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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!
平成17年2月11日発信  リンクフリー
地名の由来 東京23区辞典  引用自由

 日本人の、日本人による、日本人のための日本
日本で一番治安の悪いと評判の地区。不良在日が多い
足立区の地名の由来
 現在も進行形の調査なので誤謬訂正と記事追加のあることをご承知ください。

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 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋)
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 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
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 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 豊 島 区  池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
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【巻末特集】 江戸城 城門と橋 
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 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
   

 
「尾崎豊終焉の地」「尾崎の部屋」は、千住河原町へどうぞ。
 「女子高生コンク・・・・件」は、・・・綾瀬だ!
 

足立区の地形
 足立区は全域が低地と微高地(自然堤防)で構成されている。上野台地と松戸台地の間にあって平
均で25m低い。つまり立川ローム層・武蔵野ローム層・下末吉層が氷河期に削り取られて出現した
広大なU字谷の底に位置する。ほぼ国道4号線を境にして、東側に、昔はかなり内陸に入り込んでい
た東京湾を由来とする海岸低地が、西側には荒川と隅田川の、過去幾度かの氾濫によって発達した荒
川氾濫低地が分布しており、部分的に混在している。またこれらの低地には自然堤防と呼ばれる砂分
を主体とした微高地(特に西側に多く分布)が散在している。比率的には微高地は区全体の3分の1
を占める。全体として東京低地なので、栗原の堤防が切れると、一溜まりもない水害地となるぞぉ。
広大なU字谷の谷底に位置することを忘れたらあかんよ。
  

■地形・地質と住宅基盤

 
氾濫低地
 
荒川や毛長川流域に広く分布する標高の低い平坦面だ。地下水位が高く、軟弱な粘土やシルト(泥
地)が厚く分布しているため、長期的な沈下(圧密沈下)が問題になっている場所が多く、適切な基
礎補強策が必要ってことだ。

 
海岸低地
 東京湾沿岸に広く分布する標高の低い平坦面だ。地下水位が高く、上部には緩い砂や軟弱なシルト
(泥地)などが分布しているため、標準的な基礎では、十分な耐力を確保することが困難であり、適切
な基礎補強策が必要となるわいな。

 
自然堤防
 周囲の氾濫低地や海岸低地と比べ海抜高度が僅かに高くなった微高地形で、本来は河川に沿って帯
状に分布する。河川によって運搬された砂や砂礫が浅い深度から分布しているため、住宅地盤として
は比較的良好な場合も多い。しかし河川の度重なる氾濫と蛇行によって、自然堤防の上に軟弱な粘性
土や緩い砂が新たに堆積し、自然堤防が埋没している場合には、基礎補強対策が必要となる。
 

■毛長堀沿岸地帯
 毛長堀は、昔、沼沢状態だった川で、埼玉県川口市に源があり、全長7Km、幅6m、東京都と埼
玉県との境を流れているが、都に所属する川岸は、舎人、伊興、花畑の一部に入り、新郷、谷塚、草
加の一部が埼玉県に所属し、足立区舎人先、川口市江戸袋・八幡木から都県境に沿って流れ、足立区
花畑町北部で綾瀬川と合流している。この毛長堀の改修工事が綾瀬川との合流点から水神、伊興上谷
下(いこうかみやじった)にかけて実施された時、種々の弥生時代の遺物が出土した。区内の遺跡の
多くは、毛長堀沿岸地帯、江戸袋―伊興―花畑にかけて分布しており、伊興遺跡もその一つだ。この
遺跡は、これら遺跡群の中央部に当たり、南東の葛飾区の柴又―新宿―立石の遺跡群と相対している。
毛長堀沿岸地帯は、東は古利根川、綾瀬川に、南は荒川に面しており、江戸袋は足立台地の最南端に
位置している。従って土地は平坦で殆ど高低がなく、僅かに北西部寄りに高く、南東部にかけて低く
なっている。遺跡は標高3m内外のものが最も多く、地質は大体沖積新層埴土で、利根川と荒川とに
よって堆積されたものなんだよ。
 足立区は石器時代はまだ海の底、縄文時代に陸地になっていったので、人が住むようになったのは
3世紀末~4世紀初めごろと考えられている。これ以前の遺物遺跡は発見されていない。
 毛長の謂れは、伝説で、長者の娘がいろいろあって沼に身を投げ、数年後に髪の毛が流れ着いたこ
とによるといわれる。埼玉側にその毛髪を祭神とする神社がある。
 

■主な河川及び橋梁

 
隅田川
  新神谷橋・新田橋・新豊橋・小台橋・尾久橋・尾竹橋・千住大橋・常磐線鉄橋・つくばエキスプ
  レス鉄橋・日比谷線鉄橋、千住汐入大橋。
  ※南岸は、概ね北区、荒川区であり、北岸の新田、宮城、小台、千住の各地区は、北側を平行し
  て流れる荒川にはさまれた帯状の島状地域となっている。

 
荒川
  鹿浜橋・五色桜橋(首都高王子線)・江北橋・扇大橋・西新井橋・千住新橋・千代田線鉄橋・常
  磐線鉄橋・つくばエキスプレス鉄橋・東武スカイツリーライン(伊勢崎線)鉄橋、京成本線鉄橋
  ・堀切橋
  ※当区内の流域は、水害防止のため荒川放水路として隅田川に並行して掘削された人工河川であ
  るため河川敷が広くとられており、氾濫防止のため堤防が高く設けられている。そのため橋の数
  は交通量に比して少なく車両混雑が頻発しており、南北両岸地域の交流や、バス交通に頼る西部
  北岸地域から都心方面へのアクセスの妨げとなっている。反面、広大な河川敷を利用してサイク
  リングロードや野球場などのレクリエーション施設が整備されており、区民の憩いの場としての
  面も持ち合わせている。


 
綾瀬川
  
桑袋大橋・浮花橋・内匠橋・新加平橋・綾瀬新橋・五兵衛新橋・伊藤谷橋・千代田線鉄橋・常磐
  線鉄橋。寛永時代に運河として開鑿された人工河川。

 
中川
  飯塚橋。
  利根川東遷と荒川西遷で残った流路を、両川の間に位置することから中川とした。江戸時代の中
  川は、元荒川、庄内古川、古利根川などの流れが合流した地点から下流を指したが、明治時代に
  庄内古川、島川の流路が本流とされ、遡ってこれらも中川と呼ばれるようになった。
  ※東岸は葛飾区

 
新芝川
  入谷大橋・南平大橋
  西岸は概ね川口市だが、同市東領家の一部は東岸にある。

 
毛長川 
  中居橋・砂小橋・舎人二つ橋・毛長橋・谷塚橋・東武スカイツリーライン(伊勢崎線)鉄橋・毛
  長堀橋・水神橋・花畑大橋・鷲宮橋
  ※北岸は草加市。

   毛長川の起こり
   埼玉県の新里村に、心の優しい長者が住んでいた。この長者に美しい娘がいた。やがてこ
   の娘も年頃になり、川を隔てた舎人村の長者の息子のところに嫁入りすることになった。
   この息子はイケメンだったので、村人らは「お雛様ような夫婦ができるぞ」と大喜びで噂
   した。やがて2人は結婚し、似合いの夫婦になり、周囲が羨むような楽しい日々を過ごし
   ていった。しかしそれから数年経った或る夏のこと、急に両家の仲が悪くなった。娘は後
   継ぎの赤子も生んでなかったので、毎日々々思い悩むようになった。可哀そうに、あれほ
   ど美しかった娘は、周りの人間が見ても苦しみが判るほど衰えて行った。
   ある日のこと、娘は胸の苦しみを実家に訴えようと、ふらりと舎人の長者の家を出た。し
   かし足が重く、沼の畔にへたり込み、やがて思案する内に思い余って入水してしまった。
   娘を呑み込んだ沼は、暫くの間は波立っていたが、その後は元の静かな沼に戻った。
   娘の姿が見えなくなったので、両家はもとより村人挙って探したものの見つけ出すことは
   できなかった。ところがそれからというもの、長雨が続くと沼が荒れて大波が立つように
   なった。村人は「あの娘が沼の主になったのだ」と噂する。それから数年経った夏、猛烈
   な嵐が数日続いた後、2、3mもあるかという黒髪が沼の岸に流れ着いているのを村人が
   発見、直ちに新里の長者の下へ届け出た。長い黒髪を受け取った長者は「娘が戻って来て
   くれた」と大そう喜び、これを神体として沼の主を祀ったところ、沼が荒れることはなく
   なった。
   このことから、この沼を「毛長沼」、沼に続く川を「毛長川」と呼ぶようになったとか。
   現在、新里にある毛長神社の神体は毛髪だ (舎人地域学習センター)。
 
 


足立区の歴史
 奈良時代 
 足立区に関する最も古い記録は、天平七年(735)足立から奈良の都へ「蓮の実」を送ったと書
かれている「木簡」だ。平城京遺跡から出土した。その頃、既に大和朝廷に支配される状態にあり、
収穫した産物を、国の中心である奈良の都へ届けるような関係にあったと思われる。湿地を蓮田とし
て利用していたんだろうね。蓮の実は「薬」として使われていたとようだ。木簡とは薄く削った木の
札で、今日でいうメモ、記録帳、荷札のことだ。遠く離れた奈良までどのように運ばれたのか、どう
いうルートを通ったのかなどは不明だ。舟により太平洋沿岸を伝って行ったか、険しい難路を馬の背
に揺られて行ったかしたんだろう。今から1300年以上も前から、足立と奈良との間で物流があっ
たということは大変興味深いねぇ。しかしこの頃の足立は埼玉県の北足立をも含むから、足立区内か
ら送ったかどうかは判らない。

 平安時代
 今から900年以上前、源頼義・義家・義光一行は、京都から東北征伐に向かう途中に足立を通り、
戦が無事に勝利するよう神仏に祈ったといわれる。謂れのある土地を辿ると、道が一本に繋がってい
て、古くから東北へ向かう道が区内を通っていたことが判る。源頼義、義家、義光親子が自分達の目
印の「白幡」を立てたという伊興の「白幡塚」現在は公園になっている。
 「千住大橋の架橋」「千住宿の制定」、そして「綾瀬川の改修と見沼代用水の整備」が行われた江
戸時代に、足立区は大きく変貌を遂げた。時の将軍徳川家康は江戸を水害から守る為に、関東地方の
川の流れを変え、綾瀬川を修復、利根川の流路を移し、足立や埼玉県の田畑の質の向上に成功する。
そして千住大橋を架け、「藩」という国の間を往来しやすくしたため、江戸は爆発的に人口が増加、
千住には江戸へ出荷する野菜市場が設けられ、足立の人々は、野菜を市場に届けた。葦で覆われた土
地も、耕した人が使える権利を与えたので、人々は一所懸命に湿地を開発田畑に変えて行った。

 
鎌倉・室町時代

 鎌倉幕府の編纂した公的記録「吾妻鏡」に、元暦元年(1184)足立遠元という武士が奥州合戦
の際、源頼朝に従って出発し、側近として活躍をしたとある。その後も足立氏の名は度々登場する。
また康元元年(1256)街道に夜盗、強盗が出没するので伊古宇又次郎らに街道筋の警護が命じら
れている。伊古宇氏は伊興周辺を支配する武士であることから、奥州へ通ずる主要な道筋となってい
た「伊興」周辺の、治安維持の役目を担うよう命じられたのだろう。また盗賊が横行するという事は、
十分に人の往来があり、集落もあったことが判る。
 戦国時代、
伊古宇氏は衰退し、代わって千葉氏が渕江・伊興・保木間を領有し、後北条氏に従属し
ている。千住は〝千葉氏一族が住んだ〟ことから起きた地名だともいわれている。

 江戸時代
 天正十八年(1590)徳川家康が江戸に入り、慶長八年(1603)幕府を開いて政治の中心を
江戸に移した。当時下町低地には利根川、荒川などの大河川が流れ、下流の首都江戸も含めて度々水
害の被害に悩まされていた。幕府は河川の改修に取り掛かり、利根川を東遷させて河口を銚子へ向け、
また荒川は入間川に移し、江戸を水害から守ると共に、足立区域については、見沼代用水を整備し、
悪水落としの新綾瀬川を開き農業基盤を整えた。
 また千住大橋を架け、江戸4宿の1つとして千住宿を整え、日光街道も整備していった。この千住
には、物資の集散地として青物市場も出来、近郷近在から農業産品を始め多量の物資が流通して賑わ
い始めた。舟運によって入間、川越と結ばれ、物資・文化が行き来した。
 新田開発の政策も取られ、神奈川や八王子、埼玉からも人々がやってきて入植した。大消費地江戸
近郊の地の利を生かし米・野菜を中心に農業生産に精を出した。こうして苦難に苦難を重ねて次第に
耕地を増やして行き、忽ちにして湿地は農地に生まれ変わった。
 

   東京府
 
現在の足立区の区域に入る江戸時代の41町村は、慶応四年(1868)武蔵知県事桑山圭助に属
し、同2年1月13日~同4年11月13日の小菅県を経て東京府に編入、同7年3月8日「大区小
区制」の拡大で第10区に組み入れられ自治権喪失。同8年11月22日埼玉県から舎人村を編入、
明治11年7月22日大区小区制の失敗に鑑み発布された「郡区町村編制法」により全域が南足立郡
に復し、国民の輿望による更なる自治権拡張のため、同22年5月1日「郡区町村編制法」を廃した
新たな自治法「市制町村制」により千住町・西新井村・梅島村・江北村・綾瀬村・東渕江村・花畑村
・淵江村・舎人村の1町8ヶ村に統合されて自治権は少し拡大した。

 
千 住 町 千住北組・千住中組
 
西新井村 西新井村・本木村・興野村
 
梅 島 村 梅田村・島根村・小右衛門新田・栗原村
 
江 北 村 小台村・沼田村・堀内村・鹿浜村・鹿浜新田・加々皿沼・宮城村
 
綾 瀬 村 次郎左衛門新田・弥五郎新田・五兵衛新田・伊藤谷村
 
花 畑 村 花又村・六ツ木村・内匠新田・久左衛門新田・辰沼新田・久右衛門新田
       長左衛門新田・嘉兵衛新田
 
東渕江村 佐野新田・大谷田村・長右衛門新田・蒲原村・北三谷村・普賢寺村
 
淵 江 村 保木間村・六月村・竹塚村・(伊興村)
 伊 興 村
 
舎 人 村 古千谷村・舎人村・入谷村

 同24年5月1日淵江村から伊興村が分離して1町9ヶ村、昭和3年梅島村と西新井村が町制に移
行して3町7ヶ村、同7年10月1日東京市の20区増設によりに市に編入、南足立郡下の町村が統
一して一区となり、郡名を区名にスライドして足立区106町となった。

 東京都
 昭和18年「府県制改正」により東京都所属、同21年9月27日「都制改正」により知事・区長
が任命制から公選制に移り自治権が大幅に拡大した。国家主義の内務省官僚が権力の喪失を嘆いて大
反対したものの、占領軍が「私利私欲に走らず国民を自由にしてやれよ」と諭して押し切った。内務
官僚は泣く泣く引き下がって臍を噛んだ。同37年5月10日「住居表示に関する法律」が施行され
たが、この区の大半は不名誉な施行除外だった。
 しかし平成16年現在86町のほとんどで完了、新住居表示未実施は千住2~3丁目・千住橋戸町
・千住緑町の4町のみ。舎人町・古千谷1~2丁目・西伊興町・入谷町の一部が残っているが舍人公
園に吸収される町域で、公園が完成すれば旧町名は消滅する。
 「東京のチベット」「埼玉の植民地」「彼氏に住んで欲しくない23区ナンバー1」というイメー
ジだというのを足立区の人から聞いた。田舎っぽいのは西武線沿線だし、逆説的には足立区の人は自
慢してるんだと思う。この区だけはマンション団地になって欲しくない。筑波エキスプレスの開通で
都心と直結したし、新交通システム日暮里舎人線も開通、総合病院もあり、練馬・江戸川両区を越え
ている。このホームページのアクセス数は、ここんところ足立区が世田谷区を押さえてトップを維持
している。もう「東京のチベット」などとはいわせない。
 区役所は中央本町にあり、友好・姉妹都市はベルモント(オーストラリア)。
 参考資料『足立区史』『足立区の歴史』『大日本地名辞典』など。

■教育施設

 
小学校( 区立校 69 私立校 0 )

 青井・綾瀬・伊興・梅島・梅島第一・梅島第二・扇・大谷田・加平・亀田・北三谷・北鹿浜・
 栗島・栗原・栗原北・弘道・弘道第一・江北・高野・古千谷・皿沼・鹿浜第一・鹿浜西・島根
 ・新田学園・関原・千住第八・竹の塚・辰沼・寺地・舎人・舎人第一・中川・中川北・中川東
 ・中島根・長門・西新井・西新井第一・西新井第二・西伊興・花畑・花畑第一・花畑西・花保
 ・東綾瀬・東伊興・東加平・東栗原・東渕江・平野・渕江・渕江第一・保木間・
 宮城・六木・弥生
 ★小中一貫校(2)
 興本扇学園(興本)・新田学園(新田)
 ★統合校(10)
 足立(千住第五・五反野)・足立入谷(入谷・入谷南)・桜花(花畑東・桑袋)・鹿浜五色桜
 (上沼田・鹿浜)千寿(千寿・千寿第二)・千寿桜(千寿第六・千寿第七)・千寿常東(千寿
 第四・柳原)・千寿双葉(千寿第三・元宿)・千寿本町(千寿第一・千寿旭)・西保木間(渕
 江第二・竹の塚北)・本木(本木・本木東)

 中学校( 区立 35  私立校 2)
 第一・第四(夜間一般・夜間日本語)・第五・第六・第七・第九・第十・第十一・第十二・第
 十三・第十四・青井・伊興・入谷・入谷南・加賀・蒲原・栗島・江南・竹の塚・西新井・花畑
 ・花畑北・花保・東綾瀬・東島根・渕江・谷中・六月
 ★小中一貫校(2)
 興本扇学園(扇)・新田学園(新田)
 ★統合校(4)
 千寿青葉(第三+第十五)・千寿桜堤(第二+第十六)・江北桜(江北+上沼田)・鹿浜菜の花
 (鹿浜+第八)
 
足立学園・潤徳女

 高等学校 ( 都立校 9  私立 2)
 青井・足立工業・*足立・足立西・足立東・足立新田・*荒川商業・*江北・淵江
 *は定時制あり
 
足立学園・潤徳女子

 
大学・短期大学
 帝京科学大学(千住)・東京未来大学・東京電機大学(千住)・東京芸術大学(千住)
・東京芸術大学音楽学部アートリエゾンセンター・放送大学足立学習センター・

 
養護学校 3

 足立・城北・南花畑

■文化施設

 図書館 16

 伊興・梅田・興本・江北・佐野・鹿浜・常東・新田・竹ノ塚・中央・舎人・東和・花畑・保塚
 ・宮城 他にやよい区政資料室・産業情報室・男女参画プラザ消費者センター資料室がある。

 郷土博物館・都立東京武道館・愛恵まちづくり記念館・足立生物園・ギャラクシティ(西新井ホー
ル・こども科学館)・エルソフィア(女性センターなどの複合施設)・学びピア21(区立中央図書
館)・シアター1010・足立産業芸術プラザ(東京芸術センター)・西新井大師・舍人公園・都市
農業公園・東綾瀬公園・ベルモント公園・五反野親水緑道・上沼田東公園・宮城ゆうゆう公園・柳原
千草園・桑袋ビオトープ公園・大鷲神社・西新井大師・関原不動・赤門寺・赤不動・・・

 区歌
「わがまち足立」 橋本完寿郎・作詞作曲  團伊玖磨・補作
  1.笑顔 人の和 手を繋ごう
    あの町 この町 公園に
    五色桜よ 平和の花よ
    永久に咲かせる故郷は
    ああ我が町 この花の下
    ああ故郷 我が足立
  2.緑は生命 触れ合いの
    広場を飾るチューリップ
    明るく 強く 伸びやかに
    歌声溢れる故郷は
    ああ我が町 この歌の下
    ああ故郷 我が足立
  3.輝く未来よ 若人よ
    明日への夢を 限りなく
    川面は移す青い空
    高く広がる故郷は
    ああ我が町 この空の下
    ああ故郷 わが足立
  

 足立音頭(昭和25年制定)
    思い焦がれたあの娘に逢うて
    恨むまいぞ得切り花小花
    並ぶ菅笠笑顔が漏れる
    やがて嬉しい秋祭り
    テモサッテモ
    足立よいとこ 足立よいとこ米どころ
    スッチョンナ

 新足立音頭(昭和45年制定)
  1.ハァーソレ
    千住大橋 渡れば響く
    卸市場の勇み声 チョイト
    あなた環七 わたしゃ四号線
    花の足立で縁結び 縁結び
    足立音頭で チョイサッサ
    ソレ チョイ チョイ
  2.ハァーソレ
    藤か牡丹か お大師様か
    両手合わせる恋娘 チョイト
    見たか浮き彫り 大鷲 氷川
    偲ぶ一茶の炎天寺 炎天寺
    足立音頭で チョイサッサ
    ソレ チョイ チョイ
  3.昔米所(どこ) 黄金の穂波
    変わる足立は人の波 チョイト
    並ぶ団地の窓 窓 窓に
    月も射しこむ竹ノ塚 竹ノ塚
    足立音頭で チョイサッサ
    ソレ チョイ チョイ
 


■区の花 チューリップ

 平成4年制定。Tulip,Tulipia gesneriana ユリ科チューリップ属の植
物。
球根ができ、形態は有皮鱗茎。和名「は鬱金香(うこんこう)」、中近東では「ラーレ」と呼ばれ
る。アナトリア、イランからパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、カザフスタンのステップ地帯が
原産。多様な園芸品種が存在する。外観は、花弁が先端が丸いもの・尖ったもの・フリル状のものあ
る。咲き方は一重から八重。すぼまった状態で開花するものや花弁が外側へ反り返り全開して開花す
るものなど。花色も青以外の赤・黄・オレンジ・白・緑・紫などの単色や複数の色のものなど、数1
00品種のチューリップが存在する。青バラと同様に多くの育種家によって青いチューリップの開発
が進められているが、花弁全体が青い品種は発表されていない。チューリップの花を上から覗くと、
花弁の根元に青い部分が存在する。その部分には青い色素がみられ、その青い部分を増やすことで青
いチューリップを作る研究がされている。
 鹿浜2丁目の足立区都市農業公園では、春になるとチューリップが色鮮やかな花を咲かせ、訪れる
人たちの目を楽しませている。荒川河川敷にある花壇には、6種類(赤・白・黄色・ピンク・紫・黄
赤)約20000球が色毎に分けて植えらるが、毎年テーマに沿って絵を画くように、「ダイヤモン
ド富士」とか、園内にある「古民家」とかを表現しており、土手から眺めれば素晴らしいチューリッ
プのアートが楽しめる。植え込みの間には小道が設けられ、来園者は目前で花の美しさや記念写真の
撮影を堪能することができる。
 毎年4月20日頃に「春の花まつり」を開催。当日は、花と緑の即売会や裏千家による野点(のだ
て)などが催される。見ごろは、4月下旬までだよ。


■区の木 サクラ

 桜。平成4年制定。サクラの仲間は、バラ科に属する樹木。バラ科には、約100属、3000種
の植物があり、全世界に分布している。分類学的には、バラ科はサクラ亜科、ナシ亜科、バラ亜科、
シモツケ亜科の4つの亜科に分けられ、日本にはいずれの亜科も分布してい。
 日本には、サクラ亜科で主要なグループのサクラ属がある。サクラ属は落葉性で形状は高木、低木
など様だ。特徴としては、葉は互生で、鋸歯があり、托葉がある。また花は両性花で、がく片と花弁
は5枚(5数花)、多数の雄蕊があり、普通、雌蕊は、長い花柱となっている。
 果実は、核果で1個の種子がある。果実が食用とされるウメ、モモ、アンズなどは、桜の仲間で、
200種が主として北半球の温帯に分布している。ウメやモモ、スモモとサクラ属とは、①果実に縦
のくぼみがない、②内果皮に細かい毛がない、③頂芽があることなどで、分類されている。
 一般的に桜と呼ばれているのは、バラ科サクラ属の落葉性の樹木。サクラ属は主に北半球の温帯に
広く分布している。日本のサクラ亜属(ユスラウメなどを含まない))を細分して「群」として分類
すると、ヤマザクラ群、エドヒガン群、マメザクラ群、チョウジザクラ群、ミヤマザクラ群となる。
日本の山野に咲く主なサクラとしては、ヤマザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラ、オオシマザク
ラ、エドヒガンザクラ、マメザクラ、タカネザクラ、チョウジザクラ、ミヤマザクラなどがある。そ
してこれらの変種を合わせると、数10種以上が自生し、またこれらの種を基本に育種されている栽
培品種は600種類以上にもなる。全世界にある花を楽しむサクラの殆どは、日本のものばかり。
 サクラの種は、葉の鋸歯の形や、鋸歯の先端の形、葉柄の毛の有無、蜜腺、鱗片、花序の形、萼片
の鋸歯の有無やその形、樹形、花期、花弁の色、形、枚数などで分類する。


■区の鳥
 決めていない。
 


■名誉区民
 
 区制50周年を迎えた昭和57年に、区の発展及び区民の生活と文化の向上に貢献し、区民が郷土
の誇りとして尊敬し敬愛できる者を顕彰する「足立区名誉区民条例」を制定した。この条例に基づき
区制50周年(昭和57年)、60周年(平成4年)、70周年(平成14年)を迎えたそれぞれの
節目の年に、名誉区民としてふさわしい功績をあげた者を顕彰している。
 50周年 大山雅二(東京府職員・初代足立区長)
 60周年 志村文蔵(足立1丁目町会長・各PTA会長など)
      遠峰冨次(区議会議員7期28年・区議会議長5期)
 70周年 田口富藏(本木南町会長・町会連合会長・区福祉協議会長など)
      鯨岡兵輔(区議会議員・都議会議員・衆議院議員12期36年・環境庁長官)
 


■この区からこんな人が育った
 ビートたけし・北野武(漫才師・司会者・映画監督)、北野大(武の兄・工学博士・コメンテイタ
ー)、浅野温子(女優)、田中好子(キャンディーズ 女優)、木村カエラ(歌手・モデル・タレン
ト)、原田芳雄(俳優)、小川眞由美(女優)、上原さくら(タレント)、SILVA(歌手)、原
田龍二(俳優)、高山みなみ(声優)、雛形あきこ(タレント)、前田健(ものまね)、早乙女勝元
(作家)、天野祐吉(コラムニスト 編集長)、永沢まこと(イラストレイター)、清水隆行(野球
選手)、斎藤雅樹(野球選手)、栃東大裕(大相撲大関)、森且行(SMAP 競輪選手)、武田幸
三(格闘家)、鴨下一郎(環境大臣)あたり。
 ※北野武はお笑い芸人から成り上がったといっては失礼だが、隠れた政治のご意見番的ところがあ
り、テレビ朝日で「テレビタックル」という政治番組のメイン司会者をやっているせいか、総理大臣
などから意見を求められるようだ。天皇陛下即位20周年記念の祝賀会にも芸能人として宮内庁から
招待され、本人はえらく遠慮したが、宮内庁のお膳立てで両陛下と歓談した。無論本人は恐縮するば
かりだったが・・・彼本人の感覚は平均的国民目線だ。


 
朝鮮部落(コリアンタウン)
 関原、本木、西新井一帯には、荒川放水路(荒川)の建設労働者の飯場に起源を持つ朝鮮人集落が
存在する。西新井は三河島に次いで日本統治時代の朝鮮からの移住者が多い地区であり、戦後は隅田
川河川敷を不法占拠して暮らしてきた「バタヤ部落」から移り住んできた人々も加わりスラム化した
がその後バタヤ部落は消滅した。関原・本木の朝鮮人集落では、スリッパやサンダルなどの部品を家
内工業で製造するゴム製品製造業が賑わったこともある。関連施設として、在日本朝鮮人総聯合会は
本木に事務所を置いている。また、近隣地区に属する興野には東京朝鮮第四初中級学校がある。東京
23区中、在日朝鮮人の人口が一時期最も多いとされたこともあった。平成22年の統計によると、
23区では新宿区に次いで2位であり、人口比率では4位だ。
 


足立の由来

 『続日本紀』に初めて登場する。松平定常は、

   この辺りはむかし湿地が多く葦が繁茂していたので、葦が立つところ〝葦立〟と称した
   のに始まる


 と説く。葦と足の関係は、古来より和歌で葦を足にいいかけて、「葦の迷い」ということがある。
つまり葦の生い茂る間で迷うように、行き先に迷うこと、〝足の迷い〟を意味している。葦が足に変
化することは不思議ではない。
 当時は埼玉県も武蔵国だから、足立郡は北に長く広大な範囲に及び、武蔵国の東部は元々が海で、
利根川が流れ込んでいた。やがて湿地となり砂州となりして陸地化したから、葦が自生していたとし
ても非常に理に適っている。『日本地理志料』に、

 
  郡池沼多く蘆葦叢生す。蓋し葦立の義なり。

 聖武天皇の天平年間(729~748)に建てられた、武蔵国分寺跡から出土した瓦に〝足〟の字
が付いており、足立郡からの寄進と考えられている。
 また「あだち」をインドネシア語で解すると「アタ・チ」、「広々とした場所に在るエリア」とな
るらしい。漠然としているが、これもなくはない。昔、東南アジアが大陥没して現在の地形になった
時、避難して移住してきたのが南方系と称する日本民族の一部で、大量にやってきた。日本人はマン
モスと共にやってきた北方系(秋田美人が代表)と、この南方系、それに朝鮮半島経由でやってきた
モンゴロイド、中国大陸南部から直接やってきた中国人、さらにペルシャ人、インド人などで構成さ
れ、種族的には136ほどにも分類されるそうだ。明治維新以後は朝鮮系日本人が日本を支配してお
り、自民党、公明党、民主党の議員に多く存在する。
 


 よほど有用な植物で、若芽は食用になるし、茎は葦簾(すだれ)・葦簀(よしず)・屋根・製紙の
材料になり、根は蘆根(ろこん)という漢方薬、煎じると利尿・止血・解毒に効果があり嘔吐を抑え
る。そして水辺に生えているだけで水質を保全する。育てるのに手間隙がかゝらないばかりか放っと
けば勝手に増えてくれるし、刈り取ったあと種を蒔く必要もない。雁は海で休むときの舟とするため
に葦の葉を加えて渡りに旅立つという。パスカルは人間を〝考える葦〟と準えた。〝豊葦原の瑞穂の
国〟は美辞装飾の言葉だけではなかったのだ。葭・蘆・葦はみんな同じだが、

 「葭」は
若い葦、「蘆」は穂の出ぬ葦、「葦」は成長した葦 

 の違いがある。「芦」は本来別の草だが「蘆」の字の略字として用い、伊勢地方では「浜荻」と呼
ぶ。また荻窪の〝荻〟は葦に似る。吉原遊郭は葺屋町(人形町辺)外の葦原を造成して作ったので、そ
の名となったもので、千束池跡に移転した新吉原はその名を継承したが千束池もまた一面の葦原だっ
た。
 以前はつい先頃まで、区内には葦簀屋(よしずや)が至るところにあって、生産販売していたもの
だ。近年河川敷の有効利用でグラウンド、緑地、公園にしたため、葦原は失われてしまったが、これ
が大変な間違いだということが判ってきた。というのは葦原は、水質浄化の役割を果たしていたのだ。
現在、霞ヶ浦では、浄化対策として葦原の復元に取り掛かっている。だからこそ「豊葦原」なのだ。
現代人はバカだねぇ!
 

 
二本の蘆束

 仏典にあるたとえ話。葦は1本1本が細く弱いために、それ独自では立つ事ができない。が2本、
3本と寄って立つことにより人を踏み迷わせる葦原を形成できる。これは世の中に存在する総てが、
それ独自で存在するのではなく、他との関わりによって存在し得ていることを教えているのだ。一方
だけを強めて、他を排除すると、バランスが崩れ、地球温暖化ということになり、却って己を害する
ことになるということだ。助け合えよ! 豊葦原の瑞穂の国は・・・と云うではないか。三本の矢・
三ツ矢と同義。
 
 


○おーら足立区の町名の由来を始めっど。そこ、余所見すんな! 

【青井】(あおい)1~6丁目                     昭和41年1月1日
 昭和41年二ツ家町・四ツ家町・伊藤谷北町の大部分に小右衛門町・五反野北町/五兵衛町・西
加平町・東島根町・東栗原町の各一部をあわせた町域を現行の「青井」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 青井の由来
 合併することになったものの町名についてはなかなか折り合いがつかねえ。そこでこの辺りの古
称が「精出耕地」という名前だったことから、気の利いた区の職員が〝精〟と〝耕〟の旁(つくり)
から
「青」と「井」を抽出するってえ漫画のような発想によって一件落着したって訳さ。「青は澄
み渡った紺碧の大空と緑の農産物、〝井〟は尽きることのない湧泉を・・・」とこじつけて地域の
発展を祈念したってことよ、粋じゃねえか、元来精出とは最後まで残ってた荒地を、各村の先祖が
〝精を出し〟苦労に苦労を重ねて開墾したことで命名された経緯があるんだ。そんな開墾地も、つ
くばエクスプレスが敷設されて、大都会に変貌する。
 


■青井ふれあい公園 ◇
 青井1丁目3番1号にある区立公園。公園中央に円形の広場があり、階段状のステージ、ベンチが
周囲に配されている。割と樹木の多い公園だ。遊具は、大きな岩を使った複合遊具やアスレチック的
なもの、またパーゴラの後方に砂場があり、小さい子はこちらで遊んでいる。

 
裸婦像 ◇
 3mばかりの石柱の上にある。
 


■青井一丁目児童遊園 廃園?青井おひさま児童遊園
 青井1丁目7番5号にあるという区立公園。当該番地には見当たらない。7番は大半を青井高校が
占め、テニスコート2面があるのみで公園スペースはない。ネットで検索してもヒットせず、区の資
料だけが表示してある。直近の3番に青井ふれあい公園、11番に青井公園がある。
 昭和49年4月1日開園となっている。平成24年に青井おひさま保育園ができているので、児童
遊園を潰したのかな。


■青井おひさま保育園 ◇
 青井1丁目7番6号にある私立園。平成24年7月1日開園。


■青井高等学校 ◇
 青井1丁目7番35号にある都立校。昭和53年「東京都立青井高等学校」として開校。同63年
創立10周年記念式典。
 平成9年創立20周年記念式典。同19年創立30周年記念式典。同29年創立40周年記念。

 校歌
「光に濡れて」 作詞:武鹿悦子  作曲:遊佐瑞二
  1.今、葦立野に新しい
    大きい朝が満る時
    光に濡れて白鷺は
    舞い立つ風を待ち受ける
    希望の空へはばたけと
    叡智の枝を差し伸べる
    吾が学び舎の輝かさ
  2.声高らかに友を呼び
    説き得ぬ謎に挑む時
    涙は燃えて晴れやかな
    吾等の空の虹となる
    理想の峰を何時の日も
    自由のペンで指し示す
    吾が青春の鮮やかさ
  3.嗚呼 明日の日が煌めいて
    心の海に泛
(うか)ぶ時
    歴史の遠い潮騒
(しおざい)
    青井の岸に寄せて來る
    大地の愛を踏み締めて
    優しい天へそそり立つ
    吾が学び舎の輝かさ
 


■青井公園 ◇
 青井1丁目11番11号にある区立公園。


■愛宕神社(祭神:愛宕神 火之迦具土神) ◇
 青井1丁目16番13号にある区内唯一の愛宕神社。神体は馬に乗った愛宕権現で、元々は旧家の
屋敷神だった。安産の神・火の用心の神として信仰が篤い。9月21日の彼岸の中日が祭日で、他に
例のないことだ。社前に宝永三年(1706)の供養塔、寛政十二年(1800)の庚申塔がある。

 
二ツ家箕濃が谷囃子
 江戸時代の文化文政期ころ(約200年位前)二つ家の愛宕神社のお囃子として生まれ、口伝によ
り今日まで伝えられてきた。二つ家とは、今の青井1、2、4丁目付近に当たる。今、平田伊三郎(青
井中学校3代PTA会長)が会長として、伝統芸能の伝承に当たっている。3丁目でも原や島田とい
う人が継承者の育成に当たっているが、若手の継承者がいないということが悩みのタネ。国家がアメ
リカの属国で、小泉純一郎、安倍晋三のように、権力がアメリカ(ユダヤ)べったりでベコペコだか
ら、若者だってアメリカ一辺倒だ。ロック、ロック、ロック、ロックンロールでい!
 


■青井二丁目児童遊園 ◇
 青井2丁目2番3号にある区立公園。昭和56年4月1日開園。


■青井南公園 ◇
 青井2丁目14番23号にある区立公園。


■四ツ家稲荷神社祭神:宇迦之御魂命と徳川家康公 ◇
 青井2丁目15番14号にある。詳しい創建は不明だが、この地は安土桃山時代の文禄年間(15
92~1596)に開かれたと伝えられているため、その頃の創建ではないかと考えられている。社
名の「四ツ家」は、現在の青井2丁目南から弘道1丁目をかつて「四ツ家町」と呼んでいたことが由
来だ。これは鶴飼・市川・両高橋の4家を「草分四ツ家」といい、この地の開発者が4家であったこ
とから名付けられた。四ツ家には、元々2つの神社があったが、明治になって一村一社政策により合
祀。その際、4家の1つ鶴飼家の屋敷神だった「権現さま」も合祀した。例祭は9月15日。
 同社には、農村時代の厳しい生活を物語るエピソードがある。かつて農村地帯だった頃に流れて来
るはずの水が来ないので調べると、上流の水門が開けられていないことが判明。怒った村民が獅子頭
を先頭に竹ヤリを持って交渉に行ったが決裂。その際、2つあった獅子頭の内1つを取られてしまっ
た。現在1つの獅子頭だけが同社に残っているのはそのためだ。
 


■青井二丁目第二児童遊園 ◇
 青井2丁目29番2号にある区立公園。昭和61年10月23日開園。


安龍山正法院増福寺(本尊:阿弥陀如来立像)
 青井2丁目32番8号にある新義真言宗豊山派の小寺。本尊の阿弥陀如来は空也上人の作という。
宝物に不動明王があり、これも空也の作といわれる。元和元年(1615)二ツ家を開発した平田利
兵衛が開基、慶龍法印の開山。山門入ると右手は庫裏、左手と本堂の奥は墓地だ。
 荒川綾瀬88ヶ所霊場の49番札所。
 墓地に宝暦三年(1753)九月五日法印快伝の墓碑がある。
 「ブックレット足立風土記綾瀬地区」に、

   真言宗豊山派の寺で、安龍山正法院増福寺と号しています。本尊は阿弥陀如来です。当寺
   は、正和元年(1615)に、慶龍和尚により開山されたと伝えられています。二ツ家を
   開発した平田、若菜両家の菩提寺で、その一人、平田利兵衛による開基と伝えられていま
   す。
   不動講
   当寺には、不動明王坐像が安置されています。昭和47年ころから、毎月28日に、この
   像の前に檀家の人たちが集まって、不動講を開いています。集まるとお経を唱え、その後
   に茶話会を行い、地域の絆を深めています。

 とあり、「足立風土記資料寺院明細」、に、

   中本寺西新井大師総持寺門徒 東京府管轄武州足立郡保木間村 安龍山 増福寺 創立年
   暦并開山不詳、寺格無之
   但当寺住無之、東京府管轄同国同郡西新井村西新井大師総持住職堅渓兼務
   境内、三畝一歩、但除地。檀家 十三軒。門末、無之。庵室等、無之。
 


■五反野公園 ◇
 青井3丁目5番22号にある区立公園。治安の悪い公園の一つ。


■青井三丁目いこいのプチテラス ◇
 青井3丁目6番3号にある区立公園。平成12年4月1日開園。


■青井小学校 ◇
 青井3丁目12番2号にある区立校。昭和48年都市化により弘道第一小学校から分離して開校。
校歌制定。制帽着用開始。校旗樹立。開校記念式典。

 
校歌はじめて会ったあの日から」 作詞・片岡輝  作曲・池辺晋一郎
  1.初めて会った あの日から
    僕らはみんな 心が一つ
    今は小さな蕾だけれど
    手に手を取って伸びて行くんだ
    青い青い 空めざし
     逞しく優しく豊かに
     君と僕 貴方と私は
     青井の子供
  2.嵐が叫ぶ日もあるさ
    僕らは決して負けはしないぞ
    今は小さな双葉だけれど
    肩を組み合い伸びて行くんだ
    高い高い 空めざし
     逞しく優しく豊かに
     君と僕 貴方と私は
     青井の子供
  3.やがては巣立つ日が来るさ
    僕らはきっと忘れはしない
    今は小さな若木だけれど
    力一杯 伸びて行くんだ
    広い広い 空めざし
     逞しく優しく豊かに
     君と僕 貴方と私は
     青井の子供

 同49年体育館完成。同51年プール完成。同53年校舎増築。特殊学級併設。同57年創立10
周年記念式典。
 平成2年校舎内外装。体育館改修。同3年コンピュータルーム設置。堀の改修工事・植樹完了。同
4年創立20周年記念式典。同5年校庭改修。同14年創立30周年記念式典。同15年図書室にエ
アコン設置。同19年全教室冷房。耐震化完成。防犯カメラ設置。同20年創立35周年。同21年
体育館耐震補強。同23年校舎外装改修。同24年創立40周年記念式典。同26年プール改修。

 
●小4児童喧嘩(虐め暴力)事件
 平成28年4月14日13時半ころ、掃除の時間中に小学四年生の或るクラスで喧嘩となり、身長
170cmもある男子生徒(韓国人?)が、身長140cmの男子生徒を一方的に殴る、蹴る、踏む
の暴行を執拗に繰り返し 被害生徒は意識不明の重体となり、直ちに病院に運ばれたが死亡した。
 何故か死因は「肺炎」と発表され、保護者会は開かれなかった。加害生徒は処罰を受けることはな
く、書類が児童相談所から家庭裁判所に送られてチョン、めでたし、めでたしだ。
 兎に角、足立区に住む限りは、この程度のことは耐えなけりゃ。なににしろ足立区は創価と在日の
街なんだから・・・殺されても文句はいえないよ。コンクリート詰め殺人のあったところだぞ。
 


■ツクバエキスプレス/常磐新線
 平成17年8月24日開業。秋葉原と茨城県つくば市を結ぶ通勤鉄道。足立区では六町・青井・北
千住に駅が出来る。いずれはもっと増えるだろう。バスだけの交通機関だったところが都心へ直結す
るんだから町は豹変するさ。
 不動産屋にとっては金を生む土地、放っとく訳がねえだろ?
 


■青和ばら公園 ◇
 青井3丁目18番15号にある区立公園。つくばエクスプレス青井駅から都営住宅を抜けた西側に
位置する。約100種920株の色とりどりのバラが訪れる人を出迎えてくれる。石畳やドーム風の
パーゴラ、大きなカナリーヤシが洋風な花壇を演出。例年、春は5月中旬から6月中旬、秋は10月
下旬から11月中旬にそれぞれ見頃となる。


■青和コミュニティ公園 ◇
 青井3丁目22番1号にある。木が生い茂った遊具があるコーナーと広場とに分かれている。親子
連れも数多く来て、遊んでいるが、ゴミが散乱して汚い公園だ。弁当殻、コンビニ袋、菓子袋、空き
缶が吹き溜まっている。団地が多く余所者ばっかしだから清潔感がないんだろうね。集合住宅に住む
人間の無責任は、宿命だわいな。長くは住まないんだから。残念なことだ。国家権力があの体たらく
だから、仕方ねえのよ。
 


■青井駅 ◇

 青井3丁目24番1号にあるツクバエキスプレスの地下停車場。平成17年8月24日つくばエク
スプレスの開業と同時に設けられた駅だ。この周辺には駅がなかったため、住民にとっては利便性が
飛躍的に向上した。まあ沿線は大変だぁ。
 ホームは相対式2面2線構造で、地下2階にある。エレベーター・エスカレーター完備。
 改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。出口はA1・A2の2ヶ所ある。
 各駅停車しか停まらないため、11時~16時ころまでは、1時間あたり4本のみの運転となる。
都区内の駅としては最低水準の運転本数だが、それでもこれまでのように五反野駅や綾瀬駅まで行く
手間を考えれば格段に便利。そのうち増えるよ。
 


■青井東公園 ◇
 青井3丁目31番1号にある区立公園。


■二ツ家仲よし児童遊園 ◇
 青井4丁目10番18号にある区立公園。平成17年3月1日開園。


■青井中学校 ◇
 青井4丁目19番1号にある区立校。昭和48年第十一中学校から分校。同58年創立10周年記
念式典。平成5年創立20周年記念式典。同15年創立30周年記念式典。

 校歌
「窓を開けば」 作詞:神保光太郎  作曲:貴島清彦
  1.窓を開けば輝く大地
    懐かしの綾瀬の流れ
    さあ君と僕、貴女と私
    永遠の真理を求め互いに競い
    強く 高く 麗しく
    学ぼうよ 学んで行こう
    青井 東京 青井中学校 吾等の母校
  2.窓を開けば輝く大空
    白鷺のはばたく姿
    さあ君と僕、貴女と私
    永遠の平和を目指し 互いに鍛え
    強く 高く 麗しく
    進もうよ 進んで行こう
    青井 東京 青井中学校 吾等の母校
 


■青和西児童遊園 ◇
 青井4丁目21番5号にある区立公園。平成4年10月30日開園。


■商店火災
 青井4丁目22番14号浅野商店など4軒が焼けた火事で2人が死亡した。平成31年1月25日
朝9時頃、浅野商店より出火、凡そ3時間半後に消し止めたが、住宅4棟、合わせて約270㎡が焼
失した。警視庁などによると、火元の店舗兼住宅の1階から男性(80代)が救出されたが、その後
に死亡したほか、2階からは性別不明の遺体が見つかったという。この住宅には80代の夫婦が住ん
でいたが、現在、2人と連絡がとれておらず、警視庁は死亡したのはこの住人の夫婦とみて確認を急
いでいる。


■兵和通りいこいの森プチテラス ◇
 青井4丁目24番17号にある区立ミニ公園。丁度、兵和通り商店街会館の前だ。平成3年4月1
日開園。

 
「風景‐角笛吹けば」
 プチテラスにある。丁度、兵和通り商店街会館の前だ。平成2年第2回足立区野外彫刻コンクール
入賞の湯川隆の作品。


■青和憩いの森公園 ◇
 青井4丁目25番5号にある都営青井四町アパート4号棟西側のスペースにある区立公園。森とは
名ばかりで、それほど樹木がある訳でも広くもない。

 
「笛を吹く少女」
 園内木陰にある彫刻。


■青井みどり公園 ◇
 青井4丁目37番1号にある区立公園。


■青和東児童遊園 ◇
 青井4丁目39番1号にある区立公園。平成4年6月25日開園。


■青井四丁目児童遊園 ◇
 青井4丁目45番18号にある区立公園。昭和61年6月19日開園。


二つ家の百躰庚申塔・庚申塔・矢納弁天道標 
移設

 青井5丁目1番1号の下妻道二つ家交差点の角地にあった。現在は足立郷土博物館の敷地内に移さ
れている。当時3基の石造物が並んでいた。
 一番左のものが百躰庚申塔と呼ばれるもので、庚申塔を100基置いてあるという篤い信仰を表現
するもので、「百庚申」と呼ばれ、これは初期のものらしい。塔は安山岩で、刻銘は「一天四海風雨
順時 百躰庚申塔 五穀豊登万民安寧」だ。信仰上は、造塔(作善)することにより功徳を得られる
と考えられており、大きいものや、より多く造塔する風潮があり、この場合は一基に百体の尊名を刻
して、多くの功徳を願ったものだ。嘉永元年(1846)造。
 真ん中の石造物が所謂庚申塔で、「寛政十二年(1800)日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿」
を刻む。江戸時代の人々が疫病退散や魔よけ、神仏信仰などのために建てたもので、道しるべの役割
を兼ねたものも多くある。側面には「猿田彦」「庚申」「青面金剛」と碑の左右にその名が刻まれ、
合計百体造塔したと同じ供養を受けることができたそうだ。
 右端のものが道標で蜷局を巻いた蛇を浮き彫りしている。江戸時代の花柳界の綺麗どころから篤く
信仰されたのが花畑の不動院にある「矢納弁天」で、そこへの道しるべだ。よく見ると案内する方角
と行先が削られている。建立当時は別の場所に建っていて、ここへ移設の際に間違えないように削り
取ったと思われる。千住方面から矢納弁天への
参詣者が多く、道標を建て道案内したものだろう。そ
れほどに賑わった当時の様子が偲ばれる。往時は二ツ家と呼ばれるほど道を尋ねる民家もなく、畑中
の追分に静かに建っていた光景はそれはそれは風情があったろう。
 


■屋敷神 ✔

 青井5丁目8番6号の谷古宇家にある。広大な豪邸だからあるだろうなぁ。
 


■浅野家長屋門 
移築

 青井5丁目11番31号(青井5丁目住宅のあるところ)に増野製作所があり、そこにネ、大きな
長屋門があったのさ。1重2階建て、入母屋造りで桟瓦葺き、両袖に曲り屋の平屋建て長屋各1戸が
附いてたよ。元は綾瀬川の東岸上谷中村の名主浅野邸にあったものを、昭和14年に移築したってえ
訳。その理由は判んない。恐らく浅野邸を含む一帯が軍に接収されたためだろう。現在ここに長屋門
はない。
 と書いたら、行方について増野製作所から回答があったよ。

   長屋門は足立区の有形民俗文化財に指定され、当社で保存しておりましたが、常磐新線の
   敷設に伴う道路工事のため、用地が買収され、足立区および東京都の御協力により、都市
   農業公園へ移築され、展示されています。物件は足立区へ寄贈しましたので、現在は足立
   の区有財産になっています。                   増野製作所総務部
 


■加青公園 ◇
 青井5丁目11番36号にある区立公園。道路を挟んで東西2ヶ所に亘る。


■あおいプチテラス ◇
 青井5丁目11番36号加青公園の道路を挟んで東側にある区立ミニ公園。平成15年6月24日
開園。


■青井六丁目児童遊園 ◇
 青井6丁目2番4号にある区立公園。昭和62年3月23日開園。


■栗島小学校 ◇
 青井6丁目13番10号にある。昭和28年梅島第一小学校分校として開校。同29年独立して栗
島小学校と改称。同30年校歌制定。

 校歌「西に富士の嶺」 作詞・サトウ八チロー  作曲・渡辺浦人
  1.西に富士の嶺 北には筑波
    春は緑の そよ風うけて
    誠求めて 日毎に通い
    互いに励まし楽しく学ぶ
    栗島 栗島 栗島小学校
  2.白い夏雲 輝く青葉
    右へ左へ飛び交う燕
    友と手を取り 未来を誓い
    働く喜び 浮かべて学ぶ
    栗島 栗島 栗島小学校
  3.道の野菊と微笑み交わし
    仰ぐ秋空 広がる希望
    体鍛えて正しく強く
    教え守りて進んで学ぶ
    栗島 栗島 栗島小学校
  4.雪に霙に霰に霜に
    星の冷たさ光に耐えて
    心磨きて優しく清く
    我が師を敬い 明るく学ぶ
    栗島 栗島 栗島小学校


 同34年創立50周年記念式典。同39年創立10周年記念式典。同40年分校独立(加平小学校)
独立で学区変更、一部生徒に加平小学校に転校。同45年東栗原小学校を分校。同50年創立20周
年記念式典。同58年創立30周年記念式典。平成5年創立50周年記念式典。同14年校舎耐震化。
同15年創立50周年記念式典。同19年校舎冷房化。
 


■青井庚申堂 ◇
 青井6丁目21番16号の谷古宇家入口のところにある疣取り庚申だ。元は東に隣接する20番に
あったものだ。寛政五年(1793)日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿を刻む駒型。
 
 


【足立】(あだち)1~4丁目                      昭和39年7月1日
 区内最初の新住居表示を実施したところで、千住末広町・日吉町・千住高砂町の大部分に五反野
南町・伊藤谷西町・梅田町の各一部をあわせた町域の町名を区名からスライドして現行の「足立」
とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 足立区足立の由来
 千住町と弥五郎新田が合体する訳だから「足立」と決まるまでの経緯は大変だったのよ。この2
つの町と村は水に油、犬とサル。ために町名を巡っての合意は容易じゃあなかった。そこで元区議
会議長大神田貞英が「区で初めての再編統合だよ。この事業成功のため旧町村時代の縄張り意識を
捨てて大道に着き、他地区への先鞭先駆けとしようや」と腹を割って説いて回ったところこの正論
には双方とも「もっともだ」と悉く同意。かくて足立区足立は誕生したって訳。
しかしここが足立
の発祥の地じゃあないよ
。悪しからず。町内を通る東武鉄道の駅は五反野と小菅、小学校も五反野
と千寿第五、足立は馴染んでないようだ。だから足立は千住新橋北詰だぁ~ !
 


■荒川千住新橋緑地(千住新橋グラウンド) ◇
 足立1・2丁目、千住5丁目、千住大川町に跨る区立公園。


■千寿第五小学校 →
統合廃校(→足立小学校) ◇

 足立1丁目13番10号にある。大正14年4月6日荒川放水路の開鑿により左岸地区の生徒は通
学が困難となったため新設、千寿第五尋常小学校として開校した。昭和2年校旗制定。同13年校歌
制定。

 校歌「清き流れの」 作詞・古谷田弥十郎  作曲・大中寅二
  1.清き流れの放水路
    遥かに仰ぐ富士が嶺の
    千代の眺めは末広く
    名も高砂の自治の里
  2.緑燃え立つ堤北の
    学びの園の百千草
(ももちぐさ)
    素直に伸びて健やかに
    床しき千寿第五校


 旧文部省で正式に認可された第一号の由緒ある校歌だ。誤記があって、「未→末」「郷→里」に訂
正するようにとの指導があった。

   昭和十三年三月二十五日寅学一九九四号ヲ以テ東京市千寿第五尋常小学校校歌ニ関シ申請
   ノ件本日指令相成リタル処右歌詞楽譜ハ別紙朱書ノ通訂正ノ上認可セラレタルモノニ付訂
   正の上教授セシメラルル様取計相成度


 同16年国民学校令により「東京市千寿第五国民学校」に改称。同18年都制施行により「東京都
千寿第五国民学校」と改称。プール完成。同19年学童疎開。同20年8月15日日本はアメリカ合
衆国の軍門に下り以来属国となる。同22年「区立千寿第五小学校」と改称。同27年五反野小学校
を分校。同28年弥生小学校を分校。同50年創立50周年。
 平成17年創立80周年。同25年五反野小学校と統合し「足立区立足立小学校」となる。五反野
小学校跡地に新校舎が完成するまで、統合新設校の校地となった。

 
跡地利用
 未定。都市計画道路136号線道路拡張のため2m幅後退する。
 


■足立一丁目児童遊園 ◇
 足立1丁目17番4号にある区立公園。昭和44年4月3日開園。


■ライオン像 一対 ◇
 足立1丁目19番12号ライオンズマンション五反野駅前通り玄関前にある嶋田秀男の作品。


■たかさご友遊児童遊園 ◇
 足立1丁目24番24号にある区立公園。平成18年3月31日開園。


■高砂神社(祭神:倉稲魂命) ◇
 足立1丁目27番17号にある稲荷。創建年代は不詳だが、石川勘七家の地主稲荷社として天明年
間(1781~1789)に創建、大正2年の荒川放水路開削に伴い、千住飛地2丁目392番地へ
遷座、昭和26年当地へ遷座したという。「ブックレット足立風土記花畑地区」に、

   旧千住北組の神社 高砂神社(勘七稲荷)(足立1−27)
   祭神は倉稲魂命で、千住北組飛地2丁目の4丁目耕地と東中沼耕地の守護神。三軒家・石
   川勘七家の地主稲荷社で、天明年間(1781~1789)に京都伏見稲荷より勧請しま
   した。勘七家は荒川放水路開削で、河川敷地内にあたったため、大正2年頃に同じ三軒家
   の内田鎌太郎邸内に旧社殿を一時移転しました。その後、昭和25年高砂町内有志により
   現在地に社殿を建立しました。


 とあり、境内石碑に、

   高砂神社は、古来勘七稲荷と稱し、御祭神は倉稲魂命を奉祀し、武蔵国南足立郡千住宿北
   組飛地二丁目の四丁目耕地及び東中沼耕地等の守護神として五穀豊穣悪病除けの霊験著な
   る氏神にて村人の崇敬厚く、旧神域は下妻街道に架る六道橋より伊藤谷橋に至る前街道の
   北側に廣大なる境内には樹齢二三百年の老松高く聳へ、雑木生茂る中に、文久元年九月七
   日建立せる茅葺の社殿にて子供等のよき遊び場なりき。明治四十年七月豪雨により利根川
   初め荒川等の河川氾濫し、大被害を生じ、更に命じ四十三年八月亦々大豪雨あり、関東の
   各河川の堤防決壊し、当地の一部民家も濁水に没するもあり。打続く水害に住民は再起の
   意気へ喪失する程なりき。茲に内務省に於て十ヶ年の経続事業として将来の水害防除のた
   め、岩淵村より荒川放水路の開削を決し、明治四十四年起工され、当神社もその河川敷に
   当り止むなく、大正二年千住飛地二丁目三百九十二番地に三十坪の土地を神域と定め、旧
   社殿を其まま移転奉祀せるものなり。其後地域の発展氏子の増加により、神殿改築の議起
   り、氏子有志相謀り移転を決定。昭和二十五年氏子の勤募金を以て千住四丁目井原伊兵エ
   氏の所有せる現在地二百六十三坪金三十萬円也にて譲り受け、神域とし先づ社殿を建立し
   昭和三十一年法人組織となし以来宗教法人高砂神社と稱するに至る。其後神輿庫社務所奥
   宮社号碑又町内より應召不幸戦没せる英霊を祀るべく慰霊碑を建立し、其冥福を祈る。又
   有志の寄進による水屋手洗鉢大燈籠庭石霊狐をそなえ、神域の整備を完了せり。此の地に
   移転鎮座二十周年に当り狛犬一対を奉献し之を記念し此の碑を建つ。


 とある。
 


■ばんじんまちかど広場プチテラス ◇
 足立1丁目34番6号にある区立公園。平成13年4月1日開園。


■番神ひだまりプチテラス ◇
 足立1丁目36番13号にある区立公園。平成20年12月23日開園。


■五反野南プチテラス ◇
 足立2丁目2番6号にある区立公園。平成14年3月1日開園。


■足立二丁目プチテラス ◇
 足立2丁目5番1号にある区立ミニ公園。平成8年4月1日開園。
 
 
「犬の夢」
 平成9年中農美枝子の彫像。すやすやと寝息をたて気持ちよさそうな犬、顏が途轍もなく小さい。


■三十番神七面大明神社(祭神:三十番神・七面大明神) ◇
 足立2丁目8番1号にある。この地の豪族鴨下家の屋敷神として祀られていたものという。三十番
神・妙見大菩薩は日蓮宗で特に信仰されたもので、当地弥五郎新田を開拓した京極弥五郎(武蔵千葉
氏の家臣)との関わりが考えられている。 「ブックレット足立風土記西新井地区」に、

   三十番神七面大明神社(足立2−8角)
   三十番神とは、1ヶ月30日間、毎日かわるがわる、法華経を守護する30の神々のこと
   です。弥五郎新田では、当社ははじめ鴨下家の屋敷神として祭られてきましたが、30の
   神々が1日交代で、この地域の人々の生活と土地を守るようになったといいます。


 とあり、区の説明板に、

   三十番神七面大明神とばんじん通りの由来
   ばんじん通りは、足立二丁目と三丁目の境を東西に通る道の名として親しまれています。
   この名前は、この地に三十番七面大明神を祀ることに由来します。
   古くは江戸時代以前から、この地の豪族であった鴨下家の屋敷神として祀られていたもの
   といわれています。
   三十番神とは、三十の神々が一日交代で日本を守護するという信仰で、七面大明神とは、
   身延山を守護する七面山の神のことを示しています。いずれも日蓮宗の信仰に基づくもの
   です。のちにこの地を新田開発し、「弥五郎新田」の名称の由来になった京極弥五郎は、
   武蔵千葉氏の家臣とされ、千葉氏の守護神妙見大菩薩は日蓮宗においても信仰されたので
   千葉氏との関連も興味深く想像されます。
   次第に地域の人々に信仰され、野菜の出荷や人糞尿の運搬の行き帰りに参拝されるように
   なりました。
   かつて、花畑の大鷲神社の酉の市には賭博の開帳があり、弥五郎新田の番神様には徳福開
   運のご利益ありと、町の旦那衆や博徒が挙ってお参りしたといわれます。その霊験の新た
   かさが広まり、日本橋や浅草辺りの人々も商売繁盛や交通安全を祈りに訪れたといわれて
   います。
   境内には、集落のなかにあった庚申塔三基も移設され、現在も地域の人々によって手厚く
   祀られています。
   昭和52年4月吉日
   平成16年4月吉日改修                     足立区教育委員会


 とある。

 法華信仰の特質(塩崎辧仁)
 法華宗の信仰集団はだいたい統一潔癖を主として発生したという特質があるので、復古的な回帰運
動の中には、不受不施派のような禁制宗教のようなものまであらわれてきた。このことは端的に法華
信仰の一面を窺うに十分な特徴の顕現ともいえよう。ところで、こうした主張が必ずしも一貫して法
華信仰史を貫いてきたとはいえない。
 歴史的流れの中に、社会的風潮の中で、修験道や陰陽道の影響を強く受けて、発生的にはいみ嫌っ
て破柝してきた修験や陰陽道の要素を次第に取り入れながら、社会的要請に馴染みながら教線を拡大
し集団は発展してきている。「真言亡国」と唱えて加持祈祷を破柝して出発した日蓮の主張にもかか
わらず、諸派の祈祷法が成立してきている。純粋的な立場からは雑乱信仰といわれているものの、俗
信とも云うべき稲荷信仰、最近では地蔵信仰までも組み入れられている。

 七面大明神(塩崎辧仁)
 七面信仰は日蓮宗に限っている。しかも日蓮宗のどこの寺院でも七面堂を裏山に別宮を作って勧請
しているものが多い。もし別堂がなくても本堂の一隅に必ず七面天女または七面大明神として祀って
あるのが常道である。というのは、七面大明神が法華経守護の大善神であり、法華経信心者の守護神
であるという意味である。陰陽道の方位説の中に八方とか八面とかいって中心として四囲東西南北と、
その間、東西・東北・西南・西北を入れて八方の方位を設定して、これを八面とする。このうち東北
(艮・うしとら)を鬼門として鬼が出入する方向として忌み嫌う。この方角の鬼門には殺気の荒神が
住んでいて、犯すものには災害をあたえるという。この災難を除き避けるために「鬼門除け」として
神仏を祀る。ところで東北(艮・うしとら)方位の反対方向西南(坤・ひつじさる)の方位を裏鬼門
として鬼門とともに忌み嫌う。
 ところで方位八面のうち、鬼門または裏鬼門の一面を閉じて残りの七面を開いていわゆる「あきの
方(歳徳神のめぐる方)」にして、吉方に開く神力が七面を開く大明神である。法華経の中に、末法
においてこの経を信じ広める者には必ず守護の神がつくという所説があり、陰陽道の鬼門一面を塞い
で七面を開く神、すなわち七面大明神こそ法華守護の大善神となる。日蓮宗では末法総鎮守法華守護
の七面大明神と勧請する。ここにも神仏習合のあとが見られる。
 日蓮が身延の山に入って間もなく、建冶三年(1277)の九月、説法の場に見なれない妙齢の婦
人がいた。本体は一丈あまりの竜であったが教化によって、七面の山に住む七面天女となって身延の
山の裏鬼門をおさえて山を守り、法華経の護法神となった。もともとこの山は山頂に七つの池に水を
貯え、池大明神が祀られていた。池大明神の成仏の姿が七面大明神であると考えられる。一旦垂跡さ
れると本地を訪ねられるが、女神のこと故、鬼子母神の娘、吉祥天であるといわれる。また本体が竜
神であったため法華経提婆品の八才竜女の成佛説や弁才天説もある。七面山は長い間女人禁制であっ
た。これは日蓮以前の真言修験の時代からであった。江戸初期、熱烈な法華経信者であった徳川家康
の側室お万の方が、山麓の白糸の滝で身を浄めて登ってから女人の参詣が許されるようになり、この
時から七面大明神は女人にも開放されるようになった。
 


■五反野桂の木プチテラス ◇
 足立2丁目14番1号にある区立公園。平成25年4月1日開園。


■足立東プチテラス ◇
 足立2丁目27番1号にある区立公園。平成24年1月17日開園。


■庚申堂 ◇
 足立2丁目31番8号角地にある小堂。安永九年(1780)、日月・青面金剛・二鬼・三猿を刻む。

   庚申塔(安永九年銘)
   祠の中に建つのは、庚申塔と呼ばれる石造物である。日本には平安時代初期に中国から伝
   わった庚申信仰は、60日で一巡する「庚申」の日の晩、胎内に宿る三尸という虫が、日
   頃の悪事を天に昇って天帝に告げると寿命が縮むと信じ徹夜をする俗信を生んだ。江戸時
   代には、地域の人々が庚申講を結成し、庚申の晩は宿を持ちまわって集い、夜通し飲食や
   遊興をする風習が起こった。通常、3年間講を継続すると記念に庚申塔を村の路傍等に造
   立した。
   碑面中央には、青面金剛が2匹の邪鬼を足もとに踏みつけている。さらにその下には「見
   ざる」「言わざる」「聞かざる」の姿勢をとる三猿も陽刻されている。青面金剛の左右に
   は月と太陽、太陽の下には鶏も陽刻されている。
   向かって左側面には、「安永九年庚子十二月吉日五反野村講中拾二人」という文字が刻ま
   れている。安永九年は1780年に当たり、当時、この周辺の五反野村の十二名の人々が
   庚申講を結成し、主に長寿を願う行事が満願に達したのを記念してこの庚申塔を建立した
   のである。江戸時代の地域社会の風習や人びとのつながりを知る資料として貴重であり、
   平成24年12月足立区登録有形民俗文化財に登録された。
   平成25年3月                         足立区教育委員会
 


■足立二丁目児童遊園 ◇
 足立2丁目34番5号にある区立公園。昭和52年4月1日開園。


■足立二丁目あかしあ児童遊園 ◇
 足立2丁目36番2号にある区立公園。平成15年9月1日開園。


■庚申塔2基 ◇
 足立2丁目36番4号の角地にある。庚申塔の
他に出羽三山巡礼供養塔、 「庚申塚修復記念」の石
塔がある。

 ①.寛政八年(1796)日月・青面金剛・一鬼・三猿「庚申供養塔」を刻む。
 ②.文久二年(1862)日月「庚申塚」とのみ刻む。
 


■千代田線 枕木火災
 足立2丁目39番西の東京メトロ千代田線の荒川鉄橋の枕木が突然燃えた火災。平成29年10月
25日朝9時40分頃、「線路の方から煙が出ている」と通行人から通報があった。東京消防庁によ
ると、鉄橋の線路の枕木が燃え、消防車5台が出動して消火活動に当り、火は約1時間後に消し止め
られた。怪我をした人はいないという。東京メトロによりますと、この火事で千代田線は北千住と綾
瀬の間の上下線で一時、運転を見合わせ、北千住から代々木上原の間で折り返し運転をするなどの影
響が出たが、午前11時過ぎに運転を再開した。 


■馬頭観音 ◇
 足立2丁目43番18号ブライヴェル足立パークフロントの向かい、東武スカイツリーライン(伊
勢崎線)の土手上にある石造物。
 


■日吉児童遊園 ◇
 足立2丁目44番2号にある区立公園。平成8年6月19日開園。

 
「夢」 ◇
 大石の上に胡坐をかいた少女裸像。昭和62年宮澤清日子の作品。 


■小菅駅 ◇
 足立2丁目46番11号にある東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の停車場。大正13年10月
1日五反野・梅島の両駅と同時に追加開業された駅。ホームは高架島式1面2線構造で、複々線の内
側を走る緩行線のみにホームがある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置。
 改札口・出口は1ヶ所のみで、地上1階にある。
 小菅というのは駅の東に位置する葛飾区内の地名だ。小菅刑務所があったのでその名とした。
 


■日吉東プチテラス ◇
 足立2丁目49番1号にある区立ミニ公園。平成21年3月29日開園。


■末廣旅館跡 ◇
 足立3丁目9番10号の東京東信用金庫五反野支店のところにあった下山事件の主要舞台。事件の
詳細は西綾瀬1丁目に記載してある。
 


■五反野プチテラス ◇
 足立3丁目1〇番8号にある区立公園。平成24年3月18日開園。


■五反野小学校 → 足立小学校
 足立3丁目11番5号にある。昭和27年9月1日足立区五反野南町1439番地に千寿第五小学
校・弘道小学校の2部授業解消のため開校、木造2階建(15教室)。校名は、地域の名称に因んで
「五反野小学校」とし、開校記念日を10月28日とする。同29年8教室増築。同30年4教室増
築。同32年2教室。同35年体育館完成。同37年の開校記念日に創立10周年記念式典・校歌制
定。

 校歌「輝いて雲は広がる」 作詞・中田浩一郎  作曲・石桁真礼生
  1.輝いて雲は広がる
    荒川の流れの辺り
    心合わせて今日の教えを
    学ぶ喜び 学ぶ喜び
    五反野小学校
  2.温かくいつも導く
    先生と友と手を取り
    進む大きな希望の道を
    みんな仲良く みんな仲良く
    五反野小学校
  3.西の宮 社の緑
    校庭に花は一杯
    並ぶ若木は 強く明るく
    空に伸びよう 空に伸びよう
    五反野小学校


 同38年プール完成。同45年第1次鉄筋校舎完成(8教室・3準備室)。同46年第2次鉄筋校
舎完成(8教室)。同47年創立20周年記念式典。第3次鉄筋校舎完成(4教室・図書室・家庭科
室・調理室)。同49年第4次鉄筋校舎完成(校長室・職員室・事務室・保健室・用務主事室・放送
室・2教室)。同52年体育館改築竣工。同54年区の科学教育センター校指定。プール付属設備全
面改修。同55年陶芸小屋完成。同56校庭の全面改修及びスプリンクラー設置。同57年創立30
周年記念式典。同62年日本間教室完成。同63年校舎窓枠アルミサッシ化。
 平成元年校舎内外装、耐震工事、体育館舞台改修。同4年創立40周年記念式典。同6年西門・渡
り廊下・防球ネット・給水設備改修。同9年体育館照明全面改修。創立45周年記念児童集会。同1
4年創立50周年記念式典。同25年千寿第五小学校と統合し「足立区立足立小学校」となる。跡地
に新校舎を建設するため、統合後は千寿第五小学校の旧校舎で開校する。

 特色
 地域、保護者、学校の3者による「学校理事会」が運営方針を協議する「コミュニティスクール」
に指定されている。平成17年から教員公募制を実施するなど先駆的な取り組みを行っている。
 


■足立小学校 統合新設 ◇
 足立3丁目11番5号にある区立校。平成25年千寿第五小学校と五反野小学校が統合して「足立
区立足立小学校」として千寿第五小学校跡地に開校。五反野小学校跡地に新校舎建設。

 校歌
「荒川の流れ」 作詞・植田和成  作曲・関孝弘
  1.荒川の流れ 水面は輝き
    幸せ溢れるところ 私の故郷
    優しい街に生まれ 健やかに元気に伸び行く
    仲良く学ぼう 今日も笑顔の友と
  2.喜び悲しみ 沢山あれど
    絆で結ばれ集う 楽しい学び舎
    流した汗は宝 何時までも心に響かせ
    みんなで歌おう 明日も手を取り合って
  3.希望の朝には 望みを描こう
    広がる大きな夢は 世界ははばたく
    勇気と誇り胸に 逞しく明るく歩もう
    未来に進む 我ら足立小学校
 


■新道地守稲荷神社(祭神:倉稲魂命)
 
足立3丁目11番25号の狭小なスペースにある小祠。しんどう ぢもり いなりじんじゃと読む。
当地にあった深川の材木商冬木屋の別邸内に稲荷神社を勧請して創建したという。昭和38年からこ
の名で呼ばれているという。
 


■歯科医院強盗事件
 
足立3丁目11番30号スコラタワー1階スコラ歯科クリニックで起きた事件。平成29年7月2
5日21時半頃、女性歯科医師金城直美(58歳)から「刃物を持った覆面の男に切りつけられた」
などと110番通報があった。この通報を受け警察官や救急隊が現場に駆けつけたところ、金城が男
と揉み合いになった際に刃物で左指を切りつけられており、この事件により金城は全治2週間の軽傷
を負った。警視庁によと、女性歯科医が閉店作業をしていた際、突然、覆面をした男が刃物を所持し
て現れ、襲ってきたという。逃げた犯人の特徴は、身長・約170㎝、服装・黒色のTシャツを着て
おり白地に黒色模様の覆面を被っていたということだ。
 8月11日、防犯カメラの解析から、警視庁は、歯科医院から南西約40m、ほぼ斜向かいにある
ライオンズマンション五反野第六に住む佐藤治(53歳)を逮捕した。
 


■ばんじん通り児童遊園 ◇
 足立3丁目16番10号にある区立公園。平成16年2月10日開園。


■足立三丁目プチテラス ◇
 
足立3丁目24番19号にある区立公園。平成5年4月1日開園。

 
「りんごの詩」 ◇
 テラスの角にある平成7年第6回足立区野外彫刻コンクール入賞の荒木実の作品。3つのリンゴ。


■建碑の疏(神田寺跡記念碑 六地蔵) 
 
足立3丁目27番13号、江北橋通りに面して、東武スカイツリーラインのガードを外れたところ
にある六地蔵を刻んだ碑。昭和57年の建立にしては新し過ぎる。疏は「注釈」の意。
 平成29年6月17日確認に行ってきた。

   建碑の疏
   経ニ曰ク、「地蔵尊ハ釈尊滅後ヨリ弥勒菩薩成道ノ日ニ至ルマデ衆生済度ヲ付嘱サレタル
   菩薩ナリ」ト。
   サレバ当地市街化整備ニヨル道路拡幅ヲ機ニ浮彫り六地蔵尊を建立シ、遥ニ菩薩ノ加護ヲ
   請ヒ奉ラントス。
   願ワクハ菩薩、ナガク茲ニ影臨シ、慈眼ヲ以テ衆庶ヲ守護シ給ワンコトヲ。
   当地ハ神田寺、旧法禅寺ノ寺領地跡ナレバ関係者一同衆議ニハカリテ之ヲ建ツ。
   昭和57年                        浄土宗神田寺
                                旧法禅寺 旧民安寺
                                 第三十六世 友松諦道
                                      檀信徒一同

 ※文中の「付嘱」は、仏法を伝授すること、預けるの意。
 神田寺は、現在千代田区外神田3‐4‐10号にある。寺創立の縁起については明治以降、神田の
地に寺院が無かったため、第二次大戦後の昭和22年に故友松圓諦師によって地名を名のる寺院とし
て創建された。寺の前身は南北朝時代の至徳元年(1384)品川に創建された後、深川に移転した
「法禅寺」と、江戸時代初期の万治元年(1658)創建の「安民寺」が前身となっている。
 故圓諦師はNHKラジオ法話『法句経講義』で戦後の荒んだ日本人の心に釈迦の教えを解り易く説
いた。また仏教の法灯を広めるべく仏教活動の拠点として「真理運動本部」を設立して、全国各地で
出張講演し、多くの著作も出版した。
 現在、浄土宗「神田寺」第三世友松浩志住職の許、檀家と「真理舎」を学びの場として多くの年間
行事を行っている。
 仏教教育の一環として第二世諦道師によって、昭和26年に寺付属の「神田幼稚園」から昭和55
年に学校法人『真理学園』を設立し、平成3年4月八王子市に「真理学園幼稚園」が創立された。


■西之宮稲荷神社(祭神:宇迦之御魂之生命 須佐之男命) ◇
 足立3丁目28番16号にある。創建年代は不詳だが、弥五郎新田村には東之宮稲荷、本田之宮稲
荷、西之宮稲荷、氷川社があったといい、この西之宮稲荷が当社に該当、明治時代初期には、東之宮
稲荷、氷川社とともに本田之宮稲荷の境外社となっていたものの、本田之宮稲荷が荒川放水路河川敷
として買収されたため、当社に本田之宮稲荷社を合祀、現在に至っているという。
 「ブックレット足立風土記綾瀬地区」に

   西之宮稲荷神社(足立3−28)  祭神は、宇迦之御魂命・須佐之男命です。江戸時代後
   期までには弥五郎新田に、東之宮、本田之宮、西之宮の3つの稲荷神社と1つの氷川神社
   があったといいます。西之宮は、明治時代初めの記録に、村の中心地である本田の稲荷神
   社(村社本田之宮〈氷川社も合祀〉)の付属神社となっています(鴨下家文書)。その後
   本田之宮敷地が荒川放水路河川敷として買収されたため、大正元年に西之宮に合祀され、
   以来弥五郎新田の総鎮守となりました。


 とあり、昭和54年刊行の『足立区の歴史』に、

   この神社は稲荷であるが、左手に鹿島神宮がある。珍しいのは茅葺きの覆堂で、3間1重
   の切妻屋根。回りは島格子造りで、後側と両脇が三方板庇付きである。内部に安置されて
   いる神宮は一間社流れ造りで、千鳥破風を取り入れたこけら葺きである。


 とある。しかし今はキンキラキンの社殿だ。荒川放水路開削以後弥五郎新田にあった三つの神社を
一ヶ所にまとめ、西の宮に合祀したものだ。祭神は宇迦能御魂命・須佐之男の2柱。祭日は9月15
日。客殿に浅間神社があり、境内に文化五年(1808)の2月の漱盥石がある。

   稲荷神社(西の宮)                  (足立3‐28‐16)
   祭神 宇伽之御魂命 須佐之男命
   末社 浅間社 鹿島社 天神社 水神社
   当社は、江戸初期、弥五郎新田開発の地に再建された稲荷社であったが、明治3年水田社
   (東の宮)を合祀し、また、荒川放水路開削により弥五郎新田中央に位置した鎮守稲荷神
   社を大正元年に移して合祀し、以来西の宮は弥五郎新田の総鎮守となりました。
   弥五郎新田は昭和7年足立区誕生の際に日ノ出町1、2丁目、五反野南町、五反野北町等
   に分かれ、さらに住居表示で、日ノ出町、足立2、3丁目、西綾瀬1~4丁目、青井3、
   4丁目、の全部または一部となった。
   社殿は昭和20年5月の空襲で焼失したが、昭和30年9月氏子中によって再建された。
   境内浅間神社の富士塚は富士山岳信仰を伝えるものとして、昭和57年11月区登録有形
   民俗文化財となった。また、毎年4月に出羽三山の山岳信仰に根づくボンデン祭りが行わ
   れている。昭和60年11月区登録無形民俗文化財になった。
   平成5年3月                          足立区教育委員会

 富士塚
 境内東北隅の高さ3~4mの溶岩の塚山が築造されており、区の文化財に登録されている、毎年6
月30日に山開きが行われ七富士参りの行者が白装束姿で「六根清浄、六根清浄」と唱えながら訪れ
る。溶岩富士は綺麗に清掃され、「マネキ」が建てられ、登山記念碑には注連縄が張られる。本殿左
の神楽殿では「お囃子」が奏でられる。
 富士塚は、普段は立入禁止にしてある。御胎内もあるんだよ。


 浅間神社(富士塚)(祭神:木花咲開耶姫命)
 富士塚の上にある小祠。

 ●梵天祭(ぼんでんまつり)
 4月8日に行われている。役員が「梵天」を作り、神官によって祈祷された梵天は各家に配られ、
一年間無事息災を見守ってくれる霊験新たかな神社なのだ。毎年4月8日に行われている行事で、記
録によると、大正時代から、敗戦の年(昭和20年)以外、切れ目無く続けられている。「梵天帝釈
三山講」と呼ばれ、戦前までは、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)に行者と共に代参者が登山して
御幣を受けてきて、講中の家々へその「幣束」を配っていたもので、戦後は、稲荷神社の祭儀に取り
入れられて「民間信仰」の形が続けられている。現在は「悪疫除け」として「五色の幣束」が希望す
る家々に配られている。

 
社殿造営記念碑・三社殿改修費寄付者芳名碑・神楽殿再建記念碑
 真新しい鳥居を潜った左手、玉垣に沿って3基整然と建てられている。社殿造営記念碑は平成12
年9月吉日、三社殿改修費寄付者芳名碑は最も古く昭和52年9月吉日、神楽殿再建記念碑は平成元
年9月吉日夫々の建立。何れも碑文はなく、寄付者の名前がずらりと刻まれている。

 
三社殿(菅原道真命・水波能売命・武甕槌命)
 天神社・水神社・鹿島社を祀る。

 
●下山事件捜査本部跡
 昭和24年7月、境内に「下山事件捜査本部」が設置された。本部と言っても特設テントだが、大
勢の刑事や新聞記者でごった返した。当時、周辺は寂しい場所で飲食店がなかったので、近所の人々
がこれら関係者のために炊き出しを行ったという。事件の追憶碑は、当初事件現場すぐそばに建てら
れていたが、千代田線工事のため反対側に移転し、さらにつくばエクスプレス工事により現在の五反
野親水緑道とJR常磐線が交差する場所に移転した。
 


■五反野駅 ◇
 足立3丁目34番6号にある東武鉄道スカイツリーライン(伊勢崎線)の停車場。大正13年10
月1日小菅・梅島の両駅と同時に追加開業した。ホームは高架島式1面2線構造で、複々線の内側を
走る緩行線のみにホームがある。ホームと改札階を結ぶエレベーターはない。改札口は1ヶ所のみで
地上1階にある。出口は2ヶ所。駅周辺は、商店街と住宅街の混在地区。つくばエクスプレスが開業
するまでは、青井地区の最寄り駅はこの五反野駅だった。
 
 

■稲荷社(祭神:倉稲魂命) ◇
 足立4丁目17番10号北村鉄工所を入った右にある。


■末広公園 ◇
 足立4丁目18番11号にある区立公園。


■足立四丁目ふれあいプチテラス ◇
 足立4丁目30番7号にある区立公園。平成29年10月21日開園。


■氷川神社(祭神:素盞鳴尊) ◇
 足立4丁目35番10号にある小社。
 
 


【綾瀬】(あやせ)1~7丁目                      昭和40年5月1日
 次郎左衛門新田・伊藤谷村・弥五郎新田・五兵衛新田・保木間飛地。次郎左衛門新田は、文禄慶
長のころに、次郎左衛門、権右衛門、庄兵衛などが開いたと伝えている。弥五郎と五兵衛について
は、西綾瀬に記述した。
 明治22年「市制町村制」により次郎左衛門新田・伊藤谷村・弥五郎新田・五兵衛新田・保木間
飛地をあわせて新たに綾瀬村を起立した。昭和7年足立区の成立により村は解体し、日ノ出町1~
3丁目・五反野南町・五反野北町・二ツ家町・四ツ家町・五兵衛町・伊藤谷本町・伊藤谷東町・伊
藤谷北町・伊藤谷西町に分かれ戦後に至る。昭和40年新住居表示により伊藤谷本町・普賢寺町・
五兵衛町・北三谷町・伊藤谷東町・下谷中町の各一部をあわせた町域を現行の「綾瀬」とし、同4
3年上千葉町を1~3丁目に編入した。その年の暮れ五兵衛町・下谷中町・東加平町の各一部をあ
わせた町域を7丁目として現行の綾瀬の新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 綾瀬の由来
 綾瀬川にある。だから綾瀬は綾瀬川だ。綾瀬とは幾流もの流れが交差して綾になって流れる様を
いう。
 綾瀬は綾瀬川の東側の南北に長い町。常磐線の綾瀬駅は昭和18年の開業。駅を中心としたトラ
イアングルに綾瀬三社と呼ばれる綾瀬神社(氷川神社・胡録神社)・綾瀬稲荷神社・北野神社があ
る。東京都の武道館があり、公園や橋名に旧称がばらまかれている。
 


■綾瀬川
 区内の綾瀬川は、花畑の北から中川に流れていたものを、寛永の頃に開鑿して隅田川に連絡した運
河(人工河川)なんだよ。江戸時代は「新綾瀬川」と記録してある。綾瀬の謂れは桶川市に端を発す
る綾瀬川によるが、綾瀬とは幾条にも入り乱れて流れる様をいう。「あやしの川」と呼ばれた古利根
川に嘉字を充てたものさ。


    ほのみえてうすくれなゐのひとむらハ綾瀬の岸のねぶの花かも(橘千蔭)
    錦そとみるやこころの綾瀬川うつるもみじにいつて折なむ(戸田茂睡)


 
橋梁
   綾 瀬 橋 昭和36年改架 橋長61.5m 復員20.5m 鋼橋
   綾瀬新橋 昭和 5年新架   32.4m    7.2m 鉄筋コンクリート橋
   嘉兵衛橋 昭和40年撤去 
首都高速道路加平インターチェンジ建設のため撤去
   新加平橋 昭和40年新架   36.8m   21.2m 鋼橋
   内 匠 橋 昭和39年新架   31.2m    7.1m 鋼橋
   伊藤谷橋 大正15年改架   31.3m    5.9m 鋼橋
   五兵衛橋 昭和11年改架   31.5m    4.3m 鉄筋コンクリート橋

 伊藤谷橋だけが区道橋、他は総て都道橋。
 

 
小菅どん
 昔、綾瀬の西の地、水戸徳川家の小菅御殿近くに「小菅どん」と呼ばれる大蛇がよく出没し、通る
人々を驚かしては、それを見て楽しんでいたという。正直者に危害を及ぼすことは、まるで一切なかっ
たが、大罪を犯したものや、不忠者はガブッと一呑みにしたそうだ。本当に見た人の話によると、醤
油小樽ほど(直径約50cm)の太さがあり、松ノ木のような色合い、大きさであったとのこと。大
正時代までは大蛇の通った跡がよく見つかったとのこと。捕らえられたという記録がなく、死骸が見
つかったということもないから、今もいる近くにいるかもしれないよ。


■星野御三家(綾瀬の名家)
 綾瀬1丁目9番3号・17号・16番20号(伊藤谷本町356番地 伊藤谷村第5大区小ノ18
区))に、草分けの星野家が3家南北に並んでいるのでそう呼ぶ。西向かいの吉田家も草分けで、他
に田中家、伊藤家がある。
 


伊藤谷の宝珠山普門院(不動院)薬師寺(本尊:不動明王 薬師如来) ◇
 綾瀬1丁目14番20号にある新義真言宗豊山派の寺。創建は寛永九年(1632)、開山は賢明
法師、開基は根本佐右衛門だ。本尊は不動明王だが、後に薬師如来を安置し寺号を薬師寺とした。
眼病に効能があるという。
 山門を入って正面に本堂、左手前に薬師堂、その後ろが墓地、薬師堂の向は庚申堂と庫裏だ。その
他、境内に、弘法大師像、馬頭観音、金時地蔵、みちびき地蔵、みちびき地蔵礼賛碑、
六地蔵、五輪
塔、仏塔などがあり、
宝物に火焔のない不動明王立像、墓地に寛文五年(1665)八月二十五日銘
の墓碑がある。

 門前に大きな「庚申塔」があって、それには庚申信仰の説明が刻まれている。「人間の体の中に「三
尸の虫(さんしのむし)」が、常に人の善悪、過失を監視し、庚申の夜、虫は天に昇って天帝にその
人の善悪を告げる、罪科が多いと命が奪われる。そこで、60日目毎にやって来る庚申の晩は虫の昇
天を防ぐため、一晩中寝ずに過ごした。「新編武蔵風土記」の伊藤谷村の項に、

   薬師寺
   新義真言宗、本木村吉祥院門徒、寳珠山普門院と號す、本尊不動を安ず。
   薬師堂。恵心の作れる薬師を安せり。

 とあり、「足立風土記資料寺院明細」に、

   小本寺吉祥院門徒 東京府管轄武州足立郡伊藤谷村 宝珠山 薬師寺 創立年暦不詳、賢
   清開山、寺格無之
   但当寺住無之、東京府管轄武州足立郡千住宿安養院住職了阿兼務
   境内、但除地二反歩
   檀家 51軒
   門末庵室等無之


 とある。区の説明板は以下の通り。

   薬師寺
   本寺の創建は寛永九年(1632)、開山は賢明法師といわれている。常陸国水戸在の根
   本村の佐右衛門は、先祖伝来の不動明王を背負い、諸国遍歴の途次、この地に足をとどめ
   賢明と具に一寺を建て、この不動明王を御本尊としてまつった。
   没年元禄元年(1688)九月八日の助左衛門の位牌があり、この裏面に田畠九反三畝を
   寄附したと誌してある。この田畠が寺の維持に寄与するところ大なるものがあった。
   
薬師堂の薬師如来は眼疾に効験があり、水戸光圀江戸参府の折、眼の痛みを治したと伝え
   ている。
   荒川辺八十八ヶ所の52番、荒綾八十八ヶ所の19番の札所で、■■の行は現在も脈々と
   として続いている。
   寺内から出土した一基の板碑(紀年不詳)を保存している。
   昭和55年3月                      東京都足立区教育委員会


   薬師寺
   真言宗豊山派宝珠山普門院薬師寺と号す。創建は寛永九年(1632)、開山は賢明法師
   と伝えられる。常陸国水戸在の根本村の佐右衛門が、先祖伝来の不動明王を背負い、諸国
   遍歴の途次、この地に錫を止め、賢明と共に一寺を建て、不動明王を本尊として不動院を
   開き仏道に精進した。のち、当地にあった薬師如来を安置する仏堂を付属堂とし、近隣に
   同名の寺院あるともって薬師寺と改称した。
   元禄元年(1688)九月八日没の助左衛門の位牌を代々供養しているが、この裏面に田
   畠九反三畝を寄附したことを誌してある。この田畠が寺の維持に寄与すること大きなもの
   があった。
   薬師堂の薬師如来は眼疾に効験があり、水戸光圀江戸参府の折、眼の痛みを治したと伝え
   ている。堂の正面上部の「医王堂」の扁額は千住の接骨医、名倉氏初代の書である。また
   堂内には絵馬が多数ある。
   弘法大師霊場荒川辺八十八ヶ所霊場第52番、荒綾八十八ヶ所霊場第19番、弘法大師二
   十一ヶ所霊場第15番の札所である。
   また境内から出土した文正二年(1467)銘阿弥陀三尊板碑を保存している。
   平成5年3月                          足立区教育委員会

 水戸黄門縁の庚申塔(あ種子庚申塔)
 薬師堂の真正面、本堂の右側に庚申堂があり、その堂内に鎮座しているのが耳病除けの青面金剛を
刻んだ庚申塔だ。この青面金剛は、水戸中納言徳川光圀公が特に信仰篤く、薬師堂内の薬師如来とと
もに江戸登城の折、帰還したというから、かなり古い時代のもので、利益のある神とされてきた。神
は色々の願いを叶えてくれるが、特に耳の病気で悩んでいる人に利益があり、全快した折には柄杓の
底に孔を開け、これをお礼として奉納する慣わしとなっている。現在も平癒祈願があるものと見えて、
真新しい柄杓が奉納されている。

   有形民俗文化財
    (梵字あ)
種子庚申塔
   庚申塔の起源は中国の三尸説による。
   (人の行為・善悪・過失を監視する)その三尸説「送三尸之毒虫」を刻んである庚申塔は
   区内に二基あり そのうちの一基として貴重である台石から笠の上までの高さが七尺あり
   大きなものである 下部に三猿が彫ってあるので庚申塔とわかる 左の側面には三行に文
   字がある
       夫庚申皈依之輩現送三尸之毒虫
      伏仰願一結誦集現當二世得安楽 欽白
       半夜凌■離生死當登三身之蓮臺
   と庚申信仰の本来の意味を述べている。
   庚申塔に このような文字の彫ってあるものは区内に見当らない。造立年代の不明なのも
   惜しまれる。                          足立区教育委員会

 寺の説明板は以下の通り。

   
庚申堂
   耳病除、庚申とその他の願いを成就してくださる青面金剛と申し満願成就のときは柄杓に
   穴をあけおれいとしてお札として奉納する。
   昔、常陸国徳川三十五万石中納言水戸光圀公の信仰に厚く江戸登城の砌り薬師堂とともに
   祈願せられたる因縁深きお堂であります。


■伊藤谷公園 ◇

 綾瀬1丁目16番5号にある区立公園。


■胡録神社
(やなぐいじんじゃ) 
氷川神社に合祀
 綾瀬1丁目23番、綾瀬1丁目児童遊園の所にあった。祭神は淤母陀流命(おもだるのみこと)。
文久二年(1862)六月の漱盥石(かんそうせき)があった。
 


■綾瀬一丁目児童遊園 ◇
 綾瀬1丁目23番29号にある区立公園。昭和47年12月5日開園。


■「仲良し」 ◇
 綾瀬1丁目33番11号学英塾の前、コミュニティ道路にある、姉に甘える幼児像。


■「[家族]門出の門」 ◇
 綾瀬1丁目34番7号綾瀬プルニエ住宅1階のミニストップ足立綾瀬1丁目店の東外にある、平成
4年足立区国際野外彫刻コンクール入賞の平山隆也の作品。父の柱と母の柱が子供の屋根を支えてい
るスケールの大きなオブジェ。


■氷川神社 → 綾瀬神社(祭神:須佐之男命 淤母陀流命) 
 綾瀬1丁目34番26号にある元の氷川神社と胡録神社。祭礼は10月1日。本社はさいたま市大
宮の氷川神社、武蔵野国の一ノ宮でその神徳を仰ぎ、明暦五年(1659)七月二十七日の村草創時
に勧請した。また合祀した胡録(やなぐい)神社は氏子区域にもう一社あった神社で、宝暦五年三月
十日鎮座との社伝がある。こっちは疫病退散を祈願する神社で、今も3月に春季祭(鎮花祭)と称し
て祭事を執り行っている。文久二年(1862)銘の漱盥石と唐獅子一対がある。昭和50年の建て
替え時に、胡録神社を合祀し、現在の町名「綾瀬」を入れて社名を「氷川神社」から「綾瀬神社」に
変更。因みに全国に氷川神社は261社あり、そのうち埼玉県に162社、東京には68社。殆どが
埼玉・東京にある。さて4丁目に綾瀬稲荷神社があるのでご注意を。


■綾南公園 ◇
 綾瀬2丁目4番10号にある区立公園。


■「ふくろう」 ◇
 綾瀬2丁目6番3号パークタウン東綾瀬団地3号棟の東南隅にある石像。


■「亀」 ◇
 綾瀬2丁目7番2号パークタウン東綾瀬団地2号棟の東南隅にある石の上のにある。


■子を抱く母 ◇
 綾瀬2丁目8番1号パークタウン東綾瀬団地1号棟の北の公園スペースにある石像。


■北野公園
 綾瀬2丁目15番4号にある区立公園。


文殊山養福寺(本尊:薬師如来) ◇
 綾瀬2丁目19番13号にある新義真言宗の寺。もと南葛飾郡亀青村青戸(葛飾区青戸8丁目18
番)法持院の末。永正年間(1504~20)賢空によって中興した。かつてこの辺りは普賢寺町の
内だが、その町名はこの地に隣接する葛飾区上千葉町(東堀切)の普賢寺の寺領だったことによる。
 寛永六年(1629)十月四日銘の五輪塔、享保十九年(1734)の庚申塔、宝暦三年(175
3)の宝篋印塔がある。入口右は庫裏。鉄筋コンクリート造りの本堂。左手と本堂奥に墓地。大きな
楠がある。落ち着く寺だよ。

 
大楠(綾瀬3撰)
 区内随一の巨木。かつて、八ヶ村落としに架けられた円心橋(石造太鼓橋)、大室家の信長塀とと
もに綾瀬3撰に数えられた。
 


綾瀬天神 北野神社(祭神:菅原道真命 倉稲魂命) ◇
 綾瀬2丁目23番14号にある。言い伝えによれば永正元年(1504)後柏原天皇の御代。足利
11代将軍義澄の治世だとか。区内にあってはかなり古い創建だ。平成14年は鎮座500年記念大
祭に当たる。境内に元禄十三年(1700)十月の庚申塔がある。
 
氏子区域は、2~3、5~6丁目と東綾瀬の1丁目で、綾瀬2丁目は神社の鎮座地なので「宮元」
と呼んだり、また「郷」とも呼ばれていた。だが東隣の北三谷地区も「郷」と呼んだので、それと区
別する意味で「根郷(ねんご)」とも呼んだ。その根郷地区も、東・南・西3つの「厨子」に分けら
れ、5~6丁目地区は「四町田(しちょうだ)」、あとの残りは「宿(しゅく)といった。五反野の
西ノ宮神社の管理で、10月1日の祭礼の際、昭和の初め頃まで「喧嘩獅子」といって雄獅子・雌獅
子・中獅子の獅子頭を担いで練り歩いた。現在は大人神輿・中神輿・子供神輿2台の4台の神輿が出
る。囃子は戦前には相原という笛の名手がいて盛んだったが戦争を機に途絶してしまった。が昭和4
5年に囃子方を再結成し佐野の海老沢氏から葛西囃子を習い、現在は20名ほどの会員がいるとか。

 石祠型庚申塔
 元禄八年、同十三年(1700)十月の銘がある。堂内に打ち付けてある説明板。

   足立区指定有形民俗文化財
   この庚申塔は元禄八年九月(西暦1695年)
   当時の村びとたちによって奉造されたものです。
   石祠型又は宮殿型ともいわれる流れ造りの
   神社様式で造られており
   昭和65年十一月に足立区の有型民俗
   文化財の指定を受けた貴重なものです。


 文中「有型」とあるのは「有形」の誤記。区の説明板は以下の通り。

   石祠型庚申塔
   庚申塔は庚申信仰をする庚申講の人びとによって建立された塔である。庚申とは、十干の
   庚と十二支の申とが結び付いた60日に1度巡ってくる日や年のことです。
   庚申の日には、人間の体内にいる三尸という虫が睡眠中に抜け出て天帝に罪過を告げるた
   め寿命が縮むという説が中国の道教にあり、これが日本に伝わり信仰された。庚申の夜に
   は眠らずに過ごす守庚申に、礼拝本尊や宗教儀礼が組み込まれた庚申待が室町時代の中頃
   から行なわれるようになり、江戸時代に入ると一般的にも浸透し、各地に庚申講が結成さ
   れた。供養のための庚申塔が多数造立されるようになった。庚申塔の形態、様式は多様で
   あり、形態は一般に笠付型、駒型、舟型などいくつかに分類することができる。
   この庚申塔は石祠型といわれ、社殿の形を模したものである。右は元禄八年(1695)
   左は元禄十三年(1700)の造立で、それぞれ「奉造立石之宮殿第六天村中庚申供養」
   「庚申供養奉造立石宝殿一宇二世安楽処」とある。石祠型庚申塔は、東京都内では類例を
   見ない珍しいものである。
   昭和62年11月、足立区有形民俗文化財に登録された。
   平成7年3月                       東京都足立区教育委員会
 


■綾瀬二丁目プチテラス ◇
 綾瀬2丁目28番11号にある区立ミニ公園。平成6年1月4日開園。


■綾瀬二丁目ふれあい公園 ◇
 綾瀬2丁目41番6号にある区立公園。


■普賢寺公園 ◇
 綾瀬2丁目42番3号にある区立公園。


■河添公園 ◇
 綾瀬2丁目46番1号にある区立公園。


■綾瀬駅 ◇
 綾瀬3丁目1番1号にあるJR常磐線と東京メトロ千代田線の停車場。常磐線は昭和18年4月1
日に追加開業した駅。昭和46年4月20日には常磐線の複々線化とともに営団地下鉄千代田線が乗
り入れ、以後は営団(東京メトロ)が管理する駅となった。その後、北綾瀬までの支線は昭和54年
に旅客営業を開始している。
 ホームは基本的に高架島式2面3線構造だが、3・4番線ホームの東寄りには北綾瀬支線が使用す
る欠き取りホームの0番線がある。北綾瀬支線はワンマン運転を行うため、ホームドアが設けられて
いる。常磐線から千代田線へ直通する列車列車は1番線、千代田線から常磐線へ直通する列車は4番
線を使用し、中線の2・3番線を綾瀬折り返しの千代田線列車が使用している。2・3番線ホームに
着いた列車は両側のドアを開けるので、引き続き常磐線方面へ向かう客は進行方向左の3番線側、北
綾瀬へ向かう客は進行方向右の4番線側から降りれば、平行移動のみで乗り換えることができる。だ
が3番線側のドアは到着後しばらくすると閉められるてしまうので、松戸・我孫子方面へ行く場合は
間違えずに進行方向左側に降りることを忘れぬように。遠回りすることになるぞ。ホームと改札階を
結ぶエレベーターは、今のところ0・1・2番線ホームに1基のみ設けられており、3・4番線ホー
ムにはまだない。0番ホームは北綾瀬駅行のみのホームで折り返し運転をしている。平成31年3月
16日ダイヤ改正により、一部電車が本線直通となった。
 改札口は西出口と東出口の2ヶ所で、いずれも1階にある。
 この駅は都区内にある駅では唯一、JRが他社に営業を委託している駅なのだ。そのため「みどり
の窓口」もなく、スイカも当初は使えなかった。ホームの各表示板などもみんな東京メトロ仕様となっ
ている。JRの職員は、ここで交代する運転士と車掌しかいない。
 北千住~綾瀬間はJR常磐線と東京メトロ千代田線の二重戸籍区間となっているため、この区間に
限っては東京メトロの運賃も安いほうのJRに合わせ130円となっている。
 国鉄の戦後三大ミステリーのひとつ「下山事件」で、初代国鉄総裁下山定則が轢死体で発見された
のは北千住~綾瀬間の線路上。今もまだこの事件の謎は解明されていない。

 ●乗客が線路を歩いて厳重注意
 平成28年1月12日午前8時頃、貧血を起こした男性が倒れて線路に転落、他の客が非常停車ボ
タンを押し、取手発明治神宮前行き上り普通列車(10両)が、綾瀬駅の手前300m付近で停車し
た。その後、15分経っても動かなかったため、停車中の列車に乗っていた男性が窓から線路上に降
り、歩いて綾瀬駅に向かった。それを見た列車の運転手から連絡を受けた綾瀬駅員が男性を無事保護
した。警視庁やJR東日本によると、男性は40代で亀有駅から乗車。列車が停車したところ、「会
社の大事な会議に遅れてはならない」といって、自力で列車の窓を開けて線路上に降り、綾瀬駅に向
かって歩き始めたという。
男性を保護した綾瀬駅の駅員からの110番通報を受けて警視庁綾瀬署員
が同駅に駆けつけ、男性から事情聴取。その上で厳重注意したという。結局男性は会議には間に合わ
なかった。このトラブルで、常磐線各駅停車は運転を見合わせたが、同日午前9時17分頃、運転を
再開。常磐線上下線計41本に最大約1時間の遅れが出て、6万4千人に影響が出た。
 おいらもガキの頃、貧血で3回ほど倒れたことあるけど、予兆ってないんだ。普通の状態で突然襲
われるから用心ができない。気持ちが悪いとか、寒気、吐き気、めまい・・・何にもない。突然失神
する。倒れることも記憶がない。気が付いたら寝ているといった案配だ。そのおいらは、病気をした
ことは一度もないし、風邪を引いたこともない。至って壮健。不思議だね。 


■東綾瀬公園温水プール ◇

 綾瀬3丁目4番1号にある東綾瀬公園内にある。

 
時計塔
 プールの東南の外の植栽にある。


■東京仏壇(東京の伝統工芸品)

 綾瀬3丁目5番15号に東京唐木仏壇工業協同組合(03-3620-1201)がある。東京仏
壇は会社の名前じゃない。
 今日仏壇といえば、箱型の置仏壇を思い浮かべる。しかし本来は、寺院などで仏像を安置する台座
のことを指していた。 文字どおり「仏像を安置する壇」ということであり、 木のほか土や石でも作
られていた。石製のものは、インドや中国の石窟のものを源流にしていたようだ。
 徳川幕府は、幕府を頂点とした封建制確立のため、仏教に対する保護と強化を進め、過去帳の整備
により寺院の力も大きくなり 都市には多くの寺院が建てられるようになった。
 東京仏壇は、元禄のはじめ、江戸の指物師が、仕事の合間に桑や欅などの堅木材を使い、独自の技
術・技法によって比較的淡白で飾りの少ない仏壇を作り出したのが始まりとされている。そして仏壇
に黒檀、紫檀などの唐木材を最初に使った人が、江戸仏師で3代目安田松慶(天保末)で、東京仏壇
はこれらの技術を綿々と受け継ぎ、その優美さは見るものを魅了し、自然と頭を垂れずにはおられな
い不思議な荘厳さを備えている。


■ホタルの名所 
消滅
 鳩公園北西辺。古隅田川や綾瀬川では鮒や鯉など川魚は多くいた。そういう田んぼがまだ多く存在
していた昭和30年代中頃までは、そこいら中にホタルがいた。特に沢山出没したので、綾瀬のホタ
ルの名所として誰もが知っていたのが、古隅田川の北を東西に走る川(八ケ村落とし堀)に架かる石
造太鼓橋の「円心橋」周辺だった。
地元では橋の名前の由来ともどもよく知られていたところで、必
ずこの橋を通らないと他所へ行けない交通の要衝だったからだ。旧町村の古地図を見れば一目瞭然だ
よ。この地区は、元々「蛭沼耕地」と古称されていたところで低湿地の土地柄、ために夏の昼には蝉
時雨の声を聞き、夜にはホタルの飛び交う、趣のある田園風景だったんだよ。信じられないだろ?
 養福寺の大楠、大室家の信長塀とともに「綾瀬3撰」に数えられた。また橋に使われていた石の一
部が大室家の東南角の塀の基礎石として使われている。
 


■酒類提供違反ガールズバー摘発
 綾瀬3丁目9番6号にあるガールズバーLounge GARDENの親父林邦夫(46歳)と店長加藤
丈文(40歳)の2人が、令和元年8月7日、深夜営業禁止地区で、同月3日午前1時20分頃、違
法に男性客に酒類を提供したとして検挙された。
 週末には午前3時まで営業を続け、月に250万円から300万円を稼いでいて、今年4月には、
18歳の女性従業員が深夜に路上で泥酔状態で寝込み、警察に保護されていた。
 林・・・在日朝鮮人か?


■「調和」 ◇
 綾瀬3丁目10番JR常磐線の北側にある東綾瀬公園お祭り広場にある。足立成和信用金庫綾瀬支
店の斜向かいだ。詳細不明。

 
「綾和の碑」 ◇
 お祭り広場の送電鉄塔の下にある。3本のステンレスの柱に支えられた赤い球体の上に鳩のはばた
くオブジェ。台石に以下を刻む。

   綾和之碑
     佐藤栄作

 
オブジェ
 お祭り広場の西南にある。トイレの屋根の上にも乗っけてある。


■綾瀬小学校 ◇

 綾瀬3丁目12番15号にある。昭和34年弘道小学校の分校として設置。同37年独立し「東京
都足立区立綾瀬小学校」として開校。同43年体育館完成。同44年東加平小学校を分校。同51年
東綾瀬小学校を分校。平成19年創立45周年。

 校歌
緑明るく」 作詞・土岐善麿  作曲・渡辺浦人
  1.緑明るく風晴れて
    道広々と輝くところ
    競えば健やかに溢れる力
    学べば賢く育つ心
    見よ 茂る葉も 開く花も
    希望と共に新しく
  2.いつも弛まず音清く
    波緩やかに流れる川よ
    互いに話し合う喜び深く
    正しく進もう遠く行こう
    ああ岸に沿い橋を越えて
    社会に尽くす明日のため
     みんな元気に足並み揃え
     集まれここに綾瀬小学校
 


■「明日に向かって ◇」

 綾瀬3丁目13番1号リプル綾瀬の西南角の植栽にある真海朗制作の少年少女の銅像。


■東京武道館・大武道場 ◇

 綾瀬3丁目20番1号にある都の武道場。日本武道館と間違える人が未だにいるそうだ。都の教育
庁所管。日本古来の伝統的文化である武道を継承し、未来に向けてより良く普及発展させていくため
に、東京都が平成2年2月に武道の殿堂として開館した。「武道は"芸術"である」との考え方の下、
菱形を積み上げた外観は、日本の自然の形象である「雲・海・山・人」をイメージしたデザインで構
築されている。館内の各武道場なども細部に亘って芸術性あふれる施設となっており、「国際都市東
京にふさわしい造形を誇っている」と自慢している。

 
「太陽」 ◇
 東南の角の植栽にある新宮晋の作品。

 
「星」 ◇
 西南の入口にある新宮晋の作品。

 
「星」 ◇
 屋根の上にある新宮晋の作品。

 
「ひねり・ぎょう・ながれ」 ◇
 中庭にあるダクトを捻ったような津久井利彰の作品。

 
「気」 ◇
 中庭にあるダクトを流したような熊井恭子の作品。
 


■「VECTOR」 ◇
 綾瀬3丁目22番5号の西(東京武道館の斜向かい)の都立東綾瀬公園にある、平成2年和田伸政
の作品。


■「海雲」 ◇
 綾瀬3丁目22番19号の西の都立東綾瀬公園にある。門のように入口左右に2本づつ屹立する。



■東綾瀬公園

 細長い逆U字型の公園で、東京武道館も含む。綾瀬3丁目10・9・14・22・20番、同5丁
目3・4・5・8番、同6丁目22・23・24・37・40番、谷中1丁目4・3番、東綾瀬3丁
目4・6、同2丁目10・9番、同1丁目27番に跨る。


■東綾瀬中学校
 綾瀬3丁目23番14号にある区立校。昭和39年4月1日足立区立第十一中学校より独立。同4
0年3月12日校旗樹立・校歌制定。

 校歌
輝く空よ」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.輝く空よ 果てない広野
    若い心も大らかに晴れ渡る
    聳え立つ学び舎に
    初春の花のように
    床しく香る若人吾等
    おお東綾瀬 幸ある母校
  2.文化を築く夢湧く世界
    西に東に鉄塔も逞しい
    自主の意気 燃え上がる
    新しい町の力
    明日待つ者が弛まず励む
    おお東綾瀬 楽しい母校
  3.親しい友と未来を語る
    高い屋上微風も和やかに
    紫の筑波山
    薄霞む昼の月も
    平和の気風 受け継ぐところ
    おお東綾瀬 栄えある母校

 同49年開校10周年記念式典。
 平成元年新体育館・プール完成。同5年創立30周年記念式典。同11年校舎耐震化。同15年創
立40周年。校庭に「東中開拓」の碑がある。同19年
普通教室空調工事完成。北玄関電子錠設置。
東・西・南・北監視カメラ設置
。同31年全教室テレビ設置。


綾瀬母子殺人冤罪事件
 
昭和63年11月16日、綾瀬のマンションで、母親(36歳)と当時小学1年生の長男(7歳)
が絞殺された事件で、近所に住む不登校の東綾瀬中学校3年の生徒3人が逮捕された。少年らは自白
した後、無罪を主張した。結局1人はアリバイが成立して無罪。警察のでっち上げということが判明
して、あとの2人もまた証拠不十分で不処分となった。
 自白の背景には、警察の取調べでの暴行・脅迫があったとされている。またアリバイのあることを
知りながら取り調べを続けていたともされ、少年の1人は「警察は怖かった。最後になってもやって
いないといえば暴行されると思った」と証言。あまりにも辛い取り調べから、留置場で自殺を図ろう
とさえしたという。栃木の連れ回し殺人も、警察官の怠慢が判決され、警察は面子を落とし続けてい
る。一生懸命真面目に仕事をせずに所得だけを得たいのだ。楽して金儲けは・・・政治家が悪いんだ
ろうなぁ。外人ばっかりだから・・・
 逮捕と家裁送致により、警察はその後は捜査を修了した。免罪確定後も、警視庁は再捜査をせず、
母子強盗殺害事件の真犯人を追跡することをしなかった。程度の低い警察の面子で、平成15年11
月16日公訴時効を成立させ、警察は責任逃れをした。警察も善人の集合体じゃないからね。
 詳細は、横川和夫・保坂渉共著『ぼくたちやっていない-東京・綾瀬母子強盗殺人事件』を読まれ
ることをお奨めする。1325円だ。
 


■「太陽」 ◇
 綾瀬3丁目23番2先西南角地の広場(東京武道館東南入口の東向かい)にある新宮晋のオブジェ


■大室家(綾瀬の名家) ◇

 綾瀬4丁目5番4号にある白壁土蔵のある日本建築。ビルだらけ、西洋建築だらけの中でニッポン
に出会うと何故かホッとするから不思議だねえ。今は質屋を営んでいるが、嘗ては晒し業が本業だっ
た。

 
北側の信長塀(築地塀 綾瀬3撰) ◇
 この塀は珍しく練塀ともいう。この塀の景観は、今はない円心橋と、区内随一の養福寺の大楠とと
もに「綾瀬3撰」に数えられた。築地塀の詳細は中野区の大和町の項に記載してある。
 


■綾瀬四丁目プチテラス ◇
 綾瀬4丁目7番10号柏芳ビル弐号館1階店舗前歩道にある区立ミニ公園。平成2年12月25日開園。店先でプチテラスと謳うほどのスペースはない。

 
「空間のメヴィウス」 ◇
 平成2年第2回足立区野外彫刻コンクール入賞の牛尾啓三の作品。


稲荷山蓮華院觀音寺(本尊:十一面観世音菩薩) ◇
 綾瀬4丁目9番6号、綾瀬駅のすぐ北にある新義真言宗豊山派の寺。開創は17世紀初頭、開山は
賢智上人、開基は初代金子五兵衛。五兵衛新田の名は正保の頃(1644~47)から既に見え、五
兵衛は寛永四年(1627)に没し開田院と号した。古くから一村の菩提寺として村民の崇敬篤く、
現在の本堂は大正4年の建築。「新編武蔵風土記稿」の五兵衛新田の項に、

   観音寺
   新義真言宗、葛飾郡青戸村寳持院末、稲荷山蓮華院と號す、開発の民金子五兵衛の開基な
   りと云へど年代は傳へず、本尊観音を安す。

 とあり、「足立風土記資料寺院明細」明治五年の項に、

   小本寺宝持院末 東京府管轄武州足立郡五兵ヱ新田 稲荷山観音寺
   創立慶長十九年三月賢智開山、香衣一色寺格
   第二十四世住職 周運、壬申三十一歳。東京府管轄武州足立郡五兵ヱ新田農金子金五郎二
   男、嘉平五年三月十六日東京本所二ツ目弥勒寺ニ於テ得度、万延元年三月十五日右寺へ入
   寺、本山小池坊年数十六ヶ年。以上僧壱人
   境内、一反三畝十二歩、但除地内4畝歩、年貢地
   檀家 八十七軒
   門末并庵室等無之


 とある。区の説明板は以下の通り。

   観音寺
   この地は江戸初期に開発され、五兵衛新田と称していた。開拓者の一人、金子五兵衛は本
   寺の開基で、法号の開田院を刻した五輪塔がある。開山は賢智、創建は慶長末から寛永初
   期の間と推定される。
   本尊は十一面観世音で、大師堂(六角堂)には弘法大師像が祀ってある。荒川辺八十八ヶ
   所の51番、荒綾八十八ヶ所の70番札所で、風■の地であった。
   金子五兵衛の分家で、共に名主であった金子左内が願主となり、文化年間に奉納した寛政
   十二年重刻天海版大般若経(現在は■本)と十六番神画像を蔵している。
   慶応四年三月、近藤勇と新撰組隊士が金子左内家を訪れ、四月一日流山に向かうまで、1
   9間滞陣した。一部隊士がこの観音寺にも屯営したと、最近金子家から出た古文書に記し
   てある。
   昭和52年3月                      東京都足立区教育委員会


   観音寺
   真言宗豊山派の寺院。開山は賢智上人で17世紀初頭に創建されたと推定される。この地
   は江戸時代の初め頃から開発が進み、五兵衛新田と言われ、その後も同新田の菩提寺とし
   て地域とともに歩んできた。のち慶応四年(1868)三月には、江戸から退却する新撰
   組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が金子家とこの寺院に宿泊。新政府軍も伊藤谷橋まで進出
   し戦闘が始まろうとしたが、新撰組が流山に撤退したというエピソードを持つ。
   開基は開発者の一人で法名を開田院と称した金子五兵衛である。境内に五輪塔形式の墓が
   あり、開発の歴史を今に伝え、金子五兵衛の墓として足立区登録有形文化財となっている。
   本尊は十一面観世音菩薩で江戸時代初期の作、境内に大師堂や鐘楼があるほか、荒川辺八
   十八ヶ所霊場51番、荒綾八十八ヶ所霊場の70番札所で、荒川をめぐる地域の巡拝地で
   あった。ほかにも境内に寛文四年(1664)の聖観音立像庚申塔があり、足立区登録有
   形文化財となっている。
   平成8年3月                          足立区教育委員会


 門前に、寛文四年(1644)十二月十五日銘の観音像がある。入口を入って右が墓地、昭和49
年建立の「遍照尊」の額がある宝塔。木造の六角堂で太子堂だという。左は鐘楼庫裏。本尊は江戸前
期のものと考えられる十一面観世音菩薩立像だ。この辺りは五兵衛新田→五兵衛町といったところで
墓地に草分(開発者)の金子五兵衛の墓がある。「寛永四年(1627)当村村創」と記している。
 檀徒金子佐内家へは、幕末に近藤勇が新撰組(当時は甲陽鎮撫隊)の残党を引き連れて逃げ込み宿
陣を張ったが、観音寺にも多い時には81人が泊り込んだとか。観音寺から北へ五兵衛新橋の道路橋
の下をくぐった右側の一円が「金子家」だ。
 木造鐘楼、遍照尊堂(六角堂)

 聖観音庚申塔 ◇
 寛文四年(1627)の造立。境内にある。

   聖観音立像庚申塔
   庚申塔は庚申信仰をする庚申講の人びとによって造立された塔である。
   庚申とは、十干の庚と十二支の申とが結び付いた60日に1回巡ってくる日や年のことを
   指す。
   庚申の日には、人間の体内にいる三尸という虫が睡眠中に抜け出て天帝に罪過を告げるた
   め寿命が縮むという説が中国の道教にあり、これが日本に伝わり信仰された。庚申の夜に
   は眠らずに過ごす守庚申に、礼拝本尊や宗教儀礼が組み込まれた庚申待が室町時代中頃か
   ら行なわれるようになり、江戸時代に入ると一般的にも浸透し、各地に庚申講が結成され
   供養のための庚申塔が多数造立されるようになった。庚申塔の形態、様式は多様であり、
   文字塔の他、「青面金剛」「帝釈天」など種々の神仏を主尊とする。
   聖観音は正式には聖観世音菩薩といい、すべての観音のみなもととして古くから信仰され
   ている。像型は光背型で、像の左右に「寛文四(1664)甲辰極月十五日年」「奉造立
   庚申供養二世安穏所也」、下部に施主名がある。区内江戸期の庚申塔の初期のものに当た
   るが、様相の整った極めて見事な刻像である。昭和62年11月足立区有形民俗文化財に
   登録された。
   平成7年3月                       東京都足立区教育委員会


■綾瀬稲荷神社(祭神:宇迦之御魂神) ◇

 綾瀬4丁目9番9号にある。総欅造りの本殿があり、慶長十九年(1614)創建の由来を記した
社号石碑がある。祭神は宇迦之御魂命・須佐之男命の2柱。境内にイチョウ、松の老樹があり、文化
七年(1810)の石鳥居がある。境内に富士浅間を祀り、明治42年7月と刻した先達嘉猫五兵衛
の碑が建つ。また文政八年(1825)の白狐一対。安永八年(1779)の石灯籠一対がある。1
丁目に綾瀬神社があるのでご注意を。

 
石燈籠 ◇
 安永八年(1779)三月の銘があり、には台石には「見猿・聞猿・云猿」の三猿が刻まれていて
とても珍しいものだ。なぜこんな珍しいものが建立されるることになったのか? 
 柴又の帝釈天(題経寺)といえば寅さんで有名だが、以前は60日に1度の庚申の日にお参りする
「庚申参り」で知られていた。今も帝釈天では、庚申の日には数十万人が参詣する。
 で、綾瀬地区でも江戸時代には、庚申信仰がとても盛んで、今も綾瀬2丁目地区には石祠型の庚申
塔が2基、区の文化財指定を受けている。そして本殿脇にある石燈籠は、燈籠ではなく、燈籠の形を
した庚申塔なのだ。江戸時代はこの庚申信仰が次第に盛んになり、柴又帝釈天の「庚申参り」が行わ
れるようになった安永年間には、「お稲荷さんをお参りする時は庚申さまも一緒にお参りしなければ
片参りになる」という話が広まった。今考えればなんの根拠もない話だが、当時の人間にとっては、
それはそれは大変なことだった。そこで当時の稲荷でも庚申塔を作り、一緒にお参り出来るようにし
ようと相談が持ち上がり、在り来たりの庚申塔では面白くないというので灯篭型にして、台座に庚申
の象徴である三猿を刻んだという訳。「灯篭型庚申塔」一対を社殿の前に奉納したのは、金子・新水
(清水)・高橋・六笠の宮総代4家だそうだ。
 社殿の両脇に置かれるので、特にこの庚申塔に手を合わせなくても。お稲荷さんに手を合わせただ
けで同時に庚申さまにもお参りしたことになるとい、まさに一石ニ鳥というか、一挙両得というか、
まさに画期的?な〝ずぼら〟だ。

 
狛犬(しょうわ) ◇
 本殿の前にある。平成12年4月落語家の三遊亭円丈が奉納したもの。区内在住の円丈は、狛犬の
研究家で「こまけん」というホームページを立ち上げてるよ。
 「しょうわ」とは、形の分類で、はじめ・江戸系・しょうわ系・京系・その他Ⅰ・Ⅱに分類され、
しょうわ系は、たてがみがカールしていて豊かである。阿、吽がはっきりしており、昭和になってひ
作られたものが多く、全国的に分布するが、静岡、愛知に多い。「しょうわ」は中でもしょうわ系の
基本に忠実なもので、他に、はじめしょうわ・尾下がりしょうわ・唐草しょうわ・唐草尾下がりしょ
うわ・鈴しょうわ・新しょうわがある。

 
綾瀬富士 ◇
 境内にある高さ2mほどの人工富士。頂に浅間社の石祠がある。この富士塚は初め神社境内右手南
側に造られたが、昭和2年に現在地に移設された。塚は、溶岩で固めた岩山であり、頂上には、浅間
社を祀つる祠(ほこら)が安置され、裏面には昭和2年7月1日の銘があるが、同52年再築された
ものだ。幾つかの塔碑の内、明治42年7月「山包丸渕講中の碑」は、先達金子五兵衛外世話人によっ
て献碑されたもの。最も新しい碑は「山包綾瀬講富士登山記念碑」で、昭和36年7月に建立してい
る。講社は、初め「山包丸渕講」といい、この地の旧名称渕江領の頭文字を丸で囲み、丸渕といった。
農民を中心に綾瀬村で結成され、江戸時代より農民に広まった富士山信仰を伝えるものとして、この
富士塚が昭和58年12月に、また山包丸渕富士講関係資料一式を昭和62年11月に、それぞれ区
登録有形民俗文化財とした。溶岩富士は丁寧に清掃され、近隣の富士講の「まねき」を張り、稲荷上
社本殿で
山包丸渕富士講関係資料」の祭具を用い一連の儀式を行う。近年は、講員の参加も少なく
役員によって辛うじて継続されているのが現状。

   綾瀬稲荷神社富士塚                      綾瀬4‐9‐9
   この富士塚は、神社境内右手南側あったが、昭和2年現在地に移築された。
   塚は、溶岩で固めた岩山であり、高さが2mある。
   富士塚の頂上には、浅社を祀る祠が安置され、裏面に昭和2年7月1日の銘がある。
   塔碑のうち、明治42年7月山包丸渕講中の碑は、先達金子五兵衛世話人によって献碑さ
   れたものである。最も新しい碑は、山包綾瀬講富士登山記念碑で、昭和36年7月に建立
   している。
   講社は、初め山包丸渕講といい、この地の旧名称渕江領の頭文字を丸で囲み、丸渕といっ
   た。農民を中心に綾瀬村で結成された。江戸時代より農民に広まった富士山信仰を伝える
   ものとして、この富士塚を昭和58年12月に、また、山包丸渕富士講関係資料一式を昭
   和62年11月に、それぞれ区登録有形民俗文化財とした。
   平成5年3月                          足立区教育委員会


 
御神明の親水(綾瀬の井戸) ◇
 綾瀬には、かつて井戸が沢山あった。現プルミエの北方には、井戸水を使い鰻などの川魚を商う、
地元では有名な川魚問屋「鮒源」があった(現在2丁目に会社を構えている)。当然の事ながら各家
庭にも井戸はあったが、村中で一番水がおいしいと評判だったのは、実は綾瀬稲荷神社の真名井だっ
た。元々は境内の東寄りにあったという。明治20年5月手水舎の辺りに新たに井戸を掘った。その
東の十坪ほどの神池は、その形から瓢箪池と呼んでいた。池の北端(今の表参道の南側石灯籠辺り)
には、伏龍の黒松があり、瓢箪池の上方を覆うように枝が張り出す様は、言葉に表せぬ、いかにも神
域の池という景観を呈していた伝っている。また同39年大室貞蔵奉納の絵馬額にも、社頭の景色絵
図としてみる事が出来る。
 
さてその神池の傍にあった井戸こそが、誰というともなく「御神名の親水」(単に御神水ーごしん
すいー)と呼んでいた真名井だ。前述の絵馬額にもその呼び名が表記されており、既にその名が定着
していたことが判る。その真名井の水は冷たい時にはことさら甘く感じたそうだ。
 戦後しばらくして池ともども埋却され、現在は何もない。かつての面影を偲ぶことも出来ないが、
間違いなく存在していたという確証は、口伝のみではなく、神社境内で採掘したこの井戸掘りの様子
を描いた絵馬が実際に残っているからだ。後世にことの次第を残そうと衆議された絵馬額の寸法は、
縦70、横30センチ。時に明治20年5月のこと。書き残してくれた絵馬がその根拠となる訳で、
誠にもって幸いなことだ。願主は、金子伊之吉・清水安蔵・金子市吉。この他にも、明治時代の神社
境内を記した絵馬額にも散見できる。
 井戸掘りの絵馬はあまり類例がなく、また描かれた絵から、櫓組など井戸掘りの工法が判り、また
櫓の高さが井戸の深さに相当することや湧水豊かな様が桝組みから溢れ出ている水量で現すなど、絵
馬としては誠に貴重で、まさに珍品だという専門家の話から、現在は足立区郷土博物館に預けてあり、
同館2階に常設展示されているよ。井戸掘りの工法は「上総掘り」かな?
 また井戸堀りでの初水は、桝組から溢れ出たという話は、綾瀬の井戸堀りでは周知のことで、清水
金吉家の井戸もそうだったという。つまり綾瀬の井戸は、すこぶる水量豊富であったことが判る。元々
が海で、後に湿地帯となったところだからな。

 
「頼みます」神事
 昔、田植えの時分には、箕(み)に入れた苗と五合枡に入れた玄米を各家の人が神社に持ってきて
は大収穫ではなく、程々の収穫を神に祈願した。その時には「頼みます」と心の中で唱えながら神社
の周囲を3度、時計回りに収穫を願いながら歩くのだ。歩きながらの「頼みます」は、「田の箕増す」
に繋がる。つまり「田の収穫が上がり、それを入れる箕が増える」という言葉の変化で、豊作を予祝
するのだ。そして秋には「田野実満寿」で五穀豊穣を迎えられますようにと念じたのだ。五合枡に入
れるのは「半升(はんじょう)」が「繁盛」に繋がり、時計回りに歩くのも「日」が二つ重ねの「繁
昌」の字から、風雨の害なく、お天道様の日差しが頂ける事に繋がるとこじ付けた。昔は自然任せの
稲作があったので、太陽の恵みは、神様の恵みと直結していた時代の綾瀬昔話。また有名な古社には
田植祭が伝承されているが、やはり社殿を3周したり(松尾大社のおんだ祭り)、田んぼに見立てた
広場で早乙女がぐるぐる歩きながら田植えの所作、田歌を謡い、田舞いをする神社が多い。ちなみに
早乙女は8人が一般的で八乙女というんだよ。

 
五兵衛新田(綾瀬地区の呼称)お田植え歌
   若種植えよ 苗種植えよ
   女の手に 手を取りて
   拾い取るとよ 
   ヤーレー ヤレ


 庚申塔 ◇
 安永八年(1779)銘の2基がある。

 五兵衛葛西囃子
 祭囃子の保存会がある。
 


■「ART SPACE」 ◇
 綾瀬4丁目9番18号レックスハイツ綾瀬ステーションセンター前の植栽にある鍋のオブジェ。ベ
ルモント市との友好都市調印を通じて設置されたらしい。蓋の部分にオーストラリアの地図が刻まれ
ている。


■五兵衛新橋プチテラス ◇
 綾瀬4丁目13番26号にある区立ミニ公園。平成9年2月1日開園。民間借地。


■金子家(綾瀬の名家) ◇
 綾瀬4丁目15番19号にある。

 
勝手に綾瀬川の堤を切った金子左内

 草分けで名主の金子左内は、自宅建築の資材を運搬するについて、量も寸法も膨大なため、綾瀬川
を使って運搬する計画ではあったが、家の傍の集積する場所までの手間が問題となった。そこで、綾
瀬川から自宅まで堀を掘り、なんと綾瀬川の堤も切ってしまい、綾瀬川の水を通して、その堀を利用
して資材搬入をしたというから豪気だ。近隣の村々、特に土地の低い地域から「いくら左内様の建替
えであっても、そんな事をされたら、田んぼも家も水浸しになる危険がある」と、掘削前に苦情や非
難が湧き起こったという。しかし左内は「何か不都合が起こったら、この左内が総て責任を取るから
心配するな。建屋が出来上がった暁には、ちゃんとする」と、この鶴の一声で掘削問題が決着したと
いう。時代劇で見るような話が実際にあった訳で、自宅に建築資材を運ぶ為、綾瀬川の堤さえも切っ
てしまった大名主がいたという、江戸時代の綾瀬の昔噺。
 当時の宮惣代の長人であった左内は、完成後、綾瀬稲荷宝前で「神恩奉謝と堤堅固の祈願祭」を挙
げた。近隣の小作には秋の料としての納米を「大祝い」とて減免し、村人にも祝い餅などを大いに振
る舞いったという。堤の一件や完成した家の大なることなどから「さすがは、左内様」と評判になっ
たという。金子家に伝わる話。

   宇喜田(江戸川区)の行船(田中家)か、五兵衛の左内か

 といわれる豪農が在住した。その五兵衛の左内(「佐内」表記もある)とは、綾瀬4丁目の金子左
内家のことだ。豪農の名に恥じない、それはそれは大きな家であったという。今尚伝え聞く話では、
大層大きな梁が何本もあって、特に土間を走る大きな梁は、その上で餅搗きが出来たという程巨大だっ
た。その家屋も、明治の御一新を経て、大なる家は経済的に困難が多く伴うので江戸時代から住み慣
れた家を取り壊し、藁葺屋根の、それでも一般よりは遥かに大きな家を建築した。それが昭和末年ま
での旧左内家住宅だった。現在目にする居宅は、平成に入り新築した建物だが、その周辺の団地は、
金子家の地所だ。そんな巨大な家だったために、幕末、近藤勇率いる新撰組に狙われることになる。
次項を読みゃあがれ。

 
そして新撰組が来ちゃったべさ
 新撰組近藤勇が流山で捉えられる前、慶応4年3月14日から4月1日までの19日間、あの新撰
組が、観音寺や近隣の家に分宿して屯していた。総勢227人もの大集団で、世情柄精神的な負担や、
その世話(経費)などで大層迷惑を蒙った上に、後日明治政府から、強い叱責があったという。近藤
勇らが五兵衛新田の金子家に滞在した事は、金子家の古文書(区登録文化財)に残っている。現在近
藤勇として一般に知られている袖内に腕組みした写真は、金子家が所蔵してるんだよ。4丁目15番
のマンション群が金子家で経営をしているものらしい。16番~19番に金子姓が散見されるところ
から、この地区が金子左内の屋敷だったのだろう。
 


■五兵衛公園 ◇
 綾瀬4丁目18番5号にある区立公園。


■味好(みよし)(サブちゃん炒め)

 綾瀬4丁目20番16号にある足立区民推奨の「町中華」。

   店のPR
   昭和42年創業、昨年50周年を迎えました。昔ながらの中華料理屋です。
   お店の常連さんからその名がついた人気メニューのサブちゃん炒めやラーメンなど、地元
   に昔から愛されるメニューがたくさんあります。ぜひ一度お越しください。

   推奨者のコメント
   濃いめのみそ味にガツンとにんにくがきいていて、とてもとてもご飯がすすむ味。中毒性
   のあるうまさで、定期的に食べたくなります。
   キャベツのシャキシャキ感と豚肉の味付けが体力回復にもってこいです。
   ご家族でお店を経営しており、ご主人が元気で雰囲気が良く、味付けも注文できるお店で
   す。
   


■馬頭観音 ◇

 綾瀬4丁目20番17号のアパートのブロック塀外に1基ある。

 ※庚申塔もらしい? 見あたらない。明和二年(1765)日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿を
刻むという。
 


■蛭沼公園
 綾瀬4丁目26番5号にある区立公園。


■都立足立技術専門校 → 城東職業能力開発センター足立校

 綾瀬5丁目6番1号にある。平成19年都技専は総て職能開発センターに名称変更した。城東は亀
戸・江戸川・足立・同台東分校を統合し、亀戸を本部校として創立した。
 


■東綾瀬公園

 綾瀬5丁目3~5番、8番、6丁目22~24番、37番、42番にある。ここは、かつては水田
だったが、区画整理事業から生み出された余地を遊歩道で繋いだ平面逆L字型の細長い都立公園だ。
公園の全長は約2Kmで、園内には、サクラ、ラクウショウ、モミジバフウ、ツツジなど季節感を味
わえる樹木が植えられている。公園西側の散歩道沿いには、花畑川を水源とするかつての農業用水を
生かしたせせらぎが流れ、健康遊具やゲートボール場などが設置されている。また公園北側周辺には
緑に囲まれた各種の運動施設がある。現在三世代スポーツ公園として野球場、テニスコート、武道館、
温水プールなどを備えており、年齢を問わず楽しめる公園としても脚光を浴びているよ。

 
フラワーランド
 園内4ヶ所にあるフラワーランドには、春から夏にかけてネモフィラ、アイスランドポッピー、ヒ
ナゲシ、ヤグルマソウ、オオキンケイギク、ハルシャギク、ヒマワリなど、秋にはコスモスなどが、
年2回、種蒔きから育成され美しい花を咲かせているよ。また、野球場付近のせせらぎ沿いに広がる
赤やピンクのバラも見事なんだ。

 
遊歩道橋
 園内3ヶ所に、形が面白い造りの橋があり、プレイランド気分にさせてくれる。水車と河内堀滝に
はさまれた「河内橋」はアルルのはね橋風。サービスセンターのあるセンターゾーンには床タイルの
模様も美しい「三枚田橋」「北三谷橋」。幅の広い橋の上にたたずんで、頬を撫でる風を楽しんでい
る人もいるよ。
 


■クリスマスローズの若泉ファーム

 綾瀬6丁目7番11号にある、冬季「庭の貴婦人」と呼ばれるクリスマスローズ・ガーデンハイブ
リットのシングル(一重咲き)とダブルフラワー(八重咲き)を専門に交配育種し、オリジナルの種
・苗・開花株の卸売と小売の園芸農家だ。 03‐3606‐4700
 ガーデンハイブリット品種では、白の糸ピコティを始めバイカラー・ダークネクタリーなど、美し
い丸弁・カップ咲きのパステルカラーに彩られたクリスマスローズガーデンハイブリット・オリジナ
ルを作り出し、原種のニゲル・その他の交配種とともに園芸店への卸売りと、小売としてインターネッ
トでの通信販売を行っている。届ける種・苗・開花株の栽培については、参考になるようホームペー
ジサイトに、種苗からの基本的な育て方を含め、季節毎の栽培管理方法を解説し、「クリスマスロー
ズの育て方・月別管理園芸12ヶ月」には、1月から12月まで植物を栽培する上での注意ポイント
を載せているので、ド素人でも安直に始められる。ヘレボルス属の病気や害虫の病害虫対策・対処方
法のページを加え、「クリスマスローズの魅力」には、原種の種類・園芸品種・歴史や花にまつわる
物語・出来事・園芸の話題を、「写真ギャラリー」には若泉ファームで咲かせたオリジナルのクリス
マスローズのシングル花、パーティドレス系・オリエンタリス系ダブル花の画像を載せてある。これ
らの各ページは冬の庭の主役・癒しの花クリスマスローズの栽培に役立つよ。ホームページは通信販
売とともに、種・苗・開花株などを購入したあんたの栽培の役に立つよう、ブログでクリスマスロー
ズに関して季節毎のガーデニング情報を加え、更新している。清楚で気品のある冬の花「ガーデンハ
イブリット」を楽しんでみな!

 
さし石横綱・若泉与八
 明治後半の話。「さし石」とは神事で、重い石を頭上に差し上げること。関東では「力石」という
のが一般的だ。しかし神事は次第に一般化し、やがて「男の心意気」となり、村々で一人前の男とし
て認められるための若衆の通過儀礼の一つとなった。今でいう重量挙げだ。
 さらに関東一円の村々から力自慢が成田山新勝寺に集い、「石相撲」と称された石差し大会があっ
た。その大会において力自慢を誇ったのが、ファーム主人若泉克志(かつゆき)の曽祖父與八氏その
人だ。明治の末には横綱を張っていたほどの力持ちで、関東一円にその名が知れ渡っていたという。
それを証明する優勝額が寺に奉掲してあったが、大正時代の火災で焼失してしまったそうだ。誠に残
念なことだ。しかし当時さし上げた記念の「さし石」が、若泉家の庭に残されている。さし石と刻ま
れてあるのものが4つ。貫目の打刻されてあるのが1つある。刻まれていないが、さし石に相当され
るものはあと3つほどある。
 さし石に打刻されている重量は、貫目表記でその重さ48貫。今の単位で言うと180kgになる。
さし石の重さの単位は米俵一俵が基本で16貫目(60kg)。先代の與吉氏が祖父に伝え聞き、さ
らに若泉の当代が聞いたという石ざしのコツは、胸の所から一気に持ち上げる時に、体のバランスを
取りながら、右足(右利きの場合)を肩幅になるように後ろに引くのだそうだ。
 それには怪力の上、修練も大事でコツは聞いて知っていても習得するのは難しいよ。そんな石ざし
の奥義を人に平気で教えていた成田山石ざし大会の横綱が、綾瀬に実在していたってこと。
 


■秩父宮記念スポーツ博物館・図書館(仮事務所)

 綾瀬6丁目11番17号にある独立行政法人日本スポーツ振興センターが運営する日本唯一の総合
スポーツ博物館。オリンピックと日本のスポーツ史を中心とする展示場とスポーツに関する書籍や雑
誌を公開する専門図書館から成る。
 「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれた、昭和天皇の弟君秩父宮雍仁親王が、昭和28年
薨去されると、程無くスポーツ関係者有志の間で「秩父宮記念館を作ろう」という動きが起こった。
それと相前後するように、オリンピック東京誘致のために明治神宮外苑競技場を国立競技場に建て替
える計画が浮上し、新たな競技場の中に秩父宮を記念する博物館が設立することとなった。
 開館は国立霞ヶ丘競技場完成翌年の昭和34年1月6日。秩父宮の命日にあたる1月4日は日曜日
で、翌日は官公庁の御用始めに当たるため、七周忌から二日ずれた次第だ。名前から秩父宮ラグビー
の中にあるように誤解されることも多いが、入口は国立霞ヶ丘競技場電光掲示板裏側の真下辺りの
ところに位置していた。競技場で催物が開催されていない時は、スタンドから競技場内部を見ること
もできた。尚、平成23年夏より日本スポーツ振興センター本部事務所の手狭さを理由に展示場の3
分の1が他部署の事務所として転用されることとなり、企画展のためのスペースがなくなると共に、
紀要と広報誌を兼ねた性格を持つ『スポーツ文化』という出版物の刊行も中止されることとなった。
 同25年5月7日から休館。当初は建て替え後の国立競技場に戻って来る予定だったが、総工費の
大幅削減による整備計画の見直しで白紙となり、暫定的に現在地の倉庫を拠点とし、図書機能など部
分的なサービスを実施している。同30年4月中に、令和2年以降に建て替え予定の秩父宮ラグビー
場を移転候補地とした計画案をスポーツ庁へ提出した。

 
●第1回アテネ大会の金メダル盗難
 平成22年3月14日未明、展示していた第1回近代オリンピックアテネ大会の金メダルが盗難に
遭った。ドイツのヘルマン・ヴァインゲルトナーが体操競技の鉄棒種目で優勝して獲得したもので、
日本贔屓だった選手の遺族が、最初の東京五輪開催に当たり、「最も優れた成績を残した選手に」と
寄贈したもの。それで日本人で初めて体操個人総合で優勝した遠藤幸雄に贈られたが、平成6年日本
オリンピック委員会に寄贈され、以来、博物館内に展示されていた。
 内部犯行とも考えられるが、日本には韓国人も中国人もごしゃまんと居り、虎視眈眈其欲逐逐とし
て狙いすましているのだから、平和主義に呆けてないで、常に慎重に心してなければならない。

 
●日本第1号の銀メダルが行方不明
 令和2年8月22日、大正9年8月のアントワープ五輪テニス男子シングルスで熊谷一弥が獲得し
た「銀メダル」が紛失したまま行方不明であることが判明した。明23日はアントワープ大会で熊谷
が銀メダルを決めた決勝から100年に当たる。ベルギーで行われたアントワープ五輪で熊谷は、シ
ングルス決勝の翌日のダブルス決勝でも柏尾誠一郎と組んで準優勝。熊谷2個、柏尾1個の銀メダル
を手にした。その内の1個を熊谷らから寄贈された秩父宮記念スポーツ博物館が、歴史的メダルとし
て「日本初のメダル・銀(熊谷一弥・テニス)」と展示してきた。内部犯行かな。



■東綾瀬せせらぎ水路

 綾瀬6丁目24番にある区立公園。都立東綾瀬公園と一体的にある。綾瀬駅と北綾瀬駅を結ぶ。

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用でき
る。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。
 


■下の公園

 綾瀬7丁目5番2号にある区立公園。遊具もあるし、樹木も多いし・・・

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。ここは直径3mのちっちゃなプールだから安心も安心。オムツの取れた赤
ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約がある
のは当然だ。
 


■水神宮・神明宮(天照大神) ◇
 綾瀬7丁目10番18号、龍慶寺入口の右手にある小社。佇まいは立派。水神の祭神は不明。16
柱の神様がいるから、その内のどれかだ。境内に、庚申塔、道標、百度石などがある。

   神明宮
   中世以降伊勢神宮の御分霊を奉祀する社を神明社、神明宮とう。当社は地元の熱心に崇敬
   する人々によって迎え祀られ建立されたものである。
   文政期を中心に編纂された「新編武蔵風土記稿」龍慶寺の項に「神明社」と記され、江戸
   後期には神明信仰が行なわれていたことが知られる。
   ご神体は「天照大神」「豊受大明神」と思われるが、昔から村人はろしろ「氏神さん」「鎭
   守さん」「産土さん」と呼び親しんできたようです。
   故に、当神明宮と伊勢信仰を結びつけるよりも「氏神さん」「産土さん」と村人の身近な
   神として村人の宗教生活を支え、今日に至ったと思われます。
   
水神宮
   水神宮は成田への里程標と共に、一百有余年の昔より綾瀬川畔龍慶寺河岸に安置され、河
   川安泰の守護神として護持し居りしも、破損甚だしく、土地の発展その他諸般の事情に伴
   い、この地に移築された。
   この碑のあった龍慶寺河岸は、五兵衛新田、下谷中周辺の農家が江戸方面へ往路野菜類を
   運び、復路には肥料を運んだ重要な河岸であったと考えられます。
   例年、年頭には舟運の安全祈願と共に水神に農事の無意(旱魃、水害のない事)が祈念さ
   れている。
 


淵江山龍慶寺(本尊釈迦牟尼仏)
 綾瀬7丁目10番18号にある曹洞宗の禅寺。本尊釈迦牟尼仏の他に、薬師如来、承陽大師木像、
常済大師木像閻魔大王木像、不動明王、釈迦誕生銅仏、釈迦涅槃図、十三仏画、十六善神画などが安
置されている。寛永八年(1631)に勧請した薬師如来は、聖徳太子の作といわれてる。正保三年
(1646)八月の創建で、開山は埼玉県北葛飾郡幸松村(春日部市)の浄春院第7世天室秀梵和尚
を拝請、開基は牛込五郎兵衛という。
 門を入ると参道左右に石積みの基壇があり、その上に見
事な石像を安置している。左に地蔵菩薩、右に聖観世音菩薩、いずれも天保五年(1834)千住二
丁目の旅籠幸手屋の主神谷万右衛門が施主となって建てたものだ。
 参道口右横に「水神宮」がある。 千住絵馬の「鷹」が奉納されていた。諸願成就。高く飛ぶとこ
ろから立身出世などを祈願する善男善女が多い。「新編武蔵風土記稿」の五兵衛新田の項に、

   龍慶寺
   曹洞宗、葛飾郡小淵村浄春院末、淵江山と號す、本尊釈を安ず。
   神明社。


 とある。

   龍慶寺
   龍慶寺は、曹洞宗渕江山龍慶寺と称する。正保三年(1646)の創建で、開山は天室秀
   梵、開基は牛込五郎兵衛という。本堂内には、本尊釈迦三村坐像をはじめ、薬師如来・閻
   魔王・不動明王・誕生仏などが安置されている。また、教化・法事・護念に使われた釈迦
   涅槃図・十三仏図・釈迦十六善神図や、寺の近くより出土した板碑三基が保存されている。
   境内には、天保五年造立の聖観世音菩薩と地蔵菩薩の石造があり、墓地の入口には六地蔵
   が建てられている。また、昔四月八日を縁日として栄えた日限薬師如来参詣道の碑をはじ
   め、無縁塔。歴代住職の墓、歌碑などの石造物も多い。さらに伊勢信仰あるいは産土神と
   して信仰された神明宮がある。その前には、民間信仰の様子を偲ぶ水神宮祠庚申塔がある。
   村落共同体の若衆組の活躍の一面を伝える力石も見られる。
   平成4年3月                          足立区教育委員会

 地蔵菩薩像・聖観音像
 境内にある露仏。何てったって後が凄い。まぁ見てきなよ。門を入ると参道左右に石積みの基壇が
あり、その上に見事な石像を安置している。左に地蔵菩薩、右に聖観世音菩薩、何れも天保五年(1
834)千住二丁目の旅籠幸手屋の主神谷万右衛門が施主となって建てたものだ。

 日限薬師道標
 境内にある自然石の碑。綾瀬の龍慶寺への道しるべで以前は綾瀬川の圦(いり)と呼ばれた船着場
の近くにあった。江戸時代から明治・大正時代までは舟運が盛んで、江戸の人々は郊外である足立付
近へは、船を利用してきた。船着場に道しるべとして、

   
日限薬師如来道

 と刻まれている。日限とは読んで字の如く(月の日を決めて)縁日として、信者さんを受け入れる
ことだ。日限薬師とは、この寺の薬師如来だ。



女子高生コンクリート詰め殺人事件
 平成元年3月29日綾瀬署は江東区若洲の埋め立て地で、コンクリート詰めのドラム缶の中から布
団に巻かれた女性の死体を発見した。コンクリートで密封されていたため遺体は腐敗していなかった
が、遺体の状況はあまりにも惨たらしいもので、女性の顔面は変形と陥没が酷く、外見からの判別は
全く不可能。全身が殴打によって腫れ上り、ライターで焼かれた痕も多数あった。そして皮下脂肪の
厚さは通常の3分の2しかなく著しい栄養失調状態だった。
 この犯行発覚は、意外なことで、平成元年3月29日練馬少年鑑別所で綾瀬警察署の捜査官が昭和
63年11月8日に強姦窃盗などにより少年鑑別所に送られた少年Aを取り調べた際、捜査官が何気
なくいった「お前、人を殺しちゃ駄目じゃないか」という言葉に、他の3人が自供したと勘違いした
ドジにある。
                       *
 昭和63年11月25日午後8時過ぎ埼玉県三郷市内をバイクで走行中、アルバイト先から自転車
に乗って帰宅する途中だった埼玉県立八潮高等学校3年生吉田順子(17歳)を見かけると、少年A
は少年Cに対し、「あの女、蹴れ。あとはうまくやるから」と命じ、Cは言われた通りに、バイクで
近づき、左足で右腰を思いっきり蹴って、角を曲がって様子を見た。少高生はバランスを失い、自転
車に乗ったまま転倒、側溝に落ちた。そこへAが近づき「大丈夫ですか」と優しく声をかけ、助け起
こすと「あいつは気違いだ。俺も脅された。危ないから送っていってやる」といって、近くにある倉
庫の暗がりで「俺はヤクザの幹部だ。お前はヤクザから狙われている」と脅し、ホテルに連れ込んで
強姦した。それから41日間に亘って綾瀬のCの自宅に監禁。鬼畜のようなすさまじい暴行と陵辱の
限りを尽くして殺害した。主犯の4人は某暴力団の青年部組織「極青会」の構成員(全部で10人程
度)で、埼玉県三郷市一円で車シルビアを使い毎日のように婦女暴行を繰り返し、少女監禁中もそう
していたという。
 逮捕後犯行の中心となった少年4人は、成人と同様の刑事裁判が妥当とされ、結果、実刑判決を受
け少年刑務所に服役した。判決は主犯格のA(当時18歳)は懲役20年、サブリーダー格のB(同
17歳)は懲役5年以上10年以下。またC(同16歳)は懲役5年以上9年以下、D(同17歳)
は5年以上7年以下だった。4人とも出所したが、Bは平成16年暴行脅迫事件を惹起し実名神作譲
(現姓小倉)が公表された。判決は懲役4年で再服役している。A・C・Dは精神に異常をきたして
いるとされる。E・F・Gは比較的普通のようだが、内面は判らない。年を取って肉体が弱ると妄想
から精神に異常を来す可能性はある。しかしこんな犯罪を犯すということは、幼少期の教育に問題が
あり、精神に異常を来たす以前に精神異常者だ。
 また被害者の家族にも精神病に陥った二次被害者がいる。加害者の家族はいたたまれず事件後直ぐ
に慌てて町から逃げ出し、被害者の家族に謝罪し続けているが、折り合いはついてないようだ。Aの
親は自宅を売った金5000万円を支払っており、Bの親は弁護士に賠償金を積み立てているとか。
C~Gの親の動向は判らない。そのほか被害者少女に性的暴行を加え、この残酷な虐待殺人事件に関
わった少年は数十人いて、逮捕はおろか事情聴取すら受けていない者が多数いる。彼らは罪の意識は
なくのうのうと平和な家庭を築き善人面して生きている。監禁・殺人の事実を知っていたと思われる
人は100人に達するが通報なり情報提供した者は一人もいない。
 加害者少年Cの両親は共産党の地方幹部で、警察が逮捕状を取った段階で弁護士を用意し、家宅捜
索も弁護士立ち会いの下で行われた。党は、事件後すぐの段階でCの両親を除名、党とは一切関係が
ないと発表。そして「監禁という認識がなかった」「少女は帰る気がなかった」など、Cの母親の自
己弁護的記事を、機関紙「赤旗」によって5月20日~27日連載コラムでバックアップ。少女の方
に落ち度があるという情報は出元がこれだ。共産主義革命の前に自分たちのセガレの教育の間違いを
認めるべきではないのか。共産党員諸君! 子弟の犯罪は多いぞ。
 加害者の家族もまた逆説的な意味での被害者だ。Aは平成19年2月に出獄した。
 この事件を扱ったビデオ作品が2種類存在するが、1本は会社が倒産して幻のビデオとなり入手困
難。今1本は劇場公開予定だったが、在日から脅迫的抗議が殺到し上映を断念した。しかしその後渋
谷で1週間だけ公開されたそうだ。話題にもならずこのビデオも幻となった。苦労すれば入手は困難
ではない。
                       *
 ※ 近頃、どの筋が漏らしたものか・・・、実名が出た。A.宮野裕史(平成19年仮出獄)、B.小
倉譲(前出)。C.湊伸治(共産党員の息子。犯行現場の提供者)。D.渡辺泰史(少年院でイジメに
遭い、出所後ひきこもり)。E.中村高次(些細なことで宮野・小倉・湊にリンチされたらしい。「現
在、地元のスナックで事件のことを面白おかしく語る無反省人間」と注釈がついてる)。F.伊原某、
結婚し女の子を設け、新聞配達で生計を立てているとのこと。Gについては記載がない。
 このことでブログ上で喧々囂々の非難、侃々諤々の議論が起こっている。服役によって罪は消えた
とするもの、この事件は民主主義で語るべきものではなく、加害者たちは自殺するか、殺されるべき
だとするもの、生々しい議論が展開されている。可哀相なのは伊原の娘だ。足立区に住んでいたとし
たら、イジメに遭うだろうし、遭わないまでも事実を知ったら、正常な神経では生きていられない。
悩みは人知れず大きなものとなろう。お節介な奴がいて耳打ちするものだ。この項でも匿名にしてあ
る。宮野は養子縁組をして本名を隠している。何れも在日朝鮮人という。

 以下の記事を記すブログ「全面的徹底改造計画その壱 女子高生コンクリート詰め殺人事件回顧」
 (http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/c252a320f8d2ceb51b4e8b9116030a63)があった。

 少年A=横山裕史旧氏名宮野裕史‐養子縁組により姓名変更
 昭和45年4月30日生まれ、身長160cm。葛飾区において証券会社社員の父宮野良規、ピア
ノ教師をする母静江の長男として生まれる。一家には他に妹がいる。幼少期から粗暴さを示し、裕史
の家庭内暴力により両親は離婚。綾瀬小学校、東綾瀬中学校を経て、東海大学高輪台高校に入学し、
柔道部に所属したものの、1学年3学期で中退。昭和62年3月上旬から昭和63年8月下旬まで、
区内の有限会社中村タイルでタイル工として勤務。同年8月下旬から平成元年1月下旬まで、区内の
暴力団極東組関口一家桜誠会幹部豊田倖一営業の生花店「フラワーフレンド」でバイトしていた。こ
の当時、地元の不良を集め極東会の傘下組織「極青会」を組織。
 平成19年2月千葉刑務所仮出獄、東大阪市において2ヶ月半の保護観察の後、栃木県小山市に転
居、日研総業の派遣社員。5月新座市、9月川口市蓮沼298栄ハイツ201に居住。(有)宮内解
体工業所(川口市大字芝5374-24)に勤務。同20年秋取手の実母が経営する寝具店で働く。
平成25年1月振り込め詐欺を働いて逮捕されるも黙秘を貫いて不起訴。悪の道から抜け出せないで
いる。尤も大した詐欺ではなかったらしい。現在の居住地不明。逃げ回っている。

 少年B=神作譲旧氏名小倉譲)‐準主犯 在日韓国人
 昭和46年5月11日足立区内において、父小倉彰、母悦子の長男として生まれる。両親別居によ
り姉と共に母に育てられ、東加平小学校、東綾瀬中学校を経て、修徳高等学校に入学したが、1学生
2学期で中退し、その後居酒屋店員、運転助手、配線工等職を転々とし、昭和63年秋頃から、平成
元年1月下旬まで、区内の暴力団極東組関口一家桜誠会幹部豊田倖一営業の生花店「フラワーフレン
ド」で、アルバイトをしていた。刑期終了後、同16年神作譲の名前で再犯し逮捕。この事件に関し
て無反省な発言を繰り返し、類似の事件を引き起こす。同17年5月13日控訴を取り下げ、懲役4
年確定。平成20年末出所。足立区千住4丁目5番14号コーポ藤善に居住とか。ご近所さんはご注
意!

 少年C=湊伸治監禁場所となった自宅(綾瀬7‐8‐6)2階の提供者。
 昭和47年12月16日生まれ。平成18年秋まで京都市伏見区向島二ノ丸町向島住宅に両親の湊
靖人・ます子(共に日本共産党員)と同居。その後リヒテンシュタイン国籍の女性と婚姻し、大阪に
新居を構える。寝屋川市、羽曳野市と移りながら介護の資格を取得。寝屋川の「トーカイ21」に暫
く勤務。同19年秋頃、茨城県龍ヶ崎市のパチンコ屋に勤務との情報あり。父親=湊靖人(当時48
歳)東京湾近く、隅田川沿いに近い町工場が密集した一角にある診療所にて事務長。入院設備は無い
が7つの診療科目を備えた大きな診療所。仕事と酒で子育ては総て母親任せ。母親=湊ます子(当時
47歳)。父親と同じ診療所にて看護婦主任を勤める。事件後、23年間勤めた診療所を辞職。この
両親が共産党員であったため、警察はマスコミを恐れてなかなか家に踏み込めなかったという。しか
し事件に巻き込まれることを危惧した党本部は、党籍を剥奪したという。

 少年D=渡邊恭史
 昭和46年12月18日練馬区において、父渡邊一弘、母ヤスの長男として生まれ、5歳の時、両
親が離婚し、以後区内に移り、美容師の母で育てられ、東加平小学校、東綾瀬中学校を経て、都立本
所工業高校(定時制)に進学したが、1学年1学期で中退。溶接工、空調設備作業員等の職を転々と
する。現在横浜市金沢区六浦東で姉夫婦と同居。生活保護を受けているとか。日本はいい国だ!

 少年E=相田孝一旧氏名垣東孝一
 昭和47年生まれ、妻と娘2人暮らし。平成18年に長女が中学入学、苛められることに怯え、離
婚し、直ぐに再婚、妻の旧姓相田に改姓し、忌まわしい犯罪者の臭いを消すに必死。次女は小学生。
所沢周辺に居住しているとか。もう娘たちもおばさん年齢だ。

 
在日韓国・朝鮮人の犯罪
 この内の4人が在日朝鮮人であるという。在日は戦前の日本統治を恨むように教育される。韓国社
会を支配するのに、目を外に向けさせることは重要な国家政策だ。竹島問題でも、竹島という絶海の
孤島が重要なのではない。竹島問題を騒ぎ立てることで、目を日本に向けさせて、国家権力に向かう
目を逸らす目的がある。日本は格好の餌食だ。有り得ない慰安婦問題で恨みを掻き立てるのだ。犯人
たちにすれば幼少の頃から畳み込まれた日本への恨みを晴らしたのだ。日本女性を陵辱することは、
慰安婦問題における竹箆返しの心算なのだ。彼らは反省もしてなければ、改心もしていない。その証
拠に恋々と生きている。在日の犯罪は、日本女性に対する陵辱(レイプ)が圧倒的に多い。しかし彼
らは日本名で報道されるため、国民は日本人の犯罪だと思い込んでしまう。
 また在日は、民主主義をいいことに、暴力団、マスコミ、芸能界、国会議員、外交組織、宗教団体
などに日本名で滔々と潜り込んでいる。テレビに出てくる人は殆ど在日と見て間違いない。韓流ブー
ムは在日の拵えたもので、日本人のNHK職員が始めたものではない。

 ●在日朝鮮人の凶暴犯罪(全体の79% 警察庁発表)
 大正10年「都電運転手等連続7人殺人10人傷害事件」 朝鮮人R無期懲役。
 大正12年「朴烈事件(皇族殺害計画未遂)」朴準植(戦後北朝鮮で処刑)・金文子(自殺)
 昭和 6年「荏原警察署巡査殺害事件」A→無期懲役 B→懲役6年
 昭和 7年「桜田門事件」の李奉昌(イボンチャン)死刑執行、
 昭和17年「多摩川流域軍需品窃盗団事件」朝鮮人104人逮捕
 昭和20年「名古屋少年匕首殺害事件」犯人逮捕後韓国へ逃亡 平成13年免訴
      「直江津駅リンチ殺害事件」犯人3人逮捕後韓国に逃亡
 昭和21年「東京・冨坂警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「神戸・生田警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「京都・七條警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「日光中宮祠六人殺害放火事件」朴烈根(死刑執行)崔基業(死刑執行)
      「長崎警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)」
      「京都・七條警察署巡査殺害事件」 朝鮮人5人逮捕
      「長野・東條村強盗・警察官殺害事件」 朝鮮人4人逃亡
      「名古屋・中京私設警察リンチ事件」(日本人を監禁拷問)
      「富山駅前派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「熊本・一勝地村農家六人殺害事件」 2人死刑執行・1人無期懲役
      「新潟・坂町事件」(警察官を集団暴行)12人検挙
      「新潟日報襲撃事件」(朝鮮人暴動)9人起訴
 昭和22年「山梨・百田駐在所巡査射殺事件」 北朝鮮人死刑執行 
      「神奈川税務署員殺害事件」(集団暴行)
      「北海道津別事件」(朝鮮人暴動)
      「秋田・尾花沢派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「関東朝鮮人強盗団事件・池袋診療所強盗殺人事件」朝鮮人10人逮捕
 昭和23年「会津破蔵事件」(集団強盗)犯人3人逃亡中
      「浜松事件」(朝鮮人暴動)17人に懲役刑 『ヤクザの勲章』として有名。
      「阪神教育事件(朝鮮人学校事件:朝鮮人暴動)」
      「青森・五所川原抗争事件」(朝鮮人暴動)
      「仙台・評定河原事件」(朝鮮人暴動)
      「山口・宇部事件」(朝鮮人暴動)
      「東北・ワ号(涌谷)事件・朝鮮人窃盗団連続窃盗事件」40人に懲役刑
 昭和24年「島根・益田事件」(益田警察署襲撃事件:朝鮮人暴動)
      「新潟・高田濁酒事件」(朝鮮人暴動)
      「福井・本郷事件」(派出所襲撃集団暴行)
      「福島・平事件」(朝鮮人集団暴行)
      「岩手・塩釜事件」(総連・民団抗争)
      「山口・下関事件」(総連・民団抗争)
      「関東・朝鮮人強盗団事件」(260人検挙)
      「福井・武生事件」(朝鮮人集団暴行・放火)
 昭和25年「東京・台東会館事件」(朝鮮人暴動120人検挙)
      「岡山・連島町事件」(朝鮮人暴動8人検挙)
      「神戸・長田区役所襲撃事件」(朝鮮人暴動26人逮捕)
      「滋賀・大津地方検察庁襲撃事件」(朝鮮人暴動43人逮捕)
 昭和26年「三重・四日市事件」(朝鮮人暴動15人検挙)
      「東京王子朝鮮人学校事件」(朝鮮人暴動)
      「神奈川朝鮮人学校事件」(朝鮮人暴動28人検挙)
      「東京・日野事件」(朝鮮人暴動20人検挙)
      「兵庫・下里村役場集団恐喝事件」(朝鮮人暴動15人を検挙)
      「大阪・東成警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動15人逮捕)
      「親子爆弾事件」(クラスター爆弾工場襲撃集団暴行)、
 昭和27年「青森・木造地区警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「大阪・多奈川町事件」(朝鮮人暴動27人逮捕)
      「血のメーデー事件(朝鮮人デモ隊警察と衝突)」
      「広島地裁被疑者強奪事件」(朝鮮人暴動放火犯強奪)
      「名古屋・高田派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「仙台・大梶南事件」(朝鮮人抗争)
      「奈良警察署官舎襲撃事件」(警察官の親に集団暴行:重体)」
      「山口・万来町事件」(朝鮮人集団暴行)
      「京都・島津三条工場事件」(朝鮮人が集団で押し寄せて警察に火炎瓶投擲)
      「滋賀・醒井事件」(朝鮮人暴動)
      「大阪・吹田事件」(朝鮮人集団凶暴化111人逮捕)
      「大阪・枚方事件」旧陸軍工廠→小松製作所枚方工場爆破放火98人検挙
      「名古屋・大須事件」(朝鮮人暴動)
      「群馬・警察予備隊相馬ヶ原駐屯地爆破未遂事件(5人逮捕)
      「長崎・大村収容所事件」(朝鮮人暴動)
      「青森・五所川原税務署襲撃事件(密造朝鮮人暴動)」
 昭和28年「別府市警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)、
 昭和30年「東京・上十条二丁目交番爆破事件」ダイナマイトを投げ込んで爆破、警察官重傷
 昭和33年「東京・小松川高等学校女子生徒殺人事件」(李珍宇
リツェンユ)死刑執行
 昭和34年「新潟・韓国工作員日赤センター爆破未遂事件」
 昭和42年「銀座女王殺人バラバラ死体遺棄事件」伊東和義(韓和義
 ハンヘイ) 無期懲役
 昭和43年「金嬉老人質立て籠もり事件」権禧老
 カンシラウ 無期懲役 死亡
 昭和44~49年「首都圏女性連続殺人事件」の小野悦男 無期懲役→無罪
 昭和49年「松戸OL殺人事件」の小野悦男 無期懲役
 昭和54年「三菱銀行人質事件」の梅川昭美 射殺
 昭和55年「辛光洙事件」の辛光洙
(シンガンス)北朝鮮に逃亡
 昭和56年「男鹿脇本事件」の在日韓国人A(28歳 懲役2年執行猶予4年)
 昭和57年「古美術商無尽蔵殺人事件」の
ソンジョンホ 懲役13年
 昭和58年「ラングーン事件」の文東建
(ムントンゴン)裁判中病死

 ※戦後の10年の暴徒化は、朝鮮人特有の民族病である火病(ファビョン)や、戦勝国民気取り
  もあるが、昭和30年を境に尻ぼそりになっていくのは、在日朝鮮人の自覚や反省によるので
  はなく、ユダヤの使嗾(そそのかし)がなくなったからだ。つまりユダヤがシフト替えして学
  生運動に転化していった。しかしその学生運動も、その手先は朝鮮人青年だった。また、こう
  してつらつら眺めてみると、朝鮮人の分布が津々浦々にまで及んでいるか判るというものだ。
  彼らは何も大阪にだけ集中している訳ではない。帰化国会議員が七分の一近くに喃々とすると
  いうことは、いかにユダヤの意思が、最早抵抗できぬところまでに至っているということだ。
   今、ISIS(イスラム国)なるテロ集団があるが、アルカイーダ同様、これもユダヤが組
  織したもので、ウサマ・ビンラーディンの母親はユダヤ系オマン人だ。同様、アブ・アクバル
  ・アル・バクダディは、本名はサイモン・エリオットというイスラエル人で、モサドのメンバ
  ーだ。アラブ人に成りすまして、アラブの若者を唆している。因みに「バクダディ」ってえの
  は、江戸っ子同様、「バクダッドの人」というコードネームだ。
  朝鮮人に日本名(通名)を名乗らせ、本名を隠させたのはユダヤ人で、ユダヤ人自身が、その
  国の名前を名乗って成りすましてきた。ロスチャイルドも、ロックフェラーも本名じゃない。
  フランスのオランド大統領・マキロン大統領も、ドイツのメルケル首相もユダヤ人、どうせパ
  リ襲撃事件もその元はユダヤだ。何しろ平和を追求しすぎて国と国との戦争がなくなったから、
  武器が売れなくて、売れなく、生産過剰になっちゃうから、何としても償却しなくっちゃあ、
  というので、テロ組織を拵えて、騒ぎを起こし武器を売り捌いて帳尻を合わしてる。尖閣問題
  を引き起こした石原慎太郎もその手合いだよ。武器類償却のための日中戦争が企てられている
  のかも? 戦争と革命はユダヤの金儲けの手段だからね、未来永劫なくならないよ。

 昭和63年「女子高生監禁殺害コンクリート詰め事件」の宮野裕史(→横山祐史)
       小倉譲(→神作譲)、湊伸治(帰化)、渡邊恭史
 平成 元年「東京・埼玉幼女連続殺人事件」の宮崎勤(死刑執行)
 平成 2年「大分留学生老夫婦殺害事件」の金二秀(
キムミンス)逃亡 中国で死刑 
       と中国人4人(1人は中国で無期懲役)無期懲役・懲役15年、懲役14年●
      「大阪イトマン事件」の許永中(
スヨンゾン)懲役7年6月・罰金5億円 現在帰国●
 平成 3年「京都・松江等4人連続殺人事件」 西川正勝(金正勝
キムジョンセン)死刑執行
 平成 4年「韓国人武装スリ団強盗事件」の鄭東植(
チョンドンシク)沈平根(シェンピンゲン
       ほか23名●
 平成 5年「埼玉愛犬家連続殺人事件」関根元(獄中死)・風間博子(死刑確定)
 平成 7年「オウム真理教村井秀夫殺人事件」の徐裕行(
ソユヘン 23歳 懲役12年)
      「長崎市長射殺事件」の城尾哲也(白正哲?) 無期懲役●
      「オウム真理教地下鉄サリン事件」の麻原彰晃(松本智津夫) 死刑執行●
      「国松警察庁長官狙撃殺害事件」の犯人は韓国人(逃亡)と見做されている●
      「カナヤマン少女連続強姦事件」の金山昇一 懲役2年●
      「名古屋・福岡殺人事件」の朴日光(
パクイルグァン)死刑判決 獄中死●
 平成 8年「渋谷女子大生誘拐事件」の李勇(リヨン)中国籍。無期懲役
                  伊藤金男(尹金男
 インキムナン 帰化生活保護者)無期懲役●
                  山本基浩(崔基浩
チェジハォ、韓国籍)懲役10年●
 平成 9年「神戸連続児童殺傷事件」の酒鬼薔薇こと東慎一郎また西岡真とも。出所。
      「奈良月ヶ瀬村女子中学生撲殺事件」の丘崎誠人(混血)無期懲役 獄中自殺
      「小学生強姦事件」の張今朝(
チャンジンチャオ)他9人レイプ 実刑(刑期不明)●
 平成10年「和歌山毒物カレー殺人事件」の林真須美(帰化)、死刑判決
      「目白通り19人強姦強盗事件」の宋治悦
(ソンチヨル)無期懲役
      「栃木県工務店主殺害事件」の蒋米内(
ジャンミネイ 57歳) 捜査中死亡
      「碧南市パチンコ店長夫妻殺害事件」の金慶末 逃亡→闇サイト殺人事件●
 平成10~18年「大阪19人監禁強姦事件」の山元平和(金平和
キムピンヘ)無期懲役
 平成11年「光市母子殺害事件」の大月(福田)孝行、死刑確定
      「新潟少女強姦事件」の崔智栄
(チェジロン)・金乗實(キムツェンシ)
      「桶川ストーカー殺人事件」の小松和人(逃亡自殺)
      「小学生14人強姦事件」のペソンテ●
      「愛媛強姦事件」のマンダリンレイパーツ外野手文相勲(
ムンサンフン)懲役6年4月●
 平成12年「ルーシー・ブラックマン殺人死体遺棄事件」の織原城二(金聖鐘)無期懲役
      「鳥取・大阪・和歌山9人強姦事件」の沈週一(
シェンズンイ)●
      「フジテレビ社員になりすまし140人暴行事件」の李昇一(
イソンイル)●
      「女優強姦未遂事件」の檀国大学教授李東逸(
イドンイ) 示談保釈●
      「世田谷一家殺人事件」の犯人は諸条件から韓国人とみられている●
 平成13年「大阪教育大学付属池田小学校」の宅間守(兄は朝鮮名のまま)。死刑執行
 平成14年「大分老夫婦刺殺事件」金玟秀(
キムミンス 留学生)無期懲役→懲役15年
      「北九州監禁連続殺人事件」の松永太 死刑判決
 平成14~21年「鳥取連続6人不審死事件の上田美由紀 死刑判決
 平成15年「スーパーフリー事件(連続輪姦)」の和田真一郎(保釈後、和田耀平に改名)
 平成16年「山梨県二少女強姦事件」の高直幸(
コジシン)、懲役15
      「大牟田連続殺人死体遺棄事件」北村一家4人全員死刑確定
      「元千葉ロッテ投手強盗殺人死体遺棄事件」の小川博 無期懲役
      「名古屋高齢女性強盗殺人未遂事件」の金慶末 逃走 闇サイト殺人事件●
      「茨木市連続轢き殺し事件」の屋島正則(辺英鉄
ピャンヤンティエ)精神疾患無罪
      「ソウル日本人学校女児連続6人虐殺事件」の金大根(
キムデゲン) 死刑執行●
      「相模原・山梨女子高生強姦事件」の高直幸(
イチシン) 懲役13年●
 平成16~17年「大阪17人強姦事件」の松岡寿明(金寿明 
キム・ショウミン)無期懲役
 平成17年「聖神中央教会事件」の永田保(金保
 キムバオ)信者の娘22人を強姦。懲役20年
      「大阪・自殺サイト殺人事件」の前上博 死刑執行
      「千葉少女スーツケース詰め殺人事件」の長谷部泰輔(創価大)無期懲役
      「京都市区立小学校侵入事件」の堤昌浩(姜大蔵
ジャンデカン
      「堺市・女子高生監禁事件」の川本隆之(鄭隆之
ツェン・ロンチ)懲役8年
      「武装スリ団メンバー強盗事件」の金上煥(
キムシャンハン)李橿旼(イジンビン)●
      「京阪神高級住宅空き巣1億九千万円」の金圭男(
キムグィナム)●
      「大阪少女監禁事件」の川本隆之(鄭隆之
チョンロンジ)懲役8年●
      「宇都宮女子高生猥褻事件」の北朝鮮密入国者閔洪九(
ミンホンジュ) 自殺●
 平成18年「秋田児童連続殺人事件」の畠山鈴香 無期懲役
      「京都市パチンコ売上80億円脱税事件」の山村友七(崔大秀 
ツァイデシュ
      「京都市連続住居侵入強姦事件」の野村義昭(金義昭
キムイツァオ)●
      「京都市聖神中央教会少女7人事件」の鄭明析(
チョンミョンソク)●
      「大坂府19人強盗強姦事件」の山本平和(金平和
キムピンヘ)無期懲役●
      「東京一等書記官轢き逃げ」の一等書記官李相烈(
イサンリェ)不逮捕特権帰国●
      「東京マンション侵入3人強姦事件」の留学生李桐昊(
イドンハ)●
      「宇都宮女性宅上がり込み強盗事件」の李辰世(
イチェンシ)●
      「浜松連続強姦強盗事件」の李正遠(
イジョンアン) 懲役11年●
      「台東区路上拉致監禁70万円強奪事件」の高逸熙(
コイシ)●
      「大阪市強要未遂事件」の暴力団組長天野洋志穂(金政基
キムチェンイ
      「長浜市園児殺害事件」の谷口充恵(鄭永善
ツェンヨンシャン)無期懲役
      「下京区連続強姦事件」の野村義昭(金義昭
キムイチャオ
 平成19年「渋谷女子大生誘拐事件」伊金男・李勇(無期懲役)・崔基浩(懲役10年)
      「市川・英国人女性殺害・死体遺棄事件」市橋達也、無期懲役
      「長崎市長射殺事件」の城尾哲弥(白正哲
 バイツェンツェ) 無期懲役
      「函館市銃撃戦」の暴力団員高成仁(
コソンイン 52歳)射殺
      「土浦8人連続殺傷事件」の金川真大 死刑執行
      「大阪主婦80人強姦事件」の来日強姦魔金充植(
キムチョンジ)実際2年間200人●
      「資産家宅侵入暴行強盗事件」の文桓坤(
ムンフアンクン
      「横浜連続美少女14人強姦事件」のペヨンテ
      「闇サイト殺人(愛知女性拉致殺人事件)」の堀慶末(金慶末)無期懲役
      「佐賀入院患者人違い射殺事件」の今田文雄 無期懲役 死亡
      「川西市関西アーバン銀行強盗事件」の平山善賢(申善賢
シンシェンシェン
      「中野区拳銃射殺事件」の暴力団組長有本弘吉(李弘吉
イホンイ
      「NHK幹部少女買春事件」の朴瑛源
パクインヤン 通名朴元瑛源(えもとえいげん
      「仙台女児猥褻・連続殺害事件」の高山正樹 無期懲役 中国人?
 平成20年「秋葉原通り魔17人刺傷事件」加藤智大 死刑執行 弟優次自殺
      「港区中国国際航空爆破脅迫事件」の中川賢史(李賢史 
リヒョンサ
      「江東区神隠し殺人事件」の星野貴德 無期懲役 自殺の噂あり
      「舞鶴高1女子殺害事件」の中勝美 無期懲役→無罪 殺人→服役中死亡
      「大阪市75億円相続巨額脱税事件」の李初枝、李淑子姉妹
      「加古川同居男刺殺事件」の大村美和(朴美和
パクメイヘ
      「深谷市生活保護費1800万円詐取」の青山真一朗(崔鳳海
チェフェンハイ
      「北朝鮮覚醒剤密輸事件」の禹時允(
ユシユン)●
 平成21年「首都圏連続不審死事件」の木嶋佳苗 死刑判決
      「新橋ストーカー耳かき店員殺害事件」林貢二(朴貢二)無期懲役。
      「千葉・松戸女子大生強姦殺人放火事件」の竪山辰美 無期懲役
      「大阪・法人税1億超脱税事件」の由利佳久(金光徳
キム・ガンデ
      「江戸川区屑鉄業者脱税事件」の清光均一(趙均一
チャオジュンイ
      「東大阪屑鉄業者脱税事件」の延田政雄(田元相
ティャンヤンシャン
      「文京区中央大学教授刺殺事件」の山本竜太 懲役18年。
      「加古川屑鉄運搬会社脱税事件」の望月正雄(郭漢彦
グォハンヤン
      「江戸川区妻殺し事件」の徳山京吉(洪京吉
ホンジンジ
      「三重・旅館人質立て籠り事件」の金山和重(金和重
キムヘチョン
      「福岡前原焼死体遺棄事件」の木村勇太(辛英武
シンヨンウ)●
      「埼玉伊奈町放火殺人事件」の張哲具(
チャンチョルグ)短期ビザ 懲役30年●
      「足立区美容院経営者殺人事件」の元夫金昌律(
キムチャンル)●
      「神戸北区団地殺人事件」の豊田洋樹(権洋樹 
クァンヤンシュ)●
 平成22年「大阪ミナミ女子高生連続16人強姦事件」の徐一
(ソイル)懲役25年
      「マツダ本社工場車暴走連続殺人事件」の引寺利明 無期懲役
      「札幌2女性刺傷事件」の外山硬基 無期懲役
      「長岡京義父母殺害事件」佐野敏男(55歳 李敏男
 リミンナン)無期懲役
      「下関市6歳女児殺害事件」湖山忠志(許忠志
 スツォンチ)懲役30年
      「松原市タクシー強盗殺人未遂事件」の安田亨(安承哲
アンチェンチェ
      「西宮市轢き逃げ死亡事件」の文力樹 
ムンリシュ 通名松浦
      「豊島区国道轢き逃げ事件」の松本拓己(秋敏植 
キミンシ
      「吹田市隣人騒音トラブル殺人事件」の大橋実(金實虎
キムシフ)●
      「大阪市女性2人キャリーバッグ拉致強姦事件」の金平和 
キムヒョンヘ
      「明石市女性殺害事件」の永川考二(李海 
イハイ) 逃亡自殺●
 平成22~23年「留守番少女3人強姦事件」の石若喜美夫 
 平成23年「大津いじめ中学生自殺事件」山田晃也(事件後佐田、足立に通名改称)
                    木村束麿呂(京都へ転校 父はPTA会長)
                    小網健智(柔道部)
                    森山進(担任教師)
      「熊本3歳女児殺害事件」の山口芳寛 無期懲役
      「目黒夫婦殺傷事件」の木村義昭 〈無期懲役)
      「大阪北区路上ナイフ女子高生連続強盗強姦+パンツ窃盗事件」の呉紘希●
      「MMEレコード社長少女強姦事件」の李泰成 
イテソン(角岡、西本)●
      「東灘区公園ナイフ強姦事件」の竹田直季● 
      「埼玉・轢き逃げ事件」の金健
キムジャン 通名金城健●
      「被災地偽医者詐欺事件」の米田吉誉 韓国で医師免許偽造●
      「女性を数百引き摺り殺人未遂事件」の
ソウヨンソク
      「大阪生野妻殺し事件」の岩田慶次(姜市男 
カンシナム)●
      「大阪生野強盗女性殺人」の金井義明(金義明 
キムイミン)●
      「山口父親殺害事件」の木下明(李熙雨 
イシユ)●
      「岡山命乞い同僚女性バラバラ殺人事件」の住田紘一 〈死刑執行)
      「愛知女子大生モデル殺害事件」の丹羽雄治 懲役27年
      「福井・九頭竜湖殺人事件」 林圭二(無期懲役) 渡辺智由(懲役14年)
      「大阪・今養寺重文仏像盗難事件」の陳宗哲(68歳)朴昌奎(68歳)
      「平野区朝鮮人親子ストーカー殺害事件」の文青児
ムンクィンエル 通名文原 無期懲役
      「名古屋芸能プロ社長猥褻事件」の李泰成
リタイソン 通名亀岡or西本
 平成24年「尼崎連続虐待殺人」の角田美代子(獄中自殺)李正則(
リジョンヅゥ 無期懲役)
      「豊川信金蔵子支店立て籠もり事件」の長久保浩二 懲役9年
      「広島成城大生小6女児監禁事件」の小玉智裕 懲役4年→3年 満期出所
      「関越道高速バス防音壁衝突死亡事故」の河野化山 懲役9年6月 罰金200万円
      「静岡連続9人強姦事件」の小沢貴司 懲役50年
      「大阪心斎橋通行人2人刺殺事件」の磯飛京三 死刑→無期懲役
      「島根社長妻刺殺事件」の福島清太郎(趙正奎)
チャオツェンクィ
      「岐阜県女性水死事件」の文昇(
ムンソン)他暴力団4人●
      「スイス在住資産家夫妻殺害事件」の渡辺剛 朝鮮耳 死刑確定●
 平成25年「京都弁護士会々長路上殺害未遂事件」の朴基洙(
パクジツゥ 60歳)
      「姫路元暴力団員等3人殺害事件」の陳春根(
チェンチュンゲン 48歳)無期懲役
 平成26年「朝霞女子中学生誘拐監禁事件」の寺内樺風(懲役9年 → 12年)
      「佐世保同級生殺人解剖事件」の徳勝もなみ 精神病院送り、父親自殺。
      「兵庫・政務費詐取号泣釈明会見事件」の野々村竜太郎(懲役3年猶予4年)
      「神戸小1女児遺体バラバラ遺棄事件」の君野康弘(死刑→無期懲役)
 平成27年「川崎中学一年生リンチ殺人事件」の船橋龍一(懲役9~13年の不定期刑)
      「大阪・高槻中一少年少女殺害事件」の山田浩二(死刑判決)
      「虎ノ門男性器チョン切り事件」の小番一騎 懲役4年6月
      「小岩女子高校生強盗殺人」の青木正裕 無期懲役
      「西麻布路上強盗傷害事件」の添田大地
 平成28年「福岡女子予備校生刺殺事件」の甲斐敬英(19歳)懲役18年
      「小金井アイドル刺傷事件」の岩崎友宏(金友宏) 懲役16年6月
      「渋谷バレエ教師鏨指切断事件」の岩崎浩明 懲役4年6月
      「碑文谷池老女バラバラ遺体遺棄事件」の池田徳信 無期懲役
      「靖国神社爆弾事件」の全昶漢(チョンチャンハン 27歳)懲役4年
      「埼玉県ベトナム人不法就労事件」の慶克也(
キョンクィイェ 46歳)
      「群馬高級時計詐取事件」の申映鎭(
シェンインチェン 35歳)
      「六本木21歳女性暴行事件」の蒲池英貴
      「津久井やまゆり園60人殺傷事件」の植松聖(韓英一 
ハンヨンイル
      「文京区講談社編集次長妻殺人事件」の朴鐘顕(
パクチョンヒョン
      「福島県石仏100体損壊事件」のチョン・スンホ(韓国人) 懲役2年
      「新今宮駅突き落とし事件」の裴晃大(ペファンデ 中川晃大 28歳)
      「京都山科区コンビニ強盗事件」の香山正秀(崔正秀
ツァイツェンツェ
      「歌舞伎町裏DVD販売32万枚押収」の千龍湖(
チャンロンフ 60歳)
      「荒川区母親絞殺事件」の高悠里(コユーリ 29歳 通名鈴木)
      「神戸山口組襲撃事件」の金東力(
キムドンリ 60歳)・金幸植(キムシンジ 68歳)
      「大阪個人病院侵入盗事件」の左達也(
ツォダエ 42歳)
 平成29年「長野中央道危険運転パトカー2台衝突事件」の金相炫(キムサンシャン)42歳
      「福島仏像神鏡等破壊事件」のチョン・スンホ(35歳) 懲役2年
      「宇都宮日本人刺傷事件」の黄茂男(
ファンマオナン 68歳)
      「一都六県で空き巣200件」の朴一軌(
パクイグィ 36歳)

      「7年前重文仏像盗難事件」の陳宗哲(68歳)と朴昌奎(68歳)
      「東名夫婦死亡事故」の石橋和歩(25歳) 懲役18年判決
      「座間9人殺害事件」の
白石隆浩(27歳)
      「京都山科区コンビニ強盗事件」の香山正秀(崔正秀
ツァイツェンツェ

      「世田谷コンビニ前刺傷事件」の金輝俊(
キムフィジュン 40歳)
      「川崎小指切断強制事件」の山口組金敏昭(
キムミンツァオ 63歳)
      「五反田駅前ホームレス刺傷事件」の丁奎五(
チョンクィウ 46歳)
      「東京MK社長タクシー運転手暴行事件」のユチャンワン 55歳
      「新宿韓国人向け白タク営業」の韓寿栄(
ハンスヨン 37歳)
      「赤坂白タク稼ぎ1500万円」の朴昶柱(
パクチャンチュ 49歳)
      「金塊16億円密輸事件」の高鳳聲(
コフェンシェン 35歳)、延鐘模(ヤンゾンモ 29歳)
      「市川市・一家4人惨殺事件」の関光彦
てるひこ 死刑執行
 平成30年「韓国から空き巣行脚」の李成男(
リソンナン 40歳)
      「渋谷職質逃走パトカー衝突事件」の趙聖煥(
チャオシェンファン 21歳)
      「神戸三ノ宮駅突き落とし殺人未遂事件」の朴洸賢(
パクハオシャン 27歳)
      「市川中国人不法就労事件」の朴聖煕(
パクシェンシ 38歳)
      「宮城麻薬密売事件」の李浩淑(
リハオスク 57歳)
      「青梅偽ルイヴィトン販売目的所持事件」の朴正壎(
パクジョンチェン 39歳)
      「煽り運転ゴミ車横転事故」の李義之(
リイツィ 52歳)
      「NHK職員刺傷事件」の韓国籍李宰弦(
リジェヒョン 46歳)
      「昨年3月女性暴行携帯強奪事件」の
キムテヒョン(29歳)再来日逮捕
      「六本木一丁目タクシー運転手轢殺事件」の南康弘(
ナンカンホン 69歳)
      「六本木地下通路ビール瓶刺傷事件」の
キムドンコン(37歳)
      「荒川警官切り付け事件」の杉村ひろし(尹炳喜 
ユンビョンヒ 55歳)
      「台東区宝石商強盗未遂事件」の
コヨンファン(27歳)
                     
チェウンユ(27歳)
                     3人韓国に逃亡。
      「川崎タクシー内暴れ器物破損事件」の安英孝(
アンヨンシャオ 40歳)
      「足立区特殊詐欺未遂事件」の大森裕友(22歳)
      「加古川バイパス追突3人死亡事故」の金哲寿(
キムチェショウ 60歳)
      「暴力団組長金品強奪刺傷事件」の金永七(
キムヨンキ 71歳)
      「新幹線グリーン車窃盗事件」の朴昞俊(
パクカオジュン 29歳)
      「大阪韓国人弁護士横領事件」の洪性模(
クィダシュ 66歳)
      「埼玉高層マンション空き巣事件」の宋美徳(
ソンメイデ 49歳)
 平成31年「名古屋タクシー強盗障害事件」の朴光泳(パクガンヨン 59歳 通名新井)
      「仙台~郡山タクシー無賃乗車」の金吉成(
キムキソン 52歳)
      「堺マンション12階消火器投下殺人未遂事件」の姜碩富(
ジャンシュオフ 49歳)
      「芦屋高級住宅街空き巣事件」の朱昌星(
チュチャンシン 68歳)
      「国内最大児童ポルノ摘発事件」の金光史(
キムガンシ 60歳)
      「世田谷マッサージ師強姦事件」の朴慶培(
パクギョンベ 40歳 俳優新井浩文
      「昭和大病院医師性暴力事件」の金古政隆(28歳)、大林久晃(26歳)
      「タイ・日本人3人監禁強奪事件」の黄健一(
ファンゴニル 27歳)
      「後楽園駅前元上司刺傷事件」の金田隆志(26歳)
      「南品川痴漢暴行事件」の吉田将司(23歳)
      「神戸妻暴行事件」の金本浩二(金日宇 
キムイルユ 3代目タイガーマスク)
      「カンボジアから覚醒剤密輸」のジョンヨンス(49歳)
      「大阪カジノ発砲事件」の姜真一(
ジャンジンイル 34歳 通名井川)
      「原発賠償金4000万円詐取事件」の金孝尚(
キムシャオシャン 60歳)

 (令和元年)「名古屋オンラインカジノ経営事件」の東山真也(金栄植
キムヨンツィ
      「佐野高級メダカ侵入盗事件」の李龍道(
イロンダウ 71歳 通名村田明)
      「韓国からスリ出張」の陳晟瑚(
チンソンホ 46歳
      「港区総連歌劇団女優覚醒剤事件」の安聖愛(
アンソンアイ 24歳)
      「オレオレ詐欺4000万円ひったくり事件」のウキオン(27歳)
      「浜松路上置き石保険金詐取事件」の陳達栄(
チェンダロン 34歳)
      「大阪暴力団組長覚醒剤密輸事件」の李雄二(
リションエル 55歳)
      「和歌山自動車盗職質逃亡事件」の朴悠也(32歳 通名土肥原)
      「大阪連続引っ手繰り事件」の姜桂守(
ジャングィショウ
      「渋谷区小堺一機宅他空き巣事件」の千雲寧(チョンウニョン 31歳)
      「町田・暴力団人違い監禁事件」の申昌吉
シェンチャンジ 通名松原
      「渋谷区道端アンジェリカ夫恐喝事件」キムジョンヒ(37歳)
      「渋谷区韓国大使館員路上暴行事件」の韓国人(不逮捕特権で釈放)
      「青梅侵入強盗資産家殺人事件」の韓一仁(
ハンイルイン) 韓国籍
                      野村俊希 在日韓国人 ともう1人●
      「青森日本テレビ社員暴行事件」の韓国籍玄昶日(
シュワンチャンリ)●
 令和2年 「中央区鉄鋼一億三千万円無断売却事件」の朴康靖(
パクカンジョン)●


 申基泰(50)経営する新宿区内のクリニックで暴力団関係者の指詰めに協力
 全錫燁(50)33都道府県のゴルフ場でゴルフクラブなどを盗む。
 愈炳培(45)高島屋大阪店の地下食料品売り場で、女性のかばんから財布を抜き出す
 金俊浩(44)旅券を大量に偽造して日本への密出入国斡旋
 李庚益(41)旅券を大量に偽造して日本への密出入国斡旋
 金鉄成(54)建造物侵入窃盗
 李成泰(47)関釜航路を利用して韓国人を密出国させる
 姜京雲(35)関釜航路を利用して韓国人を密出国させる
 金基昌(39)カード8枚と暗証番号のメモを使い、複数の銀行で30分で計1630万円引出
 金松炳(58)(通名:金山松炳)
        強盗目的でコンビニに入るが店員にブザーを鳴らされ、「間違えて包丁を出した
        らブザーを鳴らされた」と自分で110番通報して言い逃れ
 盧鎮那(43)免許を受けずに韓国に総額1050億円を不正送金
 高龍完(??)免許を受けずに韓国に総額1050億円を不正送金
 金載煕(25)女性宅で待ち伏せし、現金約200万円と指輪など(611万円相当)強奪
 ソンジョンホ(38)
        古美術商に押し入り睡眠薬を飲ませ、2000万円余りの古美術品や宝石強奪
 李正雨(51)金融業者射殺
 李貞姫(65)医師免許がないにもかかわらず、韓国人を相手に医療行為
 成明徳(48)店舗型性風俗特殊営業が禁止されている地域で性マッサージ店経営
 朴源春(47)シャネルの模造指輪など約20点を販売目的で所持
 高成一(57)京都市北区の大徳寺から碁盤や火縄銃などを盗む
 イムセヒョン イヒョンウ
        女性を背後から襲い、現金6万円入りのバックを奪い全身打撲の重傷を負わせる
 康錫熙(47)売春クラブで、韓国語の情報誌を使って集めた韓国女に売春 
 鄭朱延(35)婚姻した事実がないにもかかわらず、虚偽の婚姻届提出
 金一彬(40)偽「ルイ・ヴィトン」商品を販売目的で所持
 シムヨンハク(44)朝鮮国籍
        舞鶴港に停泊中の北朝鮮貨物船内で麻薬所持
 黄義孝(54)現金自動受払機を重機で壊し、約3000万円を盗む
 張晳范(43)無免許運転でオートバイに接触、男性を負傷させながら逃走
 李福得(63)短期滞在資格で入国、約11年2ヶ月間不法滞在
 李知成(32)一般ごみ集積所に自分で経営するお好焼き店の廃棄物約8kg遺棄
 吉東光(44)駅構内のエスカレーターで、主婦の財布を盗む
 李成根(48)北朝鮮国籍
        港のコンテナ床下に、覚醒剤約36kg(末端価格約21億6千万円相当)隠匿
 丁相吉(45)路上で小型カメラが付いた耳かき状の器具などを上着に所持。スパイ行為
 方文成(66)息子の嫁と口論になり殺害、死体をかばんに詰めて植え込みに遺棄
 黄恵敬(46)女性に偽ルイ・ヴィトンの小銭入れを発送し販売譲渡
 李貞蘭(34)偽ブランドの財布やバッグなどを自己店舗で販売
 金南慧(33)兵庫県三木市の県立公園の敷地に廃材などを不法投棄
 朴聖洙(27)知人宅にロシア製の自動式拳銃2丁と実弾23発を置
 朴龍造(53)2少女に猥褻行為
 〓英済(36)猥褻ビデオを販売し売上金約500万円を他人名義口座に振込んで収益隠匿

 金春男(54)知人女性の乗用車の直前に割り込み、事故で同乗者の男性を死亡させ、事故後も
        この男性を助けず放置、警察にも通報せず
 李錫東(55)元妻宅に火炎瓶を投げ入れる。
 姜明河(47)自宅などに偽「ルイ・ヴィトン」キーケース7点を販売目的で所持
 洪万吉(61)香料メーカーの偽造株券6万株を売却、約4億円を詐取
 崔進一(48)元請け会社から工事代金約500万円を恐喝
 李勝守(48)李徳雨(58)
        年金受給者3人に計250万円を貸し付けた際、年金が振り込まれる預金通帳や
        年金証書などを担保として預かる
 柯輝坪(52)小4女児に猥褻行為李多金(64)
 李多金(64)同居男性殺人未遂
 馬 恬(21)店舗型性風俗特集営業禁地域で男性に性的サービス
 洪富都志(40)盗難車に乗っているところを警察に見つかる
 明花順(46)俗店営業禁止地区で男性に性的サービス
 元景愛(43)風俗店営業禁止地区で男性に性的サービス
 王瑞兵(31)偽造カード行使商品詐取
 楊愛美(28)店舗型性風俗特殊営業禁止地域で性的サービス個室マッサージ店を営業
 朴判介(57)マンションを不動産会社に転売して、およそ1億8500万円を詐取
 申明達(60)故障のため路肩に停車していたトラックに追突し、運転手を死なせる
 郭純也(24)る。
 郭純也(24)遊戯用メダルの不正窃取を摘発する業者を装い、客を店外に連れ出し身体検査を
        している間にメダルを盗む
 姜玉順(58)規制区域でファッションヘルス店を営業し、男性客相手に買春させる
 許春把(32)黄冬梅(34)唐麗華(39) エステ営業を装い従業員に個室買春強制

 その他、強盗殺人、婦女暴行、幼児殺害100件ほどの凶悪犯罪が、在日もしくは帰化人の仕業と
なっている。中には態々韓国から出張してきて犯行している奴がいる。おいらはガキの頃、朝鮮人の
凶悪残虐を目の当たりにしてるよ。韓国人の強姦事件は群を抜いて世界一、日本に於いても強姦犯罪
者は、韓国人が日本人の10倍以上となっている。外国人犯罪で窃盗は圧倒的に中国人だが、殺人・
放火・強盗・暴行・傷害・脅迫・恐喝は総て韓国人朝鮮人だ。これはおいらの想像じゃないよ。警察
庁の発表だ。更なる統計、日本人を殺した外国人は朝鮮人韓国人が79%。
 因みに、韓国における日本人犯罪はなく、刑務所に服役している日本人は0だ。では何故? それ

は、基本的に在韓日本人が1万人前後と、絶対数が極めて少ないためだ。嫌韓感情は強いからね。
 おいらなんざ、旅費宿泊費全額出してやるっていわれても、御免蒙るよ。
 不思議なことは、日本に犯罪を扱った、探偵、刑事、弁護士、科捜研等々、映画、小説、ドラマ、
漫画は数限りなく腐るほどあるが、犯人は総て日本人。韓国人が犯人の物は1件もない。凶悪犯罪の
90%が在日韓国人の犯罪というのにだ。現実に目を向けろ!


 
何故在日朝鮮人・韓国人は凶暴事件を起こすのか?
 それには悲しい歴史事実がある。歴史始まって以来、朝鮮半島は中国の属国とされた。それはそれ
は悲惨な歴史だった。虐げられること3000年というからおっとろしい。朝鮮には、両班(リャン
パン・ヤンパン)と白丁(ぺクチョン)という身分関係があった。両班は、李氏朝鮮における支配階
級・貴族階級で、普通の人、良民をさした。両班とは、元々2つの班、文官(東班)、武官(西班)
の官僚組織のことだった。
 白丁とは、白い着物しか着れない哀れな身分の人、つまり賎民、奴隷階級の人をいった。韓国人の
殆どはこの奴隷身分だが、韓国人に「先祖は?」と訊くと、100人が100人、「両班だ」と答え
る。えーっ! 白丁の子孫は皆殺しにしちゃったっていうのかい? で、韓国では、人を罵倒する時
に「白丁野郎!(ペッチョンノム)」と使う。最大の侮辱語だ。日本にこれに匹敵する言葉はない。
だから、韓国で「私の先祖は白丁だ」といおうものなら、人間的扱いは受けない。
 朝鮮半島では「北鮮南韓」といいって、北鮮(高句麗)が支配階級で、南韓(三韓)は差別階級と
いう思いがある。経済的に優位に立つ現在でも、韓国は北朝鮮の風下に置かれている。横田めぐみが
拉致されたことになっているが、母親の早紀江は、梨本宮方子(朝鮮王国皇太子妃)の娘だ、つまり
お姫様だ。ということはめぐみもお姫様ということだ。そんじょそこいらの娘が学校帰りに拉致され
るかい。めぐみは朝鮮王女として金正日に嫁いだのだ。金正恩、恩は日本では「めぐみ」と読むんだ
よ。白丁は元々は身分で、中国の律令制度だ。当然それを模倣した日本にもあった。やがて日本では
「白徒」つまり「博徒」となった。やはり非差別階級だ。明治以後はヤクザとなった。そのため在日
の荒くれ者で、凶悪犯罪を犯さない者はみんなヤクザ・右翼になる。
 李氏朝鮮の時代に、身分制度が複雑化し、国王・両班・中人・常人・賎民に大別され、白丁は「ペ
クチョン/ベッチョン」と呼び。七般公賎(官奴婢・妓生・官女・駅卒・獄卒・犯罪逃亡者)、八般
私賎〔巫女・皮革業者・使令(宮中奏楽者)・僧侶・才人(芸人)・社堂(男の旅芸人)・挙史(女
の旅芸人)・白丁〕といわれた賎民階級の最下位に位置付けられた非差別民をさすこととなった。
 朝鮮半島において白丁は以下の差別を受けた。
  1.族譜(系図家譜)を持つことの禁止
  2.屠畜・食肉商・皮革業・骨細工・柳細工以外の職に就くことの禁止
  3.常民との通婚禁止
  4.日当たりのよい場所、高地に住むことの禁止
  5.瓦屋根の建物に住むことの禁止。
  6.文字を知ること、通学の禁止
  7.他身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止
  8.名前に「仁・義・礼・智・信・忠・君」の文字の使用禁止
  9.姓を持つことの禁止
 10.公共の場への出入り禁止。
 11.葬式で棺桶使用禁止
 12.結婚式で桶の使用禁止
 13.墓を常民より高い位置・日当たりのよい場所に作ることの禁止
 14.墓碑を建てることの禁止
 15.一般民の前で胸を張って歩くことの禁止
 これらの禁を破れば厳罰を受け、時にはリンチを受けて殺害された。その場合、殺害犯はなんの罰
も受けなかった。白丁は人間ではないとされていたためである。こういった差別は、上位身分になれ
ば逓減していったが、韓国民は概ね、中国人によって虐げられていた。

 で、この地獄の身分差別を打破したのは日本で、戸籍制度を取り入れて、身分制度を撤廃、総ての
朝鮮人を平等とし、身分を縛る禁止項目を廃止、総ての朝鮮人に学校教育を施した。これに両班は猛
反対したが、日本政府は断固として押し通した。朝鮮人らはこれに抵抗して、戸籍に旧身分を記入し
たり、履歴書に書かせるなどしそれが現在までも残っていおり、第二次世界大戦終結により、日本統
治の平穏な時代が過ぎると、ユダヤが隠れ宗主国となり、韓国民を苦しめている。韓国は世界で売春
と自殺とが最も多い国である。
 韓国が、世界遺産に「宮廷料理」なるものを申請した。和食は世界遺産に登録されたが、この宮廷
料理なるもの、「誰が食べたんだ!」といって拒絶された。奴隷国家に宮廷料理何ぞあるはずもなく
戦後の創作では図々しすぎるわな。韓国の歴史ドラマなるものが数々あるが、みんな柄物の衣裳を着
込んでいる。明治時代の日本統治以前の数々の写真を見ると、柄物を着ている民衆は一人もいない。
つまり中国の抑圧によって染織技術が発展しなかったため染物がなかったのだ。蓋し白丁なのだ。

 この欝々とした歴史を背負った朝鮮民族は、永い抑圧の中で民族病、国民病ともいうべき精神病を
患っていった。「火病(ファピョン)」という。

 
火病または鬱火病(ウラッピョン)
 これは、怒りの抑制を繰り返すことで、ストレス障害を起こす精神疾患を指す。ヒステリーと類似
した症状を発症する。アメリカ精神医学会は、火病を「朝鮮民族特有の文化依存症候群の1つ」とし
ている。症候として、疲労、不眠、パニック、切迫した死への恐怖、不快感、食欲不振、消化不良、
動悸息切れ、呼吸困難、全身の疼痛、心窩部に塊がある感覚などを呈する。英語では「anger syndro
me(憤怒症候群)」と訳され、原因は怒りの抑制によるとされている。本来、朝鮮民族が中国に立ち
向かって自立し、自分たちで勝ち取るべき権利を、日本が取り除いて上意下達で与えてしまったので
自由と平等を手に入れたものの、中途半端な精神状態に陥ってしまったのだ。本来、女性に多い病気
だが、時に男性において発症すると、発狂、奇声、自傷、自殺、泡口、忿怒、激情、暴行等凶暴化す
る。朝鮮人による婦女暴行、いじめ虐待、暴力行使、殺人、リンチ事件が多いのはこのためだ。天国
だった日本統治が終わると、経験の無い自尊自立に戸惑い、そしてユダヤの支配。朝鮮人は、平和を
謳歌する日本人に少なからぬ嫉妬心がある。彼らが悪魔だという日本に移住して日本人になりたがる
のは嫉妬の裏返しだ。日本、日本人が嫌いなら、韓国に帰ればいいのだが、日本人に成りすまして日
本定住を心から希望する。朝鮮人にとって日本は天国なのだ。どう抗っても日本を越えることはでき
ない。ユダヤの属国といいながら、日本は欧米先進国に伍して劣る所がない一流国家だ。これからも
朝鮮人韓国人による凶暴犯罪はなくなることはない。
 在日朝鮮人有力者らの希望で、韓国人犯罪者は本名を知られることがない。通名で通せるから、刑
期を終えた後、また別の通名に変えれば善良な日本人に成りすませる。こんなことでは在日の犯罪は
なくなることはあるまい。もし朝鮮名で立候補したら1人として国会議員なることはあるまい。
 


■朝鮮人慰安婦問題(この問題を惹き起こしたのは高木健三弁護士)
 慰安婦とは、広辞苑の初版(1955)では「戦地の部隊に随行、将兵を慰安した女」と定義され
ている。大韓民国大法院の判決文(1966)では、「一般的に日常用語において、売春行為をして
いる女性を指すもの」と定義されている。制度としての慰安婦は、軍相手の「管理売春」という商行
為をおこなう存在であり、慰安婦には報酬が支払われていた。しかし韓国では日本の場合だけは無報
酬の性奴隷であったとする主張が主流だ。日本のケースでは民間業者が新聞広告などで広く募集する
などして日本人および日本人以外の女性に対しても売春婦として採用していたが、韓国などでは強制
連行だったなどと主張しており、強制的なものであったかどうかなどの点について論争が行われてい
る。慰安婦に関する問題は戦後すぐに起こったのでなく、昭和45年になってから、旧日本軍が戦地
の女性を強制連行し慰安婦にしたとする本がいくつか出版されて明るみになった。初期ウーマンリブ
の運動家田中美津の同年の著作に「従軍慰安婦という一大便所集団」の「大部分は朝鮮人であった」
「貞女と慰安婦は私有財産制下に於ける性否定社会の両極に位置した女であり、対になって侵略を支
えてきた」という記述がある。同48年には千田夏光『従軍慰安婦』(双葉社)が刊行され、朝鮮人
女性が20万人連行され、その内5~7万が慰安婦とされたと書いた。後のアジア女性基金調査(高
崎宗司)によれば、これはソウル新聞の記事の誤読ではないかとし、また数値の根拠は不明としてい
る。同51年には『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(金一勉著:三一書房)などが出版された。
 ただ田中美津・千田夏光なる日本人、田中・千田姓は韓国人が通名として用いる例が多い。
 いわゆる慰安婦論争が再燃する契機となったのは、目立ちたがり屋の元陸軍軍人の吉田清治(本名
吉田雄兎)が自著『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 昭和52年)で、「軍の命令で自身が
韓国済州島で女性を「強制連行」して慰安婦にした」と告白し、さらに同57年に樺太裁判で済州島
で朝鮮人奴隷狩りを行ったと証言し、同58年7月に戦中済州島で自ら200人の女性を拉致し慰安
婦にしたと証言する『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房)を出版したことに始まる。同年
11月10日には、朝日新聞が「ひと」欄で吉田清治を紹介した。しかしこの吉田の著作内容は、後
に済州新聞の許栄善記者や秦郁彦らの調査の結果、捏造であることが明らかになり、吉田本人も嘘の
創作と認めることとなるが、慰安婦問題は著作を離れ一人歩きすることとなる。
 同59年には韓国で宋建鎬が挺身隊として動員された女性は20万人であり、そのうち5万から7
万人が朝鮮人だった(数値は千田書と一緒)とする、同44年の韓国日刊紙の報道を「日帝が挺身隊
の名目で20万人の朝鮮女性を連行し、そのうち5万から7万人を慰安婦とした」と置き換えて報じ
たことを発端として、現在では、北朝鮮は朝鮮女性20万人が強制的に慰安婦にされ、840万人が
強制連行されたとし、大韓民国国定教科書は数十万人の朝鮮女性が強制的に慰安婦にされ、650万
人の朝鮮人が強制的に動員されたとしている。これらの韓国・北朝鮮両政府の公式見解について、李
栄薫ソウル大学教授は、昭和15年当時の16歳から21歳の朝鮮女性は125万人であり、20歳
から40歳の朝鮮人男性は321万人であるためこれらの数値は正しくないと指摘している。
 また当時、朝鮮人の犯罪組織による少女誘拐人身売買が横行しており、それら犯罪組織が数多く摘
発されており、それらを日本軍または日本人が行ったと喧伝し、それが強制連行として騒がれること
にもなっている。慰安婦は朝鮮でも募集され、それを掲載した京城日報や毎日新報などが残ってる。
この募集に朝鮮女性が進んで応募しており、強制連行ではない面もある。そしてそれらのことに日本
軍は全く関与していないことが、現在では明らかになっている。
 しかし吉田はその後も嘘を公演して回り、公演料を稼いだ。
 この吉田証言は日本官憲が女性を徴発したとする今日の韓国人の集団的記憶形成に決定的に寄与し
たといわれ、平成24年9月5日にも韓国最大発行部数を誇る朝鮮日報は吉田清治の手記を取り上げ
「この本一冊だけでも日本帝国主義の慰安婦強制連行が立証されるのに十分である」として再び強制
連行の証拠であると主張している。日本人でこの問題を騒ぎ立てる者は、私利私欲であり、そこにあ
るのは商魂のみだ。これらの被害は「敗戦の宿命」であり、戦争をおっ始めて敗戦を約束した昭和天
皇の責任だ。東條英機はシンガポールが陥落した時、アメリカが和平の用意があると報告したが、昭
和天皇は取り合わず、戦争遂行を命令している。天皇は戦争責任を軍に押し付け、自らは平和主義者
を装って戦後に君臨し続けた。ロスチャイルドと結託して・・・ 昭和天皇が連合軍から戦争責任を
問われなかったのは、英国王によるマッカーサーへの指令があったからだ。
 軍が慰安婦を強制連行するということがありえないないのは、軍というものの性格にある。軍は命
令で動くもので、軍命令は書類で表示される。20万人を拉致するということは一大作戦であり、口
頭でなされるようなプロジェクトではあるまい。兵士1人を動かすだけで予算が伴う。しかも戦場で
「死ね!」と平気で命令する軍が、兵士の下の世話に頓着しようか。さらにいうなら軍行動、作戦は
機密事項だ。出兵の際、軍は何処の部隊が出動したのか隠蔽しカムフラージュするのだ。清純無垢な
女性を力づくで連れ去るということは、その女性たち、その家族の恨みを買うということだ。そんな
ところで兵士がうろうろしていたら機密はボロボロと漏れてしまうだろう。軍が最も恐れるのは機密
漏洩だ。もし日本軍が20万人もの韓国女性を拉致したのなら、戦後、李承晩政権下、猛烈な反日教
育を行った際、そのことを声高に叫ばなかったのか? 
 しかし拉致がなかったとはいうまい。韓国が慰安婦問題で騒ぎ立てるのは、日本人弁護士高木健三
の申し立てに韓国政府が乗ったからだが、インドネシアは乗らなかった。女性が拉致されて消えてし
まったということは、実は日本であったのだ。からゆきさんという海外へ売られた売春婦だ。日本郵
船はその任に当たるために作られたという。そしてその利益は天皇家の財産となったという。天皇家
の財産というのは、天皇の私有財産と見せかける国家の別勘定だ。その数値は無限大、ロスチャイル
ドなど足許にも及ばない。幕末に無一文だった天皇家がたった100年ほどで世界一の財産を稼ぎ出
す訳もなかろう。当然、戦争に託けて金銀宝石の強奪、武器・麻薬・人身の売却によってぼろ儲けし
たものを別勘定として天皇家の財産とした。そのことを隠蔽するために、今は消滅してしまった日本
軍の犯罪としたのだ。

 ●日本を悪者にしなければならない韓国の売春事情
 不思議なことだが、韓国は日本軍が朝鮮娘を強制連行したと騒ぐ。ならば日本軍は、当時支配下に
あった台湾、満州、中国では何故強制連行しなかったのだ。平成19年韓国で初めて「売春禁止法」
が施行される。韓国女性は大ブーイングだ。そして「売春は個人の自由権だ」として国を訴える。つ
まり世界の常識では韓国は「売春天国」だ。韓国女性の売春騒動は、ベルロシア、アメリカ、アルゼ
ンチン、オーストラリア、中国などで国際問題になっている。韓国女性の売春出稼ぎだ。留学と称し
て集団で売春をしにやってくる。アフリカ諸国にまででかけているらしい。
 確かに、法施行後、韓国内の売春は激減したが、韓国娘は近隣諸国に散っていった。朴大統領はそ
れを認めて、「日本には20000人が渡航した」と吐露した。西村真悟議員が「大阪には、韓国女
性の売春婦がうじゃうじゃいる」と発言して顰蹙を買ったが、真実なのだ。
 では何故韓国女性は売春を是とし、公然と売春することに抵抗感や罪悪感がないのは何故なのか。
朝鮮は800年に亘る中国の属国だったことに起因する。つまり朝鮮人民は中国の支配下にあって圧
政に苦しめられ続けた。李氏朝鮮の階級社会は両班(リャンパン)と白丁(パクチョン)に大別され
両班は支配階級で、白丁は奴隷階級だ。白丁とは「白衣をまとった者」の意、染物を着ることができ
ない貧乏人ということだ。中国支配のため染色技術が発展しなかったためだ。白丁は当時の国民の7
から8割を占め、その生活は困窮悲惨を極めた。であれば、生活費を稼ぐのに妻や娘が体を売ること
は自然の成り行きで、東洋では売春に対する戒めはない。日本でもその風潮はあった。となれば売春
業者が専業化し、権利を持つ。つまり売春は専門の業者しか行えない特権なのだ。日本軍がしゃしゃ
り出て、朝鮮娘を連れ去って駐箚地外に慰安所を設置するなんぞ、やろうにもできない相談なのだ。
朝鮮の業者が指を銜えて黙って見ている訳がなかろう。
 800年の奴隷状態で、朝鮮人も韓国人も、WHO(世界保健機構)が認める風土病「火病(ファ
ビョン)」を患う。理由もなく激高する病だ。在日の凶暴性、残虐性はこの火病のせいなのだ。
 韓国人には、日本に対する極めて強い劣等感がある。何をやっても日本が上にいる、先行する。羨
ましい、口惜しい。何とか一矢を報いたい。韓国人・朝鮮人はいつもそう考えている。国内で売春は
恥ずかしいことでなくとも、国際的には忌むべきことなのだ。韓国女性の名誉を守るために、売春的
なことの悪徳は日本に押し付けようと考えるのは朝鮮人韓国人の思考として普通だ。
 逆立ちしても日本に追いつくことのできないジレンマ。韓国人・朝鮮人が詩の語のいうのは放っと
いてやろうじゃないの。正々堂々本名を名乗れない臆病者たち。日本名を名乗ることで日本人に成り
すますしかない宿命。属国根性を今以て捨てられない哀れな民族に憐憫の情を・・・
 
朝鮮統一
 今、ロスチャイルドが朝韓合体、中国4分割を画策しているという。朝鮮統一は北朝鮮による韓国
併合で、北朝鮮主導の「大高句麗国」「大高麗国」となる。その布石が拉致事件で、拉致事件は横田
めぐみの渡鮮をカムフラージュするためだ。めぐみはそんじょそこいらの朝鮮娘ではない。李氏朝鮮
王家の正当な血を受け継ぐお姫様なのだ。彼女は金正日の子供を産むために北へ行ったのだ。けして
拉致されたのではない。横田夫妻も承知した上、日米両政府も見て見ぬふりの茶番劇なのだ。蓋し金
正恩の母親は横田めぐみだ。何故なら統一国家の盟主は金正恩と決まっているからだ。朝鮮王朝の血
筋なら韓国国民は金正恩を盟主と認めざるを得ないだろ。

 
●慰安婦像は何故中学生の制服を着ているのか? 隣の椅子は?
 一つに、像が中学生であるのは、元々が慰安婦(妓生)をモデルとしていないためと、隣の学校の
椅子の意味が「2人」を示すためである。もし売春婦像ならば、もっと大人の韓国美人でも良かった
ろう。
 平成14年6月14日、大韓民国京畿道揚州郡現(楊州市)で、議政府駐韓米軍基地に帰ろうとし
ていた米第二歩兵師団所属の装甲回収車(M88)が、公道で女子中学生2名を轢死させた。
 6月19日、同師団は韓米合同調査結果を発表した。米軍側は、故意や悪意によるものでなく偶然
の悲劇であったことを強調。一方で事故原因として、回収車の構造上右方に死角があり、操縦手が学
生たちを見つけることができなかったためであるとした。また、カーブを回った際に管制官が約60
m前方に学生たちを見つけ操縦手に警告を試みたが、騒音や他の無線交信などにより不可能だったた
めであると報告。また、回収車は低速度でまっすぐ走行しており、急な方向転換が事故の原因だとす
る遺族の主張を否定した。愚かな米軍はこれで逃げ切る算段だった。これが日本ならこれで終息した
ろうし、国民が米軍に怒りをぶつけるということは起きない。泣き寝入りだ。
 米軍のこの発表は、遺族らの疑問に応えていなかった。まず死角ができた、あるいは通信障害が起
こったということは考えにくいと指摘された。また低速度で走行していたら学生を轢いた時点ですぐ
に制動装置が作動していたはずだが、実際は学生の頭骨が完全に砕かれており矛盾が生じていた。さ
らに道路のアスファルト舗装の割れは、回収車がまっすぐ走行していたという点と矛盾していた。
 その後、聞き取り調査の際に示された走行速度の半分の値で発表していたことが明らかになった。
6月28日には同師団の広報がラジオを通して「誰も責任を負うに値する過失がなかった」と述べ釜山たが、それを非難する世論が拡大した。韓国人は米軍が大嫌いである。
 事態が深刻化したため、アメリカ首脳は7月3日、操縦手と管制官を過失致死罪で米軍事法廷に起
訴する一方、ラポート在韓米軍司令官が謝罪した。また米軍とは別に韓国側の検察も関与した米軍兵
士たちに対して独自調査を開始した。なおこれは遺族たちが6月28に回収車の操縦手・管制官と師
団長など米軍の責任者6人を業務上過失致死容疑で議政府地方検察庁に告訴して、アメリカ側の裁判
権放棄を要請したためである。しかしアメリカ側はこれに応じなかったため、大韓民国法務部は7月
10日、史上初めてアメリカ側に裁判権放棄要請書を送付した。しかし8月7日、アメリカ側は「米
軍としての公務中に起こった事故で、今までアメリカが裁判権を放棄した前例はない」として裁判権
放棄の要請を拒否した。
 併し、韓国民は火病を発症した。激越なる反米デモ展開、特に12月6日、ソウルで3万人あまり
が参加した集会では、警察を振り切ってアメリカ大使館への進出に成功した。また12月14日に釜
山で開かれた集会では、釜山の在韓米軍基地の後門がデモ隊によって突破され、正門でも警察を突破
した。この以外にも全国各地で、さらには国外でも在韓米軍を追及する集会が開かれたこうした運動
の高まりに危機を感じたアメリカ政府は11月27日、在韓アメリカ大使を通じてブッシュ大統領の
謝罪を伝え、12月13日にもブッシュ大統領が金大中大統領との電話で再度遺憾の意を示した。不
平等だという批判があった韓米政府間の地位協定是正することにも合意した。しかし国民の怒りは鎮
まらなかった。アメリカ政府は当時の指揮官ら4人を懲戒処分にした。また遺族たちは国家賠償を請
求し、それぞれ1億9千万ウォンあまりの賠償金を得た。
 この騒動の過程で、登場してきたのが例の少女像だ。米軍基地正門前に設置しようと身構えた。と
ころが、像が出来上がる前に、米軍が金を払って問題は解決してしまった。
 振り上げた拳の下げ処に困ったのが銅像の製作者だ。金運成(キムウンソン)金龧炅(キムソギョ
ン)夫妻で、慰安婦像として、鍾路区長金永椶(キムヨンジョン)のアイデアに基づいて製作したと
主張。金区長は、記念碑なら道路専用許可が必要だが、慰安婦像なら芸術品なので許可対象ではない
とし、チマチョゴリ、大使館をみつめる視線、木製の椅子と隣の空席の椅子、など慰安婦像の基本構
想を出したと説明している。つまり米軍向けのものではないとの言い訳だ。というか、世界中見渡し
ても、戦争状態にあるならいざ知らず、友好国だと主張する隣国に、訳の分からぬ思想を振りまくの
は韓国だけで。隣国に対して強記の振る舞いは韓国一国のみである。
 平成31年大村秀章愛知県知事が、愛知トリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」を
開催しようとしたが、昭和天皇に対する侮辱写真や動画があることや、韓国の慰安婦像を展示するこ
となどが知れ渡り、国民の大反発を買って中止をせざるを得なくなり、発表した。これにより文部省
は国民の血税を使うに忍びないとして支援を撤回した。大村は、県のみで主催することとして、再開
したが、1日60人を限度とした。大村が、反日にこだわる理由は、彼自身が韓国からの帰化人で、
自民党の名簿で「帰化国会議員」の項に分類されているという。朝鮮人ならしゃあないわな。


スマイリーキクチ誹謗中傷被害事件
 お笑いタレントのスマイリーキクチが、女子高生コンクリート詰め殺人事件に関与した等とする、
いわれなき誹謗中傷被害を長期間にわたって受けていた事件である。近年目立つようになった、イン
ターネット上での誹謗中傷被害で加害者が一斉摘発された日本で初めての事件であると同時に、被害
者がタレントであったことなどから全国紙やテレビニュースでも大きく扱われ、ネット上における中
傷被害の深刻さが一般に広く認識されるきっかけとなった。

 
スマイリーキクチ
 日本のお笑いタレント。本名は菊池聡。北千住出身。太田プロダクション所属。平成5年体育専門
学校時代の友人と「ナイトシフト」というお笑いコンビを組んで、『GAHAHAキング 爆笑王決
定戦』(テレビ朝日)に出演。およそ1年半コンビとして活動した。その後ピン芸人へ転向。ニコニ
コしながら毒をはいて笑いをとる、毒舌漫談のスタイルが特徴。ボキャブラ時代は仲本工事に似てい
る事をしばしばネタにしつつも、番組内で元ヤンキーであることを暴露されてからは、自身を弄った
共演者を笑顔で恫喝する(穏やかな口調ながら物騒な言葉を吐く)という雛壇ギャグも行なった。
 一時期、静岡のローカル情報番組でMC(master of ceremonies 進行係、司会者)を務めた。同
16年頃から韓国の俳優ヨン様ことペ・ヨンジュンに似てるということで、彼の真似をするようにな
り急に忙しくなった。格闘技、外車、古着コレクションなどの趣味があり、これらの趣味を仕事に生
かしている。同23年6月に恋人だった一般女性と入籍した。

 事件の顛末についての詳細は、以下、ウィキペディアから抜粋。

 発端
 スマイリーキクチは平成11年春から、彼が女子高生コンクリート詰め殺人事件に関与した犯人で
あると信じている者たちからインターネット上の匿名掲示板などで中傷されるようになった。平成元
年に発覚したコンクリ事件は犯行形態から世間を震撼させた凶悪事件でありながら、犯人たちが未成
年であったために少年法の規定により、犯人の実名が匿名報道となって世間に広く知られることはな
かったため、ネット上には様々な手法で調べた犯人のプロフィール(実名、職業、友人)を載せて世
間に広めるなどして、犯人を糾弾をする者たちが存在した。しかしコンクリート詰め殺人事件の犯人
に対する糾弾が繰り返されるうちに、いつの間にかネット上では「出身地が犯行現場である足立区」
「犯人グループと同世代」「10代の時にグレていた」芸能人であるキクチがコンクリート詰め殺人
事件の犯人として扱われるようになっていた。キクチは「事件現場の綾瀬は自分の生まれ育った地域
からかなり離れており、成人式の時に一度行ったきりで土地勘が全くない。同3年年1月1日付けで
足立区民で成人を迎えた男子は6334人で、区内の同世代なんてごまんといる」という。なお読売
新聞などの一部報道で所属先事務所がキクチを「足立区出身の元不良」なる謳い文句で売り出してい
たのが中傷のきっかけであるとされたが、バラエティ番組への出演で元ヤンキーだったことが紹介さ
れる機会が2度あった際に「中学時代のヤンキー姿の写真」が出たことがあるものの、所属事務所が
元不良で売り出したことは否定している。さらに「キクチはコンクリート詰め殺人事件のことをお笑
いのネタにした」という事実無根の書き込みがあり、それを信じた者たちが匿名でネットに「キクチ
はコンクリート詰め殺人事件に関与したにもかかわらず、反省もせずに芸能人として堂々とテレビに
出続けてる」「それだけでなく、キクチはコンクリート詰め殺人事件のことをお笑いのネタにした」
としてキクチを中傷していた。ネットでの中傷は匿名掲示板の2ちゃんねる、キクチの所属事務所の
電子掲示板に及んだ。

 警察へ(1)
 マネージャーからこれを知らされたキクチは「あまりにもくだらない」として当初取り合わない心
算だったものの、念のため所属事務所のホームページ上で「コンクリート詰め殺人事件への関与」と
「コンクリート詰め殺人事件をお笑いのネタにした」噂を否定したが、ネット上では逆に「やってな
い証拠を出せ」「火のない所に煙は立たない」と反論されるなど、中傷は止まらなかった。同年6月
にキクチから相談を受けた警察は脅迫罪の恐れがある書き込みを捜査して、管理者にブログを開示さ
せるなどして中傷書き込みをした3人の実名を判明させたが、それらはキクチが今までに聞いたこと
もない名前だった。当時はインターネットのセキュリティがかなり甘い時代だったため、実生活にお
ける人間関係の悪化などの中傷する動機などの他の証拠がない限り立件できず、これ以上の捜査は断
念されることとなった。キクチの所属事務所は中傷コメントで荒らされたために自社の電子掲示板を
閉鎖したが、2ちゃんねるなど他のサイトで書かれた中傷記載についての削除依頼は管理人に断られ
た。この中傷により、コンクリ事件キクチ犯人説を信じた視聴者から業界関係団体(テレビ局や番組
スポンサーやCMスポンサー)に「殺人犯をテレビに出すな」との抗議が増えるようになり、キクチ
が舞台に上がると観客がヒソヒソ話やざわつくようになる異様な空気になった。

 ブログ
 平成20年1月にキクチはブログを開設した。開設理由は「ネットでさんざん嫌な思いをしたが、
ふとブログで自分の言葉を発信すれば、『殺人犯スマイリーキクチ』の汚名を晴らせる」と思ったた
めだった。しかしブログ開設直後からブログのコメント欄にキクチをコンクリート詰め殺人事件の犯
人扱いをする中傷書き込みが殺到する。キクチは当初は自分で中傷コメントを削除していたが、後に
コメントを承認制に変更。コメント承認制にしたため、ブログの中傷コメントは不特定多数に読まれ
ることは無くなったが、コンクリート詰め殺人事件関係者をハンドルネームにしたり、コメントを縦
読みするとキクチを中傷する言葉になるようにコメント投稿する者や、キクチに好意的なコメントを
した女性が運営するブログのコメント欄にコンクリート詰め殺人事件キクチ犯人説を書き込む者、会
員制交流サイト「mixi」やネット百科事典「ウィキペディア」にコンクリート詰め殺人事件キク
チ犯人説を書き込む者、事件と関係のない内容のサイト(例へば盲導犬、大学のサークル、ピアノの
発表会等)の掲示板でコンクリート詰め殺人事件キクチ犯人説を書き込む者が現れるようになった。
また見えない相手からの中傷に不安を感じたキクチは、ブログで翌日にライブ出演する会場と出演時
間を告知した上で「ブログの内容と関係のない質問がある方は、ライブ終了後に会場正面口で声をか
けていただいたら、どんな質問でも必ず承ります」と面と向かって質問を受け付ける場を設けたが結
局誰も質問に来ず、身元不明の中傷集団に一層ストレスを感じることになる。また他の芸能人が番組
収録中の話や出演番組の放送日時告知等のブログ更新をするなどして芸能活動宣伝をしている中で、
キクチは中傷を受けていたために芸能生活と関係のない私生活の内容のブログ更新をする日々が後述
の同20年8月の中傷書き込みに対する刑事告訴の警告をする日まで続いた。これは前述のようにテ
レビ局や番組スポンサーやCMスポンサーに「殺人犯をテレビに出すな」旨の抗議が殺到し、業界関
係者等に迷惑をかけることを懸念したためだった。

 元刑事の本
 元警視刑事のテレビコメンテイター北芝健が同17年に出版した著書『治安崩壊』の中に、コンク
リート詰め殺人事件の犯人について

   少年グループの一人は刑期を終えた後、同16年7月、再び恐喝事件を起こして逮捕され
   た。勿論社会復帰したのは、この1人ではない。一足早く出てきた別の男は、お笑い系の
   コンビを組んで芸能界にデビューしたという。


 との記述があった。北芝の本で「お笑い系のコンビを組んで芸能界でデビューした犯人」について
実名などの個人を特定する詳細なプロフィールは書かれなかったが(北芝は情報源を全く明記せず、
北芝のこの記述以外に同様の指摘をした記事や書籍が存在しないことから、キクチは、

   お笑い芸人としてデビューした元犯人は実在しない

 としている、この記述はお笑いコンビとして芸能界デビューしたキクチを連想させる表現だったた
め、ネット上ではコンクリート詰め殺人事件キクチ犯人説の根拠とされた。これによりネット上での
キクチへの中傷が過熱し、コンクリート詰め殺人事件キクチ犯人説を信じた視聴者から業界関係者へ
の抗議が増えるようになった。同20年4月4日に『治安崩壊』を読んだキクチは、中傷犯たちがコ
ンクリ事件キクチ犯人説を本気で信じていることに気付き、彼らに襲撃されることを懸念し、仕事仲
間や知人と酒を飲むなどの付き合いを減らし仕事が終わればすぐに帰宅したり、恋人と頻繁に連絡を
取り合って一緒に帰宅したり身辺の安全を確認するようになった。

 警察へ(2)
 キクチは再び警察に相談することを決意。同20年4月からキクチは警視庁のハイテク犯罪対策捜
査センターや管轄警察署の生活安全課に相談したが、「本気でコンクリート殺人事件の犯人と信じて
いる人はいない」「削除依頼をして様子を見ましょう」「様子を見ればネット誹謗中傷は落ち着く」
「(芸能人だから)有名税みたいなもの」「(中傷コメントは)遊びだと思う」「(キクチさんは)
インターネットなんてやらなければいい」「殺されそうになったとか、誰かが殺されたとかがないな
ら刑事事件にできない」「殺されたら捜査しますよ」といわれて相手にされなかった。キクチは知人
に弁護士を紹介されるも、その弁護士から「中傷書き込みをした者を特定するために掲示板管理者か
ら発信者のログを開示してもらい、接続業者が発信者の個人情報を開示する必要がある」「掲示板管
理者と接続業者が開示を拒否した場合は訴訟になるが、裁判所が開示命令を出すとは限らない」など
相当の根気と労力が必要と説明され、「身の潔白を証明することを世間から注目される」ために北芝
の本と出版社を相手に自分が風評被害に遭っていることを訴えることを検討し始めた。4ヶ月後の8
月に、キクチは別の部署である管轄警察署の刑事課に相談。管轄警察署の刑事課は前述の部署とは違
い、刑事事件化に向けた対応を取った。警察のアドバイスを受けてキクチは8月15日付のブログで
「自分はコンクリ事件とは無関係。今後誹謗中傷の書き込みをしたら刑事告訴する」と警告する文章
を提示し、それでもキクチに対して誹謗中傷の書き込みをする者に対して強制捜査権を持つ警察がイ
ンターネットの発信記録から発信者を特定して検挙することとなった。この際、担当刑事がコンクリ
ート殺人事件に関する資料を取り寄せ、犯人及びその仲間に「きくち(菊池・菊地)」という名前が
ないことが確認された。キクチは警察が動いたことで北芝の本と出版社を相手に訴訟を起こすことを
止める代わりに、中傷犯への対策として北芝の事務所と出版社にコンクリート殺人事件犯人説の風評
被害を受けたことを理由に出版差し止めと謝罪広告を求める内容証明を8月27日に通達。9月に北
芝の事務所と出版社から「記載された文章から一般読者がキクチ氏をコンクリ事件の犯人と認識する
ことはないため、出版差し止めと謝罪広告を拒否する」旨の回答が出され、「キクチ氏とコンクリー
ト殺人事件は無関係」の見解が出た。

 犯人
 キクチは中傷犯たちを「キクチを本気で殺人犯、強姦の共犯者と思い込んでいる者」「どうにかし
て殺人犯、強姦犯の共犯者に仕立て上げたい者」「犯行に異常な興味を抱く者」と考えていたが、一
連の中傷被害において姿を見せない中傷集団にストレスを感じていた。しかし警察が動いたことで状
況は大きく動いた。警察が最初に身元をつきとめた中傷犯は、最初は「二度としません」と反省した
が、その3時間後にはまたネットで中傷を書き込むなどした。当初、警察はネットの中傷は注意をす
れば収まると考えていたが、その後ネット中傷依存が深刻ととらえ「悪質性の高い書き込みを厳選し
て、該当する者は一斉摘発する」方針に変えた。

 検挙
 平成20年9月から同21年1月までに、キクチに対する中傷犯19人が検挙された。中傷犯たち
は関東だけでなく宮城県や滋賀県や大阪府にもおり、北は北海道から南は大分県まで全国に幅広く存
在し、警視庁の刑事が実際に出向いて摘発した。年齢は半数近くが30代後半だったが上は47歳か
ら下は17歳でいた。男性だけでなく女性も含まれており、女性の中には妊娠している者もいた。精
神の病に罹って者が4分の1近くいたが、それ以外には仕事や家庭を持つ社会人がおり、国立大学の
職員、国家公務員、大手企業のサラリーマン、会社セキュリティ部門の責任者、会社の通信機を利用
して中傷コメントを書き込んだ者もいた。取り調べをした刑事は、中傷犯たちについて「どこにでも
いる、おとなしそうな感じだった」、キクチは警察から見せられた中傷犯たちの顔写真について「怪
しい目つきの2人を除き、何処にでもいる普通の人」という印象を持った。中傷犯たちは実際に起き
た殺人事件とは何の関係もなく、互いの中傷犯同士や被害者のキクチとも実生活で一切面識がなかっ
た。中傷犯たちは警察に問い詰められると最初は「やっていない」とシラを切った。警察から契約し
ているプロバイダ名やブログに投稿した時刻、コメント内容などの証拠を突きつけられると、「自分
がやった」と認めたが、友人や同僚・知人の所為にして辻褄が合わなくなった挙句、ようやく認める
者もいた。

 動機
 コンクリート詰め殺人事件キクチ犯人説を信じていないが面白半分でやった、という1人を除き、
中傷犯たちはインターネット上で流布されていたキクチ犯人説を信じていた(前述の北芝の本を根拠
としていたのは8人)。警察は彼らに対し、

   キクチとコンクリート詰め殺人事件は無関係で、インターネット上のキクチ犯人説は事実
   無根だ


 と知らせた上で、北芝の所属事務所と本を出版した河出書房新社からの、

   キクチ氏とコンクリート詰め殺人事件は無関係

 とする内容証明を見せた。すると中傷犯たちは

   「インターネットに騙された」
   「本に騙された」


 と責任をなすりつけ、

   「仕事、人間関係、離婚など私生活で辛いことがありムシャクシャしていた」
   「キクチはただ中傷されただけだが、私生活で辛かった自分のほうが辛い」
   「他の人は何度もやっているのに、なぜ一度しかやっていない自分が捕まるのか」


 と被害者意識を露わにした。「言論の自由」を主張した中傷犯は刑事から「表現の自由なら自分の
名前が書かれてもよいのか」と問われると「キクチは芸能人だから書かれてもよいが、自分は一般人
だから嫌だ」と無責任な発言をした。中傷犯への取り調べの様子を刑事から聞かされたキクチは、彼
らについて

   『情報の仕分け』『考える力』『情報発信者を疑う能力』の3つが欠如している
   他人の言葉に責任を押し付けるが、自分の言葉には責任を持たない


 という共通点があるという感想を持った。なお警察から取り調べを受ける中で自分が起こした中傷
や脅迫を反省して「本人に謝罪したい」と言う中傷犯が数人いたが、実際にキクチの所属事務所へ本
人宛ての謝罪文を送った者はいなかった。同21年2月5日にテレビ、新聞、スポーツ紙などの複数
のメディアでキクチへの中傷事件が報道された。事実無根の誹謗中傷をした中傷犯を一斉摘発するの
は、警察庁によると「聞いたことがない」事案であった。

 結果
 この報道で、警察が「キクチはコンクリート詰め殺人事件と無関係」であることを発表したため、
インターネットではコンクリート詰め殺人事件キクチ犯人説は事実無根の中傷であるという認識が広
まり、キクチへの中傷書き込みは激減することになった。またこの報道の少し前から韓国の俳優が相
次いで自殺した理由の1つにインターネットにおける中傷があると報じられており、ネットの中傷被
害が世間に広く認知されるきっかけとなった。同3月27日までに起訴できる見込みがあると警察が
判断した7人の中傷犯が検察に書類送検された。

   神奈川県川崎市 29歳の女性派遣社員(脅迫容疑)
   大阪府高槻市  45歳の国立大学男性職員(名誉毀損容疑)
   東京都東村山市 46歳の会社員(名誉棄損容疑)
   埼玉県戸田市  36歳の会社員(名誉棄損容疑)
   神奈川県横浜市 46歳の左官業経営者(名誉棄損容疑)
   埼玉県入間市  36歳の男性鉄筋工(脅迫容疑)
   東京都練馬区  23歳の元パート女性事務員(脅迫容疑)


 同22年1月1日に検察から「キクチに対する誹謗中傷や脅迫の書き込みをした人たちは他にもお
り、一部の人だけを起訴すれば不公平」として、3人の中傷犯に起訴猶予処分(名誉棄損容疑2人・
脅迫容疑1人)、4人の中傷犯に嫌疑不十分の不起訴処分(名誉棄損容疑2人・脅迫容疑2人)が下
された。

 
キクチの書いた本
 『突然、僕は殺人犯にされた - ネット中傷被害を受けた10年間』竹書房から出版されている。
 この本を下地に、日本テレビの番組『ザ!世界仰天ニュース 年またぎ年末年始2連発 奇跡は起
きた! 3時間20分SP』が、平成24年12月19日(水)19時00~22時14分の放送の
中で再現ドラマとして放映された。

 飯島愛
 タレントの飯島愛もネット上で「出身地の江東区が犯行現場の足立区に近い」「犯行グループと年
齢が近い」「10代にグレていた」ことを理由にコンクリート詰め殺人事件犯人グループの仲間やコ
ンクリート詰め殺人事件犯人の元恋人として扱われ、ネット上でキクチ同様に事実無根の中傷を受け
ていた。飯島はブログで犯罪関与を否定している。キクチと飯島は何回か仕事の番組収録中に話をし
た程度でありプライベートの交流はゼロで連絡先も知らなかったが、インターネット上では事実無根
の中傷をする者たちによって「キクチと飯島はかつては犯人グループの仲間同士だった」と扱われて
いた。飯島の急死が平成20年12月24日に突然発表されたことを受けてインターネットの検索サ
イトで「飯島愛」を検索する者が増えたが、その際に同時に検索されることが多い関連キーワードと
して「スマイリーキクチ」があり、ネット検索で「飯島愛」と「スマイリーキクチ」を結びつけたの
が「2人がコンクリ事件に関与した」旨の事実無根の内容であった。飯島の急死が報道されたことを
きっかけに、「飯島愛」でネット検索をしてネット上のコンクリート詰め殺人事件キクチ犯人説を目
にする者が多くなり、その時にキクチ犯人説を初めて目にして信じた者が匿名掲示板でキクチへの脅
迫書き込みをして警察に摘発される事例もあった。
 
 


 【伊興】(いこう)1~5丁目                   昭和62年10月10日
 伊興村。明治22年「市制町村制」により南足立郡淵江村の大字となったものの、2年後に独立
して南足立郡伊興村となり、昭和7年足立区が成立すると伊興町谷下・伊興町聖堂・伊興町五庵・
伊興町狭間・伊興町白幡・伊興町前沼・伊興町見通・伊興町大境・伊興町諏訪木・伊興町五反田・
伊興町本町・伊興町吉浜・伊興町一丁目・伊興町番田・伊興町京伝・伊興町槐戸の16町に分かれ
戦後に至る。昭和62年伊興町本町・伊興町大境・伊興町見通・伊興町諏訪木と西伊興町の各一部
をあわせた町域を現行の「伊興」とした。それにしても○○が丘、××台と見てくれのみを追って
命名する軽薄短小の風潮の中で、伊興という古い地名を残した足立区は偉い。とにかくややこしい
ところがスッキリしたし万々歳だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 伊興の由来
 
由来は判んねえ。北部には弥生時代から人が住み着いたようで遺跡が公園として保存されてるよ。
古墳時代には大規模集落があったらしい。しかし当時「いこう」と呼んでいたかどうかも判らない
のだ。「やこう」なら荒地、湿地ということが考えられる。インドネシア語で解釈すると「イ・コ
ウ」は「丘のそば」だそうだが、これは地形上理に適っている。伊興の北方は毛長川の大湿地帯で、
字を「谷下」と書いて「やじった」と読む。読めネエヨ。僅かに『吾妻鏡』に地頭として伊古宇氏
が見える。その伊古宇にしてからが『姓氏家系辞書』には記載がない。いま竹の塚に谷古宇家があ
る。
 


■七曲り道
 伊興1丁目5番と西新井3丁目10番の接点を起点に北上し、伊興2、3丁目の間を行って、伊興
4丁目に突き当たる三叉路を終点とする曲がりくねった道をいう。緩やかなカーブなので曲りと感じ
ない所もある。南下すると本木から西新井橋まで至る。往時の幹線道路だった。


■神社 ◇
 伊興1丁目18番3号磯貝家の敷地にある小社。


■虐待殺人
 伊興1丁目18番14号コーポヨコタで起きた愛娘に対する虐待事件。平成30年3月8日、生後
2ヶ月の長女心愛(のあ)の額を指で弾く、所謂デコピンなどをして、怪我をさせた疑いで自称大工
の小林幸輝(20歳)が逮捕された。最近、続いているなぁ!
 事件は、娘の顔色が悪いことに気付いた母親の通報で病院に搬送されたが、心愛は3日後に死亡し
た。小林は、「寝ようとしたらうるさいのでデコピンをした」と犯行を認めている。近所の人は、娘
が生まれて喜んでいたという。


無量山源正寺(本尊:阿弥陀如来
 伊興2丁目2番35番(旧伊興町本町3099番地)にある新義真言宗豊山派の寺。往古、ここは
地蔵堂で、玄性寺と称した。境内に「南無阿弥陀仏、相阿弥陀仏、延徳三年(1491)六月三日」
と刻した板碑があるので、元は時宗だったのが、源正寺に合わせられたもののようだ。「新編武蔵風
土記稿」でもそう記している。本尊は地蔵菩薩。中興開山真海は明暦二年(1656)十月十七日に
示寂。現在は奈良長谷寺の直末。寺域から天文七年(1538)の板碑が出た。入口右に3地蔵、左
六地蔵。墓地の中に参道があり、50mほどで右折すると、柱が褐色に塗られた鉄筋コンクリート造
り造りの本堂。その右に庫裏がある。
 伊興七福神の恵比寿
 


■伊興図書館・伊興体育館・野球場
 伊興2丁目4番22号にある区の文化施設。
 


■西伊興小学校 ◇
 伊興2丁目6番1号にある。昭和46年水田跡にあった区の資材置場に校舎建設。同47年西新井
第二小学校から分離して「東京都足立区立西伊興小学校」として開校。同51年ブール完成。平成1
4年創立30周年。

 校歌「諏訪木の緑」 作詞・校歌作成委員会  作曲・高木東六
  1.諏訪木のみどり 風さわやかに
    明るい歌声 ひびかせて
    みんなよい子の 西伊興
    あなたもわたしも からだをきたえ
    いっしょうけんめい 勉強だ
    とても明るい 西伊興小学校
  2.輝く太陽 平和の光
    元気なかけ声 いさましく
    自主のあふれる 西伊興
    あなたもわたしも 力をあわせ
    いっしょうけんめい 伸びていこう
    とてもたのしい 西伊興小学校
  3.大地のみのり 豊かについて
    新しい道を きりひらく
    希望にみちた 西伊興
    あなたもわたしも はげましあって
    いっしょうけんめい はばたこう
    とてもすてきな 西伊興小学校
 


■伊興こもれび児童遊園

 伊興2丁目9番5号にある区立公園。


宝珠山妙撞庵(本尊:地蔵菩薩)

 伊興2丁目9番23号にある。堂の掲額に「地蔵堂」とある。こじんまりとした堂で、左に庫裏も
ある。「新編武蔵風土記稿」に、

   妙幢庵
   江戸湯島霊雲寺の末にて、今同寺塔頭寳光院兼帯せり、寳珠山と號す、近き頃まで地蔵堂
   なりしが、天明年中掃部宿の町人喜七と云者、資材を出して今の庵を修造し、若干の地を
   買て寄附せしと云。


 とある。


■若宮八幡宮(祭神:誉田別尊〈応神天皇〉 ◇

 伊興2丁目12番22号にある横沼厨子の鎮守。(応神天皇)だ。祭日は9月15
日。境内に古禄(第六天)神社・天満宮・三峯神社が移築されて摂社となっている。嘉永七年(18
54)銘の漱盥石がある。終戦後ぐらいまでは、厨子内を東西に分けて、年番が中心となって行事を
担当していたが、現在では町会主体となり、町会の神社部で祭などの行事を執行している。なお嘉永
七年(1727)八月銘の旗立台がある。
 


■伊興二丁目児童遊園

 伊興2丁目17番4号にある区立公園。


■小祠

 伊興2丁目17番7号山崎家の屋敷神。


阿遮山福寿院
(本尊:不動明王) ◇
 伊興2丁目18番18号(旧伊興町本町3009番地)、横沼厨子にある新義真言宗豊山派の寺。
もと西新井大師総持寺の末寺で、荒綾88ヶ所霊場の第45番札所。
 山門を潜ると右手に6地蔵が迎える。左側は併設の福寿院幼稚園で境内は共用。墓地の中の道が参
道になっていて正面に鉄筋コンクリート2階建ての本堂、これはなかなか立派なお堂で、屋根の天辺
に宝珠が光ってる。境内に朝比奈正清の石碑があり、

   妙法心正院孝親善定位 本国駿河 生国武蔵 朝比奈八右衛門藤原正清寛文十二壬子三
   月二十八日


 と刻してある。また弘治二年(1556)妙喜禅定尼の板碑が出た。
 伊興七福神福禄寿・寿老人
  


■稲荷社 ◇
 伊興3丁目7番143号にある小祠
 
 

寿福山長勝寺(本尊:日蓮上人定の大曼荼羅)
 伊興3丁目11番19号(旧伊興町大境1761番地)横沼厨子にある日蓮宗の寺。万治二年(1
659)の創建で、開山は智勝院日座上人、開基はこの地で代々名主を務めた旧家宮城清左衛門吉重
だ。千葉次郎勝胤の自邸の一部を寄進して建てたと伝わってる。日座は谷在家本応寺第10代日福上
人の法弟、清左衛門は武人で当地に住し、子孫は代々名主を務めた。本堂は瓦葺き総檜造り、境内は
樹木が生い茂り、樹齢400年以上の巨松がある。綺麗なお寺だ。近くの民家の裏にある千葉勝胤の
墓の維持管理はこの寺がやっているよ。


■伊興三丁目公園

 伊興3丁目14番6号にある区立公園。


■観音橋の馬頭観音 撤去
 伊興3丁目18番15号先を流れていた千住堀に観音橋という橋が架かっていたが、その橋詰、当
時あった横田たばこ店脇にあった。道路向かいの丸喜建設南の道を西に辿ると子育観音で有名な実相
院横沼寺がある。その寺への道標を兼ねていのだろう。この馬頭観音は実相院に移してある。
 


■稲荷社 ◇
 伊興3丁目22番19号にある小祠。幸野家の屋敷稲荷か?
 現在はアパート群の中にポツンとある。
  


苗間戸稲荷神社(なえまどいなりじんじゃ)
 伊興3丁目23番10号横沼厨子
にある。終戦後ぐらいまで稲荷講があり、初午の日には講中の家
に集まって酒を飲んだりしたが、経費が大変なので止めた。現在では町会の神社部が主体となって初
午を行っている。

 
黒松
 高さ20mの松。足立区の保存樹。竹ノ塚駅からも見えた高さの大木で、伊興のランドマークだっ
たが、近頃はマンションなど高層建築物が建ち、地元でもこの見事な黒松のことを忘れかけているぞ。
おいおいそれはないだろ。と思っていたら、高さ2mのところで伐り倒されてしまった。
 


■稲荷社2社 ◇◇
 伊興3丁目23番14号の南角辺にある無住の民家の敷地内北と南に2ヶ所ある小祠。 


■稲荷社 ◇
 伊興3丁目23番16号の藤波吉信家の屋敷神。 


■千葉次郎勝胤の墓(お千葉さま) ◇
 
伊興3丁目23番20号の藤波五家に囲まれた狭い路地の奥に寂しく1基の石碑が建っているが、
これは墓ではなく家臣が建てた供養塔だそうだ。王子道に沿っているところを見ると、何かを誇示し
たかったものか? 中世から戦国時代にかけて南関東に勇名を馳せた千葉氏は、各地で栄えたが、江
戸に太田道灌が伸してくると道灌に従い、その死後は小田原北条氏に従った。勝胤は文明三年(14
71)に生まれ、天文二年(1533年)に63歳で歿しているが、記録がなくその生涯は不明なと
ころが多い。佐倉城を本拠としたはずの勝胤の墓がここにあるのは不思議な訳だ。永禄二年(155
9)の「小田原衆所領役帳」に千葉氏の下足立における役高が出ていること、またこの石碑を建てた
者が、宮城三右衛門・市原四郎兵衛・宮城忠左衛門・常田次郎右衛門とあり氏姓から足立在方の家臣
団と思われることなどから、おそらくは主君の供養碑として建てられたものだろうと想像する訳だ。
それにしても簡素な碑であること、ここが1つだけの離れ墓地であること、不思議は多い。この辺り
は千葉屋敷と呼ばれていたことから、勝胤の屋敷があったのかもしれない。土地の人は千葉勝胤とは
呼ばず「お千葉様」と敬意を込める。墓地入口に掲げた長勝寺の説明板以下の通り。佐野新田の佐野
家は勝胤の末裔という。

   千葉次郎勝胤の墓
   千葉次郎勝胤は桓武天皇の皇孫高望王を祖とし、当上足立(渕江、伊興村、専住村、沼田
   村、保木間村)を領していたが、1564年(室町時代 永禄七年甲子)正月八日国府台
   の戦い(里見義弘と北条氏康との戦い)の折、岩槻城主太田三楽斎等とともに里見に味方
   し、当所の墓所近いモロコシ畑の中で討死したと伝えられる。         長勝寺
 


六万部経塚(題目塚)◇
 伊興3丁目23番31号の路傍にある。

   六万部経塚(題目塚)
   六万部とは法華経二十八部を繰り返し六万回に亘って唱える意味で「六万部経塚」の名の
   由来もここにある。
   寿福山長勝寺の第一世智性院日座聖人は千七百五年(宝永二年)国土の平和と、皇室の行
   く末の平安とこの土地の住民並びに檀信徒の末長き幸せを祈願し、小石に題目を書写して
   この土地に埋めたとされる。
日座聖人と聖人が始めた題目講の信者は、昼夜の別なく法華
   経を読誦しその法聲は周囲に響きわたって、多くのものの信仰を集めるに至ったという。
   以来土地の者は、この地を六万部と称し、諸願の達成を願うところとなった。
   古くからある
塚碑には、「宝永二年霜月十三日立」とある。平成三年長勝寺第四十二世・
   慈海院日和上人の時代にこの経塚を整備再建し、「南無妙法蓮華経」の題目を書写した法
   塔が建立されることになり、改めて世界平和、国土安穏、法華経弘通、参詣者の諸縁吉祥
   心願満足が祈念された。
   「南無妙法蓮華経」とは、天地一切を貫く「真理」であり、万物の母なるものである。こ
   の前に一切の宗派なく、われも他人もともに絶対平等の命を現すことができる。
   この法塔功徳が万人に至ることを祈るものである。
   この一大事業が成し得たことは母なる妙法と父なる釈尊の加護と感謝し、またこの再建に
   助力を寄せた多くの方々に厚く御礼の意を表し、その名を法塔の基盤に永く記すものであ
   る。
   平成3年10月13日                   壽福寺長勝寺第四十二世
                                      飯島玄明記
 


■庚申塔 ◇

 伊興4丁目6番12号にある。青面金剛。元禄五年(1692)「奉待庚心講」一鬼・二鶏・三猿
を刻む。手書きの由来説明が貼ってある。

   庚申塔の由来
   庚申信仰は道教(黄帝・老子を教祖と仰ぐ多神的宗教)に由来するものです。人間の体に
   は三尸(上尸・中尸・下尸)の虫という虫がいて、常にその人のことを見張っています。
   その虫は六十日に一度来る庚申(かのえさる)の日の夜、寝ている間に体から抜け出し、
   天帝のところへその人の悪い行いを伝えに行くのです。虫が体から抜け出さない様にする
   為には、その人がずっと起きているしかありません。1人で寝ないで過ごすのは難しいで
   すが、講を組織して、その日は講の人達と徹夜することなら出来るという事で、庚申講が
   庶民の間で流行したのが江戸時代です。そしてその講が三年、十年続いたら結願として庚
   申塔を建てたという訳です。江戸初期には庚申塔の形がまだ定まっていなかったので、寛
   永の頃は地蔵尊の横に「奉庚申二世安楽」等を刻したものが多かったのですが、だんだん
   形が定まってきて、見ざる、聞かざる、言わざるの「三猿」と青面金剛像、鶏(十二支で
   猿の次なので庚申の夜の終わりをからだとか)等のモチーフが定まったのが元禄頃です。
   江戸の後期には塔はもっと簡略化されて、自然石に「庚申塔」と書いただけの物になって
   いき、明治以降はすたれていったようです。


■小祠 ✔
 伊興4丁目7番23号にある小祠。嶋村家の屋敷神か? 現在はレオネクストセーヌの傍ら。


早房御嶽神社
(祭神:蔵王権現)
 伊興4丁目7番31号にある小祠。吉野金峰山の蔵王権現堂から勧請。 


■はやぶさ公園

 伊興4丁目8番13号にある区立公園。


■伊興の子育観音 宝光山実相院横沼寺(本尊:行基作聖観音菩薩立像)
 伊興4丁目15番11号(旧伊興町本町3461番地)、横沼厨子にある真言宗豊山派西新井大師
総持寺の末寺。立派な門だ。正面が本堂、本尊は立像で6尺3寸
というから立派なものだ。
 伊興観音堂(子育観音)は実相院とは別だったが、明治4年に実相院の本堂になったという。本尊
である一木の聖観音像は中世の作と思われ、昭和46年3月都の重要文化財に指定された。子育観音
の謂われは、昔、乳不足に悩む女性がこの寺の御供米を戴いて母乳が出るようになったことが評判と
なり、子育観音と呼ばれて、貧乳に悩む母親の信仰の対象となった。この話を聞いて紀伊宰相徳川宗
将(むねまさ)が、御礼奉納した曼荼羅が今も残っている。
 他に幕末の騒乱を物語る「浪人征伐横死万霊之墓」、観音橋の「馬頭観音」がある。現在の本堂は
明治22年の建立。墓地は本堂の裏にある。
 伊興七福神大黒天・毘沙門天・弁財天

 伊興の子育観音・本尊略縁起版木
 『新編武蔵風土記稿』に、

   観音堂
   正観音を安ず、行基の作なり、土人伊興の観音と稱す、縁起の略に云、康平六癸卯の春、
   源頼義父子奥州征伐の時、村内應現寺に宿陣あり、この観音に宿願ありしかば、勝利を得
   たり、されば帰洛の砌十三丁の寺領を附せられ、其後承応年中武蔵守成實位階を捨て、東
   国に下向し、此堂に参籠あり、帰依の餘仏閣を建立せしに、文承元年五月十七日祝融の災
   にかかり、寺寳記録を失ひし由を記して、其後のことはかつて傳はらず、按に康平六年は
   癸酉にして癸卯にはあらず、藤原成實は承徳二年武蔵守に任ぜられし事ものに見えたり、
   これによりても疑わしき寺傳なること知べし、又其頃は境内も広大にして、ここより西の
   方六七町に仁王嶋と云字あり、これ昔寺の仁王門ありし所と云。
   鐘楼。安永五年九月十八日の鋳造なり。
   横沼。小池なり、大さ十歩許。
   別當實相院。
   新義真言宗、新義真言宗末、放光山と號す、鐘銘の序に放光山者行基の草創と記して、又
   末に寳光山と出し、文字を混ぜて記せり、これ等は其頃文字たがひに用ひしにや、又この
   序文によれば、當寺古は台教の寺院なるべし、本尊十一面観音は弘法大師の作なりと云。
   天神社。稲荷を合祀せり、この所を御腰掛跡と云、有徳院殿此邊へ屢御遊猟ありし頃、こ
   の所に御休らひ場あり、其蹟を穢さんことを恐れて、後小祠を置と云。

 とある。中世の作と思われる本尊聖観世音菩薩像とともに都重宝の指定を受けた。母乳の出ないご
婦人の信仰が篤く「伊興の子育観音」として江戸時代から参詣人が絶えない。赤山街道伊興町前沼の
交差点は、尾竹橋通りが新設される前は、観音橋交差点といい、見沼代用水が流れていたころ王子道
を通す観音橋が架かっていたが、この橋の名は子育観音に由来する。
 像の大きさは、高さ171cm、肘張45cm、裾張30.7cm ほぼ等身大だ。
 版木は縦23.3cm、横41cm、厚さ1.8cmで、素材は桜の木。

   子育観音縁起
   本尊 正観音菩薩
   往昔、當町は湿地で、今角一帯の地名を横沼と言ふ。天平年間(約一千二百年前)行基菩
   薩が諸國行脚の砌、此地に錫を止めて池中に浮ぶ霊木を拾い上げ、自ら大■の尊像を刻ん
   で一宇を創立し、この尊像を奉安した。康平年間(約九百年前)源頼義、八幡太郎義家が
   安倍貞任追討朝命を奉じて當地に陣し、朝敵幸福並に戦捷を祈誓し、乱(前九年の役)平
   定後十有三町の地を寄附して境内とし、相次ぐ武蔵守藤原成實も亦■■の淨資を投じて荘
   厳なる堂塔を建立せられたが、數世を経て文永元年五月十七日の火災にて焼失。現在の御
   堂は文永の末年當山の中興良盛法印の再興になったのを、明治二十二年更に改築修繕した
   ものです。また子育ての由来は、母乳の不足に悩む人が、當山の御供米を戴き、皆御利益
   を賜はったので、自然子育観音と仰がれる様になったもので、また開運の御霊験もあり、
   祈願成就せざるなきあらたかな観音として一般の信仰を集めています。     寳光山

 仁王像
 門前左右にある露仏。以前は境内にあった。

 鐘楼
 山門左手にある。

 檀信徒会館
 山門右手奥にある。

 
実光堂
 山門右手ににある本並の御堂。何を祀っているのか不明。

 宝篋印塔
 これがまた立派ででかい。

 本堂
 山門正面にある。

 地蔵堂
 本堂左手塀際にある小堂。

 六地蔵
 境内にある。

 六道能化地蔵尊
 夥しい地蔵尊が整理整頓して積んである。六道とは、死ねば、その生の業に従って輪廻転生すると
いう6種の世界を現す。天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道で、この内の畜生、餓鬼、地
獄の3道が三悪道という。


 白馬堂
 六道能化地蔵堂の左隣にある。源義家に因んで白馬像を祀っている。

 石仏群
 本堂の左手奥にある。

 水かけ弁財天
 小さな像だ。

 観音橋の馬頭観音
 2段台座に屋根付き角柱。正面に馬頭観音立像の浮彫。裏面に金剛界大日如来立像の浮彫。前に線
香立を添える。伊興3丁目18番15号先観音橋の橋詰に北向きに据えてあった。



■伊興小学校

 伊興4丁目16番1号にある。明治7年1月22日第5番中学区4番小学新井学校の9番分校とし
て設置され、同9年10月16日現在地に新校舎を新築して「十八番伊興学校」として開校。同11
年「東京府南足立郡伊興小学校」となる。同28年4ヶ年修業の高等科併置して「伊興尋常高等小学
校」となる。同37年高等科を廃し「伊興尋常小学校」。同38年高等科再置して「伊興尋常高等小学校」。同40年火災により校舎焼失。福寿院に仮校舎。同41年新校舎落成。
 昭和7年市郡併合により「東京市伊興尋常高等小学校」と改称。昭和16年勅令148号により、
「東京市伊興国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都伊興国民学校」と改称。同19年
長野県上水内郡水内村に疎開。同年9月敗戦により全校生徒帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都足立区立伊興小学校」と改称。1~3年生
まで二部授業。同23年一年生のみ二部授業。同24年校歌制定。

 校歌「我が伊興」 作詞・芳賀富美男  作曲・大熊信次
  1.都の塵を他所に見て
    清き流れの荒川に
    朝夕
(あしたゆうべ)に湯浴みして
    此処に育ちし 我が伊興
  2.東に筑波 西に富士
    平和の旗は棚引きて
    自由の鐘の鳴る処
    此処に建ちたる 我が伊興
  3.春の桜に秋の稲
    希望は翔ける大空に
    野山の幸は限りなく
    此処に伸び行く 我が伊興

 同25年給食開始。同29年校舎改修、校庭拡張。同30年創立80周年記念式典。校舎増改築。
同35年校地拡張。同36年同窓会発足。同38年二部授業。同40年鉄筋3階建て西校舎落成。同
41年体育館完成。創立90周年記念式典。同43年プール完成。同44年新給食室完成。同46年
東伊興小学校を分校。同51年創立100周年。同61年創立110周年記念式典。
 平成8年創立120周年記念式典。同9年校舎耐震化、校庭改修。同12年地方自治法の改正によ
り東京都の冠称を外し「足立区立伊興小学校」と改称。同17年プール目隠し緑化。同18年創立1
30周年。同23年創立135周年記念式典。同24年校帽制定。同年校庭遺跡発掘調査。同28年
新校舎落成。創立140周年記念式典。


蓮栄山真国寺(本尊:三宝祖師像)
 伊興5丁目1番1号(旧伊興町本町3715番地)にある日蓮宗中山法華寺の末寺。建武二年(1
335)の草創というが詳らかではない。本尊は釈迦牟尼仏、その脇に日親作という祖師の木像を安
置する。中興開山経蔵院日安上人は、延享元年(1744)四月十五日に示寂している。宝物として
立正大師立像。鬼子母神像などがあり、本尊の祖師像については『新編武蔵国風土記稿』に

   日親の作の由添状あり。左に載す

 として、

   この宗祖の儀は、応永三十二年(1425)二月春、日親上人堪忍力行法御成就の砌、
   御一代法花弘通無難之誓いを込め、法花堂に於ておいて一刀三礼尊像疑い無き者也。
    慶長元申(1596)十月十三日
                                  十四世日院在判
    桜井嘉七に之を与ふ。


 とあり、享保十七年(1732)の墓碑がある。
 


■やくっさま 医王院薬師寺(本尊:薬師如来)

 伊興5丁目4番3号(旧伊興本町3678番地)にある曹洞宗の寺。元浅草橋場総泉寺(板橋区に
移転)の末寺。開山は万治二年(1659)八月九日に示寂した粛洲厳和尚。本尊の薬師如来は、眼
病に効験がある。山門の左に仁王さんの一人が鎮座している。入ると50mばかりの参道があって、
左に小堂、右は催場か。更に進むと、正面の本堂は質素、柱が灰色、戸は白に塗ってある。本堂の左
は墓地で、右は庫裏。大般若経六百巻を所蔵しているんだよ。「足立風土記資料寺院明細」に、

   東京府管轄橋場町中本寺総泉寺末 東京府管轄武蔵国足立郡伊興村 医王山薬師寺
   万治三年八月九日創立、嶺巌開山
   埼玉県管轄武蔵国足立郡大田久保村善蔵長男、文化元年九月15日同国豊島郡赤塚村於増福
   寺得度、文政二年冬東京府管轄同国同郡同村松月院首職、文政八年八月十五日当寺初住、
   文政十三年九月十日宣旨拝戴、以上僧一人。
   境内、一反二十九歩、但年貢地。檀家十六軒。


 とある。

 
紅葉
 寺域の樹木の紅葉が美しい。門前に説明板がある。

   足立区指定第734・735・905~907号
   
保存樹林 くすのき・けやき・メタセコイヤ
   地球の温暖化現象が問題視されている中で、木々の緑が持つ役目はとても大切だと思いま
   す。木々はまた、人間の心に安らぎをを与えてくれます。長い年月を生きてきた楠や欅等
   の保存樹をこれからも大切に守りたいと思います。

 般若会
 これは大般若経六百巻を転読(飛び飛びに読むこと)して諸悪を遠避け、悪疫を退散させるなどの
願いを成就させようという法会。ここ薬師寺では、毎年6月26、7日の両日に亘って行われてきた
が、昭和33、4年頃に自然消滅した。これはまず和尚が般若経を転読してから、六百巻ある般若経
を6棹の真四角な木箱に納め、その上を筵で包み、上部に丈夫な担ぎ棒をつけ荒縄で固定する。それ
をそれぞれ若者2人で担ぎ、26日には北根から早房・横沼の順に、27日には下り戸・大西島・小
西島の順に一軒一軒奥座敷に安置して回るのだ。これを土地の人は「でえはんにゃえ」いっとった。
かつて伊興で祭といえば、この大般若会だけだったので、村の人々はこの日の来るのを心待ちにして
いた。この日ばかりは学校も半ドンで授業を終わったそうで、子どもたちにとっても楽しい一日だっ
た。そこで大般若経が回ってくる家では、煎餅や蒸かし芋などを用意して、ついてくる子供たちに振
舞ったものだ。それが子供には嬉しくてねぇ。また担ぎ手の若者には、酒や馳走を用意して労った。
 村内の家々を回る順番は、前以てきちんと決められており、これを続に「大般若回り」と唱えて、
急を要する触れ継ぎ、回覧板のネットワークに利用していた。

 庚申塔
 門前左手覆屋の中にある。
 


■菅原神社(祭神:菅原道真命) ◇
 伊興5丁目4番5号にある小社。


■横山稲荷社 ◇
 伊興5丁目7番15号の西南角にある小祠。外にあるが横山家の屋敷稲荷か?
 


■伊興五丁目第二児童遊園

 伊興5丁目10番3号にある区立公園。


■稲荷神社 ◇
 伊興5丁目12番12号角地にある小社。住所が「5‐14‐13」と書かれたものもある。


■大西島八幡神社(祭神:誉田別命) ◇
 伊興5丁目13番1号にある小社。

   大西島八幡神社は、古老や関係者の語り伝えを総合判断すると、鎌倉幕府成立の建久三年
   (1192)以降に創建されたものと思われます。足立博物館に八幡神社所有の板碑が保
   存されていますが、ほかには資料が何もありません。これは、あく迄推定ですが、現山崎
   洋様宅の先祖(約500年)が現在の宅地を取得した際、前地主から管理の継承を受けて
   おりましたが、功徳は独占せずに広く享受してもらうとの意向から大西島厨子で管理する
   ことになり、今日に至っております。
   そもそも全国の八幡社のほとんどが康平五年(1062)源義家が奥州安部一族の反乱鎮
   圧(前九年の役)に出動し戦果を収められた後に多く建てられました。また、その後強力
   な味方であった清原一族の内紛にも陸奥の守という立場上介入しこれを鎮めました。この
   時、朝廷から費用は一切出なかったので義家は自己の全財産を部下の損失(死傷者)補償
   や褒賞に充てたということであります。これは全国の人々の知るところとなり、特に奥州
   への道筋である関東(伊興も含む)の人々の崇敬と信頼を集めました。後に頼朝挙兵の時
   には義家の信頼で関東一円は全部頼朝の傘下に馳せ参じました。これは仏教で言われる因
   果応報の実例ともいうべきものであると信じます。
   また、奥州の安部貞任、宗任の反乱鎮圧に向った時、伊興観音に先勝祈願をされたことは
   石碑に刻まれており、伊興地区の六本杉や甲塚、擂鉢塚も関係致しております。戦勝の帰
   路、観音堂に十三町歩の土地を寄進されました。
   この義家の偉大な人間性や道徳を慕い、また義家の信仰する八幡神社が全国に数多く建て
   られたのも自然の成り行きと思われます。
   大西島八幡神社の設立目的もこれにあるのではないかと推察されます。源義家の蒔いた種
   子が頼朝の成功に大きく貢献された善例が周囲の氏子にもよく理解されたものと思われま
   す。地域社会の為に奉仕する豊かな人間性を育み培うことによって子孫の繁栄にもつなが
   るものと思われます。
   わずか十八戸の氏子の中から今日迄地域社会に貢献された人や他家に嫁がれて子孫が幸運
   に恵まれた方々は枚挙にいとまがありません。このため、信者氏子の方々から「運のよい
   八幡様」または「開運の神様」などと言われております。
   ごく至近な例を見るとわずか十八戸の氏子の中から東京府会議員(現在の都議会議員)常
   田大蔵氏を筆頭に区議会議員二名程選出されそれぞれ、区政に又地域に大きく貢献されま
   した。これらは八幡神社の氏子が開運の恩恵を受けられたものと判断致しております。
   このたびの鳥居の移動と境内拡張を記念して茲に八幡神社の由来を記し、氏子以外の地域
   の方々にも広く功徳の恩恵に浴され、繁栄されますよう祈念致すところであります。


■伊興五丁目児童遊園

 伊興5丁目12番20号にある。


■伊興中学校

 伊興5丁目17番1号にある区立校。昭和53年第十四中学校から分校して開校。5月1日開校記
念日。6月校章制定。10月校歌制定。

 校歌
「清らかな」 作詞・江間章子  作曲・團伊玖磨
  1.清らかな自然に包まれ
    緩やかに流れる毛長川
    心豊かな此処に 心豊かな此処に
    聳える学舎 知性を磨き
    個性を伸ばそう
    勇気ある身と心 勇気ある身と心
    吾等の明るい瞳を見よ
  2.仰ぎ見る 柏の梢
    彰風園が語る歴史よ
    古い縁の此処に 古い縁の此処に
    吾等の学舎 伝統築き
    未来へ進もう
    友情の手を結ぶ 友情の手を結ぶ
    吾等の元気な歩みを見よ
     おお伊興中学校
     おお伊興中学校


 昭和62年創立10周年記念式典。
 平成9年創立20周年記念式典。同19年創立20周年記念式典。
 
 


【伊興本町】(いこうほんちょう)1~2丁目              平成9年10月4日
 平成9年伊興町五庵に、伊興町前沼・伊興町狭間・伊興町本町と東伊興町の各一部をあわせた町
域を現行の「伊興本町」とした。本町は、村なり地域なりの中心地の意だが、この町は伊興前沼が
ほとんどだ。かつての伊興本町は伊興2・4~5丁目辺り。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 伊興の由来
 由来は判んねえ。北部には弥生時代から人が住み着いたようで遺跡が公園として保存されてるよ。
古墳時代には大規模集落があったらしい。しかし当時「いこう」と呼んでいたかどうかも判らない
のだ。「やこう」なら荒地、湿地ということが考えられる。インドネシア語で解釈すると「イ・コ
ウ」は「丘のそば」だそうだが、これは地形上理に適っている。伊興の北方は毛長川の大湿地帯で、
字を「谷下」と書いて「やじった」と読む。読めネエヨ。僅かに『吾妻鏡』に地頭として伊古宇氏
が見える。その伊古宇にしてからが『姓氏家系辞書』には記載がない。いま竹の塚に谷古宇姓が沢
山ある。
  


南昌山東岳寺(本尊:釈迦牟尼仏)

 
伊興本町1丁目5番16号(旧伊興町前沼1210番地)、尾竹橋通りに面してある曹洞宗の単立
寺。浅草東岳寺の別院。都重要文化財の浮世絵師安藤広重の墓、その隣に昭和32年広重百回忌に当
たり浅草北松山町から移した記念碑がある。

 初代安藤広重墓・記念碑廣重塚碑(都旧跡)
 境内にある。広重は浮世絵の大家で、寛政九年(1797)江戸八重洲河岸の定火消安藤源右衛門
の子に生まれた。父の本姓は田中、幼名は徳太郎、後に重右衛門、徳兵衛を名乗った。父の友人岡島
林斎から狩野派の手ほどきを受け絵筆に親しんだ。13歳で両親と死別、家督を継ぐ。文化八年(1
812)歌川豊弘に師事して浮世絵を学び、翌年歌川の画姓を許され、豊広の「広」と、重右衛門の
「重」を採って「歌川広重」の名を許された。
 文政六年(1823)養祖父の子仲次郎に家督を譲って鉄蔵と改め、仲次郎が幼いため、後見役と
なり、家業の火消同心を辞め、画業に専心した。当初美人画を描いたが芽が出ず、天保元年(183
0)一幽斎広重と改め花鳥図を描くようになり、豊広歿後は、諸派の画法を学ぶと共に、洋画の遠近
法を加味して風景画に転じ、天保三年(1832)幕府の一行に加わり、京に向かて東海道の旅に立
ち、一代の傑作『東海道五十三次』発表して一躍名声を得、一流の絵師と認められるようになると、
成人した仲次郎に正式に家督を譲り、己は父の姓田中に戻した。一般に「安藤広重」で通っているが
本人がそう名乗ったことは一度もなく画姓はあくまで「歌川広重」で通した。
 その作風は、純客観的視覚を以て自然を描写し、しかも情趣ある日本的な風景画を完成させた。
 蓋し『東都名所百景』『近江八景』は名作だ。安政五年(1858)62歳で没した。墓石は震災
と戦災で破壊されたため昭和33年に再建した。

   
一立斎廣重墓

 記念碑は大きく重厚なもので、大正13年に建てられたままだ。

   廣重

 下部に辞世の句が直筆で刻まれている

   あづま路に筆を残して旅の空、西の御国の名どころを見む

 傍らの説明板は以下の通り。。

   安藤広重(1797~1858)は、江戸時代後期の浮世絵師です。広重は、八重洲河岸
   定火消組同心の子として生まれ、文化八年(1811)、15歳のとき歌川豊広に入門し
   浮世絵を学び、歌川の画姓と広重の号を許されました。風景画や花鳥画で人気を集め、天
   保年間に「東海道五拾三次」を発表し、一躍名声を得ました。墓所は昭和33年の再建で、
   記念碑は大正13年に建てられました。


 廣重塚は石碑で

   廣重塚

 と刻む。達筆過ぎてそうは読めないけどね。

 と刻む。区の説明板は以下の通り。

   都旧跡 初代安藤広重墓および記念碑
                     所在 足立区伊興町前沼1210番地 東岳寺内
                     指定 昭 和 1 5 年 6 月 6 日
   広重は浮世絵の大家で寛政八年(1796)に生まる。文化八年(1811)歌川豊広に
   師事し、翌年歌川広重の画姓を許された。はじめ一遊斎、次に一幽斎、一立斎、立斎を号
   す。諸派の画法を習得するとともに西洋画の遠近法を加味して一流をなし、はじめ美人画
   役者絵等を描いたが、天保年間「東海道五十三次圖」を描き、一躍名声を得て、風景 画
   家として第一人者となった。その作風は純客観的視覚をもって自然を描き、しかもよく情
   趣のある日本的風景画を完成した。「東都名所」「近江八景」などは著名作。「名所江戸
   百景」の完成を見ず、安政五年(1858)に没した。
   墓石は震災および戦災で破壊され、昭和33年百回忌に際し再建した。記念碑は大正13
   年に建立されたものである。
   昭和43年3月1日                       東京都教育委員会


 
ジョン・スチュアート・ハッパーの墓
 記念碑の右隣にある。広重を海外に紹介したアメリカ人だ。碑文に、

   米国人ハッパーは日本在住46年に及び、世界に日本文化を紹介し、深く広重の芸術に憧
   れ、自ら広重ハッパーと称す。昭和11年12月19日東京に没す。享年74、知友相謀
   り、墓を東岳寺内広重の碑側に建つ。 
   昭和12年5月30日


 とある。撰文は藤縣静也。また碑の上部に英文があり、その撰文はヨネ・ノグチと呼ばれた詩人の
野口米次郎だ。

 香月弘美之碑・香月弘美の墓
 香月は事故死したタカラジェンヌ。本名は小笠原弘恵。藤沢市出身。昭和33年4月1日に事故は
起きた。宝塚大劇場で行われた公演に出演中、着用していた衣装ドレスの裾が迫(せり)駆動部分に
巻き込まれて死亡。享年21歳。舞台機構が原因の上演中劇場事故による日本国内唯一の殉職者。
 境内の碑には、香月の死を憐れんで詠んだ柳原白蓮の、

   
めになみだ こよいは月のなきものを 香ふさくらがうすあかりせり 白蓮

 という歌が刻まれている。

 ●宝塚大劇場胴体切断事故
 「春のおどり、花の中の子供たち」(高木史朗作・演出)第12場トランプの国の場で事故は起き
た。恋人同士のハートの6(男)とハートの7(娘)はトランプの国のキング、クイーンの怒りに触
れ、殺人光線を浴びせられ迫で舞台下へ沈んでいく。ハートの7(娘)役を演じていた日夏有里(後
の日夏悠理)が風邪で休演したため、前日昼の部から香月が代役を務めていた。相手役のハートの6
を演じるのは、偶然だが湘南白百合学園同級生の松島三那子だった。松島のこの事件の回想によれば
前日昼の部、夜の部、当日の昼の部は問題なく終わった。夜の部午後6時25分頃に事故は起きた。
キングの「ボタンじゃ!」のセリフでキリキリという音が出され、同時に恋人男女は観客に向かって
抱き合って苦しむ表情で客席に一番近い一番迫(縦約1m×横約3m)に移る。ハートの6(男)が
客席から向かって左に、ハートの7(娘)が右である。2人が迫に乗ったと同時に降下し始める。松
島(男役)の衣装は体にびったりついたタイツ姿、香月は円形スカートだった。松島はトランプの国
の場が終わった後、早変わりですぐ次の役に扮しなければならなかった。そのため、姿が客席から見
えなくなるとすぐに体を振り解き、相手役に「オーキニ」といって背を向け、迫が下がり切るのを待
たず奈落に飛び降りて早変わり室に向けて走る。松島はこの日、飛び降りて3歩ぐらい走った時、背
後で「ヤメテー」という叫びがしたのと同時にバリバリという音、何かが飛び散る音がしたのを聞い
た。驚いて振り返ると、蝋細工の人形のように無表情な香月の顔と、衣装ドレスの赤い生地がセリの
シャフトにからみついて回っているのが見えた。この間一秒程度。松島の衣装の背中には、血飛沫が
かかっていた。香月の衣装ドレスには裾を広げるための幅2cm、厚さ1mmのスチールベルトが腰
周り、膝、裾の3ヶ所に夫々直径約60cm、70cm、1mの輪になって取り付けられていた。衣
装ドレスの裾が迫のシャフトに巻き込まれたため、迫台の枠の鉄製ベルトと舞台を支える鉄製アング
ルの支柱の間に足を挟まれたまま引きずり込まれ、腰周りのスチールベルトが香月の胴を締めつけ、
身体が真っ二つに切断され即死してしまった。しかし香月の切断部は衣装ドレスで覆われていたため
松島は香月が死亡したことを認識できなかった。動転した松島は「止めてー、止めてー」と怒鳴りな
がら早替わり場にかけつけた。次の場もあるので、とりあえず衣装をつけたが、その時香月が死亡し
たことを聞き、松島はその後の記憶を失った。後に松島が周囲にいた者に聞いたところでは、その時
の彼女は泣きながら香月の名を大声で呼んだり「私が代わりに死ねばよかった」と叫んだりしながら
暴れるなど半狂乱だったという(一部に「松島は鮮血に染まりながらゆっくりと香月の胴体が切断さ
れてゆく様を、ただ黙って見ていることしかできなかった」とする記述があるが、松島の回想によれ
ば事実ではない。松島の回想は警察が作成した彼女の供述調書が全文引用されており信憑性は高い。
医師の死亡診断書によれば、香月は腰の部分で切断され、右足が押し潰され、左足は膝下が骨折して
おり、上半身は異常がなかった。(4月2日朝日新聞大阪本社版による)

 花屋久次郎記念碑
 略して「花久」。江戸時代に風靡した川柳の出版元。呉陵軒可有に同書の出版を勧め、川柳のさら
なる発展の契機を作った。花屋久次郎は3代に亘って川柳界に貢献し、『誹風柳多留』124篇まで
の出版を行ったほか、川柳のスポンサー的役割を果たした。
 2代花久菅裏は、自身が川柳作家でもあり、多くの作品を残し、また柳多留の前書きも多く書いて
いる。3代花久菅子も才気ある作家・経営者だったが、売り家と唐様で書く3代目の川柳を地でいく
ように、124篇を出版した星運堂は、突如離散してしまい歴史から消えた。
 2代までの過去帳は、昭和16年6月浅草北松山町(当時)の南昌山東岳寺で発見され、同年10
月の木村捨三が「関西川柳学会会報」に報告している。
 現在、川柳界では花屋久次郎の功績を偲んで、毎年この寺で「花久忌」が行われている。
 碑は白御影石で、正面に、

   
柳多留版元花屋久次郎遺跡 周魚筆

 左面

   
昭和三十一年一月建立 全国川柳家有志 川柳きやり吟社 台東川柳人連盟

 裏面

   
黙翁二旧信士 文化十四年正月晦日没

 と記している。右面には刻みはない。 


■伊興町前沼児童遊園

 伊興本町1丁目7番1号にある区立公園。


■伊興町前沼第二児童遊園

 伊興本町1丁目8番5号にある区立公園。


■民家火災

 伊興本町1丁目16番11号の木造2階建て民家織田方で起きた火災。令和2年8月13日13時
頃出火、消防車16台が出動して消火に当たった。住宅など2棟が全焼した。逃げ遅れた人がいる模
様。


■伊興町北の根児童遊園

 伊興本町1丁目16番21号にある区立公園。

 
「休息する鳥」
 園内東北端にある平成12年西村潤の作品。金色の鳥が巣で休んでる。


西島山煎雲院応現寺(本尊:阿弥陀如来物)
 伊興本町2丁目3番3号(旧伊興町狭間612番地)にある時宗の寺。藤沢市にある時総本山清浄
光寺(俗に遊行寺)の末寺。古くは天台宗で、八幡太郎義家が庇護した寺だったが、永仁の頃(12
93~1299)遊行二世真教上人が巡化の際に改宗したという伊興地区最古の寺だ。本尊の阿弥陀
三尊は恵心僧都の作といわれ、境内には樹齢200年以上のイチョウの木がある。また境内に経塚が
あり、ここから経筒、六器、五鈷鈴などとともに、国宝に準ずる貴重な藤原期の冑、その他平安時代
の太刀、古銭などが出土した。また本堂前にある2基の元興寺型多角形の石燈籠は、承応三年(16
54)の造立で山門と共に貴重な文化財だ。
 天文・永禄の時宗板碑3枚が残る。本堂の右は庫裏、左は墓地、山門と参道が素晴らしい。古刹の
品格を十二分に持った寺だよ。「新編武蔵風土記稿」の伊興村の項に、

   應現寺
   時宗、相模國藤沢清浄光寺の末なり。西嶋山と號す。本尊三尊の弥陀各恵心僧都の作なり、
   當寺は古へ天台宗にて、八幡太郎義家の墨付及び寺領の朱印ありしが、後皆失しと云、さ
   れど此事疑ふべし、其頃朱印の行はれしとも思はれず、後時宗に改めて清浄光寺の末とな
   り、遊行第二代真教上人を以て開山とせり、又昔は前に出せる観音堂の別當職なりしが、
   彼堂は當寺より程隔たりたればとて、実相院へ職を譲りしと云傳へり、寺寳に八幡立の乗
   鞍なりとて古鞍あり、銘に打斯の如き花押を載たり、格別後世のものとも見ゆ、されど又
   その頃のものとは見えずといふ。
   門。四足造にして甚古色の普請なり、度々修理を経ふといへども、舊體なを存せり、昔欄
   干に飛鳥の彫刻あり、刀痕凡ならず、土人は左甚五郎が作なりと語傳へしが、先年賊に取
   さられしと云。
   天神社。神體胡服を衣て巌石に居す菅神の像ともおもはれず。


 とある。

   応現寺
   時宗、西嶋山煎雲院應現寺と称す。はじめ、天台宗であったが、遊行二世真教上人の勧説
   により時宗に転じたという。伊興地区最古の寺である。
   寛永年間以降、諸堂舎が建てられ、寺観整い壮麗であったが、その後の天災地変で大門以
   外は焼失した。現存する瓦葺破風の四脚門は、寛永十四年(1637)の建設であるが、
   昭和46年11月に修築された。江戸時代初期の山門様式を伝える珍しい遺構である。
   また、天文七年(1538)の逆修板碑2基、永禄四年(1561)のもの1基、承応三年
   (1654)の石燈籠2基等がある。
   このほか、足利時代築造の経塚が、旧寺域から発掘され出土した兜・経筒・五鈷鈴・唐宋
   の古銭等は、東京国立博物館に保管されている。
   昭和51年3月                      東京都足立区教育委員会

   
応現寺
   応現寺は時宗を宗旨とし山号を西嶋山、院号を煎雲院と称し、阿弥陀如来立像を本尊とす
   る。『新編武蔵風土記』によれば、当初は天台宗であったが、遊行二世他阿真教により時
   宗に改められたと伝わる伊興地区の古刹である。
   山門は『応現寺過去帳』(足立区登録有形文化財:古文書)に寛永十四年(1637)十
   七住職学円の建立と記されている。流破風桟瓦葺の四脚門で、後世の補修も加えられてい
   るが、江戸時代初期の山門建築の特徴を示し、区登録有形文化財(建造物)になっている。
   また、山門前の石灯籠二基は承応三年(1654)七月に常田彦左衛門光能が父母のため
   に寄進したものである。建立した年次のわかる遺構として区登録有形文化財(建造物)と
   なっている。
   寺内には時宗に深く関連する、天文七年(1538)銘以下四基の名号板碑(区登録有形
   文化財:歴史資料)享保十三(1728)銘庚申塔(区登録有形民俗文化財)等の石造物
   が保存されている。
   平成23年3月                         足立区教育委員会


 
山門
 この寺の宝物は山門だ。17世覚阿上人が寛永十四年(1637)に建立したもので、補修こそさ
れているが区内最古の木造建造物だ。切妻造り桟瓦葺き。四脚門で、江戸初期の寺門建築の特徴をよ
く示している。下谷広徳寺(練馬区に移転)の門と共に、彫刻は左甚五郎の作と伝わる。

 
星兜
 明治12年旧寺域から室町時代と思われる経塚が発見され、経筒・五鈷鈴・唐宋の古銭などと一緒
に兜鉢が出土し、鉢に星(鉢板を固定する鋲を装飾的に並べたもの)があるところから一般に「星兜」
と呼ばれる。つまり全体にぶつぶつがある兜だ。逆につるつるの兜は「坊主兜」という。この星兜は
の鉢は5世紀頃の作に属すが、補修してツバ(目庇=まびさし)を付けてあり、その様式は中世に属
すためこれ1つで兜の変遷が判るという貴重なもの。それより5世紀のものを1000年後にリサイ
クルして活用してたことのほうがビックリしないか? 現在東京国立博物館に保存されている。
 


龍岳山専念寺(阿弥陀如来立像)
 伊興本町2丁目14番2号にある浄土真宗本願寺派の寺。伊興寺町の最南端にある。元本木町2丁
目2132番地(関原3丁目3番)から移転した(?)
 
 


【入谷】(いりや)1~9丁目                    最終平成5年8月1日
 「舎人の入谷」と呼ばれていたところで、江戸の初期(正保のころ)に舎人村から分離独立した。
しかしその村域は一塊ではなく飛地の集合体で、舎人村と村域が入り混じっていた。
 明治22年「市制町村制」により新らしい舎人村の大字、昭和7年足立区入谷町となり戦後へ至
る。昭和60年2月1日入谷町・舎人町の各一部をあわせた町域を現行の「入谷3~4・6・8~
9丁目」、入谷町・北鹿浜町・加賀皿沼町の各一部を併せた町域を現行の「7丁目」。平成元年5
月15日入谷町・舎人町の各一部をあわせた町域を現行の「5丁目」、同5年入谷町・舎人町・舎
人1丁目・同5丁目の各一部をあわせた町域を現行の「1~2丁目」として新住居表示を完了。つ
いこの間まで広大な耕地だったから、区画といい街づくりといい大雑把だ。土地を広大に使ってい
るが殺風景。 6~9丁目は新開地で、6丁目は市場や倉庫、トラックセンターのみ、7~9丁目
も商業地区で住宅は非常に少ない。水田変じて町となるだ。

【入谷町】
 現在残り僅かの入谷町が今も舎人公園内にあるが、いずれ消滅する。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 入谷の由来
 毛長堀から入り込んだ湿地帯だったことによる。だから入谷は神領堀跡(道路)だ! 神領とは
寛永寺領のこっちゃ。「おそれ入谷の鬼子母神」は台東区上野。
 なお入谷町が舎人公園と尾久橋通りの内に舎人町とともにわずかの面積で残っているが、いずれ
舎人公園となる。
 


寿海山三蔵院徳枝寺(本尊:地蔵菩薩)

 入谷1丁目2番2号(旧舎人町3673番地)にある新義真言宗豊山派の寺。開山は文治三年(1
187)三月十五日に寂滅した了政阿闍梨。元は円通寺の末寺だったが、昭和14年10月28日奈
良長谷寺の直末となる。寛保二年(1742)権大僧都憲意の墓がある。
 明治10年頃に作られた「足立風土記資料寺院明細」に、

   小本寺円通寺門徒 武蔵国南足立郡舎人町3673番地 三蔵院
   開基不分明
   檀家十二戸。境内三百三十七坪、但官有地。境外民有地八反十七歩。


 とある。


■入谷日の出公園
 入谷1丁目3番1号にある「宇宙」をテーマとした区立公園。ロケットを組み込んだ総合遊具があ
ることから、ロケット公園という別称がある。広場があるだけで樹木の少ない公園だ。モニュメント
などいろいろある。

 
「太陽のまち」
 西南角にある、平成14年井上なぎさの制作の銅製オブジェ。とてもロマンチックな作品、子供と
鳥たちとの共生を夢見ながら逞しく成長を願う傑作。

 
オブジェ 3点
 園内北寄りにある石の構造物。
 


■入谷東児童遊園
 入谷1丁目5番4号にある区立公園。


金籠山三宝(観音)院円通寺(本尊:釈迦如来)

 入谷1丁目6番8号(旧入谷町69番地)に昔からある新義真言宗豊山派の小寺。白鳳二年(65
1)存隆上人開基と伝えられ、もと西新井大師総持寺末ながら門末9ヶ寺を擁した小本寺格だった。
荒綾八十八ヶ所霊場86番札所、武蔵国八十八ヶ所霊場4番札所。本尊は、不動明王、元西新井大師
総持寺の末。入口を入ると六地蔵のお出迎え。西から入るのだが木造トタン屋根の本堂は南向きだ。
本堂の右手と奥は庫裏。本堂前面南側は墓地。新しい墓が多い。
 観音堂の聖観音菩薩立像は30cm、行基の作と伝わる。この堂の鰐口の銘に、

 
  奉果立願志趣者為天地長久御願 応永十三年(1406)十二月一日 敬白

 とある。寺宝として700年以上前のものと思われる薬師仏があり、墓地に寛文九年(1669)
の墓碑がある。なお明治9年入谷の協和小学校がここを仮校舎として開設されていた。
 「足立仏教会資料」は以下のように記している。

   白鳳二年(651)に、存隆上人を招いて開基、密教寺院としての形態を整え、同時に金
   龍山の再建を祈願したと記されている。
   江戸時代には、地域の学問所として、山内の塔頭寺院の一つ観音院で寺子屋を開き、学問
   の普及に貢献していた。その寺子屋が、明治5年の小学校令発布と同時に、現在の足立区
   立舎人小学校の前身である共和小学校となる。
   正式の開山は不明である。白鳳二年以前は「円命大明神」を中心に祭り、神道形態の信仰
   所であったようである。江戸時代には他の寺院同様、神仏習合の寺であり、山内の中心は
   「不動尊」を祭り円通寺と称し、「氷川神社」とともに多くの信仰を集めていたようであ
   る。明治維新のとき、氷川神社と分離し、山内にあった塔頭寺院も姿を消した。昭和初期
   まで存続したといわれる七堂伽藍も什物もことごとく消え失せて、現在は何もない状態で
   ある。

 六地蔵
 境内にある。


■神社 ◇
 
入谷1丁目10番18号小金井家の庭の奥にある屋敷神。


■入谷北野神社(菅原道真命) ◇
 
入谷1丁目11番13号にある中社。創建年代は不詳だが、豊臣秀吉の関東攻めの時に白幡を立て
たことから白幡八幡と呼ばれるようになったといい、戦国時代後期には八幡社だったことが判る。新
編武蔵風土記稿が編纂された江戸時代後期にも八幡社とされていることから、明治時代以降に北野神
社と改称したと思われる。

   入谷北野神社                        入谷1丁目11番地13号
   かつて「入谷田んぼ」と呼ばれた一面の田園地帯で、土地は区画整理により大きく都市化
   を遂げたこの周辺にあって、当社は古くから「天神様」という通称で呼ばれ地元の人々の
   信仰を集めてきた。
   菅原道真公を御祭神とし、京都北野天満宮の流れを汲むが創建に関する詳しい由緒は不明
   となっている。現在、当社には嘉永六年(1853)正月の銘がある幟が保存されており、
   少なくとも幕末に祭礼が行われていたことが判る。明治12年に作成された「南足立郡神
   社明細帳」(東京都公文書館所蔵)の記録では、当時の境内は六十八坪(225㎡)、社
   殿は間口三尺五寸(1㎡)、奥行四尺(1.2m)で信徒は110戸であった。昭和60年
   に実施された土地区画整理事業で、それまで三角形であった境内は四角形に整えられ、社
   殿も二坪に格調、鳥居も御影石製に新調され現在に至っている。
   神社を管理しているのは、「下」と呼ばれる村内の共同生活単位の厨子の人々で、毎年交替
   で祭礼の世話役である年番を決めている。祭礼は正月と十月のそれぞれ二十五日である。
   正月は一年間の豊作祈願とともに、年頭の氏子顔合わせや年間の取り決め事の場でもあっ
   た。十月は幟も掲げられ、各家庭の手作りの供物が奉納された。出店も並び、農作物の収
   穫に感謝し大変な賑わいを見せていた。当社は神社や祭礼が、地域の中心であった時代を
   しのぶことができる貴重な例として、今も地元に息づいている。
   また当社境内には、もと東側40mにあった宝永七年(1710)十一月に入谷村の人々
   が造立した庚申塔が区画整理によって移動し、保存されて過去の信仰を知るよすがとなっ
   ている。
   平成17年10月吉日                      入谷北野神社氏子
                                   足立区教育委員会

■庚申塔
 入谷1丁目11番13号北野神社の隣にある。

   庚申塔
   宝永七年 千七百十年 建立
   三百年記念平成二十二年十月吉日
 


■舎人十号公園
 入谷1丁目18番1号にある区立公園。


■小金井堂(舎人駅前地蔵堂)
 
入谷1丁目19番16号浄土宗の寺、南光寺の隣にある。墓があり、人も住んでいる。入谷2丁目
の源証寺の子院だとか。以前は藁葺き屋根のお堂で草木の中にあり風情があった。


青龍山医王院南光寺(本尊:不動明王)
 
入谷1丁目19番20号(旧入谷町821番地)に昔からある新義真言宗豊山派の寺。本尊は不動
明王。開山は不詳。中興の円祐は弘安三年(1280)四月二十日示寂。参道の右は水子地蔵、観音、
地蔵、薬師堂、庫裏と並んでいる。左側は墓地だが休憩所もある。墓地から権大僧正良賢の墓、天文
十二年八月十五日銘の板碑が出た。また享保元年(1716)銘の六地蔵がある。

   青龍山医王院南光寺と号し、小本寺金龍山円通寺の末寺であったこと以外はまったく不明
   であった。ただし、安政三年(1856)八月二十八日、夜来の大風により過去霊簿いっ
   さいが磨滅したので、檀中の仏壇や石碑の戒名などを丹念に調べて、新たに慶応三年(1
   867)、本寺円通寺住職心明師が過去帳を録した記録はある。本尊不動明王とともに薬
   師如来が安置されている。当山が医王院と号される由縁なりと思われる。明治13年7月
   東京府寺院什器等調査依頼書の控えによれば、小本寺円通寺の末寺で開山は不明、中興は
   良賢師、天文十二年(1543)寂、香衣一色着用の寺格。
   1.境内632坪
   1.檀家23軒
   1.墓地四畝八坪
   1.寺領(境外田畑)一町九反三畝二十九歩
   1.本堂、間口七間 奥行五間半
   一.庫裡、間口五間半 奥行二間半
   上記のごとく当時の住職青鹿秀栄師が報告している。なお「新編武蔵風土記稿」によれば
   「南光寺、円通寺末、青龍山医王院と号す。開山の各は伝えざれど、過去帳に弘安三年四
   月二十日(寂カ)と記せしを古しとす。本尊は不動を安ず。薬師堂ありたるも荒廃せしを
   以て像は本堂に移し、堂の再建はいまだならず」と記されている。
   爾後、秀栄師は牛込南蔵院に転住、以来永年にわたり円通寺の兼務寺となっていたが、昭
   和6年11月20日、現住光寶僧都入寺、現在にいたる。

 
薬師堂
 境内にある復興建物。
 


■入谷緑地公園
 入谷1丁目20番1号にある区立公園。


■入谷南中学校
 
入谷1丁目24番1号にある。昭和61年「足立区立入谷南中学校」として舎人第一小学校に併設
開校。平成2年現在地に新築移転。創立5周年・校舎新築記念式典。同7年創立10周年記念式典。同17年創立20周年記念式典。同27年創立30周年記念式典。
 令和元年体育館エアコン設置。

 校歌「風澄みて」 作詞・伊藤道人  作曲・団伊玖磨
  1.風澄みて北は 都の北は
    はろばろと開ける大地
    光溢れる舎人の里に
    新たなる学び舎建てり
    入谷南中 おお我が母校
    入谷南中 我が母校
  2.雲間射す陽射し 雄々しき光
    若人の未来を照らす
    大空遠く希望
(のぞみ)遥かに
    嗚呼悠々と隅田の流れ
    入谷南中 おお我が母校
    入谷南中 我が母校


■入谷中郷公園

 入谷1丁目28番1号、舎人公園の北側にあるスーパーマルエツの駐車場の近くにある公園。公園
自体はあまり高低差の無い二段になっていて低いほうが広場になっている。遊具は蒸気機関車型の遊
具と小さなブランコのみ。ターゲットは小さな子供といったところ。植栽は綺麗でちょっと雰囲気の
いい公園だ。


■男児行方不明事件
 入谷2丁目で3歳児が行方不明になっている事件。平成24年3月一家が転入してきた時、同年秋
3歳になった次男は3歳児検診を受けている。同26年6月児童相談所が警察と連携して、強制的に
自宅に立ち入り臨検捜索をして発覚した。次男は既に死亡したと供述したが見つかっていない。
 夫婦は、皆川忍(30歳)朋美(27歳)。2人には7人の子がいるが、次男については同25年
頃から行方不明になっている。供述によると次男は25年3月に死亡、山梨県河口湖の辺りに埋めた
というが未だに発見されていない。
 しかし2人は、次男と同居しているという虚偽の申請書類を足立区に提出。同年8月~26年6月
に児童手当や生活保護費計約43万円を不正受給した。2人とも無職。家賃や駐車場の賃料も滞納し
ていたが、一方で出前を取ったり、毎週のように一家で外食していた。嘘に嘘を重ね、生活保護費と
児童手当で年間計500万円も貰っていた。
 「6人のお子さんを確認させてください」。5月16日、足立児童相談所の職員が皆川忍のアパー
トに立ち入った。2日前に「次男がいないのではないか」との情報を得たためだ。職員が寝室を覗く
と7人分の布団があった。入口を塞ぐように朋美が横になり、その奥に子どもたち。忍は職員に「妻
の体調が悪いので」と子どもたちに近づかないよう求めた。児童相談所の職員が家庭訪問するように
なると、近所の住民に「(人数合わせで)子どもを貸してほしい」と頼み、断られると、今度はネッ
トオークションで高さ1mのマネキンを購入し、職員の目をごまかしていた。
 平成23年7月に荒川区内で1歳だった次男が車に撥ねられ負傷した事故を悪用。実際は無職だっ
た忍が男児の世話をするため仕事を休んだと偽り、看護料約16万円を騙し取った。忍が以前勤めて
いた会社の給与明細の日付などを改竄した書類を保険会社にファクスしたという。
 そして今度は次女への虐待も明らかになった。次女(4歳)の首に犬用の首輪を付けたり、顔を殴
ったりしたとして、警視庁捜査1課は4月8日、今年3月24日、当時住んでいた足立区の自宅で、
3歳だった次女の首付近にハーネスを取り付けた暴行と傷害の疑いで、さらに6月には、千葉県のホ
テルや車の中で、次女の顔を殴るなどして、全治2週間の打撲を負わせるなどした疑いで、忍(詐欺
罪などで起訴)を逮捕した。6月に児童相談所に保護された際、次女の体重は、同じ年齢の子どもの
平均より約6キロ軽い約8キロKgしかなかった。
 犯人逮捕
 4月28日次男が行方不明になった事件で、警視庁捜査一課は、次男に虐待を加えて死亡させ、遺
体を遺棄したとして、監禁致死と死体遺棄の容疑で、父親の忍(傷害罪などで服役中)、妻朋美(詐
欺罪などで有罪判決)夫妻を再逮捕した。同課によると、忍は「死体は遺棄し、山梨に埋めた」と供
述。朋美も認めている。
 次男玲空斗ちゃんの遺体は見つかっていないが、同課は状況証拠や関係者の証言を固め、立件可能
と判断した。
 逮捕容疑は同24年12月~25年3月3日頃、当時一家が住んでいた足立区入谷の自宅で、玲空
斗ちゃんをうさぎ飼育用のケージに監禁、暴行して窒息死させ、同3日に遺体を段ボールに入れて山
梨県に運搬。同4日区内千住の荒川に投棄した疑い。なお6人の子供は総て朋美の子供ではなく、3
人は忍の連れ子。3人が朋美の連れ子。玲空斗は忍の子だという。
 判決公判
 平成28年3月11日、東京地裁713法廷。忍には懲役9年(求刑12年)、朋美には懲役4年
(求刑7年)未決勾留日数200日算入。判決で稗田裁判長言及、忍は既に先述の詐欺等で服役中な
ので未決勾留日数はナシ、朋美は先述の詐欺等で執行猶予判決が下されていたが、執行猶予期間中の
判決であるため、それが取り消され、その分も服役する(詐欺等の判決は懲役3年、未決勾留日数6
0日算入、執行猶予4年)。


■入谷中郷北公園

 入谷2丁目5番1号、舎人駅の北西にある区立公園。石の柱で囲まれた円形のコロシアムのような
広場がイタリアの公園を連想させる。
 


一向山法随院称名寺(本尊:阿弥陀如来)
 
入谷2丁目15番1号(旧入谷町320番地)にある浄土宗の寺。
 慶長年間(1596~1614)の創建で、開山を専誉知雲といい、源証寺の末寺という。
 


五台山太子院源証寺
 入谷2丁目15番25号(旧入谷町319番地)にある昭和23年からの単立寺院。元は浄土宗知
恩院の末寺だった。入谷山とも号す。天文元年(1532)十蓮社念誉一向源証上人(天文五年〈1
536〉十一月十一日示寂)の創建という古寺。鐘楼には正徳二年(1712)鋳造の鐘が掛けてあ
る。本尊は阿弥陀仏。本堂は昭和47年に改築されたが、文久三年(1863)に建てられた茅葺の
本堂の主材をそのまま使用してる立派なものだ。境内に明治5年増上寺温誉大宜大僧正の名号を刻し
た自然石がある。墓地に寛文十一年(1671)銘の墓碑がある。

   源証寺
   浄土宗、五台山太子院源証寺と號す。天文元年(1532)に十蓮社念誉一向源証上人に
   よって創建された古刹である。
   本堂は文久三年(1863)に再建、奥行7間、梁間6間、高さ7間、  寄棟造りの大
   伽藍であったが、昭和47年に銅板葺入母屋造りに改築した。堂内に阿弥陀如来像ほか 
   仏像を祀る。
   太子堂は江戸中期の古建築。開山上人所持の聖徳太子像を祀り、近隣の信仰をあつめ、古
   来正月・5月・9月の22日に太子講が盛大に行われてきた。また、鐘楼も江戸時代中期
   の作。正徳二年(1712)在銘の梵鐘がかけてある。
   なお入谷町826番地所在、■■■■■の地蔵堂も本寺の所管である。
   昭和51年3月                      東京都足立区教育委員会

 地蔵堂は、入谷1‐19‐16の舎人駅前地蔵堂だ。

   
源証寺
   浄土宗、五台山太子院源証寺と號す。天文元年(1532)に十蓮社念誉一向源証上人に
   よって創建された古刹である。
   本堂は文久三年(1863)に再建、昭和47年に銅板葺入母屋造りに改築された。太子
   堂は、江戸中期の古建築で、開山上人所持の聖徳太子像を祀り、近隣の信仰をあつめ、古
   来、正月・5月・9月の22日に太子講が盛大に行われてきた。小堂であるが、江戸時代
   の建築様式のなごりをとどめる貴重な建造物である。
   また、江戸時代中期、正徳二年(1712)在銘の梵鐘、宝永七年(1710)在銘の半
   鐘がある。両鐘とも、この時代の作としては一般的な形態であるが、銘文が寺史の資料と
   して重要であるばかりでなく、寺と檀家、そして近隣の人々との関連を裏付ける貴重な歴
   史資料である。
   平成元年1月                       東京都足立区教育委員会


 
太子堂
 江戸中期の建築物で重要である。堂内に高さ90cmの本尊聖徳太子像があり、彩色豊かで美しい。
古い像だが年代不詳。聖徳太子の自作と伝わり、霊験あらたかだとか。明治末年忌日2月22日に、
区内の鳶職が大勢集まり、護摩を修して太子講が行われた。


神社
 
入谷2丁目16番8号にある小祠。 


■白幡八幡跡 → 入谷氷川神社(素盞嗚尊)
 入谷2丁目25番5号にある。舎人氷川神社とは500mと離れていない。創建年代は不詳だが、
豊臣秀吉の岩槻攻めの際に白幡を立てたことから「白幡八幡」と呼ばれるようになったといい、戦国
時代後期には八幡社であったことが判る。「新編武蔵風土記稿」が編纂された江戸時代後期にも八幡
社とされており、幕末頃に八幡を廃したのだろう。
 現在の氷川神社は、明治7年に舎人氷川神社から勧請したという。祭日は9月28日。
 文化十三年(1816)の月山・湯殿山・羽黒山の石碑がある。

 
昭和四年出羽三山登山記念碑
 境内にある。

            福田 忠次郎
   月 山  登   中田 寿恵吉
   湯殿山      小金井新之助
   羽黒山  山   斎 藤 藤 吉
          昭和四年八月五日


 
庚申堂
 庚申塔を覆う小祠。

 白幡塚古墳
 鳥居を潜ると、区が昭和50年に建てた「入谷古墳跡」の石碑が建っている。大きな円形の塚があ
り、頂に社殿がある。この塚は「新編武蔵風土記稿」にも書かれており、昔から古墳として知られて
いた。馬鹿な役人が勝手に区画整理計画を立て、邪魔だから削り取るというので、地元が猛反発、無
学な役人は人の道を懇々得々説明され、初めて歴史の大切さを悟らされて計画案をボツにした。しか
し足立区は進歩的な心算で古道を消し去り、碁盤の目状に新道を配し得意がってる。将来必ず歴史を
否定したことの損害を蒙る時が来る。
 古墳は社殿の土台となっている円墳で、伊興古墳群のD群に属する。徳川幕府によって編纂された
『新編武蔵風土記稿』の入谷村の項によれば、その当時墳頂に祀られていたのは氷川神社ではなく、
八幡社であったとある。その後、鎮守を持たなかった入谷村の村人が「入谷村にも鎮守を」というこ
とで明治7年に氷川神社を勧請し、祀るようになったと伝えられている。白幡塚は毛長川流域の古墳
群では希有な墳丘がほぼ完全に残っている古墳で、墳丘が概ね残存しているのはこの他にはB群の伊
興の白旗塚古墳のみだ。白幡塚と白旗塚は音と字義が同一な為に混同されるが、全く別の古墳だ。
 白旗塚を「伊興古墳群中唯一残っている古墳」と紹介している文献があるが、これは恐らく両古墳
を混同しているものと思われる。従って、伊興古墳群、そして毛長川流域の古墳群でその姿を留めて
いるのは、奇しくも同音の「白幡塚」と「白旗塚」の2基ということになる(A群の花畑浅間神社 
古墳、F群の安行小山古墳も古墳であることが確認されれば、これに加える事になる。
 墳丘規模は詳細なデータが見当たらないので、正確な値は分からないがが、「東京都遺跡地図(東
京都教育委員会 昭和63年)の遺跡一覧の足立区の項に「入谷古墳567㎡」と記載されており、
これが墳丘の面積として、墳形がほぼ真円に近い円形であるとした場合、凡そ直径は27mとなる。
見た目からも、10規模のものが多い毛長川流域の古墳群の中では比較的大きな墳丘を有している。
出土物は『川口市史考・古史料編』によれば、

   毛長川右岸の足立区の古墳分布については、永峯光一・鈴木敏弘の復元作業がある。鈴木
   によれば、現存するものは2基(白旗塚・白幡塚)であるが、断片的でも記録されている
   ものは10基以上に上るという。それらはA群2基(白山塚・一本松)、B群4基(摺鉢
   塚・白旗塚・甲塚・金塚)、C群2基(船山塚・聖塚)、D群1基(白幡塚)に大別され
   ている。また永峯によれば、白幡塚では円筒埴輪片と土師器が、一本松古墳から同じく円
   筒埴輪と土師器が、摺鉢塚から鋸歯文鏡・銅釧・直刀・埴輪人物・埴輪馬が出土したとい
   う


 とあり、円筒埴輪と土師器の出土が伝えられている。区画整理の行われる昭和33年当時の航空写
真を見れば、一面の田の中に残されているので墳形を確認できる。また参道は社殿に対して真っ直ぐ
道路に対しては斜めに作られていたが、区画整理により、現在の位置に付け替えられている。

 入谷古墳跡碑
 本殿前石段下脇にある。昭和50年の建碑。裏に碑文あり。

   
入谷古墳跡

 区の説明板は以下の通り。

   史跡 入谷古墳跡(入谷氷川神社)
   入谷古墳については、文政五年(1822)徳川幕府が各地の村などを調査して作成した
   「新編武蔵風土記」入谷村に記録に「八幡社 塚上ニアリ。土人白幡八幡ト称ス。古岩槻
   攻ノ時、当初ニ幡ヲ立シヨリ、カク称セリト云」とある。この地域は東京東部低地(足立
   区、葛飾区、江戸川区、北区、荒川区、墨田区)の北辺にあたり、足立区内でも最も早い
   時代(四世紀頃)に古代の人々の集団生活がはじまった場所の一つである。
   毛長川沿岸には舎人遺跡・伊興遺跡・花畑遺跡など多くの古墳時代の遺跡が確認されてお
   り、これらの遺跡とともに多数の古墳が過去に存在したことが知られている。昭和49年
   当地の区画整理事業に当り、予定ではこの塚の半分以上が削られるところであったが、地
   元住民の熱意によりこの塚が保存されることになった。入谷氷川神社氏子総代が中心とな
   り、計画を変更し保存に協力したのである。
   現在、区内に残されている古墳は東伊興の白旗塚古墳一基のみとなってしまっている。古
   墳の可能性の高いこの塚が保存されることは、きわめて有意義なことである。
   平成12年1月                         足立区教育委員会


 白蛇伝説
 境内に、神の使いの白蛇が棲んでいた。たまにその姿を、道路や田の畦に姿を現した後には、決まっ
て大雨が降ったり、大風が吹いたり、ただならないことが起こった。初めのうちは判らなかった村人
たちも、度重なるうちにそれに気づき、そこで村の何処かで白蛇を見かけると「白蛇様がお現れになっ
たぞ」と互いに知らせあい、雨戸を打ちつけたり、倒れ易いものには養生をしたりと、天災に備える
ようにした。そのお陰で、舎人村では天災による被害は、あったとしても最小限に留まり、他村より
少なかったそうだ。村人は白蛇に感謝し、大切に扱ったという。
 社殿への登り口の右脇に、鱗がモールディングされている爬虫類を模した石造物が無造作に置かれ
ている。特に説明は無いが、白蛇伝説に基づくモニュメントと思われる。


■舎人七号公園
 入谷2丁目8番1号にある区立公園。


■入谷中学校

 入谷3丁目6番1号にある区立校。昭和51年第十四中学校から分校して開校。校章制定・校旗樹
立。同52年校歌・標準服制定。体育館・プール完成。

 校歌「新しき泉あり」 作詞・勝承夫  作曲・南弘明
  1.新しき泉あり
    若き力の湧くところ
    心触れ合う楽しき集い
    足立に伸び行く欅はここに
    自立を誓う入谷の母校 入谷の母校
  2.温かき光あり
    高き理想を生むところ
    明日の世界を目指して進む
    社会の為に 平和の為に
    文化を築く若人吾等 若人吾等
  3.梅こぶし香りあり
    清き校風継ぐところ
    永久に栄えある歴史を創る
    姿勢を正し規律を守る
    弛まぬ誇り入谷の母校 入谷の母校


 同54年防球ネット設置。同55年7教室増築。同56年創立5周年記念式典。同57年陶芸窯設
置。同58年プレハブ4教室仮設。同60年プレハブ2教室仮設。創立10周年記念式典。同61年
入谷南中学校を分校。同63年体育館・給食室改修。
 平成2年門扉・塀改修。全国中学校保健体育優良校賞受賞。同窓会発足。創立15周年記念式典。
同4年パソコン・ルーム開設。同5年夜間照明設備7基設置。校庭フェンス10mに改修。同7年創
立30記念式典。同13年ランチルーム(多目的ルーム)開設。同14年学校ささえ隊発足。同15
年東京都教育委員会学校給食優良校賞受賞。同16年学校給食文部大臣表彰。同17年創立30周年
記念式典。同20年おやじの会発足。


■入谷小学校 廃校
 入谷3丁目8番1号にあった区立校。昭和50年舎人小学校から分離して開校。平成13年3月3
1日閉校。同4月1日入谷南小学校と統合して、足立入谷小学校となった。
 


■足立入谷小学校
 入谷3丁目8番1号にある統合新設校。平成13年4月1日開校。同18年創立5周年記念式典。
同19年キッズISO学校賞受賞。同21年キッズISO学校賞受賞。東京都学校歯科保健優良校表
彰。同23年東京都学校歯科保健優良校表彰。創立10周年記念式典。

 校歌「新たなる」 作詞・津布久郁夫校長 輔作・笹倉敬子  作曲・遠矢良英
  1.新たなる風が光るよ
    白鷺の舞い立つところ
    微笑は泉の如く
    優しく清く伸びやかに
    ああ心 永遠に輝け
    永遠に輝け 足立入谷小学校
  2.咲き誇る花を仰いで
    荒川の流れの辺り
    逞しく身体を鍛え
    明るく強く伸びやかに
    嗚呼心 夢もはばたけ
    夢もはばたけ 足立入谷小学校
 


■神明宮(入谷神明社)祭神は天照大神 
 入谷4丁目7番3号にある小祠。創建は不詳だが、文化二年(1805)九月奉納の太々神楽の絵
馬があるので、それ以前だ。
 


■入谷中央公園

 入谷4丁目16番1号、入谷中学校の南に近接する区立公園。面積18517㎡の広々とした敷地
内には、グラウンドと遊具広場が設けられている。子供たちは思い切り走り回ったり、キャッチボー
ルやサッカーなどのボール遊びをして楽しむことができる。また遊具広場には昔懐かしいコンクリー
トのコンビネーション遊具の他に、すべり台、ジャングルジム、ブランコなどが点在している。

 
「家族」
 平井一嘉の作品。夫婦・子供2人の家族に犬一匹。いい雰囲気だ。

 
「日時計」
 メモリが付いてる石のオブジェ。

 
「風向き計」
 鉄パイプ作品。
 


■入谷緑地公園
 入谷5丁目1番1号にある細長い区立公園。遊具は全くない。森のような公園で薄暗い。それで入
口に交番があるのか? 前にコンビニがあり便利。青葉と花々の中にモニュメント型時計塔や野鳥の
巣箱や果樹や茸などが生育する「入谷緑地公園」は、緑濃い「入谷五丁地区」と、緑地緑道風の「入
谷七丁目地区」の二分割型の細長い区立公園だ。遊具はないが、それは散策を目的に作られているが
ゆえのこと。園内で子供たちの姿を見かけることは殆ど無く、ベンチで休憩している人を時おり見か
ける程度。そのため、公園内は森の中のように静寂に包まれている。目の前は「足立流通センター」
や「北足立市場」があるが、トラックのエンジン音などはまるで聞こえない。
 


アメリカ陸軍戦略爆撃機B29のタイヤ
 入谷5丁目7番の東角にあるビニールハウスの東角に無造作に置かれている。
昭和20年5月25
~26日、東京都足立区入谷町の水田に、第314航空団29爆撃群所属のB29(機体番号44-
69728)が墜落した。作戦任務第183号、目標は東京市街地空爆で、第58・73・313・
314航空団から498機が出撃、損失26機だった。
 このB29は南方から火を吹きながら飛来し、高度500mほどで爆発、現在のトラック・ターミ
ナル付近に墜落した。破片は広範囲に散らばり、エンジンは2日間燃え続けた。戦後、B29のプロ
ペラ1枚が土地の所有者によって掘り出され、入谷南中学校に寄贈されたが、現在は足立区郷土博物
館に保管されている。
 ジェームズ・W・マッケンジー軍曹とエドワード・J・コーグラン軍曹の2人が墜落死。浄光寺の
住職が墓標を建てて弔った。リチャード・W・マンスフィールド大尉(機長)、ロバート・E・リン
グ准尉、メルビン・アンターマン大尉、ロバート・P・ジョーンズJr少尉、エドワード・I・カー
ナ一等軍曹、ジョセフ・Jディーブ軍曹、トーマス・D・ジョーゲンソン軍曹、ロバート・F・ミッ
チェルソン軍曹の8人がパラシュート降下して捕虜となり、東京憲兵隊へ送られ、戦後釈放され米国
へ復員した。ドワイト・H。ナップ少尉はパラシュート降下し、荒川放水路の支流付近に潜伏してい
たが、警防団員に発見されたためピストルを発射、1人を射殺、1人に重傷(後死亡)を負わせた。
警察の捜査により、2日後に西新井駅の貨車の中に隠れているところを発見され、逮捕されて上野憲
兵分隊に引き渡された。上野憲兵分隊長の堀江明少佐が彼を東京憲兵隊司令部へ連行したところ、司
令官の大谷敬二郎大佐から「殺人を犯した米兵を捕虜として扱う必要なく、厳重に処分せよと」の指
示を受けたため、部下の野口悦二曹長に命じて千住新橋の南側の河原で斬首させた。戦後の極東裁判
で野口曹長は懲役12年、大谷大佐は懲役10年となったが、上野憲兵分隊長の堀江少佐は戦後自決
した。

 B29
 ポーイング社戦略爆撃機。愛称はスーパーフォートレス。太平洋戦争末期から朝鮮戦争期のアメリ
カ陸軍の主力高々度戦略爆撃機。中型爆撃機構想から発展したB‐17と異なり、最初から長距離セ
戦略爆撃を想定して設計された。当初は陸軍戦略航空軍所属だったが、昭和22年に空軍の独立とと
もに空軍へ移管された。アメリカ陸軍の航空部門は、第二次世界大戦が始まる5年前の昭和9年5月
に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1tの爆弾を積んで800
0km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍を中心とし
長距離渡洋爆撃を想定していた。B29はこの構想の中から生まれた機体で、同13年に完成した試
作機(ボーイングXB‐15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計
製作された。そして同14年9月1日のナチスドイツ軍によるポーランド侵攻が行われた同じ日、ア
メリカのキルナー委員会は、「陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先
とするべき」との勧告を行っている。同15年6月27日(ヨーロッパ大戦は既に始まっていたが、
真珠湾攻撃前なのでアメリカは参戦していなかった)XB29が発注され、同17年9月21日に試
作第一号機であるXB29BDがエディ・アレンと彼のチームによって初飛行した。エディ・アレン
は試作二号機(製造番号41‐003)のテスト飛行も担当したが、同18年2月18日のテスト飛
行中に発生したエンジン火災によって機体が失われた際、事故死した。なお、41‐003はB29
最初の、事故による喪失機だ。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41‐8335)が量産
モデルとして採用された。
 B29は、広島に原爆を投下することを主目的に開発された。第二次世界大戦は、イスラエル建国
と広島に原爆を投下するためのカモフラージュの打ち合わせ戦争だった。もしガチで日米戦争が行わ
れていたら、日本はいとも簡単にアメリカを叩きのめしていた。海軍は最初から打ち合わせ通りに敗
北して行った。極東裁判でA級戦犯はたったの3人、絞首刑に処せられた者はいない。


■舎人十二号公園
 入谷5丁目12番1号にある区立公園。


■神社 ◇
 入谷5丁目16番8号下山材木店の敷地内にある小社。 


■アメリカ陸軍戦略爆撃機B29墜落
 入谷6丁目1番の辺りに、昭和20年5月25~26日の東京空襲の際、アメリカ陸軍第314航
空団第29爆撃群所属のB29(機体番号44-69728)1機が墜落した。
 


■中央卸売市場北足立市場
 入谷6丁目3番1号にあるヤッチャ場。果物と花卉部を併設した東京都中央卸売市場の1つで、区
部北東部における青果及び花き流通の拠点市場となっている。首都高速川口線「足立入谷」インター
から近く、日暮里・舎人ライナー「舎人公園」駅からも徒歩10分とアクセス良好な市場だ。毎年秋
には「市場まつり」が開催され多くの人々で賑わう。
 青果部については、足立市場の取扱量増加に伴う狭隘化を解消するため、青果部のみを移設する形
で昭和54年8月17日に開場した。花卉部については、周辺の花卉地方卸売市場5市場を統合して
昭和63年4月25日に東京都中央卸売市場としては初の花卉部として開場した。その後、平成9年
に、通勤車両の増加、取扱量の増大や買出車両の大型化による駐車場不足を解消するために立体駐車
場を建設。同11年には、変化する流通環境に対応するために、仲卸業者用低温倉庫を建設した。ま
た場内環境対策にも力を入れ、同16年には電動小型特殊車用の大規模充電設備を整備。同23年に
は、青果部卸売場屋根上に太陽光発電パネルを設置している。


■入谷緑地公園
 入谷7丁目4番1号にある細長い区立公園。遊具は全くない。森のような公園で薄暗い。それで入
口に交番があるのか? 前にコンビニがあり便利。青葉と花々の中にモニュメント型時計塔や野鳥の
巣箱や果樹や茸などが生育する「入谷緑地公園」は、緑濃い「入谷五丁地区」と、緑地緑道風の「入
谷七丁目地区」の二分割型の細長い区立公園だ。遊具はないが、それは散策を目的に作られているが
ゆえのこと。園内で子供たちの姿を見かけることは殆ど無く、ベンチで休憩している人を時おり見か
ける程度。そのため、公園内は森の中のように静寂に包まれている。目の前は「足立流通センター」
や「北足立市場」があるが、トラックのエンジン音などはまるで聞こえない。
 


■舎人三号公園
 入谷7丁目12番28号にある区立公園。


■稲荷社 撤去
 入谷7丁目16番7号野辺方にある小祠。令和元年現在野辺宅は更地となり、稲荷社は撤去されて
いる。
 


元妻バラバラ殺人事件
 入谷8丁目3番で起きた殺人事件。
 平成19年6月14日午前1時50分頃、警視庁竹の塚署に「元妻の遺体を切断した」と男女2人
が自首してきた。この2人が住む住宅を同署員が調べたところ、2階の居間で、女性の遺体がバラバ
ラに切断されてポリ袋数個に入れられているのが見つかり、同署は2人を死体損壊容疑で緊急逮捕し
た。逮捕されたのは、NHK委託集金員の志賀耕二(47歳)、内縁の妻の無職人見朋子(34歳)
の両容疑者。遺体は志賀の前妻の無職志賀美穂(40歳)で、頭部や両手、両足などが7つにバラバ
ラにされていた。調べによると、美穂は4年前に志賀者と離婚したが、その後も中学生の子供2人と
共に、志賀容疑者との同居と別居を繰り返していた。今年4月頃からは、人見と志賀が3階で、美穂
と2人の子供は1階で暮らしていた。志賀は「5月下旬に(美穂を)殴ったら死んでしまった。今月
上旬、遺体を(人見と)一緒に切断した」と供述しており、同署で死因を調べている。志賀容疑者は
5月上旬にも、別の女性に付きまとったうえ顔を殴るなどしたとして、同署が傷害事件の容疑者とし
て内偵捜査していたところだった。
 NHK広報局の話「職員ではないとはいえ、受信料の契約・収納業務を委託している事業者が逮捕
されたことは誠に遺憾で、心よりおわび申し上げます」と消気ていた。
 裁判
 志賀は女性たちを暴力で支配し、殺人についても人見に主犯と自供するよう強制していた。人見が
「首を絞めて殺害した」と主張したが、裁判官は死因と異なっていたため、志賀が主犯、人見が共犯
と認定した。
 判決
 同年10月23日東京地裁で人見に対する判決公判が行われ、死体損壊の罪で懲役1年6月・執行
猶予3年が言い渡された。
 同20年4月10日志賀の判決公判で、高木順子裁判長は、傷害致死と死体損壊の罪で、人格を無
視した卑劣で悪質な犯罪として、懲役10年の実刑を言い渡した。
 志賀の生活環境
 志賀は新宿区に台湾人の妻と所帯を持ち、足立区では元妻とその間の2人の子、そして内縁関係に
ある女性に2人を一緒に住まわせるという生活を送っていた。志賀は平成8年頃に接骨院を開くが、
経営権を知人に譲って自らは非常勤の常務となり、女性らをそこで働かせていたという。しかし元妻
と内縁の女性らに暴力を繰り返して支配し、内縁の女性の1人はバラバラ事件前に暴力を警察に訴え
て逃れた。
 


■入谷中丸公園
 入谷8丁目4番1号にある区立公園。


■入谷南小学校 
廃校
 8丁目11番、KITクラブ21クラブハウスのところにあった。平成13年3月31日に閉校。
同4月1日入谷小学校と統合して、足立入谷小学校となった。
 


■入谷八丁目公園
 入谷8丁目16番5号にある区立公園。


■舎人四号公園
 入谷9丁目9番15号にある区立公園。


■舎人緑道公園
 入谷9丁目10番にある区立公園。


■トーキョージャンボゴルフセンター
 入谷9丁目26番にある。
 


■舎人一号公園
 入谷9丁目29番1号にある区立公園。
 


【梅島】(うめじま)1~3丁目                      昭和41年4月1日
 明治22年「市制町村制」によって梅田村・島根村・栗原村・小右衛門新田が連合して一村をな
したとき梅島村成立。昭和3年町制に移行。同7年足立区が成立して梅田町・栗原町・島根町・小
右衛門町となる。小右衛門新田は渡辺小右衛門が開発したことによる新村の意。
 41年千住弥生町・梅島町・島根町・千住栄町・栗原町・梅田町の各一部をあわせた町域を現行
の「梅島」とした。だから梅島は東武鉄道梅島駅、環七通り梅島陸橋だ!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 梅島の由来
 
田と根から一字づつとって合成した地名。梅島村も梅島と呼ばれる島もなかった
 


■観音堂 ◇
 梅島1丁目15番5号美健ハイツの前にある小堂。


■第四中学校
 梅島1丁目2番33号にある区立校。昭和11年に足立第二高等小学校として開校し、同16年足
立第二国民学校と改称し、さらに同18年東京都第二国民学校と改称し、同22年3月31日に廃校
となった同校跡地に、翌日新制中学校として開校した。平成19年創立60周年。
 卒業生に越境入学した
ビートたけし(北野武)がいる。

 
夜間学校
 昭和26年開校。同46年新校舎落成し、夜間学級専用教室ができる。平成13年創立50周年。 


■梅島東公園
 梅島1丁目27番6号にある区立公園。


阿弥陀山文彰寺(阿弥陀如来像)
 梅島1丁目29番5号にある浄土真宗大谷派の寺。入口の角に表札があるだけで、案内板、掲示板
などはない。千住常護寺に生まれた會谷和夫が昭和26年に創立した。庭は全部墓地になっていてそ
の奥に本堂を含む母屋がある。建物はモルタルのアパート風、ただ1階は高く、屋根が寺風で、両脇
に火頭窓があるところなど一般住宅とは異なっている。
 


■ベルモント公園
 梅島1丁目33番7号にある区立公園。平成5年足立区が姉妹都市となったオーストラリアの西南
端にあるベルモント市との友好を記念して設けられた。普通の街の公園の広さ。ギャラリーでは、オ
ーストラリアの民芸品、日用品、ベルモント市からの寄贈品を展示展示している。起伏のある芝生、
小さい子供向けの遊具等がある。ブラシノキなどのオーストラリア原産の植物の外、バラなどが植え
られており、きれいな公園となってる。レストランはないぞ。弁当持ってけ!

   この公園は、1984年10月1日足立区と姉妹都市になった。オーストラリアのベルモ
   ント市との友好交流を記念してつくられました。
   ベルモント市は、オーストラリアの首都キャンベラから西へ約3000Km、西オースト
   ラリア州都バース市に隣接しています。面積は、31.96K㎡と足立区の約5分の3、人
   口は約3万2000人です。
   市の中には、西オーストラリア州最大のバース空港があり、西オーストラリアの玄関口と
   なっている。

                 オーストラリアの地図
                                 
区制60周年記念事業

 
「旅人」 ◇
 公園事務所の東側にある池田満寿夫の銅板レリーフ。

 羊像 ◇
 園内に散らばって配置されている。

 
「遥かなる笛の音」 ◇
 池の北側にある平成8年中村茂幸制作の笛を吹く少年銅像。

 
「流れが出合う場所」 ◇
 池の南側にある、平成4年足立区国際野外彫刻展招待のルウ・ランバートの作品。鶴の飛び立つ瞬
間を思わせる不思議なデザイン。

   〝NANGA〟 LINE
   LOU LAMBERT
 


■「時」 ◇
 梅島1丁目36番7号セブンイレブン梅島駅北店前の歩道の植栽にある3本のオブジェ。茶色は歴
史、青・オレンジは「無限の可能性」、緑は「樹木の生長」を表わす。
 


■足立消防署
 梅島2丁目1番7号にある。
 


■槐戸地蔵尊(さいかちどじぞうそん) 
 梅島2丁目10番6号にある地蔵堂。

 
彰義隊所縁のものという語り伝え
 彰義隊とは、慶応四年五月十四日の夜から上野の山に立て籠った一部の幕軍のことで、たった一日
で火力に勝る官軍に敗れてしまった。上野から逃れてきた者の中には傷ついた者がかなりいた。そう
した者の中に、梅島2丁目10番5号付近の葦の茂みに潜伏した者らがあった。この5人はいずれも
変装し大八車に少しばかりの家財道具と1、2個の石を積んでいた。葦の茂みの中で数日を過ごした
が、薮蚊が多く初夏の日差しもあり傷は悪化するばかり。傷ついた5人は最早これまでと、付近の農
家に、持ってきた石を建てて供養してくれるように頼んだ。村人は頼みを聞き入れて、運んできた石
を建てると、その石が地蔵に変身し、村人たちの危難を何度となく救ってくれた。特に皮膚に効験が
あるということで「いぼ地蔵」の名がつけられたとさ。

   槐戸地蔵尊の由来
   昔 此の辺りを槐戸耕地といいました。南を中沼耕地、東南を長張耕地、道海耕地といい
   東を背出し道面耕地と呼んでいました。
   西に富士山・箱根の山を望める景色の佳い農村でした。明治・大正の頃は村内ににまだ八
   軒の晒屋があり、風に白布がたなびく風景は見事であったそうです。
   お地蔵さまは、享保四年二月、今から二百七十九年前、花畑の講中が本木の石屋に彫らせ
   たものです。立派に仕上がったお地蔵様を紫微そりに乗せて、数名の有志達が運んでいま
   した。ところがこの場所まで来たところ、何故か急に全員の手足が動かなくなってしまい
   ました。これはお地蔵様が此の地をお選びになり、ここて村人たちを守りたいというご意
   志を示されているにちがいないと解釈し、ここにお奉りしたと言われています。
   以来、お地蔵様による数々の霊験が伝えられています。
   平成十年九月吉日                        小右衛門新田講中
 


■梅島二丁目児童遊園・梅島二丁目第二児童遊園
 梅島2丁目19番19号にある区立公園。


■小右衛門稲荷神社(裾引稲荷)◇
 梅島2丁目24番23号にある中社。今から数百年前のこと、岩槻の太田氏に仕え、徳川家康の江
戸討入り後も、同じ岩槻城主高力河内守の家人をしていた渡辺小右衛門という人がこの地に移ってき
た。彼が主家を何故去ったのかというと、理由ははっきりしないが、村田利兵衛と共に、同僚の高橋
伴右衛門を斬ったため逐電したのだという。しかし逃れてきたものの日は落ちて思案に暮れていると
どこからともなく一匹の狐が現れて、小右衛門の袴の裾を引くではないか。引かれるままに付いてい
くと小堂ある。これ幸いと一夜を明かした。翌朝目を覚まして堂を出てみると、6軒ほどの家がちら
ほらと目に付いた。がその外は一面の荒野だ。そこで白狐に引かれてきたのも神の引き合わせと思い
この地に腰を据えて開墾することにした。そこで村田を呼び寄せ、先住の日比谷・中館・岩館・相沢
・深井・佐倉井の6人にも声をかけて、開発に取り掛かった。この端緒を作った白狐との縁を忘れぬ
ため稲荷を祀り、「裾引稲荷大明神」としたという。現在は開発者を忘れないように小右衛門稲荷神
社と呼んでいる。小右衛門の墓は、稲荷に隣接した墓地の中にある。

 富士塚
 本殿の北に石碑が並べてある。1m以下で殆ど高さはない。本殿の基壇の方が高い。全く段差の無
い道を10数歩で歩き(登り)切る。
 


■梅島陸橋
 梅島2丁目31番にある。島根1丁目・平野1丁目・中央本町5丁目の接する国道4号線(日光街
道バイパス)を環七通りが跨ぐところをいう。
 しかし昭和8年~43年、梅島陸橋といえば、旧日光街道が東武線を越す跨線橋だった。
 


竹乃家菓子舗(環七店)
 梅島2丁目38番18号にある和菓子屋。
 


三宝山実修寺(池田大作)
 梅島3丁目7番8号にある創価学会の寺。建物は鉄筋コンクリート造りタイル貼りのビルで、学校
的雰囲気。昭和43年日蓮正宗大石寺第66代法主日達上人により開創したが、跡を継いだ次男が、
創価学会との抗争の時、学会側に付いたため破門され、日蓮正宗の一門から除籍された。他には葛飾
区の常光寺、目黒区の妙真寺がある。
 


竹乃家菓子舗(本店) 閉店
 梅島3丁目9番16号にあるだんご屋。昭和元年創業。手作りをモットーに、材料には特に気を使
い、北海道小豆、手亡など最高級なものを用いて、風味豊かな菓子作りをしている。梅いちりん、栗
づくしがおすすめ。4代目坂巻洋平(26歳)は、修業のために平成23年12月3日を以て閉店。


■梅島三丁目第二児童遊園
 梅島3丁目3番20号にある区立公園。


■梅島西公園
 梅島3丁目17番10号にある区立公園。


■第十中学校
 梅島3丁目23番3号にある。昭和22年教育基本法により梅島第一小学校に併設して創立。後援
会設立。同24年校舎落成。アメリカにより後援会を解散させられ、PTA設立。校歌制定。

 校歌「白雲なびく」 作詞・伊藤正明  作曲・藤田政夫
   白雲なびく富士の嶺
   遥けき流れ荒川の
   自然の雄を集めたる
   見よ武蔵野の原頭に
   自治の光に輝きて
   そびゆる母校 我が十中


 同29年第三期増築。同31年第四期増築。同34年東島根分校設置。国道より東側の生徒を通学
させ、同35年9月分離、東島根中学校とした。同36年増築工事完了。体育館完成。同37年鉄筋
コンクリート造り校舎落成。同41年鉄筋コンクリート造り校舎増築。同42年プール完成。同46
年鉄筋コンクリート造り増築校舎落成(給食室、普通教室7)。給食開始。同49年鉄筋コンクリー
ト造り校舎(普通教室・理科室・調理室・被服室)落成。同50年鉄筋コンクリート造り校舎改築(8
教室)。同52年鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室3・技術室・理科室・美術室2・特殊)落成。
創立30周年記念式典。同57年体育館改築。校庭改修。同61年東・北校舎窓枠アルミサッシ化。
同62年六月中学校に生徒104名・教師1名移行。創立40周年記念式典。平成5年コンピュータ
ルーム完成。給食民間委託。同9年創立50周年記念式典。同19年創立60周年記念式典。
 


■西新井公園
 梅島3丁目26番5号、27番6号に跨る区立公園。梅島駅の北にある。面積1959㎡の敷地内
には芝生が整備されている。子供たちは緑の絨毯の上を思い切り走りまわったり、キャッチボールや
サッカーなどのボール遊びして楽しむことができる。広場の周囲には、ブランコや滑り台などの様々
な遊具が点在しています。


■「生成?」 ◇
 梅島3丁目32番6号にあるマクドナルト西新井店の前にあるオブジェ。平成6年第5回足立区野
外彫刻コンクール入賞の奥野誠の作品。


■梅島三丁目児童遊園
 梅島3丁目32番26号にある区立公園。


■外国人に超人気のエンブレムホテル
 梅島3丁目33番6号にある外国人に人気の宿泊施設。相部屋制なので宿泊費が安い。また、イベ
ントや外国人を持ち上げるサービスに外国人が浮かれ、口コミやSNSで拡散され、千客万来状態。
近所の関三商店街を紹介するので、商店街が立ち食い商品を取り揃え、これがまた外国人に受けて、
外国人が闊歩している。


■梅島第一小学校
 梅島3丁目37番4号にあるビートたけし(北野武)の母校。昭和8年梅島尋常高等小学校から分
校し、「梅島第一尋常小学校」として創立。同16年勅令第148号改正により「東京市梅島第一国
民学校」と改称。同17年栗原国民学校を分校。同18年、都制施行により「東京都梅島第一国民学
校」と改称。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都足立区立梅島第一小学校」と改称。同29
年栗島小学校を分校。同36年島根小学
校を分校。同49年中島根小学校を分校。同58年創立50周年記念式典。
 平成20年創立75周年記念式典。同25年校舎耐震化。創立80周年記念式典。
 卒業生にビートたけし(北野武)がいる。
 


■ビートたけし・北野武
 足立区島根町1115番地に父菊次郎、母さきの四男として生まれ、TVの本放送が始まった昭和
28年梅島第一小学校入学。同34年小学校卒業、第四中学校に越境入学。同37年中学校卒業、都
立足立高等学校入学。東京オリンピックの翌年の同40年明治大学工学部
するも中退。但し平成16
年に特別卒業認定者に選ばれる。そのため学歴は明治大学工学部卒となっている。学生時代はジャズ
に傾倒し、新宿の〝Lefty Candyt〟を初めとしたジャズ喫茶や新宿アシベ、当時の文化人の交流の場
所、風月堂にも入り浸っており、たまに来る依頼でジャズ喫茶のボーイもしていたが、ジャズの見識
は一部で有名であった。この頃は青春の葛藤期でもあり、プロボクサーを目指してジムに通い、また
2種免許を取得してタクシーの運転手をしたりアルバイト三昧の青春時代を過ごした。
 その後、映画を観るために浅草へ頻繁に通う内に浅草6区にあったストリップ劇場浅草フランス座
のエレベーターボーイのアルバイトしていたが、同劇場を取り仕切る「浅草の首領」こと深見千三郎
に師事し、前座芸人北千太(北野姓と師匠の名前からの芸名だが、以後名前は頻繁に変わった)とし
てコント(軽演劇)を学んだ。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも
励む。前座仲間とのコントコンビでのデビューを目指すが、仲間の病気により頓挫。なお当時の同僚
として作家の井上雅義がいる。

 舞台中心の昔の浅草と違いテレビが台頭して来た浅草は、隆盛時代と比べ物にならぬほど寂れて、
観光地として以外の存在もなくなり、実質ショウビジネスのメッカとしての終焉を迎えようとしてい
た。当時浅草ロック座に在籍していた兼子二郎(ビートきよし。現在はビートキヨシ)に誘われて漫
才を組むも全く芽が出ないため、兼子の発案で『有名な師匠の弟子になった方がいい』と戦略的に松
鶴家千代若・千代菊門下に入る。「わっかるかなあ わかんねえだろうなあ」のギャグで一世を風靡
した松鶴家千とせは兄弟子に当たる。元はエノケンや古川緑波のように、ボードビリアンから銀幕デ
ビュー迄を視野に入れて志も高く軽演劇を教えていた師匠の深見は、『色物をやるために芸事を教え
たんじゃねえ』とたけしを破門同然に突き放した。一方たけしはコンビ松鶴家二郎・次郎の2代目次
郎となり漫才師。後にコンビ名を空たかし・きよし(たかしが北野、きよしが兼子)にするが、この
頃は兼子主導で漫才を進行させていた。さらに「ツービート」と改名してからは、旧来のツッコミと
ボケのスタイルから脱却して、たけしがネタを一人で喋り続け、きよしが時折たしなめるというスタ
イルにチェンジしたが売れる所までは行かず行き詰まる。
 
そんな折に大阪で新進漫才師として頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早
めて喋りまくるスタイルへ変貌した。この頃漫画家の高信太郎や業界人から注目される中、太田プロ
に所属。時はマンザイブーム(旧来の〝漫才〟と区別するためにカタカナ表記)のムーブメントが起
こり、「赤信号みんなで渡れば恐くない」などの毒舌漫才と毒舌ネタを売り物とした芸風に完全にシ
フトした。しかし当時はアイドル性と女性ファンが取り囲むブームにより、B&B、ザぼんち、島田
紳助竜介、のりお・よしお等の後塵を浴びる3、4番目の人気順位だった。しかしファンは圧倒的に
男性が多かった特異のコンビだった。あくまで漫才でトップを狙うたけしを裏切るように、きよしか
ら『漫才はきついからもうやめよう』とフジテレビTHE MANZAI‐5を最後にツービートは
解散した。漫才時代は「ツービートのわっ毒ガスだ」などの著作も手がける。望まずしてピン芸人に
なったたけしはオールナイトニッポンやTHE MANZAIからの発展番組「オレたちひょうきん
族」に出演して〝ピン芸人のビートたけし〟として世間に知られるようになる。これを機にたけしと
きよしは天と地に分かれる。
 

 
ビートたけしのオールナイトニッポン
 ニッポン放送系の深夜放送ラジオ番組でビートたけしの評価は一気に高まった。本人が当時を述懐
するに『とにかく一人で喋ると間が空く事がものすごく恐かった』という通り、トークの速度はもの
すごく密度が濃い。当時のファンの中心層だった大学生は必ずテープに録音してから何度も聞き直さ
ないと全内容が捕捉出来なかったほどだった。ただ横で笑っているだけのように見られていた放送作
家高田文夫は、実はたけしのハイテンションを絶妙な間合いの合いの手で支えていた。当時は同じ事
務所の(たけしが紹介した)片岡鶴太郎もに参加していた。この番組から出た本は、今でいう〝語り
起こし〟で構成は主に高田によるものだった。またハガキ職人と呼ばれた熱心な投稿者の存在も大き
く、このスタイルは後の「とんねるずのオールナイトニッポン」「ナインティナインのオールナイト
ニッポン」「伊集院光深夜の馬鹿力」など、お笑い系パーソナリティの放送構成モデルとなった。次
第にそのまんま東(宮崎県知事東国原英夫)を最初とした弟子志願者が現れ始め、日本一周をラジオ
で中継させたりする『弟子やめさせコーナー』もあり、鶴太郎と交代するように、たけしの大量の弟
子たちの「たけし軍団」も放送に加わる様になった。放送の構成は週の出来事をおもしろおかしく話
す内容が大半だが、時に三島由紀夫に傾倒するや、2時間三島を語るなどの〝講義モード〟になった
時もあった。また中国で日本人修学旅行生が鉄道の大事故で亡くなるなどの社会的な問題が起こった
際には放送をボイコットしたり、風邪による体調不良で休んだこともあった。こんな時は急遽たけし
軍団のメンバーが番組を引き受けてフォローした。
 

 
オレたちひょうきん族
 たけしがメインで、明石家さんま、島田紳介、片岡鶴太郎たちと出演したフジテレビの看板番組。
当時のお化け番組ドリフターズの『8時だヨ! 全員集合』(TBS)を放送終了に追い込み、80
年代のバラエティ番組の金字塔となった。『オレたちひょうきん族』の人気コーナーでたけしが主役
のヒーローコント『THE タケちゃん MAN』は当時一世を風靡し、これに肖ってに「タケちゃん
マンライス」なる料理が登場するようになったりした。これで明石家さんま、島田紳助を一流に育て
上げた。
 

 
風雲!たけし城
 マンザイブームは、それまでドリフターズや萩本欽一などお笑いスターを中心に据えて存立してい
たバラエティ番組を大きく変えるきっかけになった。「オレたちひょうきん族」で茶の間に認知され
たビートたけしは、その「ひょうきん族」自体では、明石家さんまへの突っ込み役に徹することが多
かったが、「お笑いサドンデス」「笑ってポン」などで、それまでの平和型のコントやギャグよりも、
むしろ過激で無謀な方向性のギャグを志向した。
 そして昭和60年以降のバラエティ黄金期では一般視聴者(素人)を重要な役割で参加させる番組
を提示する。それまでバラエティ番組は(欽ちゃんファミリーの「気仙沼ちゃん」などごく一部の例
外を除いて)あくまで芸人主導のものとされていた常識を覆し、ビートたけしは素人とたけし軍団を
対抗させる形で、素人も主役に据えたのが最大の特徴だ。「風雲!たけし城」では一般の参加者が、た
けしと軍団が構える『たけし城』に様々なゲーム形式の障害を乗り越えて行くという「攻略ドラマ」
を中心に据えた番組構成とした。考え抜かれた各ステージにおける参加者のリアクションの面白さは
世界的な普遍性を持ち、世界各国での吹き替え版はもとより、権利を購入して現地キャストで製作し
た番組が放送されて人気を博した。本家のTBSは、同じ緑山スタジオを舞台に「筋肉番付」「SA
SUKE」、最近では「キャプテン・ドみの」など、「風雲!たけし城」を原点とする亜流番組を作
り続けている。
 「たけしのスポーツ大将」では、陸上競技、草野球、ママさんバレー、サッカー、水泳などの〝昔
取った杵柄〟自慢の素人と、たけし軍団が競う趣向をとった。たけし軍団では歯が立たない場合は、
100m走ではカール君、水泳ではトビウオ君、野球では球道君といった機械仕掛けのキャラクター
を登場させ、シュールな笑いを喚起した。
 「天才たけしの元気が出るテレビ」では、様々な素人を『街の話題』的に取り上げたり、ダンスが
若者に浸透してきているニーズをいち早く察知し「ダンス甲子園」のコーナーを設けるなどの企画が
光った。象徴的なのは番組内の企画コーナー「たけしサンタ」であり、子供が寝静まった枕元にサン
タの扮装をしたたけしがプレゼントを届け、気づいて起きた子供のリアクションを愉しむというもの

が大当たりした。この「元気が出るテレビ」のスタイルは「ねるとん紅鯨団」や「浅草橋ヤング洋品
店」へ引き継がれた。
 これら各局視聴率のトップを誇った番組のほとんどがビートたけし本人の企画と構成で、そのキー
ワードは『夢』だといえる。一般視聴者が様々な形で参加し愉しむというコンセプトはどれも一貫し
たもので、ファミリー参加型の家族リレーや家族大会等、視聴者が後々までも自らの語り草にできる
ような良質な番組だった。

 たけしが用いて業界に浸透した言葉
 オープントークで「と、いう訳で・・・」から始まるあの独特のフレーズは、当初「どういう訳な
んだよ!」と突っ込みを貰うためのものだったが、今では疑問を持たずにそれ以後のタレントが当た
り前のように用いている。「肉付けされた白骨死体みてぇな顔じゃねぇか」のように、『?みたいな』
の例え表現形式も、ツービート時代にビートたけしが使い始めたもので、以後のお笑い系タレントが
やはり当たり前に用いている。らにさ「訳のわからねぇこといってんじゃねえよ!」の〝訳の判らな
い〟という表現も、以前は日常で用いられることはさほど無かったが、常用されるようになったのは
ビートたけし以後だ。余りに浸透し過ぎて居るが故にこれらの言葉を現在では誰も意識する事がない。

 
ビートたけしのTVタックル

 平成元年7月3日に「どーする?!TVタックル」という番組名でスタート。関口弘とビートた
けしのダブル司会の対談形式で、毎回「日本人と○○」というテーマだった。翌年3月26日放送分
で関口が降板、そのため翌3年4月1日から「ビートたけしのTVタックル」と番組名を変更、ビ
ートたけしの冠番組となり、様々な時事問題をテーマとして各界の著名人などのパネリストによる論
争を繰り広げる内容になった。パネリストの1人に田嶋陽子法政大学教授がいて、よく女性問題など
を扱って他のパネリストとバトルを繰り広げ、特に桝添要一とは罵り合いになるほどだった。同13
年田嶋が参議院議員選挙に立候補した際、立候補前に田嶋が出演した収録分が放送できなくなり編集
で何とか乗り切った。またその選挙活動を密着で放送した。
 同年1月頃、裏番組の月9ドラマ(フジテレビ)の視聴率が全話30%以上の快挙の煽りを受けて
視聴率が低迷、その年の秋に打ち切りが検討された。しかし4月に小泉政権が誕生し政治・選挙の特
集を放送したところ、みるみる数字が上がった。このことから、それ以降政治的な内容を扱うことが
多くなり、ゲストも主に現職国会議員や三宅久之などの政治評論家などが出演するようになる。同1
8年春の改編では、フジテレビ月9ドラマ以外の裏番組を終了、或いは放送枠移動に追い込み、テレ
ビ朝日の看板番組の一つに成長した。
 2世のお坊ちゃん議員で政権放り投げ総理安倍晋三や参議院の重鎮で民主党の女性議員に敗れた片
山虎之助といった自民党幹部も出演している。これにより、以前に比べバラエティの要素が少なくな
り、ゲストを含め多少「朝まで生テレビ」と被っているように思われるが、国会議員の冗談めいた発
言や、浜田幸一がそのキャラクターから「悪党党」幹事長として辛辣な意見で笑いを呼ぶ。因みに浜
田は、なぜか森喜朗(もり よしろう)のことを「もりきろう」と呼ぶ。
 人気コーナーの「永田町時代劇」では、現在の政局の動きを時代劇ドラマでコミカルに描き、平沢
勝栄などの現職議員も本人役で出演し、ついには三宅久之まで出演するようになり、出演者のバラエ
ティ慣れが見て取れる。そのために「朝まで生テレビ」や「サンデープロジェクト」のような硬派な
討論番組とは対照的に今の政治経済に対して悪乗り気味に風刺するスタイルが視聴者に受けているこ
とは事実。討論番組の形式だが実際にはディレクターによりエンターテインメント色を強めて脚色さ
れている。特に近年、政治風刺番組に路線変更してからは、パネリストの勢いが凄まじく、たけしが
押されっぱなしになる展開になっている。全オンエアでたけしが喋ってる時間は毎回数分でしかない。
その事でゲスト出演した野坂昭如に批判された事もある。
 政治風刺番組に路線変更してからは、結論が出ることなく、次の議題へ移る事が非常に多い。たけ
しも結論を出そうともせず、そのまま総括せずに終わらせる方式を黙認している。このためもはや討
論番組ではなくなっているという意見もある。視聴者が判断すればよいことだ。
 オープニングの出演者紹介ではビートたけし、阿川佐和子、大竹まことについては「(内容が毎回
変わる紹介文が入り)~いつもの3人組でお送りします」(大竹欠席時には「いつもの2人組」)と
オチ扱いで紹介されるが、日テレの「笑点」の大喜利における、歌丸によるメンバー紹介に類似して
いる。オープニングテーマは「カルメン前奏曲」。エンディングでは不定期に「喫煙コーナー」でた
けしと大竹がその日の議論やパネリストについてタバコを吸いながらボヤく場面がある。しかし近年
は2人とも禁煙してるらしく、タバコを吸っていない。たまにゲストも参加することもある。概ね1
~2日前に収録されているが、選挙投票日の翌日が放送日当日にあたるため、当日昼に収録され編集
し放送するいわゆる「撮って出し」の形式で放送されている日もある。また収録日後~放送日までの
間に当日取り上げる話題で最新の情報がある場合はVTR部分を編集している。VTR中に出演者の
声が聞こえない場合がそれだ。
 たけしの政治的発言は国民目線で非常に安定している。番組中は殆ど喋らないし、議論には全く加
わらない。また司会でありながら、進行は阿川に任せっぱなしで、番組中の発言はほんの数分だ。そ
れでいて、重みがあり、出演者が一目置いているのが見て取れる。それどころか、発言中たけしをチ
ラ見してたけしの心中を覗う出演者もいる。たけしの発言は決して出演者の意見を否定したり、同調
したりすることはなく、一般的な感想をボソッと述べるだけだ。その結果その見識は高く評価され、
総理大臣あたりに会食に招待される。たけしはその会談内容についてはいつも「世間話程度」としか
いわないが、そうとうレベルの高い相談をされているようだ。平成21年天皇陛下在位20年式典に
芸能人として唯1人招待され、宮内庁職員によって強引に両陛下に紹介されたが、たけしは恐縮三昧
の場面がテレビで放映された。たけしの政治的価値が高まっているということだ。


 レギュラー
 ビートたけし(司会・「悪党党」総裁、放送開始から)、阿川佐和子(準司会・「悪党党」副総裁、
平成10年2月よりレギュラー出演)、大竹まこと(パネリスト・「悪党党」党員、同年4月より正
式にレギュラー出演)、江口ともみ(ナビゲーター、阿川が欠席時に準司会を担当したこともある)
 

 
映画『戦場のメリークリスマス(Merry Christmas Mr.Lawrence)』
 大島渚監督作品で、大島の代表作。ビートたけしの起用はまさに慧眼。日本・英国・豪州・新国の
合作映画。昭和58年公開。第二次世大戦をテーマにした戦争映画でありながら、戦闘シーンは一切
登場しない。また出演者は総て男性という異色映画。原作は南ア出身の英国人小説家ローレンス・ヴァ
ン・デル・ポストの『影の獄にて』。作者自身の捕虜集要所体験に基づいてる。日本人がメガホンを
取った戦争映画ながらメッセージ性は薄い。しかしその根底にある日本独特の「武士道」「仏教観」
や、英国人、欧米人にある「エリート意識」「信仰心」「誇り」などがより尊く描かれ、またそれを
超えた友情の存在とそれへの相克がクライマックスにまで盛り上げられていく。その一方でハラ軍曹
(ビートたけし)らに見られる日本軍の朝鮮人軍属や捕虜に対する不当な扱いや、英国などにおける
障害者への蔑視行為など闇歴史の描写も容赦なく描いている。また後期の大島作品に底流する「異常
状況の中で形作られる高雅な性愛」というテーマも、日英の登場人物らのホモセクシュアルな感情と
して(婉曲的ながら)描写されている。
 出演は、ビートたけし、坂本龍一、デヴィット・ボウイなど。また音楽も坂本が担当。人気タレン
のたけし、人気テクノポップバンドYMО(イエロー・マジック・オーケストラ)の坂本龍一、そし
て英国の人気ロック歌手のボウイと、話題性十分の出演者だった。
 カンヌ映画祭に出品され、グランプリ最有力の前評判だったが、結局今村昌平監督の『楢山節考』
に掻っ攫われた。賞レースには敗北したが、映画は大絶賛を受けた。これを機にたけしは映画への出
演を重ね、やがては本名の「北野武」で映画監督となる。
 

 
映画監督北野武
 当初は、売れっ子芸能人の道楽的な見方をなされていたが、現在では世界的な評価を確立している。
ビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」と評される青の色使い。また、多くの作品で登場
人物の「死」が描かれ、青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚と相俟って全編に静謐な不
気味さを醸し出している。こうした一貫したカラーを持つ一方で、撮影時のアングルや編集のリズム、
自身の絵画の導入、CGによるエフェクトなど、一作ごとに新たなチャレンジや創意も感じさせる。
映像に一層の格調高さを与えている久石譲の音楽(3作目以降)も重要な存在だ。
  平成 元年 『その男、凶暴につき』
  平成 2年 『3‐4X10月』
  平成 3年 『あの夏、いちばん静かな海』
  平成 5年 『ソナチネ』
  平成 7年 『みんな~やってるか』
  平成 8年 『キッズ・リターン』
  平成10年 『HANA‐BI』
  平和11年 『菊次郎の夏』
  平成13年 『BROTHER』
  平成14年 『Dolls』
  平成15年 『座頭市』
  平成17年 『takeshis'』
  平成19年 『監督・ばんざい!』
  平成20年 『アキレスと亀』
  平成22年 『アウトレイジ』
  平成24年 『アウトレイジビヨンド』
  平成27年 『龍三と七人の子分たち』
  平成29年 『アウトレイジ最終章』
 

 
フライデー襲撃事件
 昭和61年12月9日、たけしが、たけし軍団とともに講談社のフライデー編集部を襲い乱暴を働
いて逮捕され。その結果東京地裁において懲役6ヶ月・執行猶予2年の判決を言い渡され確定した。
そのために、たけしのレギュラー番組で人気だった「天才たけしの元気が出るテレビ」「風雲!たけ
し城」「スーパーJOCKEY」「たけし・所のドラキュラが狙っている」の出演を謹慎のため半年
間遠慮した。襲撃した理由は、当時たけしが交際していた女子大生にフライデー記者が校門で急襲取
材をしたための報復といわれている。また、たけしを弟子の様に可愛がっていた横山やすしは「悪い
のんは、たけしやない! 悪いのは雑誌『フライデー』や!」とフライデーの取材方法に対して痛烈
に批判をした。
 フライデーはその報復として、たけしの一番弟子だった東国原英夫(そのまんま東)宮崎県知事の
粗捜しに躍起で、批判記事を掲載し続けており、知事が失敗することを望んでいる。
 

 
バイク転倒事故
 平成6年8月2日午前1時40分ごろ、東宮御所鮫河橋門前の都道で、酒に酔った勢いで知人の新
品原付バイクを運転して転倒事故を惹き起こし、入院生活などで半年間ブラウン管から姿を消した。
酒気帯び運転にて書類送検されるも単独の自損事故のため起訴猶予。反則点数7点、免許停止30日。
退院時、顔面は半分麻痺した状態だったが、リハビリにより回復し、復帰当時は「頭にボルトが入っ
ていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面の麻痺が治らなかったら芸名をマヒナスターズにし
ます」と自らの怪我をネタにしていた。またたけしが司会を行っていた番組は他の出演者が司会代理
を行っていたが、「平成教育委員会」はたけしと仲の良い明石家さんま、所ジョージ、大橋巨泉が代
理講師をつとめた。
 

 
芸大教授
 平成17年4月から東京芸術大学に新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任し
た。監督領域の教授は北野武と黒澤清の2名のみ。次兄の北野大も淑徳大学の教授なので兄弟で教授
となった。
 


【梅田】(うめだ)1~8丁目                     昭和40年1月1日
 梅田村。明治22年「市制町村制」による梅島村の大字、昭和3年梅島町の大字、同7年足立区
が成立して梅田町となり戦後へ至る。同39~45年新住居表示により、足立・梅田・中央本町・
梅島・西新井本町・関原に分解した。現行の梅田は同40年新住居表示により梅田町・千住八千代
町の大部分に小右衛門町・千住高砂町・梅島町・島根町の各一部をあわせた町域を1~8丁目に分
けている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 梅田の由来
 ①、この辺りは淵江村といっていたが、海に開いた川口にできた寄り州だったので「海田」とい
  われ、いつしかそれが転訛したとする説。
 ②、平安末期に源為義の三男義広が一時逗留したことがあり、その縁で五代孫の久広がやってき
  て梅田を名乗り村名も改めたという説(新編武蔵風土記)
 とがある。2丁目の明王院は義広の建立と伝え、彼が天満宮を勧請して明王院に万徳山梅林寺の
号をつけた。しかし梅田氏は義広から22代のときに去って以来未だに戻らない。見つけたら「早
く戻れ」といってやっちゃあくんねえかい。
 梅田村は日光街道奥州街道)沿いに開け、街道の両側は一面の田圃だったよ。

   千住出れば奥街道の青嵐(子規)
   長閑さや千住曲がれば野が見ゆる
   釣って来た中に梅田の菱の花
   つい掘った池に梅田の水馬(みずすまし)


 だから梅田は赤不動(明王院)でい! 関原不動も近くにある。
 


■十三間道路→国道4号線(日光街道バイパス→日光街道)
 千住新橋の北、梅田交差点から水神橋までの間の道幅十三間の軍用道路をいった。戦後暫く、道路
の中央が無舗装だった。昭和9年に千住新橋が架かり、都電が千住から延伸されるといわれていた。
戦時中には、滑走路になる(航空機材が近い)などともいわれていた。
 十三間道路は各地にあり、明治神宮の西参道、目白通り、第二京浜国道などもそう呼ばれていたが、
砲車回し、戦車回転の必要幅員が基準になっている。
 


■西新井緑地

 梅田1・3・4丁目の河川敷に数面の野球グラウンドがある。
 


鷲谷山常楽院真福寺(阿弥陀如来)
 梅田1丁目1番23号にある新義真言宗豊山派の寺。延宝元年(1673)に賢清によって開山。
旧弥五郎新田268番地に創建されたが、大正4年荒川放水路(荒川)開鑿のため現在地に移転、本
堂は昭和20年愚かなアメリカ軍の空爆により焼失した。現在の本堂は鉄筋コンクリート造りの2階
建て。石段で本堂へ上がる。荒川にかかる千住新橋の北詰の角地で、外からもよく見える。掲額「常
楽仏殿」。山門の右手は墓地、その奥は庫裏。左は催場。
 墓地に元禄四年(1691)銘の墓碑、天保十四年(1843)5月建立の無縁塔がある。
 「足立風土記資料寺院明細明治5年項」に、

   小本寺吉祥院門徒 東京府管轄武州足立郡弥五郎新田 鷲谷山真福寺
   創立年暦等不詳、賢清開山、寺格無之
   但当住無之、東京府管轄武州足立郡千住宿北組長円寺住職栄秀兼務。
   境内、但除地、三反六畝二十八歩。
   檀家、58軒。
   庵室等無之


 とある。


■満徳寺 ?
 梅田1丁目3番にあったという浄土真宗の寺。本尊は阿弥陀如来。昭和13年の創立とか。


八千代児童遊園
 梅田1丁目5番6号にある区立公園。


千住宝光教会 ◇
 梅田1丁目11番2号にある日蓮宗の小寺。
 


■煽り因縁強盗事件(→犯人即逮捕)
 梅田1丁目22番5号先荒川土手通り東行き道路で起きた恐喝事件。平成31年4月26日朝8時
半頃、当該道路を走行中の乗用車に乗っていた3人の男が、後続の軽自動車を運転していた男性に、
「煽り運転をしただろう」と因縁をつけ、胸を殴るなどの暴行を働き、4000円入りの財布とスマ
ートフォンを奪い逃走した。通報を受けた警察が捜査していたところ、江戸川区の駐車場に停めてあ
る加害者の車を発見、追及により、大竹勇多(35歳)、山田誠(32歳)川田俊ライフィール(3
0歳)の3人を逮捕した。大竹と川田は一部否認しているが、山田は全面的に認めている。そしてこ
の連中の顔が凄い。顔を見せただけで暴力団だ。それだけで脅迫罪が成立する。こんなのに迫られた
から暴力団員でも小便チビってしまうよ。しかし朝やることか? 例え煽り運転だったとしてだよ、
財布奪っていい法律はない。奪った時点で加被は逆転する。30過ぎてそれが解らんか?


大光山善立寺
 梅田1丁目26番10号にある日蓮宗の寺。草創は浅草新寺町、家康の信頼厚く、身延山江戸三役
寺の一つとして、江戸触頭(えどふれがしら)の寺格を持っていた。昭和20年愚かなアメリカ軍の
無差別空爆により焼失、同26年現在地を求めて移転、客殿および本堂は翌年11月に落成した。静か
な田舎にこしたはずだったが、あれよあれよという間に都市化の波に飲み込まれて都会の弩真ん中に
なってしまった。本尊は日蓮大菩薩。現在の堂宇は、コンクリート造りの本堂・庫裏・催場一体の建
物だ。寺宝として日蓮上人真筆の「下山御消息」の断片がある。また什宝の大型木造観音像は、約8
00年前のものをいう。

 
観音堂
 境内にある。

 初代林家正楽の墓
 昭和40年になくなった紙切り芸の名人。客の要求に応じてハサミで白紙を切り抜いて絵かを作る
芸だ。細かいところまで表現する芸は見事だった。一柳金次郎(いちやなぎきんじろう)。五明楼春
輔(後の6代目林家正蔵)を訪ねる。正福と名乗ってセミプロとなる。睦会が設立の騒動の時に下地
ありと認められ二つ目となり「睦」の字に因んで睦月家林蔵(むつきやりんぞう、林蔵は3代目にな
る。)を名乗る。その2年後に6代目桂才賀を襲名。この当時は噺家不足と大量真打昇進がきっかけ
であったため、2年での準真打昇進だった。噺家としては出身地だった信州の訛りが直らずうまくい
かなかった。紙切りを披露するにいたったのは睦会の忘年会で、それが好評となったの大正12年の
関東大震災もあり紙切り師になるに至った。その後正楽を名乗り真打となった。新作落語の『峠の茶
屋』は初代正楽の作。享年70歳。
 跡を初代林家小正楽が継ぎ、平成10年没。同12年に2代目小正楽が3代目を継いでいる。
 なお4代目林家正蔵、その弟子林家林喬、奇術の帰天斎正一が林家正楽を名乗っているが、代数に
は数えない。上方落語にも同じ名跡があり、6代目を数えるが、現在はいない。

 子護り地蔵
 境内にある。
 


一家無理心中事件
 梅田2丁目7番15号、日光街道に面した極普通の民家で起きた。この事件は平成20年2月11
日午後3時半ごろ、「キカイの東和」経営の佐々木亨容疑者(52)の自宅兼工場で、佐々木と母親
の得子(85)、そして妻の和子(49)が死亡しているのが見つかり、二男で都立高1年の晃(1
5)が重傷を負った。長男は偶々出かけていて無事だった。
 警視庁のその後の調べで、住宅の1階では、刃渡り20センチの血の付いた鉈(なた)が見つかっ
ており、夫以外の2人は鉈で頭を割られるなどして殺されていたことが判った。晃も左の側頭部を襲
われた上、両手首を切断されたと見られている。一方、佐々木は首の左側を鉈で切って死亡したとみ
られ、また2階の廊下に佐々木が書いたと見られる血の付いたA4判の便箋1枚があり、「母親だけ
を連れて行くつもりだったが、どうしてもみんなを残していけない。家族を守れなくて情けない」と
いった内容が8、9行走り書きされていた。警視庁は佐々木が書いたとみている。晃が病院へ運ばれ
る際、「オヤジにやられた」と話したということからも、警視庁は、佐々木が無理心中を図った可能
性があるとみて、殺人・殺人未遂事件として捜査に入った。
 佐々木は父親から町工場を引き継ぎ、自宅1階を作業場として機械の修理や中古機械の販売を行っ
ていた。妻の和子とも修理で出入りしていた縫製工場で知り合ったという。2人の息子にも恵まれ、
休日にはお揃いのヘルメット姿で自転車に乗り、仲良くサイクリングに出かける姿を近所の人は目に
していた。また一家揃っての買い物や、子供が機械器具を片づけるなど、手伝いをしていた姿もあっ
た。和子はサイクリングについて近隣に「お金もかからないし、健康にもいいからね」と話し、はにか
んでいたという。そんな様子から近隣に一家は「幸せそのもの」と写っていた。だが数年前から徐々
に一家を取り巻く環境に変化が生じ始めてきた。町工場に不況の影響が出始めたためだ。安い中国の
機械に押され、佐々木が修理した機械を車に積み込んで搬送する姿が見られなくなった。工場のシャッ
ターも閉まる日が多くなり、近所の人は「どうやって生計を立てているのか、みんな心配していた」
と漏らす。3日ほど前には、固く閉まったシャッターの奥から「分かっているんだろう」と、佐々木
らしき男性が怒鳴る声を聞いた人がいる。「揉めていたんですかね。こんなことになるなんて・・・」
と肩を落とした。
 鈴木は日本テレビに手紙と不動産契約の書類を送り、借地権契約で誤解的トラブルがあったことを
匂わせている。専門家が書類を見たところ、書類に不備もいんちきもなく、悪徳不動産屋の口車に乗
せられて不利益を蒙ったということではないようだ。契約素人の悲しさ、思い違いをして思ったよう
にならなかったこと、寝たきりの母の介護・・・、息子達の学費、生活、諸々を考えるとこういう方
法しか思い至らなかったのだろう。真面目な人間が落ちる地獄だ。真面目な人間は真面目であるが故
に視野が狭い。つまり選択肢が少ない。結果最悪のパターンを選択してしまう。平たくいえば悪霊に
憑依れるのだ。おいらの守護神は不動明王だよ。真言を申し上げると常に最良の道を教えてくれるの
さ。


やよい中華料理(ラーメン)
 梅田2丁目19番2号にある足立区民推奨の「町中華」

   店のPR
   昔ながらのラーメンです。シニア二人で62年間足立区で頑張っています。
   ラーメン400円、チャーハン+ラーメンセット800円と昔ながらの価格で提供。
   最近は、近くに宿泊施設ができて外国人のお客様も来てくれるようになりました。
   是非一度お越しください。

   推奨者のコメント
   昔ながらの懐かしい味です。毎日食べても飽きません。
   さっぱりとしたしょうゆ味の鶏がらスープが美味しい。セットメニューもオススメです。
   今の時代、この値段でこの中華料理はありえない。ラーメン400円は驚き!


梅田二丁目児童遊園
 梅田2丁目19番2号にある区立公園。


ゆめロードプチテラス ◇
 梅田2丁目21番1号にある区立ミニ公園。平成5年4月1日開園。大きな椰子の木がある。石碑
石塔などもある。


■足立の花火
 梅田3丁目河川敷が主な会場。正式には千代田線鉄橋~西新井橋の間。公式タイトルは「第○回足
立の花火」(○には数字が入る)。よく「足立の花火大会」といわれることもあるが、平成20年第
30回からは「足立の花火」が正式名称だ。開催日は例年7月最終土曜日の2日前の木曜日(荒天の
場合は翌日順延)。
 起源は、明治時代に千住大橋の落成を祝い花火を打ち上げたのが最初といわれる。そして大正13
年8月13日に「千住の花火大会」として第1回を開催。以後毎年開催され、「両国の花火」同様、
夏の風物詩として多くの人々に親しまれるようになった。しかし第二次世界大戦により昭和14年を
以て一時中断。終戦後の同24年再開、この年は8月13に開催された。その後も足立区民の憩いの
場として定着するも、河川改修により同34年を最後に「千住の花火大会」は幕を閉じた。
 同45年頃になると、区民から花火大会復活を望む声が多く寄せられるようになる。そこで区は、
同54年8の足立区民納涼大会で約800発の花火を打ち上げたところ、これが大好評を得たこと
により、翌54年8月11日「足立の花火大会」と名称を改め復活。前身「千住の花火大会」の終了
から20年後のことだった。この年は3700発が打ち上げられ、復活を待ち侘びた多くの区民を酔
わせた。その後も「足立の花火」として毎年7月下旬に開催されるようになり、現在も足立区民や多
くの花火ファンに親しまれている。
 


梅田三丁目プチテラス ◇
 梅田3丁目7番4号にある区立公園。平成7年4月1日開園。 

 
「恋人達のシーン」
 園内にあるステンレス製のオブジェ。


梅田南公園
 梅田3丁目13番24号にある区立公園。


梅田中央公園
 梅田3丁目25番2号にある区立公園。モニュメントもある。

 
オブジェ
 真ん中の南寄りにある。


■梅島第二小学校
 梅田3丁目27番4号にある。昭和8年梅島尋常高等小学校分教場として開設。同19年梅島第二
国民学校として独立開校。同20年空襲により校舎焼失。同22年区立梅島第二小学校と改称。同2
9年創立10周年記念式典および校歌制定。同39年体育館完成。創立20周年記念式典。

 校歌「前に荒川放水路」 作詞・田辺弥太郎  作曲・大和田愛羅
  1.前に荒川放水路
    朝夕富士を 仰ぎつつ
    清く気高き心持て
    いざや励まん我が友よ
    輝く我らの 梅二校
  2.文化の光射す処
    梅田に因む梅の花
    強く床しき心持て
    いざや学ばん我が友よ
    輝く我らの梅二校
  3.平和漲る日本の
    大きな望み抱きつつ
    正しく明るき心持て
    いざや進まん我が友よ
    輝く我らの梅二校


 同45年鉄筋校舎完成落成式・創立25周年記念式典。プール完成。

 第二校歌「友達」 作詞・平成11年度6年生  作曲・松沼由起子教諭
  1.ねぇおぼえている
    おはようって言ったら
    すぐ友だちになった
    ねぇおぼえている
    あそぼうって言ったら
    学校がたのしくなった
    歌おう 心がはずむ
    歌おうよ いっしょに
    友だちは いくつ年をとっても友だちさ
  2.ねぇ おぼえている
    こんにちはって言ったら
    すぐ友だちになった
    ねぇ おぼえている
    さあ行こうって言ったら
    歩くのが楽しくなった
    おどろう 体がはずむ
    おどろうよ いっしょに
    友だちは いくつ年をとっても友だちさ


 同47年給食室完成。同創立50年30周年記念式典。同59年創立40周年記念式典。同60年
農園完成。
 平成6年創立50周年記念式典。同16年創立60周年記念式典。東京都教育委員会小学校給食優
良校。文部科学省小学校給食優良校。同20年あだちキッズぱれっと「梅二スマイル」開設。同26
年東京都学校歯科保険優良校。同26年創立70周年記念式典。
 


■石不動堂
 梅田3丁目18番1号にある小堂。旧道の荒川土手下、川田橋交差点から北へ梅島駅方向へ進んで
信号を2つ越した先、すぐ赤不動・明王院への入る角地に小さなお不動堂がある。堂前には「石不動
尊」と書かれ、堂の扉には小さな竹筒が下がってる。耳を患う人は、ここに願を掛け、治れば竹筒に
酒をいれて奉納するという。「足立風土記稿」に、

   石不動
   梅田の千住堀にそった旧道を進むと、西側に「石不動尊」と記された扁額が掛けられた小
   堂がある。
   小堂のなかの不動尊は石製坐像で、台座に耳不動と記されているが、別名「耳の不動さま」
   ともよばれて、耳を病む人の強い信仰を受けている。耳を病む人は、竹筒に酒を入れて拝
   み、その酒を耳につけると治るという。また治ると御札を竹筒に酒を入れて奉納する。小
   堂の前に竹筒が何十とぶら下がり、絵馬にも耳の画や不動尊の剣を記したり、幟も奉納さ
   れ、昔はもっと数が多かったという。
   ここに昭和40年に再建された、「子育弥彦尊像、是より二丁行く」という道しるべがあ
   る。石不動も明王院の赤不動の導き不動の一つになる。


 とある。

 八彦尊道道標
 堂前にある

      奉納
   子育 
八彦尊道
      是より八丁行

 と彫ってある。八彦尊は次項の赤不動明応院内にある。
 


赤不動 万徳山明王院梅林寺(感得不動明王)

 梅田4丁目15番30号にある真言宗豊山派吉祥院の末寺。本尊は感得不動明王。入口を入ると、
右に江戸時代初期に建立された立派な赤塗りの堂があり、通称「赤不動」と呼ばれる。普通不動明王
は怒りで紅潮していることを表して赤塗りなものだ。正面は本堂で。開創は治承二年(1178)六
条判官源為義の三男志田先生義広(しだせんじょうよしひろ)。宝物は『明王院縁起』『天満宮縁起』
『感得不動明王由来記』、如意輪観音像などがある。境内は広い。不動堂の奥は墓地で道を隔てて東
にもある。江戸時代3代将軍家光、8代将軍吉宗が鷹狩の際に使用する御膳所(食事を摂る場所)で
あり、その記録が残されている。

   明王院
   当院の縁起によると、治承二年(1178)六條判官源為義3男為広が、榎戸に一宇を建
   て源家の祈願所とした。その後弘安の頃、三世義純がここに住み、五世久広の時、当院の
   傍に天満宮勧請して万徳山梅林寺と号し、家号を梅田と改めた。その頃よりこの辺を梅田
   村といった。江戸時代には、徳川家光、八代将軍吉宗、十二代将軍家慶等歴代将軍の鷹狩
   の際、度々の御膳所となり、また源家の古い祈願所の故を以て、寺領13石を賜った。寛
   保二年(1742)不動明王を奉戴して不動堂を建立し、赤不動といわれて庶民の信仰を
   集めた。当院には都重宝如意輪観音像、関流算法宗師小泉寧夫大先生の碑、八彦尊(咳に
   効験あり)などがある。
   昭和42年6月                      東京都足立区教育委員会

 如意輪観世音菩薩坐像
 木像の縁起については、必ずしも明確ではないが、『新編武蔵国風土記稿』に、

   三石本尊地蔵ヲ安ス古ハ如意輪観音ヲ安セリト云・・・

 とあり、この像がかなり古くから明王院に保存されてきたことが判る。像の大きさ、総高41cm、
面奥行9.5cm、像高34cm、臂張20cm、膝張36cm、膝高17.5cm。元来六臂だが、
頬に掌先が触れる左の第一臂と、掌先が触地印を結ぶ右の第一臂を残すのみで、他は何れも欠失して
いる。またこの二臂も完全ではなく、指先の部分や掌の部分がそれぞれ欠けており、全体の像容につ
いては想像すべくもないまた顔面の玉眼は瞼の部分が干割れしている。
 この像は造像後、破損の都度修理をしているが、仏師の手を経ないために、不完全な修理のまま保
存されてきたものだ。像底から胎内を見ると、寄木法や内刳りの手法が簡単に理解できる。また胎内
には、造仏銘の外、以下のような縁起が墨書され、木像の変転の様子が窺える。

   応安二年(1368)十二月十七日 作者法眼院秀

   為令法久住利益人天
   本堂破壊而以後多年時節以爾興
   三間四面堂社一宇永正十八年(1521)辛巳正月六日
   創立同柱正月廿八壬午同棟上■日曜笙宝
     旦那 鈴木雅
        穂常信 (書印) 大工太良左衛門

   観音破壊而後
   修補仕事明王院三代目住僧海伝作之■ 寛文元年(1661)辛午閏八月吉日


 とあり、この像は六百余年の昔、足利義満が将軍職に着いた頃に造られ、2度補修されたことが判
る。この像の特徴は、彩色や漆箔を施さない檀像様式で、仏像が礼拝の対象から造形的な観賞へと移
行する時代の様式といえる。この像は永正十八年(1521)正月六日吉野如意輪堂創建の頃から3
間四面の同舎に安置されていたという。

 八彦尊
 石不動の小祠の脇に「子育八彦尊是り二丁行く」と書かれた道標がある。道標の指示通り進むと明
王院の門前に出、この境内に祀られている子供の守り神だ。祠は本堂の横にあって、小振りながら立
派なものだ。咳の神様としても知られ、多くの信心を集めてきた。祭神は八彦尊 願掛けの赤白の襷
が一杯かかってるよ。子育八彦尊として崇敬されているが、咳の止まらない人が祈り、寺から「おけ
さ」を借りて、治ったら新しい「おけさ」を奉納する習俗がある。「咳の不動様のおけさ」として有
名だっちゃ。現在でも色とりどりの「おけさ」が奉納されてらぁね。
 今でも咳止めの御札や御符が寺から出されている。八彦尊を祀ったのは、明王院中興の祖真雄和尚
で、霊験の新たかなるを聞き、越後の弥彦神社に赴き、2尺8寸の八彦尊坐像を、この寺に捧持した
というが、越後の人は文句をいわなかったのかね? 真雄は、自ら建立した不動堂の横に一祠を建て
て安置したのが今の堂だそうだ。。 

 
赤不動堂
 
本堂の右側にある。本尊の不動尊は弘法大師42歳の時の作といい、京都の歌の中山清閑寺にあっ
たものを、寛保二年(1742)に当時の住職が譲り受けたと、盗んだんじゃないと、縁起に詳しい。
この不動尊を「感得不動明王」という。堂は、昭和48年に現在地に改築されたが、『江戸名所図会』
に出てくる堂宇は、これより北にあり、木造朱塗りの大堂だった。赤不動の所以だわいな。

 
明王院天満宮
 境内にある。『江戸名所図会』に記載がある「梅田天神祠」のことか?。

 
小泉伝蔵埋永寧夫の碑
 天滿宮の裏手にある。小泉は梅田村の生まれで、幕末期における関流和算の大家だった。寺に門人
による算額が所蔵されている。

   関流和算
   小泉寧夫先生記念碑


 
算額
 和算というのは日本式数学で、極めて高度な数学。洋算に比べて知的要素が高い。数学の問題を漢
語で書いて寺社に掲額する。即ち問題を解けという訳だ。参詣した者で、力のあるものが解き、答え
を掲額して去る。中には問題を書き残していく剛の者もいた。レベルが高すぎておいらにはチンプン
カンプンだい。漢字を読むだけで一苦労さ。まぁ法隆寺や出雲大社を建てたんだから、数学は大変な
ものだったろうよ。何でも曲尺(かねじゃく)で円周率だって、何だって弾き出すってえから凄いよ。


■都下水道局梅田ポンプ所

 梅田4丁目24番18号にある。昭和47年設置。平成4年移転。
  


■梅田庚申塔 ◇
 梅田4丁目32番5号くたびれた家の前にあるが分かり難い。道に面してある。寛延三年(175
0)日月・青面金剛「奉造立庚申」一鬼・三猿が刻んである。梅田6‐9にもある。
 


■稲荷社 ◇
 梅田4丁目37番9号カーサフェリスの前にある小祠。 


■三峰神社(伊邪那岐命/伊邪那美命)
 梅田4丁目40番21号駐車広場の脇にある小祠。住所が向かいの「4‐38‐15」と記したものがある。  


普光山遍照院(阿弥陀如来)
 梅田5丁目9番3号にある真言宗の寺で、梅田稲荷の別当寺。本尊は大日如来。享保六年(172
1)二月念仏講供養塔、貞享年中(1684~87)の墓碑がある。コンクリート造り2階建ての本
堂の周囲は参道を残してすべて墓地。奥に庫裏がある。ここは明治13年梅田・栗原両村によって公
立楳栗(うめぐり)小学校が開かれたところだ。

 楳栗小学校跡碑
 参道を行って門前脇に石の角柱が立っている。
 


■梅田稲荷神社
(宇迦之御魂神) ◇
 梅田5丁目9番4号にある中社。「新編武蔵風土記稿の梅田村遍照院項に、

   稲荷社 村の鎮守なり

 とあり。「足立風土記資料神社明細明治10年項」に、

   東京府管下武蔵国南足立郡(梅島邑大字)梅田村字村田 村社稲荷神社
   祭神 宇迦御魂命。
   由緒「不詳」 明治6年7月5日村社ニ被定候。
   社殿間数 本社、間口1間半奥行き1間半。拝殿、間口2間奥行2間。向殿、間口1間半
   奥行1間。
   境内坪数 280坪 官有地第1種
   境外所有地 田7畝歩、梅田村字村内耕地。時価金42円55銭6厘
   氏子戸数 145戸
   東京府庁迄 3里20町。以上


 とあり、「足立風土記稿」に、

   梅田の西端遍照院の南側に存在する神社である。志田先生義広が建立した神社と伝える。
   境内建物は、社殿、神楽殿、手水舎、社務所である。神輿庫には、梅田亀田町会・梅田通
   町会・梅田神明町会・梅田上町会・梅田稲荷町会・梅田東町会・梅田本町会・梅田五丁目
   正和町会の九町会の神輿が保管されている。震災前までは神輿は一つであったが、大正末
   期から入口が増えて、各ズシがそれぞれ持輿を持つようになったという。昭和初期には、
   梅光会・協和会・梅親会・神明会という四つの神興会があった。
   また、社殿正面右手には、さし石(力石)が置かれ、鳥居は「大正十一年(1922)九
   月」の銘があり、その他境内に、「天明七(1787)丁未九月創立」、嘉永七年(18
   54)甲寅十一月再建氏子中」の銘が織立て、記年の銘文が剥離して年代不明の手洗石が
   ある。

 とある。

 禊教の教祖井上正鉄の墓
 社殿の左側に、妻の安西男也と二人の高弟の墓と共に並んでいる。

 庚申堂
 神社の玉垣に沿ったところに庚申塔と外荒神の2基を祀っているる。もと梅田堀の端にあったもの
を地元の人々がここに安置したもので、野仏の保存が図られている。

 漱盥石
 文久元年(1861)九月の銘がある。
 


梅田五丁目児童遊園
 梅田5丁目12番12号にある区立公園。


梅田ほのぼのプチテラス ◇
 梅田5丁目22番5号にある区立公園。平成24年11月23日開園。


ライオン像 ◇
 梅田5丁目25番9号ORCHARD GARDENの玄関左脇にある銅像。


梅田五丁目フレンド公園
 梅田5丁目25番16号にある区立公園。


梅田五丁目第二児童遊園
 梅田5丁目27番3号にある区立公園。


■足立梅田教会
 梅田5丁目28番9号にある日本キリスト教団の教会。 


■梅田六丁目プチテラス ◇
 梅田6丁目5番13号ローヤルシティ梅島先にある区立ミニ公園。平成2年4月1日開園。

 TRIANGLE POINT‐UMEDA6 ◇
 平成元年第1回足立区野外彫刻コンクール入賞の鈴木明の作品。 


■旧日光街道・東武鉄道旧線路分岐碑 ◇
 梅田6丁目5番13号ローヤルシティ梅島先、区有地先端歩道にある石標。旧線路は、ここから西
新井駅へ直線で向かい、亀田トレイン公園(車輪・線路オブジェあり)を通った。南は旧日光街道を
通り、国道4号線(日光街道)を超えて右にカーブを切り、現在の荒川上で現線路に合わさっていた

   右 旧日光街道
   左 東武鉄道旧線路敷

 この碑は、現在地に建つのであれば左右が反対だ。100m程南の梅田6‐4‐12の追分に建て
るべきだ。南に向かって右が元日光街道で、江戸時代はこの道が日光道中だった。


■梅田庚申塔 撤去
 梅田6丁目9番10号あったが見当たらない。写真が残っている、再開発で何処かに移設されたの
だろう。寛文五年(1665)「奉造立庚□□□」の文字と3猿を刻む光背地蔵と寛文八年(166
8)「奉造立庚申供養□□二世安楽所」と3猿を刻む光背型だった。写真にある葬儀と花環の根岸商
店は健在だ。なお梅田庚申塔は梅田4‐32‐5にもある。
 


■梅田神明宮・井上神社(天照皇大神・井上正鐡霊神) ◇
 梅田6丁目19番1号にある。祭神は天照大神、慶長年間(1596~1615)の勧請という。
 初め地主神を勧請したが、明暦三年(1657)の江戸の大火、宝暦十年(1760)の江戸の大
火に、二度とも芝神明宮が類焼し、何れかの火災の後の頃、地主神の祀られている境内地内に、神明
社として建立され、後に梅田神明宮と呼ぶようになった。境内右の手水舎には、例祭は4月15日。
 現存の奥殿が由緒深き奥宮で、正鐵が在世中、心魂込めて祈念した社殿だ。拝殿は明治7年に建立
されたもの。その社殿の隣には、正鐵がお住んでいた家屋が、幾度かの修繕を経て、今も残されている。また、鳥居は明治30年に建立された。奥殿、拝殿、正鐵旧宅、鳥居。これらの建物は、大正1
2年の関東大震災にも、さらには、第二次世界大戦の空襲により周辺一帯が火の海と化した時も、類
焼を免れ、今日に至っている。「新編武蔵風土記稿」の梅田村の項に、

   神明社
   神主を朝日出羽と云、吉田家の配下なり。


 とあり、「足立風土記稿」に、

   梅田の中央に存在する同社である。創建年代は不詳。江戸の大火による芝神宮焼失の直後
   のころ、当時の地主神が祭られていた現在の境内地に、神明宮が建立されたという伝承が
   ある。本殿の棟札には一八〇三(享和三)年と記され、一九世紀初頭には神明宮が存在し
   たことがわかる。「風土記」には、「神主ヲ朝日出羽ト云、吉田家ノ配下ナリ」とあり、
   吉田神道系の神社であった。手水石には、文化十二年(1815)の年号と神明宮の社号
   が刻まれており、このころには当社は「神明宮」と呼称されていたことがわかる。拝殿と
   幣殿は明治7年に造営された。関東大震災と戦災の被害は免れた。


 とある。

 井上正鐵の碑
 鳥居を潜ると左右に大きな碑がある。左は天保11年(1840)にこの神明宮の神職で、禊教を
唱えて庶民を教導した井上正鐵の事歴を刻した教祖の碑だ。右は「貫天地」と題して禊教徒の名が刻
まれている。さらに参道左側に低い歌碑がある。明治27年建立。

   
散れや散れ散りてぞ花は根に帰る実を結ぶとぞ人は知らずや

 天保の改革で不満分子を扇動していると疑られ、幕府の弾圧にあった正鉄の遺詠が刻み込まれてい
る。ここが神道13派の一つ教派禊教の発祥地なのだ。どうだ判ったかぁ!

 井上正鐵は、諏訪の人。安藤真鐵の子で、神道・仏教を修学し、後に禊教を唱えて諸公庶民を教導
した。天保十二年(1841)幕府は衆庶を煽動するものとして逮捕し三宅島に配流した。正鐵は在
島7年、嘉永二年(1849)二月十八日その地に没した。行年60歳。明治元年大赦により、遺骨
を足立郡の梅田と谷中に分骨した


梅田公園
 梅田6丁目26番1号にある区立公園。


■佐竹屋敷跡 → 佐竹稲荷神社(宇迦之御魂神) ◇
 梅田6丁目28番7号にある小っちゃな神社。この稲荷は〝いぼ稲荷〟の別称があり、豆腐と油揚
げを供え、その食断ちをすると、いぼが取れるといわれている。この辺りは江戸時代出羽久保田(秋
田)藩佐竹家の抱屋敷のあったところで、この稲荷は鬼門除けの屋敷神だった。『新編武蔵風土記稿』
に「佐竹徳寿丸抱屋敷」とあり、徳寿丸は佐竹義宣の幼名で、慶長七年(1602)水戸から秋田に
移封されたときの藩主だ。秋田藩ではこの梅田屋敷を参勤交代の時に休息所としたり、江戸大火の場
合の避難場所として利用した。抱え屋敷とは、自分で抱える、つまり私費で購入するか借地した屋敷
のこと。普通大名屋敷は将軍から与えられる上・中・下の拝領屋敷だ。
 神社の前に区が建てた「佐竹屋敷跡」の石柱が建っている。

   佐竹稲荷神社
   江戸時代、この辺りは秋田藩主佐竹家が所有した、広さ約5200坪の抱屋敷地で、延宝
   八年(1680)には存在し、享保三年(1718)までは周囲に囲いや家屋もあったこ
   とが記録から知られている。当社はこの屋敷地の北東隅に位置し、屋敷神として祭られ、
   「佐竹稲荷」と呼ばれている。
   佐竹氏は中世常陸国(茨城県)の豪族で江戸時代、幕府により秋田へ20万石で転封され
   秋田藩主となった。屋敷地の東側には旧日光街道が通っており、参勤交代で秋田と江戸を
   往来する時の休息や江戸の大火の際の一時避難所等に利用された。
   当初の社殿は、寛政九年(1797)に建立された。古くから近隣の人々の信仰を集め、
   寛政十年の幟なども保存されている。毎年、二月の初午の祭礼には参詣者も多く、かつて
   当神社を信仰し、よそへ移り住んだ信者からも献納物が寄せられている。
   当社は「いぼ稲荷」とも称され、願を掛けるといぼが取れるという。現在は当屋敷地を受
   け継いだ三谷家が、神社をお守りしている。
   当社を含めたこの一帯は、屋敷地があった遺構であり、「佐竹抱屋敷跡」として昭和57
   年に足立区登録記念物(史跡)となった。
   平成23年3月                         足立区教育委員会
 


■梅田の里プチテラス ◇
 梅田6丁目30番10号にある区立ミニ公園。平成17年4月6日開園。  


■第九中学校
 梅田6丁目32番1号にある。昭和22年梅島小学校内に開校。昭和24年現在地に校舎落成し移
転。同30年図書室開室。同31年体育館完成。校歌制定。

 校歌
「紫煙る」 作詞・名取俊雄  作曲・間宮芳生
  1.紫煙る芙蓉峰
    緑に霞む筑波嶺を
    西と東に仰ぎ見て
    礎固き学び舎に
    吾等が希望 吾が九中
  2.流れも清き荒川や
    梅田の里の春秋を
    明るく清く健やかに
    努め励まん学び舎は
    吾等が誇り 吾が九中
  3.自主の心を身に付けて
    互いに睦み助けつつ
    朝夕(あしたゆうべ)に勤労と
    真理夢見る学び舎は
    平和のしるし 吾が九中

 同33年山田記念庭園完成。同36年第一期鉄筋コンクリート校舎落成。同38年南側木造校舎火
災。第二期鉄筋コンクリート校舎落成。同40年プール完成。同42年給食室完成・完全給食開始。
同48年体育館改築。同49年第三期鉄筋コンクリート校舎落成(12教室増築)。同51年第四期
鉄筋コンクリート校舎(特別教室)落成。同52年創立30周年記念式典。同62年創立40周年記
念式典。同63年AVシステム一般教室設置。
 平成元年体育館改修。同3年コンピュータルーム開設。同9年創立50周年記念式典。同15年足
立九中後援会発足。図書室冷房装置設置。同16年バスケットボール部(男子)全国大会ベスト8。
同17年野球部全国大会第3位。同18年全教室冷房化。同19年防犯カメラ設置。創立60周年記
念式典。同21~22年学校改修上質化。

 
二宮金次郎像 ◇
 珍しく中学校にある。


梅田通公園
 梅田7丁目10番5号にある区立公園。


■カトリック梅田教会
 梅田7丁目19番22号ある足立教会の分教会。イエズス会ハイドリッヒ神父が中心となり、昭和
40年学校法人上智学院・保育所「うめだ子供の家」が開園し、保育園ホールで主日ミサが行なわれ
た。
同61年保育園の敷地の一部に現聖堂「労働者聖ヨゼフ」
が建設され、同62年に白柳誠一大司
教司式による献堂ミサが行なわれた。当時の神・信徒の努力のほか、ドイツから多額の援助を受けて
建設することができた。
 


梅島公園
 梅田7丁目20番9号にある区立公園。


■中華 太鼓番(かた焼きそば)
 梅田7丁目24番11号にある足立区民推奨の「町中華」。

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   当店のかた焼きそばは細麺150gを揚げており、野菜(具)たっぷりの餡がかかっておりま
   す。その他人気メニューの肉丼・広東めん・餃子など、ボリューム満点ですので、ぜひご
   来店ください。

   推奨者のコメント
   とにかくボリューム満点で美味しいです。20年以上通っています!
   いつ来ても何を注文しても美味しくいただけて満足です。
   お店の雰囲気が入りやすく、店主夫婦が気さくでまた来たくなるお店です。ご家族連れで
   是非。


梅田七丁目プチテラス ◇
 梅田7丁目25番1号の僅かのスペースにある区立ミニミニ公園。平成7年4月1日開園。  


梅田七丁目児童遊園 ◇
 梅田7丁目25番15号にある区立公園。


「ファミリー ふれあいと和を求めて」 ◇
 梅田7丁目33番1号エル・ソフィアの前脇にある真海徳太朗平成10年の作品。

   ファミリー
   
ふれあいと和を求めて


■富士屋
 梅田7丁目34番15号にある和洋菓子屋。家庭で、また親しい友達、グループの皆と団欒の一時
富士屋の和菓子を器の仲間に入れてやってちょ。創業以来80有余年の利用を感謝しつつ精進してい
る。練切(ねりきり)、長崎カステラが秀逸。


■梅島小学校
 梅田7丁目35番1号にある区立校。明治15年「梅島小学校」として開校。同22年「梅島尋常
小学校」と改称して創立。同25年新校舎落成。
 大正12年関東大震災で校舎の一部大破。
 昭和7年東京市に併合されたため「東京市梅島尋常小学校」と改称。梅島第一尋常小学校を分校。
同16年勅令第148号「国民学校令」により「東京市梅島国民学校」と改称。同18年都制施行に
より「東京都梅島国民学校」と改称。同19年長野県善光寺へ集団疎開。
 同20年11月疎開解除により集団帰校。同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都
足立区立梅島小学校」と改称。同23年創立60周年記念式典。同25年北校舎2階と西校舎の一部
貰い火で焼失。同30年梅田町に分校(後の亀田小)。同32~38年木造校舎から鉄筋コンクリー
ト造り阪階建て校舎に建て替え。同33年創立70周年記念式典。同39年体育館完成。同42年プ
ール竣工。同45年創立80周年記念式典。同53年創立90周年記念式典。同63年創立100周
年記念式典。
 平成4年家庭学級開講。同10年創立110周年記念式典。7丁目19番の仮校舎に移転。同12
年新校舎落成して帰校。同20年創立120周年記念式典。同28年連合運動会優勝。同30年特別
支援学級(うめのこルーム)新設。足立区水泳大会優勝。創立130周年記念式典。同31年将棋大
会飛車の部優勝。

 校歌「
明日に向こう筑波山」 作詞:  作曲: 
  1.あしたに向こう筑波山
    夕べにあおぐ富士の嶺の
    けだかき姿かがみにて
    われらが心をみかがまし
  2.
  3.



■梅島駅
 梅田7丁目37番1号にある東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の停車場。大正13年10月1
日に小菅・五反野両駅と同時に追加開業した。ホームは高架島式1面2線構造だが、やや特殊な構造
をしている。確かに島式ホームなのだがその幅がやや狭いため、ホームの長さを2倍取って、電車が
互い違いに停車するようにしてある。電車が停まる反対側は壁で完全に仕切ってあり、そこだけ見る
とまるで片面ホームのようだ。複々線の内側を走る緩行線にのみホームがあるので、各駅停車以外の
電車は停まらない。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置してある。
 改札口は1ヶ所のみで、地上1階にある。出口は2ヶ所。

 
東武鉄道西新井工場 閉鎖撤去
 梅島~西新井間の左手には電車の修繕をする東武鉄道西新井工場があったが、平成16年3月で閉
鎖された。
 


■旧梅島陸橋
 梅島陸橋といえば国道4号線(日光街道バイパス)を跨ぐ環七通りの陸橋を指すが、昭和8年から
同43年までは、日光街道(旧日光街道)が東武鉄道を越える跨線橋のことだった。
 現在は、高速道路そのものが「橋の連続」といえるほど、高架道路が日本全国を一本の橋」となっ
て連なっているが、戦後の30年代までは、主要都市のごく重要な場所でしか「陸橋」はなく、殆ん
ど鉄道と道路は「地上交差」=「踏切」によって道路は鉄道を踏越していた。足立区の「梅島陸橋」
は東武鉄道を跨ぐ「東京名所」の一つとして、「陸橋」といえば「梅島陸橋」を指していたのだ。
現在は東武鉄道が高架になり、「梅島陸橋」とは、環七が国道4号線を跨ぐものを指すようになった。
 


梅田八丁目プチテラス ◇
 梅田8丁目12番1号にある区立ミニ公園。平成7年4月1日開園。


梅田八丁目第二児童遊園 ◇
 梅田8丁目12番5号にある区立公園。


梅田八丁目第一児童遊園 ◇
 梅田8丁目12番10号にある区立公園。


■梅田亀田公園
 梅田8丁目13番1号、亀田小学校前にある区立公園。昔はこの公園の先の所に中央図書館があっ
た。この辺りは、大きなマンションが多く割には、公園は少ないので、このように大きな公園は、み
んなの憩いの場だ。当日も、噴水の周りには、近所の人なのか、ベンチで仲間と歓談をしている姿が
ある。遊具もあり、幼児を連れたお母さんたちが子どもを遊ばせている。

 
じゃぶじゃぶ池
 円形の幼児用プール。すぐ隣の藤棚の下では大人もひと休み。小さい子たちが、安心して水に水に
親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あり、それぞれ特徴があるんだ。オ
ムツの取れた赤ちゃん以上が幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろ
いろ制約があるのは当然だ。オシメの取れた幼児なら誰でも利用できる。
 


■亀田トレイン公園
 梅田8丁目14番3号にある区立公園。

 
東武鉄道の車輪 ◇
 園内北端にある車輪を4点をオブジェとして設置している。この位置は旧線路敷上に当たる。西新
井駅からここを通り、この延長線上、梅田6‐5‐13の旧日光街道・東武鉄道旧線路分岐碑に至った。
 
 


【扇】(おうぎ)1~3丁目                     最終平成元年5月15日
 本木村。昭和49年7月1日新住居表示により本木町4~5丁目と北宮城町の大部分に上沼田町
・下沼田町・高野町・西新井町の各一部をあわせた町域を現行の「扇」とし、平成元年本木4丁目
の全部と本木町6丁目の一部を1丁目に、本木5丁目と北宮城町の残り全部、本木6丁目・宮城町
・小台町・下沼田町・小台大門町の各一部を2丁目に編入した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 扇の由来
 町の平面形が北端を要として見ると扇形に見えなくもないところから「末広がりに発展すること
を祈念」して選択された創作名。2丁目に本木の名の起こりとなった性翁寺がある。だから扇は扇
小学校か、扇大橋か。

 
令和のイノシシ騒動
 令和元年12月1日頃から、江北橋から新井大橋にかけての河川敷や土手に猪がいるとの情報が
区役所や警察に寄せられ、3日、警察官と区職員が捕まえようとしたが、公園で後一歩のところま
で追い詰めたが逃げられた。さあどうなるか。
  


■水芹
 日本原産野菜。200年ばかり前、本木村の小宮新右衛門が初めてセリを栽培したのが起源となっ
て、荒川沿いの低湿地に広がり、江戸末期から水芹の特産地だった。戦前の水芹は、茎が透き通るよ
うに白く、柔らかく、長く、香りがよいほど上物とされた。当時は〝一寸一両〟という言葉も生まれ
たほどで、長いほど高値で売れた。農家では1cmでも長くなるように工夫を凝らした物で、まさに農
芸の〝芸〟の競演だった。しかし真冬に腰まで浸かっての長い水芹を抜き取る作業は骨身に堪えた。
郷土資料館に往時長靴代わりに使用した「履き桶」と呼ばれる細長い筒状の木桶が展示されている。
戦後の最盛期に40戸もあった栽培農家も、今や1軒あるかないかだよ。では覚え歌を教えたる。

  
せりなずな ごぎょうはこべら ほとけのざ すずなすずしろ 春の七草

  (芹、薺、御形、繁縷、仏の座、菘、蘿蔔、春の七草)

 芹は水芹、薺(なずな)はぺんぺん草、御形は母子草、仏の座はタビラコ、菘(すずな)=蕪蘿蔔
(すずしろ)は大根だ。

  はぎおばな ききょうなでしこ おみなえし くずふじばかま 秋の七草

  (萩、尾花、桔梗、撫子、女郎花、葛、藤袴、秋の七草)
 尾花はススキで、春と秋の七草を覚えるための和歌なんだよーっと。
 


■憩いの広場・野球場・ゴルフ練習場など運動施設
 扇1、2丁目の河川敷にある。 


■神社 ◇
 扇1丁目1番6番の井上家にある屋敷神。立派なものだ。 


■おうぎプチテラス ◇
 扇1丁目2番24番にある区立ミニミニ公園。平成14年12月25日開園。


■夕顔観音 阿修羅山観音院瑞応寺(聖観世音菩薩菩薩)
 扇1丁目5番37号にある真言宗豊山派吉祥院の末寺。「新編武蔵風土記稿」では、明応七年(1
498)の草創といい、本尊に観世音を安置し〝夕顔観音〟と呼ばれる。千葉氏が彫って納めたもの
だからだ。中世、下総から武蔵一円に勢力を張っていた千葉常胤(正しくは千葉介平常胤)の一族、
夕顔姫がこの辺りに住み、持仏堂として建てたのがそもそもだという。他に不動明王、大日如来を祀
る。境内に慈母観世音菩薩立像、門に阿吽の仁王像を置く。
 アメリカ軍の無差別空爆で建物・本尊・什宝・珍器を焼失したが、昔は相当な伽藍だったという。
昭和50年ころ浮御堂風な本堂を建て、堂内に新たな夕顔観音が製作され安置されている。さらに平
成15年新しい聖観音菩薩像が完成し新本尊となった。また内部の壁面に正応二年(1289)のを
はじめ13基の板碑がはめ込まれており、基数は区内一だ。
 参道を50mで左に折れると本堂。本堂の左が庫裏。右は境内と墓地。本尊は聖観世音菩薩。寺紋
は千葉氏の月星に同じ。寛永十三年(1636)の五輪塔、天和二年(1682)の笠塔婆、そのほ
か石造物が多数ある。荒川辺八十八ヶ所霊場29番、荒綾八十八ヶ所霊場74番の札所。
 「新編武蔵風土記稿」の本木村の項に、

   瑞王寺
   阿修羅山と號す、明応七年の草創といへり、本尊観音を安せり、これを夕顔観音と稱す、
   千葉氏の彫刻せしめし所なりとぞ、其彫刻せし故を傳ふといへども、妄誕にわたりし説な
   ればここに取らず。


  とある。区の説明板は以下の通り。

   瑞応寺
   当寺は、阿修羅山観音院瑞応院と号す。本尊は聖観音、別名「朝顔観音」と称している。
   中世の頃、総武の地に勢力のあった千葉氏所縁の古寺といわれ、寺紋は「月星の紋」であ
   る。当寺には板碑が13基あり、中でも連碑2基は珍しく、本区でも貴重な遺物である。
   また寛永十三年(1636)の紀年銘のある五輪塔、天和二壬戌(1682)の紀年銘の
   ある卒塔婆、その他古い供養塔、地蔵菩薩像、観世音菩薩像等の石造物がある。
   昭和51年3月                      東京都足立区教育委員会

   
瑞応寺
   真言宗、阿修羅山観音院瑞応寺と称す。本尊は聖観世音菩薩、別名を「夕顔観音」という。
   中世に総武の地に勢力のあった千葉市ゆかりの古寺といわれ、寺紋は「月星の紋」である。
   当寺には板碑が13基あり、なかでも双式板碑(連碑)2基は珍しく、本区でも貴重な遺
   物である。
   また、寛永十三年(1636)の紀年銘のある五輪塔、天和2二年(1682)の紀年銘
   のある傘塔婆、その他ふるい供養塔、地蔵菩薩像、観音菩薩像等の石造物がある。
   足立区教育委員会

 新本尊(聖観世音菩薩立像)
 仏師清(村上清)の作。素材は、天然木曽檜・漆・麻布・天然顔料・金・水晶。一木造り(割首・
割矧ぎ法)。像高:152cm、総高:218cm。
 平安時代に多用された古典技法である「一木造り」を基本として、両腕や天衣などの部分には寄木
の技法を取り入れ仏像で、仏師村上清渾身の力作だ。素材には天然の木曽檜を用いて、表面の仕上げ
には古色という技法を使って、長い年月を経た古仏の趣を醸し出している。尊顔は髷を単髷として、
両側面に夕顔の花を表し、額には仏の証である白毫(びゃくごう)を表す水晶が嵌め込まれている。
本像は瑞応寺の起源となった夕顔姫が、聖観音菩薩となってこの地に降り立った姿を具現化している
が、その慈愛に満ちた顔、流麗な天衣、重厚な蓮華座など、全体が格調高く荘厳な雰囲気に包まれ、
在りし日の夕顔姫の美しさ、気高さを見事に現代に甦らせている。また、頭部と体幹部は空洞になっ
ており、胎内には経典などが納められた。

 不動明王坐像
 平成16年の春には、庶衆の強い要望に応えて、戦災で焼失した「不動明王」が見事に復刻され、
新たに守護仏として本堂に安置された。不動明王は衆生を守護するためにこの世に出現した。不動明
王は大日如来が衆生を教化するために忿怒身に化身した姿であり、数ある明王の中の最高位であると
同時に、その名のとおり「動かない守護者」を意味している。
 この不動明王像は、聖観音菩薩立像と同じく、両腕を除いた頭体幹主要部を一材から彫成する「一
木造り」を基本としているが、聖観音菩薩像が立像であるのに対して本像は坐像であるため、古くか
ら坐像に用いられる基本的な構造として、膝前部材には横方向に材を配置する木寄せを施している。
本像の素材には、瑞応寺境内に育った欅が使用されているが、これは当寺所縁の欅が仏師の手により
仏像に姿を変え、再び衆生救済のために当寺に戻ってきたことを意味している。
 表面の仕上げには歳月の積み重ねを表す古色彩色を用いて、さらに台座と光背には古色彩色の上に
柿渋を塗り重ね、深みと味わいを表現している。頭部と体幹部には像内を空洞にするための背刳りを
行い、干割れを最小限に留めると共に、像の重量を軽減する工夫が施されている。さらに胎内には不
動明王を表す梵字「カーン」を記し、発願の由緒と謹刻年及び作者名を併せて明記した。
 仏師は村上清。素材は、瑞応寺欅・天然木曽檜・漆・柿渋・天然顔料・金。像高84cm5mm。
総高2m9cm。

 大日如来坐像
 大日如来は、宇宙の実相を仏格化した根本仏として最高の尊格を持ち、森羅万象一切を支え、凡る
もの全てを救う。不動明王像の説明でも記たように、この世の総ての如来、菩薩、明王などの仏様は
大日如来の様々な徳を表すために化身した姿だ。密教では、大日如来の無限の慈悲を表す胎蔵界と大
日如来の偉大な智徳を表す金剛界の二つの世界がある。瑞応寺の「大日如来坐像」は、胸の前で「智
拳印」を結び、右足を上にして結跏趺坐する金剛界の大日如来だ。ふっくらとした顔は、温和であり
ながらも厳しさを兼ね備えた理知的な顔立ちで、額には水晶の白毫が嵌め込まれ、髪をかなり高く束
ねて宝冠をいただく、仏身五尺の等身坐像だ。本像の素材は、数年前からこの大日如来を彫るために
じっくりと寝かせた天然木曾檜を使用、台座は、豪華な八段構成の蓮華座で、蓮華部分は、六方六段
の葺寄せ式だ。框は小さめとなっておりますが、全体に極上の檜をとても贅沢に木取りして、泥沼に
蓮華が花開く様を見事に表している。表面の仕上げは、聖観音菩薩立像、不動明王坐像と同じく、渋
めの古色彩色を用い、胎内には、経典が納められている。仏師村上清作。漆・天然顔料・金・銅・水
晶。像高:1m、総高:1m95cm。

 慈母観音菩薩立像
 平成19年の春、いじめや幼児虐待などの「子どもに関わる悲しい出来事」が頻発する世相を憂い
世界中の母と子の幸せを願って、瑞応寺の境内に「慈母観音立像」が落慶した。総ての母が我が子を
慈しむような深い祈りによって、全世界に平和が訪れることを願うものだ。
 観音菩薩は衆生の願いに応じて様々に姿を変えて、その願いを叶える仏だ。世相を見渡してみると
子供に対する様々な悲しい事件が後を絶たない。そうした世の中に、「母の如き優しさと慈愛をもっ
て、世界中の総ての母と子に平安な日々を」という中島剣山住職夫妻の願いを込めて建立された。
 「母の愛に育まれてこそ今の自分があることを、総ての人に改めて思い出して欲しい」というメッ
セージを、できるだけ多くの方々に感じていただきたいという思いから、門を入って正面、境内の一
番目立つ場所に建立されました。そのデザインはすべてオリジナルで、この姿の慈母観音立像は日本
に1つしかない。慈愛の秘めた眼差しと気品漂う御尊顔、堂々とした立ち姿は、「慈母」と呼ぶにふ
さわしい温かさに包まれ、その腕に抱かれ、或いはその足元で安心して遊び戯れる幼子たちと共に、
「母と子の平穏で幸せな家庭の姿」を表しています。瑞応寺を訪れる子どもたちが慈母観音に向って
自然に手を合わせるのも、そこに込められた「慈母の願い」を感じているからに違いない。

 阿形像・吽形像(金剛力士像)
 お寺の入口の左右に金剛力士像を建立した。一般には仁王像の名で親しまれている。金剛力士は、
仏教の守護神である天部の一つ。開口の阿形像と、口を結んだ吽形像の2体を1対として安置されて
いる。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘
めた表情に表わしている。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格
を表わしている。


扇南公園
 扇1丁目6番3号にある区立公園。


■寺地小学校
 扇1丁目7番1号にある区立校。昭和9年本木尋常小学校寺地分校設置。同15年独立して「東京
市立寺地尋常小学校」として開校。同16年勅令148号国民学校令により「東京市寺地国民学校」
と改称。同18年都制施行により「東京都寺地国民学校」と改称。
 同22年アメリカ軍の強制による地方自治法と学校教育法の施行のため「東京都足立区立寺地小学
校」と改称。同65年創立50周年記念式典。
 平成22年創立70周年記念式典。

 校歌「風に歌うは」 作詞・国分伝三  作曲・西崎嘉太郎
  1.風に歌うはそよぐ葦
    白く光るは川の面
    続く緑の草原に
    希望のこだま打ち上げる
    われら われら 寺地小学校
  2.五色桜の咲く堤
    行くてはるかな雲の峯
    夢を輝く窓開けて
    世界の友に呼びかける
    われら われら 寺地小学校
  3.朝に夕べにむらさきの
    富士を望んで伸びる町
    胸に湧き立つよろこびを
    学びの道にもりたてる
    われら われら 寺地小学校

 
卒業生
 宮園大耕(みやぞん) 


扇一丁目児童遊園
 扇1丁目12番11号にある区立公園。


■川名家屋敷稲荷 ✔
 扇1丁目14番4号の川名邸内にある
。 


扇いちょう公園
 扇1丁目22番19号にある区立公園。

 
「芽生え」 ◇
 園内東北角にある。平成4年足立区国際野外彫刻コンクール入賞の山脇正邦の作品。尻を据えて両
手両足広げ。右手で嬰児を支えている、あり得ないがダイナミックな彫像。


扇一丁目のびのび児童遊園
 扇1丁目26番3号にある区立公園。


■庚申塔
 扇1丁目27番にあるらしい。青面金剛・三猿を刻む。造立年不明。
 


■扇御嶽神社(国常立命) ◇
 扇1丁目28番17号にある小社。例祭は9月19日。創建は寛永十六年(1639)という。境
内に寛政五年(1793)二月銘の庚申塔、天保四年(1833)六月銘の水神の碑がある。
 


■扇一丁目中央プチテラス ◇
 扇1丁目31番14号角にある区立ミニ公園。平成10年6月1日開園。


■星谷・親友プチテラス ◇
 扇1丁目31番43号角にある区立ミニ公園。平成16年10月29日開園。


■馬頭観音 ✔
 扇1丁目34番にあるらしい。
 


扇一丁目親栄児童遊園
 扇1丁目36番2号にある区立公園。


扇東公園
 扇1丁目41番5号にある区立公園。


扇中央公園
 扇1丁目47番35号にある区立公園。


吉祥院地蔵堂墓地
 扇2丁目3番6号にある。

 
庚申塔・六地蔵 ◇
 吉祥院地蔵堂墓地の大谷石の塀の外に。庚申塔は3基。
 


■大江戸
 扇2丁目8番5号にある和菓子屋。きんつばと人形焼の名店。
 


■扇三島神社(大山津見神) ◇
 扇2丁目9番3号にある。祭神は大山津見命。例祭は9月19日。創建は慶長の頃(1596~1
614。阿出川権左衛門知康が、この地本木村の小名太田の開発に努め、年来信仰する三島大明神を
勧請したのに始まる。社前に延宝六年(1678)八月銘の石灯籠、元禄十一年(1698)九月銘
の仁王庚申塔、元禄十年11月銘の庚申塔がある。
 境内に、稲荷大明神・第六天龍王・馬頭観音・牛頭天正宮・水神宮がある。
 「新編武蔵風土記稿」の本木村の項に、

   三島社
   小名太田高野の鎮守にして、高野村法性院の持なり。


 とあり、「ブックレット足立風土記西新井地区」に、

   三嶋神社(扇2−9)
   祭神は大山津見命です。慶長年間(1596〜1615)に、阿出川権左衛門知康がこの
   地に来て本木村の小名太田を開拓した時、崇敬していた三嶋大明神を勧請したといいます。
   本木村の鎮守は氷川神社(本木西町)ですが、三嶋神社は本木村の小名太田・高野(扇2
   ・3丁目の一部)の鎮守として祀られていました。境内には、延宝六年(1678)八月
   銘の石灯籠型の庚申塔や元禄十年(1697)十一月上旬銘の仁王像の庚申塔が残されて
   います。また、本殿の中には、寛文十年(1665)から昭和30年まで計7枚の棟札が
   あり、社殿・鳥居・社殿を保護する「雨屋」(=鞘堂)の建立、三嶋宮本地の薬師如来造
   立など、三嶋神社の歴史を伝えています。


 とある。
 


■庚申塔 ◇
 扇2丁目9番3号扇三島神社前の電話ボックスの横に仁王像一対がある。


■道祖神 ◇
 扇2丁目9番6号角の路傍にある。石造物が2基。


■庚申堂 ◇
 扇2丁目13番14号の原家の玄関前の小堂の脇にある。「奉待庚申供養安楽成就所」2猿、寛文
元年(1661)を刻む。
 


扇西公園
 扇2丁目13番2号にある区立公園。


「水」 ◇
 扇2丁目16番江北橋東南の橋詰歩道にあるコンクリート製のオブジェ。マンホールから水が噴き
出しているイメージ。平成6年の制作。


「流れ」 ◇
 扇2丁目16番江北橋東北の橋詰歩道にある波型のオブジェ。
 


木余り阿弥陀 龍燈山貞香院性翁寺(阿弥陀如来)
 扇2丁目19番3号にある浄土宗の寺。明応元年(1492)に書かれた縁起がある古刹。本木の
地名に所縁のある「木余如来」「六阿弥陀草創」「足立姫旧跡」など郷土色豊かな伝説と史跡がある。
 六阿弥陀とは、奈良時代の高僧行基が熊野の霊木から彫ったと伝えられる6体の阿弥陀如来のこと
で、それらが安置されている寺が、六阿弥陀一番~六番を称える江戸近郊の6ヶ寺だ。性翁寺は、6
体を彫った余り木を以て娘成仏の御影として阿弥陀一体を刻して、荘司屋敷の傍らに草庵を建立して
安置したのが開創であり、木余り如来の由縁だ。いわば六阿弥陀の番外、七阿弥陀目の寺だ。
 その後、明応元年(1492)に当地にやって来た龍呑上人が姫の墓所の菩提樹の木に毎夜、龍燈
のかかるのを見て、守護所に一寺改転を願い出て、龍燈山貞香院性翁寺の号を給わり、浄土宗寺院と
して開山したのだ。
 「新編武蔵風土記稿」によると、北条氏滅亡後、その家臣阿出川対馬守貞次によって再興された性
翁寺は、慶安二年(1649)3代将軍徳川家光より、朱印地として10石の寺領を拝領し、以後も
歴代将軍により安堵されてる。「新編武蔵風土記稿」に、

   性翁寺
   浄土宗、埼玉郡岩槻淨國寺の末、龍燈山貞香院と號す、本尊弥陀行基の作なり、昔此邊六
   阿弥陀の像彫刻の時、根元の餘木を以て彫刻せし像なれば、根元阿弥陀と稱すと云、六阿
   弥陀の由来は小臺村の條に出したれば合せ見るべし、寺領十石慶安元年御朱印を賜ふ、開
   山行蓮社正誉龍呑、明応七年二月十五日寂す、開基は足立庄司宮城宰相と云傳ふ、此人「宮
   城家譜」及び他の書にも所見なし、かの家譜を見るに、豊島二郎吉國が子六郎政業(又の
   譜には宮城中務と載せたり)當所を領してより、宮城を氏とせりと云ときは、此人の開基
   なるにや、されど天正十七年卒せし人なれば、開山より少しおくれし人なり、よりて思ふ
   に中興の檀越をただちに開基と稱すること、他にも其例あれば、是も實は中興の開基なる
   も知るべからず、其後阿出川対馬守藤原貞次と云者、中興開基せり、此人は北條氏の家人
   なりしが、彼家没落の後、當村に土着し、元和二年三月廿三日死す、法諡を性翁院覚誉相
   圓と云、子孫今村内に住すれど、家系及び記録なければ詳ならず、又云開闢の頃は荒川の
   水除堤の外にありしが、何の頃か今の地へ移れりと云。
   古墳。境内にあり、菩提樹として植てしるしとせり、是は足立庄司の女足立姫の墓なりと
   て、恵曜禅定門、永禄十三年八月十五日と彫たる古碑をたつ、かの女の碑ならざることは
   彫せし法諡にても知るべし、寺傳によるに足立姫の法諡を蓮相浄地と號し、卒年は詳なら
   ず、父庄司が此女の為に六阿弥陀を彫刻せしことは、小臺村の條に出したればここには略
   す。

 とあり、区の説明板は以下の通り。

   性翁寺
   本寺は、浄土宗で、龍燈山貞香院性翁寺といって、寺伝縁起によると、明応元年(149
   2)創建とある名刹で、本木の地名にゆかりのある「木余如来」六阿弥陀草創「足立姫 
    」等の郷土色ゆたかな伝説と史学に恵まれている。昔、沼田の荘司の娘「足立姫」が隣
   村の豪族に嫁したが恵まれず世をはかなみ、■歎の末、沼田川に入水他界した。父は悲し
   みにくれ、娘の霊を慰めるため諸国行脚の末、熊野権現の霊験によって霊木を得た。彫仏
   の念やみがたく、折しも行脚中の名僧行基に懇願して六体の阿弥陀如来を得た。その時、
   「余り木」でさらに一体を造り安置したという木余り如来を本尊としている。
   本尊は、高さ42cm、全身金色のまことに美しい座像である。全般に薄手、面相は円く
   肉取りは浅く、左肩から右脇にかけての衣文の流れは、薄くか■■である。高さ33.5c
   mの台座もすこぶる荘厳で、ことに五枚弁や蓮等は薄手で反りは浅く美しい。■仏の手法
   に、胴体から膝の部分は、いかにも根元を利用したことを思わせるくり抜きの彫りで、他
   は寄木造りである。
   この寺はかなり古くからこの地方にあったもので、本区の貴重な文化財である。
   昭和42年6月                         足立区教育委員会

   
性翁寺
   京都知恩院を総本山とする浄土宗の寺院。寺伝では神亀三年(726)行基菩薩が庵を開
   いたのが始まりで、足立荘司宮城宰相が開基となり、明応元年(1492)には正誉龍呑
   上人が開山となったと伝える。江戸時代にはいると阿出川対馬守貞次が中興開基となり慶
   安元年(1648)には三代将軍徳川家光から朱印地10石を与えられる格式を持った。
   本尊の木像阿弥陀如来坐像は古代の作成で、東京都指定文化財。この本尊は悲運の女性・
   足立姫の菩提を弔うため行基菩薩が作成した六阿弥陀の余りの木で作られたという伝説を
   持つ。ここから広く女人往生の「木余り寺」として知られるようになり、多くの江戸・東
   京庶民の参詣地となった。
   また寺内には永禄十三年(1570)の阿弥陀三尊種字板碑や、当寺の由来を記した縁起
   があり、いずれも足立区登録有形文化財。ほかに六阿弥陀伝説を描いた絵巻きを伝来して
   いる。当寺は、このように様々な歴史と文化財に彩られた区内有数の寺院である。
                                   足立区教育委員会

 木造阿弥陀如来坐像
 行基作と伝わる「木余り如来」は、総高42cm、膝張32cm、膝高5cm、肩幅23cm頭部
長12.5cm、台座高33cmだ。 引っくり返して下から胴の中を見ると、膝の部分がいかにも根
本の部分で作ったと思わせるような張りを持っている。造像の手法は寄木法だ。金貼の美しい坐像で、
都の重宝に指定されている文化財だが、金箔や7つの仏化を配した光背は後補のものだ。台座の刻字
から江戸時代に修復されていることが判る。
 この由来について、明応元年(1492)六月行蓮社正誉上人龍呑筆の「本尊彫刻之意趣」なる縁
起がある。

 阿出川家墓所
 開基の対馬守貞次をはじめとする阿出川一族の墓所がある。阿出川家は小田原北条氏の家臣、主家
滅亡により帰農し、この辺りを開発した。

 足立姫の墓・大菩提樹
 本堂左手の墓地にあり、新旧2つの墓碑が建っている。また菩提樹は姫の数珠から一夜に生じたと
いう伝説がある。『新編武蔵風土記稿』足立郡淵江領小台村の項に

   阿弥陀堂 六阿弥陀と称する、其第二番なり。沼田村の接地にあるを以て人多く沼田の六
   阿弥陀といへり。その濫觴を尋るに、人王四十五代聖武帝の御宇、豊嶋郡沼田村に庄司と
   云もの一人の女子あり、隣村に嫁す。いかなる故にや其家の婢女と共に沼田川に身を投じ
   て死せり。父の庄司悲の余、彼等追福の為にとて、所々の霊場を順拝し、紀州熊野山に詣
   でし時、山下にて一株の霊木を得たりしかば、則仏像を彫刻してかの冥福を祈らんと本国
   に帰りて後、僧行基に託して六体の弥陀を刻し、分て此辺六か寺に安置せし其一なるよし
   縁起に載す。尤うけがたき説なり。聖武帝の頃、庄司と云ものあるべき名にあらず。且沼
   田村は豊嶋郡にはあらで、本郡の地なり。かかる杜撰の寺伝取べきにあらず。また、隣村
   宮城村性翁寺の伝には、足立の庄司宮城宰相の女子、豊島左衛門尉に嫁せしが、故ありて
   神亀二年六月朔日侍女と共に荒川に投じて死す。其追福の為にかの熊野山の霊木を以て行
   基に託し、彫刻して此辺の寺院六ヶ寺に安ずと云。神亀は聖武帝の年号にて、少しくたが
   ひあれど、同じ伝えなり。是を以て姑年代の誤りとせんにも、足立庄司と云ものは他の所
   見なし。豊島左衛門は東鑑にも見えたり。又、宮城家譜を見るに、かの家は豊島次郎吉国
   が子、六郎政業、太田三楽に仕へ宮城を領せしより氏とせりと載たり。さればかれを取り、
   是を付会し、又行基菩薩の名を仮りてかかる妄説を作りしものなるべし。されど此六阿弥
   陀のことは世の人信ずることにて、其造立さまを近き頃のこととも思はれず。

 とある。『新編武蔵風土記稿』で六阿弥陀を安置する他の寺の記事を見てみると、豊島郡豊島村の
西福寺(北区)の条に、また違ったバージョンのストーリーが記されている。

   西福寺 新義真言宗足立郡沼田村恵明寺末、三緑山無量寿院と称す。本尊阿弥陀を置。是
   世に所謂六阿弥陀の一なり。縁起を閲するに、聖武帝御宇当国の住人豊島衛門清光、紀伊
   国熊野権現を信じ、其霊夢に因て一社を王子村に建立し、王子権現と崇め祀れり。然るに
   清光子なきを憂ひ、彼社に祈願せしに、一人の女子を産ず。成長の後、足立少輔某に嫁せ
   しが、道具の備はらざるを以、少輔に辱しめられしかば、彼女私に逃れ出、荒川に身を投
   て死す。父清光悲に堪ず、是より仏教に心を委ねしが、或夜霊夢に因て異木を得たり。折
   しも行基当国に来りし故、清光其事を告しに、行基即ちかの異木を以て六体の阿弥陀を彫
   刻し、近郷六ヶ所に安置して彼女の追福とせり。故に是を女人成仏の本尊と称す。当寺の
   本尊は其の第一なり。次は足立郡小台村、第三は当郡西ヶ原村、第四は田畑村、第五は江
   戸下谷、第六は葛飾郡亀戸村なりと云。此説もとより妄誕にして信用すべきにあらざれど、
   当寺のみにあらず、残る五ヶ所ともに少の異同はあれど、皆縁起などありて、世人の口碑
   に伝る所なれば、其略を記しおきぬ。且清光は権頭と称し、治承の頃の人なれば、行基と
   は時代遥に後れたり。中興の僧宥海、延享三年六月八日寂す。境内に延慶三年の古碑あり。


 ちょっと変わった所としては、六阿弥陀の第六番、江東区(下総国葛飾郡)の常光寺バージョンが
ある。

   聖武部(しょうむべ)の御宇(ぎょう)、足立庄司従二位宰相藤原正成(まさしげ)と云
   うもの、不幸に一子なき事をなげきて、常に熊野権現を信じけるが、或夜不思議な霊夢を
   蒙り、それよりいく程もあらず、ひとりの女子をもうけたり。後にこの女を豊島左衛門尉
   清光へ嫁がせしが、舅姑の不遇なるを哀しみ、帰寧の道すがら、荒川へ投じて死したり。
   この時したがいたる侍女等、主の自水を見て、はかなき事におもいめぐらし、ともに十二
   人の女も、かの川へ沈みたりしと、かくて人をしてその死骸をたづぬるに、侍女の骸(む
   くろ)は、みな得しかど、愛女のみは見えざりし。庄司ことに悲しみにたえず、この十三
   人の菩提の為とて、自ら法師となりて、諸国の霊場を巡行せしが、或時兼ねてより信仰せ
   る紀州熊野山へめぐり当りて、一宿せしに、その夜の霊夢に「我が社内に霊木あり、昼夜
   光を放てるをもて、光明木といふ、この一株を汝にあたへん。行基といふ権化の聖者、四
   民救世の為に、諸国巡行せり、汝が国に至るを待て、この聖者を請うて、六体の阿弥陀仏
   を彫りしめよ、この功力により女人等仏果を成ずること疑いなし、且末世の衆生この仏に
   巡礼せば、永く三界の苦域を離れ、速やかに九品の浄土に至るべし」と宣へり。庄司夢覚
   めて、感涙にたえず敬礼して社内を尋るに、東の方の谷間に光明かくやくたる神木あり、
   庄司悦び、是こそ権現より授け給う所の霊木ならん、早く我国へ流着せよと祈誓して、我
   が名字記して海中へ押出せり。夫より巡礼了りて本国に帰り見れば、かの霊木当国へ流着
   し、日夜光を放ちければ里人奇異の思いをなし居たるが、庄司喜躍して水中より取出し、
   彼の行基が巡来をぞ得たりき。かくて幾ほどもあらせず、行基も此地へ到着ありしかば、
   ありつる事の始末を語りて、我家へ請待せり、ここに於て行基菩薩十七日の断食して、一
   心に弥陀仏に念じ給いしが、ただちに弥陀の影光ありて真像を模刻し給う。斯くて侍女の
   出生地に寺を建立し、阿弥陀仏の入仏せしめ菩提を弔う。(常光寺縁起)


 行基
 奈良時代の僧。和泉の人。俗姓高志氏。道昭・義淵らに法相教学を学ぶ。のち諸国をめぐり、架橋
・築堤など社会事業を行い、民衆を教化し行基菩薩と敬われた。その活動が僧尼令に反するとして弾
圧されたが、やがて聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺の造営に尽力し、大僧正に任ぜられ、ま
た大菩薩の号を賜った。

 疣取り地蔵 
 体に疣(イボ)ができて困っている人が、イボを取り除くために祈願する。お陰でイボが取れると
お礼に塩をかけるのだ。これは不衛生で皮膚病患者が多かったことと、塩が貴重な時代、貴重な塩を
寺に奉納したのだろうが、寺が受け取らない今では、地蔵の周辺に山積みするので、どこの塩地蔵も
像が溶けている。


■江北橋
 扇2丁目16番と宮城2丁目9番を結ぶ荒川に架かる都所管の橋。都道307号王子金町江戸川線
を通す。荒川の河口から16.8kmの地点に架かる橋長440m、員15m(車道11m)、最大支
間長90mの下路式アーチ橋の一種である鋼カンチレバーランガー桁を持つ10径間の単純活荷重合
成プレートガーダー橋(鋼鈑桁橋)。歩道は2mで上流側下流側共に設置されている。縦断勾配は2
50分の1(0.4%)でパラボラ(放物線)状になっている。また、右岸側アプローチは単純鋼鈑桁
橋の高架橋に接続されている。橋の管理者は東京都。また、災害時に防災拠点等に緊急輸送を行なう
ための、東京都の一般緊急輸送道路に指定されている。

 
旧橋
 橋は荒川改修付帯事業として大正12年4月21日に木製およびRC(鉄筋コンクリート)製の橋
脚を持つ木桁橋として開通した。橋長434m、幅員5.4m。架橋場所は蛇行する隅田川の流路形状
から俗に「天狗の鼻」と呼ばれていた場所の丁度先端に位置していた。直後の9月1日の関東大震災
で損傷したために、同14年5月に同じ形式の橋に架け替えられている。橋長441.5m、幅員7.
2m。橋面は床版上にコンクリートが敷かれていた。この橋は昭和34年7月10日、橋の中央部の
橋桁3本を焼く火災を起こした。木造橋なので老朽化が早く、昭和20~34年度に4646400
0円を掛けて橋の橋脚根固や桁・床版の一部交換をする修繕が実施され、その後も翌年度に工事費6
00万円を掛けて桁の取換工事が実施された。同34年9月9日の交通状況の調査によると、橋の利
用は橋長の関係で自転車の利用が最も多く、その台数は6002台を数え、他は徒歩が405人、荷
車・牛馬車が70台、原付・自動二輪車が2825台、乗用車が1081台、乗合自動車498台、
貨物自動車が5471台、特殊自動車が134台であった。

 
現橋
 現在の橋は、約300m下流に架け替えられたもので、東京オリンピックの工事の影響もあって工
事が遅れ、着工から5年半の時間を要したが、昭和41年6月21日開通した。総工費は約11億8
520万円が投じられた。ランガー桁はベント工で桁を支持しながらキャリアクレーンを用いて架設
された。開通式は都区共催で同日地元の人80名が参加する中挙行され、鈴木俊一都知事によるテー
プカットが執り行われた後、渡り初めが行なわれ、同日14時から橋の一般供用が開始された。開通
後は川上の旧橋は全面閉鎖され、解体撤去された。但し、取り付け道路は橋の両詰は民家が密集して
いて用地買収が遅れたため、左岸側がまだ未完成で、昭和42年においてもその計画は具体化されて
いなかった
 


扇みしま公園
 扇2丁目23番25号にある区立公園。


■扇大橋駅
 扇2丁目25番7号、尾久橋通り上にある都営日暮里・舎人ライナーの停車場。平成20年3月3
0日の日暮里~見沼代親水公園間の開業と同時にできた。ホームは島式1面2線構造で3階にある。
ホームと改札階を結ぶエレベーター設置済。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口と西口の
2ヶ所で、両方にエレベーターがある。
 駅名になっている扇大橋は、駅南側にある荒川に架かる橋だ。日暮里・舎人ライナーはこの扇大橋
の北側で首都高速道路中央環状線の上を跨ぐため、この辺りが高架橋の最高地点となっている。高さ
は約30mで、眺めは最高に良いよ。


北宮城町公園
 扇2丁目37番1号にある区立公園。

 
「吹き抜ける風」
 園内にあるオブジェ。


■高野駅
 扇2丁目45番1号、尾久橋通り上にある都営日暮里・舎人ライナーの停車場。平成20年3月3
0日の日暮里~見沼代親水公園間の開業と同時にできた。ホームは島式1面2線構造で3階にある。
ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口と西口
の2ヶ所で、両方にエレベーターがある。
 駅名はかつての高野町に因む。
 


扇なかよし公園
 扇3丁目9番4号にある区立公園。


■阿弥陀堂
 扇3丁目11番1号にある吉祥院の境外仏堂。堂と庫裏がある。
 


■扇彫刻のある公園

 扇3丁目24番11号、暮里舎人ライナー「江北」駅の東にある区立公園。面積2539㎡の敷地
内には彫刻が点在している。美術館の屋内ではなく、芝生や木々の緑に包まれる中で、風に吹かれな
がら芸術鑑賞をすることができる。

 「けい」 ◇
 真海朗の作品。裸婦直立像。

 「STREAM-SIDE」
 T・IKENAGAの作品。

 「LOCUS IN THE SKY'89」
 大隅秀雄の作品。
 


■扇小学校

 扇2丁目30番1号にある区立校。昭和45年高野小学校から分離して開校。平成17年創立35
周年。
 


■倉橋護謨工業東京工場(KSK)
 扇3丁目14番1号にあるゴムライニングと合成樹脂成形の製造会社。
 


扇北公園
 扇3丁目18番8号にある区立公園。


■扇中学校 → 興本扇学園西校舎
 扇3丁目18番14号にあった
区立校。昭和57年開校~平成17年閉校。興本小学校と統合して
小中一貫教育校「興本扇学園」となり、跡地はその西校舎となった。

 校歌
「扇の形に」 作詞・江間章子  作曲・團伊玖磨
  1.扇の形に広がる吾等の街並み
    聳え立つ 聳え立つ学舎
    友よ友よ 希望に向かって
    友よ友よ 友情の手を結ぼう
    扇 扇 扇中学校
    扇 扇 扇中学校
  2.明るく育てと歌うよ 荒川の流れ
    美しい 美しい学舎
    友よ友よ 大空を見上げ
    友よ友よ 描こうよ吾等の夢
    扇 扇 扇中学校
    扇 扇 扇中学校
  3.吾等の故郷 五色の桜は語るよ
    栄えあれ 栄えあれ学舎
    友よ友よ 大地を踏み締め
    友よ友よ 吾等の心は弾む
    扇 扇 扇中学校
    扇 扇 扇中学校


■興本扇学園西校舎
 扇3丁目18番14号にある区立校。平成18年隣接の興本小学校と統合して足立区興本扇学園と
なり、西校舎として5~9年生が通学する。同20年校舎耐震化。同21年体育館耐震化。平成22
年創立5周年記念式典。平成27年創立10周年記念式典。
 令和
 
 


■興本小学校 → 興本扇学園東校舎
 扇3丁目22番1号にあった区立校。昭和37年西新井小学校から独立し開校。平成17年創立3
5周年を機に閉校。翌18年隣の扇中学校と統合して小中一貫校「足立区立興本扇学園」となり、小
学校の校舎は学園の東校舎として1~4年生が通学している。5~9年生は旧扇中学校に通学する。

 校歌
「吹き渡る風」 作詞・石田成太郎  作曲・中田喜直
  1.吹き渡る風 爽やかに
    朝は流れる 白い雲
    みんなの元気な歌がある
    今日も明日もここに来て
    心と体を鍛えよう
    私たちの興本 興本小学校
  2.新しい日の限りなく
    栄え行く町 足立区よ
    綺麗な花咲く校庭に
    みんなの大きな夢がある。
    未来の望みを高く持ち
    正しく素直に伸びて行こう
    私たちの興本 興本小学校


興本扇学園東校舎
 扇3丁目22番1号にある区立校。平成18年隣接の扇中学校と統合して小中一貫教育校「足立区
立興本扇学園」となり、興本小学校の校舎は学園の東校舎として1~4年生が通学している。5~9
年生は西校舎(旧扇中学校)に通学する。平成22年創立5周年記念式典。平成27年創立10周年
記念式典。
 令和
 
 
 


■扇彫刻のある公園
 扇3丁目24番11号、日暮里舎人ライナー「江北駅の東にある区立公園。面積2593㎡の敷地
内には、彫刻が点在してる。美術館の屋内ではなく、芝生や木々の緑に包まれる中で、風に吹かれな
がら芸術鑑賞をすることができる

 
LOLUS IN THE SKY'89
 大隅秀雄の作品。

 
けい
 真海朗作の裸婦像。

 
STREAM‐SIDE
 T・INAGAの作品。
 
 


【大谷田】(おおやた)1~5丁目               最終昭和51年10月1日
 大谷田村。元和二年(1616)十月十日の伊奈半十郎の書状の文中に「淵江之内大谷田新田開之
事」とあり河合左内らによって開発された。『正保改定図』には大谷田村とある。明治22年の「市
制町村制」により東渕江村の大字となり、昭和7年足立区の成立で大谷田町となって戦後に至る。
同35年西南の一部が大谷田新町1~2丁目として独立したので、残余の大谷田町は1~3丁目と
なった。同42年7月1日大谷田町と佐野町の各一部をあわせた町域を現行の「大谷田1~2丁目」
とし、同48年11月1日大谷田新町2丁目の全部と大谷田町・大谷田新町1丁目・長門町・上谷
町中の各一部をあわせた町域を現行の「3~4丁目」とし、同51年大谷田町と佐野町の各一部を
2丁目に編入し、大谷田町・佐野町・辰沼町の各一部をあわせた町域を現行の「5丁目」として大
谷田の新住居表示は完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 大谷田の由来
 地名の由来は判っていない。元々海にできた土地だから山坂はなく、したがって谷もできる訳は
なく不思議な地名である。水捌けのよくない土地だったらしく、それを表そうとしたための命名(た
とえば大きな湿地帯)ではないかと考えられている。綾瀬川と中川の間は低地帯で、かつては古利
根川や古隅田川が流れ、大谷田の中で低地といえば中川と葛西用水の間の大谷田コミュニティ道路
辺りかなぁ。むかし葛西用水に沿って堀川が走っていた。
 山は自然にできるが、川は、人間が作ったものだ、湿地帯とは川の乱流域で、土地利用のために
水抜きのための水路、乱流の一本化が川で、水田のために引き込んだ川は正しくは用水だ。東京は
山の手(武蔵野台地)と下町低地とで構成されているが、下町低地は、海底の隆起と、関東の山地
から水によって運ばれた土砂で海面が埋め立てられてできた土地だから、湿地帯が多く、それを表
した地名が多い。
 


■大谷田一丁目団地
 大谷田1丁目1番にある。その初めは大正6年金町製瓦亀有工場として創業。同7年日本煉瓦製造
に併合され、その亀有工場。同12年関東大震災により壊滅的打撃を受け、日立製作所に売却。昭和
12年日立製作所亀有工場(戦車工場)同43年土浦移転、跡地を日本住宅公団の住宅用地とするこ
とを決定。同49年操業停止・工場閉鎖。同52年大谷田一丁目団地として入居開始。。
 さて大谷田橋の交差点から南西に向かって伸びる道路は、国道4号線(日光街道)の梅田交差点ま
での道を、俗に「戦車通り」と呼んでいた。

 日立建機株式会社足立工場移転記念碑
 団地西側の植栽にある。

   日立建機株式会社足立工場跡地
    昭和40年3月茨城県土浦市に移転

 
オブジェ
 大谷田一丁目バス停留所の後ろにある。  


■大谷田一丁目第三児童遊園
 大谷田1丁目14番3号にある区立公園。


■大谷田一丁目児童遊園
 大谷田1丁目26番1号にある区立公園。


典勇山常善院神勝寺(本尊:伝行基作の不動明王
 大谷田1丁目33番15号にある新義真言宗の寺。本尊は伝行基作の不動明王。葛飾区金町の金蓮
院の末寺で、古くは田中山と号した。昭和14年長谷寺の末寺となり、同26年4月本山根来寺の直
末となった。
 本堂は木造平屋建て方形造りで、他に大師堂、薬師堂がある。元和元年(1615)の創建。開基は
宇田川出雲だ。この辺りは享保年中(1716~35)8代将軍が鷹狩の折に立ち寄り、寛政元年(1
789)十一月五日には11代将軍家斉の御膳所となっていたという。隣接の亀有村や千住宿に鳥見
役がおり、中川・綾瀬川・隅田川の沿岸は都鳥だけではなく、野鳥の群生地だった。檀家は佐野、大
谷田、中川の範囲。境内には樹木が多く、大イチョウがある。
 宝物は大般若経600巻。釈迦涅槃像、半鐘、境内に寛永八年(1631)九月銘の石碑、正徳三
年(1713)三月銘の宝篋印塔がある。区の説明板に、

   常善院
   当寺は、元和年間(1615~1624)宇田川出雲によって創建されたという。江戸時
   代には、将軍家の鷹狩りの際、御膳所となった由緒ある寺である。本堂は享和元年(18
   01)に再建、昭和35年に修復されている。本尊は、木造不動明王立像、その左に木造
   金色大日如来像、右に上品上生の阿弥陀如来坐像が安置されている。境内には、石像物と
   しては非常に珍しい石造六面幢六地蔵をふくむ地蔵群がある。また、高さ25mのイチョ
   ウの木は、樹齢およそ三百数十年といわれている。寺行事として、2月15日に涅槃会、
   3月28日には大般若会を催し、除災招福のため大般若経600巻(鉄眼版)の転読、護
   符の配布などが行われている。
   昭和52年3月                         足立区教育委員会


 とあり、「足立風土記資料寺院明細」明治五年の項に、

   中本寺金蓮院末 東京府管轄武蔵国足立郡長右ヱ門村 典勇山 小本寺常善院
   創立年歴并開基不詳、色衣香衣ニ色寺格
   世代不詳住職憲孝壬申五十三歳。愛知県管轄尾張国海東郡甚目寺村農水野甚助二男、文政
   十二年三月十二日同国同郡同村法華院ニ而得度、天保八年正月二十七日本山智積院へ交衆
   同年五月七日東京府管轄武州葛飾郡金町村了観寺(柴又良観寺か?)住職、天保十四年七
   月十三日埼玉県管轄同国同郡長沼村(現三郷市)正円寺住職、嘉永三年五月二十日東京府
   管轄同国同村下小合村延命寺住職、慶応三年六月三日当院住職、本山年数十七年。以上僧
   壱人。
   境内 一反四畝十一歩、但シ除地
   檀家 百十二軒
   門徒 二ヶ寺(大谷田瑠璃山東明院・大谷田仏性山浄覚寺いずれも明治七年十二月廃寺)
   庵室等無之


 とある。

 
六面地蔵
 境内に宝永五年(1708)の珍しい「六地蔵」がある。瓦葺の覆堂に守られた7基の石仏群の中
央にある六面幢のもの。六角型の石のそれぞれの面に法印・陀羅尼・法性・地持・勝軍・宝性の6体
の地蔵を表わしている。

 法印地蔵
 境内にある石碑。

   
六道地蔵尊

 子育地蔵?
 場所不明。区教委の『民間信仰』に次の記載がある。

   下(現在は隅田自治会)で祀っている。8月24日が祭日で、常善院の住職がお経を上げ
   る。また子供会でお参りする。地蔵は現在は東向きだが、以前は南向きに立っており、そ
   の前に空き地があって子供の通学時の集合場所や遊び場になっていた。戦後、この空き地
   に町内の消防具置場を建て、その際にお地蔵様も現在の位置に動かした。この時から、子
   供に親しまれてきたこのお地蔵様を「子育て地蔵」とよぶようになり、現在まで線香やお
   供物が絶えることのないほどさかんに祀られるようになった。


 
大涅槃画像
 寺宝。弘化二年(1845)に奉納された。

 
大般若経600巻
 この寺にもあり、昭和36年までこの経本を箱に入れ4地区を練り歩いた。いわゆる大般若祭とい
う古来からの行事だった。この経本は天明五年(1785)から4年がかりで近郷近在の信徒が寄進
した鉄眼版だ。


■大谷田一丁目第二児童遊園
 大谷田1丁目36番2号にある区立公園。


■第十二中学校
 大谷田1丁目37番1号にある区立校。太平洋戦争の敗北による教育基本法と学校教育法の制定に
より新しい学制(六・三制)が実施されると、地方自治体は新制区立中学校の開設を迫られた。しか
し当時は戦後間もない物資的資金的不足をきたした社会的混乱期にあり、財政難に喘ぐ地方自治体に
新学校を建設する余裕などなかった。こうした状況下でたまたま軍需産業日立精機の青年学校が廃校
していたことで、足立区は渡りに船とばかりにこの廃校舎を購入し新制足立区立第十二中学校の校舎
として昭和22年4月開校した。7教室しかない小規模な校舎だったが、当時は学制が施行されて日
が浅く、また混乱期であったことから開校当時の生徒児童数も僅か8名という寂しい出発だった。
 しかし
生徒児童数が次第に増加すると既存の校舎だけでは対応しきれなくなり、同25年7月に第
一次校舎増築が行われ、新たに西校舎6教室が設けられた。同27年1月足立区立中学校駅伝大会に
おいて3年連続優勝を果たし、優勝旗が永久授与された。同30年区の5哩ロードレース大会にて3
年連続優勝を遂げ優勝カップが永久授与された。同31年区立中学校駅伝大会にて再び3年連続優勝
を果たし優勝旗を永久授与された。都合6年連続優勝。
 その後も生徒数は増加の一途をたどり、二次・三次と増築を進め、同31年には東和に蒲原分校を
設立、翌32年分離して蒲原中学校とした。同32年都中学校対抗陸上競技大会にて優勝。
 生徒規模の拡大に対して学校規模の方は旧青年学校時代の用地をそのまま引き継いだままで、校地
の拡大は遅れており、度重なる校舎増築で運動場がなくなってしまった。そこで区は隣接していた寺
院「福寿院」の敷地を運動場として借用していたが、同34年に新たに鉄筋校舎を建てるに当たり、
更なる用地拡大が必要となった。区は福寿院住職と檀徒総代と侃侃諤諤の議論の末に借用地約400
0㎡と福寿院境内1650㎡の買収に合意し、寺院は建物および墓地を現在地大谷田3丁目へ移した。
こうした寺院側の画期的な協力によって鉄筋校舎の増築と拡大が進められ、同36年にはさらに引揚
寮跡地約5000㎡が運動場(新グラウンド)として開設されるなど、徐々に現在の姿へと変わって
いった。生徒増加の頂点は昭和38年であり、この年度の在籍生徒児童数は1281名という規模だっ
た。同54年花保中学校分校。平成9年創立50周年。

 校歌「」 作詞:古賀吉雄  作曲:福井直秋


■庚申塔 ◇
 大谷田1丁目37番1号中学校の南西角にある? 元禄四年(1691)の日月・青面金剛。この
庚申塔を祀った庚申講は、昭和の始めには既になかったようだ。同51年頃までは、念仏講の年寄た
ちが初庚申の時などに塔の前で念仏を行っていた。


■「誕生」
 大谷田1丁目39番4号先、歩道の植栽にある。


■大谷田こども園
 大谷田2丁目1番9号にある区の福祉教育施設。

 
「夕暮れ」
 こども園の東側歩道の植栽にある赤ん坊を背負っている少女像。昔「叱られて」という童謡の挿絵
に描かれていたようなデザインだ。今時、妹でもおぶる子はいないだろう。せいぜい乳母車押しだ。
なにしろ幼児の面倒を見るような子供がいない。。


■中川東小学校
 大谷田2丁目1番10号にある区立校。昭和47年日立製作亀有工場の土浦移転が決定すると、同
列の関連工場群もこの地域から同時移転することになり、跡地に大型公営住宅と下水処理場の建設が
決定された。当時この地域の初等教育機関は区立中川小学校のみで、団地が竣工して新規入居者が大
挙してこの地域に移入した場合、当然として学生児童数も増えることが予想された。その場合既存の
中川小学校だけでは学生児童が溢れてしまうことは明白であり、急遽団地建設と同時に開設されたの
がこの小学校だ。なおこの学校用地も日立建機工場跡地だ。
 足立区東部の住宅街の中、周囲に区立おおやた幼保園や区立中川小学校、区立第十二中学校、都立
足立東高校といった教育機関が多数立地する文教地域の一角に位置する。隣接する葛西用水路には桜
並木が広がり、季節ごとに学校を彩ってくれるほか、学校周囲のフェンスにはこの学校児童が描いた
多数の壁画が掛けられており、道行く人々の目を楽しませてくれる。その立地条件から学生児童の多
くは南に隣接する大谷田団地の居住児童である。卒業生徒の多くは十二中や近隣の公立中学校へ進学
する。

 昭和55年「足立区立中川東小学校」としとて開校。校旗樹立。校歌制定。

 校歌
「この空に」 作詞・門倉訣  作曲・田村徹
  1.この空に この土に
    生きている 歌っている
    欅の緑 公孫樹の梢
    流れる雲を温めながら
    明日を見つめて何処までも
    中川東小学校
  2 この川に この風に
    生きている 駆けて行く
    青い海や 赤い夕陽や
    嵐の夜をはばたきながら
    明日を探して何処までも
    中川東小学校
  3.この街に この国に
    生きて行く 歌って行く
    広がる朝を 大きな夢を
    遥かな宇宙を指差しながら
    明日に向かって何処までも
    中川東小学校


 同58年3教室増築。同59年創立5周年記念式典。同63年陶芸小屋・陶芸窯設置。
 平成元年ベルモント市交流使節団来校。創立10周年記念式典。同2年AVシステム設備設置。同
11年創立20周年記念式典。同15年校舎耐震化。同21年創立30周年記念式典。同23年校庭
改修。
 


■大谷田二丁目第二児童遊園
 大谷田2丁目2番1号にある区立公園。


■足立東高等学校

 大谷田2丁目3番5号にある都立高校。同50年足立西高等学校内に開設事務所設置。同51年開
設事務所を都立水元高等学校に移転。同校体育館にて第1回入学式。仮校舎にて授業開始。8月現在
地に第1期建設工事完了(普通教室21、特別教室・校長室・職員室ほか)。水元高校仮校舎より移
転。同52年体育館講堂が無いため荒川区民会館で入学式。10月第2期建設工事完了(体育館・各
格闘技場)。同53年第3期建設工事完了(外周フェンス、プール、テニスコート、バレーコート、
屋内競技場)。同55年視聴覚教室開設。同60年創立10周年記念式典。
 平成7年創立20周年記念式典。同13年~14年校舎大規模改修。同15年エンカレッジスクー
ル(5学級)開校。

 校歌「古利根干潟に」 作詞・山本和夫  作曲・平井康三郎
  1.古利根干潟に文化の咲きし
    太古の偲び武蔵野の
    日の出仰げば憧れは
    日に新しく 明日の世界に拡がりて
    不退転 その意志毅く
    知性を高める心は豊か
    吾等は足立東高校生
  2.遙かに富士ヶ峰 彼方に筑波
    両座の空に鮮やかに
    虹の立つ見ゆ 手を繋ぎ
    日に新しく 睦む吾等のその証し
    思いやる 心は渥く
    相寄る心は対話に融ける
    吾等は足立東高校生
  3.青空爽か たわわに稔る
    稲穂の如く稔りゆく
    不壊の哲理は奏鳴し
    日に新しく 未知の天地に羽博かん
    自主自立 その気も崇く
    無限を凝視める大視野に立つ
    吾等は足立東高校生
  


■大谷田二丁目児童遊園
 大谷田2丁目3番20号にある区立公園。


長慶山立応寺(本尊三宝)
 大谷田2丁目21番13号(旧大谷田町105番地)にある日蓮宗の寺。元和二年(1616)五
月二十七日の創建で、開山は円立院日仁上人。その墓碑がある。大概門が閉まっている閉鎖寺で、情
けなくも心を閉ざしている。足立区仏教会資料に、

   元和二年(1615)五月二十七日創立、開山円立院日仁上人を仰ぐ親師法縁で、明治八
   年の大火で霊簿などをなくしたため、詳細は不明である。古老の話として、徳川時代、寺
   の近所に処刑場(首切場)があり、その処刑人を投げるようにして当寺に埋め、住職も無
   縁塔を建て供養したという。不思議な奇瑞が現れ、投げ込み寺と呼ばれるようになったと
   のことで、重要記録なしで、ただあるのは「江戸浅州大工惣八金壱両、御祈祷、右の者、
   当寺田代三反取添え長慶山立應寺営寿附なさしものや、永代祈祷致可候、安永六年八月第
   十二世日意代」とはっきりした記録あるのみで現世に至る。


 とある。
 


■中川防災公園
 大谷田2丁目25番5号にある区立公園。


■銀河の塔 ◇
 大谷田3丁目4番18号大谷田交差点(六差路)にある高さ26mの、葛西用水親水水路完成を祈
念して建てられたシンボルタワー。これは陸橋を挟んだ東和4丁目とを連絡するための歩行者・自転
車用の地下トンネルの出入口となっている。完成当初から暫くの間は、夜間には光ファイバーによる
ライトアップがなされていたが、数年ほどしてから全く行われなくなった。塔の中程まで階段で登る
ことができ、階段の上端からは葛西用水路と桜並木が遠方まで見渡せる。平成8年設置。


■五丁田公園
 大谷田3丁目7番17号にある区立公園。


■金峯稲荷神社
(祭神:金子峯助命) ◇

 大谷田3丁目8番15号の空地にある小祠。金子峯助は大谷田開発に尽力した人。空地は境内なの
だろうか。「ブックレット足立風土記東淵江地区」に、

   金峯稲荷の「金峯」とは明治の合併村・東淵江村の村長だった「金子峯助」のことです。
   当時、大谷田の新田は、土地の条件も厳しく人家もほとんどありませんでした。東淵江村
   長になる前の1890(明治23)年、金子峯助は、私財を投じて稗田の地に道路や橋を
   新設し、家も建設し、人々の移住を進めたといいます。また土地改良を行うなど、稗田開
   発に尽くしました。このような金子峯助に対して感謝と親愛の情を込めて建てられたのが
   金峯稲荷です。そのときに金峯稲荷講も結成され、毎年初午の日には酒を酌み交わし峯助
   を偲んだそうです。

 とある。大きな石碑がある。

   金峯稲荷神社並和合之碑敷地史
   金峯稲荷神社の旧敷地は大谷田町二、一四八番地内約五十坪金子錦治氏所有地に鎮座せし
   處区画整理事業移転に伴ひ此の地を敷地に定め遷宮す。敷地面積は百六十語坪八四に特価
   の約十分の一の奉賛喜納金額を以て大谷田町第二区画整理組合が金峯稲荷神社並に和合之
   碑供用敷地として当時の氏子総代金子一内氏の名義とし共有する。


疣取り地蔵 延命山福寿院(地蔵菩薩)
 大谷田3丁目11番26号(旧大谷田新町2丁目)福寿院葛西用水の大谷田橋交差点から北へ用水
に沿って400mほど歩いた向かって左側にある新義真言宗豊山派の寺。もと葛飾区金町の金蓮院末
寺。慶安四年の墓碑がある。

 中川の疣取り地蔵
 門を入って左側にある。大谷田にあって中川とは是如何に? 寺は元々中川にあり、前大戦後に移
転してきたからだ。
 


■大谷田三丁目児童遊園
 大谷田3丁目12番24号にある区立公園。


■かっぱ像・さぎ像 ◇
 大谷田3丁目17番20号中川小学校正門前、葛西用水かっぱ橋脇にある、亀の上にしゃがみ大き
な魚を抱えているデザイン。


■中川小学校
 大谷田3丁目17番20号にある区立校。昭和33年現在地に東渕江小学校の分校として開校。同
35年校舎校舎増築(普通教室5、特別教室、職員室、管理室など)。同37年3月第1期校舎(2
階建て5教室)増築。4月独立して「東京都足立区立中川小学校」として開校。PTA結成。同39
年プール完成。同41年第2期校舎増築(鉄筋6教室)。創立5周年記念式典・校歌制定。
 同45年第3期鉄筋校舎増築(体育館、普通教室5、特別教室6、給食室)。同46年創立10周
年記念式典。学区変更(中川北小学校へ53名移籍)。同50年第4期鉄筋3階建校舎増築(校長室
・職員室・事務室・放送室・主事室・普通教室2)。同53年学区域変更(辰沼小学校へ児童86名
・職員1名を移籍)。同55年学区域変更(中川東小学校へ児童64名。職員14名を移籍。同56
年アスレチック「ジャックと豆の木」新設。同57年職員手作りのアスレチック1基設置。創立20
周年記念「カプセル発射の日」祭。創立20周年記念式典。同58年学帽制定。アスレチック「中川
ブリッチ」新設。手作りアスレチック「乱杭」設置。
 平成元年アスレチック「忍者渡り」新設。同2年プール改修。体育館渡り廊下改修。体育館犬走り
(建物や塀に沿って作った極狭い通路)完成。同4年職員室冷房化。創立30周年記念式典。同10
年パソコンルーム設置。同13年地方自治法改正により東京都の肝床が取れ「足立区立中川小学校」
と改称。同14年創立40周年記念式典。同16年二期制実施。土曜茶道教室開始。放課後遊び場解
放。土曜漢字算数検定教室開始。校庭整備。パソコンルーム冷房化。同18年英語活動開始。体育館
改修。同19年防犯カメラ設置。校舎冷房化。同21年校舎大規模改修のため仮校舎に移転。同22
年体育館・新プール完成。改修完了して仮校舎から移転。同23年ソーラー発電開始。同24年創立
40周年記念式典。

 
●女性教師失踪(殺害)事件 時効の壁
 昭和53年に起きた女性教師が失踪(実は殺人)した事件。8月14日、29歳の女性教師が忽然
と姿を消した。最後の目撃者は警備員をしていた男性Wであり、最後に目撃されたのも同日だった。
当然、警備員が疑われたが彼は不審な点を一切示さなかったので見過ごされた。
 警察も事件として捜査していたものの女性を発見できずにいた。また女性教師の失踪から10年後
の同62年の大韓航空機爆破事件において、北朝鮮工作員の金賢姫の日本語教師の「李恩恵」が女性
教師と似ていると特定失踪者問題調査会から指摘を受け、女性は北朝鮮による日本人拉致問題の被害
者であるとして、女性教師の家族は北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会に参加し
た。しかし、事件から26年後の平成16年8月21日、女性教師の最後の目撃者である元警備員の
男性Wが警視庁綾瀬警察署にに出頭して殺害を自供、事件の全容が判明した。Wは自首の動機は良心
の呵責に耐えかねたのではなく、遺体を隠匿していた元の自宅が道路拡張のための土地区画整理の対
象となり、家が取り壊されることとなったので、事件が発覚すると思ったからと述べた。またWは、
「高齢の夫婦二人暮しで移転できない」として、警察への出頭直前まで強硬に立退きを拒んでいた。
 女性教師は失踪当日にWによって殺害された。事件発覚を恐れたWの手により、女性教師の遺体は
コンクリート詰めにされ、公訴時効まで隠されることとなった。犯行の詳細については、Wの一方的
な証言しかないが、それによれば、校内で肩がぶつかったことから口論となり、騒がれたので逆上し
て殺害したという。遺族は被害者について「人と争うことのない穏やかな人だった」として、この供
述の信憑性を否定しており、真相は不明だ。殺人罪の公訴時効(当時は15年)が成立していたため
Wを殺人罪で起訴することができなかった。
 遺族はWに対して民事訴訟を起こした。同18年9月26日東京地方裁判所はWの行為を「殺人」
(昭和53年時点)と「遺体の隠匿」(平成16年時点)に分けて検討した上で、「殺人」について
は民事上でも時効が成立しており(不法行為(殺害)後20年の除斥期間の経過)、女性教師の遺体
を頻繁に移動させていた「遺体の隠匿」についてのみWの責任を認定して330万円の賠償を命じた
判決を言い渡した
 これに対し、東京高等裁判所は平成20年1月31日、上記地裁判決を破棄し、Wによって「遺体
の隠匿」され続けたために「殺人」が判明しない中で「殺人」を基点として除斥期間を認めることが
「著しく正義・公平の理念に反する」場合など一定の条件下においては除斥期間の効果は排除される
として、「殺人」と「遺体の隠匿」を一連の行為と認定したことで、「殺人」についてもWの責任を
認め、約4255万円の支払いを命じる判決を言い渡した。同21年4月28日、最高裁判所は、W
の上告を退け、判決が確定した。


■大谷田公園
 大谷田4丁目4番1号の梅園やバーベキュー施設がある区立公園。園内にある約150本の梅のう
ち、約110本が梅園内に植えられている。この梅園には四阿(あづまや)、木道があり、梅が開花
する時期に合わせて開園する。梅園ではゆったりと梅の花の観賞が楽しめるよ。
 バーベキュー施設の利用方法は、成人を含む4名以上のグループ。利用時間は、午前9時から午後
4時の内、準備と後片付けの時間も含む4時間まで。休場日は年末年始(12月28日から1月4日
まで)。使用料は不必要。申込みは、大谷田公園事務所(現地)で申込み出来る。電話による申込み
はできない。

 
「風サエ吹キスギル」 ◇
 平成5年第4回足立区野外彫刻コンクール入賞の中山敬章の作品。
 


■大谷田記念公園
 大谷田4丁目16番9号にある区立公園。


■梅田公園
 大谷田5丁目4番18号にある区立公園。


■甲良屋敷山神祠跡碑
 大谷田5丁目19番10号の高橋家にある? 郷土博物館にあるのかも?
 千住旭町の常東小学校門前の甲良屋敷跡の区の説明板には、千住旭町7番27号の高橋武宅前にあ
るとある。併し当該番地にはないので、高橋が大和田5丁目に移転して、その際、碑を郷土博物館に
預けたか、寄贈したかなのだろう。
 甲良家は、近江犬上群甲良荘法養寺村の出で、初代甲良宗広から11代棟孝まで、江戸幕府に仕え
た。江戸城をはじめ、日光東照宮など大きな建築物の造営に関与し、建仁寺派とよばれるた工匠の家
柄だった。甲良屋敷跡は千住旭町に大正時代まであった甲良家の別邸の跡だ。

   
甲良屋敷山神祠跡
   
昭和四十九年 高橋建之 


■東渕江庭園
 大谷田5丁目20番1号郷土博物館に隣接している区立公園。東渕江庭園は故小形研三が設計した
野趣あふれる回遊式日本庭園で、四季折々の景色を見せる。また種々の草花もあり、1年を通じて散
策を楽しめる。庭園内には数寄屋造りの臨渕亭があり、貸出(有料)も行っているので趣味の集いな
どに利用したらどうだい。


■郷土博物館
 大谷田5丁目20番1号にある。講堂なんかも持っている結構大きな建物だ。展示室は3つあって
その内第二展示室は企画展・特別展用とのことで、常設展示は第一・第三展示室とホール2階部分を
ぐるりと廻っている廊下の4辺が第1~4ギャラリーとなっていてショーケースによる農機具や信仰
関係の展示されている。区立の博物館としての規模は普通。館の背後には庭園もあり、ゆっくり出来
るスペースとなっている。第一展示室は地質時代から現代に至るまでの足立地域の歴史。第三展示室
は部屋全体が2つの家の内部を復元した形になっている。この部屋に入るとセンサーが感知して、案
内のアナウンスが中を順次解説してくれる。農家の台所、農家にあった漉返紙(再生紙)を作る紙漉
場紙問屋の帳場と続く。

 陶製芭蕉像
 2階に文化コーナーに錦絵「大橋」をバックに展示されていたが、現在は屋外に格下げ展示で移さ
れた。故川崎克の作品。昭和17年俳聖松尾芭蕉の偉業顕彰のため三重県伊賀上野に俳聖殿が建立さ
れた際に、乃木希典将軍の甥にあたる長谷川栄作氏の作品を原形として伊賀焼で製作された。この像
の予備というか、副というか、別に造ってあったのを、同49年10月克の妹康子が区に寄贈したも
のだ。400Kgあるという。
 それが平成21年に障害センターにまたまた移転された。この区の教育委員会も他区同様、出来損
ないが雁首揃えている。文化行政に誇りが持てず、嫌なんだろうね。仕方なしに働いているんだ。
 足立区生涯センターでは、また室内に戻された。芭蕉先生も「目に泪」だろう。

 土地整理組合の碑 ◇
 親子孫4人の農民像。詳細不明。

   
郷愛

 芭蕉の句碑
 文久三年(1863)建立。千住3丁目氷川神社境内にあったもの。氷川神社には新しい句碑が建
てられたので、風化した旧碑が寄贈された。梅は当時境内にあったという。

   
春もやゝけしきととのふ月と梅  
 


【興野】(おきの)1~2丁目                    昭和44年12月1日
 興野村。明治22年「市制町村制」により西新井町の大字となり、昭和7年足立区の成立で興野
町となって戦後に至る。同44年興野町と本木町3丁目の各一部をあわせた町域を現行の「興野」
とし現在に至っている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 興野の由来
 地名は〝本木村の奥〟の意で「奥野村」と唱えたのが、草書で書くと「奥」と「興」は酷似して
おり、誤読か転写ミスで「興野」になったのだろうと考えられており、町のすぐ北の隣町に「奥野
邑公園」を設置している。また地名用語では荒野・高野・興野などはいずれも「こうや」と呼んで
新開地を表したので興野はその和訓ではないかと説く説もある。まだまだ農地の目立つ新興住宅地
域。
 


■興本公園
 興野1丁目1番12号にある区立公園。


■松月
 興野1丁目5番1号にある和菓子屋。イトーヨーカ堂西新井店のすぐ前に開業して30年。和菓子
の心を大切にした四季折々の季節感のある菓子、下町情緒が感じられる親しみのある菓子を多数取り
揃えている。商品は総てこの店自慢の自家製餡を使用した和菓子の製造販売。

 団子 3種
 最高級の上新粉で搗きあげた3種の団子。みたらし団子、あん団子、そしてよもぎをふんだんに使っ
てある草団子。いずれも柔らかく歯ごたえのあるよう仕上げてるぞ。
 


■興野一丁目児童遊園
 興野1丁目10番14号にある区立公園。


■興野公園
 興野1丁目13番19号にある区立公園。


■東京朝鮮第四初中級学校
 興野1丁目18番12号にある。昭和20年9月立本木町で「国語講習所」として発足。その時の
生徒は20名、教員3名だった。同22年「東京朝鮮足立初等学院」と改称。同23年「東京朝鮮第
四小学校」に改称。同30年「東京朝鮮第四初級学校」と改称。同39年「東京朝鮮第四初中級学校」
と改称。同41年鉄筋校舎完成。同59年現在地に新校舎完成して移転。平成7年創立50周年記念
式典。
 この学校は、低学年(1~3年)、高学年(4~6年)、中級部(1~3年)の9年間で構成され
ている。民族の言葉、歴史、地理、文化、風習を身につけながら日本で生きて行くために日本の学校
と同等の科目を同時に習っている。現在は3、4世が主流だが、韓国から来た子どもたちも一緒に学
んでいる。

 
トルハルバン ◇
 玄関前にある済州島の石像。

 朝鮮統一 → 大高麗国
 北朝鮮も韓国もアシュケナジー(ユダヤ)の拵えた国で、南北分裂は昭和19年に決定していた。
だから北朝鮮と韓国が仲が悪い訳ではなく、対立は、アシュケナジーの演出するパフォーマンスなの
だ。北朝鮮が核兵器を持っていると豪語してさえ、イラクのフセインのように滅ぼされないのは、表
向き日本を脅すためで、アメリカ軍が日本を占領し続ける条件となっている。朝韓両国民がいくら頑
張っても統一なんてことは有り得ない。ただアシュケナジーたちは、この2つの国を統一して「大高
麗国」を作る構想は持っている。
 ユダヤの夢、目的は「千年王国」なのだが、日本という二千七百年の万世一系の国があることは目
障りなのだ。やがてユダヤ人は天皇の地位を簒奪し、満州(中国東北地区)に二千八百年王国を築く
だろう。その時僅かに残った日本人は日本語を捨て去って英語で話し、和洋混血民族となっているの
さ。国会議員の七分の一は在日朝鮮系日本人だってことを君は知っているか?
 それが在日が存在する理由なのだ。在日の後ろにはアシュケナジーがいるんだよ。
 さらに、それがアメリカ(ユダヤの国)の属国であるという理由でもある。

 ●拉致事件の真実
 横田めぐみという朝鮮人がいる。彼女は、上陸してきた北朝鮮工作員と学校帰りに鉢合わせして、
工作員ということがばれることを恐れた彼らによって拉致されたという。可笑しいだろう。彼らは指
令を受けて来たのではなかったか? 女子中学生と偶然出遭って、工作員の身分がばれたと思うか。
普通やり過ごすだろう。もしばれて通報されると思ったら殺すだろう。指令目的を達成しないで態々
連れて帰るか?
 ハッキリいうと、彼女は招待されたのだ。もっというなら、金正日の子供を産むために、北朝鮮に
渡ったというほうが正しかろう。もしかすると船ではなく飛行機で行ったのではなかろうか。この辺
りの事情も経緯も十二分に横田夫妻は承知している。悲痛な叫び声はパフォーマンスだろう。
 この事実をカムフラージュするために拉致を惹起させた。北朝鮮に日本人を連れ去らねばならない
理由はない。横田めぐみだけが必要だったのだ。横田めぐみはそんじょそこいらの朝鮮娘ではない。
朝鮮王朝直系の血筋なのだ。母親の横田早紀江は李方子の娘。つまり朝鮮李王家皇太子李垠のお姫様
なのだ。だからめぐみも当然お姫様。金正日は金日成の子ではなく。金策(畑中理)と金正淑の子。
つまり北朝鮮は日本陸軍とユダヤが拵えた国という訳だ。ユダヤと日本の間では統一朝鮮「大高麗」
建国は既定の路線。その盟主が金正恩、つまり金正日と横田めぐみの子。朝韓が合体する時、金日成
の孫が盟主じゃあ、韓国民は絶対に承服すまい。しかし李王朝の血筋となれば渋々でも承服するだろ
う。統一後、韓国民は属国民として、昔の白丁身分に戻されるのか?
 拉致事件に自民党政権は一枚噛み、十分経緯を承知しているはずだ、少なくとも朝鮮系日本人の多
い清和会(岸信介の系統)は主たる動きをしている。だからこそ小泉純一郎の時に一部拉致家族が返
されたのだ。さらに拉致事件にはCIAも関与している。
 序でに横田めぐみの現在は、姜美淑(カンミ
スク)といい国家保衛部の最高責任者だ。 


■「CHIKYU」
 興野1丁目18番20号セブンイレブン足立興野1丁目店の北側道路の端にある、平成元年第1回
足立区野外彫刻コンクール入賞の中村茂幸の作品。


■おきもとプチテラス ◇
 興野1丁目18番37号にある区立ミニ公園。平成17年1月6日開園。


■「(流れる)雲」 ◇
 興野1丁目18番38号興本地域学習センターにある市村緑郎の作品。幼女の顔の高さまで顏を下
げている母と娘の像。


興野神社(祭神:須佐之男命・譽田別尊・建御名方命) ◇

 興野2丁目1番4号にある。元は八幡社。後に2丁目28番42号にあった氷川社を合祀し、氷川
神社と呼んでいたが、昭和15年に興野神社と改称した。昔は寺だったという言い伝えがあり、その
根拠として拝殿の柱が赤塗りであることがいわれている。本殿の中には石の仏像があるという。その
本殿は大正3年の建立。稲荷・八幡・三峰の3社が合祀されている。
 境内に見事な大イチョウと寛政八年(1796)の漱盥石がある
 本祭は9月15日。13日には幟を立て、14日が宵宮だ。本祭には神輿・お囃子・神楽が出る。
また昭和初期には花農家が多かったので花の展覧会が催されていた。幟は6間~7間ほどあり、幟の
建て方は現在鳶職が行っているが、以前は泰子の合図で村の若者と中年の男が集まり、枠を作ってい
けていた。神輿は昭和7、8頃に、東厨子で味噌を作っていた人が株で儲けた金で買って寄付した。
当時のお金で数百円だったとか。東厨子への寄付だったが、今は興野全体の神輿となっている。
 「ブックレット足立風土記西新井」に、

   興野神社(興野2−1)
   境内に入ると、区の保存樹に指定されている大イチョウが、社殿を守るように2本そびえ
   立っています。以前は氷川神社といいましたが、昭和9年9月21日興野神社と改められ
   ました。詳しい創建年代はわかりませんが、「新編武蔵風土記稿」には「氷川社」と記さ
   れています。


 とあり、「新編武蔵風土記稿」に、

   (興野村)氷川社
   村の鎮守なり、諏訪八幡の二神を合祀し、各木像の神軀又氷川の本地十一面観音の銅像を
   安す。
   今氷川を本座とすれど、實は八幡の社地にして、後に氷川を合祀せしものならんと土人い
   へり、清光寺の持


 とある。

 
獅子頭
 江戸時代に病気退散のため担いで廻った大型のもの。祭礼の際には獅子堂という組立式の堂を作っ
て安置していた。この獅子堂は戦争中薪にして燃やしてしまったんだと。

 
大イチョウ
 本殿を覆い隠すように、まっすぐに伸びている2本のイチョウの巨木は圧巻だ! 幹の周囲は最大
で4.42mもあり、区内で最も太いことで知られている。
 


■興野児童遊園
 興野2丁目1番4号にある区立公園。


瑠璃山薬師院善応寺(本尊:聖観世音菩薩菩薩)
 興野2丁目20番5号にある真言宗豊山派の寺院。武蔵国足立郡奥野村(興野)に建立されたのは
む後村上天皇の貞治二年(1363)と伝えられている。もと吉祥院末だったが、昭和15年10月
奈良長谷寺の直末となった。同20年4月太平洋戦争の戦火拡大に伴い類焼の難に遭遇するも、同2
5年7月三間四方の木造の本堂を再建する。現在の本堂は、同40年寺檀ともどもに勇健の気運起り
鉄筋コンクリート造りにより建立された。
 本尊両座に弘法大師・興教大師を安置する。旧本堂は大師堂跡に移築され薬師堂と称し、本尊薬師
如来は行基作と伝えられる。両脇を昭和58年修復の十二神将が護る。境内には、寛永十一年(16
34)建立を含む六地蔵、慶安四年(1651)の大日如来石像、文久元年(1861)若しくは元
治元年(1864)作の四国八十八ヶ所の各本尊を本尊を線刻した石碣群があり、
 その他文化十三(1816)の石像不動明王を祀る不動堂がある。宗祖弘法大師1150年御遠忌
記念の修行大師像も建立され、荒川辺八十八ヶ所の第36番の礼所。大師堂は慶長二年(1597)
の建築といわれる。それから応永八年(1401)を筆頭に以降の板碑が沢山出てき、その他寛永十
一年(1634)九月二十七日銘の地蔵、寛保元年(1741)七月三日銘の宝篋印塔があるよ。
 「新編武蔵風土記稿」の興野村の項に、

   善應寺
   同寺(吉祥院)の末なり、瑠璃山薬師院と云、貞治年中の開基と云へど、是も開山の名は
   傳はらず、法流開山を祐性と云、延享五年七月三日寂す、本尊正観音を安。
   薬師堂。薬師は行基の作なり、この堂古は村の東南の方にありしが、後ここに移り、其舊
   地は今も除地にして、當寺の持なり。

   清光寺
   新義真言宗、本木村吉祥院門徒、八幡山阿弥陀院と號す、當寺は正応年中の起立なりと云
   へど、開山の名も傳へず、本尊阿弥陀を安す。


 とあり、「ブックレット足立風土記西新井」に、

   寺号は瑠璃山薬師院善応寺といい真言宗豊山派に属しています。開創年代は貞治二年(1
   363)、開基は寛朝上人と伝えられています。江戸時代にはもう一つ清光寺という寺が
   ありましたが、明治11年に善応寺に合併されました(清光寺の場所は現在の善応寺の第
   二墓地といわれています)。また明治の初めには興野の教育をになっていた公立興野学校
   がおかれていました。本堂は昭和40年に建立され、本尊聖観世音菩薩、両座に弘法大師
   ・興教大師を安置しています。昭和20年の空襲後に再建された旧本堂は大師堂あとに移
   築されて薬師堂と称し、薬師如来を本尊としています。


 とある。また「足立風土記資料寺院明細」には、

   小本寺吉祥院末 東京府管轄武州足立郡興野邑 瑠璃山善応寺
   創立年暦等不詳、賢秀開山、色衣ハ香衣一色寺格。
   但当住無之、東京府管轄武州足立郡本木邑吉祥院住職行阿兼務。
   境内、但除地、一反十二歩。檀家、四十二軒。

 とある。区の説明板は以下の通り。

   
善応寺(ぜんのうじ)
   善応寺は、天正十一年(1583)に創建されたという。現在の寺は、昭和4年浅草橋場
   の正憶院が移転合併してできたものである。
   堂内には、江戸時代の造像とみられる本尊阿弥陀三尊、阿弥陀如来立像、地蔵菩薩像、が
   安置され、元和二年(1616)にはじまる正憶院の霊簿、善応寺田畑什物等、多数の古
   文書が残されている。
   霊簿は、新吉原遊郭の開設者庄司甚右衛門はじめ楼主、遊女、禿(かむろ)の戒名を記し
   境内の遊女の墓碑、笠塔婆、楼主庄司・野村・西田三氏の供養塔と共に貴重な資料である。
   また、本寺には江戸時代中期頃、一老人が孫のおできの治療を地蔵に礼願し、そのお礼に
   艾餅を供えたとの言い伝えがある。それが世人に広まり、地蔵を草餅如来、本寺を草餅寺
   と呼ぶようになったという。
   平成元年12月                      東京都足立区教育委員会

 庚申堂
 門外左脇にあるコンクリートブロック製の小堂。堂内に1基。

 六地蔵
 境内にある。

 石碑
 入口を入ると大きなものが正面にある。

 仏塔
 本堂前左手にある。


■小祠 ✓

 興野2丁目20番29号にある。


■稲荷社 ✓

 興野2丁目24番12号にあるというが見当たらない。


■雷神様 遷座
 興野2丁目25番の辺りにあったが、昭和7年8月本木の妙見社に合祀され中曽根神社となった。
その日夜中に白装束で担いで行ったという。このことを興野では「雷神が神明に嫁にいった」と表現
する。
  


■興野ふれあい公園
 興野2丁目28番25号にある区立公園。


■興野西庚申堂プチテラス ◇
 興野2丁目30番1号にある区立ミニ公園。民有地借地。平成19年10月10日開園。

 
庚申堂
 3基が安置されている。よく整備されていて感心ものだ。

   庚申塔(寛文十年銘・尚徳四年銘)
   三基並んだ石造物のうち、右端と中央の石塔と呼ばれるものである。
   庚申塔は、我が国で平安時代以来盛んになった。庚申信仰に基づいて建立された。この信
   仰は、中国の道教の考えから発生し、60日で一回りする十干十二支の「庚申」の日の夜
   寝入ると体内に宿る三尸という想像上の虫が天に昇り、その人の日頃の悪事を天帝に告げ
   て死に至るので、徹夜して三尸の虫が抜け出るのを防ぎ長寿を祈るという俗信である。時
   代が下がると地域の中で講をつくり、順番に宿を決め夜通し娯楽に興じることが主な目的
   になった。講員は数年ごとに供養のために庚申塔を造立した。
   庚申塔には様々な形式がある。寛文十六年(1670)に造立された右の塔には、中程に
   三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)が陽刻されている。その下には、十名の講員の名が
   彫られている。中央の塔は、左側面に正徳四年(1714)の年号が刻まれている。塔の
   中央に青面金剛が、邪鬼を踏みつける姿が表現されている。この塔は、十三名の講員が見
   えている。なお基礎に三猿が刻まれている。
   かつて足立区周辺で庚申講が盛んで、現在でも多くの庚申塔が残されている2基の庚申塔
   は江戸時代のこの地域でも、この習俗が行われていたこと示すものとして足立区登録有形
   民俗文化財とまなっている。
   平成26年3月                         足立区教育委員会

 出羽三山供養塔
 庚申堂の横にある。天保十二年(1841)の造立。


■興野二丁目児童遊園
 興野2丁目30番5号にある区立公園。


■興野御嶽神社(祭神:国常立命) ◇
 興野2丁目30番12号、駐車場の奥にある小社。外観が掘立小屋風なので判らないよ。正面側か
らは参道が細く曲がっているので見えない。元々は興野2‐20‐5にある「善応寺」の管理する神
社だったが、詳しい創建や由緒については不明。文政五年(1822)の文書には前述のことが記さ
れているため、創建はそれ以前ということになる。
 社には「三嶽神社」と書かれた社号額が掛けられている。もともと三嶽神社と表記されていた神社
が御嶽神社になった場所が日本各地にあるため、ここもそうではないかと推測される。
 現在は神社の周りに新しい集合住宅などが建ち並んでしまっているが、昔は田んぼや野原で神社の
場所もすぐに分かった。時代と共に変化して、探さなければ見つけられないようになってしまったの
は少し寂しい気もするが、神社が存在し続ける限り信仰も途絶えないだろう。
 ここの神社へ参拝に訪れたい方は、住所付近まで来たら、高い鉄塔を目印に行くと見つけやすいか
もしれない。


■奥野邑プチテラス ◇
 興野2丁目30番33号にある区立ミニ公園。平成17年11月18日開園。
 


【小台】(おだい)1~2丁目                     昭和41年4月1日
 沼田村から独立したという。元和二年(1616)に見えるのでそれ以前の開村。明治22年「市
制町村制」により江北村の大字、昭和7年足立区が成立して小台町となリ、同23年本木6丁目の
一部を編入した。同41年新住居表示により、小台町の大部分に宮城町の各一部をあわせた町域を
「小台」とし、平成元年小台町・本木6丁目宮城町の各一部を編入して今日に至っている。1丁目
の住宅地はごく僅か、1~5番、11番、13~27番はほぼ企業用地。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 小台の由来
 地名の由来は不明だが集落は一段高いところにあった。小台は微高地(小さな台地)に村を開い
たことによるものか? 小台の本村は荒川放水路の開鑿に飲み込まれて失われ、現在の町域は当時
の萱野か耕地で集落はなく、わずかに小台の渡し場周辺に数軒の人家が見られたという。町内に特
別なものは何もない。だから小台は小台橋だ!
 


■安全稲荷 ◇
 小台1丁目2番3号、田島ルーフィング小台工場の入口を入った右手にある屋敷神。なお工場の住
所は小台1丁目3番1号だ。
 


■足立小台駅
 小台1丁目20番1号、尾久橋通りの東側にある都営日暮里・舎人ライナーの停車場。平成20年
3月30日開業と同時ににできた。ホームは島式1面2線構造で3階にある。ホームと改札階を結ぶ
エレベーター設置。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口の1ヶ所のみで、段差なしでロー
タリーがある駅前広場へ出ることができる。この広場は堤防上を走る道路と同じ高さにあり1階のよ
うに見えるが実は2階なのだ。堤防の下へ下りることができるエレベーターもある。
 足立小台駅がある小台地区は、隅田川と荒川に挟まれた東西に細長い地区だ。都電荒川線に小台停
留所があるが、こちらは小台ではなく荒川区西尾久にある。
 


■荒川江北橋緑地
 小台1・2丁目、宮城1丁目、扇2丁目に跨る荒川河川敷にある区立公園。


■小台一丁目児童遊園
 小台1丁目5番12号にある区立公園。、


■小台東公園
 小台1丁目23番2号にある区立公園。


■荒川商業高等学校
 小台2丁目1番31号にある都立高校。大正7年夜間商業補習学校として開校。昭和35年全日制
を設置。平成14年商業科と情報処理科を統合し、総合ビジネス科を開設。同17年全日制創立50
周年記念式典。

 
騎馬像 ◇
 建物入口外右にある。


■「To point Ω」 ◇
 小台2丁目1番46号先、小台橋西北の橋詰めにある、平成4年第3回足立区野外彫刻コンクール
入賞の安田明長の作品。 


■小台公園
 小台2丁目2番19号にある区立公園。


■天祖神社(祭神:天照大御神) ◇
 小台2丁目9番1号にある。昭和30年に小台住民の強い要望により、江北氷川神社に合祀されて
いた天祖神社を分祀して、新たに社殿を創建した。境内には水神などを祀っており、隅田川・荒川に
挟まれた当地の水神に対する厚い崇敬が窺える。祭神は天照大神。例祭は9月15日。
 


■光陽社発祥の地

 小台2丁目24番10号の黒子歯科クリニックの南西角に建つ幅1mほどの黒い石碑に「光陽社発
祥の地」の文字が刻まれている。
 光陽社は工業用の研磨剤メーカー。昭和元年戸次創が荒川区尾久町に「光陽社鍍金材料製造所」を
創業し、バフ研磨剤の製造を開始。同9年「株式会社光陽社」に改組し、工場を東京都足立区小台に
移した。太平洋戦争により全施設を焼失したが、同21年バフ研磨剤の製造を再開。
 平成2年福島県白河市に白河工場を開設。その後順次移転を行い、同14年東京小台工場の白河移
転が完了し。小台工場は閉鎖された。

   光陽社発祥の地
   1926年8月筑後柳川藩戸次兆一嫡男創、妻力子と研磨材料の製造販売に着手して光陽
          社を創業 ここ小台町内に本社 工場 研究所を展開するに至る
   1981年2月光陽社は長期経営計画に基づき明日のためのゆとりある工場適地を求めて
          東北地方南端 白河の地に用地を確保する
   1990年1月第一次移転を開始し以後三次にわたる移転により小台町内四ヵ所に点在す
          る本社研究所および全工場を白河に集約して本社とする。この間営業・経
          理部門は日暮里駅南口の光陽社ビルに戻す
   2002年11月以上の経緯により長期経営計画は完了し 小台の全施設を閉じるに至る

    ここに永年にわたる近隣の皆様の多大なるご協力に感謝しつつこの碑を刻す
    2002年12月20日          株式会社光陽社 代表取締役 前田俊彦
                                 相 談 役 戸次 弘



金龍山珠明院(本尊:聖観世音菩薩菩薩)
 小台2丁目42番16号にある曹洞宗の寺。本尊は聖観音像。開山は存廓大和尚、弘治元年(15
55)十一月五日に示寂した。現在の堂宇は戦後の再建で、木造の瓦葺きだ。

「新編武蔵風土記稿」の小臺村の項に、

   珠明院
   曹洞宗、豊島郡赤塚村松月院の末、金龍山と號す、開山然室存廓は弘治元年十一月五日寂
   せり、本尊正観音を安す。

 とある。入口すぐに板碑型庚申塔はじめ数基の石造物が並び建つ。その中に等身大の地蔵があり、

   六地蔵弐番目武州江戸講中
   元禄十二己卯年七月十五日


 の銘文がある。江戸地蔵詣でのなごりと『新編武蔵風土記稿』にある。桐之谷にあった真長庵は、
荒川放水路(今の荒川)開鑿で立ち退きとなり、本尊の聖徳太子と堂宇がここに移転している。宝物
に幅約2.7mの大涅槃の大掛軸がある。また墓地に寛永二年(1625)、同十一年(1634)銘
の庚申塔がある。


■小台子育地蔵堂 ◇
 小台2丁目45番4号足立区南児童館の端っこにある小堂。毛彫り線刻地蔵。
 


■小台の七庚申 ◇
 小台2丁目47番1号の下川宅の東北角にある。荒川放水路は江北村から多くの農民を追い払い、
田畑を潰した。ここにある7基の庚申塔は、大正の初め、荒川放水路の開削工事で立ち退きとなった
時、予定地にあったものを、下田亀蔵が集めてここに安置した。
 ①.駒型 日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「奉 造立青面金剛 講中」「為庚申供養 敬
   白」「武刕下足立郡渕江領宮城村」向かって右側面には「享保五庚子年九月吉日」

 ②.板状駒型 日月・青面金剛像・邪鬼・三猿。「奉造立青面金剛像庚申供養」「正徳四甲午天九
   月吉祥日」
 ③.板状駒型 日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「奉造立青面金剛像庚申供養」「元禄十五
   歳次壬午閨八月廿七日」「敬白」

 ④.板状駒型 日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「奉造立青面金剛尊容庚申供養」「元禄五
   壬暦九月吉日」

 ➄.板状駒型 日月・青面金剛像・邪鬼・三猿。「奉造立 青面金剛像庚申供養」「正徳三 天癸
   巳九月吉日」
 ⑥.駒型 日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「奉造立庚申供養」「講中 敬白」「元文元丙
   辰天九月吉日」(

 ➆.板碑型 二猿(浮彫り)。中央「奉造建青面金剛本尊一宇二世安楽所」・
右「承應三甲午年」
   「逆修成就所」・左「庚申供養一基」「霜月吉祥日」
「法主 恵明寺」  「宮城村敬白」 

 区の説明板は以下の通り。

   小台の七庚申
   庚申信仰は、大陸から伝来した儒・仏・道の三教の内、道教を軸に平安時代の初め僧侶に
   よって貴族社会に伝わり、のち次第に庶民に及んで固有の民俗信仰と習合し、広まったも
   のである。
   ここに多数の庚申塔が一ヶ所に集まっているのは、大正初年に始まった荒川放水路の開削
   で、河川敷となる地から下田家と共に移築安置したものである。したがって庚申塔には、
   「武州下足立郡渕江領宮城村」と元の地名が記されている。多くの民俗資料が消滅してい
   く中で庶民の努力によって保護保存されている代表的なものである。
   昭和54年3月                      東京都足立区教育委員会

   小台の七庚申
   庚申信仰は、大陸から伝来した儒・仏・道の三教の内、道教を軸に平安時代の初め僧侶に
   よって貴族社会に伝わり、のち次第に庶民に及んで固有の民俗信仰と習合し、広まったも
   のである。
   ここ一か所に集まっているのは、大正初期にはじまった荒川放水路の開削工事で、立退き
   の対象となった地から下川家と共にここに移転安置したものである。
   承応三年(1654)から元文元年(1736)に造立された堂々とした造りで、江戸
   期庚申信仰が盛んであったことを物語っている。武州下足立郡淵江領宮城村の刻銘がある
   が、ここの地名をとって小台の七庚申と呼ばれ、人々の信仰を集めている。
   多くの民俗資料が消滅していくなかで、区民の努力によって保護保存されている代表的な
   ものである。
   平成4年3月                       東京都足立区教育委員会
 


小台会社員殺人事件
 小台2丁目33番8号のアパート「沢田荘(第一と第二がある)」101号室で、平成11年5月
6日午前9時50分頃、この部屋の住人で会社員の武田鎮雄(63歳)が腹部から血を流して死んで
いるのを、訪ねて来た勤務先の社長が見つけて通報した。警視庁捜査一課と西新井署の調べによると
六畳間の布団の上に俯せで倒れ、左右の腋腹を1ヶ所ずつ刺されていた外、首にも傷があった。凶器
は見つかっていない。被害者の男性は一人暮らしで、荒川区内の冷凍機設備工事会社に勤務。会社が
休みの5日の朝、自転車で出かけるのをアパートの人が見ている外、室内に晩酌の跡があったことか
ら、同日夜に殺された可能性が高い。6日朝被害者の男性が出勤しないのを心配して社長が訪れ、鍵
がかかっていたため、管理人に合鍵を借りて入った。なお5日夜、自宅で男と話している姿を近所の
人に目撃されており、このことからも5日深夜~6日未明に殺害された疑いが強い。なお重要参考人
として、被害者の郵便局の口座から現金59万円を引き出した人物を手配している。

 犯人逮捕
 平成25年6月8日郵便局に残っていた指紋と一致した中窪信雄(60歳)が殺人容疑で逮捕され
。中窪は「知り合いの男が武田さんと面識があり、その男に事件に誘われた」と供述している。
 判決
 平成28年9月12日芹沢政治裁判長は、無期懲役の求刑に対し、懲役13年を言い渡した。
 


【加賀】(かが)1~2丁目                      昭和50年7月1日
 十九世紀半ばに成立した加々皿沼村。そのむかしは加々と皿沼は別々で鹿浜村の小名加賀と皿沼
だった。明治22年「市制町村制」により江北村の大字、昭和7年足立区加賀皿沼町となり戦後に
至る。昭和50年新住居表示により加賀皿沼町・北鹿浜町・北堀之内の各一部をあわせた町域を現
行の「加賀」とした。新住居表示の際〝○○が丘〟的な意見もあったが、土地の人たちがしっかり
していたので軽薄に流されなかった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 加賀の由来
 加賀が残ったのは良いのだが、由来はさっぱり判らない。加賀国とは関係ないようで白山神社も
ない。「カガ」は地名用語では「耕作化不能の平坦な草地また露出した岩」とあり、とすれば加賀
は「耕地化できない荒地」つまり不毛の地だったのか? 芝原だったのか・・・ 板橋区加賀とは
ちょっと違う。だから加賀の加賀らしいところは見つからない。加賀稲荷神社と加賀天満宮が向か
いあってある。
 


■加賀公園

 加賀1丁目2番12号にある区立公園。


■板碑型庚申塔 ◇

 加賀2丁目6番5号の加賀町会会館敷地内にある。「奉造立庚申之石塔為二世安楽也」と刻んだ板
碑と「庚心講」と刻んだ丸彫り地蔵。手書きのベニヤ板がある。

   足立区指定有形文化財 昭和六十三年十一月十六日
   
板碑形庚申塔 三猿画彫
   
立庚申供養之石塔弐世安楽也
      明暦戌年霜月吉日
   
無指定
   
地蔵尊
      寛文申四年辰天九月二十五日
   
奉納大乗妙年大却日本廻国供養■誉浄心
      宝暦十一年三月吉佳日
   
塔名(判読不明) 外一塔 十二月二十五日
      元文四年十一月二十五日
   
塔名(判読不明)
      明和  十二月吉日
   
寒念佛供養塔  加賀山村
      安永三年二月六日
      ‐‐‐‐‐‐

 文中の「道」は「造」の、「日」は「典」の誤記だろう。刻字に誤りがあるのか、読み取り転記に
誤りがったのかは不明。

   板碑型庚申塔
   庚申塔は、庚申信仰をする庚申講の人々によって造立された塔です。
   庚申とは、十干の庚と十二支の申とが結び付いた60年に一回廻ってくる日や年のことを
   さす。
   庚申の日には、人間の体内にいる三尸という虫が睡眠中に抜け出て,天帝に罪過を告げる
   ため寿命が縮むという説が中国の道教にあり、これが日本に伝わり信仰された。庚申の夜
   には眠らずに過ごす守庚申に、礼拝本尊や宗教儀礼が組み込まれた庚申待ちが室町時代の
   中頃から行われるようになり、江戸時代に入ると一般的にも浸透し、各地に庚申講が結成
   され、供養のための庚申塔が多数造立ようになった。
   庚申信仰が石造物として最初に現れるのは、板碑としてであり、板碑型の庚申塔とは、板
   碑からその他のものへの移行過程に多く造立された庚申塔で、板碑に類似した形状のもの
   である。
   この板碑型庚申塔には、上部に三猿が線刻され、中央に「奉造立庚申供養之石塔爲二世樂
   也。敬白」とあり、その両側に「万治元暦(1658)戊戌」「霜月吉祥日」と建立月日
   が、下部に8人の施主名が刻まれている。
   この塔は、三猿を表した最も初期の庚申塔であり貴重である。昭和63年11月足立区有
   形民俗文化財に指定された。
   平成7年3月                       東京都足立区教育委員会
 


■加賀児童遊園

 加賀2丁目18番4号にある区立公園。


■加賀天満宮(祭神:菅原道真命) ◇

 加賀2丁目18番9号にある小社。西にある加賀稲荷の境外末社だという。明治12年の神社明細
帳では、鎮座地が現在の加賀2丁目26・27番付近で、現在地の400m程東、社名北野神社、こ
じんまりした小社であったという。区画整理事業により現在地に遷した。参道がコの字型で変わって
いる。皿沼小学校の通学路安全点検で、子どもが引っ張り込まれる心配があるのではという声があり、
塀の高さを低くした。
 


■加賀稲荷神社祭神:宇迦能御魂命 ◇

 加賀2丁目19番15号にある中社。例祭は9月17日。創建は不詳。初め浅香氏の氏神だったの
ものを、嘉永の頃(1848~53)に現在地に遷座して村の鎮守とした。向方にある浅香氏の墓碑
には、嘉永八年(1631)十二月一日の銘があり、境内には文久年間の手水石、嘉永三年(185
0)造の白狐像がある。この社は古来より風病に霊験があるといわれ、近在はもとより埼玉方面から
の参拝者も多い。「新編武蔵風土記稿」に、

   (鹿浜之内加々皿沼)稲荷社二宇
   一は皿沼の鎮守にして、本村寳蔵寺の持、一は加々の鎮神にして、領家村感応寺持なり


 とある。
 


■加賀第二児童遊園

 加賀2丁目25番3号にある区立公園。


■加賀中学校
 加賀2丁目25番22号にある区立校。昭和59年「東京都足立区立加賀中学校」として開校。

 校歌「緑になろう」 作詞・友竹辰  作曲・友竹正則 編曲・亀山法男
  1.緑になろう みんなで高く
    空に向かって 伸び続けよう
    公孫樹のように爽やかに繁く
    憩いを宿す 緑になろう
    どんなに風が 吹きすさぶ時も
    加賀 加賀 加賀 我ららの中学校
    加賀 加賀 加賀 我らの母校
  2.翼になろう みんなで遥か
    微風に乗って飛び続けよう
    白鳩のように優しく敏く
    平和を謳う翼になろう
    どんな雲が厚く閉ざしても
    加賀 加賀 加賀 我ららの中学校
    加賀 加賀 加賀 我らの母校
  2.光になろう みんなで遠く
    宇宙の彼方 明日に向かおう
    太陽のように暖かく強く
    希望を目指す光になろう
    どんなに夜が暗く深くても
    加賀 加賀 加賀 我ららの中学校
    加賀 加賀 加賀 我らの母校 


 同63年創立5周年記念式典。
 平成5年創立20周年記念式典。同14年東京都スクールカウンセラー配置。同15年創立20周
年創立20周年記念式典。同25年創立30周年記念式典。
 


■加賀北公園

 加賀2丁目31番8号にある区立公園。
 


【加平】(かへい)1~3丁目                    昭和43年12月1日
 首都高の「加平ランプ」で有名だが、慶長~元和のころ神奈川県の稲毛からやってきた伊藤嘉兵
衛が開発した「
嘉兵衛新田」に始まり、寛永の綾瀬川新鑿により東西に二分された。明治22年「市
制町村制」により花畑村大字嘉兵衛新田となり、昭和7年足立区の成立で綾瀬川を境に東・西加平
町に分かれた。 同43年新住居表示により東加平町は一部を綾瀬7丁目に譲り、残りの大部分に、
五兵衛町・下谷中町・内匠町・花畑町の各一部をあわせた町域を現行の「加平」とした。同46年
残余の一部を谷中2丁目に、同48年一部を谷中4丁目に譲り新住居表示を完了。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 加平の由来
 伊藤嘉兵衛の〝嘉〟字から「加」を抽出し、〝兵衛〟を「平」に直したものだ。理由は「嘉兵衛」
では画数が多くて煩雑だということだ。環七通りを通す綾瀬川に架かる橋を「新加平橋」という。
その南に嘉兵衛橋が架かっていたが加平ランプ建設のため撤去されてしまった。
 加平は、江戸時代の嘉兵衛新田の東川端・菖蒲沼・井堀添の三つの字(あざ)を基礎として成立
した。嘉兵衛新田が開かれる以前のこの地域は「ヤムラ」と呼ばれていたという。ヤムラは谷村と
も八村とも書かれていたが、開拓前のこの地域は低湿地帯であり、「谷」とは、そこから付けられ
た名であることが多い。実際、中川西岸に「大谷田」、加平と大谷田の間に「谷中」があることか
ら考えると「谷村」方が適切だろう。
 


■環七通り西行き首都高加平ランプ
 加平1丁目2番にある。東行きランプと合わせて「目玉ランプ」と俗称する。航空写真で見ると、
ループ式ダブルデッキの構造が二つ、丸く見えるので、そう呼んだのだろう。
  


■環七通り西行き首都高加平パーキングエリア
 加平1丁目2番1号にある売店と食堂。
 


■えぼ地蔵 ◇
 加平1丁目2番37号、環七通り南側の首都高速6号線加平ランプ裏の道路沿いにある小祠。この
祠に祀られている身の丈1m程の地蔵像が『えぼ地蔵』だ。元は現在地より40mほど西の旧嘉兵衛
橋東詰に安置してあったが、昭和39年区画整理によって現在地に移された。地蔵は2体あるが、小
さいものが昔からのもので、大きいものは後になって作られたものという。

 由来は、次のような話が伝わっている。
 寛永年間(1624~44)に綾瀬川が運河として新たに開削され、その後元禄八年(1695)
頃に川幅を拡張する工事を行なった。その際,嘉兵衛橋の直ぐ上の所から発掘されたのが、この『え
ぼ地蔵』で嘉兵衛橋東詰の伊藤時雄の先祖の土地の一角に祠を作り祀られるようになった。
 ご利益は、いぼで悩んでいる人が、この『えぼ地蔵』に「いぼが取れます様に」と願をかけ、供え
てある塩を持ち帰り、これを数回いぼに付けているといぼがとれたという。そして地蔵像の霊感によ
りいぼが取れた人は、持ち帰った塩の倍の塩を地蔵像に供えます。こうして供えられた塩が、また次
の人のいぼとりに使われていったということだ。
 


■東加平小学校
 
 加平1丁目12番12号にある区立校。昭和44年綾瀬小学校から分離して「東京都足立区立東加
平小学校」として開校。PTA設立。開校記念日を11月5日とする。同46年体育館完成。同48
年プール完成。同49年第1期校舎増築(普通教室3・特別教室3)。同51年第2期校舎増築(普
通教室3・資料室2)。同53年創立10周年記念式典。同62年校庭スプリンクラー設置・校庭全
面改修。同63年教室を改装してランチルーム完成。同63年創立20周年記念式典。
 平成8年校舎耐震化。同10年創立30周年記念式典。同14年パソコンルーム開設。同18年正
門電子錠設置。同19年防犯カメラ設置。校舎冷房化。同20年創立40周年記念式典。同23年校
帽制定。

 校歌「風」 作詞・中村明 補作・石田成太郎  作曲・渡辺公子 補作・早川正昭
  1.風 風 風 
    風が流れる 大空に
    元気な声がこだまする
    今日も学んで よく遊び
    明るい心 育てよう
  2.顔 顔 顔
    顔が並んだ校庭に
    仲良く友と手を繋ぎ
    今日も楽しく運動し
    体を強く鍛えよう
  3.夢 夢 夢
    夢が膨らむ この胸に
    希望の光 輝かせ
    伸び行く日本を受け継ぐと
    正しく広く考えよう
     みんなの学校 東加平
 


■川端第二公園

 加平2丁目2番8号にある区立公園。


大光山観音院円泉寺(本尊:阿弥陀如来)

 加平2丁目6番16号(東加平362番地)にある浄土宗の寺。延宝年間(1673~80)開山
は単蓮社歴呑和尚、開基は伊藤嘉兵衛と伝わる。伊藤さん家は西加平にある。現在の本堂は昭和28
年10月の建築だ。寛永六年(1629)七月二十三日と刻す供養塔と寛政九年(1797)正月、
文政十一年(1828)十二月銘の庚申塔2基がある。
 ブックレット「足立風土記花畑地区」に、

   圓泉寺(加平2丁目6)
   京都の知恩院を本山とする浄土宗のお寺で、大光山観音院圓泉寺と号し、本尊は阿弥陀如
   来像です。正保三年(1646)に、單蓮社歴呑上人によって開山されたといわれていま
   す。伊藤嘉兵衛家と相前後して当地に移住し、嘉兵衛新田開発を進めた吉田家の1反程の
   私有墓地とその周囲の田畑1町2反をもとに創建されたと伝えられています。墓地には、
   開山の暦呑上人や吉田家歴代の墓などがあります。
   神宮寺墓地
   圓泉寺墓地の北西隅に、柵に囲まれた墓石群があります。ここは神宮寺墓地といわれてい
   ます。この神宮寺墓地は、現在の加平2丁目8番の一角の北東隅の私有地にあったのを、
   区画整理事業の際に圓泉寺の墓地に改葬したものです。江戸時代後期にはすでに、「神宮
   寺」と称する本尊として「大日」を安置していた寺があったことが、「新編武蔵風土記」
   に記されています。


 とあり、「足立風土記史料寺院明細」に、

   本寺西京東山知恩院 東京府管轄武蔵国足立郡嘉兵衛新田村 大光山円泉寺
   宗祖円光大師幾世法孫未詳、正保三年三月暦呑和尚創立、住職年数二十九年、延宝三年寂
   ス、其余不詳。
   第十六世住職有山壬申六十三歳。長野県管轄信濃国更級郡平久保村農田中忠蔵三男、文政
   八年十月十一日東京芝増上寺山内通元院ニ於得度、文政九年正月十一日増上寺ヘ入寺、文
   政十二年三月十五日ヨリ同山天山寮ニテ学修、弘化三年二十一日当寺ヘ住職、明治五年迄
   住職、年数二十七年。以上僧壱人。
   境内三反八畝歩。但九畝二十八歩、明治四年地所御改ニ付増歩。合四反七畝二十八歩。内
   御除地現在境内二反二十五歩。元御除地田畑反別二反七畝三歩、明治四年御年貢ニ相成ル。
   此高八斗五升一合三勺。
   檀家三十六軒。


 とある。「足立風土記史料寺院明細」には、

   浄土宗の寺で、往昔失火焼失せしとか、古事記録など一切現存せるものなく、由緒沿革を
   評記するを得ず。わずかに現存せる過去帳と、古老の言を証として、略記するものなり。
   当寺は大光山観音院円泉寺と号し、本尊は阿弥陀如来、開山は單蓮社歴呑上人なり。爾来
   約三百四十年以上経過せるものにて、その間、焼失などの災厄に遇い幾変遷あり。明治五
   年第16世有山和尚の代に、名主嘉兵衛氏宅の一部の寄付を得て、旧本堂を修築建立したる
   ものなり。その後、暴風・大震災などに遭遇し、被害を得たるを以て本堂改築の計画を進
   めたるも、農不作などの天災のため計画どおり運ばず、その都度修繕をもって小康を保た
   せるも、その後、腐朽甚しく、その筋の認可を得て、旧本堂を除却して本堂庫裡新築を了
   す。時に昭和十七年五月第十九世俊哲の時代なり。
   その後、昭和二十八年十月、本堂を新築し、昭和四十八年十二月檀徒控室を新築し、現在
   に至る。第二十世秀栄の時代なり。


 とある。

   圓泉寺の庚申塔群        正面に向かって左から文政十一年(1828)銘・文
                    
  政十二年銘・年不詳・寛政九年(1797)・年不詳
   圓泉寺は山号を大光山、院号を観音院とする浄土宗寺院である。寺伝では正保三年(16
   64)開山とされ、阿弥陀如来立像を本尊として安置する。
   山門を入って左側に並んでいる5基の石造物は、庚申塔と呼ばれる。
   庚申塔は、我が国で平安時代以来盛んであった庚申信仰に基づいて建立された。この信仰
   は古代中国の道教から発生し、60日で一回りする十干十二支の「庚申」の夜、寝入ると
   体内から三尸という虫が天に昇り、その人の日頃の悪事を天帝に告げ寿命が縮まるので、
   徹夜して三尸が抜け出るのを防ぎ長寿を祈る俗信である。時代が下がると農民にも広がり
   江戸時代には村々に講が結成され、順番に宿を決め寄り集まって夜通し娯楽に興じること
   が主な目的となった。三年で結願とされ、庚申塔が造立された。
   庚申塔の形態は様々であり主尊も青面金剛を中心に阿弥陀・観音・地蔵等が彫刻された。
   圓泉寺所在庚申塔は3基が駒型(寛政九年銘・文政十一年銘・文政十二年銘)、1基が光
   背型(年不詳)、1基が自然石(割り石・年不詳)の形態であり、主尊は青面金剛の陽刻
   が3基ある。また主尊の代わりに「青面金剛」「庚申塔」等の文字が刻まれる庚申塔は、
   江戸時代後期のものが多く、圓泉寺所在の「青面金剛」と文字が刻まれた庚申塔も江戸時
   代後期の文政十一年の造立である。
   光背型の庚申塔は造立年が不明だが、圓泉寺十二世「弾誉上人」の名が刻まれている。弾
   誉の没年が享保十八年(1733)九月四日であるため、それ以前の造立であることが確
   認されるとともに、地域の庚申講に地元寺院の僧侶が関与したことを示す貴重なものであ
   る。5基の庚申塔は、いずれも平成18年3月足立区登録有形民俗文化財となった。
   平成22年3月                         足立区教育委員会

 みそぎ堂
 境内にあるが、外から拝めるよ。
   


■上の公園

 加平2丁目13番12号にある区立公園。


涌徳山本修寺
 加平2丁目15番13号にある日蓮正宗の布教所。寺風でない建物は落ち着いた雰囲気だ。創価学
会をボロクソにいってるから関連はないのだろう。本尊は不明。
 と書いたら、お寺さんからメールがありました。

   足立区加平の記述中、「本修寺」の項目において、「創価学会との関係は分からない」との
   評論がありましたが、当寺は。創価学会とは全く無縁であり、宗祖日蓮大聖人の「み教え」
   を約750年間純粋に守り、伝え、その時代時代で懸命の布教に励む「日蓮正宗」の正統な
   寺院であることを念のため申し上げます。

 
詳細が判った。昭和48年梅島に日蓮正宗の実修寺という寺が開創されたが、平成4年の騒動で当
時の住職(第66世法主日達上人の次男)が離脱して創価学会に走った。それでその代わりとして同
6年に総本山大石寺第67代法主日顕上人によって開創したという訳だ。
 

 
日蓮正宗
(にちれんしょうしゅう)
 日蓮を宗祖とし、日興を派祖とする仏教の宗派の1つ。日蓮系の諸宗派のなかでは、日蓮本仏論、
勝劣派などを教義とする富士門流(日興門流)に属し、「興門八本山」のうち、大石寺(総本山)、
下条妙蓮寺(本山)の2本山が所属する、富士門流中の有力宗派だ。
 宗祖の入滅後、6弟子の1人だった日興が、総本山として大石寺(たいせきじ)を建て「御開山」、
乃ち事実上の開祖となり、その教義的方向性を決定づけたが、日興は7年留まると石川氏の招きで大
石寺を退出、晩年は重須談所(現在の日蓮宗北山本門寺根源・重須本門寺)に移住し、日目に血脈を
譲ったのち、晩年は師弟の教育・指導に当たり、この地で没した。日蓮正宗と正式に名乗るのは明治
45年で、それまでは日蓮宗勝劣派の一宗派(大石寺派)、一時は富士門流各山と連合し「日蓮宗興
門派・日蓮本門宗」という富士門流八本山による連合宗派も作っていた。日蓮本門宗時代は、管長は
八本山からの輪番制となったが、大石寺本末・中末が政府に独立が公許されこれから独立し、明治3
3年「日蓮宗富士派」と公称し、同45年に日蓮正宗と改称し現在に至るが、法華経正宗分の意味合
いからであろうか、少なくとも江戸時代中期には自宗派を「正宗」と呼ぶことがあったことが金沢郷
土史の文献「正宗の題目」から分かるという。

 歴史
 日興は、宗祖の本弟子6老僧の1人として積極的な折伏(しゃくぶく)に目覚しい成果をあげ、特
に駿河(静岡県)において強力な教団組織を創りあげた。この急速な布教展開は他宗派関係者や鎌倉
幕府内権力者の警戒心を招き、(弘安二年(1279)には熱原郷付近の僧俗が徹底的な弾圧を受け、
最終的に3名の農民信徒が殉教を遂げるという事件も起きている(熱原法難)。宗祖日蓮滅後廟所の
6弟子による輪番制が敷かれたが、

   戦乱や疫病、遠方の布教活動を理由に日興以外の五弟子が輪番制を放棄。本弟子6老僧
   の1人の日向の示唆によって地頭波木井坊六郎実長が謗法行為をして、身延山久遠寺別
   当職の日興はやむなく身延離山した。


 と、日蓮正宗や日蓮本宗などの日興門流でいわれている。日興は、正応二年(1289)に多宝富
士山下之坊を開山し、多宝富士山下之坊は現在では富士門流・日興門流発祥の聖地とされている。翌正
応三年(1290)日興は南條時光の寄進によって富士山の麓に大石寺を開いた。その後長きに亘っ
て、通称とて「富士門流or日興門流」と呼ばれた「日興の日蓮宗」の流れを汲む諸派は、勝劣派・
一致派48本山が戦前の宗教政策により連合した日蓮宗とは教義的にも宗教行為の交流はないが、学
術面での交流を持っており、日蓮宗僧侶が大石寺に訪れることがある。とりわけ日蓮正宗では現在で
も、日蓮の正しい教えが日興 - 日目 - 日道と続く法脈以外には伝わらなかったとして、日朗系など
の全ての他門流、さらには他の富士門流諸派(後世になって日蓮宗と妥協的な態度を取るようになり、
大石寺に従わなくなった)までも全て謗法としている。江戸時代、大石寺は江戸城では独礼席を許さ
れ、また第25世の日宥は後水尾天皇の皇孫であり、第6代将軍徳川家宣正室の天英院の猶子(養子)
に迎えられている他、皇室や公家・将軍家や大名家などの崇敬を得たが、他の宗派と同様に布教活動
は江戸幕府の厳しい統制を受け続け・加賀藩・仙台藩・伊那・尾張墓・八戸藩などの各地では法難が
続発した。尚「金沢法難」は身延山久遠寺を総本山とする一致派日蓮宗の石川県羽咋市・金栄山妙成
寺(後に本山)が、加賀藩に虚偽の答申をしたために日蓮正宗が被った法難で、後に一致派日蓮宗妙
成寺は虚偽答申の犯罪行為が露見し、閉門蟄居の刑を受けている。このように日蓮正宗が被った法難
の殆どは身延山久遠寺を本山とする一致派日蓮宗の讒言によって被るに至った例が多い。なおこの金
沢法難については郷土史家の向敏子の著による『金沢法難を尋ねて』に詳しく書かれているよ。
 さて明治維新を迎えると、大石寺教団と国家権力との間に新たな緊張関係が生まれた。つまり神道
の国教化を宗教政策の根幹とした明治政府は、仏教各派に対しては、行政制度上の統合整理強制によっ
て分割支配を図る方針を採った。この背景として、日蓮宗管長新井日薩らによる「全日蓮門下の統合」
を目指す画策もあった。そこで大石寺第54世日胤は、明治6年に教部省へ「大石寺一本寺独立願」
を提出し、以降も数度に亘って諌暁を繰り返したが、遂に容れられず、結果的に同9年より、富士門
流の系列に属する大石寺・下条妙蓮寺・北山本門寺・京都要法寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本
門寺・伊豆実成寺の8本山は行政上、日蓮宗興門派(後に日蓮本門宗と改称)として分類され、行政
上の宗派代表としての「興門派管長(本門宗管長)」の職は、8本山が交代で務めるという形を余儀
なくされ、同14~15年にかけては第55世法主日布は第4代の、同24~25年にかけては第5
6世法主日応が第5代の管長に就任している。大石寺派僧俗にしてみれば、大石寺の住職は依然変わ
りなく法主(ほっす)の地位ではあるが、管長の地位は謗法の人間が占めている場合もある、などと
いう、信仰上極めて耐え難い異常事態が続き、教団の存立そのものも危ぶまれる事態となった。しか
しその後日布・日応と、数度にわたり政府への抗議活動と他の7本山に対する破折活動が続けられた
結果、漸く同33年本門宗からの分離独立が認可されて「日蓮宗富士派」と公称するようになった。
そして明治45年6月7日第57世日正の決定により、現在の「日蓮正宗」へと宗派名の変更が行わ
れた。

 創価学会は信徒団体ではなかった
 なお昭和5年に、牧口常三郎、戸田城聖らにより、日蓮正宗の教義と牧口の「価値論」を合体させ
た教義を奉ずる教育団体として「創価教育学会」が設立され、初代会長には牧口が就任したが、日蓮
正宗では信徒団体として認めなかった。牧口は調書に「創価教育学会は純然たる日蓮正宗ではなく、
自分の価値論を実践する一個の独立した団体だった」と供述している。太平洋戦争終結後、第2代会
長に就任した戸田は、創価教育学会の名称を「創価学会」と改称、以後日蓮正宗も格段に発展するこ
ととなった。とりわけ昭和35年第3代会長池田大作(現名誉会長)の会長就任以降、大石寺には、
従来の法華講(旧来の檀家)と創価学会信者の寄進により大客殿や正本堂などが建立されるなど、長
らく双方の間には蜜月状態が続いた。しかし次第に創価学会において教義の変更が相次ぐようになり、
同50年代前期の路線問題を経て、平成3年11月28日日蓮正宗宗門は、当時の第67世法主日顕
の名前で創価学会を破門処分にした。しかし宗務院録事にも創価学会の組織結成を許可した事実が記
載されていないため、日蓮正宗と創価学会は一致派日蓮宗と立正佼成会の関係と同じで、正規の信徒
団体とはいえないとも指摘されている。日蓮正宗の信徒団体(講中)は末寺住職(指導教師)と信徒
の代表が宗務院に「組織結成許可願」を提出し、宗務院で審議の得て日蓮正宗の管長である法主が組
織結成許可書に署名押印するが、創価学会は組織許可書の交付も受けていなければ、初めから指導教
師も存在しておらず、宗内ではゲスト的に扱われていた訳だ。
 創価学会は元々は井上日召の系譜を引く右翼団体で、戦後成太作(池田大作)に乗っ取られて朝鮮
系の宗教的政治団体となったものなのだ。現在では在日韓国朝鮮人が組織中枢を占め、ロックフェラ
ー財団の支援を受けて日本の完全支配を目的とする。というのは、彼らは戦前日本に支配された恨み
というか、トラウマというか、日本人に日本の政治を任せていたら、またぞろ日本に朝鮮半島が侵略
されるという危惧感がある。またアメリカ(ユダヤ)としても日本の復讐を恐れるから、韓国人朝鮮
人を介して間接統治しておく必要がある。もしMMサテライト、アトミックボン、トランスミッター
が普通にある現代において、日本がブリッツ(奇襲)を行ったら、アメリカは一溜りもない。瞬時に
してアメリカの都市という都市はシティボンによって雲散霧消してしまう。アメリカも必死だ。
 在日・帰化人の日本浸透は、創価学会と公明党に留まらない。自民党・民主党はじめ各政党、官庁
官僚、財界、芸能界、スポーツ界と広く侵入し来たって、裏社会には部落系と合わさって9割に垂ん
とする。第二次世界大戦に敗北した時に日本は終わらされてしまったのだ。お前さんの知る有名人は
政治家も、役人も、学者も、ジャーナリストも、歌手も、俳優女優も、スポーツ選手も、極悪非道の
犯罪者も、大概は韓国朝鮮人だ。日本人の名前を名乗っても日本人という訳じゃない。
 


■完成しない橋(歩行可能)
 加平2丁目22番と23番の間の道が西に伸び、六町2丁目の三叉路に繋がるように計画されてい
るが、綾瀬川から三叉路までの用地買収が終わってないため。加平側からの橋は完成しているのだが
六町側に降りる部分は未完成のままなのだ。で、この再開発がいつ終わるのか未定のため、この名無
しの橋は歩行者が渡れるのみだ。北の内匠東橋と環七を通す加平橋の中間に当たり、あれば便利なの
だが、中途半端に「完成しない橋」なのだ。


■川端第一公園

 加平2丁目23番1号にある区立公園。


■加平天祖神社(祭神:天照大神) ◇
 加平3丁目5番2号にある中社。当地を開拓した伊藤嘉兵衛家の屋敷神を神明宮として、慶長十五
年(1610)に創建したと伝わる。嘉兵衛新田の鎮守として祀られ、明治7年村社に定められた。
 境内社に稲荷社、三峯社がある。「足立風土記資料神社明細」明治10年の項に

   東京府管下武蔵国南足立郡(花畑村大字)嘉兵衛新田村新川端 村社天祖神社
   祭神 天照大御神。
   由緒 「不詳」明治7年4月村社ニ被定候。
   社殿間数 本社、間口三尺五寸 奥行三尺。拝殿、間口三間 奥行二間。
   境内坪数 四百十二坪 官有地第一種
   境外所有地 田二反五畝二十六歩、嘉兵衛新田字新川端耕地。時価金59円1銭7厘。
         畑二反二十一歩、同所。時価金39円92銭6厘
   氏子戸数 86戸
   東京府庁迄 4里42町。


 とある。

   加平天祖神社
   安土桃山時代後期文禄年間(1592~1595)に伊藤氏の遠祖伊藤嘉兵衛が神奈川県
   稲毛領より白馬に跨り神明宮のご神体を奉持しこの地に着き、荒無地であったこの辺りの
   一帯の新田開発に尽力、その功により「やむら」といわれていた地を「嘉兵衛新田」と呼
   ぶようになり、昭和7年迄正式地名となっていた。
   伊藤氏の屋敷神であった神明宮をこの村の鎮守様として旧嘉兵衛新田字菖蒲沼耕地553
   番地に創建し、昭和42年11月区画整理事業により現在地に遷宮した。
   社殿は弘化二年(1845)造営、屋根は遷宮時に萱葺から銅板葺から瓦葺と葺き替えら
   れた。
   当所称号を神明宮とお呼びしていたが、明治2年維新により神仏分離に対する政策変更を
   機に天祖神社と改めた。
   摂社として稲荷神社(西加平1丁目)が有ったが、昭和29年宗教法人法の施行により、
   西加平神社と改称、分離独立した。
   五穀豊穣、無病息災、家内安全等々を祈願する住民の厚い信仰心に支えられている。


■加平第二公園
 加平3丁目5番9号にある区立公園。公園というよりも庭園といった方がよい。よく整備された植
木だ。緑がまぶしい!テニスコート分くらいの広場もある。
 


■加平第一公園
 加平3丁目13番1号にある区立公園。東側はマンションだか、あとは低層の建物。この辺は、道
幅が広いので圧迫感が無い。マンション側に遊具類が配され、広々とした広場がある。石造りの亀の
椅子が面白い。
 
 


【北加平町】(きたかへいちょう)                  昭和53年4月1日
 花畑村・芦川内匠が開発した内匠新田。昭和37年花畑町・神明町・内匠町・東加平町の各一部
をあわせた町域をことから北加平町とした。同53年新住居表示により東加平町・北加平町・神明
町・花畑町の各一部をあわせた町域を現行の「北加平町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 北加平について
 加平の北方に位置することによる。加平でもなく花畑でもない中途半端なエリアだ。明地・駐車
場の目立つ発展途上の住宅地。特にランドマークはないよ。
 
ウィキペディアに、以下の記事がある。

   綾瀬川東岸、加平地域の北部に位置する。住居表示における丁目がなく、それ単体で町
   域を形成する小さな町だ。町内に目だった大規模建造物は存在せず、中低層住宅街の中
   に倉庫が点在しており、商業店舗も特に見られない。この原因としては東を東京メトロ
   の綾瀬車両基地、西を綾瀬川に囲まれた閉鎖的地理がこの地域の発展を妨げているとも
   考えられる。町内には駐車場や倉庫が多いが、これは言い換えれば交通事情が改善され
   さえすれば、今後のさらなる発展の余地があるということである。
 


■B29墜落

 
昭和20年4月13日アメリカの戦略爆撃機B29が墜落する事件が起きた。墜落箇所は現在の北
加平町12番8号付近だ。戦後になって墜落死したこのB29乗組員13名のための追悼碑と無名戦
士之墓が建設されたが、その後の土地区画整理事業で碑と墓は跡形も無く撤去され、近隣住民の殆ど
も戦後に新たに引っ越してきたものばかりであり、現在ではこの秘話を知る住民はほとんどいない。
B29とはボーイング社製の29番目の爆撃専用機のことで、愛称は「スーパー・フォートレス」、
「大空の要塞」とか「超空の要塞」と訳された。日本にはこれほどの大型爆撃機は無かったが、構想
として「富嶽」というエンジン6基を積んだ超大型戦略爆撃機製造計画があった。


■嘉兵衛の里プチテラス ◇

 北加平町2番2号にある区立ミニ公園。平成13年12月27日開園。


■北加平公園

 北加平町16番18号にある区立公園。

 
「宙」
 園内北端にある昭和63年児玉士洋の作品。


■北加平町プチテラス ◇

 北加平町18番19号の角にある区立ミニ公園。平成7年12月1号開園。
 


【栗原】(くりはら)1~4丁目                  最終昭和49年7月1日
 石塚村。元禄のころ栗原村に変わるが理由は判らない。明治22年「市制町村制」により梅島村
の大字となり、昭和7年足立区の成立で栗原町となって戦後に至る。同46年8月1日栗原町・六
月町の各一部をあわせた町域を現行の「栗原1~2丁目」とし、同49年栗原町・西新井町の各一
部をあわせた町域を現行の「3~4丁目」として新住居表示を完了、他は梅島、竹の塚、西新井、
島根、六月、西新井栄町に分散。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 栗原の由来
 由来は判んねえ。天文十年(1541)甲州から栗原左衛門尉が一族を率いてやってきたとう記
録はあるものの開墾したとは伝わってはないんよ。天正十年(1582)には大曾根村(八潮市)
の方に移ってしまう。しかも栗原左衛門尉といえば信盛、彼は武田信玄の二十四将の一人。武田家
の滅亡前にこんなところをウロウロ歩ってる訳もねえと思うんだけどな・・・ 栗の木の原っぱと
いうのも聞かないしなぁ???
 


■栗原山東菜
 「くりはらやまひがしな」じゃない「くりはらさんとうな」と読む。山東とは中国の山東半島だ。
白菜・キャベツのように葉が巻いて玉状になることを「結球」という。普通白菜は結球化するが、外
の葉が巻くだけで芯の葉は巻かず筒状、ラッパ状になる白菜の品種がある。それが半結球菜で普通「山
東菜(さんとうな)」と呼ばれる。区内では西新井付近で盛んに栽培されて新品種「西新井山東」が作
られ、その後栗原町で改良された「栗原山東」という品種が栽培されるようになった。これはこの地
方の特徴で畑と水田が混在し、畑が水田より僅か30~50センチほどの高さで、種を播いた後に旱
魃がきても被害が出にくかったのさ。「栗原山東」は区内でも作る人がなくなった。現在は足立区の
北の八潮市・三郷市に移っている。足立区も市街地になってしまったんだなぁ!・・・


■ギャラクシティ・西新井文化ホール
 栗原1丁目3番1号にある、こども科学館と西新井文化ホールを総称した愛称。由来は、「ギャラ
クシー(宇宙)+シティ(街)」から来ている。

 
西新井文化ホール
 
施設の貸し出し、講座・イベントの開催を行っている。ホール(902席+車椅子スペース)舞台
(約470㎡)、楽屋(3室)、シャワー室、リハーサル室がある。03‐5242‐8161

 「ときめき未来」 ◇
 ホール入口前左にある真海徳太朗の銅製作品。抽象的だが男と女の愛情を表現したものか。

 
「パナントマイム」 ◇
 1階にある真海朗の、第10回日展出品作品、表情が面白い。

 「道化B」 ◇
 非公開。隠している訳ではない。真海徳太朗の作品。


 こども科学館
 平成18年4月から科学展示を閉鎖して青少年センターに代えた。施設の貸し出し、講座・イベン
トの開催を行っている。プラネタリウムホール、コンピュータールーム、イベントホール、研修室(2
階、3階)がある。

 青少年センター
 若い仲間のグループ活動や出会いの場。施設の貸し出しやイベントの開催を行っている。音楽室、
レクリエーションホールなどがある。

 裸婦像 ◇
 1階フロアにある。作者不詳。
 


■猿仏塚
(さるぼとけづか)

 栗原1丁目4番25号、島根小学校の西南門の向かい、足立こども科学館の駐輪場の北側にある。
3基の石塔が並んでおり、猿仏塚という標柱が建っている。右が寛永十四年(1637)の念仏講衆
供養塔、他は庚申塔で、寛永八年(1631)と延宝八年(1680)のもの。「石堺村大施主十二
人」とあるが意味は不明。寛永六年の庚申塔は区内で二番目に古い。
 由来は、この辺りの或る農家に飼われていた利口な一匹の猿が、何時ものように留守番をしている
と、寝かせてあった赤ん坊が泣き出した。家人が風呂にいれると泣き止むのを学習していた猿は、む
ずかる子に行水させようとしたが、猿知恵の悲しさで、湯を薄めることまで気づかず、熱湯に入れた
ため赤ん坊を死なせてしまった。とんだことをしでかしたと思った猿は、それから数日間、餌も食べ
ずに墓守りを続けて餓死してしまった。哀れに思った家人と村人は、猿をここに葬ると楓の木を植え、
塚を築いて供養したという。しかしこの話は、井原西鶴の『懐硯』に筑紫の国の物語として既に載っ
ており、太宰治も『新諸国噺』でこの話を書いているが、恐らくは庚申待ちの夜話として、この話は
流布したものだろうという。
 ただ風習として面白いのは、この塚が何時しか子供の厄除け塚となり、子供が病災に見舞われると
泥団子を供えて願を掛け、それが叶うと米団子を供えるようになったことだ。この願掛けは次第に減っ
ていったが、今でも信ずる人はいて、この風習は続いている。

 
  猿仏塚
   これは足立区に残る■■てくて最も美しい話です。
   昔この辺りの農家に賢い猿がいて、留守をまもり、子守をしていました。猿が留守番をし
   ていると、ある日、赤ん坊がむずかるので、湯をわかし行水をさせましたが、湯が熱すぎ
   て赤ん坊は死んでしまいました。それから猿は食事もとらず、赤ん坊の墓を守り続けて死
   んでいきました。
   村の人々は、猿の配慮をおもい、「仏になって子どもたちを守っておくれ」と、この塚を
   建てました。
   子どもが病気になると「黒いだんご」をあげ、なおると「白いだんご」を供えました。こ
   の風習は最近までありました。
   この話の原形は中国にもあり、西鶴の「ふところ硯」には「筑紫の国のものがたり」とし
   てあり、太宰治も書いています。石碑は物語に関係ありませんが、寛永の庚申塔は区内最
   ■の古碑です。
   昭和54年3月                      東京都足立区教育委員会

   
猿仏塚
   このあたりは、昔、笹に覆われた塚で、榎の古木が一本植わっていた。土地の人はこれを
   猿仏塚と呼んで、それにまつわる美しい話を伝えている。
   話は、今から三百数十年前にさかのぼる
   辺りの農家に一匹の賢い猿がいた。
   ある日、猿が留守番をしていると、赤ん坊がむずかるので、湯をわかし行水をさせたが、
   熱すぎて、赤ん坊は死んでしまう。それからというもの、猿は、食事をとらず。赤ん坊の
   お墓を守り続け、ついに死んでしまったという。
   村の人々は、この猿の心を哀れみ「仏になって子どもたちを守っておくれ」と、手厚くこ
   こに猿を葬ったのである。
   後にこの塚は、こどもたちの厄除け塚となり、子どもが病気になると泥団子を上げ、病気
   が治ると米団子を備える風習となった。
   平成2年10月                      東京都足立区教育委員会
 


■栗原パークプチテラス ◇

 栗原1丁目8番8号にある区立ミニ公園。平成22年12月1日開園。民間借地。


■担々麺 琉帆(Rupan)

 栗原1丁目15番8号にある足立区民推奨の「町中華」。

   店のPR
   小さいお子様から御年配の方まで幅広く担々麺を食べて欲しい! その思いから、当店の
   担々麺は辛味はゼロから強めまで御用意しております。
   化学調味料を使わず、自家製調味料にこだわった胡麻ダレと鶏ガラスープで合わせた、飲
   み干せるスープの担々麺です。飲み干し食べつくし丼が空っぽになる満足感を是非お楽し
   みください。

   推奨者のコメント
   ゴマの風味が効いていて、濃厚だけどさっぱりと言う矛盾を実現した少し酸味のあるスー
   プ。麺を食べ終わった後はこのスープをじっくり味わう時間です。お腹いっぱいになって
   も『もう少しだけ』とついつい飲み干してしまいます。
   子供ウェルカムで店主始め店員さんが優しいので、子供が乳児の頃も気にせず伺えました。
   辛さも選択してオーダーが可能。この店オンリーの味。


■井堀北公園

 栗原1丁目15番8号にある区立公園。東武線がすぐ脇を通り、向かいには、勝田堀公園がある。
栗原地下道と西新井駅側にある小さい地下道との間にある公園だ。中規模公園でじゃぶじゃぶ池も遊
具も種類があるよ。ベンチにはご近所の人なのか寛いでいる姿がある。

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。ここはかわいらしい人気だ。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護
者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。
 


■栗原一丁目児童遊園

 栗原1丁目17番8号にある区立公園。


■氷川神社祭神:素盞嗚尊・誉田別尊

 栗原2丁目1番19号にある中社。の2柱。創建年月は不詳だが、天正
二年(1574)に再建され、栗原村の鎮守であったといい、明治初年八幡社を、同5年に村社に指
定された。大正元年に近在の無格社天祖神社、無格社稲荷神社、無格社神明社を合祀している。境内
に松、銀杏などの老木が茂り、第六天社、稲荷の小祠がある。他に天明八年(1788)七月の漱盥
石がある。 「足立風土記資料神社明細」に、 

   東京府管下武蔵国南足立郡梅島村大字栗原村 村社 氷川神社
   祭神 素盞嗚尊、誉田別命
   由緒 創立年月不詳、天正2年再建、明治5年11月村社ニ定ム。
   本社 四合四勺
   拝殿 間口二間半奥行二間
   社務所 十一坪
   境内六百三十八坪、官有地
   境内神社 二社
   胡録神社、祭神洛母陀琉命・橘姫命、由緒不詳、建物1坪九合九勺五才
   稲荷神社、祭神倉稲魂命、由緒不詳、建物間口三勺奥行三勺
   境内所有地ハ別紙宅ヲ書載ヲ乞。田一反五畝六歩
   氏子 百十二戸


 とある。
  


■石塚公園
 栗原2丁目3番1号にある区立公園、区画整理の余地を児童公園とした。遊具も多く、まあ普通の
児童公園だ。石塚は栗原村の旧称。江戸時代に栗原村となってからは字として残っていた。

 ●公園名碑
 
  


■栗原団地

 栗原2丁目5~7番・11番を占めるUR都市機構の集合住宅。


■栗原町公園

 栗原2丁目9番1号にある区立公園。


■庚申塔 ◇

 栗原3丁目5番6号の木島勝太郎宅の角地に道路に面してある。延宝七年(1679)銘の光背型
地蔵と、宝暦十三年(1763)銘の駒型、日月・青面金剛「庚申供養」一鬼・三猿の2基。
  


迦羅陀山千蔵院満願寺(本尊:延命地蔵菩薩)

 栗原3丁目6番6号にある新義真言宗豊山派の寺。西新井西新井大師総持寺の末寺だったが、昭和
14年総本山長谷寺直末となった。開基は不祥だが、『本尊地蔵縁起』に、

   天正二年七月二四日、不思議な廻国の異形の翁、延命地蔵を負い来り、時の住職覚雅に授
   く。学雅以って、当寺の本尊とする


 とあり、人皇五5代文徳天皇の臣、参議小野篁卿の作と伝えられている。古は小庵であって修験者
千蔵坊という者が住し、その名の一字を取ったといわれている。大正12年、関東大震災で伽藍が大
破し、昭和20年4月13日愚かなアメリカ軍の無差別空爆によって本堂・庫裡を焼失したが、本尊
の延命地蔵菩薩像は無事搬出された。以来同45年に本堂・山門を完成し、同60年、遠忌記念事業
として、墓地改修、弘法大師修行像、聖観音像、六地蔵、水屋を建立、碁盤の目のように整備された
墓地を日夜聖観音が見守っている。また平成3年に現在の書院、庫裡が完成した。寛永五年(162
8)の墓碑、貞享二年(1685)の石地蔵、宝暦四年(1754)の漱盥石(手水鉢)がある。

 たぬき塚
 和尚が悪戯で狸を焼き殺してしまい、後悔して建てた供養塔。物語はこうだ。ある寒い冬の晩、荷
物を背負った一匹の狸が現れ、「寒いので囲炉裏に当たらせてください」という。和尚は「どうぞ」
といい、狸は隣の部屋に荷物を広げてから囲炉裏に当たって体を暖めた。体が暖まった狸は礼をいっ
て荷物をまとめて出て行った。数日後の月夜の晩、再び狸が現れ、「寒いので囲炉裏に当たらせてく
ださい」といった。和尚はまた「どうぞ」といい、狸は隣の部屋に荷物を広げてから囲炉裏に当たっ
て体を暖めた。すると、何を思ったのか和尚は囲炉裏の灰を一つまみ狸の荷物へ投げ入れた。そうと
は知らない狸は荷物をまとめ、礼をいって出て行った。翌朝、和尚さんが庭へ出てみると狸が丸焼け
になって死んでいた。和尚は悪いことをしたと後悔し、狸を手厚く葬ったという。それが現在も境内
にある高さ2mほどの塚だ。但し現在のものは昭和63年に再建されたものだよ。

 庚申塔
 万治二年(1659)銘の板碑型。「カーン奉造立庚申供養結衆□□安楽所」と刻む。
 


■栗原三丁目児童遊園

 栗原3丁目10番27号にある区立公園。


■栗原三丁目プチテラス ◇

 栗原3丁目15番27号にある区立公園。平成6年4月1日開園。東武鉄道から無償借地。


■勝田堀公園

 栗原3丁目26番5号にある区立公園。


無量山徳寿院栗原寺(本尊:阿弥陀如来三尊種子) ◇
 栗原4丁目1番15号にある新義真言宗の寺。西新井大師総持寺の末寺。開山は享保七年(172
2)十二月二十四日に寂滅した栄祐和尚。現在の本堂と庫裡は、明治38年の建築で、墓地に寛文十
一年(1671)の墓碑がある。

 庚申塔
、元禄十四年(1701)銘の板駒型。日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿を刻む。明暦三年(16
57)銘の板碑型 「イー 奉待庚申二世所」などを刻む。
 


■庚申塔 2基 撤去?
 栗原4丁目4番23号藤次宅の路傍にあったが、現在建売住宅に建て替わっているので見当たらな
い。撤去したものと思われる。
 延宝八年(1680)に建てた「弥陀三尊種子 奉供養庚申待念佛講結衆二世安楽」の文字を刻む板碑型。もう一つは安永三年(1774)日月「青面金剛」三猿を刻む柱状型だった。
  


■栗原中央公園

 栗原4丁目7番23号にある区立公園。


■栗原北公園
 栗原4丁目21番18号にある区立公園。

   栗原北公園
   この附近は人家の少ない静かな農耕地帯で花見堂耕地と呼ばれていた。土地区画整理施行
   区域の北部地区に位置するため栗原北公園と命名する。
   昭和61年4月吉日                   栗原六月土地区画整理組合
 


■栗原北小学校
 栗原4丁目25番9号にある区立校。昭和52年栗原東小学校から分離して「東京都立足立区栗原
北小学校」として開校。同56年創立5周年記念式典。校舎冷房化。同61年創立10周年記念式典。
同62年校章改新。平成元年正門改修。
 平成元年AV(オーディオ・ヴィジュアル)教室開設。同3年機械警備開始。同4年体育館改修。
同5年校舎1・2階強化ガラス化。平成6年ベルモント市学生使節団来校。同8年パソコンルーム開
設。創立20周年記念式典。同13年第50回全国小中学校PTA新聞コンクール 小学校新聞の部
内閣総理大臣賞受賞。プール改修。同15~17年東京都小中学校新聞コンクール 小学校学校新聞
の部最優秀賞受賞。同18年創立30周年記念式典。同19年全国小中学校PTA新聞コンクール小
学校学校新聞の部最優秀賞受賞。同20年キッズ・パレット「クリップ」発足。同23年第二回あだ
ち子ども百人一首大会優勝。

 校歌「春はかすみに」 作詞・若山芳枝  作曲・南弘明
  1.春は霞に包まれて
    白き学舎 若き樹々
    秋は真澄の陽に映えて
    輝く吾等の栗北小
  2.足立の郷に根を下ろし
    知識の恵み 枝に受け
    幾年月も揺るぎなく
    伸び行く吾等の栗北小
  3.空に理想の虹を掛け
    正しき道を一筋に
    希望に燃えて逞しく
    羽ばたく吾等の栗北小
  
 


【弘道】(こうどう)1~2丁目                    昭和41年1月1日
 弥五郎新田。昭和41年新住居表示により五反野北町の大部分に四ツ家町・伊藤谷西町・五兵衛
町の各一部をあわせた町域を現行の「弘道」とし、明治11年に開校した小学校名から拝借した。
2丁目はほとんどが都営団地。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 弘道の由来
 幕末に水戸学を修めた中村宗右衛門という勤皇浪士が寺子屋を開き、その流れを汲む小学校はそ
の縁故から水戸藩校「弘道館」を大いに意識して校名に採用した。
 その水戸弘道館は『論語』衛霊篇の

   人能弘道非道弘人(人能ク道ヲ弘ム。道人ヲ弘ムルニ非ズ)

 から選んでいる。しかし現在、弘道小学校の住所は西綾瀬4丁目になっている。
 


■弘道いこい公園

 弘道1丁目10番1号にある区立公園。


■弘道一丁目公園

 弘道1丁目15番2号にある区立公園。

 
象像
 座っている石のゾウ。大きくはない。


■弘道第一小学校

 弘道1丁目20番8号にある区立校。昭和40年4月弘道小学校分校として設置。同年9月独立し
て「東京都弘道第一小学校」として開校。同41年校歌・校旗制定。

 校歌「都の北に」 作詞・古賀残星  作曲・安西愛子
  1.都の北に春の風
    人は集まり野は開け
    紫匂う筑波山
    心豊かに智を磨く
    ああ弘道 弘道第一小学校
  2.梅の香りは床しくも
    学びの庭に咲く歴史
    利根の流れは遥かにも
    体鍛えて生き生きと
    ああ弘道 弘道第一小学校
  3.秩父連山雪白
(きよ)
    寒風厳し人の道
    よい子 よい友 手を取って
    仲良く仰ぐ青い空
    ああ弘道 弘道第一小学校


 同42年校舎増築(普通教室7)。同44年校舎増築(普通教室6)。校地拡張。同45年校舎増
築(普通教室5)。体育館・プール完成。同48年青井小学校を分校。同50年創立10周年記念式
典。同51年創立10周年記念建立・記念植樹。同55年機械警備開始。陶芸小屋設置。同59年学
童保育室跡地に学校農園造園。同60年創立10周年記念式典。同62年視聴覚室・管楽器室開設。
ジャングルジム、低鉄棒10連設置。同63年AV教室開設。
 平成元年校庭改修・スプリンクラー設置。農園門新設。同6年多目的ルーム・ランチルーム新設。
同7年創立20周年記念式典。同9年学校給食調理業務民間委託。同10年パソコンルーム開設。同
同12年給食室改修。同16年たいよう学童保育室開設。公式ホームページ開設。同18年創立40
周年記念式典。防犯ネット設置。同19年防犯カメラ設置。校舎冷房化。
 


■弘道児童遊園

 弘道1丁目26番1号にある区立公園。


■四ツ家の大榎 伐採

 弘道1丁目29番3号のコーボシライ(すしの伊八)の前辺りに2本の榎が植えてあった。往時は
現在の道路の西半は三ツ家堀という用水で、堀寄りに通行を塞ぐように立っていた。真っ直ぐ北が四
家交差点でそこから北へ続く道が道海道(どうけみち・どうかいみち)だった。伐採されたのは昭和
30年代で、堀が暗渠化され、道路が拡張されると榎は道路の真ん中に立つこなり往来の邪魔になる
ためだった。
 


■第十一中学校

 弘道1丁目38番15号にある区立校。昭和22年旧制都立江北中学校に間借りして開校。同23
年私立東洋学園校舎に生徒収容。同24年私立東洋学園を買収、現在地に移転。同32年創立10周
年記念式典。校歌制定。

 校歌「富士ヶ嶺を」 作詞・作曲不詳
  1.富士が根を空の遥かに
    甍高きこの学び舎
    勤しみて吾等極めん 雲は上がる
    夙
(つと)に立つべし 逞しく今日を
    吾等が足立 足立第十一中学校
  2.綾瀬川 水は光りて
    緑あかるこの園の辺
    健やかに吾等鍛えん 友は呼べり
    直くつくべし 若人の責に
    吾等が足立 足立第十一中学校
  3.五反野は実り豊
(ゆた)けく
    たいきますむこの通い路
    美しく吾等夢みん 風は薫る
    期して待つべし 朗らかに明日を
    吾等が足立 足立第十一中学校


 同33年3階建て鉄筋校舎に改築。同39年東綾瀬中学校を分校。同48年青井中学校を分校。
 平成9年創立50周年記念庭園完成。同19年創立60周年記念式典。


 
シベリア校舎
 戦後の校舎がバラック(簡易な急造の貧弱な建物)だったので、床は所々抜け、窓はガラスでなく、
今の網戸にセロハンを張ったようなものだった。冬は北風がピュ-ピュ-と隙間から入り、とても寒く
て凍えながら勉強したものだ。厳寒の地、ソ連(ロシア)のシベリアをイメージしたもの。当時70
万からの日本兵が抑留されていたので、とても身近な言葉だった。
 しかし当時隙間風の吹き込むようなオンボロ校舎は日本中にあったよ。廃川地にあった学校では強
風の吹く度に床に砂が積もったもんだよ。雨漏りがするので雨の日は学校が休みというところも。
 


■地蔵堂・庚申塔 ◇
 弘道1丁目39番8号の円性寺の所有地の隅にある。宝暦八年(1758)日月・青面金剛・一鬼
・二鶏・三猿を刻む。
 


■弘道中央公園

 弘道2丁目3番5号にある区立公園。


■弘道第二公園

 弘道2丁目8番1号にある区立公園。


■弘道第一公園

 弘道2丁目16番1号にある区立公園。
 


■弘道二丁目児童遊園公園

 弘道2丁目8番1号にある区立公園。
 


【江北】(こうほく)1~7丁目                 最終昭和51年10月1日
 江北村などはない。明治22年「市制町村制」により沼田・鹿浜・鹿浜新田・加々皿沼・高野・
谷在家・宮城・堀之内・小台の9ヶ村が連合して初めて江北村が成立したが、昭和7年足立区の成
立により小台大門町・小台町・南宮城町・北宮城町・下沼田町・上沼田町・沼田川端町・南堀之内
町・北堀之内町・高野町・谷在家町・南鹿浜町・北鹿浜町・加賀皿沼町・新田上町・新田下町に分
かれたため江北の名は消滅した。
 昭和44年8月1日新住居表示を実施して下沼田町・上沼田町の大部分に北宮城町・高野町・小
台大門町・南堀之内町・北堀之内町・沼田川端町・谷在家町北鹿浜町の各一部をあわせた町域の町
名に「江北」の名を復活させて「1~4丁目」とし、同46年5月1日上沼田町・谷在家町・高野
町・北鹿浜町・北堀之内町の各一部をあわせた町域を「6~7丁目」、同51年残りの高野町の全
部に上沼田町の一部をあわせた町域を「5丁目」とし、平成元年下沼田町・小台大門町・南堀之内
町・宮城町の各一部を2丁目を編入して新住居表示を完了した。昔のお花畑もとにかく住宅団地だ
らけだ。江北小学校・高野小学校・上沼田小学校と小学校が三つもある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 江北の由来
 江は墨江(ぼっこう)で隅田川の漢風表現。江戸の文人・漢学者が唱えた。それで向島一円を「江
南」というのに対する千住以北の汎称(漠然とした地域名)
 


■高野一号緑地児童遊園
 江北1丁目8番1号にある区立公園。


■高野二号緑地児童遊園
 江北1丁目9番1号にある区立公園。


■高野三号緑地児童遊園
 江北1丁目13番1号にある区立公園。


■江北中学校 統合閉校
 江北1丁目17番1号にある区立校。昭和37年第五中学校分校として開校。同38年独立して江
北中学校となる。同41年プール完成。同42年校歌制定。

 校歌
「東に筑波 西に冨士」 作詞・中山保  作曲・田丸且行  監修・柏木俊夫
  1.東に筑波 西に冨士
    関東平野の広がりの
    要に立てる学舎は
    高き理想の若人に
    可能を告げる殿堂ぞ
    江北中は我が母校
  2.荒川の水 悠々と
    豊けく広く永遠の
    流れに沿える学舎は
    自主と自律を育みて
    雅量を築く殿堂ぞ
    江北中は我が母校
  3.大東京のどよめきを
    遥かに聞きつ栄光の
    文化に映える学舎は
    心情豊けく知を磨き
    徳を培う殿堂ぞ
    江北中は我が母校


 同43年完全給食開始。同47年創立10周年記念式典。同49年校舎8教室(特別4・普通4)
増築。同57年創立20周年記念式典。同59年正門・東壁面完成。同62年新体育館完成。
 平成3年校庭全面改修。同4年創立30周年記念式典。同5年コンピュータールーム・新図書室完
成。同7年オーストラリア・ベルモント教育使節団来校。同10年スクールカウンセラー配置。同1
3年校舎耐震化完了。同14年創立40周年記念式典。同18年校舎冷房化完了。同19年数学少人
数授業開始。2階3年生教室間仕切り新装完了。平成29年上沼田中学校と統合し「江北桜中学校」
となる。


■江北桜中学校 新設
 江北1丁目17番1号にある区立校。平成29年4月上沼田中学校と統合して「足立区立江北桜中
学校」として開校。旧上沼田中学校校舎で授業開始。旧江北中学校校舎解体。新校舎建設。

   江北中学校 教育目標
   広い視野をもち、夢を追いかけ
   未来にはばたく人間を形成する。
   一、自ら学ぶ人
   一、協力しあう人
   一、健やかな人


 平成31年5階建て新校舎落成。

 校歌「
咲き誇る桜のような」 作詞・作曲:福田洋介
  1.咲き誇る桜のような友との笑顔
    人の絆のみなもとはここに
    伝えあい わかりうい
    心を研いで わたしたちはつなぎゆく
    江北桜中学校
  2.流れゆく大河のような歴史と文化
    温故知新のみなもとはここに
    築きあい 学びあい
    知徳を研いでわたしたちは継いでいく
    江北桜中学校
  3.すみわたる空のような理想と希望
    自首と自立のみなもとはここに
    支えあい 信じあい
    未来を描いて わたしたちは進みゆく
    江北桜中学校


 令和


■江北一丁目公園
 江北1丁目25番7号~26番16号に跨る区立公園。


 六阿弥陀二番札所
 宮城山円明(延命)院
恵明寺(えみょうじ 本尊:不動明王 阿弥陀如来)

 江北2丁目4番3号にある単立寺院。むかしは新義真言宗豊山派で、この時の本尊は不動明王だっ
た。平安時代に亮尊により開山されたとの説があるが実証性に乏しい。江戸時代には、京都の三宝院
醍醐寺の末寺として、周辺各地の真言宗の寺院を門末に持った中本寺格の寺院となった。末寺は最大
で36ヶ寺を擁していた。慶安元年(1648)には徳川将軍家から朱印地20石を拝領している。

 明治9年12月小台村にあった甘露山応味院延命寺を合併、その本尊六阿弥陀の阿弥陀如来像を本
尊とした。阿弥陀仏は木造の坐像で、総高90cm、その胴内に天文年間(1532~55)に修理
したと書かれており、都文化財調査委員稲村坦元の鑑定によれば、平安末期から鎌倉初期の作だとい
う。寺宝として鳥羽僧正作の不動明王像掛軸、後白河法皇の宸翰(直筆の手紙)、弘法大師像などが
ある。荒綾八十八ヶ所霊場(弘法大師巡り)第54番札所。荒川辺八十八ヶ所霊場(弘法大師巡り)
第21・23・24・25・26・27番札所。「新編武蔵風土記稿」の沼田村の項に、

   惠明寺
   新義真言宗、山城國醍醐三寳院末、寺領廿石は慶安元年九月十一日御朱印を賜へり、宮城
   山延命院と號す、開山亮尊寂年を傳へず、今に至るまで廿八世に及ぶと云り、本尊不動を
   安す。
   清瀧権現社。辨財天を合祀す。


 とあり、「足立風土記資料寺院明細」に、


   本寺山城国醍醐三宝院末 東京府管轄東京武州足立郡沼田村 宮城山 小本寺 恵明寺
   創立年月并開山不詳、色衣香衣浅黄二色着用寺格ニ候
   第三十一世住職饒誉 壬申四十五歳。東京府管轄武州足立郡元木村農藤田甚左ヱ門四男、
   天保九年六月同管轄同州沼田村恵明寺ニ於テ得度、安政三年ヨリ十一ヶ年本山和州小池坊
   留学、慶応元年二月同管轄東京堀ノ内村不動院ニ入寺、同八年八月右恵明寺ニ転住、本州
   和州小池坊年数十ヶ年。以上僧壱人
   境内 四反五畝分、但元朱印高之内
   檀家 百五軒
   門末 十一ヶ寺
   庵室無之


 とあり、区の説明板に、

   恵明寺                                下沼田町
   新義真言宗足立姫と豊島長者の伝説で、昔から知られた江戸の六阿弥陀第二番延命寺を合
   寺した所の信仰と行楽の霊場である本尊阿弥陀如来坐像は平安末期の彫刻で優秀な技法が
   存している。                           足立区観光協会
                                      足立区役所

   
恵明寺
   真言宗、宮城山円明院恵明寺と称す。本尊阿弥陀如来坐像は、造像の技法がきわめてすす
   んだころの等身大の寄木造りである。この阿弥陀如来は、江戸阿弥陀2番の札所として、
   古くは小台の延命寺にあったものを明治9年の合併の際移したものである。六阿弥陀仏の
   信仰は、平安後期以後に発生したものと思われる。
   当寺に伝わる六阿弥陀縁起、足立姫の伝説は広く知られており、江戸時代の天野信景の随
   筆「塩尻」にもその巡礼の様子がみられ、この地の人々の信仰を集めていたことが判る。
   平成元年1月                          足立区教育委員会


 とある。九重石塔・宝篋印塔・子育地蔵尊坐像・庚申塔がある。

 足立姫・六阿弥陀
 行基が彫刻した六体の阿弥陀仏は、近隣の寺院に祀られ、女人成仏の阿弥陀仏として崇められてき
た。六阿弥陀寺院の第二番阿弥陀堂は、大正期荒川放水路開削工事で恵明寺に移された。本尊は、鎌
倉時代に作られた等身大の寄木造利の阿弥陀如来坐像で、昭和57年に足立区の第一号有形文化財と
して登録された。六阿弥陀第一の寺は、西方浄土に生まれ出る福徳利益を授けるということから西福
寺、第二の寺は、家内安全・息災延命の利益を授けるということから延命寺(恵明寺に合併)。第三
の寺は、福寿無量に諸願を成就させるということから無量寺、第四の寺は、我ら一切のものに安楽を
与えるということから与楽寺、第五の寺は、常に一家和楽の福徳を授けるということから、常福院、
第六の寺は、未来は常に光明を放つ身を得させるということから常光寺と、夫々命名された。これが
江戸六阿弥陀の始まりだ。『新編武蔵風土記稿』足立郡淵江領小台村の項に、

   阿弥陀堂 六阿弥陀と称する、其第二番なり。沼田村の接地にあるを以て人多く沼田の六
   阿弥陀といへり。その濫觴を尋るに、人王四十五代聖武帝の御宇、豊嶋郡沼田村に庄司と
   云もの一人の女子あり、隣村に嫁す。いかなる故にや其家の婢女と共に沼田川に身を投じ
   て死せり。父の庄司悲の余、彼等追福の為にとて、所々の霊場を順拝し、紀州熊野山に詣
   でし時、山下にて一株の霊木を得たりしかば、則仏像を彫刻してかの冥福を祈らんと本国
   に帰りて後、僧行基に託して六体の弥陀を刻し、分て此辺六か寺に安置せし其一なるよし
   縁起に載す。尤うけがたき説なり。聖武帝の頃、庄司と云ものあるべき名にあらず。且沼
   田村は豊嶋郡にはあらで、本郡の地なり。かかる杜撰の寺伝取べきにあらず。また、隣村
   宮城村性翁寺の伝には、足立の庄司宮城宰相の女子、豊島左衛門尉に嫁せしが、故ありて
   神亀二年六月朔日侍女と共に荒川に投じて死す。其追福の為にかの熊野山の霊木を以て行
   基に託し、彫刻して此辺の寺院六ヶ寺に安ずと云。神亀は聖武帝の年号にて、少しくたが
   ひあれど、同じ伝えなり。是を以て姑年代の誤りとせんにも、足立庄司と云ものは他の所
   見なし。豊島左衛門は東鑑にも見えたり。又、宮城家譜を見るに、かの家は豊島次郎吉国
   が子、六郎政業、太田三楽に仕へ宮城を領せしより氏とせりと載たり。さればかれを取り、
   是を付会し、又行基菩薩の名を仮りてかかる妄説を作りしものなるべし。されど此六阿弥
   陀のことは世の人信ずることにて、其造立さまを近き頃のこととも思はれず。

 とある。区の説明板は以下の通り。

   恵明寺(阿弥陀如来坐像)
   ご坐高87cmほぼ等身大のお姿は、 かな中にもまるみとひきしまったお顔立ちで、手
   は来迎印を結び、指間には水かきの相が見られる。74cmで極めて安定感があるすぐれ
   た作品といえよう。
   この御仏は江戸六阿弥陀二番の札所として、古くは(足立区小台)延命寺にあったものを
   明治9年に当恵明寺に合併しここに移されたものである。
   六阿弥陀仏信仰の思潮は平安後期以後において発生したものと思われ、造仏の技法も極め
   てすすんだところの寄木造りである。
   当寺につたわる六阿弥陀縁起足立姫の伝説は広く知られており、また江戸時代の名著「塩
   尻」にもその巡礼の姿のようすが見られ、この地方の人びとの信仰を集めてきたものであ
   る。
   昭和44年3月                         足立区教育委員会
 


■江北二丁目児童遊園
 江北2丁目7番1号にある区立公園。


■五色堤公園

 江北2丁目8番4号、荒川土手下にある区立公園。
 


■サクラの名所 江北五色桜/栽桜記碑
 江北橋の北詰に建てられていたが、現在は五色堤公園に移設されている。江北地区の人々の脳裏か
ら離れないものに、昭和20年頃まであった「五色桜」がある。明治19年に植樹されて以来その思
いは強く、今日に至ってもなおその復興のために力を注いでいる。高さ1mほどの碑には、五色桜植
樹の経緯が記されており、碑文の年月は明治34年3月になってる。


   栽櫻記について
   この石碑は、東京都市計画道路補助線街路第113号線築造工事に支障となり、江北2丁
   目57番地先より此の場所に移転されたものです。この栽櫻記の訳文は次の通りです。
   
(表訳文)
   栽櫻記
   武州荒川堤ハ、熊谷ニ起コリ、千住二至ル。延亘スルコト十数里。俚俗謂ク所ノ熊谷堤ナ
   リ。其ノ江北西新井ノ二村ニ係ルモノハ、堤路凹凸。行歩スルコト甚ダ難シ。予嘗ツテ之
   ヲ修メント欲シテ、當路ニ獻言シタレドモ報イラレズ。明治十八年九月、東京府知事渡邊
   洪基君、管内ヲ巡視スルノ、予ノ家ニ憩ウ。乃懇請スルニ企圖スル所ヲ以テス。君 其ノ
   請ヲ充セリ。越エテ明年工ヲ起コス。工竣ル。乃謂ラク、櫻樹ヲ堤上ニ種レバ 春ル則チ
   花ヲ賞シ、夏ハ則チ暑ヲ避ク。未ダ必ズシモ世ニ裨益スルコト無シトセズ。乃チ之ヲ郡長
   尾崎班象氏ニ謀ル。氏、絶賛シテ措カズ、因りテ同志ノ者ト胥議リ、醵金シテ其ノ費ニ充
   ツ。遂二數十種ノ櫻三千餘株ヲ植エ、實ニ 十九年三月ナリ 爾来五衷葛ヲ經テ 樹ハ稍長
   ズ。夫レ、櫻花ノ勝タル西ニ芳野嵐山アリ、東ニ東台墨陀アリ。然ウシテ後ハ則チ昔時帝
   都ノ在ル所、此ハ則チ今日帝都の在る所、安ンゾ此ヲシテ彼ニ遜色アラシムベケヤ。衆ノ
   擧アル。亦タ徒爾ナラザルナリ。嗚呼、修堤ノ業ハ渡邊君ノ採納ニ成リ、栽櫻ノ功ハ尾崎
   氏ノ賛嚢ニ由ル。而シテ有志ノ者ノ力、亦タ興ッテ少ナカラズ。今ヤ穪テ東都ノ勝ノ彼ニ
   過グルト曰フハ、蓋溢美ニ作ルナリ。況ンヤ數十年後春風駘蕩ノ日二方リテ、芳雲爛漫、
   謂ク所ノ白銀世界ナルモノ、必ズ期スベキカ。乃チ之ヲ記ス。                                                    清水謙吾議
   (裏訳文)
   栽櫻記は、淡如清水翁ノ嘗テ自ラ荒川堤ノ栽櫻  議ス所ナリ信ヲ取ルコト希ニ過クルモ
   ノ莫シ。大正十四年六月 里人胥議リ、此ヲ石ニ刻ミ以テ不朽ヲ謀ル。蓋シ必ズシモ文ヲ
   傳ヘントスルモノニ非ズ。其ノ實ヲ傳ヘント欲スルナリ。
                               首唱者 江北村作業会建之
   昭和60年1月吉日                          足立区役所

   賎の女も慣れぬお世辞や花盛(梅子)


 当時の熊谷堤(荒川土手)はデコボコで、歩くのも困難な状態だったそうだ。明治18年管内巡視
中に沼田に立ち寄った東京府知事渡辺洪基に、後に江北村初代村長になる清水謙吾(当時沼田村外3
ヶ村の戸長)が、補修工事の許可を求めて認可され、翌年には堤の補修が完成した。清水は、桜を堤
の上に植えることを発案、南足立郡長の賛成も得て、植樹する苗木は、開花の時期が長い八重の里桜
を選び、 明治19年78種3225本が、長さ3200余間(約5.8km)の堤防上に植えつけら
れた。この資金は関係地元民の醵金(金銭を出し合う)によるもので、その総額は295円だった。
 五色の代表的なものは、白妙(白)、関山(赤)、鬱金(黄緑)、八重紫桜(紫)、薄墨(白に近
い灰色)だということだ。
 碑が建てられたのは大正14年だが、文章自体は明治24年に、清水謙吾が記した「栽桜記」が基
になっている。清水は、植樹から5年経ち、長じた江北五色桜を、奈良の吉野・京都の嵐山の桜と並
びうる存在として、誇りを以て書き記している。桜の寿命は50年といわれるので、30年目ごろが
最盛期な訳だが。江北五色桜の場合は、明治末期からが最盛期だった。この花見のために、隅田川に
は多くの乗合船が出たり、そのころ盛んとなった隅田川定期航路が、臨時便を江北まで延長したりし
て、その賑わいに地元は大変に潤った。五色桜の名は、当時の新聞に「五色に彩られ」と記事が紹介
されたことに始まるという。『足立区の歴史』に、

   「人の浪よるや堤の花ざかり」(積雪)を「二、三里は桜に歩む堤哉」(猷浦)と散策すれ
   ば、「川越しに冨士を粧ふさくら哉」(小石)と冨士もほんのり張るの粧いをして見え、そ
   の川の流れには「つつみ十里さくらの外は白帆かな」(笑山) 白帆の舟が音もなく滑るよ
   うに川を下って行く。「荒川へやがて散りこむさくら哉」(香山) 花びのら散るのはさび
   しく、「江北の名残もつきぬさくら哉」(如一)と、人々は春の過ぎるのを惜しみ、「惜
   みおしみ桜に暮れて土手の月」(祐宣)と月夜の風情を詠んでいる。


 
三親王の訪問
 
明治43年4月24日、時の皇孫,迪宮(みちのみや=昭和天皇)・淳宮(あつのみや=秩父宮)
・光宮(てるのみや=高松宮)の三親王が、花が一番見事だといわれた熊の木辺りまで、2頭立ての
馬車で桜見物に訪れられたことがある。見物の後、江北小学校の1教室を休憩所に立ち寄り、徒歩で
当時まだ野道だった大師道を進み、西新井大師を参詣された。
 

 里帰り桜
 昭和27年日米親善のためにポトマック河畔の苗木555本が寄贈され、孫桜の里帰りと喜ばれ、
それを機に全国の桜の名所から再び珍種が集められて、荒川堤下・国道4号線・西新井大師などに植
えられたが、堤下と国道の桜は排気ガスのため全滅した。尾崎行雄東京市長によってワシントン市へ
贈られ、ポトマック河畔に育った荒川の桜が、レーガン大統領ナンシー夫人によって再び里帰りして
復活への道が開かれた。かつての荒川堤の桜は78種もあったと言われ、楊貴妃・鬱金・駿河台匂・
御車還・一葉・関山・松月などなど、五色桜復活に賭ける地元の熱意は高く、首都高速王子線で、世
界最大の2階建て構造(ダブルデッキ)の江北ジャンクションは『五色桜大橋』と名付けられた。
 舎人公園の説明板に、

   五色桜の由来
   足立地区先の荒川は、昔、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。この桜は明治1
   9年、地元の方々の奉仕によって植えられ、育てられました。当時、多くの桜の品種が混
   植されていました。白や黄色、淡紅色や濃紅色など、花色がいろいろとあったので「五色
   桜」の名がつけられたと言われています。花の見頃には、色とりどりの桜が人々の目を楽
   しませ広い並木道には人があふれるほど賑わいました。ワシントン市の有名なポトマック
   公園の桜は、この五色桜を当時の尾崎行雄東京市長が贈ったものです。しかし、この地の
   五色桜は自動車の排気ガスなどの影響で残念ながらほとんどなくなってしまいました。

   
五色桜の復活戦後
   世の中が落ちついてくると華やかだった五色桜をしのぶ気運も次第に高まり、昭和56年
   にアメリカの協力を得て、ワシントン市から「桜の里帰り」を実現しました。この里帰り
   桜からつぎ木をしてその数を増やし一部はすでに区内の公園に植えられています。そして
   往時の五色桜の復活をと念願する多くの方々の熱心な働きかけと、建設省をはじめとして
   関係団体の協力により、この里帰り桜は「桜づつみモデル事業」として、ふるさとである
   この荒川堤に再び根をおろすことになりました。国境を越えて時間を越えて長い旅をして
   帰ってきたこの桜を今度は私たちが大事に育てていきましょう。
   ポトマックのさくらは2012年で100周年をむかえました。アメリカに贈った第1回
   目の桜木は病害虫のためにすべて焼却され、第2回目は、慎重をきわめて、桜木がそだて
   られました。東京の足立区江北地域:荒川堤の五色桜から穂木が採られ、兵庫県の伊丹で
   はサクラ台木が準備され、静岡の興津で接木された桜。それらの努力がポトマック河畔の
   桜になりました。

 とある。

 「名勝荒川堤櫻」の碑
 江北橋北詰付近にあるらしい。未確認。名勝解除になっているので区役所で撤去して保管してる可
能性もある。

 
※発見! 荒川の改修工事によって桜の木は切り取られ「記念碑」は現在は都市農業公園に隣接す
る新しい荒川堤防上に移されてたよ。
 


■下沼田児童遊園
 江北2丁目14番11号にある区立公園。


■江北ふれあい公園
 江北2丁目22番6号にある区立公園。


■婦人科医患者妊婦強姦事件
 江北2丁目33番6号の産婦人科矢追医院院長医学博士矢追正幸(55歳)が、令和元年11月診
察に来ていた30代の妊婦を別室に連れ込んで強姦しちゃったという事件。令和2年1月23日、逮
捕された
 個人の産婦人科ではよくある強制性交で、泣き寝入りすることが多いので滅多に表面化しないが、
矢追は派手にやり捲っていたようだ。これまでの調べだと、矢追は女性と2人きりで診察室にいたと
ころ、マッサージなどで使う別の個室に移動させ、ベッドに横たわらせて体を触るなどしたという。 女性は診察後、近くの交番に相談し、警視庁が捜査を進めていた。同じ相談が複数件ある。


草堂山地福寺 移転
 江北2丁目38番にあった単立寺院。本堂は昭和13年2月の建築だった。本堂の右は鉄筋コンク
リート2階建ての庫裏というか住宅。入口が閉まっている閉鎖寺で、墓所ありと書いてある。向かい
の墓地だったところに壮大な本堂・庫裏を建て移転した。


草堂山地福寺(地蔵菩薩) 新築
 江北2丁目41番2号にある単立寺院。かつては新義真言宗豊山派恵明寺の末寺だった。本尊は地
蔵菩薩。客尊として氷川神社の本地仏である十一面観世音を安置している。
 足立区仏教会資料の沼田村の項に、

   地福寺
   同宗(新義真言宗)、恵明寺末學塔山と號す、本尊地蔵を安す

   開創年次は詳かでないが、寛永年次の墓石があることから、江戸時代初期には一寺をなし
   ていたものと思われる。明治以前は、同村内恵明寺の末寺であり、本寺の学問所ないしは
   隠居所であったという。また現在道路を隔てて隣接する江北氷川神社とは、境内を同じく
   する別当寺であったが、明治初年の神仏分離令によって独立の仏寺となり、今日に至って
   いる。もと真言宗豊山派に属していたが、昭和28年8月単立寺院になった。しかしこれ
   は、大師の教えを護持する伝統を翻したものではない。


 とあり、「足立風土記資料寺院明細」に、

   小本寺恵明寺末 東京府管轄武州足立郡沼田村 草堂山 地福寺
   創立年月并開山不詳、香衣一色着用寺格
   世代不詳当住職 元誉 壬申二十一歳、東京府管轄武州足立郡高野村農中村文左ヱ門二男
   文久元年二月同管轄同州同郡沼田村恵明寺ニ於テ得度、明治二年二月地福寺ニ入寺、明治
   四年二月ヨリ本山和州初瀬小池坊三内ニ留学罷在候。以上僧壱人
   境内九反七畝分 但除地
   檀家十七軒
   門末并庵室無之


 とある。
 


■江北総社・氷川神社(祭神:素盞鳴尊) ◇
 江北2丁目43番8号にある大社。神社一帯は、『足立姫伝説』(聖武天皇の御代・いまから約1
300年前)発祥の地としても知られ、江戸時代には「六阿弥陀詣」の参詣者で大変賑わいを見せた
地域だ。現存する手水鉢(庚申塔も兼ねている大変珍しいもの)には、今から約300年前、元禄十
二年(1699)に下・上沼田両村の氏子中によって奉納されたものという刻印