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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典 引用自由
夢 日本人の、日本人による、日本人のための日本
世田谷区の地名の由来
現在進行形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。要注意! 
 
ご意見とお叱りメール
  
 
★各区夫々の主な記事 
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 足 立 区   ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住 都立舎人公園
 下山事件 西大師 大鷲神社 伊興寺町
 六阿弥陀 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺
 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋
 女子高生コンクリート詰め殺人事件
 【巻末特集】官報による帰化した有名人
 
 荒 川 区   あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町 三河島事故
 開成中学校・高等学校 尾久の原公園 大関横丁
 素盞雄神社 天王祭 大橋 谷中延命院一件
 「あしたのジョー」「巨人の星」
 【巻末特集】 江戸しぐさ
 【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女
 
 板 橋 区   自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故 松月院
 東京大仏 縁切榎 大東文化大学 帝京大学 板橋宿
 東京家政大学 中山道 板橋宿 国立極地研究所
 板橋事件 加賀藩前田家下屋敷
 
 江戸川区   葛西臨海公園 インド人 小松川女子高生殺人事件
 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松
 目黄不動 平井聖天 食用蛙供養塔 紅葉川高校
 江戸風鈴 立木観音 タワーホール船堀 雷不動
 
 大 田 区   池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ
 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社
 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷
 洗足池
 
 葛 飾 区   式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場 「こち亀」銅像群
 香取神社 東京拘置所 柴又女子大生殺人放火事件 
 男はつらいよ 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 新宿の問屋場跡 葛西神社
 葛西囃子 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 半田稲荷
 水元公園 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園
 
 北  区   静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村
 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋)
 江 東 区   外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺
 
 品 川 区   品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社
 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 
 渋 谷 区   明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院
  
 新 宿 区   浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム 
 
731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町
 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市
 
 杉 並 区   青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水
 
 墨 田 区   東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺
 
 世田谷区   バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園 
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川
 
 台 東 区   浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神
 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 
  中 央 区  「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
 エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ
 カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋
 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者
 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス
 
 千代田区   靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 
 豊 島 区   池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園

 【巻末特集】 東京の暴力団 
 中 野 区   薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園
 【巻末特集】 江戸城 城門と橋 
 
 練 馬 区   いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院 
 
 文 京 区   狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 
 港  区   増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園
 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
 9・11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー
 
 目 黒 区   滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大
 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵
 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺
 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
 
   


「バンク・約束手形」は赤堤、「ウルトラマン」は祖師谷、「花形敬の墓」は宮坂だよ。 

世田谷区の地形 
 世田谷区は、武蔵野台地の南縁部に位置しており、区の北部および中央部はほぼ台地、区の南側境
界付近は多摩川に沿って広がる氾濫低地となっている。北部および中央部の台地面は、区の西側から
多摩川に流れ込む野川・仙川、砧公園~等々力駅付近を南北に流れる谷沢川、区の東側境界付近で目
黒川となる北部の小河川などによって刻まれ、大小の谷底低地が樹枝状に広がっている。なお谷沢川
は多摩川への合流点付近で、都内では珍しい渓谷の景観(等々力渓谷)を見せている。
 

地形・地質と住宅地盤
 
 台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている。
関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積したローム
土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好
な場合が多いってこった。区内の大部分が岩盤上にあるため、地震にも対応でき、住宅地としては2
3区中一番の安定度を誇る。


 
谷底低地

 台地部分が小さい河川や水路によって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布して
いる。台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟
弱な地盤なのだ。でだ、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となる場合が
多い。水無川・
烏山川・北沢川・呑川・谷沢川・谷川・仙川・野川の各流域。支川や枝川が多く区全
体に網の目のように低地が存在する。大きい川が仙川だけで、ここは雨量によっては氾濫の可能性は
大。谷沢川も要注意だ。


 氾濫低地

 大河川流域(世田谷区では多摩川)に広く分布する標高の低い平坦面だ。地下水位が高く軟弱な粘
土やシルトが厚く分布しているため、長期的な沈下(圧密沈下)が問題になっている場所が多く、適
切な基礎補強策が必要となる。区南西部の国分寺崖線の下、多摩川流域の低地。『岸辺のアルバム』
的な危険はいつもある。

 多摩川
 最終間氷期最盛期には狭山丘陵の北側を流下して、金子台や所沢台の原型となる扇状地を形成して
いたが、その後は、成増台・豊島台、目黒台、久が原台、中台面、立川段丘と、次第に流路を南に移
し、最終氷期極相期以降は現在の多摩川低地を流下している。
 
 



世田谷区の変遷 
 現在の世田谷区の区域に入る江戸時代の41ヶ村は、慶応四年(1868)六月二十九日幕府領は
武蔵知県事に属したのち、明治2年2月9日武蔵知県事を改めた品川県に所属、同4年11月5日品
川県を廃して東京府に編入。井伊領は同4年7月14日廃藩置県により彦根県→同年11月22日長
浜県となったとき東京府に編入、同7年3月8日大区小区制により東京府の第七大区・神奈川県の第
十大区(9小区給田村、11小区大蔵村・喜多見村・宇奈根村・鎌田村・岡本村、12小区烏山村・
船橋村・八幡山村・廻沢村・粕谷村・上祖師谷村・下祖師谷村)に編入され自治権を奪われる。この
内務卿大久保利通の専制強圧政治に国民は猛反発、各地に大久保の専制を糾弾する武士の義挙が起こ
り、やがて自由民権運動に発展していった。その最たるものが西南戦争で、大久保が盟友西郷隆盛を
屠ってまでも独裁権力にしがみついたので国民の怒りは頂点に達し、悪行の限りを尽くした大久保に
も悪運の尽きる時は来て、同11年5月14日赤坂の仮皇居(迎賓館)に向かう途中の、麹町は清水
谷の沢道で天誅を受け正義の刃の下に斬殺された。虎は死して皮を残すが、大久保は死して「国家主
義的官僚制度」という厄介を残してくれた。社保庁、天下りがいい例だ。天誅に仰天した内務官僚は
国民の真の怒りを痛感して周章狼狽、右往左往してなすところを知らず、2ヶ月後の7月22日「郡
区町村編制法」を施行して自治権回復を約し、大慌てに大区小区制を引っ込めると、11月2日に東
京府荏原郡を、11月18日には神奈川県北多摩郡を復活、さらに同22年5月1日には初めて自治
権を認め、「市制町村制」により荏原郡下4ヶ村(世田谷・松沢・駒沢・玉川)・北多摩郡下2ヶ村
(砧・千歳)に集約し、同26年4月1日三多摩地区を神奈川県から東京府に戻し、大正12年4月
1日世田谷村が、同14年10月1日駒沢村が町制に移行した。
 昭和7年東京市周辺郡部を市に編入して20区を増設することになり、世田谷町・駒沢町・松沢村
・玉川村の2町2村で1区(67町)を構成することとなった。その内、世田谷町が最大かつ他町村を
圧して繁栄していたので区名を「世田谷」とした。同11年10月1日北多摩郡砧村・千歳村を区に
編入し、83町で現在の区域が確定した。同18年7月1日内務官僚は東京市の自治権がいよいよ強
大化するのを恐れ、「府県制」を廃して新たに「都制」を定め、東京府と東京市を廃して東京都を誕
生させた。しかし私利私欲を以て直轄管理を目論んだものの、軍部が殲滅を豪語して挑んだ対米戦で
叩きのめされ、あにはからんやアメリカの植民地・属国とされるの憂き目にあってしまった。
 同21年9月27日民主化を急ぐアメリカは内務官僚虎の子の「都制・府県制・市制・町村制」を
あっさり改正して地方自治体の首長の選任を任命制から公選制に改めた。これに驚愕した内務官僚は
公選制の撤回を愁訴嘆願したが、情けないことに、鬼畜と断定したアメリカ人に「専制と私利私欲を
以て国民の上に君臨することは人倫の道に悖ることだ」と諄々と説得され漸くにして理解した。しか
し国家主義的官僚主義は、専制をこそ第一義に考える傾向にあり、自治省→総務省と名は改めても虎
視眈々其欲逐々と大久保と同じ夢を見続けている。
同22年3月15日戦禍のため疲弊した都心区を
復興させるため廃置分合により22区に削減、同年4月17日市制町村制を廃して「地方自治法」を
施行、漸くにして民主化の入口に立った訳だ。しかし日本人が江戸時代の平和な暮らしを取り戻せる
のは何時のことやら・・・・
 同年8月1日板橋区より練馬区が独立して「23区制」が確立して今日に至っている。

 
千歳・砧の区編入

 昭和7年に区が誕生した時の構成は、荏原郡世田谷町・駒沢町・松沢村・玉川村の2町2村が合併
したのだが、おやと思うのは千歳村と砧村の名が見当たらないことだろう。実は千歳・砧の両村は当
時北多摩郡に所属していたため、東京市への編入対象から外されていたのだ。昭和6年に両村が提出
した「編入陳情書」で絶叫している。


  両村を逸する帝都は中禅寺を欠ける日光、富士山なき日本に御座候

 こうした事情の背景には、西多摩・北多摩・南多摩の3郡が、明治時代に一時的に神奈川県に属し、
明治26年に東京府に編入されたという経緯があり、北多摩郡の千歳・砧だけが抜け駆け的に東京市
に昇格するのは許せないとする他町村の強い反発があったのだという。
 今から見るとどうでもいいような古色蒼然たる内輪揉めである。結局千歳・砧は、歴史的にも経済
的にも世田谷区と一体化しているという現実が認められ、昭和11年、めでたく同区編入が実現した。


 特別区史
 昭和21年4月人口32万人。5月12日「米よこせ」区民大会で宮城(皇居)に押し寄せて、大
恥をかかされる。町会長会議代表、宮内庁に陳謝。10月玉川区独立運動起きる。同22年3月玉川
支所の半独立体制解消。4月町会廃止により町会事務所は区連絡事務所となる。6月区出張所23開
設。区教育刷新委員会設置。10月人口35万人。同23年2月区役所木造庁舎復興・執務開始。5
月区会を区議会に改称。劇場映画教室が活発化。8月東宝争議。同24年8月キティ台風で大被害。
同25年区役所内に視聴覚ライブラリー独立設置。9月ララ物資(アメリカから支援物資として提供
された廃棄処分の脱脂粉乳、小麦)寄贈により完全給食開始。10月羽根木公園など都立9公園が区
に移管され区立公園誕生。人口40万人。同26年3月世田谷小学校に戦後初の講堂落成。6月休日
の教職員の日直宿直制廃し警備員を置く。8月九品仏「お面かぶり」復活。同27年10月区の紋章
制定。11月選挙による教育課を廃し、選挙による区教育委員会発足。同28年奥沢中学校に戦後初
のプール完成。同29年校庭開放開始。人口50万人超える。同30年人口52万人。
 同31年区青少年問題協議会結成。5月区立中初の体育館完成。9月任命制初の教育委員選任。区
章制定。同32年5月「手をつなぐ親の会」結成。6月特別区制10周年記念式典。同33年9月狩
野川台風(22号)により大被害。同34年人口60万人超す。4月区民会館開設。7月下田臨海学
校開設。12月奨学金資金条例。同35年5月尾関雅樹誘拐殺人事件。9月新庁舎落成。人口65万
人。同36年4月都から移管を受けて6保育園が区立となる。9月玉川支所第一出張所、初の鉄筋コ
ンクリート造り。同37年5月渇水のための給水制限で給食一時中止。10月区制施行30周年記念
式典。同38年8月鎌田町一帯に竜巻発生。同39年3月甲州街道烏山バイパス完成。6月三浦養護
学園開園。8月区内初の守山歩道橋架設。9月郷土資料館開館。10月東京オリンピック、馬事公苑
が馬術会場になる。同40年5月学校給食牛乳供給。人口70万人突破。7月三浦臨海学園開園。8
月台風17号で被害。11月国立小児病院開院。12月第三京浜開通。
 同41年4月区初設立の塚戸幼稚園開園。5月砧ゴルフ場跡地、ファミリーパークとして公開。8
月区民保養所「箱根足柄荘」落成。同42年4月学校給食小麦の漂白廃止。同43年5月区教委「給
食献立」一括配布開始。6月「区の鳥・区の花・区の木」制定。10月大原交差点立体交差完成。同
44年4月第二庁舎落成。5月東急玉川線・砧線廃止。 9月人口77万。世田谷清掃工場完成。1
0多摩川汚染、砧浄水場の取水中止。11月21区道に名称がつく。同45年総合運動場に陸上競技
場完成。7月区内初の光化学スモッグ注意報発令。9月ブタクサ(セイダカアワダチソウ)による鼻
炎(花粉症)が騒がれ始める。10月人口78万人。11月カナダ・ウィニペグ市と姉妹都市縁組。
同46年1月区役所に初めてコンピュータ導入。10月区内最初の学校若林小学校創立100周年記
念式典。12月学校給食25周年記念展示会。同47年環八通り船橋、ドライブイン・ショッピング
センター建設反対運動。6~8月光化学スモッグ被害発生。太子堂中学校に初めて空気清浄器設置。
10月区制40周年・教育委員会設立25周年記念式典。12月人口76万人に減少。同48年区内
に大気汚染測定網完成。同49年5月区長公選制。同50年4月統一地方選挙‐区長公選。
 同52年4月新玉川線開通。10月区制45年・特別区30周年記念式典。同54年4月三浦養護
学園を健康学園と改称。10月三浦健康学園創立15周年記念式典。同56年「世田谷区の歌」「せ
たがや応援歌」発表。同57年2月多摩川に鮭放流。区制50周年記念式典・ミニSL開通。同59
年世田谷電話局ケーブル火災。同60年5月中学校32校・生徒数25000人余。ベビーブーム以
来のピーク、以降減少。ウィーン市ドゥブリング区と姉妹都市提携。8月平和都市宣言。
 同61年3月世田谷美術館開館。学校給食週2回米飯。同63年4月教育センター開館。7月中央
図書館・プラネタリウム・視聴覚ブース一般公開。11月次大夫堀公園開園。12月事務管理用パー
ソナルワープロ区立全校に配置。
 平成元年3月区立小学校夜間機械警備開始。4月第2・第4土曜日閉庁。同2年区立中学校12校
に1校当りパソコン21台設置。同3年区立図書館13館オンラインシステムによる電算化。小学生
海外派遣親善交流開始。同4年「せたがや百年史」上下巻発刊。11月オーストラリア・バンバリー
市と姉妹都市提携。同5年海外帰国子女受け入れ校上北沢小・千歳小・八幡小・梅丘中・深沢中の5
校となる。7月向井潤吉アトリエ開館。同6年4月交通安全都市宣言。9月ボロ市を無形民俗文化財
に指定。同7年4月世田谷文学館開館。初の区立特別養護老人ホーム「芦花ホーム」オープン。6月
ほっとスクール城山(不登校児童生徒の自立を支援)を城山幼稚園跡に開設。8月「せたがや平和資
料室」玉川小学校内に開設。同8年11月三軒茶屋再開発ビル「キャロットタワー」オープン。同9
年10月区制65周年・特別区50周年記念式典。同10年4月区のホームページ開設。7月FMせ
たがや放送開始。同12年4月給食用賀調理場の業務民間委託。清掃事業区に移管。同16年世田谷
ものづくり学校開校。12月「日本語」教育特区認定。同17年8月21世紀せたがやのうた「おー
いせたがや」発表。同18年3月子ども子育て総合センター同19年区制75周年記念式典。同20
年3月彦根藩井伊家墓所が国史跡指定。
 



 
世田谷の由来
 瀬田に準ずるが、「せたかい」「せたかえ」ともいい、世田ヶ谷・世太ヶ谷・瀬田ヶ谷・瀬田茅・
瀬田萱などに書いた。世田谷は「瀬田の谷地」をいい、「世田ヶ谷戸(せたがやと)」を略したもの
だが、現在の世田谷区は荏原郡覚志(かがし)郷と多摩郡勢田郷をあわせた範囲で、世田ヶ谷の初見
は鶴岡八幡宮文書にある「世田谷郷」だが、世田谷区世田谷は、世田ヶ谷が世田谷郷の汎称(地域名)
となってからその中心地として呼ばれた政治的呼称だ。つまり世田谷区世田谷のところに世田ヶ谷戸
があった訳でなく、世田谷郷の世田谷を拝借した訳。中世の世田谷城も「世田谷郷を支配する意図を
以て」命名されたもので、政治的呼称で呼ばれる以前の呼び名は判らない。同じような命名に足立区
足立、目黒区目黒本町がある。地形名としての世田ヶ谷は、「瀬田」を参照されたい。
 


 
世田谷の概況
 昭和52年61町、平成21年現在45町。区役所は世田谷4丁目にある。姉妹・友好都市はウィ
ニペグ市(カナダ)・ウィーン市ドゥブリング区(オーストリア)・バンバリー(オーストラリア)
と群馬県川場町。美術館・文学館・図書館・資料館(代官屋敷に併設)は充実しており、地域資料も
豊富、文化行政は23区中1、2争うほど。文化施設は五島美術館・静嘉堂文庫・大宅荘一文庫・駒
沢オリンピック公園・砧公園・祖師谷公園・羽根木公園・次大夫堀公園・岡本民家園・馬事公苑・豪
徳寺・九品仏などなど枚挙に暇なく、区内は高級住宅地が多く純粋に緑の住区で総合的に全国一の環
境にある。風水害で鉄道各線が運休を余儀なくされる中、小田急は平常運転で時間の遅れもなかった
のだ。小田急は世田谷の真ん中を走っている。
 


■姉妹都市

 ウィニペグ市
 カナダ・マニトバ州の州都。オフィスビルが立ち並ぶ近代的な一面と、ヨーロッパの落ち着いた雰
囲気を兼ね備えた美しい町。市内を流れるレッド川とアシニボイン川の川合は、古くから河川交易の
中心地として栄え、現在は数々の催しで賑わう人々の憩いの場となっている。世界的に有名なロイヤ
ル・ウィニペグ・バレエ団やウィニペグ交響楽団もあり、文化の香りの高い町だ。果てしない草原で
の乗馬体験など、大自然とのふれあいもちょっと郊外に足を伸ばせば、存分に楽しむことができる。
 世田谷区とウィニペグ市は、昭和35年の児童生徒の絵画交換をきっかけとして友好を深め、同4
5年10月姉妹都市の提携を行った。その翌年、世田谷区中学生の親善訪問団がウィニペグ市を訪問
してから、1年交代に区内中学生の派遣と、ウィニペグ中学生の受け入れが行われている。またウィ
ニペグ市の合唱団の公演や和太鼓グループの区民まつりへの出演など、様々な分野で交流している。


 ウィーン市ドゥブリング区
 ウィーン市はオーストリアの首都。東京と同じように23の行政区がある。ドゥブリング区はウィ
ーン市の北西部に位置し、第19区とも呼ばれている。ウィーンの森とドナウ川に囲まれ、ぶどう畑
の広がる閑静な住宅街。音楽の都ウィーンにふさわしく、ベートーベン縁の地としても有名。区内に
は、ベートーベンがかつて居住していた家「ベートーベン・ハウス」やベートーベンの散歩道が歴史
のままに残されている。また交響曲第3番「英雄」、第6番「田園」はこの地で生み出されたといわ
れている。
 昭和60年5月、雄大な川が流れている。緑豊かな住宅都市、文化都市志向・・・ このような共
通点から2つの区は姉妹都市提携を行った。翌年には、多摩川とドナウ川との友好河川共同宣言が実
現し、またドゥブリング区内にある「世田谷パルク」は日本式庭園として、平成4年5月開園した。
以来、区民や観光客の憩いの場となり広く親しまれている。またこの年から世田谷区内の小学5年生
が毎年ドゥブリング区を訪れ、異文化を体験している。さらに両区内の合唱団がジョイントコンサー
トなどを開き、お互いの交流を深め合っている。


 バンバリー市
 オーストラリア西オーストラリアの州都パースから180km南にある港町で、行政の中心。趣の
ある古い建物と近代建築が雄大なインド洋と結びつき、魅力的な町並を生み出している。町から歩い
てで行けるところに美しいビーチが展開し、クームバナ・ビーチでは、浜辺までやってくる野生イル
カと出会うこともある。しかし少し郊外に行けば、そこはいきなりの大自然の世界。ジャラの森を歩
きながら、飛び交う鳥たちを見て楽しむブッシュ・ツアーは格別とか。バンバリーは日本では味わえ
ない出会いを約束し、新しい感動を与えてくれるかもしれない。
 


■区の鳥・花・
 昭和43年6月1日東京100年を記念して制定された。

 
「オナガ」
 スズメ目カラス科オナガ属。全長は34~39cmで、キジバトより一回り大きい程度。但し尾羽
が20~23cmと長く、
頭と体の大きさはムクドリ大。名前の由来は、尾羽が長いことによる。頭
は黒く、背は淡い灰褐色、翼と尾は青灰色、喉から腹は灰白色で、尾の先が白い。
東部シベリア、中
国、日本に分布し、日本では九州、関東平野に多い鳥。近年西日本では激減し、関東では却って増加
している。平地から低山地の比較的明るい森林や竹林を好み、森林に近接する市街地などでも見られ
る。食性は雑食で、昆虫や果実、種子などを常食する。いつも高いところにおり、群れで行動し、カ
ラスの仲間とあって学習能力は高い。警戒心が強く、また敵に対するモビング(疑攻撃)行動も活発
で、巣が襲われた場合などは集団で防衛に当る。鳴き声は「ギューイギュイギュイ」「ゲー、ギー」
などと汚い大声がよく聞かれるが、これは警戒音声であり、繁殖期のつがい同士などでは、「チュー
イ、ピューイ、チュルチュルチュル」など愛らしい声で鳴き交わす様子も観察される。

 花「サギソウ」
 白い3センチほどの花の形が白鷺そっくりなラン科の多年草だ。選ばれた理由は、昔はそこら中に
自生し、大規模な自生地も存在したためだ。
しかし都市化と共に減少し、希少化すると持ち去られる
ようになり、近年は鉢植えでしかお眼にかかれなくなってしまった。また区内にはサギソウに因んだ
伝説も残っている。吉良頼康の側室「常盤」が他の側室の誹謗中傷にいたたまれなくなり、身重なが
ら逃亡、自害して身の潔白を証明しようとした。その際に飼っていた白鷺の足に遺書を括り付けて九
品仏の実家に向けて放ったのだが、その白鷺は途中で力尽きで死んでしまった。死因は飛び続けたた
め力尽きたとも、鷹狩の矢に射抜かれたむともいわれており、多摩川の辺でサギソウになったという
伝承だ。夏には「サギソウ祭」というイベントが開かれ、そこではサギソウの鉢植えが売られる。
 また姫路市では市の花に選定されている。

 ●木「ケヤキ」
 
東アジアの一部と日本に分布。日本では本州、四国、九州に分布し、暖地では丘陵部~山地、寒冷
地では平地まで自生する。ツキ(槻)ともいう。
幹が太く、枝は箒木状にまっすぐに伸びる大木。区
内各所に見られ、4~5月ごろ新芽と同時に淡い黄緑色の小さな花をつける。ケヤキは日本を代表す
る樹木で、建築用材として広く用いられている。砧公園の高木11000本の内、
殆どがケヤキで、
区内でも屋敷林の樹木はケヤキが多かった。街路樹
や庭木などとしてよく植えられる。高さ20~2
5mの大木になるため、巨木が国や地方自治体の天然記念物になっていることがある。
 葉の鋸歯は曲線的に葉先に向かう特徴的な形であり、鋸歯の先端は尖る。雌雄同株で雌雄異花だ。
花は4~5月頃、葉が出る前に開花する。秋の紅葉が美しい樹木でもある。個体によって色が異なり
赤や黄色に紅葉する。
 木材として木目が美しく、磨くと著しい光沢を生じる。堅くて摩耗に強いので、家具・建具等の指
物に使われる外、家屋の建築用材としても古くから多用され、社寺城郭などに用いられた。現在は高
価となり、なかなか庶民の住宅には使えなくなっている。
 



■教育施設

 小学校 69校(国立1 区立61校 私立7校)
 東京学芸大学教育学部附属世田谷
 若林(+花見堂)・烏山玉川・塚戸京西・八幡・代沢・松沢・駒沢・砧・三宿・旭・
 沢・下北沢(東大原+守山+北沢)・
桜丘・
太子堂・中里・世田谷・多聞・奥沢・松原・尾山台
 ・上北沢・駒繋・池之上・経堂・二子玉川・弦巻・
祖師谷・
山崎―以上戦前からの31校
 東深沢・
中丸・東玉川・三軒茶屋・九品仏・代田・桜町・赤堤・明正・烏山北・瀬田・池尻・
 丘・等々力・笹原・
用賀・中町・城山・船橋・芦花・八幡山・砧南・玉堤・給田・山野・千歳・
 喜多見・武蔵丘・希望丘・千歳台―
以上戦後の30校 

 国本・昭和女子大学附属昭和・成城学園初等学校・田園調布雙葉・東京都市大学附属(東横学園)
 和光・聖ドミニコ学園・


 中学校 53校(国立1校 区立29校 私立20校)
 国立筑波大学附属駒場・国立東京学芸大学附属世田谷
 都立世田谷工業高等学校付属(昭和34~48年)

 世田谷(若林+山崎)・太子堂・桜丘・松沢・駒沢・北沢・緑丘・駒留・梅丘・桜木・富士・
 巻・奥沢・八幡・玉川・瀬田・深沢・尾山台・用賀・東深沢・砧・烏山・千歳・船橋希望(希望
 丘+
船橋)・
芦花・
上祖師谷・砧南・喜多見・
三宿(新星+池尻)
 鴎友学園女子・国本・恵泉女学園・佼成学園女子・国士舘・駒場東邦・松陰・昭和女子大学附属昭
 和・成城学園・聖ドミニコ学園・世田谷学園・セントメリーズ・インターナショナル・玉川聖学院
 中等部・田園調布学園・田園調布雙葉・東京都市大学附属・東京都市大学附属等々力・日本学園・
 戸板・目黒星美
・下北沢成徳(平成17年から休校)

 中等教育学校 0校

 高等学校 38校(都立9校 私立12校)
 園芸・桜町・松原・深沢・千歳丘・芦花(千歳+明正)世田谷泉(烏山工業+代々木)・世田谷総
 合(砧工業+玉川)・総合工科(世田谷工業+小石川工業)

 下北沢成徳・科学技術学園・駒場学園・駒澤大学・大東学園大学附属・日本大学櫻丘・日本女子体
 育大学体育学部附属二階堂・恵泉女学園・世田谷学園・目黒星美・東京都市大学附属


 高等専門学校 0校
 

 短期大学・短期大学部 7校
 日本体育大学女子・日本体育大学女子(和泉校舎)・駒澤大学・東京農業大学・昭和女子大学・自
 由が丘産業能率短期大学・成城大学


 大学   10校
 国士舘大学・国士舘大学(世田谷キャンパス梅丘校)・産業能率大学・駒澤大学・駒澤大学玉川校
 舎・昭和女子大学・成城大学・多摩美術大学(造形表現学部)・東京医療保健大学(世田谷キャン
 パス)・東京農業大学・日本体育大学・日本体育大学(和泉校舎)・日本女子体育大学
 

■21世紀世田谷の歌「おーいせたがや」

 作詞・山花梨恵  作曲・井上鑑  唄・カズン 森の木児童合唱団
    或る日見つけた世田谷の種
    大事に 大事に 大地に播いた

    光と水と土と
    夢と希望と優しさを風に乗せて
    大きく大きく育て世田谷
    夢と希望と笑顔に溢れて
    何処までも 何処までも
    広がれ 広がれ おーい世田谷
    僕と私の世田谷
    光と水と土と
    夢と希望と優しさを風に乗せて
    大きく大きく育て世田谷
    夢と希望と笑顔に溢れて
    何処までも 何処までも
    広がれ 広がれ おーい世田谷
    僕と私の世田谷
    広がれ 広がれ
 おーい世田谷
    僕と私の世田谷
 
 
 



 ボロ市
 世田谷とは切っても切れないこの市は、400年もの伝統を誇り、毎年12月と翌年1月の15~
16日に開かれている。元々は千歳船橋駅近くの桜丘の菅刈社(稲荷森神社)で開かれていたものら
しい。
稲荷森は「稲荷社の森」の意で「とうかんもり」と読む(稲荷を「とうかん」と読む例は他に
もあり、江戸時代中央区に稲荷堀があり、「とうかんぼり」と読んだ。また「東関森」と書くところ
もある)。昭和20年代までは鬱蒼とした傘いらずの森で、雨宿りに納涼に、大いに繁盛したお稲荷
さんだった。天正六年(1578)北条氏政が世田谷新宿の楽市楽座に移し変えたのが今日のボロ市
となった。昭和39年12月廃止にすることになったが、翌年1月再開して途切れることなく続いて
いる。
 

        掟
   一 市之日 一ヶ月
     一日 六日 十一日
     十六日 廿一日 廿六日
   一 押買 狼藉 堅令停止事
   一 国質 郷質 不可取之事
   一 喧嘩 口論 停止事
   一 諸役一切 不可有之事
     已上
     右為楽市定置所如件
     天正六戊寅  禄寿応穏
     九月廿九日 山角上野介
     世田谷 新宿
 

 六斎市(毎月1・6・11・16・21・26日の6日のみ開く固定的物売り場)だったが、江戸
時代になると次第に廃れて、年二回夏と暮に開かれるに止まった。都市消費が当たり前になると、問
屋に渡したほうが手っ取り早い換金手段という訳だ。となると問屋に卸せない古着などは納涼市・歳
の市で捌くしかなく、ボロ市に形を変えて楽市は残った。ボロ市は現在さらに年々の広がりを見せ、
世田谷区を象徴するものとなっている。

   襤褸市は曇りて雨の甲斐秩父(尾崎紅葉)
   ボロ市の武蔵野ぶりや杜の鵯(草間時彦)


 西欧化を押し進めた明治の新政府は、明治5年に太陽暦の採用を決めた。旧暦では西洋との間に1
ヶ月も食い違いができ、困ることが多いとの建前で、明治5年12月3日を一足飛びに明治6年1月
1日とした。だからこの5年の12月は2日しかない。政府、大隈重信は役人に対する12月分の給
与をカットした。太陽暦の採用は財源難の政府の窮余の一策という背に腹は代えられない生きるか死
ぬかという剣ヶ峰で採用されたのだ。だがしかし世田谷付近の住民も困惑した。12月2日だけになっ
てしまったので伝統の年の市を開くことがで。『ボロ市の歴史』(世田谷区立郷土資料館)によると、
臨時に11月25日に繰り上げて開かれたというが、さっぱり商売にならなかったらしい
 

 楽市楽座 
 織田信長が城下町の安土で実施した産業振興策。現代風にいえば一切の規制を撤廃して、商工業へ
の新規参入を許す画期的な自由化政策である。税金は一切免除で、簡単に商売ができるのだから、楽の
名に相応しい。自然に各地から人や物産が集中し、城下町が繁盛する。しかし新しい悪党の侵入を許
すことでもある。全体に正義感に薄れ、商道徳は低下していき精神主義から物質主義に転化する。拝
金主義が罷り通り、弱肉強食の世の中となる。たとえば小泉純一郎の構造改革、規制緩和が、ホリエ
モンに代表される拝金主義者の出現を許すという結果を生むというようなことだ。ホリエモンを追い
落とした力は、ナベツネ(読売新聞の渡辺恒雄)に代表される老人勢力、亀井静香の恨みを背負う反
小泉勢力の逆襲だろう。ナベツネや亀井が直接関わっているがどうかは別として、小泉の我儘勝手を
嫌悪する人々であることは間違いなかろう。小泉・安倍が踏ん張るか、潰されて逃げ出すか・・・
 結果は、自民党の凋落で、民主党が大勝し天下を取った。これで眼の覚めるような改革が始まると
期待した国民は、民主党の裏切りに遭い夢も希望も打ちのめされることになる。民主党はマニフェス
ト(政党公約)を悉く破り、民主党3人目の首相野田佳彦は、公約に一言も触れなかった消費税増税
を自民・公明と結託して押し切った。天皇の圧力は相当なものらしい。民主主義が聞いて呆れるぜ。
 ああそうそう、いっとくが、ギリシャの民主政治(デモスクラトス)とイギリスの議会制民主主義
(パーリアメンタリーデモクラシー)は全く別物だ。後者はユダヤが悪意を以てイギリスを乗っ取る
ために考案した方法論で、英国王室はオレンジ公ウィリアム、つまりユダヤだ。ロスチャイルドは伯
爵だぞ。序に、フランスの自由主義(自由・博愛・平等)は、ユダヤの秘密結社フリーメイソンリー
のスローガンだ。ロシアの共産主義は、ユダヤの秘密結社イルミナティ(悪魔教)の思想で、マルク
ス、レーニン、スターリン、カガノヴィッチ、ベリア、総てユダヤ人で、ロシア革命はロシア人の起
こしたものではない。現在ロシアでもそのように真実を学校教育している。ウクライナ問題は、ロシ
ア人VSユダヤ人の喧嘩だ。
 

 ボロ(襤褸)
 「ボロ」とは、「ぼろぼろ」の擬態語から出たもので、破れた古い布、ちぎれた布、またそれらを
継ぎ接ぎした布のことをいう。「襤褸」の漢字を当てるが、この熟語の読みは「らんる」だ。
 「襤」 衣+監。音符の監は、濫に通じ、「みだれる」の意味から「ぼろ」の意味を表す。
 「褸」 衣+婁。音符の婁は、繋がるの意味。衣服が破れて繋がっている「ぼろ」の意味を表す。


 ■玉川通り(矢倉沢往還・大山道・厚木街道・国道246号線・ニーヨンロク)
 家康が矢倉沢(南足柄市)に関所を設けて東海道の脇街道としたので「矢倉沢往還」と呼ばれたが
大山信仰が盛んとなって阿夫利神社にお参りする参道となり「大山道」と呼ばれるようになった。本
来は東海道は大名が、中原街道は商人・農民が、矢倉沢往還は幕府役人が通る道として使い分けた。
別に規則があった訳ではない。お互い煩わしさを避ける当時の知恵だ。渋谷から赤坂までは「青山通
り」と分けて呼ぶが、全線を通して「厚木街道」とも呼び、国道246号線であるところから「ニー
ヨンロク」とも俗称する。部分的には「鎌倉道」「二子道」でもある。道玄坂で甲州中出道(滝坂道
→一部淡島通り)を分け、三軒茶屋で津久井道(世田谷通り)を分かつ。新町から二子橋までの通り
は新道で、旧道は新町から北側に大きくカーブして玉川台で慈眼寺道と行善寺道とに分かれて共に多
摩川の「二子の渡し」に至った。東名自動車道はほぼこの東海道脇往還に沿って建設されたものであ
る。国道1号線・国道246号線の大渋滞の解消を目指したものだが、その結果国道は忘れ去られ、
今でも相当の利用量はあるものの沿線町村の寂れようは嘘のようだ。

 滝坂道 府中道 甲州中出道(古甲州街道) 
 渋谷から代沢、若林、梅ヶ丘、豪徳寺、宮坂、桜上水、船橋、八幡山、千歳台、祖師谷、給田、滝
坂を通る往還。以前はバス通りだったこともある。
 慶長七年(1602)に甲州道中(甲州街道=国道20号線)を整備する以前、江戸と武蔵国府の
あった府中方面を結んでいた中世の「府中道」の一部だったとされる道筋。この道は渋谷の道玄坂で
大山街道(矢倉沢往還=国道246号線)から分かれ、目黒区北部を横切り、世田谷区内を横断して
調布市の東つつじヶ丘1丁目で甲州街道に接続しています。江戸時代には「甲州道中出道」と呼ばれ
甲州道中とは調布の滝坂で合流するため「滝坂道」とも呼ばれた。また江戸方面へ向かう者にとって
は青山に通じるという意味で「青山道」「青山街道」とも呼ばれた。
 今は平凡な町中の道だが、沿道には往時の歴史を物語る文化財、遺産も多く残っていて、歩いてみ
ると、なかなか味わい深いものがある。
 


特別保護区
 ①、神明の森みつ池 ②、烏山鴨池 ③、経堂5丁目(弁天池)④、深沢8丁目無原罪


世田谷地域風景資産
 これは我々の住む身近な地域の中で、大切にしたい歴史や環境、生活・文化などを表している風景
を構成する要素のことです。これらをみんなで共有し、風景づくりを推進する手かがりとなるように、
『地域風景資産の選定』が平成13年8月
15日からスタートしした。これは平成11年3月に区が
制定した『世田谷区風景づくり条例』に基づくもので、これまで2年間に亘って公募による区民と区
とがその選定の仕組みについて検討してきた。今までの区の取り組みには、昭和59年に約9200
0通もの区民投票で選んだ「せたがや百景」をはじめ「界隈賞」「住宅賞」などがあり、優れた景観
の資産を顕彰し、それらを核とした町づくりにも取り組んできた。「地域風景資産」は、こうした過
去の資産を原点とし、選ぶだけではなく、未来に向けて風景をみんなで守り育て、そして作っていく
ことを目的としながら進めていこうというものだ。また区民と末永く地域で風景を大切にし続けてい
けるよう、そして地域の絆が育まれ、住み良い環境作りに繋げていけるような運動を目指している。
平成14年に36ヶ所が選定され、同20年に30ヶ所が二次選定、同26年に20ヶ所が三次選定
された。

  1-01.池尻稲荷神社を中心とする旧大山道の風景(池尻2丁目)
  1-02.双子の給水塔の聳え立つ風景(弦巻2丁目)   
  1-03.玉石垣のある風景(桜丘)
  1-04.心和む桜丘の原風景(桜丘)
  1-05.経堂の西洋館と庭の風景(経堂)
  1-06.代沢せせらぎ公園と北沢川緑道の風景(代沢)
  1-07.校庭で子どもたちを見守る松の木の風景(代沢)
  1-08.桜上水の野菜畑の風景(桜上水)
  1-09.松林と大欅のある世田谷新町公園の風景(桜新町)
  1-10.呑川親水公園の風景(深沢)
  1-11.秋山の森と旧秋山邸の風景(深沢)
  1-12.清明亭の風景(深沢)
  1-13.谷沢川の桜並木の風景(用賀)
  1-14.用賀プロムナード(用賀・上用賀)
  1-15.園芸高校の並木とみどり空間(深沢)
  1-16.森の児童館の風景(上野毛)
  1-17.富士見橋より見た富士山の見える眺望(上野毛)
  1-18.等々力駅近くの寺社界隈の風景(等々力)
  1-19.等々力7丁目荒井家・鈴木家かいわいの巨樹群の風景(等々力)
  1-20.大ケヤキのある散歩道-けやき道の風景(奥沢)
  1-21.国分寺崖線を眺められる多摩川堤の風景(玉川・上野毛)
  1-22.静嘉堂緑地の自然林の風景(岡本)
  1-23.岡本の富士見坂(岡本)
  1-24.喜多見五丁目竹山市民緑地の竹林と垣根の風景(喜多見)
  1-25.喜多見大橋から見た野川上流の眺め(喜多見)
  1-26.慶元寺三重塔の見える風景(喜多見)
  1-27.成城三丁目緑地の風景(成城)
  1-28.成城の近代住宅の風景(成城)
  1-29.つりがね池と樹林の風景(祖師谷)
  1-30.季節の野草に出会う小径の風景(船橋)
  1-31.蘆花恒春園花の丘の風景(粕谷)
  1-32.祖師谷中橋の風景(上祖師谷)
  1-33.
上北沢駅前の桜並木の風景(上北沢)
  1-34.
「山本農機・山本善水商店」を中心とした旧甲州街道の街並み-
       「間の宿」としての面影(南烏山)
  1-35.釜六の天水桶(北烏山)
  1-36.松葉公園の景観(北烏山)

  2‐01 北沢地区に隠されている石造物群
  2‐02 羽根木公園にある羽根木プレーパーク
  2‐03 代田の丘61号鉄塔
  2‐04 三宿の森緑地
  2‐05 大ケヤキのある円泉ヶ丘公園
  2‐06 太子堂八幡神社の森
  2‐07 登録有形文化財の萩原邸
  2‐08 元気で優しい松陰神社通り
  2‐09 若林3丁目緑の小道
  2‐10 旧・新町住宅地の桜並木
  2‐11 四季の移ろい心ときめく安らぎの道~桜並木と呑川緑道
  2‐12 九品仏浄真寺脇(南側)のクロマツの並木
  2‐13 奥沢海軍村ゆかりの風景
  2‐14 歩いて楽しい北沢川緑道(豪徳寺1丁目)
  2‐15 古道・滝坂道
  2‐16 長島大榎公園界隈の緑
  2‐17 ほっとやすらぐ世田谷界隈の情景
  2‐18 せたがやボロ市が開催される大山道
  2‐19 大正ロマンを残す砧浄水場ポンプ室
  2‐10 水辺の自然とふれあえる蘆花恒春園
  2‐21 祖師谷公園
  2‐22 成城の桜並木とイチョウ並木
  2‐23 喜多見ふれあい広場から見た「野川と国分寺崖線纏まった緑」
  2‐24 成城の富士見橋と不動橋
  2‐25 成城3丁目の国分寺崖線の樹林
  2‐26 成城3丁目桜と紅葉の並木
  2‐27 仙川・川面に映る桜並木
  2‐28 喜多見 歴史の道 慶元寺・氷川神社界隈
  2‐29 畑と間の土の道
  2‐30 須賀神社ムクノキ

  3‐01 せせらぎと絵陶板のある烏山緑道
  3‐02 世田谷区庁舎のケヤキ並木が作る広場の風景
  3‐03 世田谷観音~地域コミュニケーション拠点
  3‐04 下馬・野沢の道と人を見守る古道沿いの三猿
  3‐05 のざわテットー広場
  3‐06 豪徳寺参道の松並木
  3‐07 桜上水「江戸城御囲松」の兄弟松
  3‐08 緑丘中学校・校庭の大ケヤキ
  3‐09 鷺草伝説ゆかりの奥沢城址の風景
  3‐10 旧小坂家別邸と崖線庭園
  3‐11 水辺のある能勢公園
  3‐12 石井戸(大蔵)の愛宕山
  3‐13 大蔵の四季が溢れだす妙法寺の境内
  3‐14 賀川豊彦と松沢の教会・幼稚園・資料館
  3‐15 八幡山の八幡社
  3‐16 文豪の住まいと雑木林のある蘆花恒春園
  3‐17 粕谷本橋家の竹林と野草園
  3‐18 給田小学校の古民家
  3‐19 烏山寺町
  3‐20 みどりの静けさの北烏山九丁目屋敷林




 ■世田谷名木百選 

樹種名 樹高(m) 目通り幹周(m) 枝張(m)  所有者  所在地
 1 赤樫 16   2.50  14  稲荷神社 上野毛3-22-2
 2 赤四手 15   2.65  15  駒繋神社 下馬4-27-26
 3 犬四手 群        浄心寺 奥沢7-41-3
 4 粗樫 11   2.35  13  北沢八幡神社 代沢3-25-3
 5 飯桐 13   1.50  10  長谷川宅 若林4-35-2
 6 犬柘植(芝付) 4.5   2.20     円光院 世田谷4-7-12
 7 犬柘植
(芝付)
4.5   1.52   6  行善寺 瀬田1-12-23
 8 犬柘植 7.5  1.24+0.86   9  池亀宅 給田3-33-26
 9 銀杏 20   6.25  16  森巌寺 代沢3-27
 10 銀杏 28   4.15  18  円泉寺 太子堂3-30-8
 11 銀杏並木        区道 成城6-1先
 12     1.75  14  森川宅 喜多見7-14-25
 13     1.10     光伝寺 喜多見5-13-10
 14 13   3.80  18  マンション 中町3-11-18
 15 10   2.15  14  玉川野毛町公園 野毛1-25
 16 貝塚伊吹
 5.5   1.57     医王寺 深沢6-14-25
 17 柿木     2.10     星谷材木店 瀬田2-31-34
 18 柿木 18   1.80  10  野島智邸 千歳台5-15-5
 19 12   1.35   9  勝利八幡神社 桜上水3-21-6
 20 要黐 11   1.10     勝光院 桜1-26-35
 21 カルミア 3.5     3.6  和田宅 大蔵1-9-3
 22 24   3.20  10  慶元寺 喜多見4-17-1
 23 金木犀 12   1.50   7.5  松原邸 経堂5-15-1
 24 金木犀     1.40  11  静嘉堂 岡本2-23-1
 25 キササゲ 16   1.84  12  浄心寺 奥沢7-41-3
 26 17   2.20  18  世田谷美術館 砧公園1-2
 27 18   4.50  18  乗泉寺別院 宮坂2-1-5
 28 21   4.08  17  原田宅 尾山台2-14-8
 29 芳樟(楠) 15   1.45     井上宅 奥沢1-36-5
 30 玄圃梨 14   1.74  11  満願寺 等々力3-15-1
 31 28   3.90  20  空地 瀬田2-9-13
 32 欅並木 12   3.75  13  円泉寺 太子堂3-30-8
 33 欅 群        慶元寺 喜多見4-17-1
 34 28   3.55  15  豪徳寺 豪徳寺2-24-7
 35 25   3.50  17  岡本八幡神社 岡本2-21-2
 36 欅 群        伐採 北烏山5-33-19
 37 欅 群        井上宅 南烏山3-6-8
 38 小楢・椚 群        等々力不動 等々力1-20
 39 小楢・椚 群        芦花恒春園 粕谷1-20-1
 40 辛夷  8   2.30  11  駒沢公園 駒沢公園1-1
 41 高野槙 10   3.50   6.5  西澄寺 下馬2-11-6
 42 染井吉野 群        羽根木公園 代田4-38
 43 染井吉野 11   2.46  16  小川医院 成城4-4-17
 44 染井吉野 11   2.46  16  烏山公園 北烏山1-20
 45 山桜 11   1.90  13  羽根木西向稲荷 羽根木2-35-11
 46 枝垂れ桜  7   2.20   6  豪徳寺 豪徳寺2-24-7
 47 犬桜 14   1.23   7  勝光院 桜1-26-35
 48 皀萊 14   1.80   8  密蔵院 桜上水2-26-4
 49 山茶花  9   1.50   9  岩本大河宅 南烏山6-22-17
 50 百日紅 10   1.30  10  西福寺 赤堤3-28-29
 51 島百日紅 群        砧公園 砧公園1-1
 52 20   2.00  13  西福寺 赤堤3-28-29
 53 山茱萸(サンシュユ)  8   6本立   7  浄光寺 世田谷1-38-20
 54 白樫 20   2.94  14  桜上水2丁目
 子供の遊び場
桜上水1-1
 55 柏槙 4.5   1.60     田中邸 喜多見7-25-23
 56 すだ椎 群        若林公園 若林4-34
 57 大山木 12   2.08     三田邸 等々力7-11-20
 58 多羅葉 13   1.55   6  慈眼寺 瀬田4-10-3
 59 19   2.85     大場代官屋敷 世田谷1-29-18
 60 15   2.35  11  稲荷神社 上野毛3-22-2
 61 萵苣の木 18   2.00  11  教学院 太子堂4-15-1
 62 矮鶏檜葉 群        岡村宅 奥沢7-20-13
 63 黄金矮鶏檜葉 11   1.34     矢藤園 砧1-1-1
 64 垂柳檜葉 17   1.50   4.5  西福寺 赤堤3-28-29
 65 垂柳檜葉 群        宝性寺 船橋4-39-32
 66 香椿 15   1.58     個人宅 梅丘2-33-9
 67 藪椿     2.15     松之木都市林 駒沢1-13-8
 68 藪椿     1.50   5.5  個人宅 砧6-2-6
 69 栃の木 21   4.00  16  浄心寺 奥沢7-41-3
 70 藪椿 11   1.25   9  静嘉堂 岡本2-23-1
 71 花水木 11   0.85   8  浦野宅 喜多見7-8-20
 72 一つ葉タゴ 13   2.00  10  新野宅 世田谷1-43-9
 73 ヒマラヤ石楠花群        静嘉堂 岡本2-23-1
 74 プラタナス 群        ルアロ宅 深沢7-22-29
 75     1.50    和田宅 大蔵1-9-3
 76 菩提樹 12   2.80  11  深沢神社 深沢5-11-1
 77 赤松 10   1.50  5.5  宇田川宅 等々力3-24-13
 78 赤松 16   2.40  16  実相院 弦巻3-29-6
 79 黒松 23   2.70   7  岡本八幡神社 岡本2-21-2
 80 黒松 群        早苗保育園 桜上水3-18-12
 81 黒松 22   2.55   9  駒留八幡神社 下馬5-35-3
 82 黒松 群        浄心寺 奥沢7-41-3
 83 黒松 群        神明神社 船橋4-40-17
 84 黒松・赤松 群         成城4丁目一帯
 85 五葉松 8.5   0.96  3.5  高橋宅 等々力4-20-1
 86 多行松  7  7本株立  13  松沢病院 上北沢2-1-1
 87 大王松 18   2.00   9  三田邸 深沢2-13-2
 88 ストーブ五葉松 19   2.20   9  成城学園 成城6-1-20
 89 椋の木 20   3.55  12  須賀神社 喜多見4-3-23
 90 椋の木 25   2.95  12  角井宅 瀬田2-5-3
 91 無患子 11   1.24     恵泉女学院 船橋5-8-1
 92 黐の木 群        緑泉公園 駒沢3-19-1
 93 孟宗竹 群        勝光院 桜1-26-35
 94 木斛 14 1.65+1.1     駒繋神社 下馬4-27-26
 95 木斛 12   1.80     豪徳寺 豪徳寺2-24-7
 96 メタセコイヤ 27   3.07     成城学園 成城6-1-20
 97 メタセコイヤ 群        東京農業大学 桜丘1-1-1
 98 紅葉葉楓 群        区立赤松公園 赤堤4-10
 99 ヤタイヤシ  4.5   2.00     三田邸 深沢2-2-3
 100 大和アオダモ 群        上祖師谷神明社 上祖師谷4-19-24
 101 大和アオダモ 18   2.10  12  天祖神社 中町3-18-1
 102 山桃 19   2.00  12  三田邸 深沢1-40-20
 103 山紅葉   1.50     密蔵院 桜上水2-24-6
 104 百合の木 28 .4+2.2  14  雉本宅 代沢3-7-14
番外編
  名称 樹高 幹周 枝張 所有者 所在地
 1 校庭の2本欅        緑丘中学校 桜上水3-19-12
 2 八百時の大黒柱 20   2.50  13 (個人) 等々力2-39-25
 3 十手松 18   2.55     駒繋神社  下馬4-25-7先
 4 宝寿院の枝垂桜 8.5   0.82     宝寿院光伝寺 喜多見5-13-10
 5 ランプモチ 18   1.50     大平宅 等々力4-23-5
 6 三叉檜 15   1.85     行善寺 瀬田1-12-23
 7 とっくり楠 13.5   4.65  15  等々力玉川神社 等々力3-27-7
 8 根上り松(芝付) 2.8   1.89     中村宅 駒沢1-13-8
 9 松の大枯株        中村宅 駒沢1-13-8
 10 皮だけシイノキ   1.70    奥沢神社 奥沢5-22-1
 11 八幡小学校発祥記念碑の赤樫 16   2.00  13  奥沢神社 奥沢5-22-1
 12 喜多見小学校発祥地の
銀杏
15   3.30  10  氷川神社 喜多見4-13-19
 



 さあ世田谷区の地名の由来を始めるよ。 


【赤堤】(あかつつみ)1~5丁目                  昭和40年4月1日
 荏原郡赤堤村。明治22年「市制町村制」により荏原郡松沢村の大字。昭和7年松原村の一部を
あわせて世田谷区赤堤町1~2丁目。同40年新住居表示により赤堤町1~2丁目に松原町3~4
丁目・世田谷町2~3丁目・上北沢町1丁目の各一部を併せた町域を現行の「赤堤」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『世田谷区史』『世田谷の地名』など

 
赤堤の由来
 赤堤の初見は、天正十二年(1584)賢幸法師が高野山金剛峰寺の宝塔院法印文清から権律師
(ごんのりっし)に補任(ぶにん)され光林山持明院西福寺の号を許された証書だが、この奉書の上
書に「赤堤村西福寺」と書いてある。この時の村域は現在の松原をも含んでいた。村内を今は暗渠
になった北沢川と赤堤川が流れており、赤堤川の北面にある六所神社は奈良時代の砦跡だといわれ
る。ただ川と同位の低地にあるので疑問を抱く声もある。北沢川と赤堤川の流路跡はほぼ路地また
は歩道の形で残っている。ただし昭和50年代後半に改修されたので必ずしも江戸時代の流路では
ない部分もある。ところで善性寺から西は高台で、以前は赤堤村字陣屋跡(天正~元禄時代、左兵
衛以来旗本服部氏がここに陣屋を置いていた)といい、「砦山」と呼ばれたところである。この砦
山の周辺或いは一部の低地に防水と防御を兼ねた堤(土塁)が築かれていたが、その堤が赤土だっ
たことで地名が起き、やがて室町時代に七人衆によって村が開かれるとその村名に採用された。赤
堤川と北沢川は砦山の東で合流し東へ流れていくが、赤堤そのものは川の西側、世田谷村字前田の内
(豪徳寺1丁目52~54番の辺り)を中心に築かれていたのでは? 現在残ってないので知る由
もない。別に赤堤川の土手をいい、近年まで世田谷線松原駅の北側に残っていたという説もある。
赤堤川は松原3丁目の弁天池(現在は埋め立てて児童遊園となっている)を谷頭とし、流路跡はほ
ぼ完全に明渠、道路、路地、閉塞地の形で残っている。
 


堤=バンク=銀行
 「銀行」は、英語の「バンク(Bank)」を訳す時に、中国語の金融業を表す言葉を持ってきて
充てたんだ。「金行」としないのは、東洋では金は軟金属で装飾以外には使い物にならないので、限
りなく価値が低かったからだ。それが東洋の銀本位制の由縁だが、金が不変のもので酸化しない金属
だということを知るのは、西洋の錬金術師たち(化学者=ユダヤ人)の知恵を拝借してからのことな
のだ。
 それはともかく「bank」は、本来「土手・堤・土を盛った所」の意だ。それがどうして「金融
業」を表すようになったかというと、イギリスのバクチ打ちたちが、チップ(賭札)の山を「Ban
k」と呼び、それでそのチップを貸し出す「貸元」のことを「banker」と俗称した。そのバン
カーは博徒たちにチップを貸すばかりでなく、一般の商工業者にも金を融通するようになった。貸元
たちが金融業をも営んで、その店を「バンク」と俗称するようになって、正式に金融業を表す普通名
詞として認められた訳だ。そしてそれが段々に発展して銀行業を「バンク」と呼ぶことにした。銀行
が国民を愚弄して大悪事を働くのは、元々がやくざ者の商売だからだ。アーメン。世界を実質的に動
かしているのは、ユダヤ系国際資本家たちで、その大元凶がロスチャイルドやロックフェラーに代表
される「悪魔の13家」で、イルミナティという秘密結社を構成、フリーメイソン、オプスデイ、イ
エズス会、黒い貴族、300人委員会、国際赤十字、オリンピック委員会、国連をはじめとする種々
の国際機関を支配して世界を牛耳ってるって訳さ。「利子利息」といものを考え出したのはユダヤ人
なのだ。ユダヤ人とは、ヘブライ人、フェニキア人、カナン人、ハザール人、ベネチア人、と種々の
名前を持つ。
 で、もっというと、「旧約聖書」「新約聖書」を作文したのはローマ時代のことで、ユダヤ人が書
いたものなんだ。新約聖書に「金貸しは人間として最も忌むべき職業」と記した。つまりそれがユダ
ヤ人が金融業を独占するようになった所以なのだが、彼らは見た目、金融業に身を落とすことによっ
て財力を蓄えていった。その最も骨太のものがロスチャイルド一族だ。彼らは彼ら自身に世界の富を
一極集中するために米英仏独伊露の国家権力を支配下に置き、それらの国家財政を好き勝手に操って
いる訳さ。KKK、スカル&ボーン、イエズス会、マフィア、三合会、山口組などなどの秘密結社や
暴力組織を巧妙に絡み合わせて次々に強奪していくってえ寸法よ。
 さて日本でいうところの「銀行」は、中国で銀(silber)を取り扱う役所を「銀行」という
ところから、「bank」の訳語に採用したのだが、中国には金(gold)を扱う「金行」という
役所もあった。では何故金(かね)を取り扱うのに「銀行」としたのだろうか?
 昔、東洋では、ただ光っているだけの金は、軟らかくて実用に供さなく、燻し銀の銀にこそ価値が
あって銀本位制であったためだ。

 バンカー
 ゴルフコースの窪地をそう呼ぶが、羊穴が侵食崩落して大きくなったものだ。羊は雨風を避けるた
めに穴を掘って身を納める習性がある。穴を風雨のきつい高みには掘らないから、したがって羊穴は
必然的に土手下状態になる。だからバンカー・ホールだ。アメリカのボストンにある古戦場バンカー
・ヒルは丁度羊穴を長大にしたような端部を持つところからそう命名された。戦いはワシントンの率
いる独立軍の敗北に終わったが、それを機に却って団結は強くなり、士気は高まり、それ以後の戦い
に勝利して独立を遂げることになった転換点、全く記念すべき丘な訳だ。ワシントンの司令部「ワシ
ントン・ハイツ」は渋谷区に記述してある。



約束手形

 本来の約束手形というものは室町時代に遡る。与力・同心というのは、与力は寄騎で援助味方する
こと。同心は心を同じくして従うことだ。忠義だの御家大切などというお題目は江戸時代以後の産物
で、室町時代はあっちについたりこっちについたりは当たり前で、裏切るという言葉さえなかった。
そんな時、戦場ではいろんな駆け引きがあった。誰しも命は惜しい。主人に忠義を尽くして死ぬなん
てまっぴら御免だと思うのは人の常。戦場で組み伏せられて首を掻かれんとした時、「待った」をか
けて助命するのは卑怯でも何でもない。当然のコモンセンスだ。そして命乞いの代わりに渡すものこ
そが「約束手形」で、紙に本人の手形が押してあって幾ら幾ら支払うと書いてある。一角の武将なら
戦場に出る前に予め用意して懐中にしておくのは嗜みだ。戦後その手形をを持って集金に回る。この
約束は後々のこともありキチンと支払われたという。出雲に山中鹿之助幸盛という知略の猛将がいた。
尼子十勇士の筆頭に数えられる人で戦場ではそれはそれは強かった。だから約束手形も山のように受
け取った。しかし鹿之助の奮闘も空しくやがて尼子家は滅ぼされてしまう。鹿之助は御家再興を図り
何度か蹶起するが悉く失敗、終には敵である毛利の手に落ち殺された。34歳の生涯だった。東大で
学んで守銭奴となったホリエモン(堀江貴文)や村上世彰と一緒だ、同歳だぜ。
 話はこれからだ。

 鴻池家
 この家は鹿之助の次男新右衛門幸元(新六)を始祖とする。新六は父鹿之助が稼いだ約束手形を持っ
て回って集めた金を懐に、大坂は鴻池に拠って酒屋を始めた。
 我々が嗜む「清酒」というものは、鴻池において下男がいたずらに「濁酒(どぶろく)」の中に灰
を投げ込み偶然に生まれたのを初めとする。また酒の江戸送りも新六が始めたものだ。これは酒造家
として製造販売面において目覚しい新機軸を打ち出して名声を博したことの傍証だ。元和期に大坂に
出た鴻池諸家の中、最も発展したのは新六の八男善右衛門正成の系統「今橋鴻池」だろう。同家三代
目善右衛門宗利のときに飛躍的に隆盛し「鴻池新田」を開発した。このころから鴻池は初期の酒造・
海運業・商品取引から大名貨を中心とする両替業に専門化する。大名貸しはリスクは大きかったが、
上手に廻してますます身代を大きくした。大坂両替商の鼻祖天王寺屋五兵衛を手本に、大名貸を単に
消費貸借としてではなく、大名の蔵物売り捌きに関係する金融を行い、帳簿にも新しい工夫をこらし
た。十人両替の一人となり大坂随一の両替商へと成長、明治以後は「第十三国立銀行」を興し繁栄し
た。しかし利貸や土地投資を専門とし生産や流通にはあまり関与せず、明治初期に三井の三野村利左
衛門や住友の広瀬宰平のような指導的人物を得ず、政商化の過程で遅れとった。第十三国立銀行は「鴻
池銀行」に改め、鴻池銀行は「三和銀行」に、そして東海銀行と合して「UFJ銀行」そのUFJ
銀行
も、平成18年元旦を以て東京三菱銀行に吸収されて「三菱東京UFJ銀行」に変わった鴻池
は岩崎に食われてしまったということだ。

 利息の発明
 因みに発明したのはユダヤ人だ。貨幣経済が始まった途端、金を貸して元金に上乗せさせて回収す
るということを思いついたんだねぇ。そうすれば儲かる。こりゃいい商売だ。ユダヤ人はこの労せず
儲かるということを独り占めしようとした。それでキリスト教とユダヤ教を拵えて、キリスト教徒に
は金貸し、乃ち金融業は駄目とした。そのくせユダヤ教では金貸し大礼賛だ。だから、世界の経済を
握ってに切っているのがユダヤ国際資本なんだ。そして自らの資産を増やすために、政治を支配して
いく。安倍晋三がアメリカに行ってチャラチャラおべんちゃらいって廻るのもユダヤの唆しがあるか
らだ またぞろ戦争だぜ。まぁ当分は自衛隊員だけの生命が失われるだけだが。テロと称して日本国
内で爆発事件が起こるさ。併しこれはアラブ人の実行じゃないよ。ユダヤが仕掛けるのさ。
 安倍晋三が、天皇をペリリュー島へ行ってもらったかわかるだろう。お前さんなら。
 


せたがや百景No.31「北沢川緑道ユリの木公園

 赤堤1丁目1番・15番・16番の南、宮坂2丁目との間を流れる北沢川(暗渠)上の公園。川の
両側に60本ほどのユリの木の巨木が立っている都会的な趣きのある遊歩道だ。レンガタイルを敷き
芝生を植え、スツールが置かれていて、公園のような緑道となっている。近所の人々のゆきとどいた
手入れで、いっそう心地よい憩いの空間となっている。併し嘗ては「返房谷(へぼだに)」と呼ばた
湿地帯で、使い物にならない地所だった。古い地図を見ると幾流かの流れがあり、それも定まった流
路ではなかった。ユリの木は緑道に整備する時に住民の要望で植えたものだ。

 
園名板
 稲妻型のオブジェ。

   ユリの木公園

 オナガ
 赤堤1丁目15番6号先の公園内にある山本常一の小作品。平成8年3月設置。オナガは区の鳥。

 イリュージョン
 赤堤1丁目16番1号先の公園内にある山里和典の作品。平成8年3月設置。5本のステンレス製
直角三角柱。高さ2mばかり。ユリの木交差点の経堂寄りだ。

 
狐の親子像
 園内にあるリアルな彫像。
  


■最高裁公邸(赤堤宿舎) 
売却

 赤堤1丁目24番16号にあった。一時、緑地広場だったが、地元がそのままにしてくれと懇願し
たにも拘わらず売却された。現在は三井不動産のパークホームズ世田谷赤堤となっている。


■稲荷社 ◇

 赤堤1丁目29番3号にある小社。神山さん家の屋敷神か? 後ろに巨木がそそり立つ。 


■赤堤小学校

 赤堤1丁目41番24号にある。昭和28年農地の市街地化によって松沢小学校・世田谷小学校内
に「東京都世田谷区立赤堤小学校」として開校。7月現在地に新校舎落成して全員登校。校章制定。
同29年4教室増築。校歌制定。

 校歌
「朝雲明るい赤堤」 作詞・大木敦夫  作曲・飯田信夫
  1.朝雲明るい赤堤
    楽しく吾等集いたり
    美空の雲雀若桜
    学びの道に勤しまん
    あゝ望みに満つる春秋よ
  2.清けき流れ多摩川に
    漱ぎて吾等生い茂り
    雪にも折れぬ青竹と
    正しく清く伸び行かん
    あゝ望みに満つる春秋よ
  3.夕紅映ゆる富士が嶺の
    気高く吾等睦みたり
    明るき牧場浅緑
    世界の友を愛しまん 
    あゝ望みに満つる春秋よ


 同30年2教室増築。同31年開校記念日を11月17日とする。同32年4教室増築。同35年
プール完成。同36年カナダのウィニペグ小学校と姉妹校縁組。同40年体育館完成。同41年鉄筋
コンクリート造り3階建て校舎4教室落成。同43年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎尊教室。同
同46年親子山造成。同48年プレハブ仮校舎に移動。同49年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎
落成。同50年同49年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。同57年創立30周年記念式典。
同59年新親子山土盛り完了。
 平成元年重層体育館・プール、給食室完成。同4年赤堤生涯学習センター開設。創立40周年記念
式典。同13年パソコンルーム開設。同14年赤小ふれあいの森・ビオトープ完成。創立50周年記
念式典。同16年サマースクール開始。同20年全面建替え新校舎落成。同24年創立60周年記念
式典。
 


■日蓮誠宗宗務院(三界寺別院)

 赤堤2丁目11番11号にある。日蓮誠宗(にちれんまことしゅう)は、昭和27年に身延系日蓮
宗から分離独立した日蓮宗の1宗派。三界寺を本山とする極めて新しい宗派。宗教団体というよりは
精神道場といった感が強い。宗祖は高橋玄覚(故人)。末寺に、縁覚寺(町田市)・蓮経寺(堺市)
・蓮華寺(新潟市岩室温泉)・妙蓮寺(三条市)がある。
 


■赤堤六所神社

 赤堤2丁目25番2号にある。祭神は大己貴命・瓊々杵尊・素盞嗚尊・大宮売命・伊奘冊命・布留
大神の六所。東急世田谷線の松原駅を降りて、閑静な町並みを東南へ3分も歩くと、六所の杜(もり)
に着く。朱塗りの社殿が緑に包まれて古社の風格がある。参道脇に「御由緒」の碑があり、天正年間
(16世紀後半)徳川家康の旗本服部左兵衛貞信が府中六所宮(大国魂神社)を勧請、赤堤の総鎮守
として奉斎したと説明している。天正十二年(1584)に服部貞殷が勧請したと書いたものがある
が、家康の関東転封は同十八年のことなので、この説は変? 天明七年(1787)社殿再建。明治
7年赤堤村の村社に指定された。
 六所宮また六所神社というのは、六つの神社を合祀したお宮のことだ。武蔵国総社として知られる
府中市の大国魂神社(祭神大国魂大神)は、武蔵の主要な六神社(小野大神・小河大神・氷川大神・
秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を合わせ奉祀して「六所宮」とも称せられるようになった。武家
の棟梁となった源頼朝が尊崇したため、その後も武士の信仰を集め、江戸時代に入っても領内の豊作
と安全を願って各地に六所神社が勧請された。
 因みに神奈川県大磯町の六所神社も相模の総社で有名だが、こちらは相模の主要な六神社を合祀し
ており、祭神は大国魂神社とは異なる。『新編武蔵国風土記稿』には

   六所宮 除地一段四畝十五歩、松原村ノ境ニアリ。勧請ノ年歴ヲ詳ラカニセズ。ワズカナ
   ル祠ナレドモ、村ノ鎮守トセリ。祭礼九月二十一日、村内西福寺持稲荷社 除地十五歩 
   小社。社地ノ構ニコモレリ


 とあるが、摂社は神明社・大鳥神社・御嶽神社・子安神社・天祖神社、境内社に、厳島神社、松沢
稲荷神社があり、別に旧社殿なのか大国魂主命を祀った社殿がある。例大祭は9月23、4の両日。
 鳥居に「遷宮記念、昭和44年」と刻してあり、何処かから移転してきたのか?
 

   六所神社御鎮座四百年奉祝記念碑
   御由緒
   當神社は天正十二年(1584)
   服部貞殷が府中の六所宮(現大國魂神社)を
   勧請遷宮赤堤の總鎮守として奉斎
   明治  七年 赤堤村村社と定められる
   昭和二十一年 宗教法人に改組
   昭和三十二年 教化事業として赤堤幼稚園設立
   昭和三十五年 鳥居再建参道境内整備
   昭和四十四年 御本殿再建神楽殿新築
   昭和五十四年 社務所再建
   昭和五十八年 赤堤幼稚園園舎新築
   昭和五十九年 御本殿等整備
          春日燈籠壱対新設
   昭和五十九年九月吉日建之      氏子中

 亀の口手水
 参道左手水の水の出口は亀になっている。

 
厳島神社(弁天社)
 参道左にある小祠。

 
五社合社
 社殿前左手にある境内社。天祖神社・子安神社・御嶽神社・大鳥神社・神明社の五社。村のあちこ
ちに在って、地域の発展により邪魔扱いされて集められたのだろう。

 
松沢稲荷神社
 社殿左奥にある小社。

 
小祠
 松沢稲荷の社殿後ろにある。



■領主服部氏
 六所神社を奉斎した服部氏は、伊賀国の出身で平氏、忍者のリーダー服部半蔵に連なる一族という。
天正十年(1582)本能寺の変で織田信長が何者かに討たれたとき、徳川家康は旅先の堺にいて窮
地に陥った。供にいた服部半蔵がこのピンチを救い、家康を護衛して伊賀の峠を越え、無事に本拠地
の三河へ帰還させたのだ。 この時この服部氏(貞信)は当時宇治田原(京都府南部)にいたが、こ
の伊賀越えの際に半蔵の指示を受け直ちに手勢を率いて家康の案内を務めたという。その功で旗本に
登用され、天正十八年(1590)家康の江戸お討ち入りに従って江戸に入り、天正十九年(159
1)赤堤村などを所領として与えられた。元禄十年(1697)橘樹郡へ所領替え。服部氏は近くの
西福寺(3丁目28番)を菩提寺としている。
 


妙覚山三界寺

 赤堤2丁目25番18号にある日蓮誠宗の本山寺。結構繁盛しているよ。雰囲気は新興宗教的。
 調べたら、昭和16年開基の高橋玄覚が鎌倉安国論寺で得度。同24年三界教団として宗教法人の
認可。同26年高橋は身延山で更なる修行。同27年日蓮宗三界寺建立。日蓮宗から独立して日蓮誠
宗(にちれんまことしゅう)を開宗。同37年都より三界寺と日蓮誠宗の合体認可。日蓮誠宗三界寺
となる。
 平成9年高橋開祖死亡。同11年
包括団体(非宗教法人)日蓮誠宗を宗教法人日蓮誠宗三界寺より
分離設立。同15年宗教法人日蓮誠宗として登記(設立日)。日蓮誠宗制を制定。
 「せたがや:社寺と史跡」に

   日蓮真宗本山にして妙覚山三界寺と称する。本尊は日蓮上人座像である。単独寺院として
   昭和28年4月28日宗教法人法によって創立し、開山は高橋玄覚師である。寺を創設し
   た理由は「この法人は日蓮聖人尊定の大畳陀羅を本尊として日蓮聖人の教義を広め、儀式
   行事を行い信者を教化育成し、一天四海皆帰妙法の聖業に精進する」とある。
   境内412坪(約1360㎡)、本堂110坪(363㎡)、庫裡50坪(165㎡)あ
   り、墓地2000坪(6600㎡)は東京都町田市大蔵地内にある。


 とある。

 寺を創設した理由
 「この法人は日蓮聖人尊定の大畳陀羅を本尊として日蓮聖人の教義をひろめ、儀式行事を行い信者
を教化育成し、一天四海皆帰妙法の聖業に精進する」とある。 境内412坪(1359.6㎡)、本
堂110坪(363㎡)、庫裡50坪(165㎡)あり、東京都町田市大蔵地内にある墓地は200
0坪(6600㎡)。
 


■最高裁判所赤松公邸 → 赤松ぼっくり庭園緑地

 赤堤2丁目51番22号最高裁判所赤松公邸跡地に出来た区立公園。平成28年春開園。名主か、
庄屋の家かと思っていたが、公邸だったんだ。なるほどね。

   世田谷区立
   
赤松ぼっくり庭園緑地~地域の願いによって、みんなで作った緑地~
   緑地の真ん中でどっしりと構える赤松の木。
   かつてここにはお屋敷と呼ばれた最高裁判所赤松公邸がありました。
   公邸は石積みに囲われており、建物からは趣のある庭園が望めました。
   公邸はなくなりましたが、この場所を緑地として残してほしいという地域の願いがありま
   した。
   たくさん、たくさん話し合って、
   「当時のお庭の風情を残しながら、まちの財産となるような緑地にしたい」とみんなで考
   えました。
   「地域みんなの手で大切にしているこの場所を、多くの人に親しんでもらいたい」
   赤松ぼっくり庭園緑地には、たくさんの想いが込められています。
   赤松の木はみんなの緑地を今日も見守っています。

   赤松ぽっくり庭園緑地(経緯)
   昭和25年 最高裁判所赤堤公邸を設置
   昭和27年 最高裁判所赤堤公邸改築
   平成17年 最高裁判所赤堤公邸を閉鎖
   平成20年 赤松二丁目町会、松原三・四丁目自治会
         松原五・六丁目自治会が緑地を
         保存するよう要望書提出
   平成22年 都市計画上の緑地と決定
   平成25年 区民広場として仮開園
   平成25・26年 緑地の整備プランを考える地域検討会を開催
   平成27年 整備工事
   平成28年春 本開園


■北沢川緑道

 赤堤2丁目1番~3丁目34番にある北沢川暗渠上の公園。北沢川は、玉川上水岩崎橋下流から取
水し、上北沢、緑丘中学校、赤堤小学校、ユリノキ公園、豪徳寺、梅ヶ丘、代沢小学校、淡島をとお
り、池尻で烏山川と合流し目黒川となる。甲州街道以北では殆ど流路跡は確認できないが、以南では
概ね残っており、遊歩道、緑地、公園などになっている。、


■稲荷社 ◇

 赤堤3丁目13番1号のクレスト赤堤(吉原)の囲い塀の中にある小祠。屋敷神か、


■ケベック宣教会‐赤堤教会

 赤堤3丁目20番1号にあるカトリック礼拝所。戦争の余燼がまだあちこちに残っていた昭和24
年、 その前年に中国から引き揚げてきたケベック外国宣教会の3人の司祭によって、 赤堤教会の活動
が始まった。 遠藤周作の小説にも出てくる、 玉電松原駅の埃っぽい道の竹薮の先の荒れ果てた庭の中
の日本家屋が最初の教会だった。背が高く結核後にもかかわらず活動したブーレ神父、 漢字に詳しく
美声のパラン神父、 若い金髪のブレン神父らが、 赤堤で最初のミサを捧げ、 マリア幼稚園を開き、 ボ
ーイスカウト活動を始めた。そのころ、 毎週日曜日、 50人ぐらいの信者と20人のボーイスカウト
が、 幼稚園の質素な狭い講堂に集まってミサにあずかっていた。 その後ガールスカウトも結成され、
教会、 幼稚園、 ボーイスカウト、 ガールスカウトの4つの団体は協力し合って小教区共同体を発展さ
せてきた。
 御聖堂を建設するために、教会が同35年から始めたバザーは、 最初の収益は5万円だった。同3
8年幼稚園とボーイスカウトが加わった最初の合同バザーの日は、 あのケネディー大統領暗殺の11
月22日、 日本時間の11月23日だった。 その後ガールスカウトも加わって4団体合同バザーとな
り、この近隣地域では最大規模のバザーとなった。最近は、 世田谷ファミリー宣教協力体の同じメン
バー、隣町の松原教会と、 お互いバザーの手伝いをし合っている。
 同42年念願の聖堂が完成。 典礼暦の最後の主日は、 王であるキリストの主日で、 赤堤教会の保護
者の主日でもあ。また聖堂はケベックの司祭たち、 特にカロン神父により設計された。 明るいカナダ
の雰囲気が伝わってくる。 ロワゼール、 ベランジュ、 デュポン神父を経て、 現在デロシュ主任司祭の
下、281世帯、 489人の信者が、 家庭的な共同体の中で信仰生活を送っている。 信徒会は、 第二
バチカン公会議の開かれた教会の精神を基礎にして、 司祭と信徒、 修道者が共に共同責任を持って歩
もうと、 司祭と信徒の役割分担、 委員特に会長、 副会長職の任期制等、 東京教区のナイス2の先進的
提案を取り入れた信徒会規約を持っている。
 赤堤教会の土曜学校は、 リーダーの方々やシスター方のお陰でとても活発。 今年は50人以上の子
供たちが楽しく集まってきている。 またフィリピンのミンダナオ島のカガヤン・デ・オロの子供たち
への支援を、 いろいろな活動を通じて行なっている。 同じ街に住む未信者の音楽家の人たちが聖堂で
演奏するチャリティーコンサートもその一つで、 多くの回を数えるまでになった。
 教会の庭は、 ベンサン神父、 ラベ神父が丹精こめた花々が咲きみだれている。 赤いクリスマスのイ
ルミネーションが光り輝く大きな樅の木と、 復活祭の頃にそれは素晴らしく咲き揃う何本もの桜の大
木は、 経堂、 赤堤、 桜上水、 松沢の名物になっている。


 日本のキリスト教の現況
 戦後に日本にやってきたキリスト教は、イエズス会と国際金融資本(ユダヤ)が目論む、日本キリ
スト教国化の一環としてやってきた。まあ、イルミナティの尖兵だわな。しかし彼らの血の滲むよう
な努力にも拘らず、キリスト教が日本の国教になることはなかった。日本人クリスチャンは、推定多
く見積もって260万人(その殆どは帰化人・在日)というから、全国民の5%に過ぎない。こんな
に低い率は世界中で日本だけだ。中国でさえ6000万人、平成42年にはアメリカを抜いてトップ
となり2億4000万人に達するという。韓国は既に人口の3割がクリスチャン(半数以上は無宗教
者)だ。これは日本人が特別神道・仏教に肝煎れしているからではないらしい。脳学者に因れば、日
本人の右脳左脳の働きは、日本人以外の国の人々とは違うのだそうで、ために英語を不得意とするの
も極めて道理なのだとか。
 だからキリスト教が一神教であることよりも、ユダヤ人や白人の思想・哲学・言語を理解できない
のだ。つまり表面的なことではなく、西欧人の深奥のところが解らない。立ち位置が違う、レベルが
違う。だからキリスト教への関心が希薄となり、面倒臭くなり、心が余所に移ってしまう。日本人は
自己完結型だから、自力本願だ。他人にとやかくいわれることを極端に嫌う。子供が親のいうことを
聞きたがらないのはそのためだ。一神教というのは唯只管神の教えに盲目的に従うこと、つまり他力
本願だ。日本人はキリストの教えだけに従うということは根本的にできないのだ。日本には八百万の
神々がいる。日本人はその時その場で自分の気に入った神様の敎えを選択する。だから初詣の明治神
宮にキリスト教徒がプラカードを掲げていても違和感を感じないどころか、あれだけでかい看板を掲
げていてもその存在に気が付かない者すらいる。創価学会の信者がその殆どを半島系の人々によって
占められているというのは、池田大作を頂点とする一神教だからだ。
 イルミナティは昭和天皇を何とかしてキリスト教徒に仕立て上げようとしたが失敗した。しかし今
上陛下・皇后陛下は既にクリスチャンだといわれている。美智子皇后が皇太子妃だったころ、昭和天
皇の前でキリスト教の話をしたら激怒されたという。それだからこそキリスト教国教宣言は不可能な
のだ。尤も国教化すれば、このおとなしい民族も、天皇を追放してしまうだろう。結局、今上天皇・
皇后のキリスト信仰は極めて個人的なことに収まって発展をみない。
 イルミナティのもう1つ謀略は民族の混血化だ。所謂、国際結婚。表面(おもてづら)を追う日本
女性は国際結婚に憧れ、東京では25人に1人の割合でハーフ(合の子、混血児)が存在することに
なった。芸能界を見ろ、今やハーフ会を結成する程。混血児のタレントがウジョウジョいる。
 混血化は、日本民族、日本の崩壊の序曲で、イルミナティの思う壺だ。その内、皇族の中で国際結
婚が行われ、いずれ天皇となる人が英国王室の王女と結婚するようになれば、天皇がユダヤ人という
ことを日本人が疑わなくなり、皇位は簒奪される。既に事は明治維新から始まっている。この国には
日本人に成りすました北鮮人・韓国人の多いことよ。彼らは知らず知らず手先として使われている。

 ファチマのマリア幼稚園
 昭和26年
ケベック外国宣教会により子どもクラブ設立。同28年年都の認可を得て「ファチマの
マリア幼稚園」として開園。同57年新園舎落成。創立30周年記念式典。

 ●桜
 敷地の桜(ソメイヨシノ)6本は見事で、一大景観をなす。外からの眺めも良い。
 


法照山即法寺(本尊阿弥陀如来)

 赤堤3丁目22番4号にある真宗大谷派の寺。常信坊法説が開基開山となり、寛永十五年(163
8)摂津国住吉郡平野庄(現在の大阪市平野区)に創建したという。太平洋戦争前後に現在地に移転
した。門は締め切ってあり、入るを頑なに拒んでいる。住宅街の中にあり、寺という雰囲気はないが
法事などはしばしば見受けられる。結構な繁昌寺だ。墓地はないが納骨堂がある。
 


長門裕之・南田洋子夫妻旧居跡
 赤堤3丁目27番17号号に住んでいた。長門は津川雅彦の兄。二人とも最盛期の日活のスター。
南田(北田→加藤洋子)は、平成21年10月21日死去、享年76歳。長門(加藤晁夫)は、平成
23年5月21日死去、77歳。


光林山持明院西福寺(本尊薬師如来)
 赤堤3丁目28番29号にある新義真言宗豊山派の寺。天正十二年(1584)服部頼母増裕が継
尊法印を開山としたと伝わる。正徳元年(1711)仁王門棟上。本尊不動明王修復。享和の頃(1
801~3)本堂・本尊・薬師堂の全てが祝融の禍に遭い、焼失してしまったので、文化元年(18
04)本堂を再建した際、
薬師堂にあって運よく難を逃れた薬師如来立像を本尊にした。
 区内最古の寺ということは、室町時代頃まで世田谷区の地域には殆ど人は住んでおらず、仏教の浸
透はなかったのか? 吉良さんはどうしてたんだろうね? 勝光院は建武二年(1335)だよ。
 明治22年松沢村成立の際、本堂の一部が仮役場となった。
 昭和53年9月阿弥陀一尊画像板碑が区の指定有形文化財となる。同56年本尊薬師如来像が区の
指定有形文化財になり、それを機会に修復。同59年弘法大師1150年遠忌・当山開創400年を
記念し、庫裏・客殿新築、付帯工事一式完了。欄間(焼失前のもの)修復。
 玉川八十八ヶ所霊場46番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   新義真言宗豊山派、光林山持明院という。
   天正十二年(1584)十二月、服部頼母増祐が継尊法印を開山としたと伝えられる。本
   堂には以前本尊不動明王の像を安置していたが、文化年間には、本堂、本尊、薬師堂とも
   に祝融の災に遭い焼失してしまったので、今は当時薬師堂にあった薬師如来の立像を本尊
   としている。現在の本堂は現住の7代前の住職が建てたもので、欄間の彫刻だけは焼失前
   のものであるという。
   入口には金剛密迹両力士(仁王尊)を安置した仁王門がある。この仁王尊は正徳元年(1
   711)他から移したもので、作者不明であるが、鎌倉時代の檜の寄木造といわれる。現
   在は全体に彩色がほどこしてあるが、木肌は人肌のように美しいという。
   仁王門の右手前に1m余の石碑がある。願主安藤忠蔵が宝暦九年(1759)に造建した
   もので、正面には「大師遍照金剛」とあり、側面には「右二番上北沢村密蔵院へ八丁余、
   左三十一番当村善性寺七丁余」とあり、寺院巡礼の道標をかねた区内では珍しい石碑であ
   る。山門を入って左手に、故伊賀守服部君墓碑銘と記した篆額の1m70cm程の墓碑が
   ある。服部伊賀守貞勝の事蹟をその子貞陽が文政七年(1824)七月に記して建てたも
   ので、侍講成島司直の撰文になり、戸川安恵が執筆したものである。貞勝は字を子一とい
   い祖先は孫数世の後、伊賀国服部郷に住して服部氏を氏としたという。貞勝は駿府奉行、
   松前奉行、長崎奉行等を歴任した江戸幕臣である。本堂裏の墓域中央には服部家一族の墓
   があり、貞勝ら40余名の墓碑を存している。
   この寺院には来迎板碑がある。区内におけるもっとも優秀な板碑といわれるもので、下方
   がかけているが、高さ68cm、巾33cmで、阿弥陀如来の像は完全に残り、うす肉彫
   と線彫をたくみに併用したもので、鎌倉時代の作であろうといわれている。明治初年には
   ここに寺子屋があった。「開学明細書」巻三には、家塾明細表 西福寺住職 松岡照山と
   記し、明治4年9月より12名の男女に筆学教授をしていると届け出ている。


 とある。

 寺子屋
 明治4年に開かれた。同10年頃、寺は無住となるので、それまでの間にあったのだろう。「開学
明細書」巻三には、

   塾明細表 西福寺住職 松岡照山

 と記し、明治4年末9月より12名の男女に筆学教授をしていると届け出ている。松岡は住職だ。
同15年松沢小学校の前身、松堤小学校が開学している。

 石柱門
 入口にある。

   右柱
 弘法大師生誕壹千貮百年記念
   左柱
 
真言宗光林山持明院西福寺

 仁王門
 西福寺通り側の入口から50mばかり入ったところに金剛密之迹両力士(仁王尊)を安置したそう
大きくない寺門がある。正徳元年(1711)に建てたられたが、火事で焼け、現在のものは昭和4
3年に再建したものとのこと。それで仁王尊は他から移したもので、作者不明だが、鎌倉時代の檜の
寄木造りといわれる。現在は全体に彩色を施してあるが、木肌は人肌のように美しい。


 本堂
 
桁行8間、梁間6.5間、寄棟造、銅板葺だ。旧は茅葺きだったが、明治36年に英国製の亜鉛鍍鉄
板葺に、さらに昭和35年6月には現在の銅板葺へと替えられた。明治10年から暫く無住となった
ことがある。間取は、方丈系6間取で、内陣、大間を中心にしてその左右に室中、脇間を付け前方に
広縁を設ける。現状では南北にそれぞれ内縁を回し、内陣、両室中の西側に収納部や書斎を増築して
いる。中央大間の欄間は、寺伝では享和年中の焼失を免れた古い本堂のものと伝えられ、天女や、菊
に流水をあしらった透彫で、枠を漆塗りとし彩色を施している。


 道標石碑
 仁王門の手前にある1m余の石柱。願主安藤忠蔵が、宝暦九年(1759)に造立したもので、正
面に「大師金剛遍照」とあり、側面に「右二番上北沢村密蔵院へ八丁余、左三十一番当村善性寺へ七
丁余」とあり、寺院巡礼の道標を兼ねた区内では珍しいもの。


 服部伊賀守貞勝の墓
 山門を入って左手にある1.7mほどの墓碑。「故伊賀守服部君墓碑銘」と記してある。 赤堤村の
領主貞勝の事蹟をその子貞陽が、文政七年(1824)に記して建てたもの。侍講成島司直の撰文に
なり、揮毫は戸川安恵だ。貞勝は字を子一といい、先祖は桓武平氏、貞盛の子孫数世の後、伊賀国服
部郷に住して服部を氏とした。つまり服部半蔵と同根なのだ。貞勝は駿府奉行、松前奉行、長崎奉行
などを歴任した優秀な江戸幕臣だ。

 旧領主服部家の墓所
 本堂裏の墓域中央にある。40基ばかりの墓石が並んでいる。山門を入って左手に、故伊賀守服部
君墓碑銘と記した篆額の1m70cm程の墓碑がある。服部伊賀守貞勝の事蹟をその子貞陽が文政七
年(1824)七月に記して建てたもので、侍講成島司直の撰文になり、戸川安恵が執筆したもの。
貞勝は字を子一といい、祖先は孫数世の後、伊賀国服部郷に住して服部氏を氏としたという。貞勝は
駿府奉行、松前奉行、長崎奉行等を歴任した江戸幕臣だ。


 
木造薬師如来立像(区指定有形文化財)
 檜の一材から頭体幹部を通して彫りだし、前後に割って内刳りを施した、割矧造(わりはぎづくり)
と呼ばれる造法になる。 像高98.1cm。彫眼。製作年代は平安時代末期から鎌倉時代初期と推定
される。昭和56年に行われた解体修理によって、ほぼ完好な姿に復し昔日の面影を偲ぶことができ
る。円満な面相や、下腹部から流れる衣文の彫法などに平安時代末頃の特色が認められるが、全体的
に見受けられる彫りの荒さや、胸から腹部にかかる膨らみに、地方作、あるいは時代の推移といった
ものが想像されて、年代判定にある程度の幅を必要とするところだそうだ。
 『新編武蔵風土記稿』に、享和年間(1801~03)の回禄以前に薬師堂の本尊だったことを記
している。それ以前の伝来については、大檀越たる服部氏が故地伊賀国より請来したとの伝承がある。

   世田谷区指定有形文化財(彫刻)
   
木造薬師如来立像
   所 在 地 赤堤3丁目28番29号 光林山持明院西福寺内
   所 有 者 赤堤3丁目28番29号 宗教法人 西福寺
   指   定 昭和56年4月22日
   材質・構造 檜材 
割矧造 彫眼 彩色 像高98、2cm
   制作 年代 平安時代末期~鎌倉時代
   銘 文 等 像内、像背面 像底部に墨書銘があり、それらによって当寺
第六世法印宥賢
         の代(元禄頃か?)に修理のなされていることがわかる。
   当寺本尊、昭和56年に行われた解体修理により、ほぼ造立当初の姿に復された。穏やか
   な面相や、下腹部から流れる淺い彫りの繊細な衣文表現などに平安時代末頃の特徴が認め
   られるが、胸から腹部にかけての張りのある膨らみには、次代の息吹も感じられる。
   『新編武蔵風土記稿』などの資料によれば、本像はもと当寺にあった薬師堂の本尊として
 、 祀られていたが、享和年間(1801~03)の本堂罹災時(薬師堂もこの時焼失したと
   いう)に旧本尊の不動明王がせ焼失したため薬師堂にあった本像を本堂に移し、以後本寺
   本尊としたという。なお本尊の伝来について、寺伝では高野山から移されたものというが
   当寺の大檀越である服部氏が故地伊賀国より請求したとの伝承もある。
   全体的に彫りの荒さが見受けられるなど、地方色が看取される偉容ながら、随所に時代的
   特徴をよくとどめており、区内に伝わる数少ない古像の一つとして貴重な作例である。

   平成13年7月                        世田谷区教育委員会


 阿弥陀一尊画像板碑(区指定有形文化財)
 区内に画像板碑が4基現存するが、その中でも薄肉彫りと線刻を巧みに併用したもので、最も優秀な
板碑といわれている。現在蓮台以下を欠損していて正確な造立年代を知ることが出来ないが、鎌倉時
代の作だろうと予測されている。阿弥陀如来像の衣文の一部に漆箔の跡が見え、元は全体が金箔に覆
われていたいたものと思われるとか。 高さ72.2cm×幅35cm×厚さ3cm。

 来迎板碑
 区内におけるもっとも優秀な板碑といわれるもので、下方が欠けているが、高さ68cm、巾33
cmで、阿弥陀如来の像は完全に残り、薄肉彫と線彫を巧みに併用したもので、鎌倉時代の作であろ
うといわれている。


 サルスベリ(百日紅)
 百日紅。世田谷区名木百選の1。樹高10m。目通り幹周1m30cm。枝張り10m。中国南部
原産のミソハギ科の落葉中高木。種子から栽培する「あすか」という一才物の矮性種もある。8月頃
咲く紅の濃淡または白色の花が美しく、耐病性もあり、必要以上に大きくならないため、しばしば好
んで庭や公園などに植えられる。葉は通常2対互生(コクサギ型葉序)、対生になることもある。花
は円錐花序になり、萼(がく)は筒状で6裂、花弁は6枚で縮れている。果実は円い蒴果で種子には
翼がある。サルスベリの名は幹の肥大成長に伴って古い樹皮のコルク層が剥がれ落ち、新しいすべす
べした感触の樹皮が表面に現れて更新して行くことによる。(樹皮の更新様式や感触の似たナツツバ
キやリョウブをサルスベリと呼ぶ地方もある)。つまり猿が登ろうとしても滑ってしまうということ
で「猿滑」と表記することもあるが、実際は猿は滑ることなく簡単に上がってしまう。また比較的長
い間、百日ほども紅色の花が咲いていることから「百日紅」。江蘇省徐州市、湖北省襄陽市、四川省
自貢市、台湾基隆市などでは市花とされている。


 
サワラ
 椹。世田谷区名木百選の1。樹高20m。目通り幹周2m。枝張り13m。
 ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹。日本特産種で、岩手県から九州各地にかけての山地に自生する。樹高
は通常30〜40m、大きいものでは約50mになる。国内最大のサワラは、福島県いわき市にある
国の天然記念物「沢尻の大ヒノキ(サワラ)」で、天然記念物としての指定名称からもサワラとヒノ
キが似ていることが分かる。主幹形であり外見はヒノキによく似るが、枝はヒノキほど茂らず、枝と
枝の間隔が広くなるため、遠くからでも幹がよく目立つ。ヒノキのように鱗片状の小さな葉をつける
が、1枚1枚の先端が尖っているため、ヒノキとの区別は容易だ。ヒノキよりも成長が早いが、木材
は柔らかいためヒノキのように柱などとしてはあまり用いられない。水湿に強く、ヒノキやアスナロ
のような臭いがないので、飯櫃、柄杓、桶などによく用いられる。木曽五木の1つで、殺菌作用があ
るため、松茸など食品の下の敷物としてもよく使われる。

 スイリュウヒバ
 世田谷区名木百選の1。垂柳檜葉。名前は枝の様子をシダレヤナギに例えたもの。別名を「イトヒ
バ」という。樹高17m。目通り幹周1m50cm。枝張り4m50cm。
 ヒノキ科ヒノキ属の常緑高木。ヒノキの園芸変種で。枝や葉が、まるで紐のように垂れ下がり、優
しい雰囲気の樹形を示す庭木として我国では好まれている。


■牛魂碑
四谷軒牧場跡 ◇
 赤堤3丁目31番1号のパークハイム赤堤の駐車場入口前脇にある、高さ143cm×幅270c
mもの大きな石碑だ。牧場が、初台を経て四谷から移転してきたのは昭和5年。土地の人は「経堂牧
場」と俗称した。13000㎡の敷地に約120頭の乳牛を擁し、当時の環境は田や畑、農家の屋敷
林、雑木林に原っぱといった純然たる農村そのものだった。当時の路線バスの写真があるが、田園風
景の中を走っている。小田急線の開通、経堂駅の開設は昭和2年だから、もう経堂の宅地化が始まり
つつある時代だった。同35年頃に赤堤通りが経堂赤堤通団地南側まで開通し、牧場が分断され、や
がて宅地化が進み、住宅街の中に取り残され、臭気、鳴き声への苦情も重なり、終に同60年閉鎖し
た。最盛期には400頭も飼育したとか。廃場後、一時、「MOW」など焼肉レストランも運営して
いたが、今は、その名残は全くなく、牛魂碑だけが残るのみだ。その碑も、当初はファミレス「ジョ
ナサン」前、赤堤通りに面して建てられていたが、パークハイム赤堤を建てる際に奥まった現在地に
移された。
 四谷軒の名は牛乳のブランドとして老舗だったようで、今でも杉並区には、明治牛乳宅配センター
四谷軒(下井草)、(有)四谷軒乳業(高円寺)と四谷軒の名を冠した牛乳関係の事業所が残る。下
井草の四谷軒には牧場もあったというので、経堂の四谷軒とは、親戚或いは暖簾分けしたものか?
 碑裏に、

   四谷軒牧場由来ノ記
   四谷軒牧場ハ、明治初年越前国福井県出身ノ佐々倉伝吾ト弟仁太郎ガ東京四谷麹町ニ開イ
   タ牧場兼牛乳店「牛乳搾取所」ヲ以テソノ始メトスル。乳牛ヲ飼育シ、新鮮ナル牛乳ヲ供
   スル。コノ経営ハ、ヤガテ都市化ノ波トノ闘イノ命運ヲ既ニ持ツコトトナッタ。カクテ二
   代目弥之吉ハ杉並井草ニ新天地ヲ求メ、初代伝吾ノ甥清二・良治ハ共に協力シテ、大正初
   期、代々木初台ニテコノ経営ヲ継いだ。
   良治ハ、艱難辛苦、その斯業ノ発展ニ努メルトトモニ、斯業ヲ通シテ社会ニ役立ツコトヲ
   思イ、昭和五年勇躍、牧場ヲコノ地ニ移転シタ。コノ世田谷ノ四谷軒牧場ハ、一時ハ面積
   13000平方米、飼育スル乳牛120頭ヲ擁シ、併セテ学術研究、畜産技術教育ノ場ト
   シテ利用サレ、急速ナ都市化ノ中デ、自然ヲ求メル人ビトノ憩ノ場トシテ朝夕親シマレテ
   キタ。シカシ大都市ニ残ル最後ノ四谷軒牧場モ、時ノ流レニ抗シエズ、開牧ノ願イヲ他ニ
   求メ、昭和60年1月20日惜シマレツツ、ソノ幕ヲ閉じた。
                              四谷軒牧場主 佐々倉俊雄
    昭和60年8月7日建之

                               
赤堤4丁目
                               
施工 久保田石材技術店
                               
石匠 久保田八郎

 とある。ということは井草が本家で、経堂は分家ということだ。井草は妙正寺川に牧場があったよ
うだが、場所はちょっと判らない。杉並区下井草2‐5‐9の「明治牛乳宅配センター四谷軒」が本
家のその後だそうだ。
 ところで、伝吾は上京して直ぐに牛を飼い始めたのではない、最初はパン屋、といっても駄菓子屋
を始めた。そして麹町3丁目で牛を飼って牛乳を売っていた阪川牛乳店を見て、「これは面白い」と
乳牛2頭を買って「牛乳搾取所」を始めたという次第だ。
 その「阪川牛乳店」は赤坂に開き、麹町3丁目に移り、都市化の波に押され幡ヶ谷に移り、そして
上祖師谷に移ってきた。その場所は、府中に移転した名糖産業東京支店のあったところ、安穏寺の北
現在の上祖師谷2‐2‐15「パークホームズ千歳烏山ガーデンコースト」で、「坂川養牛場」と称
えたようだ。昭和22年の航空写真では、一面の畑であり、戦前には立ち退いたようだ。


■赤堤保育園

 赤堤4丁目1番10号にある区立園。


■赤松公園

 赤堤4丁目10番1号にある区立公園。昭和16年に開園され、線路沿いに並ぶ紅葉葉楓(モミジ
バフウ)の大木が目を引く。草野球場を設けるほか、遊具設備も比較的充実しており、昼間は常に子
供の遊ぶ姿が絶えない。春には桜が見事に咲き乱れ、横を通り過ぎる世田谷線と、園内に通された水
辺などを見ながらの花見が楽しめる、隠れた花見スポットになっている。また世田谷線を絡めてドラ
マや映画の収録撮影などでもよく使用されている。名前は「
原」からきている。

 モミジバフウ
 世田谷区名木百選の1。北米中南部~中米原産の落葉高木。我が国には大正時代に移入された。街
路樹として、或いは公園樹として植えられ,秋に紅紫色に紅葉する葉が美しい。別種でフウ(楓)と
いうのがありますがモミジバフウの方が木、葉共に大柄。
 「楓」という字を「かえで」と読みがちだが、フウもモミジバフウもマンサク科であり、イロハモ
ミジ(いろは紅葉)、イタヤカエデ(板屋楓)などはカエデ科に属す。
 


■東京カベナント教会
 赤堤4丁目27番14号にあるプロテスタントのキリスト教会。北欧の敬虔主義的な自由教会運動
がルーツだ。スウェーデンの国教会の堕落に対して起こったリバイバルの中で、19世紀末にカベナ
ント教会が結成された。全世界に福音を宣べ伝えよという主の命令に答えて、聖なるカベナント(契
約)を結んだところからこの名前がある。昭和24年アメリカ・カベナント教会が東京、神奈川、群
馬、新潟に伝道を開始
。当初は日本カベナント教会と呼ばれていた。同25年現在教会がある赤堤で
土屋顕一牧師(当時67歳)が開拓伝道開始。当初は牧師夫妻の自宅の6畳2間からのスタートだっ
たが、同32年に最初の平屋建ての会堂落成。同35年に土屋順一師が協力牧師に就任。同39年綾
子師と結婚。同44年に主任牧師に就任。同46年第二会堂落成。同52年近所の母親の厚い要望と
神からの使命を受けとめ「小羊園」を開園。卒園児や園児の家族に信仰が生まれる。
 平成9年現在の「第三会堂」が完成し、福祉作業所「のぞみ園」が誕生した。同18年グループホ
ーム「ホープ三軒茶屋」開設。

 
子羊園
 幼稚園。昭和52年開園。心の教育を重視。何事にも感謝する心、そして相手を思いやる心、嬉し
いことを素直に喜べる心・・・そんな心のあり方を最も大切にしている。行動は心が支える。幼児期
にこそ相手の立場に立って思いやる心を育てていく。「ありがとう」と「ごめんなさい」が素直にい
える・・・そんな幼児期の宝物を大事にして教育する。

 のぞみ園
 福祉作業所。平成9年開園。知的ハンディキャップ、精神的ハンディキャップのある従業員が、真
心を込めて、またプロとしての技術と誇りを持って菓子を製造販売している。平成9年に開設されて
以来、多くの人の理解と協力に支えられてきた。企業や官公庁に販売の場所を提供して貰い、社会交
流や生活自立支援の機会を与えて貰っている。同12年北海道蘭越自立訓練センター落成し、年に一
度宿泊している。同13年から事業の一環として、訓練センターで生産された無農薬野菜を販売して
いる。
同14年NHK教育テレビ「にんげんゆうゆう」で特集放映される。NHK総合テレビ「にん
げんドキュメント」で特集放映される。同18年中学校公民教科書(教育出版)に取り上げられる。
日本テレビ「バンキシャ」で放映される。

 グループホーム三軒茶屋
 平成18年落成。 


■松沢小学校
 赤堤4丁目
44番22号にある。明治5年9月太子堂郷学所から分離し郷学所(榎本学校)設立。
同12年「北沢学校」と改称。同13年別に「松生学校」設立。同16年合体して赤堤村・松原村の
「松堤小学校」として開校。同20年11月松原村・赤堤村・上北沢村の3ヶ村で、松堤学校と北沢
学校とを統合し「松沢小学校」を創立。同22年前記3村で松沢村開村。同23年尋常科4年の「東
京府荏原郡松沢村立松沢尋常小学校」と改称。同34年高等科を併設し「東京府荏原郡松沢尋常高等
小学校」と改称。同41年尋常科6年とし高等科廃止して「東京府荏原郡松沢尋常小学校」と改称。
同42年現在地に移転。同43年7月高等科を復活し「東京府荏原郡松沢尋常高等小学校」と戻称。
 大正9年東京府豊島師範学校付属農業補習学校を併設。同15年松沢村青年訓練所を併設。
 昭和2年(同9年とも)上北沢分教場・松原分教場開設。同7年荏原郡が東京市に併呑され世田谷
区成立して「東京府東京市松沢尋常高等学校」と改称。同10年松原分教場独立、同13年豊島師範
学校付属農業補習学校分離、東京府女子青年学校併設。同14年上北沢分教場独立、同15年高等科
を梅丘小学校に移し、「東京府東京市松原尋常小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令に
より「東京府東京市松沢国民学校」と改称。12月日米戦争開戦。同18年都制施行により「東京都
松沢国民学校」と改称。同19年新潟県刈羽郡高柳村に学童集団疎開。同20年高柳村より新潟県岩
船町と新納村に分散疎開。終戦により引揚げ。
 同22年戦勝国アメリカの強制による地方自治法・学校教育法施行により六三制実施。これにより
「東京都世田谷区立松沢小学校」と改称、世田谷区立松沢中学校を併設。同23年松沢中学校新築移
転。同26年創立65周年記念式典・校歌制定。

 
校歌
「正しく踏んでいく道は」 作詞・土岐善麿  作曲・平井康三郎
  1.正しく踏んで行く道は
    広い世界に続く道
    明るい空を仰ぐ時
    富士が見えるよ 薄霞
    春は桜の咲く上に
  2.初夏風は爽やかに
    楠の若葉が翻る
    互いに強く励み合い
    何時も親しく交われば
    秋の紅葉も日に光る
  3.力を合わせ新しく
    築く文化は健やかに
    雪々降れや 冬も猶
    緑鮮やか 皆挙る
    吾等 松沢小学校

 同28年赤堤小学校の新設により学区域一部変更。同29年くすのき学級(特殊学級)設置。同36
年度鉄筋校舎工事開始 玄関モザイクタイル壁画完成。同51年第二運動場買収。同52年創立90
周年記念式典。正門左右卒業記念壁画作成。同53年日本水泳連盟より学童水泳優秀校表彰。全校花
づくり開始(創活)。同62年創立百周年記念式典。壁画・記念植樹(ヒトツバダコ)。百周年記念室設
置。平成7年百周年記念室移設工事、プール床・壁面改修工事。同8年西側万年壁改修工事(フェン
スに取り替え)。ティームティーチング開始。機械警備開始。同9年創立110周年記念式典。同1
9年創立120周年(式典は2年後の新校舎落成式と合わせて行う)。同19~20年校舎全面建替
え。同21年新校舎落成式・創立120周年記念式典。
 


■庚申塔 ◇
 赤堤5丁目9番1号の追分にある。この追分以南の道は区画整理によって失われているが、赤堤3
丁目12番21号の菓子舗「たちばな」赤堤店の前へ通じていた。道標の役割を果たしていたものと
思う。


■松沢村役場跡 ◇
 赤堤5丁目9番にあった。しかし何でこんな場所に役場を持ってきたのかねえ。街道からも、鉄道
からも随分遠いよ。現在は建売住宅が密集していて区の施設はない。


■子育地蔵 ◇
 赤堤5丁目13番16号の岩田家の前にある。露仏だと思ったが、立派な御堂に安置してある。
 


■赤堤けやき公園
 赤堤5丁目22番9号にある区立公園。


■たつみや
 赤堤5丁目31番1号、下高井戸駅前日大通りにあるたい焼き屋。行列のできる人気店で、世田谷
土産に認定されている。尻尾まで餡がぎっしりと評判で、テレビ朝日『ゆうゆう散歩』で加山雄三が
やってきて、「これはうまい」と絶賛。餡はおばあちゃんの自家製。
 火曜日と7月~9月上旬がお休み。
 


■「お散歩」 ◇

 赤堤5丁目31番5号松沢まちづくりセンターの噴水池の側に在る銅像。岩田健作の母子像。


■ミルクホール石川
 赤堤5丁目34番11号、日大通りの都立松原高校東南角の十字路から北に10mばかり行った角
地にある。ミルクホールとは、喫茶店を意味する大正時代の造語だ。ミルクや珈琲や軽食を出してい
たからそういったようだ。ここは喫茶店というよりは「かき氷屋」で、軽食屋でもある。実はここは
歌手渡辺美里の巡礼地。彼女は直ぐ西側にある松原高校の出身なのだ。日大ラグビー部の溜まり場で
もあるようで、壁には写真や記念品が所狭しと飾られている。この店で一番高いメニューがNHK的
には放送禁止用語の
ニグロ。かき氷の中にあんずやみかんや小豆が入っていて350円。焼そばやお
茶漬けよりも高い。名前の所為か結構有名で、テレビや雑誌にしばしば取り上げられている。「途中
下車の旅」や「チイ散歩」もやってきた。そんな凄い店じゃないし、一昔前の雰囲気が受けるのだろ
う。近くにあった日大生向けの「富士食堂」は閉店してしまった。
 


■ピーエスインダストリー(鑑識専門)
 赤堤5丁目35番4号にある警察鑑識機器製造販売会社。昭和22年株式会社ピー・エス・インダ
ストリー設立。代表取締役清水建司。鑑識機器の本格生産・販売開始。同30年社内に輸出部門を設
置し海外の警察機関に対する販売開始。同41年社屋を増改築。生産設備を拡充。同53年鑑識機器
の開発研究の功により清水建司が黄綬褒章を授賞。同59年輸入業務を開始。海外の製品取扱いに着
手。同62年コンピュータ部門を設置。
 平成9年設立50周年。同12年海上保安庁より感謝状。同19年設立60周年。

 取扱商品
 指紋用ゼラチン紙・足跡用ゼラチン紙・リフター・指紋検出試薬・ポリグラフ・麻薬予試験試薬・
法医機具・押捺器材・光学機器・拳銃保管庫・計測機器・照明器具・鑑定機器・斜光線・書籍・キャ
ビネット,その他鑑識器材全般。

 得意先
 警察庁・警視庁・各道府県警察本部・防衛省(陸海空自衛隊)・海上保安庁,
 Lafayette Instrument co.(米国)他 
 
 



【池尻】(いけじり)1~4丁目                    昭和40年9月15日
 池尻村。「いけしり」ともいい「池ノ尻」とも書いた。明暦の頃(1655~1657)池沢村
を分村。ともに
天領。明治12年合併して池尻村。同22年「市制町村制」により世田谷村大字池
尻。大正12年世田谷町大字池尻、昭和7年世田谷区池尻町。同40年新住居表示により池尻町の
大部分に下代田町・三宿町・下馬町1丁目の各一部を併せた町域を現行の「池尻」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『世田谷区史』『世田谷の地名』など。

 
池尻の由来
 むかし多聞小学校の東の山下で北沢川と烏山川が合流し沼沢地帯を形成し、蛇池とも龍池とも呼
ばれていた。大橋を頂点とした人の字形をした長大な水溜りだ。下北沢村に字池ノ上があり隣村は
池沢村だった。蛇池・龍池・辰池は細長い水溜りをいう。池尻の〝尻〟は出口のことで、池や沼・
湖が川に落ちるところをいう。湖尻や野尻・塩尻が知られている。目黒川の大橋の付近が狭くその
ため西側に川水が溜まって大池になったようだ。しかしその狭隘部は崩れたか崩されたかしてなく
なり、幕末の頃から徐々に干上がっていった。明治になって町が陸軍騎兵隊・砲兵隊・輜重隊等の
戍衛地となり、玉川電車が開通すると次第に市街地化し、あちこち住宅が建ち始める頃の池の跡は
蒟蒻状態で地面が緩く建築に難渋したという。だから池尻は大橋の西側だ。

 池尻村の女(『耳嚢』にある話)
 私(筆者)が評定所に勤めていた折、同役に大竹栄蔵という者がおりました。この栄蔵から聞い
た話なのですが、栄蔵の親の代のこと、ある日突然、家の天井裏で大きな音がしたかと思うと、行
灯の火が空中に飛んだり、茶椀や石臼が家の中を勝手に動き回るという怪異があったそうです。こ
れを聞いた一人の老人が、もしや池尻村の女を雇ってないかというのです。そこで召使の女たちに
尋ねると、池尻の者だというのが一人いましたので、直ぐに暇ょやりましたところ、忽ち怪異は止
みました。老人がいうには、池尻村の氏神は殊の外氏子を可愛がり、村の娘が奉公先で不幸なこと
に遭おうものなら、忽ち怪異を起こすというのです。身内の誰とやらが、その池尻村の娘に怪しか
らんことをしたのやもしれませぬ。
 
 


■青鳥養護学校 → 青鳥特別支援学校

 池尻1丁目1番4号にある都立校。昭和22年文部省教育研修所(国立教育研修所)内に品川区立
大崎中学校の分教場として開校。同25年都に移管「東京都立青鳥中学校」と改称。同26年梅丘の
光明養護学校内に独立校舎を建て移転。同29年埼玉職業実修所開設。同32年「東京都立青鳥養護
学校」と改称。高等部設置。下馬1丁目5番地(現在地)に移転。埼玉職業実修所高等部合併。創立
10周年記念式典。秩父宮妃殿下台臨。同33年高等部校舎並びに寄宿舎完成。同35年体育館完成
。同37年創立15年記念式典。同40年住居表示変更。同42年8教室増築。同47年梅丘分教室
開設。同49年港分校、杉並分校設置。同50年12教室寄宿舎増改築竣工。同51年給食室・食堂
増改築。室内プール完成。同53年杉並分校→中野養護学校となる。同54年創立30周年記念式典
。同57年港分校→港養護学校となる。同62年創立40周年記念式典。
 平成4年久我山分校。同9年創立50周年記念式典。同19年寄宿舎閉舎。同20年創立60周年
記念式典。梅丘分教室→久留米養護学校府中分教室に併合。久我山分校→久我山青光学園となる。同
26年屋上緑化。
 

 
■陸軍駒沢練兵場

 池尻1丁目・2丁目1~7番・太子堂1丁目・下馬2丁目・目黒区東山2丁目に亘るところにあっ
た。現在の昭和女子大学・都営下馬アパート団地・世田谷公園・三宿病院・青鳥養護学校・自衛隊用
地(三宿駐屯地・中央病院・東山宿舎)・池尻小学校・都営住宅・公務員住宅団地・目黒区立東山小
学校・同東山中学校などがある一帯だ。明治30年軍拡により兵舎と練兵場不足が生じ、駒場野練兵
場の南の広大な農地が僅かの金で収用され、終戦まで陸軍によって管理運営された。明治の初め頃に
は、旧大名屋敷が兵営に充てられていたが、明治6年に徴兵令が敷かれて以後、兵員が増えたことも
あって、兵営は郊外へ移転を始め、新しい兵営も続々と建てられた。その適地として目をつけられた
土地の一つが駒場野だ。陸軍用地として買収の話が持ち上がった時、幕末の駒場野一揆のような動き
は起きなかった。寧ろ招致運動さえあったという。何の補償も示されなかった幕末の時と違い、今度
は幾ばくかの土地代金が与えられたし、買い上げられた土地の用途は、増強に増強を続ける帝国陸軍
の用地である。軍事施設が出来ることによる地元発展への期待が、人びとの中にあったのかもしれな
い。最初に現れた軍事施設は、明治24年に移転してきた騎兵第一大隊(のち聯隊)の兵営だった。
翌年にはその東に、新しく創設された近衛輜重兵(しちょうへい)大隊第一中隊(のち大隊)が兵営
を築いた。輜重兵とは、弾薬や食糧の輸送を任務とする兵隊である。これらの兵営の北、駒場野の一
角に駒場練兵場が置かれた。明治30年駒場野の南に置かれた駒沢練兵場は現在でいうと南北は国土
地理院跡から三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校にまで及ぶ広大なものだった。その後、駒
沢練兵場の西側一帯に、野砲兵第一聯隊営、近衛野砲聯隊営、砲兵旅団司令部、野戦重砲兵第八聯隊
営が続々と建てられた。駒沢練兵場で訓練を受けたのは、主にこれらの兵隊だった。
 


■自衛隊中央病院

 池尻1丁目2番24号にある陸海空3自衛隊の共同機関としての国立病院。指揮系統上は陸上幕僚
長の指揮監督を受ける。
自衛隊の機関としての病院は、他に地区病院が15院設置されている。中央
病院では傷病者の治療のみならず、地区病院では実施していない衛生要員(看護学生、診療放射線技
師)の養成、防衛医科大学校と連携した医師臨床研修を行っている。但し臨床研修の対象は、自衛官
(防衛官)採用者に限定。総合病院に匹敵する診療科を具える病院だが、有事に負傷者を収容するこ
とを前提としているため、常に一定の空きベッドを確保し運営している。
 昭和30年11月陸・海・航空3自衛隊の共同の機関として、自衛隊中央病院を設置。
 同31年3月現在地に開設。
 平成21年1月新病院舎が完成した。地上階は2倍の10階建て地下2階、延べ床面積は約2倍半
になり、屋上には緊急輸送のためのヘリポートを備え付けている。地震対策として免震構造を採用し
緊急時には平時の2倍1000床の増床が可能となり、4月3日から新病院舎での外来診療を開始し
ている。
 

 
高等看護学院

 自衛隊中央病院内にある国立校。看護師たる陸上自衛官を養成する機関。学生は入学と同時に自衛
官としての身分(非任期制隊員たる2等陸士)が与えられ、特別職国家公務員として給与が支給され
る。自衛隊の養成機関であるため、入学金、授業料等は不要だ。金を貰って技術が取得できる天国の
ようなところだ。国としては金を払っても必要な人材なのだ。
  看護学生
 看護業務に携わる陸上自衛官を養成するためのコース。採用されると二等陸士(二等兵)に任用さ
れると共に自衛隊中央病院高等看護学院に入校し3年間の教育を受ける。採用から約1年後一等陸士
(一等兵)、2年後陸士長(兵長)に昇進。3年次の2月には看護師国家試験を受験し、合格すると
卒業と同時に二等陸曹(軍曹)に、不合格者は三等陸曹(伍長)に昇進し、全国にある自衛隊病院の
何れかに勤務する。以前は女性のみの募集だが現在は男女共学となっている。


 診療放射線技師養成所
 自衛隊中央病院内にある国立養成所。診療放射線技師選抜試験(技術陸曹)合格者に対し、診療放
射線技師として必要な知識・技能を修得させる。修業年限は3年。3年次に診療放射線技師国家試験
を受験。卒業時に二等陸曹(軍曹)に任用され、陸上自衛隊の衛星科部隊及び自衛隊病院、駐屯地業
務隊(医務室)に勤務する。
 

 
■陸上自衛隊三宿駐屯地
 池尻1丁目2番24号にある。防衛省技術研究本部電子装備研究所(旧第二研究所)と陸上自衛隊が
共同使用。衛生学校・衛生教導隊・部隊医学実験隊等、衛生関係の機関が集中、他に第316基地通
信中隊三宿派遣隊・第126地区警務隊三宿派遣隊が駐箚している。駐屯地指令は衛生学校長兼務。

 ●初の託児所
 平成19年4月2日自衛隊で初となるモデル託児所が開所された。託児所は、延べ435㎡で、運
営は民間に委託される。三宿駐屯地は、衛生関係の機関が集中しており、女性自衛官等の人数が多い
ことから選ばれた。
 


■世田谷公園
(せたがや百景 No.1)

 池尻1丁目5番にある区立公園。陸軍駒沢練兵場だったところの跡地利用だ。国有地の無償貸付。
かつて国鉄で活躍した蒸気機関車(SL)D51-272号を保存展示してある。同公園は総面積7
9000㎡、太平洋戦争までは軍用地だったが、戦後都が管理、昭和40年から区に移管された。区
は4年の歳月と3億6000万円の費用をかけて造成し、現在の世田谷公園の原型となった。現在は
広大な緑地の中央広場の噴水を挟んで、北側に各種スポーツ施設を併設する。とりわけ人気が高いの
が、本物の5分の1に作られたミニSL「チビくろ号」だ。これが大変な人気を博し、土・日、祝日
や学校の休みに合わせ
、子供たちを乗せ、煙を吐いて走ってる。
公園の設置理念は、

   緑と太陽の文化都市世田谷区にふさわしく全体として調和のとれた風景園の感じで、あら
   ゆる年齢層の運動と休養に利用できる総合的な公園


 らしい。公園周辺の雰囲気もいいせいか、開放感あふれる噴水広場があるせいか、明るい雰囲気の
公園であり、また一面に人工芝が貼られたグラウンドを含めて、公園内には人造部分が多いので、蓋
し都会的雰囲気を醸す公園となっている。園内は開放感のある大きな噴水がある広場を中心に都会っ
ぽく縦長の構造をしている。どちらかというと施設が多く、芝生などよりも舗装された部分の多いタ
イプの近代公園だ。高級住宅地世田谷のイメージにはぴったりの場所かも

 提供されている施設は、野球場、プール、テニスコート、洋弓場、交通児童公園、タイムカプセル
の丘、
SL広場、遊具広場、プレイパークが設置されている。駐車場は30分100円。車いす用ト
イレ。車いす用駐車場がある。


 タイムカプセルの丘
 園内の小高い丘には、昭和57年区制50周年を記念して、子ども達から50年後(平成44年=
2032)の子どもたちへのメッセージなどを入れたカプセルが埋められている。


 平和の灯
 噴水の横にある。昭和60年8月15日平和都市宣言5周年を記念して建てられたもの。区内在住
の彫刻家向井良吉が製作した。平和の灯は広島の「平和の灯」と長崎の「誓いの火」を分けて貰い、
その他平和を願う区民や団体の火と合わせて点火されたものだ。

 被爆二世の木
 平成4年、児童文学作家故大川悦生より寄贈されたもので、同7年に植樹したアオギリと柿の木。
アオギリは、昭和20年8月6日、広島市に原爆が投下されたときに被爆した木の、また柿の木は、
昭和20年8月9日、長崎市に原爆が投下された時に被爆した木の二世だ。

 
「平和の祈り」 ◇
 女性の立像。高さ1m50cmの銅像。佐藤助雄の作品。平和都市宣言を記念し、国際平和年に当
たる昭和61年12月に平和を願う区民からの寄付を元に設置した。

 世界平和の塔
 昭和60年世田谷区が核兵器の廃絶と世界に平和の輪を広げていくことを誓った「平和都市宣言」
を記念して建てられた。

 
平和資料館「せたがや未来の平和館」
 玉川小学校にあった平和資料館を、平成25年6月30日閉館し、弦巻の教育センターへ一時保管
し、同27年8月15日戦後70年、平和都市宣言30周年を期して発展的に拡大し、園内に新築開
館。

 「悦びの泉」
 噴水広場の噴水彫刻。昭和58年3月設置。ジョージ蔦川の作品。

 
プレーパーク
 公園での自由な遊びをめざして区と地域の人たちとプレーリーダーとの協力で運営されている。こ
この遊具は区で作ったものではない。子供の欲求に応じてプレーリーダーやボランティアの人たちの
手で作られているので安全点検にはみんなの協力が必要だ。子どもが公園で自由に遊ぶためには「事
故は自分の責任」という考えが根本。そうしないと禁止項目ばかりが多くなり、楽しい遊びができな
いという発想だ。モットーは「自分の責任で自由に遊ぶ」。みんなの協力で楽しい遊び場を作ろう
ね。
 


永田町瓢亭
 池尻1丁目10番8号にある小料理屋。南禅寺瓢亭に生まれた店主の祖父が、大正時代に分店とし
て神田万世橋に開業。昭和3年永田町に移転、平成20年現在地に移転。瓢亭と聞くと敷居が高そう
だが、移転を機に気軽な趣となった。昼夜ともに弁当の用意もあるが、代々受け継がれてきた懐石料
理がお勧め。失敗が成功を生んだ。あまりにも有名な瓢亭玉子はどの献立にも出る。刺身は魚の種類
や季節に応じて湯引きやへぎ造りにするなど、伝統の技を守っている。奥には椅子席の空間、3階に
は個室がある。
 11時半~14時半・17時半~22時 定休:8月中旬、年末年始 03‐5779‐7477

 ミシュラン落ち 
 『2012』『2013』と2年連続で星1つを取ったが、『2014』で消えた。
 


■池尻保育園

 池尻2丁目3番11号区立せたがやがやがや館1階にある。


■世田谷市民大学・世田谷生涯大学

 池尻2丁目3番11号区立せたがやがやがや館4階にある。昭和56年に区が設立した、区民だれ
もが参加できる区民のための学習施設。政治・社会・経済・人間に関連した幅広いテーマや地域社会
に密着した問題を取り上げ、市民自治の担い手に必要な現代社会の諸問題に対する確かなものの見方
を培うよう、講師陣が時間をかけて丁寧に系統的な講義・ゼミナールを行うレベルの高い講座。曜日
ごとに「政治」「社会」「経済」「人間」の4つのコースがあり、それぞれ「ゼミナール」と「昼間
講座」で構成している。また少人数特別講座、土曜講座、世田谷市民サマーフォーラム、公開講座が
あり、これらの中から選択して学習する。
 生涯大学は、高齢者が「見知らぬ自分」の発見と自己啓発を通して、それぞれが新しい人生(ライ
フスタイル)を創造し、そこで習得した知識と経験を生かして、自主的に社会活動を行うための拠点
だ。60歳以上で、学習意欲があり2年間、「学習」と「健康体育」の両方に出席できる人。定員毎
年30人。 03‐3412‐3071
 


■池尻小学校

 池尻2丁目4番10号にある区立校。昭和30年「東京都世田谷区立池尻小学校」として開校、校
舎が間に合わないため、三宿・駒繋小両校に分かれて授業。11月一期工事完了して全校生徒登校。
同34年校歌制定。

 校歌
「明るい光に」 作詞・坂口淳  作曲・山本三郎
  1.明るい光にすくすくと
    伸びる吾等は若い木だ
    富士を遥かに眺めつつ
    優しく互いに励まして
    学ぶ日毎の楽しさよ
  2.大きな希望に膨らんだ
    胸を張ろうよ元気良く
    窓を開けば青い空
    次の世代をこの肩で
    担う力が沸き上がる
  3.素直な心 嵐にも
    負けぬ体を鍛えよう
    常に正しく前を見て
    通うこの道 日は新た
    栄えあれ桜の学章に
    池尻小学校


 同36年音楽コンクール合奏の部で文部大臣賞初受賞。プール完成。同38年全国教育美術版画展
で文部大臣賞初受賞。音楽コンクール合奏の部で文部大臣賞2回目受賞。同39年全国教育美術版画
展で文部大臣賞2回目受賞。こども音楽コンクール合奏の部で文部大臣賞3回目受賞。NHK全国音
楽コンクール器楽合奏の部全国初優勝。同40年全国教育美術版画展で最優秀賞受賞。創立10周年
記念式典。NHK全国音楽コンクール器楽合奏の部2連覇。同41年NHK全国音楽コンクール器楽
合奏の部3連覇。同43年全国教育美術展で文部大臣賞3回目受賞。同44年TBS音楽コンクール
で優秀賞受賞。同50年第1次校舎改築完成。同51年第2次校舎改築完成。創立20周年と新校舎
竣工記念式典。同53年第3次校舎改築完成。同56年55年度卒業記念の池が完成。同60年創立
30周年記念式典。
 平成5年体育館・プール完成。同7年創立40周年記念式典。同8年PTAの活動に対して警視総
監賞受賞。同9年ボランティア活動始める。同13年ランチルーム完成。同16年隣接の池尻中学校
廃校に伴い同校体育館を第二体育館とする。同17年創立50周年記念式典。

 
「母と子-Mother and Child」
 南面(公園側)にある壁画。メキシコを題材にした作品を多く残した美術家利根山光人による原画
・監修。
 


■池尻中学校
 廃校
 池尻2丁目4番5号にあった区立校。平成16年廃校となり、新星中学校と統合して三宿中学校と
なった。跡地は世田谷ものづくり学校になっている。
 体育館は、池尻小学校が第二体育館として使用している。

 校歌「
アカシア茂る」 作詞:信国英夫  作曲:上田昭  校閲:田中冬二
  1.アカシア茂る丘の上に
    学びの鐘の鳴る処
    高き理念を目指しつつ
    若き血潮は燃ゆるなり
    あゝ池尻中学校
  2.多摩の流れの果て遠く
    朝日に照りそう学び舎に
    正しき意志と礼譲の
    誇りの旗の翻る
    あゝ池尻中学校
  3.面影残る武蔵野に
    吾等の歴史を築かんと
    誓いし者は逞しく
    大き希望に充ち満てる
    あゝ池尻中学校
 


■世田谷ものづくり学校
 池尻2丁目4番5号の池尻中学校の跡地にある区の施設。施設の名前は「世田谷ものづくり学校 
IKEJIRI INSTIEUTE OF DESIGN」。略してIID。渋谷から直近の池尻
の地で、[デザイン・建築・映像・食・アート・ファッション]などの様々な分野のクリエーターに
教室を開放し、ワーキングスペースとして機能している。
 施設内には、ギャラリーや試写室、工房のほかパブリックスペースを併設し、働きながら学べるプ
ロスクールやデザインベースの立体的なプログラムが実施されている。
 〝INSTIEUTE〟という言葉が持つ、さまざまな知識や体験を有機的に結びつけ、新しい価
値を生み出すという意味のように、IIDは「学ぶ」「遊ぶ」「働く」ことが1つに繋がる、今まで
にない新しいタイプのコミュニティだ。
 もう1つの注目は、子供から大人まで誰もが参加できるワークショップの数々。デザインを通して
それまで眠っていた好奇心・探究心を呼び覚ましてくれる。講師にはIID入居者をはじめとした各
分野で活躍するプロのクリエーターを迎え、木のぬくもりに触れる木工教室からデジタル映像制作ま
で、多岐にわたるデザイン要素を含むプログラムが用意されている。
 


■旧陸軍糧秣廠馬糧倉庫 ◇
 池尻2丁目23番4号にある生協東京マイコープとヤマト運輸の建物。練兵場の遺構として現存し
ている。古い地図によると場外になるのだが、糧秣廠とは、読んで字の如く、兵士の食糧や軍馬の秣
(まぐさ)を管轄する部門であり、この倉庫では軍馬の餌を保管していた。住宅が広がる周囲とは不
釣合いな大きな建物で、外観は面白みが無く実用本位であり、教えられないとこれが旧軍の遺構であ
ることに気付き難いのだが、扉のリベットなど細かいとこをよくみると当時の面影が残っている。現
存する倉庫は2棟あり、いずれも補強された上で「都民生協」の倉庫として、もう片方は「ヤマト運
輸」三宿営業所として活用されている。なお糧秣廠の流れを汲んで倉庫の隣には食糧学院(東京栄養
食糧専門学校)が建てられている。なお食糧学院北脇の細い路地を進んで行くと、突き当たりの角に
加藤家の小さな墓所があるのだが、その一角に薄く「陸軍用地」と彫られた境界石が残っている。状
況から察するに土地所有者が意図的に残しているようだが、場所が場所だけにこの小さな石柱も墓石
なのではないかと一瞬疑ってしまいたくなる。
 


■陸軍用地境界石柱 ◇
 池尻2丁目23番18号加藤家墓所の入口に立っている。しかし関係図面によると、ここに陸軍用
地の境界はない。何処かにあったものを、破棄の段階で貰い受けて埋めたのかも知れない。
 


■池尻庚申堂 ◇
 池尻2丁目23番19号にある。お堂は立派。内部に2基。
 ➀.左側の庚申塔、板状駒型。日月・青面金剛像・三猿。像の右側に「奉供養庚申武刕池尻村」、
   左側に「元禄五年壬申年十一月十五日」と刻む。
 ②.右側の庚申塔は、板碑型。青面金剛像・邪鬼・三猿。像の右側に「延寶八申年(1680)」   と刻む。
 ③.堂外にある三猿を刻む石造物。造立年不明。
 ④.御幣猿像。台座正面に「永代常夜燈」、横面に「大正元年十二月十日建設」と刻む。桃の浮彫
   がある。

   現在区内で確認されている二百五体の庚申塔の中、二体がこのお堂に安置されている。一
   体は延宝八年(1680)の庚申の年。他の一体は次の申(サル)年の元禄五年(169
   2)の造立となっている。
   この庚申塔は邪鬼をふんづけた姿の青面金剛とその下に三猿を彫った石仏である。
   この石仏は、江戸築城の際、集めた石工に造らせたといわれており、江戸時代以降の石仏
   を特に庚申塔と呼ぶようである。
   庚申信仰は古く平安の世に中国から伝わり、時の貴族の間に広がり、時代が江戸となり、
   庶民信仰として口づてにそのありがたさが農民の間にも受け入れられ三百有余年も連綿と
   継承されて、今日のお祭り行事にまで続いている。
   お祭りは、毎年四月十五日目黒常円寺の住職により先祖の供養と参拝者の幸せを祈り、お
   経をあげ盛大に行われている。
   この長い歴史と先人の心を支えてきた庚申様を守護し地元の人々と親睦を深めて次の世代
   に引き継ぎたいものである。
   平成18年                              池尻庚申会


 堂外の地蔵は、総高91cm、塔身部76×39×23cm。正面浮彫地蔵立像の右に「奉供養心
仏講女十三人」、左に「宝永元年申十一月吉日 池尻村」と彫り、下部に12名の女性名を刻む。

 

 
鳥居
 台座に「奉」「納」「庚申講中」「昭和八年 二月建之」と刻む。


■稲荷社 ◇
 池尻2丁目33番2号ミクニターナの裏手、旧道から入った奥まったところにある。


■屋敷神跡
 池尻2丁目34番3号にあったようだ。

■せたがや地域風景資産 No.1‐1池尻稲荷神社を中心とする旧大山道
■池尻稲荷神社(せたがや百景 No.2 大山道と池尻稲荷
 池尻2丁目34番15号、大山街道に面してある。祭神は倉稲魂命。由緒書によると明暦年間(1
655~57)の創立で、池尻・池沢両村の鎮守だった。古くから「火伏せの稲荷・子育て稲荷」と
して住民の信仰を集めていた。因みに神社の北側が新道の玉川通り、南側が旧道で大山街道(大山道
・双子道)。例大祭は9月21日。「新編武蔵風土記校」に、


   (池尻村)稲荷社
   除地一段十二歩。池澤村境往還の傍にあり、当村(池尻村)及池澤の鎮守なり。
   本社九尺四方拝殿二間に三間。巽の方に向ふ。
   鳥居あり、是より本社まで三十間許。神体木像長7寸。その容常ならず烏帽子を戴き背に
   袋を負ひ手に鎌を握り岩石に腰を掛たる老翁なり。祭礼年々九月二十三日。


 とある。「旧大山道」の石柱は旧道側の入口に建っている。

   池尻稲荷神社御由緒
   世にお稲荷様と申し上げている稲荷神社は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)をお祭りした
   もので、今から約千三百年の昔、和銅四年の二月の初牛の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮
   座したものが始まりです。
   この神は「稲がなる」イナリに別名が示すように五穀の成育や全ての産業を育成する広大
   な御神徳のある神様ですから、あらゆる人々の信仰をうけ、全国各地の神社や邸内にも祭
   られています。
   当池尻稲荷神社は、今から約三百五十年前の明暦年間(江戸時代の初期)に旧池尻村、池
   沢村の両村の産土神(ウブスナガミ)として創建鎮座になったもので、それより村の共同
   生活と信仰の中心として現在に至りました。
   俗信仰としては古くから「火伏の稲荷」「子育ての稲荷」として霊験あらたかと伝えられ
   ており、又、江戸時代の随筆集にも池尻村の産土神は特に氏子の加護をする旨の奇談が掲
   載されています。
   当時は大山街道(今の旧道)のほとり常光寺の一隅に勧請されたもので、村民の信仰は勿
   論のこと、当時矢倉沢往還(今の二子玉川方面道路)と津久井往還(今の上野方面バス道
   路)の二つの街道からの人々が角屋、田中屋、信楽屋の三軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で
   休息して江戸入りする道筋にありました。

   又、江戸から大山詣での人々が大坂(目黒区青葉台上通り、三菱UFJ銀行青葉台分館を
   経て大橋への坂道、当時は大変な急坂で農民泣かせといわれた)を下った道筋で道中の無
   事を願い、感謝する人々の信仰が篤く、現今も遠方の崇敬者が多いのは当時からの御神徳
   のあらわれであります。
   なお境内にある井戸水は京都伏見の薬力明神の神託による霊水として知られております、
   池尻稲荷神社の御神木
   境内にはシイの木、ケヤキ、イチョウ、サクラ等が高く聳えて静かな趣をそえています。
   かつては、御神木の松の木がひときわ高くそびえていましたが、昭和20年に枯れてしま
   い、それに合わせるように八月の終戦があったということです。一方空襲で周りが焼かれ
   た時、二本のケヤキによって風向きが変わって、神社は火災を免れたといわれています。
   神社の杜がこれからもいきいきと成長し、自然が守られるように皆様の御協力をお願いし
   ます。
   平成14年5月                           池尻稲荷神社


 清姫稲荷神社
 本殿に向かって左側にある小さな社。神体が白蛇ではないかと伝えられている。清姫が叶わぬ恋の
ために池に身を投げて白蛇の化身になったのか? 清姫って誰?

 かごめかごめの像 ◇
 旧道側の入り口付近には枯れずの井戸の碑と遊ぶ子供の像が設置されている。これは奉公に出され
た少女が赤ん坊を背負いながら幼い子どもと「かごめかごめ」の歌いながら遊んでいる光景だとか。
昔の境内ではこういった光景が当たり前のように繰り広げられていたものだ。また多くの子どもたち
は水汲みに使わされたのに一緒に輪の中に入っていってしまうといった様なことも・・・そしてその
後、「何で水汲みに行ってこんなに遅いの!」と叱られ、夕飯を食べさせて貰えなかったりして。
中辻伸の作品。

 
涸れずの井戸
 境内にある湧水。

 
  神の道を信じ勤めその病気の平癒を心に三度念じ、神の薬として飲み干せば、薬力明神の
   力により、病気たちどころに快癒する


 とある。昔、この大山街道には赤坂一ツ木から池尻村まで飲み水がなく、往来の人や農民たちは、
いかなる旱天の時も決して涸れたことのない当社の湧水を頼りにしたという。
何度か頂戴した。

   涸れずの井戸
   この池尻稲荷神社の入口わきに、昔「涸れずの井戸」と呼ばれる井戸がありました。これ
   はどんなに日照りが続いても、涸れることなしに、いつも豊かな水をたたえていたので、
   こう言われていました。この前の大山道旧道を往き来する旅人や野菜を運ぶ農民ののどを
   うるおし、まわりの人々に大変喜ばれました。とくに雨乞いのための大山詣での際には、
   必ずここに立ち寄ったと言われます。現在も、この水は、境内の中にあり、みなさんにお
   いしい水を提供しています。
   この像は、江戸後期近くの商店に奉公しに来ていた少女が、奉公先の子どもと一緒に、こ
   こに水を汲みに来た際、たぶんついでに「かごめかごめ」の遊びをしたのであろう様子を
   想像してつくったものです。どうぞ、昔の風景を思いうかべてみてください。
   平成元年三月                              世田谷区

 手水鉢

   「薬水の井戸」御由緒
   この手水舎の水は、当神社境内にある「薬水の井戸」よりの引き水です。
   「薬水の井戸」は、山城国伏見の稲荷山に御鎮座の薬力明神の神託により、「神の道を信
   じ勤め、その病気の平癒を心に三度祈念し、神の道の薬として飲みほせば、薬力明神の力
   により病気立ち所に快癒す」と伝えられている明泉です。
   往時この旧大山街道筋には赤坂一ツ木村より池尻村まで飲用水はなく、往来の人、農民、
   みな頼りにしたと伝えられています。又「涸れずの井戸」と云われて、現在もこの井戸水
   は、如何なる渇水時にも涸れることなく、常に豊富に湧き出ております。


 切株
 社の傍に直径125cm程の木の株があるが、これは大平洋戦争頃に枯れた松の御神木だったもの
で、昔ほ亭々として聳えていた大木だったという。


 ●軍用排水路跡 ◇
 境内の南端にはコンクリートで蓋のされた水路が通っているが、これは駒沢練兵場に降った雨を排
水する目的で作られた側溝だ。排水溝としての形状が残っているのは神社の境内のみだが、水路の跡
地は現在も歩道として活用されており、神社を出た水路跡の細い道を南へ辿ってゆくと、食糧学院の
前に至る。


■軍都池尻
 明治32年駒沢練兵場の西側一帯に、砲兵旅団司令部、騎兵第一聯隊兵営、野砲兵第一聯隊兵営、
近衛野砲聯隊兵営、野戦重砲兵第八聯隊兵営など1司令部・6部隊の兵舎が続々と建てられた。この
6部隊の将兵は平時編成、常備で3000人、軍馬2000頭いたといわれる。駒場練兵場で訓練を
受けたのは、主にこれらの兵馬だった。
 彼らの消費する野菜・馬糧・寝藁などの供給は周辺の農家経済を潤し、さらに馬糞や使用済みの寝
藁は良質な肥料として近在農業の発展に貢献するところ大だった。
 
また大橋から三軒茶屋に至る表通り(世田谷通り)には営外居住の軍人やその家族を対象とした商
店が軒を並べ、特に三宿・大橋辺りには「陸軍御用」と銘打った軍帽・軍服、馬具・装備品、軍刀そ
の他の軍用品、軍用図書、除隊土産品、軍の払い下げ用品、入営・面会などの家族、軍務出張の軍人
が利用する旅館などが軒を連ね、軍隊の駐屯しない町には見られない特赦な景観の商店街を形成して
いた。
 軍隊がやってきて帝国陸軍が崩壊するまでの半世紀の間、今に生を享けている君たちの、曽祖父・
祖父・父・大伯父・大叔父・伯父・叔父など幾万の男子が、現役兵として、あるいは予備役兵または
補充兵として召集されて入営し、厳しい規律の下、得手勝手な理由で無理難題を吹っかけられ、消灯
後寝台の中で密かに男泣きするほどに鍛えられたのだ。軍幹部の気儘勝手な発想で、やがて戦地に送
られて、再び故国の地を踏むことは出来なかった日本男子は数えきれない。その大半が、作戦ミスや
自殺吶喊や、東条英機が強制した「戦陣訓」の義務を遵守して無駄死にしていったのだ。兵営や練兵
場の跡地は甚だしく変貌を遂げ、いかにも平和を享受しているかにみえるものの、当時を偲ぶ時、胸
の痛みを感じない人はいないだろう。然るに国家権力者は、憲法第九条を廃棄して、自衛隊が外地で
戦闘できる実質上の再軍備を図り、何れは国民皆兵を目指し徴兵制を敷く魂胆を内蔵する。憲法を改
正すれば、さらに何年かして、また憲法を改める。それを何度か繰り返して、戦前の国家主義国家に
戻そうとの目論見は見え見えだ。各々方努々ご油断召さるな。敵はキツネでござる。狸でござる。
 


■軍都の名残り
 駒場地区における陸軍兵営の本格的な集中は、明治24年に外桜田にあった騎兵第一聯隊の移転か
らスタートした。後にこの一帯は「兵隊屋敷」と俗称されるようになるが、騎兵第一聯隊の転入はそ
のきっかけを作ったことになる。
 この地域は当時純然たる農村だったが、兵営が集中することによって確実な農産物の出荷先が確保
できると共に、いままで赤坂・青山・麻布・麹町などといった場所まで行って確保していた下肥を近
所で容易に獲得することもできる。また兵隊相手の商店も次々に開業を始めるなど、棚ぼたでいろい
ろな恩恵を受けた。その一方で終戦まで演習による騒音・振動・砂埃などといった被害にも悩まされ
続けることになる。

 現在その昔を偲ぶことのできるものは、騎兵第一聯隊跡の片隅の空地の端にある「騎兵第一連隊戦
没者慰霊碑」と「馬神碑」、野砲兵第一聯隊の跡地にある同隊の「馬魂碑」と、外観だけ当時の面影
を残しているかつての兵舎で、韓僑会館となっている。一つは鳩ぽっぽ保育園だったが建て替えてし
まった。平成18年10月10日に確認。韓僑会館(民団)の方は、ありがたいことに残されていて
現役だが、老朽化は否めない。今にも崩れ落ちそうな廃屋の体だが、BSアンテナがあるところをみ
るとまだ寝泊りしてるらしい。もう建て替えてもいいよ。在日民団のみなさんありがとう。良くぞこ
こまで持たせてくれた。
 戦後この敷地は学校用地に転用された他、南部には公務員住宅が建てられたが、住宅の多くが取り
壊されて空地になり、現在マンションが建っている。当時が偲ばれる遺構としては、その空地の西端
に、秋山好古が建立した日清戦争で勇戦敢闘し戦歿した兵士を称えた「忠魂碑」、同39年に再建し
たの「戦死病没者表忠碑」が現存している。また騎兵隊だけに、同地端には戦没軍馬を慰霊する「馬
神碑」が建っている。


 ●屋内射撃場跡 解体

 池尻4丁目5番2号にある建物。敗戦により軍隊が解散して60年以上経っているため、当時のも
のは殆ど残っていないが、この近衛輜重兵大隊跡にはちょっと変わったものが現存している。東邦大
学付属大橋病院の南の坂を上り切った追分に、妙に凸凹したコンクリートの建物がある。これはかつ
て屋内射撃場として使われていた軍施設だ。射撃に対する耐久性と防音性を兼ね備えるべく壁の厚さ
が30cmもある。また屋根や側面が複雑な凹凸になっているのも、防音効果を狙った形状らしい。
併し、防音は近隣住民のためではなく、音が漏れて兵器の内容が知られるのを警戒するためだった。
 この地に近衛輜重兵大隊(移転当時は第一中隊営)が移転してきたのは明治25年だ。そして翌年
11月に近衞輜重兵大隊として編制された。当時、西隣には第一師團騎兵第一大隊(明治29年11月21日聯隊に昇格)、東隣には陸軍乘馬學校(明治31年勅令第230號で陸軍騎兵實施學校に改
称)があった。大正5年に陸軍騎兵實施學校が転出、入れ替わりに第一師團輜重兵第一大隊が移転し
てきた。
 昭和2年11月12日付の陸普第5028号により、近衞輜重兵大隊敷地の南端に屋内射撃場が建
設された。


   陸普第五〇二八號
   近衞輜重兵大隊営内射擊場新設工事実施ノ件
   昭和二年十一月十二日
   首題工事ハ別紙仕訳書及図面ニ拠リ実施スヘシ


 昭和3年の地図に記載が雨の出同年中には竣工したものと思われる。建物には東京吉原製の防火安
全通風器が取り付けられていた。その後、昭和11年6月1日軍令陸乙第19号に基づき総ての輜重
兵大隊は輜重兵聯隊に昇格した。
 戦後、軍用地は学校や住宅に転用されたが、屋内射撃場は日本通運に買収され、
倉庫として使って
いたが、その後は別の業者が同じく倉庫としてしている他、防音性を活用して音楽用の貸スタジオと
しても利用されてた。貸スタジオとは意外だが、実にうまい活用法だった。近々取り壊されるらしいが、そしてとうとう平成28年解体され消えてしまった。

 ●馬神碑 ◇
 池尻4丁目22番のマスタービュー・レジデンス東側の歩道に面してあり、外からお参りできる。
マンション建設中とその後暫く、駒場野公園の近くに移されていたが、現在は元の位置近くに戻って
いる。しかし朧気な記憶だがこの場所は石垣だったように記憶する。
嘗てこの辺りは騎兵山と呼ばれ
た。この碑は、騎兵第一連隊のあった名残りで、昭和5年に建立され、戦没軍馬を供養したものだ。
『騎兵操典』綱領第11には、

   馬ハ騎兵ノ活兵器ナリ、故ニ常時之ヲ訓練愛護シ必要ニ方リ其全能ヲ発揮セシメサルヘカ
   ラス


 とあるように、軍馬には特別の想いが注がれていた。それをいいことに上官は「お前ら兵隊よりお
馬様のほうが大切なんだ。バカヤロウ!」と暴言を吐いて、ぶん殴る理由としたもんだよ。しかし兵
隊はそんなことをいわれなくても肉親のように馬を大切にしたのさ。


 ●騎兵第一聯隊址(戦死病没者表忠碑・忠魂碑) ◇
 池尻4丁目22番の崖上、マスタービュー・レジデンスの西側にある。鉄柵囲いの扉に「騎兵第一
聯隊址」と記してある。
囲いの中に、大きな碑と、その後ろに小さな碑がある。この場所は国有地で
関東財務局の管轄。しかし碑は秋山好古が個人的建立したもので、上部構造物は世田谷区役所が管理
している。

   
騎兵第一聯隊趾

 
戦死病没者表忠碑は、大きな方の碑だ、

   明治二十七八年及三十七八年
   
戦役戦死病没者表忠碑
   陸軍中将大勲位功四級載仁親王書


 裏に戦死病没者(英霊104柱)の氏名があって、

   征清之役戦死者哀悼碑建設工乃竣ル姦二其ノ姓名プ勒シ永ク後世二博フ
   騎兵第一聯隊長 秋山 好古 謹記
   明治二十八年 九月 陸軍騎兵中佐 秋山好古 建立
   明治三十九年十一月 陸軍騎兵中佐男爵名和長憲再建

 と大書されている。日清戦争後に秋山が建てたが、日露戦争後に名和が建て替えた。
 後の
忠魂碑は、明治29年に騎兵第一連隊長だった秋山好古(日本海海戦の連合艦隊参謀長秋山真
之の実兄)が、征清の役戦死者哀悼のために建てた碑。秋山は、日清戦争で国のために戦って名誉の
戦死を遂げた15名の騎兵隊員の名前を石碑裏面に刻し後世に伝えるために好古が直筆で記し、好古
が私費で建立した。
忠魂碑の碑文表面。


   征清之役戦死者哀
   悼碑建設工ヲ竣ル
   茲ニ其姓名ヲ勤シ
   永久後世ニ傳フ
   明治二十九年六月三十日
   騎兵第一聯隊長秋山好古謹記

 碑陰の刻文は以下の通り。

               君資性謙譲ニシテ敏活頗ル支
               那語ニ通ス征清ノ役金州乃旅順ニ転戦
               
シ常ニ勇徃奮進敵状地形ノ偵察ニ赴カン

               我騎兵隊ノ活動ヲシテ極メテ容易ナラ
   陸軍騎兵少尉 山口毅夫 シメタリ旅順陥落ノ後普蘭店ニ派遣セラレ
               復洲方面ノ警戒ニ任ズルヤ疾病ヲ犯シ
               尚能ク激務ニ服シ遂ニ起ツ能ハサルニ
               及ビ帰朝シ明治二十八年二月十三日
               廣島陸軍豫備病院ニ於テ卒ス享年二十八歳

   陸軍騎兵曹長     吉田四郎   明治二十八年二月八日於老爺廟
   豫備陸軍騎兵一等軍曹 藤堂立    明治二十七年十一月十七日於龍口戦死
   陸軍騎兵一等軍曹   渡邉武松   明治二十八年二月八日於二道河戦死
   陸軍騎兵一等卒    西澤三十   明治二十八年二月二十四日太平山戦死
   陸軍騎兵一等卒    根本由之助  明治二十八年二月八日於高刋戦死
   陸軍騎兵一等卒    羽毛田安太郎 明治二十八年二月八日年於老爺廟戦死
   陸軍騎兵一等卒    添田賢次郎  明治二十八年二月八日於二道河戦死
   陸軍騎兵一等卒    内田與作   明治二十八年二月八日於二道河戦死
   陸軍騎兵一等卒    斧三郎  明治二十七年十一月十九日於龍口戦
   豫備陸軍騎兵一等卒  小野田勝三郎 明治二十七年十一月十九日於龍口戦
   陸軍騎兵一等卒    飯尾金彌   明治二十七年十一月十八日於土城子
   陸軍騎兵一等卒    芝﨑章    明治二十八年二月二十二日聶家堡子戦死
   豫備陸軍騎兵一等卒  加瀬音吉   明治二十七年十二月三十日於蘇家屯病死
   陸軍騎兵一等卒    蕪木夘八   明治二十八年一月三十一日朱家旬子戦死


 碑裏面記載事項を調査したのは、神奈川県平塚市の添田吉則。彼は賢次郎の親族。
 


■稲荷社 ◇
 池尻2丁目37番4号内田ビル敷地内、旧道沿いにある。赤い鳥居がある。
 


■池尻大橋駅
 池尻3丁目1番1号にある東急田園都市線の停車場。昭和52年新玉川線渋谷~二子玉川間開業時
にできた駅。ホームは相対式2面2線で地下2階にある。ホームと改札を結ぶエレベーターは完備し
ている。
 改札口は地下1階にある。基本的に1ヶ所だが、エレベーターを利用する場合は上下線とも別々の
専用改札となっている。出口はいずれも玉川通り沿いにあり、東西南北の4ヶ所ある。地上と改札を
結ぶエレベーターは北口と西口の間にある。
 駅の所在地は世田谷区池尻だが、実は駅の8割ほどは目黒区東山にはみ出している。駅名は玉川線
時代にあった池尻駅と大橋駅の合成で、付近に池尻大橋という名前の橋がある訳ではない。田園都市
線地下区間の各駅にはステーションカラーというものが定められており、構内の壁のタイルの色が統
一されている。池尻大橋駅の場合は柿色だ。

 
●架線トラブルで4時間の運転見合わせ
 平成29年11月朝5時半頃、池尻大橋~駒沢間の架線がショートし、渋谷~二子玉川間の上下線
で運転を見合わせた。東京急行電鉄によると、二子玉川~中央林間の間で折り返し運転を開始し、他
の路線への振り替え輸送をしたが、平日の大混雑路線だけに大混乱を惹起した。
 朝9時57分全線で運転を再開した。原因は架線の一部でカバーがはがれショートしたものだ。
 田園都市線はトラブル続きだ。
  


■三菱東京銀行東京事務センター
 池尻3丁目1番1号にある同校の事務統括部門。2000人ばかりが働いているそうだが、殆ど派
遣社員とOBの嘱託社員で、社員は本の一握りだとか。世の中はユダヤ資本の思いのままだねぇ。


■東急の路線バスが当て逃げ
 池尻3丁目2番1号先、国道246号線(玉川通り)渋谷方面(上り)側横断歩道に、平成29年
6月2日19時頃、70代の老人が倒れているのが発見され、病院に運ばれ、頭蓋骨や腕の骨を折る
重傷だった。
 警視庁は当て逃げ事件として捜査したが、現場近くを走っていた「東急バス」の路線バスの左側面
に人と接触した跡が残っていたことが判り、警視庁はこのバスが男性を跳ねたとみて、40歳の男性
運転手から事情を聴くなどして当時の状況を捜査。その状況が、ドライブレコーダーに記録が残って
いた。

               弊社路線バス事故に関するお詫び
    2017年6月2日(金)19時02分頃、弊社路線バスにおいて下記の事故が発生し
   ました。
   お怪我をされた方の1日も早い回復をお祈り申し上げるとともに、多大なるご迷惑をおか
   けしましたことをお詫び申し上げます。
   事故の概要については以下の通りでございます。

   〇発生日時
  2017年6月2日(金)19時02分頃
   〇発生場所  東京都世田谷区池尻3‐2‐1
国道246号線(玉川通り)・上り
  、       池尻バス停付近(池尻バス停~池尻大橋駅バス停間)
   〇発生路線  等々力線(系統番号 渋82)等々力折返所発 渋谷駅行き
   〇発生状況  当社地点を直通通過中、歩道から車道へ倒れ込んだ男性とバスの左側面部
          が接触し負傷。
          詳細については、現在警察における捜査行われており、事故原因の究明に
          向けて、弊社としましても、全面協力して参ります。
                                        以 上
    


■オブジェ
 池尻3丁目11番6号先、北沢川緑道と烏山川緑道の合流部にある子供の銅像。

   ↑ 北沢川緑道
   ↓ 烏山川緑道


■両手で脳を持ち上げる
 池尻3丁目15番2号ササキスポーツの前にある。両手で脳を持ち上げているデザイン。スポーツ
は体力ではなく頭脳だといいたいのか?。


■池尻南公園
 池尻3丁目21番4号にある区立公園。


■池尻三丁目公園
 池尻3丁目27番21号にある区立公園。


■ギリシャ彫刻3点
 池尻3丁目30番12号チャット第2ビル壁面を飾るギリシャ彫刻3点。ギリシャ神話に出てくる
男性像・ルーブル美術館藏「踊る乙女」像・「サイキとその姉妹たち」。イタリア大理石の複製品。


■駒場東邦中学校・高等学校
 池尻4丁目5番1号にある中高一貫の私立校。同32年開校。設立者は学校法人東邦大学理事長 
額田豊博士。初代校長は元都立日比谷高等学校校長菊地龍道。第1校舎完成。中学と高校の第1回入
学式が挙行された。生徒は中学80名、高校263名で、教職員22名でスタートした。同37年体
育館兼講堂と第2校舎完成。同43年屋内プール完成。同46年高校よりの生徒募集を廃止し、完全
6ヶ年一貫教育が確立。第3校舎(食堂・武道場・芸術教室棟)完成。同53年米国カリフォルニア
州の高校と
交換留学制度が始まる。同58年米国カリフォルニア州の私立スティーブンソン校との交
換留学開始。平成元年英国イートン校との交換留学開始。同4年深瀬悟史記念奨学資金制度発足。同
7年校舎を全面的に建て替え、現在の校舎・校庭完成。同9年創立40周年記念式典。同16年増築
校舎完成し、4月より中学1クラス40人6学級制始まる。同19年創立50周年記念式典。

 
校歌気高い富士の嶺 作詞・北川冬彦  作曲・高田三郎
  1.気高い富士の嶺 遠くに臨む
    この麗しい空の下 溌剌と溌剌と
    青春の夢うち交わし
    身内に溢れる感激の波
    清い心の若者吾等
    おお 日日に 日日に睦もう
    楽しい学舎 吾等が母校
  2.外苑の森は静かに巡る
    親しみ深い窓の内
    懸命に懸命に科学文化の粋仰ぎ
    世界の進歩に与かるために
    高い希望の若者吾等
    おお 日日に 日日に励もう
    輝く学舎 吾等が母校

  3.甍の連なる大都市の渦
    湧き立ち籠める霧の中
    堅実に堅実に光る理想をひた目指し
    一足一足 足下固め
    巌の意志の若者吾等
    おお 日日に 日日に進もう
    吾等の誇り 駒場東邦
 


■筑波大学附属駒場中学校・高等学校

 池尻4丁目7番にある国立の男子校。何でもかんでも男と女を一緒くたにしたがる風潮の中で稀有
な存在。名門私立進学校は総て男子校、女子高だ。
 昭和22年「東京農業教育専門学校附属中学校」として開校。東京農業教育専門学校は、昭和12
年に帝国大学農学部附属農業教員養成所から改組された農業教育に係る教員養成のための師範学校で
あり、その淵源は明治11年に設置され、黎明期の日本近代農学の発展に大きな役割を果たした駒場
農学校に遡る。
 同25年附属高等学校を設置。同27年東京文理大学・東京高等師範学校・東京農業教育専門学校
・東京体育専門学校の4校が統合して「東京教育大学」となったことに伴い、「東京教育大学附属駒
場中学校・高等学校」と改称。同31年この年の中学入学者から中・高一貫教育となる。同53年東
京教育大学は廃学となり、茨城県つくば市に新設された筑波大学に引き継がれたため「筑波大学附属
駒場中学校・高等学校」と改称。
 平成16年「国立大学法人筑波大学附属駒場中学校・高等学校」となる。

 桐陰會會歌(校歌)
  1.春湯陵の花の陰
    秋茗渓の月の下
    飛び交ふ胡蝶は風に舞ひ
    下行く水は楽奏づ
    慈愛平和に充ち満てる
    自然の寵児我なるぞ
  2.四海干戈の音止みて
    文化の光見え初めし
    元和偃武の古を 想ふ
    学びの窓の下
    昌平黌の跡訪へば
    今も梢に仰ぐべし
  3.歴史の因み地理の縁
    この学園ぞ浅からぬ
    力山抜く英雄も
    気は世を蓋う豪傑も
    心の根ざし誰とてか
    幼時の教へによらざらん
  4.鳳雛未だ羽生えず
    梧桐の上に霊気蔽ふ
    稚龍今なほ雲を得で
    茗渓のほとり紫雲立つ
    図南の翼うち張りて
    いづれの日にか昇るべき

 東大進学校
 設立当初から日比谷、西、戸山などの名門都立高校への進学ぶりで附属中の評判が高まったが、昭
和31年の中学入学者からは中高一貫化され、以降、昭和38年3月には附属高校の東大合格者数が
倍増するなど、進学校としての人気・評価が高まり、現在に至っている。
 


■池尻見晴らし広場
 池尻4丁目22番7号にある区立公園。


■目黒川緑道
 池尻4丁目24番先、北沢川と烏山川の合流点先目黒区との区境までの目黒川暗渠上ににある区立
公園。
 


■池尻北公園
 池尻4丁目27番16号にある区立公園。


■淡島通り公園
 池尻4丁目29番18号にある区立公園。
 



【宇奈根】(うなね)1~3丁目                   昭和46年5月1日
 宇奈根村。室町時代には見られ、江戸時代は荏原郡のち多摩郡世田谷領、明治5年神奈川県に所
属、同11年北多摩郡が東京府に編入。同22年「市制町村制」により砧村の大字、同45年多摩
川以南の村域を神奈川県橘樹郡(たちばなぐん)高津村に譲渡。昭和11年砧村が世田谷区に吸収
されて同区宇奈根町、同46年新住居表示により宇奈根町の大部分に鎌田町・喜多見町の各一部を
あわせた町域を現行の「宇奈根」とし、一部を喜多見1・3丁目に編入した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『世田谷区史』『世田谷の地名』など。

 
宇奈根の由来
 ①、山の稜線を「オネ」または「ウネ」といい、高い方を「畝方」、低い方を「谷方」とい
   う(柳田国男)。
 ②、宇奈根神は穀物の神(延喜式)。
 ③、「ウンナン様」は田の中の神(地名の語源)。
 ④、古代語で溝を「ウナヒ」といい、それが「ウナニ」に転じた。
 ⑤、畦目(うなめ)、畝目(うねめ)など。
 以上の様な「こじつけ」がある。実際のとこは判らない。しかし②③④⑤は水田・稲田に関わる
名であり、この辺りは多摩川の肥沃な土砂が堆積してできた土地なので、やはり農耕地の佇まいを
土地の名にしたのではないか? 区では「ウナヒ説」を有力としている。今は暗渠で判らないがつ
い先ごろまで町田川・清水川など曲がりくねった用水が縦横に走っていた。江戸の頃には多摩川に
注ぐ細流に蛍が棲み、初夏の蛍狩に多くの文人が訪れた。この地名は室町時代の記録に出ているほ
ど古いが、由来は明確ではない。江戸の後期に歌人の橘千蔭が宇奈根の氷川神社に参詣して、

   うしことの うなねつきぬき さきくあれと うしはく神に ぬさ奉る

 と詠んでいる。宇奈根の地名を詠みこみ、「う」の音を巧みに重ねながら、氷川の神に幸運を祈っ
た歌のようだ。『日本国語大辞典』で<うなね>を引くと、うなね(項根)、首の付け根。後頸部。
くびねっこ。とし、「うなね突き抜く」という熟語を首を深く垂れ下げて礼拝する動作のことと説
明している。宇奈根の地名も、この地域の形状が多摩川に突き出した首ねっこに似ていたためとい
う説もある。しかし『世田谷の地名』の著者、三田義春は、上古から溝のことをウナニというので、
地形的にあてはまるとしている。だから宇奈根は宇奈根神社だ!
 


■民話・鯉の恩返し

 砧村と多摩川をはさんだ対岸の川崎の久地村はとても仲がよく、二つの村は川を挟んでいても一つ
の村であるかのような間柄だった。しかしこの二つの村の間には橋がなく、渡し舟で行き来をしてい
た。この渡し船の船頭をしていたのが宇奈根村の三吉爺さんだ。ある夏の終わりの夕暮れ時、三吉爺
さんが客待ちで、船着場に舟を舫い、煙草をふかしながらうとうとしていると、ふと目の前に女の人
が立っている。彼女は魚の精で「自分の夫が魚針を飲み込み死に掛けているので助けてほしい」と訴
えた。驚いた三吉爺さんだが女の後を尾いていき、亭主の鯉に刺さった魚針を取ってやった。翌日三
吉爺さんが船を渡していると、2匹の真鯉と緋鯉が舟の傍らに尾いてくる。三吉爺さんは助けてやっ
た魚の精だとすぐ理解した。その後この二匹の魚は毎日船に寄り添い、その話が近郷の村々に広まっ
て一目魚の精を見ようとする人々で三吉じいさんの舟は客で一杯になったとさ。
 渡船は個人ではアルバイト的に運営出来るものではなく、幕府なり藩なりの許可がいる。しかも運
営の主体は村とか、寺とかで、収入が総て船頭のものになる訳じゃない。また街道渡し、農業渡しが
あり、農業渡しでは一般客を乗せてはいけない。さらに花の季節や、寺社の祭事などで急な人出があ
るときの臨時の渡しも色々と制約があった。
 


■屋代弘賢・蛍狩り
 用水路を埋めた跡の宇奈根下河原緑道を辿っていくと宇奈根竜王公園に辿り着く。そこに土地区画
整理事業を記念した記念碑が建っている。そこに彫られた歌

   いつの世にうなねの神をいはひそめて里の名さへにいひならしけん

 は、国学者高田与清が文化十二年(1815)『世田谷紀行』で詠んだものだ。
 地名の由来は別として、宇奈根の宇音が江戸の文人の歌心を誘ったのは確かだ。このころ隣村大蔵
出身の国学者石井至穀は、師匠の屋代弘賢から「宇奈根の蛍を是非見に行きたい」と所望されている。
その弘賢は、江戸時代後期の代表的な国学者で、塙保己一の高弟として『群書類従』などの編纂に当
たった。石井至穀はその弘賢の下で、『古今要覧稿』という考証叢書の編集を助けていた。享保年間
(18世紀前期)に宇奈根を訪れた先人の紀行文があり、「宇治の蛍より美しい」と絶賛している。

 江戸時代の愛書家は、読みたい本を購入するだけでなく、持ち主から借りて書き写した。それを写
本という。写本は性格上原本に似て非なるもので信憑性は幾分弱まる。書き写し手の誤筆、脱落、私
観記入があるかも知れないからだ。
 上野不忍池近くに住んでいた国学者屋代弘賢は、その「不忍文庫」に、写本を含めて5万巻を収蔵
した屈指の蔵書家として名を残している。その弘賢から「宇奈根の蛍を見たい」と所望された弟子の
石井至穀は、同門の友人にも声をかけて玉川旅行を計画した。至穀も筆忠実(ふでまめ)で、その日
帰り旅行を『玉川紀行』と題し書き残している。
 文化十年(1813)五月二十日一行は早朝に牛込を出立した。梅雨空も四谷辺りで晴れ上がり、
ホトトギスの声が聞かれた。世田谷に入ると豪徳寺に詣で、昼食の休憩をとる。そのあと世田谷八幡
などを参拝しながら、至穀の生まれ故郷である大蔵村に着いたのは夕方4時ごろだ。至穀の家族は大
歓迎で酒肴でもてなした。暮れ方に、いよいよ近くの宇奈根川に向かうと生憎また梅雨の雨で蛍が飛
ばない。じりじりしていると、やっと雨が上がり、ぽつぽつ光りだした蛍がみるみる増えて、川面に
無数の光が映った。感動して見ながら和歌を詠む。屋代翁も家の土産と、袖にそっと蛍を包むほど喜
んだ。そのまま家路について、至穀が、深川の自宅に帰ったのは深夜2時過ぎだったという。弘賢が
56歳、至穀が36歳のころで、いずれも往復を歩いている。むろん200年後の今は、ホトトギス
も蛍も住処を変えている。
 岡本民家園でホタルを飼ってるよ。
 

 ●石井至穀
 大蔵村の旧家の出身で、石井家は喜多見氏と繋がっている。代々学問を好み、至穀のときに農民の
身分から幕臣に列し、のちに書物奉行にまで栄進した努力家だった。墓は実家の北向かい大蔵6丁目
4番
の永安寺にある。なお石井家は敷地を縮小したものの、寺前の同所に健在だよ。めでたい、めで
たい。
 

 
●小泉健次郎
 嘉永五年(1852)七月二十日組頭鐐之助(のち鐐造)の長男として生まれた。健次郎が生まれ
る前年の五月、父鐐之助は、嘉永二年(1849)に起きた宇奈根村方騒動の首謀者として、田畑家
財闕所(没収)の上、家族ともども村を追放された。祖父源右衛門は事件の取調中に獄死している。
まあ殺されたんだろう。一家が村を追われてから4年後の安政三年(1856)に健次郎は許されて
母親と共に宇奈根に戻った。それから11年後の慶応三年(1867)には鐐之助の帰村も漸く叶っ
た。その翌年、村方の願いにより、健次郎は数え年僅か16歳にして組頭役を仰せつかることになる。
当初村人たちはかつての組頭で人望も厚い鐐之助の組頭復帰を望んだが、帰村間もないことを理由に
彦根藩の許しが得られなかったのだ。善政を敷いた井伊家の唯一の非道で残念の一語に尽きる。こう
して健次郎は父の代役を務めることになった。身命を投げ打ってまでも村の危機を救おうとした源右
衛門・鐐之助父子の血を引く健次郎、そうした彼に村民の期待するものは多かった。後年自由民権運
動にその身を投じた政治家としての活動は、自らが村の代表者だという自覚に支えられたものだった。
明治14年(1881)健次郎は立憲改進党に入党し、民権運動に奔走すると共に地域の発展に尽力
した。自由民権運動とは、大久保利通を中心とする明治政府の強権専制に基づく独裁政治に抵抗した
全国的活動のことだ。同24年自由党から神奈川県議会議員補欠選挙に立候補して当選を果たすが、
同26年2月1日志半ばにして病に倒れた。
 
村方騒動というのは、有力百姓小泉源右衛門政房が中心となって名主の不正を暴き勝訴した事件。
事件は落着を見たものの確執は幕末まで続く。然しこのことは、そういった些末なことではなく、村
方、所謂一般農民が、訴訟を起こして勝利するという、一般農民の教育的レベルの高さが、幕末に至
るに連れて、全国規模でアップしていることを示している。日本は庶民レベルの知性の高さが、明治
維新を迎えて国家が発展していく礎を確固なものとしていたのだ。
 日本がアメリカの属国のようであるのは、ユダヤ国際資本(イルミナティ)の策略知恵だが、彼ら
が明治維新を起こしておきながら、未だに日本を征服解体し、天皇の地位を奪いきれないのは、偏に
日本国民のレベルの高さにある。であれば朝鮮人を日本に送り込んで、なりすまし日本人を増殖させ
て、日本の中枢に浸透させて傀儡政権を作るしか能がないのだ。在日朝鮮人が悪いのではない。唆し
ているアシュケナジーユダヤが悪いのだ。在日朝鮮人が本名を名乗らないのは、実に悪意あるユダヤ
人の差金なのだ。然し皇室に正面からユダヤの血が入る日は近い。皇室・王室間の国際結婚をメルヘ
ンだと考えるようになったらおしめえだよ。
  


■宇奈根公園
 宇奈根1丁目の河川敷にある区立公園。鎌田1丁目、都県境の関係で川崎市高津区宇奈根と久地に
続いている。、


■わかもと製薬 → 駒澤大学玉川校舎
 宇奈根1丁目1番1号にある。昭和7年設立のわかもと製薬の工場は、砧線の終点砧本村駅の突き
当たるところにあったのでさながら引込線、専用線の感があった。昭和42年からは駒澤大学の玉川
校舎となっており、陸上競技場、球技グラウンド、体育館、テニスコート、弓道場などのスポーツ施
設がある。
 


■宇奈根一丁目公園
 宇奈根1丁目35番20号にある区立公園。


■宇奈根三角公園
 宇奈根1丁目39番18号にある区立公園。


宇奈根東部記念公園
 宇奈根1丁目42番8号にある区立公園。

 東京都
都市計画事業世田谷南部宇奈根東部土地区画整理事業竣工記念碑
 公園内にある。

   碑文
   本地区は世田谷区の南西部に位置し、東急急行電鉄二子玉川駅と小田急電鉄成城学園前駅
   の中間にあり、昔は稲作が盛んな田園地帯であった。時代の流れと共に多摩川や野川の上
   流が宅地化されて、河川の汚れがひどくなり、稲作に適さなくなってきたため、小松菜や
   葱などの野菜を作る農耕地へと変ってきた。このような状況により、本地区の整理前の道
   路形態は、地区北側の水道道路を主要道路とし、地区内には約二米の農道が二本と約一米
   の道路が一本あるのみであった。そのため地区の将来を考えた人達が集まり、道路拡張を
   話し合ったのがきっかけとなり、昭和五十七年区画整理事業の準備会が発足した。昭和六
   十三年九月二十六日東京都知事の認可を得て、本土地区画整理組合が設立され、事業に着
   手し、以来十五年の歳月と二十一億八千万円の事業費を投じ、組合員の智を集め、心血を
   注いで竣工に至った。この新しい町が人々の安住の地となり、永く繁栄することを念願し
   ここに記念碑を建立する。
    平成十五年九月吉日                 宇奈根東部土地区画整理組合


 この区画整理により出た余剰地は3ヶ所の公園ができた。第一公園(宇奈根東部記念公園)、第二
公園(宇奈根1丁目公園)、第三公園(宇奈根三角公園)だ。
 


宇奈根龍王公園
 宇奈根2丁目2番17号にある区立公園。

 
「御舟」 ✔
 園内にあるオブジェ。

   いつの世に
   うなねの神を
   いはひそめて
   里の名さへに
   いひなら.しけん


宇奈根中島公園
 宇奈根2丁目5番8号にある区立公園。


宇奈根渡し道場公園
 宇奈根2丁目8番28号にある区立公園。


■宇奈根下河原緑道

 宇奈根2丁目8番30号にある宇奈根川暗渠上35mの遊歩道。
 


宇奈根台口公園
 宇奈根2丁目9番31号にある区立公園。


■庚申塔
 
見当たらず
 宇奈根2丁目13番路傍にあると区の資料にあるが見当たらない。板駒型。総高126cm、塔身
部103×35×30cm。日月・青面金剛像・二鶏・三猿。左の面に「武刕多麻郡世田谷領宇奈根
村」、右面に「宝暦七丁丑十一月吉日」、台座正面に講中8人の名を刻む。


せたがや百景No.61 宇奈根氷川神社 ◇

 宇奈根2丁目13番19号にある。喜多見・大蔵鎮座の氷川神社とともに氷川三所明神の一つで、
『新編武蔵国風土記稿』には、

   小名中通りにあり、村内の鎮守なり、本社四尺五寸四方の東向、上屋二間半四方、前に木
   の鳥居を立つ、神体は白幣、いつの頃鎮座せしと云ことを云へず、村内観音寺持


 とある。昭和20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別の東京大空襲により社殿焼失。同30年社
殿を造営し、戦没者慰霊碑を建立す。平成11年に現在の社殿を造営した。

 川崎市高津区宇奈根646番地にも同名の「宇奈根氷川神社」がある。明治45年多摩川で分断さ
れた山野地区が橘樹郡へ編入されるに当り、両岸の共存共栄を願って本村の村社である氷川神社を分
祀し、山野地区にも「氷川神社」が建てられた。それから100年近く経つ今もなお、ここ宇奈根山
野地区の住民により右岸の氷川神社は守られており、また「宇奈根字山野」の地名も併合されること
なく残り、昭和52年にはその経緯を残すための碑も設けられ、当時の連帯を今に伝えている。

 
氷川神社復興記念碑

   本社は宇奈根・喜多見・大蔵の3ヶ村に祭られた氷川三所明神の一社として建速素戔嗚尊
   を祭り、宝永年間観音寺の別当として再建。天明の末年、橘千蔭が当社を拝し、

   うしことのうなねつきぬきさきくあれとうしはく神にぬさ奉る

   と詠じた。明治四年村社に列し、同十年再び造営、昭和二十年五月二十五日戦災により社
   殿消失。このたび氏子崇敬者の浄財により社殿新築工事が完成、その総経費・金壱百九十
   六萬九千四百四十六円、その芳志を永く碑面に残すことにする。
   昭和三十七年十月吉日                    宇奈根氷川神社氏子中


 この隣に新しい「御社殿造営記念碑」が建ち、そこには以下のように記述されている。

   昭和三十七年に改造されました御社殿は老朽化がいちじるしく、大神様に対し心痛に耐え
   ざるものがあり、御社殿造営奉賛委員会を結成、氏子崇敬者の至誠奉賛を以て造営に当た
   りました。平成十一年四月十日遷座祭を斉行し、御神慮を安んじ奉ることが出来ました。
   茲に其の崇敬の念を記し、子孫に伝えると共に大神様の御加護を賜りますよう祈念いたし
   ます。 (中略)
   総金額 弐億壱千参百萬圓也。

 筆塚
 詳細不明。比較的新しいものだ。

 慰霊碑
 詳細不明

 
神輿殿
 名前は厳しいが、建物は神輿小屋だ。
 



■玉川山常光寺

 宇奈根2丁目21番2号にある日蓮宗の寺。身延山久遠寺の末。本尊は日蓮大菩薩。35cmの木
製坐像。越後の人泉蔵院日礼が、この地の青木氏を頼ったところ、青木氏は日礼に帰依して堂宇を創
建、日礼を開山したという。昭和20年5月のアメリカ軍の無差別空爆によって総てを焼失し、日蓮
の尊像のみ辛うじて持ち出すことができたという。
 元禄時代喜多見家断絶の際、種々の什物を然るべきところへ配ったといわれるが、この寺に手水鉢、
石灯籠が贈られた。空爆の時手水鉢は焼けて壊れてしまったが、石灯籠は焼け残り、今も境内にある、
高さ44cmほどの小さな灯籠だ。「せたがや:社寺と史跡」に、

   常光寺(宇奈根町241)
   日蓮宗身延山末、本尊は日蓮大菩薩、35cm程の木彫坐像である。越後の人、泉蔵院日
   礼は、この土地の青山氏に頼ったが、青山氏は日礼に帰依して堂宇を創建して日礼を開山
   としたという。
   寺は、昭和20年5月25日の大空襲によってすべて災厄にあい、日蓮の尊像のみ、かろ
   うじて助けだしたとの事である。
   元禄年間、喜多見若狭守断絶の際、種々の什物を然るべき所へ配ったといわれるが、この
   寺に手水鉢、石灯篭が送られた。空襲の時手水鉢は焼けてしまったが、石灯籠だけは焼け
   残って境内にある。高さ44cm程の小灯龍である。


 とある。
 


薬滝山修善院観音寺
 宇奈根2丁目24番2号にある天台宗の寺。開山は川越喜多院第14世実海僧正で、永正年間(1
504~20)に小田原に創建したと伝えられる。初め円正寺といったが、火災に遭い、元亀のころ
(1570~72)に現在地に再建し、「炎上」と「円正」の同音を避けて、本尊が十一面観世音菩
薩であることから観音寺と改称したという。昭和20年アメリカ軍の無差別空爆により、本堂、薬師
堂など堂宇悉く烏有に帰しが、幸いにも本尊、薬師如来像および山門だけは焼け残った。山門の左に
大銀杏が聳え立っている。樹齢数百年の古木といわれる。「新編武蔵風土記」宇奈根村の項に、

   観音寺
   除地、七段、村の南寄にあり、薬瀧山修善院と號す、天台宗、同郡深大寺村深大寺末なり
   本尊十一面観音木の立像長三尺許なるを安す、開山開基詳ならず、本堂七間半に六間半南
   向き、庫裏六間に四間半なり、門は四ツ足柱間九尺、往古は圓正寺と号して、村内氷川の
   社地にありしが、天文年中兵火にかかり、其後元亀年中今の所へ再建してより、今のごと
   く寺号を改めしと云、起立は永正の比といい傳ふれど詳ならず。
   薬師堂。境内門を入て右の方にあり、三間四方西向、本尊木の立像長一尺、傳教大師の作
   なり。


 とあり、「せたがや社寺と史跡」に、

   薬滝山修善院観音寺といい、天台宗、開山は実海僧正(川越の名刹喜多院第14世)で、
   永正年間(1504~1520)の創建と伝えられる。
   本尊・十面観音は94.9cmの木彫立像で、行基菩薩の作とも伝教大師の作ともいわれて
   いる。もとは円正寺と号していたが、火災にあい、元亀年中(1570~72)この地に
   再建し、炎上と円正の同音を避けて、本尊の名により観音寺と称し、現在に至っている。
   昭和20年5月25日の大空襲により本堂、薬師堂等すべて烏有に帰し、本尊、薬師如来
   像および山門だけ焼け残った。山門の左側に大銀杏が聳えている、樹令数百年の古木とい
   われる。
   墓域には荒井対馬治義の墓がある。治義は天文年中(1532~1554)上野国新田郡
   荒居村を出で、相州小田原の北条氏に仕えたが、戦傷を受けたため宇奈根村に来たり、土
   着してこの地を開発した。天正元年(1573)没。戒名荒井院天澗澄真居士。八代の孫
   一郎兵衛以謙は天明六年(1786)彦根藩世田谷領代官に起用され、世田谷村の大場代
   官と共に領政を担当したが、傍ら弟の富蔵名儀で酒造業を営み、富有の生活をした。また
   江戸の国学者高田与清とも親しく、国学に詳しかった。その子市郎兵衛善応も父の後を継
   ぎ、代官を務めたが、文政十三年(1830)故あって隠居仰せつけられた。


 とある。

   薬滝山
   修善院 
観音寺(天台宗)
   永正年間(1504~1521)川越喜多院実海僧正の創立で、本尊は、十一面観音、伝
   教大師作と伝え、円正寺といい小田原にあった。後氷川社のかたわらに移築したが、天文
   の頃兵火に罹り、元亀年間(1570~1573)この地に再建した。円正寺という寺号
   が炎上と同音なのを忌み今の名に改めた。
   墓域に後北条の家臣荒井対馬守治義およびその子孫で、井伊家世田谷領の大場氏とともに
   代官をつとめた当地の水田開拓者、荒井以謙(もちかね)善応(よしたか)父子の墓があ
   る。境内の大銀杏は樹齢数百年といわれる。
   平成23年6月30日                     世田谷区教育委員会

 木造十一面観音立像
 檜の一材から頭体幹部を彫り出す一木造りの形式で、背面より内刳りを入れて背板を当てている。
像高95.6cm。彫眼。頭頂の宝髻、化仏、さらに両肩より先の腕の部分など後世の補修にかかると
ころが多い。また像底部の損傷により総高がやや切り詰められて、現状ではずんぐりとした体躯を見
せている。顔の表情なども補修の影響でいささか鈍い感じを与える。しかしそれら後世の補修部や損
傷箇所を除いた造立当初の部分では、西福寺薬師如来像や宝寿院阿弥陀如来像よりも寧ろ古様を示し
ており、平安時代末頃の作と推定され、区内に現存する仏像の中でも最古に属する部類といえる。『江
戸名所図会』によれば、当寺建立の際小田原より請来したと寺伝にあるが詳細不明。

 
荒井対馬守治義の墓
 治義は、天文年間(1532~54)上野国新田郡荒居村を出て相州小田原の北条氏に仕えたが、
戦傷を受けたためこの地に来て土着し、村を開いた。元正元年(1573)に没し荒井院天澗澄真居
士。6代の孫市郎兵衛治訓は宝暦四年(1754)から24年間玉川筋川除役を務め、その孫市郎兵
衛以謙は、天明六年(1786)二人制代官の1人飯田平兵衛が失脚ののち後任の代官を務めた。彦
根藩世田谷領代官に起用され、世田谷村の大場氏とともに領政を担当したが、傍ら弟の富蔵名義で酒
造業を営み、富裕な生活をした。また江戸の国学者高田与清とも親しく、国学に通じた。その子市郎
兵衛善応も父の跡を継ぎ代官を務めたが、文政十三年(1830)故ありて隠居を仰せ付けられた。
 


宇奈根ハンカチ公園
 宇奈3丁目2番5号にある区立公園。


■庚申塔2基 ◇
 宇奈根3丁目13番3号の角地に2基ある。1基は、板状駒型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿。
像右に「享保二丁酉天武州多麻郡世田谷領」、像左に「十一月吉祥日 宇奈根村講中十五人」と刻ん
でいる。もう1基も板状駒型。日月・青面金剛像。右「寛政二庚戌年二月吉日」、左「武州世田谷領
宇奈根村」と刻む。
 
 



【馬引沢】
 
うまひきさわ。一般には「馬を牽いて行け・沢」で、つまり「この沢は泥沼で危険だから馬に乗
らずに馬の口を取って牽いて歩いて進め!」ということになっている。文治五年(1189)源頼
朝が奥州征伐のとき、乗馬(じょうめ=マイホース)の葦毛の馬が蛇崩川の沢(駒繋神社の北側に
あった湿地帯)で、深みにはまって死んだので安全のため全軍に馬から降りて引馬するように命じ
た故事(芦毛塚伝説)により起きた村名というのが定説だ。源頼朝ではなく北条左近太郎だという
説、乗馬ではなく土民の貢馬だという説もある。しかし馬引沢はここだけの珍名ではなく日高・青
梅・稲城などにもある。
 応神天皇十五年(284)八月六日百済(くだら)の阿花王(?)は阿直岐(あちき)を遣わし
て良馬二匹を献上した。そこで朝廷は阿直岐にその飼育を担当させたが、これから日本で馬養(う
まかい)の事業が始まり重要なものとなった。
 『筑前風土記』に、神功皇后がまさに新羅を討たんとした時に兵士が逃亡した。調べると大三輪
の神が祟ることが判ったので、この神の社を建てて尊び、終に新羅を平定したとある。大己貴神社
と呼ばれているが、六月晦大祓祝詞(みなづきつごもりのおおはらへののりと)は大神の前で、天
つ罪、国つ罪を清めるのだが、その終わりは、

   高天原に耳振り立てて聞くものと馬牽き立てて、今年の六月の晦(つごもり)の日の、
   夕日の降(くだ)ち大祓(おおはら)へに祓へたまひ清めたまふことを、諸(もろも
   ろ)聞こしめせと宣(の)る

 と結ばれている。馬は神聖なもの。この「馬引き」立てて祈る磐石座(いわくら)のある所が「馬
引沢」だろう。この地には当然祭器・武器としての馬を飼う牧もあったし、それが駒牽(こまひき)
の儀の起こりと思われる。彼らの信仰する「子の神神社」もあった。子の神は北辰権現・北辰菩薩
・北斗菩薩・妙見信仰とも呼ばれ、子の星(北斗七星)に対する中国・朝鮮の古い信仰である。駒
神社は子の神でこの辺りの字は「子の神丸」といった。弦巻は「水流(湧水源)、牧(牧場)」
で、「まき」は或いは「まいき=渡来人」だろう。当地には駒繋神社・駒留八幡・芦毛塚がある。源
義家や源頼朝の馬と結びついた伝説に基づくとされるが、さらに古い由緒を考えるべきだろう。駒
繋は「駒繋ぎの松伝説」に拠ろうするのは解るが、神事として神様を乗せてきた馬を繋いだのだ。
朝鮮で尊ばれる赤松(まちのき)を神木として「駒繋ぎの松伝説」が出たのではあるまいか。「高
麗阿知之吉師(こまのあちのきし)」が長い時間を経て訛ったものか。また「芦毛塚」は「阿直岐
塚」が転訛したものだろう。駒留は「高麗姥」で、朝鮮では祖廟神に王族が斎王(いつきのきみ)と
して奉仕したから、その人かあるいは石凝姥命(いしこりとめのみこと)を祀ったのではなかろう
か。「いつきのきみ」は「夕月君」だから、それを祀ったものか? 祭りのとき神輿を担ぐ掛け声
「わっしょい。わっしょい」は朝鮮語で、「来ました。来ました」といって氏子の家々を回る習俗
の名残だ。また相撲の「はっけよい・はっきょい」も朝鮮語では「始めなさい」の意だそうだ。

  遠景の馬引沢に手綱とる手に紫や秋の草花(花園袖香)

 この項、鈴木喜左衛門編上北沢・桜上水『わたしたちの郷土』より抜粋したものに加筆して挿入
した。また文京区の「狛江」も参照されるとよい。
 
 



【梅丘】(うめがおか)1~3丁目               最終昭和43年7月15日
 世田谷村。梅丘村はない。昭和41年2月15日世田谷2丁目の東半と若林町の一部をあわせた
町域、つまり松原村飛地松原宿の東半と世田谷村字北沢窪・山崎・久保・竹の上の各一部をあわせ
た町域を現行の「梅丘1~2丁目」とし、同43年新住居表示により若林町・世田谷2丁目の各一
部をあわせた町域を現行の「梅丘3丁目」とした。

 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『世田谷区史』『世田谷の地名』など。

 
梅丘の由来
 さて昭和2年小田急が開通したとき梅ヶ丘駅はまだ設置されてなかった。昭和5、6年頃の宅地
化により地元有志が小田急に懇願したところ「600坪の土地の無償提供と、3人の駅員の3年分
の給与負担)を条件に開設が決定した。その駅名についてあれこれ議論したが妙案は浮かばず、結
局、代田神社の南に梅林があったとか、駅の誘致に尽力した有力者の家紋が梅鉢だったとかのいい
加減な理由で「梅ヶ丘」と命名され、唯一7年遅れで同9年4月1日に開業した。この辺りは北沢
窪という低地で北沢警察署の方は水路の乱流する湿地だった。現在も耕地整理でできた水路が暗渠
で残っている。『小田急50年史』には、

   この地は北沢窪という地名で、かつては麦畑の中に一基の古墳があり出土品もあった。
   従って梅丘は古墳にちなむ埋ヶ丘に由来するとの説がある。またこの地の大地主旧家に
   梅の古木があり、同家の家紋も梅をかたどったものであるところからこれをとって優雅
   な「梅ヶ丘」の駅名をつけたともいう


 とある。有力者・大地主・旧家というのは相原家のことで、同家の家紋は「梅鉢」だ。
 梅ヶ丘駅北側にある梅林は駅名に合わせて戦後造園したものだ。
 


■延命地蔵 ◇
 梅丘1丁目24番5号、駅南にある。平成16年4月21日開眼落慶法要が行われ、梅ヶ丘の新名
所として南口駅前に『梅丘延命地蔵堂』が再建された。この地蔵さんは、昭和26年に建立された。
そのころ
駅周辺では、戦後から人口の増加が見られ、同23年頃から梅ヶ丘踏切内で子供の死亡事故
が多くなった。それで事故に遭った人たちの鎮魂供養と、人々の無事を願って建てられることになっ
た。元はずっと西のセブンイレブンの向かい、マクドナルドの東脇、時計塔のところにあった。その
後駅南口周辺工事開始に伴い、豪徳寺境内へ移され、平成16年に新たに建立された地蔵尊御堂落慶
法要、地蔵尊開眼供養を執り行い、工事完了後に当時よりも東の現在地に設置されることになった。


■梅ヶ丘駅
 梅丘1丁目31番にある小田急線の停車場。都区内にある小田急の駅で唯一、小田原線開業から7
年遅れて開業した。他の駅は全て、昭和2年に同時開業している。初め駅舎は下北沢駅とそっくりに
作られた。東京山手急行との乗換駅になる予定だったからだ。しかし計画は頓挫した。昭和30年の
写真を見ると駅前に児童遊園を併設した珍しい駅環境だ。ホームは島式だったが、昭和37年に相対
式となり、同42年に橋上駅舎となった時に北口が開かれた。奇しくも羽根木公園に初めての梅ノ木
が植えられた年だ。当時の北口は
、田園調布を髣髴とさせる清閑な佇まいだったが、平成16年高架
線になったために橋上駅舎は取っ払われ、雰囲気はまるで変わっちまい、
雑多に店が立ち並んで見苦
しくなった。しかし南北の行き来はそれはそれは便利になった。
 平成16年11月21日に和泉多摩川駅までの高架複々線化工事が完了。
 ホームは高架相対式2面2線構造で、複々線の外側を走る緩行線のみにホームがある。ホームと改
札階を結ぶエレベーターは完備。改札口は1ヶ所のみで地上1階にある。出口は北口と南口の2ヶ所。


 高架化反対運動
 小田急線の高架複々線化工事は、沿線住民の反対運動で遅れに遅れたが、原告の多くは梅ヶ丘駅付
近の住民だ。原告らは既に完成している高架橋を撤去し、改めて地下トンネルによる複々線化を求め
て小田急電鉄と争ったが、地裁で原告勝訴の判決が出るも高裁で覆った。平成18年11月には最高
裁が原告の上告を退け、足かけ12年の長きに及んだ裁判に終止符が打たれた。

 
羽根木公園(せたがや百景No.17「梅と桜の羽根木公園」)

 駅北の、代田4丁目38番にある。そちらを参照されたい。
  


■梅丘セントラルマンション
 梅丘1丁目34番1号、梅丘北口駅前、東秀のあるビルは、昭和40年の建築。当時はポツンと聳
えていた。もう築50年だ。おいらのマンションもそれぐらいになるなぁ。


■銅版レリーフ
 梅丘1丁目35番1号先北沢川緑道光明橋広場の植栽のタイル壁に貼り付けてある。数点ある。地
面に建ててあるものもある。


■梅丘北公園
 梅丘1丁目40番6号にある区立公園。


■性器露出男逮捕
 梅丘1丁目43番の梅丘高架下放置自転車保管所北の路上で起きた事件。令和2年9月29日深夜
性器を露出して女性に見せたとして会社員梅沢克章(28歳)が北沢署に逮捕された。
 逮捕容疑は、今年7月の深夜、帰宅途中の20代の女性に近づき、スマートフォンのライトで照ら
しながら性器を見せたこと。
 梅沢は「若い女性がキゃーと騒いで逃げていくのに快感を感じてやった」と供述している。6月以
降、同様の事件が7件起きており関与を調べる。


歴劫山満足院本誓寺
 梅丘1丁目54番1号にある浄土真宗誠照寺派の小寺。鯖江門跡。本山は上野誠照寺。狭い寺域で
境内はない。敷地一杯に住宅のような2階建ての建物が建っているのみだ。寺のような、寺ではない
ような・・・? 東京別院満足院(歴都山本誓寺)の本尊は阿弥陀如来。本山真宗誠照寺は福井県鯖江市本町3‐2‐38にある。「せたがや社寺と史跡」に、

   昭和3年7月東京に別院設置の議起り、関東に居住の檀信徒教導のため誠照寺派出所とし
   て昭和9年5月別院を建立して現在に至る。本院は主として檀信徒教導のための布教およ
   び、法要法事に従事することを主眼としている。


 とある。


■杓子稲荷神社
 梅丘1丁目60番7号にある芸能の神。社前の路地は鎌倉道だったとのこと。ひょろひょろっと高
いクロマツが目印だ。神社そのものは周囲をぎっしりと住宅に囲まれていて、鳥居が三つと昭和前半
風の普通の住宅のような社があるだけの狭い、鳥居がなかったら神社とはとても思えない状態なので
あまり面白味はないし、ありがたみもない。しかし創建は古く、歴史上重要なのだから解らない。

   
杓子稲荷神社社記
   所在地 世田谷区梅丘1丁目60番7号
   御祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
   沿 革 室町時代、足利管領の麾下にあって権勢関東に響いた吉良治部大輔治家は、当地
       世田谷に城を築き、その鬼門(北東)鎮護としてこの地に伏見稲荷を招請、奉斎
       し厚く信仰した。
       その後凡そ200年を経た天正十八年、吉良氏はは当時婚姻の間柄にあった小田
       原北条氏と運命を共にして、豊臣秀吉の軍門に降り、当神社もまた衰滅しました
       が、後年松原宿の住民をはじめとする里人の再建、信仰するところとなり今日に
       至りました。なお、徳川幕府による元禄年間の検地水帳にも当神社の所在は記し
       ており、その鎮座のいかに古きかを知ることができます。
       (杓子のいわれ)吉良氏の一子が病弱であったところから、その乳母が「杓子の
       能くもろもろの飲食物をすくいて餘さざるが如く、若君を救いて強壮ならしめ給
       え」と、毎日杓子を捧げて祈願したことからそう呼ばれるようになったと伝わっ
       ており、杓子の食物を掬うは救うに通じ、総ての難病、災難を払い、福徳円満、
       長寿開運、万福招来の象徴であります。
   御神徳 五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として、あまねく
       信仰を集めております。
   年中行事 節 分 祭        2月節分の日
        春季例大祭(伴 初午祭) 3月17日
        秋季例大祭        10月17日          昭和60年3月

 現在のものは下線部を削除している。

 
庚申塚
 入口の鳥居を潜って右、
境内というか狭い敷地の中にある。「奉供養庚申」と彫り込んで
あって青
面金剛や3猿はない。角柱に笠石の乗ってる立派な形をしている。裏面に「昭和五十五年六月吉日」
と刻んである。

 巨碑
 庚申塔の反対側に巨大な石碑が建っている。すわ忠魂碑かと思いきや、篆額に「社殿建築浄財寄進
之碑」とある。碑文と思うところには、ご芳名がずらり、裏面も名前、名前、名前、「昭和47年1
2月3日建立」とある。よっぽど嬉しかったんだろうね。
 


■城山小学校

 梅丘2丁目1番11号にある区立校。詳細不明。

 校歌「城山の森」  作詞・土岐善麿  作曲・平井康三郎
  1.城山の森 風爽やかに
    花の光の溢れる処
    桜の蕾の膨らむように
    紅葉の色の輝くように
    楽しく学び 励み合えば
    窓に小鳥も来て鳴くよ
  2.皆健やかに踏み行く道は
    水の流れの弛まぬ響き
    広がる町並み明るく晴れて
    豊かな心 正しく清く
    明日の力 漲る時
    何時も希望は新しく
     親しく集まり共に競う
     見よ 世田谷に聳え立つ
     その名も城山小学校
 


■豪徳寺東辻広場
 梅丘2丁目4番5号の角地にある区立公園。以前は民家だったよ。相続税が払えなくて接収された
のか?


■梅丘やまぼうし公園
 梅丘2丁目6番1号にある区立公園。


■明正高等学校 
閉校

 梅丘2丁目9番24号にあった。昭和16年8月若林623番地の旧区庁舎跡に「東京市立青年学
校」として開校。同18年東京府指定青年学校。同19年4月従来の任意設置が強制設置に変更され
東京都が設置した唯一の青年学校として、「東京都世田谷区青年学校」と改称。教育内容は、現在の
定時制高等学校に準ずる学年制と、特定の科目を専修する科目制とがあり、昼間部と夜問部とが設け
られていた。
 同22年連合軍司令部教育部よりの視察があり、その際、勤労青年のための教育制度・内容が、明
年から実施する新制高等学校定時制のモデルになると激賞され、このまま高等学校にしてよいとの講
評を受けた。同23年新制高等学校発足に伴い昼夜間2部の定時制高校として「東京都立明正新制高
等学校」が設立され、青年学校長伊東栄作が初代校長に任命された。
 6月3日授業開始。この日に因み、6月1日が開校記念日と定められた。当時の校舎は、環状7号
線若林陸橋の北側付近にあった、本校移転後は区立図書館になり、環状7号線が出来た時は洋菓子の
「トレッカ」になり、「サミットストアー」になり、現在は「コジマ電機」が建っている。当時は、
終戦直後の混乱期で、設備・食糧の不十分な苦難の時代だったが、校長は、大学などから優秀な講師
を招き、青年学校時代の成果の上に立って、日本の勤労青年の模範校たらしめんとして学校経営に当
たった。校名は校長の「良心的で明るく正し人」という人間像の目標でもあり願いでもあった。
 同24年全日制設置の準備が進められ、4月1日全日制課程の設置が認可、昼問部を全日制に移行
して、全日制・夜問定時制の高等学校として発足。1年生2学級、2・3年生各1学級、計4学級、
生徒数は約150名。開校以来、校長の「友和」の精神の下に、職員生徒が一体となって、家族的な
まとまりの中で、着々と本校の基礎作りが進められた。同25年「都立明正高校」と改称。新一年生
が250名入学。同26年8月校舎に隣接する世田谷保健所が教室として移管される一方で新しい校
地の選定、校舎の建設の促進が図られた。同27年10月校地が世田谷2丁目1223番地の現在地
に設定された。同28年4月新校舎起工式。全生徒職員が参列。9月生徒職員により新校庭の除草作
業。10月石拾い・整地作業。10月18日生徒職員が整備した新校庭での初めての運動会が盛大に
行われた。同月31日第1期木造校舎2号棟西部分落成。11月2・3年生が移転し分教場と呼ばれ
た。しかし一年生の音楽は分教場で行われたため、教職員と生徒は本校と分教場の間を往復しながら
学校生活を送った。同29年第2期木造校舎2号館東部分落成。6月30日全校移転完了。
 同30年第3期木造校舎1号棟落成。同32年校歌制定。同33年校旗樹立。第5期木造校舎3号
棟落成。創立10周年記念式典。同35年体育館完成。同37年第6期鉄筋校舎落成。同40年3号
棟移動跡に第7期鉄筋校舎落成。同42年学校群制度25群(千歳・千歳丘・松原・明正)。同43
年鉄筋校舎増築。この時点で、生徒1350名、鉄筋校舎1棟、木造校舎2棟、曳家1棟、体育館。
創立20周年記念式典。長野県茅野市に白樺山荘完成。同45年千歳丘と26群。同47年制服を廃
止し登校服装は自由とする。同49年プール落成。同50年2号棟を鉄筋校舎に改築。同57年合同
選抜制度22グループとなる。同60年校舎増改築。同63年LL教室設置。
 平成6年単独選抜制度に復帰。同10年創立50周年記念式典。同15年3月31日廃校。

 全日制
 都立千歳高等学校と統合し、都立芦花高等学校になった。

 校歌
 「歴史の眠る」  作詞:中村真一郎  作曲:入野義明
  1.歴史の眠る丘を眺め
    桜の匂いに包まれ
    限りない夢を育む
    おゝ明正高校
    美しく伸び行く心
    自由の風の中を
    明るく そして正しく
    吾等は進む
  2.世界の足音に耳を傾け
    銀杏の光を浴びて
    希望の翼を羽搏く

    おゝ明正高校
    熱い友情の証
    自主の旗の下を
    清く そして遠く
    
吾等は進む
  3.年毎に新たに蘇る
    若葉の生命を享けて
    声を合わせ明日を歌う
    おゝ明正高校
    未来を築く喜び
    自尊の陽に向って
    健やかに そして強く
    吾等は進む


 定時制
 都立烏山高等学校・代々木高等学校(定時制・三部制)と統合し、世田谷泉高等学校となった。

 定時制の歌
「東筑波峰遠く」
  1.東筑波峰遠く
    西に富士の嶺仰ぎ見て
    都の南 世田谷に
    建てる甍ぞ 我が母校
    集う若人六百の
    学究の意気 火と燃えん
  2.見よ混濁の世なりとも
    泥土に咲ける花の如
    その名も示す
    清き明るき我が母校
    集う若人六百の
    溢るる歓喜いや高し

 跡地の碑

 平成18年公売により、跡地は大半を国士舘大学が購入し、34号棟を建て梅ヶ丘キャンパスとし
た。一部(テニスコート辺)を円光院幼稚園が購入し、一部は都道が新設された。景観は随分変わっ
たよ。梅ヶ丘キャンパスに「東京都立明正高等学校ここにありき」の石碑が建てられている。碑文は
特になく、沿革と全日制と定時制の校歌の1番が刻まれている。建立年は平成15年3月。建立者は
同窓会だ。

   沿革
   昭和16年8月 若林623番地に東京市青年学校として設立
   昭和19年4月 東京都世田谷区青年学校と改称
   昭和23年4月 昼夜間二部制の定時制高等学校として東京都立明正新制高等学校と改組
           改称し、初代校長として伊東栄作氏が着任。同年6月1日を開港記念日
           に定める。
   昭和24年4月 全日制課程が認可され、全日制、夜間定時制の高等学校に改組
   昭和25年1月 東京都立明正高等学校と改称
   昭和27年十月 初代教頭鈴木一郎氏より委譲の現在地梅丘2丁目9番24号に移転
   平成15年3月 都の施策による統廃合のため定時制は都立世田谷泉高校として、また全
           日制は都立芦花高校として再生

 この沿革の下に、  
都立明正高等学校 ここにありき
 と刻む。隣に校歌。

    定時制の歌            校歌
   東筑波峰遠く           歴史の眠る丘を眺め
   西に富士の嶺仰ぎ見て       
桜の匂いに包まれ
   都の南 世田谷に         限りない夢を育む
   建てる甍ぞ 我が母校       おゝ明正高校
   集う若人六百の          美しく伸び行く心
   学究の意気 火と燃えん      自由の風の中を
                    明るく そして正しく
                    吾等は進む

   平成15年3月建立 同窓会


中根山念空寺
 梅丘2丁目10番15号にある浄土真宗系の単立寺院。寺の前の木にサルノコシカケがある。それ
が、平成18年の9月28日にふらっと寄ってみたら、あらあら、ばっさり裁ち伐ってあって、切り
株だけが残ってた。洞が出来てるから腐っちゃったんだろうさ。見せたかったよ。30cmもあった
んだぜ。
 


■稲荷社 ◇

 梅丘2丁目29番2号にある小祠。境内は「梅丘二丁目子どもの遊び場」になっており、庚申堂が
同居している。

 庚申堂 ◇
 境内左手にある小祠。板状駒型。日月・青面金剛像・三猿。右面に「庚申講結衆」「宇田川」左面
に「宝永五戊子年(1708)九月吉日」と刻む。


■チャンチン
香椿)
 梅丘2丁目33番9号の後藤宅にある世田谷区名木百選の1。樹高15m。目通り幹周1m58c
m。枝張り7m。センダン科の落葉高木。中国の北・中部原産。高さは10m以上。葉は卵形の多数
の小葉からなる羽状複葉で、若芽は赤褐色を帯び、茎・葉・花に独特の匂いがある。花期は7月頃。
枝頂から房状に白い小花が密生して多数咲く。実は果で秋に熟して5裂する。庭木や街路樹とされ、
材は堅く、家具や器具用材などに用いられる。
 


■梅丘とちのき公園
 梅丘3丁目7番1号にある区立公園。


■山崎中学校 
閉校

 梅丘3丁目8番1号にあった。昭和22年山崎小学校内に「東京都世田谷区立山崎小学校」として
生徒数83名2教室で開校。同23年校地買収。同24~26年第1~3期校舎落成。同28年校舎増
築2教室。同30年校舎増築4教室。同35年体育館完成。同37年鉄筋コンクリート造り新校舎16
教室落成。校歌制定。

 
校歌希望を込めて 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.希望を込めて仰ぎみる
    若い力の燃え立つ青空
    緑は色濃く大気は清く
    自主の精神育むところ
    吾等の山崎愛する母校
  2.変わらぬ気風敬愛の
    心楽しく湧き立つこの窓
    輝く世田谷昔も今も
    理想貫く教えはここに
    吾等も弛まず果てなく進む
  3.明日待つ空の富士ヶ嶺に
    夢を遥かに囁く喜び
    平和の文化をこの手に築く
    固い誓を日毎の胸に
    吾等の山崎栄ある母校


 同40年プール完成。同42年創立20周年記念式典。同49年ひなぎく学級開設。同52年創立
30周年記念式典。同62年創立40周年記念式典。
 平成9年創立50周年記念式典。同17年創立60周年記念式典。同23年若林中学校と統合して
「世田谷区立世田谷中学校」となり閉校した。


■世田谷中学校

 梅丘3丁目8番1号にある。平成23年山崎中学校と若林中学校が統合して開校した。この世田谷
中学校は、その名の表すとおり、世田谷区を代表する中学校となるべく、「自律・寛容・創造」を校
訓とし、人間尊重の教育を推進することにより、高い知性と豊かな情操をもつ心身ともに健康な生徒
の育成をめざす。また若林・山崎・城山の3つの小学校とともに、「世田谷杜の学び舎」として、地
域運営学校および「世田谷9年教育パイロット校」等の先進的な取り組みを進めていく。
 

 校歌「
桜咲く」 作詞:重松清  作曲:宮川彬良
  1.桜咲く学び舎で
    友と語らい手を取り合って
    育もう命の力
    涙乾けば そこが希望の道になる
    輝け世田谷 羽ばたけ吾等
    富士の高嶺のその遥か
    青春の空に 飛び立とう 飛び立とう
  2.茜射すこの街で
    時に独りと向き合いながら
    鍛えよう心の力
    転んだ傷も何時か未来の道標
    輝け世田谷 帆を張れ吾等
    水平線のその彼方
    青春の海に 漕ぎ出そう 漕ぎ出そう
 


■山崎小学校

 梅丘3丁目る9番1号にある。昭和18年「東京都山崎国民学校」として開校。普通教室12・特
別教室4でスタート。日米戦争のため長野県浅間温泉に198名が集団疎開。残留438名。同20
年敗戦。同21年校歌制定。

 校歌「
緑豊けき」 作詞・白鳥省吾  作曲・梁田貞
  1.緑豊けき武蔵野の
    彼方の空に富士を見る
    ここ世田谷の山崎に
    集いて学ぶ楽しさよ
    勉めん 今日も
  2.目覚め清しき朝ぼらけ
    泉の如く湧く希望
    睦て共に励みつつ
    新しき世の道を行く
    幸あれ 今日も
  3.花を学びの園に摘み
    明るき行く手とりどりに
    光溢るるゆりかごの
    我が山崎は良きところ
    栄あれ 永劫に


 同22年戦勝国アメリカの強制による地方自治法・学校教育法の施行により「東京都世田谷区立山
崎小学校」と改称。同27年校舎増築6普通教室。同28年創立10周年記念式典。同30年講堂落
成。同31年校舎増築4普通教室。同37年創立20周年記念式典。同42年プール完成。同47年
創立30周年記念講演(作家山岡荘八)。同48年創立30周年と校舎改築お祝いの会記念式典。同
62年山形県舟形町立長沢小学校との交流学習開始。同63年長沢小学校を訪問。
 平成元年伝統工芸室落成。同4年創立50周年記念式典。同7年プール改修。同8年長沢交流10
周年。平成9年創立55周年記念航空写真撮影。同14年創立60周年記念式典。同15年耐震化工
事完了。

 
山崎太鼓

 6年生全員による和太鼓の演奏。5月の運動会でデビューする。学校の行事などで演奏するほか、
区民まつり・子どもまつり(8月)、商店街のまつり(9月)、梅まつり(2月)などで演奏し、地
域の行事でも活躍。12月には、5年生へのバトンタッチの活動が始まり、6年生を送る会(3月)
で5年生にバチを渡して卒業です。5年生と6年生の心の絆が涙を誘うとか。 
 



【大蔵】(おおくら)1~6丁目                   昭和46年5月1日
 大蔵村・横根村北部。明治22年し「市制町村制」により北多摩郡砧村の大字。昭和11年世田
谷区に編入して大蔵町。昭和46年新住居表示により大蔵町・北見町・鎌田町・岡本町・玉川瀬田
町・玉川用賀町3丁目の各一部をあわせて現行の「大蔵」とした。
 大蔵の地は、多摩川・仙川の低地に接した良好の地で早くから人々が住み着いた。3丁目に縄文
時代早期の大蔵遺跡があり、4丁目にも同様の遺跡が見られる。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『世田谷区史』『世田谷の地名』など。

 大蔵の由来
 大蔵は財務省の前身を大蔵省といったように律令制度において朝廷の財務会計を司った役所、延
暦七年(788)二月中宮太夫従四位上朝石川臣豊人(なかつみやのだいぶじゅしいのじょういし
かわのあそみとよひと)を兼武蔵守として七月に大蔵卿とした(続日本紀)。これを受けて『江戸
名所図会』では「国守(くにのかみ)は府中に居るものだが、武蔵府中は多摩郡にあり大蔵村は荏原
郡だが、両郡は接しており府中も近いので豊人卿が住んだのだろう。それで大蔵村の名が起こった
のではあるまいか」と推測しているが、まず第一国家の大蔵大臣が武蔵国に居てどうするの? こ
の頃は「遙任」といって国守に任ぜられても赴任せず代わりの者(目代)を生かせてちゃっかり得
分(職務給)だけ懐にするという、いつの時代も高級官僚の性根は知れたもので、だから石川豊人
が武蔵に住む訳もなく、まして国府に住まないで弩田舎に住むか? しょむない。この豊人さんは
お忙しいことに神功皇后が三韓征伐の時に見つけたという鈴石を持ってやってきて大田区に磐井神
社まで造営している。
 「小倉・小椋・大蔵・大倉・小蔵・御蔵・宮本は木工品を作って生活していた者(木地師・轆轤
師)に限る姓で、この地名の多くは彼らによって山間の集落に付けられた」(山中襄太郎『地名語
源辞典』・柳田国男『故郷七十年』)。前記の姓について「この名が木地師の山村集落に多いのは
近江国愛知郡小倉を本拠として全国各地に材料を求めて移住したためで「おぐら・こくら」は「小
高い台地」からきた言葉である」(鏡見完二・明克父子『地名の語源』)。それで当地大蔵はという
と大蔵城跡もあり、過去は森林だったろう風情だ。中でも石井戸(いわいど)地区は現在でも木地
師の住み着きそうな佇まいを彷彿とさせる。土地の旧家石井家の先祖は源頼朝の重臣安達盛長の孫
景盛の次男石見守兼周で武州荏原郡石井郷(大蔵)を賜り石井(いわい)を名字とした。その兼周は
鎌倉の大蔵ヶ谷を故地としたというから、大蔵は木地師に因むのではなかろうか? 石井戸には、
ざっと数えても石井家が20軒はある。大田区の下丸子は椀を作ることを生業とした丸子部の部民
が住み着いたという。
 


■大蔵
大根
 大蔵といえば大根という時代があった。大根畑の続く大蔵原は、冬の木枯らしから春の花散らしま
で風が吹く度に砂塵濛々としてそれはそれは大変だった。信じないか?

 
 風面(かざおもて) 朱に吹き立つ春真昼 ゑぐき埃に食厭(じきいと)うなり
(白秋)

 さて大根は
練馬系の「秋つまり」。豊玉郡の源内が作り出したといわれ「源内つまり」ともいう。
自然交配の突然変異と考えられている。長さは40~50センチ、直径5~6センチぐらいの円筒形
で、先端が丸く詰まっているところから「つまり大根」の名がある。煮物に
適し、漬物にも用いられ
る。大蔵原で栽培されるものについては「大蔵大根」という銘柄の特産品になった。現在大蔵からは
消滅したが、品種としては生き残っている。
 


■民話・怠け者茂平

 大蔵原のはずれに、茂平という村一番の怠け者がいた。働き者の女房が嫁いできても一向に怠け癖
が直らない。とうとう呆れて女房は実家に帰ってしままい、親戚の者も愛想をつかせてしまった。そ
んな茂平が何を食べて生きていたのかというと、家で飼っているガチョウが毎日産み落とす卵を飲ん
でいたのだ。しかしそのガチョウも年を経るにつれ卵を産めなくなっていった。しかし茂平はガチョ
ウをせっつき脅して卵を産ませていた。するとその内に茂平の姿がガチョウになってしまったのだ。
俄然勢いづいたガチョウは、今度は茂平に餌をとってくるようにといい、ガチョウになった茂平は、
今まで卵を産んでくれたガチョウのために、せっせと餌を探す日々となったとさ。お猿の尻はまっこ
う。


■南大蔵保育園
 
大蔵1丁目7番11号にある区立園。


■砧公園(極々一部)
 大蔵1丁目8番にある区立公園。何故こんな一部分を大蔵に入れておかねばならないのか? 権利
関係もないだろうし・・・


■世田谷清掃工場
 大蔵1丁目1番1号にある。工場というと何か作り出すみたいだが、ゴミ処理場だ。世田谷区には
八幡山にもあるのでふたつもある贅沢振りだ。2代目が平成16年夏に着工して同20年春に落成し
た。
 


■大蔵一丁目公園
 大蔵1丁目2番5号にある区立公園。


■東京都中央卸売市場世田谷市場
 大蔵1丁目4番1号にある。昭和47年3月27日世田谷市場(青果)は、周辺区部消費人口の増
加と既設市場の過密に対処して生鮮食料品等の流通の円滑化を図るため、旧荏原市場の世田谷・調布
・玉川3分場の整理統合を軸として計画されたもので、板橋市場と共に周辺区部の市場網整備の第一
段階として建設された市場だ。花卉の開場は平成13年4月14日。
 


■大蔵庚申神社 ◇
 大蔵1丁目6番14号にある庚申塔3基を祀る小社。登戸道に面しているが、社は丘の上にあって
民家に遮られて見えないので判り辛い。少し高いところに石鳥居がある。それを見つけることだ。
 


■横根稲荷神社 ◇
 大蔵1丁目6番20号にある中社。横根村の鎮守。

   横根稲荷神社
   往古より三本杉横根のお稲荷様と尊称され稲荷講を中心として篤い崇敬と深い信仰をあつ
   めてきました御社殿は永い年月により老朽化がはなはだしくなり相寄りあい語らいて御造
   営をいたし御神徳をお慰め申し上げることに致しました
   子々孫々に至まで大神様のご加護を戴き互いに睦び和らぎつつ平和な世をおくり稲荷様の
   杜を後世に伝え護ることを祈念いたします
                                      建設委員会
   地鎮祭
   平成元年8月6日
   遷座祭
   平成2年1月24日
   御社殿改築 十坪
   社務所新築 三十坪
   鳥居
   狐像建立
   手水舎
   参道敷石新設
 


■大蔵ひまわり緑地
 大蔵1丁目6番22号にある区立公園。


■石橋再建供養塔 見当たらず
 大蔵1丁目7番16号にあると区の資料にある。写真ではとろけて殆ど文字は見えない。
 


せたがや百景No.64 大蔵の五尺藤

 大蔵1丁目9番3番の和田宅にある。世田谷区名木百選の1。その名の通りに房の長さは1mを越
え、房の数は6000以上にもなる。5月の初旬、紫の花が満開になる頃は見物に訪れる人も多く、
このところの名所の1つになっている。


■カルミア
 同じ和田宅にある。世田谷区名木百選の1。樹高3m50cm。枝張り3m60cm。ツツジ科に
属する植物の属。約7種あり、常緑の低木で高さは02~5m。北アメリカおよびキューバ原産。酸
性の土壌で生育する。北アメリカの植物を収集したスウェーデンの植物学者ベール・カルムに因み命
名された。葉は披針形で長さ2~12cmであり、茎に螺旋状につく。蕾は突起があり金平糖状。花
は白、ピンク、紫などで、10~50個の散房花序である。ツツジ属に似るがより平らで、星型の萼
とつながった5枚の花弁がある。直径は1~3cm。果実は5つの丸い突出部のある蒴果で、開裂し
て多数の小さな種子を出す。
 


■結工房 田嶋宏行記念美術館

 大蔵1丁目13番14号、安藤カネ宅跡に入った。版画家の故田嶋宏行の作品を毎月13点ほど入
れ替えし以て展示している。建築設計事務所併設の民家を改造した美術館なので小さなギャラリーの
ような雰囲気。入館料は結構高めだ。

 田嶋宏行
 元々油絵画家だったが、木版の世界に目覚め、木版による抽象画を多く制作した。独特の世界観を
持つ作品は海外でも好まれ、50を越える各国の著名な美術館(ブルックリン美術館、コロンビア美
術館、ニューヨーク美術館など)に永久保存されている。亡くなった後は、夫人により、大英博物館
に100点あまりが寄贈され、平成14年12月に日本を代表する版画家の一人として展示された。
日本では町田版画美術館に百数十点が寄贈されている。独特の世界観を持つ抽象画は、見るものを圧
倒するが、特に色使いに優れており、一つの色を基調として様々に変化させることにより、不思議な
雰囲気を表現し、心理の深層を表現しているように感じられ、心に深く響いてくる。
 


月輪山
円光寺
 大蔵2丁目2番1号にある浄土宗西山禅林寺派の寺。本尊は阿弥陀如来、厨子入り金箔を施した3
尺の木彫立像。本尊の右に法然上人(円光大師)厨子入り坐像。左に親鸞聖人の立像が安置されてい
る。開基は伝空月海上人で、大正6年2月10日に没した。初め幕府牢獄のあった小伝馬町に創立た
が、明治15年市ヶ谷に堂宇を建立し移転。しかし関東大震災で全焼したため、昭和5年2代内藤隆
観の時、大蔵町字坂上164番地だった現在地に移転し、今日に至っている。境内798坪、本堂3
5坪、庫裡100坪強、墓地約1400坪。庫裡の庭に鉄筋コンクリート建ての堂があり、中に6尺
ほどの金物造り立像が安置されている。大正8年篤志家の奉納になるという。
 「せたがや社寺と史跡」に、


   円光寺(大蔵町164)
   浄土宗西山禅林守派に属し、月輪山円光寺と称する。本尊は阿弥陀如来、厨子入金箔を施
   した3尺 (90cm)の木彫立像である。本尊の右に法然上人(円光大師)厨子入座像、
   左に親鸞上人の立像が安置されている。当山開基は伝空月海上人で大正6年2月10日没
   した。当寺は牢獄のあった日本橋小伝馬町にあったが、市ヶ谷へ移転し、明治15年寺を
   建立した。大正12年関東大震災にあい建物全部を焼失したため、当寺2代内藤隆観師に
   よって昭和5年砧大蔵字坂上という現住地に移った。境内敷地798坪(2633.4㎡)
   本堂35坪(115.5㎡)、庫裡100.28坪(330.92㎡)、境外墓地坪数129
   6坪(460.8㎡)、庫裡の庭に鉄筋コンクリート建の御堂あり、中に6尺(180cm)
   ほどの金物造立像が安置されている。大正8年篤志家の寄贈によるという。


 とある。
 


■目黒星美学園中学校・高等学校

 大蔵2丁目8番1号にある女子のミッションスクール。昭和29年目黒区に星美学園第二小学校開
校。同35年中学校開校。同38年高等学校開校。平成12年創立50周年記念式典。

 設立母体 サレジアン・シスターズ(扶助者聖母会)
 聖ヨハネ・ボスコ(通称ドン・ボスコ)により創設され、聖女マリア・ドメニカ・マザレロを初代
総長として教育、社会活動に携わる。ローマに本部を置き、世界88ヶ国で活動している。
  


■東京第四陸軍病院国立大蔵病院国立成育医療研究センター
 大蔵2丁目10番1号にある成育医療を目指す総合病院。大蔵病院は、昭和20年12月東京第4
陸軍病院から厚生省所管の国立病院として発足。同32年総合病院となる。同40年救急指定病院と
して告示される。平成9年成育医療センター計画発表。同14年3月1日
太子堂の国立こども病院と
国立大蔵病院を統合して「国立成育医療センター」として開院した。

 閉院記念碑
 入口近く世田谷通り側植栽の中にある。自然石にプレートが嵌め込んである。

   国立大蔵病院
   2002年2月閉院記念

 親子ぞう像
 庭にある石像。大きさは実物の子ぞうくらい。子ぞうぞうはさらに小さい、敷地ないにある成育保
育園の園児が自力でやっとこさ登って跨れる程度。園児がおいらのとこに来てにっこり笑うんだよ。
堪らないね。奴らは何で可愛いんだろうね。元気が出てさらに歩いたよ。
 地面にプレートが貼ってある。

    Dasein‐生きること‐
       四方菜々子 作
   ぞうさんはいつもみんなとしっしょ
   みんなでちからをあわせて
   いっしょうけんめいいきてるんだよ
    設置 2003年8月20日
      国立成育医療センター

 
「ふたば」
 構内にある腰掛けている話している子どもの石田光男の銅像作品。


■大蔵遺跡

 大蔵2、3丁目大蔵団地の地下にある。昭和34年の発掘調査で13戸もの竪穴式住居跡が発見さ
れた。住居跡は不整円形で地表下約1mの深さの床は築き固められ、直径5~7mの大きさでほぼ中
央に炉が設置されている。炉は石で囲ったもの、土器の底部を抜いて埋めたものとがある。発掘され
た土器は大型の鉢形土器が多く、石器には石斧・石鏃・石棒・石皿などが出土した。この住居跡は惜
しくも整地されて住宅団地となり、その縁(よすが)を偲ぶべくもないが、発掘状況、出土状況の写
真や出土品の一部は郷土資料館に保管されている。
 説明板が日大商学前の横断歩道橋のところにある。以下の通り。

   大蔵遺跡
   現在団地であるこの一帯は、昭和34年の調査で縄文文化中期の竪穴住居址(11)、配
   石址(1)が発見され、多くの縄文土器、石斧、石鏃、石棒、石皿などが出土した。
   特に配石址は中央の炉址を環状に石器類や河原石でとりかこむ珍しいものであった。
   なお、これらの出土品は、世田谷区立郷土資料館に保存されている。
   昭和47年12月                       世田谷区教育委員会

 石井戸塚(石井神社旧地)
 この塚は、大蔵3丁目5番27号辺にあり、昭和63年に東京都教育委員会より発行された『東京
都遺跡地図』には「石井戸塚」の名称で掲載されている。同
図では、世田谷区の遺跡番号245番の
「時代不明の塚」とし乍らも「方墳』とも書かれている。最新の『東京都遺跡地図情報インターネッ
ト提供サービス』では「石井土塚」という名称で掲載されている。因みにこの地域は、町名にはなっ
ていないものの「石井戸」(石井と井戸をかけて石井戸)という地名で呼ばれており、また石井戸は
「石井土」とも書かれているようなので、どちらが正しい塚の名称なのかは何ともいえない。学術的
な調査の記録は見当らず、発掘調査は行われていないようなので、塚の性格や出土品の存在などの詳
細も不明だ。塚はぐり石垣により方形に改変されており、この形状からは方墳であるようにも見うけ
られるが、南側に残されている塚の残土の様子からは、円形の塚であった可能性も考えられる。
 『大蔵 世田谷区民俗調査第7次報告』にはこの塚について

   塚の祭り 大蔵団地の中の妙法寺領のところに塚があり、そこに妙法寺住職の玉田顯壽氏
   が大正7年2月9日に「石井神社舊地」と刻んだ石碑を建立した。一昨年よりその祭りを
   行うようになり、その際には経を唱え、子供達に甘酒を配り、石井戸囃子を奏じた。以後
   何年か間隔をあけて行う予定だという。

 とのみ書かれており、塚の性格については触れられていない。

   
石井神社舊地


せたがや百景No.63 大蔵団地の桜

 大蔵3丁目。大蔵団地内を遮る世田谷通りは、バイパスとして切り通したもので、元から谷間だっ
た訳じゃあない。日大商学部正門前を通る道(畳屋坂)が本来の世田谷通り(登戸道)で東宝映画の
交差点のとこでバイパスが合流してくる。団地の桜はチョー有名で、特に切り通しの景観はスッバラ
シイの一語に尽きる。今を盛りと咲き誇る桜。いちばん盛んな樹齢に達した桜が団地と世田谷通りを
飾る。シックな団地の壁面と見事なコントラストを作りあげる。住民の自慢の春の眺め。切り通しを
跨ぐ陸橋は弥生橋という。春三月は弥生だからねぇ。
 世田谷通りの大蔵~成城の間は長い坂道になっている。下る分には気持ちがいいのだが、上るとな
ると只管(ひたすら)真っ直ぐ長い坂なので気分的にしんどい。この坂の両脇には桜が植えられてい
て、といっても街路樹ではなく、土手というか、歩道の更に外側に植えられている。坂の上の方は大
蔵団地があり、敷地を平らにしている都合上、道路から見るとかなり高い位置に桜が見える。これが
ここの特徴の一つとなっていて、桜が咲いている時期にはよりスケールの大きな桜のトンネルができ
あがる。交通量が多い世田谷通りの桜並木。これだけ交通量の多い桜並木は、全国的に多くないだろ
う。そして最大の魅力は道路が切り通しになっていることだ。さらには崖の上には大蔵団地の建物が
あり、全体的な切り通しの規模を大きくしている。その結果、世田谷通りがちょうど風の通り道にな
る。だから桜吹雪が凄い。交通量が多いので、道路に落ちた花びらが舞い上がる。バスなどの後ろを
走ろうものなら、目の前で桜が渦を巻いていることさえある。車だったら「わぁー、きれい」で終わ
ることも、バイクだと「わぁ~、前が見えない!」と危険を感じることも・・・。目的地に到着して
バイクから降りると、襟元などに桜の花びらが数枚挟まっていることはよくあることだ。
 


■大蔵3丁目の池
 
大蔵3丁目2番、3丁目団地内国分寺崖線にある湧水池だ。傾斜地から湧き出す水は量も比較的多
く水音が絶えない。池畔にはテラスが設置され、澄んだ池を眺めることができる。以前はコイやニジ
マスが泳いでいたが、水生生物保護のため今はいない。何とここにはまだサワガニがいるそうだ。世
田谷通りをはさんだ北側にも小さな池がある。


■大蔵三丁目公園
 大蔵3丁目2番40号にある区立公園。


■ざとうころがし
 大蔵4丁目1番、グランド橋から大蔵グラウンドの方に向ってカーブを切って下る坂道は、今でこ
そ歩いても上り下りできるが、往時は途轍もない急坂だった。昔この辺りは、人里離れた寂しい所で
一面の雑木林。已む無く通る人は怖くて山から里へ転げ落ちるようにして通ったので「里ころがし」
といったのが、訛って「ざとうころがし」と呼ばれるようになった。座頭が転んで落ちるほどの急坂
と比喩したもので、語り継がれる内に尾鰭がついて哀切物語も作られた。座頭とは、中・近世におい
て僧形の盲人で、琵琶・琴などを弾いたり、また按摩(マッサージ)・鍼灸などを職業とした者の総
称だ。勝新太郎の『座頭市物語』があるじゃない。今はビートたけしか? いや香取慎吾か?
 坂下は清水橋。曲がりくねっている。大蔵運動公園のトラックが造成された時、本来の坂道は修正
され現在の形に作り替えられたが、転げ落ちる程の急勾配はなくなった。
  


■屋敷稲荷 ◇
 大蔵4丁目1番19号石井宅にある小祠。道路向かいに打越の辻地蔵がある。 


■大蔵四丁目公園
 大蔵4丁目1番27号にある区立公園。


■打越(おっこし)の辻地蔵 ◇
 大蔵4丁目6番1号の大蔵運動公園の角、ざとうころがしの坂下にある。庚申塔など3基が小さな
覆屋の中に鎮座している。但し地蔵尊はいない。
 ①庚申塔は笠付角柱。総高82cm、塔身部68×27×18。日月・青面金剛像・二鶏・三猿。
  左面に「庚申講供養ノ所」、右面に「享保元丙申天十一月吉祥日」、下部に鎌田村6名、大蔵村
  1名の名を刻む。
 ②もう1基、駒型浮彫。日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏・三猿・「講中」。像右に「庚申講供養ノ
  所 大蔵村」、像左に「享保十五庚戌暦十一月吉日 十人」を刻む。
 ③駒型浮彫。日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏・三猿。下に「講中」、像右に「庚申講供養ノ所 大
  蔵村」、像左に「享保十三戊申年 十二人」と刻む。」
 


■愛宕坂 ◇
 大蔵4丁目6番1号大蔵運動公園の角の辻地蔵のところから西北に上がって行く坂道。かなり急な
坂(高低差13m,平均斜度5.3度)。 、


大蔵運動公園せたがや百景No.65 大蔵の総合公園)
 大蔵4丁目6番1号、都立砧公園の西に道を挟んで作られた運動公園で、門を入ると正面に近代的
な体育館と噴水が目に入ってくる。ほかに野球場、陸上競技場、テニスコート、第一武道場(畳)、
第二武道場(床)、エアライフル場、弓道場、洋弓場、体育室、温水プールなどのスポーツ施設が完
備され、さわやかな汗を流すスポーツ・ゾーンとなっている。フィールド・アスレチックコースは子
供たちに人気が高い。公園だからスポーツをやらない年寄りだって子供だって利用できるようになっ
ている。

 東京オリンピック日時計
 門を入って右手前方にある。

   東京時計商組合世田谷支部
   創立三十周年記念
   昭和三十九年六月十日

   北緯  35°37′08″
   東経 139°37′00″
   日本標準時(明石135°)との    
東京オリンピック大会マーク
   南中時刻の差
   18分40秒
   季節による時差の表
(割愛)

   協賛 世田谷区役所 

 「循環現象~鉄No.12」
 門を入って左手自由広場にある。藤井浩一郎のり作品。平成5年設置。

 
「希望と瞑想の場」
 門を入って左手前方にある石造彫刻。高橋清作 昭和58年設置。

 C57蒸気機関車
 児童園に綺麗に保存されている。昭和13年に川崎車両株式会社が制作し、その後6年間の配置区
歴は判らない。昭和20年以降は、岡山機関区、仙台機関区、小樽築港機関区、室蘭機関区、苗穂機
関区、岩見沢第一機関区を経て、同51年3月31日廃車。同年6月に、この公園に設置された。走
行距離は、3365110km(地球、月間約4往復半)

 「躍動の泉」
 噴水彫刻。昭和57年4月設置。ジョージ蔦川の作品。

 総合運動場開設二十五周年記念碑
 自由広場にある。碑裏には土地提供者の名前がびっしり刻まれている。

   総合運動場開設二十五周年記念碑
   平和の祭典、オリンピック東京大会の余韻が残る昭和四十一年区議会はじめ多くの区民の
   熱意と協力により、世田谷区立総合運動場は誕生いたしました。以来八十万区民のスポー
   ツ、リクリエイション、そして憩いの場として親しまれています。記念すべき開設二十五
   周年にあたり、貴重な農地、用地を提供された方々を称え末永く後世に伝えます。
   平成三年三月                        世田谷区長 大場啓二


 「ふくろう」のオブジェ
 碑の右横にある記念彫刻。石製円柱の上に梟がとまっているオブジェが2基。その脇右に彫刻の説
明プレートがある。

   ふくろう  OWL
   星、夜のたよりの音がする(右)
   夜の刻(左)

   山本常一 JOICHI YAMAMOTO


 石灯籠
 ピラミッド型体育館前の和風庭園にある。

   石灯籠
    銘文
   奉献石燈籠 兩基
   武州東叡山
   大猷院殿尊前
   慶安五年壬辰四月二十日
   從五位土井遠江守利隆
    年代
   慶安五年(1652)
    伝来
   第二次大戦直後、美谷島英一郎氏(現宮坂一丁目在住)が、上野にある東叡山寛永寺より
   譲り受けた徳川家霊廟の奉献灯十基のうちの一基で、昭和58年当区に寄贈されたもので
   ある。笠部の繫手の一部に瑕があるのは関東大震災の折、倒れた時できたものである。
   なお東叡山の奉献灯はこのほか区内には数基現存している。
   また銘文の大猷院とは3代将軍家光の法号である。
   奉献者の土井利隆は、初代大老土井利勝の子で、十万石の古河城主を継ぎ、初代少老に任
   ぜられたひとである。
   昭和61年2月                        世田谷区教育委員会

 「VIBRANT SPRING」
 ピラミッド型体育館正面にある噴水塔。



■石井戸の愛宕山(せたがや地域風景資産3‐12)

 大蔵運動公園辺りの国分寺崖線の一角、大蔵の仙川沿いにある豊かな緑と湧水を有する斜面地を地
元では愛宕神社を祀ったことから「愛宕山」と呼び、崖下の低地は「石井戸」と呼ばれていた。昔か
ら子どもたちが遊んだ原風景として、今に残る風景をその地名と共に残し、後世に伝えていきたい資
産だ。なお愛宕神社は大蔵氷川神社に遷座している。

 
弁財天
 公園西側の崖下にある。大小の石製の祠があり、木の根元に円柱があり「辯財天」と刻んである。
石の鳥居もある。

 武蔵御嶽神社
 公園西側の崖下にある小祠。周りに右から「大山太々神楽巻上記念碑」「御嶽神社太々記念碑」と
「伊勢太々記念碑」がある。石製の社の右脇に由緒を書いた紙を張り付けた説明板がある。

   
武蔵御嶽神社 大口真神
   
この祠は、武蔵御嶽神社の大口真神をお祀りしたお社です。
   大口真神は狼のことで、その昔、日本武尊が東征の際に、山中に現れた邪神のため身動き
   がとれず困っていた時に、狼が現われ無事に尊を導いたという伝説に由来します。以来、
   大口真神は、魔除け、災難盗難除けとして御嶽講の人々に崇められてきました。この社は
   江戸時代に、この土地の魔除け、災難除けを祈願するために、この村の御嶽講の人々が。
   建てたものです。毎年二月に大口真神のお札を交換しお祭りしています。
 


■公園橋・グランド橋・大六天橋(せたがや百景No.67東名高速の橋)
 東名高速自動車道は、大蔵の城山を切り通して造成された。瀬田口というか世田谷口というか、東
名入口を入ると視界が開けるまで、暫く谷間を川崎に向って走る。この谷間は土を削り取って拵えた
もので、大蔵城址はすっかり抉り取られてしまった。ために旧来の道だったところには陸橋が架けら
れることになった。それが三つの橋だが、砧公園に渡るので公園橋、大蔵グラウンドからグランド橋、
橋詰に大六天社を移したので大六天橋。大六天社は大蔵城にあったものという。これら橋から西の眺
望は素晴らしい。また自動車群の疾走は圧巻だ。夕闇が迫ればヘッドライトの光の奔流が走る。日夜
鼓動する日本の大動脈を眺めるのは心躍るものがある。富士ヶ嶺も夕焼けの彼方だ。
 


■清水橋公園
 大蔵5丁目1番3号にある区立公園。


■石井戸公園
 大蔵5丁目1番20号にある区立公園。


庚申堂・地蔵堂 ◇
 大蔵5丁目7番1号の駐車場の入口脇に並んである。仙川の中之橋の傍だ。
 1基は駒型、日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏・三猿。享保十三年。
 もう1基も駒型。日月・青面金剛像・「梵字 庚申講供養之所」と刻み、その下に三猿。享保十七
年。
 


■屋敷神 ◇
 大蔵5丁目7番6号福島宅の敷地にある小祠。


石井戸稲荷大明神跡
 大蔵5丁目12番3号妙法寺のあるところにあった。現在も、寺の境内に稲荷を安置し、年に数回
祭を行って稲荷神を怒らせないように気を使っている。実際の稲荷は大蔵氷川神社に合祀した。旧氏
子は寂しいので年に一度「石井戸祭り」を催し、帰ってくる稲荷を祀っている。祭りは大蔵5‐18
‐19の石井戸公会堂で行い、旧交を温めている。


東光山妙法寺
 大蔵5丁目12番3号にある日蓮宗の寺。本尊は日蓮大菩薩で約3尺の木彫坐像だ。開山本乗院日
証上人は寛文四年(1664)五月二十三日に寂滅している。『新編武蔵国風土記稿』には、

   境内除地除地三百坪、村ノ小名石井戸ニアリ。日蓮宗、甲州身延山ノ末、東光山ト称ス。客
   殿ハ廃シテ未ダ再建セズ。本尊三宝ヲ安ンジ、傍ニ祖師ノ坐像、長サ一尺六寸許ナルヲ置。
   台座ノ裏ニ日隆ト記セり。

 と記している。本堂は昭和13年頃の建立という。現在のはそれを建て替えているかも知れない。
世田谷通りに背を向けているが、あれは戦後の新道であそこは山だった。今その新しい世田谷通りか
ら見える墓地のところに、向きが回転する大蔵大仏がある。

 
大蔵大仏
 墓地の端にある。平成6年秋の完成。仏像の大きさは、高さ8m、重さ8t、銅製だ。この大仏は、
光背に四菩薩を配した久遠実成の本仏釈迦を現している。久遠実成の本仏とは、法華経の一番有り難
い仏で、仏の命が過去から現在、未来へと永遠に続くことを表し、その仏を拝む人類の生命、そして
地球上の総ての生きとし生けるものの命が永遠であることを説いたお釈迦の姿なのだ。台座から一回
転できるようになっている。朝9時から夕方5時までは本堂の方向を向いた南向きになっている。夕
方5時から翌朝9時までは世田谷通りの方向を向いてて、交通安全や世界平和を祈念している。もし
お前さんが大仏にお参りなさると、必ず大仏はお前さんのほうを向いて見守ってくださいますよ。


 
法華門
 江戸初期、目黒碑文谷法華寺の庫裡の門として元和元年(1615)以前から建ていた。法華寺は、
江戸初期、日蓮宗総本山身延山久遠寺の触頭として江戸10指に数えられる大寺だったが、元禄十二
年(1699)不受不施派弾圧の為、幕府の命により日蓮宗から天台宗に改宗させられ、現在の円融
寺となった。法華寺18世日附上人(八丈島流刑)の代だ。明治30年地元の角田氏が金200円で
この門を買い取り、昭和30年代に堀之内妙法寺へ奉納した。その後傷みも激しく、堀之内での再建
が難し状態となっていた。当時の前住職小林日誓上人(元堀之内妙法寺山主)は生前、日附上人への
敬慕の年篤く、その事蹟を顕彰し、上人流刑の地八丈島に一寺を創建。その縁を戴き、妙法寺は碑文
谷法華寺縁の門を堀之内より移築する運びとなった。時移り、昭和61年5月の吉日、約400年以
上前の碑文谷法華寺の門を復元再建した。高さ6m、間口3m、奥行き2m、木造・堂板茸。

 祖師堂
 境内にある、日蓮を祀る堂宇。

 蓮台閣
 境内にある信徒会館・葬儀場。

 
鷺草と蓮
 夏は花壇の鷺草、蓮の花が見事だよ。


 
稲荷社
 法華門を入ったの左手にある。寺の創建以前にこの地にあった石井戸稲荷大明神。寺が境内を横取
りした。申し訳が立たないので詫び祭りしている。


 大蔵動物霊園

 
03-3417-0020 24時間受付 年中無休

 砧ッ子地蔵
 妙法寺の西南の角地にある。大蔵に砧とはコリャ如何に? 以前は道路に面していたが、現在は、
境内に取り込まれて、1m程移動している。


■石井戸公会堂 ◇
 
大蔵5丁目18番19号にある民間施設。公民館のような平屋。旧石井戸稲荷大明神の氏子が年に
一度、旧交を温めるため「石井戸祭り」を催している。

 
石井戸祭り
 本村の大蔵氷川神社が10月第一日曜日に神輿渡御が行われるので、その一週間前といった設定に
なっている。嘗ては広大な大蔵村の一部として本村の氷川神社と一緒に祭礼を行っていたが、砧に三
峯神社ができたことで砧の氏子が脱退し、横根も新たに神社を勧請し、鎌田との町域変更で南部地域
を失いと、大蔵の本村の祭礼は規模が縮小していった。石井戸は他とは違って神社自体はまだ大蔵氷
川神社の境内にあるので、態々独自に祭礼を行うこともないともいえるが、やはり自分たちの神様で
祭礼を行うのがいいと、お囃子が設立された昭和35年頃に石井戸祭りを始めたという。


地蔵堂 ◇
 
大蔵5丁目19番21号にある舟形浮彫立像。総高171cm、塔身部94×42×23cm。像
右に「念仏供養所」、造左に「元文五庚申天多麻郷大蔵村 講中□五人」と刻む。


田直公園(たなおし)
 
大蔵5丁目22番3号にある区立公園。「田直土地区画整理事業完成記念碑」がある。

 「花のかんむり」
 少女が花の冠を弟に戴冠させようとしているデザイン。


御石神祠 ◇
 
大蔵6丁目1番7号にある。近くの仙川に架かる橋に水神橋という橋があるので、水神か?
 


龍華山長寿院永安寺(せたがや百景No.68「大蔵の永安寺」)
 大蔵6丁目4番1号にある天台宗の寺。元々この寺は足利基氏の子関東公方氏満が鎌倉の大蔵ヶ谷
に堂宇を開創し、曇芳周応大和尚を以て開山。その法号から長春殿永安寺と号した。こののち孫の持
氏が将軍義教の上杉憲実軍に攻められた時に、持氏は寺に火を放って自害。持氏の遺命により生き残っ
た家臣二階堂信濃守盛秀の子秀高(清仙上人)が寺の再興を願い、武蔵国中丸郷大蔵村を求めてここ
やって来、再建したのが大蔵長春院永安寺だ。秀高がこの地に闇雲にやってきたのではなく大蔵繋が
りで目指してきたのだろう。山号を龍華山名づけたのは、鎌倉から龍華樹という桜の木を移植したこ
とによる。院号は天台宗に改めた時に現院号に改めた。
 源氏は本来「山の民」で、平家は「海の民」だ。大雑把にいってだよ。だから「平家の落人伝説」
ってえのは、
平氏ペルシャ人説もあるくらいで、壇ノ浦の敗戦後「平氏は海へ消えた」という意味を
「海中に没した」と誤解するが、正しくは「海の彼方へ消えた」ということなのだ。香港の船上生活
者「蛋民(たんみん)」がそれではないかという人もいる。蛋民は漢民族ではないよ。
 その後明暦の頃(1655~57)石井兼忠がその父兼雄の追福のため新しく堂宇を造修した。寛
保二年(1742)にも再建されたが、現在の堂宇は昭和35年に草葺から瓦葺に改修したものを、
平成12年に大改修した。本堂前に旧鬼瓦2基が据えられている。書院・庫裡は昭和45年の建築。
その記念碑が本堂の前に建つ(昭和48年の建立)ほかに大灯籠2基。「新編武蔵風土記稿」に、

   永安寺
   天台宗、府中深大寺村深大寺の末、龍花山長壽院と號す。客殿八間に六間、坤の方を向ふ、
   本尊千手観音木の立像長三尺許、開山清仙寂年を傳ふ、中興は慈光國圓元文三年四月廿四
   日寂す、今客殿に安する石薬師は、自然石にして長二尺七寸許、相傳ふ昔は當寺の門前に
   ありしが、霊現のいちじるしきを恐て境内の丘上に埋めありしが、當住に至りかかる霊佛
   を埋置事を嘆き、穿ち得て是に安。
   観音堂。門を入て左にあり。二間四方、氷川社の本地佛なりと云。木の坐像長一尺八寸許。
   疱瘡神祠。客殿の西にあり。
   遮軍神祠。同じ邊にあり。
   稲荷山王天満宮合祠。客殿の後上にあり。
   古碑一基。延徳元年六月六日のみえる断碑なり。

 とある。

   山門                         享保七年(1722)建立
   造立当初の屋根は茅葺でした。現在の場所から約5m程、本堂に近い位置にありました。
   昭和35年に、屋根を瓦葺に改修して現在地に移動しました。          合掌
   平成12年11月25日                    世田谷区教育委員会


 
大イチョウ
 山門を入ると正面に樹齢数百年といわれる大イチョウがある。永安寺は室町時代鎌倉の大蔵谷に建
てられたものが、地形も地名も似たこの地に再建されたと伝えている。

 
開山堂長春殿
 山門横にある信徒会館。開創600年、再興500年の記念事業の一環として
梅林(観音堂跡)跡
に建立した。長春殿は旧院号を慮って命名した客殿だ。

   開山堂長春殿
   本尊 
十一面観世音菩薩像                   平成十一年建立
   「開山堂長春殿」は本堂、不動堂、山門、二本の大イチョウ周辺の樹木など、歴史と自然
   に恵まれた環境にふさわしい、伝統的な木造建築です。
   ご本尊様は十一面観世音菩薩様です。
   当山開山六百年、再興五百年記念事業の一環として檀信徒の寄贈により梅林の跡地に建立
   しました。
   江戸時代にはこの場所に「観音堂」が建立されていて、十一面観世音菩薩がおまつりされ
   ていたと伝えられています。
   永安寺は天台宗ですが、創建当初は臨済宗(禅宗)で鎌倉にあり、第二代鎌倉公方足利氏
   満公の菩提寺として曇芳周應大和尚の開山になる寺院です。それにちなみ、開山堂の屋根
   には足利氏の紋が入っています。軒先の丸い瓦には、天台宗総本山比叡山延暦寺より正式
   に許可された延暦寺紋「菊輪宝」紋が使われています。
   開山堂内部は椅子式でいろいろな仏事に利用し易くなっており、長春殿には大広間があり
   ます。
   「長春殿」は、永安寺が応永五年(1398)に鎌倉に建立された時の院号「長春院」に
   ちなんだものです。
   延徳二年(1490)この地に清仙上人により再建されました。鎌倉の故地にあった「龍
   華樹」と名付けられていた桜樹を、清仙上人は鎌倉より移植して堂前に植えたといわれて
   います。これにちなんで「龍華山」を山号としました。
   戦国時代末期の天正年間に当山第六世良深和尚の時、天台宗に改宗し、院号を「長寿院」
   にしました。
   平成十六年六月仏徳日                           永安寺


 
不動堂
 開山堂長春殿の建立に伴い、西3mのところから薬師堂の跡地に移築した
不動明王像の隣に慈恵
大師像が下がっている。
 大師は「元三大師」「豆大師」「角大師」と呼ばれ、観音と不動の化身と
いわれる。昭和35年建立。

 
龍華樹
 不動堂の前にある。大蔵谷にあった八重桜の古木、当時の村人が鎌倉まで出向き、この地に移植し
たと伝わる。山号はこれによる。残念ながら当時のものは枯れ、何度か植え替えられて、現在のもの
は、平成12年の大改修の折に植え替えたもの。

   龍華樹(りゅうげじゅ)
   日本名 サクラ フゲンゾウ(普賢象) 別名フゲンドウ(普賢堂)
   室町時代からあったサクラといわれている八重桜です。4月中旬に、はじめ淡紅色からの
   ちにほとんど白色になり、花部分だけが垂れて咲きます。
   普賢象は普賢菩薩が乗っている象です。葉化した「めしべ」がこの象の鼻や牙に似ている
   から、この名がついたといわれています。
   室町時代、当山が第2代鎌倉公方の菩提寺として鎌倉にあった頃、当山山号の由来となっ
   た「龍華樹」と呼ばれた桜の銘木が、本堂横にありました。
   約500年前、永安寺が鎌倉からこの地に再建されました。その折り、当時の村人が鎌倉
   の永安寺跡地に行って、その桜樹を本堂横に移植したと伝えられています。その後、幾た
   びか同種の桜樹が植え替えられていました。
   平成12年本堂大改修にあたり砧農園様のご尽力により、老木となった先代の桜樹と同種
   の桜を探して植え替えたものです。
、  室町時代より平成時代、鎌倉から世田谷の地と、時代や場所が代わっても、当寺の歩みと
   共に永安寺の境内に咲き続く当山「山号」の基である、この桜樹を「龍華樹」と呼んでい
   ます。                                   合掌
                          平成12年11月15日
                               龍華山 長寿院  永安寺


 ※文中にある「銘木」は「名木」の誤記。「折り」も「折」でいい。「幾たびか同種の桜樹が植え
替えられていました」は。「幾たびか同種の桜樹に植え替えられてきました」の意。


 
大石燈籠
 本堂前にある。

 本堂・賽銭箱の紋
 「丸に並び鷹の羽」は石井家の家紋。寺紋ではない。本堂は天台宗本堂としての特徴がよく表れた
建物となってる。とりわけ天台宗総本山から正式に許可された延暦寺紋(菊輪宝)が軒先の瓦に使わ
れているのが、天台宗の寺としては自慢になる。本堂前の隅っこには造営記念としてそれまで使われ
ていた鬼瓦が据えられている。これは昭和35年の大改修時に設置され、平成12年の改修時に屋根から下ろされたものだ。

   龍華山長寿院永安寺の本堂       寛保二年(1742)江戸時代中期建立
   「本堂の歴史」
   第十四世随道大和尚により建立されました。
   昭和35年に大改修が行われ、江戸時代の姿をとどめた茅葺屋根が平瓦に直され、小屋根
  、基礎や柱脚部も補強されました。当山開創六百年再興五百年記念事業として檀信徒の寄贈
   により、平成12年に再度の大修繕を行い、現在の伽藍になりました。
   本堂前の左右の鬼瓦の置物は、昭和35年から今回の修復まで本堂の屋根の鬼瓦として使
   われていたものです。
   「本堂の内部の特色」
   天台宗本堂としての特長が、内陣の来迎柱や、内陣と外陣の大虹梁によく表れています。
   平面形式での大きな特色は、柱と柱の間を一間六尺(約1.82m)ではなく、二間半十五
   尺(約4.55m)の半分の七・五尺を採用しているために、とても伸びやかで明るい空間
   になっています。
   
「平成の大修復工事」
   「内陣・屋根」
   内陣は漆と金箔によって荘厳し、ご本尊様と須弥壇、宮殿(くうでん)、仏具類の修復を
   しました。小屋根をやり直し、軒先を補強することで、軒の反りや屋根の線を直して本格
   的な本瓦で葺き替えました。この瓦は最も伝統のある奈良製で軒先の丸い瓦には、天台宗
   総本山比叡山延暦寺より正式に許可された延暦寺紋「菊輪宝」紋が使われています。
   そして各隅棟には鬼瓦が備えられて、格式の高い屋根となりました。
   
「軒唐破風・浜縁・建具等」
   正面の向拝は、軒唐破風という珍しい形で、永安寺本堂の大きな特色となっていますが、
   銅板の葺き直し、形も整備しました。外部に面する建具は、天台宗にふさわしい形式に作
   り直し、建物の周りの浜縁と高欄も新しくされ、建物の建つ基檀と、その周囲の両落溝と
   境内の敷石も整備しました。                         合掌
   平成12年11月25日                          永安寺

 ※文中「一間六尺」「二間半十五尺」とあるのは「一間+六尺」「二間半+十五尺」の意ではなく「一間=六尺」「二間半=十五尺」の意だ。紛らわしい。

 
六観音
 本尊の千年千限観世音菩薩・聖観世音菩薩・不空羂索観世音菩薩・十一面観世音菩薩・如意輪観世
音菩薩・馬頭観世音菩薩をいい、准胝観世音菩薩を加えて七観音とする。

 
六地蔵
 墓地手前にある。

 
三界萬霊塔・聖観音菩薩立像
 無縁墓が集められて積み上げられている。

 
七宝塔早雲
 墓地の手前にある。納骨堂、永代供養塔。


 
石井至穀の墓
 永安寺本堂左脇の墓地にある。至穀は、大蔵村というよりは、寺前の石井家(現存)から出た。安
永七年(1778)八月三日名主石井広昌の長男に生まれ、天明八年(1788)僅か11歳で江戸
に出、高瀬隆斎の薫陶を受けた。翌年林家の学頭長坂徳右衛門の家塾に入門し、五経・小学・近思録
などの講釈を受けた。しかるに寛政五年(1793)父に請われるまま名主役を継ぐこととなり、志
半ばで大蔵村に戻った。至穀は村での生活に飽き足らぬ思いでいたが、文化六年(1809)御家人
株を譲り受け、幕臣となって再び江戸に出るを得た。同九年(1812)には国学者屋代弘賢の許で
『古今要覧』の編纂に従事し、その編纂過程で『江戸庄創建』を著している。ほかに『大蔵村旧事考
・喜多見旧事考』『視聴年代記』などの著作がある。嘉永四年(1851)には書物奉行に昇進し、
7年後安政五年(1858)には、布衣(ほい)を許された。その目覚しい出世振りは、日浦録著『玉
川三登鯉伝』にも取り上げられた。文久元年(1861)病没。享年84歳だった。


■新坂 ◇

 大蔵6丁目4番永安寺の北側の坂道。今は舗装されて都会の道になったが、長いこと山道だった。


大蔵氷川神社 ◇

 大蔵6丁目6番6号にある。大蔵の鎮守。祭神は大己貴命、素盞嗚尊など5座。喜多見、宇奈根の
氷川神社とで三所明神の一つだ。神体は束帯姿の80cmほどの木彫立像だ。金身黒色で玉眼が施し
てある。玉眼は水晶などで拵えた目玉。社殿は石段10数段の丘上にあり、木立深くいかにも村の鎮
守にふさわしい宮の佇まいだ。鳥居前に区の説明板がある。

   氷川神社
   祭神 素戔嗚尊
   例祭 十月二日
   暦仁元年(1238)に江戸氏が埼玉県大宮市の氷川明神を勧請したものと伝える。もと
   大蔵町の永安寺が別当であった。永禄八年(1565)の棟札には「武蔵国荏原郡石井土
   郷大蔵村氷川大明神第四ノ宮」と記されていた。
   明暦二年(1656)に再建され、文政(1818~30)の初めにも本殿および拝殿が
   再建された。
   昭和55年3月                         世田谷教育委員会


 「新編武蔵風土記稿」大蔵村の項の記述。

   氷川社
   除地、一段五畝、小名本村にあり、石階二十五級を登りて坂の上下に鳥居を立、一は石に
   て柱間八尺、一は木にして両柱の間六尺、上屋二間四方、西南の方を向り、内に僅なる祠
   を置、神体は束幣にして木の立像長二尺五寸許、永安寺の持、當社に古き棟札あり。

 「せたがや:社寺と史跡」に、

   氷川神社(大蔵町60番地)
   祭神、大己責命、素盞嗚尊等五座
   大蔵町の鎮守、喜多見町、宇奈根町のそれと共に三所明神の一つである。
   御神体は束幣姿で80cm程の木彫立像である。金身黒色で玉眼が施してある。社殿は石
   段十数段の丘上にあり、木立探くいかにも村の鎮守にふさわしい宮のたたずまいである。
   「江戸名所図会」には、

    祭礼毎年九月廿一日なり、相伝ふ暦仁元年当地の主江戸氏足立郡大宮の御神を勧請す
    と云。旧は唯一宗源の社なりしに其後二百有余年を経て天文年間松井坊といへる山伏
    奉祀の宮となり両部習合す(中路)当社昔は五所に並び建て宮居魏々たりしにいつの
    頃より歟荒亡して唯比一社のみ残れりと云

   とある。これによってみればこの社は七百余年前の遠き昔の建立であり、幾多の変還を
   経て今日に至っていることが察せられるのである。
   拝殿には嘉永5年(1582)の年号を記した天の岩戸の奉納額、年号は不明であるが氷川
   祭礼の図、宇治川先障の図等の大額が掲げてある。又棟札が数枚あり、文政三年(182
   0)の棟札には、

    上棟 武蔵国多摩郡菅刈庄臣掠村鎮守氷山神社 里正石居市郎右帯門平晴保

   と記してある。

 とある。

 旧本殿・棟札(区有形文化財)
 解体収納されているという。


 
板絵着色大蔵氷川神社奉納絵図(区有形文化財)
 板3枚を上下に貼り合わせ、幕末から明治初年頃の氷川神社境内を描いたもの。剥落が甚だしいが、
胡粉、群青、緑青、茶などが幾分認められ、当初はかなり鮮やかだったことが知られる。裏書には寄
進者29人の名と明治7年の年紀が見える。縦72.4cm×横141.2cmの額。中央やや右寄り
に氷川神社本殿を描き、また社前に見える2基の鳥居や、画面左横の永安寺観音堂の姿は、『新編武
蔵国風土記稿』に記載されているところと一致している。さらに鳥居に向かって右横に塀で囲まれた
藁葺きの農家と土蔵を描くが、これが代々大蔵村名主を務めた安藤家の家屋で、最近までほとんどそ
のまま使っていたが、現在は次大夫堀公園民家園に移築されて保存されている。永安寺門前には「六
郷用水」が流れ、洗濯する婦人、遊人、参詣者などが見え、田園情趣に富んでいる。筆法は、各所に
破綻を来たしており、専門画家の筆とは見えないが、大蔵の村民が寄進したためもあって、画題に現
実感があり、昔日の大蔵本村一帯の地勢を窺わしめるものとして貴重だ。
 なお郷土資料館(世田谷代官所跡)に、この絵を基に作ったジオラマがある。

 狛犬
 台座に次の銘文がある。

   當社者巨寺産土神他曽為□武運長栄 今茲降摩狗二躯堅石造之自而置 廣前以表於報賽之
   徴志云

 大凡
の意味は、「武家の長き栄えを祈願したところその願いが叶ったので狛犬を奉納し感謝の意を
表します」
ということだろうか。そして次の、

   弘化二年歳次乙巳季穐日 願主播磨明石藩大谷寅七藤原長次敬白

 ん? 明石藩? 弘化2年は8代藩主松平斉宣(なりこと)が死亡の翌年だ。

 
明石藩の事情をみてみると、天保十一年(1840)に11代将軍徳川家斉の26男で12代
将軍家慶の異母弟松平斉宣
が明石藩8代藩主となり、天保十五年(弘化元年)四月に斉宣が病気とな
り、六月二日に20歳の若さで亡くなった。七月十七日7代藩主松平斉韶
(なりつぐ)の長男松平慶
(よしのり)が播磨明石藩9代藩主となった。これは表向きのこと、この明石藩主交代劇の裏には
こんな話がある。
 同時代の肥前平戸藩主松浦静山が随筆『甲子夜話』で記すところによると、斉宣が参勤交代で尾張
藩領を通過中、3歳児が行列を横切った。斉宣の家臣たちはこの幼児を捕らえて宿泊先の本陣へ連行
した。村民たちが斉宣の許へ押し寄せて助命を乞うたが斉宣は許さず、切捨御免を行って幼児を殺害
した。この処置に尾張藩は激怒し、御三家筆頭の面子にかけて「今後は尾張藩の領内の通行を断る」
と斉宣らに伝えた。当時の尾張藩主は斉宣の異母兄に当たる斉荘(なりたか)だ。
 このため明石藩は行列を立てず、藩士たちは脇差し一本を帯び、農民や町人に変装して尾張領内を
こそこそと通行したという。しかし静山は天保十二年に死亡しており、天保十五年のことを書くこと
はできない。誰かが書き加えたのだ。また
この事件を裏付ける街道近郷の記録は見つかっていない。
 三田村鳶魚は、随筆『帝国大学赤門由来』において、この事件を書き、幼児の父親猟師の源内が木
曽路に置いて鉄砲で斉宣を射殺したと記述している。
 明石藩と尾張藩に確執があり、将軍の子斉宜が就任の挨拶で名古屋城に伺った時、表門は10万石
以上でないと通行でできない規則があって、8万石の斉宜は側門を通させられた。斉宜はこの屈辱を
根に持ち、尾張藩内での些細な違法行為に於いては面当ての意味で厳格に対処したのかもしれない。
これが史実でないとしても斉宜には別の事件も抱えている。
 愛知県尾西市にある「孝子佐吾平遭難遺跡」の碑は、天保年間(1830~44)に斉宜が参勤交
代で江戸へ向かう途中、暴れ馬を抑えようとして行列を横切った萩原宿の馬方佐吾平を無礼討ちにし
たと伝わる街道沿いに建てられている。佐吾平は目の見えない母に良く尽くした息子だったのでその
死を悼んだ人達によって、小さな祠が建てられたという(現在の石碑は昭和30年に建て替えられた
もの)。この話にも実は似たような後日談があり、領民を一方的に殺された尾張藩では、明石藩に対
して通行を喪服での夜間限定としたというのだ。残念ながら、これも史実として立証出来るものは何
もない。この地方では事件を題材にした浪曲や芝居が今も伝承されていることから、明石藩と尾張藩
との間で、何かしらのトラブルがあったのは確かなようだ。明石藩は、参勤交代は木曽路を通行して
いる。

 一祠七社
 社殿左にある。棟続きの小祠に七社を祀る。名前が無いので七社の神社名は判らないが、Wiki
pediaに、稲荷・天神・大山祇・月読・出雲・大鳥・祖霊の7社を記している。


 愛宕神社
 石井戸の愛宕山(大蔵運動公園)の斜面にあった。社殿の左方にある。

 御嶽神社
 社殿の右方にある石祠。殿山3号墳上にあったが、高速道路の切通し開鑿のため大六天社(殿山2
号墳)奥に遷され、さらにジャンクション設置により、ここに遷座した。


■大将塚・将軍塚古墳(殿山8号墳)
 大蔵6丁目6番11号の清水家の里山にある。これは木曽義仲の父源義賢の墓だという。「源義賢
朝臣墳」と刻んだ自然石の碑がある。義賢の墓は、大蔵の名が付くところには大抵ある。抑々清水家
は清水冠者木曽義高の末裔? 義高の子大助が鎌倉から逃れてきて住み着いたのだという。ほんまか
いな? 源義賢が住んでいたというのが大蔵館だ。
 


■殿山9号墳・石祠
 大蔵6丁目6番21号井山ゴルフ練習場にある。東京都教育委員会より昭和60年に発行の『都心
部の遺跡』には、この古墳について「古墳の基部のみ残存。基部の直径は約10m。圭頭大刀(東京
国立博物館蔵)は昭和2年に耕作中発見されたもの。当古墳は昭和57年に削平された」との記述が
ある。また調査の際に石室等の埋葬施設は検出されなかったが、同書には主体部について「横穴式石
室?」と、石室の存在の可能性について触れている。このあたりの詳細は不明。
 墳頂部に石祠が祀られている。


■大六天社・稲荷社 ◇
 大蔵6丁目7番21号先、氷川神社裏下の神社所有地に移転してきた。元は13番6号にあった。
場所はややこしい。仙川沿いある井山ゴルフ練習場の建物に沿って、氷川橋のところから入って行く
と、井山自動車修理工場がある。その中を更に行くと、神社の裏下にある。第六天はおどろおどろし
い神様じゃなくて、川の神様だって。
 もう1社、中に古い社を蔵めてある新しい社があるので、井山自動車の人に聞いてみた。すると氷
川神社の境内にあった稲荷社だそうで、その所有地を空地のままにしておくと固定資産税がかかるの
で、その所有地を境内の一部と見せかけるために、稲荷社を遷したんだそうで、神社もいよいよ金の
世の中って訳か・・・


■おっこし記念公園

 大蔵6丁目8番4号にある区立公園。平成7年開園。ここに公園が必要か?というような場所にあ
る。子供が、母子が遊びにくるんだろうか。遊具は地球儀のみ。球技もできない。

 耕地整理完成記念碑
 公園の真ん中にどでかい石碑が鎮座ましましている。平成5年11月の建立。碑裏に石井幸久を筆
頭に28の名前が刻まれている。中には大藏省や日本道路公団もある。

   事業完成記念碑
   打越地区区画整理組合


■殿山7号墳
 大蔵6丁目12番大蔵六丁目公園にあった。公園にする時に削り取ったものか無い。


■大蔵六丁目公園
 大蔵6丁目12番5号にある区立公園。


■源義賢の大蔵館跡・殿山2号墳
 大蔵6丁目13番6号先の高速道路が走っている辺りは嘗ては山だった。この古墳は、昭和41年
7月に発掘調査が行われている。当時既に開墾により削られており、径約7m、高さ約1m墳丘には
数本の杉などが繁り、御嶽社の小祠が祀られていた。埋葬施設はかなり破壊されていたものの、凝灰
岩の切石を使用した半地下式の横穴式石室が検出されている。その後東名自動車道を通すために切り
通して削り取ってしまったため、斯くて大蔵館跡も殿山2号墳も空中に消えてしまった。墳上に祀っ
てあった御嶽社の祠は殿山3号墳(大六天社)に移された。元の位置は大六天橋の北寄りの辺りだ。
その御嶽社は現在は大蔵氷川神社の社殿右にある。
 大蔵館は、木曽義仲の父源義賢、源義朝の嫡男義平が住んだと伝わる。仁平三年(1153)義朝
は下野守に任ぜられて関東に下り勢力を伸ばした。義朝と不仲になっていた父為義は義賢を派遣、義
賢は秩父重隆の娘を娶ってここ大蔵館拠り義朝を牽制する。ところが久寿二年(1155)鎌倉にい
た義平が大蔵館を急襲し、義賢と重隆を討ち取った。館にいた義賢の次男駒王丸は畠山重清の計らい
で木曽に落ち延びる。この駒王丸が木曽義仲となる。
 義賢の大蔵館は埼玉県であろうという。武蔵嵐山にも大蔵館はある。ここがそういわれるのは、大
将塚(義賢の墓)があるからだ。
 


■大六天社(殿山3号墳)・御嶽社 遷座
 大蔵6丁目13番6号、東名高速道路を渡す陸橋(大六天橋)の南詰にある。ここは殿山3号墳で
もある。高速道路は大蔵城址を切り通して拵えたから。この小社も城に関係あるのだろうか。「第」
を「大」と書く理由は判らない。間違えたのをそのままにしてたのだろう。御嶽社は、殿山2号墳に
あったもので、切通し開鑿時に、大六天社の奥の方に遷された。
 ※この地は、外郭環状と東名が接続するってんで、東京ジャンクション用地となり、買収されてし
まった。で、大六天社は上記の大蔵6‐7‐21に遷座した。御嶽神社は大蔵氷川神社に。

 鳥獣保護区
 境内に建っている。何を意味するんだろう? 鳥が巣食うほども広くはないし、住宅街の真ん中で
猟銃ぶっ放しゃあ、保護区でなくったってお縄頂戴だろ。その前に鳥も獣もいねえよ。法律上の何ら
かの約束事がまだ生きてんだろうな。僅か40年前は森だったんだから・・・

 ※と思っていたら・・・何と世田谷区では、甲州街道の南、環八通りの西は鳥獣保護区なんだ。
  


■殿山1号墳跡
 大蔵6丁目13番15号石井宅裏にあった。世田谷区の遺跡番号39‐1番の遺跡として登録され
ている。この古墳は昭和41年(1966)7月に発掘調査が行われた。当時既に畑地として開墾が
進み、墳丘は削平されていたようだが、土地所有者が耕作中に耕運機に岩が当たって作業が困難な地
点があり、この周辺約5m四方に泥岩が散乱していたことから発掘調査が行われたということのよう
だ。地中からは、半地下式の両袖を有する凝灰岩切石使用の横穴式石室が発見され、玄室内からは直
刀や刀子、鉄環、鉄鏃などが出土した。


■殿山6号墳跡
 大蔵6丁目14号10号にある。墳丘は失われている。 


■殿山5号墳・稲荷社 見当たらず
 大蔵6丁目14番15号両角家の裏にある。この古墳は、丘陵の南傾斜肩部に位置している。周辺
は開発が進み、宅地化されているものの、古墳の周囲には古木が繁る山林が残されている。同じ台地
上の縁辺には北西に6号墳が、東には4号墳が所在したとされているが、この2基については残念な
がら墳丘は残されていない。残存する5号墳は、長い石段の奥に所在した。
 平成27年4月19日に行ってみたら、驚いたことにそこらじゅうがユンボで削り取られて何もな
くなり、様相が一変してた。無論両角家も隣の家もなくなってた。
 稲荷社は、氷川神社の裏の大六天神社の横にある稲荷社ではないかと思われる。


■殿山4号墳跡
 大蔵6丁目14番17号高橋宅の裏にある。『世田谷区史料 第8集 考古編』によると、「1号墳
石室」の南30mの辺りにある。現在わずかな地膨れとなっている」とのみ書かれている。但し同書
の「殿山古墳群とトレンチ配置図」を見比べると、〝1号墳の南30m〟というのは誤りで、恐らく
〝南西30m〟の辺りではないかと思われるが、正確な跡地は特定出来ない。墳丘の残存する「5号
墳」と並ぶ台地の縁辺に所在したのではないかと思われるが、もう少し奥の辺りが跡地であるならば
既に宅地となって消滅している。


■野川第二緑道
 大蔵6丁目20番23号先にある旧野川跡を利用した157m遊歩道。



【大原】(おおはら)1~2丁目                  昭和39年11月1日
 代田村。明治22年「市制町村制」により世田谷村大字代田字東大原・西大原・萩久保となる。
昭和7年区の成立により前記の字東大原・西大原・萩久保を併せ世田谷区大原町とし、同39年新
住居表示により大原町の大部分に松原町1丁目・羽根木町の各一部をあわせた町域を、現行の「大
原」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『世田谷区史』『世田谷の地名』など。

 
大原の由来
 地名はだだっ広い平坦地だったことによる。
 甲州街道と環七通りの交差する交差点の名前として超有名だった。一時は排気ガス公害のメッカ
だったがいつの間にか是正された。僥倖々々。町があの巨大な交差点の中にあったなんて想像もつ
かない。だから大原は大原神社だ!
 


■大原1・1公園
 大原1丁目1番1号にある区立公園。


■東大原小学校 
統合閉校
 大原1丁目4番6号にある。大正15年「東京府荏原郡荏原尋常高等小学校(若林小学校)大原分
教場」として開設。児6号童数480名、10学級。昭和2年7月7日「東京府荏原郡第三荏原尋常
小学校」として独立。生徒数801名、職員数17名でスタート、この日を開校記念日とする。同6
年プール側校舎完成 普通教室28、特別教室3、雨天体操場、校長室、職員室完備。同7年守山尋
常小学校を分校。800名移籍。同10月
周辺郡部が東京市に併呑され「東京府東京市第三荏原尋常
小学校」と改称。同11年校歌制定。

 校歌朝夕あおぐ 作詞・葛原しげる  作曲・藤井清水
  1.朝夕仰ぐ神山富士の
    正しき姿 清らの心
    我が明け暮れの鑑とこそ
    良き日本人 我が誓い
    望み気高き学舎床し
    東大原小学校
  2.年毎時を違(たが)えず咲きて
    桜の花も示すか誠
    我が永久の誇りとこそ
    良き日本人 我が願い
    教え尊き学舎楽し
    東大原小学校


 同12年北沢尋常小学校を分校。480名移籍。同12年開校10周年記念式典。同16年勅令1
48号国民学校令により「東京府東京市東大原国民学校」と改称。日米戦争勃発。同18年都制施行
により「東京都東大原国民学校」と改称。同19年長野県浅間温泉に集団疎開。同20年4月長野県
下伊那郡山吹、市田、座光寺、上郷、喬木の5村に再疎開。同5月愚かなアメリカ軍の無差別空爆に
より校舎の3分の2、備品の大部分を焼失。
 同8月敗戦。同11月集団疎開解散して本校に復帰。教室不足にて4年生は守山小学校で授業、3
年生以下は二部授業。昭和22年1月給食開始。同4月戦勝国アメリカの強制による地方自治法・学
校教育法施行により「東京都世田谷区立世田谷小学校」と改称。同25年給食室完成。同27年第三
次復興2階建て校舎6教室と便所棟竣工により二部授業解消。同31年第四次復興増築木造2階建て
4教室・渡り廊下完成。同32年開校30周年記念式典。
 同33年第一期改築鉄筋校舎3階建6教室と各階水洗トイレ竣工。同34年プール側の移転校舎完
成。第二期改築鉄筋校舎3階建6教室と玄関・校長室・職員室・保健室竣工。同38年体育館完成。
同42年開校40周年記念式典。同48年第三期改築鉄筋校舎3階建て普通教室9と特別教室3、各
階水洗トイレ完成。同50年第四期鉄筋北校舎2階建て特別教室2教室、資料室、更衣室、各階水洗
便所完成。同51年プール改築。同52年創立50周年。PTAの寄贈による岩石園完成。同58年
万年塀をフェンスに改造、北校舎便所改修。同59年造形砂場完成。同62年開校60周年記念式典行
事、ジャングルジム完成。
 平成19年に創立80周年を迎える。同28年守山小学校と統合して「下北沢小学校」を開校。
 


■下北沢小学校

 大原1丁目4番6号にある区立校。平成28年東大原小学校と守山小学校を統合して「下北沢小学校」として開校。同30年3月新校舎落成。4月北沢小学校を統合。

 校歌「
なぜだろう」 作詞:村田さち子  作曲:池辺普一郎
  1.なぜだろう
    校門 前にするだけで
    わくわくしてくる
    みんなといっしょにいるだけで
    わくわくがとまらない
    だいすきだよ 下北沢小学校
    ありがとう ともだちいっぱい
    ありがとう 元気をいっぱい
    ありがとう
  2.なぜだろう
    同じ校歌うたうだけで
    心がつながる
    どんなに知らないどうしでも
    心がつながる
    だいすきだよ 下北沢小学校
    ありがとう おもいでいっぱい
    ありがとう
    ありがとう 夢をいっぱい
    ありがとう



■庚申堂 
見当たらず

 大原1丁目5番2号に3基あると区の資料にあるが、当該番地には見当たらない。。
 右の庚申塔は、板碑型。総高118cm。塔身部107×42×26。日月・青面金剛像・三猿。
「元禄十二己卯年霜月朔日」の造立。下部に願主等8人の名を刻む。

 真ん中は、山形角柱浮彫。総高136cm、塔身部115×37×26cm。日月・青面金剛像・
三猿。「貞享四年□十月廿七日」の造立。左右面下部に13人の名前を刻む。
 左隣は板駒型浮彫。総高98cm。塔身部93×37×36cm。日月・青面金剛像・三猿。像右
に「奉納庚申供養」、左に「正徳元辛卯八月廿七日」、下部に星野甚兵衛以下7人の名を刻む。


■大原さんかく公園
 大原1丁目13番6号にある区立公園。


■地蔵尊・庚申塔 ◇

 大原1丁目23番4号の突先角地に1基づつ覆屋の中にある。この道はよく通った。地蔵尊は元禄
六年(1693)の造立。正面浮彫地蔵立像の右に「念仏講中元禄六天」の下に7名の名前を記し、
左に「癸酉十一月十日本願」の下に7名の名を刻む。
 庚申塔は舟形浮彫。日月・青面金剛・三猿を刻み、「元禄六年癸酉天十一月廿五日造立」と彫る。
 


■大原保育園
 大原1丁目23番13号大原福祉施設の中にある区立園。


■大原わくわく公園
 大原1丁目23番17号にある区立公園。


■柳沢の杜市民緑地

 大原1丁目26番1号にある。この場所に暮していた柳澤君江が、生前「没後もこのままで残して
欲しい」と願い、その意思に沿って残された和風庭園。市民緑地である庭の奥には、国の登録有形文
化財でもある建物も残されており、故人が暮らし、愛した風景に触れることができる。
 


■居酒屋女性アルバイト店員殺害事件
 大原1丁目31番8号の、この辺りでは超人気の不動産物件1ルームアパート「サニーフラット」
の101号室で起きた強姦目的殺人事件。 平成18年12月28日午後6時20分頃同室に住む居
酒屋店員斉藤静香(22)が倒れているのを、連絡が取れなくなって不審を抱いた静香の姉(27)
が見つけ119番通報した。消防から連絡を受けた警視庁が調べたところ静香は既に死亡していた。
衣服を身につけておらず、首に絞められたような跡があることから、同庁は殺人事件とみて北沢署に
捜査本部を設置した。
 北沢署捜査本部の調べでは、静香はアパートで一人暮らしだった。この辺りは1ルームの物件が多
く、治安的にも安定しているので、若い女性の一人暮らしが多いらしい。発見時はベッドの上でうつ
ぶせの状態で倒れており、首を圧迫されたことによる窒息死とみられる。
 押し入れの衣装箱から衣類が引き出されており、物色された可能性もあるという。遺体には布団が
かけられていた。静香は勤務先の新宿区の居酒屋を28日午前5時ごろ出、姉が同日午後2時頃、静
香の携帯電話にかけたが、連絡が取れなかったことからアパートを訪ね、大家から合鍵を借りて入室
した。その際部屋の電気は消えておりカーテンも閉められていたが暖房は入っていた。玄関や窓は総
て施錠されており、室内に静香の携帯電話や現金数千円が入った財布、部屋の鍵は残っていたという。
アパートは2階建てで、1、2階に2部屋ずつある小さなアパート。10年ほど前に建てられたとい
う。井の頭通りの拡張で縮小せざるを得なかったのだろう。周辺は住宅街の中にアパートが点在して
おり、前の道路は井の頭通りで夜間も車が多く通る。直ぐ近くにコンビニもあり、犯罪を起こし難い
場所だ。マスコミは最寄り駅を代田橋駅としているが、この場所なら笹塚駅を利用する方が便利だ。
距離は同じでも代田橋駅へは環七通りを越えなければならぬし、代田橋駅は急行などが停まらない。
 静香は平成12年3月青森県五所川原市内の私立高校を卒業後、美容師になることを夢見て上京、
今年美容専門学校を卒業して一般就職したが退職し、10月からアルバイトを始めたばかりだった。
年末年始には毎年のように帰省して、同級生たちとの再会を楽しんでいたとか。
この年もその予定だった。
                       *
 捜査の結果、29日北沢署は殺人容疑で同じ店のアルバイト店員、区内八幡山3丁目の那須野亮容
疑者(28)を逮捕した。「内証で作った合鍵で部屋に入り、帰宅した斎藤さんに暴行しようとした
が抵抗されたので殺した」と供述しているという。調べでは、那須野容疑者は28日午前静香の部屋
で静香の首を手などで絞めて殺害した疑い。
 那須野は、10月ごろ新宿区の居酒屋のアルバイト仲間として静香を見知り、一方的な恋情を抱い
た。消極的にアタックを試みたものの通ぜず、勇気を奮って食事に誘ったが断られて絶望、男力で強
姦することに決した。犯行の約1週間前、当時は男女一緒だった店の更衣室から静香の鍵を持ち出し
て合鍵を作り、元の鍵は戻しておいた。そのため静香は全く己の身の危険について全く気がつかなかっ
た。
 静香は27日夜から勤務し、28日午前5時ごろ退店した。調理場担当の那須野は27日夕方から
28日午前0時ごろまで勤務して帰宅。静香の勤務シフトを把握し、早朝に自転車で八幡山の自宅を
出て合鍵で以て静香の部屋に侵入し、覆面姿で玄関付近に待ち伏せ、静香が帰宅したところに襲い掛
かったが、女を手籠めにする度胸もテクニックもない哀れさ、思いの外激しく抵抗されたことに舞い
上がり、近所に覚られないためには、静かにさせなければと逸るあまり、心ならずも台所付近で押し
倒し首を絞めたという。用意周到な計画ではあるが、如何せん心の準備は出来てなく、行き当たりばっ
たりの犯行に終わった。昔は「夜這い」ということがあって、みんな上手くし遂げたものだ。「錦木」
とはそれそのものだ。
 静香が静かになったのを確認した時、静香の衣服に那須野の血が付着しており、それで衣服を剥ぎ
取り全裸にした訳だが、犯行時に頭上から落ちてきたカードなどに指紋が付いたと思ったので、カー
ド類が入ったケースなどを持ち帰ったものの、ボタンが引きちぎれるなどした静香の服も持ち帰ろう
とポリ袋に詰めたが、「気が動転して忘れてしまった」といい、ポリ袋に入れられ現場に残されたマ
マだった。結局それが決め手となった。まあ捕まらないと思ったのか、計画自体稚拙で、警察の第一
次の捜査範囲内にいて、アリバイの説明もできないだろう。愚かというか・・・こんなのが、十年も
すれば刑務所から出てくるんだよ。日本では全犯罪の5%しか実刑を食らわないことになっている。
刑務所の絶対数は少ないし、第一隔離費用は税金で、悪党のために税金を使わなければならない矛盾
がある。犯罪者が自動的に自殺すれば、経費はかからないが、そうはいかないのが世の中というもの
だ。9割5分の犯罪者は、執行猶予か罰金刑で野放し。無期懲役刑でも25年我慢すればシャバの銀
シャリが食べられる。これじゃあ安直に犯罪を犯す気になるだろうさ。人殺しだって最短7年、10
年喰らっても神妙に務めれば、模範囚と呼ばれて刑期の3分の2以上で仮出獄(仮出所)だ。中国、
韓国、イランからどっと犯罪者が押し寄せてきているのも刑が軽いから、日本は犯罪者天国だぁ!
 なお、斉藤の〝斉〟は、全国紙全紙がこの文字を用いている。HPニュースには「斎藤」としたも
のもあるが、大半は「斉藤」
と書いてある。タレントに同姓同名の人がおり、昨年9月初めに福島県
石川町で、元夫に殺された被害者に「斎藤静香」がいる。
 平成20年秋事件のあったアパートは解体され、新しい建物は同21年初め完成した。


■大原かるがも公園

 大原1丁目44番6号にある区立公園。


■玉川上水緑道

 大原1丁目44番10号先にある区立公園。園内にある説明板は以下の通り。

   世田谷区立 玉川上水緑道
   江戸時代、徳川四代将軍・家綱の頃、水不足を補うため 多摩川から水を引くことを計画
   しました。玉川庄右衛門、清右衛門兄弟により羽村から四谷大木戸まで掘り割られたのが
   玉川上水です。
   この水は、飲み水だけでなく、田畑の水にも使われ、武蔵野台地をうるおしました。昭和
   40年に淀橋浄水場が廃止され、本来の役割は終わりを告げました。しかし、今でも立川
   市から上流では、引き続き飲み水として利用されています。
   区内の玉川上水緑道は、代田橋駅付近からゆずり橋までが昔ながらの水路の景観をとどめ
   ており、その下流は遊歩道や遊び場など、みなさまの憩いの場として整備しています。



■危険ドラッグ交通事故
 大原1丁目52番12号先井の頭通りで起きた事故。平成26年9月23日午前11時前、軽乗用
車が停車していたタクシーに追突したが、けが人はいなかった。この事故で警視庁は、軽乗用車を運
転していた渋谷区の自営業の男(47歳)を危険ドラッグを吸って正常な運転ができない恐れがある
状態で運転したとして、道路交通法違反の疑いで現行犯逮捕した。車の中からは、危険ドラッグのよ
うな植物片が入っていたとみられる袋が見つかった。男は逮捕時、路上で暴れ、警察官数人に抑え込
まれるなど手を焼かせたが、容疑を認め、「事故を起こす少し前に危険ハーブを吸った」と供述して
いる。
 男は、有名脇役俳優の子。親のプレッシャーに負けたか?
 彼自身は作曲家で主にテクノやトランスを得意ジャンルとし、浜崎あゆみやエブリリトルシングな
ど様々なアーティストの楽曲のリミックスを手掛けている。リミックスとは、レコード制作で、完成
された曲を、さらにミキシングし直して、別のバージョンにする作業。また、別バージョンとなった
曲をさす。

 令和3年6月10日、本人の要請により氏名は消去しました。

   侵害されたとする理由。
   事件から6年以上が経過しようとする中、現在、刑罰も受けて、復帰しているものに対し
   て、当該記事に置いて私の実名ならびにプライベートにまつわる事項が検索されることに
   より、私のプライバシーが著しく晒されて降ります。


■大原GOGO公園

 大原1丁目55番6号にある区立公園。


■大原橋遺構(川下側)

 大原1丁目55番6号先に親柱・高欄とも残っている。玉川上水に架けられていた橋。遺構という
のもおかしなもので、橋の下は地下道だが、その下は水が流れている。環七通りを通す。


■魚のオブジェ ◇

 大原1丁目56番6号第二長谷ビル前端にある。魚は普通だが、お腹から前後に2本の人間の手が
真下に伸びて魚を支えている。


玉川上水環七通り大原地下道 ◇

 大原1丁目59番7号原ビル前と2丁目20番12号若松屋酒店前とを結ぶ地下道。


■ドライブレコーダー強奪事件
 大原2丁目4番北、井之頭通り東行き路上で起きた強奪事件。令和2年7月30日、杉並区和泉の
井之頭通りで、ミニバイクに乗っていた田島成人(53歳)が、軽自動車を追い越したところクラク
ションを鳴らされたことに腹を立て、文句を言うと「ドラレコで撮影したいる」といわれ、事件現場
まで2Kmに亘って走行トラブルを起こし、環七の交差点手前で停車した軽自動車に乗り込み、殴る
叩くの暴行を働き、取り付けてあったドライブレコーダー外して奪い、バイクに乗って逃走した。
 8月8日、北沢警察署に逮捕された田島は、「ドラレコは奪ったが、暴力は振るっていない。ドラ
レコは捨てた」と供述している。ドラレコは見付かっていない。


■巣鴨とげぬき地蔵大原庵光如来 ◇
 大原2丁目8番5号、井の頭通りに面してあった割と大きな堂。旗が並んで賑やかだったが、何時
頃だったか・・・平成17年頃・・・とにかくなくなった。

 と思ったらあった! 旗が立ててあったから判った。
 東隣のDセンターというビルの裏に鎮座ましましていたよ。大型のペットボトルが、何の意味か判
らないが、100本以上並べてある。以前の境内に比べたら5分の1程の狭さ。立派だった社殿は失
われ、アルミか、プラスティック製の円筒のような最新式の入れ物(覆屋というべきか)に坐す。


■大原橋遺構(川上側)

 大原2丁目11番9先に柱・高欄とも残っている。玉川上水に架けられていた橋。遺構というのも
おかしなもので、橋の下は地下道だが、その下は水が流れている。環七通りを通す。環七が開かれる
前はこの遺構側に細い橋が架かっていた。この部分の環七は昭和27年に開通したようだ。


■稲荷社 ◇

 大原2丁目13番16号にある小祠。扉を閉めてあるので屋敷稲荷。


■ゆずり橋 ◇

 大原2丁目19番6号先玉川上水に架かる人道橋。

   ゆずり橋(玉川上水1号橋)
   この玉川上水に架けられた「やずり橋」は、代田児童館の協力により、子どもたちのアイ
   デアを生かしてデザインされました。「こんな橋があったらいいな」という子どもたちの
   絵から、アーチ橋、窓のある橋、迷路のようなイメージ、星の時計、などの新しいアイデ
   アが取り入れられています。
   広場には、2001年に掘り出す予定の6基のタイムカプセルが埋められています。
   この橋の管理上の名称は玉川上水一号橋といいますが、橋を新しくするのをきっかけに地
   域の人々に「ゆずり橋」という名称を付けてもらいました。以前、橋の幅が狭かったので
   みんなはゆずり合って渡っていました。そのやさしさと、代々木の子どもたちにこの橋を
   ゆずる、という意味が「ゆずり橋」の名にこめられています。
   「ゆずり橋」と平行に玉川上水をまたいでいるのは、代田橋駅前の水道局和田堀給水所か
   ら引かれている水道管です。玉川上水は江戸時代の水道でしたから、このゆずり橋は新旧
   ふたつの水道の交差する場といえるでしょう。

   
玉川上水
   江戸時代、江戸のまちの急激な人口増加による飲用水不足を解決するため、幕府は多摩川
   の水を引いてくる上水(水道)の計画を立てました。これが「譲り橋」の下を流れる玉川
   上水です。
   玉川上水は、安松金右衛門が上水の水盛(設計)を、玉川清右衛門、庄右衛門兄弟が工事
   を担当し、承応二年(1653)に着工、翌三年完成したといわれています。多摩川の上
   流の羽村から四谷大木戸まで約43km、そこからさらに石や木でできた水道管で地下に
   もぐって町の中をめぐり、江戸城内にも引き込まれていました。当時の上水は土地の高低
   差を利用して水が自然に流れる仕組みで、工事にはすぐれた測量技術が必要でした。
   その後、玉川上水から分水した水路が何本もできました。世田谷区内でも、分水が出願さ
   れ、北沢用水(北沢川)と烏山用水(烏山川)ができ、流域の村々の農業用水として使用
   されました。また品川領の水田灌漑のために玉川上水から分水した品川用水も区内を流れ
   ていました。やがて明治時代になって東京の人口がますます増加すると他にもたくさんの
   給水路ができ、玉川上水はだんだん使われなくなり、下流部分はふたをして道路や緑道に
   なってしまいました。しかし、長い歴史を持つ玉川上水とその周囲の自然を残そうという
   人々の願いから、土手や岸を整備し、昭和61年に下流にも約20年ぶりに水を流すよう
   になりました。区内では代田橋駅付近からゆずり橋までが昔ながらの水路となっており、
   他は緑道になっています。
  


■向岸地蔵 ◇

 大原2丁目20番6号先玉川上水緑道の中にある大きな石像。ゆずり橋を過ぎ環七までの間、公園
が続く。その中に向岸地蔵尊が祀られている。左脇に「馬頭観世音」のみ刻んだ角柱と右脇に、小さ
な舟形浮彫の地蔵が2基ある。向岸地蔵の前脇に三界万霊塔がある。
 地蔵尊の傍らの由来書きを原文のまま記す。何様86歳の書道家ではない老人の書いたもので、誤
字・脱字・文字重複は勘弁してやんない。句読点は自分で打ち乍ら読んでくらはい。

   向岸地蔵の由来
   今から二百有余年前えばら郡北の里今では世田谷大原の玉川のほとりに住む名前向岸とい
   う一人身であったが如何なる前世の因縁か身体が右に曲がって居ることを深く悲しみ居り
   ましたある夜大慈大師の地蔵尊が右手に錫杖左手に宝珠を「ほしい物が思いのままだせる
   という玉」乗せてほゝ笑みつつゆるゆると出で給いつつ如何に老人悲しむやそなたわすで
   世を修め此れから先は世の為めに日夜念佛を唱えれば異状苦言を救いて身も叶うべし末来
   の望みもこれで向岸悟り得てああありがたやありがたやと大師たち其数あまたましませど
   身も心も地蔵菩薩の心にてかくて念佛唱え励み此れを聞き伝うるに日毎にして忽まちに二
   百余年の講中となって住人に日毎に増して忽ちに念佛の絶る事なし在日向岸は疾り病氣を
   病自分からつらく思う事に老少不定遠からす菩薩の教えを伝えんと講中の人にぞ悟りけり
   私が此の世を去りたらばわしの姿にも石に掘り刻み必ず此の処に建立して務めて念佛をお
   こたるな万遍ことのくどくにて重き病や心の惱み其の他如何なる事にても叶えさせんとと
   誓って大往生成しとげた聞くに向岸此の人は地蔵菩薩の心が通じこれに講中の人々が生前
   の徳をしたいて此の事に享保元年の秋今より二百六十四年前遺言通り地蔵尊を建立し日夜
   を問はず唱える聲が絶えざりし其の頃より徳が表われし日に増しに参詣多くなり此事世間
   に伝わりて我れも徳をさずかりたいと永い病も直さんと家宝者になりたいと老若男女ちり
   まじり樂や法華を手に下げて遠いもいとわず真心こめたる心願やお礼詣りの人々のいつも
   たえる事なし末来を思う人々心をこめて願うべし     身丈四尺八寸
   戒名 法蓮者清栄向岸大徳居士
   一言 あんかかかびさんえそわか
   平成四年十月吉日向岸地蔵奉賛講
   二代目講元 島田三郎                  書 小寺吾一 八十六才翁


 通訳すると、今から200年ほどの昔、荏原郡北の里(大原)に生まれつき身体が曲がっている向
岸という人がおり、自身の境涯を悲しんでいた。或る夜、夢枕に地蔵が現れ、今後、世のため日夜念
仏を唱えれば救われると告げた。その地蔵の教えに従い念仏三昧の生活を始めた向岸と、それを聞き
知った人々が集まるようになり大きな講中となった。やがて死期が近づいたことを悟った向岸は、周
りの人々に「私が死んだら私の姿を石に刻んで此処に建立し、念仏を唱えて万遍繰り返せば重い病も
心の悩みも解消するだろう」と告げて大往生した。享保元年、講中の人々は生前の向岸の徳を慕って
この地蔵尊を建立したもので、日夜念仏を唱え続け、今日に至っている。今以て線香の火は途切れる
ことのないのは、向岸の徳によるものだ。
 全く立派な地蔵尊像で傷みもない。台座は六角形で、正面に「十億四千八百四十八万遍」と彫り、
時計回りに「大師宇右衛門 二百万柳沢甚□ 二百万□田氏母」、次の面に「福本□」と刻む。

 三界万霊塔(百万遍塔)
 地蔵に向かって左手前にある。正面に

   享 保 元 年  三界
   
奉称念三千六百万遍
   甲辰九月吉日 万霊 


 と刻む。右面は、

      秋元十右衛門
   百万返講中 四十人


 左面は、

   
願主 徃蓮社生・・・

 往蓮社生誉呑虎和尚のことか? 裏面は施主名がずらり。

 
馬頭観世音
 地蔵の左側にある。


■台風15号の風に煽られて50代女性死亡
 大原2丁目26番1号100均のダイソー京王ストア代田橋店の角の柱に、令和元年9月9日の早
朝、3時に千葉県に上陸した台風15号の強風に煽られて転倒、頭を強く打ち付けて死亡した。この
台風は風台風で、各地で被害をもたらした。送電線のあの鉄塔がだよ、根元からぐんにゃりと曲がっ
て倒れてしまい、各地で停電となり、大変にな被害になった。災害列島ニッポン、安住の地はない。


■代田橋跡

 大原2丁目26番12号の北、首都高速道路新宿線高架の下の辺りに位置した。昔を偲ぶ縁(よす
が)は全く無い。玉川上水を甲州街道が越える橋。甲州街道の北側を流れていた流路が、街道の南側
へ替わるため甲州街道を繋いだ橋だってえ訳さ。承応二年(1653)の新架。上水の幅はそれ程な
く、代田橋は土橋で大きなものではない。上水は草茫茫のため、旅人はそこに川があるとも、橋が架
かっているとも気が付かない程度のものだったようだ。
 


■玉川上水の由来説明板

 大原2丁目26番18号甲州街道に面したミニ公園にある。

   北沢□□公園管理事務所(□□の部分には打消しのための紙が貼ってある)
   連絡先 5431‐1822

   
玉川上水の由来
   今から、300年以上昔、徳川4代将軍は、江戸の水不足を補うために多摩川から水を引
   くことを計画しました。そこで、松平伊豆守信綱の家臣安松金右衛門の技術指導を受けた
   玉川兄弟によって 羽村から四谷大木戸まで武蔵野が掘り割られ、江戸八百八町に水を供
   給する水路が築造されました。これが玉川上水です。防火用水としても使われていたとい
   うことです。現在では、その下流はほとんど埋め立てられ、世田谷区内を通る 約950
   mの区間も上部が緑の散歩道として生まれ変っています。

   世田谷区立玉川上水緑道、及び玉川上水第二緑道とその側道は、水道用地の使用許可を受
   けて設置されています。
     記
   使用許可年月日 平成26年3月24日
   使用許可番号  25水経管第1047号
   使用目的    緑地帯・道路・公園敷
   地積      12387.04㎡
   使用期間    平成26年4月1日から
           平成31年3月31日まで
   使用者     世田谷区長

 使用許可番号、地積、使用期間に書き直した痕跡がある。


■流速計検定所跡

 大原2丁目27番一帯にあった流速計検定所は、発電水力流量調査・河川流量調査には欠かせない
業務で、流速計の校正試験所とのことだ。嘗て国が行っていた検定業務は民間の「(株)セレス」(狛
江市岩戸北2‐11‐1)に委託している。跡地はマンション等住宅地となっている。甲州街道の直
ぐ南だ。
 


■大原稲荷神社

 大原2丁目29番21号にある中社。天明二年(1782)五月、それまで代田村字大原の北外れ
を結界とし、村外からの悪霊を祓うため地元の人々の寄合地としてあった杉林に社を建て、遠く京都
の伏見稲荷大社まで出向き、神官羽倉摂津守宿禰信邦の直書を受けて稲荷神社が勧請された。当初羽
倉稲荷と称していたところ、訛って〝はぐさ稲荷〟と称されるようになったというが、地元では普通
は大原稲荷神社
として節や祭礼に親しまれている。境内の末社には大鳥神社があり、11月の酉の日
には縁起物の熊手市が立ち、区内唯一の酉の市とあって大勢の人で賑わう。その他にも境内には沢山
の神様が祀られている。
 京王線の線路が敷かれ、和田堀給水所が建設される以前の境内はもっと広く、全体が杉の木に覆わ
れていた。神社の北西は直ぐ菅原村(現松原)に接し、甲州街道が玉川上水を渡る橋が代田橋と呼ば
れ、鳥居の前は堀の内の妙法寺と池上の本門寺を行き来する人たちも通っていた。また参道は東へ延
びて鎌倉道まで達していた。交通機関の発達と伴に参道は寸断され、橋は上水を暗渠にされて消え、今では京王線の駅名として代田橋は残るだけとなっている。
「せたがや社寺と史跡」に、

   稲荷神社(はぐさ稲荷)
   祭神稲倉魂大神、天明二年(1782)五月伏見稲荷大社神官羽倉摂津守信邦の直書によ
   り勧請したと伝える。よって羽倉稲荷と称したが訛って〝はぐさ稲荷〟と呼ばれるように
   なった。旧社殿は安政年間の造営で、境内地は414坪であったと古記にみえる。付近の
   人々の尊崇を受けていたが.明治年間より大原町、代田町の一部の鎮守となり、昭和16
   年の記録には氏子55戸となっている。現社殿は昭和7年の改築になるものである。
   神宝として、天保十五年(1844)銘の社旗を蔵する。祭礼日は9月14・15日であ
   る。末社大鳥神社の酉の市は京王沿線を中心に著名である。神社より熊手を頒布する外、
   境内に熊手市が立ち、奉納の提灯が200以上も連なり、かなりの賑わいを示すという。

 社号板
 北側の塀の角に取り付けてある。

 
参道
 元々は真東にあったが、京王線の敷設により遮断され、現在の北側からに付け替えられた。

 
皇太子殿下御降誕記念碑
 鳥居前参道脇にある。明仁皇太子のご生誕を記念して建てたもの。左官造りの碑というからには、
コンクリートでできているようだ。

 
石鳥居
 昭和7年10月建立。右横に社号塔が建つ。

 
石造物群
 村のあちこちにあったものが集められたのだろう、ミニ鳥居や神狐、ミニ石祠、蹲(つくばい)な
ど石造物が1ヶ所に纏められている。


 
石燈籠2対
 社前に4基ある。

 
社殿
 戦災で焼失したため戦後に復興された。

 
宮神輿
 
祭礼は、毎年9月の第二土曜日の翌日の日曜日に祭神の町内巡幸が行われる。御霊遷しを終えた神
輿は、秋祭らしく屋根の鳳皇には豊作を祈願した稲穂を咥えさせて、飾り綱の下には力綱をしっかり
と締め直し、明日の渡御を待つばかり。 神輿の製作は行徳で、昭和7年とあるから、関東大震災の後の大変な時期に、宮総代を始め多くの氏子崇敬者の尽力で奉納された貴重な町の財産だ。

 
ピースポール
 「世界人類が平和でありますように」という言葉が書かれたポール。英語の《May Peace Preva
il on Earth》をはじめとして、世界各国語にも翻訳されている。平和のシンボルとして日本各地、世
界各国の神社・お寺・教会・モスク・公園等、さらに国連本部、世界銀行、アラブ連盟本部などの国
際機関にも建立されている。五井昌久が考え出した平和運動。


■招魂戦没者慰霊碑
 大原2丁目29番24号の墓地にある。平成9年9月23日建立。


■和田堀給水所

 大原2丁目30番43号にある。初め和田堀之内村に作られる予定だったが、現在地が標高50m
と高く丸ビルの天辺まで水が上げられるというのでこの地に決し、名前はそのまま「和田堀」となっ
た。土地的には和田堀之内村とは全く無縁だ。東村山上浄水場・境浄水場・三郷浄水場からの送水を
世田谷区、渋谷区、目黒区、港区に配水している。敷地内には西洋風のレトロな四角い門のような建
物が見え、さらにその向こうには丸屋根の塔の頭がちらりと覗く。目を引くこの洒落た建物は、水を
家庭に届ける給水所施設。大正13年に2号配水池が、昭和9年に第一配水池か建てられて以来、今
も現役で活躍している。1号配水池は円形の建物なのだが、大き過ぎて形がハッキリと分からない。
装飾を省いた無骨な作りで、どこか要塞とかトーチカを思わせる。
 そもそも「水を浄水場で濾過・消毒処理し、ポンプで圧力をかけ鉄管を通して給水所に送り、各家
庭に配水するという近代水道設備が東京に建設されたのは明治31年、それまでは江戸時代に造られ
た神田上水や玉川上水の川の水をそのまま利用していたが、明治19年にコレラが大流行。東京では
1万人もの死者が出る惨事となった。そのため明治政府は、欧州から技術者を招き、西洋の最新技術
を駆使した近代水道建設に着手。東京初の淀橋浄水場が、新宿区に建てられた。それに伴い給水所も
各地に建てられた。この和田堀をはじめ駒沢(世田谷区)、野方(中野区)、大谷口(板橋区)の給
水所配水塔などだ。いずれも大正から昭和初期に建てられたもので、現在ではその役割も終えている
ものもある。さて和田堀給水所は初期給水施設の中でも特に規模が大きい。用地面積は約54000
㎡。東村山浄水場、境浄水場、三郷浄水場から送られた水を貯める2つの配水池があり、世田谷・渋
谷・目黒・港各区に配水している。2つの配水池の有効容量は合計60000㎥だが、容量不足と老
朽化は否めない。

 一般開放
 3月末の桜の季節から5月上旬のツツジの季節まで、年2回敷地を一般に解放している。ツツジの
種類はオオムラサキツツジ(大紫躑躅)、ベニギリツツジ(紅霧躑躅)、ヒラドツツジ(平戸躑躅)クルメツツジ(久留米躑躅)、サツキ(五月)など。
 
また淀橋浄水場のあった新宿へは京王線で2駅。新宿アルタの向いの広場には、明治39年に英国
から寄贈された馬水槽が、御茶ノ水には神田上水跡や「東京都水道歴史館」がある。「東京水道歴史
めぐり」を楽しんではどうだ。

 ●再構築(リストラクション)

 平成23年老朽化した設備の解体と、現在都心と結ぶために給水所の北側を迂回するように延伸さ
れている井ノ頭通りの直線化工事が行われることとなった。有効容量を60000㎥から11000
0㎥にするんだとか。そうすると井ノ頭通りは地下を通るのか?
 
 



【岡本】(おかもと)1~3丁目                   昭和43年10月1日
 岡本村。明治22年北多摩郡砧村の大字。昭和11年砧村が世田谷区に吸収されて岡本町となっ
た。同43年新住居表示により岡本町の大部分に玉川瀬田町・大蔵町・鎌田町の各一部をあわせた
町域を現行の「岡本」とした。岡本は国分寺崖線が谷戸川で割かれたところにあるから坂道の多い
町だ。自転車では転げ落ちそうな急坂もある。「岡本は坂が多いのでかわいい娘は嫁にやれぬ」と
までいわれたそうな。

 だから岡本といえば何てったって岡本八幡神社だ!(小さいが雰囲気がいい)

 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『世田谷区史』『世田谷の地名』など。

 岡本の由来
 岡の麓の意。国分寺崖線の下に開けたことによる。町内に岡本山長円寺があり山号から採用した
という説や木曽義仲に属した岡本次郎成勝の出身地という説もあるが、大蔵同様太古の遺跡がある
土地柄なので、山号や姓名はかえって村名に基づいたものだろう。
 私が23区の中で最も気に入っている町だ。田園調布より農村ぽくそれでいて落ち着いたお屋敷
町。善福寺とどっこいかな。とにかく燦々と降り注ぐ太陽光の似合う町だ。
 


■民話・金の火の玉 
 その年は秋になっても暑い日が続き、そして玉川のほうでは、なぜか海水が流れ込み海の魚が取り
たい放題で賑わってた。他にも夜中にニワトリが鳴いたり、犬が遠吠えししり、猫やねずみはいなく
なってしまった。そして暫くすると、どこの家の井戸も水が減りだした。人々が不安に思っている中、
玉川沿いの村々に地震が起きた。岡本でも地鳴りがして地面が揺れた。そんな中、夜になると岡本の
村の境に金と赤の火の玉が飛ぶようになった。そして「金の火の玉は家を守ってくれるので、笊(ざ
る)を被(かぶ)せて逃がさないようにするといい」という話が伝わり、これを実行した家では、そ
の後大きな地震が来てもびくりともしなかったそうだ。金の火の玉飛んで来~い!


■民話・いたづらだぬきの恩返し 
 岡本ではある時、夜に若い娘さんが庚申坂を通ると、ふくらはぎをくすぐられ、驚いている内に荷
物を盗られしまうという事件が起きていた。そんな中、ある娘が母親のために薬を取りに行った帰り
道、すねこすりに遭ったのだ。しかしその時、小だぬきが目の前を横切りそのこだぬきは崖から落ち
て気を失ってしまった。娘は母親の薬を小だぬきに飲ませてやり六天の森に放してやった。それから
後すねこすりはぱたりと止み、また、その娘さんが嫁入りが決まると、あの時のたぬきの親子が来て、
娘に立派な嫁入り道具を渡し、すねこすりをしていたことを謝ったということだ。
 


■砧公園(極々一部)

 岡本1丁目の北端、東名高速の南の植栽部分。公園として散策することはできない。


■鮎川義介邸跡

 岡本1丁目3番と1番・2番・6番・7番の一部は、日本産業(日産自動車・日立製作所)を作っ
た鮎川義介の邸宅だった。

 鮎川義介
 あゆかわよしすけ。明治13年山口県生まれ。日本の実業家、政治家、日産コンツェルンの創始者
で、満州重工業開発総裁、貴族院議員、帝国石油社長、石油資源開発社長、戦後参議院議員などを歴
任した。
 父は、長州藩士鮎川弥八、母は井上馨(かおる)の実姉の長女。同43年戸畑鋳物(日立金属)を
設立。義弟久原房之助の久原鉱業を引き継ぎ、昭和3年社長となり、日本産業(日産)に改組。日産
自動車、日立製作所などを傘下におさめ、日産コンツェルンを築いた。参議院議員(当選2回)。日本
中小企業政治連盟を結成し総裁に納まる。昭和43年没。享年86歳。東京帝大卒。

 河豚計画(ユダヤ人の満州移住)
 また昭和9年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。5万人の
ドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の
開発を促進させると共に、同地をソ連に対する防壁とする構想を、ユダヤ専門家として知られる陸軍
大安江仙弘(やすえのりひろ)、海軍大佐犬塚惟重、関東軍の所謂「大陸派」(満州進出を求めた多
くの軍閥)に立案した。これが後に河豚計画へと展開するのだが、これにより鮎川は関東軍の後ろ盾
を得る。南満州鉄道の理事だった松岡洋右(同郷)も後に河豚計画に参加した。
 これが杉原千畝がユダヤ人にビザを発券したバックボーンだ。現在も渡米せずに満州に残っている
ユダヤ人はいる。キッシンジャーが「イスラエルは消滅する」と発言しているが、既に北朝鮮にユダ
ヤ人が移住しており、現在も満州(中国東北地区)にイスラエルを移そうという計画(福計画)はあ
る。日本軍は総じて悪口をいわれる対象だが、イスラエルだけは日本軍の悪口はいわない。
 長州人は、トーマス・グラバーに丸め込まれて以来、安倍の晋ちゃんにしてからがユダヤの手先と
して日本をその方向に導いている。物好きだねぇー。


■武家屋敷門
(区有形文化財)→ 鮎川義介邸表門

 岡本1丁目3番1号の多摩川テラスという共同住宅敷地内にある。長屋門で、屋根を入母屋造り、
総本瓦葺きとし、背面全面に1間の下屋を出している。規模は桁行は11間半×梁間3間4尺4寸。
門戸の桁行3間6寸で、中央に門扉を設け、向かって右手に片観音開きの潜戸、左手を板壁とする。
門戸の右側は番所だったと思われ、出格子が付いている。また、左側は納戸部屋だったらしく、扉に
面しては与力窓が付けられている。外観は正面および両妻側の腰のみに海鼠壁が使われ、他は漆喰の
塗壁造りとなっているが、四隅の柱と背面の壁は下見板張りとなっている。門柱の根元には装飾金具
を擬した木彫張り、吊元に八双金物、門扉には饅頭金物、菱形の釘隠しなどの装飾が施されている。
 この門の元々の持ち主だった伊木家は、岡山藩池田家の筆頭家老を勤める名家で、岡山城下に屋敷
を構えていた。この長屋門は、岡山後楽園の下手の旭川の中洲にあった下屋敷の表門だったが、旭川
の河川改修により中州が水没する事になったために、鮎川義助が譲り受け、千代田区紀尾井町の自宅
を経て、昭和38年現在地に再移築し、その表門として使用されていたが、昭和53年多摩川テラス
建設に当たり、場所を移動して復元保存された。建築年代は不詳だが、部材の風触、各部の仕様から
江戸時代中期以降の建築と推測できる。なお共同住宅建設後は、住宅自治会により管理されている。

   世田谷区指定有形文化財   第七号
   
武 家 屋 敷 門
                所在地 東京都世田谷区岡本1丁目3番1号 多摩川テラス
   この武家屋敷門は、もと岡山藩、池田家筆頭家老を代々つとめた伊木家下屋敷の表門であっ
   た。
   昭和12年、千代田区紀尾井町に移建され、再度昭和38年、現在地に移されたが、門扉
   ・出格子・柱等の■部材、葺瓦、腰なまこ瓦などに当初の雰囲気をよくとどめ、建築史的
   にも貴重なものである。
   建築年代は江戸時代期末(18世紀後半)と推定され、構造及び形式は、一重、切妻造、
   総本瓦葺・背面一間下屋付・正面右手出格子付・門戸桁行三間・中央親柱十尺間に両開扉
   を設け、右を片開き扉(潜戸)、左手を板壁とする。
   門戸の右手は番所で出格子が付く、左手は納戸として使用されていたもようである。
   桁行・柱真々20.9m、梁行6.9m。           54・10・25 指定


   世田谷区指定有形文化財(建築物)
   
武 家 屋 敷 門
   所 在 地 東京都世田谷区岡本1丁目3番 多摩川テラス敷地内
   所 有 者 多摩川テラス自治会
   指  定 昭和54年10月25日
   建築形式 一重 切妻造 本瓦葺 背面一間下屋付
   規  模 桁行69尺(20.9m)
        梁間22.4尺(6.79m)
   この武家屋敷門は、もと岡山藩池田家筆頭家老を代々勤めた伊木家下屋敷の表門であった。
   この下屋敷は、荒手屋敷とも呼ばれ、後楽園の下手の中州にあった。屋敷内には茶室も多
   く、14代伊木忠澄は三猿斎と称し、茶人としても名高い。
   昭和12年、河川改修工事のため水没する屋敷地内の門及び茶室を鮎川義介氏が譲り受け
   千代田区紀尾井町の自邸内に移築した。その後、昭和38年屋敷を現在地に移し、その表
   門として使用されていたが、昭和53年多摩川テラス建設にあたり、場所を移動して復元
   保存された。
   門の形式は長屋門で、屋根を切妻造、本瓦葺とし、外壁は腰が海鼠壁で、他は漆喰の塗壁
   造りとなっている。
   間取りは、向かって右手が番所、左手が納戸部屋となっており、番所は正面に出格子、門
   扉に向かっては与力窓がそれぞれ付き、格式の高さを示す。中央には両開の扉が入り、ま
   た、向かって右手には、片開き戸(潜り戸)、左手は板壁となっている。両開き扉の親柱
   の柱間寸法は十・〇五尺(3.09m)、材質は門扉は杉材、親柱及び冠木・出桁はいずれ
   も松材が使用されている。
   門扉には、吊り元に八双金物、饅頭金物、菱形の釘隠しも付けられている。
   建築年代は不詳であるが、部材の風蝕、各部の仕様、下屋敷の造営史等から江戸時代中期
   (十八世紀末期)頃と推定された。
   当門は、大藩の家老屋敷の表門としての格式を示す遺構として貴重である。
   昭和59年3月                        世田谷区教育委員会


■岡本緑地

 岡本1丁目3番8号にある区立公園。


■無名坂・無名塾
 岡本1丁目6番2号にある。坂は分譲の時に区画のために拵えた道路なので、特に名が無い。坂上
に仲代達矢の無名塾がある。坂名がこれに因んだものか、名無しの坂を意識して塾名としたのかは不
明。坂上左手の無名塾の赤レンガの建物入口にプレートがある。

   若きもの
   名もなきもの
   ただひたすら
   駆けのぼる
   ここに
   青春ありき
   人よんで
   無名坂

   
一九七五年始まる
      無名塾

     仲代達矢
       隆巴


 
仲代達也
 東京生まれ。俳優座演劇研究所付属俳優養成所。舞台劇「幽霊」のオスワル役で鮮烈デビュー。
「どん底」「リチャード三世」「ソルネス」などの舞台で芸術選奨、文部大臣賞、毎日芸術賞、紀伊
国屋演劇賞ほか数々の賞を受賞。映画では小林正樹監督「黒い河」「人間の条件」「切腹」、黒澤明
監督「用心棒」「影武者」「乱」と日本を代表する映画に出演。テレビドラマでもNHK大河ドラマ
「新平家物語」「大地の子」ほか代表作多数。昭和50年から俳優を育成する「無名塾」を亡き妻宮
崎恭子(女優、脚本家、演出家)と主催。塾からは、隆大介・役所広司・益岡徹・神崎愛・若村真由
美・渡辺梓らが育った。

 ●隆大介(張明男)台湾暴行事件
 平成27年3月21日、俳優隆大介(張明男 58歳)が、ハリウッド映画「沈黙」(マーティン
・スコセッシ監督作品)のため小役乍ら招聘された。台湾桃園国際空港にて入国審査時に手続きが煩
瑣だったことと、監視カメラに反応して大暴れし、審査官に暴力を揮い左足を骨折させたため、現行
犯として逮捕され、公務執行妨害罪及び傷害罪で送検された。現地の台湾紙では「この韓国人男性は
酒に酔っていた」と報じた。隆が韓国人であることはデビュー当時から判っていたことで、彼も隠し
はしなかった。また芸能人(お笑い芸人・俳優歌手・タレント・グラドル・モデル・格闘技)の殆ど
は在日韓国人朝鮮人だから、取り立てて珍しいことではない。もし在日外国人を全員帰国させたら、
テレビや映画、芝居は成り立たなくなる。隆は、出国禁止で秘かにホテルに留められ、制作者側から
契約を解除された。2、3日して強制送還。韓国に返されたのか、日本なのかは不明。この結果、当
分芸能界は干されるだろうし、罰金・賠償金・違約金と、どえらい出費や。徳川家康はいったよ。

   堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え

 隆は、師である宮崎恭子の筆名「隆巴」から苗字を貰い芸名を日本人らしい隆大介とした。
 昭和55年に黒澤明監督『影武者』の織田信長役でデビュー、ブルーリボン賞新人賞を受賞した。
主な出演作に映画『幻の湖』『遠野物語』『五条霊戦記GOJOE』『踊る大捜査線 THE MO
VIE』などがある。テレビではNHK大河ドラマ『峠の群像』の浅野内匠頭役でエランドール新人
賞を受賞した。同じく大河ドラマ『翔ぶが如く』では江藤新平役を、『軍師官兵衛』では黒田休夢を
演じた。『幻の湖』『遠野物語』ではラブロマンスの主人公を演じてもいるが、平成元年公開の五社
英雄監督『226』に出演した際、田原総一朗が「戦後の豊かな時代の育ちなのに純粋軍人のファナ
ティックな美と危なさを、まるで持ち前のキャラクターであるかのように表現している」と評したヤ
クザ映画にも数多く出演している。隆は韓国人であってもそんなに悪い奴じゃない。今回酒を飲んで
たことで、WHO公認の国民病である火病(ファビョン)が顔を表したのだろう。


■岡本隧道公園

 岡本1丁目9番7号にある区立公園。


■岩崎家別邸(松方別邸)

 岡本1丁目10番1号の聖ドミニコ学園のところは、三菱の総帥岩崎家の別荘だったところで、松
方正義の別荘でもあったという。
 


■聖ドミニコ学園幼稚園・小学校・中学校高等学校 

 岡本1丁目10番1号にある私立校。昭和6年10月ドミニコ女子修道会の5人の修道女が来日。
仙台に修道院を創立。同25年10月目黒区駒場に修道院設立。同29年6月学校法人聖ドミニコ学
園設置認可。同9月駒場に小学校開校。同33年7月カトリック池尻教会より、聖イルメダ幼稚園の
経営を継承。同37年4月駒場に中学校・高等学校を開校。幼稚園を聖ドミニコ学園幼稚園と改称。
同9月全学園・修道院を松方別邸跡地(現在地)に移転。同54年創立25周年記念式典。同59年
創立30周年感謝ミサ。
 平成元年創立35周年感謝ミサ。同6年創立40周年記念式典・感謝ミサ。聖堂・カタリナ棟の竣
工。同16年創立50周年記念式典。
 幼稚園・小学校は男女共学。中学校高等学校は女子高。

 校歌「照らす清明の星よ」 
  1.照らす清明の星よ
    聖なるドミニコ
    注げ信仰の光
    潔き青春の心に
    時の早瀬に流るゝ星影
    真理の標語胸に
    雄雄しく行かまし
  2.主は永遠に光
    我が魂の力
    気高く匂う白百合
    我が魂の姿なれ
    聖父に倣い
    強く潔らけく
    真理の益荒男と
    雄雄しく行かまし


 すだれ沼
 昭和4年の地図を見ると、谷戸川は蛇行して現在のすだれ沼あたりを流れていた。地元の人の話で
は、その当時の川には小魚や蛍が生息し、第二体育館や現在のすだれ沼付近から水が湧き出ていたそ
うだ。
その後、耕地整理などにより谷戸川や道路が整備されると、斜面と道路に挟まれた窪地に湧き
水が溜まり、沼の原型が形成された。昭和37年松方別邸だった本地に学園が移転し、何時しかこの
沼を「すだれ沼」と呼ぶようになった。その後橋を架けるなどの整備を行ったが、危険なため、立ち
入り禁止となり、忘れられた空間となっていた。このすだれ沼を、新校舎完成に伴う記念品の1つと
して後援会が整備を行い、平成13年10月清らかな湧き水が流れ込むすだれ沼が再生された。
 


■岡本いこいのもり緑地

 岡本1丁目17番3号にある区立公園。


岡本山安養院長円寺

 岡本1丁目20番1号にある新義真言宗智山派の寺、満願寺末。本尊は木像坐像の大日如来。開山
開基は寺伝が失われて判らない。中興開基の快誉は元文三年(1738)十一月十七日には寂滅して
いるから。開山はそれ以前ということになる。現在のモダンな堂宇は昭和41年に改築したもので鉄
筋コンクリート
造り。堂宇内に村の人々が奉納した元禄四年六月二十九日銘の小梵鐘がある。高さ5
4cm、半径34cm。「新編武蔵風土記」に、

   (岡本村)長圓寺
   除地二段五畝、字中原にあり、真言宗新義、荏原郡等々力村満願寺の末、岡本山と称す、
   安養院と號す、客殿七間に五間東向なり、本尊弥陀木の坐像長一尺三寸なるを安す。開山
   開基の名もいつの比か寺傳を失ひたれば、今より知るべからず、中興開基は快誉此人元文
   三年十一月十七日寂す、當寺は元小庵にて八幡宮の坂下にありしを、元禄年中妙榮尼の事
   により、荏原郡碑文谷村法華寺(現在の円融寺)住僧御咎めありし頃、近郷の人々改宗し
   て檀家となり、此地へ移せり。山号寺号も其頃より唱へしと云へり。さだかなることは今
   より知るべからず。
   辨天祠。門を入て右にあり、木の坐像長一尺三寸、祠も僅九尺四方。
   天神祠。門を入って左にあり、木の坐像長一尺許。


 とある。


 榎本金六の墓
 金六は筑後久留米藩の関流六伝藤田閑海の門人で和算の塾を開き、多くの門人に門人を指導した。
彼に学んだ者は広範囲で、世田谷・経堂・横根・瀬田・用賀・喜多見・鎌田・大蔵・奥沢・等々力の
10ヶ村に及びんでいる。弘化二年(1845)に没し、墓は長円寺の墓地に門人たちが建てた。法
名は春峰道悦信士。
 


■「病院坂の首縊りの家」のセット跡

 岡本1丁目25番4号の岡本地区会館のあるところは、昭和56、7年の当時は畑で、ここに映画
「病院坂の首縊りの家」のオープンセットが組まれた。丁度聖ドミニコ学園の北側で、東に上る急な
坂道は「病院坂」として撮影された。この病院坂の名前は、横溝正史の成城の自宅近くにある病院坂の名前を拝借したものだ。


■第六天の森 ◇

 岡本1丁目32番8号にある。東名高速道路の南側に高速道路に平行した直線の道があるのだが、
急に半円を描くように道が曲がり、再び直線になるところがある。その出っ張り部分には木が立って
るだけで社祠などは何も無い。昔この辺りは鬱蒼たる森林で、草木一本たりとも切ってはならない不
文律の言い伝えがあった。ところが江戸幕府の命令で森の横道を広げることになった。当然、謂れが
あるので、村民は変更をお願いしたが聞き入れられず工事となった。村人たちが斧や鉈で一斉に伐採
をしようとしたところ、次々と怪我をしてしまう。この奇妙な異変が続くために幕府も諦めることと
なったという。近代においても数多くの神罰が語られている。そんなこんなで祟りがあるというので
この部分だけ取り残されているのだ。江戸時代に幕府が手を出せなかったように、現代の世田谷区役
所でも一切を手を出さずにわざわざ道を曲げて迂回をしているという訳。昭和39年9月に区画整理
の都合でご神体は岡本八幡神社の境内移された。この時には2日間も遷宮祭りを行い、ご神体の石碑
は鐘や太鼓で賑やかに送られたそうだ。
 


■民話・岡本のすねこすり

 このごろ若い娘たちが、夜に庚申坂を通ると、不思議にも脛や脹脛(ふくらはぎ)を擽(くすぐ)
るものに出会う。そればかりではなく、驚いている隙に、荷物が盗まれたりもした。村の人たちが集
まると、この「すねこり」の話しでもちきりだ。これは天狗の仕業だとか、カマイタチの子供の悪戯
だとかいうのだが、どうしたものか、皆が頭を痛めていた。そうこうする内に、また庚申坂で母親の
ために薬をもらいにいった娘が「すねこすり」にあったのだ。風が舞ったかと思うと足元から脹脛が
何かが触り、娘は道端に蹲(うずくま)ってしまった。
 その時です。子犬のような可愛い子ダヌキがヨチヨチと歩いてきた。その子ダヌキは、前の崖を急
いで登ろうとしたのだが、足元が弱く崖から落ちてきて気絶をしてしまった。娘は可愛そうに思い子
ダヌキを抱き上げて、母のために購った医者からの薬を飲ませてやった。子ダヌキは目をさましたも
のの呆然として離れようとしなかったので、第六天の森まで連れて行き放してやった。
 不思議な事に、その日からは「すねこすり」の事件はぴたりと止んだ。しかし、そのことで却って
何か大きな事が起きるのではないかと村人は新たな心配をすることになった。
 それから一年ほどが何事もなく過ぎ、子ダヌキを救った娘が隣村へ嫁に行くことになった。嫁入り
道具を揃えていると、タヌキの夫婦が元気になった子ダヌキを連れて現れた。さらには大勢の仲間の
タヌキを引き連れていた。それも箪笥、長持、晴れ着を抱えてお祝いに来たのだ。
 驚いて訳を聞くと、

   私たちはすねこすりをしたたぬき一家です。庚申坂で娘さんに子ダヌキを救って貰った
   から、心をあらためて、皆でお祝いにきました。


 そう謝って、タヌキたち第六天に帰って行ったとさ。お猿の尻はまっこう。

 ※庚申坂という坂は無い。谷戸川に庚申橋があるので、高速道路脇の道のことかも知れない。


■岡本一丁目谷戸の坂市民緑地

 岡本1丁目38番2号にある7番目に開かれた市民緑地。谷戸川に面している屋敷林。緑地の名称
はかつての字である「谷戸」と緩やかな斜面林であることで名づけられた。緑地内には園路の石畳や
周囲を囲む石垣など歴史を感じさせるだけでなく、庭木を中心に多くの種類の木が植栽されている。
特に接道部に列植されるツツジは、4月~5月ごろには各色華やかな花を咲かせるほか、秋には多数
植わるキンモクセイが心地よい香りを緑地内に広げる。かつての岡本の風景を伝える屋敷林として大
切に残していきたい緑地だ。
 


■砧工業高等学校 
閉校

 岡本2丁目9番1号にあった男女共学の都立校。略称は「砧工(きぬこう)・砧工業(きぬたこう
ぎょう)」。二子玉川と成城学園前のほぼ中間にあり、城南地域(23区の皇居より南側の地域)と
町田地域の学生が通学した。
 昭和37年最終地に全日制工業高等学校として「東京都立砧工業高等学校」開校。平成15年最後
の第40期生入学。同16年都立玉川高校との統合のため募集停止。同17年校舎の一部解体。同1
8年最後の文化祭「砧工祭」開催。同19年最後の卒業式を済まして3月31日に閉校し全校改修。

 同20年玉川高等学校と統合し新たに総合学科高等学校となる。 


■世田谷総合高等学校
 岡本2丁目9番1号にある都立の全日制新設校。平成20年砧工高の跡地に、都立玉川高校と統合
して「東京都立世田谷総合高等学校」
総合学科(美術・デザイン系列、生産・テクノロジー系列、情
報・サイエンス系列、国際・コミュニケーション系列、スポーツ・福祉系列)として開校。

 玉川高校校歌碑 ◇
 正門を入った右手にある黒御影石の碑。

   東京都立玉川高等学校記念碑
   加藤楸邨作詞
   下総皖一作曲
   一雪解の谷をうがち出て
    溢れ高鳴りとどまらず
    ひろき野を行き土に浸み
    もろもろの根にはぐみつつ
    これぞ我等立つところ
    多摩の流れ
   二夜明けの国の暗を抜き
    ひかり高まりとどまらず
    もりあがり行く力もて
    もろもろの目に聳えたつ
    これぞ我等向くところ
    富士の高根
   三溢れゆくとき多摩のごと
    遠き希望の根をひたす
    もりあがるとき富士のごと
    たゆたへるものうちたたす
    これぞ我等踏むところ
    つよき眞實     楸邨


    昭和30年 開校
    昭和40年 創立10周年
    平成16年 創立50周年
    平成20年 閉校


 裏面

   平成20年3月1日
   東京都立玉川高等学校閉校記念
   東京都立玉川高等学校卒業生
   東京都立玉川高等学校PTA
   東京都立玉川高等学校PTA
   東京都立玉川高等学校職員
   東京都立玉川高等学校
 

 
砧工高記念碑 ◇
 門を入った右手植栽にある。

   東京都立砧工業高等学校記念碑
   校訓  信愛 自律 礼儀
   沿革  昭和38年4月 開校 設計学科 機械科 化学工業科
       昭和59年4月 電子技術科設置
       平成 3年4月 化学工業科を応用化学科に改編
       平成19年3月 閉校
 
 


■鎌田前耕地公園

 岡本2丁目10番10号にある区立公園。

 「未来」 ◇
 園内にある女性像。「鎌田前耕地土地整理組合 完成記念」と記してある。ギリシャの女神が小さ
な水瓶を担いでいるかのようなデザイン。

   
未来
 


■鎌田前耕地緑道
 岡本2丁目13番16号にある岡本公園民家園と野川水道橋を結ぶ、直線247mの遊歩道。渋谷
町水道道路の跡地を整備して造られた区立公園。
 


■堂ヶ谷戸坂

 岡本2丁目17番と3丁目30番の間を東北に上って行く坂道。坂下の丸子川に架かる橋を「堂ヶ
谷戸橋」という。


■岡本公園

 岡本2丁目19番1号にある。岡本民家園に接続する区立公園。

 
「三人寄れば文殊の知恵」
 園内にある石の彫刻。昭和58年鈴木政夫の作品。

 
「邪鬼の灯籠」
 園内にある石の彫刻。昭和58年鈴木政夫の作品。


■岡本公園民家園(せたがや百景No.72 岡本民家園とその一帯)
 岡本2丁目20番1号にある。岡本公園の東端に区内の農家と土蔵を移築して、懐かしく良き時代
を偲ぶべく公開保存する。


 旧長崎家住宅
(区有形文化財)
 
1丁目19番の区立公園にある。瀬田2丁目の本家長崎孫好家に建っていたもので、昭和52年区
の有形文化財第1号に指定され、同55年に現在地に移築された。寄棟造り茅葺の屋根形態を取り、
桁行6間半×梁間4間、床面積30坪(ほぼ100㎡)の規模を持つ。間取りは、正面右手に土間の
台所、表側(南側)に座敷とデイの2室を並べた喰違い四ツ間取りの形式を持つ。当初は土間境の座
敷と居床が板敷きで、一続き部屋となる広間型形式の間取り(第Ⅰ期)だったと推測されている。そ
の後数回の増・改築が行われたが、移築に際しては第Ⅱ期の喰違い四ツ間取りに復元された。この第
Ⅱ期の改築時期は、代官大場弥十郎が在職中の寛政年中から天保四年の間に記録した『自然賛』や長
崎家の、歴史から、6代目孫兵衛が百姓代になった文政十年(1827)までの間に行われたものと
推定され、区内に残る代表的な古民家として江戸時代後期の特徴をよく残した貴重な遺構だ。

 
旧浦野家土蔵(有形民俗文化財)
 喜多見7丁目の浦野寛家に建てられていたもので、当初は穀蔵として、その後は油蔵や店舗として、
一時は住宅としても使われていたことがある。桁行3間×梁間2間半の規模を持つ総二階建て(築後
に一部吹き抜け)の「土蔵造り」で、入口を平入りとし、ここに奥行1間の土庇(どびさし)を付け
ている。外壁は漆喰で仕上げられ、上部に鉢巻、下部に下見板付きの腰巻が廻されている。また屋根
は切妻造りの置屋根形式で、当初から桟瓦が葺かれていた。小屋組は、両妻側の天秤梁と中央の曲り
梁に渡された牛梁(地棟)に登り梁をそれぞれ掛けて棟木を支える登り梁構造だ。この巨大な自然木
の松材を巧みに利用した曲り梁が優れた意匠となって、これを用いて牛梁を受けている構造がこの土
蔵の特徴となっている。建築年代を知る直接の史料はないが、建築的な特徴、浦野家の言い伝えに

   9代目粂次郎が商いを始めた頃に建てられて、この下屋部分で商売をしていた

 とあり、江戸時代末期の嘉永から安政年間(1848~59)頃に建てられたものと推定される。

 旧横尾家住宅椀木門(うできもん)
 大正13年に建てられた数寄屋風の門で、世田谷区桜より移築・復元された。この門は民家や土蔵
よりも時代が新しく、建築様式や趣旨が異なるため、正面ではなく岡本八幡神社の参道に面した側の
裏門として配置された。

 ●桜
 この一帯に植えられている。

 オブジェ2基
 「三人」と「邪鬼の灯籠」の2基だが鈴木政夫の愛らしい彫刻だ。昭和58年12月の設置。

 岡本隧道
 民家園の奥にある。説明板がある。

   岡本隧道
   この案内板から右50m先、民家園の左奥に石垣囲いの蒲鉾型の扉があり、「岡本隧道」
   という文字が刻まれています。隧道とはトンネルのことで、扉の中は、高さ2m、幅2.5
   mのトンネルになっていて、そこには直径80cmもある送水管が通っていて、その長さ
   は120mにも及びます。
   大正10年当時の豊多摩羣渋谷町(現在の渋谷区)では、多摩川の水を町へ引き込もうと
   大規模な水道工事を始めました。
   砧浄水場で取水、浄化した水は駒沢給水所、三軒茶屋を経て渋谷に至り、地下の送水管は
   南西から北東へ直線的に世田谷を跨いでいます。
   水は、駒沢給水所までば、揚水ポンプの力で高く持ち上げられ、給水所から渋谷までは、
   自然の重力で送水されました。砧浄水場を出てすぐに、この岡本の台地を横断しますが、
   揚水ポンプの負荷を少なくする工夫として送水管専用のトンネルが利用されました。
   これらは大正12年に竣工した近代水道の建造物であり、今でも珍しい施設で、極めて貴
   重な歴史遺産です。
                駒沢給水塔歴史保存会・世田谷区
 


■岡本八幡神社 ◇
 岡本2丁目21番2号、岡本公園民家園の上にある。鳥居を潜ると一対の真新しい灯籠が・・・奉
納者を見ると松任谷正隆・由美・・・? 
ユーミンじゃん。男坂の石段を登る。鳥居の正面が社殿
だ。右手お食事処の右の女坂石段を登っても神社の横に出る。女坂の石段は登り切ると静嘉堂文庫の
裏手に出る。正面男坂からお参りする。この神社は大きくはないが風情があるよ。現代的なものが見
当たらないので、室町時代はかくやと思いたくなる空間だよ。映画のロケーションによいと思うが、
まだ誰も気がついていないようだ。神体は1尺ばかりの木像。『新編武蔵国風土記稿』には、

 
  除地一段、小名河原ニアリ。本社二間四方、南向ナリ。神体ハ木像ニテ長サ一丈許其ノ作
   ヲ伝ヘズ。坂下ニ石ノ鳥居ヲ立、石階六十段アリ。祭礼ハ九月二十七日


 とあるが、現在の堂宇は大正11年に改修しており、正面石段も明治12年に改造し50段にした
そうだ。高い石段を上ると松や欅の大木が生い茂り、小鳥の囀りが聞こえ、いかにも村の鎮守らしい
宮居だ。鳥居の辺に天保五年(1834)と記した手水鉢が放置されている。
 祭礼は10月の第一土曜・日曜の2日間行われる。

 
ケヤキ(欅)

 世田谷区名木百選の1。樹高25m。目通り幹周3m50cm。枝張り17m。ニレ科ケヤキ属の
落葉高木。ツキ(槻)ともいう。東アジアの一部と日本に分布。日本では、本州、四国、九州に分布
し、暖地では丘陵部から山地、寒冷地では平地まで自生する。街路樹や庭木などとしてよく植えられ
る。高さ20~25mの大木になるため、巨木が国や地方自治体の天然記念物になっている。葉の鋸
歯は曲線的に葉先に向かう特徴的な形であり、鋸歯の先端は尖る。雌雄同株で雌雄異花だ。花は4~
5月頃、葉が出る前に開花する。秋の紅葉が美しい樹木でもある。個体によって色が異なり、赤や黄
色に紅葉する。
 材木としては、木目が美しく、磨くと著しい光沢を生じる。堅くて摩耗に強いので、家具・建具な
どの指物に使われる。日本家屋の建築用材としても古くから多用され、神社仏閣などに用いられた。
現在は高価となり、なかなか庶民の住宅には使えなくなっている。伐採してから、乾燥し枯れるまで
の間、右に左にと、大きく反っていくので、何年も寝かせないと使えない。特に大黒柱に大木を使っ
た場合、家を動かすほど反る事があるので大工泣かせの木材だ。また中心部の赤身と言われる堅い部
分が主に使われ、周囲の白い部分は捨てられるので、余程太い原木でないと立派な柱は取れない。

 クロマツ(黒松)
 世田谷区名木百選の1。樹高23m。目通り幹周2m70cm。枝張り7m。
 本州・四国・九州・沖縄の各地に生育する二葉松類だ。潮風に強いので、海岸域の防風林などとし
て植栽されてきた。庭木にも多用されているので、人為によって分布が拡大されているが、本来の分
布は雪の少ない地域の海岸付近ではなかろうか。クロマツは、アカマツに比べて、水分条件の良い場
所では、初期成長が良好であり、植林されることも多かった。初期生長が良いのはアカマツに比べて
葉への資源投資が多いからであると思われる。葉量が多いので、次の年の拡大再生産比率は大きなも
のとなるが、逆に根への投資は少ない訳であり、土壌条件の良い場所であることが前提となる。した
がって痩悪な林地ではクロマツよりもアカマツの方が優勢となる。樹高は、40mに達することもあ
るが、自然の状態では滅多にそこまでは成長しない。記録的な高さのクロマツとしては、島根県隠岐
郡隠岐の島町の
「春日神社の松」66m、大分県竹田市の「緩木神社の松」60m、茨城県龍ケ崎市
55mなどがあったが、いずれも現存しない。 

 女坂
 神社右側の坂道をいう。併し男坂はない。普通男坂女坂は、勾配のきつい方を男坂、勾配の緩く遠
回りな方を女坂と名づける。正面の石段が男坂の心算でいるのかもしれない。

   右
    
おんな坂


■馬坂 ◇

 静嘉堂文庫の正門の前の坂道。岡本1丁目と瀬田4丁目の境を成している。岡本の国分寺崖線を登
る道はどこも急坂で、馬で登攀できるところが無かったので、三菱の岩崎家が馬車で登れるように拵
えた新道。それで「うまさか」と命名した。馬橋は馬、馬車の通れる橋の意だ。坂途中の湾曲部に高
さ50cmぐらいの小さな石標がある。

   馬坂
    世田谷区 玉川地団協


岩崎家別邸 → 静嘉堂文庫(都選定歴史的建造物 せたがや百景No.73)
 岡本2丁目23番1号にある三菱グループの所有地にある。正式名称は「国立国会図書館支部静嘉
堂文庫」という。明治38年の英国ケンブリッジ大学卒業記念写真がある。数えで27歳の青年岩崎
小弥太は、長身の異邦人と並んでも、少しも遜色のない偉丈夫だ。三菱グループの創業者岩崎弥太郎
を伯父に持ち、4代目社長を引き継いだ小弥太は、身長180cm、体重130kgと、当時では日本人
離れの体躯だった。父の弥之助は弥太郎の弟で2代目社長だが小弥太も三菱重工業の創設や東京駅前
の丸ビル建設の決断などグループ総帥としての見識を示し、「大社長(おおしゃちょう)」と呼ばれた
そうだ。
 小弥太は東西の文化にも深い関心を持ち、静嘉堂文庫には、弥之助・小弥太の父子2代に亘って収
集した和漢の貴重な古書20万点が収蔵されている。和書については青木信寅・中村宇吉・鈴木真年
・宮島藤吉・田中頼庸・山田以文・色川三中・高橋残夢の蔵書を、漢書については中村宇吉・宮島藤
吉・楢原陳政・小越幸介・竹添光鴻・島田重礼の蔵書を購い、清国の陸心源の夥しい蔵書を合わせた
ものが収蔵品の大半だ。 静嘉堂の名は、弥之助が『詩経』の「邊豆静嘉」(祭祀の神器は清らかで
美しい)の詩句から命名した書斎の名で、小弥太は明治43年多摩川を望む閑雅な岡本の地に父の霊
廟を建てた。鹿鳴館などで有名な建築家ジョサイア・コンドルの設計で、銅版葺の丸屋根を持つ高さ
10mもの堂々たる石造建築だ。大正13年には、さらに収蔵する文化財が災禍を受けないように、
霊廟の近くに文庫を建てた。同時に自分の書斎を文庫内に設け、『大漢和辞典』の編纂で知られる諸
橋轍次博士に依頼して古典の講義を聞くのを楽しみとした。これが静嘉堂文庫で、コンドルの高弟桜
井小太郎が設計した焦茶色煉瓦の英国風2階建て洋館。閲覧は日曜・祝日・年末年始の休暇以外の毎
日で8時40分~16時半までで、初めての人は然るべき人の紹介者が必要だとのこと。身辺ご清潔
にだ! 建物は、大正13年鉄筋コンクリート2階建て。設計:桜井小太郎/施工:上遠喜三郎。

   静嘉堂文庫
   ●庭園内は禁煙です。
   ●動・植物保護のため、遊歩道以外は入らないでください。
   ●動・植物の生育環境を守るため、犬は入れないでください。
   ●くずかごはありません。ごみは持ち帰りましょう。

   世田谷百景
   73 
岡本静嘉堂文庫
   静嘉堂文庫は、岩崎弥之助・小弥太父子2代によって集められた和漢の古典籍と古美術品
   とを集蔵し、大正13年建築の文庫と平成4年竣工の美術館とから成る。多摩川を望む丘
   陵の上に立ち、深い樹林に包まれて四季おりおりの景観に恵まれている。

   東京都選定歴史的建造物
   
静嘉堂文庫                  所在地 世田谷区岡本2‐23‐1
                           設計者 桜井小太郎
                           建設年 大正13年4月
   武蔵野の面影をよく留める丘陵の一隅にこの建物は建っている。鉄筋コンクリート造2階
   建スクラッチ・タイル貼りの瀟洒な建物で、イギリスの郊外住宅のスタイルを濃厚に表現
   している。
   静嘉堂文庫は、三菱合資会社の第四代社長であった岩崎小彌太が、その父彌之助の収集し
   た日本や中国の貴重な古典籍を永久に保存し、更に研究者に公開することを目的に建設し
   たものである。
   設計者の桜井小太郎(1870~1953)は、イギリスで建築を学び、英国風の落ち着
   いた品格のあるデザインを得意とした。岩崎小彌太も明治33年イギリスに留学し、ケンブ
   リッヂ大学を卒業した英国通であり、両者の呼吸が一致した作品である。内部は玄関ホー
   ル、ラウンジ、閲覧室、2階に応接室等があり、19世紀後半イギリスのアーツ・アンド
   ・クラフト運動の雰囲気をもっている。              東京都生活文化局

 
静嘉堂文庫美術館
 平成4年に収蔵品を一般公開するために建てた。世界に3点しか残ってないという「曜変天目(よ
うへんてんもく)茶碗」「俵屋宗達筆・源氏物語関屋及び澪標屏風」「源氏物語絵巻」「紫式部日記
絵詞」「伝馬遠筆風雨山水図」「和漢朗詠集太田切」「因陀羅筆楚石梵琦題詩・禅機図断簡智常禅師
図」「趙子昴筆与中峰明本尺牘」「銘包永の太刀
」などの国宝をゆっくり鑑賞することができる。

 
岩崎弥之助・小弥太胸像
 美術館に入って左手に並んでいるが、撮影しようとすると偉い剣幕で叱られるよ。弥之助は弥太郎
の弟で2代目総帥、小弥太は弥之助の子で4代目社長。

 狛犬一対
 玉川廟の前にある。


 
岩崎家玉川廟(都市亭歴史的建造物)
 三菱財閥の2代目岩崎弥之助が死去した時、岩崎家の納骨堂として弥之助の嫡男で4代目小弥太に
よって建てられた。設計はあのジョサイア・コンドルだ。明治43年の煉瓦造石積み平屋建て。ニコ
ライ堂に似た霊廟の前に1対の狛犬が立つなど和洋折衷の最たるもの。

   岩崎家廟堂案内
   この奥にある青緑色のドームを戴く白亜の建物は、静嘉堂文庫を創設した岩崎彌之助の霊
   廟として建てられ、彌之助、小彌太をはじめ岩崎家代々の墓である。
   明治43年3月、わが国西洋建築の始祖ともいうべきジョサイア・コンドルによって建て
   られた。コンドルは鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館なども設計している。
   青銅の扉に刻まれている中国二十四孝のレリーフ並びに前面の大香炉は岡崎雪聲の作であ
   る。また、森の奥には、松方正義の文と書による男爵岩崎君墓碑がある。
   この霊廟は平成11年4月東京都により歴史的建造物に指定された。
   平成24年4月                        世田谷区教育委員会


 
弁天塚・天神塚
 敷地内にある古墳。『東京都遺跡地図』には、世田谷区の遺跡番号199番の〝時代不明の塚〟と
して登録されている。この塚に関しては、詳しい記載のある文献は見つからず、詳細は不明。発掘調
査が行われたという記録もなく、弁天塚と天神塚というからには塚上に弁天様や天神様が祀られてい
るのかな? という想像は出来るものの、実際に現地を訪れて見ても、塚上は樹木が生い茂っていて
様子を窺うことはできない。
 塚は、静嘉堂文庫敷地内の噴水池の前、岩崎家霊堂の北西側に築山となって残されているが、静嘉
堂文庫では、この築山は古墳ではないかと考えられてはいるものの特に遺物の出土等の伝承もなく、
「弁天塚」「天神塚」という名称の存在も把握していなかったという。従って、左右に並ぶ2基のマ
ウンドのどちらが弁天塚で、どちらが天神塚であるのかも判らない。



せたがや百景No.70
岡本もみじが丘
■世田谷地域風景遺産No.1‐22
静嘉堂緑地の自然林
 
もみじが丘は、特にそういう名の場所がある訳ではないのだが、静嘉堂を中心とした樹林帯を風流
にそう呼ぶ。東京の紅葉は遅く11~12月で、行善寺八景に「岡本紅葉」があって、国分寺崖線の
木々の紅葉は美しい。
 


■岡本静嘉堂緑地

 岡本2丁目23番42号にある区立公園。静嘉堂文庫の一帯の緑地は、かつては三菱総帥岩崎家の
別荘があったところだ。国分寺崖線の一画で、岩崎家が所有した庭園だったが、昭和20年頃までは
庭園として維持管理がなされていたが、その後、人の出入りもなく、ほぼ自然状態のままにあったた
め貴重な自然が残された。地域の貴重な財産として末永くこの緑地を残し、人々が身近に自然にふれ
あう場となることをめざしている。

 
ヤブツバキ
(藪椿)
 世田谷区名木百選の1。樹高11m。目通り幹周1m26cm。枝張り9m。
 ツバキ科ツバキ属。東北以西の暖地に生育する常緑の小高木である。照葉樹林(椎・樫帯といって
もよい)の代表的種だ。葉の表面にはクチクラが発達しており、光沢がある。花は冬から早春にかけ
て咲く。この季節は花を訪れる昆虫が少なく、花粉の媒介は主にメジロなどの小鳥が行っている。こ
の季節、森を訪れると顔がヤブツバキの花粉で真っ黄色になっている小鳥を見ることができる。
 岡山県でも照葉樹林帯には広く分布するが、降水量の少ない沿岸地帯では発見するのにかなり苦労
する。雨量もさることながら、植生の貧化が激しく、土壌の薄い乾燥した場所では十分には生育でき
ないようだ。
 ツバキは冬の花の少ない季節に咲く花として、古来からサザンカとともに品種改良されてきた。中
国でも古くから栽培されており、19世紀にはヨーロッパで大流行し、その後はアメリカでも流行が
あった。ツバキの種子は油を大量に含んでおり、ツバキ油が採取される。ツバキ油は灯明・薬・化粧
などに使用され、重要な油用植物だった。油を採取する目的で、ヤブツバキを残したためにヤブツバ
キの純林となった場所もある。ツバキ属に種類はあるが、普通ツバキといえばヤブツバキをいう。

 キンモクセイ
 世田谷区名木百選の1。樹高8m。目通り幹周1m40cm。枝張り11m。
 金木犀は、モクセイ科モクセイ属の常緑小高木樹で、ギンモクセイの変種。中国南部が原産で江戸
時代に渡来した。中国では正しくは丹桂がこれに当たるが、一般には「桂花」の名で呼ばれることが
ある。しかし桂花はモクセイ属における1つの種名であり、金桂(ウスギモクセイ)、銀桂(ギンモ
クセイ)などを含む全ての亜種・変種・品種を総括するものだ。主に庭木として観賞用に植えられて
いる。秋になると小さいオレンジ色の花を無数に咲かせ、芳香を放つ。芳香はギンモクセイよりも強
い。雌雄異株だが、日本では雄株しか入っていないので結実しない。雄蕊が2本と不完全な雌蕊を持
つ。花冠は白ワインに漬けて「桂花陳酒」、茶に混ぜて「桂花茶」と呼ばれる花茶にしたり、蜜煮に
して「桂花醤」と呼ぶ香味料に仕立てたりする。また「桂花蟹粉(芙蓉蟹の別名)、桂花鶏絲蛋、桂
花豆腐、桂花火腿」などのように鶏卵の色をキンモクセイの花の色に見立てて名づけられた卵料理は
多く、正月用の菓子である「桂花年糕」のようにキンモクセイの花の砂糖漬けを飾るなど実際にこの
花が使われる料理もある


 
ヒマラヤシャクナゲ群
 世田谷区名木百選の1。ツツジ科ツツジ属の常緑高木。ヒマラヤからスリランカにかけて分布し、
高山に生える。ネパールではラリーグラスと呼び。ネパールの「国花」とされている。ラリーグラス
のラリーは「赤」という意味で、国花は赤い花だ。
 樹高は3~20mではあるが、成長したもので30mに達するものもあって、幹も太く、日本にお
ける「石楠花」のイメージを払拭させる。葉は長い楕円形で、枝先に集まって付く。開花時期は2~
5月。花径は10~20cm。花の色は、赤・ピンク・白。19世紀にヨーロッパに持ち込まれて、
様々な園芸品種の交配親となっている。


■岡本山下公園

 岡本2丁目24番2号にある区立公園。


■丸子川親水公園

 岡本2丁目24番5号にある区立公園。水神橋から下山橋まで。途中岡本公園と民家園がある。八
幡橋から先は板張りの遊歩道が続く。左岸は静嘉堂緑地だ。全長900m。
 水神橋東の園地部分に「六郷用水の歴史」と題した銅板を嵌め込んだ大石がオブジェとして据えて
ある。
 


■岡本二丁目公園

 岡本2丁目28番5号にある区立公園。


■岡本わきみず緑地

 岡本2丁目35番16号にある区立公園。


■堂ヶ谷戸坂

 岡本2丁目と3丁目の間、国分寺崖線の坂道。堂ヶ谷戸橋から東北に尾根まで上がって行く急坂。
谷戸は崖線の食い込んだところだが、堂ヶ谷戸が何処なのかは判明していない。何らかの御堂のある
谷戸がないからだ。


■馬頭観音
 
見当たらず
 岡本3丁目9番4号にあったが、さて・・・ 山形浮彫。総高81cm、塔身部62×26×19
cm。台座に「中村」、像右面「明治十四年三月四日建之」、台座右面「多摩郡岡本村 願主中村松
五郎」と刻む。西隣が10番1号で、中村邸なのでこの敷地にあるのかもしれない。


■稲荷社 ◇

 岡本3丁目10番4号のフォールディングハウスの敷地にある。 


■庚申社 ◇

 岡本3丁目17番庚申橋の東の橋詰にある小祠。鳥居は立派。猿田彦大神を祀る。由来碑があるが
彫りが浅いので読みにくい。相当古くからあったものらしい。


■地蔵堂 ◇ 

 岡本3丁目17番庚申社のすぐ北にある。平成27年頃の設置。下記から移転してきた。


地蔵堂 ◇ 移転
 岡本3丁目18番21号の建屋の北の僅かな隙間にブロック積みの覆屋がある。総高128cm、
像高70cm。丸彫り立像。台座正面に「奉□□ 地蔵大菩薩」、左面「宝暦十三癸未年 □二月吉
日」、右面「武刕多麻郡 世田谷領 岡本村」と刻む。上記に移転した。
 


■岡本三丁目公園

 岡本3丁目25番21号にある区立公園。


■富士見坂(
せたがや百景No.70 岡本三丁目の坂)
世田谷地域風景遺産No.1‐23 富士見坂‐岡本三丁目の坂

 岡本3丁目27番と28番の間の坂道。富士山を望む坂道の上部分が視点場としての地域風景資産
だ。国分寺崖線にある急坂で晴れた日には富士山が正面だ。区の選んだ「世田谷百景」に「70番
本三丁目の坂」として
選ばれている。世田谷区内にある富士山を望める坂としては、坂が急である故
に眺望のよい場所だ。急な坂であるばかりではなく、素晴らしい富士山の眺めが得られる場所として
今後の町づくりのきっかけとなるものと期待される。将来的に「富士見坂」としての通称が定着する
ことも予想される。併し勾配が胸突きの急勾配だけに「すご坂」、坂上に百窓(百目)の住宅があっ
たので「百目坂」、かつて坂下にプロレスUWFインターナショナルの道場があり、坂道を鍛錬場と
してダッシュを繰り返していたので「ダッシュ坂」の異名もあった。

   関東の富士見100景
   富士山の見えるまちづくり
   地点名 東京富士見坂
   平成16年11月
   国土交通省関東地方整備局
   寄贈(社)関東建設弘済会

 ※岡本三丁目の坂に「東京富士見坂」の名称はない。国分寺崖線は大概何処からでも富士山は見え
る。

 ダッシュ坂・プロレスの鍛錬場
 UWFは、プロレス団体の1つで、正式には「ユニバーサル・レスリング・フェデレーション」と
いう。昭和59年に新日本プロレスの営業本部長だった新間寿を中心に、同じく新日本プロレス所属
の前田日明と、同じく新日本プロレス所属で元国際プロレスのラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田
らによって立ち上げられた。その後いろいろトラブルがあって、前田が疎外され、UWFは自然消滅
した。併し同63年前田日明をエースとする新生UWF、高田延彦がエースのUWFインターナショ
ナルの道場が坂下に設けられ、平成8年の団体解散まで使用され続けたため、プロレスファンには馴
染みの場所だ。それらの団体の入門テストでは、この高低差の激しい坂道を使ったダッシュが行われ
ていた。ボクシングもそうだが、レスリングも韓国の人が頑張っている。
 


■百窓 
解体
 岡本3丁目28番13号、岡本三丁目の坂(富士見坂)を上り切った右手にあった個人住宅。建物
かシンプルな正方形で。一面に25づつ丸窓が付いていた奇抜なデザインだったため、「百窓」とか
「百目」と呼ばれて、評判となり、映画やテレビのロケ現場となった。
 正式名称は「試みられた起爆空間」「起爆空間」。工期は昭和40年7月~41年5月。解体は昭
和60年。住人は社長一家とも、芸術家ともいわれる。設計者は富田玲子・林泰義夫妻。デザイン元
は古代ローマのパン屋のお墓だとか。そういえば窓の数は違うがそっくりだ。設計者夫妻は用賀プロ
ムナードを手掛けている。


■高橋是清別邸跡
■玉川幼稚園
(せたがや百景No.69「岡本玉川幼稚園と水神橋」)

 岡本3丁目35番10号の玉川幼稚園のところが2・26事件で殺された大蔵大臣高橋是清の別邸
だった。本邸は赤坂にあり、その建物は「たてもの博物館」に移築してある。こちらはメルヘンチッ
クな山荘風のデザインがよく幼稚園にマッチしている。風光明眉な国分寺崖線には戦前多くの高官や
財界人の別荘別邸が建てられ、現在の良好な住宅地に引き継がれてきた。水神橋辺りには当時別荘か
ら眺められた田園風景の面影がそこはかとなく残ってる。仙川の水神橋を渡って西に進むと次大夫堀
沿いに名主安藤家、氷川神社、永安寺、石井至穀家と続いていた。
 


■岡本西公園

 岡本3丁目39番2号にある区立公園。 
 



【奥沢】(おくさわ)1~8丁目                   昭和45年3月1日
 奥沢村→奥沢本村。和田義盛飲む末裔が元亀年間(1570~1573)に開いたという言い伝
えがある。真偽のほどは定かでない。本村は奥沢1~3丁目と奥沢4丁目の東3分の2に当たる。
寛文二年(1662)に起立した奥沢新田村に対して元からの奥沢村の意で本村を強調した。
 新田村は、本村の西、奥沢7、8丁目と尾山台3丁目から等々力2丁目にかけて細長く伸びた部
分になり、広さは本村の1・5倍あった。本村は旗本領。新田村は天領。
 明治9年両村は合併して新しい奥沢村となり、同22年「市制町村制」により等々力・上野毛・
下野毛・尾山・野良田・瀬田・用賀の7ヶ村と連合して玉川村を発足させその大字となった。大正
11年渋沢栄一が国分寺崖線上に田園都市計画を提唱、それを受けた田園都市株式会社により「文
化住宅田園都市」として売り出された。奥沢村もその一翼を担った。昭和7年世田谷区が成立して
玉川奥沢町1~3丁目となり、同45年新住居表示により玉川奥沢町1~3丁目の大部分・玉川田
園調布2丁目の一部・玉川等々力町の東寄の三分の一をあわせた町域を、現行の「奥沢」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『世田谷区史』『世田谷の地名』など。

 
奥沢の由来
 呑川支流九品仏川の奥深い沢(九品仏浄真寺の北側の湿地帯)に由来する。
 


■九品仏西低地(田園調布が高級住宅地である理由)

 城(浄真寺)の西面から北面・東面は泥湿地で天然の要害だったが、昭和になってこれを掘り下げ
て池とし、上土でその東部を埋め立てて住宅地としたのが目黒区自由が丘だ。その後池は東急の所有
となり遊園地になったが、渋谷の東急文化会館の建設で残土が出てその処理のために埋め立てられて
住宅地となり現在に至っている。泥湿地は呑川支流の九品仏川の水源だったもので一円の田を潤した
が、今では暗渠となり、川があったことすら忘れ去られている。奥沢はその泥湿地だ!
 ところが西
側の低地は谷沢川上流の低地と繋がっている。谷沢川は等々力で急に南下して渓谷を流れて多摩川に
落ちる。少し不自然だ。等々力渓谷は自然崩落または人工的に渓谷をなしたもので谷沢川の上流は、
かつては九品仏川の上流だったと考えられている。もし現在この低地に水を浸すなら九品仏川以南の
台地はさながら浮島の如くなる。つまりそこは田園調布であり、それだけで風光絶景の一等地である
ことを表している。
 


■東玉川小学校
 奥沢1丁目1番1号にあるが、校地の5分の4は大田区石川町2丁目22番だ。昭和26年奥沢小
学校講堂にて入学式(児童394名 8学級)。6月現在地にて落成式・開校式。同28年7月校歌
制定。

 校歌「暁の光」 作詞・栗原源七  作曲・芥川也寸志
  1.暁の光 漲り
    自主の風そよ吹く処
    すくすくと若草伸びて
    優しくも豊かな心
    溢れ満つ東玉川
  2.地は広く 行く手は遠く
    その果ての光 見詰めて
    慎ましく正しく清く
    一筋に歩む姿を
    映し見る東玉川
  3.いざともに心を合わせて
    築き行く平和の塔の
    雨風に弛まぬ気力
    強く持ち固く踏み締め
    淀み無き東玉川

 同44年体育館完成。同50年第1期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同51年第2期鉄筋コンク
リート造り校舎落成。自然教材園完成。同53年第3期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同56年創
立30周年記念式典。同60年学校給食優良校として区・都・国から表彰。同62年体育館改修。学
校給食法制定30周年記念映画製作に協力。同63年ランチルーム改修。
 平成3年創立40周年記念式典。同7年コンピュータルームを開設。同9年プール改修。同11年
自然教材園改修。新BOP室完成。同13年校庭整備。創立50周年記念式典。同16年屋上花壇完
成。第二音楽室を普通教室に改修。同18年創立55周年記念式典。同19年屋上西側防水。同花壇
・灌水設備完成。校舎・体育館外装改修。同20年オープンルームを普通教室に改修。校舎冷房化。
同23年創立60周年記念式典。
 


■南奥沢保育園
 奥沢1丁目2番13号にある区立園。


■奥沢本村由来碑 ◇
 奥沢1丁目6番の大音寺墓地の入口を入ったすぐ左にある。奥沢は本村と新田に分かれていた。新
田とは江戸時代以後に成立した村だ。本村は元亀年間の開村。戦国時代のことで、小田原の北条氏が
滅び、織田信長が出てきた頃のことだ。鎌倉時代の和田義盛の子孫で、義盛の二男朝盛から8代目の
朝清が家臣11名(天野、郡山、甲府方、須藤、田口、柄本、鈴木、江方、高橋、増田、松田)と共
に奥沢に住み着き奥沢本村を切り開いたという。碑文には、

   和田義盛の二男朝盛より八代の嫡流朝清、元亀元年家臣十二名と共に武蔵の国荏原の里に
   来住。江戸時代奥沢本村と称し旗本渡辺某氏の領地(禄高二十二石)となる。明治の初期
   東京府荏原郡玉川村大字奥沢となり、本村の氏神「正一位子安稲荷大明神」は内務省令に
   より明治四十三年十月二十四日奥沢神社に合社大正に至る。昭和七年十月一日東京市に併
   入、世田谷区玉川奥沢一丁目となりその後、東京都に統合。

 とある。
 


■子安稲荷跡 → 奥沢子安公園
 奥沢1丁目11番12号にある区立公園。明治42年に奥沢神社に合祀された。現在園内に「子安
稲荷神社跡地」の石柱が建っている。


■大音山・大音砦
 奥沢1丁目18番の大音寺一帯の高台にあった。ある説では、こここそが大平氏の居館跡で、浄真
寺は吉良氏の押し出しの砦だったという。確かにロケーションは良い。
山頂に見張り小屋を作って野
武士を募集してホラ貝を吹き鳴らさせたので「大音山」と呼ばれるようになったという。現在の大音
寺にお参りすると、砦があったとは思えない小さな丘だ。しかし寺の裏に回れば、削平された痕跡が
ある。これは大井町線の敷設の際に九品仏浄真寺から続く湿地帯を埋めるために、削り取られたとい
う。であれば、かつては奥沢中学校一体までが山だったのだろう。雑木林だったらしい。この辺りの
道は坂道が多い。北側は呑川と九品仏川の合流地点ので、蓋し天然の要害だ。時により、九品仏川と
呑川に挟まれるということもあったかもしれない。
 また別名では朝鮮山、朝鮮丸といった。大音寺開基の渡辺孫三郎勝が、元和五年(1619)に幕
府の使者として肥後熊本に赴き、その地で没した。その時に加藤清正または朝鮮の役に参加した関係
者から贈られた仏像ないし、仏具のようなものを大音寺に納めたことから大音寺のある山を朝鮮山と
称し、その一帯の区域を朝鮮丸と称したのではないかと考えられている。残念ながら、寺が2度の火
災に遭ったため、文献等は焼失してしまっている。
 
 

正覚山最勝院大音寺
 奥沢1丁目18番3号にある浄土宗の寺。深川霊巌寺の末寺。開基は旗本渡辺氏、開山は享保年中
(1716~36)に寂した念誉上人という。本尊は阿弥陀如来像、台裏に、

   三尊再興、鎌倉扇谷の仏工運慶法印末有国同所後藤左近義貴 享保十七子五月

 の銘がある。今は寺の境内だけが小山をなしているが、昔は北方に細長く凡そ30m以上も山が伸
びていた。ここの字を開平というが、昔はどういう訳か「朝鮮丸」と呼んでいた。丸というからは城
址かも知れない。『新編武蔵国風土記稿』によると、

   境内除地五段、村の東の方にあり。浄土宗にて江戸深川霊巌寺の末なり。正覚山最勝院と
   号す。開山念誉上人享保年中正月二十四日寂すと。開基は此村の地頭渡邊栄之丞の祖某と
   云へり。その法号を最勝院といひしかば、今も寺院の号によべり。客殿五間四方、本尊阿
   弥陀如来を安ず。境内入口に石階段十三級を設けその上に門を建。両柱の間九尺。
   加佐守稲荷・布留田稲荷・秋葉権現合社。大宰府神社、地蔵堂、門外左の方にあり。二間
   四方。立像の木佛にて二尺余もこれあるべし。

 
と記している。本尊台座に「三尊再興相州鎌倉扇谷住仏工運慶法印末者国同所後藤左近義貴享保十
七子五月」の墨書銘がある。観音寺の不動木像と同じ作者だ。元禄時代の初め、2世誠誉上人の代に
火災があり、中興3世香誉上人が渡辺氏の外護により、その母覚性院追悼のため再建、丈六の阿弥陀
を安置したと伝える。明治初年火災があり、同6年再建された。庚申塔が4基ある。


■奥沢公園
 奥沢1丁目19番2号にある区立公園。


■横穴墳の石標 ◇
 奥沢1丁目20番9号の西北角の三叉路、電柱の脇に石標が立ててある。大音寺の西に奥沢台地が
ある。その台地の斜面を造成中に約50cm径の穴が開いた。早速工事関係者が地主と共に潜り込ん
でみたところ、穴の中には石が敷き詰められていて、その上に二体の人骨が発見された。つまり横穴
墓(おうけつぼ、よこあなぼ)という、古代の墳墓が発見されたのだ。何時の時代のものかは判らな
いが、現在の場所より5m離れた所に瓶に人骨を納め、再度埋葬をしたそうだ。電柱のところはゴミ
の集積場になっているのだが、ひでえ話だ。
 尚、この直ぐ近くには「愛宕塚」というものがあり、そこも同様に横穴墓が見つかり人骨が出てき
た。
 


■稲荷神社 ◇
 奥沢1丁目21番4号にある小祠。


■愛宕塚 ◇
 奥沢1丁目27番9号に標柱が建っている。奥沢台地の東南に位置し、その下は湧き水があり、田
んぼや畑が広がっていて、その向うには呑川がある所で、村の人々は、このこんもりと高くなった場
所を愛宕山と呼んでいた。塚の上にはツゲ、ツバキ、ヒイラギなどの大木が茂り、塚の下の横穴墳か
ら人骨が出たことなどから、古墳であろうと思われるが、今では人家が建てられているので調べよう
がない。塚の高さは奥沢団地で一番高い所だった。人骨は和田家の敷地内に埋葬しなおしたとか。
 


■庚申塔 ◇
 奥沢1丁目27番17号にある。駒型、日月・青面金剛・邪鬼・三猿。右面に「文化六巳己年十一
月吉日」、左面に「奥沢本村惣講中 願主和田常右衛門」と刻む。 


■ホウショウ(芳樟
 奥沢1丁目36番5号の井上宅にある。世田谷区名木百選の1。樹高15m。目通り幹周1m45
cm。クスノキの学名はシナモミューム・カンファー。このカンファーというのは所謂カンフルで、
つまり樟脳(ショウノウ)のことだ。嘗て幕末の土佐藩では「樟脳が鉄砲や軍艦に化けちょるきに」
といわしめたぐらい役に立つ樹木だった。
 さて、このホウショウ(芳樟)は暖地に野生し、しばしば公園や、社寺林に栽培されるクスノキ科
の常緑高木。大きく生長し、神社などで神木として崇められている巨樹も多い。常緑樹ではあるが、
葉の寿命は1年間で、春に新葉がでる頃に前年の葉は落ちる。新緑の美しい常緑樹である。5月の終
わり頃から房状の小さな花を咲かせる。花被片は6枚で、雄蕊は12本。果実は秋に黒く熟す。

 クスノキに比して樟脳成分が低いのだが、芳樟油(リナロール)成分が多い。大きくなった都会の
緑化樹に時々混じって見ることができるが、これは都会のクスノキが嘗ての樟脳産業の歴史に由来す
る証拠であるのだ。
 樟脳はクスノキの材を水蒸気蒸留して得られるモノテルペンに属するケトンの1つ。融点は178
℃であるが常温でも少しずつ昇華する。この性質を利用して防虫剤と強いて広く使われた。つまり古
典的な「タンスにゴン!」だ。クスノキの仲間のヤブニッケイなどには、よく似た物質が含まれてお
り、この臭いを覚えておくと同定に役立つ。九州などでは樟脳を取るために大量に植栽された。
 クスノキの材にこのような物質が含まれているということは、クスノキの材そのものに防虫作用が
あるということであり、クスノキでタンスを作ると防虫性が高いことになる。神社などに大きく生長
したクスノキが見られることがあるが、この防虫作用と長寿であることとは関係が深いであろう。ト
トロの家は樟脳のおかげに違いない。古代の丸木船の中にはクスノキを使ったものがあるという。大
型の丸木船を作るために大木が必要であったことと、腐りにくいことがあったのかも知れない。
 


■奥沢中学校
 奥沢1丁目42番1号にある。昭和22年4月設立認可。5月開校1年生344名、奥沢小に6学
級、八幡小に2学級でスタート。同23年現在地に木造校舎10教室落成。同28年プール完成。同
34年鉄筋コンクリート造り校舎6教室落成。同36年体育館完成。同42年鉄筋校舎(技術・理科
・図書)増築。同53年創立30周年記念式典。鉄筋コンクリート造り校舎(理科・美術・調理・被
服・管理室)落成。同54年プール新築。同62年新体育館落成。同62年創立40周年記念式典。
 平成元年創立40周年記念碑建立。同3年パソコンルーム開設。同9年創立50周年記念式典。同
10年プール改修。同13年校庭改修。同15年冷房化完了。同17年自校方式給食開始。同19年
創立60周年記念式典。

 校歌流れも清き 作詞・山本林  作曲・中野正以
  1.流れも清き多摩川の
    所縁も深き奥沢の
    聳えて建てる学び舎は
    郷土文化の金字塔
    いざや築かん諸共に
    学園奥中 吾が母校
  2.遥かに富士を仰ぎつつ
    久遠の理想 培えば
    向上已まぬ青春の
    燃ゆる希望は花と咲く
    いざや励まん諸共に
    明朗奥中 吾が母校
  3.正義と自由を誇りとし
    足並み揃え幾春秋
    都南の空に溌剌と
    集う吾等に光あり
    いざや示さん諸共に
    躍進奥中 吾等が母校



■小祠 ◇
 奥沢1丁目43番1号の角地にひっそりと佇む小祠。稲荷か庚申塔か。


■住宅火災(消防庁大失態)
 奥沢1丁目43番2号の2階建て個人住宅で起きた火災。平成25年10月6日午後4時半ごろに
2階から火が出ているのを裏向かいの住人が110番通報した。6件の通報があったそうだ。ところ
が、同じころに800m離れた奥沢2丁目のアパートでも火災が発生し、4件の通報が行ったが、通
報を受けた指令室の消防士長(38歳)が、同一火災の通報だと早合点し、2丁目の現場には消防指
令を出さなかった。そのため別の士長が別の火災だと気が付くまで暫くの時間を要し、消防車が現場
に到着したのは21分後だったというお粗末。
 


■奥沢保育園
 奥沢2丁目3番11号にある区立園。


■住宅火災(消防庁大失態)
 奥沢2丁目14番8号のアパートで起きた火災。平成25年10月6日午後4時半ごろ、27歳の
女性の部屋から出火、火事に気付いた近隣住民が通報するとともに女性の救出にかかった。しかし待
てど暮らせど消防は来ない。住民らは各自ポリバケツを持ち寄って戦時中よろしく、バケツリレーで
消火にあたり、女性を救出、救急車も遅かったため、住民が病院に送り届けた。そして漸く鎮火した
ころに消防車が到着、通報から21分遅れだった。これは、同じころに800m離れた1丁目でも火
災があり、通報が錯綜したために、指令室の消防士長が早合点で混同し、同一現場と判断したために
消防指令が遅れ、翌日、消防庁は記者会見を開いて謝罪した。
 


■海軍村跡
 奥沢2丁目33番14号の電柱の陰に区の標柱が立っている。

   
海軍村跡

 奥沢は虎ノ門の海軍省と横須賀鎮守府の間にあることと、評判の田園調布に直近に当たることから
から海軍士官がこの地を希望した。当時地主だった原家が全円耕地整理事業が起きる前年に独力で区
画整理を行い、海軍士官たちに借地として貸し与えた。当時の土地賃借契約証書によると、賃借料は
坪単価8銭だったそうだ。昭和に入ると30戸も集まり、主に主計関係の海軍士官が集住したので俗
称「海軍村」と呼ばれた。建物が何か海軍的なものを醸している訳ではない。当時の流行の洋風建築
で、特別変った建物でもない。殆ど建替えられているが、当時のままのものも数軒ある。また現在も
同じところに子孫が住んでいる
家もあるそうだ。
 2‐15‐1・2の紺野 2‐17‐8の石黒(駐車場になった) 2‐32‐15の渡辺、
 2‐33‐6の浮田 2‐33‐9の山村 2‐33‐15の枡田 2‐34‐10の金谷、
 2‐36-10の中村などがそうだという。
 但し、海軍軍人だけが住んでいた訳ではなく、陸軍軍人も住んでいたが、陸軍は集住しなかったの
で、海軍村と呼ばれた。

 同じ頃
その海軍村の北側(目黒区緑ヶ丘)に、ドイツ留学から帰国した実業家で大学教授の原熊吉
がドイツ風の家を建てたのを皮切りに四、五軒のドイツ住宅が建って「ドイツ村」と俗称された。現
在は建て替えられて残ってない。海軍村の方は健在だ。
 


■品品(しなじな)
 奥沢2丁目35番13号にある景色盆栽というジャンルを打ち立てた盆栽屋というか植木屋。社長
の小林健二は、長野県小諸生まれ、国立建設学院で造園緑地工学を修め、造園会社を転々として実力
をつけ、
平成14年のに独立して会社を設立した。 03‐3725‐0303
 景色盆栽とは、盆栽なんだけれども、現代の生活と植物を結び付け、人の心を植物によって豊かに
することを信念とし、モダンでシンプルな鉢に四季を彩る景色、空間を彩る景色として、様々な生活
スタイルに合った緑を創作することだ。
 小林は「呑川緑道」をデザインしたことでも知られ、区内唯一の土の道とした。
 


■アンモナイトレリーフ
 奥沢2丁目38番9号ヘアスタジオ「らうら」の正面右壁にある日比淳史のオブジェ。


■奥沢二丁目公園
 奥沢2丁目39番9号にある区立公園。


■奥沢小学校
 奥沢3丁目1番1号にある区立校。昭和7年八幡尋常小学校奥沢分教場設置。同8年「東京府東京
市奥沢尋常小学校」として開校。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市奥沢国民学
校」と改称。12月日米戦争開戦。同18年創立10周年記念式典。講堂完成。都制施行により「東
京都奥沢国民学校」と改称。同20年敗戦。
 同22年戦勝国アメリカの強制による地方自治法・学校教育法の施行により「東京都世田谷区奥沢
小学校」と改称。同23年創立15周年記念式典。同26年校歌制定。

 
校歌「空遠く」 作詞作曲・校歌制定委員会
  1.空遠く 聳ゆる富士の
    気高さを 胸に映して
    明るくも 平和な日本
    打ち立てる 道を修めて
    進み行く 進み行く 強い足並み
  2.地は香る都の西の
    根ざす土 恵み豊かに
    健やかな 心と体
    風凌ぐ力求めて
    育ち行く 育ち行く 若葉の姿
  3.跡たえぬ 多摩の流れと
    一筋に歩み果てなく
    光増す高鳴る自治に
    鐘の音も望みを込めて
    栄え行く 栄え行く 母校奥沢


 同28年創立20周年記念音楽祭。同35年第一期鉄筋コンクリート造り新校舎落成。同43年プ
ール・体育館完成。創立35周年記念式典。同45年第二期鉄筋コンクリート造り新校舎落成。同4
7年第三期鉄筋コンクリート造り本校舎落成。同48年創立40周年記念式典。同54年第四期鉄筋
コンクリート造り校舎2教室落成。校庭スプリンクラー設置、校庭舗装。同58年創立50周年記念
式典。同63年全校舎大規模改修。
 平成5年創立60周年記念式典・祝賀会・子供まつり。同10年創立65周年記念式典。同15年
創立70周年記念式典。同20年耐震化工事完了。
 


■丸山稲荷大明神 ◇

 
奥沢3丁目10番6号、自由通りから枝分かれした商店街、丸山稲荷通りに面してある。昔、この
辺りから奥沢小学校にかけては小高くなっていて、丸山という地名だった。この名前は丸く見える山
という意味で、大音寺のある山の西方からこの台地を見た感じをいい表わしたものだそうで、奥沢に
おける最初の開墾地だったとか。以前住んいた人がを屋敷神として祀っていたが、その人が居なくな
ると、そのままになっていた。そのうち丸山に住む10~12軒の人たちが初午の日に稲荷講として
祀るようになり、それも昭和の初め頃に止めてしまい、いつの頃からか奥沢親交会商店街で祀るよう
になり現在に至っている。以前は東を向いていた社は、耕地整理等の関係で現在は北向きになってい
る。北向きの稲荷は願い事もよく叶うが、祟りも強いといわれている。
 


■道祖神 ◇

 
奥沢3丁目20番17号の角地の小さな覆屋の中に3基ある。道祖神と刻んだ石標が建ててある。
中央が道祖神。左右に庚申塔。
 ◇左が角柱型で「庚申之供養」と刻む。「寛延三年庚午十二月吉日」の造立。裏面に「武刕荏原郡  奥沢村」、下部3面に世話人18人の名を刻む。
 ◇道祖神は、正面に「文化九壬申年 十一月吉日」、右面に「ぐわん志やう志ゆ 此ぐわんは 寿  命長久 志そんはん志やう」、下部に「品川弥兵衛内 かね はま 八百」と刻む。
 ◇右は山形角柱。正面「庚申供養 東目黒道 奥沢本村」、左面「北 九品仏道 天保十子・・・  吉日」、左面「南 沼部 丸子 道 □ノ屋講中」と刻む。
 


■奥沢観音 高徳山源照寺
 奥沢3丁目26番7号にある曹洞宗の寺。昭和11年2丁目に滋賀県の東円寺別院として開山。開
基は坂下竹翁。同24年現在地に移転。同38年6月鉄筋コンクリート造りのモダンな寺院に改装し
た。寺とは思わないだろう。

 みまもり地蔵
 建物前、道路に面してある。
  


■弁天池跡
 奥沢3丁目31番の辺りにあった。水神として弁財天を祀っていたので池の名がある。現在弁才天
は奥沢八幡神社に遷され、社殿横に人工的に作られた横穴の中に祀られている。
 


■諏訪山遺蹟
 奥沢3丁目43番13号の角に標柱がある。奥沢駅の東側で民家改築の際に発見された。諏訪山通
りの両側に縄文時代の中頃から竪穴住居の跡が幾つも発見され、住居跡からは縄文の土器が発掘され
た。南東に向いた台地の下には湧水が小流を拵えてる。この丘の上で古代の人々が暮らしていた。こ
こでは9世紀頃の火葬墓が発見された。死者を横穴に納めた時代から、火葬するような時代に移った
ことを示す。


■奥沢駅
 奥沢3丁目47番17号にある東急目黒線の停車場。大正12年目黒蒲田電鉄が目黒~丸子(現沼
部)間を開業させた時にできた。
 ホームは地上複合式2面3線構造。1番線が片面ホームで、2、3番線が島式ホーム。3番線ホー
ムのみは行き止まりになっており、一部の奥沢始発・終着列車が使用する。目黒線はワンマン運転を
行うため、ホームにはホームドアが設置されている。上下ホームの行き来はできないが、トイレは1
番線にしかないので注意が必要。
 目黒線で唯一、上下ホームが完全分離されている駅。そのため、1番線ホームと2、3番線ホーム
にそれぞれ改札口・出口がある。駅長事務室は1番線側の駅舎にある。
 奥沢駅の北側には電留線があり、目黒線の電車が留置されている。

 せたがや百景No.100 奥沢駅前の広場
 区内で最も整備された駅前広場を持つ。緑と噴水は乗降客を慰めるばかりではなく、町の人々の憩
いの場ともなる。区内には多数の私鉄駅があるが駅前はその町の玄関、ゆとりを作る工夫がほしい。
 


■豊川稲荷 ◇
 奥沢5丁目3番1号にある小社。豊川稲荷とは日本三大稲荷(定義は諸説)の一つで、赤坂豊川稲
荷とは大岡越前守忠相が信仰し、屋敷にあったのを赤坂の地に移転し祀ったことから始まる。商売繁
盛の仏として有名。仏と書いたように、豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)は仏教の神様。
実は豊川稲荷は神道ではないのだ。
 


■火の見やぐら跡 ◇
 奥沢5丁目6番13号の先端に標柱がある。線路際だ。
 


■庚申塔 見当たらず
 奥沢5丁目7番16号にあると区の資料にある。駒型。85×22×16cm。正面「東目黒通」
「庚申塔」と刻み、下部に世話人7人の名を刻む。左面「西九品仏道」、右面「南 新田・池上道」
 


■道しるべ地蔵 見当たらず
 奥沢5丁目9番6号にあるという。等々力通りを尾山台から奥沢方面に行き、東横線の踏み切りを
渡ってすぐに右折、最初の路地を左に入って行った右側毛利宅玄関前にあるらしいが、塀があって実
見することはできない。元々毛利家にあったのではなく、村境や岐路に祀って安全を祈願してたもの
を、耕地整理で旧道がなくなり、行き場を失ったため、毛利宅が預かることになったという。
 写真を見ると家の外にあり、道標と地蔵は別で並んで建ててある。地蔵は丸彫りの座像。総高10
3cm。台座正面に「世田谷領 奥沢村 奉納秩父講中供養 願主磯右衛門」とあり、左面に7名の
名前と共に「安永二年巳十一月吉日」、右面に7名の名前を刻む。
 道標には「西 九品仏道 南 新田池上道」刻んである。


奥沢神社

 奥沢5丁目22番1号にある。祭神は誉田別命。世田谷城の吉良氏の家臣大平氏が奥沢城を築くに
当たり、世田谷郷東部の守護として八幡神を勧請したと伝わる。奥沢新田村の鎮守。明治42年本村
の稲荷神社を合祀して奥沢神社となった。旧本殿は桁行3間×梁間1間、拝殿は2間×3間で、祭礼
は9月15日。この日は神楽を奏したが、いまでも「奥沢囃子」として伝承されている。昭和3年石
の鳥居に替えたが、それまでは木の鳥居で、厳島の海中の鳥居と同じ形だった。例祭の日に、江戸中
期より伝えられている「厄除の大蛇」の特殊神事が行われる。社殿は昭和45年に完成し、尾州檜材
を用い、室町期の様式を採用したもので、都内においても他に類を見ない。
 稲荷神社は、本村稲荷丸979番地、東玉川小学校のところにあったものを、合祀の際に遷し、
殿の西にあんちしている。『新編武蔵風土記稿』奥澤新田村の項に、

   八幡社
   除地五段余、内社地一段、畑地四段余。村の東の方にあり。本社三間半に一間。拝殿二間
   に三間。前に鳥居を建つ。本社の右に四間に二間の寮あり。社を護るものここに居れり。
   祭礼九月十五日、村民うちよりて神楽を奏す。下沼部村密蔵院の持。
   末社。
   稲荷社。本社の西にあり。
   犬神社。本社の後に在。
   薬師堂。本社の右にあり。二間四方本尊は石像なり。


 とあり、区の説明板に、

   奥沢神社
   祭神 誉田別命宇賀魂命
   世田谷城主吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城を築くにあたり守護神として勧請したと伝えら
   れる。
   例祭の9月14日・15日に、江戸中期より伝えられている「厄除の大蛇」の特殊神事が
   行われ、境内の「八幡小学校発祥之地」の碑は、かつて八幡小学校校舎があったからであ
   る。社殿は昭和15年に完成し、尾州檜材を用い、室町期の様式を採用したもので、都内
   においても他に類を見ない。
   昭和45年3月                        世田谷区教育委員会

 とある。その後「昭和56年3月」に建て替えられた。また『せたがや:社寺と史跡』に、

   奥沢神社
   祭神は応神天皇、倉稲魂ノ命である。
   世田谷城吉良氏の家臣大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護として八幡社
   を勧請したと伝えられる。
   旧本殿は3間半に1間、拝殿は2間に3間で、祭礼は9月15日である。この日には神楽
   を奏したが、今でも「奥沢ばやし」として残っている。
   昭和3年石の鳥居にかえたが、それまでは木の鳥居で、厳島の海中の鳥居と同じ形であっ
   た。
   江戸中期、疫病が流行した時、名主の夢枕に八幡様が立たれ、なわで造ったへびを祭ると
   よいというところから「厄除大蛇」が鳥居にかけられるようになり、今も続いている。
   慶応末、ここの社寮に土地の子弟を集めて読・書・算を教えた。明治12年12月20日
  、一部を改修して認可を得、社名をとって「八幡小学校」とした。現在の社務所がそれであ
   る。
   本殿の西にある稲荷社は、旧本村稲荷丸979番地にあったものを明治43年に合祀した
   のである。
   社務所の玄関脇の道標は、大音寺のそば呑川の脇にあったものを移したものである。

 の記述がある。

 如意輪観音碑
 鳥居をくぐって左にある道標。大音寺近くの呑川脇の何処かにあったものだとか。像の下部に、

   
右品川ミち
   左めぐろミち


 とある。ところが裏を見ると出羽三山(出羽山・月山・湯殿山)の名が・・・???

 八幡小学校発祥之地の碑
 慶応末年ここの社寮に土地の子弟を集めて「読み書き算盤」を教えた。現在の社務所のところだ。
明治12年12月20日一部を改修して認可を得、社名から八幡小学校として初等教育が行われた。
当時「荏原郡奥沢村尾山村公立小学校八幡小学」と称した。明治35年奥沢神社の南東約1kmの現
在地に移転して現在に至ってる。

   八幡小学校発祥之地
   八幡小学校創立90周年記念
   昭和44年12月20日 建之


 八幡小学校発祥記念碑の赤樫
 世田谷区名木百選番外の1。樹高16m。目通り幹周2m。枝張り13m。
 ブナ科コナラ属の常緑広葉高木。宮城県・新潟県以南の本州・四国・九州、朝鮮南部・台湾などに
分布する。樹高は20mを超え、直径2m前後のものがあり、巨木に生長する。材は強靭で赤味を帯
び、アカガシの名前の由来となっている。葉は楕円形で基部は広い楔形、鋭尖頭鈍端、鋸歯はなく、
時に波状縁となる。葉は表は深緑、裏面はやや薄い色となる。他の樫類に比べ、扁平で厚みがある葉
が特徴。やや山地、暖帯上部に多い。森林内では大木になる。雌雄同株で花期は5~6月頃、雄花序
は垂れ下がった形で黄褐色の雄花を多数つける。雌花序は葉腋に直立し5~6個の雌花をつける。


 
民話 
 奥沢では毎年秋になると、村人が体調を崩した。秋は農作物の収穫があり忙しい時期なので村人は
大変困っていた。村の境や入口などを清めても効果がない。村の名主さんも体を壊し寝込んでいると、
枕元に八幡の神様が現れてこういった。「村の祭りの時に四本柱の鳥居に縄で編んだ蛇を巻きつけな
さい。そして祭りの前には村中を掃除なさい」と。そこで八幡様のいわれた通りに村中を掃除して祭
礼を行うとと、祭りの日から病人はいなくなったとさ。しかしこれは不衛生を是正しよう名主が考え
た頓智だな。


 
厄除け大蛇お練り行事
 江戸の中期ころ流行病を克服するために厄除け大蛇のお練りが行われ、鳥居に掛けるようになり今
も続けている。蛇の形のものを作って担ぎ歩く祭りは全国的にあるが、都内では全く珍しい。蛇の形
は水神を表し、担ぎ歩くことによって農耕に必要な水の確保や生産の順調なることを予祝する行事に
ほかならない。昭和14年までは奥沢の町中を練り歩いていたが、同41年まで27年間中断されて
いた。というのは昭和14年にこれまで木造であった鳥居が石造りのものに変えられ、お練りの後に
石の鳥居に大蛇を巻きつけたら、大蛇が石で腹を冷やしてしまうからということで中止したそうだ。
しかし昭和41年復活しようという話が持ち上がり、毎年9月の第1日曜日に氏子連中が集まって大
蛇作りが行われるようになった。これは社殿に安置され、社殿にあった前年の大蛇を鳥居に掛けるよ
うに変えた。そして9月の例大祭に新蛇でお練りを行う。

   世田谷区指定無形民俗文化財(民俗芸能)
   
奥沢神社の大蛇お練り行事
   伝承地 世田谷区奥沢五丁目二十二番一号 宗教法人 奥沢神社
   保持者 世田谷区奥沢五丁目二十二番一号 奥沢神社氏子中
   指 定 昭和五十九年五月三十一日

   江戸時代の中頃、奥沢の地に疫病が流行して、病に倒れる者が多かったとき、ある夜この
   村の名主の夢枕に八幡大神が現われ『藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させると良
   い』というお告げがあったという。早速新藁で大きな蛇を作り村内を巡行させたところ、
   たちまちに流行疫病が治ったという言い伝えがあり、これが厄除の大蛇として鳥居にから
   まり、大蛇お練りとして現在に伝えられている。蛇の形のものを作って、かつぎ歩く祭り
   は、全国的にあるが、都内では珍しい祭りである。蛇の形(水神の意)をかつぎ歩くこと
   によって農耕に必要な水の確保や生産の順調なることをを予祝する行事に他ならない。
   奥沢神社では毎年九月の第一日曜日に氏子が集まり、大蛇づくりが行われる。これは社殿
   に安置され、社殿にあった昨年の大蛇を鳥居にかけられる。そして九月十四日の大祭に大
   蛇お練りが行われる。
   昭和六十年三月                        世田谷区教育委員会

 弁天社
 弁天池にあったものを遷座。石を積み上げて作った小々丘に横穴を造り、そこに鎮座している。


 
皮だけシイノキ
 世田谷区名木百選番外の1。樹高3m。目通り幹周1m70cm。

 庚申塔
 角柱型。正面に「奉供養庚申之塔」と彫り、右面に「これより左エへ九ほん仏道」、左面に「これ
より左エぬまへ道」、裏面に「享保十三戊申年霜月朔日」と刻む。「ぬまへ」は「沼部」。享保十三
年は1721年。
 


■九品仏川緑地

 奥沢5丁目25番~7丁目13番の九品仏川が、昭和49年に暗渠化される際に、その上面に造ら
れた幅13m、長さ1657mの遊歩道。九品仏川は元々は谷沢川(やさがわ)の本流だったが、崖
崩れによって現在の流路となったために取り残された河川だった。
 


■魚菜学園

 奥沢5丁目27番5号魚菜ビル3階にある料理学校。NHKの放送開始当初からTVの料理番組で
活躍した料理研究家田村魚菜が昭和24年目黒区自由が丘に『自由が丘お料理塾』を開設し、同30
年9月に現在地に魚菜学園『自由が丘お料理学校』を設立した。60年間での卒業生は、延べ16万
人以上を数える伝統と実績のある料理学校だ。創設者の理念である『美味しい料理は愛情から』をモ
ットーに、時代が変わっても色褪せない家庭料理の大切さを、今後も指導し続けている。

    私たちの方針
   ・美味しい料理は愛情から
   ・料理の上達は日頃の実践から
   ・美しい料理は高い知性から
   ・香り高い料理は清潔感から
   ・栄養は新鮮な材料から
   ・経済は材料の無駄を省くことから
   ・能率は計量と手順から
   ・変化のある料理は研究心から    魚菜


徳王山妙光寺

 奥沢5丁目29番11号にある日蓮宗の普通の住宅のような小寺。本尊は日蓮上人。昭和9年浅海
妙光によって開山開基された。妙光は中目黒の地主の妻だったが、我が子を次々と失い悲しみの日々
を過ごす内、日蓮宗に帰依、身延山久遠寺で修行、霊感を得て、現在地に新寺を建立した。本堂には
日蓮上人像を中心に、多宝如来と釈迦像を並べ、脇に、妙見大菩薩と七面大天女像を並置している。
 


世田谷美術館分館宮本三郎記念美術館
 奥沢5丁目38番13号にある。平成10年区は宮本家よりデッサンを含む膨大な作品群と共に、
宮本が居住していた土地の寄贈を受けた。作品は世田谷美術館に収蔵され、翌年に「よみがえる宮本
三郎」展を開催し、寄贈作品を広く紹介した。記念美術館は宮本が長く制作拠点とした住宅の跡地に
区が新たに建設した美術館で、同16年に開館した。鉄筋コンクリート2階建ての館内は、1階に講
座室、2階には展示室を配置している。講座室では、様々な創作活動や講座を開催していて、勉強にな
るよ。お前さんの老後寂しい人生にどうだい? 03‐5483‐3836 有料。
 


■石川達三邸跡
 奥沢6丁目にあった。
昭和10年第1回の芥川賞を受賞して文壇にデビュー、他の候補作家には太
宰治、高見順など目白押しだった。受賞作は『蒼氓』。難しい言葉だが一般民衆のことで、「氓」に
は「人民」「移住民」の意味がある。当時国策の名のもとに南米ブラジルに送り出された貧しい農民
たちの追いつめられた実態を描いた社会性の強い作品だった。石川は昭和55年26歳のとき移民船
でブラジルへ渡航、奥地の日本人農場に滞在しており、その実体験に基づいた新鮮な創作手法が文芸
春秋社長の菊池寛を衝き動かしたといわれている。
 石川は明治38年に秋田県横手市で生まれた。父は中学の英語教師で、転勤によって秋田、岡山の
各地を転々とした。大正12年早大第二高等学院に入学して創作活動に励む。しかし無名の時代が長
く、力作の『蒼氓』もなかなか注目されなかった。初稿ができたのが昭和7年で第3稿まで書き直し
本人も諦めかけていた。それが第1回の芥川賞選考で同人誌から拾い上げられ脚光を浴びたのだ。石
川は受賞後、『日蔭の村』『結婚の生態』などで社会問題に鋭く迫り、戦後も『望みなきに非ず』『風
にそよぐ葦』などの新聞連載がヒットした。昭和15年から6丁目に住んだが、作風に通ずる良識派
生活人だったようで、長男が通った九品仏小学校の初代PTA会長を務めた。地元への愛着を正直に
書いた一文『住み着いた感じ』が、『世田谷区まちなみ形成史』に収められている。

   九品仏は東京でありながら適当に田舎だ。田舎だけれども東京の文化的なものはすべて備
   わっている。


 同38年大田区田園調布に移ったが、墓は九品仏の浄真寺にある。


九品仏真寮寺
 奥沢6丁目11番12号にある浄土宗の寺? 寺院一覧には掲載されていない。HP「東京の寺」
に記載がある。間口の狭いお寺で、由来に

   竹薮、畑、田園の広がる江戸時代に奥沢村のこの一角が村人たちの共同墓地で、宗旨宗派
   を問わず、ご先祖さまは静かに眠ってござる。その墓地の傍らに草庵あり、「真りょう」
   という人が常住守護をしておられた それにより真寮寺とした


 と。九品仏浄真寺の付属寺とか。鉄骨2階建て、狭い住居になっていて、掲額に「仏道」。奥には
結構な墓地がある。住宅地図には「浄真寺墓地」とある。
 


奥沢台遺跡の石標 ◇
 奥沢6丁目17番12号の角地に立っている。この辺りは奥沢城の千駄丸と呼ばれた高台。確かに
北にも南にも、西にも東にも道が下っている。倉庫には最高のロケーションだ。縄文時代の遺跡が発
掘されたが、誰でもここに眼を付けるだろう。
 


奥沢六丁目緑地
 奥沢6丁目25番3号にある区立公園。

 
「毛布」 ◇
 緑地の植込みにある毛布を着被った岩田健制作の少女の立像。


■偽カナダグース通販事件
 奥沢7丁目1番3号の自由が丘ランディックスビルⅡ3Fの通販会社CGJP(益天合同会社 代
表町田杏奈)がカナダグースでないダウンジャケットを相場の5分の1程度の安価で通信販売し、消
費者センターに800件からの苦情が寄せられた。品物はカナダから届くのではなく、韓国から贈ら
れてくるという。まあ韓国人かやりそうなことだ。日本における犯罪は、90%が中国人・韓国人の
仕業だから大いに注意しろ! どうせ町田杏奈も韓国人だろう。


■鷺草の里の石標 ◇
 奥沢7丁目5番12号のみどりの広場北の九品仏川緑道の道路際に石標が建っている。
 


■玉川聖学院中等部・高等部
 奥沢7丁目11番22号にある私立校。昭和25年、私立学校の再建を依頼されたキリスト教の指
導者であり牧師であった谷口茂壽は、

   流れのほとりに植えられた木の、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、その
   なす所は皆栄える

 詩篇1:3の聖句を示され、

   戦後の日本を健全な国家として再建するためには、若い女性にキリスト教教育を!

 という強い思いで、アメリカ・インディアナ州にあるチャーチ・オブ・ゴッド(神の教会)の協力
を得て、同年9月に「玉川聖学院」をスタートさせた。この頃、イエズス会と国際金融資本が、日本
をキリスト教国教国家にしようと目論んだその一環だ。マッカーサーという占領軍の司令官が、パウ
ロを気取って心血を注いだが、多神教の日本では一神教は狭量に過ぎ受け入れられなかった。日本人
のクリスチャンは100万人程度だ。
 同26年アーサー・アイキャップ理事長就任。同40年創立15周年記念式典。この頃までに校舎
建築(旧校舎)ほぼ完成。同48年谷口茂壽没。フィリップ・キンレイ学院長就任。同55年創立3
0周年記念式典。同59年体育館、谷口記念礼拝堂完成。同61年フィリップ・キンレイ理事長就任。
 平成2年創立40周年記念式典 学則変更で中高一貫体制完成。同10年フィリップ・キンレイ名
誉学院長就任。バーナード・バートン学院長・理事長就任。同12年創立50周年記念式典。同16
年鉄筋コンクリート造り新校舎落成。

 校歌
「日に磨き」 作詞作曲・堀内敬三
  1.日に磨き 風に磨ける
    光澄む玉川の里
    豊かなる神の恵に
    我等学ぶ玉川聖学院
    お女子
(おみなご)の道を修めつ
    磨かまし心を玉と
  2.師の君を 慕い敬い
    隔てなく友と睦びて
    常永久の救いの内に
    我等学ぶ玉川聖学院
    お女子
(おみなご)の道を修めつ
    磨かまし心を玉と
 


■自由が丘美術館
 奥沢7丁目13番11号、喧騒を離れた町並みの一角にある小さな美術館。ルネッサンスから19
世紀中期までの古典素画と版画のコレクションから常時30~40点ほどを展示。建物は館長の自宅
を改造したもので小さいが味わいがある。バロックの美意識を今に伝える素描(デッサン)や版画の
作品からは花々の香り、人々の息遣いまでも感じられるようだ。陽光射し込ティールームでの薫り高
い紅茶とともに、美に触れるひと時こそセレブじゃないの。 03-3704-3860
 


■究竟寺
 奥沢7丁目13番21号にある真宗大谷派の寺。寺というには余りにもおそ・・・、まあそれはそ
れとして、本尊は阿弥陀如来、木造立像だ。昭和11年10月新潟県三島郡王番田浄願寺の付属寺が
移され独立したものだ。昭和28年宗教法人となる。開基は不明、独立初代は田宮諦聴だ。おいらは
この寺の隣に住んでたことがある。当時ここに寺があることを知らなかった。そんな佇まいだったの
だ。
 ところがどっこい平成21年10月に訪れて驚いた。まるで様変わりして、立派な鉄筋コンクリー
ト造りの建物になっている。それで墓地が後に下がった。
 


■九品仏駅
 奥沢7丁目20番1号
にある東急大井町線の停車場。昭和4年目黒蒲田電鉄が自由が丘~二子玉川
間を開業させたのと同時にできた駅。当駅開業前は自由が丘駅が「九品仏」を名乗っていたが、より
九品仏に近いこの駅ができたので駅名が譲られた。
 ホームは地上島式1面2線構造。5両編成の大井町線電車に対して九品仏駅のホームは4両分しか
ないので、二子玉川寄りの1両はホームから食み出して停車する。
 改札口・出口はヶ所のみ。この駅の駅舎は線路と線路の間にある特殊な構造だ。
 駅名の「九品仏」とは、駅の北約100mのところにある浄真寺の別称。このお寺に9体の仏像が
あることからその名が付いている。
 


■チャボヒバ群
 矮鶏檜葉。奥沢7丁目20番13号の岡村宅にある。世田谷区名木百選の1。ヒノキに比べると枝
葉が短くて密生する性質があり、その様子を短足のチャボに例えて名付けられた。別名をカマクラヒ
バ。ヒノキ科ヒノキ属の
ヒノキの園芸種でヒノキより矮性。枝は短く扇状に密に生え、枝や葉が重な
り合い狭円錐形のまとまつた樹冠となる。葉は鱗片状で交互に対生する。球果は5~8cmのほぼ球
形で褐色に熟す。
 


■石造物群 ◇
 奥沢7丁目36番13号の浄真寺参道左手、区役所九品仏まちづくり出張所の前に7基ある。1つ
は角柱型で「庚申塔」と彫る。「
文化八辛未年(1811)」銘。右面に九品仏道と刻してある。何
処かで道標としてあったものを邪魔になって移設したものだろう。もう一つは笠付角柱型。三猿。正
面に「奉寄進庚申供養」と彫り、右面に「延宝八庚申年八月四日」、左面に「武州豊島郡江戸八町堀
四丁目」と刻む。


■奥沢城跡?(区史跡)
 奥沢7丁目41番の浄真寺がそっくりそれだとする。吉良氏あるいは家臣の大平氏の居館と伝えら
れるが、明確ではなく、東玉川(かつての等々力飛地大平分)だとする異説がある。大平氏の居館説
を採るものは、最も古い史料は、江戸時代にに成立した『名残常盤記』で、その中に、

   大平出羽守宅今九品仏也

 とあることによる。しかしこの本は著作物であって正史ではない。そして元禄八年(1695)の
『浄真寺起立由来書』には、

   当山境内往古吉良殿居城之由申伝

 とある。

   世田谷区指定史跡
   
奥沢城跡(土塁)
   昭和六十二年十二月十八日指定
   九品山浄真寺は、室町時代に栄えた世田谷城主吉良氏に仕えた属称大平出羽守の居館奥沢
   城跡に建立されたと伝えられている。
   現在、見られる本堂、三仏堂を囲む方形の土塁は、台形状の廓がよく保存されており、中
   世土塁の館の  を語る上で貴重な史料である。
   土塁は一辺が約150mで四隅がやや丸く、内側からの高さは平均1.7m、外側からは2
   .7mあり、内側は直線部より約1m高くなっている。
   昭和62年6月                     東京都世田谷区教育委員会


 大平氏の子孫は現在等々力に健在で、吉良氏の持城を大平氏が預かっていたということではなかろ
うか? 大平氏は小田原北条氏とも直接の主従関係があるので、その辺りはややこしいのだろう。天
正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原包囲により北条氏が滅びると(といっても徳川時代は大名に
名を連ねている)、姻戚関係のあった吉良氏は下総に遁走し(のち蒔田氏として大名となる)、大平氏は
城を出て、等々力に至り農民として土着した。この時に城は廃城となったものと思われる。その後寛
文二年(1662)奥沢村の名主七左衛門が幕府代官野村彦太夫より一帯の開発を許可され、同五年
(1665)城跡の内、内曲輪10反ばかりが奥沢新田の菩提寺建設予定地として除地となった。延
宝六年(1678)には珂碩上人がここに浄真寺を建立し、現在に至っている。城跡の保存状態は比
較的良好で、土塁はそのままで原形を留めている。本遺構は中世武士の居館の規模を知る上で極めて
貴重だといえる。城跡の北から西にかけては、奥沢と呼んだ沼もしくは湿地帯だったようで、それを
水源として川(九品仏川)が東流し呑川に吸収されている。城は九品仏渓谷の浮島のような場所であ
り、南方に田園調布の高台がある。
 城跡の地形は田園調布の高みが北に張り出し突き出た先端に当たる。九品仏渓谷はかつての谷沢川
の流路であり、谷沢川が河川争奪(等々力渓谷)により流路を変えて流れなくなった後も、西、北、
東の三方が泥湿地(九品仏沼)で、天然の要害だった。この湿地は近年まで田圃で、城から二手に分
かれる道路があった。一つは、北東に向かい、一つは南東に向う。その道から湿地帯の不安定さを示
す例が「世田谷の中世城郭」に記されている。

   いずれの道も乾いた細長い土がヘドロの上にあったようなもので、大雨があると各所に流
   失箇所ができるし、子供が3~4人であばれるとゆらゆら揺れるものであった。


 さらに大正10年11月関東地方西南部と甲・信・駿などの中部地方東部を舞台として、数個師団
が参加した陸軍大演習が瀬田で行なわれた。工兵が多摩川に架けた橋が二子橋の基となったあの大演
習の際のことだ。

   
大正末期のことであったと記憶するが、旧陸軍の演習で騎兵斥候の三騎が北西方等々力の
   中丸方面から駆けて来て、水田中を渡る道路の中央で三騎が三騎共路面を踏み抜いて馬腹
   の所ではまり込み、引き上げるのに大騒ぎになった。

 とある。九品仏渓谷とはそんな立地だった。奥沢城は城とはいうものの、姫路城や熊本城のような
城ではない。中世の城で、高さ2mばかりの掻き揚げ土塁(現存)で方形に囲み、正面(参道入口の
ところ)両脇に鉤の手の空堀が穿ってあった。木で組んだ見張りの櫓、柵、茅葺きの居館があった程
度のもので、籠城して持ち堪えるという近世城郭とは程遠いものだった。無論想像の範囲ではある。

 地名

 中丸(城の西向かいの高み)・台場(城の西南、砦があったと思われる)・影谷(城の直ぐ西側低
地)・山下(北側の低地)・城向(城の東側低地)・鷲の谷(さらに東の低地)・城前(城の南側)
・千駄丸(城前の東南に当たり、砦でもあったか。荷揚げ場という)

 異説
 なお昭和36年発行の『世田谷城名残常盤記』著者鈴木堅次郎 発行者鈴木達の686頁「等々力
の旧家と大平城」によると、九品仏の地は奥沢城跡ではないとしている。


   等々力は下野毛の渡を越えた要衝の地で、蓋し野毛の一部であり、中世において既に土豪
   蟠居の地であった。大平・高橋・戸井田・鈴木・荒井・小池等の諸家はみな古い史料を存
   している。就中(なかんづく)大平はもっとも著名にして、出羽守はこの物語の重要人物
   であるが、その大平出羽守の居城に付ては、今の九品仏浄真寺敷地を、奥沢城跡だといわ
   れているが、実際は等々力の飛地たる諏訪分であり、よって別に大平分と小名が付けられ
   た事由であり、今の東玉川町であったと認められる。
    「武蔵風土記」にも、「古塁跡諏訪分にあり、或いは大平分とも云えり。大平出羽守と
   云いしもの此処に於いて吉良家に属せしと云、則清九郎が一族なるべし。又、土人の説に
   奥沢村の内、九品仏のたてる処を大平の塁跡と云えり。されど此所まさにしかるべし」


 とある。江戸系図にも、頼忠の姉を「深沢荘等々力大平左馬允師氏妻」としてあり、大平はまさし
く等々力が根地であった。子孫も等々力に在住。
 


せたがや百景No.98 お面かぶりの九品仏と参道
 九品仏浄真寺は、阿弥陀仏如来像を三体ずつ三つのお堂に納めた三仏堂からきている。三年ごとの
「お面かぶり」は都の郷土芸能に区内唯一指定されている。長い参道の向こうに見える茅造り総門、
常盤伝説に由来するさぎ草園など見所が多い。奥沢城址に建てられた寺で寺域に土塁が残っている。

   九品仏浄真寺
   上・中・下品堂に、それぞれ三体の阿弥陀如来像を安置することから九品仏の名で親しま
   れる浄真寺は、延宝六年(1678)奥沢城跡に開創された。開山は珂碩上人である。
   この像は、これ以前に霊巌寺領の大島村念仏堂(江東区)で、すでに上人によって造立さ
   れていた。三仏堂は上人の高弟で浄真寺二世珂億上人によって、元禄十一年(1698)
   に上棟された。いずれも当時の姿を今によくとどめている。
   本寺は、珂碩上人を信仰する、江戸を始めとする多くの講中の人々にも支えられ、本尊釈
   迦如来坐像、阿弥陀如来坐像九体、珂碩上人坐像、同絹本画像、梵鐘(以上都有形文化財)
   珂碩上人倚像、五劫思惟阿弥陀如来坐像(以上区有形文化財)などの優れた文化財を伝え
   ている。
   また、お面かぶりとして知られる二十五菩薩来迎会(三年に一回開催)は都無形文化財に
   境内のヤヤ・イチョウは都天然記念物に、それぞれ指定されている。
   平成4年3月                         世田谷区教育委員会


■九品仏九品山唯在念仏院浄真寺
 奥沢7丁目41番1号にある浄土宗の寺。一般に「くほんぶつ」と読むが、土地の人の発音は「こ
んぷつ」に聞こえる。この寺域は奥沢城址で吉良氏または大平氏の館があったというが明確ではない
そうだ。中世の館跡であることは間違いない。土塁がほぼ完全な形で残っている。
明暦三年(165
7)本郷の老中阿部邸から出火したものの、老中が火元では具合が悪いと、幕府が南側の本妙寺に頼
み込んで公式に出火元になって貰い、振袖火事の話を創作した。この時江戸市中を焼き尽くした大火
は、霊岸島の霊巌寺も焼亡した。幕府は江戸の防災対策に乗り出し、霊巌寺を深川へ移転させること
を決定した。この深川移転の責任者になったのが当時40歳の珂碩上人だった。新しい建設予定地は
海浜で、埋め立てから始めなければならなかった。珂碩は伽藍の設計、信者からの資金集めだけでな
く、率先して土砂を運び周囲の信頼を集めた。珂碩には悲願があった。毎日の費えから三文を蓄え続
けて阿弥陀像九躰を造立することだった。名僧は造像に自ら鑿を振るうが、多忙な珂碩が漸く一躰を
完成するのに2年を要した。見兼ねた高弟の珂億(珂憶)が京都から駆けつけて協力し、寛文七年(1
667)に目的を達成した。ところが同九年(1669)深川が台風による大洪水に見舞われ、でき
たばかりの阿弥陀像が海に呑まれた。この時珂碩は請われて越後村上の泰叟寺(たいそうじ)住職だったが、仏像の安全を懸命に祈願し奇跡的に九品仏が元に戻ったという霊験譚が残っている。
 延宝六年(1678)奥沢の村民から新しい寺の住職として来住を求められ、珂碩は九品仏などと
ともに引っ越してきた。この時も珂億(珂憶)の熱烈な支援があり、
浄真寺は奥沢城跡地に建てられ
た。

  足のなきかたゐ(乞食)も並ぶ九品仏 出す霊宝の幽霊の文(狂歌)
  うっとうしいそうだに面をかぶるなり(安二松)


 芝増上寺の別院でもあり、永正十三年(1516)五月奥沢城主大平氏の一門で周仰という僧が、
増上寺の7世住持となっている(武蔵野歴史地理)。その大平氏の居城跡に増上寺の別院として九品
仏浄真寺があるのも奇しき因縁だわい。
 

 
禁銃獵 警視庁の石柱
 参道入口、九品仏交番の脇に建てられている石角柱。二面に、

   
禁銃獵 警視廳

 裏面に、

   
明治三十二年十一月許可  東京 本龍山御嶽不動講
                浅草 施主小林亀太郎


 とある。今から百年以上前、「この辺りでは銃を使っての猟はダメですよ」という告知だ。明治3
2年という年は、世界的には、中国で義和団事件が起きベルギーでは警察犬制度が開始された。日本
では、年賀郵便の取り扱いが始まり、幕末に活躍した勝海舟が死去している。またインスタントコー
ヒーが発明され、銀座にビアホールが開店した。 明治に入ると一般に狩猟が解放され、スボーツ、
レクレーションといった西洋的な趣味の狩猟も広まっていった。それまで狩猟は、特定な人々の特権
だった。狩猟に関する法律が制定されたのは明治6年。その後、次第に法律としての体裁を整え、鳥
獣を保護するという表向きの観点から「狩猟規則」が制定されたのは同25年、「狩猟法」の制定は
同28年、この6年後の同34年4月には、先の狩猟法を改定して、禁漁区制度、銃猟禁止区域制度
が取り決められた。
 この時、狩猟が禁止される場所として指定されたのは、御猟場、禁猟区、公道、公園、社寺境内、
墓地の6ヶ所だった。
 この法律の制定は農商務省で行ったが、法律の執行は東京では警視総監、つまり警視庁で行った。
だから、禁猟区であることを警視庁の名前で公表した訳だ。標柱は、改定狩猟法に先立つこと2年前
の製造だから、浄真寺境内や墓地では、この法律に先んじて狩猟禁止を世間に訴えたのか?
 当時の世田谷は、明治を迎えても江戸時代とさして変わらない純農村地帯だった。世田谷地域が住
宅地として開発されるのは、明治40年玉川電車開通以降のこと。特に浄真寺のある台地は地形が複
雑に入り組み、多摩川に向かって南下する程に沢(湿地帯)は深くなって、深沢・奥沢と、地名が表
すような地形となる。当然のこととして鳥類の種類も豊富な土地だった。法27条には、保護鳥類2
2種類が書かれているが、この地区ではもっと多くの鳥が見られたのだろう。

   施主の小林は、「本龍山不動講」の講主の1人だったとある。浅草寺は山号を金龍山とい
   うが、その子院の1つに「本龍山」ではなく、「本龍院」と呼ばれた寺があった。待乳山
   聖天の名前で知られる寺で、今でも講が行われているが、残念ながら中心仏は観音であっ
   て不動明王ではない。御嶽は(平成26年に水蒸気爆発して多くの死傷者を出した)木曽
   の御嶽山のことだと思われるが、その山の中腹にあ清滝寺では確かに不動明王を祀ってい
   る。「御嶽山史」などを確かめたが、結局この講を特定することはできず、何故小林さん
   がこの碑を建てたのか、その経緯については判明しなかった。


 と、或るブログに書いてある。

 
参道塔
 九品仏駅から直ぐ参道(二河百道)口にある石塔。

   
淨真寺参道

 
二河百道(にがびゃくどう)
 九品仏駅からの長い参道は、二河百道に例えられており、あの世への道のりを現している。片方は
火の河(怒り、憎しみ)、片方は水の河(欲、こだわり、貪り)となり、その中央に僅か数十センチ
の百道がある。それが参道の意味だ。
 

 
般舟塲
 参道先にある総門(表門)。「はんじゅじょう」と読む。今、屋根は銅板葺きだが以前は藁葺き。
風情がなくなったね。

   
九品佛淨眞寺総門

   扁額 般舟塲 説明
   当山第二世珂碩上人の高弟慶上人の御筆で流麗雄渾な筆致である。
   般舟とは般舟三昧の事でつねに行道念仏して現前に諸仏を見奉るを言う。
   般舟三昧経三巻は弥陀経典中最古のもので浄土三部経を共に古来より
   重んぜられている。当山は院号を唯在念仏院と称し念仏の道場であり、
   参ずる人々に願往生の心を自然に發さんが爲書かれたものりである。

   
創建の由来
   当山は広く「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院浄真寺」と
   いい、浄土宗に属し、境内約12万㎡(36000坪)は往古の面影を保存する都内有数
   の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩上人」で、四代将軍徳川家綱公の治
   世延宝六年(1678)に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観
   無量寿経の説相によって堂塔を配し、この寺を創建された。「江戸名所図会」に描かれて
   いる堂塔の配置と現状とほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を
   銅板葺に改修した。          ※浄真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)
   History of Establishment
   This temple is widely Known as Kuhon-butsu but is formally called Kuhonzan
   Yuzainenbutsu-in Joshin-ji It was built in the early part of the Edo Era in
   1678 during the reign of the 4th Tokugawa Shogun Ietsuna by the great mo
   nk Kaseki Shonin on the donated land of the old Okusawa Castle ruin. It was
   belongs to the Jodo Shu Pure Land Buddhaist denomination and covers an area
   of 120000㎡. Various spots, within the temple grounds are prominent prese
   rved areas in Tokyo city. 丁hose spots still maintain the ambiance of previous
   days. The main tower was designed according to descriptions in the Meditation
   Sutra(kammuryoju-kyo), a principal text of Jodo-Shu A picture of this tower
   drawn in The Famous Views of Edo(Edo meisho zu-e) compared with today show
   s little change. In 1965, the roofs of the Main Hall and the Gate of the
   Two Deva Kings were repaired, and ,the original ones made of reed were replac
   ed by copper ones.
        ※Joshin-Temple's historical booklets in English are available at cost in the temple's office

 石仏群と六地蔵
 総門を潜ると右手にある。石仏は地蔵、庚申塔等沢山ある。

 
王魔堂(閻魔堂)
 山門を潜ると右脇にある。中には閻魔大王が座し、葬頭河婆(そうずかば)が控えている。どちら
も物凄い迫力だ。葬頭河婆とは、葬頭河が三途の川のことで、そこに居るお婆さん。役割としては、
死者の衣服を剥ぎ取って、三途の川の岸辺にはえる衣領樹という木に掛け、衣の重さによって死後の
処遇を決めるとか。
 堂の近くに、三界万霊、六地蔵の標柱がある。
 

 東門
 総門を潜って突き当たった右手(東)にある門。

   
九品佛淨眞寺東門

 五社殿
 東門の北奥にある奥沢神社の前の社殿を収めてある宝形造りの御堂。

 開山堂
 山門の正面にあり、入口前に十三塔、水子地蔵が立っている。珂碩上人が42歳のとき自ら彫刻し
た珂
碩上人像が安置してある。

 ・乾漆珂碩上人居倚像
(区指定文化財)
 乾漆造り。玉眼を嵌入。像高136.2cm。 江戸時代の作。珂碩上人が42歳のとき自ら彫刻し
倚像とは
椅子に腰掛けた姿をいう。右手に数珠を持ち、その下部を左手で持つ。面部の特徴は、
鼻が細長く、口は小さく、頤(おとがい)が張っている点にある。また首から胸の部分、手の部分な
ど誇張はあるがリアルに表現されている。全体に写実的であり、真迫感が伝わってくる優れた作品だ。
衣部は、僧衣を朱漆で仕上げている以外は黒漆が使われている。上人最晩年の姿を現わしたものと考
えられる。乾漆造りは、まず粘土で原型を造り、その上に麻布と漆を何層かに塗り固めして整形し最
後に粘土を取り去って像を造る方法。奈良時代には盛んに使われていたが江戸時代はほとんどその例
を見ない。僅かに知られているところでは、京都宇治万福寺の観音菩薩坐像のみがある。


 ・木造珂碩上人坐像
 江戸時代の製作。像高74.8cm。寄木造り、玉眼嵌入。彩色仕上げ。『江戸名所図会』に「珂碩
上人像、上人生前、如来の霊示再三なるに依て、これを彫造ありし」と記された像だ。万治元年(165
8)珂碩42歳の時の姿とされ、いかにも壮年期の傑僧の俤(おもかげ)が伝えられており、顔の表
情も個性的で、体躯の釣合いもよく、江戸時代における肖像彫刻の白眉。作者不明ながら、専門仏師
の作に比定すべきだ。この寺の行事「お面かぶり」の時に輿に乗って出座するのがこの像で、平生は
開山堂正面の壇上に厨子に納めて安置されている。

 ・絹本着色珂碩上人坐像
 掛幅。斜めに向かって、曲彔(きょくろく)に腰を下ろした姿を描く、縦50cm×横31cm、
作者は未詳。元禄五年(1692)の製作。珂碩上人は、元和四年(1618)武蔵国に生まれ、1
2歳で江戸覚真寺円岩について薙髪、次いで下総生実(千葉市)の大厳寺で珂山上人に師事した。の
ち江戸霊厳寺に住し、寛文年間(1661~72)には弟子珂億(珂憶)上人の助力を得て、宿願と
した9躰の丈六の阿弥陀像と釈迦像1躯の造立を完成した。さらに延宝六年(1678)奥沢の地に
浄真寺を開き、住すること16年、村人に医療を施し珂碩仏と称されて、元禄七年(1694)77
歳で没した。
 なお本図の図上には六字名号(南無阿弥陀仏)が3遍、右下に「九品山」、左中央に「珂碩超誉(花
押)」とあり、左下には別筆で、「七拾五歳御形」「幽碩拝書」とある。

   開山堂
   当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上
   人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年(165
   7)上人が如来のお告げ三度により、水鏡にお姿をうつし彫刻されたものであって、古来
   より安産、厄除、開運としてひろく信仰をあつめている。なお、開山堂では。上人のご命
   日に当るの毎月七日開山忌に開扉して、午後一時よりご法要とご法話及び写経が催されて
   おり、一般の方の参加を望んでいる。上人は、元禄七年(1694)十月七日、御年77
   歳にて示寂され当山の西北にその御廟がある。    
※浄真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)
   
Founder's Hall(kai-san do)
   Installed here is a atature of the founder of Kuhon-butsu. Kaseki Shonin. I
   n 1657. the master recieved a divine message from Amida Buddha three times
   and subsequently carved this image of himself which he saw reflected in the pool
   of water. The image shows him in the prayer-like gassho pose when he was forty-
   two years old.This stature has also been designated a cultural treasure. Since
   this time,this hall has been a place of prayer for good childbirth, removing bad
   luck and garnering good luck.On Octover 7,1964 at the age of seventy-seve
   n Kaseki Shonin passed on(his mausoleum wsa built in the north-west part of t
   emple grounds). The Founder's Hall is also used to commemorate this memorial
   day of Kaseki Shonin.
On the seventh day of every month, the doors are opened
   
and a religious service with dharma talk and sutra copying practice are held.
   
We hope that anyone who would like to participate in these event will attend.
        ※Joshin-Temple's historical booklets in English are available at cost in the temple's office

 水子地蔵尊
 開山堂の前にある石の丸彫り立像。

 
浄大供養地蔵
 開山堂の前にある石の丸彫り立像。覆屋根の中にある。

 
手水舎
 開山堂の前にある。

   洗手偈
   以水盥掌 當願衆生
   得清浄手 受持佛法
     
飲料水ではありません

 観音堂(三十三観音)
 開山堂と本堂の間にあり、弘法大師作の千手観音、恵心僧都作の地蔵菩薩を祀る。堂は前の前の奥
沢神社の本殿を明治時代に移築した。現在は宝形造となっているが、元は寄棟造だったと推定される。
大正2年に造営された前の社殿もまた移築されて、現在は五社殿の中に納められている。
 三十三観音は、『法華経』『普門品』にある三十三身について観音を三十三種並べたもの。楊柳・
竜頭・持経・円光・遊戯(ゆげ)・白衣(びゃくえ)・蓮臥・滝見・施薬・魚籃・徳王・水月・一葉
・青頭(しょうず 青頸とも)・威徳・延命・衆宝・岩戸・能静(のうじょう)・阿耨(あのく)・
阿麼提(あまてい)・葉衣(ようえ)・瑠璃・多羅尊・蛤蜊(こうり)・六時・普悲・馬郎婦(めろ
うふ)・合掌・一如(いちにょ)不二・持蓮・灑水(しゃすい)の33だ。堂の下に舟形石像として
綺麗に並べられている。

   観音堂
   正面に弘法大師御作と伝うる千手観音、右に恵心僧都御作の地蔵菩薩を安置する。
   千手観音は、高野山の良算■■が江戸下向の砌珂碩上人の御■■を慕い■られたものであ
   る。この観音様は疫病流行ある毎に近在の町村を■行し疫病除け観音と称されて尊崇せら
   れた。右の地蔵尊は大江繁時の身代り地蔵と称し、鎌倉時代初期の柵である。

 碑群
 吉岡富士洞の歌碑「天碧き日は鷺草の天に翔つ」、龍芳会々長顕彰碑小幡美智「玻瑠摩権現」、開
山堂大修築記念碑(珂碩上人頌徳碑 昭和41年)が開山堂の左手前、仁王門との間にある。

 仁王門(紫雲楼)
 東門の正面、開山堂の南にある楼門。

   仁王門
   重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼」とも呼ばれ、寛政五年(1793)の建立
   である。
   一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像
   もあって、寺域全体の安全が意図されている。
   
The Gate of the Two Deva Kings
   (ni-o mon)

   This dignified and solemn gate was built in 1793 and serves as the main ent
   rance or "mountain Gzte"(sanmon) to the temple. This gate is also called by
   the special name "ThePurple Cloud Tower"(shiun-ro). Statues of the pair of
   Deva Kings and, on the second floor. Amida Buddha and the 25 attendant bod
   hisattvas were installed here along with statues of the God of Winds and the
   God of Thunder. Thier roles are to guard the safety of the whole grounds of t
   he temple.

   紫雲楼上の二十五菩薩
   当山に参詣される方々は、この楼上に安置してある阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて
   三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘厳の浄土(彼岸)であるこ
   とをしめしている。この楼門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「二十
   五菩薩来迎会」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来
   迎の真髄を示現していることになる。       
※浄真寺「縁起」本堂札所にあります。(有料)
   The 25 Bodhisattvas of the upper floor of the
   "The Purple Cloud Tower"(Shiunf-rou)
   【the Gate Tof the Two Deva Kings】
   When people visit Kuhon-butsu, they are greeted at the entrance by statues of
   Amida Buddha and the 25 attendant bodhisattvas which are installed on the up
   per level of the Purple Cloud Tower. Here, visitors are pointed towards the
   Halls of the Three Buddha. In this way, once inside the Purple Cloud Towe
   r, they are shown the majesty of the Pure Land(other shore). The Purple Cl
   oud Tower was built in the Kansei Era(1789~1800). Kuhon-butsu has
   esta blished a traditional event which continues today called the Festival of t
   he Welcome to the Pure Land(omenkaburi). This masquerade has been designate
   d as an intangible cultural treasure The 25 B
odhisattvas of the Purple Clo
   ud Tower manifest the essence of the reseption into the Pure Land.
        
※Joshin-Temple's historical booklets in English are available at cost in the temple's office

   境内
   境内周囲の土手はこの地がかつて奥沢城であったときからの名残りで、鎌倉期における築
   城学上「土塁」の形態を示すものとして貴重な史料である。境内には古木が多く、カヤ(天
   然記念物)の大木は推定樹齢七百年以上、またトチ・高野マキ・菩提樹およびイチョウ(天
   然記念物)など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない。武蔵野の面影を残存する
   霊域である。
   参道・総門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂(じきどう)な
   どいわゆる七堂伽藍の完備した僧房として数少ない寺院である。また、寺域全体が極楽往
   生の様相に形どられ、弥陀三六の願いに即して、境内三万六千坪、三仏堂各堂丸柱三十六
   柱、本堂ケヤキ柱三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間というように、細部に
   わたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび参拝結縁し
   たならば、往生浄土信心を得ることができるという願いがこもっているのである。このよ
   うな縁の境域は周囲の変化にともない次第に失われてゆく都内の現状の中できわめてたい
   せつなものである。将来ともこの風致を永く保存したいと念願しておるしだいである。

                              
※浄真寺「縁起」本堂札所にあります。(有料)

 ※文中「形どられ」とあるのは「象られ」の誤記。



 植松壽樹歌碑(うえまつひさきかひ)
 仁王門を潜った右手奥にある。大正昭和期の歌人。歌誌『沃野(よくや)』を創刊・主宰した。墓所は浄真寺。

   掃き寄せて落ち葉焚く間も銀杏の樹
   やまずしこぼす黄なるその葉を 壽樹 

 
梵鐘・鐘楼
 仁王門を潜った左手にある。江戸時代の製作で総高156cm。銅製。宝永五年(1708)に世
田谷領深沢の谷岡又左衛門(南条右京亮の裔)が寄進したもので、鐘の製作者は江戸神田鍛冶町の河
合兵部卿藤原周徳。鐘は京都の鋳物工が始めた倣朝鮮鐘の例に倣ったもので、この種のものは関西に
多く見られるものの江戸では殆ど無く、さらに時代が下がる程に低俗化する傾向があるが、その中に
あってこの鐘は形状雄大、作技精巧な優品だ。河合兵部は、元禄から享保(17世紀末から18世紀
初め)にかけて多数の作品が知られ、元禄十四年(1701)の京都真如堂灯台、同16年の清涼寺
多宝塔擬宝珠に名を残しているところからも、親しく京都にこの鐘の先例を見てまた鋳法を学んだで
あろうことが推測され、『新編武蔵風土記稿』には、播州尾上道隆寺の鐘を模したと伝えている。
 鐘楼は十二支を表す動物を中心にした彫刻を施した立派なものだ。

   鐘楼
   本樓は宝永五年(1708)當山第五世林碩上人代の建立にして形容の流麗なること関東
   第一と称讃せらる。特に四周に彫刻せられている十二支は作者不詳であるが名刻として斯
   界に有名である。梵鐘は(宝永 年)創建の銘あり。深沢の郷士谷岡又左衛門の両親追慕
   の爲の寄進である。

 五重石塔
 鐘楼先の芝生にある。

 鷺草園
 奥沢4丁目41番3号、本堂の右手裏にある区立公園。

 
九品仏の公孫樹(イチョウ 都天然記念物)
 本堂の右横にある。高さ20m、目通り4m20cm。樹勢は旺盛で雄大だ。
 公孫樹はイチョウ科の落葉喬木。秋に葉は黄変し、また黄色の種子をつける。落ちて実が腐ると周
辺に異様な悪臭を漂わせる。この種子は白色硬質の核果で、銀杏(ぎんなん)と呼ばれる高級食材と
なる。
 
 木大角豆(キササゲ)
 世田谷区名木百選の1。樹高16m。目通り幹周1m84cm。枝張り12m。キササゲは、ノウ
ゼンカズラ科の落葉高木。生薬名で「梓実」と呼ばれる。日本で「梓」の字は一般にカバノキのアズ
サ(ヨグソミネバリ)を指すが、本来はキササゲのことだ。
高さ5~20m。中国原産とされるが日
本各地の河川敷など、湿地に野生化した帰化植物。花期は6~7月。淡い黄色の内側に紫色の斑点が
ある花を咲かせる。果実は細長い蒴果でササゲ(大角豆)に似るのでキササゲ(木大角豆)と呼ばれ
る。

 クロマツ(黒松)
 世田谷区名木百選の1。マツ科マツ属の常緑高木。本州・四国・九州・沖縄の各地に生育する二葉
松類だ。潮風に強いので、海岸域の防風林などとして植栽されてきた。庭木にも多用されるので、人
為によって分布が拡大されているが、本来の分布は雪の少ない地域の海岸付近ではなかろうか。クロ
マツは、アカマツに比べて、水分条件の良い場所では、初期成長が良好であり、植林されることも多
かった。初期生長が良いのはアカマツに比べて葉への資源投資が多いからであると思われる。葉量が
多いので、次の年の拡大再生産比率は大きなものとなるが、逆に根への投資は少ない訳であり、土壌
条件の良い場所であることが前提となる。したがって痩悪な林地ではクロマツよりもアカマツの方が
優勢となる。樹高は、40mに達することもあるが、自然の状態では滅多にそこまでは成長しない。
記録的な高さのクロマツとしては、島根県隠岐郡隠岐の島町の「春日神社の松」66m、大分県竹田
市の「緩木神社の松」60m、茨城県龍ケ崎市55mなどがあったが、いずれも現存しない。
 

 
木造五劫思惟阿弥陀如来坐像(区有形文化財)
 檜材の寄木造り、白毫(びゃくごう)玉眼を嵌入。像高119.5cm 江戸時代の作品。阿弥陀如
来か全ての人々を救おうと「五劫」という長い期間に渡り思惟している修行中の姿を表現している。
椀を被せたような特徴的な頭は、長い座禅修行をしたために伸びた頭髪を表している。また親しみの
ある面相は、頬が張り、四角くかつ偏平であり、通常の阿弥陀如来像の容貌と大きな違いを示してい
る。五劫思惟と呼ばれる阿弥陀如来像は、全国で数例しか知られてない。また平成元年解体修理が行
われた際に胎内から文書が発見され、浄真寺開山珂碩上人の弟子で、当時大坂玉手山安福寺(大阪市
柏原市)の住職だった珂億(珂憶)がこの像の造立にも関係していたことが判明した。このことから
浄真寺の伽藍が完成した元禄十一年(1698)から珂億(珂憶)が没した宝永五年(1708)の
間にこの像が造られたものと思われる。
 
 
 仏足石
 本堂の右手前にある。指のところに一円玉が並べてあった。賽銭の心算だろう。

   仏足石
   大聖釈尊御入滅後、仏陀礼拝の形状として、その御足に対して、接足作礼により人々は哀
   心慕情の誠を示した。御入滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範に行われるまで
   の永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(法
   輪)が刻されているが摩滅している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。
                            ※浄真寺「縁起」本堂札所にあります。(有料)

 銅製地蔵半跏思惟像
 本堂の右手前、本堂に向かってある。四谷の人々が納めたようだ。
 

 
南無阿弥陀仏
 本堂の左手前、本堂に向かってある名号塔。大きなもので5段の石塔だ。
 
 
五輪塔(花供養塔)
 本堂の左手前5段の石塔の隣にある。これも大きなものだ。

 平和の塔
 本堂の左前、五輪塔から少し離れてある。角柱に真ん丸な赤御影石が乗せてあり、

   


 と彫ってある。台座には、

   
超世無倫

 とある。昭和40年に建てたものだ。
 

 
龍護殿(本堂)
 三仏堂と相対してある大堂。元禄十一年(1698)に三仏堂と共に完成した。浄土(彼岸)の世
界を表す三仏堂に対し、西面して穢土(此岸)を表している。
 ゆるキャラの「
キュッポン(九品)」がいる。

   本堂 龍護殿
   当山第二世珂億上人代元禄十一年十月十三日の揚棟である。本尊は釈迦牟尼如来(都有形
   文化財)であり、三仏堂の阿弥陀如来に対向する。即ち本堂を此岸とし三仏堂を彼岸と擬
   す来迎会(おめんかぶり)は此の間に橋を渡し二十五菩薩のお面を被った人々が浄土への
   往相と還相を示す行道をする。無形文化財指定
                      
昭和三十九年従来の茅葺きを銅板葺きに修築した。

   
本堂
   本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼如来(文化財)を安置し、当山第二世珂億上人代、元禄
   十一年(1698)三仏堂ともども上棟した。世に珂億造りと称せられ、雄大荘重なる葺
   ぶきの大殿である。近時、往昔の面影そのままの銅板葺きに大修築を完了した。
   本堂はまた「龍護殿」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢
   土(北岸)をあらわす。当山独特の行事である「来迎会」は、この本堂(此岸)と三仏堂
   中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏と二十五菩薩が、来迎・往生・還
   来と3回橋を行道するものである。         ※浄真寺「縁起」本堂札所にあります。(有料)


 ※文中「葺ぶき」とあるのは「茅葺き」若しくは「藁葺き」の、「北岸」とあるのは「此岸」の誤
記。

 河口慧海師碑
 
本堂前の通路の左奥突き当たりにある。昭和32年河口慧海師建碑会が建てた。塔身部2m37c
m×1m36cm×22cm、真鶴石だそうだ。
 碑文は何とか読める程度の行書、『浄真寺 文化財綜合調査報告』に全文が載っている。

   河口慧海師碑
   我国最初のヒマラヤ踏破者 日本西蔵学の始祖 在家仏教の首唱者
   雪山道人河口慧海師は慶応二年堺市に生る 十五歳釈迦伝に感激精進に入り哲学館に学ぶ
   廿五歳得度 仏典の正解は原典乃至西蔵訳によるに如かずと悟り 渡印入蔵を志し明治卅
   三年単身ヒマラヤの嶮を越え秘境西蔵に入る セラ大学に学び傍ら医療を施す為に声名高
   く法王の知遇を受く 帰国に際し西蔵蔵経を将来す 後再び入蔵梵蔵両蔵経並に仏像仏具
   博物標本等多数を携えて大正四年帰朝 爾後諸大学に西蔵学を講ず 神足其許に集る師持
   戒堅固肉食妻帯を退け在家仏教の宣揚に努む 信者其門に参ず 梵蔵仏典の和訳西蔵文典
   西蔵旅行記等の著あり 昭和十五年将来蔵経を東洋文庫に寄贈し蔵和辞典編纂会を起す 
   業半ば戦禍国中に及ぶ 廿年二月廿四日円寂寿八十
   昭和三十二年二月二十四日                 文学博士 椎尾弁匡 撰
                             日本芸術院会員 桂月松林篤書

 「神足(しんそく)」は、優れた弟子のこと。嘗てあった寺の説明板は以下の通り。

   河口慧海師の碑
   師は明治三十五年日本人として初めてヒマラヤ山脈をこえて千古の秘境チベットに入り、
   彼の地仏教を研究し多くの珍本を持ち帰って我国にチベット学を■■先んじて在家仏教を
   説いた方であります。  


 九品仏の榧(カヤ 都天然記念物)
 本堂と三仏堂の間にある巨木。高さ31.3m、幹周り5.3m、枝張り最大約17.9mあり都内最
大級のカヤの木で、都の天然記念物。樹齢700年。
 奥沢城にはとても美しい姫が住んでいました。ある日傷ついた白鷺が奥沢城のカヤの木にとまった。
これに気付いた姫は白鷺の手当てをして、白鷺はみるみる元気になった。元気になった白鷺に元の巣
に戻るようにと言い、奥沢城であずかっていたことを認(したた)めた文を白鷺の足に結んで放った。
幾日か経って再び白鷺は姫の許にやってきた。その日の夜、城は不審な人影に取り囲まれた。しかし
異変に気付いた白鷺が、飼い主である吉良の殿様に知らせたため、吉良の殿様が遣わした兵によって
奥沢城は守られました。そしてそれから後も白鷺は吉良の城には戻らず、奥沢のカヤの木にとまって
姫たちを見守ったという。
 榧はイチイ科の常緑喬木で、材は硬く碁盤などの材料となる。


   都天然記念物
   
九品仏のカヤ
   本堂前にあるカヤは、目通り幹囲約5.4m、高さ約26.5mになり、枝張りが東西約1
   2.2m、南北約17.9mにおよぶものです。この大きさは、都指定天然記念物のカヤで
   は最大のもので、東京都の文化財保護条例が制定されて最初に指定されたものの一つです。
   カヤは、暖地の森林中に散在するイチイ科の常緑高木です。材は辺材が黄白色、心材が帯
   褐黄色で、特有の香気を有しています。保存性が高く、水湿に強いため、建築、器具、土
   木用に広く使われています。特に大径の柾目材は、碁、将棋の最高級材として珍重されて
   います。


 
イヌシデ群
 犬四手。世田谷名木百選の1。カバノキ科の
落葉高木。別名は、シロシデ、ソロ、ソネ。本州、四
国、九州の山野に自生する。高さ15~20m。樹皮は灰白色で滑らかであり、縦に網目模様ができ
る。花期は4~5月頃、雌雄異花で花序は穂状で下垂する。葉の側脈の間に白い毛が多くあり、秋に
は葉が黄色く紅葉する。シイタケのホダ木、庭園木として利用される。かつては炭材として利用され
ていた。名前の由来は、花穂の垂れ下がる様子が注連縄(しめなわ)などに使われる紙垂(しで)に
似ているから。近種にアカシデ、クマシデがある。アカシデは新芽と紅葉の葉が赤くなることから、
クマシデは葉の脈が倍以上あることからイヌシデと区別することができる。


 
トチノキ
(栃の木)
 世田谷区名木百選の1。樹高21m。目通り幹周4m。枝張り16m。
栃、橡、栃の木は、トチノ
キ科(APG植物分類体系ではムクロジ科)トチノキ属の落葉広葉樹。近縁種でヨーロッパ産のセイ
ヨウトチノキが、フランス語名「マロニエ」としてよく知られている。
 落葉性の高木で、温帯の落葉広葉樹林の重要な構成種の1つ。水気を好み、適度に湿気のある肥沃
な土壌で育つ。谷間では、より低い標高から出現することもある。サワグルミなどとともに姿を見せ
ることが多い。木はとても大きくなり高さ25m、太さも1mを越えるものが少なくない。葉も非常
に大きく、この区域では最大級の葉である。葉柄は長く、その先に倒卵形の小葉5~7枚を掌状につ
け(掌状複葉)、全体の長さは50cmにもなる。葉は枝先に集まって着く。5~6月にその葉の間
から穂状の花序が顔を出す。穂は高く立ち上がり、個々の花と花びらはさほど大きくないが、雄蕊が
伸び、全体としては賑やかで目立つ姿だ。花は白~薄い紅色。ツバキのものを大きくしたような丸い
果実が熟すと厚い果皮が割れて少数の種子を落とす。種子は大きさ、艶、形ともに、栗の天辺の尖が
りなくして丸くしたようなものを想像すれば間違いない。但し色はより黒っぽい。日本では東日本を
中心に分布、中でも東北地方に顕著に見られる。木材として家具などの材料となる。巨木になるもの
が多いので、昔はくり抜いて臼を作るのにもよく使われた。

 栃の実

 また、澱粉や蛋白質を多く含有する種子は栃の実として渋抜きして食用になる。同様に渋抜きして
食用になるコナラやミズナラなどの果実(ドングリ)よりも長期間流水に浸す、大量の灰汁(あく)
で煮るなど高度な技術が必要で、とても手間がかかるが、嘗ては米が殆ど取れない山村では、稗やド
ングリと共に主食の大きな一角を成し、常食しない地域でも飢饉の際の食料(飢救作物)として重宝
された。そのために森林の伐採の時にもトチノキは切り残す慣習を持つ地域もあった。私有の山でも
トチノキを勝手に伐採することを禁止していた藩もあったほどだ。また各地に残る栃谷や栃ノ谷など
の地名も、食用植物として重視されていたことの証拠といえる。現在では、渋抜きしたものを糯米と
共に搗いた栃餅(とちもち)などとしてあちこちの土産物になっている。縄文時代の遺跡からも出土
しており、ドングリや胡桃同様、古くから食用とされてきた。保存も利くので、天井裏に備蓄してお
く民家もあった。積雪量が多く、稲作が難しい中部地方の山岳地帯では、盛んに栃の実の採取、保存
が行われていた。
 栃木県の県木であり、名横綱栃木山守也を輩出した。小岩っ子横綱栃錦清隆はその弟子だ。
 


 ●三仏堂(区有形文化財)
 いずれも屋根が寄棟造り銅板葺きの一重で、外壁が腰高までを下見板張りに、上部を漆喰塗りとし、
石垣積みの基壇の上に建てられており、全体的に和様の建築様式で纏められている。規模は、桁行7
間×梁間5間で、内陣を3間×2間とし、その周囲1間通りを下陣とした阿弥陀堂形式の平面構造を
採る。建築年代は、小屋裏から発見された棟札から、二世住職珂億(珂憶)上人によって『元禄十一
年(1698)龍集戌寅十月吉日』に上棟しており、 大工は『河内国石川郡新堂村(大阪府富田林
市)五兵衛福吉』に起こされたことが判る。

   三佛堂
   中央を「上品堂」右に「中品堂」左に「下品堂」を配置し、總穪して三佛堂と言う。阿弥
   陀如来像をそれぞれ三体づヽ安置す。当寺の開山珂碩上人(1618~1694)は、 
   佛者として十一代の高僧であるとともに、亦、彫刻に秀でられ、十八才の時、  せられ
   三十六才の時、完成した。九体の阿弥陀如来像(九品仏像)は上人生の代表作である。
   永代衆生化品の尊い御佛像である。
   来迎会(おめんかぶり)は上品堂より本堂への懸橋を信者がお面をかぶり行道する尊くも
   亦華麗な行事である。


   九品仏と三仏堂
   珂碩上人(1617~94)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に
   彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51
   歳のとき完成した九体の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、
   未代衆生化益の尊い御仏像である。
   九体とも文化財の指定をうけ、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三つのお
   堂(三仏堂)にそれぞれ三体ずつ安置してある。
   上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下
   品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには、上品上生から下品下生まで九つの名があり、
   それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別がある
   のか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私
   たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私た
   ちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身と口と意の三つが浄化されてゆ
   き「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患
   うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都
   府下の浄瑠璃寺(九体寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。
                            ※浄真寺「縁起」本堂札所にあります。(有料)


 このように建築年代、建築者とも判明し、また9躰の阿弥陀如来像を3躰づつ三つの仏堂に安置する
形状は全国的にも珍しく、江戸期の寺院建築の変遷を知る上で大変に重要だ。よって元禄十一年(1
698)に上棟され、何れも当初の姿を今によく留めている。
 九品仏の信仰形式は藤原時代に盛行したもので、現在では京都府相楽郡加茂町の俗に九体寺といわ
れる浄瑠璃寺が代表例で、建物を含めて総て国宝だ。

   三仏堂修復
   元禄十一年~十二年にかけ建立されたこの三仏堂も安政・大正の地震の災厄により甚大な
   損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁
   に際し、大修復工事をおこない、創建当時の偉容を再現した。
   九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである。(都有
   形文化財)                     
浄真寺「縁起」寺務所にあります(有料)

 上品堂の前に修繕説明板がある。

   2014年~2034年
   
浄真寺「平成九品佛大修繕事業」大勧進
   九品佛像(上品上生仏~下品下生仏)及び釈迦如来像、計十躯の大修繕が始まりました。
   一躯づつ修理所に搬出し、一躯当たり一年半か二年の修繕となります。
   只今、中品上生がご遷座中です。
   この希代の「平成九品佛大修繕」に広く浄財の勧募(大勧進)をお願いしております。浄
   財を喜捨された方々の芳名は、結縁交名帳に記録し、九品佛像の臺座内に永久に奉安され
   ます。何卒、この勝縁に、格別のご協賛を賜り度く存じます。
   詳しくは寺務所、龍護殿にございます勧募趣意書をご覧頂ければ幸甚です。 
 


 
●九品仏
(釈迦如来坐像9体 都有形文化財)
 上品・中品・下品の三仏堂に、それぞれ3躰の阿弥陀如来像を安置することから九品仏の名で親し
まれるが、本尊像は、開山以前に深川の霊巌寺で造立し、霊巌寺領の大島村念仏堂(江東区)に安置
されていたものだ。像はいずれも寄木造りで、高274~287.5cmの丈六仏。堂宇南面の常規に
従わず西面する本堂に本尊として祀られ、これに相対する形で東面して三仏堂が並び、それぞれ阿弥
陀坐像3躰づつ安置している。9躰の阿弥陀像は極めて古典的な和様の作風で統一されているが、本
尊の釈迦坐像は一種野趣さえ感じられ、造立時代あるいは作者系統の違いが推測される。脇侍は右に
善導大師像、左に法然上人像が安置してある。善導大師は唐の安徽省泗州の人浄土宗五祖の第三、善
導流仏を大成、わが国の浄土教はこれを継承している。
 
  榧の蔭金色仏を涼しみぬ(村田 脩)
  秋風の坂をおりれば九品仏(小絲源太郎)
  茶の花や裏より這入る九品仏(阿部みどり女)
 

 ●何故九品仏なのか?
 末法思想は仏教の予言思想の一種で、釈迦の立教以来1000年(若しくは500年)の時代を「正
法」、次の1000年を「像法」、その後10000年を「末法」の三時観で捉え、釈迦の教えが及
ばなくなった末法においては、仏法が正しく行なわれなくなるという終末論のこった。「世も末だ」っ
てえ表現はここから来てるんだぜ。 この思想は、中国では隋、唐代に盛んとなり、三階教や浄土教
の成立に深い関わりを持った。日本では平安時代頃に現実化してきた。特に永承七年(1052)は
末法元年とされ、人々に恐れられた訳よ。この時代は貴族の摂関政治が衰え、代わって武士が台頭し
つつある動乱期で、治安の乱れも激しく民衆の不安は増大してた。また仏教界も天台宗をはじめとす
る諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と
一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒
していったのさ。しかし鎌倉時代に入り、社会が安定するにつれてこの考え方は次第に薄れていくん
だがね。
 衆生が末法に怯える時代に人々の心を捉えたのが「阿弥陀信仰」、つまり阿弥陀如来を礼拝するこ
とで極楽往生できると説く、他力本願を根本とする浄土思想だ。浄土系仏教の教えの一つだが、宗派
を超越した包括的な思想だから、仏教というよりは民間信仰だぁな。根本は、2世紀のインドで始まっ
たと考えられてるんだよ。日本には奈良時代に伝わり、先祖敬仰としての阿弥陀信仰が弥勒信仰と混
交してなされてたそうだ。その後末法思想の流れを受けて阿弥陀如来に帰依することで極楽浄土への
救済を求める阿弥陀浄土信仰ともいえる念仏思想を伴うものに形を変え、平安時代中期に空也、源信
らの民間布教によって爆発的に流行した。
 阿弥陀如来は差別主義者で、人が亡くなった時、極楽浄土に迎えてくれるが、人によって迎え方を
微妙に変えるのよ。まず人を上品・中品・下品に分類する。紳士淑女を上品、荒くれあばずれを下品
というのはここからきている。ただ仏教用語としては「じょうぼん・ちゅうぼん・げぼん」と発音す
る。だから「くひんぶつ」でなくて「くほんぶつ」なんでい。尤も地元の人は「こんぷつ」と聞こえ
るように発音するんだけどね。そしてこの3階級のおのおのが「上生・中生・下生」に分かれ、都合
9段階の差別があるという訳だ。さしずめおいらは下品下生(げぼんげしょう)以下かな。でだ。そ
れを阿弥陀如来はブロックサインで示してくれるんだよ。手の組み方(印相)が9種類あって、その
一つ一つに名前があって「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」で表す。この9文字を「九字」と
いい、忍者が印を結んで「九字を切る」のは、 これを実行してるってえ訳なんだよ。今度お参りした
ら、9体の阿弥陀の手に注目してみてみな、全部違うから。全部違う九品仏は、京都の端っこにある
浄瑠璃寺のみで、だからここの九品仏は江戸時代の作品とはいえ貴重なものなんだよ。
 

 ●お面かぶり
 正しくは「二十五菩薩来迎会」とも「二十五菩薩練供養」ともいい、3年に1回、8月26日に開
催される都の無形文化財。奈良の当麻寺、岡山の誕生寺でも行われている。
この厳かな行事は、文政
十年(1827)の千部会の時に珂碩が始めたとされ、阿弥陀仏の来迎引接(らいごういんじょう=
阿弥陀仏が菩薩らと来迎して衆生を極楽浄土に導くこと)を表す。これに来迎踊りと稚児行列が付随
している。一般に死期の近いことを「お迎えがくる」というのはこのことで、ご先祖や、既に死んだ祖
父ちゃん祖母ちゃん、夫や妻が迎えに来る訳じゃねえ。
 広い境内の西寄りに、三つ並ぶ三仏堂、その中央の上品堂から本堂へ長さ36間の
木橋が架けられ
る。それを「二河白道」といい上面に茣蓙が敷かれ、本堂を現世、三仏堂を来世の極楽浄土と見立て、
釈迦が涅槃に入ると、来世から25菩薩が輿を持って迎えに行き、来世の極楽浄土に連れて行くとい
う行事だ。25人の菩薩は、申し込みで特に信者出なければという縛りはない。無神論者でも、キリ
スト教徒でも構わない。ただし初穂料は要るよ。これ参加料としては結構お高い。納めると本堂内陣
と九品仏を直に拝ませてもらえる特典あり。ちりちり頭の阿弥陀仏は、全国でも奈良の五劫院、十輪
院などに限られ、非常に珍しい。当日は付き添いが要る。とにかく真夏だから暑いのだ。壺を被って
るようなものだから、風を送らねばならないし。面に目穴は開いているが見え難い。黄色の帷子(か
たびら)を着て、金色のお面を頭からスッポリ被って、手も足も黄色い布で覆われて金色に輝く様子
を表しているが、極楽浄土の有様を偲ばせる。静々と25人の菩薩が上品堂から橋を渡って人間世界
に降下してくる。御詠歌が歌われ、阿弥陀の来迎を告げて鐘が鳴り響く中、本堂に到着する。そして
本尊の釈迦牟尼の前を一巡し、再び橋を渡って西方浄土に、幽玄のスピードで戻って行く、尊いお練
だ。関東ではここしか見られない。

   来迎会(おめんかぶり)
   当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは3年ごとに奉修
   される阿弥陀如来二十五菩薩「来迎会」のことで、無形文化財に指定されている。念仏行
   者が臨終のの夕べに、阿弥陀さまが二十五菩薩さまをしたがえて西方浄土より来迎になる
   という。浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々
   が菩薩のお面をかぶって行道する尊くもまた厳かな儀式である。
   おめんかぶりは、三年に一度の行事であり、8月16日の午前11時・午後5時の二回お
   つとめする関東においては、当山のみの行事である。ぜひ一度御結縁あらんことをおすす
   めする。
   なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているので御来観ください。
                             ※浄真寺「縁起」本堂札所にあります。(有料)

 句碑
 中品堂と上品堂の間の上品堂寄りにある加藤楸邨の句碑。平成11年の建立。

   しずかなる
   力満ちゆき
   蛥蚸とぶ

 蛥蚸(ハタハタ)はバッタのことだ。
 

 阿育王塔(あしょかおうとう)
 中品堂と上品堂の間の奥にある石造三重の塔。阿育王は、紀元前3世紀のインドの王で、仏教を国
教とし、慈悲の教により国民に臨み、その恩徳国内に満ちたといわれる。インド各地に今も残る釈尊
の遺跡に多くの石柱を建立して顕彰の誠を示した。今のインドの国旗は、この石柱の頭部の法輪だ。
この王塔は、日本様式であり、天保年間のもの。

   阿育王塔
   阿育王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教えにより国民に臨み
   その恩徳国内に満ちたといわれる。インド各地に今も残る釈尊の遺跡に多くの石柱を建立
   して顕彰の誠を示された。現今のインドの国旗はこの石柱の頭部の法輪である。当山の宝
   塔は、日本様式であり、天保年間のものである。
                             ※浄真寺「縁起」本堂札所にあります。(有料) 
 

 地蔵堂
 墓地入口の右手にある。 

 開山廟(珂碩上人墓)
 墓地に入って直ぐ左手に進んだ突き当たりにある。 


■九品仏詣

 江戸から世田谷の奥沢まで来るのが大変なので、九品仏にお参りすることではなくて、九品の阿弥
陀如来をお参りして、九品仏参りしたとする風習。
 ①巣鴨真正寺(上品上生)、②田端等覚寺(上品中生)、③田端与楽寺(上品下生)、④谷中天王
寺(中品上生)、⑤駒込松栄寺(中品中生)、⑥新宿太宗寺(中品下生)、⑦高田放生寺(下品上生)
⑧落合泰雲寺(下品中生)、⑨板橋智清寺(下品下生)を巡拝すること(東都歳事記) 



■九品仏池 
埋却

 九品仏川沿いの低地は水田だったが、東急電鉄が浄真寺の北墓地の裏手に池(九品仏池)を掘って
その土で九品仏川の北側(今の自由が丘駅一帯)を埋め立てた。池は渋谷の東急文化会館が建設され
た時の残土で埋め立てられ住宅地になった。今は川も見ることはできず、その辺りに公園と緑道があ
る。ただしガリ版刷りの『世田谷の河川と用水』昭和52年12月15日発行 編集発行世田谷区教
育委員会 郷土資料編集委員 三田義春の55頁には少し違うことが書いてある。

   玉川全円耕地整理組合等々力北区第1工事区として,昭和7年9月6日から掘削し、その
   土で付近の深さ1丈余の不毛田を埋立てた時できた人工池で、面積は3440坪で戦前は
   ボート遊びの池として経営されたが、戦後東急が買収して埋立を行い、九品仏の台地に沿っ
   て新川を造成して水をぬき、旧池面を住宅分譲地としたものである。

 民話
 池の畔の小屋から、毎日朝早くから鑿(ノミ)の音が聞こえてくる。名主の彦兵衛は一体何事かと
小屋を訪ねてみると、そこでは二人の僧が一心に仏を彫っていた。名主が、「もしや木喰上人(もく
じきしょうにん)様ではございませんか」と尋ねると、僧はそんな大それた僧ではないと答えた。そ
して実はかつては武士として仕官していたが、上役の悪だくみで部下や町の衆まで巻き添えられて罪
人とされてしまい、自分はその卑怯者の上役を殺して僧になったと話したので、仏像を見た名主は是
非村に安置させてほしいと申し出た。そして落慶式の日から1ヶ月ほどは、門前市をなし、江戸から
町人が列をなして参詣しにきたのだ。上人が仕官していた頃に世話をした人々が恩返しに参詣しに来
た。驚いた名主達が再び上人を訪ねると、上人は既に旅立った後だったという。
 


■ねこじゃらし公園
 奥沢7丁目46番5号にある区立公園。


■奥沢西保育園
 奥沢8丁目4番14号にある区立園。


■奥沢西公園
 奥沢8丁目4番17号にある区立公園。


■九品仏小学校
 奥沢8丁目12番1号にある。昭和27年「東京都世田谷区立九品仏小学校」として開校。児童数
731名・15教室でスタート。10月校舎落成式。同31年校歌制定。創立5周年記念式典。

 校歌「小鳥の歌に」 作詞・高橋掬太郎  作曲・江口夜詩
  1.小鳥の歌に友を呼び
    
みんなで仰ぐ青い空
    学べよ正しく心は高く
    遠くで富士が見ているよ

    よい子の学校 九品仏
  2.
みどりの風が吹くところ
    
仲よく遊ぶ広い庭
    椎の木 杉の木 延び行くように
    丈夫な身体 つくろうよ

    よい子の学校 九品仏
  3.
桜の並木 多摩の丘
    
希望に光る白い道
    教えを守って 手を取り合って
    明るく 強く 進もうよ

    よい子の学校 九品仏


 同36年創立10周年記念式典。同41年プール完成。同45年体育館・特別教室(理・図・音・
家)落成。同46年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎8教室・玄関落成。同47年鉄筋コンクリー
ト造り3階建て校舎10教室・校長室・職員室落成。創立20周年記念式典。同57年創立30周年
記念式典。同58年図書室・視聴覚室・新プール完成。
 平成3年ランチルーム完成。同4年ガスFF暖房、管理冷房設備設置。同7年校庭全面整備。遊具
・縁台・理科観察園(花壇・観察池・百葉箱)設置。同9年創立45周年記念式典。同11年機械警
備開始。同12年親父の会発足。同13年スクールカウンセラー設置。同14年創立50周年記念式
典。同窓会創立15周年記念式典。飼育小屋改修。同19年防犯カメラ3ヶ所設置。

 
「春が来た」
 プール落成記念として製作された富永一朗原画のモザイクタイル壁画画。その前は一般のベンチス
ペースになっている。
 



【尾山台】(おやまだい)1~3丁目                  昭和45年3月1日
 小山村。明治4年荏原郡長浜県飛地。同5年東京府荏原郡小山村。同8年荏原郡内に小山村が二
つあるので区別のため尾山村としたが、同22年小山村(品川区)が「おやま」から「こやま」に
読みを変えた。同年尾山村は玉川村を構成しその大字となった。昭和7年世田谷区に所属して玉川
尾山町。同45年新住居表示により玉川尾山町の大部分に玉川田園調布1丁目・玉川等々力1丁目
・玉川奥沢町3丁目の各一部をあわせた町域を、国分寺崖線(高台)を強調して現行の「尾山台」
とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『世田谷区史』『世田谷の地名』など。


 尾山の由来
 小山は、「高台」または「岡」の意で山というほどでもない高みをさす。ここの小山は、宇佐神
社を中心とした高台(狐塚・八幡塚・天慶塚)を地頭山といい、「小山(おやま)」ともいったこ
とによる。多摩の筏師たちは「権左衛門の森」と名づけて距離の目安とした。そもそも「小山」と
「台」は同義だから、「尾山台」の「台」は余計なのだ。「尾山・台」では「台・台」ということ
になる。町名は昭和5年開業の大井町線の駅名から拝借した。だが駅そのものは谷底にあり、地元
の人はこの町名に不満らしい。世田谷行政の失敗の1だ。
 ここは「小」を「尾」に変えた「尾山」だが、地名用語での「尾山」は、舌状台地の先端傾斜地
をいう。山の尾の意味だ。
 


■尾山台ナザレン教会 
移転
 尾山台1丁目1番のパークハウス等々力1丁目のところにあったが、東の道路向かいの尾山台2丁
目5番10号に移転した。跡地はテイジンのテニスコートになったが、平成13年三菱地所によるマ
ンションに生まれ変わって現在に至っている。当時は丸子川に降りて川遊びができたそうだが、川は
生活とは遮断されている。
 


■籠谷戸
(ろうやと)

 尾山台1丁目6・7番の間の道が田園調布に向かって下る坂の一帯。かつてこの辺りは多摩川の水
際、田園調布5丁目は水の中だ。田園調布雙葉中学校高等学校の辺りに船着場・荷揚場があり、今は
当時の道が失われてしまって、どういうルートを通ったものか判らないが、奥沢城、その郭の一角で
ある千駄ヶ丸(奥沢6丁目)へ荷物を運んだという。伝乗寺から北上したというが、伝乗寺は位置的
に低く一旦西へ下ってまた上がるという無駄な迂回をしなければならない。素直に北上すれば奥沢城
だ。無論当時は深山密林であったとしても、崖や岩山を打ち砕かねばならない訳でもなし、道くらい
は敷けたろう。また当時の伝乗寺は天慶塚跡(1丁目14番)の辺りにあったという説があり、寮の
坂から考えても、これなら納得がいく。船着場の北100mばかりの位置にある。
 で、籠谷戸の「籠」は、江戸時代この辺りは籠を生産していた「籠場」であるところからその名が
付けられたもので、谷戸とは三方を囲まれ一方だけ入口のある地形をいい、奥沢城当時になんと呼ば
れていたのかは判らない。
 対岸は南方の川崎市中原区小田中の泉沢寺で、当時砦の役目を果たしていたものと思われる。泉沢
寺は元々は烏山にあったものが移転したものだ。延徳三年(1491)烏山に吉良氏の菩提寺として
創建された。その後天文十八年(1549)に堂宇が悉く焼失したため、その翌年、世田谷領主吉良
頼康が、現在の中原区上小田中に新しく建立した。
 


■道祖神 見あたらない
 尾山台1丁目9番? 「平野拓一のホームページ→趣味のページ→世田谷地蔵マップ」に写真があ
るので・・・2度見に行ったが、撤去したものか、ない。当該番地は全く目一杯住宅地で、道祖神が
あるような雰囲気ではない、近くに伝乗寺、宇佐神社がある。番地が違うのか?


■天慶塚古墳(西岡15号墳)
 尾山台1丁目14番の住宅のあるところに古墳が3つ(西岡15~17号墳)並んでいたという。
白亜の大邸宅を壊して分譲住宅としたが、今は埋蔵文化財包蔵地(天慶塚古墳包蔵地)とされてる。
そのためかマンションなどにできなかったのかも知れない。ここ尾山(小山)の地は大変に起伏の激
しい地形で、荏原郡の中でも一番の高所と呼ばれる海抜約55mの天慶塚(てんぎょうづか、地元で
は「てんけいづか」と発音)、中ほど宇佐神社の東に八幡塚、西部に狐塚がある。何れも古墳だが、
天慶塚の謂れは判らない。天慶の名からして平将門に因むものと思われる。この古墳は多摩川下流域
左岸の武蔵野台地上に分布する「野毛古墳群」の中で、最も東側に位置している。支谷を挟んだ西側
の舌状台地上には「八幡塚古墳」や「狐塚古墳」「御岳山古墳」といった首長墓が続いており、また
東側には「田園調布古墳群」が続いている。
 明治35年には石棺が掘り出されており、勾玉、直刀、鉄鏃等、多くの遺物と共に人骨が出土して
いる。この出土品のうち、直刀は現在の宇佐神社へ奉納され、6点の石製模造品は京都大学文学部の
博物館所蔵となっているが、その他の出土品は散逸して所在不明だ。その後、昭和7年頃西岡秀雄に
より行われた荏原台古墳群の分布調査により把握されて「第15墳」と命名された。併し玉川全円耕
地整理により削平され、その後この周辺は住宅地となり、古墳は存否すら確認できないままとなっていたが、平成13年に行われた発掘調査により周溝が確認されている。
 古墳の墳丘径は約46m、高さは3.3m以上の規模を持ち、幅8.5m以上の周溝が巡っている。
墳丘規模から考えると、御岳山古墳を凌ぎ、野毛大塚古墳に次ぐ第2の規模を有しているとか。墳丘
には円筒埴輪列が廻らされているものの、葺石は存在しない。墳形はこれまでは円墳とされていたが
現在は帆立貝形前方後円墳か造出付円墳ではないかと推定されており、5世紀第1四半期項半から第
2四半期の築造と考えられている。この古墳の調査結果により、野毛古墳群における首長墓は野毛大
塚古墳→天慶塚古墳→八幡塚古墳→御岳山古墳→狐塚古墳の順に築造されたと考えられる。
 塚の東側のV字谷は「籠谷戸(ろうやと)」といい、往時多摩川の水位が高かった頃には入江で、
奥沢城大平氏の荷揚げ場があったという。田園調布双葉の生徒が上り下りするローバ坂は、籠場坂で、
奥沢城へ牛馬で荷駄(物資)を運んだ軍事拠点だったそうだ。
 なお塚上にあった石祠は、八幡塚の頂部に移設されている。
 


■正求堂
 尾山台1丁目15番23号にある特例財団法人。増島道雄。この財団は、中央大学の創設者の1人
で増島六一郎が、六本木ヒルズのところにあった自宅に、法律書籍を集めた正求律書院(せいきゅう
りつしょいん)という図書館を開館。昭和9年維持運営のため、財団法人正求堂財団を設立。第2次
世界大戦後、日本国では英米法研究が盛んになり、書籍は、没後の同24年に最高裁判所に寄託され
て正求堂文庫として一般に公開されている。また、六六開発(六本木ヒルズ)で、当時ニッカ池周辺
に建立されていた石碑のうち、増島家に関わる3碑
勿去碑・秀芳不孤の碑・正求堂の碑)は増島六
一郎の子孫に突き返された。


 増島六一郎
 現在の滋賀県彦根市生まれの弁護士。父が61歳の時の子供であったため六一郎と命名された。近
江国彦根藩井伊家
弓術師範230石の家柄。明治3年に上京し、官立東京開成学校(後の東京大学)
に進学。東京大学法学部第二期を首席で卒業。その後、同12年頃、三菱岩崎家の援助によってイギ
リスミドル・テンプル法学院に、穂積陳重や岡村輝彦らとともに留学し、法廷弁護士(barrister at
law)の資格を取得し、さらに事務弁護士(solocitor)の事務所において研修を行った。同17年に
帰国するや、代言人の免許を受けて、京橋桧町に法律事務所を開設した。この時「バリストル、法学
士代言人」の肩書きを用いたという。当時は、英国法廷弁護士の資格を有する代言人は少なかったし
大学を出た代言人も、英語のできる代言人も少なかった。代言人の間での声望は高く、同19年には
代言人組合会長に就任した。一方で、神田錦町二丁目にあった明治義塾の教壇に立つが、同校が廃校
の折、同地を購入して新たに英吉利法律学校(後の中央大学)と東京英語学校(のちの日本中学)の
設立に奔走。同18年英吉利法律学校の18名の創立者の中心人物として同校初代校長に就任した。
同22年に東京法学院と名称変更後は院長となった。また、同地に杉浦重剛と共に創立した東京英語
学校でも初代校長を務めた。その後、学校教育の一線からは退き、弁護士業に復帰。増島は、後にい
う渉外弁護士として渉外性のある訴訟案件や企業法務を主に取り扱った。その多大な業績と名声によ
り、全米弁護士会、カナダ弁護士会、ニューヨーク州弁護士会の名誉会員となった。またその事務所
も、東京から、横浜、神戸、上海へと進出した。昭和23年没。
 


■切り石の石標 ◇
 尾山台1丁目19番18号の駐車場入口の左隅に「切り石」と刻した石標がある。本体は個人宅に
あって塀の隙間から見ること出来る。「奥沢道」「九品仏道」と刻まれている。この石柱は奥沢村、
尾山村、等々力村(飛地)の村境の境界石だった 
 


■田園調布雙葉学園中学校・高等学校
 尾山台1丁目20番9号にあるお嬢様学校。あの雅子妃殿下の母校だ。昭和16年12月8日玉川
田園調布の現在地に雙葉第二初等学校開校予定が、太平洋戦争勃発当日と重なり、校舎は警視庁に接
収され四谷雙葉の校内で授業を開始。同18年四谷雙葉から復帰したが、やがて学童疎開となる。同
20年日本敗戦後、11月から授業開始。同24年新学制により4月雙葉第二中学校開校。11月雙
葉第二小学校附属幼稚園開園。同27年11月雙葉第二高等学校開校。同39年法人名・学校名を「田
園調布雙葉」と改める。平成3年学園創立50周年。女学館・東洋英和・清心・・・ああ名門女子高
だ!  なお小学校は住所的には玉川田園調布1丁目だ。

 
校歌「雪にも耐えて」 作詞・大和田建樹  編曲・G-ルスロン 
  1.雪にも耐えて栄ゆく春の
    松のみどり時は今ぞ
    いざや習えいざや習え
    いざや 変えぬ操
  2.恵みの雨に紐解く百合の
    花の蕾 園はここぞ
    いざや学べいざや学べ
    いざや 高き色香

 
学園歌「遠い山脈」 作詞・坂本越郎  作曲・高田三郎
  1.遠い山脈 青く霞み
    流れる多摩は清らかに
    愛の泉の湧くところ
    喜び胸に溢れ来る
    ああ吾等諸共に
    学びの道よ 栄えあれ
  2.薫る緑の雙葉の園
    希望の星の輝きに
    清
(さや)かに花を開けよと
    教えを胸に守り行く
    ああ吾等諸共に
    学びの道よ 恵みあれ


 校名の由来
 校名は「ふたば葵」という植物の名から採用した。明治30年幼きイエス会のシスターたちは、英
語・フランス語・西洋作法・西洋技法を日本女性に教える施設を東京の赤坂葵町に開いたが、その町
名から思いついて、その施設を「雙葉会」と名づけた。

   ふたば葵は、一本の茎の先に必ず二枚の葉をつける。それは外国語の勉強を通して、西洋
   の女性と日本の女性が深い友情の絆によって結ばれることの象徴である


 と説明している。

   キリスト教を迫害した徳川将軍家の紋章が葵であることを思い合わせ、感慨深い

 とも書かれている。明治42年東京四谷に高等女学校を開校した時、この「雙葉」をそのまま校名
にした。四谷と田園調布は似てるが、因みに四谷と田園調布の違いは、セーラー服のカラーと袖口の
線の数が3本か2本か。横浜はジャンパー・スカートにブレザー。校章は世界共通。母体の修道院は
同じだが、それ程結び付きが強いとは生徒は感じてない。つまり生徒全員がキリスト教徒では無いと
いうこと。仏教徒も、白徒(神道)もいるって。学校の名前がお目当てでクリスチャンになることが
目的ではないのだ。駒沢大学や龍谷大学を出たらみんな坊さんになるのかい?
 雙葉ってぇても、創立当時は全部違う名前だった訳だし、ミッションの同類意識位だよ。ピンから
キリまであるからね。校名に惚れちゃわないこと。御用心。


 【ふたば葵】
 
山地の林下に生える多年草で、茎の先端に葉を2枚対生する葵なのでこの名前になってる。卵針形
の葉が特徴的で、徳川家の紋所の「葵の御紋」はこの葉を表したものだ。別名のカモアオイは、賀茂
神社の葵祭りに使われた事による。紫褐色の花を3~5月に咲かせる。
 
 

■次大夫堀の石標 ◇

 尾山台2丁目2番7号に三橋家がある。その門前右に標柱が立っている。六郷用水は徳川家康の命
令を受けて慶長二年(1597)から同九年(1611)まで15年間にかけ、小泉次大夫が周辺の
村々の人々を指図して掘った。上流は野川などの川を引いて、大田区の六郷用水とした。次太夫はこ
の工事を進めるために、小山(尾山)村の名主三橋重三郎の家に1ヶ月余り泊まり、仕事の計画や工
事の仕方を監督した。重三郎の子孫がこの三橋家の人々で、今日まで続いている旧家だ。 


■尾山台ナザレン幼稚園

 尾山台2丁目5番6号にある私立園。昭和25年開園。平成12年新園舎落成。


■尾山台ナザレン教会
 尾山台2丁目5番10号にある日本ナザレン教団の教会。福音主義のプロテスタント。昭和24年
道路西向かいの尾山台1丁目1番に開創した。当時は米軍払下げか、蒲鉾型兵舎(コンバット・セッ
ト)のような建物だった。 
 


松高山法生院伝乗寺

 尾山台2丁目10番3号にある浄土宗の寺。次大夫堀の北側にある。烏山から川崎に移った泉沢寺
の末寺。開山は住誉良公和尚という。文禄年間(1592~96)に創建されたというが、正和五年
(1316)の板碑があることから、もっと以前に庵のようなものがあったのではと推量する。本尊
は阿弥陀如来で木造坐像3尺許で、板碑を数多く所蔵している。『新編武蔵国風土記稿』によれば、

   除地三段五畝、字根通ニアリ。・・・本堂ハ六間ニ四間、南向ナリ。・・・表門両柱ノ間
   九尺


 と記している。寛政十年(1798)の西村和泉守作になる村念仏講中の伏鉦がある。享和二年(1
802)に「才の神」の火が移って焼失したことがあった。庫裡は同年に再築され、本堂は文化四年
(1807)三月に建てられている。山門は平成に入ってから建てられたものだが、白木の色がこれ
ほども早く古色蒼然となるものなんだとつくづく思う。平成17年3月五重塔も建立された。
 地蔵菩薩立像は頭部のみ古作だが、一木で保存もよく美しい。藤原期のもので、胴体は後補だ。小
阿弥陀如来像は鎌倉期のものだ。
 


■庚申堂 ◇
 尾山台2丁目10番3号伝乗寺裏西北角にある。1つは地蔵庚申。駒型浮彫。地蔵像・「奉造立庚
申供養」・三猿。文化十三年。
 駒型浮彫、日月・青面金剛像・邪鬼・三猿。左面「文化十三子年二月吉日」と刻む。
 もう1基は上部のみで下部欠落、読めるのは正面の「庚」の字のみ。 


■宇佐神社 ◇
 尾山台2丁目11番3号にある。永承六年(1052)奥州平定に向かう源頼義が尾山に陣を張っ
た時、空に白雲が八つに分かれて棚引いた。その姿が源氏の白幡のようであったので大いに喜び、戦
勝の暁にはこの地に八幡社を建立することを誓った。康平五年(1063)奥州安倍氏を平定した頼
義は誓約通り、奉賽として八幡社を建てた。これが宇佐神社の創建とされる。祭神は応神天皇で、例
大祭は9月23日。境内末社として、稲荷神社(倉稲魂命)、御嶽神社(大己貴命・日本武尊・少彦
名命)を祀る。村内に散在していたものを明治の合祀令で合祀したのだ。また天慶塚の天慶様・八幡
塚の八幡様、狐塚のお稲荷さんも引き取って合祀した。
神殿には狐塚から出土した刀剣や土器片など
を奉納してあるという。こぢんまりとしているが、すっきりとした雰囲気の境内。手入れが行き届い
ているという印象を受ける。『新編武蔵国風土記稿』によると、

   除地二反、村ノ中央、字根通リノ内ニアリ。社九尺ニ二間、南向、中ニ又宮作りノ社アリ。
   前ニ鳥居ヲ建ツ。両柱ノ間七尺、元禄十二年ノ夏、七世精蓮社進誉貞悦ノ時再造セシトミ
   エテ、ソノ時ノ棟札アリ。祭礼九月二十三日ニ行フ。伝乗寺持ナリ。注連引松二株アリ。
   向ヒテ鳥居ノ右ニアリ。上屋一間ニ一間半、神明社末社ヨリ東北ノ角ノ山ニアリ。

 とある。社地の西側は湿地になっていたが、昭和35年頃埋め立てられて住宅が並んだ。北西向き
の斜面は、平成12年コーポラティブアパートを建築するため雑木林が失われた。北と東はずっと前
から駐車場と住宅だ。


 庚申塔
 神社にある覆屋付きの庚申塔は十字架を持っている。隠れキリシタンでもいたのだろうか? 昨今
等々力・尾山台・田園調布辺りは寺社と同数くらいのキリスト教会や修道院がある。


■八幡塚古墳(西岡14号墳)
 尾山台2丁目11番3号宇佐八幡の背後にある世田谷区138番遺蹟。この古墳は多摩川下流域左
岸の武蔵野台地上に分布する「野毛古墳群」の中では比較的大形だ。支谷を隔てて東には「天慶塚古
墳」や「西岡16号墳」「西岡17号墳」があり、さらに東側には「田園調布古墳群」が続く。また
西には「狐塚古墳」「御岳山古墳」が所在している。
 古くは、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「大塚 字堂の上ニアリ。事跡ツマビラカナラ
ズ。」と記載されており、この古墳が江戸時代には既にに知られた存在であったことが判る。
 また、その後の大正14年前後には畑の開墾中に遺物が出土しており、昭和26年に出土品が紹介
された。また昭和7年頃には西岡秀雄により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握され、「西
岡14号墳」の名称で紹介されている。さらに昭和46年には早稲田大学文学部考古学資料室によっ
て墳丘の測量が行われ、この当時は墳丘径30m、高さ5mの円墳であると考えられていた。
 その後の平成7年2月直刀が露出しているとの通報が世田谷区郷土資料館にもたらされた。これに
より、区埋蔵文化財係が現地を確認したところ、露出どころか墳丘上に直刀がぽんと置かれているよ
うな状態で発見されたそうで、これには担当者もビックリしたそうとか。
 古墳は、この年の4月から5月にかけて確認調査が行われており、この古墳を復元すると、墳丘長
約33m、後円部直径約30m、高さ約4mで、幅約7.5m、高さ約1mの造出部を持つ造出付円墳
と考えられている。埋葬施設は、北主体部が箱形木棺の直葬で、南主体部は組合せ式の箱形石棺で、
中央の主体部は未確認ながらも粘土槨であると推定されている。埴輪や葺石については現在、存在し
ていたか否かは断定されていない。墳丘には石段が設けられており、墳頂部に登ることが出来る。頂
部には玉垣が造られており、内部には元々祀られていた神明社の右に狐塚古墳から移設された稲荷社
左側に御岳山古墳から移設された御嶽社、天慶塚から移設された天慶社が夫々祀られている。


■寮の坂
 尾山台1丁目と2丁目の間、伝乗寺と宇佐神社の東を登り、切り替えしになっている坂道。「堂の
坂」ともいう。尼さんの寮があったからとも、神社の南にある伝乗寺が、嘗ては天慶塚(1丁目14
番)の尾根にあり、その学寮があったからとも伝わる。大分県の宇佐八幡の別当寺も伝乗寺という寺
号だったそうだ。切り返しの角に由来碑と石標が建ててある。

   正面 寮の坂
   左面 右多摩川
      左籠谷戸
   裏面 右九品仏駅
      左多摩川
   右面 昭和六十年三月

   
寮の坂由来
   松高山傳乗寺は、区内における古刹であり、その縁起は遠く後伏見天皇の正和五年(13
   16)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである。往昔傳乗寺は坂の東側台地
   に所在し、かつ本堂とならんで僧侶の学寮が建てられていたために、この坂道を土地の人
   びと寮の坂と呼んでいる。坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合
   わせると、この坂の名称の由来が思い起こされる。
   なお、寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く盆地は、室町時代に籠谷戸と呼ばれる入江で、
   多摩川の水が滔滔と打ち寄せ、時の奥沢城主大平出羽守は、上流から運ばれた武器、兵糧
   の類を籠谷戸の寮の坂あたりに陸揚げして城へ運び入れたともいい伝えられている。さら
   に時代は下り、江戸時代に入ると、川崎泉沢寺と奥沢浄真寺の中間軍事拠点として小山傳
   乗寺がこれに当り、寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである。
   昭和57年3月                        世田谷区教育委員会
 


■楠の木
 尾山台2丁目14番8号の原田宅にある。世田谷区名木百選の1。樹高21m。目通り幹周4m8
cm。枝張り17m。
 
樟、楠。クスノキ科ニッケイ属の常緑高木だ。一般的にクスノキに使われる「楠」という字は本来
は中国のタブノキを指す字だ。別名クス、ナンジャモンジャ(但しヒトツバダゴなど他の植物を指し
て用いられている)。幹の太さが一抱え以上になるものも多く、単木ではこんもりと球形の樹形をな
す。木肌は綿密で、耐湿・耐久性に優れている。葉には艶があり、革質で、先の尖った楕円形で長さ
5~7cm。主脈の根本近くから左右に一対のやや太い側脈が出る、いわゆる三行脈という形だ。そ
の三行脈の分岐点には一対の小さな膨らみがあり、これをダニ室という。初夏に大量に落葉する。
 晩秋、直径7~8mm程度の球形の果実が黒く熟し、鳥が食べて種子散布に与るが、人間の食用に
は適さない。直径5~6mm程度の種子が一つ入っている。枝や葉に樟脳の香りがある。樟脳とはす
なわちクスノキの枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体のことで、防虫剤や医薬品等に使用される
いわゆる〝カンフル〟のことだ。種名のcamphoraもこの「カンフル」に由来する。
 


■狐塚古墳
 尾山台2丁目17番9号の区立尾山台クラブ広場のところにある直径30m×高さ5mの円墳。
摩川下流域左岸の武蔵野台地上に分布する「野毛古墳群」を構成する古墳の中の1基だ。この周辺の
地形は多摩川に向かって突き出る舌状台地と小支谷が交互に連続しており、この舌台地上に首長墓と
される大形の古墳が5~6世紀にかけて点々と造られている。
 平成27年4月1日から公園名が「狐塚古墳緑地」に改称された。
 この周辺の古墳について江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』をみると、舌状台地上に並ぶ「八幡
塚古墳」「御岳山古墳」「野毛大塚古墳」といった首長墓については記述が見られるのに対し、この
古墳は記載がないが、昭和5年から西岡秀雄により行われた荏原台古墳群の分布調査により把握され
た。当時の記録(考古学雑誌第26巻5号312頁)によると、この狐塚古墳は「西岡第12号墳」
の名で次のように紹介されている。

   第12号墳(俗称狐塚)
   (所在位置)舊地名 東京府荏原郡玉川村尾山
         新地名 東京市世田谷區玉川尾山町
   (型式)  固型墳
   (採集者氏名及び出土品等)
   西岡秀雄・・・・土器破片 昭和7年
   (現況其の他)封土の一部が田園都市會社の土地開墾の為切り取られ前記土器破片を出し
   たが、中心内部は未發掘である。現在墳上を見晴臺となし、上部の一本松の下にはベンチ
   設けさえあり。また小さな稲荷祠がある。高さ6米。
  

 葺石があり、円筒埴輪が二段に廻ったと思われるが、今は公園になっているので、往昔の姿は想像
すべくもない。狐塚の名の由来は頂に稲荷社があったことによる。現在も基盤は残っているが、この
稲荷祠は、現在は八幡塚古墳の墳丘上に移設されている。祭神は宇佐神社に合祀された。地中レーザ
ー探査により幅約3.5mの掘り込みが捉えられていて、粘土槨の主体部が手つかずのまま保存されて
いる可能性が高いそうだ。