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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

平成17年2月11日発信   リンクフリー
地名の由来 東京23区辞典 引用自由

 
  日本人の、日本人による、日本人のための日本
江戸川区の地名の由来
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江戸川区の地形
 江戸川区は、区内全域が東京低地となっており、中川・江戸川など河川の氾濫や蛇行によって形成
された氾濫低地と、東京湾を由来とする海成の海岸低地とに分類される。大まかにいえば、区の北部
に氾濫低地が、南部に海岸低地が分布していると考えられるが、明確な地形的境界はなく、混在して
いる。またこれら低地には、河川の蛇行や氾濫の痕跡を示すように、砂分を主体とする微高地(自然
堤防)が分散している。
 


■地形・地質と住宅地盤

 
氾濫低地
  荒川や江戸川流域に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、軟弱な粘土やシル
ト(泥地)が厚く分布しているため、長期的な沈下(圧密沈下)が問題になっている場所が多く、適
切な基礎補強策が必要となる。区北部の低地。中古には区全体が海か低湿地で、北から段々に南へ陸
地化していった。北部には早くから人が住んでいたが、南は中世以降に、本格的に開発が始まったの
は江戸時代以降で、それでも人口は数えられるほどだった。急激に発展したのは、昭和50年代以降
で、極最近のことなのだ。
 

 
自然堤防
 周囲の氾濫低地や海岸低地と比べ海抜高度がわずかに高く、一般に河川に沿って帯状に分布してい
る。河川によって運搬された砂や砂礫が浅い深度から分布しているため、住宅地盤としては、比較的
良好な場合も多い。しかし、度重なる河川の氾濫と蛇行によって運ばれた軟弱な粘性土や緩い砂が、
自然堤防の上に新たに堆積している場合には、基礎補強対策が必要となることがある。中古には区全
体が海か低湿地で、北から段々に南へ陸地化していった。
 

 
海岸低地
 東京湾沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、上部には緩い砂や軟弱なシ
ルトなどが分布しているため、標準的な基礎では、十分な耐力を確保することが困難であり、適切な
基礎補強策が必要となる。区南部の低地。葛西浦という海だったところの埋め立てで、臨海地区はつ
い最近の造成地だ。
 


■都県境未定地

  東京都と千葉県の間に境界が定まっていない箇所が2ヶ所ある。
 ①.江戸川区と浦安市の間の 旧江戸川河口舞浜大橋以南の海面
 ②.江戸川区と市川市の間の旧江戸川の江戸川大橋と江戸川 区スポーツランド東南の水
   面間の境界(ここには市川市側から突き出した岬が含まれる)

 の話し合いがつかない。②の岬部分は「河原番外地」と呼ばれ、地図によっては江戸川区東篠崎と
なっている。境界未定地に人家はなく、存在するのは野球場と江戸川河川事務所だ。ところが「江戸
川河川事務所・江戸川河口出張所」の所在地は「江戸川区東篠崎」、市外局番も東京03。明らかに
市川市側にあるのだが・・・ 一方野球場の方は市川市が整備および管理しているからややこしい。
 何故この問題が生じたかというと、江戸川があまりに氾濫するので放水路を開鑿することになり、
放水路を拵えたのだが、その時旧水路を西側に少しずらした。つまり東京都側の陸地を削ったのだ。
川が二股になったため川が運んでくる土砂がだんだんに蓄積され境界辺りに中洲ができ、市川市側の
陸地とくっついた。そこが東京都の主張で、「境界線以西の砂州は都のものだ」という。千葉県側は
「境界は川の中央、砂州全体が市川市のもの」との見解だ。見た目
 すっきりするのは千葉県側の言い分だが、そんなことで譲れないのが東京都だ。面積に権利は 付
いて回るからね。不法投棄を注意する看板は江戸川区が出している。
  ①については海面のため諸権利が錯綜して定められない。この辺りの陸地は江戸時代にはなかっ
たもので、漁業権さえなかった。海面の埋め立てによって問題が生じた
 



江戸川区の変遷

 
歴史

 古代は海の中、海退と太日川(江戸川)がもたらす土砂によって3000年ほど前から次第に陸地
化していった。遺跡から弥生時代頃には小岩辺りに人が住み始め、だんだんに南下している。江戸川
区内の地名が初めて歴史に現れるのは「正倉院文書」にある養老五年(721)の下総国葛飾郡の戸
籍に記された「甲和(こうわ)里」だ。これは現在の江戸川区小岩に当たるとされ、約50戸ほどの
郷里であったとある。しかしながら、当時は川、沼、池の錯綜する
 広大な湿地帯地域で、現在の区北部以外はほとんど居住者のいない場所だったと考えられる。後、
平安末期から鎌倉時代にかけて下総国の有力な豪族として勢力を誇っていた千葉氏の支配下として、
区内の地名がいくつか散見され、葛西氏の領地だったようだ。葛西氏が伊勢神宮に葛西33郷(ほぼ
葛飾区・江戸川区)を寄進したという記録があり、区内の地名が18ヶ所登場する。特に篠崎の地域
は葛西氏の領する葛西御厨の中心地として栄え、また今井(現在の江
 戸川区瑞江付近)・長島(同東葛西)は太日川河口の湊として賑わった。
 下って室町時代、後北条氏の影響が強くなってくる後期ごろには、江戸衆と呼ばれる江戸城代遠山
氏を中心とした家臣団の支配下に入り、区内の一部が太田氏や富永氏らの領地となっていた記録が残
る。永正六年(1509)連歌師の芝屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)は隅田川から沿岸伝いに
川舟でやってきて今井の浄興寺を訪ね、さらに江戸川を遡及して善養寺も訪ねたことを紀行文『東路
のつと』に書いている。
 徳川家康が江戸に入府すると、区内のほとんどは江戸からの距離の近さもあり、幕府の直轄領とさ
れた。新川が開鑿され、江戸川が物資搬入の幹線交通路となり、区内の開発が盛んに行われるように
なった。宇喜田を開いた宇田川喜平、一之江一円を開いた堀田(田島)図書、小岩を発展させた篠原
伊予らは区の功労者といえる。江戸初期における江戸川区内の石高は約15000石ほどで、区内の
至る所にあった湿地帯や中洲、砂地の埋め立てによる新田開発が進み、文政年間には20000石を
超えるまでに増加した。合わせて江戸期には漁業も盛んになったと伝わる。さて当時区の幹線道路は
佐倉道で、江戸川の小岩市川の渡し、中川の逆井の渡しは、大名行列も渡るし成田詣での参拝路でも
あったので大層繁盛した。区内の大半は手当たり次第の乱開発を防ぐため天領になっており、鷹場に
指定されていた。小松菜の命名者といわれる将軍吉宗は、実に76回も鷹狩をしていたという。江戸
が近いので江戸文化の影響を受けるのも早く、名主層の教養は相当に高かった。各地に寺子屋が開か
れ熱心に子弟の教育を行っている。それは師を讃えて建てる「筆塚」が非常に多く残っていることで
判る。
 

 
東京府

 現在の江戸川区の区域に入る江戸時代の36ヶ村(上小岩村・中小岩村・下小岩村・上小松村・下
小松村・東一之江村・西一之江村・新堀村・松本村・船堀村・二之江村・桑川村・長島村・東宇喜田
村・西宇喜田村・上平井村・中平井村・下平井村・逆井村・鹿骨村・笹ヶ崎村・前野村・伊勢屋村・
上鎌田村・下鎌田村・上今井村・下今井村・興宮村・東小松川村・西小松川村・本一色村・上一色村
・上篠崎村・下篠崎村・谷河内村)は、慶応四年(1868)桑山武蔵知県事に所属の後、翌明治2
年1月13日小菅県を経て、明治4年11月13日東京府に編入。同7年3月8日戸籍法による大区
小区制強化のため、自治権を奪われて第十一区に編入された。この大久保利通による専制強圧政治を
受けて全国の旧武士層が不満を爆発させて立ち上がり、自由民権運動が起こった。やがて大久保は独
裁の罪により国民の敵として正義の刃の下に斬殺されるが、突然に親玉を失った国家主義の内務官僚
は、驚天動地してなすところを知らず、慌てて「大区小区制」を撤回すると、同11年7月22日「郡
区町村編制令」を施行して南葛飾郡を復活した。同22年5月1日「郡区村編制法」を廃して「市制
町村制」を施行、36ヶ村は、小松川・平井・松江・船堀・葛西・瑞穂・一之江・鹿本・篠崎・小岩
の近代農村10ヶ村となリ、明治政府として初めて自治制を敷いた。
 大正2~3年の町村分合により瑞穂村+一之江村=瑞江村、小松川村+船堀村+平井村=小松川町
(一部を松江村・奥戸村に譲渡)が起立して1町6ヶ村となる。大正15年4月1日に松江村が、昭
和3年10月1日小岩村が町制移行して3町4ヶ村となり。同7年10月1日南葛飾郡が東京市に編
入されたことにより、3町4ヶ村は合併して江戸川区(127町)を成立させた。
 区名は千葉県との境約11kmを流れる一級河川「江戸川」から採用したが、第一案は「松江区」
だった。
 


 東京都
 昭和18年7月1日国家権力者たちは東京市の自治権が拡大して府の我儘横暴が行き届かなくなっ
たため、東京市の自治権を大幅削減するために東京市を廃して府に吸収、府を改めて都制を施行し、
都を内務省(自治省→総務省)直轄とした。
 同20年3月東京大空襲により、平井・小松川地区で1万戸焼失。同22年9月カスリーン台風で
2万戸が床上浸水。同24年9月のキティ台風、同33年9月の狩野川台風でも大きな被害発生。同
26年今井~東京駅間に都バス開通。同27年1月小松川高校で第1回成人式典。同32年葛西海岸
の堤防完成。同35年京葉国道(京葉道路)開通。同37年11月現庁舎落成。12月全国自治体に
先駆けてコンピューターを導入。同38年新中川放水路開通。
 同40年区歌制定。グリーンパレス(区民センター)落成。同41年「江戸川区総合開発基本計画に
関する答申」出る。同44年営団地下鉄(東京メトロ)東西線開通。同45年総合体育館落成・温水
プール設置。8月葛西地区ゴミ公害追放総決起大会開催。9月には道路を封鎖するなどの強行手段で
解決。同47年「成田新幹線区内通過絶対反対」を決議。計画は立ち消えに。同48年日本初の親水
公園である「古川親水公園」開園。同49年長野県穂高町(現安曇野市)と友好都市盟約締結。消費
者センター開設。
 同50年全国初の高齢者事業団(シルバー人材センター)設立。同51年第1回江戸川区民世論調
査を実施。穂高荘落成。区民納涼花火大会(江戸川花火大会)始める。同53年10月区の木クスノ
キ・区の花ツツジ制定。区民祭始める。同55年財団法人江戸川区環境促進事業団発足。区内初の特
別養護老人ホームなぎさ和楽苑落成。同56年山形県鶴岡市と友好都市盟約締結。スポーツセンター
落成。同57年スポーツランド落成。小松川境川親水公園一部開園。同58年総合文化センター落成
開館。総合リクレーション公園開園。都営新宿線船堀駅開業。同59年陸上競技場・プールガーデン
・野球場設置。
 同60年新長期計画スタート。小松川境川親水公園全線完成開園。同61年住民情報オンラインシ
ステム稼動。9月都営新宿線区内全駅開業。文化賞等を創設。同62年熟年しあわせ本部設置。首都
高速中央環状線開通。同63年オーストラリア・ゴスフォード市と姉妹都市盟約締結。JR京葉線「葛
西臨海公園駅」開業。新潟県塩沢町に区民の別荘「塩沢江戸川荘」落成。
 平成元年4月平成庭園・源心庵落成。臨海球技場、葛西臨海水族園オープン。水上バス、2階建て
バス運行。ホテルシーサイド江戸川落成。10月に区民をゴスフォード市に派遣。同2年野村国際交
流基金事業(野村・立井国際交流基金)スタート。すこやか住まい助成(現・住まいの改造助成)制
度開始。同3年小岩アーバンブラザ落成。新長島川親水公園完成。同4年JR小岩駅南口広場立体化
完成。同6年街づくり宅地資金貸付制度スタート。ゴスフォード市に姉妹都市記念庭園完成。同7年
明和橋・辰巳新橋・大杉橋の3橋が「全建賞」を受賞。同8年下水道100%達成に伴い、足立・葛
飾・江戸川3区下水道事業促進連盟解散。一之江境川親水公園全線完成。荒川河口橋開通。「葛西海
浜公園東・西なぎさ」が「日本の渚・百選」に選出。一人暮らしの熟年者等への配食サービス開始。
同9年女子ラクロス・ワールドカップ開催。東部フレンドホール。第17回緑の都市賞「内閣総理大
臣賞」受賞。地方自治法施行50周年記念「自治大臣表彰」受賞。
 同10年江戸川区幼児・児童・生徒健全育成推進本部を設置。人口(住民基本台帳)60万を超え
る(当時の全国区市町村で20番目)。「中小企業緊急特別対策資金融資」を開始。同11年タワー
ホール船堀(総合区民ホール)落成。。小松川さくらホール(小松川区民施設)落成。新川地下駐車
場完成。中里前区長が初の名誉区民に。同12年介護保険制度スタート。ボランティアセンター・子
育て相談センター開設。公式ホームページ開設。中央図書館オープン。同13年健全財政推進本部を
設置。ファミリーサポート事業開始。区立幼稚園でサポート保育開始。積極的な交通安全対策が評価
され「首都交通対策協議会会長賞」を受賞。同14年区内初の公設民営保育園2園開設。熟年者のた
めの「安心生活応援ネットワーク」開始。区内企業を支援する「景気対策特別資金融資」を実施。新
長期計画「えどがわ新世紀デザイン」策定。コミュニティプラザ一之江をオープン。小松川千本桜完
成。同15年町会などによるJR小岩駅周辺の防犯カメラ(60基)設置。障害者支援ハウス開設。保
健センター・保健相談所を「健康サポートセンター」に改称。中学校に学校選択制導入新たな放課後
児童健全育成・学童保育の場づ江戸川区安全・安心まちづくり運動大綱を策定くりとなる「すくすく
スクール」事業スタート。青少年を海外に派遣する「青少年の翼」事業開始。住民基本台帳ネットワ
ーク稼動。「証明書自動交付機」稼働。同16年4月スポーツ施設予約システム「トルン開始。小学
校に学校選択制導入。えどがわエコセンター開設。子育て相談センターを子ども家庭支援センターに
拡充。学童疎開60周年記念事業として「青少年の平和大使」派遣。口腔保健センター(にこにこ歯
科診療所)開設。江戸川総合人生大学開学。同17年すくすくスクール事業を区内全小学校で開始。
チャレンジ・ザ・ドリーム(中学生の職場体験)区内全中学校で開始。共育プラザオープン。区民6
6万人突破。同18年区施設への指定管理者制度導入。小・中学生の子ども医療費助成制度開始。同
19年小・中学生の子ども医療費助成制度通院医療費に拡大。コミュニティ会館など21施設の受付
業務を委託。区役所本庁舎耐震補強工事終了・前庭整備。安心生活センター開設。施設予約システム
「えどねっと」利用開始。第17回全国花のまちづくりコンクール「花のまちづくり大賞(農林水産
大臣賞)」受賞。区民67万人突破。リブコム国際賞で銀賞を受賞。スポーツ施設予約システム「ト
ルン」を「えどネット」に統合。
 同20年松江区民プラザ落成。小・中学生の子ども医療費助成制度中学生まで全額助成。葛西駅地
下駐輪場完成→全建賞受賞。資源とごみの新分別収集を開始。後期高齢者医療制度開始。篠崎文化プ
ラザ(篠崎公益複合施設・篠崎図書館)落成。えどがわ伝統工芸産学公プロジェクトがグッドデザイ
ン賞を受賞。江戸川区で海抜ゼロメートル世界都市サミットを開催。同21年JR小岩駅周辺地区ま
ちづくり基本構想を策定。環七シャトルバス(シャトル☆セブン)が本格運行開始。水辺のスポーツ
ガーデンオープン。さくらの家開設。葛西駅地下駐輪場が土木学会賞受賞→全国街路事業促進協議会
会長賞受賞。レンタサイクル事業開始。福祉作業所分室(ベリィソイズ)開設。すくすくスクール事
業が地域づくり総務大臣表彰を受賞。同22年ワーク・ライフ・バランス推進都市宣言。区民館など
6施設業務委託。区民68万人突破。一之江抹香亭オープン。中平井コミュニティ会館落成。子ども
未来館(篠崎子ども図書館)落成。総合体育館アーチェリー場開設。一之江境川親水公園沿線の景観
まちづくりが環境情報科学センター賞「計画・設計賞」を受賞。新川整備事業が都建賞を受賞。平井
駅南口広場地下機械式自転車駐車場整備事業が全建賞を受賞。東部図書館開設。同23年江戸川区景
観計画運用開始。一之江駅東口駐輪場完成。古着・古布リサイクル移動回収開始。長島桑川コミュニ
ティ会館落成。
 


 平成24年現在の町数は47。区役所は中央にある。地図を見ると猫の額ほどの町があちこち虫が
食ったように残っている。残念ながら住居表示は未だに鋭意進行中、諸条件が錯綜し一筋縄では終わ
らない状況。足立区の場合あまりに田舎過ぎて住居表示除外地区が45%もあったのに現在はほぼ完
了している。また区内に大学病院はもとより区民医療の中心となるメディカル・センターがなく他に
依存している現状。ディズニーランドのお陰で財政の潤う浦安市の方が行政の進展は著しい。


■文化施設
 この開発途上の区の区役所に区民サービスたる行政資料コーナーがまだない。郷土資料館の資料室
もおざなりでお粗末だし、博物館も美術館もない文化状況。図書館は7館あり、中央図書館は新しい
だけにスペースもあり素晴らしいのだが地域資料は哀れを留める。江戸の僻地でつい昨日までレンコ
ン畑の連なる穏やかな農村が、大津波に襲われたかのように劇的な都市化したもんだから区政が滞る
のも無理はない。練馬区と最下位を争ってる。
 

 



江戸川の由来

 古くは「太日川(ふとひがわ)」と呼び『北条五代記』には「からめき川」とある。上流は渡良瀬
川だったが付け替えで「利根川」となり、世俗〝坂東太郎〟と呼ばれ、別に文巻川・葛飾川・行徳川
などとも呼ばれた。江戸初期、利根川を鬼怒川・常陸川に付け替えて銚子に流し(現在の流路)、新
たに運河を掘って旧利根川(太日川)に繋いで分流にし、東北・北関東の物資を江戸へ運ぶ運輸流通
ルートとすると〝江戸へ至る川〟の意味で「江戸川」と俗称され、明治以後に正式名称となった。な
お埼玉の古庄内川は太日川のかつての流路である。

   降り積みし雪の光や誘ふらむ 浪より明くる天の利根川/『北国紀行』堯惠
   雲開く利根の川との見るがうちに こなたやとまり帰る舟人/『芳雲集』實隆
   利根川の下は濁りて上澄みて有りけるものを さ寝てくやしき/『夫木抄』
 


■区歌
「風も緑の香に明けて」 作詞・岡久美子  作詞・清水保雄
  1.風も緑の香に明けて
    輝く朝の太陽に
    空も甍も晴れ渡る
    希望の都市よ 我が郷
(さと)
    ああ江戸川は憧れの
    夢が楽しく湧く処
  2.古き伝統 誇りつつ
    時代を築く生産に
    伸び行く都市よ 我が郷とよ
    若い力が迸
(ほとばし)
    ああ江戸川は躍進の
    鐘高らかに鳴る処
  3.明日の栄えに新しき
    文化を掲げ 永久
(とこしえ)
    自治と自由を盛り上げる
    平和な都市よ 我が郷よ
    ああ江戸川は人の和の
    花も明るく咲く処


 区歌は、昭和40年9月に制定された。作詞は全国から公募し、区の良き環境、職住近接の町、良
き住民性を歌っている。1番.晴れ渡った大空に太陽が燦々と輝き、緑豊かな美しい町並みとそこに
住む区民の心が、いつも楽しい夢にあふれている様子を描いた。2番.幾多の苦難の時代を乗り越え、
今や町の彼方此方に活力が漲っている。家庭と職場は近く、生きる価値を高める豊かなまちの息吹を
表現した。3番.永い歴史から生み出された生活文化とお互いの幸せを願う区民の心が一つとなり、
皆の故郷に相応しい、花のように明るく平和な町になっていると歌っている。
  


■えどちゃん音頭
  作詞・新堀小学校4年1組
  1.コマツナ コマツナ コマツナは
    徳川吉宗 名付け親
    鉄分、カルシウムが 豊富だよ
    エダマメ ツマミナ ホウレンソウ
    いろんな野菜を作ってる
    えど えど えどちゃん音頭だよ
  2.アサガオ ホウヅキ シクラメン
    他にも一杯作ってる
    赤 黄 白 青 綺麗だよ
    七五三縄(しめなわ)七草 つりしのぶ
    江戸川名産 自慢だよ
    えど えど えどちゃん音頭だよ
  3.土と水とお日様が
    野菜や花を育ててる
    お父さん お母さん 頑張って
    お爺さん お婆さんも 頑張って
    みんなの汗が光ってる
    えど えど 音頭だよ
 


■えどちゃんマーチ
 作詞・滋賀県近江八幡市 南英市
  1.朝日に映えて爽やかに
    緑の大地 薫る風
    ここ江戸川は農業の
    豊かな実り築き行く
    意気逞しい歌がある
    希望溢れる歌がある
  2.手塩にかけて生き生きと
    育くむ花や野菜やら
    ここ江戸川は生産の
    歓び高く励み行く
    意気逞しい汗がある
    元気輝く汗がある
  3.笑顔を添えて穫れ立てを
    日毎積み出す旬の幸
    ここ江戸川は伝統の
    都市農業を拓きゆく
    意気逞しい夢がある
    前途
(ゆくて)明るい 夢がある  


■区の花 ツツジ
  ツツジ科の植物であり、学術的にはツツジ属植物の総称だ。但し日本ではこの中に含まれるツツ
ジやサツキ、シャクナゲとを古くから分けて呼んでおり、これらはしばしば学術的な分類とは食い違
う。最も樹齢の古い古木は、800年を超え1000年に及ぶと推定されている。ツツジ属の植物は
概ね常緑若しくは落葉性の低木から高木で、葉は常緑または落葉性で、互生、果実は蒴花だ。4月か
ら5月の春先にかけて、先端が五裂している漏斗型の特徴的な形の花を数個、枝先につける。大きく
ヒカゲツツジ亜属とツツジ亜属に分類されるが、便宜上落葉性のツツジ類と常緑のシャクナゲ類とに
分類される。日本で「シャクナゲ」と呼ばれるものはホンシャクナゲの仲間に限られ、常緑であって
もそれ以外の殆どは「シャクナゲ」とは呼ばない。ツツジは日本では古くから園芸品種として、交配
され美しい品種がたくさん生まれた。中でもキリシマツツジとサタツツジをかけ合わせて生まれた、
クルメツツジはその代表で、種類も多く色とりどりの花が咲き、満開の時期はまさに圧巻である。ヒ
ラドツツジも日本全国でよく見られ、花も大きく街路樹としても沢山植栽されている。
 西洋では、アジアからヨーロッパに常緑のものが持ち込まれて園芸化されたものが、ロードデンド
ロンと呼ばれ、またアメリカなどで落葉性のものが園芸化されてアザレアと呼ばれるようになった。
 ツツジに「躑躅」の字を充てるのは、「躑躅」は「テキチョク」と読み、「立ち止まる、佇む」の
意で、ツツジの花のあまりの美しさに立ち止まって見とれるところからきたものだ。同じ意味に「躊
躇」があるが、日本では別の意味で用いている。
 区花にツツジを指定いる他の区は、荒川・北・墨田・中央・豊島・中野・文京の7区。江戸
のガー
デニングの最たる花で、ツツジを改良したのがサツキだ。


■区の木 クスノキ
 クスノキ科ニッケイ属の常緑高木である。一般的にクスノキに使われる「楠」という字は本来は中
国ではタブノキを指す字である。別名クス、ナンジャモンジャ。但しナンジャモンジャはヒトツバタ
ゴなど他の植物を指して用いられている場合もある。幹の太さが一抱え以上になるものも多く、単木
ではこんもりとした樹形をなす。木肌は綿密で、耐湿・耐久性に優れている。葉は艶があり、革質で
先の尖った楕円形で長さ5~7cm。主脈の根本近くから左右に一対のやや太い側脈が出る、いわゆ
る三行脈という形である。その三行脈の分岐点には一対の小さな膨らみがあり、これをダ室という。
初夏に大量に落葉する。晩秋に直径7~8mm程度の球形の果実が黒く熟し、鳥が食べて種子散布に
与るが、人間の食用には適さない。直径5~6mm程度の種子が一つ入っている。
 枝や葉に樟脳(しょうのう)の香りがある。樟脳とは乃ち、クスノキから得られる無色透明の固体
のことであり、防虫剤や医薬品などに使用され、いわゆる「カンフル」のことだ。 


■区の鳥
  指定していない
 


■人間国宝
 山崎千子(八田美千代)
 平成23年2月2日、下村博文文部科学大臣より重要無形文化財保持者(人間国宝)として認定さ
れ、同日認定書交付式が執り行われた。河東節三味線奏者からは、山彦が初の人間国宝となった。
 
山崎は、長唄三味線の演奏技法を学び、邦楽の素養を身につけた上で、昭和53年、6世山彦河良
に師事し、河東節三味線を習得。同年に河東節の初舞台を踏み、同58年には山彦千子の芸名を許さ
れた。その優れた演奏が高く評価され、平成12年には財団法人清栄会奨励賞を受賞した。
 河東節は、江戸半太夫(半太夫節の創始者)の門下である江戸太夫河東が、享保二年(1717)
に真澄十寸見河東(ますみ かとう)を名乗って創始した。代表的な江戸浄瑠璃の一つだ。


■名誉区民
 中里喜一
 江戸川区長。平成13年1月26日逝去、功績など不明。


 ■江戸川区の学校
  小学校 区立73 私立0
  小岩・北小岩・中小岩・東小岩・西小岩・上小岩・上小岩第二・下小岩・下小岩第二・南小
  岩・南小岩第二・新堀・新田・松本・本一色・上一色・上一色南・大杉・大杉東・大杉第二
  ・松江・鹿 本・鹿骨・鹿骨東・第二松江・第三松江・一之江・一之江第二・西一之江・二
  之江・二之江 第二・二之江第三・小松川・小松川第二・東小松川・西小松川・平井・平井
  第二・平井東・平井西・平井南・瑞江・春江・篠崎・篠崎第二・篠崎第三・篠崎第四・篠崎
  第五・南篠崎・鎌田・下鎌田・下鎌田東・下鎌田西・江戸川・船堀・船堀第二・宇喜田・葛
  西・第二葛西・第三葛西・第四葛西・第五葛西・第六葛西・第七葛西・東葛西・西葛西・南
  葛西・南葛西第二・南葛西第三・清新第一・清新第二・清新第三・臨海

  中学校 区立33 私立2
  小松川第一・小松川第二・小松川第三・松江第一・松江第二・松江第三・松江第四・松江第
  五・松江第六・二之江・葛西・葛西第二・葛西第三・南葛西・南葛西第二・西葛西・東葛西
  ・清新第一・清新第二・瑞江・瑞江第二・瑞江第三・春江・鹿本・鹿骨・篠崎・篠崎第二・
  小岩第一・小岩第二・小岩第三・小岩第四・小岩第五・上一色
 
 愛国・江戸川女子

  高等学校 都立7 私立3
  江戸川・葛西南・小岩・小松川・篠崎・紅葉川・葛西工業高校
  愛国・江戸川女子・関東第一

  短期大学・大学
  愛国学園短期大学

  特別支援学校
  江戸川・小岩
  

 ■江戸川区出身の有名人
 蟹江敬三(俳優)・亀梨和也(KAT・TUN)・後藤真希(元モー娘)・橘家円蔵(落語家)・
中村一義(ミュージシャン)・松崎しげる(演歌歌手)・石田衣良(直木賞作家)・植草一秀(小泉
純一郎一派に陥れられた経済学者)・第34代木村庄之助・大塚範一(アナウンサー)など
 
 



○お~い江戸川区の地名の由来をおっ始めるど~! 


【一之江】(いちのえ)1~8丁目                 平成18年11月6日
 東一之江村。室町時代には見える。明治22年一之江村の大字東一之江。大正2年瑞江村の大字
東一之江。昭和7年江戸川区の成立により一之江町となり、同9年下鎌田町・椿町の一部を編入。
同時に一部を椿町・今井町に移す。同13年一之江町・西一之江町・南船堀町・新堀町の各一部を
あわせた町域を一之江1~4丁目とし、同58年11月1日その一之江の大部分に西一之江2丁目
・春江町2~3丁目・西瑞江3丁目の各一部を加えた町域を、現行の「一之江1~7丁目」とした。
さらに平成18年11月6日一之江7丁目と春江町4丁目の一部をあわせて「一之江7丁目」、春
江町4丁目の一部を「一之江8丁目」とした。

 これによって7丁目の街区符号が大幅に変更され、変わらないのは北半の15~34番だ。

【一之江町】                            ━新住居表示未実施
 一之江町の残部2987~3016番地。新大橋通りの南の僅かな地区。金魚団地だったが近年
宅地化した。住居表示(二之江1~5丁目)につき住民の合意が得られず放置されたままだ。住民
のエゴか権力の横暴か、どっちもどっちのにらみ合いが各地で続いている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 一之江の由来
 地名の意味は「第一の川」という意味だが江戸川区の用水は葛飾区と一体のもので、ほとんどの
用水は葛飾区の小合溜井(こあいためい)を水源としていてどれが最初とは定めがたい。まだ入江
だったころの澪(みお)の名残だろうか? 一之江・二之江とあるから開鑿順なんだろう。西一之
江村と東一之江村、東小松川村と二之江村の間を流れた古い川を一之江境川という。境川とは「村
境の川」の意で、鮒釣り場として有名だった

   鮒添えてやる一之江の医者の礼(川柳)

 一之江新田(春江・瑞江)は、豊臣氏(北条氏とも)の家臣だった田島氏によって開かれたとい
う。田島家の名主屋敷(春江)は一般公開されているよ。


■一之江境川親水公園

 一之江1丁目1番、船堀7丁目1番を終始点とする旧一之江用水暗渠上に、区内3番目に造られた
親水公園。多くの区民からの「自然に近い水辺を」という声に応えたもので、季節の移り変わりを楽
しめ、豊かな自然を満喫できる。ここは、自然とのふれあいを味わえる公園だ。魚や昆虫、水生植物
が生息できるように、新中川の自然水を流している。また、小さな子ども達が、夏季に水遊びを楽し
めるじゃぶじゃぶ池が3ヶ所あり、本流の流れを迂回させ水道水を循環利用している。


■中井堀跡(仲井堀親水緑道)
昭和61年2月12日 江戸川区登録史跡)

 上一色町(総武線線路下暗渠)より菅原橋を経て京葉道路までの道路下暗渠、それより南は環状七
号線に突き当たるまで一部区間で道路と暗渠が一致しない。環状七号線以東では道路下暗渠となり春
江4丁目・5丁目を経て江戸川に至る。小岩用水・東井堀・中井堀・西井堀は、いずれも江戸時代に
整備された用水路で、小合溜井(葛飾区水元)を水源としていた。江戸川区の村々は、江戸時代を通
じて羽生領川俣用水組合に属していたが、流末のため、用水供給の安定性に欠けていた。幕府は享保
十三年(1728)の水害を契機にして、下小合村にあった古利根川の河跡を利用し、小合溜井(潅
概用水池)を造り、以南の地域の用水源に当てている。中井堀は細田村で西井堀を分けてほぼ直線で
南下して新川に通じていた。現在はその役目を終え、殆どが暗渠になっている。
 


■新堀日枝神社

 一之江1丁目5番18号にある中社。
 


■神明社 → 向い天祖神社
 一之江1丁目9番5号にある中社。田沢伝左衡門により伊勢大神宮を勧請して江戸時代前期〜中期
にかけて創建、明治6年村社に列格したといいます。「江戸川区史」に、

   天祖神社(一之江一丁目三三番地一一号)
   旧東一之江村の鎮守、祭神は大日霊女命で別当は妙音寺、明治6年村社となった。田沢伝
   左衛門が伊勢大神宮と白髭神社の御霊を奉安したのが始めであるというが年月は不詳。も
   とは神明社といって明治3年に社殿を再建した


 とあり、「東京都神社名鑑」に、

   鎮座年代不詳。口碑によれば、三百年の昔、田沢伝左衡門により伊勢大神宮より迎えた社
   である。当時の氏子は18戸という。後世になって、全村民の崇敬の的となり、現今の社
   殿は明治3年の再建された。明治3年には氏子により鳥居の再建および御手洗も明治8年
   に寄進された。明治元年御改正につき、一之江村神官岩楯良水拝命後、昭和25年亀井悦
   造神官に、昭和53年亀井瑞雄拝命。例年節分には総代が道ヶ嶋香取神社に奉幣をする。
   毎年正月元日は亀井和泉守神変九字切欠の授与ありて、境内が賑わう。


 とある。


■京葉道路0地点
 一之江1丁目10番先、新中川の一之江橋の親柱の横に「0」と記した標識が取り付けてある。道
路を挟んで反対側の、大杉3丁目18番先一之江橋の親柱の横にもあるが、こちらには「京葉道路 
終点 TOLL ROAD END」の標識が附属する。ここが京葉道路の始点終点という訳だ。
 地図によっては両国橋まで京葉道路と記してある。首都高小松川線が完成する昭和46年以前、京
葉道路は東京から千葉間の幹線中の幹線だった。靖国通りを両国から受け継いで都の道路名称として
「京葉道路」と命名した。一之江橋から以東は、厳密には高速道路で、東日本高速道路の管理で、東
進するとそのまま高速道路に進入する。その意味で高速道路京葉道路の始点であり終点なのだ。小松
川線に続く京葉道路は一之江出入口が始点であり終点となっている。
 なお、東京都の京葉道路の始点終点は両国橋なのだが、都の表示は浅草橋交差点にある


■九重親方(元横綱千代の富士)が接触事故

 一之江2丁目24番14号先区道(環七と春江橋を結ぶ道路で幅5.5m)で、平成28年7月2日
20時頃、九重親方運転の乗用車が歩行中の男性を追い越す際、バックミラーが右肘に接触、男性が
打撲傷を負った。まあ示談解決、裁かれても略式罰金だろう。事故扱いにならないか。


■「魚釣りの少年」①

 一之江3丁目1番1号先瑞江大橋の北側の親柱上にある釣竿を担ぎバケツを持った少年の立像。対側の親柱にも同じ銅像が設置してある。その後、下の植栽に移した。何故だ!
 


■稲荷社 ✓

 一之江3丁目12番11号にある小祠。
 


■興玉一心教会

 一之江3丁目21番10号にある宗教団体。猿田彦を祀る。
 


妙覚寺別院第六天宮
 一之江3丁目27番2号にある。妙覚寺は一之江6丁目19番にあるよ。

 第六天の石造道標(昭和58年3月15日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 文政九年(1826)に建立された角柱型の道標で、旧は現在の環状7号線(旧行徳道中井堀橋)
と今井街道が交差する辺りにありました。正面に「妙応第六天道、是ヨリ左リ」と刻まれてあり、第
六天堂への道筋を示すものだ。
 


■一之江小学校
 一之江4丁目5番一号にある区立校。昭和28年11月2日瑞江小学校から分校、「東京都江戸川
区立一之江小学校」として開校、児童581名でスタート、この日を開校記念日とした。同32年校
歌制定。

 校歌「
流れも絶えぬ」 作詞・近藤庄吉  作曲・内藤定夫(楽譜には内田とある)
  1.流れも絶えぬ江戸川の
    岸辺に匂う桜花
    我が学舎のその印
    強く正しく健やかに
    望みはここに一之江校
  2.日影うららと射す窓辺
    池面に映る松ヶ枝や
    学びの庭に勤しみて
    清く明るく朗らかに
    光はここに一之江校


 同35年プール完成。同38年体育館完成。創立10周年記念式典。同40年3月~42年4月第
一期、第二期鉄筋校舎落成。同43年一之江第二小学校を分校。児童533名移籍。同45年4月~
48年3月第三期~五期鉄筋校舎落成。同48年開校20周年記念式典。同52年6教室増築。同5
7年開校30周年記念式典。平成元年日本語学級設置。同4年開校40周年記念式典。同15年開校
50周年記念式典。同18年外壁全面塗装。同19年屋上防水。同20年創立55周年記念集会。同
21年校舎耐震化。同22年給水管耐震化。
 


■一之江さくら公園
 一之江1丁目4番24号にある区立公園。


■一之江一丁目公園
 一之江1丁目6番8号にある区立公園。


■一之江一丁目児童遊園
 一之江1丁目15番14号にある区立公園。


■一之江二丁目公園
 一之江1丁目20番16号にある区立公園。


■一之江緑地
 一之江3丁目先にある区立公園。


■一之江三丁目児童遊園
 一之江3丁目9番にある区立公園。


■一之江三丁目公園
 一之江3丁目27番14号にある区立公園。


■一之江四丁目児童遊園
 一之江4丁目3番にある区立公園。


■中央はなみずき公園
 一之江4丁目6番18号にある区立公園。


■八幡宮
 一之江5丁目8番3号にある中社。区立一之江境川親水公園に面してある。あるのに江戸川区の神
社で調べても一切ヒットしない。小祠ならいざ知らず、立派な鳥居も社殿も玉垣もあるのにだ。地図
にだって名前入りで記載されているんだよ。


医王山不動院妙音寺
 一之江5丁目8番20号にある真言宗の寺。建久元年(1190)秀栄上人により開山。天正三年
(1575)秀誉上人と、安永九年(1780)大空法印が中興。本尊は十一面観世音菩薩立像。ほ
かに春日仏師作の薬師如来も祀る。山門を入ると左は墓地。右に薬師堂。本堂の右に庫裏。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   妙音寺
   新義真言宗、青戸村宝持院末、医王山不動院と号す。建久元年起立。開山秀栄、中興開基
   秀誉は天正三年八月二十一日卒す。其後又大空と云僧中興すと云。此僧は安永九年二月十
   六日寂す。本尊薬師、春日の作。長二尺秘佛なり。
   弁天社。諏訪社。

 とあり、区の説明板に、

   妙音寺
   妙音寺は真言宗豊山派で医王山不動院と号します。建久元年(1190)秀栄上人の開山
   といわれ、「江戸名所図会」などにも記載されている、区内でも有数の古刹です。のち秀
   誉上人(天正三年(1517)八月寂)や、大空法印(安永九年(1780)二月寂)が
   それぞれ中興しました。本尊は木造十一面観音立像で桃山時代の作です。そのほか、春日
   仏師作といわれる薬師如来がまつられています。境内から、南北朝時代などの板碑数基が
   発見されました。
   ◇木造阿弥陀三尊像
     平成18年3月指定
     江戸川区指定有形文化財
   本銅脇壇に安置される三尊です。中尊の阿弥陀如来坐像は鎌倉時代初期の作風を示す秀作
   です。また、両脇侍(観音・勢至)は南北朝時代(14世紀中頃)に補われたと考えられ
   ます。
   ◇片目の鮒の伝説
   むかし、ひとりの目の不自由な娘がいました。その娘は、目を治そうと、妙音寺の薬師如
   来に21日の願をかけ、食を断ってお祈りしました。すると満願の日に、目が見えるよう
   になりました。娘はお礼にと薬師の池に沢山の鮒を放ったところ、鮒は全て片目になった
   といわれています。
   平成20年3月                        江戸川区教育委員会


 とある。

 木造阿弥陀三尊像(平成18年3月28日 江戸川区指定有形文化財・彫刻)
 妙音寺本堂内陣に向かって左の脇壇に安置されている。三尊の中尊である阿弥陀如来坐像は、像高
53cm4mmで来迎印を結び、右足を左腿の上に乗せ、ゆったりと結跏趺坐している。結跏趺坐は
坐像の最も基本的な姿勢だ。螺髪を細やかに彫りだし、なで肩で全体に丸みのある姿や、上半身の丈
をやや高めに作るあたりに、平安時代後期の特色がよく表わされている。特に張りのある顔立ちや姿
勢を正した造形は12世紀後半の本格的な作風を伝える。現在は眼に水晶製の玉眼を嵌めていますが
これは後世に改めたもので、本来は彫眼であったはずだ。像の表面の厚手の漆箔も後世の化粧直し。
両手首、像底の貼り板も後補のもの。脇侍の観音菩薩立像が両手で蓮台を捧げ、勢至菩薩立像が合掌
する形式は、鎌倉時代になってから一般的になった。脇侍は、像高59cm4cmの観音菩薩立像と
像高58cm6mmの勢至菩薩立像だ。両像共に高い髻を結い、宝冠で飾り、条帛と天衣を纏い、裙
を着ける立ち姿だ。片足を緩め少し腰を振って動きを表す。華麗な彩色で身を装うが、彩色は後補。
この両脇侍像は、中尊阿弥陀如来坐像と同じ時期の作ではなく、来迎形の阿弥陀如来坐像に合わせて
南北朝時代(14世紀中頃)に造立されたとみられる。これによって、阿弥陀三尊として完結した姿
が表わされている。本堂脇壇に安置される三尊だ。中尊の阿弥陀如来坐像は鎌倉時代初期の作風を示
す秀作。また、両脇侍(観音・勢至)は南北朝時代に補われたと考えられる。

 弁天社・諏訪社
 境内にある。
  


■一之江天満宮

 一之江5丁目12番30号にある小社。境内は区立一之江天神児童遊園になっている。創建年代は
不詳ながら、鎌倉時代から祀られていたという。境内の道祖神は、環七敷設に伴い当地へ遷座したも
の。「新編武蔵風土記稿」に、

   (東一之江村)
   天神社
   慈眼寺持
   道祖神社
   長勝寺持


 とあり、「江戸川区史」に、

   天満宮(一之江二丁目三七番地)
   創建は不詳、鎌倉時代から天神宮をまつり天神社ともいう。元禄十年の検地にも記録され、
   別当は福寿院であった。社前に大イチョウの老木があり、付近一帯に貝化石が散乱し中世
   紀の貝塚と推定される。
   境内の西隅に道祖神社がある。もとは一之江二丁目五番地にあったが、還状七号線建設の
   ため昭和42年2月ここに移転した。元禄十年の検地にも記載され、別当は善学院で明治
   元年1丁目の天祖神社末社となった。社殿の中に道祖神と彫られた石の小祠をまつり、幾
   つかの草履などが供えられている。


 とある。


■一之江天神児童遊園
 一之江5丁目12番30号にある区立公園。


■一之江抹香亭
 一之江5丁目13番16号にある区立庭園。抹香屋田澤家は、旧東一之江村の旧家。抹香屋の家号
の通り、江戸時代から抹香作りをしていた。庭にはタブノキの大木があり、その葉を乾燥させて石臼
で挽き、抹香に加えたと伝えられている。地域に親しまれ伝承されてきた「抹香屋」を、一之江の歴
史とともに後世に伝えていくため、一之江抹香亭と名付けられた。平成22年4月20日開園。
 面積:2134.6㎡  芝生広場:219㎡  屋外展示場:22㎡ 多目的広場:185㎡
 母屋は平成4年築木造平屋建て、建坪138㎡、親水公園展示室21.5㎡ 和室10畳×2
 グッズ販売コーナーがある。開園時間:9時~17時(休園日:年末年始)


■一之江水神宮 ◇
 一之江5丁目13番16号一之江抹香亭の隣にある小社。天明六年(1786)の水害で被害が大
きかったことから同八年(1788)に創建したという。「江戸川区史」に、

   水神社(一之江二丁目三六番地)
   水神宮の石鳥居を入ると石の小祠がある。天明六年の大洪水で人馬の被害が多かったので、
   同八年(1788)村民が水神を祀ったもので、台石の左面に「天明八戊申年六月吉日」
   と刻まれている。


 とある。
 


■「川は友だち」 ◇
 一之江5丁目14番の一之江境川親水公園、ちょうど池田建具店(一之江5-13-13)の前に
ある。網で魚を掬おうとしている少年とバケツを両手に持っている少女の像。佐田奈津子の制作。


普陀落山薬王寺
 一之江5丁目17番4号にある新義真言宗の小寺。文治二年(1186)祐宣法印が開山となり創
建、補陀落山福寿院慈眼寺と号していたという。境内に太子堂と地蔵堂がある。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   慈眼寺
   同末(新義真言宗、青戸村宝持院末)、補陀落山福寿院と号す。文治二年起立、開山祐宣。本
   尊阿弥陀を安す。


 とある。
 


■一之六丁目児童遊園
 一之江6丁目8番19号にある区立公園。


■稲荷社 → 川岸稲荷神社
 一之江6丁目12番の、広大な駐車場と農地に挟まれている。非公開。
 


■佐々木養魚場
 一之江6丁目13番17号にある金魚の生産業者だ。天保八年(1837)から続く、江戸川区の
金魚屋。創業は台東区入谷が始まりで、その後、先代が大正15年に分家し、江戸川区に移転した。
現在は、茨城県常総市で、水田に囲まれながら生産し、江戸川の店舗へ届けている。自家生産のオリ
ジナル品種からはやり物新種、らんちゅう、鯉、メダカまで多数取り揃えている。


■「やすらぎ」 ◇
 一之江6丁目15番1号先、一之江境川親水公園、栄新橋脇にある銅像。腰掛けている少女2人。
前の小鳥との間合いがいい。勝沼優子の制作。平成8年。


■村井染工場 ◇

 一之江6丁目17番27号にある浴衣地、手拭地の製造業者。江戸川区の風物詩。


■水神宮 ◇

 一之江6丁目17番26号ファミリーマート一之江六丁目店の左脇にある小祠。
 


■松江第五中学校
 一之江6丁目18番1号にある区立校。昭和35年「東京都江戸川区立松江第五中学校」として開
校。1年は瑞江中、2年は松江四中の校舎を借用し分散授業。同36年校歌制定

 校歌
「源遠き」 作詞・山川仁三郎  作曲・鏑木貢
  1.源遠き江戸川は
    豊かに流れて弛みなく
    尽きせぬ恵みを運び来て
    文化の都を培いし
    古き歴史のあるところ
    松江五中 我らが母校
  2.父母の慈愛と師のことば
    学びの窓にあけくれに
    友情清く結ばれて
    正しく明るく逞しく
    若き生命は育ち行く
    松江五中 我らが母校
  3.緑の茂みに聳え立ち
    海原臨める学舎は
    希望に燃ゆる若人の
    心の故郷と永遠に
    不滅の光を輝かせ
    松江五中 我らが母校


 同37年現在地に校舎落成して移転。同41年完全給食開始。プール完成。同45年創立10周年
記念式典。同51年松江六中を分校。同53年二之江中を分校。同55年創立20周年記念式典。同
60年心身障害学級(知的障害)設置(2学級)。
 平成2年創立30周年記念式典。同3年パソコンルーム開設。同11年校庭改修。同12年科学セ
ンター開設。同15年給食室改修。同22年創立40周年記念式典。
 


■一之江境川親水公園(説明板)
 
一之江6丁目19番1号
先の親水公園の公園名塔に貼りつけてある。

   一之江境川親水公園地誌
   
今井街道
   中川(旧中川)の平井の渡しから南東に進み、東小松川村、西一之江村、東一之江村を経
   て今井の渡しに達する道筋を行徳道と呼んでいました。今醫から渡し舟で行徳へ渡り、成
   田参詣に向う人びとで賑わったそうです。同じ道筋を江戸へ向かうときは、浅草の観音さ
   まへの参詣路となりました。中川の平井の渡しに平井橋が架けられたのが明治22年、江
   戸川の今井橋(当時は下江戸川橋)明治45年で、千葉街道とともに東西を結ぶ幹線道路
   となりました。平成6年春、沿道にハナミズキが植えられ地元でははなみずきロードとも
   呼ばれます。
                         平成8年 江戸川区

 城東電車とトロリーバス
 公園名塔に空間が仕込んであってその中にある。城東電車は大正2年創立した一輌だけの「チンチ
ン電車」、昭和27年廃線、代わって無軌軸バスが上野公園ー今井橋間を昭和43年まで運行。
 説明板は城東電車線路の方にある。


   
城東電車とトロリーバス
   城東電車は大正2年に創立し、江戸川線は大正14年に東荒川~今井間で開通しました。
   車両が1両で「マッチ箱電車」と呼ばれたり、発車合図の発車ベルの音から「チンチン電
   車」と呼ばれ、昭和27年まで運行していました。
   城東電車の廃止の翌日より、無軌道電車(トロれりーバス)がはしり、昭和43年までの
   約17年間運行されていました。トロリーバスはレールのない電車です。屋根についた集
   電装置で架線から電力を得て走っていました。
  


 
清流よ永遠なれ碑

 一之江境川親水公園内ある。形は「江」の字をモチーフとしている。

   
清涼よ 永遠なれ

   題字 
江戸川区長 中里喜一
   
由来
   悠久の川の流れは、歴史を語ります。
   一之江境川は、東西一之江村の境を流れ、船堀村を経て新川に注いでいました。古くから
   農業用水としてこの地に豊穣の恵みをもたらし、舟運路らも用いられて人々に親しまれて
   きました。しかし都市化の進展とともにその役割を終え、しだいに汚れ、澱み、時として
   悪臭を放つ水路に変わってしまいました。
   江戸川区は、早くから区内の川の再生を計画し、世界に先駆けて、水と親しむ公園━親水
   公園を誕生させてきました。一之江境川も平成4年11月に着工し、平成7年春に一部開
   園をして、平成8年3月、ここにその全線の工事が完了し、我々の期待以上の素晴らしい
   清流によみがえりました。我々はこの川がふたたびこの地に恵みをもたらし、香り高い文
   化とさわやかなふれあいを育み、活々とした活気に満ち溢れるであろうことを確信してお
   ります。
   我々は、この川の再生に携われたすべての人びとに深い感謝を捧げるとともに、この川を
   愛し愛しむことを固く心に銘じ、そしてこの清流が子々孫々に受け継がれていくことを願
   い、この記念碑を建立し心からこう叫びます。
   
「清流よ 永遠なれ」
   平成8年4月吉日


 ※文中の「携われた」は「携わられた」の誤記。


 
城東電車線路
 石碑から南へ10m程南に鉄道線路の一部が据えてある。傍に石碑。

   一之江境川親水公園地誌
   
城東電車
   城東電車は私営の路面電車で、明治44年3年当時の本所区錦糸町と瑞江村大字上今井の
   間に敷設の許可がおり、大正6年12月錦糸堀~小松川間が開通、
大正10年1月水神森
   ~大島間が開通しました。そして大正14年12月東荒川~今井橋間が開通し、翌大正1
   5年3月小松川~西荒川までが延長されて、東荒川との間には連絡バスがはしりました。
   昭和17年に東京市の市電となり、翌年の都制施行により都電とよばれましたが、昭和2
   7年に東荒川~今井橋間は廃止され、上野公園~今井間を走った都内初のトロリーバスに
   かわりました。
   この路線は、昭和43年から都営バス路線として今も運行されています。                                           平成8年 江戸川区


金嶋山等覚院妙覚寺
 一之江6丁目19番10号にある日蓮宗の大寺。路地の置くに入口があるので判り辛い。弘安七年
(1284)日全上人が開山。日全は千葉介宗胤の弟で、中山法華経寺三世日祐の弟子だ。奥庭に開
山堂がある。境内の右は妙覚寺幼稚園。これを過ぎると山門で、左は墓地。右は手前に妙見堂という
小さな六角堂がある。「新編武蔵風土記稿」に、

   妙覚寺
   同末(法華宗、下総中山法華経寺末)、金鳥山等覚院と号す。弘安七年千葉氏建立と云。
   過去帳千葉家代々をしるせし内に等覚阿闍梨と云者あり。是開基の人なるべし。開山日全
   は千葉介宗胤の子頼胤の弟にて、本山三世日祐の弟子なり。康永三年五月二十五日寂す。
   本尊釈迦、又本堂の内に日蓮の像あり、坐像にて長一尺余、裏に法華堂彫刻日朗と記す。
   日本三体の祖師といへり。
   妙見堂。
   貞治元年の勧請と云。此妙見は千葉代々尊崇の像にて、古は利根川の中なる妙見島と云所
   に安置せしが、其後小松川村に移し、又当村に移すと云。
   三十番神社
   塔頭、正運坊、梅林坊


 とあり。「江戸川区の文化財」に、

   日蓮宗で金嶋山等覚院と号し、もと中山法華経寺の末。弘安七年(1284)等覚院日全
   上人の開山。その後本山106世順竹院日泰が中興したもので、本尊には祖師日蓮の木像
   を安置する。裏には法華経堂刻彫日朗とあって日本三体の祖師の一つと伝えられている。
   寺伝によれば日全上人は千葉介宗胤の弟であるという。春江橋のたもとにある第六天堂は
   同寺の持ちであるが、この縁起については言い伝えが残っている。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   妙覚寺
   日蓮宗で、金嶋山等覚院と号します。開山は等覚院阿闍梨日全で、弘安七年(1284)
   の創建と伝えています。日全は中山法華経寺二世日高の弟子とも、三世日祐の弟子とも伝
   えています。のちに身延の日進に師事し、「法華問答正義抄」の著述があります。
   日蓮上人木造座像は、日蓮の高弟である日朗の作と伝えています。
   ◇紙本墨書大曼荼羅(二幅) (区登録有形文化財)
   曼荼羅は、もともと諸尊の悟りの世界を表現したものといわれ、一定の方式に従って多く
   の仏や菩薩の像を描いた図のことをいいますが、日蓮宗の曼荼羅は各尊を文字で書き、表
   しています。応安元年(1368)と記された曼荼羅は、日祐の筆で、妙覚寺第二世日興
   に授与されました。嘉暦二年(1327)のものは、妙覚寺開山日全の筆です。
   平成2年3月                          江戸川教育委員会

 日祐紙本墨書大曼荼羅・日全紙本墨書大曼荼羅
 中山法華経寺第3世貫主日祐から妙覚寺2世日展に授与された応安元年(1368)の墨書曼荼羅
と、日祐の弟子で妙覚寺の開祖である日全から弟子に授与された嘉暦二年(1327)の墨書曼荼羅
の2幅。天保十四年(1843)32世日信の代に、小島(西葛西)に住む控井権右衛門が寺に寄進
したと記録されている。日信はその鑑定を法華経寺101世日道に依頼し、2幅とも日高、日祐上人
の真筆であると認めた証文が残っている。日高は日蓮高弟の一人で、中山法華経寺の第2代貫主を務
めた。昭和59年2月28告示、江戸川区登録有形文化財・歴史資料。

   妙覚寺史跡
  一.金嶋山等覚院妙覚寺と称する。
    当山は、700年の昔、弘安七年五月千葉介六祖頼胤公甥、小納言律師等覚院阿闌梨日
    全上人が開山しました。千林坊、正蓮坊と云う塔頭があった日蓮宗の古刹であります。
    昭和42年4月篤信の檀家により奥庭に開山堂が建立されました。昭和57年5月には
    宗祖日蓮大聖人七百遠忌、開山七百年を記念して檀信徒の寄進により、客殿、庫裡が完
    成しました。
  一、第六天宮 所在地江戸川区一之江3‐27‐2
    第六天宮は、妙覚寺の飛地境内地にあります。600年ほど昔、慶安元年(1648)
    8月15日の夜当山第ニ祖日典上人が勧請しました。境内には、樹令500年以上と云
    われる御神木〝榎〟があり、江戸川区天然記念物に指定されています。昭和61年11
    月社殿を新築しました。
  一、一之江殿
    年代不詳。古、当寺付近に伊達屋敷というところがありました。〝伊達某の往せし跡〟
    と云います。其の辺、馬場、出口等の小名あり、当山の過去帳に、一之江殿善幸としる
    されているのは、この人のことなりと傳えられています。
  一、一之江保育園
    昭和27年9月5日第34世日真が開設しました。宗教法人妙覚寺が経営する。東京都
    認可の児童福祉施設であります。
  一、妙見さまと星祭り
    壱千五十年ほど昔、承平五年(935)の頃、千葉氏の祖、平良文将門の乱「小貝川の
    合戦」に妙見神〝北斗七世の主神北極星〟を守護神として出陣し戦勝を治めたと云いま
    す。後に平氏は、千葉氏と名のり、江戸川河口の小島に妙見神を氏神として祀り、代々
    の千葉氏が崇拝したと云います。今は、妙見島という地名が残っています。御神体は当
    山に安置されたと寺傳にありますが現存しておりません。妙見さまを篤く信仰する篤信
    の檀家により、当山の年中行事として行っている。妙見様の星祭り、12月22日冬至
    に妙見堂を建立し寺傳の如く、妙見様をお祀りしました。
    昭和61年12月吉日           金嶋山妙覚寺 第三十四世露木日真記す

 三十番神
 境内にある。は、神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々
のことだ。太陰太陽暦では月の日数は29日か30日だ。最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最
初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。中世以降は特に日蓮宗・法華宗(法華神道)
で重視され、法華経守護の神(諸天善神)とされた。これは、京都に日蓮宗を布教しようとした日像
が、布教のために比叡山の三十番神を取り入れたためだ。また吉田神道も、天台宗・日蓮宗とは別の
三十番神として「天地擁護の三十番神」「王城守護の三十番神」「吾国守護の三十番神」などを唱え
た。吉田兼倶は三十番神信仰が吉田神道から発すると主張した。明治初年神仏分離のため、明治政府
によって配祠を禁じられた。明治維新が朝鮮系の人びとによって成し遂げられたためだ。長州は朝鮮
半島に近いため朝鮮系人が多いのは仕方がない。国家神道・靖国神社は、彼らの宗教で、日本人の宗
教観と違うのも致し方ないことだ。



■サツキ 利栄山善学院長勝寺
 一之江6丁目19番15号にある日蓮宗の大寺。開創は天正十一年(1583)。開山は妙覚寺第
9世日住上人の弟子善覚院日信。村の寄合所として利用していた法華堂が前身と伝えられている。寛
永~享保年間(1624~1736)を迎えて、漸く檀家数軒ができ、長勝寺の名で呼ばれるように
なった。本尊には一尊四士と鬼子母神を祀り、境内には「浄行菩薩」の像がある。この辺りが発展し
た地域ではなかったので、だから境内は非常に広く、あちこちに置かれている庭石とサツキの配置が
巧みで日本庭園の美しさを満喫できる。妙覚寺と感応寺の中間にあるので、俗に「中寺」と呼ばれて
いた。「新編武蔵風土記稿」に、

   長勝寺
   同末(法華宗、下総中山法華経寺末)、利栄山善学院と号す。天正十三年起立。開山善学
   院日信、寛永二年十一月十一日寂す。本尊釈迦を安す。当寺古は妙覚寺の塔頭なりしが、
   何の頃よりか今の末となれり。
   三十番神社


 とある。

 三十番神社
 境内にある。熱田・諏訪・広田・気比・気多・鹿島・北野・江文・貴船・伊勢・八幡・加茂・松尾
・大原・春日・平野・大比叡・小比叡・聖真子・客人・八王子・稲荷・住吉・祇園・赤山・建部・三
上・兵主・苗鹿・吉備の30明神を祀る。
 


■国柱会 申孝園

 一之江6丁目19番18号にある法華宗系本化妙宗の寺。大正3年田中智学が純正日蓮主義を唱え
て「国注会」を組織し、昭和3年この地に霊廟を建てた。霊廟は、創始者が純正日蓮主義の理想で信
念を啓示した一塔合安式のもの。鉄筋コンクリートの大唐櫃(かろうと)とその上の宝塔から出来て
いて、中には遺骨100万体、霊名600万を納めることが出来る。創価学会とは対極にある国注
会は、全国組織を持つ宗教法人で、申孝園は信仰のメッカとして全国から信者が集まる。敷地は16
500㎡の広さを持ち、泉石池丘を配した名園だとか。

 宮沢賢治の碑
 大霊廟手前にある。信者だった賢治の50回忌追善のため昭和57年に建てられたもの。

   病
(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり みのりに棄てはうれしからまし
   方十里稗貫のみかも稲熟れて み祭三日そらはれわたる


 造形的にも美しい碑で、敷石の周囲には賢治の故郷岩手県で集めた石に、一石一字の写経をして敷
き詰めてある。
 


■屋敷神

 一之江7丁目16番19号関口邸にある小祠。
 


■一之江白髭神社
 一之江7丁目19番20号にある中社。祭神は猿田彦大神。江戸時代に東一之江村の名主宇田川源
蔵の祖先と、伝左衛門とが祭神を勧請し創建したという。「新編武蔵風土記稿」に、

   (東一之江村)白髭明神社
   妙音寺持


 とあり、「東京都神社名鑑」に、

   鎮座年代不詳。当村別当妙音寺持で、古老の伝えによると、当村名主源蔵の祖先と、伝左
   衛門により祭神を勧請したという。明治元年御改正に付、一之江村神官岩楯良水拝命より、
   昭和二25年西小松川道嶋香取神社神官亀井悦造宮司拝命。同53年亀井瑞雄宮司拝命。
   例年大祭には、霊地森下の稲荷に御旅所として神輿の渡御がある。正月元日初詣でには亀
   井和泉守九字切神変大加持御符の授与があり、大いに賑わう。


 とある。
 


■山王社 → 一之江日枝神社
 一之江1丁目7番20号にある中社。祭神は倉稲魂命。何か変? 「江戸川区史」に、

   日枝神社(一之江二丁目七番地)一之江一丁目天祖神社の末社で福寿院持ちであった。小
   さな藪の中の小社で、額にはめこんだ一枚の板碑(銘文不明)がまつられている。土地の
   者は山王社という。


 とある。
 


■一之江中央児童遊園
 一之江7丁目20番にある区立公園。


■大雷神 4丁目の香取神社に遷碑
 一之江7丁目22番にあった自然石の碑。俗に「一之江の一つかみなり」と称され、往古よりこの
地の農業文化に深い貢献を施し、深く信仰を重ね、その使命を果たして来、東一之江村の福島家に江
戸時代から祀られていた。田植の季節には時々、北は日光より降りて来る雷、西は秩父の山々より降
りてくる雷、南は太平洋の雷、東は筑波より降りてくる雷、これらの雷たちが一天に集まって風雨を
伴い、ゴロゴロと威力を争い、鳴り渡る。子供たちの教訓として「臍を隠せ」の言葉の掛かる頃、こ
の時が大雷神の出番なのだ。耳を劈(つんざ)く轟音と共に他の雷を征服して仕舞う。これが地域の
人々のいう「一之江の一つかみなり」なのさ。6月15日間近くなると、この雷が出現、農民達は田
植作業を終わらせて、この雷様のお祭に参加致する。それが農業の手休みの一日として楽しみ乍ら、
「オシャラク」の舞や出店が沢山出て賑やかになる。其の日は講社の人々、近在の人々の参拝も数多
くあり、あとを断たなかったとか。
 それで、昭和63年世話人の不在の為、香取神社と上一之江氏子総代一同の協議の結果、当社境内
に遷碑することになり、児童の教育と大雷神、間々井神社の信仰を深める為に、例年6月15日に、
水神祭に併せて例祭を復興することとなった。
 


江久山蓮光院感応寺
 一之江7丁目23番11号にある日蓮宗の寺。元久二年(1205)空念が開山した当時は真言宗
だったのだが、正応元年(1288)日蓮聖人によって日蓮宗に改められた。安政二年(1855)
の大地震で倒壊したが、塔頭に蓮明坊、是林坊の2院があって、中本寺として重きをなしてきた。山
門は石の門柱だったが、伽藍を一新し、立派な門を新築した。正面に本堂。本尊は壹塔両尊四菩薩四
天木像。墓地に筆子塚があり、寺宝には「釈尊涅槃絵」、日蓮聖人筆の「消息断片」などがある。
 「新編武蔵風土記稿」の東一之江村の項に、

   感応寺
   法華宗、下総中山法華経寺末、江久山蓮光院と号す。開山日蓮、正応元年起立、延慶三年
   七月五日寂。本尊釈迦を安す。又本堂の内に日蓮の像あり、長一尺五寸日進の作なり。
   三十番神社。
   七面明神社。
   鐘楼、元禄十一年鋳造の鐘をかく。
   塔頭、是林坊、蓮明坊


 とある。

 
梵鐘(昭和57年2月8日 江戸川区指定有形文化財・工芸品
 元禄十一年(1698)の鋳造で、名工藤原正次の作。区内に現存する最古のもので、近郷の名鐘
といわれ、戦時中も供出を免れた。。『新編武蔵風土記稿』にこの梵鐘についての記録がある。高さ
152cm、口径77cm。

 賢性院日是大徳無筆子塚(昭和63年2月28日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 筆子塚とは、江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算術や実務教育を受けた教
え子が、師匠が亡くなった際にその遺徳を偲んび、自分たちで費用を出し合って建てた墓や供養塔の
ことだ。賢性院日是大徳は、文政六年(1823)寂。感応寺歴代住職ではなく、生前の姓名、事績
共に不明だが、感応寺の過去帳に「当山塔中是林坊」と書かれており、感応寺の塔中であった是林坊
において筆子を指導したと伝えている。なお是林坊は、安政二年(1855)の地震で失われた。墓
石の側面に「筆子中」とあり、その反対側に、

   
夢の世や、二十余年を月の露

 の句が刻まれている。

 
日蓮上人合掌立像
 境内に在る。


■神社
 一之江7丁目25番13号にある小祠。
 


■一之江フレンド公園
 一之江7丁目42番にある区立公園。


■葛西工業高等学校

 一之江7丁目68番1号(旧春江町4丁目9番地)にある都立校。昭和37年12月1日機械科4
学級、電子科2学級、建築科2学級設置。仮事務所を東京都立小松川高等学校に開設。同3月30日
第2期工事竣工(B棟東半分)昭和38年4月3日仮事務所より江戸川区春江町4丁目9番地の新校
舎に移転。同10月第2期工事竣工(D棟)。11月1日開校式。同39年3月31日第3期工事竣
工(B棟の西半分とC棟)。同40年3月31日第4期工事竣工(A棟・E棟)。4月1日全学年揃
う。同41年3月8日第1回卒業式。同44年体育館竣工。7月14日校地買収(正門東北2947
.5㎡)。同46年3月プール完成。同48年3月部室竣工。同57年11月創立20周年記念式典。
平成3年4月機械科4学級を3学級に変更。同4年4月機械科3学級を2学級に変更。7月新校舎第
1期工事竣工。同4年創立30周年記念式典。同6年2月15日実習棟(E、F棟)工事竣工。同7
年グラウンド整備・外溝整備工事竣工。同8年電子科2学級を1学級に変更。同14年創立40周年
記念式典。同16年東京都教育委員会より「マイスター型リーディングテクニカルハイスクール」に
指定。同23年校庭芝生化・グランド改修。同25年創立25周年記念式典。

 校歌
「世は日に新たに」 作詞作曲・島田春男
  1.世は日に新たに 日々に新た
    伸び行く都 とよむ巷
(ちまた)
    田鶴
(たづ)鳴き渡りし葛西の里に
    見よや傍立つ我が母校
  2.西空仰げば雲の彼方
    清
(さや)けき富士の一人立てる
    心は高く気は清
(きよ)かれと
    清らに語る高き姿
  3.東の江戸川 海へ海へ
    広野を過
(よぎ)り 永久に流る
    吾等も遠き理想の道を
    唯一筋に倦まず進まむ
  4.御国を興すと若き吾等
    此処にし集ひ 此処に学ぶ
    朝に夕べに真理を尋ね
    工業日本を共に築かむ
 


■一之江ひだまり公園
 一之江7丁目69番にある区立公園。


■一之江ゆりのき公園
 一之江8丁目11番22号にある区立公園。


■一之江駅

 一之江町8丁目14番1号にある都営地下鉄新宿線の停車場。昭和61年9月14日の新宿線船堀
~篠崎間延伸時に設けられた。ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。ホームと改札階を結ぶ
エレベーターは設置済み。改札口は2ヶ所で、いずれも地下1階にある。2ヶ所といっても殆ど同じ
場所にあるので1ヶ所と言っても差し支えない。元々は1ヶ所だったが、地上行きのエレベーターの
設置とともに改札口が分離された。出口はA1~A3の3ヶ所。以前はA1出口は環七口、A3出口
は駅ビル口と案内されていた。A2出口は、地上行きのエレベーターとなっている。地下鉄は通常道
路の下に建設されるものだが、新宿線の船堀~本八幡間の地下線はほとんど道路の下は通らず、全く
自由奔放な線を描いて走っている。その理由については不明。

 
「希望」 ◇
 東口駅前広場の植栽にある2人の裸婦が向かい合って左手を高く掲げ掌を合わせている銅像。開業
当初は、噴水の一部として展示されていたと思われるが、現在は噴水は止まり、水も湛えておらず、
腐食や劣化が少しずつ進行しているようだ。

   
一之江駅前広場開設記念   昭和61年9月   江戸川区

 「鯉」
 駅舎の外壁に画いてある。東西二面。   

 



【宇喜田町】(うきたちょう)                   ━新住居表示未実施
 宇喜新田。宇喜田村。東宇喜田村・西宇喜田村。明治22年「市制町村制」により葛西村の大字、
昭和7年江戸川区が成立して東宇喜田町・西宇喜田町となり、同9年西宇喜田町は宇喜田町に、東
宇喜田町は上蜆島・下蜆島・葛西1~2丁目となったが、同58年新住居表示のため大部分を北葛
西・西葛西・中葛西とし新川以南が総て葛西になる中、宇喜田橋の南の、旧域の僅か10分の1ほ
どの町域が新住居表示を拒絶して辛うじて記念物のように残っている。宇喜田橋・宇喜田通り・宇
喜田稲荷・宇喜田小学校などがわずかの名を留める。将来宇喜田の名を残せるのか、手薬煉引いて
北叟笑むお役人たちによって北葛西にされてしまうのか、緊褌一番の根性比べだ!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 宇喜田の由来
 宇田川兵衛新を略したもので宇喜多秀家とは無縁。というのは隣の浦安市に宇喜田姓が多
くあり、こちらの宇喜田姓は、八丈島に流されていた秀家の子孫が、明治になって本土定住を許さ
れて移り住んだ先だからだ。さて小田原北条氏の臣宇田川喜兵衛定氏は天文二年(1533)に品
川に生まれ、宇田川町(港区)を開発すると、弘治二年(1556)小松川に移住した。天正十八
年(1590)家康が江戸にやってきた頃、小松川先の海辺の湿地帯を開発し3千石の水田(宇喜
新田)を得た功により、上田(じょうでん)1町5反分の屋敷地を賜ったという。元禄のころ東西
二村に別れ、西の名主は代々分家が務めた。
 


■葛西第二中学校
 宇喜田町1085番地にある区立校。昭和30年2月葛西中学校の分校として設置され、6月1
0日(葛西中学校の沿革では7月1日)開校。10月校章制定。昭和33年3月校歌制定。

 校歌
「都の東」 作詞・  作曲・
  1.都の東 気は澄みて
    芙蓉の花の咲く所
    輝く窓よ 学び舎
    文読む声も朗らかに
    清く正しく伸びる者
    我らぞ我らぞ 葛西第二中学校
  2.新潮香る新川に
    知徳を珠と磨きつつ
    羽ばたく意気よ 呼ぶ虹よ
    春秋三年 弛みなく
    力合わせて励む者
    我らぞ我らぞ 葛西第二中学校
  3.緑清しき野の風に
    溌剌若きまゆ上げて
    働く汗よ 喜びよ
    真理の塔をめざしつつ
    明日の郷土を担う者
    我らぞ我らぞ 葛西第二中学校

 同34年3月校旗制定。同40年創立10周年記念式典。同50年創立20周年記念式典。同60
年創立30周年記念式典。
 平成7年開校40周年記念式典。同9年校庭夜間照明完成。同10年パソコン室整備。同11年校
舎耐震補強工事完了。同12年インターネット接続完了。同13年教室出入口改修。同13年校舎北
側側溝改修工事完了。農園設置。同17年開校50周年記念式典。同19年教室にクーラー設置。
 


■宇喜田稲荷大明神

 宇喜田町1412番地3号にある小祠。小さいながら鳥居が2基、狐も網が被せてあって2対もあ
る。結構なお稲荷さんなんだ。


■宇喜田第一公園

 宇喜田町1433番地1号にある


■地蔵尊
 宇喜田町1486番地にある十軒自治会館の中にまつってある。


 
宇喜田十軒の地蔵講(平成6年2月22日 江戸川区無形民俗文化財・風俗習慣)

 宇喜田町1454番地の寄合。旧宇喜田村字十軒の地蔵尊を本尊とする地蔵講で、少なくとも寛延
二年(1749)には存在しており、途中に中断はあるものの、宗旨にこだわらない、旧村時代の講
中のおおらかな形を伝えている。毎月23日が月次で、午前10時に十軒会館に集まり、歓談するう
ちに近所の人たちもお参りにきて、11時頃から念仏をあげ、昼食後も歓談して3時頃解散する。
 かつて本尊の地蔵尊は外にあり、毎月の23日にそのお堂に集まっていたそうだ。大正6年の高潮
でお堂は壊れ、昭和38年に現在の会館を建てた時、地蔵と大師を中に安置し、講もここで行うよう
になった。昭和5、6年頃までは盛んで、8月と11月の縁日には出店なども出た。また昭和36年
頃まで、大数珠を持って各家を回っていた。

 



【江戸川】(えどがわ)1~6丁目                  ━新住居表示未実施
 下鎌田村・前野村・当代島村・上今井村・下今井村・二之江村・桑川村。明治22年瑞穂村大字
下鎌田・前野・当代島・上今井・下今井・二之江、(下今井・二之江の一部は葛西村の大字となる)
・葛西村大字桑川村。大正2年瑞穂村を瑞江村に改称。昭和7年江戸川区下鎌田町・前野町・当代
町・今井町・下今井町・二之江町・桑川町。同13年前記7町下鎌田町・前野町・今井町・二之江
町の各南部・当代町・下今井町の全部町を併せた町域を現行の「江戸川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 江戸川の由来
 町名は、町の南部を流れる江戸川から採用したが、放水路が出来て旧江戸川になってしまった。
「おくまんだし」があり江戸川の最も江戸川らしいところから特に町名に採用した。東北から南西
に長い町域で中川を挟んで東に1~4丁目、西に5~6丁目となっている。6丁目は「二之江1~
5丁目」が予定されているが住民の反対が強く実施できない模様。1~5丁目については予定すら
立てられない。
 


「陽だまりの中で」 ◇
 江戸川1丁目4番10号先東井堀親水公園にある腰を下ろし脚を伸ばして赤子を愛しそうに抱きし
める裸婦銅像。谷口淳一の作品。


江戸川一丁目第二児童遊園
 江戸川1丁目5番1号にある区立公園。


第六天社 → 前川神社
 江戸川1丁目6番1号にある中社。旧前野村の鎮守で、素盞雄命、面足神、倉稲魂神を祀る。無格
社で別当は不動院だった。元は第六天社といったが、明治9年新政府に前川神社と改称させられた。
新小岩香取神社の兼務社。「新編武蔵風土記稿」前野村の項に、

   第六天社 村の鎮守なり。不動院持

 とある。住所が定まらない。江戸川1丁目7番24号に社務所があって神社境内は隣にある。グー
グルで検索しても、同じ場所で・・・チンプンカンプンだ。総てが新築で、鳥居に「平成21年9月
吉日建之」とある。それで境内には社務所らしき建物のもある。移転したのかと思うと、地図で社務
所とあるところにも小祠がある。江戸川区は住居表示を繰り返しているからダブっているのかも。
 「東京都神社名鑑」に、

   鎮座年代不詳。別当不動院持のところ、明治元年御改正につき東浮田村彦田斎神官拝命、
   同七年四月二日上鎌田天祖神社に兼務御仰付られる。昭和二十五年西小松川道ヶ崎香取神
   社亀井悦造神官拝命、昭和五十三年亀井瑞雄拝命さる。正月元日初詣りに神変大加持亀井
   和泉守九字切矢の授与ありて大いに賑わう。例年節分の日は、道ヶ崎香取神社に奉幣を総
   代が行なう。


 とある。境内に石祠が3基あり、2基は「水神社」と刻む。
 


江戸川一丁目児童遊園
 江戸川1丁目16・28番にある区立公園。


江戸川一丁目公園
 江戸川1丁目18番9号にある区立公園。


川向山不動院大滝寺

 江戸川1丁目22番にある真言宗豊山派、葛飾正福寺末だった寺。江戸川土手沿いの道から入る。
本尊は興教大師作という不動明王立像。元亀元年(1570)頃、覚俊法師が東国遊化の砌当地に留
まり、持仏の不動明王立像を安置して草堂を結んだのが始まりという。その後度々江戸川洪水の被害
を受け、一時は無住になったが、文化十二年(1815)恵定僧都によって堂宇を再建中興した。そ
の本堂は大正6年の台風で大破したため、同10年に再建した。昭和14年に長谷寺の門末となり、
終戦後は近くの西光寺がその護持に当たっている。左は墓地、正面奥に現在の客殿・庫裏・本堂があ
る。堂々たる鉄筋コンクリートの新築だ。
 寺宝として十三仏画像3幅・恵比寿木彫座像(伝恵定僧都作)・梵鐘(文久十二年の銘)などを所
蔵する。「新編武蔵風土記稿」に、

   (前野村)不動院
   新義真言宗、上小松村正福寺門徒。本尊不動を安す。


 とある。
 


■東京シオン教会

 江戸川1丁目28番8号にある日本キリスト教団の教会。
 


■江戸川小学校

 江戸川1丁目37番にある区立校。昭和43年鎌田・下鎌田両小学校の分校として新設。鎌田小か
ら334名、下鎌田小から384名がそれぞれ移籍、新入生275名と合わせて933名でスタート
「東京都江戸川区立江戸川小学校」の名で開校した。8月プール完成。同44年体育館完成。校庭舗
装。校歌制定。

 校歌
「朝の光に」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.朝の光に水鳥は
    群れて飛び立つ 優しく歌う
    元気だな 楽しいな
    我らも明るく健やかに
    江戸川校に仲よく育つ
  2.船のゆきかう川岸に
    芦の若芽もすくすく伸びる
    大らかな夢が湧く
    自立の気風も溌剌と
    江戸川校に燃え立つ力
  3.空は遥かに 広やかに
    仰ぐ心は何でも晴れる
    頑張るぞ やり抜くぞ
    弛まず進み逞しい
    江戸川校は・/FONT>われらの誇り


 同46年下鎌田東小学校を分校して、児童618名を移籍。それでも27学級817名が残る。同
48年創立5周年記念式典。同62年プール改修。同63年体育館改修。
平成2年藤棚完成。同5年
創立25周年記念の集い。同10年パソコン教室設置。同12年グリーンクロスジャパン奨励賞(学
校の部)受賞。同13年グリーンクロスジャパン
学校優秀賞受賞。同15年校舎耐震化工事完了。同
17年グリーンプラン推進校。「人権の花」実施校。同18年壁面緑化。同19年中央階段手すり設
置。校舎外壁改修。同20年校舎内壁改修。同22年校庭改修。同23年プール改修。
 


■江戸川一丁目東児童遊園

 江戸川1丁目41番にある区立公園。

 當代稲荷神社
 園内にある小社。祭神は倉稲魂命。当代島村の鎮守社。「新編武蔵風土記稿」当代島村の項に

   稲荷社 村の鎮守とす。村持。

 とある。
 


■江戸川一丁目南児童遊園

 江戸川1丁目43番にある区立公園。
 


■成田山不動明王石造道標
(昭和57年2月8日 区登録有形文化財・歴史資料)

 江戸川1丁目48番11号JA東京スマイル鎌田支店脇にある。最近まで東瑞江の豊田神社境内に
保存されていたが、地元有志の努力で元の成田道の旧位置、前野と下鎌田の境に近い江戸川農協鎌田
支所の向かって右端に移された。高さ台座とも1.63mあり、表面に「成田山不動明王」と力強く深
く彫られており、見事な出来栄えは区内でも出色のもの。台座の正面に「右行徳」「左市川」と記す。
文政九年(1826)の建立だ。文化財指定先は1丁目町会に対して行われている。
 しかし雨露を凌ぐ鉄製緑色の覆屋は何ともはや不粋、何とかならかもんかいな!
 

   成田山不動明王石造道標             江戸川区登録有形文化財・歴史資料
   江戸時代から成田山の不動信仰が盛んで、区内の各村から成田へ参詣する人々も多かった
   とみえ、成田山への道標がいくつか建てられています。この成田山不動明王石造道標もそ
   の一つで、文政九年(1826)下鎌田村成田講の講中によって建てられました。
   正面には、成田山不動明王の文字が彫られ、右面に江戸道・台座正面に行徳・市川の方向
   を示しています。当時の市川道(篠崎街道)を通り、この道標によって伊勢屋村(江戸川
   水門のあたり)から、〝河原の渡し〟で江戸川を渡るか、すぐ江戸川方向に曲がり〝前野
   の渡し〟で江戸川を渡り、成田山へ向ったと思われます。
   この道標は江戸時代における庶民の生活、特に民間信仰のありさまを伝える貴重な資料で
   す。
   昭和63年3月                        江戸川区教育委員会


■江戸川清掃工場

 江戸川2丁目10番にある区の施設。昭和41年に建てられ、平成5年に建て替えられた。焼却能
力600t/日、23区が利用している
 

 
ゆりかもめ7羽
 煙突に画いてある。高さ150m。
 


■くつろぎの家公園

 江戸川2丁目14番にある区立公園。

 
くつろぎの足湯
 くつろぎの家の前にある。


■江戸川二丁目広場

 江戸川2丁目15番にある区立公園。


■下鎌田東小学校

 江戸川2丁目21・22番にある区立校。昭和46年江戸川小学校から分校し、児童628名(江
戸川小の記録では618名)を移籍し、下鎌田小からも77名が転入して「東京都江戸川区立下鎌田
東小学校」として開校。同47年校歌制定。

 校歌「光輝く江戸川の」 作詞・桜井富夫  作曲・渡辺茂
  1.光輝く江戸川の
    広がる大地 青い空
    緑の風に誘われて
    鍛える体 逞しく
    伸び行く処 下鎌田東
    心の故郷 我らの母校
  2.流れ豊かな江戸川の
    葦の河原を舟行きて
    白鷺遊び 小鳥飛ぶ
    仲良くみんな 助け合い
    平和な処 下鎌田東
    心の故郷 我らの母校
  3.緑溢れる江戸川に
    聳える校舎 我が誇り
    遥かに浮かぶ富士筑波
    望みは高くやり遂げる
    子供が揃う 下鎌田東
    心の故郷 我らの母校


 同48年プール完成。同58年岩石園完成。同59年アスレチック完成。同60年ランチルーム完
成。平成2年パソコンルーム設置。同13年創立30周年記念式典。同18年創立35周年記念式典。
 


■庚申塔 ◇

 江戸川2丁目23番64号須賀邸の庭にある。外からみえる。駒型・日月・青面金剛像・邪鬼・三
猿。「明治二十年四月四月吉日」と刻む。

■宿なかよし公園

 江戸川2丁目30番1号にある区立公園。


■江戸川二丁目公園

 江戸川2丁目35番にある区立公園。


■江戸川二丁目児童遊園

 江戸川2丁目37番にある区立公園。


■第二江戸川児童遊園

 江戸川3丁目1番にある区立公園。


■山王神社

 江戸川3丁目5番4号にある中社。鳥居、狛犬、社殿、水盤などすべて新築。鳥居の扁額は「日枝
神社・三峯神社」を併記している。


天川山寂光院明福寺

 江戸川3丁目8番にある浄土宗の寺。縁起によると、嘉禄二年(1226)親鸞聖人が常陸笠間か
ら帰洛の途上に立ち寄り、炎天で水不足の時だったので、老人に請われるままに雨乞いの行をしたと
ころ、一天俄かに掻き曇って大雨が降ったという。老人にこの地に留まるように懇請された親鸞聖人
は池の畔に草庵を結び3年ほど滞在したという。本堂の裏には雨乞いをした鏡が池と親鸞聖人が袈裟
を掛けたという袈裟掛けの松(2代目)がある。
 鎌倉幕府滅亡後の戦乱で荒廃したものの、浄土宗鎮西派の沙門徳誉笈公が文明年間(1469~8
7)に浄土宗寺院として再興したという。木造親鸞聖人坐像、木造聖徳太子立像等文化財を所蔵。
 篠崎街道に入口があり、立派な石柱の寺号標識が建ってる。そこに石碑があり「親鸞聖人御旧跡」
とある。入ると左側は併設のルンビニー学園(幼稚園・保育園)だ。参道を行くと右に小堂がある。
佃観音堂(子育観音)だ、昭和10年に佃島から移転してきた。
 また石仏の観音が安置してある。これと並んで露出の「水かけ地蔵尊」。次の小堂は大師堂。「新
四国霊場南葛八十八ヶ所」の28番、大日如来と弘法大師坐像を安置してある、明冶43年の建立。
その次が露出の、1m強の「慈母観音立像」。次の立派な堂は太子堂、親鸞聖人が持参したといわれ
る聖徳太子の僧形立像(像高1.5m 強)と脇に親鸞聖人所縁の毘沙門天と観音菩薩が安置されてい
る。この辺りは傘職人が多く、その人たちの講がある。次は親鸞堂、鉄筋コンクリート、掲額の字は
浄土真宗本願寺派太谷光照門主の書。現在は持田栄一記念図書館という看板がかかってる。しかし中
を覗くと、立派な仏壇とピアノと講義を受けるような教養の机多数と椅子多数があって法話などには
大変便利なところだ。親鸞聖人御自作といわれる真影(昭和57年区指定有形文化財)を安置、また
親鸞門徒による鎌田講があって、毎年報恩講があったが、最近は太子堂と併せて4月第三日曜日に催
されている。池に自身の姿を映して自ら刻んだのが二尺五寸の尊像だ。それから池は「鏡ヶ池」とい
われるようになった。本堂の裏の墓地の手前にある。現在の親鸞堂は親鸞聖人700年遠忌の時に鎌
田講の講元原田吉蔵の寄進によって建立されたものだ。正面の本堂は、本尊阿弥陀如来、脇士観音・
勢至菩薩を配し、脇壇に法然上人尊像を安置、昭和3年の改築の建物だ。本堂の左に庫裏、木造2階
建と鉄筋コンクリート3階建。本堂の裏は墓所で、ここに親鸞聖人の石碑が、旧(寛政11年)と新
(親鸞聖人700年遠忌の時)と2つ建っている。「新編武蔵風土記稿」の下鎌田村の項に、

   明福寺
   浄土宗、上今井村金蔵寺末。天川山寂光院と号す。当寺は親鸞の旧跡にて、今も二十四輩
   願詣の地なり。縁起によるに、親鸞常陸国笠間郡稲田と云処に隠棲し、嘉禄二年の初帰洛
   の意ありて庵室を出、同き六月当地に来り、炎暑堪えたければ池邊の柳陰にしばらく疲労
   をいこひしが、たまたま老翁の勧に應して雨を祈りしに、不思議や霊験ありて、空かき曇
   り雷雨軸を流せしかば、萬民喜悦の思をなせり。日も既に暮て親鸞かの樹陰に暫しまどろ
   む処に、さきの老翁とみしはこの林中の毘沙門なることを夢む。覚て後果て林中に毘沙門
   堂ありしかば、則其傍に草庵を結び、所持せる処の聖徳太子自作の像を安置し、住するこ
   と三年にして安貞二年の春帰洛し、猶遺蹟は相続してありしに、其後数度の兵乱に遇て潰
   廃せしを、文明年中鎮西派の沙門徳誉笈公ここに来り、廃れたるを興し今の宗派に改むと
   云。よりて今笈公を開山となせり。本尊阿弥陀を置。
   寺寶。
   三尊阿弥陀画像二幅、恵心の筆なり。
   太子堂、聖徳太子自作の尊像なり。長3尺、傍に毘沙門観音の二体を安ず。毘沙門は慈覚
   大師の作なり。
   堂、親鸞自作の坐像を安ず。長2尺5寸。
   鏡ヶ池、親鸞自ら真影を彫刻する時、此池に影を写して刻めり。故に此名あり。
   袈裟掛松。親鸞此松に袈裟を掛しゆへ此名あり。古木は枯て植つきしものな
り。

 とある。区の説明板は以下の通り。

   明福寺
   浄土宗で天川山寂光院と号し、阿弥陀如来を祀っています。縁起によると嘉禄二年(12
   26)親鸞聖人が常陸国笠間郡から上洛の途中、この地の人々が昇天に苦しんでいたので、
   雨乞いをし、雨を降らせて村人を救ったのが縁となって、草庵を結んだのがはじまりとい
   われています。
   本堂の裏、雨乞いをしたという所に「鏡が池」と「けさ掛けの松」があります。この池は
   聖人が自らの像を彫るため、御姿を写したともいわれ、また、この松は聖人がけさを掛け
   たともいわれていましたが、昭和24年の台風で倒れ、今は二代目の松が植えられています。
   江戸川区教育委員会

 親鸞堂
 本堂に向って右側手前、親鸞の御影を祀るお堂。昭和35年の建立。


   親鸞堂
   親鸞聖人ご自作と伝える御真影を安置しています(御像は区文化財指定)。
   当明福寺は親鸞聖人の24輩の一つと伝えられ、古くから旧都内の浄土真宗門徒の人々に
   よって鎌田講が組織され毎年5月8日に報恩講が勤められていました(現在は4月第3日
   曜日に太子祭と併せて勤修しています)。
   当寺に伝わる 親鸞聖人縁起によれば、
   聖人は常陸国稲田に隠居されていましたが、50余才のころ京都へお帰りになろうと、嘉
   禄二年(1226)庵堂を出て同年6月の初め下鎌田村にお着きになりましたが、炎暑甚
   だしいので、旅の疲れを休めようと池の畔の柳の陰に佇んでおられた時 老翁が現れ 炎
   熱の時 幾日も雨降らず田の苗焦がれている このようでは農民が餓死するのも近いので
   万民を哀れみ雨乞いをしたまえと申しました。聖人は西に向って礼拝合掌し、声高らかに
   「天下和順 日日清明 風雨以時 災属不起 国豊民安」と唱えられ 念佛十返したまう
   と、雷轟き、雨雲天を覆い、大雨が降り、農民は救はれました。
   老翁が暫く此地に止まり 衆生を教化したまえと願いましたので 池の畔に草庵を結び、
   所持の聖徳太子の真影を安置し住まわれること3年 池の水に影を映し自身の像を刻まれ
   残しおかれたのが安置するニ尺五寸の尊像なり。老翁は南の方の堂内安置、毘沙門天の変
   化なり
   とあります。影を映された池を「鏡ヶ池」といい本堂裏にあります。
   現在のお堂は、昭和35年親鸞聖人700年遠忌に当り、鎌田講々元原田吉蔵氏の寄進に
   より移築建立されました。堂額は、浄土真宗願寺派大谷光照門主の書です。

 木造親鸞上人坐像(昭和57年2月8日 江戸川区指定有形文化財・彫刻)
 親鸞堂に安置されている。親鸞聖人自らの手になる像と伝えられるが、鎌倉から南北朝時代にかけ
ての作と考えられる寄木造り、墨色塗の古作。ほぼ等身大の坐像で、親鸞の面影を写実的な技法であ
らわされ優れた彫刻だ。


 太子堂
 木造聖徳太子立像を祀る。此の像は、聖徳太子16歳の孝養像と呼ばれる容姿で、髪を振り分けに
柄香炉を手にしている。高さ117cmの寄木造り。室町時代の作と推定されており、近年彩色補修
がなされた。親鸞は青年期に聖徳太子を信仰していたともいわれ、この像も親鸞ゆかりのものと伝え
られている。


   太子堂
   親鸞聖人が所持されたと伝える聖徳太子の像形立像と脇に親鸞聖人縁起ゆかりの毘沙門天
   と観音菩薩とが安置されています。
   太子堂は当明福寺が別当として所管し、昭和初めまでは下鎌田村の村中がお祭を行ってき
   ました。また太子は 古来曲尺の師、職人の祖として崇められ、職方の講が小岩・葛西・
   浦安方面にあります。かって傘製造が盛んであった昭和10年代頃までは 小岩方面を中
   心とする傘職人の講中もありました。
   現在は下鎌田 今井を中心に太子講が組織され、例祭が勤められています。
   聖徳太子の御命日は2月22日で、月おくれの3月22日に例祭が修されていましたが、
   現在は4月第3土・日に勤めています。
   堂額は、江戸末期の著名な書家、深川の三井親和の書です。

 大師堂
 境内にある小堂。


   大師堂
   本尊大日如来 尊像と弘法大師の像が安置されています。
   明治43年に新四国南葛八十八ヶ所第28番の札所として建てられました。四国までは遠
   くて巡礼できないので下町の庶民のために南葛飾郡(現在の江戸川区 葛飾区 足立区)
   のお寺をえらんで建てられたものです。
   堂右側の石碑には、
   表に「新四国南葛八十八ヶ所 弘法大師 第二十八番札所 明福寺」
   右に「明治四十三年三月十二日」
   裏に「神田 日本橋 魚がし」
   の文字が見えます。


 木造聖徳太子立像(昭和57年2月8日 江戸川区登録有形文化財・彫刻)
 太子堂の尊像として信仰され、像高117cmの寄木造り。等身大の像として都内でも有数の太子
像だ。聖徳太子16歳の孝養像と呼ばれる容姿で、髪を振分けにし柄香炉を手にしている。太子自作
の伝承がある仏像だが、室町時代の作と推定されており、近年彩色補修がなされた。親鸞は青年期に
聖徳太子を信仰していたともいわれ、この像も親鸞ゆかりのものと考えられる。
 他に、毘沙門天像・観音像を祀っている。

 佃観音堂(子育観音)
 石柱門を入ったみぎてにある。

   佃観音堂(子育観音)
   昭和10年中央区佃島から移したもので観音菩薩が安置されています。由来によれば 明
   治3年2月佃島の一漁師が海中より拾いあげ我家の傍らに安置し供養していました。霊感
   灼たかで、誰いうとなく子育観音と名づけました。
   ある夜、佃己之の妻女に「閑静な所に移りたい」とお告げがあり因縁を辿って、当明福寺
   境内に奉安されました。
   現在も 佃己之の子孫の方によって維持されています。赤子を抱えた母親がお乳がよく出
   ますようにと願をかけた祈りが込められています。

 
ルンビニー学園
 幼稚園と保育園を経営している。心を育てる宗教教育(仏教情操教育)。江戸川では稀に見る緑の
多い園庭。自園栄養士の献立による園内調理の温かい給食。コンピューター管理のIDカードによる
セキュリティーシステムの導入。区内初の幼児教育総合施設。3~5歳児。

 
出羽三山の碑
 境内にある自然石の碑

   
月山 湯殿山 羽黒山 


■仏像

 江戸川3丁目9番の宮沢雅夫宅の庭に露仏の阿弥陀如来(?)像があるようだ。写真あり。


■当代橋児童遊園

 江戸川3丁目10番にある区立公園。


龍龜山清泰院浄興寺

 江戸川3丁目22番5号にある浄土宗の寺。文永三年(1266)源清和尚が草庵を結んだのが始
まりで、弘安の頃(1278~87)記主禅師が鎌倉光明寺から下総国鏑木光明寺へ往来する際に当
庵に宿泊、当時の住僧が開山を願ったと伝えられる。
 記主禅師は、良忠字然阿といい、大本山鎌倉光明寺の住職を勤めた他、鵜の木光明寺を中興、鴻巣
勝願寺などを創建した浄土宗の第三祖とされた名僧。
 本尊は阿弥陀如来。永正六年(1505)連歌師柴屋宗長の紀行文『東路のつと』にこの寺を訪れ
た記事がある。境内に3基の筆子塚がある。筆子というのは生徒の意で、教え子たちが先生(師匠)
に感謝報恩して建てた石碑。筆親というとちょっとニュアンスが違ってくるので使わないように。恥
かくよ。つまり別の意味なんだよ。
 山門を入ると左に墓地、右は駐車空間と鐘楼、そして洋式の庭と洋式3階建ての庫裏。和風の本堂
も含めすべて鉄筋コンクリートで新しい設計。「新編武蔵風土記稿」の上今井村の項に、

   浄興寺
   浄土宗、増上寺末。龍龜山清養院と号す。文永三年源清と云僧。始て草庵を結びしが、弘
   安年中記主禅師鎌倉光明寺より下総国鏑木光明寺へ往来すとて、偶々当寺に宿りしに、時
   の住僧禅師の大徳ある事を聞き、幸なる結縁にぞありとて、請て話したると云。記主禅師
   は浄土宗傳燈録によるに、良忠字然阿、姓は藤氏、石州三隅人弘安十年七月六日河内国勝
   願寺に於て寂すと云、其傳記詳なれど当寺を創せし事は見えず。按に永正六年宗長が記せ
   し東路土産に云、角田川の河舟にて、下総国葛西の入江の内を半日ばかりよしあしを凌ぐ
   折しも、霜かれは難波の浦に通ひて、隠れて住みし里々もえたりおしかも、都鳥堀江こく
   心地して、今井といふ津よりおりて、浄土門の寺浄興寺にて迎え馬人待つほどに、住持出
   で物語の序でに、発句所望ありしを、とかくすればほどふるに立ながら、富士の根は遠か
   らず、雪の千里かな、方丈の西さしむかひ、富士曇り無く見え渡るばかりなり云々。又北
   条氏康が武蔵野紀行に云。ここに葛西の庄浄興寺の長老、歳八十余に及べるが迎へに出で
   られ、寺内に立より一宿すべきよし申されければ、河を渡り彼の寺に行て一宿するに、夜
   に入風ひややかに吹たり。松風入琴といふこと思い出でて、松風の吹く声聞けば夜もすが
   ら、調べ事となる音こそ変わらね、明くれば駒を早めて皈らんとすとあり。是等に拠ても
   古より荘厳の寺なりし様思ひ知らる。然るを今木下川村浄光寺の新縁起に、以上二紀行の
   事を付会したれど、もとより寺号の文字も異なり、且今井の津より下りてといひ、河を渡
   りて彼の寺に行くなど書るにて、当寺の事蹟なることを明けし、本尊阿弥陀及び二菩薩の
   像を置り。
   末社。山王、稲荷。
   琴弾松。大きさ二囲ばかり。枝葉垂て三方へ繁茂し、樹のさま誠によろし。是氏康が詠歌
   により此名を取れりと云。

 とある。区の説明板に、

   浄興寺
   浄土宗の古刹で龍龜山清泰院と号し、元は芝増上寺の末寺でした。文永三年(1266)
   源清和尚が草庵を結んだのが始まりで、弘安年間(1278~87)に記主禅師が鎌倉の
   光明寺から下総の光明寺へ赴く途中、この寺に一宿時住持が開山を願ったものといわれま
   す。
   ◇木造大塚氏先祖夫妻坐像(区登録有形文化財)
   大塚家は今井村の草分けで、寺にある坐像は江戸時代初期の作と推定されています。
   ◇大塚宗蔵の墓(江戸川区登録有形文化財)
   大正初年頃まで区の地場産業だった梨栽培の創始に力を尽くした大塚宗蔵(文政七年没)
   とその家族の墓です。
   ◇新川梨の碑(江戸川区登録有形文化財)
   文政八年、宗蔵の一周忌に建てられました。
   力誉上人・順定和尚・声誉上人随誉上人の筆子塚3基(江戸川区登録有形文化財)
   寺の歴代住職は寺子屋を開いて村人の教育に務めました。三基とも長卵形の石造無縫塔で、
   筆子たちによって建立されたものです。
   平成5年3月                         江戸川区教育委員会


 とある。末寺は泉福寺(東瑞江)・安養寺(東瑞江)・西光寺(江戸川)・法養寺(西一之江)の
4ヶ寺。

 紙本着色十王図(平成6年2月22日 江戸川区有形民俗文化財・民俗資料)
 地獄・極楽の思想を纏めたものに日本天台の学僧源信の『往生要集』がある。殊に地獄に関する描
写に優れ、以後の日本人の地獄・極楽観の基礎になったばかりでなく、中国へも渡って大きな影響を
与えた。地獄において、罪人亡者どもが苦しむ様を図にしたものを「地獄変」または「地獄変相」と
いう。
「十王図」は『十王経』の内容を図にしたものだ。『十王経』は偽経(疑経)の一種で、中国・朝鮮
で行われたもの(『仏説閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』唐末、9世紀末~10世紀初頃か)と
日本で行われたもの(『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』鎌倉時代初期、12世紀頃)の2種がある。
十王信仰は、中国唐末辺りから盛んになったといわれ、敦煌の「十王図巻」(大英博物館蔵ほか)が
知られている。日本でも平安時代末期辺りに十王信仰が入ってきて、鎌倉時代に急速に広まった。
 『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』にいう十王とその本地仏は次の通りだ。
   17日 秦広王(不動明王)
   27日 初江王(釈迦如来)
   37日 宋帝王(文殊菩薩)
   47日 五官王・伍官王(普賢菩薩)
   57日 閻魔王・閻羅王(地蔵菩薩)
   67日 変成王(弥勒菩薩)
   77日 太山王・太山府君・泰山王(薬師如来)
   百箇日 平等王(観音菩薩)
   1 年 都市王(勢至菩薩・阿閦如来)
   3 年 五道転輪王(阿弥陀如来)
 浄興寺の十王図は、観音と地蔵の2幅を加えた12幅構造で、図様も簡素化している。これらは、
敦煌の「十王図巻」がそうであったように、講唱説教・絵解きに用いられた。

 琴弾の松の跡
 この寺を訪れた北条氏康が天文十五年(1546)にこの寺に一泊した時、境内の老松に渡る美し
い風音(松籟)を聞いて、

  松風の吹く音聞けばよもすがら調べ異なる音こそかはらね

 と詠み、その松を「琴弾松」と名づけたと伝わっていた。残念ながら今は枯れてないが、思えば、
昔はそれだけの自然環境に恵まれていたということだ。同名の松は、宮崎・滑川・鎌倉・名古屋など
にあったりしたようだ。松籟を「まつかぜ」と読ませて、風が松の枝葉に当たって鳴る音をいう。無
論「しょうらい」とも読む。

 木造大塚氏先祖夫妻坐像
(昭和56年1月13日 江戸川区登録有形文化財・彫刻)
 東葛西の大塚宗蔵は「新川梨」の発明者。寺は大塚家の菩提寺。大塚家は、江戸時代初期の今井村
の草分けです。この2体の像は、その先祖で永禄七年(1564)に没した夫妻の肖像彫刻だが、制
作は江戸時代の初期と推定される。高さ42cm。

 大塚宗蔵の墓(昭和60年3月12日 江戸川区登録史跡)
 大塚宗蔵は大和(奈良県)の人で、江戸時代の末にこの地に移り、大塚家の分家を継いで、梨栽培
の導入に尽力。梨は新川梨と呼ばれ、大正初年まで、江戸川区の地場産業の一つにもなっていた。

 力誉上人筆子塚(昭和62年2月25日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 筆子塚とは、江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算術や実務教育を教わった
教え子が、師匠が亡くなった際にその遺徳を偲び、自分たちで費用を出し合って建てた墓や供養塔の
ことだ。浄興寺は浄土宗の古寺で竜亀山清泰院と号し、元は芝増上寺の末寺。文永三年(1266)
源清和尚が草庵を結んだのが始まりとされている。弘安年中、鎌倉光明寺の記主禅師の開山と伝えて
いる。江戸時代に同寺の歴代住職は寺子屋を開いて熱心に村民の指導教化に努めた。力誉上人は、浄
興寺24世で寛政二年(1790)に入寂した。

 
順定和尚筆子塚(昭和62年2月25日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 順定は、浄興寺24世力誉上人の弟子で、当寺25世の和尚を務めた。

 声誉上人・随誉上人筆子塚(昭和62年2月25日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 江戸時代、浄興寺の歴代住職は寺子屋を開いて、村人の指導に当たった。そのため筆子たちが、報
恩感謝のために筆子塚を建てた。声誉は浄興寺26世、随誉は27世だ。塚は高さ2m余りの長卵形
の無縫塔(むほうとう:主に僧侶の墓塔として使われる石塔)で、右側には「文政十二己丑年十二月
十四日」、正面には「二十六世、聲誉上人、随誉上人、二十七世」とあり、台座には「筆子中」と刻
まれている。ここから文政十二年(1829)に2人を慕う筆子等によって建てられたことが伺える。


 新川梨の碑(昭和56年1月13日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 江戸時代に下今井村で梨の栽培に成功した大塚宗蔵の功績を讃えた記念碑だ。文政七年宗蔵の一周
忌に、その子吉豊によって東葛西の大塚家敷地内に建てられたが、昭和48年道路造成のため、大塚
家の菩提寺に移された。梨は、宗蔵没後も栽培が続けられて地場産業の一つにまでなったが、明治の
終わりから大正時代にかけて衰退し消滅した。碑には、

   
楽誉君種梨樹碑

 とある。所在不明となっていた宗藏の墓は墓地奥に確認された。

   郷土資料 新川梨の碑
   下今井村の大塚宗蔵は梨の栽培に力を尽し、苦心して新川梨をつくり出した。享和の頃、
   10株ほどの種梨を植えたのがはじまりで、その後、屋敷内を開いて梨畑とし、文政四年
   (1821)には将軍家に献上するようになり、甲州梨に劣らぬ美味で、「新川梨」と呼
   ばれるようになり、文政年中には、附近の村々に普及するようになった。
   江戸川区の集■栽培の先覚者で、文政七年四月六十九歳で歿し浄興寺に葬られた。
   この碑は、その子吉豊が屋敷内に翌八年正月に建立したものである。裏に周蔵の辞世の歌
   が刻まれている。昭和46年5月宅地造成のため旧地から撤去されていたので、菩提寺で
   ある本寺に移されて再建されたものである。
   昭和48年2月                        江戸川区教育委員会
 


■新川梨
 『江戸名所花暦』に梨の花の名所として、

   南新川、利根川(江戸川)の上、雷不動(真蔵院)の脇、農家新平の園中二千坪

 と紹介されている。2000坪は70アールだ。この辺りは新川大田区六郷と並ぶ梨の産地だった
のだ。享和の頃(1801~04)大塚宗蔵は大和国から江戸に流れてきた武士の子。この土地が梨
に適している判断した宗蔵は、まず10株で試し、好結果を得たので、息子の吉豊と力を合わせて研
究し、棚栽培を始めて、800本を植えた。文政四年(1821)に幕府に献上、これから新川の地
場産業となった。
 


宝徳山寿松院
金蔵寺
 江戸川3丁目23番4号にある浄土宗の寺。魁誉覚願(応永二十二年(1415)寂)が開山とな
り創建、龍誉白道(享徳三年(1455)寂)が中興したという。
 「新編武蔵風土記稿」の上今井村の項に、

   金蔵寺
   同末(浄土宗増上寺末)、寶徳山寿松院と号す。本尊阿弥陀、長三尺二寸、聖徳太子の作。
   寶徳二年起立、開山魁誉覚願、応永二十二年十一月二十五日寂す。中興龍誉白道、享徳三
   年八月十五日寂す。


 とある。江戸時代には周辺の浄土宗寺院を末寺に擁する小本寺格の寺院だった。専称寺・清光寺・
智光院(以上東葛西)、誠心寺・明福寺(江戸川)の5ヶ寺。

 木造阿弥陀如来立像(平成9年12月24日 江戸川区指定有形文化財・彫刻)
 土宗宝徳山金蔵寺の本尊で、伝来は不詳ながら、寺の創立を遡る鎌倉時代前期に造像された木造三
尺立像の一作例と考えられる。当時は、新しい阿弥陀如来像の様式が生み出されようとする時期だっ
た。この像は、その最も初期の形態(恐らく12世紀末)をよく伝えている。袈裟を着け、左肩にお
いて肩紐で吊る鎌倉時代の作例は、京都知恩院の阿弥陀如来立像、滋賀延暦寺の阿弥陀如来立像、奈
良県西方寺の快慶作の像などが知られている。ヒノキ材の割矧造で、像高95.5cm。本堂壇上中央
に安置されている。彫刻も優秀であり、奈良仏師の系統を引く像容の整った阿弥陀如来立像だ。平成
6年に解体修理が行なわれている。


上今井八雲神社
 江戸川3丁目24番9号にある中社。創建は不詳だが永禄の頃にはあったらしい。

 「新編武蔵風土記稿」に、
 

   (上今井村)第六天社
   同寺持(円照寺持)下同じ。

 とあり、「江戸川区史」に、

   八雲神社(江戸川三丁目二四番地九号)
   創建は不詳であるが須佐之男神を祭神とし近くの香取神社の末社である。昔は特に江戸川
   を航行する舟人たちの信仰が厚く、七月の大祭には多数の舟人が講社をつくって参拝に来
   たという。大祭は通例七月の満月の晩に執行され、参拝者には「笹団子」という小笹に団
   子をつけた神符が授けられるが、この団子をたべると万病に効くといわれ、珍しい風習と
   して現在も続いている。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   八雲神社
   祭神は素戔嗚尊で、旧上今井村では、香取神社と並んで村人に尊崇された鎮守である。創
   建年月は不詳だが、昔は水路の神として信仰され、舟人たちが江戸川を航行して神社の前
   を通るときは、帆を下げて舟路の安全を祈ったといわれます。
   神門は祇園守紋で、形が胡瓜を輪切りにしたように見えるところから、土地の人たちには
   胡瓜の初物を神にそなえてから食する習わしがあった。
   ◇笹団子行事 
江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料
   七月の満月の夜の大祭には、請者に笹の枝に団子と神符をつけた「笹団子」を授け、無病
   息災を祈願する行事は、今も受け継がれている。
   昭和53年7月                        江戸川区教育委員会

 笹だんご行事(昭和60年3月12日 江戸川区登録無形民俗文化財・風俗慣習)
 無病息災を祈る行事です。旧暦6月15日、満月の日の夕方、八雲神社拝殿両脇の柱に長い笹をた
て、参拝者には、青笹の小枝に御札とだんごをつけた笹だんごを授ける。


■江戸川三丁目児童遊園

 江戸川3丁目24番にある区立公園。


■水神宮 ✓
 江戸川3丁目26番にある?


■江戸川三丁目第二児童遊園

 江戸川3丁目28番にある区立公園。


■上今井胡録神社
 江戸川3丁目41番、鎌田西通りに面してある小社。
 


金光山明玉院円照寺

 江戸川3丁目43番9号にある新義真言宗の寺。創建年代は不詳だが、空盛上人(享保十七年(1
732)寂)が中興したという。山門は近年の建築。「新編武蔵風土記稿」の上今井村の項に、

   円照寺
   新義真言宗、江戸護持院(護国寺に併合)末、金光山明玉院と号す。本尊不動を置。中興
   空盛、享保十七年年寂す。
   鐘楼、享保九年鋳造の鐘をかく。


 とある。

 木造地蔵菩薩立像(平成16年4月13日 江戸川区指定有形文化財・彫刻)
 像高63cm9mm、鎌倉時代(13世紀半ば頃)の制作と推定されるヒノキ材割矧造の仏像だ。
円頂で、裳・袈裟を着て、左胸に袈裟の留め金を付けており、衣文に当初の精緻な截金が残る。截金
は、金箔や銀箔を細い線や三角形・菱形などに切って貼り、文様を描き出す手法だ。左手を屈して上
掌に宝珠を乗せ、右手は軽く臂を曲げて錫杖(亡失)を執る形ちだ。本寺は新義真言宗で、不動明王
を本尊とする。江戸期に護持院末であり、この像は護持院から迎えられたと伝えられている。


■香取社 →
上今井香取神社

 江戸川3丁目44番8号にある。上今井村の鎮守で、経津主命を祀り、別当寺は地元円照寺。永禄
七年(1564)の創建といわれている。本地仏として十一面観音を奉安。社殿は昭和49年に再建
された。「新編武蔵風土記稿」に、

   (上今井村)香取社
   村の鎮守なり。円照寺持。永禄七年八月十五日勧請、本地佛十一面観音を置。
   末社、八幡。

 とある。区の説明板は以下の通り、

   香取神社
   旧上今井村の総鎮守で、経津主神を祀り、別当寺は地元円照寺だった。永禄七年(156
   4)の創建といわれています。本地仏として十一面観音が奉安されています。社殿は昭和
   49年に再建されました。
   
◇今
井の富士塚
     昭和58年3月登録
     江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料
   境内北側に富士塚と富士講の記念碑が建っています。
   今井の富士塚は、旧上今井村の上今井割菱八行講によって、昭和5年に築造されました。
   高さ約2.5mで、頂上に石祠を祀り、登山道の途中に「浅間神社」と刻んだ碑があります。
   そのほか、「元祖食行身禄」の碑や烏帽子岩、力石などを配しています。
   また富士塚のふもとには、寛延四年(1751)建立の庚申塔(青面金剛)があります。
   平成14年3月                        江戸川区教育委員会

 今井の富士塚(昭和58年3月15日 江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料)
 境内にある。昭和5年上今井割菱八行講によって高さ2mの塚山が築かれ、全体がボク石(溶岩)
で覆ってある。登山道は前後に設けられ山道は普通の石段になっており、山頂近くはそそり立ち富士
山の山容を強調している。山頂に石祠を祀り、山道の途中に「浅間大神」の碑がある。そのほか烏帽
子岩と元祖食行身禄の碑を配している。講は現在も続けられ、7月1日の山開き、1月28日の「初
拝み」などの行事を行っている。

   江戸川区登録有形民俗文化財(民俗資料)
   
今井の富士塚
   富士塚は、富士信仰の団体である富士講の人たちが、富士山の容姿をかたちどって築きあ
   げた小高い塚です。
実際に富士山に登拝することが出来なかった人たちも、この富士塚を
   参拝すれば富士山に登ったと同じ霊験があると信じました。
   この今井の富士塚は、旧今井村の上今井割菱八行講によって、昭和5年に築造されました。
   高さは2m、全体をボク石(溶岩)でおおい、前後に登山道を設け、そこだけ石の階段に
   しています。頂上に石祠をまつり、登山道の途中に「浅間大神」と刻んだ碑があり、その
   ほか「元祖食行身禄」の碑や烏帽子岩、指し石(力石)などを配しています。上今井割菱
   八行講は現在も盛んに活動しており、7月1日の「お山開き」、1月28日の「初拝み」
   などの行事を行っています。
   昭和60年3月                        江戸川区教育委員会

 香取神社御造営記念碑
 境内にある。

   香取神社御造営記念碑
   本神社は、永禄七年八月十五日の創建なり。当村は小田原役帳に「遠山丹波守 石高十七
   貫五百文 葛西今井上下」と記しあり。武州葛西領上今井村一帯の総鎮守として勧請せら
   れたり。社宝に菩薩像一基あり而して、当時名主榎本半兵衛、田島浅衛門などにより宮大
   工当村住人惣三郎が棟梁となり当時の社殿を御造営せらる。
   当社殿は明治初期の改築で老朽甚だしきにより氏子総代建設委員等心を一つにして社殿の
   御造営を相計り、敬神の念厚き氏子各位の御賛同に依り、昭和47年12月工を起す。同
   48年1月26日道ヶ島香取神社(新小岩香取神社)へ当社の御神を仮遷座す。同49年
   5月本殿竣工により正遷座を執行す。
   昭和49年7月27日                   香取神社宮司亀井悦造識

   まつりがさ八重の照妙明かる妙 鳴瀬



■今井北児童遊園

 江戸川3丁目49番にある区立公園。


薬王山慈眼院誠心寺(じょうしんじ)

 江戸川3丁目50番23号にある浄土宗の寺。文明元年(1469)に天譽竜顔が草庵を結び、慶
長七年(1602)行譽清教が創建。本尊は木造阿弥陀如来坐像と観世音菩薩立像。参道右に本堂、
鉄筋コンクリート平屋洋式の設計でマンションのようだ。本堂の左に庫裏がある。墓地は広い。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   (上今井村)誠心寺
   同末(浄土宗金蔵寺末)、薬王山慈眼院と号す。文正元年天誉龍頭と云僧始て草庵を結び、
   慶長七年住僧行誉清教の時、寺号を賜ひて一寺となりしと云。本尊阿弥陀、又薬師観音を
   置。この観音は同郡長島郡の海中より出現の由云傳ふ。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   誠心寺
   浄土宗で薬王山慈眼院と号します。文明年間(1469~1487)に天誉竜顔が草庵を
   結び、慶長七年(1602)行誉清教が一寺として創建したと伝えています。本尊は阿弥
   陀如来坐像と観音菩薩立像です。
   ◇木造阿弥陀如来坐像(区登録有形文化財)
   江戸時代の作で、高さ36cm。像容が整っており、光背も筋光背という珍しい様式です。
   ◇木造聖観世音菩薩立像(区指定有形文化財)
   南北朝(14世紀)頃の作と推定されます。像容の整ったすぐれた製作技術による寄木造
   りの観音像です。長島に住んでいた初代吉岡助左衛門が、海中より網で引きあげたという
   寺伝があります。
   ◇木造薬師如来立像(区登録有形文化財)
   室町時代の作と推定されます。高さ47.5cm。寄木造りで像容のおだやかな仏像です。
   このほか、境内には庚申塔(寛文八年〔1668〕銘及び寛文十三年〔1673〕銘)2
   基があります。ともに区登録有形民俗文化財です。
   平成2年3月                         江戸川区教育委員会

 木造薬師如来立像(昭和572月8日 江戸川区登録有形文化財・彫刻)
 室町時代の作で寄木作り。高さ47.5cmの寄木造で室町時代の作と推定される。厨子には岩座を
組んで、十二神将を配し、左右に日光菩薩と月光菩薩を置いている。


 
木造阿弥陀如来坐像(昭和57年2月8日 江戸川区登録有形文化財・彫刻)

 江戸時代の作、光背が筋光背で珍しいとか。江戸時代の作で、像底に「大仏師石見造」と刻銘があ
る。高さ36cmの小振りな像だが、足を大きく結跏趺坐させて、ゆったりとした構えをみせている。


 木造観世音菩薩立像(昭和57年2月8日 江戸川区指定有形文化財・彫刻)
 寄木作りで14世紀の作。『新編武蔵風土記稿』に「長島の海中より出現」したと書かれているも
ので、南北朝頃の作と推定される。高さ約1mの寄木造りで、表面の彩色は失われている。

 庚申塔(昭和59年2月28日 江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料)
 4基あるうちの一つ。寛文八年(1668)の銘を持つ、板碑型の文字庚申塔です。今1つ、寛文
十三年(1673)の銘を持つ板碑型の文字庚申塔。列記された造立主名は、ほとんど女性。平成2
5年の境内整備によって現在地へ移設した。
 


■神社 ✓

 江戸川3丁目52番2号にある小祠。
 


■今井の渡し跡 下江戸川橋 → 今井橋跡

 江戸川3丁目54番1号先にあった。江戸時代、防衛上の理由から、中川や江戸川には橋を架ける
ことが許されなかった。交通は専ら渡船によって支えられていたが、幕府によって公認されていたの
は小岩~市川の渡しのみだった。江戸川筋の今井の渡しをはじめ区内の渡しは、生活上の必要から農
作業時のみなど限定条件つきで認められていたもので「農業渡し」だった。
 その後今井の渡しは、下総国への要衡として成田参詣の人々に親しまれるようになり、『江戸名所
図会』にも描かれた。天保年間(1830~44)ごろの記録を見ると、

   女は今井を通さず、河原の傍の前野の渡へ廻る

 と示されている。「入鉄砲に出女」といわれたように、今井の渡しでさえも、女性の通行には監視
の目が行き届いていたことが窺える。なお前野の渡しは、今井の渡し同様、非公認の渡しで上流の篠
崎ポンプ場(東篠崎2丁目)付近にあったといわれる。
 明治に入ると、防衛上の交通規制が解かれたが、明治45年に下江戸川橋が架けられると今井の渡
しの歴史は幕を閉じた。現在は3代目の今井橋が架けられている。古くから文献に現われるこの渡船
場は、橋が架けられるまで一円の人々の往来、成田詣での人々の渡河の便を図り随分親しまれたもの
だ。永正六年(1505)連歌師柴屋宗長の紀行文『東路のつと』に渡し場の記事がある。また『江
戸名所図会』には「今井の渡場」の絵が載せられている。渡船場の跡は、今井橋のすぐ上流にあり、
高い堤防が築かれた出し杭の辺りだという。
 最初の橋は、大正元年に渡船場のところに木橋で「下江戸川橋」の名で架けられ、昭和26年に架
け替えられた。新しい橋はコンクリート橋で「今井橋」と命名され、同55年に廃橋となった。
 旧橋は歩道用として残す案もあったが、航行する船の問題もあり撤去された。今でも一部残された
橋脚の跡が干潮時に干上った砂地に見られる。現在でも旧橋の名残として行徳街道分岐終端の市川市
相之川1丁目の派出所に「今井橋交番」と名前が残っていたり、江戸川区側の篠崎街道に交差点の痕
跡が残っている。また昭和43年頃までは、現在の新今井橋の西詰付近に都営トロリーバスの折り返
し場があった。
 


■今井橋

 現在の橋は昭和55年に完成。それまでは現在の橋の50mほど上流側に昭和26完成の片側一車
線のコンクリート製の橋があった。しかし、交通量の増加により老朽化が進み、付近に慢性的な交通
渋滞が起こること、さらに橋脚の間隔が狭く川を航行する船が衝突して修繕工事のために片側車線が
閉鎖されることが度々あったため架け替えが行われた。現在も、1日に一度干潮で水位が下がると、
取り残しの橋脚の頭が5つ現れる。
 なお新今井橋は中川に架かる橋。連続陸橋で今井橋と繋がっている。

   今井の渡し旧跡
   寛政八年(1631)十月に許可された川幅114間(約207m)、水幅60間(約1
   09m)の渡し。大正元年初代の今井橋が架けられて役目を終えました。
   連歌師柴屋軒宗長が永正六年(1509)浅草から船に乗り、今井の津頭(ワタシバ)で
   下船、紀行文『東路の津登』で紹介したのが文献上のはじまりです。
   江戸時代になってからは、江戸からの客は乗せましたが、江戸へ行く客を渡すことは禁じ
   られていました。正保元年(1644)千葉の生実の城主森川半彌の家来男女二人久三郎
   とイネが駈落ちしてきて禁を犯して今井側に渡ろうとして捕えられて、船頭とその女房を
   含めて5名が磔の形に処せられました。今井の渡し場から1丁(約109m)下流にあっ
   た磔場に久三郎とイネは葬られて、目印の石地蔵が立てられて「ねね塚」といわれました
   が、何れの頃からかの洪水で、その所在は不明になったとされています(『葛飾誌略』)


■今井児童交通公園

 江戸川4丁目10番にある区立公園。交通公園とは園内に信号や交通標識、横断歩道を設けた専用
のコースを作り、自転車や足踏み式ゴーカートなどに乗りながら、楽しく交通ルールを学ぶことので
きる公園。勿論自転車等の貸出は無料。都内にはかなりの数の交通公園がある。
 


■瑞江中学校

 江戸川4丁目16番にある区立校。戦勝国アメリカの強制による学制改革により、昭和22年瑞江
小学校内に開校。生徒数238名でスタート。同24年現在地に新校舎落成して移転。同25年校庭
土盛工事完成。同26年自転車置場完成。同27年開校5周年記念式典。同29年校舎増築。同32
年開校10周年記念式典。同34年校舎増改築。同35年美術・理科室増築・同36年技術・家庭科
室増築。屋内運動場完工。同38年ミルク給食開始。同39年東京オリンピック聖火に2名伴走。同
42年鉄筋改築工事開始。同43年開校20周年記念式典。給食室完成・完全給食実施。同44年第
2期鉄筋改築校舎完工。同46年旧校舎解体。同47年第3期鉄筋増築工事完了。同48年第4期鉄
筋増築工事完了。同52年開校30周年記念式典。同57年2年生の菊作りが新聞報道される。同6
1年創立40周年記念バザー。同62年開校40周年記念式典。同63年機械警備実施。
 平成元年体育館落成。校庭夜間照明設置。同3年セレクト給食実施。同4年パソコンルーム開設。
同9年開校50年記念式典。同10年パソコンルーム改修・コンピュータ40台設置。正面玄関庇改
修。同12年校舎外壁塗装工事。インターネット接続。同14年校庭整備工事。同16年パソコンル
ーム整備(ノートパソコン40台導入)。同18年各教室に扇風機設置。給食室全面改修。同19年
開校60年記念式典。

 校歌
文化日本の」 作詞・葉山靖  作曲・天野義太郎
  1.文化日本の曙は
    若き生命の黎明よ
    望みに燃ゆる若人の
    漲る力いや高く
    憧
(あくが)れ集い育む処
  2.うまし日本の曙は
    若き生命の黎明よ
    黄金の波の揺れ揺れて
    白き甍に及ぶかな
    教えの実り育む処
  3.民主日本の曙は
    若き生命の黎明よ
    愛と力に勤しみて
    我らが母校に輝き添えん
    ああ伸びゆく瑞江中学
 


■下今井の行徳道石造道標(庚申塔)
昭和62年2月25日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料

 江戸川4丁目20番8号小島マンション(船宿「あみ弁」)前にある。「青面金剛」と刻んだ自然
石。高さ90cm。小島家の屋号は「はしもと」という。小島家の前は、現状は道路だが、以前は古
川が流れており、小島家の前に橋があった。その橋のたもとに道標が置かれていた。それを自宅の庭
に移したのち、昭和61年に自宅の新築に伴い店の入口に置いた。向かって右側面に「右行徳道」、
向かって左側面に「左江戸道」、正面に「青面金剛」の文字を刻む。


覚王山不動院真福寺

 江戸川4丁目23番8号にある真言宗豊山派の寺。宝徳三年(1451)に乗善法印が開山。後覚
誉上人が中興。山門を入って50mほど参道が続く。40mほど行って右手に墓所、左手奥に併設の
みずえ保育園。正面鉄筋コンクリート造り和風の本堂の左は庫裏。「新編武蔵風土記稿」に、
 
   真福寺
   新義真言宗、下小岩村善養寺末。不動院と号す。開山乗祐、寶徳二年四月寂す。本尊不動
   を安ず。


 とあり、「江戸川区の文化財」に、

   真言宗豊山派で覚王山不動院と号し、善養寺の末であった。宝徳三年(1451)乗善法
   印によって起立され、後に覚誉法印が中興した。本尊は不動明王。
   現在の本堂は、昭和45年鉄筋コンクリートで新築された。墓地内には下今井村出身で区
   内最初の代議士橋本省吾の墓がある。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   真福寺
   真言宗豊山派で、覚王山不動院と号し、本尊は不動明王です。宝徳三年(1451)に乗
   善法印が開山し、後に覚誉上人が中興しました。
   ◇法印中阿筆子塚
     平成12年2月登録
     区登録有形文化財・歴史資料
   真福寺墓地の歴代基壇上にあります。台石に「筆子中」と刻まれ、地元だけでなく、小岩
   地区の筆子の関係したことを示す銘文のある務縫塔です。
   ◇橋本省吾の墓(橋本家墓所)
   旧今井村出身で、明治27年に江戸川区で最初の衆議院議員となりました。当時困難を極
   めた海苔の養殖に於いて、漁民を励まし、改善を加え、養殖を成功させました。
   後に葛西浦漁業組合を設立、初代組合長となりました。
   平成15年7月                        江戸川区教育委員会

 とろけ地蔵
 火事か、風化等、何らかの影響で表面がとろけたようになっている。

 庚申塔
 参道入口を入った左手に2基ある。

 法印中阿筆子塚(平成12年2月22日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 筆子塚とは、江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算術や実務教育を受けた教
え子が、師匠が亡くなった際にその遺徳を偲び、自分たちで費用を出し合って建てた墓や供養塔のこ
とだ。真福寺墓地の歴代住職墓域にあります。台石に「筆子中」と刻まれ、地元だけでなく小岩地区
の筆子が助力に参加したことを示す銘文のある無縫塔。寺子屋の開業地を確定できないが、この寺の
住職が寺子屋で教授していたことを示す墓石なのだ。台石付石造無縫塔で、総高124cm。法印は
江戸時代に僧侶に授与された位階のひとつで、宗派それぞれに昇進の規定がありました。法印中阿は
真福寺の第10世住職で、天保九年(1838)四月二十七日に亡くなっていまる。
 真福寺は真言宗豊山派。明治初期に火災にあい本堂を焼失し、記録を失った。中阿が何処で教授し
たかは明らかではないが、寺を教場としたと考えるのが妥当だろう。筆子に小岩方面の者がいたこと
は、この寺が小岩の善養寺の隠居寺であったことに関係があると考えられる。師匠が出張したのか、
筆子が通ってきたのかは・・・どうだろうね。 
 


常報山阿弥陀院西光寺

 江戸川4丁目24番8号にある浄土宗の寺。天文元年(1532)一月常蓮社西誉報阿元光上人が
開山したという。入口を入ると左手に地蔵堂客殿という建物で正面に本堂、その右側に庫裏。裏手に
墓地が広がる。「新編武蔵風土記稿」に、

   (二之江村附持添新田)西光寺
   浄土宗、上今井村浄興寺末。常報山阿弥陀院と号す。本尊阿弥陀は小名あみだと云ふ田の
   中より出現せし像と云。中興開山元誉、天文二年十月二十四日寂す。
   熊野社


 とあり、境内の石碑に、

   浄土宗 常報山阿弥陀院西光寺と号し、人皇105代後奈良天皇天文元年(1532)一
   月、約460年前常蓮社西誉報阿元光上人の草創(開山)による。往時此の地一帯が海岸
   の芽地であった頃、開拓の時漂着していた佛縁を掘り起こし、漁人が草庵を結び、此の佛
   縁を安置す。此れ当寺の起源にして、昭和の代、地名改稱迄、尊像漂着にちなみ、武蔵国
   南葛飾群瑞穂村字阿弥陀新地と称し、墓地北側に西光寺橋があった。
   ご本尊は、木造阿弥陀如来坐像で、文久三年、第23世心蓮社念誉観明上人の代に修復、
   両菩薩は延享四年九月、第13世珍誉上人の代に、当所の須賀藤左衛門氏の寄進による。
   一説には行基の作との説もある。外に高祖善導大師、元祖円光大師(法然上人)の像を安
   置す。六道輪廻絵図12幅は当山の寺宝で地獄道餓鬼道・畜生道・修羅道・人間界・天上
   界を著す。毎年1月16日と7月16日、昔の藪入りの日にご開帳する。
   門前の道端に地蔵尊の石佛がある。昔古川を通過する漁師や舟人が塩を投げて必ず礼拝し
   たと伝えられ、塩舐地蔵・子育地蔵・水子地蔵と称され、永い風雪に形がくずれている。
   本堂は安政三年八月暴風により倒壊、明治28年第26世悟円上人の代に再建、昭和52
   年3月第31世忍誉昭孝の代に本堂屋根瓦の新規葺替。
   平成元年春彼岸中日に、当山檀信徒及び有縁の方々百五十余名の心温る浄財により、地蔵
   堂客殿60坪の落成なり佛教布教伝道の根本道場とする。
                            常報山西光寺31世忍誉昭孝敬白


 とある。
 


■宇田川家長屋門 解体 新築
 江戸川5丁目4番にある。木造茅葺きの平屋建てで、入口両脇の部屋には武者窓付。間口13m×
奥行3.2m軒下高2.5m。建築年代は判っていないが、江戸時代後期と想像されている。宇田川家
は宇田川喜兵衛定氏の子孫で、分家の一つ。二之江村の村役人を務めた家柄。江戸時代は身分格式が
あり、金が儲かったからといって好き勝手に門を構えたり、家をでっかくしたりすることは許されな
かった。それで秩序が保たれていた。江戸時代ならば「おれおれ詐欺」など引っかかりようがない。
 区の説明板に、

   宇田川家長屋門                    昭和56年1月指定
                              区指定有形文化財・民俗資料
   江戸時代の村では、建物にもさまざまな制限が設けられており、門構えを許された家も限
   られていました。長屋門は外観が立派なことと、両側を物置に利用できて便利なので、特
   に好まれました。宇田川家は江戸時代に二之江村の村役人をつとめていました。この門は
   江戸時代後期に建てられたと推定されています。茅葺きで、武者窓のあるのが特徴です。
   ◇二之江の行徳道石造道標               昭和58年3月登録
                              区登録有形文化財・歴史資料
   宇田川家長屋門の前にあります。高さ六十七センチ、周長一五二センチ、丸い自然石で正
   面には「是ヨリ左リ行徳道」、左面には「田中孫右衛門」とあります。もとはすぐそばの
   突留橋にありました。
   平成15年3月                        江戸川区教育委員会
    

 
指定解除
 とあるが、老朽化のため解体復元しようと調査したが、部材の白蟻の被害甚だしく平成24年4月
10日指定を解除した。宇田川家では、景観を維持するため藁葺き屋根を瓦葺きに改め、旧観を髣髴
とさせるデザインで新築した。少し間口が減少したようだ。

 二之江の行徳道石造道標 撤去移設
 門の前の丸石だったがない。元は現在地より西へ30mの突留橋の畔にあった。高さ67cm、回
り152cm。正面には「是ヨリ左り行徳道」、左面には「田中孫右衛門」とある。
 長屋門の指定解除により、
江戸川6丁目2番先の親水公園内に移された。


■江戸川投網保存会

 江戸川5丁目4番2号、船宿あみ元(会長関口幸彦 03‐3680‐1705)にある。平成1
3年5月江戸川区の船宿の経営者たちが集まって発足した細川流の投網技術を伝承する。明治時代細
川政吉が工夫したものという細川流は、「掬い取り」「本振り」という。体をダイナミックに動かし
て船上から網打つ方法らしい。ほかとどう違うのか判らないが、興味のある人は体験してみてくれ。
事務局があみ貞(03‐3679‐3576)ということなので、どちらかに電話してみてくんなま
し。舟漕ぎは江東区にあるよ。
 


■金明不動尊

 江戸川5丁目6番6号、民家の駐車場の奥にあり、脇に稲荷社がある。詳細不明。
 


おくまんだし 熊野社 → 下今井熊野神社
 江戸川5丁目7番6号にある、もと下今井村の鎮守。宝永年間の(1705~11)の開創で、祭
神は伊邪那美命(いざなみのみこと)。俗にいうおくまんは〝お熊野〟で、昔から江戸川を上下する
舟人の信仰を集め、お宮の前を通る時は帆を下げ、被り物を取って最敬礼で通過しつつ航路の安全を
祈ったそうだ。「東京都神社名鑑」に、

   鎮座年代不詳。口碑によれば、宝永四年(1707)下今井村香取・稲荷・熊野と各三社
   相斎きたるなりといわれている。俳聖芭蕉翁たまたま当社へ詣で、「茶水汲むおくまんだ
   しや松の花」の名句を奉る。あわせて当社をおくまんだしの社ともいう。現在の稲荷神社
   はもとの熊野神社の社殿にして、明治中期社殿を建立したものである。「おくまんだしに
   て、大碇ぶつさしてあり花堤」(鳴瀬)の句もある。正月初詰りには亀井和泉守九字切の
   矢の授与ありて境内がたいへん賑わう。例年二月節分の日は総代代表道ヶ嶋香取神社(新
   小岩香取神社)に奉幣を行なう。例年六月三十日には、古式の大祓形代神事が行なわれる。


 とあ。区の説明板は以下の通り。

   熊野神社
   熊野神社は、旧下今井村の鎮守で、「おくまんさま」とよばれて、江戸川を上下する船人
   の信仰を集めていました。宝永年間(1704~1711)の創建と伝えられ、祭神は伊
   佐奈美神です。
   ◇おくまんだしの水
   本神社前の江戸川は、「おくまんだし」とよばれ、水流の関係で深い瀬となっています。
   ここの水は、とくにきれいで、こなれていたために、昔は徳川将軍家の茶の湯につかわれ
   ていたと伝えられています。野田の醤油の製造をはじめ、本所、深川、大島あたりでもこ
   の水を買って飲んだといわれています。
   ◇芭蕉の句碑
   本神社境内の左隅にあります。
   茶水汲むおくまんだしや松の花
   芭蕉の句と伝えられています。昭和40年10月15日氏子の方々によって建てられまし
   た。
   平成2年3月                         江戸川区教育委員会

 芭蕉句碑
 鳥居を潜ったすぐ左側に芭蕉の句碑がある。

  
 茶水くむ おくまんだしや 松の花

 だしは〝出し杭〟のことで、両国橋の百本杭と同じだ。熊野神社の前の江戸川は川がカーブしてお
り、瀬が速んで土地がえぐられるのを防ぐために、杭を打って水勢を弱めたことで深みを作られ、水
が練れて澄みおいしい水となったので、将軍家では水舟を出して城中に運び〝お茶の水〟としたので
有名になり、〝おくまんだしの水〟として水売り舟を仕立てて商売とするほどだった。野田の醤油は
ここの水を使ったので江戸人に馴染みの味になったといわれている。

  江戸川に緋や紫の浮く日和(川柳)
  江戸川の紫鯉も夏の夜に集(すだ)く蛍の明けや奪はん(蜀山人)


■二之江第三小学校
 江戸川5丁目18番3号にある区立校。昭和53年二之江小学校から分校、11学級297名が移
籍して「東京都江戸川区立二之江小学校」として開校。プール完成。校歌制定。

 校歌
「今開け行く葛西の町に」 作詞作曲・蟻川剛  補作・宇井あきら
  1.今開け行く葛西の町に
    学ぶみんなは輝く若葉
    肩を寄せ合い 助け合い
    青空高く伸びて行く
    あゝあゝ二之江第三 第三小学校
  2.水も清らな二之江の町に
    育つみんなは心も清く
    鍛えた体は逞しく
    進む足音高らかに    
    あゝあゝ二之江第三 第三小学校
  3.緑豊かなこの江戸川に
    歌うみんなの声は世界に
    遠く巡って呼び掛ける
    未来へ響く平和の歌
    あゝあゝ二之江第三 第三小学校


 同61年学区変更により葛西小学校から100名転入。同62年開校10周年記念式典。
 平成10年プール改修。開校20周年記念式典。
 


■上今井稲荷神社・水神宮
 江戸川5丁目28番1号(もしくは2号)にある中社。
 「新編武蔵風土記稿」下今井村附持添新田の項に、

   稲荷社 観音寺持

 とあり、「東京都神社名鑑」に、

   鎮座年代不詳。現在の社殿は熊野神社の旧神殿を移したものである。古老の口碑によれば、
   宝永四年(1707)下今井香取社の摂社を斎きたりという。下今井香取社にて一句
    江戸川の空とぶ鷺や花曇り(鳴瀬)
   例年二月節分には、西小松川道ヶ嶋香取神社に総代数名が奉幣を行なう。六月三十日古式
   の例により大祓形代神事が行なわれるし。例年一月一日には亀井和泉守丸字切矢の授与で
   初詣りがたいへん賑わう。


 とあり、「江戸川区史」に、

   稲荷神社(江戸川五丁目二八番地一号)
   祭神は宇賀御霊之命、宝永四年(1707)下今井村の香取社の摂社として祀られ、明治
   初年まで観音寺の持ちであった。石鳥居は天保三年の再建で、その脇に文政十一年霜月再
   建の「猿田彦大神」と刻まれた石柱があり、社殿脇に水神宮をまつる。


 とある。所番地が違うのは、江戸川区が住居表示を繰り返したからだ。

 水神宮
 境内にある。江戸川区に水神が多いのは、江戸川区は海の底が隆起したもので、また河川の運ぶ土
砂が自然堆積してできた低地であるため、盛んに洪水の災難に見舞われた。それで防水祈願で水神を
祀ったためだ。

   此ノ水神宮ハ寛政八年ニ再新造シマシタ時ハ稲荷神社旧本社デ其ノ後明治二十二年ニ修治
   ヲ加ヘ水神宮ヲ遷シマシタ。祀神ハ三神体ニテ水神宮、船玉神、金刀比羅神ヲ合祀シテア
   リマス 其ノ年代、間ニハ小修繕ガ行ワレテ居ル様デス 當事此ノ地ヲ武蔵國南葛飾郡下
   今井村字北新川ト呼ベリ


■壱五神社

 江戸川5丁目31番6号屋形船あみ幸の横にある小祠。その昔この付近の川で、とても大きな鯉が
獲れた。その鯉を祀った神社だ。その大きな鯉を盗んで食べた男が、激しい痛みとともに死んじゃっ
た。人のものを盗んではいけない、悪いことをしてはいけない、といった伝説がある。


■新川口児童遊園

 江戸川5丁目32番にある区立公園。


■新川千本桜
(説明板)

 江戸川5丁目39番4号先、新川大橋の下、花見橋(広場橋)の上り口脇に建ててある。

   新川 江戸川区指定史跡(昭和61年2月12日指定)
   かつて、江戸川から古川の流れを経て、三角で新川に入り西へ至る 路がありました。
   天正十八年(1590)の徳川家康江戸入城後、その命により、この流路を含め行徳まで
   の航路として、道三堀、小名木川と共に開削が計画され実行されました。
   寛永六年(1629)には、現在の新川橋通りから東側が新たに開削され、今では  が
   新川と呼ばれるようになりました。以来、新川は、江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行
   徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されてきました。また、沿川には味噌や醤
   油を売る店や料理屋などが立ち並び賑わいを見せていました。
   新川は、江戸時代から明治・大正に至るまで、利根川・江戸川を経由して、東日本からの
   様々な物資を運び、客船が行き交う重要な水路として発展し、地域の人々の生活に深く関
   わってきました。
   しかし昭和に入り、荒川放水路の完成や東西の水門の閉鎖等により、船の就航も行われな
   くなりました。さらに高度経済成長期には、地下水の汲み上げによる地盤沈下により、新
   川との間に何回も嵩上げされた高い護岸が整備され人々の生活から遠い存在となってしま
   いました。その後、平成5年より耐震護岸整備、親水河川化や新川千本桜整備が進められ
   都市空間の中の貴重な水辺として生まれ変わり、親しまれています。

   
新川千本桜
   平成19年4月から、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして
   整備する「新川千本桜計画」をはじめました。新川の全長約3kmの両岸に桜を植え、新
   しい桜の名所とし、潤いと賑わいのある街の創出のため江戸情緒あふれる川辺づくりや、
   南北地域の和が一層広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空
   間を創出しました。


■江戸川五丁目公園

 江戸川5丁目40番4号にある区立公園。


二之江の行徳道石造道標(昭和58年3月15日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 江戸川6丁目2番先の親水公園内にある。宇田川家長屋門前から移ってきた。その前は長屋門より
西へ30mの突留橋の畔にあった。高さ67cm、回り152cm。正面には「是ヨリ左り行徳道」
左面には「田中孫右衛門」とある。長屋門の指定解除により移された。
 


海照山普門院蓮華寺

 江戸川6丁目4番11号にある新義真言宗の寺。本尊は行基作の聖観世音菩薩。永享十年(143
8)栄源法印が不動明王を背負って遍路して来て、この地に庵を結んだのが始まり。村民が堂宇を建
設して創建、栄源(寛正元年(1460)寂)が中興したと伝わる。
 「新編武蔵風土記稿」の二之江村附持添新田の項に、

   新義真言宗下小岩村善養寺末、海照山普門院と号す。
   本尊は正観音菩薩ハ行基ノ作、長一尺八寸。
   中興栄源寛正元年三月十四日寂。


 とあり、区の説明板に、

   蓮華寺
   新義真言宗で海照山普門院と号し、本尊は聖観世音菩薩で行基の作といわれています。寺
   伝によると、むかしこの地に観音堂があって村人の信仰を集めていました。永享十年(1
   438)に栄源法印が不動明王を背負って遍歴した後、永住するようになったので、人々
   が協力して堂を建て、蓮華寺と称したのが始まりといわれています。
   建物は安政二年(1855)の地震、大正6年の津波や関東大震災で全壊の厄災にあいま
   したが、昭和47年に鉄筋建築の現在の本堂が完成しました。
   ◇虫除不動
   本堂に、不動明王立像が安置されています。昔から「虫除不動」といわれて、子どもの癪
   の虫に霊験あらたかであるとして、広く人々に信仰されました。
   平成15年3月                        江戸川区教育委員会


 とある。
 


■古川けやき公園

 江戸川6丁目7番13号にある区立公園。


本覚山成就院妙勝寺

 江戸川6丁目7番15号にある日蓮宗の寺。旧は中山法華経寺末で、自ら末寺14ヶ寺を擁してい
た中本寺格の寺院だった。通称を「じょうじゅいん」が訛った「じょうじん」とも「黒門寺」ともい
う。弘安七年(1284)葛西沖に漂着した難破船から少年を救う、この少年が徳治二年(1307)
成就院日尚と号して古川べりに小堂を立てたのが開山。山門の入ると、左墓地、右はケヤキの大木、
釈迦堂、墓所、朱塗りの鐘楼、開山日尚上人堂と続く。本堂の右は庫裏になっている。
 「新編武蔵風土記稿」二之江村附持添新田の項に、

   妙勝寺
   法華宗、下総国葛飾郡中山法華経寺末。本覚山成就院と号す。本尊十界勧請祖師を安す。
   正応五年の草創にて開山日尚、暦応元年二月二日遷化。当寺の傳へに弘安七年四月下総国
   堀江浦に流着せし虚船ありて、其中に一童子をれり。当村の漁人とりあげて介抱し其由を
   問へば、平家の末葉なりと云。よりて伴ひ帰りて元よりありし妙見社の傍に草庵を営み置
   しが、其後法華経寺二世日高、宗■弘通のため当所に来りしとき、彼童子十六にて日高の
   弟子となり、成就院日尚と号し、後に当寺を創すと云。
   寺寶。日蓮書像一幅、水戸黄門光圀卿の筆なりと云。
   水神社。鬼子母神社。三十番神社。妙見堂。
   鐘楼。元文四年十月造立の鐘をかく。
   塔頭。光明坊、蓮性坊。

 とあり、区の説明板に、


   妙勝寺
   弘安七年(1284)四月下総国堀江の浦に漂着した難船に残されていた童子を、当村二
   之江村漁師の五郎が救い上げて育てたところ、童子は後に中山法華経寺二世、日高上人の
   弟子となり、成就院日尚と号して当村古川べりの妙見社のそばに草庵を営み一寺を建立し
   た。即ち開山の日尚上人で、時は徳治二年(1307)春三月のことであった。中山法華
   経寺
の末寺・葛西の融水頭であり、中本寺として14ヶ寺の末寺をかかえていたという記
   録がある。
   安置する宗祖大士像は中山法華経寺3世日佑上人がある夜、宗祖聖人が微妙な音声で読経
   している夢を見て、自ら夢中感得のお姿を彫って開眼供養をして日尚上人に与えられたも
   のである。安政地震で倒壊したが、かつては水神宮があり、現在開山堂に祀られているが
  、この本尊は日尚上人が難船で漂流している時、深く水神に祈誓して波浪の難をのがれたの
   で報恩の為、彫刻して日高上人に点眼を乞い、以後は一乗の法味を捧げたものとされてい
   る。地元の有力な檀信徒の外護も代々続き、大木に囲まれた中にある。大伽藍、客殿は威
   風堂々として風格を備え、民間に開山上人の院号、成就院がなまった〝じょうじん〟の呼
   名で親しまれている有数の名寺である。              江戸川教育委員会

   妙勝寺
   日蓮宗で本覚山成就院と号し、中山法華経寺の中本寺として14ヶ寺の末寺を抱えていま
   した。土地の人から「じょうじん(成就院)」とか「黒門寺」と呼ばれ親しまれています。
   寺伝によると、弘安七年(1284)堀江の浦(葛西沖)に漂着した難破船に残っていた
   少年を、ニ之江村の漁師が救い上げました。少年は平家の末裔で、中山法華経寺の二世日
   高上人の弟子となり、のちに成就院日尚と号して古川べりの妙見社のかたわらに小堂を建
   てました。これが本寺の始まりで、徳治二年(1307)3月のことといわれます。
   ◇紙本墨書大曼荼羅(区登録有形文化財)
   天保十四年(1843)32世日信の代に、小島(西葛西)に住む控井権右衛門が寺に寄
   進したと記録されています。日信はその鑑定を法華経寺百一世日道に依頼し、ニ幅とも日
   高、日祐承認の真筆であると認めた証文が残っています。
   平成3年3月                         江戸川区教育委員会

 とある。

 
紙本墨書大曼荼羅(昭和58年3月15日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 日高筆の授与曼荼羅です。日高は日蓮高弟の1人で、中山法華経寺の第2代貫主を務めた。

 仏陀の言葉碑
 釈迦殿の前にある。東方研究会の中村元によって翻訳された「慈しみ」の詩が刻まれた石碑。紀元
前に説かれた教えだそうだが、頭が下がるよ。

   佛陀の言葉
   慈しみ
   一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ
   一切の生きとし生けるものは、幸せであれ、何びとも他人を欺いてはならない。
   たといどこにあっても、他人を軽んじてはならない。
   互いに他人に苦痛を与えることを、望んではならない。
   この慈しみの心づかいを、しっかりとたもて

 財団法人東方研究会
 中村元初代理事長が、その後半生を傾注し、私財を投じて創立し、昭和45年11月、文部省(当
時)よから財団法人設立の認可を受けた。本研究所は、「東洋思想に関する研究調査を行い、その研
究成果の普及を図り、以て学術・文化の発展に寄与すること」を目的としている。
 中村が、その86年の人生を学問一筋に打ち込み、東西の思想の蘊奥を極め尽して最後に到達され
たもの、それは「慈しみ」の心だった。

 水神・鬼子母神・三十番神社
 開山堂にある。
 


■常龍寺
 江戸川6丁目15番10号にある日蓮宗の寺。住宅兼用の現代ぽい建物で、屋根に寺らしい匂いを
残している。寺であることは墓地があるので判る。大明院日光聖人の創建。日光聖人は、磯子妙蓮寺
を創建した他、横浜妙音寺の中興に力を尽くしたとか。


栄長山常泉院妙光寺
 江戸川6丁目16番5号にある日蓮宗の寺。通称「赤門寺」。天正十三年(1585)日能上人が
開山したという。本尊は、文禄三年(1594)作の木造寄木造り日蓮上人坐像。朱塗りの山門を入
ると、左に墓地、右側には七面殿、それから庫裏。「新編武蔵風土記稿」に、

   (二之江村附持添新田)妙光寺
   同宗(法華宗)妙勝寺末。栄長山常泉院と号す。開山日能、正保二年正月二十九日寂。十
   界勧請の本尊及び祖師を安す。
   七面明神社。妙正明神社 

 とあり、区の説明板に

   妙光寺は日蓮宗で、栄長山常泉院と号し、通称「赤門寺」といわれます。開山は日能上人
   (天正十三年(1585)寂)です。「新編武蔵風土記稿」によると、当寺には「十界勧
   請の本尊。及び祖師を安す」とあり、この祖師が現本尊です。境内の七面殿には「海中出
   現七面大明神」があり、鬼子母神や疱瘡の神も祀られています。寺宝としては、日乾・日
   遠・日重筆の曼荼羅があります。


 とある。

 
木造日蓮聖人坐像・附台坐板墨書(文禄三年)
 昭和57年2月8日告示の江戸川区登録有形文化財(彫刻)。文禄三年(1594)の作で、作者
は不明。像高216mmの小さな坐像だが、容姿がよく整っている。ヒノキ材の寄木造りで、目は玉
眼、紫色の衣と金襴の袈裟を着け、笏とお経の巻物を持っている。

 七面大明神・妙正明神・鬼子母神・疱瘡神
 七面殿にある。
 


■葛西図書館
 江戸川6丁目24番1号にある区立の小さな図書館。
 


■新川千本桜記念碑
 江戸川6丁目25番1号先新川親水公園内にある木製の碑。碑というか、屋根付き説明板といった
ところ。下の碑文は、全体の6分の1。残り6分の5を占めているのは、関係者の名前の羅列だ。
 この計画は新川に1000本の桜木を植えて並木とし、江戸時代の木橋や石積護岸を再現したテー
マパーク的な遊歩道を作り、カフェや地域交流センター(屋外和船ミュージアム)を建てて、はとバ
スツアーを誘致しようてぇ太え計画でい。平成22年には「新川西水門広場」が完成し、モニュメン
トとして15.5mの「火の見やぐら」が建てられた。和風な橋も次々架けられて、平成26年にはほ
ぼ完成した。

   新川千本桜記念碑
   新川は、かつて船堀川と呼ばれ、徳川家康の江戸入府と共に、行徳の塩を江戸に運ぶ「塩
   の道」として利用されるようになりました。
   その後、ニ之江村の字、三角渡し(現在の新川橋)から東側を新川口に向かって新たに開
   削し、全体が新川と呼ばれるようになりました。以来、東日本諸国からの様々な物資を江
   戸へ運ぶ重要な水路として発展し、地域の人々の生活に深く関わってきました。
   区は、この歴史ある新川の整備に向けて〝新川千本桜計画〟を策定し、江戸情緒あふれる
   河川整備に合わせ両岸に千本の桜を植えていきます。
   葛西地域では、新川千本桜に賛同した方々が「新川千本桜の会」を結成し、その尽力によ
   り、多くの皆様から多大なるご寄附をいただきました。
   ここに、地域の熱き想いを記念碑に刻み、後世に語り継いでいきます。
   平成21年3月吉日                      江戸川区教育委員
 


■水神宮
 江戸川6丁目29番3号、古川親水公園沿いにある小祠。
 


■古川親水公園(日本最初の親水公園)
 江戸川6丁目(31番~49番)の中央を流れた古川を暗渠にして上部を親水公園としたもの。親
水公園の発祥は江戸川区の古川で、その後、全国各地で取り入れられるようになった。古川とは元か
らあった自然水で、新しく運河(新川)開鑿されたことにより支川となり、新川に対して古川と呼ば
れるようになったものだが、古江戸川でもある。
 宇田川長屋門脇から始まって、環七を横切り三角にある新川橋まで全長1200m。江戸川の元河
道である古川の流れをそのまま親水公園に作り変えたもので、親水公園としては日本第一号で、これ
が手本になって全国的に暗渠とした川や用水を親水公園に切り替えることとなった。古川は江戸川か
ら下る水路として古くから使われていた。天正十八年に(1590)徳川家康が江戸城に入ってから
は、行徳の塩を江戸に運ぶ重要な水路となり、寛永六年(1629)に幕府が新水路を掘って新川と
したので、古川は二義的運輸路になってしまい、この意味で新川に対しての古川でもある。全くの農
村で江戸の華やかさとは無縁だったこの一帯も、明治・大正・昭和と時代を経るにつれて都市化の波
が押し寄せ、ついこの間までが嘘のように市街地化していった。それで田畑が整地されて住宅地に変
わっていくと、あれほど重要だった川や用水が邪魔になり、埋められたり、コンクリートで蓋をされ
て暗渠になったりしていった。古川もいつしか川としての機能を失っていたので、区は地域の人々と
共に歩んだこの川を、何とか川として残せないものかと検討し、水と緑に親しめる新しい公園に転換
する計画を立てて、昭和48年に親水公園として完成させるとともに、「親水公園」という語彙を一
般に定着させた。この試みは内外の注目を集め、翌年全日本建設技術協会から、建設界の栄誉である
「全建賞」を受賞、現在もこの親水公園を越える公園は現われていない。

   古川
   この川は、もと江戸川の旧河道で、天正十八年(1590)家康が江戸城に入ってから、
   行徳の塩を船で運ぶ水路として利用された。その後、寛永六年(1629)新川が開かれ
   たので「古川」と呼ばれるようになった。
   時は流れて、この田園地帯にも都市化の波が押し寄せ、古川もその中に埋もれ、川として
   の機能も生命を失われようとした。これを憂いた「江戸川区長」は、親水河川として活用
   することを決意、昭和47年12月着工、昭和49年4月竣工のスピードで、古川は区民
   の遊びや憩いの場として甦った、そして優れた工法は「全建賞」の栄誉に輝き、また古川
   は中学教科書や、遠く海外にも紹介された。
   これからも古川のきれいな流れは、多くの人々に愛され親しまれた行くことであろう。
   昭和52年7月                        江戸川区教育委員会


■稲荷社 ✓
 江戸川6丁目31番、古川親水公園沿いにある小祠。
 


■鎗前児童遊園

 江戸川6丁目31番67号にある区立公園。市松型に2ヶ所が繋がっている。


■二之江小学校
 江戸川6丁目44番にある区立校。昭和34年8月第1期木造校舎(6教室)落成。9月葛西小学
校分校として開校。同35年第2期木造校舎(4教室)落成。同36年第3期木造校舎(5教室、給
食室)落成。

 校歌
「豊かに流れる」 作詞・初代校長作佐部実  作曲・大楽夏実
  1.豊かに流れる江戸川に
    楽しく学ぶ子供たち
    明るい太陽 浴びながら
    輝く歴史 築き行く
    ああああ二之江小学校
  2.蓮の葉 渡る涼風に
    仲良く歌う子供たち
    元気な体 鍛え上げ
    清らな心 育て行く
    ああああ二之江小学校
  3.遥かに仰ぐ富士の嶺に
    想いを寄せる子供たち
    明日への希望 胸に抱き
    世界の空へ伸びて行く
    ああああ二之江小学校


 [独立]
 9月「東京都江戸川区立二之江小学校」として独立開校、12学級424名でスタート。同38年
第4期木造校舎(特別教室)落成。同40年第5期(体育館)落成。交通安全優良校として表彰され
る。同42年第6期木造校舎(6教室)落成。科学センター設置。同43年プール完成。校庭舗装。
学校給食優良校として文部大臣賞受賞。岩石園完成。同45年創立10周年記念式典。同46年第7
期木造校舎(6教室)落成。同48年二之江第二小学校を分校、学童童460名移籍。同53年二之
江第三小学校を分校。学童297名移籍。同55年プレハブ校舎へ移転。第1~4期の木造校舎を解
体。同56年鉄筋コンクリート造り校舎落成。新校舎の完成を祝う式典。同57年残存校舎改修。創
立20周年記念式典。鼓笛隊編成。同61年心障学級「わかくさ」開設。同62年学童クラブ開設。
 平成2年創立30周年記念式典。同7年プール改修。同9年校庭改修。パソコンルーム開設。同1
0年校舎外壁塗装。同11年電気施設・設備改修。同13年機械警備開始。創立40周年記念式典。
同14年体育館改修。同16年非常用滑り台完成。同19年理科室改修。
 


■香取社(香取神社)+八幡社(八幡神社) → 二之江神社
 江戸川6丁目44番1号の新川沿いにある中社。もと香取社と称し、旧二之江村の鎮守だった。明
治6年に村社に列格。昭和42年妙勝寺の境内にあった、寛文年間(1661~73)に創建の三十
番神(八幡社)を合祀、「二之江神社」と改称した。「新編武蔵風土記稿」
二之江村附持添新田の項
に、

   
香取社 村の鎮守、蓮華寺持

 とあり、区の説明板に、

   二之江神社
   旧二之江村の鎮守で香取社と称し、明治6年、村社となりました。創立年月は定かではあ
   りませんが、経津主命(ふつぬしのみこと)を祀り、現在地にありました。
   八幡神社は寛文年間(1661~73)の創建で、誉田別神(ほんだわけのかみ)を祀り
   ました。もとは地元妙勝寺の境内社であって、三十番神ともいわれましたが、昭和42年
   12月香取神社と合祀して、新たに二之江神社としました。
   ◇二之江神社のケヤキ
     昭和56年1月登録
     区登録天然記念物・植物
   境内のほとりを流れる親水河川古川が、天正時代(1572~1592)の昔、行徳の塩
   江戸に運ぶ水路として利用されたといいます。当時の面影をその年輪に刻み込むように、
   境内にケヤキの大木があります。樹齢500年ともいわれ、樹周160cm、樹高20m
   余の区内屈指の巨木です。
   平成21年3月                        江戸川区教育委員会

 大ケヤキ(昭和56年1月13日 江戸川区登録天然記念物・植物)
 
樹齢500年ともいわれ、樹周460cm、樹高24mの区内屈指の巨木だ。区内で最も大きいケ
ヤキ。景観重要樹木に指定されている。


 
香取神社八幡神社合祀記念碑
 境内にある。裏面に「二之江神社宮司亀井悦造」と書いてある。鳴瀬は悦造の俳号だ。 


■新川
(昭和61年2月12日 江戸川区指定史跡)
 江戸川から三角で新川に入り、西へ中川に至る流路は、元は船堀川と呼ばれていたが、家康が江戸
に来て、江戸の町作りが始まると、この流路は行徳の塩を江戸に運ぶために重要な川となり、小名木
川が掘られ、さらに寛永六年(1629)幕府は、船堀川を拡張するとともに、三角から江戸川まで
を新たに直線で開鑿し「新川」を完成させた。この新川は江戸幕府の発展とともに、単に行徳塩ばか
りでなく、舟運の重要な川となり、利根川の東遷、江戸川の改修によって、利根川‐江戸川‐新川‐
小名木川‐舟入堀のルートは、北関東や東北から江戸へ物資を運ぶ幹線河川となった。明治に入って
からは有名な川蒸気船通運丸が就航したほか、東京近郊の村々と東京を結ぶ通船や運搬船が行き交っ
た。現在は平均幅員30m全長約3km、東水門から導水し、西側ポンプ所で排水、水質浄化を図り、
水位を一定に保っている。東半分は暗渠化され、両岸の護岸上部は撤去され、テラスや散策路などが
出来、親水公園として沿線区民に親しまれている。
 現在の新川は、全長約3km、東水門から導水し、西側の排水機場で排水、水質浄化を図り、水位
を一定に保っている。西水門はその役目を終えて、一部の柱を残して撤去された。現在、両岸の護岸
上部は撤去され、テラスや散策路等ができ、千本桜も整備され区民に親しまれている。また全国で初
めて河川の下に地下駐車場が作られ利用されている。平成19年3月かつての西水門の手前に西水門
橋がかけられ、便利になった。

 新川に架かる橋
 西から排水機場横、最初に架かる橋は西水門橋・櫓橋(人道橋)・擬宝珠橋(人道橋)・宇喜田橋
・忍者橋(人道橋)・新渡橋・小江戸橋・桜橋(人道橋)・三角橋・新川橋・新川大橋・花見橋、名
無しの人道橋)・新川口橋、新川東水門。

 新川環境整備
 西水門広場(水門跡・火の見櫓)・修景土塀・船堀中公園・櫓橋・擬宝珠橋・忍者橋・小江戸橋・
桜橋(広場橋)・新川千本桜記念碑・花見橋と緑道整備。

 新川橋
 新川に架かる橋。江戸川6丁目と中葛西1丁目とを結ぶ。新川と古川が分かれるところ。以前は、
やや西側に川筋に対して直角に架かっていた。現在は道筋に合わせたため斜めに架かっている。新川
千本桜計画に合わせて、欄干を木製に改め江戸情緒を醸している。




【大杉】(おおすぎ)1~5丁目                    昭和59年11月1日
 西一之江村の小名。明治22年松江村大字西一之江、大正15年松江町大字西一之江。昭和7年
江戸川区となって南部を南船堀町として離し、残りが西一之江1~2丁目となってその2丁目。同
59年西一之江2丁目の京葉道路以北と東小松川5丁目の大部分に一之江町・松本町の各極一部を
あわせた町域を現行の「大杉」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
大杉の由来
 町内の天祖神社を大杉神社と俗称する。大きな杉木があったことで小名が生まれたのだろうが、
その大杉が何処に立っていたのかは判らない。神社の境内と思われるが、今は幼稚園を経営し、周
辺は住宅街で、かつての面影は全くないから、何ともいえぬ状況だ。杉は古語の「スキ」に当て字
したものとすれば、大杉は「大きな地滑り」を起こしたところとなるが、元々は海で山もなく地滑
りが起きたとも思えない。やはり大きな杉の木か・・・
 神社の参道の両脇は元は神田(神社の田んぼ)だったが、市街地化ににより東側の地は公園地と
して区に寄贈したが、これは区立公園の第一号となった。大杉公園。
 


■こけしの壁画

 大杉1丁目10番11号新小岩渥美組のビルの壁に画かれている。京葉道路のエネオスガソリンス
タンドの後ろに見える。


■大場家長屋門

 大杉1丁目11番1号の大場家にある。京葉道路を千葉方向に走った人なら、環七との交差点手前
に長屋門があるのに気づいているだろう。大場家は西一之江村の旧家だ。建築年代は判らない。長ら
く茅葺屋根だったが、昭和55年に銅板葺きにした。バカな奴がいて、花火を打ち上げて小火(ぼや)
騒ぎがあり、そうせざるを得なかったのだ。
 


■大杉一丁目公園

 大杉1丁目11番9号にある区立公園。

 
花の精
 花飾りを持つ女神像。


■神明社 → 大杉神社
 大杉1丁目22番1号にある大社。創建年代は不詳だが、もと神明社と称し、葛西御厨の一つだっ
たという。西一之江村の鎮守で、家康鷹狩の際は参詣の後、境内の東方にあった腰掛山という小高い
所で休憩したと伝えられている。区の説明板に、

   史跡 天祖神社(大杉鎮座)
   通称大杉神社または神明様と呼ばれ、旧西一之江村の鎮守である。創建年月は明らかでな
   いが、天照大神を祀り葛西御厨の一つで、元禄十年(1697)の検地には神明社と記さ
   れている。当神社はもと大杉東福寺が別当だったが、東福寺は火災により廃寺となった。
   将軍家康鷹狩の際は参詣の後、境内の東方にあった腰掛山という小高い所で、休憩された
   と伝えられている。
   大杉公園は、かつて当神社の田畑だったが、昭和9年その土地約2反7畝(2673㎡)
   を公園として提供、同10年区内最初の公立公園となった。
   境内にある耕地整理組合記念碑は、もと神明耕地整理組合が、氏子発展に尽くした事績を
   記念して昭和4年に建立したものである。
   昭和54年3月                        江戸川区教育委員会

 とある。
 


■大杉公園

 大杉1丁目22番1号にある区立公園。

 モニュメント ◇
 園内にある。「無題」と題する抽象彫刻なので説明のしようがない。


■大杉の念仏講(平成6年2月22日 江戸川区登録無形文化財・風俗習慣)
 大杉2丁目にある寄合。旧西一之江村大杉地区に伝承されている念仏講で、「大杉講中」と刻まれ
た安永六年(1777)作の伏鉦を伝えている。毎月1日、15日が地蔵講、21日が大師講だ。会
館の地蔵尊はもと円福寺(西一之江3丁目)持ちで、講員も円福寺の檀家。
25年ほど前には講員も多く盛んだった。以前は近くに法事や葬式などがあると呼ばれ、念仏を唱え
ていた。旧大杉村でかなり古くから行なわれていたことは確かだが、何時から始まったのかは不明。


■母子4人無理心中事件
 大杉3丁目8番8号にある分譲住宅8軒の内の1件で起きた集団自殺事件。平成31年2月22日
18時過ぎ帰宅した男性が、妻(35歳)と長男(10歳)次男(9歳)長女(6歳)の4人が3階
の部屋で倒れているのを発見し警察に連絡した。4人は直ちに病院に搬送されたが、死亡が確認され
た。室内には練炭の燃えカスが残っており、小松川警察では無理心中したものと判断している。


■大杉第二小学校
 大杉3丁目11番1号にある区立校。昭和50年大杉小学校・大杉東小学校から分校「東京都江戸
川区立大杉第二小学校」として開校。開校を記念して5本の椎の木がシンボルとして植えられた。P
TA発足。校章・校歌制定。

 校歌
「流れ豊かな」 作詞・野中一三夫  作詞・渡辺茂
  1.流れ豊かな二つの川も
    花咲く町の微風も
    直く 優しく 美しく
    育つ願いを歌ってる
    学帽きりりと心を締めて
    あゝ吾等の誇り大杉第二
  2.光溢れるこの校庭に
    輝く校舎 我が母校
    強く 明るく 逞しく
    育つ希望は果てしなく
    学帽きりりと心を締めて
    あゝ吾等の誇り大杉第二
  3.高く枝張る五本の椎も
    遥かな富士や筑波嶺も
    広く世界に目を向けて
    育つ皆の憧れだ
    学帽きりりと心を締めて
    あゝ吾等の誇り大杉第二


 同54年創立5周年記念式典。同58年歩道橋完成。開校10周年記念航空写真撮影。同59年創
立10周年記念式典・杉渓園完成。同61年希望の小道完成。アスレチック完成。
 平成2年FF暖房機取付。音楽室冷房・防音化。同3年管理室冷房化。同6年校庭散水栓(スプリ
ンクラー)設置。校舎外壁塗装、屋上防水化。同7年創立20周年記念式典。同8年プール機械室防
音化。同9年パソコン21台設置。同13年第1回ウォーキングフェスタ会場校となる。同14年校
庭整備。同15年学校農園完成。同17年創立30周年記念式典。。

 希望の像
 この像は、昭和59年10月15日除幕。希望の像の前には、希望の小道がある。

 希望の小道
 同61年1月8日にできた。長さ314m、緑に囲まれ、みんなが健康でいられるための遊歩道だ。
 


■京葉道路0地点
 大杉3丁目18番先、新中川の一之江橋の親柱の横に「0」と記した標識が取り付けてある。道路
を挟んで反対側の、一之江1丁目10番先一之江橋の親柱の横にもある。こちらには「京葉道路 終
点 TOLL ROAD END」の標識も附属する。ここが京葉道路の始点終点という訳だ。地図
によっては両国橋まで京葉道路と記してある。首都高小松川線が完成する昭和46年以前、京葉道路
は京葉の幹線中の幹線だった。靖国通りを両国から受け継いで都の道路名称として京葉道路と命名し
た。一之江橋から以東は、厳密には高速道路で、東日本高速道路の管理で、東進するとそのまま高速
道路に進入する。その意味で高速道路京葉道路の始点であり終点なのだ。小松川線に続く京葉道路は
一之江出入口が始点であり終点となっている。しかし小松川線も京葉道路という人はいる。
 なお、東京都の京葉道路の始点終点は両国橋なのだが、都の表示は浅草橋交差点にある。


■大杉三丁目児童遊園
 大杉3丁目22番8号にある区立公園。


■大杉橋
 大杉4丁目と鹿骨1丁目を結ぶ中川に架かる橋。斜張橋で、真ん中の柱はオブジェではない。昭和
36年新中川掘削工事に伴い架橋され、現橋の下流側に位置していた。その後、交通量の増加等によ
る老朽化が著しく幅員も狭いことから、江戸川区新中川橋梁整備計画の第三弾として、平成6年)
現在の場所(旧橋の上流側)に架け替えられた。

 
石碑
 北の橋詰にある。平成7年の建立。当時区長中里喜一氏の由来を記した石碑。 

 
説明碑 ✔
 北の橋詰にある。


■庚申堂(東小松川田子沼の庚申塔河原道石造道標)◇
 大杉4丁目25番6号の西角にある小さなお堂。庚申道標1基がある。中央3丁目の庚申塔と同じ
く、河原の渡しに向かう河原道の途中にあり、庚申塔として祀られている。区民の調査を機会に文化
財係が発掘調査をしたところ、道標であることが判明した。道路工事の際に道標部分が土中に埋めら
れたもので、原位置のままであると推定される。正面上部には青面金剛坐像が彫られ、下部には「か
ハら道(河原道)」と刻まれている。文化八年(1811)に建立されました。
 昭和58年3月15日告示。江戸川区登録有形文化財・歴史資料。


■大杉五丁目児童遊園
 大杉五丁目12番2号にある区立公園。


■大杉五丁目公園
 大杉3丁目29番14号にある区立公園。




【葛西】 北葛西・西葛西・中葛西・東葛西・南葛西
 下総国葛飾郡は、茨城・埼玉・千葉・東京におよぶ江戸川両岸市町村の範囲で長大だ。都内では
隅田川を境として東側をいった。かつて下町低地は東京湾が入り込んだ海だった。中世になって陸
地化してくると、江戸川を境に葛飾郡が割れ、葛西郡と葛東郡になり、このころ秩父平氏から清重
が出て青戸城に拠り葛西郡を支配して葛西氏を名乗った。伊勢神宮に「葛西御厨(みくりや)三十
三郷」を寄進したのはこの時だ。江戸時代になって葛西郡が下総国を離れて武蔵国葛飾郡となり、
中島川辺・幸手・松伏・二郷半・西葛西・東葛西が所属した。このうち東京都に含まれたのは西葛
西と東葛西で、西葛西は墨田区・江東区・葛飾区西部の三区に跨る範囲。葛飾区を「本田筋」、墨
田・江東区を「新田筋」に分けたが、「新田」は江戸時代以後に開発された農地をいう。東葛西は
葛飾区東部と江戸川区で、葛飾と江戸川北部を「上ノ割」江戸川区南部を「下ノ割」に分けた。そ
れで江戸川区の新川以南の海を「葛西浦」と呼んだので南部埋立地を葛西村とし現在の葛西地区と
した。区職員は葛西が好きらしく、ために桑川・長島・堀江・蜆島などの名が消え、宇喜田が消え
かかっている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

   葛西橋いつ春去りし眺めかな(久保田万太郎)
   わが好むはまぐり汁も葛西風(水原秋桜子)
   立春の米こぼれをり葛西橋 (石田波郷)
   蚊帳吊草昼酒のやや深かりし(草間時彦)
   初富士の白し葛西の海濁る (滝 春一)
 


■葛西蓮根(かさいれんこん)
 蓮根は足立・葛飾・江戸川の江東3区が蓮根の産地だったが、葛西地区は〝蓮根村〟と呼ばれるほ
ど生産農家が多かった。しかし今や宅地化して蓮根畑がない。

  蓮田植うる田上は葛西囃子の夜(遠山壷中)

 蓮根は江戸時代から栽培されていたが、明治の初め葛西村宇喜田の田中徳右衛門という盆栽家が、
北千住から持ってきた蓮根を親族の細野元吉に試作させても見ると、絶品の蓮根が出来た。これが江
東3区で営利栽培の始まったきっかけとなった。特産地となった理由は、重労働にめげない篤農家の
努力は勿論だが、この一帯がこの上ない適地だったことによる。利根川水系の大小河川が運んできた
肥沃な粘土質の、夏冬の乾燥期にも水が枯れない強湿地は蓮根栽培に打ってつけの土地である。どち
らかというと住宅地には不向きだ。また蓮根は肥料を幾らでも欲しがる大食漢、東京市街から出る人
糞尿(下肥)が、水運を利用して安く大量に使用できるという好条件が重なった。

  葭きりや船から担ぐ蓮田肥(地元の俳句)

 この下肥育ちの蓮根は、独特の柔らかさと歯切れの良さで東京市民に喜ばれた。現在東京から蓮根
農家は消えてしまったが、茨城県土浦市周辺に取り入れられ産地を形成している。
 


■葛西のおしゃらく
 昭和56年1月13日告示。東京都指定無形民俗文化財江戸川区登録無形民俗文化財・民俗芸能。
 東京都と千葉県の境を流れる江戸川の下流域、千葉県東葛飾郡浦安町(堀江、猫実、当代島)及び
東京都江戸川区葛西(長島、桑川、小島、守喜田、新田、中割、雷)の両地区に「おしゃらく」と称
する芸能が伝承されている。しかし、この十数年の間に、激しい時勢の推移によって、記憶にあるこ
の地の風俗、習慣、芸能等は、生活文化の変化と共に次第に消滅していきつつあった。
 歌と踊りの郷土芸能で、祝いの席や祭りに花を添えている。歌念仏や万作踊りの系統を引くものと
考えられる。歌は30曲ほどあり、それぞれに踊りがある。華やかな衣装で、味わいのある節回しの
歌に合わせて踊る。

   葛西 下今井 新川名所
   おなのよいとこ
   当所氏神 香取にお稲荷さま
   熊野権現さま
   前を出てみな 利根の大川
   のぼりくだりの高瀬や茶舟が
   あまた名所の おめでたや


 演目のひとつ「新川地曳」は、新川筋の男女の間で歌い継がれ、各地に広まった。この「おしゃら
く」芸は、葛西、浦安とも各村で独立して演じるのみで、村の有志とか青年団等が受け継いでいくと
いったこともなかった。こうしたことは「おしゃらく」芸消滅の原因の一つであると思い、葛西地区
に昭和43年、藤本秀康が、雷の真蔵院に伝承者を招き保存会発足の運動を起こした。そして、昭和
45年11月「葛西おしゃらく保存会」を発足させた。
 発足当時は、今まで消滅寸前だっただけにその復元は困難を極めたが、そんな中で同46年1月、
藤本は、雷に住む伝承者の一人佐久間吾郎宅で浦安町当代島の前田治郎に会い、浦安町における「お
しゃらく」芸も葛西同様消滅寸前であることを知らされた。この前田との出逢いは藤本の「おしゃら
く」研究における重要な点を開眼させてくれるきっかけとなった。そうして前田と図り浦安町猫実、
堀江、当代島に住む「おしゃらく」芸を伝承する人の家々を訪ねて保護育成を呼びかけ、同47年7
月8日、浦安町公民館において師匠藤本琇丈の立ち合いの下で「浦安町おしゃらく保存会」が発足し
たのだ。
 このようにして葛西、浦安両地区に保存会が出来たのだが、発足当時は、前述したように消滅寸前
だっただけに、その復元は困難を極めたが、伝承者は勿論、両地区の有志の温かい支援により、会員
も増えて「おしゃらく」芸を受け継ぐ人たちが出てくるまでになった。地元で盛んになった「おしゃ
らく」芸は、昭47年8月15日、東京都より東京都文化財専門委員である早稲田大学教授本田安次
並びに東京都教育庁主事金山正好、それに舞踏家藤蔭静枝が葛西地区の「おしゃらく」芸調査のため
雷の町会会館に来て、検分するまでになった。
 かくて葛西地区は調査の通り、浦安地区の協力を得て無形文化財となったが、浦安地区も昭和47
年10月28日、千葉県庁より千葉県文化財専門委員である村崎勇、千葉県教育委員会文化課の文化
財管理係長西野元、それに地元浦安町の熊川好生町長が浦安町公民館に来て、浦安における「おしゃ
らく」芸を調査した。この浦安の「おしゃらく」芸も葛西地区の「おしゃらく」踊りが浦安より伝授
されていることなどから県の文化財として十分価値のあるもので、県と市の無形文化財に指定された。
 保存会の事務所、連絡先、電話番号などは判らないが、藤本秀康の三味線教室の神田教室は公表し
ているので、興味のある方は、こっちに連絡してくんなはれ。

   〒101‐0041
   千代田区神田須田町1丁目14番9号千昌ビル4階
   03‐5256‐2800


■葛西の里神楽
 昭和56年1月13日。東京都指定無形民俗文化財。江戸川区登録無形民俗文化財・民俗芸能。
 埼玉県北足立郡の鷲宮神社に伝わる土師流催馬楽神楽から分かれた江戸流神楽の一つだ。江戸川区
に広まったのは明治初年といわれる。神話に取材した黙劇なので、身振り手振りが中心だが、哀調を
帯びた笛の音に乗って演ずる様は、敬虔な祈りと共に人びとの神への感謝の気持ちが込められている
ようだ。更なる詳細は不明。ネットサーフィンをしても該当するブログがない。
 連絡先は、東都葛西神楽保存会 美よ志社中、03‐3698‐1755。
 


■インド人
 今や「葛西で外国人に石を投げればインド人に当たる」といわれるくらいインド人の多さに驚かさ
れるぞ。葛西がインドの風土に似てるからじゃない。葛西地区が新興住宅地で、東京への交通の便が
良かったからだ。コンピューターの2000年問題起きた時、さあ大変、日本にはその問題に対処だ
きるだけのSE(システム・エンジニア)が大量に不足していた。国家がそれだけ教育を怠ってきた結
果だ。日本では権力を守ることだけが忙しく。東大を目指す者は多くが政治家・官僚を目指す。天下
国家ではなく私利私欲を満足させるに手っ取り早いからだ。政治家は「落選するとただの人」といわ
れるが、どうしてどうして収入になる仕事は周り中が用意してくれる。路頭に迷うことはない。太平
洋戦争は科学技術の差で負けたといわれて、戦後日本は軽工業から重工業に転換したが、どうしても
政治家や官僚のほうが資産作りでは科学者より有利だ。科学技術で天と地をひっくり返すほどの発明、
技術革新をやったところで日本では資産的に報われることはない。
 中村修二問題(青色発光ダイオードの「2628404号特許‐通称404特許」)でも最高裁は企業側につ
いた。叡智よりも企業利益を優先した。企業は文系で、社長は東大系の天下り、という日本の組織図
では結局理系に進むのはオタクしかいない。IT産業、IT産業と騒ぐが、携帯電話には興味を持っ
てもコンピューターとなると使いこなせる若者は少ない。私の周りの若者でパソコンをやる者はいな
いし、いても精通していない。また大型電気店のPC売り場のアンちゃんたちは売っていながら理解
してないのだから傑作な国だ。パソコン関連、インターネット関連の会社のオペレーターたちでさえ
てもどれほど理解してるのか疑いたくなる場面がしばしばだ。
 この穴を埋めたのが、世界の頭脳を支配しようかというインド人だった。日本の企業がSEとして
インド人技術者を大量採用したのだ。インド人技術者たちが新興住宅地として団地が建設された葛西
を選択したのだ。彼らは天下人気取りのアメリカ人と違って積極的に正確な日本語を学び、日本文化
を理解しようと努力してるので、葛西に馴染むのも早かった。インド人もビックリだ!

 



【興宮町】(おきのみやちょう)                   昭和61年5月1日
 興野宮村。明治22年鹿本村大字興之宮。昭和7年江戸川区興宮町。同41年一部を南小岩に譲
り、同61年一部を本一色3丁目・松本2丁目に移し、同時に本一色町の一部をあわせた町域を現
行の「興宮町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
興宮の由来
 興宮は興之宮神社で奥の宮が転訛したものといわれているが、奥が何処の奥か判らない。千葉街
道から見て奥なのだろうか? その奥の宮も今や住宅街の真ん中では昔を偲ぶよすがもない。足立
区の興野は奥野だったが奥と興の草書体が似ていることから混同が生じて転じたという。興宮もそ
のパターンかな?
 


■興宮公園

 興宮町14番15号にある


■三社明神社 →
興之宮天祖神社(東の宮)
 興宮町18番26号にある中社。社殿はそれほど大きくはないが、神社の境内は広い。大鳥居も狛
犬もある立派な神社だ。地名の由来となるに相応しい。寛永七年(1630)十月創建と伝えられ、
興之宮村では、当社を東の宮、本一色天祖神社を西の宮と称していた。もと興野宮村の鎮守。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   三社明神社。
   神明香取鹿嶋ノ三神ヲ安置ス。
   村ノ鎮守也。本一色村光照寺持


 とあり、境内の縁起説明板に、

   縁起
   興宮天祖神社改修と境内整備完成に当り神社の由緒と歴史の概要を残された文献と口碑と
   を中心として後世に伝えんとして記す。
   興宮神社の祭神は天照皇大神を主体とし香取鹿島両神宮のニ体が合祀されている。創立年
   代は不詳であるが、鎌倉時代の関東の豪族葛西三郎清重の家臣一式某なる者の領地であっ
   たと伝えられる。徳川幕府初期即ち寛永七年十月建設と古書にある。当興宮神社を東の宮
   本一色天祖神社を西の宮と呼び両神社の因縁深き事は今に至るも尚継続している。江戸時
   代末期の文献には幕府直轄の代官支配下の幕府直納の米の生産地であった地名は武蔵国東
   葛西領興之宮村と呼ばれた。村の面積は22町歩、戸数10数戸、人口110数人という
   寂しい農閑村部落であった。神社の境内は約4反分、別に田畑3反余の財産があったが、
   これは戦後農地法に依り耕作者の所有となった。凡そ神社仏閣の維持は有力な氏子崇敬者
   或いは特別な支援協力なくして維持運営は難事である。その点に欠けた当神社の維持は全
   く容易ならぬ事であったと、当時の村人我々祖先の苦労を偲び感無量なるものがある。太
   平洋戦争の終焉に伴い、国民感情は正に虚脱状態となり、一般国民生活は極度に窮迫の一
   途を辿るのみ、今や神に対する信仰概念や境内整備等への関心は殆んど絶無である。従っ
   て神殿境内は放置され勝となり斯くし三百年の歴史を閲して今日に至った。
   茲に於いて社殿の大改修と社務所の新築、境内の整備の必要を痛感し、日々に荒みゆく国
   民感情の融和と社会福祉の一端なりにも寄与し氏子の切実な要望に応へんが為、境内一部
   の宅地変更によりこれが資金に充当し氏子負担を避け即ち神社自体の財産により一切を賄
   うべく企画し、これが実現に専念した。
   幸い神社本庁の認証を得、更に関係各方面の理解と支持就中宮司亀井悦造氏の適切なる御
   指示と特にこの広大なる境内の神社を護り続けてきた我々遠い祖先に感謝しつつ茲に一切
   の改修整備の完成を見るに至った次第である。(昭和41年8月吉日 大野録三記)


 とある。
 

 



【鎌田】                                    消滅
 下鎌田村。明治22年瑞穂村大字下鎌田。大正2年瑞江村大字下鎌田。昭和7年江戸川区下鎌田
町。同9年椿町・今井町の各一部を編入、同13年一部を西瑞江・東瑞江・江戸川に譲り渡し、平
成16年11年1日瑞江2丁目となって最後の鎌田が消滅した。
 ①、「蒲田」に同じ。蒲の生い茂る湿地を開墾して造成した田畑の意。
 ②、「かま」は「川などのえぐれたところ」をいうので「おくまんだし」に見られるように
   崩壊的侵食谷または崖(川淵)をいったもの
 とも考えられる。ちなみに上鎌田は南篠崎町となって消滅した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 【蒲(かま)】
 御簾草(ミスグサ)のことだ。葉や茎で簾を編んだことからその名がある。茶色いソーセージの
ような部分が穂で雌花、その先端に雄花がある。その形をヒントに作られたのが竹輪蒲鉾で、現在
は「ちくわ」と簡略系で呼ばれ、板付の方が蒲鉾と呼ばれている。秋になると綿を解(ほぐ)したよ
うに綻(ほころ)んで風に吹かれて飛んでいく。因幡の白兎が包(くる)まったのがこの蒲の穂(植物
図鑑)。
 

 



【上一色】(かみいっしき)1~3丁目                昭和61年5月1日
 上一色村。明治22年鹿本町大字上一色、昭和7年江戸川区上一色町、同41年南小岩5~6丁
目・西小岩1~3丁目・上一色町に分かれ、同61年新住居表示により現行の「上一色」
とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 上一色の由来
 さて下一色村は存在しないから「上」の意味は判らない。「一色」も判らないが一色氏が開発し
たか、彼の領地だったか? 中世の免田に「一色田(いっしきだ・いっしきでん)」がありそれに
関係あるのかな? この一色は一式・一職とも書き「ひといろの」という意味で課税が一種類だけ
に限られる田んぼのことだ。たとえば課役(力仕事)をやれば他の年貢総てが免除になる、そうい
う租税関係を表し、このように一色(一種)の特権を認められた田や領地を「一色田・一色地・一
色不輸田・一色不輸領」などと呼んだ。そのような田を所有する者は、年貢がかからない田である
ことを理解させるために、地名に一色・一式・一職などを付けたという。オウム騒動で一躍有名に
なった富士山麓の「上九一色村」、九一色村が上・下に分かれてできた訳だが、一色田を持つ九つ
の村の総称が村名になったものだ。もう一つ「一色別納」という租税関係がある。一種類の産物(麦
なら麦だけ)を得る目的で新たに開発した開墾地のことだ。さらに「一色別符」というシステムが
あった。或る荘園の飛地があってその飛地の生産能力が相対的に低いなどの場合、飛地にだけ一色
を認める証書を出してやる。その証書が別符で、地名になったとき別府とも書いた。そのどちらか
かも知れない。「飛地」というのは、今は整理されて全国的になくなりつつあるが、町域(村域)
から離れたところにある町域(村域)。なぜこういうことが起きたかというと、むかしは利用価値
のあるところだけが町域であり村域だった。すると利用価値のない地域は誰のものでもないことに
なる。時代が過ぎていくと、その利用価値のない地域の或る部分が必要になってくる場合もあるし、
新規に開発するということになる。その新たに利用価値の出てきたところが「飛地」となった。ま
た大名や旗本の領地の支配関係で飛地となった場合がある。行政単位で千葉県というと千葉県全部
だが、江戸時代は大名領の中に天領(幕府領)があったり、旗本領があったり、また逆に天領や旗
本領の中に大名領があったり、その上に寺領、社領が入り混じったから、飛地だらけだったといっ
てもよい。南に「本一色」がある。
 


■上一色中学校

 上一色1丁目8番11号にある区立校。昭和36年現在地に鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落
成。同37年小岩第四中学校の分校として設立し、同38年「東京都江戸川区立上一色中学校」とし
て開校。屋内運動場完成。第2期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。同39年校歌制定

 校歌
「みどり野に」 作詞・高石博  作曲・今井洋一
  1.みどり野に風立ち白き雲行く
    希望遥かに
    若人の瞳の澄める円居は楽し
    健やかに真の愛を育む処
    嗚呼上一色中学校
  2.白鷺の行き交い花香る窓
    友よ雄雄しく
    弛みなく真理を究めて
    高らかに自主の歌声湧き来る処
    嗚呼上一色中学校


 同41年プール完成。同46年第3期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。完全給食実施。同
48年環七通り敷設のため校庭の一部削除。創立10周年記念式典。同51年第4期鉄筋コンクリー
ト造り3階建て校舎落成。同58年創立20周年記念式典。同60年第一音楽室冷暖房・防音化。
 平成2年体育館・プール完成。同4年パソコンルーム完成。同5年創立30周年記念式典。同15
年創立40周年記念式典。同17年女子十二楽坊中国古典楽器贈呈。同18年図書室冷房化。同19
年普通教室等冷房化。校内LAN配備。同21年学校LAN配備。同23年学応援団発足。
 


■ダンプ、電柱倒し横転

 上一色1丁目9番11号キチベイ前の電柱にダンプカーが激突して根元を千切って横転した。平成
29年9月27日11時5分頃、「ダンプが突っ込んだ」など119番通報があった。ダンプカーは
電柱に突っ込み、倒壊の恐れがあるので、警察官らが付近を規制して電柱の復旧作業を待っている。
この事故で、運転手とみられる男性1人が怪我をして病院に搬送されたという。現場は一日を通して
交通量の多い環状7号線の総武陸橋横の側道で、警視庁などが事故の原因を詳しく調べる。本人は、
「落ちたものを拾おうとしてハンドル操作を誤った」といっている。


■環七高架下南児童遊園

 上一色1丁目16番1号にある区立公園。


■東稲荷神社・塚の腰水神社
 上一色2丁目5番2号の上一色南部町会の建物の横にある小祠と石祠。道路側は裏手に当たるので
見つけにくいよ。昔、この辺りは「塚の腰」と呼ばれ、ここは小松川・境川の船着場があり、村びと
は「河岸」とも呼んだ。旧上一色村は、小松川・境川が唯一の交通路であったため、この河岸に入る
舟が、肥料・苗床用の塵芥・生活物資・建築材料・庭石・敷石などを運び陸揚げしていた。この水神
は、この川を利用して舟を使っていた村人によって信仰されていた。


■環七高架下北児童遊園

 上一色3丁目3番1号にある区立公園。


■上一色日枝神社
 上一色3丁目6番13号にある小社。創建年代不詳。明治初年上一色天祖神社の摂社となった。
 「新編武蔵風土記稿」の上一色村の項に、

   山王社
   同寺(正蔵院)持下同じ


 とあり、「東京都神社名鑑」に、

   亀井家文書に創立年代は不詳。明治初年まで別当に正蔵院が当った。村民崇敬厚く除地百
   拾七坪を有したとあり、神明社(上一色天祖神社)の摂社として存続すると書かれている。
   明治元年より亀井和泉守永信が神勤、道ヶ嶋香取神社宮司が兼管となる。


 とある。


■上一色児童遊園

 上一色3丁目13番11号にある区立公園。


大黒山常福寺
 上一色3丁目21番12号にある日蓮宗の寺。創建は寛永三年(1626)日了大徳が大黒天画像
を安置したのが始まり。本尊は大曼荼羅。入口を入ると正面が庫裏、左斜めに参道が続き本堂。左は
墓地。市川市の中山法華経寺の末寺だった。区の説明板に、

   日蓮宗に属し、大黒山常福寺と称します。もとは中山法華経寺の末でした。創建は寛永三
   年(1626)、覚樹院日了大徳が大黒天画像を安置し、民衆の福祉増進のため伝導強化
   に努めたのが始まりです。この大黒天画像は、宗祖日蓮聖人が文永元年(1264)に信
   者である船頭の佐介に書き与えた親筆といわれています。本尊には大曼荼羅(一塔両尊四
   士)を祀り、祖師像、木像十一面観音坐像、十羅刹女像、三十番神像等を祀っています。
   当寺は、安政二年(1855)の大地震、翌三年の暴風で被害を受け、永らく仮堂のまま
   でしたが、昭和5年に第26世泰善院日譲上人が本堂を再建し、その後境内が整備されま
   した。


 とある。
 


智光山正蔵院得生寺
 上一色3丁目30番17号、新中川河畔にある真言宗豊山派の寺。山門はないが寺らしいたたずま
い。入口を入ると右手庫裏、正面本堂、左に墓地が広がる。南葛八十八ヶ所霊場11・18番札所。
「新編武蔵風土記稿」に、

   正蔵院
   新義真言宗上小松村正福寺末、智光山得生寺ト号ス。
   本尊阿弥陀ヲ安ス。


 とある。
 




【上篠崎】(かみしのざき)1~4丁目                 平成2年8月1日
 上篠崎村。元禄のころ篠崎村から分村。明治22年篠崎村大字上篠崎、昭和7年江戸川区が成立
して上篠崎町と西篠崎町となる。同41年上篠崎町は一部を篠崎町に譲り、同時に上篠崎町・北篠
崎町・下篠崎町の各一部をあわせた町域をを上篠崎町1~4丁目とし、残りはそのままとなった。
西篠崎町は東小岩1丁目・北篠崎町1~2丁目と残りの西篠崎町となった。同45年残りの上篠崎
町の一部を鹿骨2~3丁目に譲り、平成2年上篠崎町1~4丁目と残った西篠崎町の全部に上篠崎
町・北篠崎町・鹿骨町・鹿骨2丁目の各一部を併せた町域を現行の「上篠崎」とし新住居表示を完
了した。

 
上篠崎の由来
 京都に近い篠崎村の意。篠崎の由来は【篠崎町】を参照。
 


■篠崎緑地

 上篠崎1・2丁目、北篠崎1・2丁目、篠崎町1~3丁目に跨る区立公園。


■篠崎公園

 上篠崎1・4・8丁目、篠崎町6~8丁目、南篠崎町4丁目、鹿骨町、西篠崎町、谷河内2丁目に
跨る都立公園。


■篠崎第二小学校

 上篠崎1丁目3番1号にある区立校。
 「分校時代」
 明治38年「東京府南葛飾郡篠崎尋常高等小学校第一分校」として設置。昭和7年周辺5郡が東京
市に併呑されたため「東京府東京市江戸川篠崎尋常高等小学校第一分校」と改称。同10年「東京府
東京市江戸川篠崎尋常高等小学校押上分教場」と改称。同16年国民学校令により「東京府東京市篠
崎国民学校押上分教場」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都篠崎国民学校押
上分教場」と改称。同20年日本は、アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といい
なりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上持って
いかれたよ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立篠崎小学校押上分教場」と改称。
同29年「東京都江戸川区立押上分校」と改称。同31年宿直室を保健室に改築。同34年給食調理
室を新設。同36年2教室増築。玄関、音楽室及び廊下、視聴覚室が完成。同37年給食室にプロパ
ンガス施設完成。作業員休憩室増設。

 「独立」
 同42年独立して「東京都江戸川区立篠崎第二小学校」と改称。鉄筋コンクリート造り校舎11教
室・木造校舎5教室。同43年効果制定。中央校舎(8教室、管理室)落成。プール完成。

 校歌「大きい空と」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.大きい空と大きい川と
    大きい夢がここにある
    この町に我らは何時も胸を張り
    弛まず伸びる日に伸びる 
    篠崎第二 やり抜く力
  2.優しい花に優しい小鳥
    優しい光が射してくる
    満ち渡る 仲良く強く育つ子を
    社の松も見ているよ
    篠崎第二 楽しい我ら
  3.遥かな富士と遥かな秩父
    遥かに注ぐ江戸川を
    友として心も清く清らかに
    日本の明日を担う者
    篠崎第二 栄えある母校


 同44年体育館完成。同45年校地拡張。同50年鹿骨東小学校新設により児童177名移籍。同
51年篠崎第五小学校新設により95名移籍。同61年創立20周年記念式典。平成3年アスレチッ
ク設置。同9年ランチルーム完成。同17年「さくら門」開門。同19年40周年記念式典。同20
年「篠二の光る子」(第二校歌)制定。同22年プール改修。
 


■浅間神社

 上篠崎1丁目22番31号にある大社。「せんげんじんじゃ」と読む。上篠崎といえば、関東一と
評判の「幟祭」だ。天慶元年(938)五月十五日の創建といわれ、区内で最も古い神社。祭神は木
花開耶姫命。社殿は3mほどの小山の上に鎮座している。摂社に下浅間・下浅間御嶽宮・香取・天満
宮・八幡・白髭・天祖・須賀・稲荷・霧島・水神・弁天・靖国宮・道祖神など多数の小祠が並ぶ。
 霧島社は、同三年(940)平将門の乱を鎮めるため平貞盛が、将門降伏を祈願して勧請、金幣と
弓矢を奉納したと伝えられている。文化文
政の頃から参詣者が増え始め、講中なども組織された。境内は約4000坪、樹木鬱蒼と茂り、天慶
の昔を彷彿とさせる。昔から「浅間さまの森」と呼ばれて親しまれてきた。由緒に  

   当社は約1100年前、天慶元年(983)五月十五日に創建されました。江戸川区内で
   最も古い神社です。承平二年(932)に下総国弥山からこの地に移住してきた弥山左那
   比神人(ややまさなひしんと)が初代宮司として仕えたと伝えられます。
   天慶三年(940)平将門が関東において威を唱えると、平貞盛が乱を鎮めるために派遣
   されました。貞盛は将門が降伏するように祈願し、当社に霧島神社を祀り、金幣と弓矢を
   献じて武運を祈ったと言われます。
   当社には、村上天皇の御守剣、後花園天皇の連歌などの御宝物が納められており、平安・
   鎌倉期より当社の崇敬がことのほか篤かったことが窺えます。江戸時代になると、江戸や
   周辺からの参詣者が増え、講社なども組織されました。
   明治7年には祀官拝命の社として、江戸川区内では当社のみが郷社に列せられました。
   以降、明治から昭和にかけても熾仁親王の神額、三條内大臣藤原朝臣の神額、犬養元総理
   の額などが奉納されるなど、多くの篤い崇敬が寄せられました。
   平成の世になった現在も、日本最大の「幟祭」をはじめ、悠久の祭りを現在に伝え、篠崎
   の地を静かにお守りしております。


 とある。「新編武蔵風土記稿」の下磯崎村の項には、

   神明社
   前村(上篠崎村)の記す如く、当所は往古伊勢太神宮の御厨領なれば、恐くは太神宮遥拝
   の為に造立せるべし。されば最古社なるべけれど、其詳なる事は傳へず。今僅に元和三年
   承応二年の棟札あるのみなり。其図左の如し(略)。
   神主奥山伊勢。吉田家の配下なり。先祖は下総国印旛郡弥山と云処の人にて、弥山左奈比
   と号し、承平二年当所に来て当社及浅間の神職を兼帯し、康保二年五月十一日卒す。それ
   より十一代の孫某の時、いかなるゆへにや弥山を深山と書き改めしに、享保年中又故あり
   て今の苗字に改と云されど後年しばしば水災に罹り、又近き年己が家より火登りて旧記等
   失ひたれば、古の事総て詳ならず。
   富士浅間社
   一は村の鎮守とす。無量寺持。社地に御小嶽社あり。一は下の宮と号す。当社は神明神主
   奥山氏の分家深山佐渡と云者神主たりしに、享保年間罪ありて配流の後本家奥山氏の兼帯
   といふ。
   
香取社

 とあり、「江戸川区の文化財」に、

   篠崎の浅間神社は木花開耶姫命を祀り、天慶元年(938)五月十五日の創建といわれ、
   区内で最も古い神社である。明治7年に郷社に昇格した。
   天慶三年(940)平将門の乱を鎮めるため平貞盛が将門降伏の祈願をこめ、金幣と弓矢
   を奉納したと伝えられている。文化文政の頃から江戸やその周辺からの参詣者が増加し、
   講社なども組織されるほどになった。境内は約4000坪あり、多くの樹木が繁り区の保
   護樹も多い。昔から「せんげん様の森」として親しまれてきた。昭和57年2月「浅間神
   社の社叢」として区の「天然記念物」に指定された。

 とある。
 境内の摂社はやたらとあり、石祠・石像・石碑などの石造物もまた無数にある。

 幟祭(昭和56年1月13日 江戸川区指定無形民俗文化財・民俗芸能)
 7月1日が例大祭で、2年に1度「幟祭」が行われる。境内に12間(21.72m )の大幟が1
0本、人力で立てられるのでこの名がある。この神社には氏子の地区を五つに分けてあり、1地区が
2本立てる。森の木立を越えて大空に翻る様は壮観で、しかし珍しい祭なのだ。以前は人手不足で3
0mの杉の丸太柱を立てるのに、クレーンを使用していたが、最近は祭りが評判となって、人手不足
も解消したので昔通り人力で立てている。8月は江戸川花火大会の会場が近いので、この付近は大賑
わいだ。

 富士講碑(昭和56年1月13日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 江戸富士信仰の中心的存在だった元祖食行身禄の供養碑で、没後百年余を経た天保十一年(184
0)その信者たちによって建てられた。上部に富士山の図、その両側に瑞雲に乗った日輪と月輪が描
かれ、中央に「元祖食行身禄価」と刻まれ、下部に線刻の三猿がある。
食行身禄(1671~173
3)は伊勢の人で、本名伊藤伊兵衛。江戸に出て駒込で油商をしながら熱心な富士信仰信者となり、
厳しい修行を重ねて富士信仰身禄派の基礎を作った。身禄は「弥勒」をもじったものだ。板橋の「縁
切榎」は、伊兵衛が修行のため家族との縁を切ったことに由来するともいわれている。


   
元祖食行身禄価

   江戸川区登録有形文化財(歴史資料)
   
浅間神社の富士講碑
   高さ一〇三センチ米、幅七六センチ米、天保十一子年五月吉日に「江戸北新堀 狗願主中」
   により建立されました。
   富士講碑は、富士山信仰のための講碑ですが、この富士講碑は一般のそれと異なり、講印
   や何々同行という文字がなく、中央に「元祖食行身禄」の名が大きく書かれ、下部に三猿
   描かれていることで、講碑としては珍しい形式で貴重なものです。
   食行身禄(1671~1733)は伊勢の人ですが、江戸で熱心な富士講信者となり、そ
   の中心的な指導者となって教理の大系化を図りました。この碑は歿後百年余年を経て建て
   られています。刻字中の「ネ彖」は「禄」が正しく、「価」は富士講独特の使用法で、先
   師を敬ってその名の下につけます。
   昭和56年1月13日登録                   江戸川区教育委員会

 境内末社
 下浅間神社(大山祇命)・下浅間御嶽宮(磐永媛命)・香取神社(経津主神)・天満宮(菅原道真
公)・八幡神社(誉田別命)・白髭神社(猿田彦命)・天祖神社(天照大神)・須賀神社(須佐之男
命)・霧島神社(瓊瓊杵尊)・稲荷神社(豊受媛命)・柳島稲荷神社(豊受媛命)・水神宮(彌都波
能貴命)・道祖神(久那斗神)・辨天社(市杵島媛命)・靖國宮

   天満宮
   平朝臣第26代金子隆一氏神殿寄進により村瀬勝太夫明治8年浅間神社祠官を拝命、また
   亀戸天満宮兼務祠官も拝命した。その在任中官公一千年祭を斎行、前田氏ゆかりの天満宮
   神影を前田利爲侯爵より賜り、勝太夫、勝光の時代、浅間神社々務所神殿に奉祀してきま
   したが、祠官拝命百年を期して下浅間宮西側に鎮斉し、菅公むゆかりの東宮大夫子爵菅原
   朝臣修長公の神額、鳥居一基を奉献郷土彌栄を記念する。
   昭和61年3月          浅間神社宮司・皇大神宮評議員 正八位村瀬光男拝

   摂社
   霧島神社平成正遷宮
   浅間神社責任役員 鈴木彰三 正遷宮を斎行
   承平・天慶の乱が出来し治安が乱れた。天慶元年五月五日、平貞盛朝臣勅命により、平将
   門征伐のため東国に向かった。その時、武運祈願に金幣・弓矢を献上、また浅間大神の■
   神■■■■、霧島大神をこの地に遷宮奉祀した。千百六十年のこと以来、宝暦正遷宮・明
   治八年正遷宮・平成正遷宮を斎行。落慶遷宮祭を奉祝
   平成16年3月                              宮司記

 木遣音頭碑・木遣之由来碑 ✓
 境内にある。詳細不明。

 宝物
 村上天皇御守剣・天国之剣。御花園天皇の連歌。有栖川熾仁親王の神額。太政大臣三条藤原朝臣の
神額。犬養毅の額などなどがある。

 社叢(鎮守の森) 昭和57年2月8日 江戸川区指定天然記念物・植物
 区指定天然記念物。神社を囲む森は、この社の約4000坪の境内を包むように茂り、昔から「せ
んげん様の森」として知られている。
  


石暦山妙勝寺
 上篠崎1丁目23番14号にある日蓮宗の寺。弘安元年(1278)本覚坊日寂上人が浅草石浜村
に創建。大正4年区画整理により移転してきた。本尊は十界曼荼羅。入口を入ると左に墓地、正面本
堂でその右奥に庫裏、古刹だが、江戸川区においての古刹ではない。「新編武蔵風土記稿」に、

   妙勝寺
   法華宗、下総国中山法華経寺末、石暦山と号す。本尊三寶祖師を置。文禄三年の起立。
   三十番神社、鬼子母神社。
   寺中、修心坊。


 とあり、

   寂海法印本覚坊日寂上人により弘安二年(1279)開創しました。日寂上人は、もと天
   台宗の僧で浅草観音金龍山浅草寺の住職でした。安養寂海法印と称され、北方の能化と呼
   ばれた学徳兼備の高僧でした。弘安元年(1278)中山法華経寺の日常上人・日祐上人
   と法議を論じ、日蓮聖人と面談して、日蓮宗に改宗、浅草寺を退隠して浅草石濱村に妙勝
   寺を創建しました。後第二世日正上人の代、元享二年(1322)現在地に移りました。


 とある。

 三十番神・鬼子母神
 けいだいにある。

 澤地東淵墓誌銘(昭和62年2月25日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 境内にある。澤地東淵(周輔または周助)は、天保二年(1831)生まれで、明治39年11月
に76歳で没している。明治6年の「家塾開業願」によれば、天保九年(1838)から同13年1
2月まで上篠崎村の医師金子金哉に就学。嘉永二年(1849)3月から同4年11月まで下谷の海
保章之助に学んで、文久元年(1861)8月に上篠崎村に家塾を開業した。学科は筆道でしたが、
教科書には『万国史略』の講義もしている。
 この碑は、熱心に村人の指導教化に努めた恩師のために建立された供養塔だ。高さ175cm。
 


■都立篠崎公園

 上篠崎1丁目25番1号にある広大な都立公園。芝生公園、バーベキュー広場、児童遊園、野球場
テニスコート、壁打ちコート、河川敷には10数面のサッカー場がある。
 


■阿弥陀堂跡(墓地)◇

 上篠崎1丁目21番の東南地にある。

   阿弥陀堂跡
   近在の無量寺の墓地です。区内の民謡の中に「弥陀堂の和尚」という永い歌詞の歌があり
   ます。これによると江戸時代に篠崎村の阿弥陀堂に一人の和尚がいて、木魚を横に抱えて
   歌い踊りながら、人々を教導したといわれています。この阿弥陀堂は現在墓地だけになっ
   ています。「安心法印不生位、延享二(1745)丑天三月一九日」という墓がこの和尚
   の墓といわれていますが、確証はありません。
   ◇阿弥陀堂跡墓地所在の地蔵菩薩像庚申塔(寛文五年銘)
    昭和59年2月登録
    区登録有形民俗文化財・民俗資料
   舟形で高さ163cm。長文の銘が刻まれてています。「庚申講結衆□善根功徳之基本拾
   年余輩必人名□青面庚申之結衆造専 地蔵□浄土尊像偏大非代一文(以下略)」とありま
   す。磨滅のため不明の所が多いのですが、庚申結衆が地蔵菩薩の徳をたたえて建立したと
   思われます。
   平成15年8月                        江戸川区教育委員会

 地蔵菩薩像庚申塔(昭和59年2月28日 江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料)
 舟型で高さ163cm。寛文五年(1665)の造立で、長文の銘が刻まれている。「庚申講結衆
 口善根功徳之基本拾年余輩 必人名口青面庚申之結衆造専 地蔵口浄土尊像偏大悲代一文(以下省
略)」とある。磨滅のため不明部分が多いが、庚申信仰の人びとが地蔵菩薩の徳をたたえて建立した
と思われる。

   庚申講結衆 ■善根功徳之基本拾年余輩 必人名■青面庚申之結衆造専 地蔵■浄土尊像
   偏大悲代一文
(以下略)

 とある。磨滅のため不明部分が多いですが、庚申信仰の人びとが地蔵菩薩の徳を讃えて建立したと
思われる。


■庚申堂 ◇

 上篠崎2丁目24番13号の篠崎街道の路傍にある。駒型・日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。
「文化二乙丑十一月吉日」「石井氏」と刻む。


■上篠崎柳島の河原道石造道標 ◇
 (昭和58年3月15日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)

 上篠崎3丁目13番17号の遊歩道の南の入口付近にある。ここは新皆面橋の趾だとのこと。文化
十三年(1816)建立の道標で、正面に「右かわら道、講中」、左側面に「左江戸道」と刻まれて
いる。上部に青面金剛像像庚申塔を載せており、道標部分はその台石だ。正面に刻また「講中」は地
元の庚申講中と思われる。


高野山慶乗院

 上篠崎4丁目8番19号にある真言宗高野山派。普通の住宅で寺号の表札はあるが、活動はしてな
いみたい??
 


■篠崎第五公園

 上篠崎4丁目14番7号にある区立公園。


■上篠崎四丁目公園

 上篠崎4丁目28番1号にある区立公園。

 
「飛翔の翼」 2基
 南西と西北の入口を入ったところにある中川みさこ制作のオブジェ


■連続放火事件 犯人は都立高校生だった
 上篠崎2丁目2番、4丁目5番篠崎公園のゴミ箱、4丁目19番18号エクセレントパレスのゴミ
箱、同21番5号ジュネスいなほの駐輪場、同21番7号川村ビルの自動販売機の空き缶入れ、24
番、28番篠崎四丁目公園のゴミ箱、29番で起きた7件の連続放火事件。犯行は、令和3年2月1
7日・29日に行われ、防犯カメラの追跡で、近所に住む都立高校生(18歳)の犯行と断定、緊急
逮捕した。少年は、母親と喧嘩してむしゃくしゃしてやったと供述しているが、元より放火願望があ
り、この期に及んで欠航したということだろう。


■少年と少女像 ◇

 上篠崎4丁目30番9号ディアコート篠崎の玄関前右脇にある銅像
 



【北葛西】(きたかさい)1~5丁目                昭和54年11月1日
 宇喜新田の西半。西宇喜田村。明治22年葛西村大字西宇喜田、昭和7年江戸川区西宇喜田町。
同9年宇喜田町。同54年宇喜田町の大部分に南船堀町を併せた町域を現行の「北葛西」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 北葛西について
 町名は葛西村当時の北部地区であることによる。いまだ頑なに北葛西入り拒絶し残る宇喜田町を
どう取り込もうかと腹に一物、背に荷物、虎視眈々其欲逐々と狙いを定めている。400年の宇喜
田を食い尽くす日も近い? 葛西については【葛西】を参照のこと
 


■葛西大師まいり
(船堀・宇喜田・小島組)・(仲町組)
 江戸時代から続けられている、葛西大師講の弘法大師霊場巡拝の行事。葛西地区には、大師を祀る
寺院や堂宇、民家が30ヶ所ほどあっ。かつては、5月21日に浦安などの人びとも参加して、全体
を廻っていたが、現在は5組に分かれて巡拝している。先達を先頭に、大師の厨子を背負った世話人
が続き、講員が鉦を叩き口々に「南無大師遍照金剛」と大声で唱えながら行進する。大師を祀る寺院
やお堂、講員の家などに着くと、般若心経や光明真言を唱えて勤行する。組によっては、歌や踊りの
加わることもある。昭和60年3月12日告示、江戸川区登録無形民俗文化財・風俗慣習。
 


■旧葛西橋

 北葛西1丁目4番8号先(小島町)から江東区南砂町(江東区東砂六丁目交差点東側)に架けられ
ていた木橋。これが「旧葛西橋」であり荒川放水路の掘削に合わせて昭和3年1月に完成し、架橋当
時は都内で最も長い橋であった。現在の江戸川区西葛西付近、江東区南砂付近の埋め立てが行われて
いない時期であり、荒川の最下流の橋であったため、鯊釣りの名所として、橋上には釣り人が絶えな
かった。そのため橋詰には多くの釣具屋が軒を連ね、釣り船の桟橋も多く存在した場所だ。路線バス
も通行する片側一車線の橋ではあったが、木橋ということもあり耐久性に問題があり、昭和25年に
老朽化のために崩落事故を起こす。復旧されたが、自動車の通行が禁止され(このことでますます釣
り場として賑わったといわれている)、仮設の人道橋として細々と使い続けられたが、10年後には
現在の葛西橋が架橋され、その役目を終えた。現在も往時を偲ばせる釣具屋や屋形船屋が立ち並んで
おり、江東区側に50mほど「葛西橋商店街」が、また「旧葛西橋」という名称の交差点やバス停留
所としても、その名を残している。
 昭和56年4月に「旧葛西橋跡」として江東区の史跡に指定されている。


■宇喜田川公園

 北葛西1丁目5番10号にある区立公園。


■八雲神社

 北葛西1丁目6番13号にある小社。

 
百度石
 境内にある三角の自然石。
 


■船堀閘門
(ふなぼりこうもん) 撤去

 北葛西1丁目16番先、中川土手のところにあった。閘門は水位の違う2つの水域を結ぶ水路で、
船舶が通過するとき水位を調節する装置。即ちパナマ運河が閘門だ。昭和2年に着工して、同5年に
完成した。同54年その北側の新川水門と共に撤去され、現在は跡形もない。8つあった閘門頂部の
1つが、北区の知水資料館の敷地に保存されている。

 昭和32年の夏、石田波郷は船堀閘門を訪れた。その時のことを
『江東歳時記』に書いている。

   船堀閘門で
   葭切(よしきり)のギョギョシ、ギョギョシと鳴く青葭原を見下しつつ閘門の下に出る。
   放水路もここらはずんと広く、河口葛西橋方面からの川風が涼しい。ここは荒川、中川両
   放水路へ、新川、小名木川、旧中川が口をひらいているところで、船堀、中川、小名木川
   の3水門と新川水門が東西4本柱の如く相対している。


   葭切や晩潮へゆくごかい掘り


■修景土塀

 北葛西1丁目16番13号の第一三共(株)葛西研究開発センターの北側、川寄りの外壁。区は新
川千本桜計画に伴う親水護岸整備、桜の植栽等を行う一方で、沿川の区民に新川周辺景観づくりへの
協力・理解を求めている。平成21年度の西水門広場の完成にあたり、周辺景観向上の一環として、
第一三共株式会社からの寄附をもとに、既存の壁を生かしながら江戸の景観を模した壁の設置を行う
ことになった。
 全長142.4m 下見板張り屋根塀(高さ2680mm、3825mm)。屋根:桟瓦葺き。
 壁:漆喰塗(厚15mm)。腰壁:杉板下見板貼り。立上り:石貼り(花崗岩)
 出格子窓:木製造作窓8ヶ所。
 


■豊栄稲荷神社

 北葛西1丁目16番51号にある小社。小祠・石碑もある。傍らの説明板に、

   豊栄稲荷神社                鎮座地 江戸川区南船堀町2902番地
   豊受姫命を主神とし誉田別神を合祀する。元禄三年(1690)の創建と伝えられる古刹
   です。明治元年に浅間神社の兼務となりました。
    境内には稲荷大明神の小祠のほか、何れも石製の稲荷鳥居と八幡鳥居・手水舎・狛犬
    一対・常夜灯一対・百度石・力石などがあります。

    なお当社務所の堂宇は弘法大師を祀る新四国第5番の霊場ともなっており、毎年4月
    21日には区登録無形民俗文化財指定「葛西大師まいり」の巡礼者一行が立ち寄り経
    をあげ勤行します。


 とある。

 力石
 沢山ある。よっぼど暇だったんだね。
 


■新川休養公園

 北葛西1丁目21番4号にある区立公園。


金胎山不断光院安楽寺
 北葛西1丁目25番16号にある浄土宗の寺。承応元年(1652)開山は法譽伝竜法印。本尊は
阿弥陀如来坐像。入口の鐘楼門を潜ると正面に鐘韻閣。ちょっと左に逸れると正面に高さ3mばかり
の鉄筋コンクリート造りの基礎台の上に本堂。左は墓地。本堂の奥右に庫裏がある。
 「新編武蔵風土記稿」の西宇喜田村の項に、

   安楽寺
   下総国葛飾郡小金村東漸寺末、全胎山不断院と号す。開山法龍、承応元年七月二十七日化
   す。本尊阿弥陀。
   天神社、地蔵堂。


 とあり、「江戸川区の文化財」に、

   浄土宗、旧は千葉県小金村東漸寺末、金胎山不断光院と号した。閉山は法誉伝竜法印で、
   承応元年(1652)に入寂している。本尊は等身大の阿弥陀如来坐像を祀る。昭和28
   年の火災で鐘楼門を残してその他は焼失したので、昭和48年7月本堂を再建新築した。
   当時には儒家の大江藍田〔天明八年(1778)五月八日没〕の墓がある。山門をくぐり
   ぬけると左側に村田権兵衛栄章を讃えた碑がある。彼は西宇喜田村の人で、子弟の教育の
   ために献身したので、その門人たちが彼の徳をたたえて建てたものである。

 とある。区の説明板は以下の通り。

   安楽寺
   安楽寺は浄土宗で、金胎山不断光院と号します。開山は法誉伝竜法印で、承応元年(16
   52)に入寂しました。本尊には等身大の阿弥陀如来坐像を祀っています。
   ◇鐘楼門
   江戸時代の建造といわれており、元は山梨県石和の古寺にあったものを移設しました。木
   造銅板葺きの入母屋造り2階建てで。通し柱を使用しています。梵鐘は昭和47年の新鋳
   です。
   ◇大江藍田の墓
   江戸時代の儒学者で通称久川玄蕃といいます。京都の儒者大江玄圃の子で著書に、「藍田
   遺稿」「詩語国字解」などがあります。
   ◇村田栄章頌徳碑
      昭和62年2月登録
      区登録有形文化財・歴史資料
   村田栄章は、嘉永七年(1854)に西宇喜田村に家塾を開き、書道を教えました。門人
   たちが師の徳を慕い碑を建立しました。

   平成14年12月                       江戸川区教育委員会

 鐘楼門
 鐘撞堂と山門が合体した建築物。江戸時代の建てられたもので、元々は山梨県の石和の古寺にあっ
たものを移築した。板葺き入母屋造り2階建て。西葛西から新小岩まで中川に沿って走る船堀街道に
面して建っており、門というよりは鐘楼の下を潜り抜けるという感じ。

 大江藍田の墓
 おおえらんでん。江戸時代の儒学者。名は維翰。字(あざな)は伯祺、文挙、通称久川玄蕃といっ
た。別号に東陽、藍水がある。京都の儒者大江玄圃の子で、詩文をよくし、著書に「藍田遺稿」「詩
語国字解」などがある。京都で活躍していたが江戸へ赴く途次死去した。34歳だったという。

 村田栄章頌徳碑(昭和62年2月25日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 村田栄章は、嘉永七年(1854)に西宇喜田村に家塾を開き書道を教えた。門人たちが師の徳を
慕い碑を建立したもの。筆子塚といった方が正しいかも。 総高187.5cm。

 天神社
 境内にある。


■棒茅場通り

 北葛西1~2丁目を半円にさ通る道路。通りが有名であるというより、難読地名として有名。嘗て
の宇喜田村の小名。「ぼうしば」と読む。由来は判っていない。「茅」の音読みは「ぼう」。「ぼうぼうば」なのだが、茅を「し」と読む理由は判らない。茅が生い茂っていたことは想像できる。 


■十八軒水神宮

 北葛西2丁目12番23号にある小社。昭和53年十八軒川河口にあったものを遷座したという。
 境内石碑のにある縁起。

   当地区は古来農漁業を営む住民が多く、水神宮に対する信仰が篤く、当初十八軒川河口に
   水神宮を奉持していたところ、都市計画等により仮移転の余儀なきに至っておりました折、
   地元田中猛男氏の御厚意により昭和五十三年四月五日、この地宇喜田町四百六十九番地六
   号に三十四平方米の敷地を御寄贈賜り祠堂の建立ができました。
   更に平成八年四月二十日に十三平方米もの用地を追加し御寄贈下されました。
   今後広い境内で祭事のできますこと、町民一同の慶びであります。
   お陰をもって水神宮の御加護のもと、益々地域が発展することを無上の喜びとするもので
   あり、茲に田中猛男氏に対し心より感謝申し上げ、その高き御芳徳を末永く讃えこの碑に
   記します。
   平成八年四月吉日                          十八軒水神宮
 


■第五葛西小学校

 北葛西2丁目13番33号にある区立校。俗に「ごかさい」と呼ぶ。昭和46年第三葛西小学校から
分校して「東京都江戸川区立第五葛西小学校」として開校。同47年校歌制定。

 校章が制定された昭和46年7月14日に校歌制定委員会が発足。歌詞については7月20日広く
一般公募し、11月26日に締め切った。委員会は150点にものぼる応募作品を審査し、遠藤俊夫
教諭の歌詞を採択。次いで作曲家渡辺浦人に作曲を依頼し、翌年1月22日に制定された。歌詞は、
明るく楽しい学校、地域の児童をすこやかに育てる学校をめざし、葛西の自然を織り込み、調和の取
れた児童の成長を願う内容になっている。曲調は、ハ長調、四分の四拍子で児童にとって歌い易く、
覚え易い旋律だ。校歌と校章は、五葛西小学校のシンボルとして、児童を励まし、地域の人々に親し
まれてきた。
  1.ほら あさかぜに頬を染め
    光り輝く微笑みを
    ああ 第五葛西の子よ
    素晴らしい
    今日の暮らしの虹として
    豊かな人に育とうよ
    葛西 葛西 葛西
    我らの第五葛西小学校
  2.ほら 太陽に手を上げて
    走る額の その汗を
    ああ 第五葛西の子よ
    逞しい
    明日の暮らしの糧として
    強い心に育とうよ
    葛西 葛西 葛西
    我らの第五葛西小学校
  3.ほら 銅
(あかがね)の空に映え
    目と目が笑う その顔を
    ああ 第五葛西の子よ
    限りない
    明日の希望の像として
    光の中に進もうよ
    葛西 葛西 葛西
    我らの第五葛西小学校


 同47年体育館・4特別教室・プール完成。同51年6普通教室・3特別教室増築。校門・外柵整
備、校庭再舗装。同55年創立10周年記念式典。同63年防球フェンス取付。
 平成2年窓枠アルミ化。開校20周年記念式典。同3年学童クラブ開設。同5年非常用放送設備。
同7年飼育小屋完成。同8年校庭ダスト舗装。同13年開校30周年記念式典。同14年敷石改修。
同16年すくすくスクール開設。同17年校舎耐震化。同19年特別支援学級「けやき学級」開級。
同22年プール改修。学校応援団設立。同23年創立40周年記念式典。
 


■宇喜田南児童遊園

 北葛西2丁目20番4号にある区立公園。


■地蔵堂

 北葛西3丁目1番25号ダイエーパッケージ(株)の建物の角にある小さな小さな祠。


■行船公園

 北葛西3丁目2番1号にある区立公園。昭和8年土地の府会議員田中源が、区民福祉の増進と生活
文化向上のための公園用地として東京市に寄付したことにより開園。行船の名は、田中家の屋号「行
船」に因んで名づけられた。同25年には区に地上権・管理権が移管され、同58年に無料で動物に
触れられる「江戸川区自然動物園」が園内にオープンし、平成元年には公園北側が整備され、庭池を
伴った和風庭園の「江戸川平成庭園」と数奇屋造りの茶室「源心庵」が新たに開園、区民を主として
多くの人が集会や茶会句会などに利用するようになった。休日・平日を問わず、多くの人に利用され
ている公園で緑の中を散策できる。林泉園、水生植物池のある植物園を持つ休養公園として整備され
ている。
 広さは約30000㎡。南半分は明るい洋風庭園で、噴水広場を中心にした児童遊園と江戸川自然
動物園となっている。この公園ではみんなが寛いで、無料の自然動物園で動物に触れたり、巨大な滑
り台で遊んだり、木陰で弁当したり、語らったりで、田中源翁の思いがしっかり実現し根付いている。
 なお園内の柳の木は「銀座の柳」と同種の安曇野産で、今はなき銀座の柳を目の当たりに見ること
ができる。

   行船公園は、地元の田中源氏が寄贈した地に昭和11年に開園しました。面積は約300
   00㎡で、園内には自然公園、平成庭園などがあります。
   昭和58年に開園した自然動物園には、アシカや、ペンギンを始め、友好都市であるオー
   ストラリアのゴスフォード市から来たベネットワラビーなどがいます。
   平成元年に改修落成した「平成庭園」は、多彩な水辺の景趣が楽しめる築山池泉回遊式庭
   園です。
   東京湾の潮の干満に合わせて水位が変化する「潮入りの池」数奇屋造りの茶室「源心庵」
   約800本のつつじの築山など、水と緑が美しく調和した庭園は四季折々の変化が楽しめ
   ます。

   Opened in 1936,the 3-hectare Gyosen Koen Park comprises a zoolojical park ou
   sing such exhibits as sea lions and penguins.
   It also contains the Heisei Teien,a Japanise-style garden and tea house where
   the canges of the four seasons can be enjoyed.


 平成庭園
 平成元年3月に開園。池畔には源心庵・林泉亭・躑躅亭がある。池畔を回る散策路では、サクラ・
ツツジ・ハナショウブ・モミジなど、四季折々に移り変わる自然の美しさを身近に感じられる。
 源心庵は、平成元年4月に完成した純日本建築の数寄屋造り。水との関わりをテーマに、月見台を
大きく池へ張り出した浮御堂(うきみどう)の形式で建てられている。内部も、床柱は松材の四方柾
目、衾は鳥の子紙に本漆仕上げと豊かな伝統が生かされている。池泉を眺望する和室や立礼席で、茶
道・華道・句会・詩吟・会合・手芸など日本の伝統文化を堪能してくれとのこと。

 石田波郷句碑
 平成15年建碑。

   立春の米こぼれをり葛西橋
   早春や道の左右に潮満ちて


 田中源翁像 ◇
 
東京府議会議員で公園一帯の土地を寄付し、地域の発展と区民の福祉増進に努めた。台座は高さが
あって「公心日月」と刻されている。昭和25年の建立であるが、可笑しいことに、碑文は昭和34
年、福田が総理大臣だったのは昭和51~53年・・・何時建てたんだ?

   公心如日月 内閣総理大臣福田赳夫

   田中源先生顕彰之碑
   その生涯を社会公共の福祉にささげられし先生の偉績は久遠に不滅 後進を教化し郷民自
   奮自励の亀鑑なり 先生逝いて十三年同士相はかりゆかりの地行船公園に之を建つ
   昭和34年4月吉辰

 灯籠
 2基の灯籠。横に石碑がある。


   
灯籠
   大正6年10月1日の暴風とこれに伴う高潮の襲来は、明治以降江戸川区を襲った風水害
   の中で最大の被害をもたらしました。この高潮による葛西村の被害は死者230人、負傷
   者9名、流失・破損家屋は1355棟と東京湾沿岸では最大のものでありました。
   この被害に対し当時の井上友一東京府知事は、直ちに被害者の救済に乗り出し、罹災者一
   時収容所の設置をはじめ食糧の配給と傷病者の治療を行うなど各般にわたって救護の手を
   さしのべられ、中でもこの高潮による流失・破損家屋の復旧に大変なご尽力をいただきま
   した。
   この灯籠は大正8年6月12日、49歳の若さで急逝された井上東京府知事へ報恩の証と
   して、葛西村の住民の総意により墓前に奉納されたものです。
   平成21年5月                             江戸川区

 石碑。

   
天災は忘れた頃に来る 理学博士寺田寅彦
 

 
江戸川自然動物園

 北葛西3丁目2番1号にある行船公園の中にある環境促進事業団が運営するミニミニ動物園。昭和
49年からホタルの養殖を始め、当区産のホタルによる「ホタルまつり」が実施されていたがホタル
は季節限定動物なため、日頃から子供に夢を与える施設として、同58年5月5日動物園が開設され
た。当初は18種143点で面積も2500平方メートルであった。その後、同63年、ホタルの餌
となるカワニナ不足を解消する事が不可能と判断し、ホタル事業を中止し動物園1本の事業となった。
平成5年4月に施設の全面改修が終了し、再オープン。この間友好都市、ゴスフォード市(オースト
ラリア)よりワラビー6頭の寄贈があり、動物数も徐々に増加していった同6年4月、日本動物園水
族館協会への加入が認められて、現在に至っている。当園はペットを飼うことも難しい都市生活の子
供を中心とした「人と動物」のふれあいを目的に設立されているため、大型獣ではなく、小型の動物
を中心に収集し、展示されている。また多くの区民に気軽に楽しんでもらえるよう入園料は無料となっ
ており、入園者数の70~80%が区民で占められている。レッサーパンダ、プレーリードッグ、ペ
ンギン、リスザルやワラビーなど65種570点のかわいい動物がこどもたちを待っている。こども
たちに大人気の「ふれあいコーナー」10:00~11:45分、13:15~15:00では、ウ
サギやモルモットを抱いたり、ヤギやヒツジに自由にさわれるよ。またアシカの仲間オタリアへの餌
やり(10:45、12:45)は、餌にありつこうととして巨体が宙に舞うのは迫力満点で圧巻だ。
まさに必見! 九官鳥は、いろいろな言葉を話しかけてくるよ。
 03-3680-0777 駐車場はないぞ。
 


■都立宇喜田公園

 北葛西3丁目4番・9番、宇喜田町に跨る都立公園。江戸川区の南西部に位置し、身近なスポーツ
から自然観察まで多彩なレクリエーションが楽しめる、広々とした花いっぱい、みどり豊かな公園と
して計画造成した。また防災井戸等の防災施設も充実しており、災害時には災害に対応する拠点とし
ても活用される。
 隣接する江戸川区立行船(ぎょうせん)公園には、自然動物園や日本庭園、釣り池、遊具広場など
の施設があり、2つの公園を合わせて色々な楽しみ方ができると、都の公園課が申しております。
 フラワープロムナード・少年野球広場(少年野球場1面)・草花広場(シンボルツリーは大イチョ
ウ4本)・ガーデンパーク・遊び場広場(ゲートボール場・災害時対応型休憩所・かまどベンチ6基)
・ガーデンロード・スポーツ広場(少年野球場2面)・ファミリー広場(防災用仮設トイレ24基・
防災井戸・流れ)・東入口広場(災害時対応型トイレ・災害時対応型休憩所・かまどベンチ8基)・
西入口広場、第1、第2駐車場(災害時対応型トイレ・防災用仮設トイレ24基 第2駐車場)があ
る。
 


■ふれあいの森・宇喜田公園

 北葛西3丁目5番15号にある区立公園。 


■第三葛西小学校

 北葛西4丁目2番19号にある区立校。俗に「さんかさい」と呼ぶ。昭和3年「東京府南葛飾郡葛
西尋常高等小学校第二分教場」として開場。同7年9月30日周辺郡部が東京市に併呑され江戸川区
成立するのを期に「東京府南葛飾郡第三葛西尋常小学校」として独立。翌日「東京府東京市第三葛西
尋常小学校」と改称。同16年国民学校令により「東京府東京市第三葛西国民学校」と改称。12月
日米開戦。同18年都制施行により「東京都第三葛西国民学校」と改称。同19年山形県鶴岡市瀬見
町・荒砥町に学童集団疎開。同20年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後そ
の属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込
む。もう200兆円以上を持っていかれたよ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都江戸川区立第三葛西小学校」と改称。同
37年プール竣工。創立30周年記念式典・校歌制定。

 校歌
「雲のように」 作詞・山本太郎  作曲・水谷豊
  1.雲のように大きくなろう
    東京湾の潮風を
    一杯い吸って青空に
    湧き立ち上がる雲のよう
    大きく生きよう
    おお 僕ら
    どんな時でも助けあう
    第三葛西小学生
  2.風のように 強くなろう
    豊かな流れ 荒川の
    土手を駆け下り葦原を
    真っ直ぐ進む 風のよう
    強く生きよう
    おお 僕ら
    どんな時でも信じあう
    第三葛西小学生
  3.太陽のように 明るくなろう
    プラターナスの樹の蔭に
    学び勤しみ白鷺を
    優しく照らす太陽のよう
    明るく生きよう
    おお 僕くら
    どんなときでも愛しあう
    第三葛西小学生
     口笛ふけ吹け男の子
     みんなで歌おう女の子
     ラララ ラララ ラララララ
     ラララ ラララ ラララララ

 同40年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第一期竣工。同41年体育館・岩石園・小禽舎完成。
同42年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第二期竣工。同44年鉄筋コンクリート造り3階建て校
舎第三期竣工。同46年第五葛西小学校を分校。同47年創立40周年記念施設完成。同49年第六
葛西小学校新設のため児童83名移籍。同53年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第四期竣工。同
55年西葛西小学校を分校。児童239名移籍。給食室全面改修。同57年創立50周年記念式典。
同58年宇喜田小学校を分校。児童516名移籍。同61年新設プール完成。平成元年全校舎都市ガ
ス化。同4年創立60周年記念式典。同9年パソコンルーム完成。同14年創立70周年記念式典。
同17年すくすくスクール開設。同20年エアコン設置。


■小松川教会
 北葛西4丁目3番9号にある日本基督教団のチャーチ。
 


■あすなろ児童遊園

 北葛西4丁目4番1号にある区立公園。


華光山巌池院法蓮寺
 北葛西4丁目5番18号にある浄土宗の寺。寛永三年(1626)宇喜新田の開発者宇田川喜兵衛
定氏の隠居所跡に、子の定次が亡父追悼ために建てたのが草創。開山は同十三年(1636)真譽上
人。法蓮は定氏の入道名。山門を入ると右に鐘楼と庫裏。左は墓地。本堂は鉄筋コンクリート造りの
立派なもの。本尊は阿弥陀如来像。「新編武蔵風土記稿」に、

   (西宇喜田村)法蓮寺
   浄土宗、東小松川村源法寺末。花光山厳知院と号す。当寺境内は開基法蓮が屋敷の蹟なり
   と云。本尊阿弥陀、長二尺一寸五分、聖徳太子の作。開山桑蓮社真誉、慶長三年遷化。開
   基は宇田川喜兵衛、法名厳知院花光蓮、元和三年六月二十五日死す。源法寺の傳ふる処法
   謚及び卒年異同あり。
   太子堂。


 とあり、区の説明板に、

   法蓮寺
   浄土宗で、華光山厳池院と号し、東小松川源法寺の末でした。本尊は二尺一寸五分の阿弥
   陀如来で、聖徳太子の作と伝えられています。宇喜田新田の開拓者宇田川喜兵衛定氏の子
   定次が、亡父追悼のため寛永三年(1626)にその隠居屋敷の地に一寺を建てたのが、
   当寺の始まりだといわれています。
   宇田川喜兵衛定氏は、天文二年(1533)品川に生まれ、弘治元年(1555)に小松
   川村に移りました。慶長元年(1596)葛西浦の芦原三千石の地を開拓して、宇喜新田
   (宇田川喜兵衛の新田)と名づけました。その功労で将軍から上田一町五反を賜り、その
   後、入道して法蓮と号し、この地に隠居して、元和六年(1620)に没しました。
   平成15年7月                        江戸川区教育委員会


 とある。また「江戸川区の文化財」には、

   浄土宗で、事光山厳池院と号し、本尊は 二尺一寸五分の阿弥陀如来で聖徳太子の作と伝
   えられている。宇喜新田の開拓者字田川喜兵衛定氏の子定次が、亡父追悼のために寛永三
   (1626)にその隠居屋敷の地に一寺を建てたのが当寺の始まりだという。
   宇田川喜兵衛定氏は、天文二年(1533)品川に生まれた。弘治元年(1555)小松
   川村に移り、慶長元年(1596)葛西浦の芦原三千石の地を開拓して宇喜新田(宇田川
   喜兵衛の新田)と名づけたののち、その功労によって将軍から上田一町五反を賜わった。
   その後入道して法蓮と号し、この地に隠居し元和六年(1615)六月二十五日に没した。


 とある。
 


■宇喜田中央公園

 北葛西4丁目15番1号にある区立公園。 


明光山竜光寺
 北葛西4丁目22番9号にある真言宗豊山派の寺。開山は寛文元年(1661)賢譽上人、本尊は
木造不動明王立像。本堂は昭和47年の再建。江戸時代から「葛西大師参り」という講があって、5
月21日に参詣する。いまでも船堀、宇喜田、小島地区の講員がお参りしている。本堂の右は庫裏・
客殿。本堂の左は墓地。「新編武蔵風土記稿」に、

   (西宇喜田村)龍光寺
   新義真言宗、下小岩村善養寺末。明光山と号す。本尊不動を安ず。開山賢誉、寛文元年五
   月二十日化す。


 とあり、

   真言宗豊山派で、明光山と号します。開山は賢誉上人で、寛文元年(1661)に遷化し
   ました。本尊は、木造不動明王立像です。
   明治維新まで、隣接の稲荷神社の別当寺でした。現在の本堂は昭和47年に建築されたも
   のです。


 とある。

 葛西大師まいり
 弘法大師を祀る霊場を巡拝するものだ。江戸川区でも、江戸時代から盛んになってきた。信者の組
織する大師講は現在は4つの組に分けられて、大師の御入定にちなみ5月21日に、それぞれの地区
の霊場を巡拝する。龍光寺には、旧船堀村、旧西宇喜田村、旧桑川村、旧小島地区の講員が巡拝して
いる。現在も葛西大師まいり(宇喜田・小島・船堀)の霊場の1つだ。
 


■宇喜田稲荷神社

 北葛西4丁目24番16号にあ大社。旧西宇喜田村(宇喜田町・北葛西・西葛西・中葛西に跨る地
域)の鎮守。神社近辺は慶長期(江戸幕府開府前後)に小田原北条氏家臣宇田川喜兵衛定氏が開拓し
た地域であり、後に「宇喜田」と呼ばれるようになった。神社は寛永二十年(1643)創建された
と伝えられている。
祭神は豊受姫神(トヨウケヒメノカミ)であり、食物を司る神様だ。その「豊か
さ」「繁栄」をもたらす神徳から、農業漁業はもとより商業・工業の神、生産の神、或いは地元の守
り神として400年近く崇敬されてき、明治初めには社格が村社に列格された。
また、境内には末社
として黄金山神社・弁天社が祀られている。
 地場産業として明治期に海苔業が盛んになり、その業績を顕彰する記念碑が境内に残っている。記
念碑の隣には力石という江戸~明治にかけて力自慢に用いた大きな石が12体奉納されていて、江戸
川区の有形民俗文化財として登録されている。境内は昭和50年代の周辺区画整理事業に伴い、土盛
工事・社殿増改築・玉垣工事等を大規模に行い、ほぼ現在の形になった。景色は一変してしまったが
3月の初午祭、9月の例祭は変わりなく行われ、社殿をはじめ石灯篭、手水鉢、力石などで往時の神
社を偲ばせることができる。「新編武蔵風土記稿」の西宇喜田村の項に、

   稲荷社
   鎮守なり。寛永二十年の勧請。本地十一面観音坐像長三寸許。
   末社水神。


 とあり、「江戸川の文化財」に、

   旧西宇喜田村の鎮守で村社であった。祭神は豊受姫神をまつり、寛永二十年(1643)
   の創建といわれる。石鳥居は天明二年(1782)四月建立のもの。また常燈明(石造)
   二基は、文政八年(1875)六月再建のものである。
   境内には「乾海苔創業記念碑」がある。
   乾海苔創業記念碑
   明治36年建立されたもので、高さが295cm、幅100cm、厚さが16cmある。
   西宇喜田村における乾海苔創業の経過と功労者名が刻まれている。

 とあり、区の説明板に、

   稲荷神社
   旧宇喜田村の鎮守で村社でした。祭神は豊受姫神を祀り、寛永二十年(1643)創建と
   いわれています。
   境内に立つ石造の常灯明二基は、文政八年(1825)に再建されたものです。
   ◇乾海苔創業記念碑
   海苔はかつて江戸川の特産でした。この碑は明治36年に建立されたもので、碑文の要旨
   は次のとおりです。
   「東京湾の海苔を製造販売するものは、荏原郡大森村だけだった。明治19年西宇喜田村
   の里正(村長)宇田川政休は田中小五郎と協力し、この事業を創建した。百難を排して邁
   進し、村民を指導した結果、海苔採取が今日の繁栄を見るに至った。西宇喜田村の有志は
   碑を建て、二人の功績を百世に伝えようと、事情を熟知している橋本省吾に文を依頼し、
   碑文とした
   ◇稲荷神社所在の力石群
   江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料
   平成22年3月登録
   江戸時代から近代にかけて、若者たちが集まってさかんに力試しの催しが開かれました。
   稲荷神社には当時使用された12基の力石がまとまって保存されており、その半数に地元
   の若者と思われる人名が刻まれています。
   平成24年3月                        江戸川区教育委員会


 とある。

 乾海苔創業記念碑
 境内にある。

   乾海苔創業記念碑
   海苔はかって江戸川区の特産でした。この碑は、明治36年に建立されたもので、碑文の
   要旨は次のとおりです。
   「東京湾の海苔を製造販売するものは、荏原郡大森村だけだった。明治19年西宇喜田村
   の里正(村長)、故宇田川政休は田中小五郎と協力し、この事業を創設した。百難を排し
   て邁進し、村民を指導した結果、海苔採取が今日の繁栄を見るに至った。西宇喜田村の有
   志は碑を建て、二人の功績を百世に伝えようと、事情を熟知している橋本省吾に文を依頼
   し、碑文とした。
   平成15年7月                        江戸川区教育委員会

 力石群(平成22年3月9日 江戸川区登録有形文化財・絵画)
 よっぽど暇だったんだねぇ・・・10数個もあるよ。近郷の力比べの行事に使ったものだ。境内奥
の乾海苔創業記念碑(明治38年)と並んで、「納石」(明治24年)の碑があり、12基の力石が
集められている。半数に地元の若者と思われる人名が刻まれている。近世末から近代にかけて広く行
なわれた力比べの用具として貴重。


■宇喜田小学校

 北葛西5丁目13番1号にある区立校。昭和58年に「東京都江戸川区立宇喜田小学校」として開
校。657名18学級でスタートした。10月校歌制定。

 校歌
「澄み渡る空よ聞け」 作詞・木島始  作曲・林光
  1.澄み渡る空よ聞け
    明るい瞳に巡り合い
    誰よりも友達と
    光の行く手見つめて学ぶ
    ここは ここは 宇喜田小学校
  2.爽やかな風よ吹け
    生きぬく力を 守り合い
    誰よりも友達と
    緑の形 心に描く
    ここは ここは 宇喜田小学校


 昭和60年学校の森・校庭拡張。同62年開校五周年記念誌作成。
 平成4年創立10周年記念式典。同5年校庭改修ダスト舗装。同9年パソコンルーム設置。同11
年屋上防水化。同15年創立20周年記念式典。同13年ホームページ公開。全国学校給食文部科学
大臣表彰受賞。同18年東京都学校歯科保健優良校受賞。
 


■宇喜田さくら公園

 北葛西5丁目20番1号にある区立公園。




【北小岩】(きたこいわ)1~8丁目                 昭和41年3月1日
 中小岩村・伊予田村。明治22年小岩村大字中小岩・伊予田。昭和3年小岩町大字中小岩・伊予
田。同7年江戸川区小岩町5・8丁目・4・7丁目。同41年小岩町8丁目の全部に小岩町2・4
~7丁目をあわせた町域を現行の「北小岩」とした。
 柴又と地続きの所為か、超とまでは行かないが高級住宅地なのだ。あの見渡す限りの田園風景が
まるで嘘だったみたいだ。のどかさの匂いはまだ残っている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
北小岩について
 町名は
小岩町の北部地区の意。小岩の由来は【小岩】を参照。 


■小岩緑地
 北小岩1~5・7・8丁目、東小岩1~3丁目に跨る江戸川河川敷にある区立公園。


■小岩アーバンプラザ
 北小岩1丁目17番にある区のホール。温水プールもあるぜよ。現代版公民館といったところ。
 03-5694-8151
 


■一歳児揺さぶり症候群死亡事故
 北小岩1丁目18番2号ファースト北小岩マンション2階で起きた。平成27年8月16日帰宅し
てきた姉(13歳)が台所で泡を吹いて仰のけに倒れている妹を発見、119番通報した。女児は病
院に運ばれたが、死亡が確認された。司法解剖の結果、女児はくも膜下出血を発症しており、強く揺
さぶられたことによる「乳幼児揺さぶられ症候群」が死因である可能性が高いことが分かった。

 女児は、母親(30歳)、伯父(41歳)、姉(13歳)、兄
(2歳)の5人暮らしで、意識不明となる直前まで伯父と2人きりだったとみられるが、伯父は行方
不明。事件後に母親に1度連絡があったほか、職場にも「しばらく仕事に行けない」などという連絡
があったという。警視庁は傷害致死事件として捜査を進めるとともに、伯父が女児の死亡について何
らかの事情を知っているとみて行方を追っている。
 平成27年8月31日行方不明になっていた伯父広田健二を逮捕した。広田は「寝かせつけて出か
けた」と嘯いているとか。もう逃げられないよ。

 ●覚醒剤取締法違反容疑で母親逮捕
 女児が死亡した事件を受けて自宅を調べるなどしていたところ、覚醒剤の吸引器具が見つかった。
そのため女児の母親の尿検査を行ったところ、覚醒剤使用の陽性反応が出たため、覚醒剤取締法違反
の容疑で緊急逮捕した。


■京成小岩駅

 北小岩2丁目10番9号にある京成本線の停車場。昭和7年5月15日に追加開業した。ホームは
地上島式2面4線構造で、通過列車の待避が行われることも多い。ホームと改札階を結ぶエレベータ
ーは未設置。改札口は1ヶ所のみで橋上駅舎内にある。出口は北口と南口の2ヶ所で、地上へ下りる
エレベーターが北口に併設されている。
 JRの小岩駅は、京成小岩駅の南約500~600mほどのところにある。わざわざ歩いてまで乗
り換えるメリットはない。もしも京成本線からJR総武線に乗り換えたい場合は、成田方面へ6つ目
の京成八幡駅からJR本八幡駅へ連絡するのがいいんだよ。
 


■北小岩小学校

 北小岩2丁目15番1号にある区立校。昭和29年に「東京都江戸川区立北小岩小学校」として開
校。児童679名13学級でスタート。同30年校歌制定。

 校歌
「流れ豊かな江戸川に」 作詞・上杉安彦  作曲・信時潔
  1.流れ豊かな江戸川に
    心を磨き 身を鍛え
    みんな仲よく手を組んで
    明るく強く進むのだ
    ああ北小岩小学校
  2.晴れて甍に架け亘る
    理想の虹は七色に
    みんな仲よく仰ぎ見て
    明るく清く伸びるのだ
    ああ北小岩小学校
  3.若い瞳は輝いて
    文化の光射す庭に
    みんな仲よく集まって
    新たに歴史築くのだ
    ああ北小岩小学校


 同33年特別教室(理科室・音楽室)増築。同34年創立5周年記念式典。同38年25m×10
mプール完成。同39年創立10周年記念式典。同47年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教
室9、管理室)落成。同48年第2期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室7・特別教室3、管理室)
落成。屋上プール(25m×8m)完成。同54年特別教室(図工・理科・家庭)増築。旧理科・図
工室を普通教室に改造。同57年体育館への渡り廊下完成。同59年多目的教室完成。創立30周年
記念式典。平成6年創立40周年記念式典。パソコン室インターネット接続。同16年開校50周年
記念式典。同17年すくすくスクール始まる。同18年防犯カメラ設置。校内LAN接続。同20年
エアコン設置。同21年学校LAN接続。同22年給食室全面改修。


■顕正寺

 北小岩2丁目18番7号にある浄土真宗本願寺派の寺。角地の鉄筋コンクリート3階建てのビル。
ところどころに寺風のアクセサリーをあしらってはいる。玄関に「本堂は2階です」とあり、墓地や
その他のスペースはまるでない。寺というよりは道場? 布教所?
 


■「鬼瓦」✔

 北小岩2丁目19番13号先仲よし小みちにある。四角い枡に鬼瓦。


■「顔」 ✔
 鬼瓦の近くの仲よし小みちにあるゴリラの顔面。


■「むぎ」✔

 北小岩2丁目36番10号先仲よし小みちにある彫刻。直方体の四面に麦穂が刻まれている。


妙法華山宣要寺
 北小岩2丁目37番15号にある日蓮宗の寺。正中山修法祈祷所。中山法華経寺末。開山は北朝の
応安3年(1370)法華経寺第三世浄行阿闍利日祐上人が隠居所として建てた。入口から50mで
山門、さらに30mで本堂。本堂の右は鉄骨2階建ての庫裏。本堂の左は駐車場でその隅に少し変っ
た形をしている
鐘楼。庫裏の裏が墓所。本尊は日限満願日蓮大菩薩像、通称を「日限祖師」という。

   日蓮宗で、妙法華山と号します。応安三年(1370)中山法華経寺の第3世日祐上人が、
   一寺を建てたのが始まりです。本尊は、日限満願日蓮大菩薩像です。日蓮聖人が富木播磨
   守の館で、百日説法をした時、聖人に長く留まっていただきたいという願いを込めて富木
   氏が彫刻しました。満願の日に完成したので聖人は自らこの像の開眼をしました。この尊
   像は、日限祖師といわれています。寺宝として、天保十一年(1840)起刻の、法華経
   二十八品御鬮版木と、安政6年(1859)起刻の略縁起版木があります。
   境内にある梵鐘は、藤原定篤の作です。また本堂の前庭にある老松は、瑞鳳の松と称し、
   姿も美しく一本の枝は山門まで伸びています。


 
日限祖師
 本尊は法華経寺の開祖日常上人が彫ったという等身大の坐像。日蓮聖人が中山で100日の説法を
した時に、境内の大木を以て日蓮像を彫ったものといわれ、ちょうど満願の碑に完成したので、聖人
自ら開眼して「満願日蓮」と名づけたという。

 瑞鳳の松
 本堂の前に樹齢400年といわれる目通り1.30m、高さ5m の松ノ木がある。一本の枝は13
mも伸びて寺門に達しており、ちょうど鳥が羽を展げたような形に見えるところから、「瑞鳳の松」
と呼ぶ。

 永井荷風の歌碑
 庭の奥にある。

 妙法稲荷大善神
 山門をくぐると直ぐ右にある小祠。

 柴又帝釈天石造道標(昭和61年2月12日 )
 「正中山開基日常上人作日蓮大菩薩満願」とある天保四年(1833)建立の石塔で、側面に「帝
釈従是二十余町」と刻まれている。旧は元佐倉道(千葉街道)にあったそうで、柴又帝釈天への道筋
を示す道標であったと伝えられる。
 


■こども像 ✔

 北小岩3丁目2番6号先仲よし小みちにある幼児がハグしている優しい彫刻。

   
仲よし小みち


■中小岩小学校

 北小岩3丁目12番22号にある区立校。昭和17年に「東京府東京市中小岩国民学校」と校名決
定。同18年小岩・上小岩・西小岩3校から分校。各校児童の一部を移籍。16学級児童数800名
でスタート、普通教室1・特別教室2なもんで、1・2年二部授業で開始。
 同18年都制施行により「東京都中小岩国民学校」と改称。同20年8月日本は、ならず者国家ア
メリカの軍門に降り敗戦。以後その属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざ
るを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上を持っていかれたよ。これからの若者はア
メリカの命令のままに米軍の尖兵として戦場に引っ張り出されるよ。武運長久、くれぐれも遺体で戻っ
てくんなよ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立中小岩小学校」と改称。同39
年第一期鉄筋コンクリート造り校舎9教室落成。同40年第二期鉄筋コンクリート造り校舎(中央校
舎6教室、管理部門)落成。開校20周年記念式典(3年遅れ)・落成式典。愛の鐘設置。同44年
第三期鉄筋コンクリート造り校舎8教室、給食室、屋上プール落成。同46年第三期鉄筋コンクリー
ト造り校舎5教室、特殊学級1、特別教室4、体育館落成。開校30周年記念式典。同57年開校4
0周年記念施設・フィールドアスレチック・記念石設置)。
 平成4年開校50周年記念式典。同11年ゴスフォード東校(オーストラリア)との交流。同15
年「省エネ共和国」宣言。開校60周年記念式典。同17年上総掘りで防災井戸設置。小池百合子環
境大臣、江戸川区長来校し、5年生特別授業。同18年壁面緑化。同20年エアコン設置。校舎外壁
全面塗装。開校65周年集会。

 校歌
「薄紫の」 作詞・石森延男  作曲・佐藤眞
  1.薄紫の朝の雲
    明るく清く棚引いて
    高い望みはこの胸に
    働く力 育てよう
    (合唱)
    江戸の川風爽やかに
    ここ学びやは 中小岩
    来よ 来よ 光 新しく
  2.星の世界は近くなり
    日に日に進む ちえとわざ
    若い瞳は正しさを
    真理
(まこと)を求め きらきらと
    江戸の川風爽やかに
    ここ学びやは 中小岩
    来よ 来よ 光 新しく
  3.譬え幼く小さくとも
    人の命の尊さを
    何時も思って幸いと
    平和を願う私たち
    江戸の川風爽やかに
    ここ学びやは 中小岩
    来よ 来よ 光 新しく
 


■小岩の森公園
 北小岩3丁目20番3号にある区立公園。


■轢き逃げ事故
 北小岩3丁目21番14号安楽亭前の江戸川交差点の横断歩道で起きた交通事故。令和2年5月7
日正午頃、ワゴンタイプの乗用車が横断歩道上で10歳位の自転車に乗った少年を跳ね千葉方面に逃
走した。直ぐ近くの近くの江戸川交番の警察官が鈍い衝突音で事故と判断して駆け付け、救急処置を
とった。少年は病院に搬送され、死亡が確認された。少年は根井陽多(12歳)。中学に進級したば
かり、まだ1日も中学校に通っていない。コロナ災害の被害者だ。
 逃走しても逃げ切れないんだ。衝突すると僅かであってもペンキが残る。また金属かプラスティッ
クかが判る。すると車種が解る。ワゴンと判っているから、探すのは容易だ。時間の問題だよ。
 と、書いたら、夕方、松戸で、事故車が発見され、運転していた男が警察に事情を訊かれている。
 その後、自供。江戸川区に住む渋谷博(53歳)。逃げなれりゃ実刑にならないのに。


晴立山本蔵寺
 北小岩3丁目22番19号にある日蓮宗の寺。元和八年(1622)浅草新寺町に妙顕寺末として
京都妙顕寺開基龍華樹院日像菩薩の「像」の一字をもって大雄山本像寺と称した。延享二年(174
5)同寺「略縁起」は、加賀中納言前田利光の母寿福院尼が一寺を草創したのがはじまりと伝えてい
る。明治43年現在地にあった下総真間弘法寺末の日晴寺と合併し、浅草北松山町から移転、晴立山
本蔵寺と改称した。日晴寺は元々は関所役人中根平右衛門家の代々の屋敷地だったとか。同家菩提寺
として建てられたのかもしれない。墓地に同家代々の墓碑が合葬墓の形である。入ると左が墓地でそ
の奥は住居。右も墓地、本堂の右は寺務所。

   本蔵
   当寺は、元和八年(1622)浅草新寺町に起立され、京都妙顕寺開基龍華樹院日像菩薩
   の「像」の一字をもって大雄山本像寺と称し、妙顕寺の末でした。延享二年(1745)
   の同寺「略縁起」は、加賀中納言前田利光の母寿福院尼が一寺を草創したのがはじまりと
   伝えています。明治43年(1910)に下総真間弘法寺末の晴立寺と合併し、晴立山本
   蔵寺となり、晴立寺のあった現在地に移転しました。
   晴立寺は、小岩市川関所役人を代々つとめた中根氏の館の跡といわれ、菩提寺と伝えられ
   ています。現墓地には、中根平左衛門家の代々合葬墓があります。
   
◇日朗・日像聖人坐像(江戸川区登録有形文化財)
   日朗は宗祖日蓮の高弟で、日蓮宗池上門流の祖として知られています。寛元三年(124
   5)下総国平賀(千葉県松戸)に生まれ、日蓮聖人佐渡配流中も鎌倉にあって教えをひろ
   め、池上に法華堂(本門寺)をはじめとする諸寺を創建し、元応二年(1320)入寂、
   76歳でした。
   日像は日朗の末弟で、文永六年(1269)下総国平賀に生まれ、7歳で身延山にて日蓮
   聖人に給仕しました。聖人滅後は、兄の日朗に師事し、後に日蓮上人の遺志をたいし、京
   都で法華経をひろめ、妙顕寺を拠点とする京都日蓮宗の基礎を築いたといわれています。
   享年74歳でした。
   この両聖人の坐像は京都妙顕寺の旧蔵品であり、天保六年(1835)に妙顕寺より下賜
   されたものと伝えられています。寛永19年(1642)に彩色補修が加えられ、妙顕寺
   十三世日饒、十四世日豊の署名と花押も残っています。製作年代は室町時代と考えられる
   秀作で、両像とも35cmの小さな坐像ですが、写実性に富み、高僧の面影がよくしのば
   れます。
   平成12年9月                        江戸川区教育委員会

 木造日朗・日像聖人坐像(昭和60年3月12日江戸川区指定有形文化財・彫刻)
  
附 像内納入紙本釈迦如来摺物55枚
 桧材、寄木造。日朗像は像高35cm、日像像は像高35cm、共に作風からみて室町時代の同一
仏師の作と認められる。日朗は日蓮聖人の最高弟6人の一人。この日朗の法系に繋がる京都妙顕寺を
拠点に京都日蓮宗教団発展の基礎を築いたのが日像だ。法衣・袈裟に日饒(妙顕寺13世)、日豊(1
4世)の墨書があるが、これは寛永十九年(1642)彩色修理の際の記銘と考えられている。


■天神稲荷合社 →
伊予田北野神社
 北小岩3丁目23番3号にある。創建は不詳。江戸期には天神稲荷合社と称して旧伊予田村(現在
の北小岩3・4丁目)の鎮守。明治42年当地にあった稲荷社と北方の天神社が合祀され「天神稲荷
合社」と呼ばれたが、昭和39年一里塚(東小岩6‐36)近くにあった須賀神社を合祀して北野神
社となった次第。だから祭神は菅原道真、素戔鳴尊、倉稲魂命。境内に水神社があり、拝殿より社務
所の方が大きい。
「新編武蔵風土記稿」の伊予田村の項に、

   天神稲荷合社。
   村の鎮守とす。法林寺持。
   天神稲荷合社。
   前の天神、稲荷を写し、元禄二年字新町に一社を建て、其所の鎮守とす。

 とあり、区の説明板に、

   
北野神社
   旧伊予田村(北小岩3・4丁目)の鎮守です。江戸時代にはこの地にあった稲荷神社と北
   方の北野神社が明治42年(1909)に合祀、今の北野神社となりました。昭和39年
   には一里塚近くにあった須賀神社を合祀し、そこで行われていた芽の輪くぐりをここで行
   うようになりました。祭神には稲荷神社の倉稲魂命と北野神社の菅原道真、それに須賀神
   社の素戔鳴尊を加えた三柱を祀ってあります。
   
◇茅の輪くぐり 区指定有形民俗文化財
   直径3mに及ぶ大きな茅の輪を作って境内に立て、氏子たちが家族の氏名や年齢を書いた
   人形を持って茅の輪をくぐり、無病息災を願う夏越しの行事です。毎年6月25日の例祭
   日に行われます。茅の輪くぐりが終わると大祓いの式を行い、昔は人形を江戸川に流しま
   した。素戔嗚尊が茅の輪で流行病を防ぐことを村人に教えたという故事にによる行事です。
   平成6年3月                          江戸川教育委員会

 とある。

 茅の輪くぐり(昭和56年1月13日 江戸川区指定無形民俗文化財・風俗習慣)
 毎年6月25日に行なわれる夏の行事。茅(ヨシ)で作った直径2m程の輪を、作法に従って潜り
家族の無病息災を祈る。
 


■御番所町の慈恩寺道々標
(昭和58年3月15日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 北小岩3丁目23番7号にまた壊されずに残っている。ちょうど角屋旅館の筋向いの路端のところ
だ。8丁目の「水神碑」の約20m南の、親水緑道の脇の祠の中にも建っている。
 江戸時代、庶民の間に霊場巡拝の風習が盛んになった。坂東三十三ヶ所観音霊場もそのひとつで、
埼玉県岩槻市の古刹慈恩寺は、その12番札所として関東各地から参拝人を集めている。
 この道標は佐倉道と元佐倉道の合流点にあり、対岸市川から江戸川を渡って小岩市川関所を通ると
ほぼその道筋の正面に見えたと思われます。房総方面から慈恩寺へお詣りする人びとは小岩市川の渡
しを渡ってからこの道標を見て北へ曲がって行きました。安永四年(1775)の建立で、銘文は正
面に「右せんじゅ岩附志おんじ道」「左り江戸本所ミち」、右側面には「左りいちかわミち」、左側
面にも「右いち川みち」とある。

   御番所町の慈恩寺道石造道標
   昭和58年3月登録
   区登録有形文化財・歴史資料
   江戸時代、庶民の間には霊場崇拝の風習が盛んになりました。坂東三十三観音もそのひと
   つで、埼玉県岩槻市の古刹慈恩寺は、その12番札所として関東各地から参拝人を集めて
   いました。この辺りは、昔、御番所町といわれたところで、この先にある江戸川河川敷に
   は小岩市川の関所がありました。
   この道標は佐倉道と元佐倉道の合流点にあって、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川
   の関所を通ると、ほぼその道筋の正面に見えたと思われます。銘文は、安永四年(177
   5)に建てられたもので、岩槻・江戸・市川の3方向を示しています。
     銘 文
   正面 「右せんじゅ岩附志おんじ道」「左り江戸本所ミち」、
   右面 「左りいちかわミち」、「小岩御番所世話人忠兵衛」
   左面 「右いち川みち」「安永四年乙未年八月吉日」
      「北八丁堀 石工 かづさや髪右衛門」
   平成15年2月                        江戸川区教育委員会


愛宕山地蔵院宝林寺

 北小岩3丁目23番11号にある真言宗豊山派の寺。市川市金光明寺の末寺で、慶長十二年(16
07)文秀法印による起立。本尊は不動明王。入ると右、本堂前に常燈明が置かれている。本堂の右
に庫裏、墓地は左の道路を隔てて向かいにあり、墓地に旧伊予田村(北小岩3丁目)の開拓者篠原伊
予の墓と伝わる宝筐印塔がある。

   宝林寺
   当寺は、元和八年(1622)浅草新寺町に起立され、京都妙顕寺開基龍華樹院日像菩薩
   の「像」の一字をもって大雄山本像寺と称し、妙顕寺の末でした。延享二年(1746)
   の同寺「略縁起」は、加賀中納言前田利光の母寿福院尼が一寺を草創したのがはじまりと
   伝えています。明43年に下総真間弘法寺末の晴立寺と合併し、晴立山本蔵寺となり、晴
   立寺のあった現在地に移転しました。
   晴立寺は、小岩市川関所役人を代々つとめた中根氏の館の跡といわれ、菩提寺と伝えられ
   ています。現墓地には、中根平左衛門家の代々合葬墓があります。
   ◇木造日朗/日像聖人坐像(江戸川区指定有形文化財)
   日朗は宗祖日蓮の高弟で、日蓮宗池上門流の祖として知られています。寛元三年(124
   5)下総国平賀(千葉県松戸)に生まれ、日蓮聖人佐渡配流中も鎌倉にあって教えをひろ
   め、池上に法華堂(現本門寺)をはじめとする諸寺を創建し、元応二年(1320)入寂、
   76歳でした。
   日像は日朗の末弟で、文永六年(1269)下総国平賀に生まれ、7歳で身延山にて日蓮
   聖人に給仕しました。聖人滅後は、兄の日朗に師事し、後に日蓮上人の遺志をたいし、京
   都で法華経をひろめ、妙顕寺を拠点とする京都日蓮宗の基礎を築いたといわれています。
   享年74歳でした。
   この両聖人の坐像は京都妙顕寺の旧蔵品であり、天保六年(1836)に妙顕寺より下賜
   されたものと伝えられています。寛永十九年(1642)に彩色補修が加えられ、妙顕寺
   十三世日饒、十四世日豊の署名と花押も残っています。製作年代は室町時代と考えられる
   秀作で、両像とも35cmの小さな坐像ですが、写実性に富み、高僧の面影がよくしのば
   れます。
   平成12年9月                        江戸川区教育委員会

 常燈明(昭和56年1月13日 江戸川区登録有形文化財・建造物)
 本堂前に、昭和9年の河川改修時に移設された、渡船場に建てられていた石造の「常燈明」が建て
られている。江戸時代に江戸川堤に建てられていて渡船場への道標となっていた。高さ2m。5段の
台石も2m弱あり、台石銘には世話人や協賛者が刻まれている。

   宝林寺の常燈明
   昭和56年1月登録
   江戸川区区登録有形文化財・建造物
   真言宗豊山派に属し、愛宕山地蔵院と号します。もとは千葉県国分(市川市)の金光明寺
   の末寺です。起立は文秀法印(慶長十二年=1607没)で、本尊は不動明王です。本堂
   前には常燈明が、墓地には旧伊豫田村(現在の北小岩3丁目ほか)の開拓者・篠原伊豫の
   墓と伝わる宝篋印塔があります。参道入口には地蔵菩薩庚申塔があります。
   もとは小岩市川の渡し場に建てられていました。昭和9年に河川改修のためここ宝林寺境
   内に移されました。この渡しは江戸時代には成田詣での人たちで賑わいました。この常燈
   明は千住総講中の人たちによって天保十年(1839)に建てられました。灯籠の高さ2
   m、台石は五段に組まれていて、高さは1.82mあります。
   平成18年1月                        江戸川区教育委員会

 地蔵菩薩像庚申塔
 参道入口に他の石仏群と共に祀られている。舟型で地蔵菩薩立像は洋肉彫、左手に宝珠、右手に錫
杖を持っている。像高は144cm、寛文十年(1670)に建てられた。

   
地蔵菩薩像庚申
   昭和59年2月登録
   江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料

   宝林寺参道入口に他の石仏群と共に祀られています。舟型で地蔵菩薩立像は半肉彫、左手
   に宝珠、右手に錫杖を持っています。像高は14.4cm、寛文十年(1670)に建てら
   れました。
   平成18年1月                        江戸川区教育委員会
 

 篠原伊予の墓(宝篋印塔)
 里見安房守義弘の許で安西伊予守実元という武士だったが、里見氏が国府台合戦で北条氏に敗れた
ため当地に籠って農業に従事、篠原姓を名乗ったという。逃げ隠れするためか、養子に入ったのかは
不明。慶長十五年(1610)新田を開発し、「伊予新田」と名づけたが、後に「伊予田村」となっ
た。宝林寺の墓地に入ると南側の奥に「伊豫田村草分之開祖伊豫殿之碑」という石標がある。そこに
建っている宝篋印塔が伊予の墓といわれているが、供養塔なのかも知れないという。子孫は西野姓で
東葛西に住んでいる。

 地蔵菩薩像庚申塔(昭和59年2月28日 江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料)
 寛文十年(1670)の銘を持つ地蔵菩薩像で、銘文には庚申供養のために造立したと刻まれてい
る。宝林寺参道脇に、六地蔵に並んで祀られている。


■角屋旅館 廃業解体

 北小岩3丁目24番9号にあった江戸時代からの名物旅館だった。その後もビジネス旅館として残
っていた。戦後も藁葺き屋根だったが、建て替えた建物が何とも安っぽく見えたのは、写真のイメージ
が強い所為か、とうとう平成17年角屋旅館は廃業、平屋の住宅になった。廃業したんだ・・・
 
慈恩寺道は後の佐倉道だ。 


■御番所町跡(昭和58年3月15日 江戸川区史跡)

 北小岩3丁目24番9号の角屋旅館跡の住宅の塀の前に区の説明板が建ててある。御番所町とは関
所前の界隈のことだが、京成江戸川駅から南へ蔵前橋通りに至る道路部分を区史跡として登録してい
る。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』の「伊予田村」の項にも、関所は、

   新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云

 と書かれている。

   御番所町跡
   江戸川区登録史跡
   北野神社~蔵前橋通り(道路部分)
   ここは伊予田村に属し、佐倉道と旧佐倉道の合流するところで南北に走る岩槻道にも接す
   る交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり。御番所(関所)が置かれたことか
   ら御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌「新編武蔵風土記稿」の伊予田村
   の項にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云」と書かれています。
   御番所町は、「徳川実記」延宝二年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩
   の駅に(宿場)にあたるものと考えられます。現在も残る角屋旅館のほか筑前屋、清水屋
   などの旅籠屋を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋など
   が並んでいたと伝えられます。東西道の江戸川に突きあたる付近が関所跡で、関所から来
   ると正面左に大きな道標が望めました。道標は今も原位置にあり、道路の様子も旧状をと
   どめたいます。そのほかにも、江戸川畔にあった常燈明(宝林寺内)や、関所役人の中根
   家の墓(本蔵寺)なぜ、当時にゆかりのある旧跡が残っています。  葛飾区教育委員会


■江戸川駅

 北小岩3丁目24番15号にある京成本線の停車場大正元年11月3日京成で最初に開業した押上
~柴又・江戸川間の終着駅。同3年8月30日に2つ先の市川真間へ延びるまで終点だった。ホーム
は高架相対式2面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。改札口・出口は1ヶ所
のみで地上1階にある。
 


■光ヶ嶽観音堂

 北小岩4丁目27番13号にある正真寺の境外仏堂。境内は子供の広場になっており、お堂は建て
替え前も後も民家風で、お参りすることを思いつかない風情だ。誰もそこに観音堂があるとは思わな
いし判らない。公民館のような扱いを受けている。

   
光ヶ嶽観音堂
   正真寺境外仏堂の観音堂は 光ヶ嶽観音堂(てるがたけかんのんどう)と号し弘法大師の
   大曼荼羅戒壇前にて鋳造された小金像をお祀りしています。
   光ヶ嶽観音は一寸八分(約6cm)ほどですが、室町時代末期の武将里見義豊・義俊の守
   り本尊で、常に甲冑に収め、戦場に赴いたと伝えられております。
   その後、観音像は千福寺(現存せず)に安置されましたが、里見家子孫に至って供養を怠っ
   たところ文禄元年(1592)地元の沖田家祖先豊前の枕元で大きな音が響き驚いた豊前
   が跳び起きると観音像が立っていたといいます。
   翌朝豊前が千福寺に詣でるとそこに観音像はなく 豊前は屋敷内にお堂を建立以来 観音
   像は江戸 明治 大正 昭和 平成と通じて北小岩の信仰となったものです。 地元の由
   緒ある文化財といえるでしょう。
   またかつてのお堂は火災 戦災で被害を受けた人たちに貸し出されたり、お年寄りの集い
   踊りの稽古場にも利用され馴染み深い観音堂なのです。
   地元の皆様のご協力を得て堂宇再建の機にその由来を記す。
   平成19年8月吉日                     正真寺住職 田嶋信雄
                                      世話人一同


 地蔵堂
 境内にある小祠。 。


■小岩の渡し跡・小岩関所跡

 北小岩4丁目34番の河川敷。房総と江戸を結ぶ佐倉道が江戸川を渡るところの渡船場だ。元和二
年(1616)に定船場(幕府指定の渡船場)となり、舟番所が置かれ、いわゆる「入鉄砲に出女」
の俚諺があるように往来する人と物を監視した。番所は後に関所となり、関所付近の街道筋は御番所
町と呼ばれ、旅籠や掛茶屋が立ち並び参勤交代や成田詣での人々で賑わった。関所は河川敷にあり、
その先に渡船場があった。御番所町は京成江戸川駅の南の小岩宿の別称。
 渡船場に建てられていた石造りの「常燈明」は、昭和9年の河川改修の時、真言宗豊山派愛宕山地
蔵院宝林寺の本堂前に移設されている。

   小岩市川の渡し跡
   小岩・市川関所跡
   江戸時代のはじめ、両国から竪川の北岸を東にすすみ、逆井の渡しで中川(旧中川)をわ
   たり、小岩で現在の江戸川をわたって房総へむかう道がひらかれました。「元佐倉道」と
   よばれ、明治8年に千葉街道と改称されています。江戸時代に作られた『水戸佐倉道分間
   延絵図』には、「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。
   江戸から佐倉へむかう道筋には、千住から新宿(葛飾区)に至って水戸街道から分かれ、
   小岩に至る佐倉道があり、江戸時代にはこちらが街道として利用されていました。江戸を
   守るために江戸川には橋が架けられませんでした。小岩市川の渡しの小岩側に小岩市川関
   所がおかれていました。『新編武蔵風土記稿』の伊予田村の項に、
    「対岸は下総国葛飾郡市川村なれば、小岩市川の御番という」
   とあります。これは、幕府の設けた関所のひとつで、常時四人の番士が配属されていまし
   た。上流の金町松戸関所とともに、江戸の出入りを監視する東の関門でした。
   戊辰戦争では、ここも戦場になっています。明治2年に廃止されました。   江戸川区
 


■浅草観音道標(伊予田の観世音道石造道標)

 昭和58年3月15日の告示。江戸川区登録有形文化財・歴史資料。
 北小岩4丁目37番2号シェリエワカタケ(1階若竹寿司)の前角にある。江戸川駅前の通りだ。
安永四年(1775)の建立。銘文は正面に「是よりあさくさくわん世おん(浅草観世音)道、伊与
田(伊予田)村中」とあり、側面にはそれぞれ「右舟ばし迄三り(里)、いちかわ道」「左にいしく
(新宿)道 、いわつきぢおんじ(岩槻慈恩寺)迄七り」と刻まれている。原位置はやや北に寄った
旧観世音道の入口にあり、その後糀屋商店(アーバンキャッスル江戸川駅前)前に移設されて保存さ
れていたが、平成17年に隣の現在地へ移設された。

 中小岩の成田道石造道標(昭和58年3月15日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 浅草観音道標の前にある。文久二年(1862)の建立で、正面に「左成田ミち(道)」と刻まれ
ている。小岩市川の渡しの方向を示した道標であり、それを渡って成田山方面へ行く人の便宜のため
に建立したものだ。近年、現在地へ移設し保存している。


■小岩菖蒲園

 北小岩4丁目37番の河川敷にある区立公園。地元から寄贈された花菖蒲を元に、昭和57年に区
が回遊式の庭園にしたもので、5~6月に50000本の花菖蒲が咲き誇り、都会のオアシスとして
都内名所の一つになってる。菖蒲田周辺にはフジバカマなど様々な野草がみられる。
 詳しい問い合わせは、(財)江戸川区環境促進事業団施設第三課 〒
133-0073 江戸川区鹿骨1
丁目54番2号 
03‐3678-6120 駐車場は400台収容可能(時間無制限:無料)ただし河川敷
の出入口が閉まるので、閉じ込められないように。最寄駅は京成江戸川駅。
 


■北小岩四丁目第二児童遊園
 北小岩4丁目20番4号にある区立公園。


■北小岩松の木児童遊園
 北小岩4丁目23番2号にある区立公園。
 


■北小岩四丁目児童遊園
 北小岩4丁目27番16号にある区立公園。


■庚申堂 ◇
 北小岩4丁目41番6号の遍照寺門前にある木祠に庚申塔と馬頭観音が並んでいる。


稲荷山真光院遍照寺
 北小岩4丁目41番6号にある真言宗豊山派の寺。慶長七年(1602)に法印法印良鑁(りょう
ばん)が東小岩善養寺末として開山したと伝わる。本尊は木造阿弥陀如来立像。入ると左右が墓地で
参道を行くと昭和47年に萱葺きの本堂から現代風なデザインで再建した鉄筋コンクリート造りの本
堂があり、
左が庫裏となっている。寺宝として弘法大師筆と伝えられる鼠心経を所蔵。門前に青面金
剛と馬頭観音が祀られ、境内には樹齢200年といわれるケヤキとスダジイが聳えている。南葛八十
八ヶ所霊場26番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   真光院
   同宗(新義真言宗)、下小岩村善養寺末、稲荷山と号す。本尊弥陀を安す。
   稲荷社


 とある。区の説明板は以下の通り。

   真光

   真言宗豊山派で稲荷山遍照寺と号し、慶長七年(1602)に法印良鑁(りょうばん)が
   開山したと伝えられています。本尊に木造阿弥陀如来立像を安置しており、寺宝として弘
   法大師筆と伝えられる「鼠心経(ねずみしんぎょう)」を所蔵しています。
   昭和47年に萱葺きの本堂から鉄筋コンクリート造に立て替えられました。門前に青面金
   剛と馬頭観音が祀られ、境内には樹齢200年といわれるケヤキとスダジイが聳えていま
   す。
   ◇木造閻魔王坐像(区登録有形文化財)
   寄木造りのこの像は、本堂内に祀ってあります。像高約81cm。左手は掌を仰向けて膝
   の上にのせ、右手に笏を握っています。顔は忿怒の相で口を開き、胸飾りに日月をあらわ
   しています。銘はありませんが、江戸時代後期に、檀家によって家族の供養のために寄進
   されたもので、その頃の作と考えられます。
   平成6年3月                         江戸川区教育委員会


 木造閻魔王坐像(平成4年2月25日 江戸川区登録有形文化財・彫刻)
 寄木造りのこの像は、本堂内に祀ってある。像高81cm。左手は掌を仰向けて膝の上に乗せ、右
手に笏を握っている。顔は憤怒の相で口を開き、胸飾りに日月を表している。墨書銘はないが、江戸
時代後期に、実家を通じて仙台高尾が家族の供養のために寄進したもので、その頃の作と思われる。
 平安時代の閻魔天は菩薩形をとり、水牛に乗った半跏像か坐像だ。閻魔天が忿怒の相を見せるのは
平安末期頃から。そして鎌倉時代に入って、六道救済思想を持つ浄土教の閻魔王との区別が曖昧にな
り、十王信仰と共存した本格的な造形化が進んだ。この世で罪を犯した者は、地獄へ堕ちると考えら
れていたが、その地獄堕ちを斟酌するのが閻魔王であり、そのため閻魔王の情状にすがろうとする閻
魔王信仰が生まれたのかも。真光院の木造閻魔王坐像は、寄木造で、左手は掌を仰向けて膝の上にの
せ、右手に笏を握っている。像高81cm。檜材で、像表面は紙張りの上に泥地朱塗り。宝冠の一部
と胸飾り及び笏は金箔を押している。顔面部表面は昭和48年の修理で再塗装した。

 
仙台高尾の墓 ?

 彼女は「この地の出身で、戒名は軟調院聖諦遊践信女。安政五年(1858)没」とあるのだが、
仙台高尾は、高尾太夫の2代目で江戸初期の花魁で、万治三年(1660)に歿している。晩年は仙
台で送り、墓は仙台にある。何かの間違いだろう。他にも春慶院や西方寺など各寺にもある。また2
代目高尾太夫(万治高尾、仙台高尾、道晢高尾)は、下野の国塩釜村の百姓長助の娘で、名をみよと
いう。安永といえば幕末、幕末に高尾太夫は存在しない。

 稲荷社

 境内にある。
 


■白蓮院

 北小岩5丁目7番15号にある日蓮正宗の寺。明治42年砂村に法華本門道場として建立され、昭
和23年文京区へ移転再興、同41年現在地に移転した。創価学会との繋がりは不明。鉄筋コンクリ
ート2階建てのビル。
 


■「Egg」 ◇

 北小岩5丁目9番の東南角の上小岩親水緑道にある卵型の黒い石のオブジェ。何でこんなところに
あるんだ? 特に広い遊歩道でも無いし・・・


■神明社 →
五北天祖神社
 北小岩5丁目17番10号にある中社。万延元年(1860)二月の創建。慶応三年(1867)
六月に現在の社殿に改装された。旧は神明社と称していた。天照大神を祀る神社は明治新政府の強制
により天祖神社と改名させられた。意地を張ったところは神明神社か伊勢神社を名乗っている。北小
岩八幡神社と同じく十念寺持ち。「東京都神社名鑑」に、

   天祖神社は小岩神社の摂社にして、万延元年(1860)二月創立せられた古社で、境内
   の大銀杏は数百年を経て、現在区の文化財指定の古木である。この地は伊奈半十郎御代官
   所にして、郷土の崇敬を受け慶応三年(1860)六月現在の社殿に改築した。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   天祖神社
   天祖神社は万延元年(1860)二月の創建で、天照大神を祀っています。慶応三年(1
   867)六月に現在の社殿に改築されました。もとは神明社と称しました。
   ◇天祖神社のイチョウ   昭和56年1月指定 江戸川区指定天然記念物
   境内の2本のイチョウは、ともに樹齢300年以上と考えられますが、良好な樹勢を保っ
   ています。
   東側の樹は、樹周約2.32m、樹高約20m。
   西側の樹は、樹周約2.4m、樹高約25m。区内で一番の高さを誇る、美しいイチョウで
   す。
   平成14年1月                        江戸川区教育委員会

 イチョウ(昭和56年1月13日 江戸川区指定天然記念物・植物)
 境内に2本並んでいて、大きい方は樹周3.15m、樹公25m、樹齢は約300年。区内のイチョ
ウの中では最も樹高の高いものだ。
 


厳松山無量寿院十念寺
 北小岩5丁目27番4号にある真言宗豊山派の寺。寛永八年(1631)賢覚が開山。本尊は阿弥
陀如来像で弘法大師の作と伝わっている。南葛八十八ヶ所霊場25番札所。本堂は鉄筋コンクリート
造り。左に同じく鉄筋コンクリート造り2階建ての庫裏。さらに道路を隔てて墓地。墓地の右は併設
の小岩みどり保育園があり、黄色い声が絶え間ない。しかし煩く聞こえないのは本能なのか?

 「新編武蔵風土記稿」に、

   十念寺。
   新義真言宗下小岩村善養寺末、巌松山ト号ス。本尊弥陀ヲ安ス。


 とある。

 銅造観音菩薩立像(平成18年3月28日 江戸川区指定有形文化財・彫刻)
 銅造りのこの像は、本尊阿弥陀如来立像の左脇侍像で、像高約34cm。当初一光三尊の善光寺式
阿弥陀三尊像の脇侍像として建立されたと考えられ、鎌倉時代後期作と推定される。
 当寺本尊阿弥陀如来立像の左脇侍像で、当初は一光三尊の善光寺式阿弥陀三尊像の脇侍像として造
立されたものとみられる。一光三尊は、大きな光背の前に中尊と脇侍を配する形式で、6世紀頃中国
で流行し、日本にも伝わったものだ。頭部と体部を一鋳で仕上げ、両腕を別鋳してアリホゾ差し(腕
部から作り出されたホゾにより体部に接続)をしている。宝冠は筒型で八角形。正面に観音菩薩の標
識である化仏立像、他の七面には唐草文様を表す。頭髪は地髪部も髻部も共に毛筋彫。天衣は両肩に
かかり、左右ともに上前部に沿って垂下して両肘の内側に巻きこむようにして消えている。裙は正面
中央で右前に打ち合わせ、前後左右の計4ヶ所で折り返す。腰布は背面を渡り正面裾の折り返しの下
線に入り込む。直立して正面を向き、両手は胸前で右手を上にして重ねる形だ。
 長野市の善光寺の秘仏本尊は、欽明13年(552)に百済よりもたらされた一光三尊の阿弥陀如
来像と伝えられている。鎌倉時代に源頼朝や北条氏による善光寺再興がなされて以降、関東御家人を
中心に善光寺阿弥陀三尊像に対する信仰が盛んになったこともあり、その模像が特に13世紀後半以
降の東日本を中心に多く造られた。善光寺本尊を模して造られた阿弥陀三尊像を善光寺式阿弥陀三尊
像とよんでいる。形像の特徴は、中尊像は左手の第2・第3指を伸ばす刀印と呼ばれる印を結び、両
脇侍像は山型、或いは筒型の宝冠を着け、胸前で上下に重ねた掌に珠を抱くような印を結んで直立す
る姿が特徴的。現存最古の遣例は、建久六年(1195)銘の甲府善光寺の銅造阿弥陀三尊像だ。鎌
倉時代後半から江戸時代まで、各地で模像が作られた訳さ。

 板碑(昭和57年2月8日 江戸川区指定有形文化財・歴史資料)
 元応元年(1319)十二月に造られたもの。十念寺旧本堂の縁の下から発見された。

 法印範盛筆子塚(昭和62年2月25日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 境内奥にある。筆子塚とは、江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算術や実務
教育を受けた教え子が、師匠が亡くなった際にその遺徳を偲び、自分たちで費用を出し合って建てる
墓や供養塔のことだ。文久二年(1862)に入寂した範盛の徳を偲び、同四年に建立された。石塔
は高さ2m余の唐破風付の墓石だ。正面に「法印範盛不生位」、裏面に「文久四子年二月建立」とあ
る。筆子の世話人として、上小岩村・中小岩村・小岩田村・伊予田村の人々の名前が石台に刻まれて
いることから、範盛を慕う近隣の村人により文久四年(1864)に建立されたことが窺える。

 中小岩の庚申塔河原道石造道標(昭和58年3月15日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 大師堂内に安置されている。河原道石造道標は文化十年(1813)九月に建てられ、

   右両国江三り、左市川江三丁、左松戸江一り、右河原江一り

 と刻まれている。原位置はわかっていない。正面に「庚申塔」と刻まれた庚申供養文字塔で、左側
面に「文化十年癸酉九月吉日」、右正面に「右両国江三リ、左市川江三丁、左松戸江一リ、右河原江
一リ」の銘文がある。昭和58年3月15日告示、江戸川区登録有形文化財・歴史資料。

 中小岩の庚申塔市川道石造道標
 大師堂内に安置されており、青面金剛像の右側面に「左いちかわみち」と刻まれている。

 
弘法大師石造坐像
 境内に在る。
 


■北小岩五丁目児童遊園
 北小岩5丁目36番13号にある区立公園。


■同僚アルバイト女子高校生強盗殺人事件

 北小岩6丁目10番12号カーサマリアージュササキで起きた事件。平成27年11月14日夜、
通報により小岩警察署々員が、同マンションを調べたところ、同区本一色の小岩高校に通う岩瀬加奈
(17歳)が空の浴室で死んでいるのを発見した。犯人は同部屋の住人青木正裕(29歳)で、千葉
県警我孫子署に電話で通報し出頭していた。2人はアルバイト先で知り合い、アニメを理由に誘い込
み強姦の上首を絞めて殺害、バッグなどを盗んだとして強盗殺人で逮捕した。
 調べに対し青木は「生活が苦しく自暴自棄になって興味半分でやった」と供述している。青木は1
00万円の借金があり、金欠病に陥っていた。同僚の岩瀬には恋慕の情はあったろう。殺して金を奪
おうというよりは、気の小さい男の表現だったろう。時間を計算した上で、偶然を装って出会う、化
粧品で吊って、殺害現場に誘い込む。勤務中岩瀬にとって、青木は全くの安全牌、人畜無害だったに
違いない。易々と誘い込まれている。青木は部屋に入れるなり襲い掛かり縊死させた。絞殺ビデオが
あったというから、殺人願望もあったのだ。殺されないまでも、アルバイト先の従業員に犯される女
性は多い。純粋日本人が安直になっている。日本人が目を覚まさない限り、日本人が被害を受ける凶
悪事件は止まるところはない。もううんざりするなぁ、在日の犯罪は。
 何故、在日の犯罪を止められないか? それは明治維新以来、日本が朝鮮人によって支配されてい
るからだ。その朝鮮の後にはユダヤがいる。日本人の、日本人による、日本人のための政治が行われ
るのは夢のまた夢だ。目覚めよ、日本人。自覚せよ、日本人。

 
判決
 平成29年5月23日求刑通り無期懲役判決。12月二審も無期。
 同30年3月27日、最高裁上告棄却。無期懲役確定。

 ●在日朝鮮人の凶暴犯罪(全体の79% 警察庁発表)
 大正10年「都電運転手等連続7人殺人10人傷害事件」 朝鮮人R無期懲役。
 大正12年「朴烈事件(皇族殺害計画未遂)」朴準植(戦後北朝鮮で処刑)・金文子(自殺)
 昭和 6年「荏原警察署巡査殺害事件」A→無期懲役 B→懲役6年
 昭和 7年「桜田門事件」の李奉昌(イボンチャン)死刑執行、
 昭和17年「多摩川流域軍需品窃盗団事件」朝鮮人104人逮捕
 昭和20年「名古屋少年匕首殺害事件」犯人逮捕後韓国へ逃亡 平成13年免訴
      「直江津駅リンチ殺害事件」犯人3人逮捕後韓国に逃亡
 昭和21年「東京・冨坂警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「神戸・生田警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「京都・七條警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「日光中宮祠六人殺害放火事件」朴烈根(死刑執行)崔基業(死刑執行)
      「長崎警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)」
      「京都・七條警察署巡査殺害事件」 朝鮮人5人逮捕
      「長野・東條村強盗・警察官殺害事件」 朝鮮人4人逃亡
      「名古屋・中京私設警察リンチ事件」(日本人を監禁拷問)
      「富山駅前派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「熊本・一勝地村農家六人殺害事件」 2人死刑執行・1人無期懲役
      「新潟・坂町事件」(警察官を集団暴行)12人検挙
      「新潟日報襲撃事件」(朝鮮人暴動)9人起訴
 昭和22年「山梨・百田駐在所巡査射殺事件」 北朝鮮人死刑執行 
      「神奈川税務署員殺害事件」(集団暴行)
      「北海道津別事件」(朝鮮人暴動)
      「秋田・尾花沢派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「関東朝鮮人強盗団事件・池袋診療所強盗殺人事件」朝鮮人10人逮捕
 昭和23年「会津破蔵事件」(集団強盗)犯人3人逃亡中
      「浜松事件」(朝鮮人暴動)17人に懲役刑 『ヤクザの勲章』として有名。
      「阪神教育事件(朝鮮人学校事件:朝鮮人暴動)」
      「青森・五所川原抗争事件」(朝鮮人暴動)
      「仙台・評定河原事件」(朝鮮人暴動)
      「山口・宇部事件」(朝鮮人暴動)
      「東北・ワ号(涌谷)事件・朝鮮人窃盗団連続窃盗事件」40人に懲役刑
 昭和24年「島根・益田事件」(益田警察署襲撃事件:朝鮮人暴動)
      「新潟・高田濁酒事件」(朝鮮人暴動)
      「福井・本郷事件」(派出所襲撃集団暴行)
      「福島・平事件」(朝鮮人集団暴行)
      「岩手・塩釜事件」(総連・民団抗争)
      「山口・下関事件」(総連・民団抗争)
      「関東・朝鮮人強盗団事件」(260人検挙)
      「福井・武生事件」(朝鮮人集団暴行・放火)
 昭和25年「東京・台東会館事件」(朝鮮人暴動120人検挙)
      「岡山・連島町事件」(朝鮮人暴動8人検挙)
      「神戸・長田区役所襲撃事件」(朝鮮人暴動26人逮捕)
      「滋賀・大津地方検察庁襲撃事件」(朝鮮人暴動43人逮捕)
 昭和26年「三重・四日市事件」(朝鮮人暴動15人検挙)
      「東京王子朝鮮人学校事件」(朝鮮人暴動)
      「神奈川朝鮮人学校事件」(朝鮮人暴動28人検挙)
      「東京・日野事件」(朝鮮人暴動20人検挙)
      「兵庫・下里村役場集団恐喝事件」(朝鮮人暴動15人を検挙)
      「大阪・東成警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動15人逮捕)
      「親子爆弾事件」(クラスター爆弾工場襲撃集団暴行)、
 昭和27年「青森・木造地区警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「大阪・多奈川町事件」(朝鮮人暴動27人逮捕)
      「血のメーデー事件(朝鮮人デモ隊警察と衝突)」
      「広島地裁被疑者強奪事件」(朝鮮人暴動放火犯強奪)
      「名古屋・高田派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「仙台・大梶南事件」(朝鮮人抗争)
      「奈良警察署官舎襲撃事件」(警察官の親に集団暴行:重体)」
      「山口・万来町事件」(朝鮮人集団暴行)
      「京都・島津三条工場事件」(朝鮮人が集団で押し寄せて警察に火炎瓶投擲)
      「滋賀・醒井事件」(朝鮮人暴動)
      「大阪・吹田事件」(朝鮮人集団凶暴化111人逮捕)
      「大阪・枚方事件」旧陸軍工廠→小松製作所枚方工場爆破放火98人検挙
      「名古屋・大須事件」(朝鮮人暴動)
      「群馬・警察予備隊相馬ヶ原駐屯地爆破未遂事件(5人逮捕)
      「長崎・大村収容所事件」(朝鮮人暴動)
      「青森・五所川原税務署襲撃事件(密造朝鮮人暴動)」
 昭和28年「別府市警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)、
 昭和30年「東京・上十条二丁目交番爆破事件」ダイナマイトを投げ込んで爆破、警察官重傷
 昭和33年「東京・小松川高等学校女子生徒殺人事件」(李珍宇)、死刑執行
 昭和34年「新潟・韓国工作員日赤センター爆破未遂事件」
 昭和42年「銀座女王殺人バラバラ死体遺棄事件」伊東和義(韓和義) 無期懲役
 昭和43年「金嬉老人質立て籠もり事件」の金嬉老(キムヒラウ 39歳、無期懲役)死亡
 昭和44~49年「首都圏女性連続殺人事件」の小野悦男 無期懲役→無罪
 昭和49年「松戸OL殺人事件」の小野悦男 無期懲役
 昭和54年「三菱銀行人質事件」の梅川昭美 射殺
 昭和55年「辛光洙事件」の辛光洙(シンガンス)北朝鮮に逃亡
 昭和56年「男鹿脇本事件」の在日韓国人A(28歳 懲役2年執行猶予4年)
 昭和58年「ラングーン事件」の文東建(ムントンゴン)裁判中病死


 ※戦後の10年の暴徒化は、朝鮮人特有の民族病である火病(ファビョン)や、戦勝国民気取り
  もあるが、昭和30年を境に尻ぼそりになっていくのは、在日朝鮮人の自覚や反省によるので
  はなく、ユダヤの使嗾(そそのかし)がなくなったからだ。つまりユダヤがシフト替えして学
  生運動に転化していった。しかしその学生運動も、その手先は朝鮮人青年だった。また、こう
  してつらつら眺めてみると、朝鮮人の分布が津々浦々にまで及んでいるか判るというものだ。
  彼らは何も大阪にだけ集中している訳ではない。国会議員の七分の一近くに喃々とするという
  ことは、いかにユダヤの意思が、最早抵抗できぬところまでに至っているということだ。
   今、ISIS(イスラム国)なるテロ集団があるが、アルカイーダ同様、これもユダヤが組
  織したもので、ウサマ・ビンラーディンの母親はユダヤ系オマン人だ。同様、アブ・アクバル
  ・アル・バクダディは、本名はサイモン・エリオットというイスラエル人で、モサドのメンバ
  ーだ。アラブ人に成りすまして、アラブの若者を唆している。因みに「バクダディ」ってえの
  は、江戸っ子同様、「バクダッドの人」というコードネームだ。
  朝鮮人に日本名(通名)を名乗らせ、本名を隠させたのはユダヤ人で、ユダヤ人自身が、その
  国の名前を名乗って成りすましてきた。ロスチャイルドも、ロックフェラーも本名じゃない。
  フランスのオランド大統領も、ドイツのメルケル首相もユダヤ人、どうせパリ襲撃事件もその
  元はユダヤだ。何しろ平和を追求しすぎて国と国との戦争がなくなったから、武器が売れなく
  て、売れなく、生産過剰になっちゃうから、何としても償却しなくっちゃあ、というので、テ
  ロ組織を拵えて、騒ぎを起こし武器を売り捌いて帳尻を合わしてる。尖閣問題を引き起こした
  石原慎太郎もその手合いだよ。武器類償却のための日中戦争が企てられているのかも。戦争と
  革命はユダヤの金儲けの手段だからね、未来永劫なくならないよ。

 昭和63年「女子高生監禁殺害コンクリート詰め事件」の宮野裕史(→横山祐史)
       小倉譲(→神作譲)、湊伸治(帰化)、渡邊恭史
 平成 元年「東京・埼玉幼女連続殺人事件」の宮崎勤(死刑執行)
 平成 2年「大分留学生老夫婦殺害事件」の金二秀(
キムミンス 懲役15年)と
       中国人4人、無期懲役、懲役14年、残り2人は中国で死刑、懲役15年
      「大阪イトマン事件」の許永中(
スオンゾン)懲役7年6月・罰金5億円 現在帰国
 平成 3年「京都・松江等4人連続殺人事件」 西川正勝(金正勝 
キムジョンセン 死刑執行)
 平成 4年「韓国人武装スリ団強盗事件」の鄭東植(
チャンドンシク)、沈平根(シェンピンゲン
       他23名
 平成 5年「埼玉愛犬家連続殺人事件」関根元(獄中死亡)・風間博子(死刑確定)
 平成 7年「オウム真理教村井秀夫刺殺事件」の徐裕行(
ソユヘン 23歳)懲役12年 出所
      「長崎市長射殺事件」の城尾哲也(白正哲? 
パクジョンチョル)無期懲役
      「オウム真理教地下鉄サリン事件」の麻原彰晃(松本智津夫) 死刑執行
      「国松警察庁長官狙撃殺害事件」の犯人は韓国人(逃亡)と見做されている
      「カナヤマン少女連続強姦事件」の金山昇一 懲役2年
      「大阪保険金娘殺人事件」の青木恵子(母)と朴龍皓(
パクヨンハオ 内縁の夫)
      「名古屋・福岡殺人事件」の朴日光(
パクイルグァン) 死刑判決 獄中死
 平成 8年「渋谷女子大生誘拐事件」の李勇(
リヨン)中国籍 無期懲役
                  伊藤金男(尹金男
イムキンナン 生活保護者)無期懲役
                  山本基浩(崔基浩 
チェギホ)韓国籍 懲役10年
 平成 9年「神戸連続児童殺傷事件」の酒鬼薔薇こと東真一郎また西岡真とも。出所。
      「奈良月ヶ瀬村女子中学生撲殺事件」の丘崎誠人(混血)無期懲役 獄中自殺。
      「小学生強姦事件」の張今朝(
チャンジンチャオ)9人レイプ。実刑(刑期不明)
 平成10年「和歌山毒物カレー殺人事件」の林真須美(帰化)、死刑判決
      「目白通り19人強姦強盗事件」の宋治悦(
ソンチヨル)無期懲役
      「栃木県工務店主殺害事件」の蒋米内(
ジャンミネイ 57歳)捜査中死亡
      「浜松市民家侵入強盗強姦事件」の李正遠(
リチョンオン) 懲役18年
      「碧南市パチンコ店長夫妻殺人事件」の金慶末 逃亡→闇サイト殺人事件 
 平成10~18年「大阪19人監禁強姦事件」の山元平和(金平和
キムピンヘ)無期懲役。
 平成11年「光市母子殺害事件」の大月(福田)孝行、死刑確定
      「新潟少女強姦事件」の崔智栄
チェジロン)・金乗實キムツェンシ
      「桶川ストーカー殺人事件」の小松和人(逃亡自殺)
      「横浜市小学生14人強姦事件」のペソンテ
      「愛媛強姦事件」のマンダリンレイパーツ外野手文相勲(
ムンサンフン)懲役6年4月
 平成12年「ルーシー・ブラックマン殺人死体遺棄事件」の織原城二(金聖鐘)無期懲役
      「鳥取・大阪・和歌山9人強姦事件」の沈週一(48歳 
シェンズンイ
      「フジテレビ社員になりすまし140人強姦事件」の李昇一(
イソンイル
      「女優強姦未遂事件」の檀国大学教授李東逸(
イドンイ) 示談保釈
      「世田谷一家殺人事件」犯人は韓国人と見られている。
 平成13年「大阪教育大学付属池田小学校」の宅間守(兄は朝鮮名のまま)。死刑執行
 平成14年「大分老夫婦刺殺事件」金玟秀(
キムミンス 留学生)無期懲役→懲役15年
      「北九州監禁連続殺人事件」の松永太 死刑判決
 平成14~21年「鳥取連続6人不審死事件の上田美由紀 死刑判決
 平成15年「スーパーフリー事件(連続輪姦)」の和田真一郎(保釈後、和田耀平に改名)
 平成16年「山梨県二少女強姦事件」の高直幸、懲役15年
      「大牟田連続殺人死体遺棄事件」北村一家4人全員死刑確定
      「元千葉ロッテ投手強盗殺人死体遺棄事件」の小川博 無期懲役
      「名古屋高齢女性強盗殺人未遂事件」の金慶末 逃走→闇サイト殺人事件
      「茨木市連続轢き殺し事件」の屋島正則(23歳) 精神疾患無罪
      「ソウル日本人学校女児6人連続殺人事件」の金大根(
キムデゲン) 死刑執行
      「相模原・山梨女子高生強姦事件」の高直幸(
ガォジシン)懲役13年
 平成16~17年「大阪17人強姦事件」の松岡寿明(金寿明
 キムショウミン)無期懲役
 平成17年「聖神中央教会事件」の永田保(金保)信者の娘22人を強姦。懲役20年
      「大阪・自殺サイト殺人事件」の前上博 死刑執行
      「千葉少女スーツケース詰め殺人事件」の長谷部泰輔(創価大)無期懲役
      「京都市区立小学校侵入事件」の堤昌浩(姜大蔵 ジャンデカン
      「堺市・女子高生監禁事件」の川本隆之(鄭隆之 
ツェロンチ)懲役8年
      「武装スリ団メンバー強盗事件」の
金上煥(キムシャンハン)李橿旼(イジンビン
      「京阪神高級住宅空き巣1億9000万円」の金圭男(
キングィナム
      「大阪少女監禁事件」の川本隆之(鄭隆之
チョンロンジ)懲役8年
      「宇都宮女子高生猥褻事件」の北朝鮮密入国者閔洪九(
ミンホンジュ)自殺
 平成18年「秋田児童連続殺人事件」の畠山鈴香 無期懲役
      「京都市パチンコ売上80億円脱税事件」の山村友七(崔大秀 ツァイデシュ
      「京都市連続住居侵入強盗事件」の野村義昭(金義昭 
キムイツァオ
      「京都市聖神中央教会少女七人強姦事件」の鄭明析(
チョンミョンソク
      「大阪府19人強盗強姦事件」の山本平和(金平和 
キムビンヘ)無期懲役
      「東京一等書記官轢き逃げ事件」の一等書記官李相烈(
イサンリェ)不逮捕特権帰国
      「東京マンション侵入3人強姦事件」の留学生李桐昊(
イドンハ
      「宇都宮女性宅上がり込み強盗事件」の李辰世(
イチェンシ
      「浜松連続強盗強姦事件」の李正遠(
イジョンアン)懲役11年
      「台東区路上拉致監禁70万円強奪事件」の高逸熙(
コイシ
      「大阪市強要未遂事件」の暴力団組長天野洋志穂(金政基
キムチェンイ
      「長浜市園児殺害事件」の谷口充恵(鄭永善
ツェンヨンシャン)無期懲役
      「下京区連続強姦事件」の野村義昭(金義昭
キムイチャオ

 平成19年「渋谷女子大生誘拐事件」伊金男・李勇(無期懲役)・崔基浩(懲役10年)
      「市川・英国人女性殺害・死体遺棄事件」市橋達也、無期懲役
      「長崎市長射殺事件」の城尾哲弥(白正哲
 バイツェンツェ)無期懲役
      「函館市銃撃戦」の暴力団員高成仁(52歳) 射殺
      「土浦8人連続殺傷事件」の金川真大 死刑執行
      「大阪主婦80人強姦事件」の来日強姦魔金充植(
キムチョンジ)実際は200人
      「闇サイト殺人(愛知女性拉致殺人事件)」の堀慶末(金慶末)無期懲役
      「佐賀入院患者人違い射殺事件」の今田文雄 無期懲役 死亡
      「川西市関西アーバン銀行強盗事件」の平山善賢(申善賢 シンシェンシェン
      「中野区拳銃射殺事件」の暴力団組長有本弘吉(李弘吉
リホンイ
      「NHK幹部少女買春事件」の朴瑛源
パクインヤン 通名朴元瑛源(えもとえいげん
      「仙台女児猥褻・連続殺人事件」の高山正樹 無期懲役
 平成20年「秋葉原通り魔17人刺傷事件」加藤智大 死刑 弟優次自殺
      「港区中国国際航空爆破脅迫事件」の中川賢史(李賢史 リヒョンサ
      「江東区神隠し殺人事件」の星野貴徳 無期懲役 自殺の噂あり
      「舞鶴高1女子殺害事件」の中勝美 無期懲役→無罪 殺人→服役中死刑
      「大阪市75億円相続巨額脱税事件」の李初枝、李淑子姉妹
      「加古川同居男刺殺事件」の大村美和(朴美和
パクメイヘ
      「深谷市生活保護費1800万円詐取」の青山真一朗(崔鳳海
チェフェンハイ
      「北朝鮮覚醒剤密輸事件」の禹時允(
ユシイン

 平成21年「首都圏連続不審死事件」の木嶋佳苗 死刑判決
      「新橋ストーカー耳かき店員殺害事件」林貢二(朴貢二
 パクゴンエル)無期懲役。
      「千葉・松戸女子大生強姦殺人放火事件」の竪山辰美 無期懲役
      「大阪・法人税1億超脱税事件」の由利佳久(金光徳
キムガンデ
      「江戸川区屑鉄業者脱税事件」の清光均一(趙均一
チャオジュンイ
      「東大阪屑鉄業者脱税事件」の延田政雄(田元相
ティャンヤンシャン
      「文京区中央大学教授刺殺事件」の山本竜太 懲役一八年。
      「加古川屑鉄運搬会社脱税事件」の望月正雄(郭漢彦
グォハンヤン
      「江戸川区妻殺し事件」の徳山京吉(洪京吉
ホンジンジ
      「三重・旅館人質立て籠り事件」の金山和重(金和重
キムヘチョン
      「福岡前原焼死体遺棄事件」の木村勇太(辛英武
シンヨンウ
      「埼玉伊奈町放火殺人事件」の張哲具(
チャンチョルグ)短期ビザ 懲役30年
      「足立区美容院経営者殺人事件」の元夫金昌律(
キムチャンル

      「神戸北区団地殺人事件」の豊田洋樹(権洋樹
 グァンヤンシュ
 平成22年「大阪ミナミ女子高生連続16人強姦事件」の徐一
ソイル懲役25年
      「マツダ本社工場車暴走連続殺人事件」の引寺利明 無期懲役
      「札幌2女性刺傷事件」の外山硬基 無期懲役
      「長岡京市義父母殺害事件」佐野敏男(55歳 李敏男
 リミンナン)無期懲役
      「下関市6歳女児殺害事件」湖山忠志(許忠志
 スツォンチ)懲役30年
      「松原市タクシー強盗殺人未遂事件」の安田亨(安承哲 ア・チェンチェ
      「西宮市轢き逃げ死亡事件」の文力樹 
ムンリシュ 通名松浦
      「豊島区国道轢き逃げ事件」の秋敏植 
キミンシ 通名松本拓己
      「吹田市隣人騒音トラブル殺人事件」の大橋実(金實虎
キムシフ
      「大阪市女性2人拉致キャリーバック監禁強姦事件」の金平和(
キンピョンヘ
      「明石市女性殺害事件」の韓国籍永川考二(李海 イハイ) 逃亡自殺

 平成23年「大津いじめ中学生自殺事件」通名山田晃也(事件後佐田、足立に通名改称)
                    木村束麿呂(京都へ転校 父はPTA会長)
                    小網健智(柔道部)
                    森山進(担任教師)
      「熊本3歳女児殺害事件」の山口芳寛 無期懲役

      「目黒夫婦殺傷事件」木村義昭(65歳) 無期懲役
      「大阪北区路上ナイフ女子高生連続強盗強姦+下着窃盗事件」の呉紘希
      「ММEレコード社長少女強姦事件」の李泰成(イデソン)通名角岡・西本
      「東灘区公園ナイフ強姦事件」の竹田直季
      「埼玉・轢き逃げ事件」金城健(金健 
キムジャン
      「被災地偽医者詐欺事件」の米田吉誉 韓国で医師免許偽造
      「女性を数百メートル引き摺り殺人未遂事件」のソウヨンソク
      「大阪生野妻殺し事件」の岩田慶次(姜市男
カンシナム
      「大阪生野女性強盗殺人事件」の金井義明(金義明
キムイミン
      「岡山命乞い同僚女性バラバラ殺人事件」の住田紘一 死刑執行
      「愛知女子大生モデル殺害事件」の丹羽雄司 懲役27年
      「福井・九頭竜湖殺人事件」 林圭二(無期懲役) 渡辺智由(懲役14年)
      「大阪・今養寺重文仏像盗難事件」の陳宗哲(68歳)朴昌奎(68歳)

      「平野区朝鮮人親子ストーカー殺害事件」の文青児 ムンクィンエル 通名文原 無期懲役
      「名古屋芸能プロ社長猥褻事件」の李泰成
リタイソン 通名亀岡or西本
 平成24年「尼崎連続虐待殺人」の角田美代子(獄中自殺)李正則(
リジョンヅゥ 無期懲役)
      「豊川信金蔵子支店立て籠もり事件」の長久保浩二 懲役9年
      「広島成城大生小6女児監禁事件」の小玉智裕 懲役4年→3年 満期出所
      「関越道高速バス防音壁衝突死亡事故」の河野化山 懲役9年6月 罰金200万円
      「静岡連続9人強姦事件」の小沢貴司 懲役50年
      「大阪心斎橋通行人2人刺殺事件」の磯飛京三 死刑→無期懲役
      「島根社長妻刺殺事件」の福島清太郎(趙正奎
チャオツェンクィ
      「岐阜県女性水死事件」の文昇(ムンソン)他暴力団4人
      「スイス在住資産家夫妻殺害事件」の渡辺剛 死刑確定
 平成25年「京都弁護士会々長路上殺害未遂事件」の朴基洙(60歳) 懲役3年 出所
      「姫路元暴力団等3人殺害事件」の陳春根(
チェンチュンゲン 48歳)無期懲役
 平成26年「朝霞女子中学生誘拐監禁事件」の寺内樺風(懲役9年 → 12年)
      「佐世保同級生殺人解剖事件」の徳勝もなみ 精神病院送り、父親自殺。
      「兵庫・政務費詐取号泣釈明会見事件」の野々村竜太郎(懲役3年猶予4年)
      「神戸小1女児遺体バラバラ遺棄事件」の君野康弘(死刑→無期懲役)
 平成27年「川崎中学一年生リンチ殺人事件」の船橋龍一(懲役9~13年の不定期刑)
      「大阪・高槻中一少年少女殺害事件」の山田浩二 (死刑判決)
      「虎ノ門男性器チョン切り事件」の小番一騎 懲役4年6月
      「小岩女子高校生強盗殺人」の青木正裕 無期懲役
      「西麻布路上強盗傷害事件」の添田大地
 平成28年「福岡女子予備校生刺殺事件」の甲斐敬英(19歳)懲役18年
      「小金井アイドル刺傷事件」の岩崎友宏(金友宏) 懲役16年6月
      「渋谷バレエ教師鏨指切断事件」の岩崎浩明 懲役4年6月
      「碑文谷池老女バラバラ遺体遺棄事件」の池田徳信 無期懲役
      「靖国神社爆弾事件」の全昶漢(チョンチャンハン 27歳)懲役4年
      「埼玉県ベトナム人不法就労事件」の慶克也(
キョンクィイェ 46歳)
      「群馬高級時計詐取事件」の申映鎭(
シェンインチェン 35歳)
      「六本木21歳女性暴行事件」の蒲池英貴
      「津久井やまゆり園60人殺傷事件
」の植松聖(韓英一:
ハンヨンイル
      「文京区講談社編集次長妻殺人事件」の莫鐘顕(パクチョンヒョ
      「福島県石仏100体損壊事件」のチョンスンホ(韓国人) 懲役2年
      「新今宮駅突き落とし事件」の裴晃大
ペファンデ 中川晃大 28歳)
      「京都山科区コンビニ強盗事件」の香山正秀(崔正秀 ツァイツェンツェ
      「歌舞伎町裏DVD販売32万枚押収」の千龍湖(チャンロンフ 60歳)
      「荒川区母親絞殺事件」の高悠里(
コユーリ 29歳 通名鈴木)
      「神戸山口組襲撃事件」の金東力(
キムドンリ 60歳)・金幸植(
キムシンジ 68歳)
      「大阪個人病院侵入盗事件」の左達也(
ツォダエ 42歳)
 平成29年「長野中央道危険運転パトカー2台衝突事件」の金相炫(キムサンシャン)42歳
      「福島仏像神鏡等破壊事件」のチョン・スンホ(35歳) 懲役2年
      「宇都宮日本人刺傷事件」の黄茂男(
ファンマオナン 68歳)
      「一都六県で空き巣200件」の朴一軌(
パクイグィ 36歳)

      「7年前重文仏像盗難事件」の陳宗哲(68歳)と朴昌奎(68歳)
      「東名夫婦死亡事故」の石橋和歩(25歳) 懲役18年判決
      
「座間9人殺害事件」の白石隆浩(27歳)
      
「京都山科区コンビニ強盗事件」の香山正秀(崔正秀 ツァイツェンツェ
      「世田谷コンビニ前刺傷事件」の金輝俊(
キムフィジュン 40歳)
      「川崎小指切断強制事件」の山口組金敏昭(
キムミンツァオ 63歳)
      「五反田駅前ホームレス刺傷事件」の丁奎五(
チョンクィウ 46歳)
      「東京MK社長タクシー運転手暴行事件」のユチャンワン 55歳
      「新宿韓国人向け白タク営業」の韓寿栄(
ハンスヨン 37歳)
      「赤坂白タク稼ぎ1500万円」の朴昶柱(
パクチャンチュ 49歳)
      「金塊16億円密輸事件」の高鳳聲(
コフェンシェン 35歳)、延鐘模(ヤンゾンモ 29歳)
      「市川市・一家4人惨殺事件」の関光彦 死刑執行

 平成30年
「韓国から空き巣行脚」の李成男(リソンナン 40歳)
      「渋谷職質逃走パトカー衝突事件」の趙聖煥(チャオシェンファンァン 21歳)
        「神戸三ノ宮駅突き落とし殺人未遂事件」の朴洸賢(パクハオシャン 27歳)
      「市川中国人不法就労事件」の朴聖煕
パクシェンシ 38歳)
      「宮城麻薬密売事件」の李浩淑(リハオスク 57歳)
      「青梅偽ルイヴィトン販売目的所持事件」の朴正壎(
パクジョンチェン 39歳)
      「煽り運転ゴミ車横転事故」の李義之(
リイツィ 52歳)
      「渋谷職質逃走パトカー衝突大麻所持事件」の趙聖煥(
チャオソンハン 21歳)
      「渋谷NHK職員刺傷事件」の韓国籍李宰弦(
リジェヒョン 46歳)
      「昨年3月女性暴行携帯強奪事件」の
キムテヒョン(29歳)再来日逮捕
      「六本木一丁目タクシー運転手轢殺事件」の南康弘(
ナンカンホン 69歳)
      「六本木地下通路ビール瓶刺傷事件」の
キムドンコン(37歳)
      「荒川警官切り付け事件」の杉村ひろし(尹炳喜 
ユンビョンヒ 55歳)
      「台東区宝石商強盗未遂事件」の
コヨンファン(27歳)とチェウンユ(27歳)
                    3人韓国に逃亡。

      「川崎タクシー内暴れ器物破損事件」の安英孝(アンヨンシャオ 40歳)

      「足立区特殊詐欺未遂事件」の大森裕友(22歳)
      「加古川バイパス追突3人死亡事故」の金哲寿(
キムチェショウ 60歳)
      「暴力団組長金品強奪事件」の金永七(
キムヨンキ 71歳)
      「新幹線グリーン車窃盗事件」の朴昞俊(
パクカオジュン 29歳)
      「大阪韓国人弁護士横領事件」の洪性模(
ホンシンモ 66歳)
      「埼玉マンション空き巣事件」の宋美德(
ソンメイデ 49歳)

 平成31年「名古屋・タクシー強盗傷害事件」の朴光泳(パクガンヨン 59歳 通名新井)
      「仙台~郡山タクシー無賃乗車」の金吉成(キムキソン 52歳)
      「堺マンション12階消火器投下殺人未遂事件」の姜碩富(
ジャンシュオフ 49歳)
      「芦屋高級住宅街空き巣事件」の朱昌星(
チュチャンシン 68歳)
      「国内最大児童ポルノ摘発事件」の金光史(キンガンシ 60歳)

      「世田谷・マッサージ師強姦事件」の朴慶培(
パクギョンベ 40歳 俳優新井浩文)
      「昭和大病院医師性暴力事件」の金古政隆(28歳)、大林久晃(26歳)
      「タイ・日本人3人監禁強盗事件」の黄健一 
ファンニゴル 27歳

      「後楽園駅前元上司刺傷事件」の金田隆志(26歳)
      「南品川痴漢暴行事件」の吉田将司(23歳)
      「神戸・妻暴行事件」の金本浩二(金日宇 3代目タイガーマスク 

      「カンボジアから覚醒剤密輸」のジョンヨンス(49歳)
      「大阪カジノ発砲事件」の韓国人姜真一(
ジャンチェンイル 通名井川 34歳)
      「原発賠償金4000万円詐取事件」の金孝尚(
キムシャオシャン 60歳)
 (令和元年)
「名古屋オンラインカジノ経営事件」の東山真也(金栄植 キムヨンツィ 41歳)
      「佐野高級メダカ侵入盗事件」の李龍道(イロンダウ)71歳 通名村田明
      「韓国からスリ出張」の陳晟瑚(チンソンホ 46歳)
      「港区総連歌劇団女優覚醒剤事件」の安聖愛(
アンソンアイ 24歳)
      「オレオレ詐欺4000万円引っ手繰り事件」のウキオン(27歳)
      「浜松路上置き石保険金詐取事件」の陳達栄(
チェンダロン 34歳)
      「大阪暴力団組長覚醒剤密輸事件」の李雄二(
リションエル 55歳) 

      「和歌山自動車盗職質逃亡事件」の朴悠也(32歳 通名土肥原)
      「渋谷区小堺一機宅など空き巣荒らし」の千雲寧(
チョンウニョン 31歳)
      「大阪連続引っ手繰り事件」の姜桂守(
ジャンヴィショウ 44歳)
      
「町田・暴力団人違い監禁事件」の申昌吉 シェンチャンジ 通名松原
      「渋谷区道端アンジェリカ夫恐喝事件」の
キムジョンヒ(37歳)
      「渋谷区韓国大使館員路上暴行事件」の韓国人(不逮捕特権で釈放)
      「青梅侵入強盗資産家殺人事件」の韓国籍山本一仁(韓一仁
ハンイルイン
                      韓国籍野村俊希ともう1人在日
      「青森日本テレビ社員暴行事件」の韓国籍玄昶日(
シュワンチャンリ
 令和 2年「中央区一億三千万円鉄鋼横流し事件」の朴康靖(
パクカンジョン
      ※、コロナ騒動で韓国人を入国禁止にしたら犯罪が全くなくなった。断韓だな。


 その他、強盗殺人、婦女暴行、幼児殺害100件ほどの凶悪犯罪が、在日若しくは帰化人の仕業と
なっている。中には態々韓国から出張してきて犯行を犯している奴がいる。おいらはガキの頃、朝鮮
人の凶悪残虐を目の辺りにしてるよ。
 外国人犯罪で窃盗は圧倒的に中国人だが、殺人・放火・強盗・暴行・障害・脅迫・恐喝は総て韓国
人・朝鮮人だ。これはおいらの想像じゃないよ。警察庁の発表だ。
 因みに、日本人は韓国内で犯罪を犯しておらず、刑務所に服役している者は0だ。では何故? そ
れは、基本的に在韓日本人が1万人前後と、絶対数が極めて少ないためだ。嫌韓感情が強いのだ。
 おいらなんざ、旅費宿泊費全額出してやるっていわれても、韓国旅行なんざ御免蒙るよ。
 不思議なことは、日本に犯罪を扱った、探偵、刑事、弁護士、科捜研等々、映画、小説、ドラマ、
漫画は数限りなく腐るほどあるが、犯人は総て日本人。韓国人が犯人の物は1件もない。凶悪犯罪の
90%が在日韓国人の犯罪というのにだ。現実に目を向けろ!

 
何故在日朝鮮人・韓国人は凶暴事件を起こすのか?
 それには悲しい歴史事実がある。歴史始まって以来、朝鮮半島は中国の属国とされた。それはそれ
は悲惨な歴史だった。虐げられること3000年というからおっとろしい。朝鮮には、両班(リャン
パン・ヤンパン)と白丁(ぺクチョン)という身分関係があった。両班は、李氏朝鮮における支配階
級・貴族階級で、普通の人、良民をさした。両班とは、元々2つの班、文官(東班)、武官(西班)
の官僚組織のことだった。
 白丁とは、白い着物しか着れない哀れな身分の人、つまり賎民、奴隷階級の人をいった。韓国人の
殆どはこの奴隷身分だが、韓国人に「先祖は?」と訊くと、100人中100人が「両班だ」と答え
る。えーっ! 白丁の子孫は皆殺しにしちゃったっていうのかい? で、韓国では、人を罵倒する時
に「白丁野郎!(ペッチョンノム)」と使う。最大の侮辱語だ。日本にこれに匹敵する言葉はない。
だから、韓国で「私の先祖は白丁だ」といおうものなら、人間的扱いは受けない。
 朝鮮半島では「北鮮南韓」といって、北鮮(高句麗)が支配階級で、南韓(三韓)は被差別階級と
いう思いがある。経済的に優位に立つ現在でも、韓国は北朝鮮の風下に置かれている。横田めぐみが
拉致されたことになっているが、母親の早紀江は、梨本宮方子(朝鮮王国皇太子妃)の娘だ、つまり
お姫様だ。ということはめぐみもお姫様ということだ。そんじょそこいらの娘が学校帰りに拉致され
るかい。めぐみは朝鮮王女として金正日に嫁いだのだ。金正恩、恩は日本では「めぐみ」と読むんだ
よ。白丁は元々は身分で、中国の律令制度だ。当然それを模倣した日本にもあった。やがて日本では
「白徒」つまり「博徒」となった。やはり非差別階級だ。明治以後はヤクザとなった。そのため在日
の荒くれ者で、凶悪犯罪を犯さない者はみんなヤクザ・右翼になる。
 李氏朝鮮の時代に、身分制度が複雑化し、国王・両班・中人・常人・賎民に大別され、白丁は「ペ
クチョン/ベッチョン」と呼び。七般公賎(官奴婢・妓生・官女・駅卒・獄卒・犯罪逃亡者)、八般
私賎〔巫女・皮革業者・使令(宮中奏楽者)・僧侶・才人(芸人)・社堂(男の旅芸人)・挙史(女
の旅芸人)・白丁〕といわれた賎民階級の最下位に位置付けられた非差別民をさすこととなった。
 朝鮮半島において白丁は以下の差別を受けた。
  1.族譜(系図家譜)を持つことの禁止
  2.屠畜・食肉商・皮革業・骨細工・柳細工以外の職に就くことの禁止
  3.常民との通婚禁止
  4.日当たりのよい場所、高地に住むことの禁止
  5.瓦屋根の建物に住むことの禁止。
  6.文字を知ること、通学の禁止
  7.他身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止
  8.名前に「仁・義・礼・智・信・忠・君」の文字の使用禁止
  9.姓を持つことの禁止
 10.公共の場への出入り禁止。
 11.葬式で棺桶使用禁止
 12.結婚式で桶の使用禁止
 13.墓を常民より高い位置・日当たりのよい場所に作ることの禁止
 14.墓碑を建てることの禁止
 15.一般民の前で胸を張って堂々と歩くことの禁止
 これらの禁を破れば厳罰を受け、時にはリンチを受けて殺害された。その場合、殺害犯はなんの罰
も受けなかった。白丁は人間ではないとされていたためである。こういった差別は、上位身分になれ
ば逓減していったが、韓国民は概ね、中国人によって虐げられていた。
 で、この地獄の身分差別を打破したのは日本で、戸籍制度を取り入れて、身分制度を撤廃、総ての
朝鮮人を平等とし、身分を縛る禁止項目を廃止、総ての朝鮮人に学校教育を施した。これに両班は猛
反対したが、日本政府は断固として押し通した。朝鮮人らはこれに抵抗して、戸籍に旧身分を記入し
たり、履歴書に書かせるなどしそれが現在までも残っていおり、第二次世界大戦終結により、日本統
治の平穏な時代が過ぎると、ユダヤが隠れ宗主国となり、韓国民を苦しめている。韓国は世界で売春
と自殺とが最も多い国である。
 韓国が、世界遺産に「宮廷料理」なるものを申請した。和食は世界遺産に登録されたが、この宮廷
料理なるもの、「誰が食べたんだ!」といって拒絶された。奴隷国家に宮廷料理何ぞあるはずもなく
戦後の創作では図々しすぎるわな。韓国の歴史ドラマなるものが数々あるが、みんな柄物の衣裳を着
込んでいる。明治時代の日本統治以前の数々の写真を見ると、柄物を着ている民衆は一人もいない。
つまり中国の抑圧によって染織技術が発展しなかったため染物がなかったのだ。だから白丁なのだ。
 この欝々とした歴史を背負った朝鮮民族は、永い抑圧の中で民族病、国民病ともいうべき精神病を
患っていった。「火病(ファピョン)」という。世界保健機構(WHO)も認めている。

 火病または鬱火病(ウラッピョン)
 これは、怒りの抑制を繰り返すことで、ストレス障害を起こす精神疾患を指す。ヒステリーと類似
した症状を発症する。アメリカ精神医学会は、火病を「朝鮮民族特有の文化依存症候群の1つ」とし
ている。症候として、疲労、不眠、パニック、切迫した死への恐怖、不快感、食欲不振、消化不良、
動悸息切れ、呼吸困難、全身の疼痛、心窩部に塊がある感覚などを呈する。英語では「anger syndro
me(憤怒症候群)」と訳され、原因は怒りの抑制によるとされている。本来、朝鮮民族が中国に立ち
向かって自立し、自分たちで勝ち取るべき権利を、日本が取り除いて上意下達で与えてしまったので
自由と平等を手に入れたものの、中途半端な精神状態に陥ってしまったのだ。本来、女性に多い病気
だが、時に男性において発症すると、発狂、奇声、自傷、自殺、泡口、忿怒、激情、暴行等凶暴化す
る。朝鮮人による婦女暴行、いじめ虐待、暴力行使、殺人、リンチ事件が多いのはこのためだ。天国
だった日本統治が終わると、経験の無い自尊自立に戸惑い、そしてユダヤの支配。朝鮮人は、平和を
謳歌する日本人に少なからぬ嫉妬心がある。彼らが悪魔だという日本に移住して日本人になりたがる
のは嫉妬の裏返しだ。日本、日本人が嫌いなら、韓国に帰ればいいのだが、日本人に成りすまして日
本定住を心から希望する。朝鮮人にとって日本は天国なのだ。どう抗っても日本を越えることはでき
ない。ユダヤの属国といいながら、日本は欧米先進国に伍して劣る所がない一流国家だ。これからも
朝鮮人韓国人による凶暴犯罪はなくなることはない。
 在日朝鮮人有力者らの希望で、韓国人犯罪者は本名を知られることがない。通名で通せるから、刑
期を終えた後、また別の通名に変えれば善良な日本人に成りすませる。こんなことでは在日の犯罪は
なくなることはあるまい。もし朝鮮名で立候補したら1人として国会議員なることはあるまい。


■上小岩遺跡説明板

 北小岩6丁目14番、京成本線踏切北の駐車場のフェンスに沿って建ててある。この辺りにある遺
跡は、区内最古で最大規模を持つ遺跡であり、弥生時代後期には人が住み始めていたことが確認され
た。また、古墳時代には大きな集落があり、出土品等から遠く東海地方とも交流していたことが判っ
ている。それ以降も上小岩では中世には荘園、近世には新田が開かれ人々が暮らし続けていた。奈良
の東大寺正倉院文書の養老戸籍(養老五年=721)の中に、下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍の中に3つ
の集落が登場しており、「甲和里(こわり)」という集落が小岩に当たると推定されている。
   甲和里(こわり)   = 44世帯 - 454人 現在の地名:小岩?
   嶋俣里(しままたり) = 42世帯 - 370人 現在の地名:柴又?
   仲村里(なかむらり) = 44世帯 - 367人 現在の地名:水元小合町?
 上小岩遺跡は古墳時代前期(3世紀)の低地遺跡で江戸川最下流に集落があった可能性が大で、3
~4mの高台で数十戸の住居があったと見られている。この上小岩遺跡からは、古墳時代前期(今か
ら約1600年前)の人たちが使用した「壺型土器」・「かめ型土器」・「杯型土器」・「結合型器
台」・「小型器台土器」が出土しているほか、採集遺物は3万点に上り、弥生中期の物は少なく、弥
生後期、古墳時代前期のものが最も多く採集されているという。

   上小岩遺跡
   上小岩遺跡は、区内で最も古くて大きな遺跡とみられ現在の北小岩6、7丁目付近と推定
   されています。この地域はもとの上小岩村にあたることから遺跡名を上小岩遺跡とよんで
   います。
   上小岩遺跡は、昭和27年に、当時の小岩第三中学校の生徒(陳可成)が自宅裏の用水路
   から土器片を発見し、同校の中村進教諭に連絡したことからその存在が知られるようにな
   りました。その後、中村氏らの調査により、この遺跡が古墳時代前期(今から約1600
   年前)を中心とする低地の集落遺跡であることがわかりました。
   出土品は、弥生時代中期のものから発見されており、古墳時代前期の土器類が中心です。
   とくにS字状の口緑をもつ台付カメが大量に出土したほか、土錘も多く出土し、半農半漁
   の生活をしていたことがうかがえます。
   また、奈良の正倉院文書に養老五年(721)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍があります。
   この中の甲和里という集落が小岩にあたると推定されていますが、これまでの調査でこれ
   を裏づける集落跡が発見されていません。当時の出土品も少ないため、戸籍に見られる集
   落の存在確認は、今後の調査に期待されています。
   昭和63年3月                        江戸川区教育委員会


長慶山善慶寺

 北小岩6丁目34番20号にある日蓮宗の寺。江戸時代初期の創建と伝えられている。近代的な寺
院は、平成10年竣工で1000㎡超だが、純木造ながら総御影石仕上げで美しい建物。一風変った
現代風デザインの山門を入ると参道の左も右も墓地、左側にビルがあり、掲額に常照殿とある。鉄筋
コンクリート2階建ての本堂だ。「新編武蔵風土記稿」に、

   善慶寺
   法華宗、下総国中山法華経寺末。長慶山と号す。本尊三寶祖師を安ず。開山善立坊と号す。

 とある。

 
題目山号塔
 門前にある。

   
南無妙法蓮華経 長慶山

 
日蓮上人合掌立像
 一三重石塔の横にある。

 
石造物
 五入れ枡紋のような彫刻。仏教的意味があるのか?。


■三社明神社 → 上小岩天祖神社
 北小岩6丁目39番22号にある中社。上小岩村の鎮守。創建年代は不明。天照大神を祀る。境内
に国常立尊を祀る小祠がある。「新編武蔵風土記稿」上小岩村の項に、

   三社明神社
   天照大神、八幡、春日の三社なり。村の鎮守とす。観泉寺持


 とあり、「江戸川区史」に、

   天祖神社(北小岩六丁目三九番二二号)
   旧上小岩村の鎮守で神明社と称した。祭神は天照大御神、相殿に誉田別命、天児屋根命を
   まつる。寛永年間の創建といわれるが詳細は明らかでない。安政の大地震で倒壊し改築し
   たが、明治39年に改修した。明治11年に十念寺の持ちになり、同43年から小岩神社
   が掌管している。


 とある。

 とろけ観音
 上小岩観音がとろけたようになっている。
 


■北小岩かえで児童遊園
 北小岩6丁目41番7号にある区立公園。


■小岩公園
 北小岩6丁目43番1号にある区立公園。住宅街の中にあり、左右に小学校、中学校があるのでい
つも賑やか。遊具はアスレチック、大きな石のクルクル滑り台、屋根付きの涼しい砂場、ブランコな
ど。多い方ではないが、園地が広いだけに、思いっきり走ったり、三輪車でチョロチョロ。園内にプ
ールがあったり、ゲートボールを楽しむお年寄りがいたり、テニスコートも隣接されている。

 甲和亭
 区民が茶会や寄合など身近に利用できる場所として、昭和56年11月3日に竣工した。純和風建
築数寄屋造りの区の施設。華道、俳句、筝曲、詩吟、発表会、会合、宴会などにも。


■石のオブジェ
 北小岩6丁目49番9号小岩保育園の西南角外、上小岩親水緑道にある。


■マンホールの蓋
 北小岩6丁目50番4号先と同6丁目51番15号先、上小岩親水緑道に区と都のものがある。上
小岩遺蹟に因んで土器が刻まれている。もっとある。


■上小岩遺跡石碑
 北小岩6丁目50番4号にある最初の発見場所。

   上小岩遺跡
    上小岩遺跡は、上小岩小学校あたり
   を中心に、北小岩六、七7丁目附近に広
   がっています。
    昭和二十七年に、小岩第二中学校の
   生徒が自宅裏の用水路から土器片を発
   見し、同校の中村進教諭に知らせたこ
   とから、その存在が知られるようにな
   りました。その後、多くの人びとによ
   り発掘調査が進められ、古墳時代の前
   期(今から約一六〇〇年前)を中心と
   する遺蹟であることがわかりました。
    出土品は、弥生中期から古墳時代前
   期の土器類が主で、東海地方との交流
   のあったことを示す土器を出土してい
   ます。また、漁労に用いた土錘も少な
   くないことから、半農半漁の生活をし
   ていたこともうかがえます。この地の
   黎明期の様子を伝える遺蹟です。
   平成三年春        江戸川区
   


■北小岩六丁目第三児童遊園
 北小岩6丁目52番7号にある区立公園。

 
石のオブジェ
 大小2つの石が向き合っている抽象的な作品。


■ムジナモ発見の地
 北小岩7丁目先河川敷には大正時代ころまで大小30余の沼があった。明治23年植物学者牧野富
太郎は、日本で初めてこの沼で食虫植物の水藻を発見し「ムジナモ」と名づけ、後に花も発見した。
このことが学会に発表されると、ムジナモと牧野博士の名は世界的に有名になった。大正10年に国
の天然記念物に指定されたが、洪水などで絶滅し、同15年には指定解除となった。他の自生地に埼
玉県羽生市の宝蔵寺沼があったが、こちらも昭和46年ごろに絶滅した。その後人工培養のものも自
滅したらしい。
 


■上小岩小学校

 北小岩7丁目2番1号にある区立校。昭和7年9月28日小岩尋常高等小学校から分校、「東京府
南葛西郡上小岩尋常小学校」として開校。10月1日周辺郡部が東京市に併呑されたため「東京府東
京市上小岩尋常小学校」と改称。同11年西小岩尋常小学校新設に伴い通学区域変更。同16年国民
学校令により「東京府東京市上小岩国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年中小岩国民学校新
設に伴い通学区域変更。都制施行により「東京都上小岩国民学校」と改称。
 同20年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々諾々と
いいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込むこととなった。もう20
0兆円以上持っていかれたよ。戦費も賄わなければならないしよ。大変だ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立上小岩小学校」と改称。同29
年北小岩小学校新設に伴い学区域変更。同45年上小岩第二小学校を分校。同56年全校一人一鉢菊
づくり始まる。創立50周年記念式典。平成6年校庭グリーンサンドに改修。同8年新学校農園開設。
同9年パソコンルーム設置。

    自ら学び 高め合い みんな輝け 上小岩っ子 

 同11年給食室全面改修。同14年創立70周年記念式典。同15年すくすくスクールの土曜版開
始。同16年すくすくスクール開始。給食調理業務民間委託。サタディプロジェクト「けやき塾」開
設。同17年校舎外壁塗装。同18年子ども見守り隊発足。同19年菊小屋完成。同20年校舎冷房
化。7月校内LAN設置。12月学校LAN設置。同21年校庭グリーンサンド補修。同22年屋上
防水・緑化。校舎耐震化。同23年学校応援団発足。

 校歌
「希望輝く」 作詞・田沢武男  作曲・乗松昭博
  1.希望輝く青空に
    富士ヶ嶽(ね)高く澄む処
    みんな仲良く手を組んで
    笑顔明るく学びます
    楽しい学校 上小岩
  2.実り豊かな故郷の
    溢れる幸に包まれて
    みんな朗らに健やかに
    体鍛えて学びます
    伸び行く学校 上小岩
  3.桜花咲く江戸川の
    流れに心磨きつつ
    みんな元気に晴れやかに
    強く正しく学びます
    栄え行く学校 上小岩
 


■江戸川不動尊
 吉祥山地蔵院唐泉寺
 北小岩7丁目10番10号にある真言宗泉湧寺派に属する都内唯一の寺。堂は鉄筋コンクリート造
り2階建てで1階は寺務所。石柱に「封じ護摩の寺」とある。墓地はないようだが、聖地という有縁
の地がある。境内に「気力稲荷」の小祠や七福神石像、仏足石、不動明王石像がある。宗派は不明。
江戸川区寺院一覧には記載のない仏教施設。それでも結構な繁盛振りだ。
 


■北小岩七丁目公園
 北小岩7丁目16番2号にある区立公園。


神明山西光院正真寺
 北小岩7丁目27番5号にある真言宗豊山派の寺開山は慶長六年(1601)暁覚法印。。国府台
合戦の戦場となったこの地に堂を建てたのを起源とする。南葛八十八ヶ所霊場27番札所。入口を入
るとすぐに鉄筋コンクリート造りの本堂、昭和43年の再建。天井の花の絵が16点は綺麗に保存さ
れている。本堂の左は2階建ての庫裏、その裏は墓地。「新編武蔵風土記稿」に、

   正真寺
   新義真言宗下総国国分村金光明寺末神明山ト号ス。
   本尊阿弥陀ヲ安ス。開山暁覚慶長六年寂セリ。


 とあり、「江戸川区の文化財」に、

   真言宗豊山派に属し、神明山西光院と号する。開山は暁覚法印(慶長六年)で、永禄・天
   文の国府台合戦に加わった里見方の武士であったが、後、世の平安を祈願して剃髪して僧
   侶となり、阿弥陀如来の木像を刻んで、その戦場の跡地に堂をたてたのがこの寺の始まり
   だといわれている。現在の本堂は唐破風様式の鉄筋コンクリート建で、昭和43年10月
   の再建である。


 とある。

   正真寺
   正真寺は真言宗豊山派で、神明山西光院と号します。開山は暁覚法印で、慶長六年(16
   01)に入寂しました。現在の本堂は唐破風様式の鉄筋コンクリート造で、昭和43年1
   0月の再建です。寺宝としてはチベット語の経典が多数あります。
   ◇小岩田の庚申塔ばんどう道石造道標
       昭和56年1月登録
       区登録有形文化財・歴史資料
   享保八年(1723)建立の青面金剛の刻像庚申塔で、像の脇に「これより左ばんどうみ
   ち」と刻まれています。坂東道ならば観音霊場の道、つまり岩槻道か浅草道をさしている
   と考えらます。
   ◇真田周作筆子塚
       昭和63年2月登録
       区登録有形文化財・歴史資料
   寺子屋の師匠だった真田周作夫妻のために筆子(生徒)たちが建てた碑。真田周作は天保
   四年(1833)没。墓地は右手奥にあります。

 小岩田の庚申塔ばんどう道石造道標
 昭和58年3月1江戸川区登録有形文化財・歴史資料

 境内にある。享保八年(1723)に建立された青面金剛の刻像庚申供養塔で、像の脇に「これよ
り左はんどうみち」と刻まれている。坂東道ならば、坂東三十三ヶ観音霊場の道、つまり12番札所
慈恩寺を目指す岩槻道か、13番札所浅草寺を目指す浅草道をさしていると考えられる。

 真田周作筆子塚(昭和62年2月25日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 筆子塚とは、江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算術や実務教育を教わった
教え子が、師匠が亡くなった際にその遺徳を偲び、自分たちで費用を出し合って建てた墓や供養塔の
ことだ。正真寺墓地右奥手にあり、建立の経緯は不明ですが、代々「寺子屋師匠真田周作夫妻の墓」
として伝えられている。高さ160cmの石塔で、正面に「天保四癸巳年十二月廿七日、真乘院蓮月
暁水居士、貞全院榮仙妙保大姉、天保十二年辛丑年閏三月初六日」、中台正面に六文銭、台座に「筆
子中」と刻んでいる。

 銅像誕生釈迦仏立像(平成20年3月27日 江戸川区指定有形文化財・彫刻)
 右手先よりの総高21cm5mm、頭頂よりの総高19cm7mm。釈迦牟尼の誕生を祝う灌仏会
の主尊で、右手を挙げ、左手を垂下する「天上天下唯我独尊」の上半身裸形が通例の姿だ。肉付きの
良い体つきと、ふくよかで幅広の面相、腰部の張った表現など平安時代の様式に通じが、細部がやや
単純化され、台座の細く立ち上がった仰蓮弁などから見て、鎌倉・南北朝時代にかかる14世紀の制
作と考えられる。この像の身体つきや衣文の表し方は奈良東大寺の誕生仏(国宝)を手本にした作例
といえる。台座は別鋳で、当初の灌仏盤は失われ、後に新しく作られたものだ。
 灌仏会は、花祭りともいい、4月8日の釈迦の誕生を祝う行事。釈迦誕生の時、竜が天からやって
きて香湯を注いだという逸話に由来する。日本では、草花で飾った花御堂を作り、中に灌仏桶をおい
て甘茶を入れ、中央に誕生仏を安置し、柄杓で甘茶を掛ける。宗派に関係なく、広く仏教寺院で行な
われる行事で、花祭りという別名は、明治時代に浄土宗で採用したものという。

 田島隆純地蔵
 栃木県生まれ。多年フランスに留学研鑚 仏教の秘奥を極め、正真寺の住職で大正大学教授。戦後
文学部長を務めた後、巣鴨プリズンの二代目教誨師になった。

 
「金の像」
 駐車場にある正球体。何の意味があるのか?

 
大師堂
 弘法大師石造坐像が祀られている。


■神社 ✓

 北小岩7丁目28番18号にある小祠。 


七北天祖神社
 北小岩7丁目28番19号にある中社。 


■小岩田三谷の念仏講
(平成8年1月23日 江戸川区登録無形民俗文化財・風俗慣習) 
 北小岩8丁目(旧小岩田村三谷地区)の寄合、この地域に伝承されている念仏講だ。村内にあった
地蔵堂を集会場所としている。現在の講は8軒の講員からなり、少なくとも大正初年から継続してい
る。真言宗豊山派系統の勤行によるものだが、念仏の声調、和讃の南葛節の節回しなどに古い形態を
残している。


■七福神のレリーフ ✔
 北小岩8丁目10番親水さくらかいどうにある。


■北小岩八丁目北児童遊園
 北小岩8丁目13番10号にある区立公園。


■小岩第三中学校

 北小岩8丁目19番1号にある区立校。同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江
戸川区立小岩第三中学校」開校。西小岩小に本校を置く。中小岩小に分教場設置。同23年上小岩小
に分教場設置。同24年現在地に新校舎落成。同27年上一色町850番地に上一色分校設置。同2
8年上一色分校が小岩第四中学校として独立。同32年開校10周年記念式典。同36年東側617
坪校地拡張・6教室改築。校舎増改築、プール完成。同38年体育館完成。同開校20周年記念式典。
同46年鉄筋校舎建築工事始まる。同47年鉄筋コンクリート造り校舎6教室・給食室完成。同48
年鉄筋コンクリート造り校舎8教室・特別教室3教室・管理室完成。同49年鉄筋16教室・特別教
室3教室完成し、鉄筋校舎建築工事完了。同50年学校園完成。同52年開校30周年記念式典。同
57年校庭工事完成。同60年機械警備開始。同61年校庭照明設備完成。同62年音楽室改修工事
完了。同63年管理室冷房機設置。暖房機ガス化。体育館、プール棟施設改築記念式典。開校40周
年記念式典挙行。平成元年給水管改修。校舎窓枠・外装工事・教室蛍光灯増設。同2年校舎内装工事
完了。同3年コンピュータルーム設置。同5年理科室改修。同6年教室床改修。同7年焼成小屋完成。
同8年電気設備改修。同9年開校50周年記念式典。同10年コンピュータ室整備完了。同11年足
洗い場補修。同12年美術室全面改修。同14年校庭改修。同15年LL教室を普通教室へ改修。同
16年プール棟防球ネット新設。同19年エアコン設置。創立60周年記念式典。同20屋上緑化。

 校歌
「武蔵の平野の一角に」 作詞・北見志保子  作曲・平井保喜
  1.武蔵の平野の一角に
    流れも清き江戸川や
    冬空遥かに富士白く
    我等学徒の意気やよし
    剛健の志をいや高く
    理知を磨かん幾星霜
    小岩三中に誉れあれ
  2.春荒涼と花は過ぎ
    秋は時雨に時は行く
    かくて若き日の夢追えば
    国府台近き学舎に
    集いて学ぶ同胞の
    公徳・礼譲・明朗は
    小岩三中の誇りなり
 


■「エコへの創造」 ✔

 北小岩8丁目19番26号上小岩親水緑道の遊歩道にある石造のバラの花のようなオブジェ。

   
エコへの創造


小岩田八幡神社
 北小岩8丁目23番19号にある中社。祭神として誉田別命、相殿に倉稲魂命を祀る。創建は不詳
だが元禄八年(1695)の記録には登場しているので、それ以前に遡ることは確実だ。小岩田村の
鎮守。正真寺持。「新編武蔵風土記稿」の小岩田村の項に、

   八幡社
   村の鎮守にて、正真寺末。

 とあり、「東京都神社名鑑」に

   創立年代不詳といえども、古老の伝説によれば、天正年中(1573~92)の創立にし
   て、旧社号を神明宮と称し、亨和二年(1802)夏雷火にかかり焼失、同年九月本殿・
   拝殿を改築落成。神明・諏訪両大神と称し、現存の本殿は文政十年(1827)六月再建
   になる。


 とあり、「江戸川区史」に、

   天祖神社(北小岩七丁目二八番十九号)
   天正年間の創建といわれ、祭神に天照大御神、相殿に経津主命、倉稲魂命、建御名方命、
   惶根命をまつる。享和二年落雷により焼失し同年九月改築した。文政の頃は神明諏訪両社
   大神と称し、現在の社殿は文政十年に再建された。別当は神明山正真寺で、明治七年四月
   村社に列し、天祖神社と改称した。末社の水神宮は元文五年の創建といわれる。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   八幡神社
   祭神は、誉田別尊、相殿に倉稲魂尊をまつっています。創建は不詳ですが、元禄八年(1
   695)の記録には神社の名が見られます。
   ◇地蔵菩薩庚申塔(万治元年銘) 江戸川区登録有形民俗文化財
   この地蔵は、詩人として知られる北原白秋ゆかりの三谷の地にあって、三谷地蔵として親
   しまれ、現在は境内右奥にある社務所の中に安置されています。銘文から、万冶元年(1
   658)庚申供養のために造立したことが知られます。庚申塔は60日に1度巡ってくる
   庚申の日の夜に、眠っている人の体内から三尸という虫が天帝に罪過を告げ命を縮めるい
   う中国の道教の教えに由来する庚申信仰の信者によって建てられました。
   昭和62年3月                        江戸川区教育委員会


 
北原白秋歌碑
 境内にある。白秋は大正5年7月から1年間、第二の妻江口章子とともに小岩村の乾物商の離れで
生活を始め、その建物を「紫烟草舎」と名付けた。それで昭和36年に町の人が白秋を偲んで碑を建
てた。

   
いつしかに夏のあわれとなりにけり乾草小屋の桃色の月

 白秋は本名隆吉(イメージじゃないな)、明治18年福岡県の醸造屋に生まれ、昭和17年糖尿病
と腎臓病を患い、58歳で亡くなった。
 なお当時の「紫烟草舎」は、市川市国府台の里見公園に移築されている。

 八幡神社所在の地蔵菩薩像庚申塔(万治元年銘)
 境内拝殿脇のお堂にあり、万治元年(1658)の銘を持つ、区内最古の庚申塔。三谷地蔵として
親しまれている石造の地蔵尊だが、銘文に庚申供養のために造立したと刻まれている。
 昭和59年2月28日告示。江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料。

 水神社
 境内にある。


■慈恩寺道の石造道標
 北小岩8丁目23番7号にある。この道標は佐倉道と元佐倉道の合流点にあり、対岸市川から江戸
川を渡って小岩市川関所を通ると、ほぼその道筋の正面に見えたと思われる。房総方面から慈恩寺へ
お詣りする人びとは小岩市川の渡しを渡ってからこの道標を見て北へ曲がって行った。安永四年(1
775)の建立で、銘文は正面に「右せんじゅ岩附志おんじ道」「左り江戸本所ミち」、右側面には
「左りいちかわミち」、左側面にも「右いち川みち」とある。
 「水神碑」の約20m東南の、親水緑道の脇の祠の中にも建っている。また3丁目の角屋旅館の筋
向いの路端のところにもある。

   御番所町の慈恩寺道石造道標           昭和58年3月登録
                              区登録有形文化財・歴史資料
   江戸時代、庶民の間には霊場崇拝の風習が盛んになりました。坂東三十三観音もそのひと
   つで、埼玉県岩槻市の古刹慈恩寺は、十二番札所として関東各地から参詣人を集めていま
   した。このあたりは、むかし御番所町といわてたところで、この先にある江戸川河川敷に
   は、小岩市川の関所がありました。
   この道標は佐倉街道と元佐倉道の合流点にあって、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市
   川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えたと思われます。
   銘文は安永四年に建てられたもので、岩附・江戸・市川の三方向を示しています。
    銘文

    正面   右 せんじゅ岩附志おんじ道道石造
         左り 江戸本所ミち
    右面   左り いち川ミち
         小岩御番所町世話人忠兵衛
    左面   右 いち川ミち
         安永四乙未年八月吉日
    北八丁堀 石工 かつき加右衛門
   平成15年2月                        江戸川区教育委員会


■水神碑・石井善兵衛碑(善兵衛樋跡)

 北小岩8丁目26番15号、小岩の北端の上小岩親水緑道(善兵衛堀跡)の最上流の北側に高々と
聳える石碑だ。善兵衛は上小岩村人。当時この辺りの上小岩村・中小岩村・小岩田村・鎌倉新田(葛
飾)の四ヶ村は水に恵まれず、したがって旱魃に見舞われると、たちまち荒廃の極に陥った。そこで
善兵衛は江戸川から水を引くことを思い立ち、四っつの村の有力者を説いて回り、明治11年四ヶ村
へ水を引く圦樋と用水路を完成させ、これらの村々を旱魃から救ったのだ。府知事は善兵衛の功績を
賞し「善兵衛樋」と命名、また村人はこの碑を建て、その裏面に長文の碑文を刻んで賛辞を惜しまな
かった。碑は排水場の脇に立っている。その苦心惨憺の善兵衛堀も今や埋め立てられて路地や親水公
園となって残るのみだ。水神碑を探してた時、何人かの土地の人に尋ねたが誰も知らなかった。発見
したのは偶然だが、余りに環境に溶け込んでて気がつかないのも無理はない。実はおいらもその前を
通り過ぎていたのだ。水田変じて住宅街となった今、昔の農業用水のことなど無頓着でも仕方ないか
な。石井家は現存する。
 


■上小岩第二小学校

 北小岩8丁目28番11号にある区立校。俗に「かみにしょう」と呼ぶ。昭和45年上小岩小学校
から分校、「東京都江戸川区立上小岩第二小学校」として上小岩小学校内に開校。校舎完成。5月新
校舎に移転。9月校歌制定。

 校歌「川風爽やか」 作詞作曲・加藤友野
  1.川風爽やか 光るよ 窓辺
    明るい笑顔がこぼれます
    さとみの森に 声を響かせ 
    みんなで歌おう 上二小
  2.尽きない流れに 映る青空
    小さな胸は踊ります
    甲和の里に 昔を偲び
    みんなで学ぼう 上二小

  3、緑の堤は 僕らの道だ
    仲よく腕組み歩きます
    広がる空に夢を追いかけ
    みんなで進もう 上二小


 11月2日開校式・落成式。この日を開校記念日とする。同54年創立10周年記念式典。同57
年通学帽制定。同60年校舎改修。平成元年校庭改修。創立20周年記念式典。同7年プール改修。
同10年給食室全面改修。平成12年創立30周年記念式典。同14年家庭科室改修。同17年開校
35周年記念集会。同18年体育館、西側校舎耐震化。同19年音楽室改修。同20年校舎冷房化。
 


■地蔵堂
 北小岩8丁目29番上小岩親水緑道の東北角にある小堂。江戸川土手のすぐ側だ。地蔵の右に慈恩
寺道の石造道標、左に馬頭観音がある。堂は瓦葺きで立派。

 
慈恩寺道の石造道標(昭和57年2月8日 区登録有形文化財・歴史資料)
 地蔵に向かって右にある石造物。正徳三年(1713)に宝林寺が建立したもので、地蔵菩薩像の
供養塔だ。銘文は、正面に「これより右岩付慈恩寺道、岩付まで七里」左側面には「これより左千住
道、千住より弐里半」とある。慈恩寺は、埼玉県岩槻市にある天台宗の古刹で、坂東三十三観音霊場
十二番の札所。平安初期、慈覚大師(円仁)の開基と伝えられ、千手観音菩薩を本尊としている。こ
の道標は、この慈恩寺への道(慈恩寺道)の道標として岩槻街道の辻に建てられた。なお道標に刻む
「法林寺」は宝林寺のことだ。
 道標は馬頭観音・地蔵尊と並べてあり、恐らく移設したんだろうが、繁々と眺めたものの道標と確
認できなかった。「正徳三年七月二四日」だけは読めたから間違いないだろう。区内最古の道標だ。
また3丁目の角屋旅館の筋向いの路端のところにもある。

   慈恩寺道の道標
   江戸川区北小岩8‐29上小岩親水緑道脇の祠
    この地蔵菩薩立像を刻んだ道標は、区内で最も古いものといわれ、霊場参詣者の信仰に
   よって建てられたもので、埼玉県の慈恩寺に行く旅人によって、大事な道しるだあった。
   銘文からみると、正徳三年(1713)に建立されたもので、岩附・千住の二方向と、そ
   こまでの距離が示されている。
      銘 文
   正面 地蔵菩薩立像
   右脇 奉供養西国坂東秩父百箇所
      諸願成就所
   左脇 正徳三癸巳天七月廿四日
      愛宕山法林寺
   右面 是より右岩附慈恩寺道岩附迄七里 これより左千手道新宿迄壱里 千手迄弐里半
   昭和五十三年十一月                      江戸川区教育委員会

 馬頭観音
 中央地蔵の向かって左側にある駒型の石造物。「弘化二乙巳歳」と刻む。 
 

 



【北篠崎】(きたしのざき)1~2丁目                 平成2年8月1日
 笹ヶ崎村。明治22年篠崎村大字笹ヶ崎、昭和7年江戸川区北篠崎町、同41年一部を南小岩2
丁目・東小岩1丁目・上篠崎町1~2丁目に譲り、同時に西篠崎町・鹿骨町の各一部をあわせて北
篠崎町1~2丁目と北篠崎町となった。平成2年2丁目に北篠崎町を吸収して現行の「北篠崎1~
2丁目」となり新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
北篠崎について
 篠崎村の範囲ではない。かつての篠崎村の北側に当たる地区であることによる。都立篠崎公園の
北側の住宅地。「笹が崎」または「笹崎」でなぜまずいんだろう? 何も隣村の名前を名乗る必要
もないし、篠崎がそれほどネームバリューがある地名とも思われない・・・お役人にはこのほうが
便利なのだろうか? 篠崎の由来は【篠崎】を参照。
 


■篠崎緑地

 北篠崎1・2丁目、上篠崎1・2丁目、篠崎町1~3丁目先江戸川河川敷にある区立公園。


■神社・碑 ◇✓

 北篠崎1丁目7番11号にある小社。立派な鳥居と社殿があるのに無名。碑もでっかいよ。


■庚申塔 ◇

 北篠崎1丁目と2丁目の間、堤防の法面の路傍に2基ある。 


大乗山要法寺
 北篠崎2丁目13番17号にある日蓮宗の寺。山門を入ると右側と本堂の奥まで墓地。庫裏は左。
正面本堂は鉄筋コンクリート造り。

 要法寺所在の筆子塚(平成8年1月23日 江戸川区登録無形民俗文化財・風俗慣習)
 
筆子塚とは、江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算術や実務教育を受けた教
え子が、師匠が亡くなった際にその遺徳を偲び、自分たちで費用を出し合って建てた墓や供養塔のこ
とだ。参道脇にあり、天保二年(1831)の日蓮聖人550年遠忌の供養塔台座に、区内旧村8ヶ
村の「惣旦中」とともに「筆子中」がこれを建てたと刻まれている。笹ヶ崎、上篠崎、下篠崎、下小
岩、鹿骨、松本、谷河内、本一色の各村だ。要法寺檀家は笹ヶ崎村だけだったといわれており、さら
に広い範囲から生徒が通ってきていた。塔身には当時の住職25世日詳大徳の名が刻まれている。


■篠崎第五小学校

 北篠崎2丁目15番1号にある区立校。昭和51年篠崎第二小学校と南小岩第二小学校から分校、
「東京都江戸川区立篠崎第五小学校」として開校。校歌制定。

 校歌
みどりの森から 作詞・小林純一  作曲・京嶋信
  1.みどりの森から吹いてくる
    風が明るいこの辺り
    今日も漲る日を浴びて
    根強く茂る篠竹と
    私たちが ここに育つ
    篠崎第五 第五小学校
  2.海原目指して江戸川の
    水が流れて行くように
    何時も行く手に新しい
    時代を築く夢乗セて
    私たちが学び励む
    篠崎第五 第五小学校
  3.文化の歴史をそのままに
    開け栄える町に今
    高く足音響かせて
    オレンジ色の旗の下
    私たちが進み進み
    篠崎第五 第五小学校


 同61年創立10周年記念式典。平成8年創立21周年記念式典。
  


■庚申塔など石仏群 ◇

 北篠崎2丁目20番13号に北篠崎2丁目会館敷地内に7基ある。


■扇子(平成16年4月13日 江戸川区指定無形文化財・工芸技術)
 北篠崎2丁目24番3号の扇子工房まつ井家。折りたたみできる扇子は古代日本で発明され、平安
時代に上方で発達し、室町時代にほぼ現在のような形態が完成した。上方では、古くから分業が進ん
で量産も行なわれていた。これに対し、江戸時代に江戸で発達した扇子は抑制の効いた意匠を特徴と
し、ほぼ一人の職人が全工程を手がける。江戸川区指定無形文化財・工芸技術「扇子」技術保侍者の
松井恒治郎(大正6年生まれ)は、平成4年に逝去した。恒治郎は、浅草駒形の江戸扇子職人井上福
次郎方に住み込みで師事し、昭和26年に独立して、現在地で江戸扇子の正統な技法による製品を製
作していた。
 長男宏(昭和22年生まれ)は、10歳の頃から仕事を手伝い、20歳から父親について修業し、
暫く会社に勤めたが、30歳の時、扇子作りを専業とした。その技術は、全工程に亘って極めて高く
江戸の文化をよく伝えている。豆扇からに中啓にいたるまで、注文に応じて仕上げる。


■北篠崎二丁目児童遊園

 北篠崎2丁目28番2号にある区立公園。

 



【小岩】 東小岩・西小岩・南小岩・北小岩
 明治22年上小岩村・中小岩村・下小岩村・伊予田村・小岩田村の5ヶ村で南葛飾郡小岩村を成
立し、昭和3年小岩町、同7年江戸川区の小岩町1~8丁目となる。現在は部分的に他地区を編入
して東・西・南・北の小岩に分けている。

 小岩の由来
 下総国葛飾郡大島郷甲和里(こうわのさと)が転じて「こいわ」となった(吉田東伍)という。
古代人の石器などが発見されており、古くから人々の生活があったことは否めない。ただ甲和が何
を指すのかは判っていない。村を開発したころ小岩がごろごろしていたのかも。「こいわ」を、イ
ンドネシアで解すると「コイ・ワ」、「川の氾濫で傷を負った場所」だ。地形的には適っている。
何でインドネシアかというと、現在の東南アジアの地形は地盤沈下によって形成され、海没が起き
た時、大量の民族移動で日本にやってきたのが南方系といわれる日本人の先祖集団だ。ムー大陸の
伝説は、この地盤沈下に関係あるのかも知れない。
 だから小岩といえば「石井善兵衛」、いや昭和の名横綱「栃錦清隆」だ。善養寺の「影向の松」
だぁ! 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。
 

 


【小松川】(こまつがわ)1~3丁目               ━旧4丁目の一部未実施
 西小松川村。明治22年逆井村と東・西小松川村の各半部をあわせて「小松川村」、西一之江村
と東・西小松川村の残部をあわせて「松江村」としたが、大正3年荒川放水路の開通により小松川
・船堀・平井の三村は廃村の憂き目となり、残部を集めて「小松川町」を起立した。昭和7年江戸
川区が成立すると小松川町は小松川1~4丁目・平井1~4丁目・逆井1~2丁目に分かれた。同
47年の新住居表示の実施で逆井と平井が合併して平井1~7丁目となり、同63年5月1日小松
川1丁目の大部分に新住居表示を施して前の「小松川1丁目」とし、平成5年9月6日小松川旧1
丁目の残りの一部と2丁目の一部をあわせた町域を現行の「小松川2丁目」平成8年10月7日3
度目の住居表示により、小松川旧1丁目の一部を新しい1丁目に加えて現行の「小松川1丁目」を、
小松川新2丁目に小松川旧1~4丁目の各一部を加えて現行の「小松川2丁目」を確定し、小松川
旧2丁目の全部と3~4丁目の各一部をあわせた町域を現行の「小松川3丁目」とした。
 なお京葉道路から北の旧4丁目部分が、新住居表示を未実施で残っている。将来3丁目に組み込
まれるのか平井に奪われてしまうのか、住民は心穏やかならざらむ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
小松川の由来
 すでに中世には新小岩辺りに小松村があり、江戸川と中川の低湿地帯を流れる川を小松川と呼ん
だ。時代を追うとともに陸地化が南へ進み、やがて小松村の南方で小松川を挟んで東西に村が開け、
東・西小松川村を称えた。そして村境の小松川を境川または小松川境川と呼んだ。現在は、暗渠と
なり親水公園となっているが名称を「小松川境川親水公園」というのはそのためだ。小松村の由来
は判らないが、「小松」は新松・若松のこと。村を拵えた当時防風林として松ノ木を植えたものか


  春またでしめつる野辺の小松川三千年も手のうちにあり(蜀山人)
  秋に添えて行かばや末は小松川(芭蕉)
  長閑さに蝶の群がる小松川(川柳)
 


■小松菜
 鶯菜(ウグイスナ)。一年中出回るが旬が冬なので冬菜とも。先祖は大根と同じ地中海沿岸の蕪の
茎立ち(くくたち)といわれ、鎌倉時代に中国から伝わったものとも、古代に伝わったものの裔だと
もいう。江戸名物「葛西菜」を小松村の椀屋久兵衛が改良して作った。種播きから収穫までの期間が
短く、年に数回収穫できる。ビタミンC、カロチン、特にカルシウムを多く含み野菜の中ではトップ
クラス。江戸の雑煮には欠かせない。小松川一円で広く栽培され、現在も都内の4割を生産している。
知られてないが黄色い可憐な連翹(レンギョウ)のような花を咲かせる。夏場は種を播いてから4週
間で収穫でき、冬場は2ヶ月半くらいだとか。
 小松菜の名は、享保四年(1719)八代将軍徳川吉宗が鷹狩の際、西小松川村(中央4丁目)の
香取神社に休んだ時、神主亀井和泉が差し上げるものとてなく、お餅の澄まし汁の彩りに少々の青菜
をあしらって差し出したところ大いに歓ばれ、菜の名を尋ねられたが返答に窮していると「菜に名が
ないのであれば、ここは小松川、〝小松菜〟と呼ぶがよい」と命じたという伝承が残っている。まあ
菜に箔をつけるために村の知恵者が考え出した作り話だろう。天皇や将軍、名将の権威を利用するの
は日本人の常である。
 昭和30年ごろまでは、秋から冬穫りが中心で、品種は在来のものが用いられてきた。一之江の後
関五吉が「ごせき晩生」を育成し、同40年種苗名称登録をした。薹立ちが遅いので一年を通して栽
培でき、春穫りも安心して作ることができる。同58年には世田谷区大蔵の安藤敦夫が育成した「安
藤早生」が登録された。これは伸びの早い品種で、寒さに弱いが暑さには強く、春から秋にかけて作
るのに適している。若い内に収穫して一夜漬けにすると味が良い。このほか全国各地に様々の種類が
あり、地方独特の呼び名がある。群馬・埼玉の「武州寒菜」福島の「信夫菜」、新潟の「大崎菜・新
潟小松菜」などのほか、他の野菜との掛け合わせ、ちぢみ雪菜とで「グリーンデビュー」、チンゲン
菜とで「友好菜」、白チンゲンとサイシンをかけた「夏水菜」、キャベツをかけた「千宝菜1号」、
タアサイをかけた「みこま菜」などがある。
 現在全国で作られているが、東京都の農作物の中でも単品としてトップであり、凡そ13400t
の収穫量で50億円の生産額がある。区の収穫量は約5500トン、生産額は21億円余で、都内の
市区町村別で一位(平成10年調べ)。原産地の面目躍如。区では原産地として特に力を入れており、
区として「小松菜の日」を設け、その日小学校では給食に小松菜をあしらった料理が出される。面白
いことに専用の自動販売機があったり、焼酎、発泡酒、饅頭、お焼き、たこ焼、アイスクリームがあ
るなど、アッピールに余念はない。饅頭は「花の祭典」「区民まつり」のみの限定販売。他に葛西菜
まんじゅう、葛西菜パンがある。 カキと小松菜を炒めて、市販のつけめん汁で味付け、最後に卵で
綴じると、これが簡単で結構いける一品。小松菜農家の主婦が教えてくれた。


■都立大島小松川公園・小松川南地区

 小松川1丁目1番にある都立公園。芝生の広場・風の広場・展望の広場で構成されている。

 旧小松川閘門
 洪水対策として、荒川と中川の両放水路が昭和5年に完成した。この放水路開鑿により、川を横切
る地点に閘門を設け、水位の調節を図った。大正12年に小名木川閘門と新川水門、昭和5年に小松
川閘門と船堀閘門が完成した。しかし水上交通の発展に押され、衰退していき、閘門や水門も必要な
くなり、すべて廃止になり取り壊された。現在当時の名残を留めるのが小松川閘門だけで、大島・小
松川公園の一部として、地盤沈下で全体の約3分の2程度が土中に埋まっていて昔の面影は少ないが
今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定で、保存
されている。

 荒川ロックゲート
 中川と荒川を結ぶ新閘門だ。旧小松川閘門の南に所在する。平成17年10月1日に完成し、10
月3日に供用が開始された。荒川と旧中川の連絡、荒川と旧中川に挟まれた、墨田区、江東区、江戸
川区にまたがる地域の水上交通の確保を目的としている。震災時には、救援物資輸送路としても利用
される。荒川と旧中川は江東地区の地盤沈下のため水位の差が最大3.1mに達することもあり、長い
間船舶の運航が出来ない状況となっていた。しかし、水上交通が大震災時等に有効であるということ
から改めて水路が見直されることになり、この地に閘門が作られることとなった。このような背景か
ら、荒川ロックゲートは阪神大震災クラスの地震にも耐えるように設計されている。
 利用時間は、日曜・祝日・年末年始を除く日の8時45分から16時30分までで、利用料は無料
だ。船舶の長さ、幅員、高さ、船底高の条件を満たす船舶であれば、原則としていかなる船舶でも通
航可能である。ただし水上オートバイは、荒川および旧中川の通行を禁止されていることから、閘門
も通航することはできない。通過には約20分を要する。

 
「源流」の碑
 閘門の傍にある。

   源流

   源流
   かつてここは、荒川の
   上下流を結ぶ舟運の要
   閘門は過去と現在を
   つなぐ舟の通り道、
   そして未来へと続く
   源流となる。

   

 
波打つ遊具
 南部にある遊具広場の遊具は凝った造りになっている。子供には大受けだろう。

 
アーバー ◇
 自由広場の東の入口の土手の上にある西洋風四阿。丸屋根のデコレーションが凄い。
 


亀井学園小松川めぐみ幼稚園

 小松川1丁目2番11号にある私立幼稚園。宇宙船のような建物がある。


■東大島駅

 小松川1丁目3番にある都営地下鉄新宿線の停車場。新宿線の最初の区間である岩本町~東大島間
が開業した昭和53年12月21日に設けられた。昭和58年12月23日船堀まで延伸し、中間駅
となった。
 ホームは高架相対式2面2線構造で2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、小松川口
と大島口側両方に設置されている。改札口・出口は、西口に当たる大島口と、東口に当たる小松川口
の2ヶ所。大島口は中2階、小松川口は1階にある。大島口には、改札階と地上を結ぶエレベーター
がある。駅は、江東区と江戸川区の境界でもある旧中川を跨いでいる。都区内で、川を跨いでいる駅
は他にも北赤羽駅と新馬場駅があるが、区の境界線まで跨いでいるのはこの駅だけだ。このため関東
の駅百選に選ばれている。新宿線は、この東大島駅と船堀駅の間だけ荒川・中川を越えるために高架
区間となっている訳だよ。
  


■都立大島公園

 小松川1丁目の殆どが都立公園だ。ここは工場跡地で、六価クロムの公害騒動で揉めに揉めたとこ
ろだ。だだっ広い芝生公園で、江東区側にもあり、こっちはスポーツ広場になっている。
  


■「
STONE BOY AND GIAL

 小松川1丁目5番10号セーラ小松川10号棟の内庭オープンスペースにある石の彫刻。平成2年
廣瀬光の作品。長方体の石が向き合ってハグしているが、彫刻は腕の部分だけ。

   STONE BOY AND GIAL
       1990
       廣瀬 光


■「荒川の概要」

 小松川1丁目6番先荒川河川敷にある四角錐に記載された説明。


■小松川一丁目第二児童遊園

 小松川1丁目7番1号にある区立公園。


■小松川千本桜

 小松川1~3丁目に亘る荒川右岸土手に続く区立公園。


■千社額
(平成2年2月27日 江戸川区指定無形文化財・工芸技術)
 小松川2丁目の鈴木家にある。千社額は、神社仏閣に掲げられる奉納額だ。鈴木菊松(大正13年
生まれ)は、15歳の頃から木工の世界に入った。木工職人に年季奉公に入り、昭和33年現在地に
独立している。鋳物の木型、指し物、注文家具などを製作していたが、後に千社額や彫刻看板の木地
の注文に応じるようになった。殆どが注文製作のため、注文主の希望によって仕上げは異なるが、細
部の木組にいたるまで、伝統の確かな技術が発揮されている。


■逆井の渡し跡
(昭和58年3月15日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 小松川2丁目2番1号の見事な枝振りの松の木を配した、逆井橋の橋詰の植栽に説明板がある。か
つては次項3丁目1番、北へ10数mのところ逆井村に渡し場があったが、のちにここ西小松川村、
(逆井橋の架かっているところ)に移した。
 護岸が整備されたので昔日の面影を髣髴とさせるものはないが、元佐倉道が残っているので位置は
推定できる。旧逆井橋の北側。江戸時代の交通の結節点として、極めて重要な意味を持っていた渡し
場で、元佐倉道の性格を考える上にも重要な史跡なのだ。
 この渡しは、江戸時代初期に整備された元佐倉道を繋ぐもので、両国から竪川の北岸に沿って東に
進み、亀戸を経て、この渡しを渡って、八蔵橋・菅原橋・二枚橋・一里塚と進み、小岩市川関所の手
前で佐倉道に合流していた。別に成田道ともいわれる佐倉道は、千住から新宿・小岩を経て、小岩市
川関所を通過するルートだったが、この旧佐倉道は裏ルートに当たる。
 渡し場は船2艘が配備され、旅人を乗せて運行したが、明治12年に亀戸・小松川両村の費用持ち
で木製の逆井橋が架橋されたため廃止された。その逆井橋は、その架橋費用を賄うために通行料が徴
収されていた賃取橋だった。明治31年東京府によって架け替えられ無料となった、この親柱は郷土
資料館に保存されている。現在の逆井橋は昭和43年に鉄橋へと改修された3代目のものに当たる。

   井の渡し跡
   中川をわたる逆井の渡しは、『新編武蔵風土記稿』に「中川、村の西を流る、幅四十間許
   対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡
   しとよべり、船2艘あり、一は亀戸村の持、一は当村持」とあるように、もとは北隣りの
   逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようで
   す。ここに江戸と房総を蒸すぶ街道が開かれたからでした。この街道を元佐倉道といい、
   区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かい
   ました。明治に入って千葉街道と呼ばれるようになりました。
   逆井の渡し付近は風景も良く安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治
   12年渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋答辞は村費による架
   橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋でした。明治27年に橋銭徴収は終わ
   り、明治31年に、東京府によって架けかえられています。昭和43年には、江戸川・江
   東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみ
   じ大橋・さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。       江戸川区


 この渡しの説明板が小松川神社の入口脇にもある。
   


■小松川ゆきやなぎ公園

 小松川2丁目8番11号にある区立公園。


■中之庭地蔵堂

 小松川2丁目12番18号にある中堂。

   中之庭地蔵堂の由来
   堅牢な御堂に奉安された石造の本尊は、延命地蔵菩薩と敬称され、現在でも信仰の香花が
   絶えない、古くから病気平癒やさまざまな悩みに応え、霊験ありと伝えられている。
   本尊の造像の詳しい年代は不明だが、銘文によれば六道の衆生の最後の一人までも救うと
   いう地蔵の誓願と、現実の疫病や災厄を除く庚申供養とが一体となった願意で造立された
   ようだ。
   伝承によれば、天保九年(1838)に当地の太田家の先祖が霊夢を感じて、現在の境川
   親水公園辺りの河底を捜したところ、出現したといわれている。
   当地に祭祀される以前のことは一切分からないが、台座の銘文によれば、太田清右ヱ門・
   太田勝太郎・保土田弥左ヱ門、野間傳兵衛の四名を中心とした村民の講中によって、手厚
   く奉斎された。
   昭和55年までは、百万遍講が信仰し、地蔵菩薩の小像を近在中に渡御して念仏して廻っ
   たといわれる。
   昭和8年には、それまで露仏であった石像を敬して堂を建てて鎮め祀り、同26年には盛
   り土して、現在の姿となった。
   毎月4日、14日、24日を縁日とし、正月、5月、9月の24日に大祭が行われていま
   す。
   平成24年1月吉日           中之庭地蔵講中
                        源法寺 北川洪才   太田喜久子
                        寿光院 大河内秀人  渥美王子
                            東風愉三   松丸和子
                            石井正次   西井久子


■逆井の渡し跡

 小松川3丁目1番の辺りにあり、前項の2丁目2番の逆井橋のところに移った。


■小松川神社

 小松川3丁目1番2号にある。現在の小松川地区は、かつて西小松川村の一部だったが、荒川放水
路(荒川)の開削に伴い、西小松村と分断されたため、大正3年に小松川町が誕生した。この時西小松
川村の氏神だった堂ヶ島は間々井の香取神社や下之庭の天祖神社に参拝することが不便になったので
昭和11年その分霊を、明治7年に廃寺になった西光寺の旧境内にあった稲荷神社と合祀して、現在
地に社殿を建立すると共に、東篠崎の水神社を合祀して、翌12年に創建され遷宮祭を執行した。そ
の後幾度かの変遷はあったが、平成に入り市街地再開発計画事業に伴い、社地を若干移転、平成12
年に社殿を新造し遷座した。
 社殿の背後には江戸時代以来の石造物が集められているが、その中に延享元年(1744)銘の青
面金剛像庚申塔(区文化財)も含まれている。
 さて入口脇には安藤広重の「名所江戸百景」にも描かれた逆井の渡し跡の解説標識がある。
 区の説明板に、

   史跡 小松川神社
   現在の小松川地区は昔は西小松川地区の一部であったが、大正元年の荒川開さくにより西
   小松川と分離し、同3年には新たに小松川町となったため、もとの氏神であった堂ヶ島の
   香取神社と、下之庭の天祖神社に参拝するのが不便となったので、両社の分霊を小松川の
   西光寺境内の稲荷社に奉安して祀っていたが、昭和11年同所である現在地に社殿を建立
   すると共に、東篠崎の水神社を合祀して同12年6月4日に遷宮祭を行った。
   かつて当神社に安置していた獅子頭について伝説があり、昔祭礼に担ぎ出した若衆達が、
   酒代を得ようとこれを質入れした処、質倉の中の獅子頭が夜毎唸り出すので、家人が恐れ
   て、貸金はいらぬから引取ってくれと頼み、再び神社に納められたというが、今はここに
   ない。
   平成19年3月                       江戸川区区教育委員会


 とあり、「境内石碑」に、

   当神社の御祭神は天照皇大神、経津主神を奉祀する。
   氏子地域である現在の小松川1・2・3・4丁目は元西小松川村新町と称した。荒川放水
   路開鑿により西小松川村より分離せられた当地区住民の浄財寄進により、昭和12年6月
   4日西小松川村・下之庭鎮座西小松川天祖神社、堂ヶ島鎮座新小岩香取神社2社の御分神
   を奉載し御遷座したことを小松川神社の創建とする。
   近年周辺地区は東京都による市街地再開発事業が実施せられ、当神社は旧境内地にほぼ重
   なる位置に2004.14㎡の境内地を得て移転することになった。 移転に伴う再建計画
   が具体化する中で、平成8年12月東京都との交渉及び工事の企画推進のため小松川神社
   建設委員会が発足し、先ず平成9年7月神社南側の土地に仮社殿・仮社務所を建設移転し
   工作物等も仮移転した。その後新境内地に盛土工事を施工し、社務所・神輿庫・境内社の
   新築、鳥居・狛犬等工作物の移動が順次完了し、平成12年に至り新本殿も愈々竣工の運
   びとなった。
   氏子及び関係者の寄進による玉垣建設工事も併せて完成し、同年5月26日遷座祭を奉仕
   した。永年に亘る諸事業も、御祭神の御加護と氏子崇敬者の協力により恙なく竣工し、神
   域の尊厳彌益して慶賀に堪えぬところである。茲に本記念碑を設け、氏子一同の敬神の至
   誠を記し氏神の御神徳の光被を永く久しく仰がんとするものである。


 とある。また「江戸川区の文化財」にも、

   現在の小松川地区は西小松川村の一部だったが、大正元年荒川の開削計画によって分離さ
   れるととになったので、新小岩香取神社と西小松川天祖神社(以上西小松川村の鎮守)の
   分霊を西光寺内の稲荷神社に奉安した。その後、昭和12年西光寺跡に神社を建設し、小
   松川神社とした。なお境内には、新町の御嶽神社を合祀したが、この神社は文政六年(1
   823)当時新町に火災や盗難が頻発したので、武州御獄神社の分神二体を奉じて矢沢・
   石井両家が配ったものといわれている。
   元ここにあった稲荷山西光寺は明治7年廃寺になった。


 とある。

 とろけ地蔵
 火事か風化等、何らかの影響で表面がとろけたようになっている。

 青面金剛立像庚申塔(昭和61年2月12日登録 江戸川区有形民俗文化財・民俗資料)
 駒形の刻像庚申塔で、延享元年(1744)九月。西小松川村字新町の庚申講中の人々が庚申供養
のために造立した。施主に八丁堀の和泉三国左門が作成したと刻まれているが、経緯は不明。種子、
日月像、二童子、四夜叉、三猿が刻まれている。高さ102cm。

 逆井の渡し説明板
 正面階段の左手のコンクリート製の壁に貼り付けてある。旧中川の東、逆井橋の東南詰の植栽にも
江戸川区の説明板がある。

   史跡 逆井の渡し
   江戸時代、幕府は江戸防衛上から、近郷の川には容易に橋を架けなかったので、中川を渡
   るには、常に渡船によって越えねばなかなかった。逆井の渡しは、江戸から亀戸村(現亀
   戸七丁目)を経て、下総の佐倉へ通ずる街道の中川に設けられていた渡し場である。
   この渡しについて「新編武蔵風土記稿」に、

    中川、村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり。ここに渡船場あり。元逆井村
    にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり。船二艘あり。一は亀戸村の持、
    一は当村持
   と記されている。またこの付近は風景に勝れ、広重の絵にも描かれて有名であった。
   平成19年3月                        江戸川区教育委員会

 新町御嶽神社
 境内にある石祠。

   新町御嶽神社由緒
   文政四、五年ノ頃御府内新町ニ火災ヲ發シ按ラカナラス組内一同發起シ文政六年未正月武
   州御嶽御分神ニ体ヲ奉戴シ西矢澤氏東石井氏ノ両家ニ祠堂ヲ建立祭祀シ奉■シニ爾後災厄
   起ラス神徳ノ宏大ヲ皆讃迎セリ昭和十二年一月小松川神社建設セラルルニアタリ境内に遷
   座シ永代守護神ト祭祀シ奉ル
   正和十六年六月建之                  一二三四丁目町御嶽會連合會


■小松川三丁目公園 → 小松川さくら公園
 小松川3丁目6番2号にある区立公園。


 
旧江戸川区役所文書庫

 園内にある古建築。旧江戸川区役所の庁舎があった小松川一帯も東京大空襲で焼野ヶ原になった。
その中で焼け残ったのが2階建特殊コンクリートブロックの建物である旧江戸川区役所文書庫だ。今
も保存されているこの文書庫脇に「世代を結ぶ平和像」が建っている。戦火の中、区の重要書類を川
に沈めて守った元助役をはじめ、多くの区民が、戦争の悲惨さを伝えるために文書庫の保存と「平和
像」の建立を求めて立ち上がった。区もこれに応えて、平成元年文書庫の保存を実現、同3年「世代
を結ぶ平和像」が建立された。

   昭和20年3月10日未明の東京大空襲で下町一体は火の海と化し、江戸川区内でも死者
   800名、消失家屋11000戸の被害を蒙りました。
   この辺りも、すべての家屋が消失し、ただこの江戸川区区役所文書庫だけが焼けただれた
   姿で残りました。
   区では、戦火の傷痕を止めるこの文書庫を貴重な歴史的遺産として保存し、戦争の惨禍を
   再び繰り返さぬよう次の世代に語り継ぐことにしました。          江戸川区
 

 世界を結ぶ平和の像

 この像は、「世代を結ぶ平和の像をつくる会」(藤田昇会長)が、平成元年から1年間に亘り行っ
た募金活動に、1万2000人が1200万円の浄財を集めて完成させたものだ。高さ1.1m のブ
ロンズ製の像で、制作したのは、平和をテーマに多くの作品を発表している、文化勲章受賞者の圓鍔
(えんつば)勝三。平成3年3月10日に旧文書庫脇で行われた東京大空襲江戸川区犠牲者追悼式で
披露され、その後旧文書庫周辺の公園整備がすむまで、平井コミュニティ会館の玄関ホールに仮設置
されていた。そして同7年3月10日250人が参列した追悼式で、小中高生11人の手で白いベー
ルが外され、改めて平和への思いを込めた母子像が披露された。

   世代を結ぶ平和の像
         圓鍔勝三作


 裏面の碑文。

   東京大空襲 江戸川区犠牲者追悼 世代を結ぶ平和の像
   昭和20年3月10日の東京大空襲により、下町は炎の海と化し、10万人が亡くなり、
   100万人が家を失いました。
   江戸川区でも、平井・小松川地区がほぼ全滅、800余名の人びとが尊い命を失い、当時
   小松川の地にあった区役所も消失し、その中で文書庫だけが焼け残りました。
   江戸川区は、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継ぐ貴重な歴史的建築物として、文書庫を
   保存することにしました。
   この母子像は、文書庫の保存を記念して、戦争の過ちを再び繰り返さない誓いを込めて、
   東京大空襲で理不尽にも尊い命を落とされた犠牲者を追悼し、平和の尊さを世代を越えて
   語り継ぐために、11000余の方々の浄財をもとに、戦災を体験された文化勲章受章彫
   刻家圓鍔勝三先生に制作を委嘱し、平成3年3月10日に「世代を結ぶ平和の像」をつく
   る会より、江戸川区に寄贈されたものです。
 


■小松川第二小学校
 小松川3丁目6番4号にある区立校。俗に「にこまつ」と呼ぶ。大正15年小松川尋常高等小学校
から分校し、「小松川第二尋常小学校」として開校。昭和7年周辺5郡が東京市に併合され「東京府
東京市小松川第二尋常高等小学校」と名称変更。同16年勅令148号国民学校令により「東京都東
京市小松川第二国民学校」と改称。同年12月日米開戦。同18年都政施行により「東京都小松川第
二国民学校」と改称。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。8月日本は
ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権
を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。廃校。

 [復興]
 同27年6月小松川小学校分校として設置後、7月「東京都江戸川区立小松川第二小学校」として
復興。同32年プール完成。同37年復興10周年記念式典。

 校歌「都の空に」 作詞・平井孝一  作曲・中山長久
  1.都の空に陽は昇り
    学びの空に光あり
    心豊かに健やかに
    千余の友は睦み合う
    ああ二小松の旗仰ぎ
    誓いは固く伸びて行く
  2.豊かな流れ荒川の
    堤の辺(ほとり)我が母校
    学びの業に勤しみて
    高き理想の夢持てり
    ああ二小松の旗仰ぎ
    日本文化高め行く


 同47年復興20周年記念式典。同57年復興30周年記念式典。
 平成4年復興40周年記念式典。同9年新校舎落成。同14年復興50周年記念式典。同24年復
興60周年記念式典。
  


■小松川なかよし緑地

 小松川3丁目7番にある区立公園。
 


■小松川たんぽぽ公園

 小松川3丁目10番2号にある区立公園。

 


【鹿骨】(ししぼね)1~6丁目                  最終平成4年3月2日
 鹿骨村。名前からして相当に古そうだ。区で二番目に古い正応3年(1290)の板碑が出土し
ている。篠崎に飛地がある。明治22年本村は鹿本村大字鹿骨、飛地は篠崎村大字鹿骨、昭和7年
本村は谷河内・下篠崎・西二一之江をあわせて江戸川区鹿骨町となり、飛地は上篠崎町に吸収され
て消滅した。同13年一部を春江町に譲り、同41年一部を南小岩2丁目・北篠崎町に譲り、同4
5年松本町・上篠崎町・西一之江2丁目・一之江1丁目・谷河内町・新堀町の各一部をあわせた町
域を鹿骨1~5丁目とし、一部が住民の反対で「鹿骨町」として残っている。平成3年2月1日鹿
骨1丁目に鹿骨町の一部をあわせて、2・4丁目とともに新住居表示を実施して現行の「鹿骨1~
2・4丁目」とし、平成3年8月1日鹿骨5丁目の一部を現行の「5丁目」、鹿骨町の一部を現行
の「6丁目」とし、平成4年鹿骨3丁目の全部に鹿骨町の一部をあわせた町域を現行の「3丁目」
とした。
 ※一区画だけ住民の希望と合わずほったらかしのまま現在に至っている。

【鹿骨町】(ししぼねちょう)                   未実施 東松本に反対
 松本小学校の北の1ブロック。区は東松本2丁目4番を欠番とし、手薬煉(てぐすね)引いて準
備万端怠りないが、世の中なかなかスムーズに行かないものなのだ。もう何年もそのままだ。

 「鹿骨が何で東松本なんだ?」

 何事によらず物事がとんとん拍子にいってしまうと、人類はぼけて自然消滅してしまう。オリン
ピックの金メダルは取れないからいいのよ。悪徳政治家に汚職官僚、エロ事師に詐欺野郎がいるか
ら、自分が正義の人として生きられるんだよ。

  人の振り見て我が振り直せ 人は醜い振りをする(池田光政)
  石川や川の真砂は尽きるとも余に盗人の種は尽きまじ(石川五右衛門)

 たとえ人類の全てが生涯を善を貫いて生きたとしてもだ、残念ながら人類はいずれ絶滅するんだ
なぁ。これが! 宇宙開発だの、火星移住計画だの、人間は好き勝手なことをいって科学技術の粋
を集めて大騒ぎだが、

  井の中の蛙大海を知らず

 で、観音様の掌で孫悟空が天下取った気分のようなものさ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 鹿骨の由来
 3丁目の西南角、前沼橋際に鹿見塚神社がある。ほんの小さな社だ。常陸鹿島(鹿嶋市)の鹿島
大神(武甕槌命)が大和に向い、この地にやってきたとき大神の杖となっていた神鹿が死に、大神
が懇ろ弔い塚を築いて立ち去った。それから半年ほどして西の空に五彩の雲が棚引き神鹿が天に召
されていった。村人はこの奇瑞に感動して鹿島大神を勧請して4丁目の鹿島神社を創建した、とい
うのが伝承だが。鹿島(茨城県鹿嶋市)には、地名のごとくニホンジカが多かったものと見えて、
鹿が遠く奈良に輸出されていた。それは史実で、春日大社の鹿は鹿島産だ。現在でも鹿島神宮の境
内には相当数の鹿を飼ってるよ。だからカウボーイのように運搬してたのだから途中で鹿が死ぬこ
ともあるだろう。それでなぜ鹿島の鹿が春日大社にいるのかというと、春日大社の祭神は武甕槌神
(たけみかづちのかみ)つまり鹿島大神だ。そして春日明神といえば藤原氏の氏神。和銅三年(7
10)に藤原不比等が勧請したのだ。藤原氏の先祖は藤原鎌足で、その前の名は中臣鎌足、中臣氏
は鹿島神宮の神官の出だ。かつて千葉県に鎌足村があり、鎌足の生誕地だという言伝えがあった。
つまり奈良の春日大社は鹿島神宮の出張所という訳だ。たから鹿島の鹿が奈良に運ばれたのは頷け
る。また後に相神として経津主神(ふつぬしのかみ)つまり香取大神まで勧請している。ではなぜ
鹿島大神はこの地をを通ったのだろう? 奥州道は内陸を通っている。それは『更級日記』にヒン
トがあるようだ。作者は菅原孝標女で上総での任を終えた父と共に帰京の途につくが、そのコース
が船橋の海岸線を通っている。常陸からも海岸コースが近道だったのかも知れない。鹿島神宮も藤
原氏を応援する必要があってどんどん神鹿を送ったのだろう。
 鹿見塚(ししみづか)はそういった鹿を供養した塚だったに違いない。骨というのは鹿見つまり
鹿の肩の骨を焼いて、その皹割れによって占う鹿占・卜占によるのかも知れない。鹿見塚神社は鹿
骨街道(河原道)のバス通りに面して建つ神社だが、塚は頂に生えていた老松が倒れて通行中の車
が下敷きになり運転者が大怪我をするという事故があったため撤去された。「ししみづか」は他に
川越市と吉川市にあり、「しかみづか」が潮来市にある。鹿を送るコースは幾つもあったのだろう。
であれば鹿骨はさほど珍しい地名ではない。
 さて「ししみ」「ししぼね」は、インドネシア語の「チチ・ミ」、「川の水が櫛をかけたように
削った土地」、「チチ・ホネ」=「川の水が櫛をかけたように削る災難に遭った土地」の意だとい
う。地形的には適っているが、江戸川区は室町時代に陸地化したものだから、インドネシア語で解
釈するのはチョと難がある。
 


■新中川左岸緑地

 鹿骨1丁目、西小岩2丁目、春江町2丁目に跨る新中川左岸河川敷にある区立公園。


■板碑(昭和62年2月25日 江戸川区指定有形民俗文化財・民俗資料)
 鹿骨1丁目の高橋家が所蔵している。銘文が磨滅しており、正安年間(1299~1302)の紀
年銘しか読み取れないそうだ。


■鹿骨一丁目公園

 鹿骨1丁目6番4号にある区立公園。


■東京都農業試験場江戸川分場
■東京都農水総合研究センター江戸川庁舎
■東京都中央農業改良普及センター東部分室
 鹿骨1丁目15番22号にある。昭和13年開場。 


■神社 ✓

 鹿骨1丁目21番8号にある小祠。 


■鹿骨一丁目児童遊園

 鹿骨1丁目24番4号にある区立公園。


金霊山円勝院神明寺

 鹿骨1丁目25番23号にある真言宗豊山派の寺。開山は不明。享禄三年(1530)円海律師に
より中興開山。元禄二年(1689)に火災で焼失し、別当を勤めていた鹿骨鹿島神社の地から当地
へ移転した。江戸幕府八代将軍徳川吉宗の鷹狩りの節、小休所になった。本尊は阿弥陀如来。
 入口を入ると、右は併設の鹿骨保育園があり、境内を利用して運動場は左にある。それを過ぎると
本来の境内となり、本堂は1階が鉄筋コンクリートの基礎となって、その上に建つ。1階は遍照殿と
書いてある会館。本堂の左と奥は墓地、右は庫裏だ。

   圓勝院
   真言宗豊山派で、金霊山神明寺と号します。中興開山は享禄六年(1530)円海律師と
   いわれています。本尊は阿弥陀如来をまつっています。元禄二年(1689)火災で焼失
   したために、、旧鹿島神社の南の地からここに移転しました。江戸幕府8代将軍徳川吉宗
   の鷹狩りでは、将軍の小休所になりました。
   ◇板碑 徳治三年戊申四月日銘
     昭和57年4月指定
     江戸川区指定有形文化財・歴史資料
   当寺の墓地から出土したもので、徳治三年(1308)の銘が彫られています。
   ◇板碑 応長元年十二月日銘
     昭和59年4月指定
     江戸川区指定有形文化財・歴史資料 
   当寺の近くの祠に祀られていた、応長元年(1311)の銘を持つ板碑です。現在は当寺
   に納められています。
   平成13年3月                        江戸川区教育委員会

 庚申堂
 境内にある。2基。 

 板碑(昭和59年2月28日 江戸川区指定有形文化財・歴史資料)
 種子は阿弥陀三尊。旧鹿骨1丁目‐251番地に祀られていた。応長元年(1311)の紀年銘が
ある。
 


■鹿骨さくら公園

 鹿骨1丁目45番1号にある区立公園。

 
鹿導(しししるべ)
 園内にあるオブジェ。平成7年設置。作者不明。建てた2本の石柱に鹿の角が・・・ 


■流堀はなのみち

 鹿骨地区を流れる農業用水路(流堀)を下水道整備に合わせて親水緑道として整備した。流堀は、
灌漑用水路として開削された東井堀と江戸川用水を結ぶ水路だったが、市街化が進む中で家庭からの
雑排水が流れ込む排水路となり、最近では水路に蓋をかけて、歩行者通路として地域の人々に利用さ
れていた。整備に当たっては、鹿骨の花卉園芸、田園風景の小川をイメージし、タンポポやタマスダ
レそしてハナショウブなどを植栽した。渓流の流れや木杭等で小川を演出し、四季折々の草花を楽し
める「花のさんぽみち」として整備した。


■「やすらぎ」 ◇

 鹿骨1丁目63番13号にある親子鹿の彫刻。谷口淳一制作。


■鹿骨南の念仏講
(平成6年2月22日 江戸川区無形民俗文化財・風俗習慣)

 鹿骨1丁目の十二日講。旧鹿骨村南部地区の旧家12軒で構成する念仏講で、少なくとも万延二年
(1861=文久元年)から続いている。毎月12日が月次念仏で、夜に当番の家に集まり、念仏や
ご詠歌を上げる。また毎年1月28日は初不動であることから、円勝院を筆頭に、講員の家々を廻っ
て百万遍を行う。講員の代がわりも自然に行われて、途絶えることなく伝承されてきた。講員の間で
持ち回る大数珠と伏鉦を収めた箱に、「萬延貮年辛酉正月南庭講中作りたるも破損甚しく此度岸野金
四郎氏発願して新調したるもの也」とあり、旧鹿骨村南部地区(南庭)に江戸時代末期に存在してい
たと考えられる。なお12日が興教大師(覚鑁)の命日であることから、当初から円勝院に縁の深い
講中と思われるが、講自体には住職は参加せず、飽く迄在家の講として続けられている。
 


■鹿骨中学校

 鹿骨2丁目12番1号にある区立校。昭和53年鹿本中学校から分校。2年生223名移籍。1年
生268名入学。計491名でスタート。8月プール完成。11月2日校歌校旗制定。この日を開校
記念日とする。

 校歌
「都の東」 作詞・奥村敏雄  作曲・石野和子
  1.都の東 江戸川の
    広野に建てる我が母校
    高き理想と清純の
    心磨きて爽やかに
    此処に集える同胞
(はらから)
    ああ我ら鹿骨中学校

  2.
神鹿の里 うまし野の
    沃野に建てる我が母校
    強き腕と青春の
    体鍛えて健やかに
    此処に集える同胞は
    ああ我ら鹿骨中学校

  3.百花競える鹿骨の
    緑野に建てるわが母校
    篤き友情 信愛の
    友と交わり和やかに
    此処に集える同胞は
    ああ我ら鹿骨中学校


 同54年校地拡張。同57年第2期工事(3階建,6教室分増築)竣工。第2音楽室改築竣工。同
59年第二グラウンド設置。同61年第三グラウンド設置。同63年校地拡張。正門・校庭改修。創
立10周年記念式典。
 平成3年コンピュータルーム改築。同6年西門、通用門、北門、改修工事竣工。同10創立20周
年記念式典。同11年屋上防水。同12年理科室改修。同13年家庭科室,調理室改修。同19年校
舎エアコン設置。同20年創立30周年記念式典。同22年プール改修。


■鹿骨二丁目第二児童遊園

 鹿骨2丁目15番2号にある区立公園。


■谷河内の題目講
(平成元年2月28日 江戸川区無形民俗文化財・風俗習慣)

 鹿骨2丁目31番11号の十三日講(旧谷河内地区)。かつては旧谷河内村のほぼ全戸によって構
成されていた。天明5年(1785)に同村の妙泉寺(日蓮宗、西瑞江1丁目17番1号)、13世
日豆から授与された本尊(十界曼荼羅)を伝えている。毎月13日の夜に行われます。以前は月交替
の当番の家を廻っていたが、講員が高齢となり、人数も減ってきたため、昭和60年からは講員の旦
那寺である妙泉寺へ集まるようになった。ホンガンサンが、本堂内陣に掲げた本尊の前に座り、灯明
と線香を上げる。講員も本尊の前に集まって座り、ホンガンサンの発声で始まる。読経し、題目を唱
え、ホンガンサンの「ご苦労さまでした」の声に、全員で「ありがとうございました」と答えて終わ
る。このあと全員で焼香し、車座になって、茶菓をいただきながら歓談します。当番の家を廻ってい
た時には、軽い食事を用意したそうだ。


■鹿骨二丁目公園

 鹿骨2丁目32番2号にある区立公園


■小岩消防署

 鹿骨2丁目42番11号にある。
 


■鹿見塚神社
 鹿骨3丁目1番19号にある小社。「ししみづか」と読む。昭和44念頃は塚山があった。鳥居横
に区教育委員会の建てた説明板と「鹿骨発祥の地」の碑がある。

   鹿骨発祥の地
   鹿見塚
   昭和四十二年八月 氏子中

 区の説明板は以下の通り。


   鹿見塚神社
   この鹿見塚のある神社は昔から鹿骨発祥の地といわれている。伝説によるとこの地は昔、
   戦国時代の頃、 興亡のはげしい世の中を離れ, 安住の地を求めて石井長勝・牧野一族・田
   島一族・中代一族および別系の石井一族が開拓し住みついた所といわれる。ある日のこと
   日頃尊崇している鹿島大神が、常陸の国から大和の奈良に向かう途中,大神の杖となって
   いた神鹿が急病で倒れたので、塚を築きねんごろに葬った所だと伝えられている。
   昭和42年8月氏子中によって碑が建てられた。台座はコンクリート3段組で、高さ98
   cm、碑石は高さ81cm、幅52cm、厚さが13cmあり表面に「鹿骨発祥の地 鹿
   見塚」と刻まれている。鹿見塚神社は昭和48年に再建築されたものである。
   昭和52年11月                       江戸川区教育委員会


 「鹿骨」はこの辺りの地名で「ししぼね」と読む。説明板に書かれた文章は誤解を招きかねない書
き方になっている。奈良時代、藤原氏によって奈良の春日大社が創建されるに際して、常陸の鹿島神
宮から分霊されたが、その際に多くの神鹿を引き連れて、凡そ1年かけて奈良まで行ったと言い伝え
られており、その途中鹿が死んだためこの地に葬った、これが「鹿骨」の地名の由来だ。
 戦国時代になって、石井長勝や牧野一族などがこの地の開拓に入って住みつき、発展の基礎を築い
たとされる。この二つの事柄を一緒に書いたために話が混乱している。
 


■鹿骨東小学校

 鹿骨3丁目7番1号にある区立校。昭和50年9月1日鹿骨小学校と篠崎第二小学校から分校して
722名の児童を迎えてスタート、「東京都江戸川区立鹿骨東小学校」として開校。同51年校歌制
定。

 校歌
「大東京で真っ先に」 作詞・小林純一  作曲・京嶋信
 出だしの「大東京で真っ先に」は篠崎第三小学校と同じ。作詞も小林だ。
  1.大東京で真っ先に
    朝の光が届くところ
    ここ江戸川にまた今日も
    漲る光 浴びながら
    楠のように逞しく
    私たちが延び育つ
    鹿骨東 おお鹿骨東小学校
  2.大空高く飛ぶ雲よ
    海を目指して走る水よ
    その行く果てを思う時
    広がる夢も限りなく
    日本の未来 担うこと
    誓い合い 励み合う
    鹿骨東 おお鹿骨東小学校


 同60年創立10周年記念式典。平成7年創立20周年記念式典。同17年創立30周年記念式典。

 学校紹介
 「大東京で真っ先に朝の光が届くところ」と校歌に謳ったように、本校は、東京都江戸川区の東に
あり、由緒ある「鹿骨」の地名の由来になった「鹿見塚」と隣接している。校地に沿うように鹿骨親
水緑道が流れ、小松菜や花卉を育てる生産緑地が広がっていた。朝顔市、ほおづき市への出荷、暮れ
には、七五三縄作りが有名だ。四季折々の情緒が残っている町、由緒と歴史がある町であり、地域の
人々の郷土愛は強く、その中の鹿骨東小学校への期待は、極めて大きい。また学校に対しての地域の
協力と支援の気風は、今日も脈々と受け継がれている。このような背景の下、地域との交流は特色あ
る教育活動の一つになっている。
 


■鹿骨町児童遊園

 鹿骨3丁目19番11号にある区立公園


■オブジェ ◇

 鹿骨3丁目20番11号先興農親水緑道にある。錘をぶら下げてある。


■板碑(昭和57年2月8日 江戸川区指定有形文化財・歴史資料)

 鹿骨4丁目の石井家にある。種子は釈迦如来。永仁三年(1259)12月の紀年銘がある。


本命山密蔵院

 鹿骨4丁目2番3号にある真言宗豊山派の寺。創建は江戸時代中期。本来独立した寺だったが、明
治期に小岩善養寺の境外仏堂となった。住職がいない気軽さからか、地元のお年寄りが孫をおんぶし
て集い、青年団の寄り合い所として機能しつつ、地域の寺として地元の人々によって、昭和まで維持
されてきた。平成2年に現行の法律に従った宗教法人となった。入口の正面が鉄筋コンクリート造り
の本堂だ。左庫裏、右と奥は墓地。参道の右に「もっとい不動」が、また外の道路際に閻魔大王が、
露出で安置されている。

 もっとい不動
 宝暦二年(1753)9月完成。不動明王の右腕には元結(もとゆい→もっとい)と呼ばれる髷を
縛る細い紐がかけられている。鹿骨は、昔からお正月のお飾り作りが盛んで、藁を縒って起こる腱鞘
炎(硬手 こうで)も一つの職業病だった。人々は腱鞘炎になるとお不動さまの手にかかっている元
結を一本いただいて、手首に縛りつけて、症状が回復すると、元結を一束奉納する信仰が今に続いて
いる。現在でも、喉や首が痛ければネックレス代わりに首に巻き、腰が痛ければ数本つないで腰に巻
くなど、元結を貰いに来る人がいる。この元結が変化して「もっとい」となった。
 元結(もとゆい→もっとい、もとどり→もんどり) 
 日本髪を結うとき髪の根もとを束ねるのに使う紐。昔公家や武家の間では松書けや鶴亀など美しい
色絵の紐の飾り元結もあったが、庶民はこより、わらなども用いた。こより(水引・こよりを糊でか
ためたもの)が大勢を占めるようになったのは寛文年間(1661~73)といわれる。
 「もんどり打って高転びに転ぶ」という時の「もんどり」は「元取り」で、元結のこと。髷の根元
を打つほどにスッテンコロリンと転ぶ様をいった。

 閻魔大王像
 門前、バス停側にある。バスを降りたら閻魔大王に睨まれてる。反省するしかないわな。

   えんま大王縁起
   このえんま大王、人類史上初の死者なり、よってあの世の大王となる。他に9人の大王を
   従え、死者を裁く権限を有する。
   私たちは死んでのち35日、この王の前に立ち、生前についた数々の嘘を調べられる。
   この場においても凝りもせず虚言すれば、ただちに舌を根こそぎ抜かれる。なぜ嘘が見抜
   けるかといえば、この王、死者の生前の善行悪行がもれなく記載されている「えんま帳」
   を持つが故である。
   嘘をついて屁とも思わず、否それをも正当化しようとする昨今の風潮にいたく立腹し、こ
   の度憤怒の姿をこの地に現した。
     心からの反省の念をもって水をかけ、願うべし。
     「どうか私のついた嘘を水にながしてください」と。       もっとい不動
 


■鹿骨四丁目公園

 鹿骨4丁目8番19号にある区立公園。


■五社明神社 →
鹿骨鹿島神社

 鹿骨4丁目9番17号にある中社。創建年代は不詳、五社神明社と称し鹿骨村の鎮守であったとい
い、明治維新までは五社神明社とか五社神社と呼ばれていた。これは、草分けとなった石井長勝、田
島、中代、牧野、別系の石井姓の5氏が本村に住み着いた時に、それぞれが奉祀していた氏神を合祀
したところからそう名付けたという。社殿は寛文六年(1666)に改築、円勝院が別当を務めてい
た。明治5年11月14日社格を村社に列せられた。
 また村の口碑によると、常陸国鹿島郡の鹿島大神が大和国奈良の春日へお移りになった途次にこの
地を通られた時、大神の杖となっていた神鹿が病気でたおれられたので、里人はこれを奇縁として、
武甕槌命、天照大御神ほか三神を勧請して一社を建て鹿島神社と名付けたともいわれている。社殿は
寛文六年(1666)に改築され、円勝院が別当をつとめていたが、明治5年明治政府により村社に
列せられた。

鹿島神社 御縁起

   鹿島神社 御縁起
   鹿嶋大神創建ハ年限不詳ト雖モ既往常陸国鹿島郡鹿島大神大和国奈良ノ春日(奉遷)ノ頃
   神鹿大神ノ使トシテ同国ヨリ奈良エ通行ノ途神鹿病ミテ当地ニ斃ル依リテ里民塚ヲ造リテ
   之ヲ埋ム乃テ構シテ鹿見塚ト云フ。而シテ能ク人々此ノ塚ヲ大神ノ如ク崇奉リ又大神ヲ里
   民ノ心ヲ感容ニテ能ク流行病ヤ災害ヲ除ク願ヲ救護エルナラン則其ニ塚今ニ村位巽之方ニ
   存セリ。夫ヨリシテ大神と神鹿嘆モ漸クニ忘レタリ又村名モ鹿骨トハナリヌ依之里民大神
   ヲ奉ル事益々親ノ如ク大神里民を守護スル事愈モ子ノ如ク永ニ大神神意ヲ当地ニ止メタル
   ヲ夫ヨリ里民寄集シ。右神ノ社殿ヲ今ノ所ニ作リテ意ヲ奉リテヨリ鹿嶋大神当地ノ鎮守ト
   ハナリヌ。然レバ年限不詳ナラズト雖モ右ニテ考ル蓋ト大神奈良ヲ渡ラセ給フ時ヨリナル
   ベシ。扨夫ヨリ数年ヲ経ルニ付里人神殿ノ再築数度ヨリタル歉スデニ之迄ニ存シタル社寛
   文六丙午十一月二十八日ノ事ニシテ又再建ハ明治十四年十二月十五日也。其ノ星霜ヲ経ル
   貮百十六年ニ至ル。

 
「新編武蔵風土記稿」に、

   五社明神社
   村の鎮守とす。円勝院持。祭神詳ならず。
   末社。山王、水神、稲荷


 とある。参道の区の説明板は以下の通り。

   鹿島神社
   鹿骨村の鎮守で、明治維新までは五社神明社とか五社神社とよばれていた。これは本村の
   草分けとなった石井長勝、田島、中代、牧野、別系の石井姓の5氏が本村に住み着いた時
   にそれぞれが奉祀していた氏神を合祀したところからそう名付けたという。また村の口碑
   によると、常陸国鹿島郡の鹿島大神が大和国奈良の春日へお移りになった途次にこの地を
   通られた時、大神の杖となっていた神鹿が病気でたおれられたので、里人はこれを奇縁と
   して、武甕槌命、天照大御神ほか三神を勧請して一社を建て鹿島神社と名付けたともいわ
   れている。
   社殿は寛文六年(1666)に改築され、円勝院が別当をつとめていたが、明治5年11
   月14日社格を村社に列せられた。               江戸川区教育委員会

 現在のものは以下の通り。

   史跡 鹿島神社
   明治維新まではまでは五社明神社あるいは五社神社といわれて、旧鹿骨村の鎮守であった。
   社殿は寛文六年(1666)に改築せられて円勝院が別当をつとめた。明治5年11月に
   社格を村中に列せられた古社である。
   これは本村の草分けとなった石井長勝、田島、中代、牧野、別系の石井姓の5氏が入植し
   とき、それぞれの氏神を合祀して建てたものと伝えられている。また村の口碑によると、
   昔常陸の国鹿島郡の鹿島大神が、大和国奈良の春日へお移りになる途中、大神のお供をし
   ていた神鹿が急病でたおれたので、村人たちがていねいに葬って祀ったのが鹿見塚で、村
   人たちはこれを奇縁として、武甕槌神の分神と天照大御神ほか3神を勧請して一社を建立
   し、鹿島神社と名付けたともいわれている。
   平成19年3月                        江戸川区教育委員会

 神鹿像
 境内にある。鹿2匹の銅像。

   
神鹿

   
神鹿について
   鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神様のところへ、天照大御神様のご命令を伝えに来られ
   たのが天迦久神という方で 鹿の神雷とされているところから、鹿島神宮の使いは鹿とい
   うことになっています。神護景雲元年(西暦767年)に、藤原氏は氏神である鹿島の大
   神の御分霊を奈良にお迎えして春日神社を創建しましたが、そのとき、御分霊を神鹿の背
   に乗せ、多くの鹿を連れて一年がかりで奈良まで行きました。
   その鹿の足跡が、東京都江戸川区の鹿骨をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続い
   て残っています。
   また、鹿島も古くは香島と書いていましたが、養老七年(七二三)ごろから鹿島と書くよ
   うになったのは、この鹿との縁によるものでしょう。神鹿は長い間大切に保護されてきて
   おりますが、幾度か新たに導入され、現在の鹿神はかつて鹿島から移った奈良の神鹿の系
   統を受けています。

 摂社・末社
 境内にある。

    摂社(三社称)日枝神社 昭和63年2月造営
           須賀神社 昭和63年2月造営
           胡録神社 昭和63年2月造営
    末社     稲荷社  昭和44年2月造営
           水神社  昭和初期 不詳

           宝蔵庫  平成13年10月完成
           大鳥居(神明鳥居) 明治26年1月建立
           御神燈 二基 明治9年2月奉納
           狛犬壱対 明治29年2月奉納
           御手洗鉢(浄心)文政6末年奉納
           さし石 最大170Kg 江戸時代~昭和初期
    平成14年5月吉日之記

 その他、日露戦役之碑(戦没者3柱 明治39年建立))、忠霊塔(戦没者47柱 昭和48年建
立)、鹿島神社改築記念碑(大正6年建立)、句碑(明治9年)がある。

 土地改良完成記念碑
 昭和43年12月建立。

   鹿骨土地改良完成記念
   20有余年の歳月を経て完了された鹿骨土地改良区の地域は、大東京の東端に位置し、野
   菜と園芸の生産地として、明治、大正、昭和の今日まで、都民の日常生活に必要な野菜の
   宝庫として知られ、又日本一の園芸の生産地でもあった。四季それぞれの花が供給され、
   この花により人心は安らぎ、すべての人類に喜びと感謝の意をあたえていた。然るにこの
   偉大な産業の地にも太平洋戦争による敗戦と云う事実が、この平和な地に異変をもたらし
   た。国破れて山河あり と云う如く、ある者は家を焼かれ、土地は荒廃されて見る影もな
   く、地域住民の苦しみは並々ならぬものであった。吾等住民は此の惨状を挽回する為には
   大きな苦痛や困難を乗り切らねばならなかった。何と云っても、地域復興の為にこの荒廃
   された土地と戦うことだ。この時地元有志は敢然として立上がり、土地の自力開発に決起
   する事に賛成された。そして昭和34年12月26日、鹿骨町外5ヶ町よりなる土地改良
   区を設立した。鹿骨町、松本町、谷河内町、新堀町、上篠崎町及び西一之江町の一部で総
   面積12934ha、此の広大な地域が一致団結、発起人並に組合員334名の者が文字
   通り、日夜をわかたず改良事業に献身された。理事会は組合の最高機関として、各委員会
   に諮問し、完全なる土地改良の実現に努力され、工事委員会は各道水路を整備し、明るく
   住みよい町造り完成のために努力した。換地委員会は組合員の土地に対して、その面積に
   対し公平なる換地の実現を目的とし、評価委員会は全ての物件の評価に対して、不平のな
   い事を目的として行われた。尚登記事務等も組合職員の努力により昭和46年12月27
   日ついに完成された。此の土地改良区も幾多の困難を克服して、狭曲な農道や灌漑用排水
   路も全く旧態を一新し、時代の要請に対応される鹿骨区民館、鹿骨中学校、東京都随一を
   誇る化学消防署等三大公共施設の用地もきまり、工事は各施設共建設の第一歩を踏み出し
   ているのである。
   省みて、此の土地改良事業は如何に困難であり、実に偉大なる事業である事を痛感すると
   共に、此の事業完成に御協力下された都の職員、区の職員の良き御指導並に組合役員及び
   組合員の一致協力の賜と思い、ここにその感謝と喜びを後世に残す事を目的として、この
   碑を建立する次第である。
   昭和52年11月吉日                  清算法人 鹿骨土地改良区
                               清算人代表 川手与八
                               会計清算人 中代伊治
                               清算人     岩楯泰ニ
                                       森武義
                                       高橋成子
                                      中代喜四郎
                                      中代源之助
                                      村山幸四郎

 マタギ建て行事(平成8年1月23日 江戸川区登録無形民俗文化財・風俗慣習)
 毎年の例祭日の前日、社殿前に「また木」といわれる鳥居のような木組みを建て、氏子代表が整列
してこれを潜り、身を清めて参殿する。元は拝殿と本殿の間に建てた低いものだったという。その後
脚を継ぎ足して、拝殿の軒の高さに揃えた。


 はんの木会碑
 詳細不明。
       


■緑道名を刻んだ石 ◇

 鹿骨4丁目12番6号(セブンイレブン)先、鹿本親水緑道にある。


■石像 ✓

 鹿骨4丁目12番9号先、鹿本親水緑道にある石造物。詳細不明。


■6つの顔像
 鹿骨4丁目13番9号先、鹿本親水公園の植栽にある石像。浜田彰三の作品。


■鹿骨北公園

 鹿骨4丁目14番5号にある区立公園。


妙高山本城寺
 鹿骨4丁目20番1号にある日蓮宗の寺。享禄十九年頃の創建と伝えられている。入口を入ると正
面は墓地、参道は左折し本堂に向かう。左は鐘楼で、さらに左は庫裏。また墓地は入口前の道路向い
にもある。

 鹿骨の庚申塔河原道石造道標(昭和58年3月15日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 文化十一年(1814)に建立された庚申塔で、正面には青面金剛像と三猿の下に「西、江戸道、
講中」、左側面に「南、かわら道」、右側面には「北、浅間道」と刻まれている。高さ199cm。
もとは鹿骨3丁目田島家南東隅の旧河原道に面して建てられていた。近年、本城寺墓地入口隅に移設
され、庚申塔として祀られている。

 三十番神
 境内にある。
 


■鹿骨東の念仏講(平成6年2月22日 江戸川区登録無形文化財・風俗習慣)
 鹿骨4丁目20番16号岸野宅にある寄合。旧鹿骨村東部の旧家23軒程度で構成されていた念仏
講で、少なくとも文化元年(1804)から続いている。現在の講員は16軒。毎月21日が月次で
昼過ぎに当番の家(ヤド)に集まり「念仏」を上げる。また毎年1月28日は初不動であることから
春祈祷と称してやはり当番にあたった講員の家で百万遍を行なう。講員の間で持ち回る伏鉦に「施主
猪骨村光明真言講中 文化元甲子年十一月日 小幡作」とあり、旧鹿骨村東部地区(東庭)では江戸
時代末期には講が存在していた。


■鹿骨五丁目グリーン広場

 鹿骨5丁目5番5号にある区立公園。


■西之庭の念仏講
(平成元年2月28日 江戸川区登録無形民俗文化財・風俗慣習)
 鹿骨5丁目9番8号、旧鹿骨村の西之庭地区で行われている念仏講だ。文政十年(1827)三月
の箱書きのある不動明王画像の軸を伝えており、現在も古い形態をよく残している。現在毎月1回、
月交替の当番の家に集まる。その日は一定しておらず、当番が決めている。午後3時頃に当番の家に
集まり、不動明王の掛軸を掲げ、ホウガンサンと呼ばれるリーダーを中心に30分ほど読経し、御詠
歌を歌う。その後、会食しながら歓談する親睦会となる。


■西中稲荷神社

 鹿骨5丁目11番1号にある小社。 


■鹿骨花公園

 鹿骨5丁目12番7号にある区立公園。


■須賀神社

 鹿骨5丁目14番5号にある小祠。  


■神社

 鹿骨5丁目20番10号の民家の端にある小祠。石の立派な鳥居がある。
 


■「生命‐いのち‐」 ◇
 鹿骨5丁目24番3号田中文具店前、鹿本親水緑道にある彫刻。区立第五中学校生徒の作品。平成
2年制作。球体の中に嬰児。台座に題名と生徒たちの名前が刻んである。


■石像のある石のベンチ ◇
 鹿骨5丁目24番8号先、鹿本親水緑道にある石造物。題名は特にない。浜田彰三の作品


■「鶏と子供」「花の親子」「ひえろの相撲取り」「石像のあるベンチ」 ✓
 鹿骨5丁目25番9号先、鹿本親水緑道にある石造物。浜田彰三の作品。


■鹿骨五丁目児童遊園

 鹿骨5丁目34番16号にある区立公園。


■石人(まわすら) ◇

 鹿骨5丁目40番5号先、鹿本親水緑道にある石像。浜田彰三の作品。


■鹿骨小学校

 鹿骨6丁目3番5号にある。昭和35年11月1日鹿本小学校分校設立。1~3学年各1学級児童
数128名が移転して授業開始。同36年給食室新設。給食開始。同39年3月第一期鉄筋コンクリ
ート造り校舎3階建9教室と給食室新築落成。
 4月独立して「東京都江戸川区立鹿骨小学校」として開校。児童数394名12学級でスタート。
分校開設の11月1日を開校記念日と定め、校歌制定。

 校歌
「光豊かな」 作詞・田野信義  作曲・鈴木正義
  1.光豊かな学び舎に
    新中川を渡る風
    今日も希望を乗せ来る
    吾等進もう 溌剌と
    嗚呼楽しい鹿骨小学校
  2.歴史ゆかしい花の街
    四季とりどりに咲き誇る
    花の姿の清らかさ
    吾等伸びよう健やかに
    嗚呼楽しい鹿骨小学校

 同41年第二期鉄筋コンクリート造り校舎(4普通教室、音楽室、図書室)落成。同42年第三期
鉄筋コンクリート造り校舎(5普通教室、主事室、事務室、警備員室)落成。プール完成。校歌3番
補作。

  3.柳桜の包む庭
    紫紺の校旗を仰ぎ見て
    明るく強く睦まじく
    明日を目指して勉めよう
    嗚呼楽しい鹿骨小学校


 同43年体育館完成。同44年第四期鉄筋コンクリート造り校舎(2普通教室、音楽室、図工室、
理科室、校長室、職員室)落成。同45年第五期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同47年松本小学
校新設に伴い児童253名移転。同48年開校10周年記念式典。同50年鹿骨東小学校新設に伴い
児童541名移転。同56年藤棚設置。同58年開校20周年記念式典・郷土資料室完成。同62年
校舎外壁全面塗装、窓枠アルミサッシ化完了。同63年開校25周年記念PTA大運動会。平成2年
万年塀撤去、生垣化工事完成、南門、北門、玄関前改修、水鳥小屋新築。同6年開校30周年記念式
典。同10年パソコンルーム完成。同15年校内無線LAN配備。同16年創立40周年記念式典。
同17年給食室改築・屋上緑化。同20年エアコン設置。同21年校舎耐震化。開校45周年を祝う
集会。同23年全校舎デジタル化。
 


■鹿骨新橋

 鹿骨6丁目6・7番と松本2丁目7・8番を結ぶ新中川に架かる一等橋。区内の東西を通る東京都
都市計画道路補助第288号線の橋梁で、江戸川区新中川橋梁整備の第4弾として、平成7年12月
に道路の築造と共に新設架橋された。橋長119m30cmの3径間連続非合成箱桁橋。幅員18m
(車道9m+歩道4m50cm×2)。平成4~7年竣工。

 「未来まかせといて」 ◇
 北側歩道の東バルコニーにある大空に向かってハンカチを振る少年像。谷口淳一の作品。

 「平和まかせとして」 ◇
 北側歩道の西バルコニーにある胸にクロスさせて微笑んでいる少女像。谷口淳一の作品。

 「愛まかせといて」 ◇
 南側歩道の東バルコニーにある子犬を抱いて座っている少女像。谷口淳一の作品。

 「勇気まかぜといて」 ◇
 南側歩道の西バルコニーにあるボールに右足を乗せてルーティーンする少年。谷口淳一の作品。


■松本小学校

 鹿骨6丁目9番1号にある。昭和47年9月「東京都江戸川区立松本小学校」として開校。児童数
590名(1年~5年)17学級でスタート。11月5日を開校記念日とする。プール完成。同48
年開校式・校歌制定。

 校歌
「明るく広い」 作詞・小林ふみ子  作曲・小出浩平
  1.明るく広い空の果て
    富士が子供を呼んでいる
    大きい夢を持つように
    仲よく勉強するように
    松本の子を呼んでいる
  2.新中川の岸近く
    風も楽しく吹いてくる
    みんなで何時も助け合い
    やり抜く力 育てよと
    松本の子に吹いて来る
  3.学びの園に育まれ
    明日は世界に飛び立とう
    自立の気風受け継いで
    燃え立つ英気 溌剌と
    松本の子は飛び立とう


 同57年創立10周年記念式典。同60周年機械警備開始。同63年「学校の森」(アスレチック
・遊歩道)完成。平成4年開校20周年記念式典。同5年梨の歌碑除幕。給食室・理科室改修。同9
年パソコンルーム設置。同13年インターネット接続。同14年創立30周年記念式典。同16年す
くすくスクール、学童クラブ開設。平成20年校舎冷房化。同21年松小応援団創設。
 

 


【篠崎町】(しのざきちょう)1~8丁目              1~2丁目のみ未実施
 上篠崎村・下篠崎村。明治22年篠崎村大字上篠崎・下篠崎・鹿本村大字下篠崎(のち鹿骨町)、
昭和7年江戸川区上篠崎町・西篠崎町・下篠崎町、同41年上篠崎町・下篠崎町・南篠崎町(上鎌
田)の各一部をあわせた町域を篠崎町1~7丁目としたが、のち旧鹿骨村飛地部分を8丁目とし、
同62年11月2日3~5丁目に、平成2年8月1日7~8丁目に、同5年11年1日6丁目に新
住居表示を実施。1~2丁目については未実施。6丁目に「ジェイブ美術館」がある。日本で最初
のトリックアート中心の美術館。ルーブル美術館をはじめとするヨーロッパの名画・彫刻が、トロ
ンプ・ルイユ(だまし絵)の技法により、立体的に見えるように再現されている。作品に触れるこ
とも、写真を自由に撮ることもできるぞ。しかし閉鎖しているという噂あり。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
篠崎の由来
 確たる地名の由来は残されていないが、字面から推せば「篠竹が繁茂する出張ったところ」だ。
太日川(江戸川の古称)が蛇行していて旧江戸川の流れで地図を見ようなら、現在でも篠崎地区は
東へ大きく張り出しており、人々が初めてやってきたころの自然の佇まいからきたのだろうと考え
られている。現在上・下・東・西・南・北を冠する篠崎に分かれ、概ね篠崎村の範囲を概ね守って
いる。「しのざき」をインドネシア語で解すると、「チノ・タハキ」、「主要な目立つ岸のある場
所)」ということになるらしい。ちょっときついかな。
 


■草彅神社

 篠崎町1丁目21番4号にある小社。
 


■篠崎本郷の獅子もみ行事
(平成元年2月28日 江戸川区登録無形民俗文化財・風俗習慣)

 篠崎町1丁目32番13号吉兵衛商店(酒屋)の辺り一帯を本郷という。ここ本郷に、一対の獅子
頭を奉待して町内を練り歩き、無病息災を祈る夏の行事がある。天王信仰に由来すると考えられるが
現在では全国的にも少なくなってしまった風物詩だ。毎年7月中旬、篠崎の浅間神社に合祠されてい
る須賀神社から、篠崎街道に面した吉兵衛商店に獅子頭を移す。祭壇を設け、浅間神社宮司のお祇の
後、数人が一組になって獅子頭を担ぎ、町内の希望する家120軒ほどを訪れて、玄関先で勢いよく
獅子頭を揉む。かつては家の中へ上って揉んだこともあったそうだが、現在は玄関先で行う。起源は
不明だが、江戸時代にコレラが流行したときに始まったと伝えられている。


■篠崎二丁目児童遊園

 篠崎町2丁目119番地にある区立公園。


■篠崎二丁目公園

 篠崎町2丁目226番地にある区立公園。


■篠崎小学校

 篠崎町3丁目2番18号にある区立校。明治16年
上篠崎村・下篠崎村・笹ケ崎村の3村による村
立三崎小学校を開校。下篠崎村1411番地に「三崎第一小学校」として認可。同25年上鎌田49
9番地に「三崎第二小学校」設立。同34年「南葛飾郡篠崎村立篠崎尋常
小学校」と改称。同36年
高等科を併置して「南葛飾郡篠崎村篠崎尋常高等小学校
と改称。下篠崎1271番地(篠崎図書館
のところ)に校舎新築移転。明治38年第一分校を設置し、三崎第二小学校を鎌田分教場とする。
正10年3教室増築。
 昭和2年4教室増築。同3年
2階建て校舎6教室増築。講堂・物置・校長住宅・教員住宅を新築。同
7年周辺5郡が東京市に併呑されたことにより「東京府東京市江戸川篠崎尋常高等小学校」と改称。
同8年創立50周年。同10年第一分校に2階建3教室を増築し、尋常科1~3年生を移転させ、「押
上分教場」と改称。同12年
明治36年に建築した校舎を2階建てに改築。音楽室、衛生室(保健室)、
5普通教室、用務員室、2倉庫完成。同14年鎌田分教場
を「鎌田尋常小学校」として分校。
同16
年国民学校令により「東京府東京市篠崎国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行によ
り「東京都篠崎国民学校」と改称。同20年初等科児童44名、山形県鶴岡市の極楽寺・東昌寺に集
団疎開。児童80名、山形県小国村瀬見の高津屋・伊藤屋に集団疎開。
8月日本は、ならず者国家ア
メリカの軍門に降り敗戦。以後その属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざ
るを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上を持っていかれたよ。11月疎開解除によ
り児童帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都江戸川区立篠崎小学校」と改称。高等科
を廃し、新制篠崎中学校を開校。同25年1、2年生二部授業。給食実施。同26年篠崎中学校が新
校舎に移転し二部授業解消。同28年創立70周年記念式典・校歌制定。
 同29年押上分教場を「押上分校」と改称。昭和2年建築の校舎を2階建4教室に改築。給食作業
場改修。
同31年押上分校の宿直室を保健室に改修同34年押上分校に給食調理室を新設。同34
年昭和2年建築の平屋建て2教室と昭和3年建築の2階建て6教室を改築。7普通教室、理科室、便
所、玄関が完成。同36年押上分校に2教室増築。玄関、音楽室、廊下、視聴覚室完成。本校の給食
調理室にプロパンガス施設完成。同37年押上分校の給食室にプロパンガス施設完成。作業員休憩室
増設。同38年新校地に鉄筋コンクリート造り校舎3階建て工事着手。
 [新校地]
 同39年第一期鉄筋コンクリート3階建ての新校舎(15普通教室、3特別教室、管理室及び給食
室)落成移転。同40年第二期鉄筋コンクリート3階建ての新校舎(普通教室、特別教室)落成。

41年プール完成。同42年体育館完成。押上分校を分離し篠崎第二小学校とする。同43年第三期
鉄筋コンクリート3階建ての新校舎(6普通教室、便所3ヶ所)落成。同44年
篠崎5丁目73番地
(篠崎中学校)に鉄筋コンクリート4階建て校舎を新築。
12普通教室、管理室5室完成。3、4年
生が使用する分校として開校。同45年分校に鉄筋コンクリート4階建て校舎を増築。7普通教室、
保健室が完成。プール新設。同46年分校に鉄筋コンクリート4階建校舎増築。8普通教室、7特別
教室、体育館が完成。4月分校を廃し、篠崎中学校が転入。篠崎中学校の跡地に篠崎第三小学校を分
校。同48年創立90周年記念式典。同49年篠崎第四小学校を分校。同52年南篠崎小学校を分校。
同58年創立100周年記念式典。同60年図工室移転改修。同61年全校舎アルミサッシ化完了。
同62年音楽室・家庭科室・校長室・職員室・事務室の改修。住所表示改正により現在の表示に変更。
 平成4年
都市ガス暖房機設置。同5年体育館、教室内塗装、給食調理室改修完了。校舎内に地域開
放施設も兼ねたコミュニティ施設完成。開校110周年記念式典。同14年
完全学校週5日制となり
土曜日休日となる。同15年開校120周年記念式典。同16年プール全面改修工事・校舎外壁全面
塗装・給食室全面改修完了。同18年新学帽制定。同19年第13回マイタウンマップ・コンクール
〝わかば賞〟受賞。テレビ東京の番組「おはスタ」出演。

 校歌
 昭和28年当時、学校の周りには民家が少なく、自然美の中に校舎だけがポッンと建っていた。「創
立70周年にふさわしい校歌制定を」という地域の願いや、教職員の夢と期待を児童に託し、この年
に作られ制定した。14代中山長久校長が作詩を前任校長野村旻に依頼し、作曲には自ら当たった。
次代の平和な日本、新しい日本の担い手になる児童の教育のために、強く正しく協力しあって進もう
という願いをこめて作詞され、旋律音域は、儀式にも歌われるものであることなどから、新奇多彩の
旋律変化等の表現よりも穏健なものにしてある。
  1.都の東江戸川の
    清き流れに姿映し
    永久に栄ゆる学び舎は
    ああ篠崎小学校
    ああ篠崎小学校
  2.朝日は昇る土堤の途
    強く正しく行くところ
    今日も平和の鐘が鳴る
    ああ篠崎小学校
    ああ篠崎小学校
  3.春かに仰ぐ富士の嶺
    希望輝く この朝
(あした)
    何時も元気に朗らかに
    ああ篠崎小学校
    ああ篠崎小学校
  4.松風薫る我が里に
    いざや友から手を取りて
    明日の日本を建て行かん
    ああ篠崎小学校
    ああ篠崎小学校
 


金瀧山真徳院無量密寺

 篠崎町3丁目5番15号にある真言宗豊山派の寺。東新小岩正福寺末。「篠崎不動尊」「篠崎出世
観音」が安置されている。
入口を入ると左に催場、さらに進んで朱色の山門を入ると、左に観音堂、墓地、右は庫裏、本堂は正
面。本尊は恵心僧都作の阿弥陀如来。でした。開山の由緒は不詳ながら、寛永八年(1631)快伝
和尚による創建とも伝わる。慶安二年(1649)に寺領3石4斗の朱印を受けた朱印寺。

   縁起
   量りしれない喜びを与えて下さる無量寿仏(阿弥陀如来)恵心僧都を本尊とする。
   当山は金瀧山真徳院無量密寺と号す。上小松村正福寺末、寺伝によれば恵心僧都が関東巡
   錫のおり、この地に草庵を結んだのが始まりであるという。慶安二年寺領3石4斗の御朱
   印を大猷院様(徳川家光公)より賜る。法流の祖は快伝和尚で、神明社、富士浅間社、香
   取社は当寺の別当とされ、村内には観音堂(十一面観音)、六斎地蔵堂、阿弥陀堂を持す。
    国府台合戦で里見軍の残兵がこの寺にたてこもり交戦したため兵火にあい炎上したとい
   う。時移り昭和の大普請を発願す。弘法大師1150年御遠忌事業で、昭和58年観音堂
   ・本堂の落慶、昭和62年山門完成、興教大師850年御遠忌事業で檀信徒会館竣工、平
   成10年客殿・庫裡を完成。
   堂塔伽藍の整備によって、当山は一新をし、今さらなる飛躍を期している。ここに大聖業
   の円成を記念し、沿革を誌す。願わくは、時代の変革にかかわらず信を起し、善を修して
   積善の徳を誓願するものなり。                       無量寺

 「新編武蔵風土記稿」の下篠崎村の項に、

   無量寺
   新義真言宗、上小松村正福寺末、金龍山真徳院と号す。本尊阿弥陀、長一尺五寸恵心の作。
   寺領三石四斗の御朱印は慶安二年賜へり。法流の祖を快傳と云。寛永八年二月寂す。

 とある。

 木造阿弥陀如来立像(平成16年4月13日 江戸川区指定有形文化財・彫刻)
 像高43cm5mmの一木造りで、来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像。小さな像だが、面の奥が深く、
腹部の迫り出した体躯には思いのほか厚みがあり、像容の大きさを感じさせる。肉付きがよく身体を
反り気味に直立するところは古様で、平安前期風を留めているが、彫り口の鋭さは消えて穏やかな表
現をみせており、平安時代末期、12世紀の簡明な作風を伝えている。衲衣を偏袒右肩に纏い、覆肩
衣を着け、衲衣の下には裾が覗いている。仏教では、敬意を表す時に右肩を現し、左肩だけを袈裟で
覆った。これを偏袒右肩という。来迎印を表す両手は後補だが、当初の姿を踏襲しているものと思わ
れ、当寺でも阿弥陀如来像として伝来してき。頭髪は螺髪の彫りだしを明らかにしない平彫りとなっ
ている。現状は全体に虫損が多いので惜しまれるが、像本体は幸いに当初の姿を伝えている。

 木造如来立像(平成16年4月13日 江戸川区指定有形文化財・彫刻)
 像高56cm6mmの一木造りの如来立像だ。如来は悟りを開いた仏の姿を表している。仏像の尊
名を特定する決め手の一つに印相がある。手や指の組み方だ。与願印は衆生の願望するものを与える
という意味で、左手を下方に下げて指を伸ばした掌を正面に見せている。この如来像は、右手首より
先が亡失していることと、左手の手首より先が後補なので、尊名は特定できない。衲衣(体に巻きつ
ける一枚の布で如来に用いられる)は左肩から懸けて纏い、右肩に覆肩衣を纏い、右腹部でたるみを
つけてから袖として垂らしている。頭部から両袖、両足先や足ほぞに至るまで一材から彫りだし、内
刳りを施さない丸彫り像で、木心も後方に外している。像の表面は古色を呈している。このように、
平安時代の前期に見られる一木彫像の原点を示すような造りに本像の特色があるが、量感を誇張しな
い穏やかな身体つきや、浅めに整えた衣文線の彫法に定朝様に通じる都ぶりが伝わる。一方で、後頭
部の螺髪を省略したり、背面の衣文を簡素化した彫り口などには、平安後期の仏像が見せる簡明さ、
長閑かさを窺うことができる。切りつけた螺髪の形や作りが大きく引き締まった顔立ちなども合わせ
見ると、制作は11世紀後半頃と思われ、区内に伝来するほぼ完形の像としては最古に属す。光背は
後補で、蓮華座は他像のものを転用している。

 庚申塔・石仏群
 境内にある。唐破風笠付角柱型・日月・青面金剛像(ショケラ)・二童子・邪鬼・三猿。「干時享
保九甲辰天二月上旬」「奉造立庚申像」「金瀧山 無量寺」と刻む。
 この近くに覆屋の中に3基の石仏が安置されている。その中の1基は庚申塔だ。但し、この覆屋の
正面に「善龍寺(中寺)門前石仏」と書いてある。江戸川区に善龍寺という寺はない。
 


■篠崎ポニーランド

 篠崎町3丁目11番、篠崎緑地(河川敷)にある子どもの乗馬施設。こういう施設があるだけで、遊
びパパは江戸川区のファンになってしまうだろう。小学生以下は無料で、係の人が手綱を牽いた馬に
乗せて貰え、馬車は、大人も一緒に乗ることができる。売店はない。
 


■区立ポニーランドの家

 篠崎町3丁目12番17号にあるポニーランドの事務所と厩舎。 


■篠崎図書館
 移転
 篠崎町3丁目12番20号、中篠崎公園のポニーランド施設の隣にあった。かつてここに「篠崎尋
常高等小学校」があった。図書館は篠崎町7丁目20番19号に移転した。


■区立ごども未来館
 篠崎町3丁目12番20号の篠崎図書館跡にある。4万冊もの本が揃った〝子どもライブラリー〟
と探究活動をサポートする〝子どもアカデミー〟の2つの施設からなる。〝子どもライブラリー〟は
その名が表す通り幼児や小学生のための本が中心、保護者向けの育児本なども置いているので親子で
読書を楽しむこともできる。一方〝子どもアカデミー〟の方は、区民ティーチャーや区民スペシャリ
ストの人々が子供たちの探究活動をサポートするもので、「天文・宇宙・科学」「動物・植物いきも
の」「自然・歴史・いとなみ」「ものづくり・発見・発明」の4つのコースが。いずれも土曜・日曜
・祭日・夏休みなどにはミニ体験・実験やイベント、おもしろ教室や不思議教室、講座などなど多彩
な活動が行われています。また「ゼミ」や「クラブ」といった連続型の体験プログラムもあり、学校
や塾のものとはまた違った授業が子どもの探究心や知的好奇心を大いに刺激してくれることだろう。
施設の隣には乗馬ができる「なぎさポニーランド」もあるので、「知」の活動の後は「動」活動を楽
しんでみてはどうかな。

 河原渡場道の庚申塔石造道標(昭和58年3月15日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 ポニーランドの東南角の外、篠崎街道の路傍、イチョウの木の下にある。旧位置は現在地よりも東
へ約10mの地点だ。正面には「青面金剛」の文字、三猿、「此方 江戸道」、左面には「文政八酉
十月吉日」、右面は剥離しているが「此方下かま田新川道」があり、さらに右側面には講中の名前が
刻まれている。剥離が進んでいたので、昭和62年秋に修理保存処理をして建てなおした。


■中篠崎公園

 篠崎町3丁目12番21号にある区立公園。


■篠崎四丁目児童遊園

 篠崎町4丁目15番3号にある区立公園。


■下篠崎の念仏講
(昭和58年3月15日 江戸川区登録無形民俗文化財・民俗習慣)
 篠崎町4丁目29番12号の篠崎町町会会館で行う。旧下篠崎村字前図師と下図師辺りの旧家によ
る講で、以前はトウヤ(当番の家)に集まったが、近年この会館に集まるようになった。毎月4日が
地蔵講、21日が大師講だ。平成26年に大幅な世代交替が行われたとか。


■庚申塔 ◇

 篠崎町4丁目33番15号先角地、篠崎街道沿いに、ブロック塀に囲まれてある。板状駒型・日月
・青面金剛像・二邪鬼・二童子・三猿。「奉供養庚申講中」「武刕葛西下篠崎村」「享保九甲辰二月
朔日」と刻む。    


■竹を親しむ広場

 篠崎町5丁目5番22号にある。竹の育成や、竹垣等の管理が行われており、竹炭作り、竹細工、
竹の子取りなどを通じて、竹の活用を学ぶことができる。ボランティア活動だが、区が応援している。


■篠崎第三広場

 篠崎町5丁目6番18号にある区立公園。


■篠崎中学校

 篠崎町5丁目12番19号にある区立校。昭和22学校教育法により篠崎小学校内に開校。同27
年東篠崎町30番地に独立校舎竣工して移転。校歌制定。

 校歌「」 作詞・浄園満成  作曲・村上正治
 昭和27年3月1日、東篠崎町30番地(現篠崎第三小)に独立校舎が竣工。移転を期に校歌を制
定する運びとなった。数人の教師が競って作詞し、応募。慎重な審議の結果、浄園満成教諭(昭和2
2年4月~31年5月在職)の作品に決定。作曲は、当時本州製紙工場長、上原直明氏夫人の知人の
村上正治(市川交響楽団)が当たり完成、制定された。
  1.川野辺の緑は萌えて
    褥
(しとね)さす
    美味しき里や篠崎に
    強き体と高き知を
    万朶の花と咲き競う
    我が学び舎に誉れあれ
  2.夏は水 冬は霰
(あられ)
    幾年
(いくとせ)
    此処に鍛えて色映ゆる
    我はまひの子 世の為に
    命尊とく弛み無く
    眞理(まこと)の道を生き抜かん
  3.鳥影も雲も遥けし
    富士ヶ根の
    高き姿を仰ぎつつ
    自主独立の意気高く
    いざ学ばなん いざ行かん
    嗚呼我が母校 栄えあれ


 同31年体育館竣工。同32年創立10周年記念式典。同42年完全給食実施。同43年創立20
周年記念式典。同46年現在地に校舎竣工。同51篠崎第二中学校を分校。2年243名移籍。同5
2年創立30周年記念式典。同55年増設校舎完成(5普通教室・6特別教室・会議室1)。同56
年警備の機械化開始。給食室改築。同60年隣接地取得。同62年創立40周年記念式典。平成元プ
ール改修。都市ガス化。3年パソコン室開設。同9年創立50周年記念式典。同13年ホームページ
公開。給食調理業務民間委託。同15年心身障害学級開設。二学期制開始。同18年二学期制終了。
同19年屋上防水・緑化。創立60周年記念式典。同22年体育館屋根防水。
 


■篠崎五丁目公園

 篠崎町5丁目13番23号にある区立公園。


■篠崎第四広場

 篠崎町6丁目5番21号にある区立公園。


■篠崎六丁目第二広場

 篠崎町6丁目12番1号にある区立公園。


■篠崎六丁目公園

 篠崎町6丁目20番8号にある区立公園。


■篠崎第二広場

 篠崎町7丁目5番16号にある区立公園。


■篠崎図書館

 篠崎町7丁目20番19号ある区立図書館。篠崎町7丁目20番19号から移転してきた。


■篠崎駅

 篠崎町7丁目27番1号にある都営地下鉄新宿線の停車場。昭和61年9月14日新宿線船堀~篠
崎間延伸時に設けられ、平成元年3月19日に本八幡まで延伸し中間駅となった。
 ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは未設置だが、
設置予定がある。改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。出口は南口と北口の2ヶ所。地上へ上がる
エレベーターは未設置だが設置予定がある。
 一之江・瑞江・篠崎の3駅は、およそ地下鉄駅らしくない立派な駅ビルを備えているのが特徴だ。
いずれも交通会館の所有で、ビルにはスーパーマーケットなどの店舗が入居している。篠崎駅の駅ビ
ル南口にはからくり時計があり、毎時ちょうどになると動物の人形たちが出てきて演奏を始める。

 「ふれあい」
 南口前広場にある家族(母親、その息子夫婦と孫)の像、台座は無く、マンホールの上に建ててあ
り、マンホールの蓋に「ふれあい 江戸川区」と刻んである。作者不明。
 船堀7丁目19番2号先一之江境川親水公園にも。西山美樹作の同じ題名の作品がある。

 
パブリックアート
 構内にある3本の樹木を描いた陶板壁画。
 


■オブジェ ◇

 篠崎町7丁目31番の東北角にある石のオブジェ。ただの自然石をうまく置いている。
 

■谷河内一丁目広場

 篠崎町8丁目8番4号にある区立公園。


■篠崎第四小学校

 篠崎町8丁目12番8号にある区立校。俗に「しのよん」と呼ぶ。昭和49年8月第一期校舎(管
理室、普通教室20、特別教室6、体育室)落成。9月篠崎小より444名、篠崎第二小より218
名、その他より48名、都合5年生以下19学級710名が移転して「東京都江戸川区立篠崎第四小
学校」として開校。同50年校章一般募集の上制定。校歌制定。プール完成。

 校歌
「大きく広がる青空の下」 作詞作曲・いずみたく
  1.大きく広がる青空の下
    
豊かに流れる 江戸川のほとり
    勉強する仲間 喧嘩する仲間
    みんなで築こう心の故郷
    大きな手と小さな手が
    しっかり握り合う
    僕らの愛する篠四小学校

  2.明るい太陽 輝く緑   
    美しく育つ篠崎の桜
    おしゃべりする仲間 考える仲間
    みんなで築こう心のふるさと
    教える手と教わる手が
    力を合わせあう
    僕らの愛する篠四小学校


 江戸川のほとり、桜をはじめ多くの樹木がある緑の自然。児童と教師が心を触れ合わせ、未来に向
かって学び合う学校。逞しく健やかに育って欲しいという願いが作詞されている。曲は多くの児童が
歌い、また歌い継がれていく喜びを胸に秘めていられるように作られていて、明るく、優しく、楽し
く口遊めるように旋律してある。

 同51年第二期校舎(普通教室8)落成。同58年創立10周年記念式典。同59年校庭改修。同
60年放送機器・設備改修。同61年校長室・図書室改修。同62年校庭夜間照明。
 平成2年15周年記念植樹(八重桜)。同3年学習・図書センター新設、和室新設。同6年創立2
0周年記念式典。同9年校庭改修。同12年プール濾過器(全自動)交換。同14年給食施設改修。
同16年校庭整備。創立30周年記念式典。同17年すくすくスクール設立。同20年普通・専科教
室エアコン設置。同23年学校応援団発足

 谷河内の河原道石造道標(昭和58年3月15日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 校内にある。「河原道迄□□九丁稲の花」という句が彫られている、安政三年(1856)建立の
道標。現在は、篠崎第四小学校の校庭に建てられているが、旧位置は現在の京葉道路と高速7号線の
合流地点付近だ。旧河原道に面していたと推定される。大きさは高さ1m、幅31cm。正面には左
方向を指す手指陽刻の下に「吾妻庵其谷」、左側面には「虫なくや□にかくれし傍示杭」、右側面に
は「左かまた、安政三年丙辰秋之初」と銘文がある。
 

 


【下篠崎町】(しもしのざきちょう)                      未実施
 下篠崎村。明治22年篠崎村大字下篠崎、昭和7年江戸川区下篠崎町となる。同41年大部分が
南篠崎・谷河内・篠崎町・上篠崎に分かれ、現在一部だけが残っている。篠崎第二中学校のある一
帯だ! いずれは東篠崎に飲み込まれるのだろう。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 下篠崎の由来
 篠崎村が二村に分かれた時、京都に遠い方が上下の下となる約束事により、下篠崎村となった。
篠崎の由来は【篠崎】を参照のこと。
  


■石祠・庚申塔 ◇
 下篠崎町3番8号の角にある。鳥居は大きい。舟形光背型 地蔵菩薩像。「奉造立庚申供養」「宝
永六己丑八月廿二日」と刻む。


■「夏の思い出」 ◇

 下篠崎町8番14号先、篠崎第三小学校の前、篠田堀親水公園にある石像。台座に丸石が乗り、笑
顔の表情をしている。浜田彰三の作品。
 


■六斎地蔵 ◇
 下篠崎町9番1号、篠崎新町商店街入口にある。
 


■「ピエロ」 ◇

 下篠崎町13番5号先篠田堀親水公園の名号塔の上にある石像。ポーズは如意輪観音。浜田彰三の
作品。
 


■篠崎第二中学校

 下篠崎町14番1号にある。昭和51年江戸川区立学校設置条例により「東京都江戸川区立篠崎第
二中学校」として現在地に開校。校章・校旗制定。プール完成。11月22日開校記念式典。この日
を開校記念日とする。同52年テニスコート完成。同53年校歌制定。

 校歌
「清く豊かな江戸川の」 作詞作曲・佐孝みね子
  1.清く豊かな江戸川の
    堤の向こう緑の地に
    我らは明るく希望に燃えて
    青春の光を浴び 逞しく生きる
    愛する心と自由を学ぶ
    嗚呼我らの篠崎第二中学校
  2.若葉に朝日降り注ぐ
    小鳥飛び交う篠崎の地に
    我らは倶に体を鍛え
    友情の絆強く正義に生きる。
    栄えある文化と叡智を学ぶ
    嗚呼我らの篠崎第二中学校
  3.果て無く続く青空を
    水面に映す江戸川に
    我らは弛まず未来を見つめ
    素晴らしい未来を築く使命に満ちて
    瞳輝くこの学舎は
    嗚呼我らの篠崎第二中学校
     篠崎第二中学校 

 同57年柔剣道場完成。同60年開校10周年記念式典。平成4年パソコンルーム完成。同8年開
校20周年記念式典。同13年インターネット導入。同14年ホームページ開設。同15年校庭夜間
照明設置。同17年生徒用昇降口バリアフリー化。校舎耐震化。同18年創立30周年記念式典。同
19年普通教室エアコン設置。
 


■「地母」 ◇

 下篠崎町15番7号先篠田堀親水公園の名号塔の上にある正座した人が赤子を抱いている石像。浜
田彰三の作品。


■下篠崎第二児童遊園

 下篠崎町18番13号にある区立公園。

 


【清新町】(せいしんちょう)1~2丁目              昭和57年11月1日
 葛西浦。ほんのつい先ごろまで葛西の沖の海面だった。昭和57年に編入された葛西浦の公有水
面埋立地に小島町1丁目と新田1~2丁目の残余部分を加えた町域を現行の「清新町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 清新の由来
 町名は「安らぎと潤いのある美しい町」のコンセプトで「清らかで新しい町」をイメージした。
臨海のニュータウンで、遅れている江戸川区政の中では極めて未来的な地区ではある。学校も伝統
校は1校としてなく新設校ばかりだ。何故かインドの人には住み易いところらしく、インド・タウ
ンといっていいほどインド人が多い。しかも数学に強いインドらしくコンピュータ関係の職業が多
いらしい。インド人学校があり、日本の子供の入学希望が殺到しているというぞ。
  


■ニュータウン

 清新町1、2丁目とも最近の埋立地で、全域が集合住宅と学校で、新長島親水公園は、以前海岸線
だったところだ。無論新左近川も埋め立てでできた水路だ。しかしここもタマニュータウン同様、何
れ老人天国になって、子供がいなくなり、小中学校が廃校となっていくのだろう。
 


■清新第三小学校

 清新町1丁目1番38号にある。同59年「東京都江戸川区立清新第三小学校」として新設開校。9
月校歌制定。

 校歌
「東京湾の」 作詞作曲・京嶋信。
  1.東京湾の水脈しるべ
    校章揺れる空の下
    心も広く明るくて
    仲良く励む私たち
    清新第三小学校
  2.荒川清く澄み渡る
    高層ビルの新天地
    進んで学び身を鍛え
    未来を拓く私たち
    清新第三小学校
  3.椨
(たぶ)の木の花 群れ咲きて
    想い出尽きぬ学び舎よ
    春夏秋冬 助け合い
    歴史を刻む私たち
    清新第三小学校

 同62年パソコンルーム設置。同63年第二期鉄筋コンクリート造り校舎落成。平成3年第三期鉄
筋コンクリート造り校舎落成。同4年臨海小学校を分校。児童343名移籍。同6年開校10周年記
念式典。同16年開校20周年記念式典。同20創立25周年記念式典


■やまびこ公園

 清新町1丁目1番39号にある区立公園。


■清新町緑地

 清新町1丁目4番10号にある区立公園。


■わかくさ公園

 清新町1丁目4番18号にある区立公園。


■清新第一小学校

 清新町1丁目4番19号にある区立校。同58年「東京都江戸川区立清新第一小学校」として新設
開校、児童数382名12学級でスタートした。10月校歌制定。

 校歌
「今、夜が明ける」 作詞作曲・徳山博良
  1.今、夜が明ける 夜が明ける
    見上げてごらん 光る空
    空は果てしなく広がり
    小鳥は自由にはばたくよ
    ああ 清新 清新
    希望は空に 輝く
  2.今 日が昇る 日が昇る
    話かけよう 広い川
    川は絶えまなく流れて
    生命を育み 駆けてゆく
    ああ 清新 清新
    生命の川よ 永遠に
  3.今 陽が燃える 陽が燃える
    夢を乗せよう 蒼い海
    海は何処までも繋がり
    世界に平和が木霊する
    ああ 清新 清新
    遙かな海へ広がれ

 同62年開校5周年記念式典。平成5年開校10周年記念式典。同13年パソコンルーム設置。イ
ンターネット接続。同15年開校20周年記念式典。同17年外装壁面塗装。同19年新機種パソコ
ン設置 校内LAN導入。
 


■清新町北緑地

 清新町1丁目5番にある区立公園。


■清新第一中学校

 清新町1丁目5番14号にある区立校。昭和58年「江戸川区立清新第一中学校」として開校。校
服・校章・校歌制定。

 校歌
「葛西の沖よ」 作詞・鈴木章二  作曲・川崎祥悦
  1.葛西の沖よ 渚の鳥よ
    命高鳴る 海の歌
    朝風若く 夢若く
    江戸川清新 我が一中に
    学ぶ日の 励む日の 声は澄む
  2.緑は燃えて楠の木薫り
    自主の誓いに立つ大地
    鍛えて強く力満ち
    逞し 美し 我が青春の
    足音よ 響き行け 未来まで
  3.豊かな心 花咲く町に
    愛は輝く 窓は照る
    出会いの泉 清らかに
    戸川清新 我が一中に
    荒川も 中川も 出会う水

 同62年清新第二中学校の開校に伴い通学区域の一部を移管。平成5年創立10周年記念式典。同
7年プレハブ校舎増築。同12年プレハブ校舎撤去。同15年創立20周年記念式典。同19年心身
障害学級を特別支援学級と改称。同20年プール改修。同23年東日本大震災により校庭南側約半分
液状化等被災。校庭液状化、玄関前舗装改修
 


■0kmポスト

 清新町1丁目無番地荒川中堤先端にある標柱。

   
河口から 0k 江戸川区清新町


■江戸川陸上競技場

 清新町2丁目1番1号にある。日本陸上連盟第二種公認施設で、トラック(400m8レーン)や
ラグビー、サッカーもできる天然芝のフィールド、7000人が観覧できるスタンド、夜間照明設備
などを備えている。
 


■清新第二中学校

 清新町2丁目1番2号にある区立校。昭和62年「江戸川区立清新第二中学校」として開校。校章
校歌制定。平成3年創立5周年記念式典。同9年創立10周年記念式典。同19年創立20周年記念
式典。

 校歌「波光る」 作詞・田島信夫  作曲・千本威信
  1.波光る荒川岸よ
    天を目指し 欅は高く
    学ぼう友よ 知恵を 真理を
    語らう窓べ 夢も生まれて
    ああ清新 清く新し
    誇りあれ二中
  2.風戦
(そよ)ぐ緑の町に
    芽生え行く若い心よ
    走ろう友よ 土を 大地を
    煌く汗に力溢れて
    ああ清新 清く新し
    誇りあれ二中
  3.鴎鳴く葛西の海よ
    虹も立つ遥かな空に
    歌おう友よ 愛を 希望を
    輝く瞳 世界に向けて
    ああ清新 清く新し
    誇りあれ二中
 


■清新町二丁目児童遊園

 清新町2丁目2番7号にある区立公園。


■かもめ公園

 清新町2丁目5番1号にある区立公園。


■さざなみ公園

 清新町2丁目8番5号にある区立公園。


■新長島川親水公園

 清新町2丁目8~10番にある区立公園。左近川の新左近橋から北に伸びる緑道がそれだ。親水公
園といえば廃川跡や暗渠上に作られるのが一般的だが、この親水公園は長島川という川の川跡を利用
したではない。昭和30年頃の地図では海岸だ。埋め立て後に入江か運河として水路を残したのかも
しれない。
 こちらにはコースの道筋に、水の階段や円形状の噴水広場、ウッドデッキなどが設けられており、
道々、四季折々の花や樹木を愛でることができる。健康文化都市を銘打っている江戸川区では、区内
を巡る「健康の道」という散策道を各所に設けており、ここもその一貫として造園されたものだ。

 「日の光」
 園内にある、腕を取り合って話し合っている2人の裸婦像。鈴木厚の作品。

 
●専門学校教師 中国人生徒に切られる
 令和2年7月17日午前8時10分頃、公園内を通って通勤途中の女性(40歳)が男に手を切り
つけられ軽傷を負った。それを見た通行人から「人が刺された」と110番通報があり、警察官が駆
け付け、その場にいた男を確保し、殺人未遂の罪で逮捕した。逮捕されたのは中国籍の専門学校生楊
啓航(ヤンクィハン 25歳)で、「通勤途中に待ち伏せて怪我をさせようと思った」と犯行を認め
た。女性は区内の福祉専門学校の教師で、楊は「先生の指導方法や態度が気に入らず、イライラして
やった」と供述している。


■清新第二小学校

 清新町2丁目10番1号にある区立校。。昭和58年「東京都江戸川区立清新第二小学校」として
新設開校。児童数380名でスタート。同62~63年第二期工校舎(レインボールーム・家庭科室
・第二音楽室・西側5教室)新築落成。平成4年臨海小学校新設により一部児童移籍。同5年創立1
0周年記念式典。同9年コンピュータルーム完成。同15年創立20周年記念式典。

 校歌
 
「明るい光」 作詞・藪明保  作曲・田畑寛道
 開校を記念して、「校歌は、いま勤務中の私たち教職員の手で」との総意で作った。まず個人ごと
に歌詞の素材になる言葉を出し合い、それを基にして、地域の特性を生かし、学校の誕生を祝い、こ
れからの発展を願う歌詞に纏め、曲は、明るく元気な旋律のものにしたいと願って完成制定した。
  1.明るい光 降り注ぐ
    緑溢れる 我が
母校
    燃える希望の青空に
    楽しく学び やり抜く子
    清新第二 みんなの故郷
  2.流れも豊か荒川の
    水に影射す我が母校
    生きる希望のこの土に
    心も体も丈夫な子
    清新第二 みんなの故郷
  3.伸びる子僕ら私たち
    肩を寄せ合う我が母校
    世界の友と腕組んで
    果てない空へ飛びたつ子
    清新第二 みんなの故郷
 


■「かもめと波」

 清新町2丁目10番、葛西かもめ橋の親柱の上にある波頭の上に飛ぶ鴎像。


■「奏でる」

 清新町2丁目10番、新左近橋の北の突き当り(新左近川親水公園と新長島親水公園の丁度境目)
にある、バイオリンを弾く少年と横笛を吹く2人の少年像。平成4年清水真澄の作品。

 


【中央】(ちゅうおう)1~4丁目                   昭和40年9月1日
 東小松川村。明治22年村を二分して松江村と船堀村に分属、大正15年松江町の大字東小松川。
昭和7年東小松川1~5丁目。同40年東小松川4~5丁目に西小松川2丁目と松本町の各一部を
あわせた町域を現行の「中央」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 中央について
 町名は初め「東松江」を予定したが、住民の猛反対でお釈迦になった。「じゃどうとすべえよ」
と迷ったが小名は「毛知・猿子・腰巻」で、どうにも現代地名には具合が悪い。そこで区役所のあ
る区の中心部だからというので中央に決めたが、すでに大田区が22日早く議会承認していた。同
名は避けるのが原則だったが他に妙案もなく押し通すしかなかった。これがまた顰蹙(ひんしゅく)
もので地名の話になれば未だに「味気ない愚作」と非難の的。ほかに中野区中央・目黒区中央町・
足立区中央本町があり、いずれも地名学者や歴史学者が軽薄さを指摘している。とにかくこの区の
地名行政はお粗末過ぎる。地元人間の力が暴力団並みに強いんだろうな!
  


■江戸川区役所

 中央1丁目4番1号、平和橋通りというか千葉街道に面してある。食堂は安くて美味いよ。当然一
般利用は可だよ。昼飯は、意外な盲点で、区役所や市役所の食堂は狙い目なんだよ。安かろう、まず
かろうってとこもあるがね。ここは違う。現在の建物は昭和37年の建設。
  


■中央一丁目公園

 中央1丁目13番1号にある区立公園。、


■ウォールアート

 中央1丁目17番19号屑鉄買取業者鈴亀の倉庫の壁に画かれた絵。


■松江第三中学校

 中央1丁目20番1号にある区立校。
昭和22年戦勝国アメリカの強制による学制改革により「江
戸川区立松江第三中学校」として江戸川高校内に開校。同25年大杉小学校内に移転。松江第二中学
校内に分校設置。10月現在地に新校舎落成移転。同30開校10周年記念式典・分校落成記念式挙
行。10月3日を開校記念日と決定。同32年分校独立し、松江第四中学校として開校。プール完工。
同36年第一次鉄筋コンクリート造り校舎竣工。同40年屋内運動場・第二次鉄筋コンクリート造り
校舎特別教室竣工。同42年開校20周年記念式典。同44年第三次鉄筋コンクリート造り校舎12
教室・職員室竣工。完全給食開始。46年第四次鉄筋コンクリート造り校舎完工・特別教室12教室
竣工校庭整地舗装完了全施設完成記念式典。同52年開校30周年式典。同54年更衣室新設。
校庭改修工事。同55年体育倉庫新設。同57年体育館・プール特別教室完工。同59年校舎内外塗
装工事実施。同62年開校40周年記念式典。同63年冷房化完了。
 平成元年モデル図書室完成。同3年ガス暖房化完了。校庭・正門改修完了。同4年ファクシミリ、
コンピュータ設置。同7年校長室・会議室床改修。平成8年プールサイド防水ゴムマット張り替え。
給食調理室改修。同9年耐震工事完了。開校50周年記念式典。同14年学校110番設置。全校L
AN整備。体育館改修。同16年理科室改修
給食民間委託開始。校舎外壁塗装。ノート型コンピュ
ータ(Windows-X 40台)整備完了。同18年プール塗装工事完了。同19年創立60周年
記念式典。同22年地上デジタル放送対応テレビ設置。電子黒板設置。

 校歌
「霞に煙る国府台」 作詞・森本治吉  作曲・榊原直
  1.霞に煙る国府台
    桜浮かべて行く水清し
    江戸川男子の故郷の町
    入船出船水の都に
    泳ぐよ走るよ熱球打ちて
    鍛錬の道果て無く登る
    嗚呼三歳の春秋歓喜溢る
  2.葦切鳴きて明け行く朝
    雲間に白き富士ヶ嶺清し
    葛飾乙女の揺籃の町
    蓮咲き薫る水の都に
    学ぶよ励むよ智恵の実恋ひて
    学芸の道只管(ひたすら)進む
    
嗚呼三歳の夏冬輝き溢る
  3.父母の慈愛を師の御教えを
    心に染めて未来の夢は
    賢く優しき乙女とならん
    正しく強き男子とならん
    歴史を築く柱とならん
    誓う我ら 松江第三中学生

 寮歌風のメロディで、途中で曲調が変化する珍しい校歌だ。格調は高い。なお松江第四中学校の校
歌も同じで、3番の「松江第三中学生」が「松江第四中学生」代わるだけだ。
 


■中央一丁目東公園

 中央1丁目26番16号にある区立公園。

 
トイレの壁画
 落書き防止のためか。


■江戸川消防署

 中央2丁目9番13号にある。
 


■大杉小学校

 中央2丁目16番15号にある。昭和13年松江尋常小学校から分校し「東京市大杉尋常小学校」
として創立。4月13日創立記念日と定める。同16年国民学校令により「東京府東京市大杉国民学
校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都大杉国民学校」と改称。同20年8
月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保
守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。同22年アメリカの強制による学制改革
により「東京都江戸川区立大杉小学校」と改称。28年大杉東小学校を分校。同29年校歌制定。

 校歌
「大江戸の」 作詞・金子彦三郎  作曲・小出浩平
  1.大江戸の昔の栄えを偲ぶ名の
    江戸川近き佳き学園に
    やがては御国の柱にと
    緑の小杉がすくすくと
    伸び行く我らの大杉小学校
  2.筑波嶺を茜に彩る朝明より
    気高き富士に夕映えの
    華やぐ暮れまで溌剌と
    学びと鍛えに身と心
    打ち込む我らの元気を見よや
  3.平和なる明るき世紀の礎は
    今はも成りつ精限り
    力を協わせて美しく
    世界の日本を築き行く
    希望に我らは羽ばたく小鳩


 同30年分校設置。同33年分校を分離独立させ「第三松江小学校」とする。同35年校庭簡易乳
剤舗装。同37年第一期校舎改築(鉄筋コンクリート造り3階建6教室)。同43年第二期校舎改築
(鉄筋コンクリート造り3階建9教室)。同44年第三期校舎改築(鉄筋コンクリート造り4階建1
1教室・校長室・職員室・保健室・給食室・事務室・主事室)。同45年第四期校舎改築(鉄筋コン
クリート造り体育館、音楽・図工・理科・家庭科の特別教室と準備室)。プール完成。校庭アスコン
舗装。同50年江戸川区立大杉第二小学校を分校。第五期校舎改築(鉄筋コンクリート造り3階建3
教室・特別教室(音楽・図工・視聴覚室)・準備室。同63年創立50周年記念式典。
 平成2年校庭改修工事ゴムチップウレタン塗装完了。同3年和室設置。同13年[省エネ共和国]
建国宣言。プール全面改修。同14年NHK教育テレビ「たったひとつの地球」に6年生が出演。同
15年NHK総合テレビ「未来を見つめる夏休み」に5年生出演。同16年NHK教育テレビ「わか
る国語 だいすきな20冊」に6年生が出演。同20年創立70周年記念式典。同23年「ことばの
教室」開室。
 


■中央二丁目公園

 中央2丁目17番16号にある区立公園。

 
時計塔
 上部に車のようなものが付いている。塔の周りはベンチ。


■江戸川技術専門学校 閉校

 中央2丁目31番27号にある都立校。平成17年に閉鎖され、亀戸技術専門学校・足立技術専門
学校・同台東分校と統合して「城東職業能力開発センター」となり、その江戸川校となった。
 


■城東職業能力開発センター江戸川校

 中央2丁目31番27号にある都立校。平成17年、江戸川技術専門学校・亀戸技術専門学校・足
立技術専門学校・同台東分校が統合して「城東職業能力開発センター」となり、その江戸川校として
発展的に開校した。
 


■武蔵国葛飾郡松本村全図(昭和59年2月28日 江戸川区登録有形文化財・古記録)
 中央3丁目の島津家が所蔵している。明治8年の測量図を元に作製された。松本村と興之宮村を一
枚に集成している。


■中央図書館

 中央3丁目1番3号にある。近年できてピッカピカ。自転車置き場も広いし、足立区立中央図書館
とどっこいの素晴らしい図書館だが、それゆえに蔵書自体はまだまだ蒐集不足。広い書棚の空白が目
立つ。しかしそんじょそこいらの中央図書館と比べたらGoodだ!

  4階 視聴覚ホール、講習室、研修室
  3階 地域・行政資料、全国電話帳、参考室、社会人読書室、録音室、対面朗読室、
     点字・録音資料室
  2階 一般図書、視聴覚コーナー、新聞、雑誌、閲覧コーナー、休憩・喫煙室(飲
     物販売機)
  1階 一般図書(ポピュラー図書、洋書)、こども図書室、おはなしのへや
  地下 有料駐車場(20台)、中央監視室
 


■東小松川中道の庚申塔河原道道標
(起点)
 中央3丁目2番7号のミニストップ江戸川千葉街道店の敷地の西南角にある。元佐倉道(千葉街道)
の旧河原道起点にあり、河原の渡しに向かう追分にある道標となっている。
 ブロックの小祠が建てられ、庚申塔として祀られている。建立は文化五年(1808)で、原位置
のままと認められる。上部正面には青面金剛像が陽刻され、銘文は台座の正面に「是よりかハら道」
右側面には「両国マテ二里、市河マテ一里」とある。河原道はこのルートだけではなく、行徳道から
西一之江4丁目8番9号の間を抜けるルートなどもある。河原の渡しから区の中央部へ手を広げたよ
うなこの道は、地域にとって大切な道だったに違いない。この道がどうして造られ、どのように機能
していたかは明らかではない。昭和58年3月15日告示江戸川区登録有形文化財・歴史資料。
 


■中央三丁目公園

 中央3丁目8番11号にある区立公園。


■円明寺
 中央3丁目11番20号にある曹洞宗の寺。山門を入ると境内は駐車場のような広さ、正面の本堂
は鉄筋コンクリート造りながら禅宗を髣髴とさせる構え。やはり寺は和風がいい。右は庫裏、左は墓
地、コンパク トに整理整頓された禅寺らしい寺だ。
 


■間々井香取社 → 新小岩香取神社(間々井宮)

 中央4丁目5番23号にある西小松川村の鎮守。ここは堂ヶ島と呼ばれていたところ。香取神宮か
ら経津主命の分霊を奉祀、昔、国府台の真間の入江から武蔵国に向かう舟は、この社の森を目印とし
「間々井の社」と呼ぶようになった。元和五年(1619)の棟札があり、伊勢参宮からの記念の銅
板には「香取産土大神西小松川村総鎮守」とある。天明六年(1786)の大洪水により旧記一切を
流失したが、村の五分一の大工牧野八郎次が、社殿再建を志して一人で立ち向かい、10年の歳月を
掛けて、天保四年(1833)に竣工したという。現在の本殿がそれで総欅造り、彫刻は後藤楢之助
正義。

   12月31日大祓い
   
神社の由来
   香取神社は別名を間々井神社と称し、棟礼によると、元和三年(1617)に再建された
   ご神徳の多い有難い神社です。
   その当時より、社の東に流れる小松川(親水公園)は、下総、国府台真間と武蔵江戸城を
   結ぶ重要な水路でありました。伝説によれば、長禄の頃、太田道灌持資は、国府台控城に
   往来の時、この神社に舟を泊め、境内の霊水を吸み、船路の安全を祈願したので間々井神
   社と称される様になったことを伝えています。
   当時は、当地に16軒の農家しかありませんでした。荒地を耕し苦労の末、切り開いたので
   す。その小松川16軒農家が当神社の創立をしたと言います。天正十八年(1590)に
   は徳川家康江戸入城となり、産物の販路も開け農民も豊かになりましたが、丙午年毎に襲う
   大洪水に(天明六年=1786)人馬穀類共に大飢餓に遭遇した事が記されてあります。
   現在の本殿は文政五年(1823)今より約170年前、用材を仕入れ、五分一に住む宮
   大工八郎が十年の歳月を経て、天保三年(1832)に完成させた名建築物であります。
   明治6年には太政官より地租改正のお触れがあり、村民はそのお触れに従い土地調査事業
   に着手、村内の精密な地図を作成、武蔵国葛飾郡西小松川村全図が出来、初代知事により
   検認されました。その武蔵国葛飾郡西小松川村全図は、江戸川区有形文化財に指定され当
   神社に保存されて居ります。遠い長禄の時代より平成の今日迄、有難いご祭神のご神徳に
   感謝し、その霊験を戴き、信ずる人々の念願の達成をお祈り申し、合掌致します。
   平成元年6月吉日                             社務所

   
香取神社
   旧西小松川村の鎮守である。昔、この辺一帯が、芦原で舟がが自由に往来できた頃、その
   中に浮かぶ道ヶ島という小高い島に、下総国の香取大神宮より経津主神の分霊を祀ったの
   が、香取神社勧請の由緒といわれる。当時国府台間々の入江から、武蔵国上野の台地に向
   かう船は、この神社の森を船路のの目安としたので、間々井宮と称したと伝えられている。
   この社は、元和五年(1619)の棟札を所蔵する古社で、亀井和泉守源永好以来代々亀
   井家が神官をつとめ、葛西領開拓神秘歌とその舞いを伝えている。現在の本殿は総欅造り
   氏子大工牧野八郎次が十年の歳月を費やし、天保四年(1833)に竣工したたてもので
   ある。
   境内には松尾芭蕉の「秋に添うて行かばや末は小松川」の句碑が立っている。
   昭和52年11月                       江戸川区教育委員会
   平成18年7月改修

 武蔵国葛飾郡西小松川村図(昭和59年2月28日 江戸川区登録有形文化財・古記録)
 明治初年の地租改正にともなう実測図です。荒川開削の前の西小松川村の耕地、集落の様子を知る
手掛かりとなる。

 
小松菜ゆかりの里の碑
 境内にある。小松菜は、現在、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県といった東京近郊や大阪府・京
都府、兵庫県・福岡県などの日本各地の大都市近郊で盛んに生産されている。
 しかし、最近市場に出回っている小松菜の大部分は、中国野菜と掛けあわせて作られた交配種であ
り、江戸時代に栽培されていたものとは、異なったものだそうだ。江戸時代から栽培されているもの
は「伝統小松菜」と呼ばれていて、「後関晩生」という品種と「城南小松菜」が、「伝統小松菜」と
して認められている。

   江戸・東京の農業  小松菜
   享保四年(1719)、8代将軍吉宗が鷹狩をする時の食事をする場所として、当道灌島
   香取神社が選ばれ、時の神主亀井和泉守永範がそのお役を受けました。しかしこれといっ
   て差し上げるものもなかったので、餅のすまし汁に青菜を少々、彩りとしてあしらって差
   し出すと、吉宗は大変喜ばれ、この菜をこの地にちなんで「小松菜」と命名されたと伝え
   られています。それ以来、当社の祭事には必ず小松菜を神前に供えて氏子永代の反映を祈
   願しています。
   文化元年(1804)の「成形図説」には、「小松川地方で産する菜は、茎円くしてすこ
   し青く味旨し」とあり、文政十一年(1828)「新編武蔵風土記稿」には、「菘 東火
   災領小松川辺の産を佳品とす。世に小松菜と称せり」と記されています。
   味のよい優れた菜類として江戸の人々に喜ばれた小松菜は江戸川区の特産野菜となりまし
   た。                     平成9年度JA東京グループ
                          農業協同組合法施行50周年記念事業
                                 江戸川区農業協同組合

   THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO
      Komatsu-na
    In 1719 when the eighth Shogun Yoshimune Tokugawa went hawking,this shfine was
   selected for his lunching site.As there was no special feast to serve the lord,t
   hey offered a simple clear"Mochi"(rice kake)soup garnished with a green begetabl
   e.The Shogun got fascinated with the begetable and named it Komatsu-na after the
    locality.
   The tasty Komatsu-na (a kind of Chinese cabbage)was very much liked by Edo sitiz
   ens and still remains as a spesialty product of Edogawa ward of Tokyo.

 小松菜産土神の碑
 境内にある。

 小松菜ゆかり塚
 一茶の句碑。文政二年(1819)10月、一茶57歳の作品。

   小松菜の一文束や今朝の霜  一茶句

 小松菜屋敷
 小松菜の発祥の地といわれている屋敷。8代将軍徳川吉宗が鷹狩りに訪れた際、御膳所となり、小
松菜の入った餅の澄まし汁を出した神主亀井和泉守の屋敷跡だ。現在も子孫である地域歴史研究家亀
井千歩子の住居となっている。個人の住宅だが、見学させてもらうことができる。庭には「こまつな
さま」と呼ばれる如意輪観音像があり、小松菜を供えて「こまったな」と願い事をすると願い事が叶
うという言い伝えがある。石標が建っている。

   間々井の森 香取社
   
亀井和泉守屋敷跡

 木製墨書の説明板に、

   小松菜屋敷(旧いずみ様)由来
   八代将軍徳川吉宗(有徳院)は、「鷹将軍」と異名とあるほど鷹狩りを好み、湿地帯が多
   く好狩場であった葛西領の、特に現在の江戸川区には76回も訪れている。
   将軍が鷹狩りに来られた、食事をとる所を「御膳所」といい、近くの社寺が利用された。
   亀井家(昔より土地の人びとに「いずみ様」と呼ばれて来た)に伝わる話として、享保四
   年(1719)に吉宗公が来られた際、御膳所になったのが、西小松川村の間々井の森の
   香取社で、時の神主・亀井和泉守が、餅の清まし汁に冬菜を添えて差し上げたところ、将
   軍はその冬菜の香味を大変喜ばれた。未だこの菜に名前がなかったところから、小松川の
   里のゆえに「小松菜」と命名されたと伝えられている。
   以来、鷹狩りの際にはいつもお土産として、地元の村から小松菜が献上された。(亀井千
   歩子著「小松菜の里」より)
    注
    邸内には亀井家の屋敷神、通称小松菜さまが祀られています。困ったことがあれば
    「こまったな」といって小松菜を供えれば、願い事が叶えられ、さらに、
    「菜(名)を上げ、菜(名)を残す」といって、昔から信仰されています。


 とある。

 稲荷神社
 境内にある小社。

   稲荷神社の由来
   稲荷神社は『トヨウケヒメノミコト』をお祀り致し、当社は俗に『アリマイナリ』と申さ
   れて居ります。昔は居間の松島3丁目27番にお祀りされて居りましたが、土地整理のた
   め、境内に移転となりました。
   例年初午を例祭と致し、稲荷講の行事がありまして、各村々の子供達が参加して一夜を楽
   しみました。
   現在、祭典は3月1日道祖神と共に行われます。産業発展の神として日本全国各地にもお
   祀りされて居ります。

 葛西風物保存の碑
 境内にある。

   葛西風物保存の碑
   鮒焼くや 麦の朧が包む家     鳴瀬
   干ては枯れ濡れては大野枯れ果てし 鳴瀬
   花人にひやかされつつ打つ田かな  杉芽女
   蓮の径 蜆売りなどさけて来し   杉芽女

 宮司亀井悦造胸像
 境内にある。

   胸像設立の趣旨
   亀井悦造氏は明治32年6月6日 東京府南葛飾郡西小松川村大字道ヶ嶋12番地に父信太
   郎 母美年の長男として生まる 大正2年松川尋常高等小学校を卒業 昭和5年国学院大
   学皇典講究所に於いて神職の階位を修得 昭和10年8月15日関係神社社掌を拝命。昭
   和36年神社庁江戸川区支部長に就任、昭和37年より神社本庁参与に補せられ、ついで
   身分2級を賜り近郷の産土神社21社の兼務を拝命さる 氏は社家亀井和泉守源朝臣永好
   より21代目に当り、半世紀を神明に奉仕されたが この度その職を退くにあたり胸像を
   建立 その業蹟を称え氏の威徳を永久に伝える
   昭和54年8月吉日          宮司亀井悦造氏胸像建立委員会委員長 久本翠

 
「弓取りの儀」
 胸像の横にある。弓は魔や敵を打ち払う象徴とされ、弓取りの儀式を行う。

 水神社
 境内にある小さな石祠。

   水神社の由来
   水神社は『ミヅハノメノミコト』をお祀りし、昔より現在の松島3丁目26番に永くお祀
   りされて居りました。土地の整理の為、昭和35年に当神社境内に移転となりました。6
   月15日は、昔より祭日に定められて居りまして、農業の水利と船の安全を祈る祭として
   盛大な祭が行われて居りました。
   平成元年より、上一之江大雷神と共に合同際が執り行われます。

 道祖神
 境内にある。

   道祖神の由来
   当神社の道祖神は、『猿田彦の命』をお祀りしてあります。この村が創立した頃より、昭
   和35年迄現在の松島2丁目10番の地に鎮座されて居りましたが、土地整理の為当社の
   境内に移転になりました。
   通行人の道を守ることと、村に悪霊の侵入を防ぐ為に祀られましたが、後に人体の筋を守
   ることも、この神様が司り、目、耳、足、腰の筋をお守りして居ります。
   草履や食器の中に穴を空け、道祖神に奉納してその恢復をお祈り致します。体の悪い部分
   をよく撫でて参拝して下さい。
   又、お正月の『どんど焼き』は、『どうそじん焼き』からの行事です。その他、道ヶ島旧
   地名等も『道祖が島』から転じた地名とも思われます。

 鷲神社
 境内にある。


   鷲神社の由来
   大鳥神社とも称し、祭神は『ヤマトタケルノミコト』です。例年11月酉日に『新小岩のお
   とり様』と多くの信者に親しまれて盛大なお祭が行われます。境内では、福熊手(かっこ
   め)の授与があり、参拝者の家々の隆盛、商売繁盛をお守り致します。酉祭の末日には、
   伝統の蟇目の舞神楽が奉納され福御縁の授与が行われます。


 大雷神
 境内にある石碑


   大雷神の由来
   大雷神は、俗に「一之江の一つかみなり」と称賛され往古より当地の農業文化に深い貢献
   を施し深く信仰を重ね、その氏名を果してまいり、東一之江村の福島家に江戸時代よりお
   祀りされてまいりました。
   田植の季節には時々、北は日光より降りて来る雷、西は秩父の山々より降りてくる雷、南
   は太平洋の雷、東は筑波より降りてくる雷、これらの雷達が一天に集まり風雨をと伴い、
   ごろごろと威力を争い合い鳴り渡ります。
   子供達の教訓として「お臍を隠せ」の言葉の掛かる頃、此の時が大雷神の出番なのです。
   耳をツンザク音と共に他の雷を征服して仕舞います。これが地域の人々の言う「一之江の
   一つかみなり」なのです。
   6月15日間近になると、この雷が出現、農民達は田植作業を終らせて、この雷様のお祭
   に参加致します。それが農業の手休みの一日としてたのしみながら、「オシャラク」の舞
   や出店がたくさん出て賑やかになります。其の日は講社の人々、近在の人々の参拝も数多
   くあり、あとを断たなかったのです。
   昭和63年、この大雷神の世話人の不在の為、香取神社と上一之江氏子総代一同の協議の
   結果、当社境内に遷碑すこととなり、児童の教育と大雷神、間々井神社の信仰を深める為
   に、例年6月1515日には、水神祭に併せて例祭を復興することとなりました。大雷神を
   奉斉して家内安全、家業繁昌、無病息災をお祈り致します。
   平成元年6月15日                      安井はな 福島和夫

 鏝塚(こてづか)
 境内にある。東京都左官組合連合会は毎年4月に「鏝」の慰霊祭を行なっている。

   鏝塚のいわれ 
   左官の使用する鏝は人間が住居を築いて生活を営むようになってから体験により外的防御
   又は保温のために壁天井を塗るようになり、はじめは木製の鏝を使用しました。世の進歩
   と時代の要求に従い地金鏝刃金鏝ステンレス鏝が出来て今日では千余種類用途によって多
   種多様の鏝が使用されています。
   鏝は左官の生命であり二千余年の永きにわたり左官と共に歩んで古代より現代に至る建築
   並びに左官工事に大いなる貢献をしてまいりました。
   伝統ある「鏝」技能を伝承した江戸川区左官同業者の発起により東京都左官組合連合会会
   員一同が「鏝」の労を労い、感謝の意を表するためにここに鏝塚を建立した次第でありま
   す。                            昭和43年11月3日



■第三松江小学校

 中央4丁目13番1号にある区立校。同30年大杉小学校の分校として開校。同32年6教室2階
建て増築。同33年独立して「東京都江戸川区立第三松江小学校」として創立。同36年校旗・校歌
制定。2教室2階建て校舎増築。

 校歌
「広い空が」 作詞・  作曲・
  1.広い空が 光る雲が
    何時でも心の中にある
    第三松江の子どもは元気
    正しく清く 夢大らかに
    育つ若鳥 楽しい我ら
  2.靡く煙 響く音が
    日本の文化を築くのだ
    第三松江はやりぬく誓い
    働く町の意気高らかに
    強く弛まず 進もう我ら
  3.明日の町を 明日の国を
    みんなの力で担おうよ
    第三松江は平和の気風
    仲良く考え 仲良く励み
    栄えのこの名を上げよう我ら


 同39年開校5周年記念式典・体育館完成。同41年鉄筋コンクリート造り校舎・6教室完成。同
43年プール完成。同45年コンクリート造り校舎・9教室完成。同46年鉄筋コンクリート造り・
9教室、管理室、給食室完成。同47年鉄筋コンクリート造り校舎・保健室、音楽室、図書室、理科
室完成。同62年耐震構造強化のための校舎内大改造。和室、グリーンルーム、オレンジルーム、モ
デル図書室完成。同63年。
 平成3年那須甲子セカンドスクール実施。同5年FF暖房・ガス配管工事完了。同7年体育館床全
面改修。同9年校舎外壁塗装工事完了。同11年校舎外壁塗装工事完了。同12年家庭科室改修。教
材室・更衣室を普通教室に改修。給食室改修。同15年防球ネット取付。
 


■江戸川区総合文化センター

 中央4丁目14番1号にある区のホール。水と緑の江戸川区を象徴する環境に囲まれた文化ゾーン
でい。新東京百景に選ばれた小松川境川親水公園の「水の庭園」に隣接した、水と緑に囲まれた施設。
1500席の大ホールは音楽、演劇の公演に限らず、コンクールなどにも幅広い用途で利用できる。
大ホールの他、小ホール、展示室、研修室などと合わせ、落ち着いた環境の下、文化を育む場とすべ
し。 03‐3652‐1111

 「希」 ◇
 正面植栽にある男子裸体立像。「ねがい」と読む。分部順治制作。

 「平和」 ◇
 1階ロビーにある裸婦立像。新関八紘の作品。
 


■中央森林公園

 中央4丁目18番15号にある区立公園。小松川境川親水公園の一部だ。元々海の江戸川区だから
森林公園といっても、長野や山梨をイメージしちゃあいけないよ。
 


■文化センター公園

 中央4丁目23番1号にある区立公園。


■香取社 →
東小松川香取神社

 中央4丁目25番18号にある東小松川村の鎮守。祭神は経津主命。相殿は大国主神、武甕槌神、
大宮比売神。建治三年(1277)に勧請したといわれ、もと東小松川村の鎮守。太平洋戦争終戦ま
で村社に列格していた。境内の大鳥居は安永九年(1780)の建立。平成5年に立て替えられた鳥
居は入って右側に並べられている。本殿は同8年8月8日に落成した。境内に2本の大銀杏の老木が
聳え立っている。

   香取神社の由来
   香取神社は別名を間々井神社と称し、棟礼によると、元和三年(1617)に再建された
   ご神徳の多い有難い神社です。
   その当時より、社の東に流れる小松川(親水公園)は、下総、国府台真間と武蔵江戸城を
   結ぶ重要な水路でありました。伝説によれば、長禄の頃、太田道灌持資は、国府台控城に
   往来の時、この神社に舟を泊め、境内の霊水を吸み、船路の安全を祈願したので間々井神
   社と称される様になったことを伝えています。
   当時は、当地に16軒の農家しかありませんでした。荒地を耕し苦労の末、切り開いたの
   です。その小松川16軒農家が当神社の創立をしたと言います。天正十八年(1590)
   には徳川家康江戸入城となり、産物の販路も開け農民も豊かになりましたが、丙午年毎に
   襲う大洪水に(天明6年=1786)人馬穀類共に大飢餓に遭遇した事が記されてありま
   す。現在の本殿は文政五年(1823)今より約170年前、用材を仕入れ、五分一に住
   む宮大工八郎が十年の歳月を経て、天保三年(1832)に完成させた名建築物でありま
   す。
   明治6年には太政官より地租改正のお触れがあり、村民はそのお触れに従い土地調査事業
   に着手、村内の精密な地図を作成、武蔵国葛飾郡西小松川村全図が出来、初代知事により
   検認されました。
   その武蔵国葛飾郡西小松川村全図は、江戸川区有形文化財に指定され当神社に保存されて
   居ります。
   遠い長禄の時代より平成の今日迄、有難いご祭神のご神徳に感謝し、その霊験を戴き、信
   ずる人々の念願の達成をお祈り申し、合掌致します。
   平成元年6月吉日


 「新編武蔵風土記稿」に、

   香取社
   村ノ鎮守ニシテ宝積院持。社人嶋村弥門吉田家ノ配下ナリ。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   香取神社
   旧東小松川村の鎮守で、経津主神を祀り、建治三年(1277)の勧請といわれています。
   花崗岩の大鳥居は、安永九年(1780)に建立され、平成5年に建て替えられました。
   現在の本殿は平成8年8月に落成しました。
   
◇葛西囃子之碑
   江戸川区の郷土芸能である葛西囃子が、昭和28年に東京都無形民俗文化財に指定された
   ことを記念して、昭和32年3月に建立それました。
   また碑の隣には、昭和58年に東京都の文化財指定30周年を記念した碑も建てられてい
   ます。
   
◇東小松川香取神社遺跡
   昭和28年6月頃、神社裏から土師器片や須恵器片、土錘が発見されました。香取神社の
   香取神社の貝塚は、直径8m程度のもので、上部の混土貝層と下部の純貝層に分かれ、厚
   さも1.5m以上に及んでいました。
   平成15年2月                        江戸川区教育委員会

 葛西囃子の碑
 立派な石碑だ。東都葛西囃子睦会が、昭和28年に東京都無形民俗文化財に指定されたのを記念し
て、同32年に建てたものだ。その傍らに、同58年東京都無形民俗文化財指定30周年を記念する
東都葛西囃子睦会が建立した「参拾周年記念之碑」がある。
 葛飾の葛西神社にも記念碑がある。どっちが本家本元? 葛西神社が発祥らしい・・・

   
葛西囃子之


 
葛西囃子
 
昭和56年1月13日告示。東京都指定無形民俗文化財・江戸川区登録無形民俗文化財・民俗芸能。
立派な石碑だ。葛西囃子の起源は、享保(1716~36)の始め、武州葛西領(江戸川区・葛西区
・江東区・墨田区・足立区の一部)の総鎮守香取神社(葛飾区金町の葛西神社)の神官熊勢環が創作
し、近隣の若者たちに教え、和歌囃子(若囃子)と称したのが始まりといわれています。
 当時の関東郡代伊奈半兵衛(関八州の責任者)はこれを青少年の善導に取り入れようと領内の村長
を集め若囃子を奨励。また江戸の天下祭りといわれた赤坂山王(赤坂日枝神社)と、神田明神(神田
神社)の祭礼に出演させるため、毎年代表推薦会を催し選ばれた者には褒美を与えた。その後、安政
の頃(1858~1860)西小松川天祖神社の神官秋元式称が音頭を取って囃子組合を組織し、練
習に励み芸を競ったため、江戸の各地に神田囃子、本所囃子、深川囃子、佃囃子など多くの連が生ま
れ、江戸の祭には欠かせない芸能となった。このように葛西囃子は江戸といわず関東地方の祭囃子の
源流となっている。また、囃子組合の後を継いでいるのが「東都葛西囃子睦会」で、その保存伝承の
ために、昭和24年に結成された。
 編成は5人で、大太鼓(大胴)1人、締め太鼓(しらべ)2人、笛(とんび)1人、鉦(よすけ)
1人だ。ケテンテケテンテンテンステックという「上げ」(打ち込み)の囃子に始まり、屋台囃子と
いう曲から一定の順序で数曲続け、再び屋台囃子で終わるというのが普通だ。

 日枝神社・稲荷神社・水神社
 境内社。

 香取神社社殿竣工記念碑
 境内にある。

   
香取神社社殿竣工記念碑
   当香取神社の御祭神は経津主大神と申し、往古下総国一の宮香取神宮の御精霊を奉祀した
   ことを以て当神社の創建とされる。爾来、旧東小松川村の上社鎮守として氏子より広く篤
   く尊崇を集め今日に至る。
   平成7年5月、神社役員・氏子有志よりなる「香取神社建設委員会」が発足し、先の失火
   により損傷した社殿の御造営工事が愈々着工の運びとなり、建設資金の奉賛活動も開始す
   るに至った。平成7年8月7日地鎮祭を斎行し、その後社殿は計画通り荘厳に竣工、境内
   整備工事も終了し、平成8年8月8日遷座祭を斎行し御造営工事は恙なく完工した。
   社殿御造営に当っては、広く氏子各位より賛同を得て浄財の奉納が寄せられ、これにより
   事業が完遂し、神社の尊厳は弥益し、誠に慶祝に耐えぬところである。此所に本記念碑を
   儲け氏子一同の香取大神への敬神の至誠を記し、御神徳の光被を永く久しく仰がんとする
   ものである。
   平成14年10月吉日                   香取神社宮司 秋元繁夫




【中葛西】(なかかさい)1~8丁目1日             最終昭和56年11月1日
 東宇喜田村・長島村西部。明治22年葛西村大字宇喜田・長島。昭和7年江戸川区東宇喜田町・
東宇喜田町御立野・東宇喜田町川中・東宇喜田町川縁・東宇喜田町上蜆島・東宇喜田町下蜆島・東
長島町・南長島町・西長島町・長島町上蜆島・長島町下蜆島。同9年葛西1~2丁目・堀江町・長
島町・新田1丁目・上蜆島・下蜆島。同53年9月1日葛西1丁目・新田1~2丁目・長島町・宇
喜田町の各一部をあわせた町域を現行の「中葛西3~7丁目」とし、同54年11月1日長島町・
宇喜田町・桑川町の各一部を併せた町域を現行の「中葛西1~2丁目」とし、同56年葛西1~2
丁目の一部を現行の「中葛西8丁目」とし、葛西1丁目の一部を中葛西3・5丁目に編入して新住
居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 中葛西について
 町名は葛西地区(新川以南)の中央部をいい、かつての葛西村に因む。
 葛西の由来は【葛西】を参照してね。
  


■中葛西一丁目児童遊園

 中葛西1丁目2番18号にある区立公園。


■葛西郵便局

 中葛西1丁目3番1号にある普通集配局。


常高山妙蓮寺

 中葛西1丁目5番14号にある日蓮宗の寺。創立は寛文年間(1661~1673)で、開山は正
中院日武。山門を入るとすぐ本堂。右は庫裏。裏手が墓地。右の隅に立派な銅葺き屋根の毘沙門堂が
あり、伝教大師作と伝えられる毘沙門天像を安置している。この毘沙門天は開山の日武と因縁があっ
たことから6世日意が鎌倉の薬師寺から移したものだ。寺は大正時代のに襲った大津波のために古文
書など総ての記録が流失してしまった。「新編武蔵風土記稿」に、

   (西宇喜田村)妙蓮寺
   法華宗、二之江村妙勝寺末。常光山と号す。本尊三寶を安ず。開山日武、寛文六年六月十
   七日示寂す。
   毘沙門堂


 とある。

 ●ツツジ
 建物としては本堂、稲荷神社、浮行菩薩堂、山門しかないが、広い境内は手入れが行き届いていて
気持ちがいい。花木はツツジ、サツキが何本か植えられているほか、ソメイヨシノが10本くらいと、
紅白のシバザクラの植え込みがあるので、春から初夏にかけて花景観を楽しむことが出来る。特に本
堂前の大株のツツジは見事。境内は手入れが行き届いて綺麗だ。
 


■三角橋の碑
 中葛西1丁目18番3号先三角橋の歩道のとば口にある。橋の反対側船堀にも同じものがある。

   三角橋
   三角橋は、都市計画道路補助第290号線の整備にあわせ、新川に架かる新しい橋と
   して平成8年5月に着手し、平成12年2月に完成しました。水辺を身近に感じる歩
   道と、緩やかなアーチ形がこの橋の特徴です。
   橋の名前は、地域の方々により親しまれるように皆様から応募を頂き名づけました。
   この三角橋の完成により、地域の結びつきが強化されるとともに更なる発展を託し、
   これを誌します。
   平成12年2吉日                    江戸川区長 多田正見


■宇喜田東公園

 中葛西1丁目25・26・30番にある区立公園。


■葛西消防署

 中葛西1丁目29番1号にある。
 


■宇喜田第二児童遊園

 中葛西1丁目31番38号にある区立公園。


■葛西小学校

 中葛西2丁目4番34号にある区立校。明治15年長島村郷倉に「修巳小学校」開校。同16年西宇
喜田村に「有喜田小学校」開校。同17年東宇喜田村に「海静小学校」開校。同35年前記3校が合
併して「南葛飾郡葛西村立葛西尋常小学校」となる。同37年高等科を併置して「南葛飾郡葛西村立
葛西尋常高等小学校」と改称。大正6年大津波襲来し校舎大損害。同12年関東大震災により中央南
面2教室倒壊。昭和3年第一分教場・第二分教場設置。同7年周辺5郡が東京市に併呑され「東京府
東京市葛西尋常高等小学校」と改称。第一分教場・第二分教場が分離独立し東京府東京市第二葛西尋
常小学校・東京府東京市第三葛西尋常小学校となる。同11年木造校舎新築移転。同16年国民学校
令により「東京府東京市葛西国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都
葛西国民学校」と改称。同20年初等科児童44名が山形県鶴岡市に集団疎開。渡前村に再疎開。8
月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国とされ、唯々諾々といいなりにな
る保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上を持っていかれ
たよ。これからの子供はアメリカ軍の尖兵として戦場に引っ張り出されるぞ。11月疎開解除により
児童帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都江戸川区立葛西小学校」と改称。同37
年校歌制定。

 校歌
「光あふれる」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.光あふれる空よ海よ
    葛西に育つ若鳥の
    夢は大きくはてなく広い
    弛まぬ勉強自立の誓い
    明日の日本に飛び立つ我ら
  2.入江入江に潮は満ちて
    葛西は日毎新しく
    力寄せ来る希望の世界
    湧き立つ健康漲る平和
    何時も仲良く張り切る我ら
  3.偲ぶ龍頭の松の昔
    葛西の人は今もなお
    心揃えてやり抜く気風
    日毎に鍛錬嵐も越えて
    明日の世界に進もう我ら


 同38年プール完成。同44年体育館完成。同46年日本語学級開設。同49年鉄筋コンクリート
造り新校舎落成。同52年なかよしランド完成。同57年修巳小学校以来の開校100周年記念式典。
平成元年にこにこランド完成。同10年パソコンルーム完成。同12年日本語学級の通級受け入れ開
始。同14年開校120周年記念式典。

 ※沿革の違い
 
[同17年東宇喜田村に「海静小学校」開校。同35年前記3校が合併して「南葛飾郡葛西村立葛
西尋常小学校」となる
]の部分、
 第二葛西小学校の沿革では、海静小学校の開校を「明治20年」としている。また「同24年葛西
村誕生により海静小を第一葛西尋常小学校、修已小を第二葛西尋常小学校と改称する」としている。
 「
昭和3年第一分教場・第二分教場設置」とある部分は、
 「明治35年葛西尋常高等小学校が開設され、第一、第二共に分教場となる」と記し、「現在地に
分教場を合併して新校舎を建設し、第一分教場と呼称する」とも謳っている。この分教場が「東京都
江戸川区立第二葛西小学校」となる。
 しかし葛西小学校と第三葛西小学校の沿革によれば、「
第二分教場が第三葛西尋常小学校になった
とある。第二分教場の跡地に第三葛西尋常小学校を開校したのかも知れない。
 


■葛西中学校

 中葛西2丁目4番5号にある区立校。昭和20年日本、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。
以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い
込む。もう200兆円以上持っていかれっちまったよ。これからの若者はアメリカ軍の尖兵として最
も危険な最前線に駆り出されるよ。それはともかく戦勝国アメリカの強制による学制改革により、昭
和22年葛西小学校内に「江戸川区立葛西中学校」として開校。
生徒数529名10学級でスタート。
後援会設立、国沢茂太郎が会長に就任。同23年校舎建設協賛会を結成し山西静男が会長に就任。ア
メリカの強制により後援会を廃し、PTAを結成、初代会長に国沢茂太郎就任。10月22日新築校
舎落成式、この日を以て開校記念日とする。同25年校舎増築第二次協賛会設立、国沢茂太郎会長に
就任。同26年増築校舎落6教室落成。10月校歌制定。

 校歌
「潮の香の」 作詞・岡部日出夫  作曲・菊地常昭
  1.潮の香の仄かに匂う
    入江なす輝く水脈
(みお)
    学び舎は楽しき処
    身と心 磨き鍛えて
    打ち鳴らす自尊の鐘ぞ
    おゝ栄光あり 葛中我ら
  2.富士ヶ嶺を 見晴るかしつつ
    溌剌とと若き息吹に
    学び舎は夢湧く処
    只管
(ひたすら)に叡智究めて
    開き行く真理の扉
    おゝ使命あり 葛中われら
  3.蘇る世紀の朝に
    故郷の花と馨りて
    学び舎は明日呼ぶ処
    皆和して意気も高らに
    新しき理想を翳す
    おゝ未来あり 葛中われら


 同27年創立5周年記念式典。同30年2月分校落成。1~2年生6学級で授業開始。7月分校独
立し葛西第二中学校となる。同32年開校10周年記念式典。増築校舎8教室落成。同36年プール
完成。鉄筋コンクリート校舎16教室竣工。同38年体育館完成。同39年心障学級新設。同42年
開校20周年記念式典。同43年第二期増改築校舎竣工(7普通教室・図書室など)。昭和46年第
四期増築校舎(心障学級3・特別教室2)落成。同47年日本語学級新設。同48年分校独立、葛西
第三中学校となる。同52年開校30周年記念式典。同58年日本語学級創設10周年記念式典。同
62年第五期増改築鉄筋コンクリート造り校舎竣工。体育館・プール・特別教室(音・技・家)4教
室増改築・改修。同63年施設改築を祝う式典挙行。開校40周年記念式典。
 平成4年図書室を改修してパソコン室完成。図書室は4階の普通教室2教室に移転。同5年校舎外
壁全面塗装。同6年池改修。同9年開校50周年記念式典。同10年4階普通教室2教室を図書室(特
別教室)に改修。8月耐震化工事。パソコン新規設置42台。同12年2階普通教室を改修しカウン
セリングルーム新設。1階PTA会議室を地域開放用として改修。同13年防火扉改修。同15年理
科室(第1・第2)全面改修。西校舎昇降口・各階段に手すり設置。同16年防球ネット嵩上げ。屋
上防水改修。一部緑化完成。給食用リフト設備全面改修。パソコン教室用パソコン入替(42台)。
同19年創立60周年記念式典。同21年学校LAN設定。ノートパソコン31台配備。
 


■横断歩道上刺殺事件
 中葛西2丁目17番東の環七通りの横断歩道上で外国人男性が腹部を刺された事件。令和2年4月
12日深夜1時半頃、「男性が刺された」との目撃情報があり、警察が駆け付けると歩道上に男性が
意識不明の状態で横たわっており、直ちに病院に搬送されたが1時間後に死亡した。刺した男が逃走
するところが目撃されており、殺人未遂事件として捜査が行われる。


■葛西区民館

 中葛西3丁目10番1号にある区の施設。公民館をでっかくした現代版公民館。 


■長島一号公園

 中葛西3丁目21番1号にある区立公園。

 「ト音記号」「ヘ音記号」「八分音符」 ◇
 音符を立体化した珍しいオブジェ。なかがわみさこの作品3点。

 「道」
 古幹昴の作品。防寒態勢ばっちりで頑張って歩く2人の像。

 「道標・鳩」3体
 柳原義達の作品。鳩3つの作品。


■滝野公園

 中葛西3丁目22番1号にある区立公園。

 
原爆犠牲者追悼碑
 公園入口左側に建っている美しい緑の、縦・横2mの自然石がそれだ。昭和56年平和を願う有志
によって建てられた。
「高齢化し広島・長崎への参拝が年々困難になる。何とか区内でお参りできな
いか。」と江戸川区原爆被害者の会「親江会」(当時209名)が中心になって、昭和55年に「江
戸川区に原爆犠牲者追悼碑を建立する会」を結成し、建立の働きかけと募金活動を始めました。碑に
は「原爆の図」作者の丸木位里・俊夫妻が描いた絵「平和の図」が刻まれている。碑に手を合わせる
と広島・長崎を向く方向に建っている。区に寄贈され、翌56年7月に追悼碑除幕式と第一回「江戸
川区原爆犠牲者追悼式」が挙行された。被爆地以外で区立公園の中に設置するのは全国でも珍しく、
区民全体の平和を願うシンボルとなっている。噴水が碑にかかるように仕組まれている。この碑はま
た「成長する碑」とも呼ばれ、広島・長崎から送られた被爆瓦の碑、噴水、平和の鐘、広島・長崎両
市の木、犠牲者名簿碑などが追加され進化している。ブログ「丸木美術館学芸員・岡村幸宣の日誌」
に、

   石碑には、丸木夫妻が下絵を描き、親江会の皆さんが自分たちの手で彫ったという平和の
   鳩の母子像が刻まれています。
   Gさんのお話によると、追悼碑を立てるという案が出て、丸木夫妻に絵を描いて欲しいと
   相談に行った際、俊さんから「まず石を選びなさい。絵は私たちが描くから、石は自分た
   ちで彫りなさい」と言われ、石屋に彫ってもらうものとばかり思っていたGさんは、とて
   も驚いたそうです。
   石屋さんが四国から運んできた自然石には、まず俊さんが母子像を描き、位里さんがその
   まわりを囲むように鳩を描きました。その後、「ちょっと寂しいな」と俊さんが絵の上に
   花を描き添えて、下絵は完成しました。
   それから親江会の皆さんは、週末ごとに集まって、朝から夕方まで石を彫り続けました。
   ところによってはとても硬くて彫るのに苦労した部分もありましたが、石碑は無事に完成。
   丸木夫妻のアドバイスを得て、母子像は朱、鳩は白、夫妻の署名は黒で色を塗りました。
   「自分たちで彫ったおかげで、とても良いものになりました」とGさんは笑顔で語ります。
   「丸木夫妻は、それまで、平和の鳩のなかに赤ん坊の絵を描いていました。私たちは、大
   きな石碑を作りたいので母子像を描いて下さいと俊さんにお願いしたので、もしかしたら、
   平和の鳩の母子像はこの追悼碑がきっかけで生まれたのではないかしら」という貴重な証
   言まで聞かせて下さいました。


 とある。
 

   
原爆犠牲者慰霊碑

 碑裏


   この絵は原爆で亡くなった母と子が鳩になって
   地上の核兵器廃絶を絵ながら訴えながら
   飛んでいる姿を描いたものです

 副碑

   
建碑のことば
   1945年8月6日・9日、広島
   と長崎に原爆が投下され、一瞬にし
   て数十万人の生命が消えました。
   炎天下、水を求めながら亡くなっ
   た人たちに、どうぞ、あなたの手で
   一ぱいの清水をたむけてください。
   この碑の建立にあたっては「原爆
   の図」の作者丸山位里・俊夫夫妻が絵筆
   をとり、江戸川在住の被爆者二百余
   名と区民がノミをふるい、多くの人
   の協力がありました。
     原爆は人が落とさなければ
     落ちてきません。
     この碑によせる人びとの心が
     平和の礎となることを念じて
     一九八一年七月二六日
        江戸川区に原爆犠牲者
           慰霊碑を建立する会

 原爆瓦記念碑
 昭和57年6月、広島・長崎両市から被爆した瓦10数枚の寄贈を受け建立された記念碑で、「原
爆犠牲者追悼碑」に接するように配置されている。碑には被爆した瓦の辿った経過が「一瞬の閃光に
焼かれ爆風にはねられた瓦 川底に眠ること30余年 平和を願う子供達の手ですくいあげられた」と
して刻まれている。

   広島市寄贈
   
原爆瓦
   一瞬の閃光に焼かれ
   爆風にはねられた瓦
   川底に眠ること30余年
   平和を願う子供達の手で
   すくいあげられた。
   原爆瓦
   一九八二年七月二五日
   江戸川原爆犠牲者追悼碑の会

 被爆梧桐(あおぎり)
 中程にある。この木の親木は広島市の爆心地から1.5kmにあった郵便局の庭で被爆、爆心地側の
幹半分がえぐられ、中は空洞になる被害を受けたが、再び芽吹き、緑の葉を茂らせて生き延びてた。
その被爆アオギリが実らせた種子を区民が自宅の庭で大切に育てていたが、被爆50年を機に区に移
植を申し出て、平成7年に原爆犠牲者追悼碑の建っている滝野公園に植樹した。


■地蔵尊 ◇

 中葛西3丁目27番11号共栄橋交番の横にある。


■「双会」

 中葛西3丁目28番1号先の葛西親水四季の道にあるオブジェ。コンクリート桝の上に説明のしよ
うのない彫刻が乗っかっている。背中合わせに2枚あるのでそれが双会なのか? 川嶋猛の作品。
 すぐ南のシーソーが馬になっている。


■リス像

 中葛西3丁目28番3号北の葛西親水四季の道にある石像。


■寿司屋でクラスター
 中葛西3丁目37番12号にある「桜ずし」で、従業員7人中5人の新型コロナウイルスの感染が
、令和2年8月18日発表された。6日に1人が感染して、7日から店は休業している。
 


■「足のある風景」

 中葛西4丁目1番1号先葛西親水四季の道にある丸っこい長靴を逆さにしたような石造物。鈴木久
雄の作品。

   「足のある風景」
   鈴木久雄
   直立して歩行することは地球上の動物にとって奇妙な移動形態である。その奇妙さ故に人
   間は直立する動勢に特別の意味を与えた。動勢の基本を抑えるのは「足」。その様々な意
   志や寓意、物語や造形の風景がある。


■馬頭橋児童遊園

 中葛西4丁目1番21号にある区立公園。


■こぐま像

 中葛西4丁目2番1号南の葛西親水四季の道にある。


■「箱と花崗岩」

 中葛西4丁目3番16号の葛西親水四季の道にある。角柱の上に兎の耳状のピンク色の石の突起物
が2本出ている。山崎隆の作品。


■二反割公園

 中葛西4丁目11番1号にある区立公園。


■馬頭橋親柱 ◇

 中葛西4丁目16番3号先、葛西親水四季の道(長島川)の旧位置付近に建ててある。

   
馬頭橋


■「箱と花崗岩」 ◇

 中葛西4丁目16番5号先、葛西親水四季の道(長島川)の端に設置してある山崎隆の作品。箱か
ら大根のような角が2本。


■馬頭観音 ✓

 中葛西4丁目16番24号にお堂が3つある。


■馬頭公園

 中葛西4丁目17番1号にある区立公園。

 「なかがわみさこバースデイシリーズ4連発
 公園の四隅にあるなかがわみさこの彫刻4連発。「なんのたまご? Whose eggs?」「いつうまれ
たの? When were you birthday?」「だれのたんじょうび? Whose birthday?」「なにがはい
ってるの? What is it?」


■元プロゲーマー浅野可意 女子中学生に自宅ワイセツ
 中葛西4丁目20番20号エスエスビル2階にある自宅に連れ込んで猥褻行為をしたとして、令和
2年10月7日、元プロゲーマーの浅野可意(かい 20歳)が葛西警察署に強制性交等と猥褻目的
誘拐容疑で逮捕された。
 この年の8月15日、ツイッターで知り合った女子中学生に、任天堂の人気イベント「スプラトー
ン」を「一緒に感染しよう。女の人もいるよ」とメッセージを送って葛西駅まで呼び出し、自宅に連
れ込むと、狼に豹変し襲い掛かったという。本人は「無理矢理でなく合意だった」と否認している。
 所属事務所は「昨年11月から〝いぐ〟の名で活動していたが、猥褻行為のため解雇した」とか。


■葛西大師まいり(平成6年2月22日 江戸川区登録無形民俗文化財・風俗慣習)

 中葛西4~7丁目・西葛西6~7丁目を新田地区という。この地区の葛西大師講だ。江戸時代から
続けられている、弘法大師の霊場巡拝の行事。葛西地区には、大師を祀る寺院や堂宇、民家が30ヶ
所ほどあった。かつては5月21日に浦安などの人びとも参加して、全体を廻っていたが、現在は5
組に分かれて巡拝している。先達を先頭に大師の厨子を背負った世話人が続き、講員が鉦を叩き口々
に「南無大師遍照金剛」と大声で唱えながら行進する。大師を祀る寺院やお堂、講員の家などに着く
と、般若心経や光明真言を唱えて勤行します。組によっては、歌や踊りの加わることもある。


■中葛西五丁目児童遊園

 中葛西5丁目2番11号にある区立公園。


■西葛西中学校

 中葛西5丁目10番18号にある区立校。昭和55年「江戸川区立西葛西中学校」として開校。2
年生4学級153名、1年生5学級209名でスタート。標準服・校章・校歌制定。

 校歌「潮風香る」 作詞・大井邦男  作曲・小倉功
  1.潮風香る西葛西
    満ちく力に胸広く
    豊かな心 強き意志
    身を魂を鍛える我ら
  2.たゆとう流れ江戸川の
    光る小波 希望に燃えて
    真理と愛に憧れつ
    正しく清く伸び行く我ら
  3.青空高き学舎に
    皆睦まじく励む時
    友情の花 咲き誇る
    おお我が母校西葛西
 

 同56年機械警備に切り替え。同58年飼育小屋設置。同61年体育館下に普通教室2増築。校庭
夜間照明設置。同63年図書室を体育館下に移動。図書室閲覧室防音化。
 平成元年校庭スプリンクラー設置。同2年創立10周年記念式典。同9年校庭改修。同12年校舎
屋上改造。プール壁面改修。創立20周年記念式典。同13年調理室、被服室改修。同14年第一・
第二理科室改修。同15年スクールカウンセラー室開設。同16年3階・4階教室改修。同17年創
立25周年記念式典。同19年普通教室・美術室・視聴覚室・被服室の冷房化。同22年2階教室改
修。開校30周年記念式典。同23年校庭西側の一部芝生化。
 


■西葛西図書館

 中葛西5丁目10番47号、西葛西駅の直ぐ東、西葛西中学校校庭の東隣にある区立図書館
 


■中葛西五丁目第二児童遊園

 中葛西5丁目11番10号にある区立公園。


■純福音東京教会葛西聖殿

 中葛西5丁目15番13号第三荒井プレイス2階にあるキリスト教会。「韓流カルト」と悪口をい
われている。新宿区歌舞伎町2‐2‐19に本部があるチョン・ヨンギが牧師を務める。英語ではフ
ルゴスペル。ヨイド純福音教会が日本一千万救霊運動の本部として建てた宣教のための教会だとか。
日本のキリスト教徒は4%、韓国・中国は40%、何とも日本人は一神教に馴染まない。世界で唯一
キリスト教が蔓延らない国なのだ。韓国人は信仰心が篤いのか、統一教会、創価学会にしても在日の
人が一生懸命だ。ユダヤが後押ししてキリスト教化に努めるが、ミイラ取りがミイラに・・・
 


■「朝をつげる」
 中葛西5丁目27番2号アゴラビルディングにある彫刻。


■十五面稲荷 → 稲荷神社
 中葛西5丁目28番10号にある中社。表に「大六天」の碑がある。創建年代等は不詳。鳥居の掲
額には明治28年の銘。「十五面
稲荷」と称していたといい、境内地は氏子佐久間平三郎からの寄進地だという。
 「東京都神社名鑑」に、
 

   当神社は、佐久開平三郎の宅地を、寄付好意によっての境内地八十五坪を有する。昔は南
   葛飾郡葛西村大字二之江の名称があって、桑川・二之江・下今井村の飛地で、桑川新田と
   呼んでいた。また創立は不詳。現在の神社は大正二年の建物である。


 とある。


■庚申塔 ◇

 中葛西5丁目31番17号の角の石祠の隣にある。駒型・日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。
「奉造立青面金剛像一體講結衆二世安楽攸」「享保十一丙午歳九月吉辰」「武州葛西領桑川新田」。
「結衆敬白拾四人」
石祠は何か不明。


潮林山二尊院正応寺

 中葛西5丁目36番17号にある新義真言宗の寺。入口正面の本堂は鉄筋コンクリート造り2階建
ての2階にある。右は手前が墓地、奥が庫裏。本堂の裏手も墓地。左は香取神社というお宮が境なし
に鎮座。こちらは社務所もないようだから寺で管理しているのだろう。「新編武蔵風土記稿」に、

   正應寺
   新義真言宗 長嶋村正円寺門徒 潮林山二尊院ト号ス。
   開山空慶、承応二年五月二十五日寂。
   本尊弥陀ヲ安ス。


 とある
 


■香取神社

 中葛西5丁目36番18号にある。境内は潮林山正応寺(同ー17)との境がない。「新編武蔵風
土記稿」に正応寺は東宇喜田村に記載されているので、同村からこちらに移転されたと思われる。そ
の時、神社も一緒に遷座したのだろう。東宇喜田村には香取神社が2社あり、1社は村内雷組の鎮守
(雷香取神社)、他方は村内桑川新田の鎮守。此処の香取神社は旧桑川新田の鎮守と思われるが、正
応寺との関係は記載が無く判らない。
 


■新田児童遊園

 中葛西5丁目36番18号にある区立公園。


■仲町地蔵尊・交通安全大師

 中葛西5丁目40番17号にある小社。小さい方が大師。


■葛西駅

 中葛西5丁目43番11号にある東京メトロ東西線の停車場。昭和44年3月29日東西線全通時
に開業した。駅高架下にある地下鉄博物館は、昭和61年7月12日の開館だ。
 ホームは高架相対式2面4線構造で3階にある。上下ホームの間に2本の通過線を持っており、快
速電車の通過待ちが行われる。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済みだが、途中の2階で乗
り継ぎする。改札口・出口は1階にある中央口のほか、2番線ホーム西船橋寄りに直結する博物館口
の2ヶ所がある。地下鉄博物館へ行くには博物館口のほうが便利ではあるが、中野方面から来た場合
はわざわざここから出るよりも1階の中央口を利用したほうがよいんだよ。駅には「地下鉄博物館前」
という副駅名も付けられている。

 最大の駐輪場
 平成20年4月1日、自転車9400台を収納できる日本最大の地下駐輪場がオープン。この駐輪
場は、自転車を溝にセットし、ボタンを押すと地下へ収納される仕組みで、駐輪場は円筒状になって
いて、1基で18台収納できる。直径およそ7m、深さ凡そ15mの円筒型駐輪場が36基設置され
ており、入庫した自転車を出すのに約23秒しかかからない。駅周辺を埋め尽くす放置自転車の切り
札として登場したこのハイテク駐輪場の使用料は、当日100円、月額1800円。


 「歓」 ◇
 よろこび。駅前南西のタクシー乗り場の南にある母子像。古幹昴の作品。

 「蓮の子」
 駅前南東のバス乗り場の東にある蓮の葉を被る少年像。

 風車2基
 東口と西口に1基づつある。東口が「葛西土地区画整理組合」、西口が「東京臨海ロータリークラ
ブ」からの寄贈。殆ど回ることはないが、偶に回る。東側は発電する。西側は時計塔になっていて太
陽光発電機が付いている。

 
壁面アート
 海、空、紅葉などを表現している。
 


■地下鉄博物館

 中葛西6丁目3番1号にある私立博物館。東京メトロの関連団体である財団法人メトロ文化財団が
運営する施設で、銀座線や丸ノ内線の旧型車両などが展示保存されている。大人210円、子供10
0円というたいへんリーズナブルな入場料金だが、展示内容は交通博物館と比べても引けをとらない
よ。子供だけでなく、大人も十分に楽しめる施設だ。

 
マーキュリー像
 入口前にある。マーキュリーはギリシャの商業の神。全部で15体(池袋3、大手町2、銀座4、
日本橋1、浅草2、上野1、地下鉄本社1)

   マーキュリー像
   昭和26年、銀座駅などの出入口に設置され、地下鉄のシンボルとなりました。昭和39
   年に移設し、今日に至っております。〝マーキュリー〟とはローマ神話の商業の神を意味
   します                               笠置季男 作



■葛西第三中学校

 中葛西6丁目6番13号にある区立校。昭和48年「東京都江戸川区立葛西第三中学校」として開
校。校章制定。同49年第2期校舎落成。校歌制定。

 校歌
「仄々と」 作詞・藤野茂太郎(初代校長)  作曲・高畑実数学教諭
  1.仄々と幸き潮の香
    漂える葛西の里
    平和求めて集いし友と
    我が学舎で助け合い
    豊かな心 育なわん
    栄えあれ我らが母校
  2.暁に映え光る富士ヶ嶺
    望み見る葛西の丘
    理想求めて集いし友と
    我が学舎で語り合い
    豊かな知性 築かなん
    誇りあれ 我らが三中
  3.滔々と澄み清き江戸川
    限り無し葛西の街
    真理求めて集いし友と
    我が学舎で励み合い
    豊かな体 鍛えあい
    若さあれ 我らが母校

 同54年南葛西中学校分校。同55年西葛西中学校分校。同58年創立10周年記念式典。同60
年校舎増築。
 平成元年機械警備導入。同5年創立20周年記念式典。同15年創立30周年記念式典。

 
校歌について
 昭和49年9月22日制定
  歌詞・曲について
 田園の中に建てられた校舎、すぐそこには海があり、潮の香、彼の音が聞かれる。こうした学校環
境で生徒が学び、やがて成人しても、地域の歴史、文化・伝統を忘れることなく「心のふるさと」と
して残るようにとの願いをこめて作詞・作曲に心がけられた。
  制定のいきさつ
 校歌制定委員会を組織して、葛西三中を象徴するにふさわしい歌詞を、広く生徒・保護者・教職員
から公募することにより、愛校心を育てる機会ともした。歌詞は、1番から3番以内、それぞれ10
行以内とした。数回の校歌制定委員会の審議の結果、現在の校歌が制定された。
 


■関口美術館本館

 中葛西6丁目7番12号にある私立美術館。

 
オブジェ
 玄関前にある石の彫刻。作者不明。

 「螺旋に舞う」
 中庭にある。滝川啄史の作品。
 


■関口美術館東館

 中葛西6丁目15番7号にある私立美術館。


■「大いなる人」

 中葛西6丁目24番14号東葛西親水四季の道にある山崎公裕のオブジェ。角柱の石が四角い板を
斜めに被っている。どういう意味だろう。すぐ前にある時計塔も変わったデザインだ。


■「古址のある邑」
 中葛西6丁目27番10号東、葛西親水四季の道にある換気塔のようなオブジェ。これを見た人が
芸術作品とは思わないだろうし、誰も目には留めないだろう。保田春彦の作品。


■「戻らない今日」

 中葛西7丁目12番7号森山総合病院内にある女性像。池田カオルの作品。
 


■新田公園

 中葛西7丁目24番1号にある区立公園。

 「風の子」
 園内北寄りにある古幹昴の作品。風神像だ。


■貝殻のオブジェ

 中葛西7丁目28番17号南の虹の広場通りの歩道のオブジェ。


■「わたしは未来」

 中葛西7丁目31番12号先、左近川親水緑地(実際は中葛西と南葛西の境界線上)にあるモニュ
メント。デザインは抽象的な作品なので説明し難い。四足なので馬かキリンか。森野政頼の作品。


■渡辺家文書
(昭和59年2月28日 江戸川区指定有形文化財・古文書)
 中葛西8丁目の渡辺家が所蔵する古文書。区内最古のものと思われる元和八年(1622)の年号
のある検地帳をはじめとして、元禄期の長島村の検地帳などがある。元和八年の検地帳は「下総国葛
飾郡東葛西内長嶋郷」とあり、当時長島村が武蔵国ではなく、まだ下総国に属していたことを示す史
料。元禄の検地帳では武蔵国となっている。


■第四葛西小学校

 中葛西8丁目8番1号にある区立校。同45年葛西小学校・第二葛西小学校から分校し、「東京都
江戸川区立第四葛西小学校」として開校。葛西小学校から245名、第二葛西小学校から339名が
移籍してスタート。俗に「かさいよんしょう」または単に「よんしょう」と呼ぶ。同46年3月3日
開校記念日と定める。体育館完成。同47年プール完成。同49年本館8教室増築。同51年第七葛
西小学校を分校。児童229名移籍。同52年児童数1114名29学級。同53年児童数1319
名31学級。同54年南葛西小学校を分校。児童378名移籍。984名24名学級となる。開校1
0周年記念式典・記念庭園造成。同56年アスレチック新設。同59年築山新設。平成元年開校20
周年記念式典。学区内の住宅化が落ち着き、児童数が減少に転じ、以降児童数6~700名18~2
1学級を維持。同4年機械警備化。同6年学区変更により73名を南葛西小学校へ移籍。同7年開校
25周年記念式典。同8年給食室全面改修・耐震補強工事完了。同12年開校30周年記念式典。同
14年新田門改修。プール改修。同15年給食室改修。同16年築山改修。同19年校庭改修。同2
0年築山改修。エアコン設置。

 校歌
「展ける葛西の町の空」 作詞・高橋みゑ  作曲・高木東六
  1.展ける葛西の町の空
    白亜の校舎聳え立つ
    希望と知恵の湧く処
    学ぼう心も新しく
    鍛えよう体も誇らしく
    ああ第四葛西 第四葛西小学校
  2.太平洋と江戸川の
    波も輝き風薫る
    平和の理想湧く処
    励もうみんな手を取って
    進もう世界の朝明けに
    ああ 第四葛西 第四葛西小学校


 伸び行く葛西の明るい未来と、この学舎で学ぶ児童に夢を託し平和な社会を築いて欲しいという願
いが籠められている。曲は軽快で自然に口遊みたくなるような曲調になっている。
 


■中葛西八丁目児童遊園

 中葛西8丁目13番11号にある区立公園。


■「うたう」

 中葛西8丁目19番12号先、左近川親水緑道にある、歌っている人の抽象的な像。野嶋久美子の
象。

 


【新堀】(にいほり)1~2丁目                    平成3年2月1日
 新堀村。明治22年一之江村大字新堀、大正2年瑞江村大字新堀、昭和7年江戸川区となって新
堀町。同9年椿町と一部を互いに入れ替え、同13年大部分が一之江・春江町・西瑞江に組み込ま
れ、残りは昭和45年鹿骨2丁目に吸収され新堀の名は消滅した。
 しかし同54年「換地処分」により春江町1丁目の大部分に一之江1丁目の京葉道路以北をあわ
せた町域を新堀として復活し、平成3年に新住居表示新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 新堀の由来
 新墾・新治・新田・新町・新開地に同じで、新たに用水(堀)を掘るということは新しく開墾す
ることと同義。訓みの「にっぽり」「しんぼり」などは俗称。そうルビをふった書籍もあるが、江
戸川区では「にいほり」を正式呼称としている。
  


■新堀の念仏講(昭和62年2月25日 江戸川区登録無形民俗文化財・風俗習慣)

 新堀地区(1丁目・2丁目)の集い。旧新堀村の人々の講で、勝曼寺(新堀1丁目)が世話役をつ
とめている。かつては毎月1日に当番の家に集まり月次を行い、27日に勝曼寺で「お不動さま」と
呼ぶ集まりがあったが、現在は27日に勝曼寺に集まって念仏を上げている。また毎年1月17・1
8の両日には百万遍を行っている。以前は大きな数珠を持って、勝曼寺に始まり勝曼寺に終わる一巡
40軒ほどを回っていたが、平成5年頃からは勝曼寺で念仏と御詠歌を1時間ほど唱える形に変わっ
て行った。
 


■穀倉公園

 新堀1丁目1番1号にある区立公園。


■瀬戸口公園

 新堀1丁目5番1号にある区立公園。


■山王権現社 → 新堀日枝神社

 新堀1丁目5番18号にある大社。祭神は大山咋神。寛永二年(1625)霜月十五日葛飾の正福
寺空鏡法印によって山王地主権現を勧請され、当時の名主八武崎隼人、仁助らの発願によって社殿が
建立された。大工は藤原朝臣谷口加右衛門という。村内の勝鬘寺が別当で、山王社又は山王地主権現
と呼ばれていたが、明治になって日枝神社と改称し、新堀村の鎮守だった。
 「新編武蔵風土記稿」の新堀村の項に、

   山王社  村の鎮守とす。勝曼寺持

 とあり、「東京都神社名鑑」に、

   本神社は寛永二年(1625)遷座という。当時の名主八武崎隼人仁助と亀井家文書にあ
   る。神仏混交時代は勝鬘寺別当寺となる。その後、天保四年(1833)名主孫兵衛によっ
   て山王地主権現の上屋を修築するという。昭和25年道ヶ嶋香取神社宮司兼務となり、現
   在に至る。例年節分には当社代表総代他氏子道ヶ嶋香取神社宮に奉幣する。正月元日は初
   詣で参拝者に亀井和泉神変九字切矢の授与ありて、大いに賑わう。


 とある。

   由緒
   当日枝神社は、寛永二年霜月十五日名主八武崎隼仁助を始め氏予一同発願。導師空鏡師に
   よって山王地主権現を勧請建立 明治初年迄 山王社と稱さるなり、「新堀村日枝神社 
   村の鎮守なり もと山王社と云う 一新後社号改む 社地百坪を有す。 新堀の守護神と
   して祀られ 村の北西に鎮座す」と数々の記録にあるものなり。明治六年一月太政官布告
   「府下諸神社ノ内■■■■セル神社稱号有ルは甚ダ不都合 早々 社号改正云々」により
   日枝神社と改名せり。御祭神は大山祇命を鎮守され 現新小岩香取神社神官の神勤の社と
   なり崇められる。
   大正七年氏示数四十七戸の改築後六十有余年の風霜に堪え老朽甚だしく神威を畏み、昭和
   五十五十一月氏子一同 神徳を奉賛し、建設委員会を組織し、浄財を募りここに造営せり。
   折りしも新堀土地区画整理の大事業も完遂し、この記念事業として一層の念を加うるもの
   なり。総工費金八阡余萬圓也を費やし、社殿と共に境内建造物の全面的築造の完成を見る
   は、神慮の垂示と氏子の敬神の観念に依るところにして、茲に碑を建て永く記録に留むる
   次第なり。
   昭和56年10月吉日                   日枝神社宮司 亀井瑞雄
                            造営建設委員会代表 八武崎榮一


九品山山王院勝曼寺

 新堀1丁目9番12号にある真言宗豊山派の寺。東新小岩の正福寺末。本尊は木造阿弥陀如来立像
で、鎌倉初期の作。本堂の右は庫裏、左と奥は墓所。

   勝曼寺
   勝曼寺は真言宗豊山派で、九品山山王院と号します。約400年ほど前、奥州相馬庄大勝
   寺の住僧善誉房専芸和尚がこの地に来住し、薮崎隼人、山崎甚太郎らの協力を得て、この
   寺を建てたといいます。元禄元年(1688)秀翁和尚が中興しました。山王権現(新堀
   日枝神社)の別当で、将軍鷹狩りの際の御膳所に当てられました。
   ◇木造阿弥陀如来立像
     昭和57年2月登録
     区登録有形文化財・彫刻
   信徒達が、勝曼寺を開いた専芸和尚の菩提を弔うために寄進したと胎内文書にあります。
   像高35cm。寄木造りですが、顔と胸部は一材から彫りだされています。江戸時代初期
   の作と推定されます。
   平成14年12月                       江戸川区教育委員会

 木造阿弥陀如来立像附・紙本墨書造立趣旨文書一紙(昭和57年2月8日区有形文化財)
 阿弥陀如来立像の胎内文書。この立像は本尊で、薮崎氏らが元和十年(1624)3月に寄進した
もの。仏像の胎内から発見された文書によって制作年代が明らかになり、江戸時代初期の作品として
貴重なものであることが判明した。

 ●庫裡火事
 平成28年1月10日正午前、寺から「寺務所が燃えている」と119番通報があり、消防車23
台が駆け付けて消火に当たったが、本堂と隣接する庫裡など住職一家が住む住宅が全焼するなど、2
棟455㎡が燃えた。この火事で、男性1人が軽傷を負った。出火原因は不明。
   


■新堀庭園

 新堀1丁目10番9号にある区立公園。


■新堀一丁目公園

 新堀1丁目20番4号にある区立公園。


■春花園BONSAI美術館

 新堀1丁目29番16号にある、昭和62年11月10日、2年の歳月を経て庭園の整備が完成。
自らが京都へ6年間視察に行き、竜安寺の石庭など京都の建築の良いところを参考にした。経費は、
約1億円といわれる小林國雄が自宅に開いた盆栽園。勿論販売目的なので販売はする。
 数奇屋建築様式で、華燭にみちたものでなく、石の数を少なめにするなど、簡略された美を表現し
ている。

 入口
 入口の屋根は、関東地方では少ない檜皮葺(ひわだぶ)きを用いている。年が経るに連れて苔が乗
り、朽ち果てた雰囲気が出るようになる。

 啓雅亭(けいがてい)
 色々な種類の木を使うと柱や梁の色や艶、木目が違ってしまうため、台湾産樹齢1500年の檜の
原木を利用して建設。「啓」という字は、ひらく、教え導くという意味があり、盆栽の芸術性を開き
皆に知って貰うことを目的に命名。入った左手は、書院造りの窓、足元は、三和土(たたき)になっ
ている。展示されている盆栽は、季節によって代わり、毎月特別展も開かれている。また、壁の掛け
軸も四季の変化に合わせて替えている。

 
茶室「無窮庵」
 平成6年4月に3年の歳月をかけて母屋とともに完成した。「無窮庵」という名前には、芸事を窮
めるのに終わりはないという意味が込められている。

 美術館
 平成14年4月3日にオープン。盆栽を世界に広めたいとの願いから〝BONSAI〟と表示して
いる。建物は厳選した材料を使った純日本建築。建設費約10億円。盆栽・盆器など約2000点を
収蔵。入館料800円
 


■新堀小学校

 新堀1丁目32番1号にある区立校。昭和56年春江小学校から児童493名を移籍して「東京都
江戸川区立新堀小学校」として開校。新入生108名。児童数601名17学級でスタート。同61
年開校5周年記念式典・音楽会。平成2年創立10周年記念式典。平成13年創立20周年記念式典。
同18年創立25周年記念式典。同23年創立30周年記念式典。

 校歌「豊かな緑」 作詞・野中十三夫  作曲・渡辺茂
  1.豊かな緑 高い空
    大きな川の流れにも
    明るい理想
(ゆめ)が溢れてる
    草の芽 木の芽匂う街
    美しく育つ 花咲く 実を結ぶ
  2.聳える校舎 広い校庭
(にわ
    躑躅
(つつじ)も公孫樹(いちょう)も楠の木も
    強く生きよと呼びかける
    仲良く みんな手を繋ぎ
    逞しく学ぶ 鍛える やり遂げる
 


■高田公園

 新堀2丁目20番4号にある区立公園。


■新堀しゃくやく公園

 新堀2丁目29番8号にある区立公園。

 


【西一之江】(にしいちのえ)1~4丁目             昭和59年11年1日
 西一之江村。室町時代にはあったとか。明治22年松江村大字西一之江・船堀村大字西一之江。
大正3年荒川放水路の開鑿により船堀村が廃村に追い込まれ、一部が松江村に編入され残り大部分
は小松川町を構成した。同15年松江町大字西一之江、昭和7年江戸川区が成立して西一之江1~
2丁目と南船堀町に分かれた。同13年西一之江の一部を一之江に、同42年松江に、同45年鹿
骨にそれぞれ譲って、同56年新住居表示を実施、一之江の一部を編入して現行の「西一之江」を
確定した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
西一之江の由来
 
一之江用水の西側の意。一之江は「一之江」を参照。


■松江第四中学校

 西一之江1丁目16番1号にある区立校。昭和31年3月24日に松江第三中学校の分校として発
足し翌32年独立、「江戸川区立松江第四中学校」として開校。同42年創立10周年記念式典。同
52年創立20周年記念式典。同62年体育館完成。創立30周年記念式典。平成3年パソコンルー
ム完成。同6年プール改修。同9年創立40周年記念式典。同12年校舎耐震強化。同19年創立5
0周年記念式典。

 校歌「霞に煙る国府台」 作詞・森本治吉  作曲・榊原直
  1.霞に煙る国府台
    桜浮かべて行く水清し
    江戸川男子の故郷の町
    入船出船水の都に
    泳ぐよ走るよ熱球打ちて
    鍛錬の道果て無く登る
    嗚呼三歳の春秋歓喜溢る
  2.葦切鳴きて明け行く朝
    雲間に白き富士ヶ嶺清し
    葛飾乙女の揺籃の町
    蓮咲き薫る水の都に
    学ぶよ励むよ智恵の実恋ひて
    学芸の道只管(ひたすら)進む
    
嗚呼三歳の夏冬輝き溢る
  3.父母の慈愛を師の御教えを
    心に染めて未来の夢は
    賢く優しき乙女とならん
    正しく強き男子とならん
    歴史を築く柱とならん
    誓う我ら 松江第四中学生


 この校歌は松江第三中学校と同じもので、3番の「松江第四中学生」の部分のみが違うだけだ。但
し松江四中には独自の応援歌がある。作詞作曲は藤原聖二
  1.若き血潮の燃ゆる日を
    我等が健児 起てよいざ
    群がる敵を皆打ち倒す
    我等が母校 松江四中
  2.若き血潮の燃ゆる日を
    我等が健児 競えいざ
    輝く栄冠 皆我がものぞ
    我等が母校 松江四中
 


■板碑2基
(昭和57年2月8日 江戸川区指定有形文化財・歴史資料)

 西一之江2丁目の福嶋家にあるという。種子は釈迦如来。福島家に隣接した畑から出土した。嘉元
二年(1304)の紀年銘がある。
 今1つは、種子は阿弥陀如来。これも隣接した畑から出土した。文保三年(1319=元応元年)
の紀年銘がある。同時に出土したのか、日を置いて発見したのかは不明。


■大杉東小学校

 西一之江2丁目8番5号にある区立校。同28年1月大杉小学校の分校として設置される。4月独
立して「江戸川区立大杉東小学校」として開校。同30年1月21日開校記念日と制定。4月
4普通
教室増築、給食調理室落成。同32年4普通教室増築。12月校歌制定。

 校歌「白鷺飛び交う」 作詞・葉山靖  作曲・石桁真礼生
  1.白鷺飛び交う大杉の里に
    田圃の実り学舎に映えて
    我らは鍛える丈夫な体
    ああ明るい大杉東 大杉東
  2.菊の香薫る大杉の里に
    教えの恵み学舎を育て
    我らは励む学びの道に
    ああ栄えある大杉東 大杉東
  3.富士の嶺 遥か 大杉の里に
    父母の慈愛は学舎を護り
    我らは進む手を取り合って
    ああ伸び行く大杉東 大杉東

 同34年25m×7mプール完成。同41年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第一期9教室・玄
関ホール・用務員室など竣工。同45年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第二期6教室・管理室・
給食室など竣工。同46年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第三期9教室など竣工。同47年鉄筋
コンクリート造り3階建て校舎第四期9教室・特別教室(理科・図工・音楽)など竣工。同48年2
5mプール新設・更衣室・シャワー室・ポンプ室・倉庫付設。校地整備。同50年大杉第二小学校分
校に伴い、400名を移籍。同56年図書室改修。同57年創立30周年記念式典。平成9年パソコ
ン教室新設。同15年創立50周年記念式典。同16年給食業務民間委託。すくすくスクール開設。
外部評価委員会設置。同20年校舎耐震化。エアコン設置。校内LAN導入。
 


■日枝金山神社

 西一之江2丁目23番17号、京葉道路からちょっと入ったところにある小社。創建年代は不詳だ
が、西一之江村に数多くあった社の内の山王社と金山権現社が合社したものと思われる。
 「新編武蔵風土記稿」
西一之江村の項に、

   山王社
   金山権現社(円福寺持)

 とある。


■西一之江三丁目児童遊園
 西一之江3丁目17番1号にある。


長慶山寿命院円福寺
 西一之江3丁目28番13号にある真言宗豊山派の寺。賢明(天文十九年寂)が開山となり創建し
たという。入口直ぐに外に向かって左に六地蔵。右にも3体の地蔵さん。境内は広く空が大きい。入
ると左に墓地が広がり、正面に本堂。右は会館と庫裏。観音、地蔵など仏像が所狭しと露座で安置され
ている。賑やかなこっちゃ。「新編武蔵風土記稿」に、

   円福寺
   新義真言宗、東小松川村善照寺末。長慶山寿命院と号す。本尊地蔵を安ず。開山賢明、天
   文十九年二月二十六日寂。
   鐘楼、寛延四年鋳造の鐘をかく。


 とある。
 


摂取山光照院法養寺  
 西一之江3丁目33番1号にある浄土宗の寺。通称「こどもでら」。大永元年(1521)貞誉法
養大和尚の開山。本尊は阿弥陀如来。山門を入ると参道を50mばかりで左へ曲がると鉄筋コンクリ
ート2階建てのインド様式のような変ったデザインの本堂。参道の正面は併設の幼稚園で、幼稚園と
本堂の間が庫裏。参道の右は墓地になっている。「新編武蔵風土記」に、

   (西一之江村)法養寺
 浄土宗、上今井村浄興寺末。光照山摂取院と号す。本尊阿弥陀を安ず。開山貞誉、天正二年五
 月十八日寂。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   
法養寺
   浄土宗で摂取山光照院と号し、大永元年(1521)貞誉法養大和講によって開山されま
   した。本尊には阿弥陀如来をまつっています。
   ◇戒誉上人筆子塚(江戸川区登録文化財)
   当寺は、「こどもでら」と通称され、明治39年に焼失した庫裡を教場にして寺子屋が開
   かれ、歴代住職が師匠を務めました。筆子(寺子屋の生徒)は、旧東小松川村、松江村、
   瑞江村一帯から集まったといわれます。筆子塚は、成長した筆子たちが師匠をしのんでた
   てた供養塔(墓石)のことです。享和二年(1802)に入寂した定蓮社戒誉上人の墓石
   には「読書手跡門人」(筆子)による建立であることが記されています。
   平成元年3月                         江戸川区教育委員会


 戒誉上人筆子塚(昭和63年2月25日 江戸川区登録有形文化財・歴史資料)
 墓地にある。筆子塚とは、江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算術や実務教
育を受けた教え子が、師匠が亡くなった際にその遺徳を偲び、自分たちで費用を出し合って建てた墓
や供養塔のことだ。浄土宗法養寺は、歴代住職が寺子屋を開き、周辺の子弟に読み書きを教えていた
ことから、「子供寺」と呼ばれていた。教場としていた庫裡は、明治39年に焼失したが、幕末から
明治初頭にかけて住職だ22世戒誉連瑞上人の頃は、東小松川村・松江村・瑞江村一体から子供たち
が通っていた。戒誉上人は、法養寺住職で、享和二年(1802)に亡くなった。石塔には「読書手
跡人」とともに、

   露の身のうへなんことをいつしか□かねて心におかぬ日はなき

の和歌が刻まれている。


■庚申塔2基  
 西一之江3丁目33番1号ひかり幼稚園正門脇にある。
石川氏の資料によれば、寛延三年(175
0)造立の、舟形光背型 青面金剛像の庚申塔があるはずが、見つからない。しかしこの仏像の台石
には「庚申講中」とある。青面金剛像の痛みが激しく、台石のみ残し上部を替えたものだろう。


■西一之江香取神社
 西一之江3丁目35番22号にある中社。「新編武蔵風土記稿」西一之江村の項に、

   香取社
   今宮八幡社(円福寺持)

 とあり、「江戸川区史」に、

   香取神社(西一之江一丁目二四六二番地)
   祭神は経津主命、土地の旧家で代々宮総代をつとめる藤ケ谷家の祖先が、御神体を奉持し
   て下総国に下り、神社を創建したという。鎌倉時代の事といわれるが年月は不明である。
   社殿は万治二年に再建され、また昭和四十三年に改修された。


 とある。
 


■神社
 西一之江3丁目39番18号にある小祠。
 


■神社

 西一之江3丁目40番14号にある小祠。
 


■西一之江四丁目公園
 西一之江4