

 十一面観世音菩薩立像
 
元は境内にあった観音堂の本尊で、高さ103cm。今は御影堂に安置されている。寺伝によると、
この像は、摂津の四天王寺聖霊院の本尊だったが、開山善慧が、東国下向の時に持ってきたという。
これ泥棒とちゃうんけ。 伝説では、矢口の渡しで新田義興が自尽した後、その怨霊の雷火で脅(お
びや)かされた。そこで鵜ノ木村の浄心がこの像に祈願を込めたところ、それ以来治まったので「雷
留観音」と尊崇された。
 このほかにも多数の仏像が安置されている。

 梵鐘
 本堂北側の鐘楼に吊り下げられている。口径91cm5mm。銘文により、享保2年(1717)
に、増上寺祐天(目黒祐天寺の開山)が名号を書き、鵜ノ木村の天明五郎右衛門光周ほか数100名
が寄進して江戸神田の鋳物師(いもじ)藤原長義が鋳造したことが判る。なお本鐘には、先鐘施主の
法号が刻まれてるので、これ以前にあった梵鐘を改鋳したものらしい。

 
体空法印供養碑
 御影堂の裏手にある。寛政六年(1794)、ここで横穴式古墳が発見され人骨が出土した。これ
を当時の人々は禅定者の入定穴と思い込み、体空法印と諡号して供養碑を建てた。碑文には発見の年
月・動機・状況や、特に横穴内部の構造などが詳細に記されているので、考古学上注目すべき資料で
はある。

 板碑

 稀に見る大量の出土で、調査によると正安元年(1299)から永正十一年(1514)に至る1
10余基が確認されている。その殆どが弥陀ないしは弥陀三尊種子を持つ。

 光明寺池
 寺の西側、玉堤通りに面してある。古多摩川の流路だったと伝えられ、新田義興が、矢口の渡しで
謀殺されたころの川筋は、この池から新田神社裏に抜ける矢口沼を通っていたという切もる。

 
荒塚
 境内北方の環八寄りのところにある。囲ってあるので近づくことはできない。グーグルマップなら
上から見ることはできるが真上なのであんまりお勧めはできない。義興の祟りで死んだ江戸遠江守を
葬った塚(墓 土饅頭)だ。
 


■鵜の木駅

 鵜の木2丁目4番1号にある東急多摩川線の停車場。目蒲線が全通した大正12年11月1日から
約4ヶ月後の、同13年2月29日に追加開業した。閏年の2月29日開業の駅は極めて珍しい。当
初、駅名の表記は「鵜ノ木」だったが、昭和41年に「鵜の木」に改称した。平成12年8月には、
駅の所属が目蒲線から東急多摩川線に変わった。ホームは地上相対式2面2線。上下ホームは完全分
離されていて行き来ができないが、トイレは1番線にしかないので要注意。駅長事務室も1番線側駅
舎にあるが遠隔管理を行っているので駅員はいない無人駅。改札口・出口はホームごとにある。いず
れの出口も蒲田寄り先端部。
 ホームは3両分の長さしかない。東急多摩川線は全列車が3両編成なので何の問題もないが、4両
編成だった目蒲線時代は停まりきれず、目黒寄り1両がホームからはみ出していた。
 


■鵜の木アパート女性絞殺事件

 鵜の木2丁目12番17号ハウス309の1階の部屋でこの部屋に住む上原桃子(27歳)が出社
しないのを訝しく思った上司が、警察官と一緒に部屋に入ったところ、女性が死亡しているのを発見
した。
 平成25年10月25日午前11時頃、出社もせず、連絡もつかないことを不審に思った上司が女
性の部屋を訪れたところ鍵がかかっていたので、最寄りの交番に相談、警察官と一緒に女性の部屋に
入ったところ、布団の上に女性が仰向けに倒れていて既に死亡していた。遺体は上半身裸で、顔から
下に布団が掛けられていた。外傷はなかったが顔が鬱血していたため首を絞められたものと思われ、
警視庁は殺人事件として捜査を開始した。現場の窓は開いており、ガラスには小さな穴が開けられて
いるという。寝ているところを襲われたのかもしれない。女性は24日は普通に勤務して帰宅した。
女性の携帯電話と部屋の鍵は残されており、犯人は窓から出入りしたものと思われる。現場は、東急
多摩川線鵜の木駅の南約100mの住宅密集地、高級とは言い難いが、閑静な場所ではある。

 自殺
 この日の夜7時頃、JR新小岩駅で男が特急電車に飛び込んで死亡した。この男、上原の元同僚で
あることが判明、事件との関係を調べている。この男は上原に借金があったという。
 また近所の人が、1か月ほど前に上原の部屋で男女が言い争っているのを聞いている。

 結果
 11月24日警視庁は、元同僚の男(26歳)が、被害者宅の入口の鍵を持っていたことから、被
疑者死亡で書類送検した。氏名は公表しなかった。
  


■鵜の木二丁目児童公園

 鵜の木2丁目32番20号にある区立公園。


常住山妙徳教会

 鵜の木2丁目37番5号にある日蓮宗の寺。教会といいながら、構えは寺そのもので、道場か布教
所か?
 昭和14年下谷区竹町6番地に創立。開山妙徳院日忠。池上・芳師法縁。同20年戦災で焼失し、
同22年現在地に建立移転。同26年本堂、同29年庫裡を再建。同60年書院新築。
 祖師像は、先代住職からの伝聞によると、終戦直後、浅草の仏具店の店先に厨子に入って置かれて
いたものを譲り受けたという。先代住職が店先を通りかかったところ、「私を譲りうけてくれ」と祖
師日蓮上人から声を掛けられたのだそうだ。像高およそ52cmと大型像であり、在家用に制作され
たものとは思われないことと、体内首部に「明治37年新刻」とあることから、恐らく他山の祖師像
として制作され格護されていたものが、戦災などで焼け出され、浅草の仏具店の店先に置かれていた
のだろうと推測される。
 


■東京高等学校

 鵜の木2丁目39番1号にある私立校。明治5年8月上野清、東京府第5大区7小区上野西黒門街1
1番地(現在の台東区上野1丁目)に「上野塾」を開き数学を教える。同21年7月上野塾の組織を
改革、「東京数理学絞」として神田区猿楽町に移転。同23年2月「東京数理学校」を閉校し、猿楽
町2番地に新たに「東京数学院」を開校。同26年12東京数学院に尋常中学部を設立。同27年9
月宮城県仙台に東京数学院宮城分院を設立。これは甲子園の常連、現在の東北高校だ。同29年12
月尋常中等部を東京数学院尋常中学と改称。同32年3月東京数学院尋常中学を東京中学と改称。東
京数学院(数学の専修学校)を神田区中猿楽町15番に移転。大正11年4月東京実業学校(東京実
業高等学校の前身)を併設。昭和9年4月大森区調布嶺町2丁目52番地(現在地)に東京中学校を
移転。同22年4月戦後の教育改革で新制東京中学校が発足。同23年4月新制東都高等学校発足。
本校を普通科、蒲田の東京実業学校を東都高等学校工業科、商業科とする。同25年11月蒲田校を
分離独立、東京実業高等学校とする。同29年10月東都高等学校を現在名に改称。同46年創立1
00周年を期して男女共学とする。
 平成14年創立130周年。同18年3号館落成。同19年新体育館完成。同24年創立140周
年記念式典。
 


■あおぞら児童公園

 鵜の木2丁目40番7号にある区立公園。


■多摩堤児童公園

 鵜の木3丁目4番4号にある区立公園。


■鵜の木三丁目児童公園

 鵜の木3丁目22番13号にある区立公園。
 


■鵜の木三丁目中央児童公園

 鵜の木3丁目24番13号にある区立公園。
 


■たんぽぽ児童公園

 鵜の木3丁目34番6号にある区立公園。
 

 



【大森】
 単独で「大森」という町名は無い。かつての大森村は現在の大森東・大森西・大森中だ。しかし
大森南は、旧森ヶ崎村であり、大森北は、旧入不斗村と旧新井村だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 大森の由来
 品川宿と多摩川の間に広大な森があり間の宿(あいのしゅく)として海岸端に大森宿があった。
間の宿というのは公認の宿場と宿場の間の臨時的補助的宿場をいう。つまりたいして開けてない純
農村だったということだ。とすれば村は田か畑か森か林か原っぱか岩場だった訳で、大森では開発
されていない森林が海際まで迫っていた。特に大森と名づけるからは富士の樹海ほどの規模だった
に違いない。というのは元禄八年(1695)の織田信久の検地のとき、あまりの広さに東・西・北
の三村に分けている。今は森も林も全く失われていい加減なことをいうしかないが、

  紅葉散る大我井杜の木綿襷(ゆうだすき) また目にかかる山の端もなし(藤原光俊)

「がい」は武蔵の方言で〝広大な〟という意味。鎌倉時代に「大杜」の記録があり、大森の字は明
徳二年(1392)の文書に見られるのが最初だという。文明十二年(1480)大田道灌が上洛の折
に、

   大森の木の下陰の涼しきに知るも知らぬも立ち止まりけり

 と詠んでいる。この地は荒藺ヶ崎の景勝を目の当たりにした絶好の場所で、そんな環境だから近
代まで農業というよりは漁業中心で「大森海苔」の養殖は天和ころから始まったと伝わり、幕府御
用の御前海苔場だった。つまり浅草海苔よりは上等だったということだ。その海苔養殖も昭和三十
年代で消滅してしまった。だからそんな訳で今大杜の森はない。

  大森へ海苔の成る木を植えておき(川柳)
  
大森の麦は蛇となり笠となり(川柳)
  
大森へ来ると近所の子を数え(川柳)

 と、大森は品川へ女遊びに行く口実に使われた。(大日本地名大辞典・東京都)
  


■大森海苔
 浅草海苔名高い海藻〝海苔〟の、江戸期における主な産地は大森村で、質的にも極上とされた。い
つから採取するようになったかについては諸説あるが、浅草永楽屋の『浅草海苔由来記』では、元禄
十六年(1703)の大地震で、浅草方面に隆起があり、海苔が全く取れなくなってしまった。とこ
ろが翌年の大水で、隅田川を流れ出た楢の小木が、大森沖の「益木ヶ瀬(まさきがせ)」に根を埋め
て立木のように立ち、その年の冬に、そこに黒海苔が付着し海苔ひびとなった。それを見た村人がそ
れを真似て、ひび麁朶を建てて海苔を養殖し始めたという。また一説によると5代将軍綱吉の「生類
憐れみの令」で禁猟になった浅草近辺の漁民が、元禄年間(1688~1704)に大森村に移住し
たともいう。
 しかし江戸期の地誌類などでは、貞享の頃(1684~88)から海苔製造が始まったとするのが
定説になっている。注目すべきは、天和二年(1682)に、大森村堀之内の野口六郎左衛門が、浅
草雷門前にある海苔問屋永楽屋庄右衛門と相談して、海辺に海苔ひびを建てる許可を幕府に願い出て
許されたのが、大森海苔の始めとする伝承だ。これを立証することはできないが、野口家には、都の
文化財に指定されている、正徳五年(1715)以来幕末に至る大森村海苔場磯付海面境界紛争の文
書を纏めた『海面ひび一件御裁許証文写』など四冊の写本が保存されているという。同家が大森村の
海苔採取業者の草分的存在であることには異論がなく、あるいは伝承が事実なのかもしれない。とに
かく江戸中期ごろから海苔の代名詞のように、〝大森海苔〟が江戸の名物としていいはやされるよう
になったことは事実で、それはここから最良の海苔が生産されたことによる。
 

 ●海苔を消化できるのは日本人だけ
 平成27年3月21日のMNSニュース。
 フランスの研究グループは、平成22年、海苔の成分であるポルフィランを分解する新しい酵素を
海に住む細菌から発見した。この酵素は寒天を分解する酵素と似ていたが、寒天は分解できず、海苔
のポルフィランだけを分解するためだけに発達した特別な酵素であることが分かった。彼らがその酵
素を作り出す遺伝子をもつ生物が他にもいないか探してみたところ、海に住む細菌だけでなく、人の
お腹から採取した腸内細菌の遺伝情報の中に、その遺伝子が存在していることが分かった。しかも、
その特別な腸内細菌は日本人にのみ見つかったとのこと。彼らは比較のために北米人の腸内細菌を調
べてみたが、発見できなかったという。
 人間は栄養分を吸収するために、食べた物を酵素により分解消化する必要がある。「腸内細菌」と
は、私たち人間の腸の中に住んでいる細菌のことだ。「細菌なんて汚い!」といっているお前さん、
腸内細菌は我々が健康に生きていくために非常に大切なものだ。そんな腸内細菌が我々日本人に海苔
を消化する力を与えてくれたことが、遺伝子の研究から明らかになったということだ。
 では、なぜ日本人の腸内に住む細菌だけが海の生物の遺伝子を持つことができたのだろうか? 研
究グループは、「生の海苔を食べることによって付着した菌が体に入り、腸の中で遺伝子の受け渡し
があったのではないか」と考えている。海に囲まれた土地で暮らし、昔から海藻を食べてきた日本人
だからこそ得られた機能なのかもしれない。日本人にとって、海苔などの海藻をうまく消化して栄養
分にすることができる腸内細菌をお腹に持っていることは、生きていくために有利だったと考えられ
る。
 

 
大森の力
 貢租は、延享三年(1746)に採取稼人の軒別で定められ、全額3貫340文を納め、宝暦七年
(1757)には、海苔場面積55000坪に増加、貢租も3貫703文になっている。文化八年(1
811)頃には、大森村の横棚海苔場が、沖寄りで汐合がよいためか極めて上質の海苔が採れ出した。
それが江戸城御用の御膳海苔として、浅草の永楽屋を経て上納され、その見返りに海苔場の保護、他
村の干渉排除、他村の海苔場新設禁止など独占的特権を得た。羽田猟師町が大森の稼ぎに便乗しよう
として鯛生簀補強の名目で海苔場を新設しようとしたが、大森村の反対で果たしえなかった。同十年
(1813)には、海苔場海面120266坪、貢租45貫215文と大幅にUpし、益々発展の一
途を辿った。 この頃の大森村の〝ひび〟の建て場所は、50間×30間くらいの面積の棚が15ヶ
所もあったそうだよ。文化十一年(1814)以後、慶応三年(1867)に至る上納高は、毎年3
500帖、生海苔にして50石に上り、その報償として幕府から年々80両が下付されたという。海
苔採取の戸数は約300戸、年間の生産高は約2000万枚で、当時の日本の全生産量の73%を占
めている。
 明治維新を迎え国事多難の時、新政府から御用金名目で金品供出を強要された大森村の海苔業者た
ちは、明治元年9月に5000両という大金を差し出している。新政府の草創期に当たって、各種業
界などに御国冥加金という形で、資金を巻き上げたようだ。これもその一環の調達金で、柴田家文書
によると、2500両は献納、残りは5年賦で返済という覚書が取り交わされた。しかし翌年大森村
は新政府と交渉して、返済分の代わりに海面23500坪を新しく海苔場に許可して貰った。場所は
大森村の地先の海面、東貫森(とうかんもり)というところにあったが、近年まで「官軍場」と呼ば
れ主要な海苔場だった。とにかく明治維新という混乱期に大森村が、5000両(20億円?)とい
う大金を村人から集めて調達しえた海苔業者の実力は「すっげぇ!」の一語に尽きるわいな。
 

 
諏訪商人
 東京湾の大森周辺の海苔養殖技術が全国に伝播し、太平洋岸に幾つかの海苔の生産地を生み出した
のは、江戸時代後期だった。それらの産地へは大森から直接、或いは間接に伝播しているが、それに
関わったのは、信州諏訪の海苔商人なのだ。冬期の出稼ぎに江戸へ出て、大森で海苔を仕入れ、江戸
市中から各街道筋を行商した訳さ。その諏訪商人が東海道筋を往来する内に、海苔生産に適した波の
静かな入江を見出し、新たな海苔仕入れ産地を興そうと、大森の海苔生産業者を伴って技術指導して
歩いた。今でも全国の海苔販売業者には諏訪出身の人が多いのは、こういう歴史があるからだ。
 

 終焉

 東京湾の相次ぐ埋め立てにより、海苔業者が漁業権を放棄させられ、海苔生産の灯が消えてしまっ
たのは、東京オリンピックのちょっと前、昭和37年12月のことだ。同40年、戦後の昭和25年
以来の大森漁業組合も解散し、海苔小屋が工場になったり、海苔の干し場にアパートが建ったりと、
大森界隈の景色は一変してしまった。かつての海苔場は埋め立てられて京浜島・城南島・昭和島とな
り、工場団地や公園ができて、モノレールや高速道路が走っている。大森と海苔はもう結びつかず、
海苔の採れない浅草海苔の名は残ったのに、大森海苔は忘れ去られてしまった。
 

 海苔問屋
 海苔養殖は終了したものの、海苔問屋は今でも多く残り、日本各地の海苔が集められ、全国に販売
される日本一の海苔の流通の中心地であることに変わりはない。そして元漁師の人が多く、味にうる
さく、名刺代わりに海苔、手紙代りに海苔、冠婚葬祭に海苔という、何が何でも海苔という土地柄だ。
第一京浜国道の東、環七通りから産業道路にかけての一円に海苔の卸問屋が集中している。
 
 



【大森北】(おおもりきた)1~6丁目                 昭和39年9月1日
 不入斗(いりやまず)村+新井宿村。明治22年「市制町村制」により合併して入新井村となりそ
れぞれその大字。大正8年入新井まちの大字。昭和7年大森区の成立により入新井1~6丁目と新
井宿1~7丁目になリ戦後に至る。昭和39年品住居表示により入新井全部に新井宿1~3丁目を
あわせた町域を現行の「大森北」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 
大森北について
 町名は大森村の北方の意で、大森東・西とは命名条件が異なる。大森の由来については、【大森】
を参照されたい。

 
不入斗について
 これを「いりやまず」と読むには少々無理がある。元々は「不入於計帳」「計帳に入れず」。計
帳とは租税台帳のことだ。計帳に入れずとは「免租地」「非課税地」のことだ。これが「数に入れ
ず」「斗(はか)りに入れず」となり、「(計帳の)読みに入れず」が、ヨミイラズ→イラヨマズ
→イリヨマズ→イリヤマズと転訛して、「不入斗」の字を当てたということらしい。
 


■大森北一丁目公園
 大森北1丁目5番1号にある区立公園。

 
「水の立方体」
 広場にある石のオブジェ。近くと東寄りに角柱に立方体を同じ角度で乗せているオブジェがある。


■旧大森駅階段/鉄道院鉄柱

 大森北1丁目6番1号、大森駅東口広場に建っている。明治時代の鉄道の名残。かつて大森駅の階
段に使用されていた鉄柱2本が、大森駅東口広場に日除け棚の柱として使用保存されている。
明治4
5年7月、当時の鐵道院の命令によって
合資会社高田商会柳島製作所で鋳造された鉄柱が、巡り巡っ
てここに保存されている。明治調豊な鋳鉄製の脚柱だ。

 
「しらべ」 ◇
 駅東口広場に建つ笛を吹く少女像。昭和60年久保田俶通の健康的な作品。

 
縄文土器を模した水鉢
 駅東口広場にある水のオブジェ。
 


■大森駅

 大森北1丁目6番にある京浜東北線の停車場。鉄道開業4年後の明治9年にできた駅。隣の蒲田駅
の開業は同37年なので駅としてはかなり先輩格である。都内では新橋駅(後の汐留貨物駅、現在廃
止)、品川駅に次いで3番目に古い駅だ。ホームは地上島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレ
ベーターは設置済み。改札口は中央口と北口の2ヶ所で、それぞれ別々の橋上駅舎内にある。中央口
側の駅舎は駅ビルを併設するたいへん立派なものだが、北口側の駅舎はほとんど跨線橋に毛が生えた
ようなシンプルなもので、西側の出口は商業ビル・大森ララに直結している。出口は中央口改札・北
口改札ともに東西両方に2ヶ所ずつ計4ヶ所の出口がある。
 大森駅は、京浜東北線しか停まらない駅にしてはかなり立派な駅ビルを備えている。駅ビルにはア
トレや東急インが入居している。

 
日本考古学発祥の地
 ホームに、この石碑が建っている。正面に「日本考古学発祥の地」と書かれ、側面には「E.S.モ
ース発掘100周年記念建立」とあって説明が書かれている。碑の上に〝深鉢式土器〟の模型が載せ
られている。

   
日本考古学発祥の地
   
・S・モース発掘100周年記念建立
   アメリカの動物学者モース博士が1887(明治10年)横浜より新橋に向かう汽車の窓
   から大森貝塚を発見し、これが契機となって日本の考古学が発達しました。このブロンズ
   は当貝塚出土の土器を約2倍に拡大したものです。
   1979年12月                    東京大森ロータリークラブ
                               東京大森ライオンズクラブ
                               東京都大森貝塚保存会

 大森貝塚は、大森駅から北に200m程の、JR線路沿い(NTTデータビルの裏の方に回り込ん
だところ) にあり、大きな石碑が建てられている。また 更に 200m北に行くと「品川区大森貝塚
遺跡庭園」があって、ここにも大森貝塚の石碑が建てられている。
 大森貝塚遺跡庭園には〝モース博士像〟〝品川区・ポートランド市姉妹都市提携記念のレリーフ〟
がある。この碑は,モース博士の生誕地である米国メイン州のポートランドと品川区が姉妹都市提携
を行ったことを記念して建立された。モース博士(エドワード・S・モース)は明治初期に所謂〝お
雇い外国人〟として来日し、東京大学で生物学を教えた。大森貝塚の発見で知られるが,日本初の臨
海研究施設である〝江ノ島臨海実験所〟を開設した人物でもあり、これによって江の島は「日本近代
動物学発祥の地」と呼ばれている。また日本の風俗・陶磁器などにも興味を持ち、収集した多くの品
は現在もボストン美術館に、「モース・コレクション」として保存されている。

 
調べ
 東口噴水広場にある、平成22年に内閣総理大臣賞を受賞した久保田俶通(よしみち)の銅像彫刻。

   調べ
   制作者 
久保田俶通
   昭和60年4月
     


■トラック 宝石店に突っ込む

 大森北1丁目7番4号のジュエリーサロン大森店にトラックが突っ込んで運転手が死亡した。
 平成25年2月4日午後3時半頃、大森北1丁目の丁字路交差点に面した貴金属買取店「ジュエリ
ーサロン大森店」に3.7tトラックが突っ込み、入り口部分などを壊して停止した。運転していた相
模原市南区新戸の運転手近藤功(58歳)は搬送先の病院で死亡が確認された。他に負傷者はなかっ
た。警視庁大森署によると、助手席にいた60代男性は「(事故直前に)運転手を見たら意識を失っ
ていた」と話しており、同署は何らかの発作を起こした可能性があるとみている。同店の隣で自営業
を営む男性は「少しずれていたらと思うと怖い」と話した。
 死んで運転する人は少なくない。死んでいればこそ事故を起こすのだ。おいらは運転中にぎっくり
腰になった。追越車線だったので死ぬかと思ったが、運よく路肩に車を寄せることができて命拾いし
た。
 


■フォーカス(仮称)大森北一丁目開発 

 大森北1丁目10番4号のルパルク大森駐車場跡地の再開発。区の施設ができる。閉館中の区立入
新井図書館が移転してきた。平成23年3月22碑中に開館。ラズ大森としてオープン。


■ラズ(Luz)大森
 再開発の結果、8階建ての大型複合施設となった。8階歯科医院2、7階眼科・眼鏡屋・音楽英語
教室、6階幼少教育とアスレチック、5階保育園・貸会議室、4階入新井図書館・集会室、3階親子
幼児教室・中華料理屋・韓国飯屋、2階九種9店舗、1階入新井特別出張所、大森インフォメーショ
ンセンター、セブンイレブン、ココカラファイン、JTB、サンマルク。

 
入新井図書館
 4階にある区立図書館。
 


■大森鷲神社

 大森北1丁目15番12号にある。おおとりじんじゃ。創建は不詳。江戸時代の中期から、武運・
開運・商売繁盛の霊験ありとして信仰を集めているという。祭神は日本武尊。酉の市は賑わう。

 
市制記念碑
 昭和7年10月1日東京市周辺の府下5郡(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡)
82ヶ町村を編入し、新たに20区を置き、35区となり、大東京市が誕生した。この碑は、大東京
市誕生と町名改称を記念して建てられたもので、碑の裏面には、次のように刻されている。

   昭和七年十月大東京市実現ニ依リ入新井町向町ヲ大森区入新井四、五、六丁目ト改称セラ
   ル永ク向町ヲ記念スへク町民相図リ建之
   昭和七年十月一日                   入新井町長 酒井熊次郎謹書

 庚申塔
 
南の鳥居を潜り参道を進み、拝殿前を直角に左に折れると西側からの参道への鳥居があり、その左
に植え込みに囲まれた祠がある。舟形光背型 青面金剛像 邪鬼。銘文なし。
 


■入新井公園

 大森北1丁目20番1号にある区立公園。

 
入新井萬霊地蔵尊
 園内にある。銘文は以下の通り。

   為昭和二十年一月十一日 五月二十三日 五月二十九日 大空襲戦死者。
   第三十三回忌法要に当り地蔵尊の風化は余りにもはげしく、住民に浄財を仰ぎ地蔵尊及び
   線香台を新調致しました。
   昭和51年5月29日                   入新井萬霊地蔵尊奉賛会

   
入新井萬霊地蔵尊の由来
   この辺は、太平洋戦争下の昭和20年5月29日の東京大空襲にて、不幸にも3.3㎡(1
   坪)当り6、7発の大量油脂焼夷弾が落とされ、大勢の尊い犠牲者がでました。
   戦後、区画整理も整い、入新井公園が設けらけるに及び、昭和32年住民の声にて、今は
   亡き肉親を偲び、在りし日の隣人を追慕してご冥福を祈るとともに永遠の平和を祈念し、
   故広瀬定光他有志が発起人となり、住民の浄財を仰いで地蔵尊が建立されました。
   その後永年の風雪に破損がひどく、今三十三回忌を記念して再び広く浄財を募り再建した
   ものであります。
   近隣の方々のお力により、毎日、お花やお線香の絶える時がございません。

   昭和51年5月29日                   入新井萬霊地蔵尊奉賛会 


■入新井図書館
 閉館 移転
 大森北1丁目32番5号にあった。平成17年6月30日閉鎖。
 同23年3月22日大森北1‐10‐4にオープンしたラズ大森の4階に移転した。
 


■入新井西公園①

 大森北1丁目39番1号にある区立公園。


■チンチン電車の敷石

 大森北2丁目1番1号の北の植栽(イトーヨーカドー大森店西)のにある旧京浜鉄道大森支線の敷
石。

   沿道の歴史

   明治34年六郷橋のたもとから蒲田、大森海岸を通って、大森停車場(現在の東海ビル)
   を結ぶ鉄道がしかれました。関東地方で最も古い歴史をもつ私鉄が走ったところです。
   その後、大森海岸から新しく品川まで線路が伸びると、大森海岸~大森停車場は、大森支
   線として、かわいい一両だけの電車が走る、1kmにも満たない鉄道となりました。当時
   は、線路際に野菜が干してあったり、お客が手を上げるとどこでもとまってくれたり、と
   てものどかな鉄道だったそうです。
   しかし、まちの発展に力のあった大森支線も、時の流れと共にその役割を道路にゆずり、
   昭和12年早春。ついに廃止されることになりました。
   現在、シンボル道路として整備され、新しい装いを見せるこの道路は、大森支線の夢がの
   こっているところなのです。
  
   

 明治34年2月1日京浜電気鉄道により、六郷橋駅~大森停車場前開業。同35年5月8日品川駅
(現北品川駅)~八幡駅(現大森海岸駅を開業。大森停車場前~大森海岸間が支線化。
 


■清花公園

 大森北2丁目8番5号にある区立公園。


■砂遊びする少年像

 大森北2丁目14番1号北の歩道の植栽にある銅像。道路向かいの品川区に女の子の像があり、共
に大森海岸をイメージしている。


 鈴ヶ森の由来
 神功皇后が三韓征伐のとき長門(山口県)の豊浦浜(とゆらはま)で得た霊石は、応神天皇誕生の
部屋に置かれ、その後筑前国香椎宮→豊後国宇佐八幡宮と移された。聖武天皇の時神祇伯磯川(石川)
朝臣年足(としたり)が宇佐八幡に奉幣したとき、神勅により授けられ、桓武天皇の延暦元年(78
2)
武蔵守に任ぜられた年足の嫡孫豊人が霊石を磐井神社に奉納した。石は打つとさわさわと鈴音を
立てるところから「鈴石」の名が付けられ、向背の森は「鈴石の森」の意味で「鈴ヶ森」と呼ばた。
やがて神社の一帯も小名「鈴森畷(すずもりなわて)」と呼ばれるようになった。だから鈴ヶ森は磐
井神社だ! 
 ついでながら3丁目の密藏院はかつての別当寺だが、その境内の「お七地蔵」は八百屋お七の霊を
安んずるため、お七の在所の念仏講中の人々がその三回忌、貞享二年(1685)に建立したものだ。
お七のために財産を失った人々が、恨みをいわずに供養塔まで建てるのはお七放火の裏に何かあるの
かも知れない。振袖火事が幕府の作り事だったように・・・
 なお「鈴ヶ森刑場」は品川区に、「お七」は荒川区に、「振袖火事」は北区の「隅田川」に詳述し
てある。
 


■磐井神社 区史跡
 
大森北2丁目20番8号にある鈴ヶ森八幡宮。敏達天皇の二年(573)八月に磐井(石清水)の
湧くところに社を建て、祭神として応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・大己貴命を祀った。
磐井は現在
も歩道のところにあるが、薬水と呼ばれて霊験新たかだった名泉も、今はコンクリートの蓋で覆われ
て気づく人もいない。延喜式神名帳にも記載されている式内社で、「三代実録」によれば、貞観元年
(859)に武蔵国従五位磐井神社官社に列し、武州八幡社の惣社に定められたとされている。昭和
7年から始まった東海七福神の弁財天となっている。

 この神社には、打てば鈴の音がするという「鈴石」、鳥の形に見える模様のある「烏石(うせき)」
という石と、東海七福神の「笠島弁財天」がある。

   由緒
   扨当社は、人皇31代敏達天皇の二年八月始めて経営あり、神座の正面にいますは、応神
   天皇、左は大己貴命・仲哀天皇、右は神功皇后姫大神なり、社の側に【磐井】あり、伝え
   云ふ土人祈願の時此水を飲むに、祈る所正しきものは、自ら清冷にして、邪なるものは忽
   ち変じて塩味となる、斯る霊水なるをもつて、近国の病有る者之を服するに其效を得るこ
   と著し故に土俗之を称して薬水と曰ふ、磐井神社の名も全く此井有るが為なり。
   其後56代清和天皇の貞観元年に、六十余州に於て総社八幡宮を選び定めさせ給ひし時、
   武州においては当社を以つて総社に定め給ひ、宮社に列せし由三代実録に載す、萬葉集に
   アライガ崎笠島と詠めるは、此社の所在の地を指すなり、御神宝に、【鈴石】有り、此石
   は、神功皇后三韓御征伐の際、長門国に宿り給ひし時、豊浦の海にて得玉ひしものにて、
   御船中の玉座近く置かせられ、夷狭御征伐神国豊栄の基を開き玉ふ、又御凱旋の日は御産
   屋に置かせられ、御産平安皇子御降誕御在位繁昌の神徳を以て、此石を如意の宝珠と御称
   美あらせられしと云ふ、其後聖武天皇の御宇、磯川朝臣年足、宇佐宮に奉幣の時、神告に
   因り此霊石を授けらる、年足の嫡孫中納言豊人卿、当国に守りたし時、神勅に因り当社に
   奉納せりと云ふ此石打てば、サウサウとして鈴音あり、是れ其名有る所以なり、而して往
   時此神社の所在地一帯を鈴ヶ森と号せしも、亦た此鈴石あるを以て也。
   当社鎮座の初め延暦の頃より永正年中に至る迄680年間は、神威赫然として宮中繁栄た
   りしも、永正年中兵火に罹り本社末社共に皆鳥有に帰す。其後再営の功成つて復た昔日の
   如く建立せしも、天文年中重ねて火災に罹り鎮座の縁起其外の書簿悉く焼失し、是より再
   修ならず、神威日に衰へ、四基の鳥居は海中に倒朽し、宮地は潮波に損缺して漸く社のみ
   わずかに残る、其後寛文年中、神主藤原善光・別当密厳院釈栄等悲歎に余り、社を再興す
   天正十八年徳川家康関東下向の節当社に立寄られ参拝あり、其後元禄二巳年三代将軍家光
   参詣の砌、寺社奉行本田紀伊守を以て向後当社を祈願所に申付ける。
   享保十巳年八代将軍吉宗、伊奈半左衛門をして本社拝殿末社共建立せしめられたり、近くは
   明治元年10月12日、明治天皇御東行御通輦の際、神祇官権判事平田延太郎延胤をして、
   当社へ御代参せしめられ、奉弊料金千匹御奉納ありたり。(荏原風土記稿磐井神社由来)
 

 磐井 区史跡
 社前の歩道縁にある井戸。今は気がつかれない状態だ。おいらも1回目は目の前にあったのに見落
としたさ。写真によると以前は歩道の真ん中にあったようだ。昔は境内の中にあったが道路の拡張で
境内が削られたためこうなった。江戸期には東海道を行き交う人々の渇きを癒し、名水の名が高かっ
た。『武蔵野地名考』は、『或古記』の説を引用して、当社に祈願するものが妄願であれば、この井戸
水は塩味となり、正願であれば清水となる。病者に対する効験も著しいので薬水といわれたといわれ
たという里伝を伝えている。しかも社名はこの井戸の存在によるという。さてどうか。岩場に水が湧
いていたところに社を建てたんだろうね。人間は水があるということが一番大切だから。食べ物は探
しにいけばいい。
 

 
鈴石
 社務所に展示されている。社伝によると、この石の由来は、神功皇后が、長門国豊浦(とゆら)の
砂上で見つけ、その後筑前国香椎宮に納められたが、後に豊前国宇佐八幡宮に遷され、神勅によって宇
佐八幡の神祇伯石川年足(じんぎはくいしかわのとしたり)に授けられたという。ところが年足の孫
の豊人が、延暦元年(782)に武蔵国の国司に任ぜられて、任地に下りこの石をこの社に奉納した
という。石の形は鶏卵のようで大きさは2尺ほど、色は青赤色(紫?)、打つと鈴のような音がする
ので、鈴ヶ森の地名の由来になったというが伝説の域を出ない。豊人も大蔵卿(財務大臣)での重任、
赴任してくる訳がない。代人が赴任してきたのだ。明暦四年(1658)山崎闇斎が著した『遠遊紀
行』に、その頃にこの石が盗まれた記録がある。戻った記録がないので、そこにあるのは2代目か?
 贋物か?

   大田区文化財
   
鈴石・鳥石と江戸文人の石碑
   当社の『略縁起』によると、鈴石は、延暦年間(782~806)に石川豊人が武蔵国の国
   司として赴任したとき、神功皇后とゆかりのあるこの石を当社に奉納したと伝之られる。
   これを打つと鈴の響きがあることから、鈴ヶ森の地名がうまれたともいう。
   また烏石は、鳥の模様が墨絵のように浮き出ている自然石で、書家松下烏石(うせき)が
   当社に寄進したことから、江戸の文人墨客たちにもてはやされた。その由来を記した烏石
   碑をはじめ、筆塚などの記念碑が、いまも境内に残されている。
   烏石碑 元文六年(1741)
   筆塚  天明六年(1786)
   竹岡先生書学碑 寛政八年(1796)
   狸筆塚 文化六年(1809)
   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会
 

 
鷹石 → 烏石
 社務所に展示されている。三角形の御影石の表面に烏の形に見える黒い模様が浮ぶ。人はこれを烏
石と称して珍重し、『江戸名所図会』『東海道名所図
会』『江戸砂子』などの名所案内に載るまでに
なった。
善福寺門前東町西南角(港区麻布十番3丁目8番の辺り)に植木屋の四郎左衛門という者が
居て、伊豆から取り寄せた石面が鷹の形に見える石を店先に置いたところ評判となり、人呼んで「鷹
石」といった。この辺りを里俗に鷹石といったと『文政町方書上』にある。それで近くに住んでいた
書家松下君岳(烏石)が購入し、己の号の「烏石」に変えた。君岳が赤羽へ移転すると、門人たちが
烏石も一緒に新居に移したが、元文六年(1741)2月不朽を図り鈴ケ森八幡へ納め、服部南郭が
銘を執筆,烏石が揮毫して石に彫り付け、祠を建ててその神体としたので有名になり、参詣する人も
多かった。
 本殿右側に四つの石碑があり、その一つが松下烏石が刻んだ烏石の由来碑。他の三つは筆塚だ。書
家松下烏石の氏は葛山、名が辰なので葛辰(かっしん)、あるいは号を冒頭に付けて「烏石葛辰」と
自称した。烏石という号を持つ葛山氏の辰という意味だが,これを「ウセキカッシン」と読み、烏石
を名字、葛辰を名と解する向きがあるが、大いなる誤りだぜ。

 ●
悪親父 松下君岳
 下級の幕臣松下庄助の次男として江戸に生まれ、京都で没した。幼名平吉、名は辰・曇一。字は君
岳・竜仲・神力。号は烏石・東海陳人・金粟・武蔵野人・白玉斎。
 幼い頃より手跡に精進して、儒学を服部南郭に、書を初め佐々木文山、後、細井広沢に師事し、唐
様書家として名を上げた。君岳は麻布古川町に住んでいたため以前からこの地で有名だった「鷹石」
を整えて「烏石」と変名し、自らの号とした。そして君岳は赤羽橋に転居の際、「烏石」も移し、鈴
森八幡に奉納した。
 第26人目の江戸南町奉行だった根岸鎮衛が表した『耳袋』巻の三には、「鈴森八幡烏石の事」と
題してこの石を紹介しているが、文中では、

   烏石生まれ得て事を好むの人なりしが、鷹石として麻布古川町に久しくありし石をとと
   のえて、己が名を弘めん尊くせん為、鈴ヶ森へ、同志の、事を好む人と示し合わせて立
   碑なしけるなり。からす石という事を知りて鷹石の事を知らず。右鷹石は山崎与次とい
   える町人の数奇屋庭にありし石のよしなり


 と、警察官僚・民生官である根岸は、鷹石を「烏石」と変名させた君岳については、根岸がその売
名行為を痛烈に批評している。書家としては一流とみなされていたが、放蕩無頼な山師、犯罪者とい
う一面をも持つ松下君岳の素性をよく知っていたためで、その根拠となる事件は、宝暦十一年(17
61)親鸞の五百回忌が京都の西本願寺で執り行われた際に起こっている。
 京都に居を移し、どうした手づるからか西本願寺門跡の師匠格なっていた松下君岳は、西本願寺関
係者が500回忌を期に親鸞に大師号が授かるように朝廷に働きかけているが、朝廷・幕府双方から
拒絶されて頓挫しているのを知り、不良公家衆と謀って、金を出せば事が円滑に運ぶと檀家や関係者
を説いて回り、その金を着服した。このことはすぐに発覚して同罪の不良公家衆は蟄居させられた。
しかし君岳の罪について記された物が見つからないところを見ると、どうにか言い遁れたのかも知れ
ない。再び江戸に戻った君岳について、根岸鎮衛はもう一つの逸話として「町屋の者その利を求むる
工夫の事」を残している。江戸に戻った君岳は日本橋二丁目にある本屋「須原屋」に100両を借り
受けた。しかし君岳には返済の当てなど無い事を見抜いていた須原屋が、君岳の住まいを訪ねて彼の
書を没収し、100両以上の利益を得たという話で、いかに君岳が信用されてなかったかが窺える。

 
江戸文人の石碑群
 江戸文人石碑群は、この鳥石の寄進の由来を記した鳥石碑をはじめ、松下鳥石の門人等が建立寄進
したもので、向かって右から次のように並んでいる。狸筆塚 文化六年(1809)・退筆塚 天明
六年(1786)・竹岡先生書学碑 寛政八年(1796)・烏石碑 元文六年(1741)。これ
らは、かつて弁天池周辺にあったが、神社の境内整備に伴って現在地に移された。昭和49年2月2
大田区有形文化財に指定された。


 笠島弁財天
 もともと笠島にあったものだが、笠島がどこにあったのかはポイントされていない。万葉集に、

   草陰の荒藺ヶ崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ

 と歌われた笠島をこの辺りとする説はあるが、今となっては「オーマイガッド」だ。

 
皇太子殿下御野立所記念碑
 総高147cm×幅33.3cm×奥行30センチ。 大正天皇がまだ皇太子だった明治4年1月1
7日大森方面へ行啓された。その折この磐井神社にも立ち寄り、付近の風物を観覧後、還御された。
 この碑は、氏子らがこの光栄を記念して大正4年10月1日に建立したものだ。

 
海豊稲荷神社
 境内社。
 


■大森北公園

 大森北2丁目18番2号にある区立公園。


■大森海岸児童遊園

 大森北2丁目20番8号にある区立公園。


八幡山蜜厳院祈念寺
 大森北3丁目5番4号にある真言宗智山派の寺。文安五年(1448)に法印雲誉が創建したとい
われている。玉川八十八ヶ所霊場76番札所。磐井神社の別当寺。「新編武蔵風土記稿」に、

   (不入斗村磐井神社)別当密厳院
   境内除地二段五畝十八歩。社地の背後の方耕地をへだててあり。この所も昔は社地の内な
   りといふ。新義真言宗、山城国醍醐三宝院の末。八幡山祈念寺と号す。開山は法印雲誉時
   代詳かならず。第11世中興開山法印栄定永禄10年寂す。相傳ふ当寺は往古より磐井神社の
   別当職たること神主よりふるしと。開闢の年代のふるきを以考ふるに、さもありしにや。
   又云、古は境内も広くして、今の荒井宿村の境鷺宮の邊、当寺大門の跡なりと云。同所原
   野の中に今も祈念塚といふ塚あり。これもそのかみ境内の地なりし故にその名残れりとぞ。
   かかる大寺なりしかど、いつの頃にか回録にあひてより、その地せばまりしといふ。
   本堂八間に六間。本尊不動を安ず。
   閻魔堂。本堂に向ひて左にあり。二間四方。
   稲荷社。庫裡の東南にあたれり。社二間四方、もとの呉服師後藤原源太郎が江戸の屋敷に
   ありしか、近きころ故あってここにうつせり。
   地蔵堂。境内東の方裏門の傍にあり。堂は2間四方にして、石の地蔵長6尺ばかりなると安
   ず。土俗これを於七地蔵を呼べり。ここは天和年中江戸本郷にすみて野菜を売るものあり、
   その女年十七歳にして火罪に行はれたり。時人これをあはれみてその冥福のため、建立す
   る所なりと云。於七とは彼が名なり。


 とある。

 
庚申供養塔
 石造舟型で、阿弥陀如来像を彫った庚申供養塔としては、時代的に古いものに属し、造型的にもす
ぐれたものである。大きな光背には庚申供養塔のために作られた趣意と、その造立年月が記されてい
る。この塔は寛文二年(1662)のもので、庚申塔としては本区では2番目に古い。またこの塔の
ように法界定印を結ぶ弥陀の坐像を彫った庚申供養塔は、全国的にも珍しいんじゃないの。
 昭和49年2月2日大田区の有形民俗文化財に指定された。

 
お七地蔵 区史跡
 境内にある石造地蔵菩薩立像で、像高は1m61cm。天和二年(1682)十二月二十八日恋故
に放火の罪に問われ、鈴ヶ森刑場で火炙りの刑に処せられた八百屋お七の霊を供養するために造立さ
れた。台石に、

   于時貞享二年乙丑四月廿四日 地蔵菩薩開眼者 不入計(斗)村 密厳院大僧都法印栄音
   武劦豊島郡小石川村 一百万遍念仏講中

 と刻銘されている。
 この事件は当時、井原西鶴の「好色五人女」に描かれ、その後も浄瑠璃などで人々に親しまれた。
お七の刑死は天和三年(1683)三月二十九日で、台石銘文の貞享二年(1685)四月二十四日
はその3回忌に当たる。これによって、お七の3回忌の供養のために、お七が住んでいた小石川の百
万遍念仏講中が、鈴ヶ森に近いこの寺を選んで建立したことが判り注目される。本像は元、鈴ヶ森刑
場に建てられたが、ある日。一夜にして当寺に飛来したという伝説がある。区史跡として昭和49年
2月2日に指定された。

 
太子堂
 3丁目10番5号木造銅板葺き方形造り。この堂は、昭和2年に聖徳太子の1300年祭を記念し
て建立された。昭和11年に建立された記念碑には、荏原土木事業組合員48名、入新井諸職連合睦
会員156名、建設委員25名、特別名誉顧問立花種忠、名誉顧問酒井熊次郎、喜田隆秀(密厳院住
職)の名が刻され、この人々によって建立されたことが判る。
 堂は今も睦会という大工・鳶職・土木・左官・石工・屋根職・植木職等を含む諸職を会員とする組
織で管理され、毎年正月、5月、9月の24日には太子祭りがとり行われている。
 


■立正院

 大森北3丁目10番5号にある。
 


■北三児童公園

 大森北3丁目10番8号にある区立公園。


■東貫森稲荷神社

 大森北3丁目18番17号にある。東貫森は稲荷森のことで「とうかんもり」と読む。祭神は宇迦
之御魂命。


■東貫森児童遊園

 大森北2丁目18番17号にある区立公園。


明光山最徳寺

 大森北3丁目18番25号にある浄土真宗本願寺派の寺。文暦元年(1234)鎌倉において藤原
氏の一族永頓開基、永順が開山したと伝えられます。何世代かの後、現在地へ移転した。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   (不入斗村)最徳寺
   境内二段四畝二十歩。字谷熊にあり。浄土真宗、西本願寺末、明光山智惠院西蓮坊と号す。
   開山権小僧都永順は京都の人にて、俗称は藤原氏なり。薙染の後鎌倉に来り当寺を彼の地
   に開闢し、その後仁治二年入寂せり。それよりそこばくの世数を歴て、永頓上人の時、東
   照宮関東御入国ありしかば、やがて慕ひ奉りて鎌倉より当所へ移りしといひ傳ふ。中興開
   基了蓮律師は、享保の頃の人なり。本堂七間四面。本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作なりと
   いふ。長二尺五寸。
   専浄坊(現等々力専浄寺)。
   門外なり。門に向ひて南の方にあり。別に門を設けてその地は境内につづきたり。


 とある。
 


■守屋家住宅主屋 
登録有形文化財

 大森北3丁目22番25号にある近代住宅。構造・形式:木造2階建て入母屋造瓦一部鉄板葺き。
建築面積94㎡。昭和4年良質の材を用いた質の高い和洋折衷住宅。平成12年2月15日国選定登
録有形文化財となる。妻側を正面とした入母屋造瓦葺きの玄関の脇に洋風の応接間、中廊下が走り、
接客部に重きを置いた平面設計、工夫を凝らした半月窓や客間の書院造の造作、凝った格子の欄間や
建具などは信州産の銘木をふんだんに使用した部材とともに、高度な大工たちの技が随所に見られ、
昭和初期における質の高い和洋折衷住宅だ。
 


■うさき児童公園

 大森北3丁目23番3号にある区立公園。


■大森北三丁目梅の花児童公園

 大森北3丁目24番25号にある区立公園。


大森北三丁目さくら児童公園

 大森北3丁目25番5号にある区立公園。


大森北三丁目くすのき児童公園

 大森北3丁目25番11号にある区立公園。


■入新井第一小学校

 大森北4丁目6番7号にある区立校。明治8年不入斗村に磐井小学校創立。新井宿村に新泉小学校
創立。同44年磐井小学校と新泉小学校を合併し「入新井尋常小学校」を創立。大正11年「東京府
荏原郡入新井第一尋常小学校」と改称。昭和7年荏原郡の東京市併合に伴い「東京府東京市入新井尋
常小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市入新井国民学校」と改称。
同17年水練道場貯水槽(プール)完成。同19年学校給食開始。静岡県・富山県・岩手県に集団疎
開。同20年愚かなアメリカの非人道的無差別空爆により校舎全焼。日本、アメリカの軍門に降り敗
戦。疎開解除により児童帰校。
 同22年学校給食再開。高等科廃止。大田区の成立により「東京都大田区立第一入新井小学校」と
改称。同27年校歌制定。

 同29年特殊学級設置。同37年難聴学級開設。同40年教科担任制始まる。同50年創立100
周年記念式典。同62年きこえ(難聴学級)25周年記念式典。校外班10周年記念式。同63年教
科担任制20周年を記念する会。
 平成2年開校115周年記念集会・パレード。同4年きこえ(難聴学級)30周年記念式典。同7
年創立120周年記念式典。同11年校舎耐震化。同12年創立125周年記念式典。同17年創立
130周年記念式典。同22年創立135周年記念式典。
 


大森北四丁目児童公園

 大森北4丁目14番15号にある区立公園。


大森北三丁目さくら児童公園

 大森北4丁目15番19号にある区立公園。


■エセナおおた(男女平等推進センター)

 大森北4丁目16番4号にある。女性団体のために男女平等推進活動のための拠点として、様々な
講習・講座・研修など行っている。また体育室もあってレクリエーションやスポーツなども楽しめる。
 「エセナ」はスペイン語で「ステージ、場、場面」を意味する。「エセナおおた」は区民の自主活
動や区との協働を進めていく場だ。
 


■歯科の鹿

 大森北4丁目22番18号小林デンタルクリニックの脇にあるオブジェというか? 丸太と小枝で
鹿に見えるように拵えてある。看板に「はいしゃ」と書いてある。こんな歯医者は、上手な歯医者か
もしれない。


■不入斗東伏見稲荷神社

 大森北4丁目23番14号にある小社


■大六天根岸神社

 大森北4丁目24番3号にある中社。創建年代は不詳だが、第六天を祀る。社名の根岸は、新編武
蔵風土記稿に新井宿村の小名として記載されている小名、根岸(この地名は古くより唱へしにや、小
田原分限帳に太田新六郎が知行六郷の内根岸梶原分十六貫文とあり、当村梶原日向守が知行なれば、
分限帳に根岸と云へるは恐くはこの地なるべし)より付けられたものと考えられる。
 


不入斗パーク公園

 大森北4丁目25番2号にある区立公園。

 
不入斗
 「いりやまず」と読む。地名としては各地にある。種々の理由で公税が免除された土地。寺社地が
多い。免税地であるが領主に対して何らかの年貢なり、奉仕はある。


入三西公園

 大森北5丁目3番1号にある区立公園。


春日橋児童公園

 大森北5丁目16番11号にある区立公園。


大森北六丁目児童公園

 大森北6丁目2番19号にある区立公園。


■入新井第五小学校

 大森北6丁目4番8号にある区立校。昭和7年
磐井小学校跡地に「東京府荏原郡入新井第五尋常小
学校」が開校。入新井第一尋常小学校より5年生までの675人の児童が移籍。12学級で出発。同
10年「東京府東京市入新井尋常小学校」に改称。同16年勅令148号「国民学校令」により「入
新井第五小学校」と改称。同18年都政施行により「東京都入新井国民学校」と改称。同19年縁故
疎開開始。栄養補給の目的で学校給食始まる。静岡県の山中に集団疎開開始。昭和20年愚かなアメ
リカ軍の非人道的無差別空爆により類焼、13教室を焼失。静岡県が危険になったため岩手県に再疎
開。同8月アメリカの軍門に降り敗戦。同10月疎開解除により学童帰校。
 同21年校舎を新設の都立大森中学校に貸したため、入新井第一小学校に間借りして授業をする。
借用教室5、児童数322名、学級数10(4年生まで二部授業)。同22年大田区成立により「東
京都大田区立入新井第五小学校」と改称。大森中学校の新校地移転により、全児童帰校。同33年体
育館完成。同35年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。同36年給食室・理科室完成。同44
鉄筋コンクリート造り防音4階建て7教室・準備室4の校舎(防音、暖房、換気つき)落成。同4
6年
筋コンクリート造り防音4階建て特別教室4増築。校庭アスファルト舗装。同48年化学ス
モッグを知らせる無線機設置。同49年アルミ板貼りプール完成。
第二種防音鉄筋ピロティ方式体育
館兼講堂完成。同57年
開校50周年記念理科園完成。同59年校庭全面ウォークマット舗装。同6
1年「入新井第五小学校の歌」を校歌とする。

 校歌
「入新井第五小学校の歌」 作詞作曲・遠州昭男
  1.遥かに浮かぶ富士の山
    ここ大森の海近く
    吾等が学び 吾等が遊ぶ
    楽し希望の学び舎
    入新井第五小学校入
  2.どの子もどの子も手を組んで
    力合わせて進みます
    嬉しい時も 悲しい時も
    美し友情の花咲く
    新井第五小学校入
  3.小さな胸にこの胸に
    明るい夢が湧いて来る
    清らな国の 平和な国の
    夢が湧いてる踊ってる
    新井第五小学校


 平成5年校地を広げて畑や砂場を造り「なかよし広場」とする。創立60周年記念式典。同8年給
食室ドライ方式。西側校舎耐震化。同9年東側校舎耐震化。同10年創立65周年記念式典。校庭ゴ
ムチップ舗装。平成11年パソコンルーム(10台)開設。同12年地方自治法改正により東京都の
冠称が取れ「大田区立入新井第五小学校」と改称。同14年創立70周年記念式典。同19年創立7
5周年記念式典。
 


■穀豊稲荷神社

 大森北6丁目9番5号にある中社。
 


■鈴木秀子像

 大森北6丁目10番4号大森家政専門学校1階駐車場右手にある上半身像。平成6年の設置。昭和
25年にこの学校を創設した。


■学校裏駅 → 平和島駅

 大森北6丁目13番にある京急本線の停車場。明治34年2月1日京急の最初の区間である六郷橋
~大森停車場(共に現存せず)間の開業とともにできた。当初は「沢田」と名乗っていたが、その後
間もなく(時期不明)「学校裏」と改称。昭和25年2月待避線完成。同36年9月1日に現駅名と
なった。昭和45年1月20日高架化進捗に伴い上り線ホームが先行高架化。12月1日下り線も高
架化し高架駅となる。平成9年10月1日12両編成電車のためのホーム延長完了。これにより、朝
の都営線直通特急(H特急)が品川まで12両編成で運転されるようになる。同21年2月24日か
ら駅メロディを導入。同22年ダイヤ改正によりエアポート急行の停車駅となる。

 ホームは高架島式2面4線構造で、この駅で優等列車の待避や緩急接続が行われる。ホームと改札
階を結ぶエレベーターは未設置。
 改札口は1ヶ所のみで1階にある。出口は東側と西側の2ヶ所。駅前は狭く、広場やロータリーは
ない。
 駅の所在地は大田区大森北6丁目で、駅名になっている平和島は駅の東にある埋立地だ。平和島に
は平和島競艇場や、シネコンやクアハウスのある「BIG FAN平和島」があるが、平和島駅から
徒歩ではやや遠い。学校裏の学校は当時はあった寄木尋常小学校。当時は市街地から見れば町外れの
学校の、さらに遠方にあったので、裏と名づけたのだろうが、前や表はあっても、裏という駅名は全
く珍しい。寄木尋常小学校は大森第二小学校の前身で、その大森二小は今はなく、平成14年大森六
小と合併して開桜小学校になった。
 


■甘酒稲荷神社

 大森北6丁目15番3号にある中社。創建年代は不詳だが、かつて(武蔵国荏原郡不入斗村内川耕
地貝塚)稲生社と称し、嘉永五年(1852)に再建されたという。咳の病に霊験があるといわれ、
平癒した後に甘酒を奉納されていたことから、甘酒稲荷と称されるようになった。

   由来
   当社の旧昔は、武蔵国荏原郡不入斗村内川耕地貝塚稲生社と称し、嘉永五年三月の中頃、
   沢田町に再建せられたる由、現在の由緒書に記載せられ、祭神は倉稲魂命を奉祭し、其の
   由来は極めて古く、往時に病める幼児平癒を祈願する時は、其の御神徳の霊験に依る効験
   著しく、祈願する者、咳の神として崇められ、遠近(おちこち)よりの参拝者繁しく、次
   第に世に広く知られ、其の報賽に甘酒を献じたるものにして、後に甘酒稲荷と称せられ、
   神社の名も此の縁起あるが故なり。此の信仰の神域が不幸にして昭和二十年四月十五日戦
   災のため焼失し、仮殿のままなりしが、昭和三十四年三月皇太子殿下御成婚の記念事業と
   して再建着工、同年八月完工し今日に至る。
 


大森北六丁目南児童公園

 大森北6丁目15番6号にある区立公園。


大森北青空児童公園

 大森北6丁目16番21号にある区立公園。


■大森第二中学校

 大森北6丁目18番1号にある区立校。昭和22年入新井第一小学校内に「東京都大田区立大森第
二中学校」として開校。同23年校歌・校章制定。現在地に第一期木造平屋校舎7教室落成。第一回
区立中学校連合運動会優勝。

 校歌
「新たなり」 作詞・鈴木信吾  作曲・福井直秋
  1.新たなり我らが心
    大森の浜辺に近く
    復興の学びの庭に
    もの学ぶ若人吾等
  2.3 (略)
  4.再生の国の朝けに
    とこしえの国の生命を
    畏くも心に彫りて
    学ぶ身ぞ若人吾等


 同24年第二期木造校舎6教室落成。同25年野球部区大会優勝。都大会準優勝。同26年第3期
木造校舎6教室落成。同29年第四期木造校舎4教室落成。同30年第五期木造校舎4教室落成。同
33年木造体育館兼講堂完成。校舎増築のため入新井第一小学校の9教室を分教場として設置。創立
10周年記念式典。同34年第六期木造校舎増改築11教室落成。同36年校舎の一部を取り壊し鉄
筋コンクリート造り校舎建設工事開始。同37年第一期鉄筋コンクリート造り4階建て特別教室棟校
舎落成。第二期鉄筋コンクリート造り校舎6教室完成。同39年全教室テレビジョン受像機設置。プ
ール完成。同40年一年生から女子標準服(セーラー服→ブレザー)改訂。同41年第三期鉄筋コン
クリート造り校舎特別教室(被服・調理・第二理科室)落成。同42年一年生伊豆高原・二年生野辺
山林間学校。創立20周年記念式典。同43年給食室完成。第一期防音校舎落成。同44年二年生移
動教室(伊豆高原学園)。同45年第二期防音校舎落成。同第三期防音校舎落成。木造校舎2棟取り
壊し。同47年鉄筋コンクリート造り防音体育館兼講堂完成。木造体育館解体。校庭整備(体育倉庫
・水飲み場(手洗い場)・スプリンクラー)。創立25周年記念式典。同51年教員室1つになる。
同52年北校舎3、4階増改築校舎竣工(視聴覚室LL設備完備、普通教室3)。創立30周年記念
式典。同53年中国青年代表団12名来校。同57年一年生志賀高原林間学校。給食室改築。同58
年校舎増改築。屋上プール完成。同59年全学年校外学習(森林公園・鎌倉・相模湖)。同60年全
学年映画鑑賞教室。東校舎教室床張り替え・外壁改修、特活室改修。
 平成4年磐梯林間学校。パソコンルーム開設。同7年週五日制開始(第2・第4土曜日休校)。同
9年校舎耐震化。女子バレー部関東大会出場。創立50周年記念式典。同10年給食民間委託(ニッ
コクトラスト)開始。心の相談室開設。大田区PTAバレーボール大会優勝。同11年体育館兼講堂
耐震化。同15年南棟2階4教室エアコン設置。同17年全教室エアコン設置。

 応援歌
「溢れる元気は」 作詞・望月一幸  作曲・森竹進一
  1.溢れる元気は我らが力
    出した元気が自分を変える
    ピンチになっても気合を入れて
    輝く明日に突き進もう
     二中の吾等に光あれ
     ファイト ガッツ
     ファイト ガッツ 二中!
  2.膨らむ夢は我らの希望
    描いた夢が自分を作る
    涙の中でも自分に克って
    試練の壁を乗り越えよう
     二中の吾等に光あれ
     ファイト ガッツ
     ファイト ガッツ 二中!


 
二中事件
 平成16年5月26日警視庁少年事件課は学校の放送室を占拠し授業を妨害するなどしたとして、
同区在住の都立高校1年生(15)ら少年10人(15―16歳)を建造物侵入と威力業務妨害など
の疑いで逮捕したと発表した。内2人の少年は、教師らに暴力をふるって教室の鍵を奪い取ろうとし
た強盗未遂容疑などでも逮捕された。
 調べによると、少年らは同中学の3年生だった同年3月12日昼頃校舎2階にある放送室に侵入し
校内放送を使って約5分間に渡り、映画「バトルロワイアル」のテーマ曲を流しながら、「皆さんこ
れから殺し合いをしましょう」などと暴言を繰り返し、授業を妨害した。少年らは、動機について、
「卒業する前に、これ以上ないといわれるような伝説を作りたかった」などと供述している。少年ら
に暴行を受けた教師の1人は、肋骨を折る全治3週間の怪我を負った(読売新聞)。
 


■沢田公園

 大森北6丁目24番6号にある区立公園。


■轢き逃げ事件
 大森北6丁目24番14号東京日産大森店先の環七通りで起きた轢き逃げ事故・令和2年12月1
4日未明、「お婆さんが車道で倒れている」と通りかかったトラックの運転手から110番通報があ
り、警察が駆け付けると、近所に住む塩崎輝子(74歳)が死亡しており、遺体は中央分離帯寄りに倒れているところから轢き逃げ事件として捜査を開始した。


■大森神社
 大森北6丁目32番12号にある。祭神は久久能智命(くくのちのみこと)。天正年間の創建と伝
えられる。当時この辺りは海辺であり、里人たちは漁業を以て生活をしていた。ある時黄金色に輝く
像が岸辺に打ち上がり、里人たちが畏れて沖へ流すこと3度に及んだが元の場所に寄り来たるので社
を建てて、この像を祀ったのが当社の起源といわれている。そのため、この社を寄来明神と称し、ま
た寄来神社と称した。明治元年に神伯白川資訓王より大森神社の社号並びに額面を賜わり、その後昭
和7年10月東京都実現の折に大森神社と公称するようになった。「新編武蔵風土記稿」に、

   (東大森村・西大森村・北大森村)寄来明神社
   除地七畝十五歩、村の北の方海邊より西へいりてあり。相傳ふ中古弥陀の立像海岸へ流れ
   来しを、取上て守に祭れり故に寄来と号すと。本社九尺四方拝殿三間半に二間、祭礼年々
   九月十五日、社地の北方に社を守れるものの庵室あり。


 とある。
 
 

平和児童公園

 大森北6丁目33番1号にある区立公園。

 



【大森中】(おおもりなか)1~3丁目                昭和44年9月1日
 西大森村・東大森村。明治5年北大森村と合併して旧称の大森村となり、同30年町制に移行。
昭和7年大森区が成立して大森1~9丁目となり戦後に至る。同44年新住居表示により大森3~
8丁目の各一部をあわせた町域を現行の「大森中」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 大森中について
 町名は大森東と大森西の間に位置し〝大森村の中部〟の意。しかし「おおもりなか」と読んでく
れる人は少なく「おおもりちゅう」と見て、中学校をイメージされるのが悩みの種。大森の由来に
ついては、【大森】を参照されたい。


■大森区役所跡

 大森中1丁目1番16号の大森警察署のところにあった。この地は、かつて大森村役場→大森町役
場・大森区役所だった。昭和7年東京市の市域拡張に伴い、それまで荏原郡に属していた現財の大田
区域の内、馬込・東調布・池上・入新井・大森の5ヶ町が合併して大森区ができた。
 大森区役所の位置は、入新井町役場も候補地だったが、大森町役場の庁舎が、昭和6年に建設され
たばかりで、当時荏原郡で唯一の鉄筋コンクリート3階建ての建物であったことから決定したと伝え
られる。この建物は、同15年に区役所が中央2丁目(大田文化の森)に移転してからは、大森警察
署として使用されてきた。
 


■大森警察署

 大森中1丁目1番16号にある。

   大森区役所跡
   この地は、現在、大森警察署となっていますが、大森村(町)役場・大森区役所がありま
   した。
   昭和7年東京府の市域拡大に伴い、それまで荏原郡に属していた現大田区域のうち馬込・
   東調布・池上・入新井・大森の五町が合併して大森区ができました。
   大森区役所の位置は、入新井町役場も候補地でしたが、大森町の役場の庁舎が昭和6年に
   建設されたばかりで、当時荏原郡で唯一の鉄筋コンクリート三階建ての建物であったこと
   から決定されたと伝えられます。この建物は、昭和15年に区役所が中央2丁目(現大田
   文化の森)に移転してからは大森警察署として使用されてきました。
   また、ここに並立する石碑は、当時大森村役場の敷地であったことから、この地に建てら
   れました。大森村から従軍した兵士の記念碑で、向かって左は、明治10年の「丁丑之役
   (西南の役)」の碑で、都内でも数少ない貴重なものです。
   右は明治27・28年の日清戦争の際のものです。              大田区


 
西南の役記念碑
 大森警察署の脇にある巨碑。山県有朋が揮毫を書いている。総高163cm、この碑は、明治10
年「丁丑之役」(西南の役)に大森村から従軍した兵士の忠魂碑。西南の役の戦死並従軍者記念碑は
全国でも数少ない貴重なものだ。

   
丁丑之役戦死並従軍者記念碑

 
日清戦役記念碑
 西南の役碑の傍らにある小さい碑。明治27~28年の日清戦役従軍記念碑。総高360cm。日
清戦争に大森村から従軍した兵士の忠魂碑。

   
征清従軍旌功之碑

 ●アポ電詐欺事件 実行犯伊波翔平逮捕
 令和2年11月27日、区内の80代女性からキャッシュカードなど6枚を騙し取り、200万円
を引き出したとして、伊波翔平(いはしょうへい 29歳)を逮捕した。「いは」というからは沖縄
県人か? 伊波は「カードが不正に使われている」と女性宅を訪れ、確認する振りをして別のカード
と摩り替える手口でキャッシュカードを騙し取っていた。コロナの禍で収入が減り、闇バイトに応募
した。詐欺行為だとは判っていたという。哀れな人間だ。

 
●知人蹴殺事件
 令和2年12月23日、山王の自宅マンションで飲食中、60歳の知人内館弘美男性を蹴り殺した
として、名井康智(43歳)を殺人容疑で逮捕した。12月19日夜から翌朝にかけて、内館と酒を
飲んでいたが、内館がタバコの吸い殻を散らしたことに腹を立て、殴る、蹴る、踏むの暴行を加え、
肋骨骨折、肺挫傷で呼吸困難に陥れ殺害した。
 「殺す気はなかったが、蹴ったり踏みつけたりした」と供述している。

 
●内覧痴漢事件
 令和3年4月17日、新築住宅の内覧中に案内の不動産会社々員に猥褻行為を働いたとして杉本一
郎(36歳)を逮捕した。コンビニのアルバイト店員だった杉本は、去年8月、一戸建ての新築住宅
を案内させ、犯行に及んだ。「女性への欲求が抑えられずやってしまった」と供述ている。

 
●日本郵便社員が女子中学生にワイセツ
 令和3年6月2日、女子中学生(15歳)と猥褻な行為をして、裸体をスマートフォンで動画を撮
影したとして、児童買春・ポルノ禁止法違反(製造)と東京都青少年健全育成条例違反で、日本郵便
社員梶田征広(24歳)を逮捕した。梶田は昨年8~11月、足立区のホテルで3回、会員制交流サ
イト(SNS)で知り合った女子生徒と猥褻行為をし撮影した。、 


大森の麦わら細工
 享保年間(1716~35)に大森村大林寺第十二世日好にが村民に教え、東海道往還筋の土産物
として売り、貧しい農民たちを救ったことが始まりと伝えられる。当初は、箱や小型の屏風などの表
面に、色々な色に染色した麦わらを貼り付けて、模様や絵で飾った貼り細工であったが、後世次第に
生き物や玩具などの、色々な形に編んで作った麦わら細工が盛行した。
 この麦わら細工も時代と共に、近代的な玩具におされて衰退し、現在では、数点の遺作が好事家に
より保存されているだけに過ぎない。
 


大森山谷公園

 大森中1丁目5番1号にある区立公園。


大森中川端児童公園

 大森中1丁目22番6号にある区立公園。


■お爺ちゃんが大型トレーラーのタイヤに肩を挟まれちゃった
 大森中2丁目2番14号先、第一京浜と梅屋敷通りの交差する横断歩道で起きた事故。令和2年1
2月8日13時20分頃、「大型トレーラーと人が接触して、人がトレーラーの下でタイヤに挟まれ
ている」と110番通報があり、警察が駆け付けると77歳の男性が肩をタイヤに挟まれて身動き取
れない状況にあった。男性は意識があり、警察官がライトを当てて車体の下を覗き込むとペダルが飛
び出していた。また自転車は真っ二つに引き千切られていた。男性は30分後に引き出され、病院に
搬送されたが、肩の打撲程度の軽傷で命に別状なかった。お互い見通しが良い交差点で、信号も付い
ており、どうして事故になったか調べる。


大森中二丁目児童公園

 大森中2丁目3番3号にある区立公園。


長亨山薬王院大林寺
 
大森中
2丁目7番19号にある日蓮宗の寺。創建年代は不詳、旧真言宗薬王院として創建、薬王院
の住職だった日円が、法華宗日位と法論した結果、長享二年(1488)に日位を開山として日蓮宗
に改めたという。山門の右はスマートは鉄筋コンクリートの庫裏。左も本堂奥も墓地。本堂、庭など
良く整備されている。「新編武蔵風土記稿」大森村の項に、

   大林寺
   除地一段六畝二十四歩、西大森村の内にて村の南の方にあり。法華宗、池上本門寺末にて
   長享山と号せり。開山は日位上人長享三年九月四日寂す。客殿六間に五間半、本尊三寶祖
   師を安ず。七面堂境内にあり。


 
とある。

 池上道道標

 享保十四年(1729)に、大森村の日蓮徒で組織された甲子講の人々が建てたもので、東海道か
ら分かれて池上本門寺に至る大森中宿の池上道の追分にあったが、京浜急行梅屋敷駅付近に移され、
さらに道路拡張などの事情により近頃現在地に移された。道標の旧位置から、十五町(約1.5km)
で池上本門寺に至り、更にそのまま品川宿に行けることを示している。江戸時代に街道の諸所にあっ
た道標は、次第に失われつつある現在、旧東海道の道筋にあった道標の遺存例としては極めて少なく、
しかも高さ1m60cmとという大型のもので、交通資料として極めて貴重だ。
 昭和49年2月2日大田区有形文化財に指定された。

   大田区文化財
   
池上道道標
   享保14年(1729)に、大森村の日蓮宗信徒で組織された甲子講の人たちが建てたも
   のである。
   もとは東海道から分かれて池上本門寺に至る池上道の分岐点にあったが、道路拡張などの
   事情により近来当所に移された。道標の旧位置から、十五町(約1.5km)で池上本門寺
   に至り、更にそのまま品川宿に行けることを示している。
   江戸時代に、街道の諸所にあった道しるべは、次第に失われつつある現在、交通史の資料
   として貴重である。
   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会
 


 三面大黒天画像
 秘仏。

   大田区文化財
   
三面大黒天画像(非公開)
   紙本、着色。この絵は、戦国武将の余技として絵画をよくした武田逍遥軒信綱の描いたも
   の、彼は武田信虎の第四子、信玄の弟にあたる。本名は信廉、孫六、刑部少輔と称し、剃
   髪して逍遥軒と号し、天正十年(1582)織田氏に滅ぼされた。
   画面右下に「永禄七甲子年正月吉辰謹写之信廉㊞」の銘文があり、図柄は正面を向いた大
   黒天像の、顔面向かって右側に弁財天、左に毘沙門天の顔をのぞかせている。
   伝承によると、当地区の旧家には武田氏と関係のある落人と伝えられるものが多く、その
   関連から考えて興味深い。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会

 寺宝
 釈迦涅槃講式尊円親王自筆・豊臣秀吉黒印状法華宗中宛、七月十八日法華宗免状・水戸光圀筆水墨
雪中訪師図絵本・日要本尊・日遠本尊・日顕筆福壽本尊大黒天図・深草元政筆書跡・法華経版本箱入
・日深本尊・清正公絵像・日潤筆和歌懐紙・日運筆本尊


海光山密乗院
大森寺
 大森中2丁目17番5号にある真言宗智山派の寺。真栄が約13世紀に創建したという。江戸時代
に寺領二十石の御朱印状を拝領、大森の諸神社の別当時だったらしい。玉川八十八ヶ所霊場の77番
札所。本尊は不動明王。山門も備わった立派なお寺だ。清浄で美しい。

 
板碑群
 本堂に保存。

   大田区文化財
   
板碑群
   当寺に保存されている板碑は、昭和6年に隣地三輪厳島神社境内から発掘されたもののう
   ちの16基である。年代銘のあるものは延慶三年(1310)から文明六年(1474)
   まで、このうち延慶三年のものは釈迦種子、他は全部阿弥陀種子を刻する。板碑は、中世
   の人が仏を供養するために緑泥片岩で作った卒塔婆で、俗に青石塔婆と呼ばれる。区内に
   おいては鵜の木光明寺・池上本門寺・馬込万福寺が、その密集地として知られているが、
   それらに次ぐ大量の板碑が海岸に近い当畜から出土した事実は注目に値する。
   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会


 
6代目野口六郎左衛門の墓
 密乗院の墓地にある。文政年間期(1818ー30)糀谷村と海苔漁場紛争で活躍した漁民の墓。 


■前方八幡神社

 大森中3丁目3番8号にあるかつての村の鎮守。
東海道沿いにある。創建年代は建武年間(133
4~36)と伝わるが明確ではない。江戸時代には北大森村、西大森村の2ヶ所を守る鎮守だった。
東海道より海側にあり、近くには梅屋敷もあり、江戸時代には参詣の人は多かったろう。
 狛犬の寄進は大正9年。
 


ひめゆり児童公園

 大森中3丁目3番8号にある区立公園。


長栄稲荷大明神

 大森中3丁目5番16号野口宅玄関横にある小祠。植木に遮られて迫っ苦しい所にあるので、道路
から直ぐなのだが、見落とすから、訪れる人は要注意だ。


■堀之内三輪神社

 大森中3丁目17番15号にある。江戸時代、大森周辺は武蔵国大森と称し、堀之内は大森の本村
として伝承された古い地名だ。堀之内の地名は館に濠を巡らした土地に与えられる由緒あるもので、
北条時頼の時代(1247~59)の陣屋跡といわれている。大森は江戸初期に東大森・西大森・北
大森の3ヶ村に分割され、堀之内は東大森村に属し、幕府の直轄地として明治期まで代官がおかれた。
堀之内は本村として早くから開け、住民は農業と漁業を生業として集落を形成し、氏神が住民の支柱
だった。三輪神社は、享徳年間(1452~56)に土地開拓の神として、大国主命を祀り第六天社
(デエロクサマ)と呼び、村人の崇敬を集めたのが創始と伝わる。大正4年に天祖神社・貴船神社を
合祀して社殿を改め、神社の威容が高まった。昭和20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別攻撃に
より焼失し、その後同27年に社殿を新築して現在に至っている。

 
北村神社
 境内にある。大森の海苔漁業を手厚く保護したという江戸幕府役人北村岩見守を祀る。昭和42年
に堀之内海苔養殖業者により再建された。再建というのだから、空爆以前に建ってたんだね。

   北村神社由来碑
   当社は、大森海苔養殖業に特に功績のあった北村石見守を祀り、当地の海苔養殖業者の
   崇敬するところとなっております。本場浅草海苔の中心となった当地の海苔養殖業は、
   今より二百八十有余年前の天和二年、当大森村字堀之内の野口六郎左衛門が有志と計り、
   幕府より海苔篊(ひび)建の免許を請け、その基礎が確立されたのでありますが、その
   後文政三年九月二十二日境界紛争から、海苔篊建場を全面的に改めるという海苔養殖史
   上最悪の事態を招いたのであります。このような危機に際し、当大森村の窮状を理解し、
   海苔養殖業継続の決断を考えたのが北村石見守であり、村民の崇敬するところとなった
   のであります。かくてその尽力を徳とし永く祀ろうと、同氏の烏帽子(大東亜戦争で消
   失)を請い受け、神社を建立したのが当社の起源であります。
    尚、現在の社殿は昭和三十六年九月堀之内の海苔業者と有志の手により再建されたも
   のであります。

   行く水や何にとどまる海苔の味 其角

   昭和四十二年九月一日
 


大森堀之内児童公園

 大森中3丁目20番10号にある区立公園。

 



【大森西】(おおもりにし)1~7丁目                昭和39年9月1日
 
西大森村。昭和39年新住居表示により大森1~5・7丁目新井宿5・7丁目本蒲田1丁目の各
一部をあわせた町域を現行の大森西とした。町名は〝大森の西部〟の意。大森の名のつく町名では
一番面積は広い。大森北の真南、東海道の西。東邦大学医学部と付属病院。京浜急行大森町駅があ
る。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 
大森西について
 町名は大森村の西部地区の意。大森の由来については、【大森】を参照されたい
 


■若竹公園

 大森西1丁目8番20号にある区立公園。


■仏教会館 興正山大森善照寺

 大森西1丁目9番15号にある無宗派の単立寺院。昭和6年に太子会館と称して創建、同23年寺
号を善照寺仏教会館と改めたという。道路沿いに立派な鉄筋コンクリート3階建ての建物。2階が本
堂、仏式の形。入口の石柱の右に仏教会館とある。
 


■大森西一丁目北児童公園

 大森西1丁目11番19号にある区立公園。


■大田北地域行政センター

 大森西1丁目12番1号にある。
 


■大森西一丁目児童公園

 大森西1丁目12番14号にある区立公園。


■こがねむし児童公園

 大森西1丁目15番5号にある区立公園。


■大森西一丁目セブンパーク児童公園

 大森西1丁目18番10号にある区立公園。


■澤田橋跡

 大森西2丁目2番10号北の環七通りのところに架かっていた。にある。


■大森浅間神社

 大森西2丁目2番7号にある大社。
富士浅間神社の流れを汲み、富士浅間とも称せられ、江戸時代
当時隆昌を極めた山嶽信仰に基き、東海道通路の要衝大森の地に勧請奉斉せられたものと伝えられて
いる。又「藤浅間」とは「富士浅間」のことと思われるが、当時境内に藤の大樹があり陽春の頃には
藤花盛んにして近隣の名物として知られたところから「藤浅間」の名が生まれたものと思われる。こ
の藤樹は明治初年頃まで残存し、尚数歩を隔てて御手洗いの側には杉の切口凡そ目通り6尺以上と思
われるものもあり、樹齢300年を経たと思われる老樹が繁茂していたことは古老の伝える処である。
 柳々旧大森には、沢田、谷戸、浜端、川端、堀の内、原などの地名があり、徳川末期に陣屋があっ
て陣屋堀があり、その内側を堀の内と云い、地名沢田とは現当神社氏子区域であって、古くは馬込、
池上の山より海に出るところに一面の沢地であって、芦など生茂っていた所から此の地名が生まれた
ものと考えられている。
 浅間神社は此の内の高所に鎮座し、四方は稲田にして民家また点在し、遠く富士の秀麗を仰ぎ眺望
絶佳幽翠なる神域であったことが偲ばれる。近くに富士見耕地というところがあり、また神社を隔て
て「鶴渡り」の地名があり、大森唯一の富士浅間社として知られ、年々の富士登山の際は大森、入新
井、新井宿、羽田村などの先達が必ず当社に参って道中平安を祈願して出発したことは、現在境内に
ある「浅間神社先達の碑」に氏子・北原・中原・南原・沢田・不入斗・八幡・羽田・堀の内とあるの
を以ってしても知られるところだ。
 白雪を戴いた富士の高嶺はこれを望み見る人々に雄大と壮巌、神秘と静寂の感を与えずにはおかな
かっった。ここに富士が「霊峰」といわれる所以があり、これを望み見られるところに富士信仰は広
がってゆき、浅間神社は富士山を挟んで駿河側と甲斐側とに大社を発生せしめ、特に東海道は表玄関
であるため、現在の富士宮市にある浅間神社が「富士山本宮浅間大社」としてその名を専らにしてお
り、8合目以上が表も裏も全部浅間大社の境内となっていることはその一つの現れだ。
 浅間大社は「せんげん」と呼ぶが、本来は「あさま」と呼び、「あさま」の意味は「あさくま」即
ち湧水が浅く隈をなして流れ出る処で、祭りの行われた信仰にその起源を持つ。
 浅間信仰は、富士山に対する霊峰信仰が一面にあると同時に、農民にとってはその麓の湧玉の池よ
り湧き出る泉に対しても「あさくま」の限り無き神の信仰があるといわれている。
 当神社はその後、大正7年4月耕地整理のため、現平和島駅の西側北6丁目に移転し、後に氏子の
増加と道路拡張のため、さらに現在地に、紀元2600年を記念して造営遷座した次第だ。幸いにし
て戦災を免れたことも、火防の神の祭神の神徳に依るものといわれている。また昭和23年開園した
附属の浅間幼稚園も、安産・子育ての守護神の御神徳によって大勢の子供たちが神様の良い子として
世に送り出している。「新編武蔵風土記稿」に、

   (東大森村・西大森村・北大森村)富士浅間社
   除地七歩、村の北の方にあたれり、社は九尺に二間、前に鳥居を立。


 とある。
 


■沢田東児童公園

 大森西2丁目3番21号にある区立公園。

 
旧大森村沢田の地名の由来
 園内にある。

   
大森村沢田について
   旧大森村の北西部に位置するこの地域は沢田と呼ばれていた。元来地名は、自然発生的に
   名付けられたものが多く、その由来はほとんどが不明で、意味も推定の域を出ない。この
   沢田も低湿な水田であったからであろうか。沢田の地名が記された最も古いものとして、
   元禄十年(1697)の大森村検地帳がある。また「新編武蔵風土記稿」に

   沢田 谷戸宿の西南にあたる

   と記載されている。
   大森村沢田は、古くから浅草海苔の産地であった。これはアマノリという海藻の一種で潮
   の干満と養分を運ぶ川があって、海水と淡水が適当にまざりあう所に生育する。大森の海
   岸は、この条件が揃い、しかも江戸に近く、東海道に沿っていて販売にも便利であったの
   で、江戸時代中期頃から盛んに養殖されるようになり、その品質・産額は一頭地をぬき、
   本場浅草海苔の伝統を誇った。
   しかし残念ながらこの名産も埋立地造成のため、昭和37年12月に漁業放棄が決まり、
   その姿を消した。                      四町会地名保存委員会
 


■東和児童公園
 大森西2丁目7番11号にある区立公園。


■大森第六小学校
閉校

 大森西2丁目16番2号にあった区立校。平成14年大森第二小学校と合併して開桜小学校となっ
た。

 校歌
「希望は溢れる」 作詞・長田恒雄  作曲・平井康三郎
  1.東の空に開け行く
    東京湾の潮の香に
    今日も健やか集い来る
    ああ第六の学びの舎
(いえ)
    喜び溢れる 吾等 吾等
  2.連なる家並み陽に映えて
    大きく伸びるこの街に
    今日も晴れやか育ち行く
    ああ第六の学びの舎よ
    力喜び溢れる 吾等 吾等
  3.呼び交いかわす声冴えて
    勤しみ学ぶ師と友と
    今日も清らか弾み行く
    ああ第六の学びの舎よ
    希望溢れる 吾等 吾等
 


■こらぼ大森

 大森西2丁目16番2号の大森第六小学校の跡地を利用した区民活動支援施設。協働支援施設、区
民利用施設、子ども交流センター、シルバー人材センターによる複合施設。「連携と協働」を基本に
した新しい仕組みの施設、区民活動支援施設が誕生した。様々な区民活動の場として、また世代を越
えたふれあいや交流の拠点としてぜひ活用を。エレベーター、手すり、だれでもトイレを設置し、床
の段差が少ない構造になっている。
 


■平和児童公園
 大森西2丁目19番4号にある区立公園。


■大森西二丁目児童公園
 大森西2丁目20番12号にある区立公園。


■大森西区民センター

 大森西2丁目20番17号にある。
 


■大森第八中学校

 大森西2丁目21番1号にある区立校。昭和22年都立大森実践女学校内に「東京都大田区立大森
第八中学校」として併設。入新井第三小学校にて開校式。現在地に大森実践女学校新校舎落成。同校
舎に併置移転。同23年鬼足袋工場跡地に校地拡張。同27年校歌制定。

 
校歌「揺ぎ無き彼の富士望み」 策詩・綱祐次  作曲・宅孝二
  1.揺ぎ無き彼の富士望み
    清かなる潮騒聞こゆ
    逞しき歩みを歩む
    この里に学び舎建てり
  2.諸共に友打ち集い
    明け暮れは希望に燃えて
    三つの年 気負ひぞ励む
    大らかに正しく強く
  3.若き日は光に満てり
    馨しきその夢見つつ
    庭もなる梢は茂る
    年毎に緑も深く
  4.明け染めし朝雲清く
    あきらけく日は輝けり
    大いなる自然の啓示
    今ぞ見る吾等が理想


 同28年校旗制定。同31年プール完成。同33年体育館兼講堂完成。同36年鉄筋コンクリート
造り4階建て校舎11教室落成。同37年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎4教室落成。同43年
プール浄化装置完成。同44年完全給食室完成。同45年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。
同48年プール更衣室完成。同50年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。同51年鉄筋コンク
リート造り3階建て校舎増改築。同53年体育館拡張。同60年プール改築。
 平成2年体育館解体。同3年3階建て新体育館完成。同9年創立50周年記念式典。同19年創立
60周年記念式典。


■三和公園
 大森西2丁目22番2号にある区立公園。


■大森金山神社

 大森西2丁目23番6号にある。創建年代は不詳だが、当地に古墳らしき塚があったといい、その
塚上に社を創建し祀ったとか、現在は隣接する諏訪神社の境外末社となっている。


■大森諏訪神社

 大森西2丁目23番6号にある。鎮座年代は不明。大森海岸袖ヶ浦に漂着したご神体を、村人が尊
崇して一祠を建立したと伝わり、創建は江戸時代初期ともいわれるが、区内の社寺の多くが鎌倉時代
を機としてその源を発していることを考えると、さらに遡るものと思われる。そのため昭和39年五
百年祭が盛大に催された。祭神の建御名方命は大国主命の第二子で、風水害や流行病を防ぎ、農耕の
神として、漁業の神としての信仰篤く、特に武神としての誉れ高く、甚だ霊力強き神として、氏子の
敬神の念益々篤く、神威新たかに今日に至っている。昭和11年村社に定められ、荏原郡大森村字山
谷(東山谷・大森東2丁目、南山谷・大森西2・3丁目・北山谷)の鎮守だった。
 銅板葺・流れ権現造りの社殿は平成16年の修復。文政7年刻の鳥居をはじめ、狛犬・燈籠・水屋
・玉垣・記念碑などが多数建立されている。また昭和54年に社務所を改築し、翌年には神楽殿を新
築、氏子崇敬者一丸となって神慮を畏み、氏神を拠り所として、豊かな人間生活形成の原点として、
いよいよ道の精華を発揮している。
 なお伝承として、境内に一匹の白蛇が棲んでおり、祭礼の時、氏子の多数がお参りして、知らずに
白蛇の尻尾を踏んだので、祭礼には必ず雨が降ると伝えられている。祭礼は5月なので、梅雨時で雨
の多い季節ではある。「新編武蔵風土記稿」に、

   (東大森村・西大森村・北大森村)諏訪社
   除地二十歩、村の中央にあり、これも北大森村に属す。祭礼は年々九月二十三日なり。


 とある。


 
漁業納畢之碑
 大森海苔として知られた区内沿岸の海苔養殖も、工業発展による汚水流入と、埋立工事の進行に伴
う漁場の縮小のため、影響を受けつつあった。昭和39年に開催されたオリンピック東京大会をめざ
して、高速道路一号線、モノレールなどが建設されたが、工事による大規模な埋立地造成のため、海
面が使用できなくなり、昭和37年に終止符をうった。
 先祖代々、海苔養殖を生業としていた業者たちは、それを惜しみ、海苔漁業終焉の記念として区内
3ヶ所に石碑を建立した。
 碑は、総高257cm。昭和39年8月吉日建立。裏面に世話人金子誠吉をはじめとし、東・南・
北山谷丁場の魚業者47名の名が刻されている。
 


■稲荷社
 大森西2丁目24番5号鳶民の角にある。屋敷稲荷かな。


■大森西二丁目第二児童公園
 大森西2丁目25番16号にある区立公園。


■大森第二小学校 
廃校

 大森西2丁目26番3号にあった区立校。平成14年現在のコラボ大森のところにあった大森第六
小学校と統合し、跡地で開桜小学校となった。

 
校歌「大東京が」 作詞・小林純一  作曲・中田善直
  1.大東京が西北に
    広がり始めるこの辺り
    今日も漲る日を浴びて
    明日の時代を飛び翔る
    若い翼の育つ処
    大二小 大森第二小学校
  2.思えば輝くあの空は
    青い地球を包むもの
    そうです 広がるあの海も
    世界を一つに繋ぐもの
    羽ばたき強く巣立つ日に
    備えて今日も私たちは
    ここに励み ここに鍛える

  3.古い歴史を物語る
    二重の桜の校章を
    何時も仰いで誇らしく
    理想目指して進むこと
    心に固く誓うところ
    大二小 大森第二小学校

   卒業生の弁
   子供の頃はわからなかったが、今思えば校歌だけで終わらせるのはもったいないくらいで
   ある。いわゆるどこにでもある「校歌」とは違い、曲そのものに「物語(ストーリー)」
   を感じさせる、隠れた傑作である。
   小林純一は「かっこう」「楽しき農夫」「秋の花」など西洋童謡の日本語訳はもとより、
   「大きなたいこ」「手をたたきましょう」「みつばちぶんぶん」など、誰でも記憶にある
   数多くの童謡を作詞したほか、亡くなるまで各地の校歌の作詞も多く手がけた。
    中田善直は、「早春賦」で有名な中田章を父にもつ作曲家で、「夏の思い出」「ちいさ
   い秋みつけた」「めだかの学校」などの童謡やNHKの学校コンクールの課題曲、また校
   歌の作曲も多く手がけている。既に故人だ。
   小林と中田のコンビでは、「かっちん こっちん」「大きなたいこ」などを作詞・作曲、
   大森第二小学校校歌もその作品の1つだ。
    この校歌は、昭和54年の創立105周年に制定され、俗に「新校歌」とも呼ばれてい
   た。それまでの校歌は「第一校歌」として、現在でも碑が正門脇に残っている。
    2番が色違いになっているが、この校歌は、1番と3番が長調、2番だけは短調に移調
   するという面白い曲になっている。ところがまさにこの2番にこそ、2人のメッセージが
   込められているといってよい。2番には、校名はもとより、学校に関する描写が一切出て
   こない。校歌としては不自然だ。小林の晩年、亡くなる3年前の作品だ。その小林の人生
   を振り返った時の想い、後輩に託すメッセージが、この2番に描写されたのではないだろ
   うか。その意を汲んだ中田が、より重みのある短調で2番を仕上げたということだろう。
   この2人の絶妙なコンビネーションがなければ、この校歌に命が吹き込まれなかったといっ
   ても過言ではないのだ。この2番のおかげで、1番と3番がより引き立ち、全体での完成
   度を高めることになったと思う。
 



■開桜小学校

 大森西2丁目26番3号にある区立校。平成14年に大森第二小学校と大森第六小学校を統合して
「大田区立開桜小学校」として開校した新設校。校地は元の大森第二小学校の跡地。

 校歌
大東京の」 作詞作曲不明
  1.大東京の大森に
    海風浴びて生い育ち
    一人一人の大事な命
    知恵を磨いて楽しく生きる
    開桜小の 喜びここに
  
2.栄えある歴史 受け継いで
    伸びゆく街と  ともどもに
    今日も 明日も あかるく強く
    からだ鍛えて 社会の中へ
    開桜小の 未来はここに
  3.宇宙の星の そのひとつ
    平和な地球 守るため
    みんな仲よく いそしみ 学び
    こころひらいて 世界の友と
    開桜小の 希望はここに
 


■大森学園高等学校(旧大森工業高等学校)

 大森西3丁目2番12号にある私立校。昭和14年大森地区の中小企業の協力により「大森機械工
業徒弟学校」創立。近隣工業地帯の工員養成のために開かれたので当初は全寮制だった。同17年大
森工業学校開設(機械科)。同21年電気通信科設置。同23年「大森工業高等学校」と改称。同2
7年電気通信科を電気科に改編。同47年情報技術科設置。
 平成元年創立50周年記念式典。同6年総合技術科設置。同11年創立60周年記念式典。同17
年地上8階地下1階の新校舎完成し、普通科を設置したため「大森学園高等学校」に改称。同18年
講堂完成。創立以来男子校だったが、同19年から普通科のみ男女共学とする。同21年創立70周
年記念式典。

 
大森工業高等学校々歌潮の光り」 作詞・勝承夫  作曲・小林三千三
  1.潮の光り 寄せ来るところ
    我らが学舎 希望漲る
    見よ新しき時代をつくる
    工業日本の若き力を
    不屈の精神 大森工高
    栄えある学園 我らが母校
  2.理想の星座 輝くところ
    我らが研鑽 常に弛まず
    見よ 目指し行技術の精華
    工業日本の高き誉を
    不滅の青春大森工高
    果てなき躍進我らが母校


 大森学園高等学校々歌「潮の香り」 作詞・太田倭子  曲は変更せず
  1.潮の香り はるかな海よ
    新しい希望 胸いっぱいに
    いざ語り合おう 未来の希望
    栄えある母校の歴史を基に
    豊かな心 知識への喜び
    築き上げよう大森学園
  2.理想の光先人の知恵
    学び舎の窓に青春の素顔
    いざ勇気持て未来を開き
    豊な実りを社会に生かし
    日本の力 広く試そう
    羽搏け世界へ大森学園
 


■大森西三丁目公園

 大森西3丁目2番30号にある区立公園。
 


■大森諏訪公園

 大森西3丁目3番10号にある区立公園。
 


■大森西交通公園

 大森西3丁目4番19号にある区立公園。
 


■西三児童公園

 大森西3丁目10番6号にある区立公園。
 


■大森町駅
(おおもりまちえき)
 大森西3丁目23番にある京急本線の停車場。昭和27年12月25日に追加開業した駅。昭和2
4年までは近くに「大森山谷駅」という駅があった。ホームは地上相対式2面2線。各ホームは構内
踏切で結ばれていたが、高架化工事に伴い平成19年4月28日限りで廃止された。平成22年5月
16日に、上りの2番線ホームのみ高架化される。
 改札口・出口はホームごとに設けられている。1番線側が中央口で、2番線側が西口となってる。
また2番線には、7時~9時のみ開設される臨時改札口がある。
 


■新井宿七丁目児童公園

 大森西4丁目2番19号にある区立公園。
 


■西富士児童公園

 大森西4丁目4番23号にある区立公園。


■嬰児遺棄事件

 平成25年10月29日、2年前の平成23年3月8日、生まれたばかりの次女を西富士児童公園
に遺棄した容疑で、無職の戸沼英明(32歳)と妻でホステスの千恵美(31歳)を逮捕した。次女
は深夜通行人が発見し児童相談所に保護された。
 戸沼は行方不明の長男については「死んだので捨てた」といっており、長女も遺棄し児童相談所に
保護されている。二人は生活苦で捨てたと自供。
 平成14年1月上尾市のアパートに入居。2月長男出生。6月夜逃げ。この頃、長男死亡、近所に
遺棄。同16年8月次男出生。12月児童相談所が次男を保護。同17年2月長男が行方不明である
ことが判明。4月児童相談所が警察に通報。同22年1月30日大田区の民家前に長女が遺棄され、
児童相談所が保護。同25年8月大田区田園調布本町に転入していることが判明。9月児童相談所が
田園調布署に長男の行方不明を通報。
10月逮捕に至った。また大田区だ。
 


■天理教大森町大教会
 大森西4丁目4番10号にある。
 


■大森西四丁目公園

 大森西4丁目10番19号にある区立公園。


■邦西第二児童公園

 大森西4丁目13番16号にある区立公園。


■東邦大学医療短期大学・東邦大学医学部看護学科

 大森西4丁目16番20号にある。
 


■邦西児童公園

 大森西4丁目18番8号にある区立公園。


大森三輪公園

 大森西5丁目2番12号にある区立公園。

 
東海道一本燈籠
 園内南西側にある。江戸後期、東海道筋に通行人の目印として、大森村を中心に近郷、江戸、川崎
などの富士講の人々によって建てられた常夜灯。戦災で火袋竿石を失っていたものを復元した。
台石の正面には、富士山が庚申の年に出現したという伝説を表した彫刻が施されている。区指定文化
財。

   大田区文化財
   
燈籠台石(東海道常夜燈)
   江戸後期、東海道筋に通行人の目印として、大森村を中心に近郷、江戸、川崎などの富士
   講の人々が建てた常夜燈である。
   もとは谷戸の交番付近(大森中1‐18付近)に建てられていたが、東海道が第一京浜国
   道として建設されたため移転を余儀なくされ、転々とした後、大森中3丁目の三輪神社に
   あった。
   昭和61年、地元より教育委員会に寄付され、ここに移設する際、戦災で失われていた火
   袋や竿石などを修復し燈籠として復元した。台石の正面の彫刻は、富士山が庚申の年に出
   現したという伝説を表している。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会


■大森西図書館

 大森西5丁目2番13号にある区の施設。

 ●燈籠台石(東海道常夜燈)
 江戸後期、東海道筋に通行人の目印として、大森村を中心に近郷、江戸、川崎などの富士講の人々
が建てた常夜燈だ。元は谷戸の交番付近(大森中1-18付近)に建てられていたが、東海道が第一
京浜国道として建設されたため移転を余儀なくされ、転々とした後、大森中三丁目の三輪神社にあっ
た。昭和61年地元より教育委員会に寄付され、ここに移設する際、戦災で失われていた火袋、竿石
を修復し燈籠として復元した。
 台石の正面の彫刻は富士山が庚申の年に出現したという伝説を表わしている。大田区指定有形民俗
文化財として昭和50年3月19日に指定された。

 
東海道一本灯籠

 旧東海道の名残である「東海道常夜燈」が、旧東海道からは少し離れた大田区立大森西図書館東横
の公園内に移されていて区の文化財となっている。もとは旧東海道沿い(現在の大森中1丁目18番
付近)にあったが、そこには明治時代にできた天神社があり、その前の旧道に建っていたという。大
正12年の関東大震災で倒壊破損し、昭和2年の第一京浜国道の拡幅工事で移転を余儀なくされ、台
石と笠石、宝珠は地元旧家2軒に順次移管され、さらに堀ノ内三輪神社に置かれていた。昭和61年
6月同社の社殿改築、境内整備に伴って移転する必要が生じ、この台石と笠石、宝珠が大田区教育委
員会へ寄付されたのを機に、前方八幡神社(大森中3丁目3番8号)の燈籠がこの燈籠を模して作ら
れたと伝えられることから、これを参考に、竿・中台・火袋などの失われた部分が復元され、現在の
場所に設置された。この灯籠は、江戸後期に当時の大森村をはじめとする近郷、江戸、川崎の富士講
の人たちが、東海道を行き交う人の目印とするために建てた常夜燈だ。富士講碑も兼ねており台石に
は富士山が浮き彫りされている。

 
母子像
 大槻一二が日彫展入選作品を寄贈した裸婦像。
 


■三輪児童公園

 大森西5丁目3番3号にある区立公園。


■谷戸児童公園

 大森西5丁目14番3号にある区立公園。


■谷戸三輪神社

 大森西5丁目18番1号にある。第六天社。通称「でえろくさま」。祭神は大国主命。創建は江戸
初期。西大森村字谷戸の鎮守。明治7年の神仏分離令により社号を三輪神社と改めたと由緒にある。
また三輪神社は、太平洋戦争の大森町空襲で焼失したが、戦後氏子の努力により再建し、昭和29年
に宗教法人三輪神社となった。

 
  谷戸三輪神社由緒
   住吉、鎌倉時代幕府の家人、此地を領せし故、谷戸の地名興りしと謂れます。口碑、伝承
   に因れば、此集落の西端(外)れ杜木立のうちに氏神さまを祀りたる小祠ありしが、江戸
   初期の頃、地震、洪水など天災地異相次で起こりし故、里人ら相計り、当時、出雲信仰が
   朝野の崇敬を集むる時勢に鑑み、里人らもまた、深く信仰する大黒さま(大国主命)を勧
   請し、諸災祓除五穀豊穣の願いをこめて堂宇を改め、第六天社と称え奉ったとされます。
    此頃、谷戸部落は、二十数戸と覚(思)しき辺鄙の里に過ぎざりしが、人々の信仰心厚
   (篤篤)く、夙し早くから社殿を整備し、之を宜く護持した別当寺は蜜乗院大森寺であり
   ました。爾来、幾星霜ともなく西大森村の鎮守として人々の崇敬を集め、里言葉にて「で
   えろくさま」と親しみ称え奉り、また数少ない北向きの社としてもその名が知られ、文化
   文政時代の御社殿は、間口二間、奥行九尺と古書に記されております。
    時代降って、明治維新に際しては、神仏分離令の布告、神社明徴化の機運に伴い、明治
   七年社号を三輪神社と改め奉りましたが、此頃の氏子は四十二戸、二百村十六人でありま
   した。更に時移り、太平洋戦争中、空襲に因り、全社殿を消(焼)失しましたが、氏子一
   同宜く再建に努め、また、戦後の宗教改革に当り、宗教法人の承認を受け、昭和二十九年
   宗教法人三輪神社と改まりました。御末社稲荷社は年代不詳ながら江戸末期の創祀と伝え
   られ、祭神は宇迦之御魂命と称え奉り、宇迦はウカ(食)にして食物一切を司る霊験新た
   かな庶民の守護神であります。
 


■大森西五丁目児童公園

 大森西5丁目20番19号にある区立公園。


■東邦大学医学部・大学院

 大森西5丁目21番16号にある。大正14年創立者額田豊・額田晉は、女子の医学・薬学・理学
という理科系教育の向上と健全な人間性の育成を目標にして、私財を投じて帝国女子医学専門学校を
大森地区、現在の医学部所在地に創設し、次いで薬学および理学専門学校を併設した。これが東邦大
学の前身だ。

 帝国女子医学薬学理学専門学校々歌「東の空の」 作詞作曲・不明
  1.東の空のほのぼのと
    新らしき世の朗らけき
    誕生を告ぐる暁の鐘
    朝霧眠る野を越えて
    ここに道あり 命あり
    乙女よ 起てよと 響くかな
  2.智慧の木の実に焦がれ行く
    旅人ここに相寄りて
    命の泉 汲むところ
    濁世の浪の音遠く
    憂いの色の影絶えて
    照る日 輝く自治の園
  3.筑紫ゆ 陸奥ゆ 慕いきし
    乙女子若く眉清し
    神秘の森の いや深く
    行手の荒野 遠くとも
    いざ手を汲みて 嗚呼友よ
    強く雄々しく 歩まずや


 戦後、薬・理学部は千葉県船橋市に移転し、さらに学制の改革に伴い、昭和25年より医・薬・理
学部を擁する男女共学の自然科学系総合大学として、社会に広く貢献できる人材の育成に努めてきた。
学校法人東邦大学は、大学院をもつ3学部と付属3病院を擁し、地域医療にも貢献している。また看
護の質的向上をめざし、医学部看護学科、佐倉看護専門学校を設置している。さらに千葉県習志野市
と世田谷区に付属中・高等学校を設立し、中等教育から豊かな知性と科学的教養を身につけるための
教育を実践。学校法人全体が教育機関として有機的に結びつき、バランスのとれた人間教育を行って
いるとは、学校の御託宣だぁ。

 校歌
「新なる朝」 作詞作曲・不明
  1.新なる朝 今明けて
    希望の天地は わが前にひらけ
    若人我らが飛躍を持てり
    世を救わん 誓に立ちたる
    東邦大学 使命 尊とし
  2.学の灯火 高く掲げ
    久遠の真理の限りなき道を
    熱もて 愛もて 究めも行かん
    我が力は捧げて栄あり
    東邦大学 母と仰げば
 


■大森第三小学校

 大森西5丁目22番18号にある区立校。大正14年現在地に校舎落成。「東京府荏原郡大森第三
尋常小学校」として開校。校章制定。昭和6年校舎増築(教室17・裁縫室)。同7年荏原郡の東京
市併合により「東京府東京市大森第三尋常小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令により
「東京府東京市大森第三国民学校」と改称。プール完成。同18年都制施行により「東京都大森第三
国民学校」と改称。同19年9月静岡県・富山県に学童集団疎開。岩手県・富山県に学童集団疎開第
二陣。同20年5月愚かなアメリカ軍による非人道的無差別空爆により校舎全焼。同8月日本敗戦。
同11月疎開解除により学童教員帰校。
 同22年教育基本法制定により「東京都大田区立大森第三小学校」と改称。焼跡に平屋建て木造平
屋建て仮校舎教室5・職員室1落成。同25年2階建て木造校舎4教室増築。同27年2階建て木造
校舎4教室増築。同29年木造校舎4教室・職員室・校長室増築。同30年木造校舎4教室増築。プ
ール改築。同32年2階建校木造校舎6教室増改築。給食場新築完成。同34年プール完成。同39
年体育館兼講堂完成。同42年大森第三幼稚園校地内開園。同49年鉄筋コンクリート造り3階建て
校舎12教室・7管理室落成。同50年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎校舎6教室・3特別教室
落失。同55年校庭改修。同57年体育館改修。同58年プール改修。同62年防球ネット取付。ラ
ンチルーム・事務室完成、放送室改修。
 平成元年幼稚園廃園。園舎小学校へ移管。同11年校舎耐震補強。同14年新プール・新体育館落
成。同16年給食調理民間委託。同21年創立85周年記念集会。

 校歌
「朝に富士の」 作詞・富樫銀作  作曲不詳
  1.朝(あした)に富士の雪白く
    夕
(ゆうべ)に響く波の音
    都の南 広がれる
    名も城南の美
(うま)し里
  2.昔ゆかしき大森の
    木の下蔭は見えねども
    海苔の香高きこの里に
    我が学び舎はそそり立つ
  3.勉
(つと)めよ励め 皆共に
    仰げ 大森第三の
    独立自営の旗の下
    いざや鍛えん我が力
    いざや鍛えん我が力
 


■貴菅神社
 大森西5丁目27番7号、京急線の線路際にある中社。貴菅神社がある谷戸(やと)は、昔東海道
の品川宿と川崎宿の中間に当たり、馬子人足の休息のために立場茶屋が東大森村の谷戸の立場と雑色
村の花の立場に設けられ、旅行者の増加に伴いそれらの人々にも供せられ、間(あい)の宿と呼ばれ
た。氏子はただ1町会のみの、全員が登場しないと祭りが出来ない大森町では最も小さい氏子町会な
のでまとまりも良く子供神輿が本宿町会を練り歩くと、途中のお菓子配りの休憩個所が多く、子供た
ちの人気のイベントだ。
 


■東邦大学医学部附属大森病院

 大森西6丁目1・9・10・11番にある私立総合病院。
 


■鶴渡公園

 大森西6丁目12番1号にある区立公園。


■邦西ふれあい児童公園

 大森西5丁目3番3号にある区立公園。



■大森西七丁目公園

 大森西7丁目9番5号にある区立公園。

 



【大森東】(おおもりひがし)                    昭和39年9月1日
 東大森村。昭和39年新住居表示により大森1・3・6~8丁目の各一部をあわせた町域を現行
の「大森東」とした。東海道・産業道路の東で海に接している。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 
大森東について
 町名は大森村の東部地区の意。大森の由来については、【大森】を参照されたい。
 


■王森稲荷神社

 大森東1丁目1番12号にある小社。

   王森稲荷神社傳記
   祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
   祭日 四月三日
   由緒
   当社社記に依れば天保年間武蔵國六郷領東大森美原の里内川の耕地に貝塚あり松欅茂れる
   処に小祠あり王森稲荷神社と称し諸人奉賽せしが此の頃農作物不作に悩める住民集まりて
   当社に豊作の祈願をなしたるところ其の後年々五穀豊饒となり土地大いに賑えり依って諸
   人の神徳を崇め五穀豊饒の神として不入斗村鈴ヶ森の神主森田左京衛に依頼し社殿を建立
   し一層崇敬の念を深める。
   之当社の起源にして其の後この地益々発展するに及び境内の拡張整備を行う。
   当初の社殿は戦災にて焼失其の後仮の社殿であったが昭和四拾四年十二月七日崇敬者の奉
   賛に依って再建遷宮式を行う。              大森東一丁目町会
                               王森稲荷神社氏子総代一同

 記念碑
 境内にある。傍らに説明板がある。

   記
   此の記念碑は日露戰争に出征して歴戰の後無事に帰還された皆さんが大森町役場に奉納さ
   れたものですが、昭和七年に東京市に編入されましたので、昭和八年十月に大森神社(寄
   来神社に)移設されたのです
   最近町会役員及びみなさんのご要望がありましたのでここに移設したものです。
   平成2年9月11日                       大森東一丁目町会
                                   大森稲荷神社



■美原通り碑

 大森東1丁目6番3号歩道端にある石碑。

   
大田区の旧東海道のうち、南、中、北原をまとめ三原通りと呼ぶ。

 側に立札がある。

   
中原と南原の境
   東海道の名残である美原(三原)通りは、旧大森村の小字である北原、中原、南原の三原
   を通ることから名付けられた。その中原(中町)と南原(南町)の境界はこのあたりであ
   る。


■最勝稲荷神社

 大森東1丁目6番13号にある小祠。詳細不明。
 


■原守神社

 大森東1丁目7番7号にある小社。詳細不明。


■津島神社

 大森東1丁目8番15号にある中社。詳細不明。
 


■美原児童公園

 大森東1丁目12番8号にある区立公園。


海松山徳浄寺
 
大森東1丁目16番22号にある浄土真宗本願寺派の寺。厳正寺
第十一世祐惠上人が寛永四年(1
627)四ツ谷に創建し、第三代教傳(厳正寺第十三世)が元禄年間(1688~1704)に当地
へ移転、徳浄寺の初世となったという。本堂は和田堀とそっくりのインド式鉄筋コンクリート。右は
墓所、左は併設の大森幼稚園とその奥が庫裏。「新編武蔵風土記稿」に、

   徳浄寺
   除地一段九畝十八歩、小名南原の内海道の東側にあり。是も西大森村に属す。浄土真宗に
   て江戸麻布善福寺の門徒なり。昔は西本願寺の末寺なりしが、いつの頃よりか善福寺に属
   せり。海松山と号す。旧記によれば海栄山とあり、いつの頃にか改めけん詳ならず。村内
   厳正寺第十一世祐惠上人、寛永四年起立せしかど、その頃は福聚坊と号し、わづかの庵室
   なりしを、第三世の住持教傳の時より一寺とはなりたり、本尊弥陀の立像を客殿に安ず。
   長三尺ばかり、恵心僧都の作なりと云傳ふ。

 とあり、「大田区の文化財」に、

   開基は祐信、俗姓は菅原氏。豊島郡四谷に住む。日世智行の時念仏門に帰依し、寛永四年
   (1627)に本尊及び親鸞の影像と寺号を本山より下賜された。元禄年間(1688~
   1704)に13世秀山の子、教伝が当地に移し、徳浄寺の1世となった。9世祐海が天
   保年間(1830~44)に本堂を建立したが、戦災により焼失、昭和35年に再建。


 とある。
 


■みなみにこにこ児童公園

 大森東1丁目26番4号にある区立公園。


■海難供養塔

 大森東1丁目27番5番にある。海難供養塔としては東京湾中屈指の規模を持つ。この塔は東京湾
内で水死した無縁仏を祀る石造の五輪供養塔で、安政二年(1855)に再建された。総高2m32
cm。
 塔は、五輪塔の変形のような形で、水輪に当たる部分に胎蔵界大日如来の種子が刻まれている。台
石に刻まれた銘文には、江戸や神奈川の魚貝業者をはじめ、一般の江戸町民や武士など約300名に
及ぶ名が刻まれている。この塔は、地元の人ばかりでなく、広い地域のいろいろな階層の人々の協力
寄進によって再建されたことが判り、昭和50年3月19日大田区の有形文化財に指定された。

   大田区文化財
   
海難供養塔
   総高232cm
   安政二年(1855)に再建されたもので、海難供養塔としては、東京湾中屈指の規模を
   持つ。
   塔は、五輪塔の変形のような形で、水輪に当たる部分に胎蔵界大日如来の種子が刻まれて
   いる。
   台石に刻まれた銘文は、江戸や神奈川の魚貝業者をはじめ、一般の江戸町民や武士など約
   300名に及ぶ名が刻まれている。この塔は、地元の人ばかりではなく、広い地域のいろ
   いろな階層の人々の協力寄進によって再建されたことがわかり、貴重である。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会


■美原文化センター

 大森東1丁目28番9号にある区の施設。
 


■大森東一公園

 大森東1丁目28番20号にある区立公園。


■大森東小学校

 大森東1丁目29番1号にある区立校。昭和57年「東京都大田区立大森東小学校」として開校。
校歌・校章制定。

 校歌
海は光の朝を生み 作詞・宮沢章二  作曲・岩河三郎
   海は光の朝を生み
   大森東に昇る日よ
   学び舎は今 知恵の泉
   歌声は今 花の香り
   望みと喜び 此処に湧く 此処に湧く
    青空も海原も 世界へ続く
    潮風の街よ 緑の街よ
    呼び合い 助け合う 友がいて
    日毎の笑顔に 愛は輝く
   強く伸びよう春の草
   思いは優しく温かく
   考える窓 夢も豊か
   鍛え合う秋 力溢れ
   作るよ明日を 諸共に 諸共に


 同58年校旗制定。理科教材園開設。同59年校舎6教室増築。同62年創立5周年記念式典。
 平成3年創立10周年記念式典。同9年創立15周年記念式典。同14年創立20周年記念式典。
同19年創立25周年記念式典。
 


■都堀公園

 大森東1丁目30番1号にある区立公園。環七通りを挟んで大森本町2-23-1にも僅か乍らあ
る。区立平和の森公園と繋がっている。
 


■美原観音

 大森東1丁目30番の都堀公園の北端にある。

 
平林角蔵記念碑
 背面に、

   大森新地創設十周年に当り之が出願者平林氏のために之を建つ
   昭和九年九月廿三日           大森三業株式会社


 とある。この碑は、大森三業地創設に貢献し、その守り神として昭和7年大森東1丁目の徳浄寺か
ら三業地の裏鬼門に観音像を勧請した平林角蔵を顕彰して建てられた。
 


■大森東図書館

 大森東1丁目31番3号にある。
 


■第二消防方面本部
■大森消防署

 大森東1丁目32番8号にある。
 


■大森東高等学校 
閉校
 
 大森東1丁目33番1号にあった都立校。平成17年都立南高等学校と統合して都立美原高等学校
となっ
た。
 


■美原高等学校

 大森東1丁目33番1号にある全日二学期単位制の都立校。平成17年都立大森東高等学校と都立
南高等学校が統合して総合学科の高等学校として開校。美原は、の辺りの古い地名北原・中原・南原
を三原といったことから、この辺りの商店街(旧東海道)の冠称名。三原の「三」を「美」に置き換
えた新造名で、特に意味はない。
 


■大森東一丁目第一公園

 大森東1丁目35番6号にある区立公園。


■大森東一丁目第二公園

 大森東1丁目36番9号にある区立公園。


■羽田道(するがや通り)標柱

 大森東2丁目2番11号にある碑石。大森側から来て内川橋を渡って左にそれる道が羽田道。

   羽田道(するがや通り)

   羽田道の出発点である内川橋はするがや橋といわれ、『駿河屋』という旅宿があったので
   現在「するがや通り」という名が残されている。
 


■一里塚の案内板

 大森東2丁目3番18号コーポ久保前の電柱に建ててある立札。

   
一里塚
   江戸時代、街道には一里(約4km)毎に一里塚が設けられた。五間四方に土盛りをし、
   その上に並木とは異なる榎などが植えられている。日本橋からの里程の目標となり、人夫
   などの賃金支払いの基準ともなった。このあたりは、日本橋から3里目に当たる。


■「詩人」

 大森東2丁目3番21号NEWRIZEの玄関前左の壁にある池田万寿夫の彫刻。


■羽田道追分

 大森東2丁目2・3番の間のするがや通りがそれ。内川の内川橋の南の三叉路を東南へ行く道がか
つての羽田道だ。暫く行くと「江戸道の碑」がある。「するがや」とは「駿河屋」で、追分にあった
旅籠屋の名前。歌舞伎「浮世柄比翼稲妻」で、「お若えのお待ちなせえ」のセリフで白井権八を呼び
止める幡随院長兵衛が常宿としていたのが「駿河屋」。その幡随院長兵衛の浮世絵の絵タイルが「す
るがや通り」の入口の道にはめ込まれている。
 


■大森東二丁目児童公園

 大森東2丁目18番7号にある区立公園。


■江戸道の碑

 大森東2丁目26番2号の追分にある。
 


■鷺之森稲荷神社

 大森東2丁目31番8号にある。詳細不明。
 


■鷺之森児童公園

 大森東2丁目31番13号にある区立公園。


■大森第一小学校

 大森東3丁目1番18号にある区立校。明治8年2月
大森村元892番地に校舎を仮設、「第一大
学区東京府管内第二中学区第十一番公立小学校大森学校」として開校。同3月「第一大学区東京府管
内第二中学校区第十六公立貴船学校」と改称。同11年浜端3105番地(略現在地)に新築移転、
公立小学校の体裁が整う。同19年「東京府荏原郡貴船尋常小学校」と改称。同24年高等科併置に
より「東京都荏原郡貴船尋常高等小学校」と改称。同36年高等科転出により「東京府荏原郡貴船尋
常小学校」と改称。
 大正7年朝学実施。同8年木造2階建て校舎新築。同9年高等科再併置により「東京府荏原郡貴船
尋常高等小学校」と改称。昭和3年朝学終了。同7年荏原郡の東京市併呑により「東京市大森第一尋
常高等小学校」と改称。同10年高等科再転出により「東京市大森第一尋常小学校」と改称。同16
年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市大森第一国民学校」と改称。12月日米開戦。同
18年都制施行により「東京都大森第一国民学校」と改称。同19年学童集団疎開(静岡県熱海・石
川県氷見)。空襲が激しくなり熱海の生徒は岩手県小沢に再疎開。同20年4月愚かなアメリカ軍の
非人道的無差別空爆により校舎全焼。
 同21年アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都大田区立大森第一小学校」と改称。
同36年プール完成。同39年体育館完成。同43年防音校舎落成。同51年防音体育館完成。同5
9年郷土資料館と海苔資料室開設。
 平成5年コンピュータルーム開設。同6年体育館・プール解体。創立120周年記念式典。同7年
校舎解体。同9年校舎・体育館・プール落成。同10年校庭整備。同12年パソコン更新。インター
ネット接続。同16年創立130周年記念式典。同21年創立135周年記念式典。

 校歌
「海の幸い波打つ所」 作詞・小平協平  作曲・小林如
  1.海の幸い波打つ所
    寄せ来る海苔の
    香り清けく
    朝日影軽やかに
    歩みつつ
    今日も楽しく
    集わん吾等
  2.潮風清く芳し所
    引き潮の海
    貝の溢れて
    漁(すなど)りの掛け声も
    勇ましく
    今日も楽しく
    励まん吾等
  3.生産高く賑わう所
    希望の空に
    上がる黒煙
    逞しき勤労の
    行き高く
    今日も楽しく
    鍛えん吾等
  4.喜びの声溢るる所
    永久の平和
    共に担いて
    助け合い
    愛に満つ
    我が故郷
    今日も楽しく
    学ばん吾等
 


■大森海苔漁業協同組合跡

 大森東3丁目5番15号の大森児童館がそこだ。昭和25年設立、組合員1020名を誇った都内
最大の海苔漁協だった。昭和40年9月29日に解散。跡地は大森児童館となった。同42年12月
児童公園に漁業記念碑を建立。昭和48年11月組合史『大森漁業史』を刊行、漁協は発展的に「東
京富士信用金庫」に変身した。
 


■大森東三丁目児童公園

 大森東3丁目5番16号にある区立公園。

 
漁業記念碑
 園内にある。江戸時代、日本の海苔養殖は大森沿岸が発祥の地だ。以来東京湾の埋め立てなどで、
昭和30年代後半にその幕を閉じるまで大森は有数の生産地だった。工業発展による汚水流入と埋立
工事の進行に伴う漁場の縮小のため、影響を受けつつあった。昭和39年に開催されるオリンピック
東京大会を目指して、高速道路一号線、モノレールなどが建設され、この工事による大規模な埋立地
造成のため、海面が使用できなくなり、昭和37年に終止符を打った。
 先祖代々、海苔養殖を生業としていた業者たちは、それを惜しみ、海苔漁業終焉の記念として区内
3ヶ所に石碑を建立した。他は大森西の諏訪神社、大森東の貴船神社にある。
 この碑は、総高120cm。昭和42年5月吉日大森漁業組合の建立で、同組合跡地にあり、裏面
に組合の略史を刻してある。都内最大の海苔漁協「大森漁業協同組合」は今はなく、跡地は「大森児
童館」になった。子どもたちが記念碑の前を通って元気良く児童館に入って行く。
 


柳紅山厳正寺(ごんしょうじ)

 大森東3丁目7番27号にある浄土真宗本願寺派の寺。北条重時(1198~1261)の六男で
ある法円が文永九年(1272)に海岸寺として創建した。2世法密は密教を究め当地に伝わる獅子
舞(水止舞)を教授したという。6世了意が浄土真宗に改宗、十世祐智は石山本願寺に赴き織田信長
との戦に参戦、十一世祐惠が寺号を厳正寺と改めた。2階建て鐘楼付きの鉄筋コンクリート造りの山
門を入ると広々とした境内。庫裏も本堂も鉄筋コンクリート。
 梵鐘は、安政元年(1772)近隣の念仏講の寄進により、品川の渡部亦一によって鋳造された。
 「新編武蔵風土記稿」大森村の項に、

   厳正寺
   除地三段四畝十二歩、村の東の方にあり、東大森村に属せり、浄土真宗、江戸麻布善福寺
   末、柳紅山と号す、開山法圓上人文永九年八月十二日開闢す、昔は海岸寺と号せしを、祐
   惠上人の時今の寺号に改めしことは下文に出せり、寺伝云、法圓上人は北条陸奥守重時の
   五男にして、幼名を時千代といふ、箱根別当所にて薙染して名を重圓と改む、寛元元年の
   春叡山に登り、両界秘密の灌頂を承け、十八歳の春より南北に名師を尋ね、名を法圓と改
   め、浄土の教を奉ず。当寺を草創の後寺務三十年を歴て、正安三年二月十五日七十三歳に
   して寂すと、按ずるに北条系図に重時六男一女ありて法圓を載せず、幼稚にして出家せし
   により略して記さざる歟、第二世法密上人は法圓の兄左近太夫茂時の子なりといふ、茂時
   も系図には見えず、重時の子に赤橋太夫、将監長時、鹽田左近将監義政二人ともに男子一
   人ありて、法密のことは見えず、法密ははやく密教を奉持して奥旨を究めたり、其法力に
   より当所旱魃の時雨を祈り、霧雨の時雨を祈りしに、験をえざる事なければ、土人呼て権
   化の聖人とぞ云ける。第三世は法樹聖人貞治四年十月寂す、四世法善は明徳元年二月寂す、
   五世法性上人は赤橋相模守盛時の支族なりと云、盛時がことも系図に載ず惟赤橋相模守長
   時、及びその孫相模守久時あり、盛時はもし是らの内の初の名にや、法性は応永三十一年
   寂せり、第六世了意は法性の兄赤橋権大夫重祐の子なり、応永二十八年十一月京都へ遊学
   し、大谷本願寺存如上人の説法を聞て、終に真宗の奥旨を聴き、存如の門に入てその教を
   受ること三年に及ぶ、時に叔父法性入滅せしと聞て、故郷に帰り当寺に来りしに、法性の
   遺命ありて寺務を相続す、是より宗旨を改て真宗とはなれり、開山よりこのかた浄教を奉
   ぜしことすべて百三十年に及べり。了意は応仁二年四月寂す、それより第七世了祐、第八
   世祐圓、第九世祐良にいたるまで、三代は血脈相続せり、永禄十年祐良寂して後嗣子なき
   により、祐智といふ上人を養子とす。祐智本姓は平氏なり、元亀元年織田信長本願寺と合
   戦の時、己が門徒をひき具してぞ大阪へ馳上り、数度の軍功あり、其後天正十七年小田原
   北条家本願寺の門徒をにくみ、寺々の分国にあり限りは破却せんとす、祐智いかにもして
   この難を遁れんとせしに、剰へ時の代官行方修理亮深く法華宗に帰依し、他宗をにくみ、
   近郷の寺院を没収し、財費を奪ひとり、盡く法華宗派の寺院に寄附す、此時寶物をも過半
   失へり、しかのみならず明る十八年二月房州の里見義隆、按ずるに「里見家譜」に義隆と
   云人は見えず、義堯を誤りしるせし歟、されども義堯にては年代たがへり、義頼なるべし、
   当所へおし渡り、神社寺院以下を焼討にし、又家財雑具をも奪ひとりしかば、わづかに残
   りし財費をも此ときことごとく失へり、今いささか寺寶の存するは、家族弥五郎と云もの
   かひがひしく持ち去りしものなり。此後祐智は慶長六年三月寂しければ、其子祐惠寺務を
   つく、同八年正月二日の夜、夢床の間何人ともしらず歌をよみてこたへり、その歌の心は
   寺号海岸の字には崩るるの縁ありて不吉なれば、厳正の字にかへて然るべしといへり、さ
   めて後奇異のおもひをなし、やがて其年の十月より今の寺号にあらためり、祐惠より後今
   に至るまで血脈相続せりとぞ、客殿七間四方、本尊阿弥陀如来を安ず、又寺伝に云享保年
   間有徳院殿この邊御遊猟ありし時、しばしば当寺へわたらせ賜ひかり、後和中散をあきな
   ふ大和がもとに御休息所を営ましめ賜ひしかば、其事やみしとぞいふ。
   寺寶
   九字名号一幅。弘法大師の筆なり、第二世法密上人、正応四年紀州高野山より、故郷へ帰
   らんとするとき、師の僧さずけしといへり。
   獅子仮面三頭。法密上人の作なり、此仮面の来由は永享元年の夏、当所旱魃の時、土人の
   願により雨を祈りしとき、法密自ら三寸三分の稲荷の像を彫刻し、境内に小祠をたて安置
   し、又藁をもて竜頭と作りて祈願し、彼竜頭を海上に放ちければ忽一昼夜の間大雨降れり
   これよりしばしば雨降て、同三年には春より夏に至るまで霧雨せしとき、土人密師の雨を
   祈りしにより験はありけれど、霧雨の患にたへずなどしぶやきしにより、密師此獅子の仮
   面とつくりて、一七日の間浄土三都を転読し、その後土人をあつめかの獅子頭を戴きて舞
   はじめければ、一時に雨やみ雲はれしとぞ。この仮面は獅子頭とは称すれど、麟龍などの
   頭ににせてつくりなせり、此より獅子舞永例となりて今に年々執行せり。
   六字名号一幅。蓮如上人の筆なり、第六世十一月山科本寺へ詣しとき、蓮如上人より賜は
   れり。
   鐘楼。客殿の西南の方にあり、安永元年新鋳せし鐘なり、銘文も刻したれど考證に益なけ
   れば略せりと云。
   太子堂。客殿の西北にあり、二間四方、太子の像は立像にて長三尺計りなり。
   善仁寺。門に入て右の方にあり。
   佛照寺。善仁寺に向ひてあり。


 とある。

 
梵鐘
 高さ143cm、口径47cm。梵鐘の側面(「池の間」と呼ばれる部分)に刻まれた銘文によっ
て、当寺十七世祐尊の代、安永元年(1772)十二月武州品川に住む鋳物師渡辺亦市が鋳造したこ
とが判る。寄進者は、大森村などの檀信徒で、川端九日講中、堀之内十三日講中、同十四日講中、同
十五日講などの講の名が見え、この地域における真宗系講集団の存在を示す資料でもある。昭和49
年2月2日大田区の有形文化財に指定された。

   大田区文化財
   
梵 鐘
   高さ 143cm 口径47cm
   梵鐘の側面(「池の間」と呼ばれる部分)に刻まれた銘文によって、当寺十七世祐尊の代
   安永元年(1772)十二月に武州品川に住む鋳物師渡辺亦市が鋳造したことがわかる。
   寄進者は、大森村などの檀信徒で、川端九日講中、堀之内十三日講中、同十四日講中、同
   十五日講などの講の名が見え、この地域における真宗系講集団の存在を示す資料でもある。
   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会

 
水止舞(ししまい)
 寺に古くから伝わる郷土芸能で獅子舞の一種。昭和38年3月19日都の無形文化財に指定されて
いる。寺伝によると、後醍醐天皇の頃の元亨元年(1321)、当山2世法密が54歳の頃、武蔵の
国が大旱魃に見舞われた。郷民は徳の高い法密上人に救って貰おうと、揃って祈祷を願い出た。法密
上人は雨乞いは他の高僧に及ばぬことと再三辞退したが、たっての願いにより、稲荷明神の像を彫り
社を建て藁で龍神の形を造り、7日間祈祷して見事に雨を降らせた。
 併し、2年後の元亨三年(1323)数十日間雨降りやまず田畑悉く海となり、田畑流出し人々他
国へ逃れる者多くあった。「これは上人の雨乞いの禍」と当時の恩を忘れ法密上人を恨む者まで出て
きた。そこで上人は憐れに思い農民を集め、再び神仏に祈祷することを告げ、龍の三頭を彫り、水止
(シシ)と呼び仏前に浄土三部経を誦し、郷民に水止の龍像を冠らせて舞わせ、笛太鼓を叩かせ法螺
貝を吹かせて天に向かって踊らせた。すると黒雲は消え太陽が姿を現し、人々限りなく上人の高徳を
たたえて喜んだ。
 これより郷民は、願いを聞き入れて下さった仏様への感謝と喜びの舞を奉納するならわしとなり、
今日の水止舞に至っている。昭和38年3月19日都の無形民俗文化財に指定されている。
 第六世からは、浄土真宗に改宗したため、加持祈祷は行われていない。
 


■貴船神社

 大森東3丁目9番19号にある。創建年代不詳。厳正寺を創建した法円上人と共に大森へ来た田中
大夫が文永三年(1226)に当社の末社熊野神社を創建したといい、その時にはあったという。明
治5年村社に列格した。境内には、「大東京市制記念碑」、昭和16年10月奉納の「漁業解散記念
碑灯篭」、昭和39年5月に浜端地区漁民320名が建立した「漁業納畢之碑」などがある。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   (東大森村・西大森村・北大森村)貴舩社
   除地五畝、村の東の方海道の邊にあり、本社九尺四方、拝殿二間四方、共に南に向ふ、社
   前を隔つこと二十歩許にて石の鳥居あり。柱間九尺。


 とあり、「大田区の文化財」に、

   当社御鎮座ノ年代詳ナラズト雖モ、社傳ニ第九十代亀山天皇文永三年六月三日鎌倉ノ人田
   中大夫海岸寺ノ法円上人(今ノ厳正寺ノ開基僧ニシテ北条陸奥守重時ノ六男時千代)ト共
   ニ来リ住シ奉持セル己ガ氏神タル熊野神社ヲ当社ノ末社トシテ奉斎セラレシ事見エ、又厳
   正寺ノ傳ニ二代法密上人元享ノ旱魃ニ際シ貴船神社境内に鎮リ給フ稲荷大神ニ云々トアリ、
   以テ当社御鎮座ノ尚極めて古ク当時既ニ住民ノ信仰厚カリシヲ推察シ得ベシ。
   御鎮座以来悠々幾星霜村民ノ崇益々厚ク明治五年村社ニ列格降ッテ明治十八年舊大森ノ町
   民協議ノ結果貴船神社ヲ大森総鎮守トシテ仰ギ奉ルコトニ決定ヲ見タリト傳フ。当社創立
   以来社殿改築ノ度ハ兵火等ノ災禍ノ為文書遺失シテ詳細ヲ知ル能ハス。現今ノ本殿ハ文化
   十酉年十月、拝殿ハ文政八酉年六月ノ改築ニ係ルモノナリ。

 とある。

 
漁業納畢之碑
 
大森海苔として知られた区内沿岸の海苔養殖も、工業発展による汚水流入と、埋立工事の進行に伴
う漁場の縮小のため、影響を受けつつあった。昭和40年に開催されたオリンピック東京大会をめざ
して、高速道路一号線、モノレールなどが建設され、この工事による大規模な埋立地造成のため、海
面が使用できなくなり、昭和38年に終止符を打った。この碑は、昭和39年吉日の建立。裏面に発
起者として浜端連合会世話人代表平林徳太郎ほか、各丁場の漁業者320名の氏名が刻されている。
 先祖代々、海苔養殖を生業としていた業者たちは、それを惜しみ、海苔漁業終焉の記念として区内
3ヶ所に石碑を建立した。他は大森西の諏訪神社、大森東三丁目児童公園にある。
 


■「詩人」

 大森東2丁目3番21号ニューライス2の玄関前脇の壁面にある池田万寿夫のレリーフ。


■貴船児童公園

 大森東3丁目26番10号にある区立公園。


■江東治水事務所内川排水機場

 大森東3丁目28番1号にある都の施設。


■東京ガス大森グラウンド

 大森東3丁目28番1号にある。隣はふるさとの浜辺公園だ。ラグビートップイースト10(2部
相当)の東京ガスのホームグラウンド。大森駅から少し離れているが、都内にしては敷地も広く、芝
も綺麗で快適に練習できる。このグラウンドに限らないが、ラグビーチームは2部も3部も良いグラ
ウンドを持っていて、企業チームのメリットを感じる。しかし言い換えれば会社の都合で、いつ無く
なってもおかしくないが・・・
 グラウンドはゴルフ場(ジャックにクラウスゴルフ場というらしい)の一角にあり、芝が丁寧に刈
られていて美しい。ピッチサイドに3段程度の観客席が設けられていて、練習見学も容易にできる。
ラグビー場の隣が野球場で、海風に舞い上げられた土埃が飛んでくるのが唯一の難点。地の果てのよ
うなところだが、交通の便はよく、コンビニも近い。

 神社
 東京ガスグラウンドの門を入ったところにある(住宅地図)。未確認。
 


■大森東中学校

 大森東4丁目1番1号にある区立校。昭和57年2月設立認可。3月鉄筋コンクリート造り4階建
て校舎1・2階部分落成。4月「東京都大田区立大森東小学校」として開校。5月鉄筋コンクリート
造り4階建て校舎3・4階部分落成。8月プール完成。9月校舎完成。11月校舎落成記念式典。同
58年3月校庭植樹。同62年防球ネット展張。
 平成9年校庭改修。同13年創立20周年記念式典。同18年体育館屋根改修。

 校歌
「明日の時へ」 作詞・高橋渡  作曲・中田喜直
    明日の時へ 青空へ 羽ばたく港
    その名 大森東中
    梅の花咲く小花和 昔も今に
    集う三年 顔上げて 爽やかに
    進んで学ぶ 愛の眼優しい 吾等
    弾む思い 眩しく映えて
    友情 波の輪広げる泉と湧いて
    若い夢 夢を重ねて光の蝶になり
    命 命 求めて舞っている
    心 心 求めて舞っている
    逞しい吾等 吾等未来へ
    友よ 友よ 先生
    希望のその名 希望のその名
    大森東中学校
 


■朝日稲荷大明神

 大森東4丁目14番6号にある中社。


■大森東四丁目児童公園

 大森東4丁目19番11号にある区立公園。


■大森東四丁目第二児童公園

 大森東4丁目29番3号にある区立公園。


■三輪厳島神社

 大森東4丁目35番3号にある。創立の起源は治承四年(1180)に遡るという。源義経一行が
多摩川の渡しを過ぎた時のことというから、平泉から富士川の源頼朝の陣へ駆けつける際のことだろ
う。義経一行の舟が風に押し流され不安に思っていたところ、波の向こうに小高い杜が見えたという。
これは神のおわすところだと思いそこへ向かって海上の安穏を祈ると不思議と波風が治まったとか。
そこで義経が霊を感じ、この杜を訪ねてみると、社の縁に白蛇が現れた。これは神の使いで、きっと
厳島大神が自分たちの運を守ってくれたのだということで、森を拓き神殿を修理し、また舟を着けた
ところに注連竹を建てたということだ。これがこの厳島神社の起源。荏原の社の由緒に源頼義・義家
が登場することは多いが、義経が出てくるのは珍しい。
 それ以来、里の人が海面守護の神として毎年水神を祀っていたところ、ある年注連竹に黒い苔が付
着していた。人々が試しにそれを舐めてみると味があり、さらに干して食べてみると風味が殊に良い
ということで、翌年小枝を多く立てておくとまた苔が付着したので、次第にその苔を干して製造する
者が多くなっていったという。これが有名な大森海苔の起源であり、鎌倉の将軍家や、さらに時代が
下って江戸の将軍家にも献上されるようになったとのこと。
 これらの由緒から、この厳島神社は単に海上の守護神としてだけではなく、大森の海苔の製造業者
からの信仰も厚かったことが窺える。実際、社殿前の燈籠の台座には発起人として「川端海苔製造業
者」と刻まれている。「大田区の文化財」に、

   伝説によれば、文治五年(1189)に源義経が郎党を率いて関東に至り、多摩川を渡っ
   た際、たまたまその日が二百十日に当っていて、強風のため舟が押流され大森沖を漂流し
   た。舟から望見される神社の森に海上の平穏を祈念したところ、風がおさまった。義経は
   舟を大森に着け里人に社の名を尋ねたところ厳島社であったので、その加護を感謝し社殿
   を修理して舟を付けた浜辺に注連竹に付着した海藻がノリであったという。
    明治四十二年(1909)に現在の位置に元々あった三輪神社が近くにあった白山神社
   を合祀し、昭和三年(1928)に現在の社務所にあった厳島神社を合祀して現在の三輪
   厳島神社となった。

 とあり、境内の説明板に、

   かしこくも、当社の祭神は素盞嗚尊の御女市杵嶋姫命にまします。謹みて創立の起源を神
   記口碑に因り案ずるに。安徳帝治承四年(1180年)源義経は武蔵坊弁慶・伊勢三郎・駿河
   治郎等の郎徒を具し、東海道玉川の渡しを過ぎけるが、頃しも二百十日の厄日にて南西の
   風吹き荒び、舟は見る見る押し流され大森下に漂えば一同安き心なく、波方を望むれば、
   小高き社見えしかわ、これ神のおはします処と其の方に向い、海上平穏を念じければ、不
   思議や風やみ浪治まりぬ。義経霊に感じ、舟を瀬島につけ、葭をなぎ葦を分けて彼方の森
   を尋ぬれば、ささやかなる社の縁に白蛇顕われいたり。これ神の使ひなめならぬ。かしこ
   し、厳島大神我等が運を守らせ給ひしことよと、里人に語らい改めて森を拓き、神殿を修
   理し、また船をとどめし処に注連竹を建て給う。是れ当社創立、起立の起源にして今を去
   ること八百年に及ぶ。
   是れより里人等神徳を尊ぶこと愈々深く、海面守護の神として毎年正月十二日水神を祀り
   しが、ある年海面に建てし注連竹に黒き苔生じければ、人々怪しみてこれを採り嗜めける
   に味あり。生酢干かにして食せば殊に風味よし翌年其の頃を計りて木枝多く建てけるに、
   またまた苔の生じければ種々製造法を考え遂に現今の如き乾海苔に製し年と共に製造する
   もの多し、海の苔即ち「のり」と称し鎌倉将軍に献上の栄を担い、江戸幕府開かるるに及
   び毎年将軍家に献上し、維新の際まで変わることなかりしは人の皆知る処なり。
   嗚呼、大森の名産とし名誉海外にたかき海苔の濫觴たる如斯にして、如何に我が厳島大神
   の海面御守護の御神徳高きか、かしこくも尊きことにこそ。

 とある。
 


■弁天神社児童公園

 大森東4丁目35番3号にある区立公園。


■貴船堀公園

 大森東5丁目1番1号にある区立公園。


■中富小学校

 大森東5丁目6番26号にある区立校。昭和26年大森第四小学校から分校し「東京都大田区立中
富小学校」として開校。同34年校章・校旗制定。同36年校歌制定。

 校歌
「晴れ晴れ海の太陽」 作詞・神原克重  作曲・鏑木貢
  1.晴れ晴れ海の太陽
    街の真上に高く照れば

    青青と波は揺れ 大空は
    銀の輝き 銀の輝き
    何時でも明るく楽しい学校
  2.海苔罅の竹を揺るがし
    何時か呑川を遡って
    鳴り響く上げ潮 海底から
    湧いて漲る 湧いて漲る
    逞しい潮の力が伝わる
  3.
世界の国と繋がる
    羽田空港を近く望み
    溌剌と伸びて行く
    都の東南 光豊かに
    希望溢れる ああ中富 中富小学校


 同38年体育館完成。同39年プール完成。同43年鉄筋コンクリート造り防音校舎落成。同49
年中富幼稚園併置。同52年防音体育館完成。同63年中富幼稚園廃園。
 平成3年創立40周年記念海苔資料室開設。同5年プール改修。普通教室冷房個別化。同10年体
育館外壁塗装・下諸室冷暖房個別化完了。同12年校舎北側外壁改修。同13年校舎南側外壁改修。
創立50周年記念式典。
 

 



【大森本町】(おおもりほんちょう)1~2丁目            昭和39年9月1日
 大森海岸。昭和39年新住居表示により大森1丁目・入新井1丁目の各一部をあわせた町域を現
行の「大森本町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 
大森本町について
 大森というよりは不入斗(いりやまず)。本町としたのは東・西・南・北・中の総てが使われて
いたからで、大森村の最古の地でも中心地でもない。東海道と平和島公園に挟まれた狭い区域。1
丁目が僅かに海に接している。大森の由来については、【大森】を参照されたい。
 


■八幡橋児童遊園

 大森本町1丁目6番1号にある区立公園。


■平和島入口児童遊園

 大森本町1丁目8番先にある区立公園。日当りは良い。幅2m×30mばかりの細長い空間に、砂
場と鉄棒、水が出るか出ないか分からない水飲み場があるが、とてもここで遊ぼうと思う子は居ない
だろう。周辺環境としては、国道15号線を平和島競艇場のほうに曲がったところにあり、音を遮る
樹木もないから、非常に騒がしい。区としてはどうにもならない空間で、放置すれば、ゴミを捨てら
れたり、自転車を置かれたりするので、公園にしておけば、利用する者がいないとしても、ゴミ捨て
場にはさせない工夫だろう。


■本町児童遊園

 大森本町1丁目9番16号にある区立公園。


■大森第五小学校

 大森本町1丁目10番5号にある区立校。昭和9年に開校したらしい。資料無し。
 


■第一京浜国道の説明板

 大森本町1丁目10番12号ヤマザキショップの前、歩道端に建ててある。

   第一京浜国道(15号線)
   大正7年より旧東海道を拡張改修し、京浜国道を建設する工事が始まった。旧東海道だっ
   たこの付近(美原通り)は、商店や人家が密集していたことから、新国道は旧道の西側に
   建設されることとなった。そのため、美原通りには、江戸時代から続く店が今も健在であ
   る。  



■美原不動院(美原不動尊) ◇

 大森本町2丁目1番8号にある真言宗醍醐派の寺。「健徳院美原不動尊」というらしい。入口の右
に生長地蔵尊、稲荷社、庫裏と並ぶ。


■大森スポーツセンター

 大森本町2丁目2番5号にある区の施設。
競技場(アリーナ)、トレーニングルーム、健康体育
室、小ホール、ミーティングルーム、梅屋敷公園内弓道場があり、ハンドボール、バレーボール、
バスケットボール、バドミントン、テニス、卓球、柔道、剣道、弓道、その他各種室内競技、また
集会やレクリエーションなどに利用できる。利用時間9:00~22:00 休館日年末年始のみ
(但し工事などにより臨時休館日あり) 電話03‐5763‐1311
 


■旧東海道碑

 大森本町2丁目2番5号のミハラ通り商店街のとば口、大森スポーツセンター前の歩道上にある。
大正7年の第一京浜国道建設工事の際に旧東海道が拡張されたが、美原通りは商店街だったので、
ここを避けた。美原通りは今でも旧東海道の面影を残している通りなのだ。大森警察署まで続く。
碑は、正面に「三原通り」その下に並んで左に「至品川」、右に「至六郷」と刻み、向かって左側
面に「旧東海道」と記している。台座の左斜面に、

   旧東海道の景観は著しく変貌したが、往時の幅員を比較的残しているのは本区ではこの
   付近九〇〇メートルと六郷地区の一部だけになった。字名の南、中、北原をまとめ三原
   通りと呼ぶ。


 とある。

 旧東海道(美原通り) 区史跡
 東海道は、江戸時代初期に幕府の整備した、江戸日本橋を出発点とする五街道の一つで、江戸と京
都を結ぶ、最も重要な交通路だった。参勤交代の大名行列の外、一般の旅人にも大いに利用された。
昭和2年東海道は拡幅改修され、第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残して
いるのは、この美原通りと六郷地区の一部だけとなった。旧東海道は、かつて三原通りと言われた。
三原とは、字名の南原、中原、北原の三原のことで、美称して美原になった。「お若えのお待ちなせ
え」の台詞で有名な歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(鶴屋南北作)で白井権八を呼び止める幡随院長兵衛
が常宿としていたのが有名な旅籠『駿河屋』で、「するがや通り」は内川橋の際から分かれる羽田道
だ。 昭和51年2月25日に区史跡に指定された。

   大田区文化財
   
旧東海道(美原通り)
   東海道は、江戸時代初期に幕府が整備した江戸は日本橋を出発点とする五街道の一つで、
   江戸と京都を結ぶ、最も重要な交通路であった。参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人
   も大いに利用された。
   昭和2年東海道は拡幅改修され、第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を残して
   いるのは、この三原通りと六郷地区の一部だけとなった。
   旧東海道は、かつて三原通りといわれた。三原とは字名の南原、中原、北原の三原のこと
   で美称して美原になった。歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(鶴屋南北作)で有名な旅籠『駿河
   屋』のあった「するがや通り」は内川橋の際から分かれる。
   昭和51年2月25日指定。                   大田区教育委員会
 


■馬頭観音 ◇

 大森本町2丁目3番3号海苔問屋川島屋ビル南面の軒下にある。嘗てはビル外にお堂としてあった
が、現在は露仏だ。


■「和中散」の案内板 ◇

 大森本町2丁目5番8号石川歯科クリニックの前の電柱に取り付けてある立札。江戸時代、東海道
の大森宿付近には「食あたり、暑気あたり」に効く漢方薬『和中散』を売る店が3軒あったという。
『江戸名所図会』にはその様子が描かれている。『梅木堂』店は、3軒中一番の大店であろう。大森
村南原にあった。元々和中散は近江国栗太郡地蔵村(滋賀県栗東市六地蔵)の梅木が発祥の地だ。東
海道草津宿に近いことから、〝梅木の和中散〟として知られていた。


   
和中散の売店
   江戸時代から、大森名産として「海苔」「麦わら細工」とともに、「大森和中散」(旅人
   の道中常備薬)が有名であった。東海道大森に和中散売薬所は3軒あり、中原にあった店
   は江戸に最も近く、宝永年間(1704~11)から昭和11年頃まで販売していた。


■都堀公園

 大森本町2丁目23番1号にある区立公園。環七通り向うにある公園の続き。向うが本家。


■大森仲町児童遊園

 大森本町2丁目26番17号にある区立公園。
 

■大森仲町児童遊園

 大森本町2丁目31番14号にある

 



【大森南】(おおもりみなみ)1~5丁目               昭和39年9月1日
 森ケ崎村。明治22年「市制町村制」により大森村大字森ケ崎、同30年大森町大字森ケ崎。昭
和7年大森区が成立して森ケ崎町となり戦後に至る。同39年森ケ崎町と大森9丁目に北糀谷町の
一部をあわせた町域を現行の「大森南」とした。大森の南側の意。旧称は岬が樹林で覆われている
状態を言う。昭和島に森ケ崎下水処理センターがある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 
大森南について
 町名は大森村の南外側の意。大森東・西とはちょっと命名条件が異なる。大森の由来については
【大森】を参照されたい。
 


■大森南第一公園

 大森南1丁目12番16号にある区立公園。


■大森南図書館

 大森南1丁目17番7号にある区の文化施設。
 


■大森南一丁目公園

 大森南1丁目12番16号にある区立公園。


■大森南稲荷前児童公園

 大森南2丁目1番11号にある区立公園。


■大森南二丁目児童公園

 大森南2丁目7番9号にある区立公園。


■大森南二丁目第二児童公園

 大森南2丁目10番4号にある区立公園。


■舞の浦児童公園

 大森南2丁目14番8号にある区立公園。


■末広橋児童公園

 大森南2丁目19番4号にある区立公園。


■藤兵衛堀児童公園

 大森南2丁目22番22号にある区立公園。


■桜梅公園

 大森南2丁目23番12号にある区立公園。


■大四前くすのき公園

 大森南3丁目24番16号にある区立公園。


■大森第四小学校

 大森南3丁目18番26号にある区立校。昭和7年大森第一尋常小学校から分校し「東京府東京市
大森第四尋常小学校」として開校。13学級689名でスタート。同16年勅令148号国民学校令
により「東京府東京市大森第四国民学校」と改称。日米開戦。同18年都制施行により「東京都大森
第四国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。
 同22年アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都大田区立大森第四小学校」と改称。
同26年中富小学校を分校し、学童719名を移籍。同28年創立20周年記念式典。同34年プー
ル完成。同35年校舎防音工事。同38年創立30周年記念式典。鉄筋コンクリート造り防音校舎落
成。同48年創立40周年記念式典。同52年体育館・特別教室完成。同53年給食室改修。同54
年理科室・階段室防火区画・東校舎廊下階段改修。同55年鉄筋コンクリート造り校舎3教室・付属
室落成。同58年窓枠サッシ化。創立50周年記念式典。同59年夜間照明開始。同60年創立50
周年記念カプセルを埋設。同62年プール改築。給食室改修。校庭舗装・防球ネットなど付帯施設設
置。同63年創立55周年記念式典。
 平成元年屋上防水化。冷暖房ダクト改修。同4年多目的教室設置。同5年社会開放教室改修。創立
60周年記念式典。同6年エアコン設備改修。同9年体育館屋上防水化。同11郷土資料室改築。同
14年週五日登校制開始。同15年創立70周年記念式典。同16年給食室完成。同17年給食民間
委託。同20年校舎壁面緑化。同21年全日本小学生バンドフェスティバル東京大会銀賞獲得。

 校歌
「碧の空を」 作詞・神保光太郎  作曲・佐々木すぐる
  1.碧の空を大らかに
    轟く翼 希望に燃える
    吾等若き鳳 日本の未来
    体を鍛え 足並み揃え
    さあ行こう 吾等 吾等
    伸び行く吾等 大森第四
  2.海原晴れて遥々と
    輝く航路 希望に燃える
    吾等若き桜樹 日本の未来
    心を磨き 学びて止まず
    さあ行こう 吾等 吾等
    伸び行く吾等 大森第四


■浦守稲荷神社

 大森南3丁目27番8号にある大社。創建年代は不詳。厳正寺を創建した法円上人と共に大森へ来
た田中大夫が、文永三年(1266)に当社の末社熊野神社を創建したといい、当社はそれ以前から
あったという。明治5年村社に列格した。羽田道に面してある。社殿の右に白い鳥居の白蛇神祠があ
る。近くに「前の浦」という交差点、バス停があるので、この辺りに海岸線があったのだろう。
 


■浦守稲荷児童遊園

 大森南3丁目27番8号にある区立公園。


■旧羽田道の碑

 大森南3丁目27番18号の角地にある。
 


■暴力団員3歳児虐待殺人

 大森南3丁目32番8号大森南ダイアモンドマンション4階で起きた。平成28年1月25日0時
5分頃、20代女性から「子どもに熱があって反応しない」と通報があった。この部屋に住む新井礼
人(あやと)ちゃん(3歳)が心肺停止の状態で病院に搬送され、間もなく死亡が確認された。顔や
体に痣があり、警視庁は通報した母親と同居の20代男性から事情を聴いた。
 その結果、同居人、住吉会系暴力団員永富直也(20歳)を傷害の罪で逮捕した。永富は犯行を認
めており「やるだけのことはやった。悔いはない」と反省の色は見せず、強がっている。
 20歳で子連れ女との交際は無理よ。この年齢じゃセックスしか頭がないから、セックスに不都合
なガキに八つ当たりは当然だよ。邪魔で、邪魔で、しょうがなかったんだよ。頭がガキだから、3歳
児に「ガン飛ばされた」って怒ってる。馬鹿じゃん。頭の中が3歳児とレベル一緒。実刑食らって、
大人になるんだね。出所後、親分が腕を拱くんじゃないの。
 


■潮見児童公園

 大森南4丁目4番9号にある区立公園。


■森ケ崎交通公園

 大森南4丁目9番3号にある区立公園。大森東特別出張所と隣接された、大田区内5番目の交通公
園だ。子ども用自転車や三輪車、豆自動車といった乗物(無料)があり、園内のコースを自由に乗る
ことができ、消防車や救急車にも手をふれることができる。他にも園内には、幼児用の遊具もあり、
小さいお子様にも楽しめる。また夜間は、閉鎖公園となっており、公園利用時間は、午前8時30分
から17時で、乗物利用時間は、9時から16時となっている。コース内は、貸出し用自転車等以外
は利用できない、ご注意を。


■大森南四丁目児童公園

 大森南4丁目10番5号にある区立公園。


■大森緑道公園

 大森南4丁目11番、5番2号、5番6号に跨る、散歩道のみで構成された南北に長い全長12k
mの都立公園。京浜運河沿いにあるのだが、誰がこんな辺鄙なところにきて散歩するんだ。側に森ヶ
崎公園があるんだよ。
 


■大森4丁目公園

 大森南4丁目14番2号にある区立公園。


■森ヶ崎題目堂 魄光山大森寺
 大森南5丁目1番2番にある、本堂だけの小さな寺。大森寺は、大森大林寺40世日元が、無縁塚
のあったこの地に、明治38年4月森ヶ崎教会所として創建、昭和22年2世日善が日蓮宗大森教会
と改称、昭和46年4世日立が大森寺と改称、森ヶ崎題目堂と俗称されている。墓地はない。道路際
に本堂があり、右に庫裏の玄関がある。バス停の傍で賑やかな場所なのに寂しい佇まい。その案内板
によれば、かつて鉱泉があって保養地として旅館も出来ていたが、戦後荒廃した。その石碑が境内に
ある。

 
森ヶ崎鉱泉碑
 明治27年の旱魃の時、地元の農民が灌漑用と無縁塚(大森寺)の手洗水に利用するため、掘り抜
き井戸を掘ったところ、偶然に鉱泉が湧き出した。2年後に堂域で無料施湯が行われるようになり、
同30年には最初の鉱泉旅館の光遊館が開業、数年後には歓楽街を形成するほどの発展を見せた。東
京近郊の保養歓楽を兼ねた行楽地として次第に広く知れ渡り、芥川龍之助・田山花袋・徳田球一・堺
利彦などの文士名士が訪れ、戦前は大いに隆盛した。今は下水の水処理センターやその屋上の森ヶ崎
公園がある辺り、明治の後半から大正・昭和初期にかけて鉱泉旅館があり、海水浴場、遊園地、養魚
場などを備えた、今でいえば一大レジャーランドの如き場所だった。しかし第二次世界大戦を迎え、
旅館や料亭が軍需工場の寮などに転用されるようになって一気に衰微し往時の姿を失って行った。戦
後も復活せず、現在は昔日の面影すら全く残さない。なお明治34年に朝鮮人陸鐘允の書を刻した碑
は立田野旅館の傍らに建てられていたが、現在は大森寺の境内に移されている。

 撰文は漢文で、

   森崎鑛泉銘
   森崎之間海埠耕壟厥有霊泉
   滃馬始湧官試其効村驚其異
   設甃起亭澡未沫臓塩滷鐵■
   百疾是廖立石源頭茲銘其由
   明治三十四年冬至日
         朝鮮陸鐘允書

 文意は、

   森ヶ崎海岸の畑の畦を掘ったところ霊泉がこんこんとわき出した。官立の試験場でその
   効能が確かめられ、土地の人々はその奇異にびっくりした。次々に鉱泉旅館を建て入浴
   したところ、鉄分を含んだ塩気泉は、たちどころに総ての病に功を奏した。石碑を源泉
   の辺に立てて、ここにその由来を書きつける


 といったところだ。左隣に、

   
魄光大尊靈

 の碑がある。

   大田区文化財
   
森ヶ崎鉱泉源泉碑
   明治34年に森ヶ崎鉱泉の発見と泉効実験を記念して建てられた石碑である。もとは立田
   野旅館の側にあったが、現在地に移された。
   正面には泉効をたたえた詩文がが刻まれ、背面には180余名に及ぶ建立発起人の名が記
   録されている。これらの人々は、おそらく鉱泉の開掘を発起し尽力した大森地区の有力者
   であったと考えられ、森ヶ崎鉱泉開掘当時の事情を伝える資料として貴重である。
   森ヶ崎鉱泉は、同35、6年頃には鉱泉宿ができはじめ、次第に東京近郊の保養地、臨海
   行楽地として栄えたが、太平洋戦争を契機として転廃業した。
   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会

 ●鯉塚の句碑
 擬宝珠型 総高189cm。森ヶ崎の海岸近く、現在の大森第一中学校辺りに、大きな養殖場が経
営されていた。この鯉塚の句碑は大正7年8月に、この養魚場の池畔に鯉供養をかねて建てられたも
のだ。句は、おそらく森ヶ崎鉱泉宿に遊んだ俳人が、養魚場の池の鯉の飛び跳ねる雄大な姿を句に詠
んだものだろう。
 


森ヶ崎観音 
三縁山法浄院

 大森南5丁目1番18号にある無宗派の寺。単立なればここが本山で、別院として浦賀日月院・伊
東日徳庵・木曾御嶽山観音堂があるらしい。旧くから近くにあった波除観音堂を源流とする。空光和
尚が、昭和23年に観音堂に入堂、三縁山法浄院と称し、同41年宗教法人となったという。正面が
大師堂でここが本堂のようだ。右に浄心堂、観音堂があり、左は地蔵尊堂と庫裏だ。墓地はない。
 境内の説明板に、

   大正の頃までは現在より北方の海岸近くの葦原の中に建っていた波除観音堂であった。
   森ケ崎が保養地として栄えるに及んで森ケ崎八景の一つと云われていた。
   二ツ池のある公園の中に、昭和初期に有志の人々によって移築整備されて八重椿に囲まれ
   た二間四面の観音堂となった。この境内には、享保十九年(1734)の石佛(浄心観世音)
   が祀られてあった。その後、昭和13年8月24日森ケ崎上空に於て、旅客機と練習機の
   接触によって八十五名の遭難者の出た大事故が起り、その慰霊の為の地蔵尊及び位牌が当
   院に安置された。しかし無住であった為に戦中戦後と荒廃してしまった。
   昭和23年春から夏にかけて、先代住職空光和尚の疎開先の、茨城県河内村の田舎屋に、
   巻物を持った身丈3尺ほどの青銅の白衣観世音菩薩が幾たびも現われて「汝我がみ堂に来
   れ、海辺ではあるが此の観音につくせ、霊験を授ける」と告げられ、海辺近くの二間四面
   の宝形造りのお堂を見せられた。どちらの観音さまであるかと考えていると、不思議な導
   きにより、当山の本尊観音さまであることがわかり、昭和23年11月13日入堂した。
   昭和25年観音誠心講を創立し、正式名称を「三縁山法浄院」とした。昭和31年5月2
   1日空光和尚寂し、現住職となり昭和41年単立宗教法人本山法浄院を設立、今日に至っ
   た。


 とある。

 
縁起
 昭和20年5月の空襲で東京品川の不動堂を焼失してしまい、疎開先の茨城県の寺に入る話があっ
た同23年6月半ばの昼頃、空光がタンスに寄りかかって庭を見ていると、

   汝ここから先は観音になるのだ、汝は山を望んでいるが、我の授ける所は海の傍の8畳一
   間のお堂では有るが、この地に来れよ


 と聞こえたという。空光はハッと辺りを見回したが、誰もいない。さてその地は何れの所かと思案
している内、7月27日午前2時に身丈3尺程の巻物を持った、唐金の白衣観世音菩薩が枕辺に立っ
て、
   汝我が堂に来たれ、海辺ではあるがこの観音に尽くせ、霊験を授ける

 と再びいい、2間四面の宝形造の堂を見せた。重なる不思議に驚いたものの、この堂が何処にある
のか判らないでいたところ、数日して東京から信者さんが不意に訪ねて来て、話の中に森ヶ崎という
所に観音堂があるというので、もしやと思い早速見に来たところ、全くそっくりそのままなので、こ
の観音堂に入りたいと交渉したところ、滞りなく話が進み、11月13日空光は、無人のため、壁は
落ちガラスは割れて畳も戸もない荒れ果てていたその堂に入った。これ以前の観音堂についての詳し
いことは何も判らない。同24年には観音誠心講を設立したが、同31年5月21日空光が示寂し、
二世住職誠道の代となった。同34年7月木曾御嶽山3合目大又に観音堂を建立し、同41年単立宗
教法人「三緑山法浄院」を設立、本堂を建立した。同43年浦賀別院日月院を引き継ぎ、同56年伊
東別院日徳庵を開創し今日に至る。

 墜落事故慰霊地蔵尊
 
昭和13年8月24日森ケ崎で航空機の墜落事故が発生。死者85人という大惨事となった。
 午前8時55分、日本航空輸送のフォッカー機と、日本飛行学校のアンリオ機が森ヶ崎の上空で空
中接触、フォッカー機は大森9丁目(現在の大森南3丁目、第四小学校付近)の山本ラッシュ製作所
に墜落。一方のアンリオ機は森が崎(現在の大森南5丁目、森ヶ崎水処理センター付近)の民家の屋
根に墜落した。両機の搭乗員は合わせて5名だったが、救出しようとかけつけた工場従業員50名と
住民数十名が機体に近づいた瞬間に飛行機のガソリンタンクが爆発。付近一帯は炎の海と化し、焼死
体が続出した。この事故は最終的に死者85名、負傷者76名に達する大惨事となった。犠牲者の殆
どが巻き添えを食った地域住民だった。
 その後、墜落現場に近い森ヶ崎観音堂に「飛行機墜落死者大菩提也」と刻まれた慰霊の地蔵尊が建
立された。そして今でも8月24日には、観音講の人々によって供養が行われてい。
 聖天堂
 昭和47年に生駒山宝山寺より勧請。それ以来、長い間願い続けた聖天堂並びに客殿を建立する運
びになった。聖天は偉大な力と大いなる自愛、現実的な願望成就に霊験がある。そして華やかなるこ
とを好む聖天の心に叶うように願い。 花天井を献じることになった。
 


■下水道局森ヶ崎水再生センター/西施設

 大森南5丁目2番全域にある。事務所は2番2号。この水再生センターは東・西2つの施設と、汚
泥処理を専門に行なう南部スラッジプラントからなっており、わが国では最大規模の水再生センター
だ。処理区域は、大田区の全域、品川・目黒・世田谷区の大部分、渋谷・杉並区の一部で、面積は1
4675ha。これは区部全体の面積の約4分の1に当る。また多摩地域の野川処理区等の下水22
000㎥/日も受け入れている。
 処理した水は東京湾に放流。またその一部を砂濾過してセンター内で洗浄・冷却やトイレ用水に使
用するほか、大田清掃工場、品川清掃工場にも供給している。
 発生した汚泥は、芝浦水再生センターから送られてきた汚泥とともに南部スラッジプラントに圧送
し処理している。東施設は昭和島2‐5、南部スラッジプラントは城南島5‐2にある。
 


■東京モノレール、電気トラブルで立往生

 大森南5丁目2番東の下り線のレール上で突然の停電により車両が停車した事故。平成29年9月
12日14時15分頃、都心と羽田空港を結ぶ東京モノレールの昭和島~整備場間の下り線で停電が
起き、全線で運転を見合わせた。東京モノレールは京浜急行などへの振り替え輸送を実施した。昭和
島-整備場間で乗客約40人が乗った下り列車1本(6両編成)が停車。上り線に列車を横付けし、
15時半頃までに全員を救出し、昭和島駅で降ろし、バスで羽田空港に送った。
 原因は、当初変電所内の事故とみられていたが、停車していた列車の電気系統の不具合が原因で、
同区間で停電が発生したことが判明した。


■森ヶ崎公園

 大森南5丁目2番11号、水再生センターの上部空きスペースを利用している区立公園にある区立
公園。


■森ヶ崎児童公園

 大森南5丁目3番5号にある区立公園。、


■大森南五丁目児童公園

 大森南5丁目3番16号にある区立公園。、


■大森第一中学校

 大森南5丁目6番5号にある区立校。昭和22年大森第五小学校内の仮校舎で「東京都大森第一中
学校」として開校。校章制定。同24年現在地に木造校舎2階建て13教室落成して移転。同25年
7月校歌制定。

 校歌「光は庭に」 作詞・藤浦洸  作曲・佐々木すぐる
  1.光は庭に溢れてる
    潮風窓に戦いでる
    ああ爽やかな学舎で
    萌える若芽を伸ばそうよ
    大森一中 大森一中
    僕達の母校  私達
  2.鏡が映す清らかさ
    翼に乗せて空を行く
    ああ美しいその校章
    高い誇りに生きようよ
    大森一中  大森一中
    僕達の母校  私達
  3.希望と智慧の蕾を
    抱いて強い光の子
    ああ楽しさを喜びを
    声を合わせて歌おうよ
    大森一中  大森一中
    僕達の母校  私達


 同26年木造第二校舎2階建て6教室落成。同28年木造第三校舎2階建て4教室落成。同29年
校旗樹立。木造第三教室2階建て2教室増築。同32年防音工事のため東蒲中、大森四小に間借り授
業。同33年防音工事竣工し全生徒帰校。同36年体育館完成。同39年第一期防音鉄筋コンクリー
ト造り校舎11教室落成。同40年第二期防音鉄筋コンクリート造り校舎12教室落成。同41年プ
ール完成。同45年自転車置場完成。同42年創立20周年記念式典。校庭整備。同48年校舎改装
完了。同51年防音鉄筋コンクリート造り体育館兼講堂完成。同52年創立30周年記念式典。同5
5年校舎増改築。同57年校庭整備。同62年創立40周年記念式典。同63年給食室完成。
 平成元年プール新築。同2年パソコンルーム開設。同4年校庭整備・犬走り完成。同7年地域開放
室完成。同8年東側校舎エアコン設置。同9年給食民間委託。西側校舎エアコン設置。創立50周年
記念式典。同12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により、東京都の冠称が取れ「大田区立大
森第一中学校」と改称。同14年週五日登校制開始。同15年体育館床張替。同19年創立60周年
記念式典。
 




【蒲田】(かまた)1~5丁目                    昭和40年9月1日
 蒲田村。室町時代に見える。村が拡大すると蒲田村は北蒲田村・蒲田新田(蒲田新宿村=かまた
しんしゅくむら)に分村。明治22年市制町村制」により荏原郡北蒲田村・女塚村・御園村・蒲田
新宿村に鵜ノ木村飛地沖ノ島の一部が合併して大きい蒲田村が成立し、その大字北蒲田・蒲田新宿
となる。大正11年蒲田村が町制に移行。昭和7年蒲田区が成立して北蒲田は蒲田町に、蒲田新宿
は新宿町となった。同12年両町は合わさって本蒲田1~5丁目・仲蒲田1~4丁目・東蒲田1~
4丁目に分かれ、新宿町は一部を残した。同40年新住居表示により本蒲田1~4丁目・仲蒲田1
~4丁目・東蒲田1~4丁目・大森5丁目の各一部をあわせた町域を現行の「蒲田」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 
蒲田の由来
 ①.アイヌ語の「飛び越えたところ」や「沼の中島」という説。
 ②.湿地の中の人工陸地「蒲地・蒲池(がまち・かまち)」という説。
   歌手松田聖子の本姓は「蒲池」だが、九州は柳川に拠った豪族に蒲池氏がある。彼女
   も九州出身だからその系統か縁者だろう。湿地に溝を掘ると水が溝に抜けて乾燥地が
   出来る。これを「蒲池」という。柳川の湿地帯を開墾した者がその状況から、それを
   地名とし、名字とした。吉野ヶ里環濠集落も防御ばかりを考えたのではなく、実質的
   水抜きの意味も含めて形成されたのだ。環濠は敵の襲来を防ぐ意があるが、敵はおそ
   らく鹿や猪、熊、狼だろう。
 ③.一般的には蒲の茂る湿地、そこを開墾した泥田・深田。
 ④.この地に定住して蒲池を築いた人々は大いに神に感謝し諸々の願いを祈ったろう。そ
   れで神を祀った。この地には稗田神社がある。蒲田は呑川下流の湿地帯に開けた。

 
【蒲】
 かま がま 御簾草(ミスグサ)のこと。葉や茎で簾を編んだことからその名がある。茶色いソ
ーセージのような部分が穂で雌花、その先端に雄花がある。その形をヒントに作られたのが竹輪蒲鉾
で、現在は竹と簡略系で呼ばれ、板付の方が蒲鉾と呼ばれている。秋になると、綿を解(ほぐ)した
ように綻んで風に吹かれて飛んでいく。あの因幡の白兎が包(くる)まったのがこの蒲の穂だ。

 
蒲田は〝羽根付き餃子〟発祥の地であり、餃子の街
 発祥の店ニーハオ本店をはじめ、金春本館、歓迎本店、春香園蒲田店、歓迎西口店、ニーハオ別
館、ニイハオ恵馨閣、金春新館、歓迎あやめ橋店、ニーハオ大飯店、金春本館2号店、歓迎別館、
香楽園西口蒲田西口店、餃子の王将蒲田東口店、四川餃子房、餃子ハウス長安、歓迎、来富市場、
香港府中華居酒屋、菜香園などなど。殆どは八木一族の経営。 
 


梅屋敷
 区史跡
 蒲田1~3丁目、東蒲田1~2丁目、大森西4~7丁目、大森中1~3丁目の辺りを総称して俗に
「梅屋敷」と呼んだ、古くから蒲田の一円は梅の栽培が盛んで、その実も優秀だったから、江戸っ子
が好んだ梅干や梅醤(うめびしお)の多くは、蒲田から供給された。
 さて「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く道中常備薬として作られ、旅人に珍重され、元
禄から正徳にかけて(1688~1716)大森村中原、谷戸(やと)、南原に3店が開業した。こ
のうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の山本忠左衛門に譲られ、この地に移転したといわれてい
る。

   旅人の神に手向けの幣代や白絹咲きし庭中の梅(狂歌)

 文政の初期、東海道大森間の宿付近で「和中散」を商っていた忠左衛門の倅久三郎が、自宅の庭続
きに、近在の梅樹を移植して梅林を作り、これが東海道の両側に面していたことから有名になり、茶
店も設けて旅人の便を図ったので、誰いうことなく「梅屋敷」と呼ばれるようになった。梅花の季節
には、江戸の文人墨客や風流人の賞玩するところとなり、杉田や亀戸の梅林とともに江戸近郊の名所
といわれ、広重なども往時の盛観を錦絵に残したので広く知れ渡った。徳川12代家慶が、放鷹の折
に立ち寄ったり、14代家茂が、文久三年(1863)に上洛の途中休息したり、また幕末から明治
初めには佐久間象山・三条実美・岩倉具視・木戸孝允(桂小五郎)・伊藤博文など幕末維新期の要人
が、風流に託して国事の大事を談じたこともしばしばだったという。権力の塊で風流を解さない大久
保利通ですらが立ち寄ったというからその素晴らしさが知れよう。明治以後も明治天皇や大正天皇の
行幸・皇后の行啓などがあって梅の名所として有名で、京浜電鉄に「梅屋敷」という駅までできたが、
その京浜電鉄の敷設や京浜国道の拡幅や、による地所の縮小などで、次第に往時の姿を失って行った。
昭和13年には、東京市に寄付され公園となり、戦後は区の小公園に転用され、再度管轄が変わり、
いまその跡は「聖跡梅屋敷公園」となり、梅ノ木100株ほどが育てられている。石碑なども復元
されたという。行かなくちゃなぁ。昭和50年3月19日に区史跡に指定された。

  
 梅散るや流れも見せず夜の川(幡谷東吾)

 
狂歌堂真顔の歌碑(復元)
 昔、梅屋敷の園内には数多くの碑石があったが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してし
まった。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したもの。文面は、

    旅人の神に手向の幣代や
    白絹咲きし庭中の梅 狂歌堂真顔


 だったと伝えられている。
 


梅屋敷事件
 文久二年(1862)10月に、攘夷の勅命を奉じた勅使が江戸に下ったとき、随行した長州藩の
高杉晋作・久坂玄瑞・井上聞多(馨)・品川弥二郎ら11人は、手始めとして横浜異人館の焼き討ち
を計画した。密議の場所は、ここ梅屋敷内で、玄瑞から事の次第を打ち明けられた土佐藩の武市半平
太(瑞山)は、暴挙として反対したが、聞き入れなかったため、主君山内容堂(豊信)に急を知らせ
た。容堂は、長州藩の世子毛利元徳に知らせ、慰撫に努め、漸く危機一髪のところでこの挙を食い止
めた事件をいう。
 


■猫連続毒殺事件

 蒲田1丁目に住む久保木信也(33歳)が起こした事件。平成26年4月以降蒲田大森地区で飼い
猫・野良猫を問わず、50匹以上の猫が、公園や駐車場で口から泡を吹いて不審死した事件が発生、
 9月18日午前3時ごろ巡回中の警察官が、自転車を押して歩いている不審な男を発見、職務質問
をしたところ、自転車の前カゴに外から見えなく工夫されたビニール袋に猫の死骸4体があり、任意
同行して話を聞いたところ犯行を認めた。久保木はこの日未明に農薬入りの餌を仕掛け、見回ってい
た。「ストレスと、(住民が)野良猫に餌をやっていて居着いていることへの憤慨から殺した」と供
述している。自宅からは農薬の空容器が見つかった。8月に見つかった2匹の死体からはこの農薬と
同じ成分が検出されたという。
  


■本蒲田児童公園

 蒲田1丁目4番23号にある区立公園。


■蒲田一丁目公園

 蒲田1丁目7番2号にある区立公園。

 
花のオブジェ
 西北角にある石造の花の彫刻。


■蒲田中学校

 蒲田1丁目12番5号にある区立校。昭和32年10月校舎落成12教室。11月1日開校。東蒲
中学校から生徒1・2年生661名移籍。同33年校章制定。第二期校舎落成9教室。9月校歌制定。

 校歌
「学も楽し」  作詞・大木惇夫  作曲・平井康三郎一
  1.あやめ花咲く 若き日を
    学ぶも楽し蒲田の園
    誠尽くして勤しみ励み
    世に幸いを貢がまし
    望み 望み
    曙の雲を見ざるや
  2.潮路明るき海の気に
    鍛えて清し我らの友
    責めを背負いて自ら治め
    世の美しき人たらん
    光り 光り
    青空の知恵を汲まばや
  3.緑溢るる春秋を
    集いて嬉し我らの郷
    力合わせて互いに睦み
    世に灯びを掲げまし
    平和 平和
    夕星の告げを聴かずや

 同34年第3期校舎落成特別教室など7教室。同36年第4期校舎落成特別教室。同38年プール
竣工。同40年体育館兼講堂竣工。同43年完全給食開始。同54年校庭補修、スプリンクラー設置
同59体育館、特別教室、給食室完成。同61年新校舎建設のためプレハブ校舎完成。同62年新プ
ール完成。新校舎(東館)竣工。11月開校30周年・新校舎落成記念式典。
 平成5年パソコン教室完成。同7年防災備蓄倉庫設置。同9年開校40周年記念式典。同12年全
パソコンをインターネット接続。同18~19年普通教室・特別教室に冷房完備。同19年屋上緑化
(校庭側芝生設置)。10月開校50周年記念式典。
 


白雲山青巒寺
 蒲田1丁目29番14号、呑川沿いにある曹洞宗の寺。大内青巒(1854~1918)の遺弟お
よび随身の人々により、昭和28年に創建した。寺は洒落た洋風住宅のような建物。大きな立て看板
があるので寺だと判る。「せいらんじ」と読む。
 青巒は、明治時代の仏教運動家で、一宗一派にかたよらず、また社会事業にも尽力した。当寺の創
建については、政財界をはじめ、各界の名士が協力している。
 


■蒲田小学校

 蒲田1丁目30番1号にある区立校。明治12年11月12日東京府荏原郡蒲田村稗田小学校(稗
は本来は草冠がつく)と称し、北蒲田に瓦葺き平屋30坪を新築し開校、この日を開校記念日とする。
同24年南蒲小学校を合併し、蒲田小学校と改称。南蒲小学校を分教場とする。同40年蒲田672
番地(現在地)に6教室新築し移転。大正3年「荏原郡蒲田町立蒲田尋常高等小学校」と改称。同1
2年校章制定。
 昭和7年「東京市立蒲田尋常高等小学校」と改称。同11年校歌制定。

 校歌
「雲に秀ずる」  作詞・北原白秋  作曲・山田耕筰
  1.雲に秀ずる富士の峰
    稗田の宮の神の森
    輝き優
(まさ)る窓々の
    眺めは高し我が蒲田
    仰げよ常に明らかに
    放てよ清く我が瞳
    蒲田 蒲田 蒲田小学
  2.流れ豊けき多摩の水
    白帆は通う沖の潮
    都の南 ここにして
    日に日に興る我が蒲田
    学べよ常に伸びやかに
    磨けよ共に我が誠
    蒲田 蒲田 蒲田小学
  3.空に轟く銀の翼
(はね)
    羽田の朝の青嵐
    漲る力生き生きと
    競いて強し我が蒲田
    鍛えよ常に健やかに
    育てよ 我と我が命
    蒲田 蒲田 蒲田小学


 同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市蒲田国民学校」と改称。12月日本海軍の
真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都蒲田国民学校」と改称。同19年御殿
場・伊東・磐田に学童集団疎開。同20年4月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校
舎全焼。6月新たに秋田県大滝温泉に学童疎開。8月日本敗戦。11月疎開解除により学帰京。
矢口国民学校に間借りして授業再開。
 同22年アメリカの強制による学校教育法・地方自治法の施行により「東京都大田区蒲田小学校」
と改称。同29年促進(心障)学級が開設。校旗制定。同34年未美須プール完成。同43年蒲田幼
稚園併設。同50年新プール完成。同54年創 100周年記念式典。同59年体育館完成。
 平成5年校庭・校庭内諸施設完成。同11年創120周年記念式典。同16年創 125周年記念
式典。同17年「北蒲小学校」を統合。同21年都認可日本語学級開設。創立130周年記念式典。
 


宝光山妙典寺
 蒲田2丁目3番10号にある日蓮宗の寺。古くは天台宗の寺で妙田寺といわれ、永徳元年(138
1)上杉六郎を開基とする。天台の学僧で、後に日蓮宗に改宗し、池上、比企ケ谷及びおよび身延3
寺の学頭となった池上本門寺5世二位僧都日饒上人(1358~1428)により改宗され、寺号も
妙典寺と書き改められたという。但し中世にこの地を領した江戸氏一門の蒲田道儀が開創したとも伝
わる。関東管領上杉憲政に縁あると考えられる晴天院朗忠日杉(天文十二壬子十月十四日歿)、上杉
六郎の位牌を安置している。なお天文十二年(1543)の干支は癸卯で、壬子が正しいとすれば天
文二十一年(1522)となる。記年の誤りか。当地草分の旧家といわれる、蒲田氏、光浄院蓮光の
墓をはじめ、大森谷戸宿脇本陣山本氏と、山本氏から分れた、和中散梅林堂の梅路翁の墓があり、別
墓地には漢方の医家で、この地方にはじめて華道遠州流を伝えた林松庵平林氏、武田家の部将といは
れる嶋田氏、荘官とみられる杉原氏の他、近郷旧家の墓がある。
 柳島鈴木戒秀師が万治元年(1658)造の祖師像をおさめる。昭和27年本堂再建、庫裡は同2
9年再建、客殿は昭和46年建立。客殿・庫裡の一大改修工事が平成9年に完了、山門を平成11年
に新築し寺観一新する。漢方医・華道遠州流を伝えた林松庵平林氏など、近郷旧家の墓がある。江戸
時代は近末の触頭寺としての重職にあった。
 山門が真新しくて超豪華。元禄十二年(1699)建立の蒲田重蓮の墓碑などもあり、極めて注目
すべき存在だが、愚かなアメリカ軍の空爆で燃やされ、多くの資料が灰燼に帰したのは悔しい。一度
アメリカ人、特に国際金融資本家たちにも空爆の残虐さ恐ろしさを教えてやらねば、止めんだろう。
アメリカという国家国民をこの地上から抹消しな限り、世界平和などというものは訪れないよ。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   妙典寺
   除地二段六畝、海道の西にあり。法華宗、池上本門寺末、宝光山と号す。古は天台宗にて
   寺号をも妙田寺とかきしに、本門寺第五世日饒上人当寺へ住せし時より、改宗して寺号を
   も今の字にかきあらためしとぞ。上人は下総国葛飾郡風早庄千駄掘と云所の人にて、俗称
   は明石氏なり。同郷の僧能海僧都の門に入て薙髪し、台教を奉ず。それより当国入間郡仙
   波村の僧詔海法印の付弟となりしかど、台教の意その心に満てりとせず、終に願師に叛伏
   して法華宗となり、池上及比企ヶ谷身延三ヶ寺の学頭となり、一寺ことに三年の説法を勧
   業す。その後当寺を中興して能化となりしかば、都鄙の諸化数多集りて教をうけしとぞ。
   其後正長元年九月六日入滅す。かかる有徳の人なれば今は当寺の開山と定めり。
   本堂九間に六間半。
   本尊三宝を安ず。
   三十番神堂。
   門を入て左にあり。堂の大さ九尺四方。
   毘沙門堂。
   同所にあり。九尺四方。


 とある。


■梅屋敷駅

 蒲田2丁目7番にある京急本線の停車場。明治34年2月1日六郷橋~品川間延伸工事完成に伴い
開業した。当時は道路上の停留所だった。その後、同39年10月1日には、梅屋敷~学校裏(現在
の平和島)および雑色~川崎間の複線新設軌道が開通、さらに大正12年4月1日梅屋敷~雑色間の
新設軌道開通により新軌道上に位置が変更した。現在の駅舎は、昭和59年7月に改修した。駅名の
由来は、昔この付近に「和中散」という風邪薬の販売と梅見のついでに茶店で一休みできる商家があ
り、梅屋敷と呼ばれ盛況だった。そのための駅開設だからその名がつけられた。
 


■北蒲小学校 
廃校
 
 蒲田2丁目10番1号にあった区立校。平成17年蒲田小学校に統合され廃校。
 


■大田区産学連携施設

 蒲田2丁目10番1号にある旧大田区立北蒲小学校校舎の跡地を利用した区の施設。改修により区
内の産業の活性化と地域中小企業者の技術力向上を目的として、平成18年に設置。産学連携や新技
術の研究開発を行っている使用企業が、新たなる挑戦の場として活用している。空室があった際には、
応募のあった企業を審査し、使用企業を決定する。03‐3733‐6144
 


■蒲田二丁目児童公園

 蒲田2丁目16番29号にある区立公園。


性光山円頓寺
 蒲田2丁目19番15号にある日蓮宗の寺。後北条氏の有力家臣で、六郷領の代官的存在の行方家
累代の館跡だったが、天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで時の当主弾正直清が討死、
その弟で出家して池上大坊本行寺の住持だった日芸上人が、文禄元年(1592)直清とその一族の
菩提を弔うため、ここに一寺を開創したという。本堂は鉄筋コンクリート。右は庫裏、左は墓地。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   円頓寺
   除地二段五畝、海道より西の方八幡社前の邊にあり。法華宗、池上本門寺末。性光山と号
   す。開山は日澄上人なり。寺伝に云この地は北条の家人行方弾正が館跡にて「小田原記」
   に六郷は弾正住せりといへるは当所のことなり。小田原没落し、弾正も討死して後、菩提
   の為一寺を建立して弾正が法謚の字を用ひて山号寺号とせりと。然れば開闢の年代もおそ
   らくは天正慶長の間にありしならん。されば日澄上人は開山として、その實は中興開山日
   藝上人の創建なるべし。此上人は寛永二十年二月朔日寂すといへり。客殿七間に五間、円
   頓寺の三字を扁す。本尊は三宝祖師、作しらず。
   三十番神堂。
   門を入て左の方にあり。わずかなる堂なり。
   行方弾正墓。
   客殿に向ひて左の方にあり。碑面に性光院殿円安行頓日方居士と彫り、側面右の方に天正
   十八庚寅年三月十五日相州小田原陣討死、俗名平性行方弾正、居屋敷六郷地頭境内永除地
   と刻し、右の方に北蒲田村性光山円頓寺中興開基本法院日藝上人建立とあり。しかるに直
   清が討死せしを三月十五日というふもの疑ふべし。小田原陣は三月二十七日碑度好し發発
   駕ありて、先手の勢同月二十九日豆州山中城を攻しこと合戦のはじめなれば、三月十五日
   は対陣に及ばざる前なり。今按ずるに五月十五日の誤か、日藝此碑を建立せしは許多の年
   を経て後のことなるべければ、其時文字の形のちかきによりて誤り記せしならん。又按ず
   るに行方氏はもと上杉の家人にて、後に北条家に属し、久しく六郷の地頭なり。世系の詳
   かなることは傳はざれど、土地に付て尋るに、享禄の頃行方半右衛門と称し、天文の末に
   弾正と称す。これは父子か又は同人か、それも又知べからず。永禄のはじめ与次郎と称し
   同年甲斐の信玄此邊に乱入せしの時、八幡の社地えたてこもりし頃は弾正明連といひしよ
   しものに見えたり。此もとの弾正が子なるべし。永禄の末に左馬允と称せしは同人か或は
   明連が子歟。元亀年中に望千代といふ名見えたり。此修理亮が子なるべし。天正年中に修
   理亮義安が子なり。相傳ふ行方氏世々法華の教を信じて、いたく他宗を誹謗し、其領内に
   他宗の寺院あれば、畢く改宗せしめ、其従はざるものは破却せしと云、行方の事蹟は今す
   べてかんがふるによしなしと云。
   種割梅。
   行方弾正が、庭前に手自ら植し木なりと云つとふ。

 とあり、「大田区の文化財」に、

   「新編武蔵風土記稿」をはじめ「江戸名所図会」その他の地誌にも、円頓寺の事跡につい
   ては記載されているが、寺伝によれば、小田原北条氏分国の頃、荏原部南部に行方氏とい
   う豪族があった。行方氏は、はじめ上杉氏の家人であったが、のち北条氏に属し、永禄年
   間(1558~69)弾正明連の時には、八幡塚、高畑、吉川、町屋、道塚、雑色の六郷
   および大師河原を合せて三百六十一貫二十四文の地の領主であった。
   明連の子孫は、修理亮義安、弾正忠直清と引続きこの地を知行していたが、直清は、天正
   十八年(1590)北条氏滅亡の際、小田原攻めの先鋒、上杉景勝、前田利家等の諸将の
   軍と戦い、一門の郎党と共に、その館において討死したが、直清の弟は、池上本門寺に逃
   れ、出家して日芸と名乗った。文禄元年(1592)日芸は、兄弾正忠直清と、一門の追
   善菩握のため、旧館跡に一宇を建立、寺名を直清の法名、性光院殿円安行頓日方居士から
   とって、性光山円頓寺と号した。


とある。

 
由緒碑
 門前にある巨碑。

 
行方なめかた弾正忠直清の供養塔 区史跡
 境内左側の墓地にある。古くは直清の墓といわれていた。正面に、

   
性光院殿円安行頓日方居士

 右面に、

   天正十八庚寅年三月十五日 相州小田原陣打死俗名平姓行方弾正居屋舗六郷地頭境内永
   除地


 左面に

   
北蒲田村性光山円頓寺中興開基本法院日芸聖人建立

 とあって、背面の刻銘は故意に削除されたような形跡がある。形式的に見ても、普通の墓石的石柱
で、その成立年代は到底江戸初期に遡り得るものではなく「日芸聖人建立」の字句からしても、日芸
の時代に造立されたものとは考えにくい。おそらく江戸中期以降に、寺の来歴を示すために建てたも
のか、或いは日芸建立の旧碑が破損したため再建したものだろう。

 日芸の供養塔
 日大芸術学部の供養塔ではないぞ。総高2m25cmの宝篋印塔で、寛永二十年(1643)に没
した当寺中興開山(実質的開山)日芸の供養のために、没後まもなく弟子や檀徒たちの手で建立され
たことが銘文から判る。ちなみに刻銘に「行方氏一門」の記銘や、一族の者と推定される法号が刻ま
れ、日芸が行方氏出自の僧であったことや、行方氏縁故の寺院だという寺伝を裏付ける。
 


■椿神社

 蒲田2丁目20番11号にある小社
。創祀は不祥。百日咳の治癒に神験新たかなりとして、古くか
ら土地の人の信仰篤い神社だ。猿田彦神は「道案内の神」であり、「道陸神」といわれ、「道祖神(塞
の神・障の神)」と習合して村の境を守る「関の神」となったことから、転じて「咳の神」として信
仰されるようになったものと思われる。この地域には、風邪を引き咳が出るとか、喉の病気に罹ると、
この神社の境内の小堂に掛かっている麻糸を首に巻き、治ると麻紐を倍にして額堂に奉納して感謝す
る。また足の病気には草鞋を奉納したりして平癒を祈願することが行われてきた。神社なのに線香を
供えるという神仏混交の習俗も伝えられている。この特殊な信仰が土地の人を中心として、深く静か
に信仰の輪を広げている。現在の社殿は昭和62年に芳志で建て直された。大田区指定無形民俗文化
財で、昭和49年2月2日に指定された。境内に区の説明板が建ててある。

   大田区文化財
   
除病習俗
   風邪、百日咳、喘息等にかかると、境内の額堂に奉納されている麻を借り受けて、病人の
   首に巻くと咳が止まると言い伝えられ、病気が治ると、祈願者は新しい麻を奉納するとい
   う現世利益的な習俗が行われている。
   しかも神社であるのに、祈願者は社前に線香を供えるという神仏混交の習俗が、今なお存
   続している例として興味深いものがある。
   また足の病気が治るよう祈願して、ワラジを奉納するものもあったという。
   神社の祭神は、猿田彦命とされているが、本来は道祖神(道や旅人を守護する神)を祀っ
   たもので、土地の人は「ドウソジンサマ」「ドウロクジンサマ」と呼んできた。
   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会


長光山栄林寺

 蒲田3丁目1番16番にある日蓮宗の寺。本門寺松。境内に寛永三年(1626)に没した開山千
如院日好の供養塔があるから、それ以前の創立。開山は千如院日好。蒲田の鎮守稗田神社の別当寺で、
安政の大地震の時大破した社殿を、41世日現の代に再建した。将軍家が鷹狩りに来て休息したとい
う檀家もあり、御成橋・馬引橋などの地名も残っている。「新編武蔵風土記稿」に、


   栄林寺
   年貢地九畝十歩。八幡宮の側にて円頓寺の隣りなり。法華宗、池上本門寺末、長光山と号
   す。開山千如院日好は寛永三年四月二十九日寂すと云。客殿五間に六間、本尊三宝を安置
   せり。古蹟蒲田神社跡。其地詳ならざれども、蒲田の神号ある時は当所にありしならん、
   式外の神社なれど三代実録に貞観六年八月十四日、武蔵国にある従五位下蒲田神社を官社
   に列せられしこと見えたり、今その古蹟を尋るによしなし、この神社五位の神位あると時
   は、其神戸を、薭田神社の神田とする時は、今強ひて考へをなすに及ばず。


 とある。
「大田区の文化財」に、

   寛永三年(1626)四月二十九日示寂した千如院日好の開山である。神体が日蓮の開眼
   と伝えられる延喜式内社、蒲田神社(薭田神社)の別当寺として、安政の地震により大破
   した社殿を、41世日現の代に再建したことが、当寺所蔵の「諸寄進帳」により推察され
   る。江戸時代、現在の呑川東岸に鶴寄せ場があり、それを中心にした蒲田寄りの水田地域
   は、当寺の檀徒区域で、将軍が鷹狩りに来て、休息したという家も檀徒の中にあり、現在
   御成橋、馬引橋などの橋もあることなど、鷹狩りにまつわる伝説がある。また春秋の彼岸
   中日に、檀徒によって仏前に供えられた供物を、法要の終った後で、参諸者一同に振る舞
   い、懇親の時を過ごす慣習は、今日も続いている。


 とある。

 開山供養塔 区有形文化財
 この寺の開基である千如院日好を供養するために日英が建てた。日英については不詳だが、開基日
好が寛永三年(1626)に没したことが銘文から判り、当寺の歴史を位置づける貴重な資料として
注目される。二つの石を積み重ねた塔身からなっていることも、また素朴で珍しい笠塔婆型の塔であ
ることも、様式的に興味深い。重厚な趣のあるものであり、開山供養塔としては時代的に古いものと
考えられる。昭和49年2月2日大田区の有形文化財に指定された。
 


田神社 区史跡

 蒲田3丁目2番10号にある延喜式内の古社。延喜式に記載されている「武蔵国荏原郡薭田社」と
比定されている。和銅二年(709)僧行基が天照、八幡、春日の3神体を造り、薭田神社を創建、
後日蓮上人が開眼したと伝えられている。寛文の頃より栄林寺が別当寺となっていましたが、明治維
新後分離、郷社に列格していました。かつて稗の字は「草冠に稗」の字で、蒲の古字「草冠に補」に
似ており、時に蒲田神社といった時もあった。和銅二年行基が3体の像を納めたというが、事実かど
うかは別として、相当古い時代にこの辺りに人が住み着き霊場を開いたのだろう。神社の鳥居に「寛
政十二年蒲田井郷」とある。「ほたい」と読んで蒲田の旧称または俗称だったようだ。「ほた」は土
手・堤、「い」は用水だから水抜き堀と考えられなくもない。また「ほたい」という意味不明の言葉
に蒲田井の字を当てたとも考えられる。連絡先は蒲田八幡神社。03‐3731‐5216
 「新編武蔵風土記稿」に、

   八幡社
   除地二段一畝十歩。海道より西の方にあり。当社は「延喜式」神名帳に載せたる薭田の神
   社なりといふ。それも古記録の徴とすべきことあるにもあらず、又古くより人の口碑に傳
   へたりといふにもあらず、近き頃住せる別当寺の僧おもへり。神名帳に当郡薭田神社のこ
   とを載せたれど、後世たえて沙汰なし。兼て郡中を捜索するに、それと覚しき大社もなし。
   しかるに此社の前の地を古へより神戸と唱へ、神戸橋などいへる橋もあり。是は全く後の
   世にたてし八幡の社につきてともおもはれず、いかさま往古より神社のありし地なるへし。
   よりておもふに当社この薭田神社なるべけれとて、頓て神祇管領吉田家へ其ことを告て、
   判を請しに、吉田家にてもさもこそあらめとて薭田の号を許されしとぞ。是は「武蔵風土
   記」に薭田八幡の社をのせて、神戸巫戸などあるよし見ゆれば、かく云にや。それより此
   社を古への神社なりと云。されど又郡内三田町八幡社(御田八幡神社)、八幡塚村八幡社
   (六郷神社)、及ひ鶴の木村名主五郎左衛門が宅地にある祠等皆古の薭田神社なりといへ
   り。かく区々にしてことに明證もあらざれば、いづれをそれともさだめがたし。抑薭田神
   社のことは、「延喜式」神名帳に、武蔵国荏原郡薭田社とありて、小社のよしを注せり。
   又「武蔵風土記」に薭田八幡、圭田五十八束三字田、所祭応神天皇也、式内宿禰荒木田襲
   津彦等也、和銅二年己酉八月十五日始行神体、有神戸巫戸等と見えたり。
   然るに今当社の祭神は天照太神八幡春日の三座なり。いづれも木像にてその彫刻ははなは
   だ古質なり。太神は鉾を逆に杖つきて巌の上に立たまふ容なり。八幡は左の御手に弓をと
   りたまひ、右の御手にて御はかせの柄に手をかけたまへる立像なり。二体ともに長二尺七、
   八寸、試に佛師をして観せしめしに、刀痕はなはだあらし、とかくに鎌倉将軍家の時代よ
   り以上のものならんといへりしとぞ。春日の像は新宿分村の時わかちて彼村の鎮守とせり
   とぞ。この社傳によれば、彼「風土記」にいへる祭神とおなしからざれば、それも疑なき
   にあらず。本社一間に一間半、拝殿二間半に二間。数歩をへだてて石鳥居をたつ。両柱の
   間二間、社地一叢の木立しげりて寂莫たり。側に小池あり。溝を設けて社地を廻らす。祭
   礼は年々正月十五日。神楽を奏して祭る。当社古は神主金子某と云もの、社内をあづかり
   しに、故あって寛文の頃より栄林寺の持となれり。
   寶物
   叟仮面一枚。龍頭一箇。鉾一本、右いづれも古物なれり。
   末社。
   稲荷社。本社より左の方にあり、棟札に天和三年正月九日とあり、わずかなる祠なり。
   稲荷社。おなじならびにあり。
   妙正明神社。同じならびにあり、祭神詳ならず。
   稲荷社三ヶ所。いづれも小祠にて前の三祠とむかひてたてり


 とある。

 
石鳥居 区有形文化財
 柱背面の銘文によって、寛政十二年(1800)に北蒲田村の氏子により寄進されたことが判る。
花崗岩の明神型鳥居で、高さ310cm、柱間314cm、中央に「稗田神社」の社号を刻した石額
を掲げてある。笠木は、全体に緩やかな反りを持って、柱の釣り合いもよく安定した姿を見せる。区
内の鳥居では古いものの一つで、貴重な存在といえよう。昭和49年2月2日大田区有形文化財に指
定。
 


■蒲三アイリス児童公園

 蒲田3丁目13番12号にある区立公園。


■蒲田三丁目ひろば児童公園

 蒲田3丁目19番15号にある区立公園。


■聖跡蒲田梅屋敷公園

 蒲田3丁目25番6号にある区立公園。

   梅屋敷の由来
   梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地3000坪に、そ
   の子久三郎が文政の頃(1818~29)、梅の木100本をはじめとしてかきつばたな
   どの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています。
   当時は後の12代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣のある風情
   は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、特に梅の開花期には非常なにぎわいを見せ
   たようでした。                              大田区

   大田区文化財
   
梅屋敷と和中散売薬所跡
   「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重
   された。元禄から正徳にかけて(1688~1716)大森村中原、谷戸、南原に三店が
   開業した。
   このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したとい
   う。
   文政年間(1818~1830)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に庭園に梅の銘木を
   集めて、休み茶屋を開いた。
   亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会


 
明治天皇標柱
 東側の正門前にある。

   
明治天皇行幸所蒲田梅屋敷

 
里程標
 半分は草に沈んでいる。この碑は「里程標で」で、日本橋からの距離の標識だが、14kmだ。

   
距日本橋三里十八丁 蒲田村 山本屋

 
山本久蔵の句碑
 園内にある。天保五年(1834)建立。

   神酒ささぐ間に鶯の初音かな 麦住亭梅久

   山本久蔵の句碑
   この句碑は、天保五年(1834)にこの梅屋敷と関係の深い山本久蔵が建立したもの
   です。文面は、
   神酒ささぐ闇に鶯の初音かな 麦住亭梅久
   とあります。戦前には他にも江戸時代の多くの句碑が残されていましたが、戦後の混乱期
   に姿を消してしまいました。                        大田区

 梅路・梅志の句碑
 園内にある。梅路は山本久蔵。弘化3年(1846)建立


   
しら梅の梢や月の高みくら 七十五歳梅路
   
松竹は表にうらハ梅の春  六十五歳梅志
       
弘化三年のとしきく月 梅家女誌

         狂歌堂真顔
   
旅人の神に手向の幣代や
     白絹咲きし庭中乃梅

   
梅路梅志の句碑
   この句碑は、弘化三年(1846)山本久蔵が梅路と号し、建立したものといわれていま
   す。
    しら梅の梢や月の高みくら  七十五歳 梅路
    松竹は表にうらハ梅の春   六十五歳 梅志
          弘化三年のとしきく月 梅家女誌
   また梅路、梅志の墓は蒲田の妙典寺にあり、その墓石にも句碑が刻まれています。


 ※文中「句碑が刻まれています」、句碑は刻まれないだろう。「句が刻まれています」だろう。

 鹿津部真顔の狂歌碑
 園内にある。鹿津部真顔は、江戸後期に数寄屋橋で汁粉屋を営んでいた狂歌師、戯作者だそうだ。
梅屋敷は旅人だけでなく、文人も集まる場所だったのだろう。

   狂歌堂真顔の歌碑
   昔、梅屋敷の園内には数多くの石碑がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に
   姿を消してしまいました。この歌碑はそれらの資料をもとに復元したものです。文面は、
    旅人の神に手向けの幣代や白絹咲きし庭仲の梅 狂歌堂真顔
   であったと伝えられています。
   昭和63年                             大田区土木部



■母親蹴殺し事件
 蒲田4丁目で起きた。平成30年6月9日、同居の母親を蹴るなどしてけがを負わせたとして、警
視庁蒲田署は傷害容疑で無職栗原弘光(46歳)を逮捕した。「母が酒を飲もうとしたので蹴った」
などと話し、容疑を認めているという。母親は暴行後に死亡し、同署は今後、司法解剖して詳しい死
因を調べる。母親が最近寝たきりになったというから、そのショックとストレスで発作が起きたのだ
ろう。介護は何故か腹が立つんだよ。無職だしなぁ・・・


■京浜蒲田公園

 蒲田4丁目17番7号にある区立公園。


行方山妙安寺

 蒲田4丁目18番15号にある日蓮宗の寺。鉄筋コンクリート造りの現代和風の本堂。境内は細長
く、入口から本堂まで桜並木が続き、そこかしこにウメ、ミツマタ、キクモモまたカイドウなどの花
木が植えられていて、四季を通じて見られるのが魅力。カイドウやキクモモの咲く春は格別の美しさ
がある。大正6年本堂、昭和6年客殿を建したが、同20年4月15日の愚かなアメリカ軍の非人道
的無差別空爆で「赤門寺」の由来である朱塗りの門を残して焼失。再に26日の空爆でその赤門さえ
も焼失、しかし同40年に本堂同47年に客殿を再建した。「新編武蔵風土記稿」に、

   妙安寺
   境内一段四畝、鎮守八幡宮(蒲田八幡神社)の東隣にあり、法華宗、池上本門寺末、行方
   山と号す。相伝ふ、永禄の頃、当所の地頭行方修理亮義安が後室、円光院妙安尼夫義安が
   戦死の後、斉藤政賢が屋敷の内に庵室を結べり。此即この地なり。尼平生法華宗を信じ、
   池上本門寺第十二世仏寿院日現上人に帰依せり。天正十七年妙安尼歿して後、庵室につい
   て寺を興し、玄首院日建上人をして住持せしむ。日現をば勧請開山とせり。故に義安が家
   号を山号とし、尼の法名を寺号とせりとぞ。客殿七間に六間半。本尊三寶を安ず。又釈迦
   如来の像あり。これは紀州養珠院殿の寄附したまひし像なりといへり。
   天神社。門を入て左にあり。
   七面堂。同邊にあり。
   開基円光院墓。客殿の前にあり。五輪の石塔なり。正面に円光院殿妙安日行大姉と刻し、
   傍に天正十七年十月三十日と彫る。


 とあり、「大田区の文化財」に、

   永禄年間(1558~69)の当所地頭、行方修理亮義安が戦死の後、その室円光院妙安
   尼が、兄斉藤政賢の屋敷内に庵室を結んだのがこの地である。尼は法華宗を信奉して、池
   上本門寺第十二世仏寿院日現に帰依していたが、天正十七年(1589)尼が没した後、
   庵室を寺とし、開山を日現として開創した。開基は円光院妙安尼、行方の家号を以って山
   号とし、尼の法号を寺号としている。「新編武蔵風土記稿」に所載せる八幡社(蒲田八幡
   神社)の神体は、明治初年の神仏分離に際して、当寺の七面堂に移され、安置していたが
   戦災により焼失した。この神体は右手に軍配、左手に巻物を持った地蔵像で、寺の言い伝
   えによれば、開山日現が、古川薬師安養寺と寺宝を懸けて法論し、勝った日現が仁王像と
   地蔵像を持ち帰り、論破の証左として、軍配を持たしめたという。また毎年一月に行われ
   ていた八幡講大祭は、神像の焼失により廃止された。

 とある。

 
妙安尼供養塔
 境内に、高さ1m24cmの宝篋印塔があり、正面に「円光院殿妙安日行 天正十七己丑天七月三
十日」、台石に「寛永二十□年九月十九日」と刻されている。これによって、この塔は、後北条氏の
被官、当地の地頭行方修理亮義安の室で、開基の妙安尼を供養するために、寛永期に造立されたこと
や、妙安尼の没年・戒名なども判り貴重なものだ。妙安尼は、義安の死後この地の豪族で兄の斉藤政
賢の屋敷内に庵を結び、池上本門寺十二世日現に帰依し、天正十七年(1589)に没した。その後
この庵室が妙安寺となった。この供養塔は、台石の銘文により寛永二十年(1643)に造立された
と考えられる。昭和49年2月2日大田区の有形文化財に指定された。

   大田区文化財
   
妙安尼供養塔
   宝篋印塔 高さ124cm
   後北条氏の被官人、当地の地頭行方修理亮義安の室、妙安尼の供養塔である。
   妙安尼は、義安の死後、この地の豪族、兄斎藤政賢の屋敷内に庵を結び、池上本門寺第十
   二世日現に帰依し、天正十七年(1589)に没した。その後この庵室が妙安寺になった。
   この供養塔は、台石の銘文により、寛永二十年(1643)に造立されたと考えられる。
   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会


 
日蓮聖人坐像
 寺の祖師像で、高さ36cm7mm。銘文により慶長十七年(1612)に、願主石井新右衛門尉
の資助で造立されたことが判る。区内でも古い部類に属するものでおそらく寺の開創期に作られたも
のだろう。石井新右衛門については明らかではないが、石井姓は檀徒や、この周辺に多く存在してい
るので、それと関係者と思われる。

   大田区文化財
   
日蓮聖人坐像(非公開)
   桧材寄木造 彩色 玉眼
   像高 36.7cm
   台座の裏に慶長十七年(1612)石井新右衛門尉の発願によって造立された旨の墨書状が
   ある。この周辺に石井姓は多いが、石井新右衛門尉については明らかでない。後年修理塗替
   えが施されている。
   在銘の祖師像として、本区では池上本門寺祖師像に次ぐ古いものである。

   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会
 


■蒲田八幡神社

 蒲田4丁目18番18号にある。北蒲田村より新宿村として分村した慶長年間に、薭田神社を勧請
して新宿村鎮守として創建されたものと伝えられる。明治期に村社に列格している。創祀は不明だが
境内に小円墳があったことと、また伝承伝説や史実などを総合すると、相当古くから聖地として里人
の信仰の場であったものと思われる。この地は多摩川の河口に当り、水の便が良く、交通の要衝にし
て物資の集散地ともなり、都からの文化の伝播も最も早く関東における文化の先進地だった。よって
縄文時代の原始信仰により形作られた祈りの場が、時代と共に推移して今日の姿になったものと思わ
れる。蒲田村から新宿分村に当たり、鎮守の神として、薭田神社から行基作の3座の内、春日の像一
体を分かち祀ったところ霊験新たかだったという。新宿分村は戦国時代末期といわれるが、平安末期
から鎌倉時代ではとも考えられ、明確な資料は残されていない。しかし諸般の事情を推論して分村遷
座を慶長五年(1600)と定め、平成14年に鎮座四百年祭を執り行った。明治維新となり神仏分
離令により春日の像は、別当妙安寺に移されたが、昭和20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空
爆により焼失した。同じ時その戦火で社殿も全焼したが、再建の機運は忽ち起こり、戦後復興してい
く蒲田の中心にあったため「新宿八幡神社」を「蒲田八幡神社」と称えるようになった。現在の壮大
な社殿は昭和33年に再興されたものだ。「新編武蔵風土記稿」に、

   八幡社
   海道より一町許西の方にあり。宇佐八幡宮を勧請せしと云のみにて、其年暦を傳へず。さ
   れども社頭に古木あまた生茂りたるさま、古社なることは疑ふべからず。村の鎮守なり。
   本社七尺に六尺。神体は立像にして世尊の像に似たり。左手に軍配団扇をとり、右手に巻
   物を持つ。総て朽やつれて殊勝に見ゆ。寺伝には行基菩薩の作なりといひ傳ふ。
   拝殿 三間に二間。前に鳥居二基をたつ。一は木にして一は石なり。村内妙安寺持なり。
   末社。
   第六天社、稲荷社。以下二社わづかなる祠にて、社前の両側にたてり。
   古塚
   社地に入て右の方にあり、塚上に老松四根ありて、廻りに注連をはり置けり。土人に問に
   昔何物か神霊あるものを埋めし印の塚なりといひ傳へて、塚の邊を葦毛の馬に乗て過ると
   きは、必落馬すといへども其故をしらずといへり。隣村北蒲田栄林寺の云傳へによれば、
   彼村八幡宮(薭田神社)神体三体の中、春日の像一体を分ちここに移して当村の鎮守とせ
   しに、神霊新たかにして、土人の信仰なきものにはまま祟りありしにより、恐れて此地に
   埋みしといふ。此説うけがたけれども、しばらくしるせしなり。

 とある。
 


■松竹キネマ(説明書き)

 蒲田4丁目22番1号先歩道にある道路案内板の下部の説明書き。

   松竹キネマ
   100年ほど前、西欧の香りいっぱいのモノづくりを目指し、蒲田の地に進出したいくつ
   かの企業がある。初の船舶用ディーゼルエンジンの生産を始めた新潟鉄工所、超高精密を
   誇る東京計器など有力企業や日本自動車学校も蒲田駅周辺に活動拠点を構えた。
   「東洋のハリウッド」を標榜した、日本の映画製作に新たな流れを生み出す松竹キネマ蒲
   田撮影所が開設、その後、日本最大のシェアを誇る高砂香料の工場となり、現在は太田区
   民ホール・アプリコとなっている。当時をしのばせる松竹キネマ蒲田撮影所りジオラマと
   松竹橋がある。                           大田区観光部


■羽根付き餃子発祥の店 ニーハオ(
 蒲田4丁目24番14号にある中華飯屋。蒲田には羽根付き餃子を売りにする店が数多くあるが、
ニーハオを中心とする八木一族の店だ。。


■仲蒲田公園

 蒲田4丁目35番1号にある区立公園。


■京急蒲田駅

 蒲田4丁目50番にある京浜急行本線・空港線の停車場。明治34年2月1日京急の最初の区間で
ある六郷橋~大森停車場(共に現存せず)間の開業と共にできた駅。当初は単に「蒲田」と名乗って
いたが、その後大正14年11月「京浜蒲田」→昭和62年6月1日「京急蒲田」と改称した。
 平成22年末現在、1・2番線が地上島式1面2線、4・6番線が高架島式1面2線という二層構
造になっている。将来的に4・6番線ホームのさらに上の3階に下り線ホームが移動し、高架化工事
が完了することになっている。羽田空港方面への列車は、暫定的に品川方面から来る列車が1番線、
横浜方面から来る列車が4番線と別々の階層から発車するため、注意が必要だ。
 高架化以前のホームは1・2番線が島式、3番線が片面の地上2面3線構造だった。空港線の列車
は全て1番線ホームに発着していた。
  改札口・出口は仮設地下通路にある東口と、旧3番線ホーム中央付近にある西口の2カ所。以前
の東口改札は旧橋上駅舎内にあったが、高架線建設の支障となるため、平成19年12月2日に新設
の地下通路へと移され、橋上駅舎は撤去された。仮設の改札口にもかかわらず、東口改札とホームを
結ぶエレベーターは完備されている。また西口改札も、平成20年2月24日やや北側へ移転した。
当面の間はこの仮設改札口が継続使用される見込み。
 京急蒲田駅を含む平和島~六郷土手間は、現在高架化工事が進められている。現在京急蒲田駅付近
の踏切が渋滞の原因となっているが、高架化完成後は解消される見込み。京急蒲田駅は青砥駅のよう
な二層構造の高架駅となり、空港線直通列車が上下線を横断しなくともよいようになる。全体の完成
予定は平成27年3月。平成22年5月16日に上り線のみが高架化された。
 なお同時に行われたダイヤ改正で、エアポート快特が品川~羽田空港間ノンストップとなって当駅
を通過するようになった。地元の大田区はこの新ダイヤに反発し、対策本部まで設けて見直しを求め
ている。またこれまでは品川方面からのみだった羽田空港行き急行が新逗子からも運転されるように
なり、エアポート急行という種別に変更された。
 平成20年12月11日より、当駅の列車接近メロディにラッツ&スターの「夢で逢えたら」が使
用開始された。メンバーの鈴木雅之と桑野信義が大田区出身であることから一般公募によって選ばれ
た。
 


■神社 ✔

 蒲田5丁目6番13号にある小社。


■「翼」

 蒲田5丁目11番10号先歩道(蒲田駅東口)にあるモニュメント。平成2年ぽほらーと完成記念塔として建てられた。


■JR蒲田駅・東急目蒲線蒲田駅

 蒲田5丁目13番にあるJRの停車場。蒲田駅は、明治37年に追加開業した。大正11年10月
16日には東急池上線の前身である池上電気鉄道が乗り入れ、続いて大正12年11月1日には東急
目蒲線の前身である目黒蒲田電鉄が乗り入れた。目蒲線は名前の通り目黒と蒲田を結んでいたが、平
成12年8月6日の路線再編により目黒線と東急多摩川線に分割された。
 JRのホームは地上島式2面3線構造。2本のホームの間に1本の線路があり、蒲田止まり、蒲田
始発の電車の発着に使われる。蒲田で折り返す電車はまず2番線側の扉を開けて乗客を降ろした後、
3番線側の扉を開けて次の乗客を乗せる。ホームと改札階を結ぶエレベーターも設置済みである。
 東急のホームは東急プラザの3階にあり、頭端式5面4線構造である。全ての線路の両側にホーム
があり、乗車ホームと降車ホームが完全に分離されている。
 JRの改札口は橋上にある中央口と南口の2ヶ所で、東急の改札口はホーム直結の1ヶ所のみ。出
口は西口と東口の2ヶ所。
 蒲田は故深作欣二監督の映画『蒲田行進曲』の舞台で、それに因みJRホームの発車メロディは蒲
田行進曲のテーマ曲になっている。
 モヤイ像というと渋谷駅前にあるものが有名だが、東口ロータリーにもある。渋谷駅のものと同様
新島から贈られたものだが、渋谷駅のように待ち合わせに使用する人はあまりいない。
 平成19年5月より、JR蒲田駅では大規模な改良工事が行われた。中央改札が吹きぬけ構造にな
り、東口・西口の両方に駅専用のエレベーターが設置された。併せて駅ビルのパリオ、サンカマタも
外装を含めて全面改装するため、同年8月1日より休業となった。新しい駅ビルは「グランデュオ蒲
田」と名を変え、同20年4月16日に再オープンした。

 
「躍進工業蒲田」 ◇
 東口ロータリー正面右手にある男性裸像。

   
躍進工業蒲田

 
「希望」 ◇
 東口ロータリー正面にある母子像。

   希望   無限の可能性を秘めた子供達
        この子の未来に
        思いを託し
        あふれる愛を
             蒲田理容組合寄贈


 
蒲田モヤイ像 ◇
 東口ロータリー正面右奥にある像。裏表あって、親父が駅側を向き、反対側は娘の顔だ。

   新島「モヤイ像」の由来
   旅にはいつも“想い出”が残る。新しい風景や見知らぬ人に会いたくて旅に出る。しかし
   そこで待っているのは〝自分自身の内側〟にほかならないことを発見する。新島のモヤイ
   像は心の片すみに放ってある“透明な旅の日々”と同じなのではないでしょうか。
   身をひるがえして牙をむく自然を相手に私たちの祖先は、流人ともども漁に農に力を合わ
   せてその生を生きた。流人もその要請によくこたえたという。古くから新島では「共同し
   て仕事に当る」ことを「モヤイ」と呼ぶ。
   私たちにとって「モヤイ」とはそういう歴史とロマンを秘めた言葉である。いま大田区蒲
   田東口商店街と新島本村の友好の絆を記念し、私たちの島が誇る「モヤイのこころ」を本
   島特産の「コーガ石」に刻む。
   モヤイ合う力がそれぞれの地の平和と繁栄の担い手になることを約して母であり師である
   東京都のこの地に贈る。
   ここに集う人々よ、ものいわぬモヤイの像は、あなた方に何を語りかけるであろうか。
   願わくば私たちと共にその、遙かなる祖先の声をきかれることを。

     
昭和五十九年六月二十四日                   贈 東京都新島本村
                                  東京都新島観光協会

   戦後四十年にならんとする今日、わが蒲田東口商店街も近隣の発展に伴い大田区の顔とし
   ての再開発、再整備が叫ばれて居ります。
   この大目標達成に不可欠なものは地主、地権者をはじめ地元全住民の協力即ち「モヤイ合
   う力」である。
   ここに新島本村及新島観光協会の御好意と、大田区当局のご理解により新しい街造りに対
   する地元住民の心のシンボルとして当地にモヤイ像を設置した次第である。
                              蒲田駅東口商店街商業協同組

 上昇気流‐Ascending Current
 東口ロータリー正面に一際大きく聳え立つ、飛行機の軌跡を描いたオブジェ。1989年設置。直
径15mの円形の3点から、赤・青・緑のステンレス製オブジェが10mの高さに立ち上がってる。
羽田空港に近い街ならではの造形物だ。

   上昇気流
   
ASCENDING CURREN
   
無限なる上昇の軌跡
   
LOCUS OF THE ENDLESS ASCENT
   
躍動するエネルギーの渦
   
WHIRLPOOL OF EXCITING ENRGY
   
出合いに満ちた人々の輪
   
CIRCLE OF MANY ENCOUNTERS
                                 1989・7
                                    大田区
                               
OTA BOROUGH


■京急蒲蒲線蒲田駅 
廃駅撤去
 蒲田5丁目13番14号、大田区役所のところにあった貨物専用の停車場。米軍が占領した羽田飛
行場への貨物輸送のために設営した。廃止後は青果市場になり、国鉄の荷扱い場所となり、桃源社蒲
田ビルとなり、平成10年このビルを大田区が購入して、現在は大田区役所になっている。

 
移転までの経緯
 昭和62年国鉄清算事業団による不要財産処分が行われ桃源社が所有権を取得した。桃源社は商業
ビル建設を計画し平成4年に完工したが、その後のバブル景気崩壊により桃源社が倒産したため、区
内基幹駅の隣に未使用のまま無人ビルとして放置されることとなった。その後、大田区役所本庁舎建
替え問題が浮上し新庁舎候補となった。当時、このビル購入には「駅近なのでアクセスが良くなる」
「床面積が広くなるので分散している部署が集約できる」等賛成意見と「200億円以上の税金投入
となる」「行政による住専救済である」等反対意見の両論があり住民投票請求が行われたが、大田区
議会はこれを否決し最終的には2票差で購入案を可決した。これにより平成8年区がこのビルを購入
し、大規模改修の後同10年移転が行われた。 


■大田区役所

 蒲田5丁目13番14号にある。昭和7年大森区の誕生により、大森町役場(現大森警察署)が区
庁舎となる。昭和祠15年新井五丁目(現中央2丁目文化の森)に移転。同22年大森・蒲田区合併
により、大田区役所となる。同38年鉄筋コンクリート造り庁舎新築。
 平成10年現在地に移転。

 
「My Family」 ◇
 正面玄関前階段右手にある平成10年中岡慎太郎のオブジェ。大中小3体並んでいる人型。中岡は
石彫による彫刻で数多くの作品を生み出してきた。

 「Dreamer」 ◇
 正面玄関前階段左手にある平成10年中岡慎太郎のオブジェ。腰掛けているような人型。

 
「光の翼」
 Dreamerの奥にある逢坂卓郎のオブジェ。ステンレスの柱の上に金属の翼が2枚取り付けて
ある。

 
「希望の鈴」
 1階フロアにある平成13年に設置された金の鈴と小さい銀の鈴。


■大田区議会

 蒲田5丁目13番14号にある。定員48人。

 
●区議が口座不正譲渡、振り込め詐欺に悪用
 荻野稔区議(32歳 日本維新の会)が金融業者を名乗る男に譲渡した口座が、振り込め詐欺に悪
用されていたことが判った。口座やキャッシュカードの譲渡は犯罪収益移転防止法に抵触する疑いが
あり、警視庁は荻野区議から任意で事情聴取、不正譲渡を認めた。荻野区議は平成28年2月上旬頃
にインターネットで見つけた金融業者にメールで借金を申し込んだ。その後、業者を名乗る男から電
話があり、「あなたのキャッシュカードを送って貰えれば口座に現金を入金した上、カードを送り返
す」と言われた。荻野区議は、都内の信用金庫に開設した口座から自分の預金を引き出した上で、指示通り、カードを指定の住所に送った。併し、その後、業者と連絡が取れなくなったという。
 阿保だね。こんな程度のが区議、政治家になるんだ。日本が良くなる訳がねえ。


■蒲田駅前図書館

 蒲田5丁目13番26号にある。


■生活センター
 蒲田5丁目13番26号にある区の施設。消費生活の学習、消費者情報サービス、生活用品リサイ
クとリフォーム、消費生活相談など消費に関する活動を行っている。大集会室、小集会室6室も利用
できるよ。
 


■「春の装い」 ◇
 蒲田5丁目15番8号月村ビル1階にある工藤健の抽象的な女性彫刻。


■松竹キネマ蒲田撮影所跡の記念碑

 蒲田5丁目20番5号アスレチッタ蒲田ビル1階エレベーター脇にたっている。松竹キネマ蒲田撮
影所が、日本映画の発展に大きく貢献した割に当地には、それを記念するものがあまりない。このキ
ネマ通りに小さな記念館くらい出来てもいいと思うが・・・

   蒲田松竹撮影所跡

   川崎映画街を作った美須商事(現・チネチッタ)が、この場所に昭和25年蒲田東映劇場
   をオープンさせました、その後蒲田松竹、蒲田大映、蒲田東宝、蒲田日活、蒲田国際、蒲
   田文化の7館をこの一角にオープンさせ、蒲田東口映画街と呼ばれていました。
   この碑は隣に蒲田松竹撮影所があったことを記念し、当時映画館だった当施設に寄贈され
   たものです。


■蒲田橋親柱

 蒲田5丁目26番8号のアーデル蒲田の川側の歩道にある。あやめ橋の近くだ。今は存在しない橋
の親柱が。昭和初期のもので、橋がなくなって無用の長物となった時、老朽化したこの親柱は破棄さ
れる運命にあったが、有志の人々の努力で、今の場所に設置することができたという。元の場所は、
南西に50mの十字路のところだ。逆川という用水に架かっていた。

 
逆川
 東矢口32‐4‐2で、六郷川から分かれて能登川堀となり東進し、蒲田駅を越えて逆川と呼ばれ
るようになり、東北に流れて呑川に注いだ。その名は時々逆流したからだという。

 
さかさ川通り
 旧逆川道路。蒲田橋のあった十字路~西、アロマスクエア北の三角地までの道路。かつてここは逆
川の流路だった。中央分離帯を取っ払って遊歩道にした。


■春一番、建設現場足場倒壊

 蒲田5丁目31番4号にある14階建てホテルの建設現場で、建築中の足場が強風に煽られて隣の
ビル(デュオ・スカーラ蒲田)に覆い被さった事故。平成28年2月14日のバレンタインデー、昨
夜夜から春一番が吹いて九州を除く関東以西は大荒れの天気となったが、ここ蒲田で建築中のホテル
の建物を覆っていた足場の上部6階分が強風に煽られめくれ、隣のビルに覆い被さったが、怪我人も
大いなる破壊もなかった。ただめくれた足場は宙ぶらりんの状態で危険なのだが、強風のため技術的
に解体できず。風が治まるのを待つしかなく、二次の事故が起きないよう最善の注意を払っている。


■本蒲田公園

 蒲田5丁目35番1号にある区立公園。

 
「少女の休日」 ◇
 園内にある松本正一郎の作品。荒っぽい彫りだが、幼女の表情がよく出ている。。


■松竹キネマ蒲田撮影所跡
 蒲田5丁目37番3号のアロマ・スクエアのところがそれだ。松竹が社内にキネマ部を設けて映画
の製作供給を始めることを内外に発表したのは、大正9年2月だ。その撮影所として、蒲田駅前の字逆
川にあった中村科学研究所の跡地が選ばれたもので、一躍蒲田の名は時代の脚光を浴びることになる。
蒲田での最初の作品は「路上の雲塊」(小山内薫指導・村田実監督)で以来16年間撮影製作が続け
られ、設備も充実し、無声時代・トーキー時代を通して、数多の名作を世に送り出した。当時の俳優に
は井上正夫・岩田祐吉・勝見庸太郎・諸口十九・鈴木伝明・大日方伝・川口芳子・栗島すみ子・英百
合子・田中絹代・柳さく子などがいて、付近にはこれら俳優や監督・撮影関係者などの住宅ができ、
映画村の観を呈していた。昭和6年ころからトーキーの時代を迎え、我国初の本格トーキー作品「マ
ダムと女房」などが続々と製作され事業も拡大した。しかし6000坪の敷地しかない蒲田では狭さ
が撮影に影響を及ぼすようになり、東海道線大船駅の東方に30000坪の地を求め、昭和11年1
月に移転したため、蒲田映画の火は消えた。なお大船撮影所も平成12年に閉鎖し、新木場のスタジ
オに機能を移している。
 その後 蒲田撮影所跡地を取得したのが高砂香料工業株式会社。高砂香料工業は、ここで香料の生
産工場を建設したが、環境問題等により工場立地としての規制が厳しくなり、移転した。大田区は、
民間事業者と共同で、この跡地に業務文化拠点を造る方針を立て、平成10年にオフィス・商業ビル
「ニッセイアロマスクエア」「アロマプラザ」とそれに隣接する区民ホール「アプリコ」からなる文
化施設が造られた。「アロマ」という名が付けられたのは高砂香料の工場があったことに因むのだろ
う。

 
高砂香料工業発祥の地
 JR京浜東北線蒲田駅の東250m。「ニッセイアロマスクエア」の北東側の植栽の中に「高砂香
料創業の地」と書かれたプレートが 台石上にはめ込まれている。高砂香料は 日本最大の香料メーカ
ー。大正9年2月有楽町に創業。同7月この地東京蒲田に移転、香料の製造販売を開始した。昭和1
2年から翌年にかけて、本社を台湾(台北)に移し、同14年社名を「高砂化学工業」に変更。同20
年敗戦に伴い台湾の本社・工場が台湾政府の管理下に入る。同23年日本に販売会社として「高砂香
料」を設立し、同26年台湾の高砂香料と合併して「高砂香料工業」と改称、本社を中央区西八丁堀
2‐18に移す。同37年本社を中央区西八丁堀1‐2に移す。同55年本社を港区高輪に移す。平
成?年蒲田工場閉鎖。同10年蒲田工場跡地にできた「アロマスクエア」に本社移転。

   高砂香料は1920(大正9)年2月9日、この地で創業しました。
   創業者甲斐荘橘香は1910(明治43)年、香料研究のため渡欧。南仏・グラースとスイ
   ス・ジュネーブで合成香料の研究に従事し、帰国後、甲斐荘は技術者十数名と日本最初の
   合成香料製造会社・高砂香料を興しました。
    以来、「技術立脚」を企業理念とした高砂香料は、世界有数の総合香料会社へと発展し、
   グローバルな活動をつづけています。
   香料(アロマ)は人類の歴史とともにあり、永遠かつ世界共通の文化・商品であり、平和の
   シンボルといえます。香りを楽しむ豊かな暮らし、それは高砂香料の願いです。
                        1998年10月 高砂香料工業株式会社

 松竹橋模造
 ここに置かれた橋は、当時撮影所の正門前を流れていた逆川(さかさがわ)に架かっていた「松竹
橋」を模したもので、撮影所がこの地を去って50年後の昭和61年に公開された映画「キネマの天
地」の撮影に使われた。アロマスクエア前の庭にある。大正九年二月と刻んである。

   
蒲田撮影所と松竹橋
   当地には、松竹キネマ蒲田撮影所があり、その正門前を流れる逆川(さかさがわ)に松竹
   橋が架かっていました。
   蒲田撮影所は、大正9年に9000坪の敷地をもって開設され、昭和11年初頭、神奈川
   県大船の地に移るまで17年の間、幾多の名作を生むとともに、一世を風びする名優や人
   気スターを輩出し、日本映画の発展に大きく寄与しました。
   江戸時代から梅の名所であった蒲田は、撮影所の開設により、近代的な装いに変ぼうし、
   時代の最先端をゆく
所として、一躍全国の津々浦々に知れわたり、「キネマの都」として
   モダンな町を形成しました。
   蒲田撮影所が、この地を去って50年を経た今、松竹大船撮影所50周年記念映画「キネ
   マの天地」が公開されるに当り、その撮影に使用された松竹橋を、松竹株式会社の寄贈に
   より、元撮影所の正門前通りに復元し、「松竹映画発祥の地」として永久に名残をとどめ
   るものです。
   昭和61年7月20日                           大田区

   
蒲田
撮影所と松竹橋
   当地には、かつて、松竹キネマ蒲田撮影所があり、大正9年から神奈川県大船に移る昭和
   11年までの17年の間、ここから幾多の名作が世に送り出され、我が国の映画文化の発
   展に大きく寄与し、蒲田は「キネマの都」として全国にその名を知られるようになりまし
   た。ここに置かれた橋は、当時撮影所の正門前を流れていた逆川(さかさがわ) に架かっ
   ていた「松竹橋」を模したもので、撮影所が当地を去った50年後の昭和61年に公開さ
   れた映画「キネマの天地」の撮影に使われました。よってこの地にこれを復元し、「松竹
   映画発祥の地」として末永く記念するものであります。
   平成10年10月
 

 
松竹キネマ蒲田撮影所ジオラマ
 アプリコの地下1階ロビーに展示されているの復元模型。このジオラマは、神奈川県大船の鎌倉シ
ネマワールドに展示されていたものを、平成11年に、松竹より大田区に寄贈されたものだ。

   松竹キネマ蒲田撮影所
   昭和9年松竹キネマ合名社は、東京府荏原郡蒲田村に約30000㎡(約9000坪)の
   撮影所を開設し、映画製作を始めました。
   その後昭和11年に神奈川県大船に移転するまでの17年の間に〝明朗蒲田調〟と呼ばれ
   る1200本余の作品が世に送り出されました。
   当時、蒲田は「虹の都、光の港、キネマの天地」といわれるほどの賑わいをみせていまし
   た。
   このジオラマ(模型)は、かつての松竹キネマ蒲田撮影所の姿を復元したものです。
   平成11年松竹株式会社から大田区へ寄贈されました。
                                所蔵 大田区郷土博物館

 松竹橋親柱
 アプリコの一階ロビー連絡通路にある。アロマスクエアの記念碑として残されており、次のような
説明が書かれている。


   
「松竹橋親柱」の由来について
   当地には、かつて、松竹キネマ蒲田撮影所があり、その正門前を流れていた逆川 (さかさ
   がわ)には「松竹橋」がかかっていました。「アプリコ」のあるアロマスクエアには、昭
   和61年に公開された映画「キネマの天地」撮影のために製作された「松竹橋」が、蒲田
   の歴史を物語る記念碑として移設されています。こうした地元の思いを知った鎌倉在住の
   方より、戦中戦後の混乱を経て、もはや現存しないものとされていた親柱の寄贈の申し出
   があり、蒲田東口地区街づくり協議会が懸橋となって、70数年ぶりに, 当地への里帰り
   が実現しました。この親柱を大田区の貴重な歴史的遺産として、地域文化創造の拠点とな
   る区民ホール「アプリコ」に設置しました。
   平成10年12月                             大田区
 


■つかこうへい作「蒲田行進曲」

 「新撰組」の撮影真っ最中の京都の映画撮影所を舞台に、土方歳三役の俳優・倉岡銀四郎(銀ちゃ
ん)を中心に繰り広げられる、人間味溢れる活劇に仕上がっている。クライマックスシーンの10m
の高さの階段から転がり落ちる「階段落ち」は圧巻。後に続編として『蒲田行進曲完結編~銀ちゃん
が逝く』が製作された。『熱海殺人事件』『ロマンス』などと並ぶつかこうへいの代表作の一つであ
り、舞台、書籍、映画化されている。なお、直木賞の選評で選考委員の一人五木寛之は、『蒲田行進
曲』を天皇制と身分制度についての影絵文学としている。同55年11月つか主宰の劇団つかこうへ
い事務所により紀伊国屋ホールで初演された。同年の第15回紀伊国屋演劇賞を受賞している。つか
は同57年に一旦演劇活動を休止し、劇団を解散するが、解散公演では本作が再演された。その後も
平成11年、同12年 同18年とたびたびキャストを変えて上演されている。

 
小説「蒲田行進曲」
 劇作品の上演用戯曲をつかこうへい自身が小説化した作品。初出は『野性時代』昭和56年10月
号発表の「銀ちゃんのこと」。同年11月加筆の上『蒲田行進曲』と改題して単行本として発売され
た。同57年1月には第86回直木賞を受賞した。

 
映画「蒲田行進曲」
 戯曲を、つかこうへい自身が映画向けに脚色し、深作欣二が監督した映画作品。昭和57年に松竹
と角川事務所が共同製作した、所謂角川映画として松竹系で公開された。同時上映は『この子の七つ
のお祝いに』。TBSは製作に名前を連ねていないが、資金不足を補うため、完成前に角川春樹がT
BSに放送権を売って、放送権料という形で3億円を出資している。東映社長岡田茂が、角川春樹の
提案した映画化の企画を、当たらないからと断ったために、松竹が製作に当った。当時の日本映画界
を席捲していた角川映画とやっと念願の提携を果たした松竹だったが、撮影は松竹の撮影所でなく、
あえて東映京都撮影所で撮影するという異例の試みが取られた。監督も東映出身の深作欣二であり、
こうした捩れがあった所為で最初は東映側、松竹側の双方で軋轢があったとか。元々『蒲田行進曲』
は松竹の蒲田撮影所を舞台としているものの、つかこうへいは東映京都撮影所の大部屋俳優である汐
路章の階段落ちの逸話をテレビ『徹子の部屋』で汐路自身が語ったことで知り、モデルに執筆したも
のであり、実際は時代劇全盛期の東映京都の話と解釈される。配役は松竹作品ということで、まずヒ
ロインの小夏に松坂慶子が起用された。銀四郎とヤスについては難航し、プロデューサーの角川の提
案で松田優作に銀四郎役の出演依頼がなされたが松田は辞退し、結局スケジュールの余裕がなくなっ
たことから、実力派の風間杜夫と平田満が主役に起用され、結果的に2人の出世作となった。東映の
岡田茂は角川春樹にヒットしないと語っていたというが、配給収入は17億6000万円の大ヒット
を記録。アンコール上映も行われた。それまで角川映画は大量宣伝によりヒットしていた一方で、話
題先行で質が伴わないという風評があったが、本作によって漸く作品的にも評価されるようになり、
第6回日本アカデミー賞をはじめ、映画界の各賞を総なめにした。大量の宣伝スポットによりヒット
してきた角川映画において、口コミ中心で面白さが伝わり大ヒットしたことも角川映画としては異例
であった。ちなみに、松竹映画の名監督野村芳太郎は、自分たち松竹映画の過去を象徴する「蒲田行
進曲」というタイトルの映画を東映出身の深作に撮られたことに憤り、4年後の同61年に自らプロ
デューサとして映画『キネマの天地』を企画した。なお、蒲田撮影所時代を経験している松竹のカメ
ラマンだった厚田雄春は、インタビュー本『小津安二郎物語』において、『蒲田行進曲』『キネマの
天地』のどちらの映画も蒲田時代の雰囲気が出ていなかったと評している。

 
オープニング曲「蒲田行進曲」 作詞・堀内敬三  作曲・ルドルフ・フリミル
 松竹キネマ(松竹)蒲田撮影所の所歌。原曲は、大正14年アメリカで上演された、プラハ生まれ
の作曲家ルドルフ・フリムルのオペレッタ「The Vagabond King(放浪の王様)」
の中で、コーラスと共に勇ましく歌われる「放浪者の歌」。何故か日本では、その旋律に、昭和4年
堀内敬三によって全く別の歌詞がつけられ、松竹映画「親父とその子」の主題歌となり、映画でのオ
リジナルは当時の映画主題歌では良く見かける2人の歌手、曾我直子と川崎豊によって歌われており
(現在でもコロムビアの復刻CDで耳にすることができる)、
同11年藤山一郎が西条八十の歌詞に
より、ビクターからリリースした「希望の船」でも知られる。同57年の松竹映画「蒲田行進曲」の
テーマソングとして鮮烈にリバイバルし、松坂慶子・風間杜夫・平田満の3人によるカバー盤がコロ
ムビアからシングルレコードとして発売された。。
 堀内敬三は、クラシック音楽から文部省唱歌、はたまた流行歌の世界まで作詞や訳詞、更には歌の
作曲まで幅広く活躍した。原曲のリフレインの部分(蒲田行進曲で歌われる部分)が、凡そ「風の都
 光の都 キネマの世界」なんて歌詞にはなりそうもないこの歌を、松竹蒲田撮影所の所歌にした発
想は凄いとしかいいようがない。旋律は、後にプロ野球で加藤博一(横浜大洋ホエールズ)の応援歌
となった他、
JR京浜東北線蒲田駅では発車メロディとして使用している。

  1.虹の都 光の港 キネマの天地
    花の姿 春の匂い 溢るる処
    カメラの眼に映る 仮初めの恋にさえ
    青春もゆる 生命は躍る キネマの天地
  2.胸を去らぬ想い出床し
    セットの花と輝くスター微笑む処
    瞳の奥深く焼き付けた面影の
    消えて結ぶ幻の国 キネマの天地
  3.春の蒲田 花咲く蒲田 キネマの都
    空に描く白日の夢 溢るる処
    輝く緑さえ 永久の憧れに
    生くる蒲田 若き蒲田 キネマの都
 
 


■松竹キネマ蒲田撮影所壁画

 蒲田5丁目36番1号ヤマト運輸蒲田東口センタービルの西北面の4、5階辺の外壁に描かれてい
る、かつてこの地にあった松竹キネマ蒲田撮影所の正面からの俯瞰図。


■大田区民ホール・アプリコ

 蒲田5丁目37番3号蒲田撮影所跡地に、区が民間との共同開発でJR蒲田東口近くに建設。大ホ
ールの客席数は1477で、クラシック、ポピュラー音楽、演劇など広範囲な催しに対応します。ほ
かに展示室などを併設。大田区文化振興財団の運営。

 
噴水
 JR蒲田駅東口から徒歩約3分ほどにある区民ホールと複合施設オープンスペースにある噴水。

 
「無題」
 西側のオープンスペースにある円錐形のオブジェ。
 


■佐伯栄養専門学校

 蒲田5丁目45番5号にある日本最初の栄養士の専門学校。明治9年佐伯矩愛媛県に生まれる。同
34年京都帝大卒。同37年ジアスターゼ発見。同40年エール大学を卒業。ドクトル・オブ・フィ
ロソフィの学位を授かる。
 大正6年佐伯矩、世界初の「栄養研究所」を私費で創設。同9年国立栄養研究所が開設。佐伯矩初
代所長に任命さる。同13年栄養指導の専門家を育てる世界初の「栄養学校」を芝区金杉川口町に設
立。卒業生を「栄養士」と名付ける。同15年高等科を設置し2年制とする。
 昭和15年大森区(現佐伯山緑地)に移転。同16年校内に「佐伯栄養研究所」を開設。佐伯芳子
(妻)が主任を務める。
 同22年「栄養士法」制定。栄養士の社会的な位置付けが確立される。「栄養学校」から「佐伯栄
養学校」に改称。同26年佐伯芳子が校長に就任。同34年佐伯矩急性肺炎のため急逝。従三位勲二
等を叙勲。同40年3年制の管理栄養士特例科(栄養学科)を併設。
 平成14年「佐伯栄養専門学校」に改称。同16年創立80周年祈念式典。同18年学校法人「佐
伯学園」設立。栄養学科を廃止。同26年創立80周年祈念式典。同27年12月現在地に移転。

 
栄養学
 様々な食品の成分が身体の中でどのように利用され影響を与えているのか、また、どうすれば生物
が生命を維持し、健康な生活を送ることができるのか、生命や健康を支えている学問だ。




【蒲田本町】(かまたほんちょう)1~2丁目            昭和40年9月1日
 蒲田村・蒲田新宿村。昭和40年本蒲田5丁目の全部・仲蒲田4丁目の大部分・東蒲田4丁目の
一部をあわせた町域を現行の「蒲田本町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。


  蒲田本町について
 本町はかつての蒲田村・蒲田新宿村の中心部だったことによる。しかし駅も区役所も蒲田にあっ
て昔日の勢いはない。今は蒲田地区の端っこだ。
 


■日本船用ディーゼル機関発祥の地

 蒲田本町1丁目1番に、蒲田本町一丁目団地という中層住宅団地の内側で、中庭のように住宅棟に
囲まれた植込みに、石碑が隠れるように建っている。この住宅団地のある場所は、元新潟鉄工の工場
のあった場所だ。大正10年この地に新潟鉄工所蒲田工場が建設され、日本初の船舶用ディーセル機
関が誕生した。昭和51年工場は追われるように群馬工場に集約され移転、工場敷地は公団に売却さ
れた。なお平成13年新潟鉄工は会社更生法を申請をして倒産した
 跡地は蒲田本町一丁目団地と蒲田高校ができ、その団地の一角にこの碑が建てられている。

   日本舶用ディーゼル機関発祥之地 株式会社新潟鉄工所

    (裏面)
   大正8年7月工場建設 (1919)
   昭和51年10月まで   (1976) 蒲田内燃機工場としてディーゼル機関の製造
   昭和51年10月     (1976) 当工場を群馬県太田市へ移転
 


■蒲田本町一丁目公園

 蒲田本町1丁目1番5号にある区立公園。


■蒲田高等学校

 蒲田本町1丁目1番30号にある都立校。
昭和52年12月校章・征服制定。同53年1月校旗制
定。同3月新潟鉄工蒲田工場跡地の一部に第一期鉄筋コンクリート造り校舎(12教室・9特別教室
・管理諸室)落成。校歌制定。


 校歌「都の空を」 作詞・清水房雄  作曲・山田日出雄
  1.都の空をふりさけて
    緑照り添う楠若葉
    進取の気象 いや高く
    新しき世に先駆けん
  2.潮騒遠く たちきたる
    息吹き豊けき梅が香や
    青春の日々健やかに
    光求めて勤しまん
     吾等 此処に集ひ学ぶ
     大き使命 負いて学ぶ
     蒲田高校 蒲田高校


 同4月「東京都立蒲田高等学校」として開校。第一回入学式(男子197名・女子177名)。P
TA設立。同6月第一期鉄筋コンクリート造り校舎残り(12教室・2特別教室・会議室)完成。同
54年第二期鉄筋コンクリート造り施設(体育館、柔道場、剣道場、屋上プール)、外構工事(グラ
ウンド、テニスコート)完成。同10月開校記念式典。昭和55年鉄筋コンクリート造り校舎5階特
別教室2完成。同62創立10周年記念式典。同63グラウンド改修。
生徒総会にて制服改訂案が
提案され、制服検討委員会発足。

 平成2テニスコート改修(人工芝2面、クレーコート1面)。パソコンルーム開設。視聴覚教室移
設。新制服決定。同4年視聴覚教室をLL視聴覚室改修。同9年外装工事終了。10月創立20周年
記念式典。同13年学校運営連絡協議会設置。同18年東京都教育委員会よりエンカレッジスクール
の指定を受ける。同19年エンカレッジスクールスタート。新制服。同20年創立30周年記念式典。
 


■六郷用水跡石柱
 学校の前にある新宿糀谷村用水跡だ。

   新宿糀谷村用水跡(六郷用水分流)
   六郷用水は、徳川家康が慶長二年(1597)江戸近郊開発のため小泉次大夫に命じて開
   削した農業用水路のことです。
   この用水の分流水路である新宿糀谷村用水は、道塚村、蒲田新宿村から糀谷村の南、萩中
   村の北を通って浜中用水へと続き、南前堀へ流れて東京湾に落ちていました。
   用水は、農業用水としてはもちろんのこと生活用水として欠くことの出来ないものでした。
   そのため「生命の水」とも呼ばれていました。
   新宿小学校の前身の蒲田新宿小学校の頃には、この地に用水が流れていました。
   土地の人々に愛された用水には、鮒やめだかが泳ぎ、蛍が飛び交っていたそうですが、今
   は暗渠になりましたが一部がここに残されています。
   平成2年7月吉日                        大田区教育委員会
                                   新 宿 小 学 校


■新宿稲荷神社
 蒲田本町1丁目1番40号、蒲田高校の東南端にある小社。

   遷宮碑
   新宿稲荷神社
   当社は古しよりこの地にあり広く大衆の信仰をあつめし神社にして 祭神は倉稲魂命をま
   つり、家内安全、商売繁盛の神といわれる。この度この地の変画に当り、遷座を記念して
   この碑を建立するものなり。
   昭和54年5月吉日                      新宿稲荷神社保存会


 向かいに「記念碑」があり、参道取得を記念したもので、銘文はなく奉賛者80名ほどの名前が刻
されている。「昭和55年9月吉日」の建碑。


■蒲田郵便局

 蒲田本町1丁目2番8号にある。


■またまた観光バス事故(28人負傷)

 蒲田本町1丁目2番8号の蒲田郵便局前の事故。平成28年1月20日19時頃、夢湖観光の観光
バスが、環八通り内回り車線を走行中、中央分離帯に乗り上げて信号ポールに激突して止まった。
 この事故で、バスに乗っていた乗員乗客計30人の内、少なくとも乗客22人が怪我をしたが、幸
い全員が軽傷だった。
 警視庁蒲田署は、バスを運転していた東京都足立区大谷田4丁目に住む菅原正(58歳)を過失運
転傷害容疑で現行犯逮捕した。警察に対して菅原容疑者は「ボーっとしていた」などと供述している
ほか、バスに乗っていた乗客が「運転手は酷く疲れた様子だった」などと証言していることから、過
酷な勤務実態があったのではないかという疑惑の声が広がっている。この原因の一つに、近年突然の
観光行政の変更により、金儲けを企んだ政府が、キャパシティもないのに大量の外国人を呼び込んだ
ことによる。つまり爆買いの中国人観光客にバスを取られ、一般の観光バスの運転手が払底している
のだ。そこへ実力もない業者が乱入して低価格競争に陥ったため、畢竟、運転手に負担がかかってき
た。寝不足、収入減、過剰勤務・・・運転手地獄だ。オリンピックの工事が始まると更なる大型免許
の運転手が欠乏する。事故はいよいよ増えて行く。もうバスには乗らないことだ。
 ここんところの観光バスの事故が凄まじい。池袋・雲仙・札幌でバス炎上。小金井でアパートに突
入。千里中央で玉突き。軽井沢横転転落(15名死亡)。福井芦原温泉突風横転。淡路運転手意識喪
失とこの事故。それもこれも小泉純一郎が規制緩和なんぞとほざいて何でもありにしたからだ。味噌
も糞も一緒くたにして、私利私欲に走ったからだ。あんな者に入れ上げた国民の面が見たいよ。
 菅原は、直近の過去6年間はタクシーに乗務しており、糖尿病の治療のため休職し、4ヶ月後、退
職した。事故の3ヶ月前、麻布観光に休職している。乗務試験で右に寄る癖があるので、社長が身体
の機能チェックしたところ右目が見えなかったので質問したところ、「医師から糖尿病で失明すると
いわれている」と申告したので不採用にしていたことが判った。採用して事故を起こした会社はどん
な身体検査をしてたのかねぇ? 現在、乗務はしていないが、解雇はしてないらしい。
 


■新宿小学校

 蒲田本町1丁目5番1号にある区立校。ホームページもなく詳細不明。
 


■蒲田警察署

 蒲田本町2丁目3番3号にある。

 
●踏切ボタン、偽計業務妨害で老人逮捕
 令和元年7月30日、何の
異常もないのに踏切の非常ボタンを押したとして、区内の無職、高橋邦
典(68歳)を偽計業務妨害で逮捕した。「足と心臓が悪く、歩くスピードが遅いため、列車が来な
いように押した」と供述しているが、蒲田署によると、JR東海道線の蒲田~川崎間の大倉踏切で、
踏切や線路内に異常がないのに非常ボタンを押し、電車を停止させ、遅延や運休を生じさせたとして
いる。ボタンを押したことは認めているが、業務を妨害する意図はなかったとして容疑を否認。
 非常ボタンが押される事案が相次いだことからJR東日本が6月19日に蒲田署に相談していた。
同社が設置した防犯カメラで高橋容疑者の関与が浮上。非常ボタンを押した後、踏切近くの自宅に向
かっていたという。欲求不満なんだろうね。構って貰いたい?

 
●パトカー絡むトラック追突事故
 令和元年8月20日朝7時前、署の前の環状8号線で、赤信号で停まっていたトラックにトラック
が追突し、押し出されたトラックが、折り悪く、署に戻ろうと右折してきたパトカーに衝突する二重
事故があった、この事故で、追突したトラックの50代の運転手が病院に運ばれたが死亡が確認された。追突されたトラックの運転手とパトカーのクルーに怪我はなかった。

 
●バカ女が育児放棄、3歳娘死なす
 令和2年7月7日、自宅に3歳になる娘を放置して死亡させたとして、梯(かけはし)沙希(24
歳 蒲田1丁目)を保護責任者遺棄致死の罪で逮捕した。沙希は日頃から育児を放棄して遊び歩き、
6月上旬、1週間鹿児島に遊び歩き、自宅に稀華(のあ)を1人放置し、飢えと脱水症状で死亡させ
た。取り立てて美人でもないし、だからこそ男を求めるのかねぇ。
 沙希は本人自身が両親から虐待を受けていたことがあり、親の愛を知らずに児童保護施設で育った
過去があった。旅行に出る前、玄関にバリケードを張り、娘が外に出られないように施していた。バ
カでなかったら、水を飲めるように、8日分の水を用意しておけば、衰弱したとしても死ぬことはな
かったかもしれない。神はお見通しだったんだね。死刑になるような犯罪じゃないから、入っても数
年で出てくるさ。

 
●大学生岩崎遼、ワイセツで逮捕
 令和2年8月4日、江戸川区の私立大学生岩崎遼(23歳)を、20代の女性会社員の自宅前で、
郵便物を確認していた同女に後ろから抱き着いて猥褻行為をしようとしたとして逮捕された。岩崎は
今年6月、親族と区内で酒を飲み、一人で帰宅途中、女性を見つけ後をつけていき犯行に及んだもの
で、防犯カメラなどの追跡で岩崎の犯行と判明した。岩崎は「自分の中でスイッチが入った」と犯行
を認めている。

 
●路上ワイセツ男荒井裕逮捕
 令和2年9月12日深夜、京急蒲田駅近くの路上で1人で歩いていた20代の女性に近づき話しか
けて猥褻行為に及んだとして、10月6日、新井裕(25歳)を逮捕した。新井は友人と酒を飲んだ
後、駅近くで女性を見つけ、「何処に行くの?」「彼氏いるの?」などと200mほど声をかけ、不
埒か行為に及んだという。本人は犯行を認めている。

 
●陸上日本代表川面聡太が婦女暴行で逮捕
 令和2年12月10日、元世界陸上日本代表川面聡太(かわつらそうた 31歳)を強制性交の罪
で逮捕した。本人は合意を主張している。女性は性的満足を与えてくれたら強姦でも文句は言わない
ものだ。それが一たび下手ッピーだと、欲求不満から必ず訴える。
 3月に沖縄で知り合った2人は、去る4月21日夜から、彼女の自宅で友人らと酒宴を開き、翌未
明、友人が帰った後、ベッドで眠っていた女性を襲い、強姦に及んだものだ。10月になって女性が
警察に訴えて事は露見した。4月から・・・ 半年。2人の間に何かが起きたのだ。女は判らない。
何時豹変するか。女には四六時中目を光らせてないと、何をされるか・・・
 ご要慎、ご要慎 ムラムラしても女だけには近づかないことだ。

 
●「多頭飼育崩壊」で逮捕
 令和3年4月14日 自宅に24種58匹の動物を飼育しようとして崩壊したとして桑添亜紀(4
6歳)を逮捕した。58匹にも及ぶ24種の飼育に手が回らず、犬5匹を放置し衰弱させたとして動
物愛護法違反の疑いもある。桑添は適正な量の動物を飼育していたが、コロナ禍で趣味の海外旅行が
出来なくなり、ストレスのため去年頃から手当たり次第に買い漁るようになった。室内は糞だらけで
悪臭が漂い、知人が警察に相談した。名前の桑の字は「桒」となっている。

 
●五輪聖火輸送機偽模型販売 金子幸広逮捕
 令和3年5月28日、五輪聖火を運搬した特別輸送機の模型の偽物を販売したとして、商標法違反
で 無職金子幸広(39歳)を逮捕した。金子は「商標登録してあるとは知らなかった」と供述。
 真製品は非売品で200機製作され関係各所に贈呈された。金子は偽物を中国から仕入れ、31個
を売り31万円を得ていた。

 
●ナンパ断られ 顔を蹴った強盗男逮捕
 令和3年6月12日、ナンパして断られて頭に来、投げ飛ばして顔を蹴るなど暴行を加え、現金や
バッグを奪って逃走していた佐々木海青(24歳)を逮捕した。佐々木は先月23時朝5時頃、蒲田
駅近くの路上で、20代の女性に犯行に及び、5000円入りのバッグを奪って逃げ去った。
 佐々木は「やっていません。意味が解りません」と犯行を否定している。


■本二北児童公園

 蒲田本町2丁目3番6号にある区立公園。


■妙泉寺

 蒲田本町2丁目7番12号にある本門仏立宗の寺。前身は、昭和19年に六郷地区に建立された妙
証教会は、戦災で全焼したため、同34年に現在地に移し再建した。
 


■本二児童公園

 蒲田本町2丁目10番11号にある区立公園。


■出村児童公園

 蒲田本町2丁目19番5号にある区立公園。
 


■蒲田消防署

 蒲田本町2丁目28番1号にある。


■「六郷用水物語」案内板

 蒲田本町2丁目28番1号蒲田消防署向かって左の歩道上にある。


■蒲田本町二丁目公園

 蒲田本町2丁目30番7号にある区立公園。




【上池台】(かみいけだい)1~5丁目              昭和43年10月15日
 池上村・道々橋村字千束・馬込村の西部。池上村は鎌倉期に見える。俗称で上池上村。明治22
年「市制町村制」により池上村・下池上村・雪ヶ谷・道々橋・堤方・市野倉・桐ヶ谷・徳持・久ヶ
原・石川の十ヶ村が統合して新しい池上村を成立、池上はその大字。大正15年町制に移行して池
上町字池上。昭和7年大森区が成立して上池上町・池上洗足町にり戦後へ。昭和43年池上洗足町
の大部分に南千束町・上池上町・馬込西4丁目の各一部を併せた町域を現行の「上池台」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

  上池台の由来
 上池上の高台の意の造語。池上の由来は「池上」を参照。
 


■長原駅

 上池台1丁目10番10号にある東急池上線の停車場。昭和2年8月28日蒲田側から延伸してき
た池上電気鉄道が雪が谷(雪が谷大塚)~桐ヶ谷(現在廃止)間を開業させたときにできた。駅東側
を走る環状七号線の踏切渋滞を解消するため、昭和43年に地下化された。
 ホームは相対式2面2線で地下1階にある。ホームと改札を結ぶエレベーターは完備している。
 改札口・出口は1カ所のみで、1階にある。
 


■池の台児童遊園

 上池台1丁目24番1号にある区立公園。


■小池公園

 上池台1丁目36番1号にある区立公園。
 


■庚申堂

 上池台1丁目43番6号飯島ビル東南角にある小祠。板状駒型 
日月・「南無妙法蓮華経」三猿。
「享保十七壬子年二月吉辰」「両山四十三世 日摂」「池上邑」と刻む。


■小池けやき児童公園

 上池台1丁目48番20号にある区立公園。


■小池稲荷神社

 上池台1丁目51番17号にある小社。


■小池小学校

 上池台2丁目22番7号にある区立校。昭和7年東京府東京市池雪尋常小学校分教場(木造2階建
て校舎普通教室3・3特別教室)
。同11年「東京府東京市小池尋常小学校」として開校。同16年
勅令148号国民学校令により「東京府東京市小池国民学校」と改称。同18年都政施行により「東
京都小池尋常小学校」と改称。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。
日本敗戦。 
 同22年アメリカの強制による「学校教育法」施行により「東京都大田区立小池小学校」と改称。
木造校舎再建(普通教室11・特別教室4)。同34年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎(普通教
室9・特別教室1)落成。
 平成2年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。同13年ホームページ開設。同14年創立70
周年記念式典。

 校歌
「聖の誉れを」 作詞作曲不明
  1.聖の誉れを幾永久に
    称え住むてふ洗足池畔
    大気は清か明るく清く
    風致に日出るここ池の台
    気高く聳える我が小池校
  2.紅頬豊かに輝き匂い
    元気に溢るる健児よ吾等
    弾みの飛躍の姿を揃え
    伸び行く日本の理想を描く
    教えの庭こそ吾が学び舎よ
 


■ねむの木児童公園

 上池台1丁目36番6にある区立公園。
 


■蝉坂

 上池台3丁目7番と10番の間にある坂道。耕地整理以前からの古道。坂名は、この付近一帯が池
上村蝉山と呼ばれていたことから名づけられたものと思われる。上池台3丁目41番と42番の間の
「洗足流れ」という水路にかかる橋は蝉山橋と名づけられているが、これも蝉山の地名によるものだ
ろう。

   蝉坂 せみざか
   この坂の付近一帯を、もとは蝉山といっていた。坂名の由来はこれによったらしい。付近
   に蝉山橋もある。
   昭和63年3月                              大田区


■上池台三丁目公園

 上池台3丁目16番15号にある区立公園。


■せみやま児童公園

 上池台3丁目19番6号にある区立公園。


■開光坂児童公園

 上池台3丁目26番16号にある区立公園。
 


■三本松児童公園

 上池台3丁目29番7号にある区立公園。


■上池台射水坂公園

 上池台4丁目19番9号にある区立公園。
 


■庄屋坂

 上池台4丁目20番と23番の間を北西へ上がっていく真っすぐな坂道。

   庄屋坂 しょうやざか
   坂の付近に、昔から庄屋の家があったと伝えられることから、この名がついたといわれる。
   昭和61年3月                              大田区


■はなみずき児童公園

 上池台4丁目33番17号にある区立公園。


の巣坂

 上池台4丁目37番と42番の間の坂道。かつて、こう コウノトリ)の巣があったというこ
とから、この付近はの巣山と呼ばれていたといわれ、坂名はそれに因むのだろう。坂下に残ってい
た水路は、「の巣流れ」と呼ばれ、かつては用水路として、近年は排水路として使用されたが、下
水道の敷設により現在は埋められている。この坂にほぼ並行して幾つかの坂道がある。北東側は〝庄
屋坂〟、西側は〝蝉坂〟。

   鸛の巣坂 こうのすざか
   鸛(こうのとり)の巣があったということから、この付近を鸛の巣山(こうのすやま)と
   呼んでいた。 坂名は,それに由来する。
   また、坂下に今でも残る水路は、鸛の巣流れといわれている。
   昭和63年11月                             大田区


■上池台四丁目公園

 上池台4丁目41番5号にある区立公園。


■貝塚坂

 上池台4丁目と5丁目の間を東北に上る、通称「学研通り」の坂道。この貝塚坂周辺は、貝塚を伴
う集落遺跡のあったところで、坂名もそれに因むものだ。『大森区史』には、「馬込の根方に貝塚と
いふのがある。石器時代の器物や矢の根などがよく掘り出されたといっている。今もなほ好事家の尋
ねて来るものが少なくない」と書かれている。大田区内の鵜の木、池上、山王と連なる台地には縄文
時代から古墳時代にかけての集落遺跡が多く、貝塚坂周辺にあったといわれる遺跡もその一つだ。

   貝塚坂 かいづざか
   坂名の由来となった馬込貝塚を、『大森区史』は「馬込の根方に貝塚というのがある。石
   器時代の器物や矢の根石などがよく掘り出されたといっている。今もなお好事家の尋ねて
   来るものが少なくない。」と記している。
   昭和59年3月                              大田区


■庚申堂

 上池台5丁目10番13号、猿坂を登り切ったところの民家の生垣に埋もれるようにして小堂があ
る。山状角柱型、
日月・三猿。「南無妙法蓮華経」「享保八癸卯天十一月大吉日」と刻む。


■玉倉稲荷大明神

 上池台5丁目14番9号にある小社。稲荷坂の名の由来の稲荷社。


■稲荷坂児童公園

 上池台5丁目15番5号にある区立公園。


■稲荷坂

 上池台5丁目16番と6番の間を東へ上がっていく坂道。上池台5‐14番の南側角地に「玉倉稲
荷」という稲荷社が祀ってあるため、この名がある。

   稲荷坂 いなりざか
   坂上の上池台5丁目14番の南側角地に玉倉稲荷という上谷戸の稲荷神社が祀ってあるの
   で稲荷坂と名づけられたという。
   この坂道は耕地整理により出来たといわれている。
   昭和59年3月                              大田区


■大久保塚児童公園

 上池台5丁目17番10号にある区立公園。


■大久保坂

 上池台5丁目17番と18番の間の東へ上っていく坂道。この付近に昔大久保氏の屋敷があったこ
とから名づけられたといわれている。大久保氏って誰だ! 大名や旗本なのか、大久保利通か、土地
の大久保さんか、はっきりしろい! 昭和初期に行われた耕地整理によりできた。

   大久保坂 おおくぼざか
   昭和初年の耕地整理によって出来た坂道で、坂の名は,大久保氏の屋敷跡であったという
   ことに由来するという。
   昭和61年3月                              大田区


■猿坂の祠

 上池台5丁目22番?号の林昌寺墓地の南の突先、猿坂口にある小祠。馬頭観音を祀る。
「天保九
年 根方邑 石工甚五郎」の銘がある。元は「上池台5‐38‐16」付近の道路脇に建てられてい
たが、品鶴線の土地買収により現在位置に移した。  


■猿坂

 上池台5丁目22番と24番の間を東北に上がっていく坂道。昔、子安八幡神社、林昌寺(仲池上
1‐14)からこの猿坂にかけての台地は森林が続き、猿が多く生息していたといわれ、坂名はそれ
に因むようだ。また、この坂を通る道は、池上本門寺前から仲池上の根方を通り、猿坂を通って台地
に上り、馬込の夫婦坂を経て荏原町に達する古道だ。

   猿坂 さるざか
   新編武蔵風土記稿』の林昌寺の項に、「
境内墓所の側に坂あり、猿坂と呼、昔山林茂り
   て猿多く住せし故是名あり」
と記されている。
   おそらく,古くから知られた坂道であろう。
   昭和60年3月                              大田区


■末守稲荷社

 上池台5丁目35番6号にある小祠。


■すずむし児童公園

 上池台5丁目37番19号にある区立公園。

 



【北糀谷】(きたこうじや)1~2丁目                昭和44年9月1日
 麹谷村。明治22年「市制町村制」により羽田村大字麹谷、同40年羽田町大字麹谷。昭和7年
当時の麹谷村字東・大袋・川島・岡場・岡場耕地を北糀谷町とし、同44年の新住居表示により大
部分を現行の「北糀谷」とし、一部を大森南・大森東・東糀谷・西糀谷・蒲田
に譲って現在に至っている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 
北糀谷について
 麹谷村の北半であることによる。糀谷の由来は「糀谷」を参照のこと。
 


■北糀谷一丁目公園

 北糀谷1丁目1番18号にある区立公園。


■北糀谷中央公園

 北糀谷1丁目15番3号にある区立公園。
 


■子安八幡神社

 北糀谷1丁目22番10号にある元小泉家の氏神。慶長年間(1596~1615)に、六郷用水
と稲毛・川崎二ヶ領用水を、徳川家康の命令で開削した功労者小泉次太夫吉次は、川崎の代官職にあ
ること20年間、元和五年(1619)に役を辞し、4年後に没した。その功績で、この地下袋村と
麹屋村で300余石の地を拝領した。子孫は下袋村字殿山に居を構え、明治までこの地を知行した。
小泉関係の2、3の資料を蔵している。


 石鳥居(区内最古)
 境内にある。北糀谷は、元「下袋村」といい、六郷用水開削の功労者小泉次大夫の知行地だった。
 鳥居は、6代目地頭小泉藤三朗包教の時、安永三年(1774)総氏子が地頭の武運長久を祈って
奉納したもの。この時代の領主と村民との結びつきを知る上でも貴重だ。明神型の区内最古の鳥居で
あり、貫の両端は欠けているが、笠木の反りも緩やかで美しく、全体に安定した姿を見せている。
昭和49年2月2日大田区の有形文化財に指定された。

 遠馬の献額
 
小泉十代目久太郎正修が嘉永六年(1853)四月十八日、幕命で江戸・鎌倉間の遠馬に参加し、
その成功を記念して奉納した。出発点高輪から到着点鶴岡八幡宮までを、鳥瞰図風に着彩で細密を描
いており、左下方にはこの神社や六郷の渡しなども見える。

 
諏訪神社
 境内社。

 
春日神社
 境内社。

 
末廣稲荷神社
 境内社。


■円竜寺墓地(廃寺)・小泉次太夫一族の墓

 北糀谷1丁目23番15号の民家の間にひっそりと眠る。ここには、六郷用水を開削功績で、この
地を知行地とした小泉次大夫の一族の者や、円竜寺歴代の墓石など29基が残る。この寺は小泉家の
菩提寺として栄えたがが、寛文年間(1661~73)に禁教不受不施派に属したため幕府により廃
された。その旧墓域のほんの一部が今も残り、これらの墓石が1ヶ所に集められた形で保存されてい
る。研究者には垂涎の場所だ。六郷用水路開削の功績により、下袋(現北糀谷)、麹屋(現東、西糀
谷)の2村を知行地とした小泉次太夫吉次の一族の墓石が、廃寺となった円頓寺の旧墓域の一部にま
とめられている。小泉一族の墓として、土地の古老たちは「殿様の墓所」と呼んでおり、現在は一部
の人々と近くの清光庵によって供養されている。
 


■小池釣堀 → 小池公園

 北糀谷1丁目36番15号にある。小池は洗足池とともに、古くは灌漑用水として利用されていた
が、昭和4年より行われた耕地整理によって、池の一部が埋めたてられた。池上電気鉄道が、小池を
借り入れて遊園施設を整えようとしたが、経費の都合で中止となった。昭和九年に釣堀として開業し
て以来七十年余営業してきたが近年閉鎖された。将来は、池を活かした公園が予定されているようだ。

 
鮒塚(鮒之塚)

 池の北東にある鮒塚は、鮒の供養のために建てられたものと思われるが、碑の背面には「昭和九年
五月関西河内平鮒放流し釣堀開始せり」と刻まれており、釣堀開業時のことを伝える貴重な記念碑で
ある。
 
 

■北糀谷小学校

 北糀谷2丁目2番5号にある区立校。
明治9年4月麹屋村272番地の法性庵本堂に「第弐中学区
第弐拾五番公立小学糀谷学校」として開校。同11年麹屋村44番地、松原弥一郎所有地に校舎を新
築。同12年「公立糀谷小学校」と改称。同19年「東京府糀谷村糀谷尋常小学校」と改称。同30
年糀谷字中耕地に移転。同33年糀谷町2の341に新築移転。大正6年大暴風雨のため平屋校舎が
全部倒壊。同9年校舎復旧増改築。同15年「羽田町立第二尋常小学校」と改称。
 昭和2年創立50周年記念式典。同4年「羽田第二尋常高等小学校」と改称。同7年荏原郡の東京
市編入により「東京市羽田第二尋常高等小学校」と改称。同11年出雲小学校を分校し、児童の一部
移籍。学区変更により児童の一部を南蒲小学校に移籍。同13年糀谷分教場(東糀谷小学校)が新築
され6学級移転。同年8月校地内にあった浜竹神社が遷座し校地が330坪拡張。同14年都南小学
校を分校し436名移籍。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市糀谷国民学校」と
改称。同17年プール完成。同18年学童給食開始。都政施行により「東京都糀谷国民学校と校名変
更。同19年学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。東糀
谷国民学校内に仮事務所(青空教室)。
 同21年北糀谷235番地(現在地)で復興校舎建設地鎮祭。同22年学校給食復活。アメリカの
強制による学校教育法施行により、「東京都大田区立糀谷小学校」と改称。同23年PTA発足。同
27年「東京都大田区立北糀谷小学校」と校名変更。糀谷小学校が復興され学童584名が移転。同
29年改築校舎完成。同30年給食室完成。図書室完成。同31年創立80周年記念式典。同36年
体育館兼講堂完成。同41年創立90周年記念式典。校歌制定。校旗・優勝旗作成。

 校舎
「希望溢れる」 作詞作曲不詳 
  1.希望溢れる光を浴びて
    仲良く育つ 日本の子供
    いつも元気に胸張って 頑張って
    礼儀も正しく伸びて行く

    北糀谷の強い子吾等
  2.庭の銀杏も 小鳩も見てる
    きまりを守る よい子の世界
    いつも心は溶け合って 張り切って
    平和な校風 作り出す
    北糀谷の楽しい吾等
  3.揃うこの意気 日毎に見せて
    輝く歴史 受け継ぐ誇り
    いつも力を 寄せ合って 手をとって

    みんなのために はたらこう
    北糀谷の 栄えある吾等


 同47年第一期鉄筋コンクリート校舎落成。同48年第二期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同5
1年木造校舎解体。同
52年新体育館完成。創立100周年記念式典。難聴学級開級。旧体育館の取
り壊し。同53年視聴覚室完成。同56年創立105周年記念式典。同58年プール、音楽室、保健
室、陶芸小屋改築。校庭改修。同61年創立110周年記念式典。同62年ハッピールーム改築。
 平成元年音楽室改修。同2年図書室改修。同3年創立115周年記念式典。同4年校舎外壁改修。
同7年言語障害学級開級。同8年創立120周年記念式典。同10年東京都よい歯の学校表彰受賞。
同12年言語障害学級1教室増設。児童会選挙による児童運営委員会発足。6年生が栽培した菊、大
田区菊花展に出品。同13年東京都連合学芸会に2年生出演。北糀谷小学校避難所運営協議会設立。
パソコン教室開設。開校125周年記念式典。同14年校舎鉄部塗装。学校運営にかかわる地域教育
連絡協議会設立。同18年創立130周年記念式典。同
19年普通教室空調設備。同20年プール改
修。教員室に教務用パソコン設置。同防火シャッター。同22年水道直結化工事完了。地上デジタル
放送受信設備取付。


■北糀谷第一児童公園

 北糀谷2丁目7番13号にある区立公園。

 



【北千束】(きたせんぞく)1~3丁目                昭和41年5月1日
 馬込村小名千束村。明治22年「市制町村制」により一村独立で馬込村のう内。昭和7年大森区
が成立して北千束町(字名を採用)。同41年新住居表示により現行の「北千束」とした。かつて
の千束郷は池上・奥沢・奥沢新田・道々橋・中延・雪ヶ谷の6ヶ村の範囲に及んだ。江戸時代には
荏原郡馬込領の小名。人家30軒ばかりの千束村・千束池(千束溜井)・千束用水に名を持つに過
ぎない。千束池(洗足池)は南千束にあり、北千束はその北に広がっている。町名は「千束」だけ
でよかったが南があるので北を冠した。千束の北部でも北外側でもない。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

  千束の由来
 延暦十年(791)太政官が発令して粮備を蓄えるように命じ、武蔵国は十二万石とされた時、
千束郷は水の具合が悪いので稲千束分が免除されたことによるといわれている。別に本門寺への千
僧供料説(せんぞうくりょうせつ)があるが、本門寺が開かれる前に千束の名はあり、この説は浅
草の千束の由来だろう。
 洗足池は千束池で千束溜井。洗足の字を当てるのは、日蓮上人が池上に向かう途中足を洗ったと
いう伝承に拠るが、これも事実かどうか判らない。誰が見てたのか? という話だ。千束と韻が似
るので洒落者の創作なんじゃないの。広重は池を描いて日蓮袈裟掛け松を表示している。しか日蓮
さんが来ればこそ本門寺はある訳で、洗わなかったとも言い切れない。
 


■清水窪児童公園

 北千束1丁目19番3号にある区立公園。


■清水窪小学校

 北千束1丁目20番15号にある区立校。昭和7年東京市大森区725番地に校舎新築。赤松尋
常小学校より分校して「東京府東京市清水窪尋常小学校」として開校。昭和16年勅令148号国
民学校令により「東京府東京市清水窪国民学校」と改称。日米開戦。同18年都制施行により「東
京都清水窪国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20年日本敗戦。同22年アメリカ軍の
強制による学校教育法の施行により「東京都大田区立清水窪小学校」と改称。
 同54年体育館・家庭科室・視聴覚室落成。同61年プール完成。校庭整備(サーファム舗装)
 平成13年地方自治法改正による学校教育法かいせいにより東京都の冠称が取れ「大田区立清水
窪小学校」と改称。同14年創立70周年記念式典。同21年水道直結化。校庭改修(一部芝生)

 校歌
湧き出ずる」 作詞・白鳥省吾  作曲・小松清
    湧き出ずる清き水は
    流れ寄る洗足の池
    望めよ岡を 望めよ岡を
    国の花桜は朝日に輝く
    我が母校 朝日に輝く
     輝くは高き望み
     湧き出ずる清き心は
     仰げよ校旗 仰げよ校旗
     色変えぬ柏は吾等が導(しるべ)よ
     我が母校 柏に栄えあれ
    愛する母校清水窪の
    柏の梢、空まで伸びよ
 


■清水窪弁財天

 北千束1丁目26番5号、東急大井町線・目黒線の大岡山駅の北方500mほどの地点にある湧水
池。
岸田家私有地にあるが開放されている。
この辺りは武蔵野台地の末端に位置し、古くから水の豊
かな土地だった。池の長さ約20m。鯉が泳ぐ池の中の小島に祠があり、弁財天が祀られている。
 涼やかな水音を立てて流れ出る小さな滝は循環水によるものだが、池中に湧出点もあるようで「東
京の名湧水57選」に選ばれており、昭和50年3月19日に区の天然記念物に指定されている。こ
の湧き水は武蔵野台地の端、千束の谷が尽きるところにあり、旧村落の頃、この付近一帯を清水窪と
呼んだのも、この地形のためだ。この湧水は洗足池の水源の一つで、歩道になっている暗渠を辿って
いくと、途中、大岡山駅付近で線路に分断されているので迂回が必要だが、洗足池に至る。かつて千
束の谷が田畑であった頃、用水として水田を灌漑していた。本区のみならず都内に残された数少ない
湧水池として貴重である。昔は、池の周辺4~5ヶ所から水が沸き、田畑の灌漑用水にも使われてい
ましたが、現在は1ヶ所から僅かに染み出ている程度になってしまった。

   
俗称 清水窪弁財天の由来
   この辧財天は今から二百年程の昔、此の地は所有者・岸田勇氏先祖が、この地にこもる霊
   気を感じて祀られたものである。当時はうつ蒼とした杉の森で昼でも天日を見ることがで
   きないくらい茂っていた。昭和十年頃までに湧き出す清水は今日でも、どんな旱天になっ
   ても絶えることがない。その昔は白蛇の姿を見たこともあるという。霊気は物すごいまで
   に強く邪心を捨てて一心に念願すると不思議に叶えられるので遠近各地からの信仰者が絶
   えない。現在は神格が昇って左の如く祀られている。 

     清水窪辧財天昇格改称 天八大龍王神

   旧大森区史によると、この低地は太古、大森海岸より入り之が海の終りとなって居りその
   下泜にある洗足池や小池などは、当時の海の名残であると記るされている。    庵主

 
馬頭観世音碑
 境内にある。

   
馬頭観世音

 
天圀蔵五柱五成大神(あめのこくぞうごしゃいなりおおかみ)
 境内にある小祠。天日瑞穂造美尊、天豊穀食類姫尊、天豊宇気比姫命、天太田土命、天大市比売尊
の五柱を祀る。

 
三社大口真大神
 境内にある小祠。三峯大神(伊弉諾・伊弉冉)、宝登大神(神日本磐余彦尊)、御嶽大神(国常立
尊)の三社を祀る。

 
三徳大明神
 境内にある小祠。知・仁・勇の三つの徳を祀る。

 
天五色大天空大神
 石碑を祀る小祠。昔の天狗。

 
天大国主命
 境内にある小祠。

   天五色大天空大神

 
清水窪延命水子地蔵尊
 境内にある。


 
湧き水(東京の名湧水57選)
 古くから地域の信仰の対象となっており、洗足池の水源の一つである。

   大田区文化財
   
清水窪湧水
   池の長さ20m池の小島の小さな祠には弁財天が祀られている。
   この湧水は武蔵野台地の端、千束の谷がつきるところにあり、旧村落の頃、この付近一帯
   を清水窪と呼んだのも、この地形のためである。
   ここから湧き出た水は、千束池の源流となり、かつて千束の谷が田畑であった頃、用水と
   して水田を灌漑していた。
   本区のみならず東京都内に残された数少ない湧水池として貴重である。
   昭和50年3月19日指定                    大田区教育委員会
  


■北千束北児童公園

 北千束1丁目29番9号にある区立公園。


■妙徳稲荷神社

 北千束1丁目32番7号にある小社。


■池月駅 → 洗足公園駅北千束駅

 北千束2丁目16番1号にある東急大井町線の停車場。昭和2年10月10日目黒蒲田電鉄が大井
町~大岡山間を開業させたのと同時にできた。当時は「池月駅」いったが、同5年に「洗足公園」と
改称。同11年現在名に改称。何れも改名の経緯は不明。池月はこの地で生れたという名馬「池月」
に因む。洗足公園と改めたのは行楽客目当てか? 最後の改称は、昭和9年目黒蒲田電鉄が池上電気
鉄道を吸収。同11年池上線の洗足池駅と紛らわしいので地名を駅名としたのだろう。
 ホームは島式1面2線で、築堤上にある。エレベーター完備。改札口・出口ともに1ヶ所のみの小
さな駅だ。
 


■北千束児童公園

 北千束2丁目19番9号にある区立公園。


■赤松小学校

 北千束2丁目35番8号にある区立校。明治11年公立馬込小学校分教場として開校。同12年赤
松小学校として独立。校庭に赤松が3本あるところから校名とした。同17年台風により校舎倒壊。
現在の南千束3‐27の吉田家で授業。
 同19年馬込村3729番地の校舎を新築(桃戸園時代)。同20年東京府令により赤松尋常小学
校と改称。同42年馬込村3369番地に校地を移転(桃山時代)。大正8年現在地に6年生と青年
団がコロで校舎移転。
 昭和7年荏原郡が東京市に併呑され「東京府東京市赤松尋常小学校」と改称。清水窪尋常小学校を
分校。同14年在校生徒最大1559名。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市赤
松国民学校」と改称。日米開戦。同18年都制施行により「東京都赤松国民学校」と改称。同19年
学童集団疎開(静岡341名・富山124名)。同20年日本敗戦により疎開解除。学童帰校。
 同22年アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都大田区立赤松小学校」と改称。同2
4年後援会(父兄会)を廃し赤松小父母と先生の会(PTA)を発会。同27年在校生徒最大192
2名。1~4年生二部授業。同28年洗足池小学校を分校(450名移籍)
 平成元年開校110周年記念式典。同4年プール・体育館改修。校舎窓枠サッシ化。同11年創立
120周年記念。同12年地方自治法改正による学校教育法改正により東京都の冠称が取れ「大田区
立赤松小学校」と改称。同21年創立130周年記念式典。

 校歌
「映えの若松」 作詞・大木惇夫  作曲・乗松昭博
  1.映えの赤松 その陰に
    立ち寄る童
(わらべ)の学び舎楽し
    嗚呼吾等 同胞
(はらから)吾等
    日毎励みて智慧を明かさむ
    皆真実の人たらむ
  2.池は洗足 水鏡
    澄み行く心に誓いは清
(すが)
    嗚呼吾等 同胞吾等
    いよよ励みて徳を磨かむ
    皆平和の人たらむ
  3.花は曙 桜山
    伸び行く若木の希
(ねが)いは床し
    嗚呼吾等 同胞吾等
    明日の正しき道を進まむ
    皆美しき臣たらむ
 


■北千束ひつじ児童遊園

 北千束2丁目46番12号にある区立公園。


■稲荷坂

 北千束2丁目と南千束2丁目の間を東に上がる坂道。

   稲荷坂 いなりざか
   この坂道は古くからあり,道幅は9尺(2.72m)ぐらいであったが、耕地整理によって
   4間(7.27m)に拡幅され,現在の道になった。
   坂の付近に,稲荷社があったのが坂名の由来である。
   昭和60年3月                              大田区


■あすなろ児童公園

 北千束3丁目2番9号にある区立公園。


■千束児童遊園

 北千束3丁目16番1号にある区立公園。


■馬頭観音供養塔 
移転
 北千束3丁目22番10号の角地にあったが、平成13年3月に南千束2丁目2番、洗足池東の妙福
寺に移された。

   大田区文化財
   
馬頭観音供養塔
   高さ 134cm。天保十一年(1840)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている村
   民達が、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てたものである。
   また道しるべを兼ねており、塔の台石の四面に「北 堀之内 碑文谷道」「南 池上 大
   師道」「東 江戸 中延」「西 丸子 稲毛」と刻まれ、この銘文によって、もと中原街
   道の路傍に建てられていたものではないかと推定される。
   その意味から、江戸後期の民間信仰、道路交通の様相を示すものとして価値がある。
   昭和49年2月2日指定                     大田区教育委員会
 


■千束西児童公園

 北千束3丁目24番16号にある区立公園。


■大岡山駅
(初の総合病院付駅舎)
 北千束3丁目27番にある東急大井町線・目黒線の停車場。大正12年3月11日目黒蒲田電鉄が
目黒~丸子(沼部駅)間を開業させた時にできた。昭和2年7月6日には大井町線の大井町~大岡山
間が開業。同4年12月25日には大岡山~自由が丘間が開業し大井町線が全通した(自由が丘~二
子玉川間は同年11月1日開業)。地下化は平成9年6月27日に完了している。
 ホームは地下1階にあり、島式2面4線構造。外側の1・4番線を目黒線が使用し、内側の2・3
番線を大井町線が使用。目黒線ホームにはホームドアが設置されている。エレベーターは完備。ホー
ム西端には乗換専用階段がある。
 改札口・出口は正面口と東口(旧東急病院口)の2ヶ所で、1階にある。いずれの改札も東寄りに
あるので、当駅下車の場合は目黒線なら目黒寄り、大井町線なら大井町寄りの車両に乗ったほうがい
いそうだ。
 平成19年11月3日駅の真上に、以前は駅近くにあった東急病院が移転してきた。これまでも、
駅ビルの中などに小さな診療所がある例はあったが、総合病院が駅に併設されるのは全国初だ。駅の
正面口改札を抜けるとすぐ左側に東急病院のエントランスがあり、雨の日でも傘を差さずに病院に入
ることが可能。またコイルバネを用いた振動防止装置が設置されているため、電車の揺れが病院まで
伝わることはないという噂だ!。
 新駅舎の外壁には蔦が這わせてあり、街の緑化とヒートアイランド現象緩和に貢献している。今は
まだ茂っていないが、数年も経てば青々とした葉っぱで覆い尽くされるぞ。嘗て旧駅舎の2階にはT
SUTAYAが入居していたが、東急病院建設のため平成18年5月17日限りで閉店した。
 

 



【北馬込】(きたまごめ)1~2丁目               昭和40年11月15日
 馬込村。昭和7年大森区の成立により馬込東1~4丁目・馬込西1~4丁目・北千束・南千束に
分かれた。同40年新住居表示により馬込西4丁目・馬込東4丁目の各一部をあわせた町域を現行
の「北馬込」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 
北馬込の由来
 町名は馬込地区の北部の意。馬込については【馬込】を参照されたい。
 


■北馬込第わくわく公園

 北馬込1丁目7番9号にある区立公園。


■夫婦坂

 北馬込1丁目12と13番から南に下り、環七通りを越え五差路間での坂道。
その向かい合う様子
を夫婦に譬えてて
めおとざか」と呼ぶようになったといわれている。昭和初期までは、今よりも道
幅も狭く曲った坂道だった。またこの頃までの
夫婦坂は、間を通る環状七号線もまだ開通せず、急な
坂道で竹藪、雑木林などに囲まれ、昼なお暗く寂しい坂道だった。なお、この道は品川道に通じてい
た。品川道は、東は大井を通って品川へ、西は中原街道へ通じた古い道だ。環七通りの夫婦坂交差点
は有名だ。谷を横切る坂は「薬研坂」、坂下が平だと「鍋坂」という。

   夫婦坂 めおとざか
   この坂は、北馬込1丁目品川境から、環七通りを挟んで上池台4丁目地先に連なる坂で、
   その向い合うさまを夫婦にたとえてよぶようになったといわれている。
   昭和59年3月                              大田区
 


■馬込第三小学校

 北馬込1丁目28番1号にある区立校。
昭和15年「東京府東京市馬込第三尋常小学校」として開
校。12学級・児童数706名でスタート。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市
馬込第三国民学校」と改称。日米開戦。同18年都制施行により「東京都馬込第三国民学校」と改称。
同19年静岡県に第一次学童集団疎開(3年生以上)。同20年富山県に第二次学童集団疎開(全学
年)。静岡県に疎開中の児童を岩手県・富山県の両県へ再疎開。日本敗戦により疎開解除。学童帰校・
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都大田区立馬込第三小学校」と
改称。同25年創立10周年記念式典。校歌制定。

 校歌
「幼年の日をおくる」 作詞・室生犀星  作曲・不詳
  1.幼年の日をおくる
    まなびや馬込第三
    幼年を日よしずまれ
    みどり野に永くとどまれ
  2.そのかみの貝塚よ
    そのかみはわたつみ
    古は 魚
(いお)あつまり
    魚もうたいけん
  3.我等何をしるすべき
    我等何を学ぶべき
    我等の往くところ
    師よみちびきをあたえてよ

 同29年北側隣接地1017.68坪を購入。同36年体育館兼講堂落成。同38年防音塀竣工。
同40年プール完成。同63年南校舎教室冷房化。
 平成2年創立50周年記念式典。「いおの森」完成。幼稚園跡を特別室として改修。

 同3年プール改築。同4年夜間照明設置。校庭改修。同8年図書室・第二音楽室・会議室改修、北
校舎屋上防水工事。北校舎照明増設。視聴覚教室にパソコン設置。同9年浄化槽撤去・下水本管接続
擁壁補強、陥没部分改修、鉄部・門扉塗装、校庭改修。機械警備システム導入。同10年校庭に樹木
植栽(900本)。勉強机・椅子のスチール化。同11年校舎耐震化。同12年開校60周年記念式
典。資料室「いおの部屋」設置。同13年室生犀星の離れ、「いおの森」に移築。同16年「馬込イ
チ・ニ・サンの運動会」開催。同17年開校65周年記念式典。同20年プールサイド改修。特別支
援学級「すばる」開級(情緒・通級)。同21年開校70周年記念式典。

 
校歌碑(室生犀星碑)
 東南側の門を入った左手にある校歌を刻んだ石碑。

 
「いおの森」碑
 校歌碑の手前にある。平成2年に建てられた。「いお」は校歌にある「魚(いお)」から名付けら
れた。

 
室生犀星家の茶室(いおの部屋)
 「いおの森」に移築されている離れ(茶室)は、昭和8年に室生家母屋の東隅に建てられたもの。
親交のあった竹村俊朗の他、親しい多くの友人や金沢の客を泊めたりした。
 この離れ(茶室)は、昭和46年に世田谷区奥沢に移築され、平成13年に地元の協力を得てここ
に再移築され、茶道教室として使用されている。
 


■北馬込第わんぱく児童公園

 北馬込2丁目4番13号にある区立公園。


金光山宗福寺
 北馬込2丁目5番5号にある曹洞宗系単立寺院。天永源堯和尚が天正年間に開山したと伝えら
れる。正面に本堂、右手に庫裏、左手と右手庫裏の奥は墓地となっている。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   境内年貢地一畝二歩。村の北の方にあり。曹洞宗万福寺末なり。金峰山と号す。開山は天
   永源堯和尚天正四年正月二十日示寂。又一の傳へに村内八幡の別当泉生寺の開山、源堯当
   寺を開闢せりと。されどかの源堯は承応二年正月二十日寂すといへば、自ら別の人なるべ
   し。たまたま名の似たると示寂の月日の同きによりて、かかる説も起りしならん。本尊阿
   弥陀如来客殿に安ず。

 とある。境内に地蔵菩薩(登志子地蔵)と聖観音の立像が立ち、左側に聖観音の坐像、右側に庚申
道標がある。


   登志子地蔵
   昭和十年五月二十八日夕方六時頃のことでした。その日は八幡様の御祭礼で朝からお母さ
   んとお参りに行く約束を楽しみにしていた登志子ちゃんが(当時十才)今か今かと自宅前
   でお母さんの支度のできるのを待ちわびていました。
   その時、登志子ちゃんの前を一人のお兄さんが通りかかったのです。そのお兄さんは登志
   子ちゃんの目の前でタバコを落とし、そのまま通り過ぎていきました。それを見た登志子
   ちゃんが「お兄さんタバコ落としたよ」と親切に拾い上げ手渡すと「ありがとう」と受け
   取り、その御礼にと言葉巧みに登志子ちゃんを八幡様に誘ったのでした。楽しみにしてい
   たお出かけなのでためらいながらも、お兄さんの誘いについていったしまいました。登志
   子ちゃんは、境内の出店や見世物小屋をすっかり楽しみました。ふと黙って出かけてしま
   いお母さんが心配していることを思い出しました。「お母さんが心配しているので帰りた
   い」と言うとお兄さんは家へと送ってくれたのでした。しかしそれは家への方向ではなく
   て人気のない植木畑へと向かっていったのです。植木畑へ来ると今まで優しかったお兄さ
   んが、突然登志子ちゃんを抱きかかえると畑の中へ連れ込んだのでした。そして抵抗する
   登志子ちゃんに乱暴したのち殺害したのです。それは夜の七時三〇分を過ぎた頃でした。
   変わり果てた姿で登志子ちゃんが発見されたのは二日後の五月三十日の事でした。犯人逮
   捕に向けて宗福寺に捜査本部が設置され必死の捜査が展開されました。
    そして犯人が逮捕されたのは登志子ちゃん殺害から二十四日目の事でした。この信じ難
   い残酷な事件に対し、被害者の家族は勿論の事、地域の人々が心を一つにして二度とこの
   ような事件が繰り返さないとの思いを込め、そして登志子ちゃんの御霊が永久にお地蔵様
   の化身となって、世の中の子供達を守って下さることを願い、宗福寺の境内に登志子地蔵
   として建立されたのです。
    今日も登志子地蔵は、子供達を優しい眼差しで見守ってくれています。     合掌
                                    馬込子まもり会


 八幡様とは、宗福寺から田無道を南に8、900m下った馬込村総鎮守の八幡神社だ。

 
庚申塔
 寺郷谷(宗福寺の裏側付近)の人々が、上池台辺りの旧道に建てた道標だ。銘文は、右面「右 品
川三十丁 石工甚五郎」、正面、青面金剛像 「池上江十八丁 新田江一里」、左面「めぐろへ さ
る丁へ壱り」だ。


■北馬込寺郷公園

 北馬込2丁目14番7号にある区立公園。


■馬込天祖神社

 北馬込2丁目28番13号にある。馬込村の総社「馬込八幡神社」から1km以内の範囲にある。
池上道より臼田坂を荏原方向に向かう、第2京浜国道、新幹線(旧品鶴線)を越えて環七新馬込橋際
の右手だ。
昔この当りは三本松と呼ばれていた。神社の創建年代は不明だが、江戸後期で伊勢神宮と
親しまれ、明治初めの神仏分離令で天祖神社に改めさせられたという。
 狛犬の台座に「紀元二千六百年記念」と刻してあるが、狛犬そのものは江戸末期から明治時代のも
のではという意見がある。昭和15年に修復したんじゃないの?
 


■馬込駅

 北馬込2丁目31番9号にある都営地下鉄浅草線の停車場。昭和43年11月15日の浅草線(当
時は都営一号線)西馬込~泉岳寺間開業時に設けられた。この区間の開業によって、浅草線は全通し
た。
 ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターはある。
 改札口は2ヶ所で、いずれも地下1階にある。出口はA1~A3の3ヶ所で、地上へ出られるエレ
ベーターは平成22年5月22日にA3出口に設置された。
 かつて押上寄りの改札前には、浅草線で活躍する都営5300形電車の形をした書棚があり、「浅
草線馬込文庫」として利用されていたが、いつの間にかなくなってしまった。電車の形を模した駅文
庫は、千代田線の根津駅にもあった。

 
「星雲」
 A1出口を出て、環七通りへ降りる階段の途中の横にある三枝惣太郎の裸婦彫刻。
  


■天沼児童公園

 北馬込2丁目36番13にある区立公園。


■馬込三本松児童公園

 北馬込2丁目38番6号にある区立公園。




【北嶺町】(きたみねまち)                     昭和45年3月1日
 峰村→嶺村(『新編武蔵風土記』)。明応年間に鵜ノ木開拓より少し遅れて原田某が長久保某と共
に開村した。子孫は現存している。嶺村の範囲は、現在の北嶺町・東嶺町・西嶺町のほか鵜の木・
下丸子・田園調布本町・田園調布南・南雪谷・久が原・南久が原に及んだ。昭和45年調布嶺町1
丁目の4分の1に、雪ヶ谷町・道々橋町・久ヶ原町の各極一部をあわせた町域を現行の北嶺町とし
た。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 北嶺町の由来
 町名は嶺町の北部の意、北嶺という高台がある訳ではない。嶺は多摩川北岸の国分寺崖線の高地
をいったものだろう。町内に御嶽山駅があるが、ここが嶺だという山も高みもない。しかし田園調
布本町や田園調布南よりは高い。
 


■御獄山駅

 北嶺町3番1号にある東急池上線の停車場。大正12年5月4日蒲田から延伸してきた池上電気鉄
道が池上~雪ヶ谷間を開業させた時にできた。開業当時は「御嶽山前駅」と名乗っていたが、昭和8
年 に現在の駅名になった。
 ホームは地上相対式2面2線構造。上下ホームは完全分離されていて行き来ができないが、トイレ
は2番線側にしかないので注意が必要。駅長事務室も2番線側の駅舎にある。
 改札口・出口はホームごとに設けられており、いずれも五反田寄りにある。
 ホームの蒲田寄りでは、堀割内を走る東海道新幹線と横須賀線を跨いでおり、金網越しに見下ろす
ことができる。新幹線の線路を跨ぐ位置にホームがある駅は、ここの他は長野新幹線の佐久平駅くら
いだ。駅名の「御嶽山」とは山の名前ではなく、駅の近くにある「御嶽神社」のこと。また平成15
年に都立高校として3度目の夏の甲子園出場を果たした都立雪谷高校の最寄り駅でもある。
 


■北馬込第わくわく公園

 北嶺町3番22号にある区立公園。


■かにくぼ公園

 北嶺町17番13号にある区立公園。日時計がある。蟹久保はこの付近の小名。緩い傾斜地を活か
した、3つのエリアから構成されている公園。道路沿いの桜並木、中央のベンチにはブドウ棚、階段
を上った先にはキウイ棚、リンゴの樹がある。また親水施設ある。噴水の中央に蛙像がある。


■題目講中逆修供養塔
 
北嶺町
34番3号の本覚寺門前の左側にある石塔。村内の題目講中が、講員の逆修供養のために寛
文七年(1667)に建てたものだ。
 
 

性光山本覚寺

 北嶺町34番3号にある日蓮宗の寺。寺伝によれば、寛永十六年(1639)に入寂した開山の本
覚阿闍梨日立は村内にある本立寺の住職だったが、高齢となったため、一庵を設け、ここに隠居した。
この庵が寺になったのは、元和二年(1616)のこと。なお本立寺はのちに廃寺となり、本覚寺に
合併された。

 ●花の寺
 境内の広さは約2650㎡、入口付近に大きなサクラの木が固まっており、鬱蒼としている。ウメ、
ボタン、ツツジ、ザクロ、サルスベリなどの花木があり、よく手入れの行き届いた庭園となっている。
春から秋まで花が絶えることのない寺だ。


■御嶽神社

 
北嶺町37番20号にある。創祀は、嶺村(現嶺町地区)ができた天文四年(1535)頃と謂わ
れる。当時は小社であり祠に近いものであったと推察されるが、天保の頃(1830~44)に、一
山行者が木曾御嶽山で修行中に、神のお告げを聞き、ここに木曾御嶽神社の分社を祀った。以来関東
の第一分社として栄えた。一山行者は当社に高さ4mもの小山を築き、人造御嶽を設けたので、信者
たちはここに集まり、木曾まで行けない者はこの小山に登って信仰を現わし、大変な賑わいを呈した
という。またこの人造御嶽は、江戸周辺における唯一の遺存例でもある。信者の中には江戸の豪商な
ども多くあり、かなりの寄進がされたようだ。関東一円から木曾御嶽山を信仰する信者たちが多数訪
れ、その勢いは江戸、明治、大正、昭和、平成へと続いた。

   
嶺の御嶽神社に三度参拝すれば、木曾御嶽山へ一回行ったのと同じ

 といわれていたようだ。第二次大戦後は、木曾御嶽山の信者数全体が減少傾向にあるが、現在でも
猶、講社が団体で定期的に参拝に来ている。一方、六地区の氏子地域を持ち奉賛会も組織されている
ことから、地元氏子にも大きく支えられ祭礼も年々盛大になっている。また、20年に一度、本山へ
神輿を運んで担ぐ式年祭も執行されている(平成23年8月が第2回目)。
 社殿は天保二年(1831)に落成し、社殿の側面と裏面の壁部には、宮大工藤原篤意の制作にな
る。和漢の故事や、物語にちなむ精巧を極めた彫刻が施されている。また殿内には主として明治期の
多数の絵馬が奉納されており、御嶽講の往時の隆盛の様が偲ばれる。
 神社境内地奥には「霊神の杜」と名付けられた鎮守の森があり、霊神碑と共に神域になっている。
森の植樹には横浜国立大学名誉教授宮脇昭が監修した。中央に鎮座する本殿は大田区の文化財であり
殊に壁面の彫刻は圧巻。また、樹齢四百年の黒松が「夫婦松」として崇敬を集めている。その他様々
な名所が境内地に点在し、商店街の中とは思えない静謐な空間を作り出している。

 「新編武蔵風土記稿」の嶺村の項に、

   御嶽社
   見捨地四畝、これも村の北にあり。小祠なり。

 とある。

 
一山行者(いっさんぎょうじゃ)
 俗名を治兵衛といい、相模国津久井村の出身で、与野(埼玉県)の井原家に婿入りしたが、『下化
衆生』の本願を叶えようと井原家を離れて同地の円乗院で僧となる。仏門修行の後、諸国を行脚し、
三峯の修験道の道場を訪れ、また覚円峯に行き、仙峨の滝で心身を清め、木曽駒ヶ岳を経て木曾の御
嶽に入った。大滝口より清滝に至り、柴の庵を結び不動滝で寒30日の水行などをした。その後、修
験者として木曾の御嶽に入り水行などをして修行に励み、高名な行者となった。

 
社号碑
 でっかい石の板だ。

   
御嶽神社

 
社殿彫刻
 社殿は天保二年(1831)の建築で、周囲の木彫も同時代に、藤原篤意(とくおき)によって制
作された。本殿の背面、側面には浦島太郎・養老の滝・司馬温公甕割り・など和漢の物語、故事に因
んだ彫刻が施され、柱間、縦約160cm、横約130cmの刻面を有する。作者藤原篤意について
は詳かでないが、極めて精妙功緻な作品として美術的にも注目される。大田区指定有形文化財 昭和
49年2月2日に指定された。

 
水行堂
 社殿前左手にある。木造鉄板葺、切妻造り。御嶽神社の信徒が水行をするため、明治時代に建てら
れたものだが詳しい年代は不明。神仏分離以後の神社建築だが、花頭窓など仏教的様式が取り入れら
れ、興味ある建築様式を示し、神仏混淆的な御嶽講固有の水行堂として価値がある。

 
延命地蔵
 水行堂の右にある。昭和13年7月5日阪神大水害の時、兵庫県西宮市の夙川の土手にあった地蔵
の傍らで数人の女の子が助かった。
中でも、我子の命を救ってくれたことに感謝した前田某が、荒れ
果てた土手から地蔵を引き取り、区内千鳥町に移住。その後、前田ハルエから世話を引き継いだ岡町
僖子により、平成9年6月当地に安置された。以来『延命地蔵』として人々に親しまれている。

 
獄宗霊神・獄次霊神
 社殿裏の「霊神の杜」にある胸像と石碑群。無慮30基ばかりある。

 
渡辺菊太郎像
 碑群の左端にある。御嶽教の初代管長。明治38年。

 
境内社
 一山霊神・大鳥神社・三嶽稲荷神社。

   
一山霊神事績
   一山神社のご祭神は一山(イッサン)霊神。俗名は治兵衛、神奈川県津久井村の出番で、
   埼玉県与野に移り、井原家に婿入りしたが、「下化衆生」の本願を叶えようと井原家を離
   れて同地の円乗院で僧となる。仏門修行の後諸国を行脚し三峯の修験道の道場を訪れ、ま
   た覚円峯に行き仙峨の滝で心身を清め、木曽駒ヶ岳を経て木曾の御嶽に入った。一山行者
   は大滝口より清滝に至り、柴の庵を結び不動滝で寒三十日の水行などをした。ある夜ふと
   夢を見た。御嶽三社の大神達が現れて『早々下山し世間大衆の苦悩を救え、幸い汝に因縁
   の地あり、都を去る三里』と述べた。一山行行者は山を降り江戸へ向かう。そして御嶽の
   神々の教えを広めながら近郷近在を歩いているうちに、武州荏原郡嶺村に来て、御嶽の小
   社を発見『これぞ木曽御嶽の大神の示現したところ・・・』とこの地に庵を結ぶ。付近の
   人は一山行者を『偉い行者』と崇め信者も増え、進徳講話、参詣聴聞などを行い確固たる
   地盤を築くに至った。天保二年(1831)社殿を新築し、布教怠を続けたが、嘉永四年
   (1851)12月20日、神田見富家の隠宅で没す。行年は定かでない。
   一山御歌
   無の上に浮きて楽しむ心こそ誠の道の宝なりけり(一山行者)
                                  宗教法人 御嶽神社
                                  東 京 嶺 一 山 講

 
杜の霊神水
 社殿右奥にある。

   杜の霊神水
   元来ここは一山行者が水行をしていたといわれる古井戸でしたが、長く参拝者から顧みら
   れない状態が続き、年月だけが過ぎていきました。そこで東京嶺一山講・講元(長久保純
   一氏)を始め氏子総代の協力により、平成20年7月「杜の霊神水」として新たに蘇りま
   した。
   神社の杜から生まれ、神社の杜を守る神霊の水。一山霊神の「みたま」のちからにより、
   人と自然が一つに成れる場所、それが「杜の霊神水」です。
   平成20年7月吉日                           御嶽神社
 


■行方不明加藤菜緒 伊豆仁科峠で遺体発見

 
北嶺町42番12号テラスマウンテントップの住人加藤菜緒(26歳)が、平成29年8月27日
伊豆山中仁科峠付近で遺体で発見された。同10日警察に相談、同19日行方不明。24日交際相手
を事情聴取。翌日交際相手の男(44歳)が、広島の実家で自殺。




【久が原】(くがはら)1~6丁目                  昭和43年9月1日
 木ヶ原。「馬込領久河原」と「六郷領久川原」があり、江戸初期に馬込領久河原は「馬込領久ヶ
原村」と呼ばれたが、中期以降は六郷領久川原も「六郷領久ヶ原村」と呼称するようになった。明
治5年一つの久ヶ原村になり、同22年「市制町村制」により池上村大字久ヶ原、大正15年池上
町大字久ヶ原。昭和7年大森区が成立して久ヶ原町、同22年大田区に所属。一貫して町域に変化
はなかったが、同43年新住居表示で初めて久ヶ原町の大部分に道々橋町・調布嶺町1丁目・調布
千鳥町をあわせた町域を現行の「久が原」とし、一部を南久ヶ原・池上・千鳥・南雪谷・東嶺町・
北嶺町に譲った。この時に「ヶ」を「が」に改字。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『大田区史』『大田区の歴史』など。

 
久が原の由来
 森や林の続いた比較的平坦な台地で古代人の生活の跡が残る。大森よりはジャングルではなかっ
たのだろう。「くがはら」の「く」の意味は判らないが、柳田邦男は一般的に「き」は立ち木、生
木のことで「く」は「薪(まき・たきぎ)」となったものだという。とすれば「木が原」の訛った
もので、「薪の採取地」の意ではなかろうか。紀州は紀伊の国で、紀伊半島が吉野熊野の原生林を
擁して「木の国」であることに由来する。久が原には25000年も前の遺跡があり、以後の遺跡
も次々発見され、遠い昔から人が住める環境にあったことからすると燃料の供給地であっても不思
議はない。
 


■道々橋のぞみ児童公園

 久が原1丁目2番17号にある区立公園。


■道々橋八幡神社

 久が原1丁目7番9号にある。神社前の道は、古道で「鵜ノ木・新田道」や「丸子道」と呼ばれた。
左に行くと「筏道」と合流して光明寺、丸子の渡しに行き着く。右に行くと急坂を下り、「道々橋」
を渡り二股道に出る。二股の左は嶺道で久品仏に行く都立荏原病院前のバス通りだ。右は「猿坂」を
登り夫婦坂を越えて荏原町、中原街道に行ける「目黒道(池上道)」だ。池上方向に行くと「子安八
幡神社」「林昌寺」を経て第二京浜国道(国道1号線)に出る。渡って行くと本門寺総門に行き着く、
ここが「目黒道」の起点である。江戸からある古い脇道。江戸時代には幕府領であり、東海道品川宿
の助郷や品川東海寺の火消し人足を負担していた。社殿は昭和35年の建造。この八幡様は村の鎮守
として正保年間(1644~47)の創建、狛犬の首に注連飾りをかけている。
 道々橋村は「大森区史」に

   池上村の小名宿の辺り、および本門寺の背後、馬込村内にヶカ所の飛地がある

 とあり、本門寺背後とは「道々女木」のことであるらしい、おそらくここの塚上にあった観音像が
第二京浜国道工事で移動して、西馬込駅西口近くで夢吉観音として奉安されている。
 


■道々橋まほろば児童公園

 久が原1丁目7番9号にある区立公園。


■松仙小学校

 久が原1丁目11番1号にある区立校。沿革不明。緑が多く評判の良い学校。

 校歌
「晴れ渡る」 作詞・古関吉雄  作曲・岡本敏明
  1.晴れ渡る丘の空
    広く豊かに薄雲は
    乗せて飛ぶよ 乗せて飛ぶよ
    嗚呼遥かな憧れを
  2.爽やかな風に舞う
    小鳥楽しく声合わせ
    讃え歌う 讃え歌う
    嗚呼萌え立つ若い芽を
  3.足軽く行く道に
    希望輝き喜びは
    花と開く 花と開く
    嗚呼松仙小学校


 
校名の由来
 昔、学校の西側が「老松」、東側が「庄仙」という字名だったことから、喧嘩のないように、両方
から一字づつを採って「松仙」とした。「松」は長生きで一年中色を変えない常緑樹、「仙」は優れ
た人を表す。「松仙」という名前には、子供たちが健康な心を持って立派な人になるようにという願
いが込められている。
 


■雪谷高等学校

 久が原1丁目14番1号にある都立校。大正2年実業学校令により、調布村大字下沼部1205番
地の調布尋常高等小学校に「東京府荘原郡調布村立調布女子実業補習学校」として併設開校。同15
年「東京府荏原郡調布村立調布女子公民学校」と改称。昭和3年町制施行により「東京府荏原郡調布
女子実業補習学校」と改称。同7年荏原郡の東京市併呑により「東京府東京市大森区東調布女子公民
学校」と改称(大森区田園調布1丁目1205番地)。同9年甲種程度実業学校に昇格し「東京府東
京市大森区東調布実科学校」と改称。同10年甲種実業学校に昇格し「東京府東京市東調布高等家政
女学校」と改称。東京市東調布第一尋常高等小学校に併設(大森区田園調布1丁目1205番地)。
同16年東京市大森区雪ヶ谷町823番地の独立校舎に移転。「東京市大森高等家政女学校」と改称。
12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都立大森高等家政女学校」と改称(4年制・12学
級)。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。「東京都調布大塚国民
学校」へ移転。11月「東京都東調布第一国民学校」へ移転。日本敗戦。
 同21年「東京都立雪谷高等女学校」と改称。同22年「東京都立雪谷高等女学校併設中学校を開
校併設(2、3年のみ)。久ヶ原町1200番地に独立校舎落成して移転(開校記念日)。同23年
「東京都立雪谷新制高等学校」と改称(中三4学級、高一4学級、高二2学級)。同24年東京都立
雪谷新制高等学校併設中学校を廃止。旧制高女5年生卒業式(旧制高女最終回)。男女共学実施(男
子50名、女子300名)。同25年「東京都立雪谷高等学校」と改称。新制高校第1回卒業式(女
子50名)。募集定員変更(男子150名、女子200名)。同27年新築校舎管理棟竣工。同29
年校内食堂開設。校歌制定

 校歌
武蔵野の雪作詞・工藤武富教諭  作曲・玉井光広教諭
  1.武蔵野の雪澄むはたて
    青空に 青空に
    聳ゆる富士の嶺望みつつ
    理想に燃ゆる若人の
    築く誠に揺るぎなし
    心と心 輪となりて
    この世に光 招かなん
    雪谷 雪谷 吾等の母校
    その名と常に清くあれ
  2.わだつみの潮鳴るきわみ
    青葉燃ゆ 青葉燃ゆ
    多摩の岡辺に集いつつ
    真理に照らし培える
    知恵の二葉の輝かし
    若き日の血に汗たりて
    人の上に幸もたらさん
    雪谷 雪谷 吾等の母校
    その名と常に新たなれ
  3.明け渡る都の南
    久が原に 久が原に
    秀ずる伝統仰ぎつつ
    寄せくる文化の波幾重
    統べる日本の使命承く
    友いざ共に学びつぎ
    行く手に希望の火をあげん
    雪谷 雪谷 吾等の母校
    その名と常に栄あれ


 同29年図書館完成。体育館兼講堂完成。同30年創立20周年記念式典。同31年改増築新校舎
落成。同32年募集定員変更(男子1学級増加募集・男子200名、女子200名)。同33年プー
ル完成。同34年鉄筋校舎(第1期)落成。同35年鉄筋校舎(第2期)落成して落成式典。同36
年生徒クラブ活動センター竣工。同38年鉄筋校舎増築(特別教室4)落成。同39年ニューヨーク
市テォドルルーズベルト高等学校と姉妹校提携。情操教育の徹底を図り、庭園作りに努め多大の成果
を収めた故を以て社団法人善行会より表彰を受ける。同40年創立30周年記念式典。同41年北運
動場撒水装置(スプリンクラー)設置。同48年鉄筋校舎(第1期)落成。同49年鉄筋校舎(第2
期)落成(給食室・食堂1階建、クラブ室3階建て、校舎4階建て、変電室)。同56年新化学教室
・ホール落成。同58年臨時増学級により新1年10学級。体育館完成。創立70周年記念式典。同
60年北校舎空調(1階・2階)取付。
 平成元年臨時増学級の解消により新1年9学級。同5年創立80周年記念式典。同7年仮設校舎竣
工、旧校舎解体。同7年新校舎落成。同10年運動場、テニスコート完成。同12年初めて推薦に基
づく選抜(男子25名、女子22名)を実施。同14年体育館照明設備を昇降式に改修。同15年硬
式野球部東東京大会優勝。第85回全国高校野球選手権出場(対PL学園)。創立90周年記念講演
会(須田哲夫・相原健志)。同16年創立90周年記念式典。同20年文化・スポーツ等特別推薦に
基づく選抜(野球 男子3名)を初めて実施。
 


■松仙さくら児童公園

 久が原1丁目25番6号にある区立公園。


長照山樹林寺
 
 久が原2丁目1番25号にある日蓮宗の寺。開山の詮了院日義は、寛文五年(1628)に示寂し
ており、それ以前の創建だ。寺伝によればこの土地(道々橋村)で営業していた綿屋の娘が将軍の側
室付の腰元となり、娘の母が側室にお願いして寺が創建されたと伝えられている。寛文十二年(167
2)に彩色を施したことを銘記する古い日蓮聖人の坐像がある。境内にはシダレザクラを始め、約2
0本のサクラがあり、花が盛りを迎える4月初めは壮観だよ。
 「新編武蔵風土記稿」道々橋村の項に、

   樹林寺
   除地三畝十二歩、村の中央にあり、法華宗身延久遠寺末、長照山と號す、開山詮了院日義
   寛永五年十二月二十四日示寂す、客殿五間四方本尊三寶祖師を安ず、門柱間九尺南に向ふ。