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東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!
 平成17年2月11日発信 リンクフリー
 地名の由来 東京23区辞典  引用自由
 
夢 日本人の、日本人による、日本人のための日本

  武蔵・江戸・東京の由来 
調査は継続中、逐次、誤謬訂正・新規追加する場合あり。御用心御用!

ご意見とご教示メール
東京オリンピック 2020
思った通りに決まったね。福島原発事故のお蔭(?)さ。ロスチャイルドとしては背に腹は代えられな
かったということだろう。東京を外すと、日本国民は「ああやっぱり!、福島原発のせいだ」と思っ
てしまう。そして「原発は要らない」と結論づける。日本から原発が消えると、世界中が「原発は要
らないんだ」と思ってしまう。つまりロスチャイルドは、この世の中から原発が消えてしまうること
を最も恐れるのだ。何故なら彼が独占するウラン鉱が売れなくなってしまうではないか。東京決定の
裏にはそんな事情がある。原発はなくならないんだぞ。日本国民諸君!             
 
 
★各区夫々の主な記事 
 Home   【巻末特集】 江戸・東京名数一覧   江戸東京   東京は首都ではない  皇室典範・女系天皇 
 足 立 区  ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住 都立舎人公園
 下山事件 西新井大師 大鷲神社 伊興寺町
 六阿弥陀 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺
 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋
 女子高生コンクリート詰め殺人事件
 【巻末特集】 官報による帰化した有名人
 荒 川 区  あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町 三河島事故
 開成中学校・高等学校 尾久の原公園 大関横丁
 素盞雄神社 天王祭 大橋 谷中延命院一件
 「あしたのジョー」「巨人の星」 
【巻末特集】 江戸しぐさ
 【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女
 板 橋 区  自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故 松月院
 東京大仏 縁切榎 大東文化大学 帝京大学 板橋宿
 東京家政大学 中山道 板橋宿 国立極地研究所
 板橋事件 加賀藩前田家下屋敷
 
 江戸川区  葛西臨海公園 インド人 小松川女子高生殺人事件 
 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松
 目黄不動 平井聖天 食用蛙供養塔 紅葉川高校
 江戸風鈴 立木観音 タワーホール船堀 雷不動
 大 田 区  池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ
 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社
 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷
 洗足池
 
 葛 飾 区  式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場 「こち亀」銅像群
 香取神社 東京拘置所 柴又女子大生殺人放火事件 
 男はつらいよ 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 新宿の問屋場跡 葛西神社
 葛西囃子 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 半田稲荷
 水元公園 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園
 北  区  静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村

 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋)
 江 東 区  外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺
 品 川 区  品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社
 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 渋 谷 区  明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院
 
 新 宿 区  浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム 
 
731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町
 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市
 
 杉 並 区  青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水 
 墨 田 区  東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺
  
 世田谷区  バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園 
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川
 台 東 区  浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神
 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 中 央 区  「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
 エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ
 カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋
 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者
 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス

 千代田区   靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 豊 島 区   池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園

 【巻末特集】 東京の暴力団
 中 野 区  新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園

 
【巻末特集】 江戸城 城門と橋 
 練 馬 区  いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん 
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院
 文 京 区  狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 港  区  増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園
 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
 9・11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー
 目 黒 区   滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大
 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵
 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺
 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
 
   
 
★このぺーじに書いてあること たぶん、読みづらいかも・・・
 江戸の由来 東海道-奥州道 江戸城 江戸っ子 で、江戸はどこ?
 江戸の通貨 いろいろ江戸尽くし (※いろいろ東京尽くしも予定してるんだよ)
 東京の由来 東京は首都ではない? 皇室典範 官僚主義 武蔵の由来

 江 戸 の 由 来
 江戸の由来はアイヌ語説など諸説あるが、江は「川または入江」、戸は「口」つまり平川口をいう
田蜀山人
の見解が最も有力だ。 平川は江戸川(現在の神田川)の下流、白鳥池もしくは大沼からの
流れをいった。名の由来は平地を流れる川の意だろう。だからこそ人が住み着きやすく福田・神田・
千代田・宝田・祝田の村名からして水田も営む豊かな農漁村があり、必然的に川上側からと海側から
との接点で、交易の場としての人の溜り場(湊町)ができ、外波の圧力を受けない日比谷の内海に面
して交易の中心地となったものと考えられ、さらに奥州街道と東海道の接点としての宿場町でもあっ
た。馬喰町に六本木、鞍掛橋の名が残る。

白鳥池・大沼・牛込城
 白鳥池と大沼は、現在の船河原橋を中心に北へ西へと広がっていた巨大な池というか湖をいう。時
代によって湖面は広狭がある上に、徳川氏による江戸城外濠の開鑿で大幅な人工的地形改変が行われ
たため、往時の地形がどうであったのかは探りようがない。白鳥池から大沼を、ひょうたん型に図示
するもの、また鳩が羽根を広げた形に描くものなどあり白鳥池と大沼の関係は東京都でさえ結論を出
しかねている。
 湖を大沼と白鳥池の二つに分けたものは、船河原の川浜と千代田区側の岬(三崎)と考えられ、白
鳥池はその名の通り白鳥の生息する水面だったろうが、白鳥の生息地となる条件を備えていたという
ことは、自然汚濁の強い泥湿地だったと考えられる。徳川家康が関東転封を受け入れるやいなや、何
を差し置いても飲料水の確保をと、大久保勝五郎忠行に命じて上水を得させた時、勝五郎が小石川素
堀(小石川上水or神田上水)を開鑿したのは、そうせざるを得ない何らかの障碍があったからではな
かったか? もし関口から新小川町の方向の地味が良かったなら、早急なる水の確保に何もわざわざ
岩盤を削って水路を掘る必要はなかっただろう。水戸徳川家上屋敷(後楽園一帯)は当時そこに設置
される予定もなく、明暦の大火がなかったら幕末まで城中吹上に据え置かれたろうから、素堀を東す
る必要はさらさらなかった。ゆえに白鳥池の自然汚濁は酷かったと思われる。
 新宿区水道町から新小川町にかけては江戸初期の造成地であり比較的容易に埋め立てられたことか
らするとそれほど深い水溜りではなかったことを伺わせる。さらに白鳥池が泥湿地であればこそ牛込
城(光照寺一円)の立地も自ずと首肯できるのであり、湖面に突き出た舌状半島が天然の要害だった
ことは想像に難くない。筑土八幡が半島の最先端に鎮座しているのも、この半島が極めて重要な地点
であったことを物語る。
 一方市ヶ谷方向に広がっていた大沼という大きな水溜りには市谷方面から流れてくる紅葉川が注い
でいた。大沼は、敵の侵入を容易としない白鳥池の泥湿地とは異なる「深谷」だったようで、湖岸に
直接舟を横付けできる河岸(かし)または湊の適地が多かったものと思われる。それは神楽坂・庚嶺
坂・逢坂・浄瑠璃坂・左内坂などの坂道の発達に見ることができるし、牛込見附・市谷見付の設置も
凡そ交通路のあったことを彷彿とさせる。
 牛込城は江戸城に向かって大沼を「表」とし白鳥池を「裏」としたことを示す。
 それから、白鳥池より上流の江戸川は往時江戸へ向かう川というので江戸川の名があるが、実際ど
う呼ばれていたのか判らない。小石川素堀が敷かれてからは上水に対して古川もしくは江戸川と呼ば
れたことは判っている。井の頭池から流れ出た上流部については杉並区に譲るが乱流域であり、昭和
38年の地図でも数流を描いている。なお東京近郊の小河川が一本を拡張し他を暗渠化するのは昭和
は58年前後で比較的新しい改変である。


■江戸の村と川
 狭義の江戸が江戸村と呼ばれていたのかどうかは判らないが、江戸と呼ばれる地域には三崎・上平
川・下平川・柴崎・神田・福田・津久戸・千代田・宝田・祝田・老月・日比谷本郷・前嶋森木・小網
・須田・桜田・日比谷・芝・横山・二羽・浅草・湯島本郷・市谷・一木・国府方など150を越す集
落があったようだ。
 江戸の一円を流れていた川は、江戸川→白鳥池、紅葉川→大沼、平川→日比谷入江、神田川(日本
橋川)、元石神井川(谷田川→藍染川→忍川・堀留川)、西神田の小川、浅草川(河口付近の神田川)、
谷戸川(小石川・千川分水)、指ヶ谷(鶏声ヶ窪→大下水)、桜川、渋谷川→入間川、千鳥が淵の川
(桜田堀)、牛が淵の川(蓮池・道灌堀)などなど。このうち開鑿・拡幅・改修により江戸城の外濠
の機能を持たせたものが平川・千鳥が淵の川・牛が淵の川で、洪水を避けるため元石神井川は神田川
を新鑿して吸収、浅草川は埋没した。神田の小川は埋立て、桜川は溜池として飲料水とし、落水を外
濠(新橋川)としたものと、赤坂川として別流とし琴平町で新橋方向を断ち切って増上寺方向に曲げ、
やがて宇田川と金杉川(新堀川/古川)に落とした。断ち切られた桜川の河口付近は掘割として明治
以後も残り、東海道の源助橋を渡していた。桜田は「桜川流域の水田」の意であり、桜川は「狭い・
谷(さ・くら)」で、鮫河谷と清水谷を含む桜川渓谷を流れた流路のことだ。元石神井川の断ち切り
で生まれたのが堀留川で、千葉周作の道場があったことで知られる「お玉が池」はその一部だったが
埋め立てられてしまう。尚「玉」とはトラブルに苦しんで入水死した女の名前とも、真ん丸い池だっ
たからとも伝わる。周作のころには既になく俗称になっていたようだ。
 入間川は本来古川の河口だったが赤羽橋から下流の新堀(古川・金杉川)の開鑿で断ち切られ、川
口付近は残っていたが戦後埋められ道路となっている。


■変遷
 さて平川の川口の地名「江戸」が、武蔵野台地東端の広範な地域名となった理由は全く判らない。
おそらく「奥州道」の通過点であるため宿場として、古代からの房総半島の関係から津(川湊)とし
て栄え、広く近郷近在に知られていたのだろう。奥州道とは鎌倉街道のことで、江戸時代の「奥州街
道」ではない。江戸一円は鎌倉五山瑞鹿山円覚寺領(荘園)で、徳川家康が入国する以前には局沢1
6ヶ寺、日輪寺・慶元寺・清水寺・増上寺など相当数の寺院が見られた。つまりレベルの高い文化都
市だった訳で、だから寺院の数に見合うだけの人口があった。さらに江戸人は古来房総半島を経由し
て移住してきているから、船舶による房総半島との往来も途切れてはいないし、江戸は東西南北の経
済・文化の交流点だった。そのことは豊臣秀吉も家康も承知していたようだ。江戸という寒村に追い
込んだという秀吉悪意説とは異なり、良地を与えられたと家康は好意を以て受け止めている。また秀
吉は江戸と江戸湊を大坂と大坂湊のようにしてはどうかと勧めてもいる。もし江戸が加藤清正など豊
臣恩顧の大名に与えられていたら、徳川幕府はなかったろうし、何れは挟撃されて徳川家自体が壊滅
もしくは埋没していたろう。徳川家三百年は秀吉様々ということだ。
 文字としての初見は、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』の治承四年(1180)八月二十六日の条に江戸太
郎重長の名が見える。重長の父は平(たいら)四郎重継で「江戸貫主(えどかんじゅ)」と呼ばれ、皇
居東御苑(江戸城本丸)のどこかに「江戸館」を設けていた。貫主は最高位の人、ひらたくいえば江戸
一円の親分だ。だから鎌倉期にはすでに「江戸」と呼ばれた地域はあり、80年後の弘長元年(12
61)平長重書状に「武蔵国豊島郡江戸之内前嶋」とあるから郡と里の間の地域名になったようだ。
江戸時代の〝領〟にも匹敵するか。次の弘安四年(1281)平重政書状には「江戸柴崎村」とあり郷
名になっている。

 その後一世紀して扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰太田道灌(おおたどうかん)が品川の御殿山から
江戸の繁栄をのぞき、江戸氏を追っ払って喜多見に走らせると、江戸館の跡地に道灌流の「江戸城」
を築いた。江戸に入ったのは円覚寺の傭兵隊長の役割を担ったのだろう。現在江戸を開いたのは道灌
ということになっているが、江戸は道灌以前すでに開けていたのだ。広げたのは家康で、道灌は江戸
にやってきて江戸城に拠っただけだ。その道灌は主君上杉定正によって謀殺されるが、太田氏が滅ん
だ訳ではない。その後江戸幕府の大名になり、子孫は千代田区長にも選ばれた。
 太田氏により暫く静謐は保たれたが、後北条氏が台頭すると、大永四年(1524)江戸城は北条氏
の手に落ち、当時の記録では江戸は上平川(飯田橋)、下平川(一ツ橋)、神田(大手町1丁目東半~
内神田)、芝崎(神田錦町~大手町1丁目西半)、局沢(皇居内)、国府方(麹町)、一木貝塚(永
田町~赤坂)、日比谷本郷(有楽町)
前島森本(日本橋辺)、桜田(霞ヶ関~愛宕下)の10ヶ村
としている。福田村(江戸本村=大手町2丁目北半)、千代田村(大手町2丁目南半)、宝田村(丸
の内1丁目西)、祝田村(丸の内1~2丁目)、老月村(丸の内2丁目)の5ヶ村については言及が
なくて、その他の村々150か村余は「江戸廻り」として一括されている。天正18年(1590)北
条氏が滅亡すると関東は旧領五カ国と引き換えに徳川家康の領地となり、円覚寺はほっぽり出されて
しまった。家康は城と城下町を整備して今日の東京の礎を築く。江戸の範囲は御府内とされ概ね町奉
行・寺社奉行の管轄区域とされた。明治維新により新政府は江戸府を置くがその管轄範囲はそれを踏
襲した。


■徳川家康関東転封
 家康の関東転封は、天正十八年(1590)四月九日後北条氏の小田原城総攻撃の最中に秀吉から
内示された。これを受けて四月二十二日遠山金四郎のご先祖である城代遠山氏が守っていた江戸城は
家康の家臣戸田忠次が受領、五月二十七日になって家康は秀吉に対して正式に受諾の意思を明らかに
すると、六月二十八日には江戸を拠点とすることを決め、七月五日の小田原落城を経て、同月十三日
に正式に公表された(『武徳編年集成』)。
 家康の転封先については奥州54郡という噂もあったらしく、譜代の重臣らは、もしそれが事実な
ら徳川氏は僻遠の地に押し込められて、天下に武威を振るうことが出来ないと嘆息したという。これ
に対し家康は旧領に100万石を加増されるのならば奥州でもよい、人数を頼み、3万を国元に残し
5万を率いて上方に上れば、自分に敵うものはあるまいといったという逸話が『徳川実紀』に記され
ているが、家康にはどんなところであれ、覚悟と勝算があったということだ。
 結局家康は八月一日威儀を整え改めて公式に川崎から江戸に入り、関東の内、後北条氏が早雲以来
5代をかけて獲得した領地伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野の6ヶ国、都合2402000石を
支配することとなった。この他在京賄料として近江・伊勢・遠江・駿河などで合わせて10万石与え
られている。家康の関東入国によって、江戸は小田原後北条氏の支城地から徳川領国経営の中心地へ
と性格を変えたのだ。
 家康は早速、城と城下町の整備に取り掛り、普請は徳川氏の費用で、自ら家臣を指揮して行った。
文禄元年(1592)には、後の西の丸周辺を掘割し、その揚土で日比谷入江を埋め立てた。天正末
年から慶長年間に掛けて江戸城のまでの物資輸送運河として平川から江戸湊へ道三堀が掘削された。
 慶長五年(1600)関ヶ原に勝った家康は、同8年に征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開いた。
これより江戸は、徳川領国の中心から、全国の中心へ、いわば県庁所在地から首都へと大きく性格を
変えたのだ。江戸が日本の中心地であることについて、家康は、

   江城は政令の出る所、天下諸侯朝勤の地なり

 と述べ、また8代将軍吉宗は、参勤交代に関する会話の中で、

   大猷院殿(3代将軍家光)の頃まで府内物寂しき様にて国都の体を得ざりし故、当時の
   宰臣等唯府内賑わふべき為に計らひしこと・・・(『徳川実紀』)


 と述べている。さらに勝海舟は明治元年(1868)三月の西郷隆盛との会談において「皇国の首
府」「天下の首府」たる江戸で一戦交え「国民」を殺すような事態を惹き起こすことは、一徳川氏と
いう「私」のためにもならず、慶喜自身も決して考えているところではない(『勝海舟日記』)と、
江戸を首府=首都との認識を示し、戦災から守ることを主張した。江戸は、同時代において首都=政
治の中心地と考えられていたのである。地方分権の封建時代に於いて、参勤交代の制度化により、三
百諸侯(大名)は一年置きに江戸に住むことを強制され、江戸には藩邸が建ち並んだ。将軍直参の旗
本や御家人などの屋敷も整備され、江戸は首都としての景観を備えるに至った。
 江戸はまた外交の中心地だった。朝鮮国主が将軍の代替わりなどに派遣する朝鮮通信使や、琉球王
が将軍や琉球王の代替わりに派遣する慶賀使・謝恩使、さらに長崎出島のオランダ商館に常駐する商
館長が毎年、寛政二年(1790)以後は4年に1回行った江戸参府など、江戸は鎖国体制下の外交
の舞台としても機能したのだ。しかしだからといって江戸が首都だった訳ではなく、現在に至るまで
も法律上の首都は平安京(京都)なのだ。


■東海道→奥州道
 東海道は鎌倉街道の一つで本来は律令制の行政単位だ。正しくは「あづまのうみつみち」と読み、
東北へのメイン街道である東山道(あづまのやまつみち)に対して亜道であり、東陸道(あづまのく
がみち)と呼ばなかったのは、全てを陸路で行けなかったからだ。
 鎌倉街道の本街道は東山道の厩橋(前橋市)に繋いだもので3ルートばかりある。もっとも「鎌倉
街道」というのは江戸時代以後の呼称で、記録には「上道・中道・下道」などがあるが詳細は不明。
そのうち江戸を通ったものが下道らしく(?)「奥州道」と呼んだようだ。「いざ鎌倉」のとき地方
の武士が鎌倉へ馳せ参ずる道は脇道も含めて全て「鎌倉道」な訳で、ために関東地方にはあちらこち
らにやたらめったらある。だから23区でも練馬・杉並・渋谷・世田谷・目黒・港区などに現在もそ
の名を残している。
 さて後に徳川家康によって正式に東海道と名づけられる奥州道は、多摩川を六郷の渡しで渡ると大
森→大井→品川→高輪と北上し、札の辻から内陸(桜田通り)に入り、入間川(古川)を渉り、飯倉
山を駆け上って乢(たわ)を越え、桜川を渉って虎ノ御門へ出、小田原門(桜田門)のところで、船
見山(桜田門後ろの高台)を正面に突き当たった。旅人はこの岐路で進路選択を迫られる。右手を辿
れば本街道、当時はあった日比谷入江(皇居外苑)の海辺道(二重橋前→桔梗門→大手門前)を通っ
て江戸(大手町2丁目)に入り、常盤橋→本町→馬喰町のコースを進み、浅草川(今神田川)を渡渉
して浅草→関屋へと抜けた。左手を採れば江戸を避ける脇往還、船見山の裾を廻り、道灌濠に沿って
局沢(つぼねざわ)を通って、田安台(北の丸公園)を抜け、坂(飯田町坂→九段坂)を下る道順を
取った。江戸は、豊かな農村であり、宿場であり、交易地だった。しかし江戸は繁盛はしていても通
過点の一つでしかなかった。今思えば結果論だが、何でこの地がもっと早くに開けなかったのか不思
議である。それにしてもそれを見抜いた秀吉・家康の慧眼は凄い。


■江戸城

 Ⅰ.太田道灌の江戸城

 江戸城は山の手の薬指に当たる台地の先端にあって前は海、周囲を谷川が繞り、守るに易く攻める
に難しい金城鉄壁の立地にある。堅固不抜が求められる近世城郭のロケーションとしては垂涎のもの
だ。然し久しく誰もそこに目を付けなかった。それは当時の江戸の周辺は生産力の低い後進地帯で、
人々は鎌倉を中心とする、今でいうところの湘南、秩父を有する西関東や、両毛・常陸の北関東に集
中して人口が少なかったことによる。
 明確な境がなく漠然と〝江戸〟と呼ばれる城下町は、武蔵丘陵が伸びて先端で掌を伏せたように形
作る「山の手」と、利根川水系が押し出してきた堆積の平地「下町低地」とで出来ており、西に高く
東に低い。都内をあちこち行ったことがある人は、日本橋や銀座に坂がなく、新宿区や港区区に坂や
谷が多いことを思い出すだろう。
 太田道灌の江戸城は、その構造を子城・中城・外城としたという記録はあるものの、それがどのよ
うな形状だったのかはさっぱり判っていない。家康が、大改造するに当たって旧状を記録してないか
らだが、本城(皇居東御苑)のみとする説と、西城(昭和宮殿のある一帯)を含むとする説とがあっ
て定まらない。どっちにしろ大きなものではなかったことだけは確かてあるし、より自然に近い状態
だったろう。現在の本丸が平坦なのは、家康が削平したものと思われる。皇居東御苑の展望台(台所
三重櫓跡)や富士見多聞(御休憩所多聞)に臨むと深山を髣髴とさせる。無論幕末から明治初期の古
写真では、さほどの巨木は見当たらないが山地状態であることに変わりはない。道灌には家康のよう
に元々の住民を立ち退かせるまでの力はなく、共存的姿勢を取ったについては、敵が北方の古河公方
であれば、平川口から日比谷入江はそれほど頑強に防御する必要もなかった。だから城内外に社寺や
行楽地もあり、平時住民の出入りはどれほども厳しくなかったようだ。江戸は東京となった現在でこ
そ、ガラスとコンクリートの殺風景な膨張都市に変貌したが、何がなくても江戸は、

   富嶽千秋の雪に対し滄海万頃の波を望む

 誠に見事な景勝地だった。今でも遊覧飛行をすればその美しさに感動を覚えるだろう。
 道灌時代の城は山城が一般的で、その構造は姫路城からイメージされるような白壁石塁の近代城郭
ではなく、掻き上げの叩き土塁に城塀は木柵か竹矢来よくて土塀、櫓は井楼、高殿は茅葺きか藁葺き
の二階造りだった。特に関東以北の城は城壁に石垣を用いなかった。佐倉城(国立民俗博物館)が好
い例で、石垣のある城は関が原合戦以後の築城だ。
 日本の城郭建築は独自のアイデアに発したものではなく寺院建築を模倣したものだ。日本仏教は、
後からやってきた新興宗教だから古くからの信仰(神道)と折り合いがつかず、屡々衝突したから、
寺(道場)は頑強な防御施設とする必要があった。だから神社には塀がないのに寺には塀や門がある
のだ。夜間の立ち入りを拒絶する神社は明治神宮、靖国神社など維新以後に薩長政府による国策で建
立させた神社で、玉垣などというものは明治以後の産物だ。
 余談だが現在の日本に千年木(樹齢千年以上の木)が数えるほどしかないのは、飛鳥から平安に掛
けての都造りと、室町末から江戸の初めに掛けての城郭建築で殆ど使い果たしてしまったからだ。明
治神宮の大鳥居は台湾産だし、姫路城の大黒柱の1本は昭和の大改修の時2本の巨木を継いである。
自然破壊は今に始まったことではないのだ。

   諸悪の根源は人間の存在にあり

 それでも道灌は結構な殿舎を建てたようだ。居館を「静勝軒」と名づけ、東側に「泊船亭」、西側
に「含雪斎」、北に「香月亭」を置いたという。彼は当時一流の文化人であり、城であっても文化施
設の機能も併せ持たせた。京の高僧などを何人も招待して、江戸歌合、連歌会などの風流な催しを一
度ならず開いている。

   国々も君かなびかす白雲の果たてに霞む山は富士の根

 Ⅱ.徳川家康の江戸城
 慶長八年(1603)から寛永年間(1624~44)にかけて、幕府は諸大名に命じて石高10
00石につき1人の人夫(千石夫)を出させ、江戸城と城下町の大規模な再開発を行った。
 同十二年(1607)に日本最大の五層の天守閣や本丸が完成し、寛永年間までに御殿・櫓・城門
などが建築され、内堀・外堀も渦巻状に掘られた。この普請は全国の大名を動員した大規模なもので
あり、「公儀普請」「天下普請」と呼ばれた。この時期、城郭には見附(防御上の空間である枡形を
備えた城門)が設けられた。赤坂見附・四谷見附・市ヶ谷目付の地名はこれに因む。一部石垣も残っ
ている。
 江戸城は、田安台(北の丸)・平河台(本丸・二の丸・三の丸)・吹上台(西の丸)・局沢(西の
丸)の4つのブロックからなる。家康入国当時既に江戸が繁栄していたことは神社仏閣の多さを見て
もよく判る。法恩寺をはじめとする局沢十六ヶ寺、清水寺、日輪寺、日枝神社、津久戸神社、神田明
神、日比谷神社、千代田稲荷、宝田稲荷、世継稲荷・・・ 家康の江戸城はこれらを全て立ち退かせ
て築城された。
 水濠は金城鉄壁とするために力任せに開鑿したのではなく、平川や千鳥ヶ淵からの流路をそのまま
に利用している。江戸城を構成するラインは、

 ①平川濠→大手濠→日比谷入江(皇居外苑)
 ②清水濠→平川濠→天神濠→白鳥堀の谷 
 ③千鳥ヶ淵→半蔵濠→桜田濠→凱旋濠の谷。
 ④三日月濠→蓮池濠→蛤濠の谷。
 ⑤蓮池濠から別れた道灌濠→桜田濠

 の5流だ。これら天然の渓谷を絶妙に利用して江戸城の内濠は構築してある。なお天神濠から蛤濠
に続く二の丸と三の丸の間に皇宮警察本部のほか宮内庁関係の建物が建てられていて濠跡は見えない
が、川筋がなかった訳じゃない。天守閣の代わりともいえる富士見櫓の下の蓮池濠一部も埋められて
おり、現在の地図では、蓮池濠と蛤濠が極めて直近であったようには見えないけれども、流れを遮っ
て土塁が構築されていた。江戸図を見ればなるほど吹上・西の丸・本丸・二の丸・三の丸は中島の如
くある。
 「関東転封は秀吉の意地悪で、徳川の力を削ぐために僻地の江戸へ追いやった」と説く学者がいる
が、どうしてどうして江戸は繁栄した地方都市だった。秀吉は意地悪どころか敵に塩を送ったのだ。
その時秀吉は「江戸の海を大阪湾のように活用してみろ」とアドバイス。遠州浜松に縮こまっている
よりはそれは僥倖だった。もし家康が旧領五ヶ国(三河・遠江・駿河・信濃・甲斐)250万石にし
がみついていたら、江戸は秀吉子飼いの大名に与えられたから、挟撃の圧力で自滅したに違いない。
徳川家を繁栄させたのは誰あろう太閤秀吉だったのだ。その所領は関八州400万石だ。

 局沢十六ヶ寺
 局沢とは、皇居の西部地区と北の丸の一帯をいう。道灌時代の江戸城は東御苑の一帯で局沢には1
6の寺が散在し、家康の江戸城拡張で城外へ立ち退きを命じられた。現在正確には判っていないが、
日蓮宗5、禅宗5、貝塚の末寺3、真言宗2、天台宗1だったという。16ヶ寺は、①法恩寺(神田
柳原→谷中→亀戸)・②大法寺(小梅村)・③本妙寺(飯田町→湯島本郷→巣鴨5丁目)・④浄心寺
(湯島本郷)・⑤本行寺(谷中6丁目)・⑥青雲寺(西日暮里3丁目)・⑦聖徳寺(松が谷)・⑧善
徳寺・⑨東光院・⑩東漸寺・⑪地蔵院・⑫祝言寺(以上浅草)・⑬祥雲寺(小石川)・⑭浄土寺(赤
坂4丁目)⑮多門院・⑯宝泉寺(以上牛込)という記録もあるが、この中で確実なのは法恩寺・本妙
寺・浄心寺・青雲寺・地蔵院・多聞院・祝言寺くらいなものだ。世田谷の慶元寺、浅草の清水寺など
も局沢にあったことは判っており、この先の研究が必要だ。

 三十六見附
 この36は正確な門の数ではない。全方位というような意味で、数でいうなら門は100以上あっ
たし。重要な門でいえば36もない。36門を数えてみると一応次のようになる。浅草橋・筋違(す
じかい 現在消滅)・小石川・牛込・市ケ谷・四谷・食違・赤坂・虎ノ門・新シ橋(門無し)・幸橋
・山下・芝口新橋・数奇屋橋・鍛冶橋・呉服橋・常盤橋・神田橋・一ツ橋・雉子橋・竹橋・清水・田
安・麹町(半蔵)・外桜田・日比谷・不明(あかず=馬場先)・和田倉・西ノ丸大手・坂下・蓮池・南
大手(内桜田・桔梗)・大手・平川・不浄・北拮橋。なお見附は「敵を見つけるところ」の意である。
この中で1番大きかったのは赤坂見附門、1番小さかったのは山下門だった。

 
太田道灌像
 私の知る限り東京フォーラム(前都庁)・日暮里駅前・新宿中央公園にあるんだ。フォーラムのは都
庁時代ガード脇にあったものを室内に入れた。これは行縢(むかばき)をつけた狩装束の立像、日暮
里のは疾駆する乗馬の狩の騎射姿、新宿のは伝説の山吹を受け取る狩姿だ。然し道灌は江戸城に入っ
たものの、江戸城を初めて築いた人でもなければ、江戸に町を開いた人でもない。また江戸に革命的
画期的な何かをもたらしたという訳でもない。江戸城に永く居たのは遠山の金さんの先祖で、小田原
北条氏の武将として在城していた。なぜ太田道灌が家康に優先するんだ?

 徳川家康像
 であるのに徳川家康像は、明治政府の嫉妬と狭量で東京には一つもなかった。8代将軍吉宗のだっ
てあっても良い。楠正成も、和気清麻呂も、江戸・東京とは無縁なのに、ある。西郷さんも江戸とは
関係ない。勝海舟や榎本武揚は墨田区だ。現在の保守政権も明治政府(長州閥)そのままの政権だか
ら、家康を顕彰する気はさらさらない。

 ※ところが家康像が最近(平成6年)できたのだ
 江戸東京博物館の北の植込みの中にだ。それも風船のような顔で、漫画チック、亀の上の基壇の上
に建つ立像で、気味が悪いこと夥しい。作者は大学教授で、家康を愚弄したい意図が見え見えだ。な
ぜ江戸でもない本所の竹蔵跡なのだ。なぜ江戸城の東御苑でないのだ。せめて皇居外苑か、常盤橋公
園に建てるべきだろう。他に家康像は、岡崎城・浜松城・駿府城と3基ある。
 ? 家康の顔が変った・・・前の顔が評判悪かったのかな・・・
 
 でだ、亀と思ったのは贔屓(ひいき)という龍が生んだ9子の内の1つ、銅像などの下に置く贔屓
は「亀扶(きふ)」という。「贔屓」を古くは「贔屭」と書いた。「贔」は「貝」が三つで、これは
財貨が多くあることを表したもの。「屭」はその「贔」を「尸(しかばね)」の下に置いたもので、
財貨を多く抱えることを表現したものだ。「この財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を
経て、「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになった。また「ひき」の
音は、中国語で力んだ時の様を表す擬音語に由来する。
 諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者の
ためにはならない」という意味だが、その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるから
に他ならない。



江戸っ子
 西山政之助という人の調査によると、「江戸っ子」の初見は、明和八年(1771)の、

   
江戸っ子のわらんじを履くらんがしさ

 という川柳だそうで。それまでは江戸者、東男といったようだ。わらんじは草鞋、「らんがしさ」
は騒々しさ。で、江戸っ子とは、

 ①将軍のお膝元、生え抜きの本町生まれ、水道水の産湯を使い、
 ②乳母日傘(おんばひがさ)で育てられて拝み搗きの米(精米)を食べ、
 ③金離れがよく、一本ニ分(二分の一両)もする初鰹を食べても宵越しの金は持たず、
  本町の角屋敷(超一等地)を売り払っても吉原遊びをし、
 ④市川団十郎を贔屓に「粋」と「張り」を本領とする。


 これらを併せ持った者。魚河岸の魚問屋、蔵前の札差(米問屋)、新川の酒問屋、木場の材木商と
いった大旦那衆(上層町人)で、自ら「江戸っ子でい」などと自称することはなく、他者が彼らの行
動や矜持をみて、「江戸っ子だね」といわれた人々のことである。
 しかし19世紀に入って化政期以降、「江戸っ子という意識」を、八っつあん熊さんの類いの下層
町人までが持つようになり、神田っ子や芝っ子までが「江戸っ子を自称する」ようになり、空威張り
するようになっていった。「江戸っ子だってネ?」「神田の生まれよ」で御馴染みの森の石松のよう
なのが

   江戸っ子は芝で生まれて神田で育つ

 という慣用句は、このことをいっているのだ。この芝は「芝口」のことで、神田とは「須田町」の
ことだ。家康の江戸お討ち入り(転封)により、江戸城拡張のため江戸の町が、常盤門外に奥州道に
沿って「本町筋」として移り、続いて神田山を取り崩しつつ須田村から江戸前島を埋め立てて新たに
作ったのが「本町筋」に直交する芝から神田までの「通(とおり)」で、後に「江戸古町」と呼ばれた
ところだ。江戸古町は徳川家康~秀忠の時代に町屋となったところで、筋・通のほか日本橋浜町・佃
島・深川猟師町を含む。つまり化政期以後は江戸古町の者が江戸っ子を自称するようになった。それ
は特権があり大いに巾が利いたからで、中でも角屋敷(町割地の四隅の角地)に住んでいる町人は更
に格が高く「御目見屋敷」といって、将軍家の慶弔儀礼に参列し将軍の拝謁が許されていた。その数
41家。
 しかし本物の「江戸っ子」は本町生まれの者だけで、 神田は神田っ子、日本橋は日本橋っ子、浅
草は浅草っ子、新橋は芝っ子っちう訳だ。深川では「江戸に行く」といい、新吉原からも「江戸へ出
かけた」ものだ。


   本所では江戸の花火を裏で見る

 という川柳もある。
 江戸っ子は「ひ」の発音がし辛く「し」と発音してしまう。しょっとこでい!

   聞いたかと問はれて食ったかと答え(川柳)

 「聞いたか」とはウグイスの初音、「食ったか」とは初鰹。

   目には青葉山ホトトギス初鰹(山口素堂)

 この句から下層町人の江戸っ子が考え出した挨拶。江戸っ子が初物好きなのは、若く強いエネルギ
ーが得られ、寿命が七十五日延びると信じられていたからだ。

   江戸っ子は五月の鯉の吹流し、口先ばかりで腸(はらわた)はなし
   江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ

   江戸っ子の往き大名帰り乞食

 江戸っ子風、江戸っ子気質とはさっぱりした気前の良さをいうが、

   江戸中白壁は皆旦那

 といい、背景に江戸は恒常的に人手不足で失業するという事がなかったことが背景。

   江戸者の生まれ損ない金を貯め(川柳) 


■江戸っ子紛い

 江戸っ子なのに江戸っ子らしくない江戸人。なり損ない。


■江戸っ子の面汚し(顔汚し

 江戸っ子らしからぬ言動をする恥曝し者。


■人殺し

 江戸っ子の隠語で「悩殺的美人」のことをいう。


■下町
 江戸は武蔵野台地先端部と利根川の沖積地に成立した都市だ。下町は沖積地に(下町低地)に開け
たところをいい、御城下町(おしろしたまち)から「したまち」の言葉は出た。上は江戸城で、だか
ら江戸に上町(かみまち)は無い。ある意味で下町といえば、江戸っ子であることを誇る言葉なのだ。
けして武士が「身分の低い町人の居住地」と蔑んだ呼称でも、山の手の反対語でもない。大名屋敷・
旗本屋敷は東上野、浅草、本所や深川など、いわゆる下町地区にも大きな面積を占めていた。


■山の手

 武蔵丘陵から伸びた舌状台地がさながら左手を軽く広げて伏せた形に似るところからそう呼び慣わ
した。本郷・小石川・牛込・麻布・荏原の五つの台地(上野・本郷・麹町・麻布・高輪の5台など異
説はある)で、それを分ける切れ込みは、指ヶ谷・平河谷・桜川谷・古川谷・目黒谷だ。それ故に江
戸は緩急取り混ぜて坂道が多く、そのために台町と谷町がそこここにある。東京は「水の都」である
とともに「坂の町」であるのは、東京に住む人なら誰もが実感するだろう。山の手台地が、高級住宅
地のイメージを持つに至ったのは、薩長などの地方から来た明治政府の役人たちが、住宅地を安価な
高台の農地に求め、舶来主義にかぶれて洋風の建屋を構えたことに端を発し、鉄道会社が、東京に歯
止めもなく押し寄せる新市民を目当てに、住宅造成地に高級感を与えようとして、駅名や分譲地に、
桜新町だの、目白台だの、常盤台・田園調布・成城学園・自由ヶ丘などなど、目通り耳障りのよい名
を被せたことによる。江戸っ子はそんな新興住宅地も野暮ったいと理解して、彼ら山の手の新入市民
を〝のてっ子〟と愛称した。

 のてっ子
 ご一新で江戸にやってきた新為政者たちは、空閑地だった郊外に洋風の建物を構えて君臨した。江
戸っ子は、この野暮な新参者に「のてっ子(山の手っ子)」の愛称を贈った。かくてセレブだのシロ
ガネーゼだのと、山の手に住んで「東京っ子」を気取ったお上りさんを、江戸っ子は「のてっ子」と
ご尊敬申し上げる。郊外区の新住民の2代目や3代目が「江戸っ子」というのは烏滸(おこ)がましく
もあり、滑稽でもある。


■で、江戸はどこ?
 江戸は、江戸が汎称となってからは福田村といったようで、江戸城の拡張のために一部は神田に移
り(西福田町に名を残す)、本村は城下町の根幹として大橋(常盤橋)の東、奥州道に沿って「本町
一~四丁目」を起立した。「本町筋」「町筋」である。
 さて家康が幕府を開いた頃の平川の川口がどの辺りにあったかというと、大手門前の辺り、つまり
江戸の江戸たる場所は国際郵便局の一円だ!
 城郭のことに詳しい西ケ谷恭弘は、江は大河だから、江の戸は住田の渡しのあったところで浅草橋
場だと主張する。千束郷は江戸氏の本貫地。会下寺(えどでら)もあったという。理屈は合ってるが
弱いよな。平川は歩いて渉れるほどの川だが、「平河」とも書いてきた。「河」は大きい川の意だ。
やっぱり江戸は国際郵便局の一円だ!



■江戸人

 江戸人のルーツは、安房経由の阿波人・紀州人で、将門塚の辺りに「安房神社」が建てられた。そ
の後神田という田圃のあったところ(神田橋際)に移って「神田明神社」となり、元和二年(161
6)現在地に遷座した。祭神は大黒様とえびす様。恵比寿神は海神だ。館山の安房神社は、「古語拾
遺」等の古伝承によると、神武天皇の勅命を受けた天富命(あめのとみのみこと)が、肥沃な土地を
求め四国は阿波徳島の忌部一族を率いて、海路黒潮に乗り房総の布良ヶ崎に上陸し、この地の一際高
い山に忌部氏の祖神である天太玉命を奉斎されたのが始まりで、「安房忌部家系之図」には養老元年
(717)に天太玉命(あめのふとたまのみこと)を現在地に遷座し、天富命を摂社下の宮に祀った
ことが記されている。当社は延喜の制では明神大社、明治の制では官幣大社、安房の国一宮で神郡を
有する全国八神社の一つである。家康の入来で江戸の人々は四方八方に追いやられたものの、しかし
て大江戸の発展に寄与していったのはご案内の通りである。

   鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春(其角)
   有がたや富士を見てきて江戸の春(湖春)
   大江戸の一夜の雪に出初(でぞめ)哉(露月)


江戸子守唄
 この曲は日本の伝統的な子守唄で、江戸時代の文化文政時代の頃から記録があり、江戸から始まっ
て各地に伝えられて、日本の子守唄のルーツになったといわれているとはいうが、歌詞からして江戸
発生の歌ではなかろ。一説に神奈川県厚木市かという。厚木から雇われてきた子守が歌ったものか。
同じ歌が各地にある。歌詞が違う場合もある。下に示したものは標準的なものだが、おいらは、2番
の「ぼうやのお守は」のところを「夕べとと(父)さは」と記憶している。

  1.ねんねんころりよ おころりよ
    ぼうやはよい子だ ねんねしな
  2.ぼうやのお守りは(夕べととさは) どこへ行った
    あの山こえて 里へ行った
  3.里のみやげに 何もろうた
    でんでん太鼓に笙の笛



江戸の通貨
 1両=4分(ぶ)=16朱(しゅ)=銀60匁=銅銭4000文(変動あり)
 金貨 大 判 10両 実際は7両2分~8両2分の価値で取引された。
    五両判 実際は五両分の量がなかった。
    小 判 1両
    二分判 2分の1両  2枚で1両。
    一分判 4分の1両  4枚で1両。
    二朱金 2分の1分  8枚で1両。
    一朱金 4分の1分 16枚で1両
 銀貨 豆板銀 丁銀 元禄以後60匁を1両とする。関西は銀本位制。
    五分銀 12枚で1両、3枚で1分。
    一分銀 4枚で1両 
    二朱銀 南鐐 8枚で1両。
    一朱銀 16枚で1両。
 銅貨 天保通宝 100文 40枚で1両
    寛永通宝 1文   4000枚
   (※銅貨は他にもあり、真鍮銭や鉄銭、十文銭や四文銭もあった。


 
1両の換算法
(物価が違うので正確には換算できないが目安として)
 米1石=10斗=100升=1000合=150kg これが基本
 米1俵=4斗=60kg。 10kgの市販価格の中間値を4000円とすると
 米1俵(4斗)は24000円 したがって1斗は6000円となる
 江戸初期 1両で2石5斗買えたから→約150000円の価値
 江戸中期 1両で1石  買えたから→ 約60000円の価値
 江戸末期 1両で3斗  買えたから→ 約18000円の価値


■千両箱

 1両の重さを100gとすると1000両で100kg そんなの担いで屋根から屋根へ飛び移れ
るかい? 岐阜県の金持ちの博物館から、真昼間、100㌔の金のインゴットを覆面の3人組が盗ん
で逃げたが、流石に100㌔の金の塊、持つことはできず、網に入れて引きずって行ったという。だ
よな。


■切り餅
 金は軟金属で削れ安い。それで目減りを防ぐために25両ずつ白い和紙で綺麗に包んであった。そ
の形が切り餅に似ていたことからそう呼んだんだ。江戸は人口が多く、各家庭で餅搗きをするという
訳にいかなかった。それで「賃搗き餅」という商売があった訳さ。しかし需要が多くて、餅を一個一
個丸めてる暇がない。それで「海鼠(なまこ)」という棒状の塊で引渡し顧客のほうで切って使用し
た。このことが関西と東京との雑煮論争に発展し、東京では今でも毎年暮れから正月にかけて雑煮の
薀蓄が語られる。醤油味だ、いや白味噌だ。海老は入れるが蟹は入れない、いや蟹を入れなきゃ雑煮
じゃないと、侃々諤々の議論白熱だが、何を入れて煮たって構わねえんだよ。「雑煮」なんだから。
 江戸雑煮は、醤油の澄まし汁に焼き切り餅、小芋、大根、人参、笹身、海老、三つ葉といったとこ
ろだ。蟹なんて当時は入手困難。


■サンピン

 三両一人扶持(さんりょういちにんぶち)といって最低の年間給金。とても家族を養ってはいけな
い。だからこれよりさらに安い給金しか稼げない禄でなしをいう。つまり自分の働きだけでは食って
いけず、援助を受けているか、食わせてもらってる奴。いまでいうところのニートだな。しかしサン
ピンには強い蔑みの念が含まれる。部屋住み、半人前、三太郎。
 ピンはポルトガル語の「点」「1」、ピン子(一人っ子)のピン。ピンからキリまでとは、キリは
ポルトガル語、英語でいうところのクロス、つまり十、ピンからキリまでとは、一から十まで、最低
から最高まで、初めから終わりまでの意。しかしこれは中トロやシカトと同じ、博徒の使うヤクザも
の言葉、下品語の一つだ。



■一人前
 
自分一人で食っていける生活状態。サンピンと同じ意味で「半人前」がある。


■びた一文
 びたは「鐚」、鐚銭のこと。鐚銭とは悪貨で一文の価値がなく、数個で一文とされた。だから「び
た一文やらない」とは「悪貨すらやらない」という強い意思。



いろいろ江戸尽くし
■江戸
 隠語で「帆掛舟」のこと。


■えど

 上総や相模の子供の遊び。地面に線を引き大路小路の形を画き、銭や小石を投げて争う遊びの名。
バリエーションがあって、各地に似たような遊びがある。おいらはケンケンとかケンパの名で記憶し
てるよ。


■江戸の敵を長崎で討つ

 意外なところ、別の事柄でリベンジすること。


■江戸は諸国の入り込み(掃き溜め)
 生粋の江戸人より地方人の方が多いこと。


■江戸田舎

 江戸の外側周囲の農村。後の葛西・足立・豊島・東多摩・荏原郡に相当。今でいうと品川・大田・
目黒・世田谷・渋谷・中野、新宿(西半)・杉並・豊島・練馬・板橋・北・荒川・足立・葛飾・江戸
川は確実に江戸じゃないっちうこったい。


■江戸商い

 地方の商人が江戸に商品を出して売りさばくこと。本拠地は地方に置いておいて都会で商売して儲
けること。たとえば「イカメシ」がそうだ。

■江戸油鮫

 えどあぶらざめ 学名ぺプトランチアス・ペルロ。


■江戸歩き

 
吉原や本所・深川の者が江戸へ出かけること。世田谷だって「東京に行く」っていうぜ。江戸田舎
(旧郡部)では何処でもそういうよ。


■江戸行
 
 こんにゃくのこと。


■江戸一
 
 ①江戸で一番のもの  ②御所柿の一種。


■江戸一漬
 沢庵の間に塩干しの茄子を入れて漬けたもの。


■江戸芋
 長芋の1種。


■江戸入り

  江戸府内に入ること。江戸お討ち入りというと、徳川家康が江戸に入ったことをいい、天正十八
年八月一日だよ。徳川家ではこの日を「八朔」といい、毎年盛大な記念行事を行った。「朔」は「つ
いたち」のこと。しかし家康は8月1日以前に江戸に入っており、儀式として正式な江戸入りとする
ため、軍勢を川崎に整えて綺羅びやか行列で多摩川を越えた。六郷橋はこの時架かっていたようだ。
しかしこの橋はその後洪水で流されたか、撤去するかしてなくなり、永い間六郷の渡しとなる。しか
し家康は 遠回りとなる東海道は普段利用せず、中原街道や矢倉沢往還(大山道・玉川通り・厚木街
道)を使ったという。東海道は大名の参勤交代用一般旅行用で、商人や幕府役人も中原街道(江戸中
原道)や矢倉沢往還を利用した。


■江戸色
 江戸紫。


■江戸唄
 江戸で流行した三味線伴奏曲の総称。長唄・端唄・山口流箏唄など →上方唄。


■江戸打越荷物
 江戸の問屋を通さないで関東・奥州~関西の直接取引き→違法行為。


■江戸団扇

 えどうちわ。墨刷り絵や精巧な木版画を貼った江戸で作られた団扇。堀江町といえば、多くの団扇
問屋の集まっていた所で、夏を代表した団扇が、江戸市中へここから運び出されていった。江戸歌舞
伎の錦絵が団扇になったのはいつ頃からかは明らかではないが、『江戸団扇絵商沿革調』に「正徳宝
暦間墨刷なり」とある。色刷りの歌舞伎絵になったのは天明・寛政以降というのが定説だ。江戸団扇
は「あづま団扇」とも呼ばれ、文化・文政から天保にかけて実に夥しい数の役者絵団扇が売り出され、
江戸の女性が争ってこれを求めた。ヨン様グッズを追い求めるのと同様だ。また狂歌師や戯作者が団
扇絵に賛を入れることが流行し、広重や北斎が描いた作品も残されている。

  堀江町春狂言を夏見せる(川柳)


 これとは逆に冬場は暇になった。


  
堀江町風静まって薩摩芋(川柳)


■江戸絵

 えどえ。極彩色の一枚刷りの錦絵。→上方絵。


■江戸絵図
 江戸市中の地図 細分化した地域図を切絵図という。現在の区分地図に発展。


■江戸絵図の川という筋

 額の青筋を洒落てそういった


■江戸扇

 藍摺りにした扇に白く滝を描いたもの


■江戸送り

 罪人を江戸に護送すること。唐丸駕籠に乗せて運んだ。囚人にとっては大変な肉体的苦痛だった。


■江戸納庄屋
 
 えどおさめじょうや 水戸藩(一橋家)の飛地である備中(岡山県)後月郡・小田郡内に置かれた
職制。江戸へ年貢米を送る事務を委託された地元の庄屋。


■江戸御町奉行

 町奉行。南・北(一時中もあり)があった。北町は東京駅の東側の再開発中のところ辺。南は数寄
屋橋のマリオンのところ。映画やテレビドラマでは、視聴者に場所を判らせようとして看板や表札を
掲げているが、あれは所謂「表現上の嘘」で当時の常識として役所や大名屋敷は陣屋であって、敵に
居場所を判らせない仕来りからそういう表示はしないものなのだ。寺でさえ山号は掲げても寺号は示
さない。道場破りが看板を持っていくのも、看板自体が無いのだからおかしな話だ。それゆえにこそ
「切絵図」という区分地図が飛ぶように売れたのだ。もし各戸が表札を掲げていたら、番町で目明き
目暗に道を聞くことはなかった訳よ。また「町奉行」ではなく正しくは「御町奉行」なのだ。


■江戸表

 えどおもて。地方から見て江戸は政治文化の中心であることの表現。


■江戸廻船
 江戸に下る上方の搬送船。その主たるものは灘の酒・木綿・みかんだった。


■江戸鑑

 諸大名の氏名・冠位・石高・家紋・江戸屋敷・家老の名前を記した武鑑。今様の表現でいえば「大
名便覧」「大名ものしり辞典」「大名早わかり」といったところ。


■江戸学問所
 昌平黌のこと。


■江戸神楽

 えどかぐら。黙劇の神楽。武蔵鷲宮の土師流催馬楽神楽(はじりゅうさいばらかぐら)を元とし、
能・狂言の振りを入れ、江戸で洗練された神楽の一。主に記紀神話を演じ、おかめ・ひょっとこが加
わる。→里神楽。


■江戸駕
 遊里に行くのではなく、江戸市中で乗せていく駕籠掻き。


■江戸稼ぎ

 近郊農家が、朝早く荷車に野菜類を積んで青物市場で卸し、その帰りの空便に町屋にで買った糞尿
(下肥)を載せて帰る商行為のこと。江戸では「汲取屋」とか「汚穢屋」と読んでいた。汚穢は「う
んこ」のこと。農家ではこれを薄めて畑に撒いたり、藁や落葉を集めた上にかけて堆肥を作ったりす
る。これが伝染病発生の抑制に寄与していたというから、最高のリサイクルだった訳だ。ウンチにも
等級があり、

 「きんばん」=武家屋敷から出る濃厚な糞尿で一等上等とされた。
 「辻肥」  =街頭の公衆便所からでるもの。いろいろ混ざって良いとされた。
 「町肥」  =一般庶民の便所から出る中等のもの。
 「垂れ込み」=尿の多い下等のもの
 「お屋敷」 =寄宿舎や監獄から出るもので最下等のもの。

 この汚穢屋、農民が勝手に行って取引できるものじゃない。縄張りがあって、それを取り仕切る親
分がいて、配分から値段まで何でもビシッと取り仕切って、不都合のないようになっていた。西武線
は、東京のウンコを西部地区の農村に運ぶために作られた電車だ。


■江戸勝手
 
 江戸の事情・習慣など江戸に関わる諸々の知識のこと。江戸のことを浅く広く何でも薀蓄すること
だ。「江戸勝手に通じた人」のように使う。つまり「東京知ったかぶり!」だ。


■江戸合羽
 和紙に柿渋と桐油を引いた合羽(ポルトガル語の kapa )


■江戸金
江戸銀
 えどがね・えどぎん。江戸から京坂に送られる為替のお金。


■江戸狩野
 えどかのう。狩野派のうち江戸へ移って活躍した絵師。探幽の鍛冶橋家、安信の中橋家、尚信の木
挽町家、分家した峯信の浜町家の四家が有名。


■江戸歌舞伎・江戸狂言 

 江戸風の豪放夢幻的。市川団十郎に始まる荒事、黙阿弥の生世話物に代表される。


■江戸紙・
江戸川紙
 えどがみ・えどがわがみ。明治初期、文京区の江戸川の界隈で製した和紙。証書用紙、主に書簡に
用入られた。江戸川半切。書簡用。


■江戸神

 遊里以外で仕事する幇間のこと。



江戸芥子
 白芥子の異名。


■江戸かるた

   い 犬も歩けば棒にあたる    ろ 論より証拠   
   は 花より団子         に 憎まれっ子世にはばかる
   ほ 骨折り損のくたびれ儲け   へ 屁をひって尻つぼめる
   と 年寄の冷や水        ち ちりも積もれば山となる
   り 律義者の子沢山       ぬ 盗人の昼寝
   る 瑠璃も玻璃も照らせば光る  を 老いては子に従う
   わ 割れ鍋に綴じ蓋       か かったい瘡恨み
   よ 葭の髄から天井を覗く    た 旅は道連れ(世は情け)
   れ れう(良)薬は口に苦し    そ 総領の甚六
   つ 月夜に釜を抜く       ね 念には念をつがえ
   な 泣き面を蜂が探す      ら 楽あれば苦あり
   む 無理が通れば道理引っ込む  う 嘘から出たまこと
   ゐ 芋の煮えたもご存じなく   の 喉もと過ぐれば熱さ忘れず
   お 鬼に金棒          く 臭い物に蓋
   や 安物買いの銭失い      ま 負けるが勝
   け 芸は身を助ける       ふ 文を書くにも書く手は持たぬ
   こ 子は三界の首枷       え 得手に帆を上げる
   て 亭主の好きな赤烏帽子    あ 頭隠して尻隠さず
   さ 三遍廻って煙草にしょ    き 聞いて極楽見て地獄
   ゆ 油断大敵          め 目の上のこぶ(たんこぶ)
   み 身から出たさび       し 知らぬが仏
   ゑ 縁は異なもの        ひ 貧乏暇なし
   も 門前の小僧習わぬ経を読む  せ 背に腹は替えられぬ
   す 粋は身を喰う        京 京の夢大坂の夢

 「いろは歌」は、48文字の全てを一度だけ使って作られた歌(字母歌)の中でも秀逸だ。弘法大
師の作だという説は、数多の弘法伝説同様、信頼性は低かろう。では誰がいつごろを作ったかだが、
『「いろは歌」の暗号』(文芸春秋社)の著者村上通憲は、『三宝絵詞』などの作者源為憲ではなかっ
たかと推測している。とても面白い説なので紹介する。
 村上通憲は, 元愛媛県今治明徳高校の数学教師だったが、古代史に祕められた暗号を解読するため
に昭和61年に教職を辞し、それから7年の成果を『「いろは歌」の暗号』にまとめて出版した。簡
単に謎解きの例を要約する。いろは歌を7文字で折り返して並べると、行の終わりに並ぶ文字を上か
ら下に読んで行くと「とかなくてしす」と読める。

   い ろ は に ほ へ と ↓
   ち り ぬ る を わ か ↓
   よ た れ そ つ ね な ↓
   ら む う ゐ の お く ↓
   や ま け ふ こ え て ↓
   あ さ き ゆ め み し ↓
      ゑ ひ も せ す ←

 つまり「咎(とが)無くて死す」になる。そこで「これは無実の罪を着せられて死んだ万葉の歌人柿
本人麿が怨念を込めて残した暗号では無いか?」と村上は推理した。しかしこの説には時代考証上の
無理があって、一笑に伏された経緯があるのだが、誰かが柿本人麿の思いを暗号にして後世に伝えよ
うとしたのではないかという。「いろは歌の謎」を書いた篠原央憲は、この暗号を偶然作業中に気づ
いたと書いている。それほどこの暗号は巧妙に隱され続けていたが既に江戸時代には気づかれていた
ようだ。井沢元彦の『猿丸幻視行』は、「かきのもと」の5字が、巧妙に折り込まれていることを推
理して好評を得た作品だ。

    い (ろ) は に ほ へ (と)
    ち  り  ぬ る を わ [か]
    よ  た  れ そ つ ね  な
    ら  む  う ゐ [の]お   く
    や  ま  け ふ こ え  て
    あ  さ [き]ゆ め み  し
    ゑ (ひ)[も]せ す   (ま)

 中央の[の]に注目してくらはい。右上の[か]に対して[の]を中心に対象の位置にある文字は
[き]だ。同じく右上の(と)に対して「の]を中心に対象の位置にある文字は[も]だ。 左上の
(ろ)に対して[の]を中心に対象の位置には本来文字がない。ここに(ま)をあてるのは江戸火消
し48組で「万」組を作った事例からみて、文字の最後を「万」即ち(ま)にしても無理ではない。因
みに江戸火消し48組では、「へ」は「へ」のようで失格、「ら」は男根の意味なので禁句、「ひ」は
火に通じてやっぱり禁句という分けで、それぞれ「百」組「千」組、「万」組に代えられている。こう
して列挙すれば[の]を中心とした斜め右上から左下への往復で、[か][き][の][も](と)
が表れる。そしてこれらの文字が格納する正方形の対角に着目すると、(ひ)(と)(ま)(ろ)が
表れるでやんしょ? 詳しくは同書に譲るとしてキーとなる考え方だけを紹介した。もっと突き詰め
たい人は図書館で研究してくらはい。

 
仮名手本忠臣蔵・菅原伝授手習鑑無罪の意 
 既に江戸時代の人々にも、「いろは歌」を折り句にした時の暗号が広く知られていた節があると推
理されている。その証拠の一つが、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」だという。有名な赤穂四十七士の討
ち入り話だが、歌舞伎の題名が一風変わっている。「仮名手本忠臣蔵」という題名は,一種の暗号だ
というのだ。「蔵」が大石内蔵助を指していることは容易に分かる。では「仮名手本」とは何か? 
江戸時代「仮名のお手本」は「いろは歌」以外にはない。
 では「いろは歌」がどうして仇討ちになるのか? そこに前記の折り句での「咎無くて死す」が、
既に公認の符丁であったと知られる訳だ。四十七士が全員切腹を命じられたのは「咎無くて死す」だ
と暗号で示しているのだ。討ち入りの人数を47人にしたのは「ん」を除く「いろは47文字」を意
識したものだというのだ。
 またストーリーの中に寺子屋のシーンを入れたりして暗号をカモフラージュしている。もとより江
戸幕府の5代将軍綱吉を正面切って批判することなど到底出来る相談ではない。時代を鎌倉に置き換
え、人名を替えて芝居は作られている。淨瑠璃の題名「菅原伝授手習鑑」も同じく「手習いの鑑」つ
まり「いろは歌」を示唆し無罪を仄めかしているんだってさ。


■江戸家老
 江戸の藩邸に詰める諸藩の家老。渉外の役に任ずる。


■江戸為替
 えどかはせ。京坂から江戸へ送られる為替


■江戸川半切

 えどがわはんぎり。江戸川紙の丈が短く横に長い和紙。


■江戸瓦
 長屋などに用いられた安物の地元産の瓦。

  江戸瓦滲(し)まぬほど降る時雨かな(露言)


■江戸願人

 江戸の願人坊主。願人坊主は、平たく言うと乞食坊主。江戸時代では、市中を徘徊(はいかい)し
て門付(かどづけ)したり、祈願や水垢離(みずごり)などを代行した。願人とも。門付とは玄関先
でお経を唱えでお布施を貰う行為で、芸人なら芸を披露してお金を貰うこと。主人を怒らせて追い散
らされることもあるし、無視されることもある。昭和30年ごろまでは見られたが、高度経済成長後
は坊主も芸人も豊かになり
 また手軽にアルバイトが出来るのでやらなくなった。


■江戸看板
 京坂で、江戸の大名題(おおなだい)看板に似せて作り上部の屋根形を省いた物


■江戸脚絆
 
 昔のレッグウォーマー。恙虫(ツツガムシ)に刺されたり、蝮(まむし)に咬まれたりすることを
防ぐ臑当(下脚保護具)を脚絆といい、通常は上下に付けた細紐で固定する。江戸脚絆は上部にだけ
細紐で括り、後は鞐(こはぜ)で固定する小鉤脚絆。

  
盗人ややくざ者の隠語では、ボロ、汚れた衣類のことを指す


■江戸気質・江戸気

 江戸っ子の気質、気風。


■江戸切子

 細工硝子の容器のこと。天保五年(1834)江戸の小伝馬町でビードロ屋を営んでいた加賀屋久
兵衛が、英国製のカットグラスを真似てガラスの表面に彫刻を施したのが始まりと言われている。幕
末に黒船で来航したペリー提督が、加賀屋から献上されたガラス瓶の見事な切子に驚嘆したという逸
話があるそうな。江戸時代は透明ガラスに切子が施されていたが、現在は「色被せ(いろきせ)」ガ
ラスを使った製品が主流だ。


■江戸菊
 

 えどぎく。江戸で発達した中輪の菊で、一度平らに咲いたのちに花弁が立ち上がり、ねじれたり折
れ曲がったり、種類によってさまざまな変化をするため、狂い菊、芸菊とも呼ばれる。普通の菊とは
花の様子がちょいと違う。


■江戸狂歌三大家

 大田蜀山人・朱楽菅公・唐衣橘州。


■江戸切り
 ①石材の仕上げ方法の一つ。
 ②江戸芸者 吉原と深川芸者以外の町芸者。


■江戸切りそば

 
切り蕎麦のこと。蕎麦は、繋ぎ材が発見されなかった当初、「蕎麦掻(そばがき)」「蕎麦餅」な
ど団子の形で、菓子屋の副業的なものだったが、需要が増えるに連れて饂飩屋(うどんや)が兼業す
るようになった。そしてうどんの添え物として食べられていたが、元禄時代に精米が登場すると相前
後して「切り蕎麦」として専門店ができ、饂飩を抜いて江戸っ子になくてはならない食べ物となって
いった。
 切り蕎麦は江戸で発明されたのではなく、天正二年(1574)木曽の定勝寺で仏殿修理の際の振
る舞いに「蕎麦切り」が出されたという記録がある。真田幸村のお父っつぁんの昌幸が木曾の寺で食
べたというのを読んだ記憶がある。また戸隠の蕎麦切りが文献に初めて登場するのは、宝永六年(1
709)の「奥院灯明役覚書」で、祭礼時に戸隠三院を統率する別当などに「そば切り」が振る舞わ
れたとある。当時の戸隠三院は女人禁制のため在家の男衆によって打たれたという。やがて晴(ハレ)
の日の特別料理だったそば切りが、戸隠講の「振る舞いそば」として徐々に一般的なもてなしの料理
として変化していった。当時そば切りは、椀か大きめのそば猪口に盛られ、大根の絞り汁に味噌で味
付けされていた。江戸っ子が蕎麦を好んだ理由は体が自然に要求したことによる。
 つまり江戸では見てくれの美しさと口当たりの良さから精米(白米)が好まれたが、その結果とし
て「江戸患い(脚気衝心)」に罹る者が多くなった。それは米糠を削ぎ取ることによるビタミンB1
不足
で、それを補うために自然に江戸っ子を蕎麦好きにしていったのだ。蕎麦が好きなのではなくビ
タミンB1が必要だったのだ。だから江戸っ子には江戸患いは少なくなり、ポッと出の江戸働き(出
稼ぎ者)に多かった。では地方出身の労働者が蕎麦を食べなかったのは何故かというと、田舎では蕎
麦は雑穀扱いで、貧困の象徴のような食べ物だった。それで敬遠したのだろうという。田舎から出て
きた者は白米が珍しく、ファストフードであるおにぎり(おむすび)や丼物、江戸前寿司を偏って好
んだためだ。雇い主もおかずを食べることを嫌い、白米ばかり食べさせる傾向にあった。私など子供
のころ母親に「おかずっ食いは世間に出たら嫌われるよ」とよく叱られたものだ。本来玄米を食うが
よし、無洗米なんぞは以ての外、愚の骨頂だ。

 
江戸そば
 西浅草3丁目12番13号辺りにあった称往院は、関東大震災の復興計画によって、昭和2年に世
田谷区北烏山の寺町に移ったが、その門前に「不許蕎麦地中製之而乱当院之清規故入境内」と彫った
石碑が立っている。「寺で蕎麦を打つと院内が乱れるので蕎麦を入れてはならない」という意味だ。
院の塔頭(寺内寺)に道光院というのがあった。そば打ち名人といわれた初代道光庵の庵主は、享保
頃の信州人で、初めは檀家に所望されたとき供養のために蕎麦を打っていた。その蕎麦は、蕎麦の実
の中心部分だけの粉、今でいうところの一番粉で打つ純白の蕎麦だったので、色黒の蕎麦しか知らな
かった当時の江戸ッ子は驚いた。ちょうど木綿豆腐しか知らなかった江戸ッ子が、初めて絹ごし豆腐
に出会ったようなものである。次第にこの道光院の蕎麦の評判は広がり一般の人たちにも振舞うよう
になった。そして安永六年(1777)の『富貴地座位』という市井評判記では他店を抑えてトップ
の座につくまでになった。

   道光庵うでたてなぞとけんどん屋(川柳)

 などの悪口の句まで残っているのは繁盛した証拠で、しかし寺だかそば屋だか区別がつかないほど
門前市をなすようになると、再三の本院からの注意にもかかわらず、本来の寺としてのお勤めを怠る
ようになる。終に天明六年(1786)称往院の和尚は道光庵に高さ2mmにもなる前述の石柱を立
てて、集まるソバの亡者どもを門前払いにした。
 話はこれからだ。西日本から東京に来て、初めて麺類に出くわして驚くのが、だし汁の濃さだ。う
どん・そば・ラーメン、みんな醤油で煮しめたようなだし汁にしばし呆然、己の立つことをすら忘却
する。薄味に慣れた関西者の誰しもが経験する茫然自失の時だ。しかしこれこそが道光庵蕎麦に濫觴
がある。寺だから煮干などでダシをとる訳に行かない。自然塩っ辛い味付となる。江戸っ子が付けダ
レにそばをちょこっとつけて、三口で啜り込むのを〝粋〟としたのは、辛さから逃れるためだったの
だ。しかしてこの江戸っ子の意地が伝統となって、関東のうどん・そばは醤油辛いのを当然としたの
だ。それでも塩分の摂取過多が問題となった昨今、東京のだし汁も随分薄くなってきた。インスタン
トの麺類にも関東仕様と関西仕様があって同じメーカーの同じ銘柄の麺類でも全く味が違うので一度
経験するといい。序でに江戸で「そば」といえば「もり・ざる」で、熱い丼ものは「田舎そば、馬方
そば」と馬鹿にして口にしなかった。熱くして食べるのはうどんだった。
「時蕎麦」という落語がある
じゃないかというなかれ、この話は大阪の話て明治時代に東京に持ってきたものだ。江戸っ子の冬は
熱々のうどんと決まっていた。

 
生蕎麦
 
きそば。本来の意味は繋ぎを全く使わないで蕎麦粉だけで打った蕎麦(生粉打ちそば・十割蕎麦)
だ。なぜこの言葉が生まれたかというと、江戸時代中期以降に繋ぎに小麦粉を使うようになり、初め
は麺の繋がりをよくするために用いられていた 小麦粉の量が徐々に増えていって品質低下を招き、
「二八そば」が粗悪な蕎麦の代名詞 にもなった。それで高級店が格の違いを強調するために「生蕎
麦」や「手打ち」を看板 に掲げるようになった。しかしこの時代には製麺機が無かったので、どち
らにしても手 打ちだった。ところが幕末頃になると二八そばまでもが「手打ち」や「御膳生蕎麦」
を看板にするようになり区別がつかなくなったしまった。現在では「生蕎麦」や「御膳」と看板や暖
簾に書かれているのは、その名残であって生粉打ち蕎麦の意味ではない。なお当時蕎麦粉の生産は中
野区で行われていた。

 
更科蕎麦
  更科粉をつかった蕎麦。そば粉2:小麦粉8の割合で打った二八蕎麦。永坂更科・布屋太兵衛で
有名な麻布十番の「総本家更級堀井」が直系。界隈に、直系の名跡を買った「永坂更科布屋太兵衛」
と「麻布永坂更科本店」とがありややこしい。

 総本家更科堀井

  堀井家の伝によると、創業は寛政元年(1789)。初代は信州特産の信濃布を商っていたのが
そば屋に転じたもので、領主保科家の江戸屋敷から程近い麻布永坂町に店を構えた。看板は「信州更
科蕎麦処布屋太兵衛」。「更科」とは、信州そばの集散地だった更級の「級」の音に、保科家から許
された「科」の字を当てたものと伝 えられる。当時から大名屋敷や有力寺院などに出入りしていた
が、明治時代半ばの最盛期には、皇后や宮家などにも出前を届けていたという。看板商品は白い更科
そばと変わりそば。それらに使うそば粉の挽き方を改良し、現在のさらしな粉に近い粉にしたのも、
この店の功績とされる。また、この時期、土産のそばを目籠詰めにして売り出して、こちらも麻布永
坂「更科」名物として大いに評判になったという。各地に「更科」が増えたのは、この永坂の繁栄に
あやかろうとしたもの、という説が有力のようだ。しかしさしもの名店も昭和初期の恐慌のあたりか
ら家産に陰りが見えて、昭和十六年、ついに廃業に追い込まれるに至った。8代目当主の良造は「親
父が芸者遊びに耽って、店まで潰してしまったそうです」と笑うが、そもそも戦時下で、出資してい
た銀行も倒産するなど、時代の嵐に飲み込まれてしまった側面も大いにあるようだ。後、店は再建さ
れたが、外部の人たちも入った会社組織となっていたことから、「永坂更科」や「布屋太兵衛」の登
録 商標は堀井家の手を離れることとなる。様々な曲折があったそうだが、昭和59年12月、良造
は代々の地ある麻布を離れることなく、麻布十番商店街の一角(元麻布3丁目11番4番)に「総本
家更科堀井」を開店する。江戸時代中期以来200年余に及ぶ家業の伝統を、創業の血筋を引く堀井
家の手で再興したいとの思いからの開店であった。因みに、現在、麻布十番界隈には3店の「更科」
があるが、他の二店はまったく別の経営だ。(「そば・うどん」 第31号 柴田書店より 岩崎信也)

 
永坂更科布屋太兵衛
 1丁目8番7号、麻布十番通りにある。屋号が本家本元。

 麻布永坂更科本店

 1丁目2番7号、新一ノ橋交差点角にある。全く麻布永坂更科とは関係はない。ただ〝永坂更科〟
の名称使用権だけは得ているとのこと。
 直系といえば、「神田錦町更科」や築地の「さらしなの里」、西大井の「布恒更科」なども素直に
直径としての味を継承しているんじゃないかな。

 
薮蕎麦
 
日本中にある「やぶそば」の元祖は根津団子坂に江戸時代に開業したという。ただし「藪蕎麦」の
屋号は金工師戸張喜惣次富久が雑司ヶ谷鬼子母神の藪の中に開いたのが古く、この店は文政年間に富
久一代で終わり、幕末の名店団子坂「蔦屋」の連雀町店を、明治13年に譲りうけた堀田七兵衛が屋
号を「藪蕎麦」として営業を始めた。以来百余年、蔦屋廃業により「藪蕎麦本店」としての看板を受
け継ぎ、江戸っ子気質が育てた独特の味の伝統を守り、風雅な店構えとともに広く内外各界の人々に
親しまれている。神田・並木・池之端が御三家。
 また江戸時代、深川に「藪蕎麦」の名店があった。

 
砂場
 江戸で最も古い蕎麦屋とされるが詳細は不明。
 他に淺野屋、朝日屋、長寿庵、大むら、松月庵、甲州屋、増田屋、満留賀などがある。

 
蕎麦粉
 江戸時代は、各蕎麦屋が自前の石臼で挽いていたが、幕末になるとそれでは賄えなくなり、水車の
普及とともに製粉業者が現れ、江戸の蕎麦は中野区の善福寺川、神田川の沿岸で挽かるようになり、
蕎麦の実は全国各地から集められて一大生産地となった。戦前までは江戸・東京の蕎麦は、中野粉で
作られたんだよ。


■江戸括

 
えどくくり。安永のころ流行したやっと手が出るような袖口。


■江戸籤
 
えどくじ 頼母子講などで行われていた籤の1種。会衆の人数よりも籤を多く作り、残り籤の番号
より一つ下の番号を当たりとする。


■江戸口
 ①、江戸の出入口のこと。 ②、江戸人に共通する味覚。


■江戸口油問屋
 在方の油を買い集め、菱垣廻船で江戸へ送り売り込んだ大坂の問屋。


■江戸芸子

 江戸の娘が上方に来て芸者となった者の関西での呼び方。


■江戸芸者
 
 遊郭の芸者に対して日本橋などの芸者。町芸者。深川芸者は辰巳芸者。


■江戸芸

 江戸芸者の風情を漂わせる芸。


■江戸検校
 江戸市中の検校。検校は盲官の一。当道所属の盲人の最高の位階。紫衣を着し両撞木(もろしゅも
く)の杖をもつことが許された。建業とも書く。


■江戸下向

 えどげこう。勅使が江戸へ向かうこと。京都が上、江戸は下だ。


■江戸小唄
  小唄。幕末から明治にかけて新しく作曲された清元の浄瑠璃に数多く挿入された端唄は、早間で粋
な曲調に改められるのが常だった。ここに江戸小唄の発生がある。これが単に小唄と称され、一般に
流行するようになったのは明治中期以後で、それ以来次第に小唄人口は増加して今日なお甚だしい盛
況をみているそうだ。


■江戸小判・江戸座小判・江戸判
。江戸の金座で拵えた1両小判。


江戸小紋(昭和30年から)

 遠目には無地に見える単色の型染め。小紋とは「小さい紋様」の集合体。成り立ちの違いから「裃
小紋」と町人文化から生まれた「謂れ小紋」に大きく分かれる。江戸時代に、武士の裃(かみしも)
として発達し、裃は武家の公服となり家を象徴する柄となっていった。徳川家の松葉、紀州家の極鮫、
武田家の武田菱など数多くの作品が残っている。だから柄を見れば一目で何藩か判ったようで、江戸
人はそれを常識として覚えていた。江戸中期から庶民の間で着物柄、羽織柄とするのが流行して定着
した。質素倹約の名のもとに極端に派手さを抑えられた職人たちは、色数を抑える一方で柄の細やか
さに鎬(しのぎ)を削ることで「粋さ」を表現しようとした。その歴史は室町時代から始まり上杉謙
信所用の紋付小紋帷子(かたびら)が米沢市の謙信神社に伝わっている。
 「江戸小紋」の名称は古くはなく、昭和30年に小紋師として初めて小宮康助が人間国宝に認定さ
れるに当たり、西の「京小紋」に対して東の小紋という意味で「江戸小紋」としたのが初め。現在は
「江戸小紋」を指す柄としては微細な柄、例えば鮫、通し、行儀、縞などをいい、単彩で落ち着いた
渋い色で染められた物を指す。東京の染めは、江戸小紋だけではなく、江戸更紗、小紋、東京無地染
め、手描き友禅、ゆかた・手拭いなどなどあるぜよ。墨田区八広2丁目に「江戸小紋ミニ博物館」が
あるよ。


■江戸語・江戸言葉・江戸弁

 
宝暦以降旗本・御家人など知識層が用いた言葉と町人言葉に分けられる。元々の江戸方言に駿河弁
・三河弁・伊勢弁・上方弁その他が混じり合ってできた言葉。テンポが速く立板に水を流す如く喋る
のを粋とするが、「ひ」の発音ができなくて「し」になってしまう特徴がある。しかし現在正しい江
戸弁をしゃべれる人は皆無だ。浅草や神田生まれの浅草っ子・神田っ子たちでさえ強い標準語の発音
が混じる
さて「東京弁」という言葉があるがこれが何を指すのか判らない。NHKのアナウンサ
ーの喋る言葉なのか、標準語という曖昧模糊として要領を得ぬことを指すのだろうか? 東京に住む
人が喋る言葉といっても、東京は諸国の掃き溜めで、各地の方言のアクセントが飛び交っている。北
野武、関口宏、林屋正蔵(コブ平)、石田純一やひろみなどなど東京都出身のタレントたちも、これ
が同じ東京都人かと思うほどアクセントは違う。関口宏の父親は佐野周二という一世を風靡した映画
俳優で、嫡々の神田っ子だったのだが、世田谷の池ノ上に住んだ。ある老優がボソッと「親父は綺麗
な神田言葉を喋ったが、宏は汚い田舎言葉で話すねぇ」と嘆いて洩らしたのを聞いた。関口の言葉が
汚いのなら、田舎から上京して、東京で就職して、まがりなりにも東京の言葉を話せるようになり、
晴れて東京人を気取ってるお上りさんは、どんな汚い言葉を喋ってるというのか?・・・・

■江戸古町

 徳川家康~秀忠の時代に江戸の町屋となったもの。本町(三丁目は裡河岸とも)・岩附町・大伝馬
町・通旅篭町・通油町・元浜町・橘町一丁目・橘町二丁目・村松町・横山町・本両替町・本革屋町・
駿河町・瀬戸物町・伊勢町・小舟町・堀留町・堀江町・甚左衛門町・元大坂町・堺町・堺町横町・住
吉町・新和泉町・葺屋町・新材木町・新乗物町・長五郎屋敷・長谷川町・富沢町・新大坂町・弥兵衛
町・田所町・庄助屋敷・北鞘町・品川町・品川町裡河岸・室町・本小田原町・安針町・本船町・小網
町・南伝馬町・鈴木町・因幡町・具足町・湯なぎ町・炭町・金六町・水谷町・舩松町・南八丁堀一~
五丁目(四丁目は除く)・本湊町・十軒町・明石町・南飯田町・上柳原町・南本郷町・南小田原町・
桶町・桶町会所・南鍛冶町・五郎兵衛町・畳町・北紺屋町・西紺屋町・山下町・南佐柄木町・加賀町
・八官町・寄合町・佐兵衛町・丸屋町・喜左衛門町・山城町・筑波町・大鋸町・南鞘町・南塗師町・
本材木町八町・松屋町・幸町・日比谷町・東湊町二丁・弓町・休伯屋敷・勘左衛門屋敷・南紺屋町・
新肴町・弥左衛門町・鍵屋町・南鍋町・滝山町・守山町・惣十郎町・南大工町・内山町・山王町・与
作屋敷・木挽町七丁・箱崎町・北新堀町・霊岸島四日市町。南新堀霊岸島町・霊岸島塩町・霊岸島浜
町・川口町・長崎町・南銀町四丁目・西河岸町・呉服町・元大工町・南大工町・道寿屋敷・三島屋敷
・数寄屋町・檜物町・檜物町会所・石町通四丁・上槇町・元四日市町・青物町・南茅場町・下槇町・
榑正町・新右衛門町・南油町・箔屋町・岩倉町・川瀬石町・佐内町・平松町・金吹町・町・本石町・
鉄砲町・小伝馬町・小伝馬町上町・亀井町・橋本町四丁目・馬喰町・元柳原町六丁目・久右衛門町・
佐久間町四丁・本銀町・元乗物町・神田紺屋町・白壁町・神田鍛冶町・松田町・神田鍋町・通新石町
・須田町・連雀町・新革屋町・新石町一丁目・竪大工町・多町・神田佐柄木町・神田塗師町・大和町
・龍閑町・鎌倉町・鎌倉町横町・三河町・雉子町・四軒町・新銀町・横大工町・関口町・蝋燭町・兼
房町・備前町・桜田伏見町・善右衛門町・桜田鍛冶町・桜田和泉町・久保町・太佐衛町・葺手町三丁
・尾張町・竹川町・出雲町・銀座以下裡河岸・芝口二丁目・芝口三丁目・源助町・露月町・柴井町・
宇田川町・宇田川町横町・神明町・浜松町四丁・新網町・芝松本町・富山町一~二丁目・永井町・三
島町・七軒町・中門前三丁・片門前・赤坂伝馬町・元赤坂町・平右衛門町・浅草茅町・瓦町・天王町
・森田町・浅草旅籠町・新旅籠町・元飯田町・本郷六丁・四谷伝馬町・神田旅篭町一丁目・湯島六町
・湯島横町・切通片町・玄桂屋敷・麹町十三丁・市谷田町・船河原町・本所徳右衛門町・本所茅場町
・花町・吉田町・新坂町・柳原町六丁・入江町・長崎町・清水町 
 このほか明暦の大火の前後に出来た町も古町の扱いを受けた。


■江戸暦

 江戸の暦問屋が東日本諸国に売った暦をいう。綴本・懐中型・柱暦など様々の種類があったが、今
は「高島暦」に残るのみ。


■江戸座(江戸派)

 芭蕉没後、江戸で都会趣味の俳句を作った俳人群の称。宝井其角系統の俳風。洒落と機知を主とし
遊蕩的傾向を示す。


■江戸桜

 ①江戸で流行した白粉(おしろい)。②小桜を散りばめた模様、③明治以後はソメイヨシノの別称。


■江戸酒
 江戸向けに醸造する酒の総称。


■江戸ささげ
 隠元豆の別称


■江戸薩摩
 
江戸初期の古浄瑠璃の太夫薩摩浄雲の別称。


■江戸騒・江戸騒唄

 えどさわぎ 歌舞伎の下座歌。遊郭の気分を表す騒ぎ歌。鳴物に大小の鼓、太鼓が用いられる。


■江戸三界
 江戸から遠く離れたところ。田舎。


■江戸三会所米市場
 ①、蠣殻町尾洲払米捌所
           ②、浜町紀州払米捌所
           ③、小網町武州会所


■江戸三ヶ寺

 愛宕下青松寺・高輪泉岳寺・橋場総泉寺(板橋区に移転)。この三ヶ寺の学寮を統合したものが曹
洞宗大学で現在の駒澤大学。


■江戸三橋

 日本橋・京橋・新橋。3橋とも御入用橋(幕府直轄)で擬宝珠が許された。


■江戸珊瑚珠
 えどさんごじゅ 江戸で加工されたサンゴ珠。最高級品だった。


■江戸三座

 幕府公認の芝居小屋。中村座・森(守)田座・市村座をいう
江戸四座山村座を加えるが、この
座は「江島生島事件」により解散させられた。


■江戸三大やっちゃば

 神田青果市場・駒込土物店・千住青物市場をいう。市場のことを「やっちゃ場」というのは、喧騒
が「やっちゃ、やっちゃ」といってるように聞こえることによる。


■江戸三大火

 
明暦の大火(明暦三年正月十九~二十一日)
 目黒行人坂の大火。明和九年二月二十九日)
 丙寅の大火(文化三年三月四日)


■江戸三富

 谷中感応寺・目黒不動滝泉寺・湯島天神の富くじ。富くじは元禄のころ感応寺で始まった。
    
町内でごんめうに知る感応寺
 「ごんめう」は「不思議に」の意。富くじを買うということは、内心に忸怩たるものがあったよう
で、買っても知らん振りしていた。だから町内の者たちがやたら感応寺のことに詳しい
のがふしぎだというひねり。


■江戸参府

 えどさんぷ。長崎出島のオランダ商館長が江戸に上り将軍に拝謁して貿易許可のお礼を述べ献上品
を贈る行事というか慣わし。ちなみに大名が参勤交代で江戸に行くことは江戸上府という。


■江戸仕送
 えどしおくり 国許から藩邸へ送る納戸(生活費)や費用。


■江戸しぐさ

 量があるので「
荒川区」に記述した。


■江戸自身番
 各町が設置した防火・防犯の見張り所。交番制度の原点。


■江戸時代
 慶長八年(1603)二月十二日徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて徳川幕府を開いた日から、慶
応三年十月十四日徳川慶喜が大政を奉還した日までの期間をいう。明治維新は、大政奉還から明治4
年7月14日の廃藩置県までをいう。


■江戸仕立て

 江戸っ子の好む仕立て方。粋といなせと。


■江戸十組問屋
 菱垣廻船組織のうち元禄七年(1694)に成立した荷主組合。


■江戸市中引き回し

 死刑判決を受けた者の恥を曝す処刑前の見せしめ。順路は決まっており、裸馬の背に縛り付けられ
て曝しものにされた。そのまま小塚原か鈴ケ森の刑場に送られ処刑される「五ヶ所引廻し」と、牢屋
に戻る「江戸中引廻し」があった。

■江戸芝居

 ①、江戸で完成した歌舞伎。②、江戸の役者で演じられる芝居。


■江戸締め

 手締めの形態の一つ。「一本締め・三本締め・一丁締め」の三種がある。
 
一本締めは 「お手を拝借、よぉーお、パパパン・パパパン・パパパン・パン、おめでとうござ
  います」で終わるもの。
 
三本締めは 「「お手を拝借、よぉーお、パパパン・パパパン・パパパン・パン、よぉ、パパパ
  ン・パパパン・パパパン・パン、よぉ、パパパン・パパパン・パパパン・パン、おめでとうござ
  います」と、手打ちを三回繰り返す。
 一丁締めというのは、「関東一本締め」ともいい、「お手を拝借、よぉーお、パン」で終わり
  あっさりし過ぎているが、しつこくなくて良い。
  江戸締めがあるということは 「大阪締め」もある訳で、関東・東北では馴染みがないだろう。
  「
打ちましょ(パン、パン)もひとつ(パン、パン)祝うて三度(パ、パン、パン)」というも
  のだが、ご存知か?


■江戸十里四方追放(江戸所払い)

 江戸城を中心として半径20キロ以内の地域、大体東は船橋、北は川口、西は三鷹、南は川崎以内
の地域への立入禁止。江戸恋しさに立ち戻る者もいたが、見つかれば過酷な運命が待ち構えていた。
江戸構ともいった。テレビドラマなどで所払い者が、気楽に江戸市中に舞い戻る筋立てを作るが、見
つかれば打首であり、どんな悪党でも狂人でもない限りそんな危険は犯さない。脚本家の無知だ。時
代劇は嘘で成り立っている。


■江戸趣味
 江戸人の好みや感覚。

■江戸順の一

 牛島の須崎村で催された「鶯合(うぐいすあわせ)」で一等に選ばれた鶯。


■江戸巡礼(順礼)
 
江戸の富商のご婦人方や茶屋女などが、巡礼姿で江戸市中の寺院に参拝したこと。それはそれは弩
派手で華美だった。


■江戸状

 江戸からの手紙。国許で使う言葉。江戸からの知らせ。


■江戸城明渡
 慶応4年4月11日 勝・西郷会談の結果として実行された。


■江戸城溜
 殿中における諸大名・諸役人の控えの間。家格により決まっていた。

■江戸定詰
 
えどしょうづめ 各藩士が江戸屋敷に居住勤務すること。

■江戸上府
 えどじょうふ。参勤交代で大名が国許から江戸へ向かうこと。

■江戸定府

 えどじょうふ。水戸徳川家は副将軍家なので参勤交代で国許に帰ることが許されず、将軍を補佐し
てずうっと江戸にいること。『水戸黄門諸国漫遊記』は隠居後のこと。ただし水戸光国はテレビドラ
マのように全国突津々浦々を隈なく歩いた訳じゃあない。また黄門は唐名(とうみょう・からな=中
国の役職名)で水戸徳川家の少納言職に匹敵するのでそう呼ばれるが。公式名ではない。ちなみに将
軍の唐名は大樹公だ。

■江戸城御門

 浅草橋・筋違橋(すじかいはし)・小石川・牛込・市谷・四谷見附・赤坂見附・虎・山下・幸橋・数
奇屋橋・鍛冶橋・呉服橋・常磐橋・神田橋・一ツ橋・雉子橋・和田倉・馬場先・日比谷
・外桜田(桜田)・半蔵・田安・清水橋・竹橋・平川・大手・内桜田(桔梗)・坂下・西ノ丸大手(皇居
正門)の30門をいう。三十六見附は吉数あわせで、城内の門全てを合わせた数は100以上あった
という。


■江戸浄瑠璃
 
①、江戸で発生した浄瑠璃(半太夫節・河東節)。
 ②、常盤津・富本・清元・新内の総称。


■江戸城連歌
(柳営連歌)

 幕府年中行事の一つ。毎年正月十一日(慶安五年以前は二十日)に城中連歌の間で行われた連歌会
(れんがえ)。



■江戸知り

 江戸のことを良く知っていること、またその人。


■江戸汁
 えどじる 江戸風の澄まし汁。


■江戸地割役

 町方宅地の割当、道路整備など質整理を司った町役。初め町奉行の管掌。のち木原勘右衛門が拝命
し、宝永七年(1710)からは樽屋三右衛門が代わった。

 町屋・会所地・新道・横町・表店・裏店・地主・家主・大家
 江
戸の町割は、京間60間(118m)を一辺とする正方形の地面が基本で、四辺の道路から20
間を町地とした。すると中央に20間四方の空閑地(くがち)が出来る。これを会所地といった。芥
所地(ゴミ捨て場)が訛ったものと考えられている。この会所地はゴミ捨て場、悪水溜め、火除地や
拝領地などに利用された。ただ江戸の人口が増加 するにつれて、悠長に遊休地を置いておく訳にも
いかなくなり、町入用や公役銀などの公租公課を工面するため、会所地を地主たちが相談して有効利
用するようになり私道を敷設した。それを新道(しんみち・じんみち)といい、この新道が幕府の公
認を受けると「横町」と呼ばれた。それでそこに飲食街が出来ると「食傷新道」と呼ばれ、屋根屋の
職人たちが集住すると「屋根屋新道」と呼んだ。新道が横町であれば「食傷横町」「屋根屋横町」と
いう訳だ。横町と横丁の違いは、横町の方が町裏への通路で「木戸がある」のに対して、横丁は俗称
で、普遍的通り道(一般道)で木戸はない。同じ脇道だが、横町が公用語であることで、横丁は町の
字を遠慮して丁の字を用いたのだろう。「丁」の字義には「出会う。行き交う」の意がある。新道・
横町の管理人が大家で、大抵が隠居の仕事だったので「横町のご隠居さん」という言葉が生まれた。
「横丁のご隠居さん」はいない。
  町地は5間~10間の間口の長方形で、これを「町屋敷」といい、江戸町人の一区画だ。この町
人地は町屋敷単位で売買し、次第に少数の豪商の所有となっていった。町屋敷の所有者を「地主」で
町屋敷は表から5間までのところを「表坪」、それより後ろを「裏坪」といった。表坪には数軒の貸
店舗が建てられ、資金を持った商人がこれを賃借りして商売をした。この表坪の商店を「表店(おも
てだな)」といい、裏坪には棟割長屋が建てられて、八っつぁん熊さんなどの下層町人の住居に宛が
われた。これが「裏店(うらだな)」だ。表店を借りた商人の一人が、地主から町屋敷全体の管理を
任され店賃の3~5%を手数料として受け取った。これを「家主(やぬし)」という。つまり管理人
だ。「いえぬし」と読むと「大家」と同じで借家の持ち主。「家持」は「やかもち」ではなく「いえ
もち」と読んで、所有地に建屋を持つ者をいう。さて棟割長屋の一戸は、間口が一間半(2.7m)、
奥行き二間(3.6m)のものが一般的だ。「九尺二間の裏長屋」で、こっちは家主の隠居が管理した
ので「裏店のご隠居さん」だ。実見したい人は「江東区深川江戸資料館」に同寸の復元模型がある。
大正頃の下町の住居は「荒川区立郷土資料館」に。文化住宅は「新宿歴史博物館」と渋谷区の「白根
記念博物館」
に。江戸時代の農家が団体戦であるのは世田谷区の「次太夫堀公園」、小金井市の「東
京たてもの園」だ。


■江戸清掻
 えどすがき 三味線の弾きの1手法。江戸吉原で張り店を開く合図に弾いた。


■江戸助
えどすけ、えどだすけ。相手の盃を受けて飲み干し、満たして返杯すること。


■江戸雀
 えどすずめ。江戸市中のことに精通していて、それを喋り歩く人。


■江戸砂子

 えどすなご。菊岡沾涼著・享保十七年(1732)出版・六巻六冊。江戸の地誌・社寺・名所の来
歴を記したもの。増補版は明和九年(=安永元年1772)出版・全6巻8冊。


■江戸千家

 表千家七世如心斎宗左の門人川上不白が江戸で広めた表千家流茶道。


■江戸相撲

 江戸で本場所を興行する相撲。大坂にも団体があり、昭和の初めに合体して日本相撲協会となり一
本化した。春場所を大阪でやるのはその名残だ。名古屋場所と九州場所は営業的設置。また「大阪」
は明治以後、江戸以前は「大坂」と書いた。


■江戸雪駄
 江戸で作った雪駄。上物だった。主に関西で履いた。切り回し雪駄。


■江戸俵
 瀬戸塩の内にがりの多い下等の塩、売れるので江戸に移出した。


■江戸町

 吉原五町の二つ。一~二丁目があった。開幕当時、銭瓶橋北にあった傾城町(売春街)柳町は、城
の各町のため元誓願町(日本橋銀町)に移された。その頃傾城町は他に麹町八丁目(京都六条から移
転)、鎌倉河岸(駿府弥勒町から移転)などがあり、さらに小さい業者は各所に分散してあった。慶
長十七年(1612)柳町の庄司甚内は傾城町を一ヶ所に集中することを願い出た。5年後の元和三
年(1617)許可が下りて日本橋堺町の東の湿地帯(葦原)が宛がわれた。これが遊郭吉原(元吉
原)で、浅草北の遊郭吉原(新吉原)は、明暦の大火後に移転させられたものだ。元吉原が開かれた
時、郭内に本柳町・本柳町二丁目・京柳町・京柳町の4町が作られ、本柳町を江戸町、京柳町を京町
と俗称した。本柳町は柳町、同二丁目は鎌倉河岸、京柳町は麹町八丁目、同二丁目は上方の業者が移
転してきた。それから十年後の寛永三年(1626)京橋角町の業者が移転してきて角町となり吉原
五町が完成する。しかし中央の通りに揚屋町があるので町数的には6町だ。新吉原に移って江戸町、
京町は正式町名となった。
 また柳町は、傾城町そのものを表す普通名詞でもあり、中国で傾城町の入口に柳の木を植える義務
もしくは仕来りがあって「柳陌」といったことを受けたもので、そういう意味で命名された柳町が多
い。無論例外の柳町もある。


■江戸町人
 江戸の町地を所有する者。江戸に住む武士以外の人々ではない。裏店の長屋に住む八っつぁん熊さ
んは「江戸町人」ではないのだ。で、八っつぁん熊さんは何かというと、普通名詞でいえば「江戸の
住人」「江戸の町民」だ。町人は歴とした資格保持者で、場合によっては侍より格上の者もいた。だ
からドラマの台詞「町人風情」なる蔑視語は、将軍大名でもなきゃ使えない。正しくは「町者風情」
で、江戸を深く理解していない脚本家が多すぎる。それで稿料が安過ぎると愚痴。もっと勉強しろっ
てんだ。
 だから八っつぁん熊さんは正式な意味で江戸っ子でもない。ということは『東海遊侠伝』清水次郎
長の子分森の石松も正当な江戸っ子じゃないってこった。「江戸町人」は公用語で、幕府からその資
格を認められた江戸居住者のことだ。

 江戸人でなくても、江戸で生まれた人は「江戸根生(えどねおい)」という。


■江戸褄
 えどづま。和服の模様の置き方。褄から裾にかけて模様を配したもの。京の島原模様に対抗し
て大奥の女性が始めたもの。現在では留袖に多く用いられるのでそれと混同される。


■江戸褄後掛
 明治以後、江戸褄模様を後まで配したもの。

■江戸積二十四組問屋

 江戸十組問屋の注文商品を買い継ぐ大坂の問屋。大坂二十四組問屋、 二十四組買継問屋、大坂表
買継問屋。

■江戸で伯母さんを探すよう

 困難なたとえ。江戸は広く家も人も多かったから。


■江戸道者
(同者)
 江戸から社寺参詣に来た団体さん、ご一行。


■江戸解
 えどとき 武家の婦女子にふさわしい着物の柄模様。


■江戸野老

 えどどころ 植物。姫野老(ひめどころ)の別称
   ふられては髭もムシャクシャ江戸野老 恋の奴の苦い味わい


■江戸供
 えどとも 大名が江戸に出るときに付き添う人々(大半は帰国する)。


■江戸菜

 えどな。高菜に同じ。


■江戸長唄

 江戸歌舞伎の伴奏として発達した三味線音楽。元禄の頃に始まって、享保の頃に完成、化政期に頂
点に達した。


■江戸長崎会所

 長崎会所(貿易事務所)の江戸出張所。


■江戸訛り
 江戸特有の発音。言葉遣い。江戸に生まれ育った人のアクセント、言い回し。


■江戸煮

 えどに ①魚を海苔の佃煮で調味して煮た料理。②ぶつ切りにしたタコを同じ量の煎茶と酒で煮込
み、醤油と柚酢(ゆずす)などを加えて柔らかく調味した料理。桜煮。


■江戸錦絵

 江戸絵に同じ。


■江戸根生
 えどねおい 江戸人でなくとも、とにかく江戸で生まれ育った人、


■江戸練

 江戸で作られる鬢付けの練り油。固く粘りが強い。


■江戸の伯母を京に尋ねる

 「会わない」意思表示。隠し言葉


■江戸の衣更

 旧暦の四月一日綿入れの「綿貫」をして「袷(あわせ)」とする。この時期はまだ春先なので肌寒
い。粋を好む江戸っ子は「伊達の薄着」の痩せ我慢。袷は五月四日まで着て「単衣(夏物)」に代え
る。単衣は九月一日に袷に替え、八日に袷に直す。それから「綿入れ」に替えて冬を通す。真冬には
襦袢(下着)を重ね着したり、股引を履いたりしたようだ。しかし若い者は冬でも厚着せず、雪の日
でも素足、今でいう生足で通すのを粋とした。
  かしこげに着て出て寒き袷かな(川柳)
 個人にとって着物は大切なもので、今着ている古着でさえ質草になった。で金持ちでもない限り衣
装道楽は出来ない相談で、夏冬合わせて3、4枚持てば多いほうだった。江戸時代のリサイクルの凄
さはご承知だろうが、古着の回転率は大変なものだった。特 に宇都宮の「佐野屋」は、明治になっ
て急激に逼塞するが、関東各地、特に江戸には多くの支店を持ち、1日千両の売上(あきない)を誇っ
ていたという。


■江戸の人口

 家康入国以前の人口は現在の皇居周辺までを江戸と考えて、寺社の数からして最小10000人か
ら最大50000人の間で推移したろうといわれている。家康の 入国後、慶長十六年(1611)
頃のビスカイノという外人の報告に「伊達政宗の仙台城下くらいの人口がある」とし、これより先同
十四年に江戸に来たドン・ロドリゴ・デ・ビベーロの見聞記に15万ほどの人口と述べているから、
その程度の人口はあったのだろう。人口は軍事力だから明治5年の人口調査まで各藩とも公表したこ
とはない。また天明の大飢饉で各藩の死亡人口を加算すると数百万人になり、現在では全ての藩が虚
偽報告していたことが判っている。それだけの人間が本当に死んだのなら、遺体処理に数千の千人塚
があってもいいのだが、一つとして存在しないのだ。で、人口は想像するしかないのだが、元禄八年
(1695)の町方人口が355888人ということが現代の調査で判っている。家光の時代になっ
て幕藩体制が確立すると、諸大名の正室と正嫡子は江戸在府が義務づけられ、参勤交代制度によって
隔年毎の江戸常住が命じられたため、武家人口は一挙に増大し町方人口を越えるに至った。
 八代将軍吉宗の時、町方の人口調査が行われ、享保六年(1721)511000人となった。そ
の後も50万人前後を維持し、19世紀に入ると(文政のころ)52万という数値を示す。享保のこ
ろ 総人口は100万人を優に越え、近世の人口が120万人というのは、当時ヨーロッパ最大の都
市ロンドン市の人口が55万というのだから江戸の繁栄が知れようというものだ。しかし明治5年の
東京都に当たる地域の人口は47都道府県換算で37位、最多人口トップ3は、新潟・長野・静岡の
順で、日本の総人口はほぼ5500万人だった。男女比は武家・町方とも圧倒的に男社会で、ほぼ3
対2。封建社会といわれながら江戸だけは女尊男卑が当たり前で、女性がリードする家庭が多く、他
地方との違いがそこにあった。
 「侠(きゃん)」という言葉がよく使われるが、「おきゃん」「おてんば」など威勢のいいご婦人
が多かったのが特徴だ。江戸っ子は粋でいなせで気風はいいが、実際は気の強いご婦人方に振り回さ
れ、怒鳴り散らされて青菜に塩のようにシュンとしてたものだ。現代女性が「鬼嫁」になって亭主を
食い尽くすとというが、それは今に始 まったことじゃあない。蟷螂(かまきり)ではないが、所詮
男は最後は女に虐げられ食 い尽される運命にある。夜叉般若はご婦人の御形相だ。鬼ババァはいて
も鬼ジジィはい  ない。江戸は、ご婦人の数が少なかったればこそ、遊郭・岡場所・夜鷹に春本と、
セックス産業が大繁盛し、江戸文化は昇華しもしたのだ。
 人口は神が調節する。太平洋戦争で男性が著しく減少したが、現在は男性がやや多いくらいで拮抗
している。しかも生まれるのは男の子が多いのに育ちきらずに結局バランスが取れるようになるから
不思議だ。江戸の男女比の懸隔は異常現象だったのだ。平成17年、人口が前年度より20000人
減って、減少期に転じたと大騒ぎだが、明治5年の調査で5000万人、敗戦直後で7800万人、
あと5000万人減ったからとてどうってことはない。権力が少子化をなぜ恐れるかいうと、まず税
収が減ることで、権力行使がしにくくなるし、懐にガッポリ入れられなくなる。次に負け戦というの
は人口の10%喪失をいう。先の大戦で日本は800万人を失った。つまり権力にとって人口減少は
軍事力の逓減を意味する。自民党が憲法改変・再軍備に必死なのはそのためなのだ。徴兵制に戻し、
若者のエネルギーを管理調節し、自在の国民統御を完成すれば、ITによって国民の財産までも完全
管理できる。もし軍国主義に走るにしても、インターネットと人工衛星の時代に再軍備など時代遅れ
なのだ。アメリカにリベンジするとして、原子力空母を連ねて真珠湾にブリッツ(奇襲)をしかける
のか? ミサイルをぶち込むか? スターウォーズなんてのも過去の遺物でしかない。アメリカを殲
滅するのは都市爆発だ。もうセッティングボムの時代だよ。アンデスの山中で携帯電話のボタンを押
す。それが攻撃だ! アメリカは一夜にして消滅する。


■江戸の鳶木遣

 江戸時代に、江戸の鳶職の間で歌われた労働唄。起源は明らかでないが寛政年間(1789~18
00)に江戸町火消の組頭制が確立した時、鳶火消が伝承の中心となり、次第に消防出初、祭礼、建
前などの儀式唄に変わって現在に及んでいる。曲は、真鶴ほか8種に大別され、すべて137曲を数
えたが、今は地6曲、くさり物10曲、追掛物12曲、手休め物6曲、巻物3曲、流し物5曲、端物
46曲、大間22曲の計110曲を伝えている。江戸に伝わる芸能の内、民謡に属し、しかも芸能上
特色を有するものだ。


■江戸の履き倒れ
 江戸っ子は履物に金を使う。京の着倒れ・大坂の食い倒れ


■江戸の花
 火事と喧嘩(人口密度が高いということと地方人の掃き溜めが理由)


■江戸の張り
 心意気


■江戸上り
 江戸から上方に向かう人、向かうこと。


■江戸幟

 えどのぼり 端午の節句で江戸の町に立てられる幟。鍾馗の絵柄が多い。


■江戸の水

 ①神田上水を誇りにして言う
 ②式亭三馬が本町二丁目で売り出した白粉下に用いる化粧水。バカ売れした。


■江戸の紅裏
(もみうら)
 流行おくれ。京の黄無垢・難波の紫に同じ。


■江戸の灸
 やいと 上方のものが息子を江戸に出して鍛えること。かわいい子に旅。


■江戸海苔

 浅草海苔のこと。大森海苔は高級過ぎて一般に行き渡らなかった。


■江戸派

 加藤枝直・千蔭、村田春海らを中心とする和歌のグループ。歌風は古今・新古今に近く、賀茂真淵
没後江戸歌壇の中心勢力となった。


■江戸入り
 えどばいり 江戸の地に入ること、江戸に住み始めること。


■江戸端歌

 江戸後期、江戸で流行した三味線伴奏入りの短い歌曲。長歌のお師匠さんというと年取っててお堅
いおっかないというイメージだが、端唄の師匠というと粋で涼やかな若年増ってとこかな。うーっ堪
んない。ああもう駄目だ!


■江戸馬鹿
 江戸っ子の気前のいいのを侮っていう。


■江戸秤座

 関東三十三ヶ国の秤の製造・販売・検査を司った役所。承応二年(1653)の設置で、守随彦太
郎家が代々世襲した。


■江戸幕府金札

 硬貨主義に徹し紙幣発行はしないという伝統的方針を破って幕末に発行してしまった三件11種の
紙幣。意図とは裏腹に流通はしなかった。
 ①慶応三年(1867)二月 「兵庫開港大坂商社札」1両・2分・1分の三種。
 ②同年同月 関東一円通用。200両・100両・50両・25両・5両・1両。
 ③同年八月、江戸・横浜通用。三井家が御用所となり銀座として25両・10両・5両の3種を発
  行した。「江戸銀座札」とも呼ばれる。


■江戸箸

 墨田区東向島の大黒屋だ。


■江戸外れ

 江戸の町外れ、朱引きの辺りの町や村。


■江戸八百八町
 
 江戸の町数の多いことをいう。享保の頃には1000を越えていた。京都八百八ケ寺・大坂八百八
橋というが、寺の数は江戸の方が遥かに多い。

■江戸腹
 
 ①江戸人の小食をいう。
 ②人形浄瑠璃の人形の動作の一つ。もろ肌脱ぎになっていた者が、腕の動きをより自由にするため
に、脱ぎかけた衣服を両脇のところで整える様を演じるのに左脇を整えるときには左手を握って、右
脇を整えるときには右手を握って突き上げる動作で一段と豪快に見せること。


■江戸腹当

 江戸の職人の腹当を上方の人が言う語。江戸腹掛


■江戸張

 えどばり 江戸製の煙管


■江戸ハルマ

 『波留麻和解(はるまわげ)』
 日本人による最初の蘭和辞典。寛政八年(1796)フランソワー
・ハルマの『蘭仏辞典』を原資に江戸の稲村三泊らが作成。『ズーフハルマ(道富波留麻)』は天保
二年(1831)長崎のオランダ商館長が通辞の吉雄永保らの協力によりハルマの『蘭仏辞典』を下
地に編集。『長崎ハルマ』とも。


■江戸板
 えどばん 江戸の出版物。


■江戸番
 江戸詰 大名の藩士が江戸の勤番に着くこと。


■江戸万古

 伊勢桑名で万古焼を始めた沼波五左右衛門弄山が、宝暦の頃、江戸小梅村にあった別邸で焼いたも
の。赤絵が独特。


■江戸繁盛記

 寺門静軒著 5編5冊、天保二年から七年(1832~36)にかけて出版した地誌。江戸市中の
繁栄と泰平を書いた物。


■江戸藩邸

 三百諸侯の江戸での生活拠点、外交拠点だ。上・中・下・蔵・抱などの屋敷があって、上屋敷には
参勤交代する藩主と江戸からは出れない奥方(正室)が住む。中屋敷は後継の若殿が住み、上屋敷が
火事で焼失した場合の避難所、下屋敷は別荘であり、藩邸の食材(御前栽)や薪の供給地、蔵屋敷は
国からの産物の保管場所、抱屋敷は別荘地であったり、不足分を補う借地といった按配だ。藩邸に住
む人は藩士と領民で、江戸の人は滅多にいない。腰元(女中)や小者、下屋敷で働く農民なども全て
国許から連れて来て、交代や不足分も国許から補う。国産品を商う商人さえ国許から呼び寄せる徹底
振りで、だから藩邸は治外法権の外国公館である。藩邸の藩士の数には制限があるが、補助要員たる
人々の数は判らない。それで江戸の人口は推計できないのだ。


■江戸菱垣廻船問屋
 江戸十組問屋注文の商品の瀬取り(海上受け渡し)・水揚げ・問屋納めまでの業務に当たる荷受問
屋。


■江戸彼岸

 春の彼岸の頃に咲くので「彼岸桜」とも呼ばれるが、別種の「コヒガンザクラ」も同様に呼ばれる
ため、「江戸彼岸・東彼岸・姥彼岸」などと呼んで区別する。サクラ類の中で寿命が長く大木になる。
3月下旬から4月上旬にかけて白色~紅色の花が咲く。江戸の名はあるものの本州・四国・九州の山
地に自生していた落葉高木。鹿児島県大口市十曽池奥に目通り21m、高さ28mの巨木がある。岐
阜県の「根尾谷の薄墨桜」は、樹齢1500年余、目通り9m20cmの巨木。東西24mもある枝に
爛漫と花を咲かせる頃になると、見物客は25万人にもなるとか。山梨県武川の実相寺の「山高神代
桜」は、樹齢2000年余、目通り13.5m の巨木。理屈は合わないが日本武尊のお手植えで、日
蓮上人が渇を入れて蘇ったとかのおまけまで付いている。ソメイヨシノの片親だが、違いは花が小振
りなことと、葉が出ても花をつけていること。


■江戸飛脚
 江戸~京・大坂を往復した町飛脚。月に三度大坂を出発するので「三度飛脚」。6日間かかるので
「定六」ともいった。

   けふかけて五日のぼりや江戸飛脚
   江戸飛脚と赤子の名は六日目にに着き付く(諺)

■江戸雛

 江戸で作られる雛人形。


■江戸評
 毎年発行の役者評判記の内江戸の巻における批評。


■江戸不動

 「上方観音、江戸不動」といわれ、関西は観音信仰が強く、江戸は不動信仰が強い。赤坂不動、三
不動、飛不動など町内に一つはあるといわれるほど、江戸にはお不動さんがあることをいう。これは
初代の市川団十郎が子供に恵まれず、最後に拝みこんだ成田詣での後に2代目を授かり、これに感激
した初代が成田山にのめり込み、永代寺の出開帳をプロデュースしたり、芝居の中に成田不動の霊験
を織り込んで進んで広告塔 になったことが、江戸に不動信仰が広まった理由だ。市川家の屋号は成
田屋、荒事のポーズは不動明王をヒントに考え出された。


■江戸風
 江戸の流儀・やり方。②江戸座の俳諧傾向。


■江戸節
 江戸浄瑠璃のうち芸名に江戸を用いた肥前節・半太夫節・河東節のこと。

■江戸筆
 江戸時代も中期には、商人の台頭と共に「寺子屋」が急増し、庶民の間にも筆が普及、大量に需要さ
れる時代となり、江戸の筆職人の技術もさらに進歩して、多くの江戸名筆を生んだ。現在主流の製造
法「練りまぜ法」は、元禄期に細井広沢により確立された手法で、明治5年の学制発布と共に急速に
広まった。練馬石神井町の亀井で作ってるよ。京筆との違いは、柔らかく筆全体に墨をくくませて書
く。京筆は筆先で書く。
 結果、何 がどうなるかというと、筆画「捺」つまり「右の払い」、同「鉤」つまり「縦画からの
左はね」が美しく納まる。つまり字の書き映えが美しく書ける。楷書向き。


■江戸太織

 えどぶとり
 「えどふとおり」が訛ったものだ。八王子など江戸周辺で織られる反物。しげ茶を経
(たていと)として織ったもので厚ぼったく低級品。


■江戸船・江戸廻船

 
江戸と上方を往復する船。


■江戸ふろう
 隠元豆の異名


■江戸粉
 えどふん
 蒔絵に使う粉の1種


■江戸兵衛
 関東者はべえべえ言葉を使うので上方の者が馬鹿にして呼ぶ。

■江戸疱瘡

 梅毒
 梅毒は梅毒トレポネーマを病原体とする感染症。以前は淋菌感染症(淋病とともに代表的な
性感染症だったが、抗生物質の出現によって著明に減少し、第3期・第4期梅毒はほとんどみられな
くなった。しかし梅毒は単に性器の感染症ではなく、進行すれば神経梅毒など全身性疾患として対応
しなければならないので、早期発見が重要。HIV感染症などその他の性感染症と合併する場合もあ
るので注意を要する。また妊婦が梅毒に罹った場合には当然母子感染(先天梅毒)の可能性が生じて
くる。しかし抗生物質(主にペニシリン)に対する耐性菌の出現の報告は無く治療は有効だ。

 疱瘡を「かさもり」と読み、瘡守とも書く。病症の状態をいったもので、瘡守稲荷は韻が通じるこ
とから大坂(大阪)の笠森稲荷を勧請した。大坂の笠森は稲荷の森の佇まいが菅笠の形に似るところ
からその名がある。それで笠森稲荷は・瘡守稲荷・疱瘡稲荷は梅毒をはじめとする性病の平癒を願う
神社となった。


■江戸酸漿(鬼灯)
 
えどほおずき 色が鮮やかに赤く、早生のほおずき。


■江戸堀銀七分札

 元和三年(1617)大坂の江戸堀開鑿の時に発行された銀貨兌換札。大坂江戸堀銀札ともいう。


■江戸文学
 
 近世文学のうち文化文政期を中心として江戸で行われた町人文学。読本・黄表紙・洒落本・滑稽本
・人情本・合巻・川柳・狂歌など。滝沢馬琴・山東京伝・式亭三馬・柳亭種彦・為永春水らが活躍し
た。→上方文学。


■江戸へ出る
 
吉原の者が郭から外に出かけること。


■江戸間

 関東間・五八間ともいう。曲尺5尺8寸(1.76m)を1間とする田舎間。京間は6尺5寸(1.9
7m)だが、現在は6尺3寸(1.91m)を京間・本間としている。本来の京間寸法で家を建てると
建材にロスが出来、大量の建築ゴミが出るからだそうだ。しかし住友林業などでは6尺(中京間=1.
81m)を京間寸法としたりしているので、家を建てようという時には設計者・工務店によく寸法確
認しておくこと。出来上がってから「狭い」の「広い」のと、文句いっても仕方ないよ。京間が広い
理由は、京都の税金の基準が間口寸法だったため1間幅を広く取ったからだ。商家が鰻の寝床宜しく
奥行きが長いのもそのためだ。団地サイズは5尺6寸(1.70m)


■江戸前

 ①、広義に江戸の海(東京湾内)、狭義には芝・品川の沖。
 ②、江戸風に同じ。
 ③、江戸城の大手より東、隅田川までの町域。


■江戸町会所

 ①町役人や町代が町務を執った所。特に大坂で発達した。②寛政改革のとき江戸浅草向柳原(むこ
うやなぎわら)に設立された半官半民の救済事業機関。七分金積立を取り扱った。


■江戸枡

 江戸初期に江戸で作られた枡京枡。京枡は豊臣秀吉が量制の統一をはかって制定した枡で、1升枡
は4寸9分四方に深さ2寸7分。一方江戸枡は徳川家康が天正十八年(1590)に作らせた枡で、
5寸四方深さ2寸5分の大きさだった。江戸時代東国では江戸枡、西国では京枡が使われていたが、
寛文九年(1669)全国すべて京枡に統一され、昭和34年のメートル法実施まで続いた。


■江戸町会所

 松平定信が寛政三年(1791)江戸の町法を改正した時、浅草向柳原に難民救恤と庶民金融を目
的として設立された。幕府からの差加金と町入用を節約して積み立てた金で運用され、傍らに籾蔵が
建てられた。


■江戸町中定

 えどまちじゅうさだめ 明暦元年(1655)大坂町奉行が大坂で出した法令。江戸とは全く無縁。


■江戸町地割方
 江戸地割役と同じ。新町の面積割をし、地主を決めるする仕事。


■江戸町年寄

 江戸町奉行配下の町役人。お触れの伝達(公布)、町方の諸調査、新開地の地割、町名主の任免・
監督、諸運上銀・地子銭の上納、諸組合仲間の監督、神田・玉川上水の管理などを通して江戸市政全
般を把握、関口・小日向・金杉の代官も兼任した。
 先祖が多病か懶堕により町人とされた樽屋・奈良屋・喜多村三家の世襲。


■江戸町名主

 江戸の各町の町政を司った町役人。経費の関係で1町に1人は置けず、人により2町から10数町
を担当し、江戸府内では二百数十人いた。町年寄の下、自宅で事務処理をし、代々世襲の職で、兼業
することが許されなかった。所得は各町から支払わ れる給与のみ。


■江戸町飛脚
 幕末、江戸市中に限って配達した飛脚。風鈴を鳴らして走った。


■江戸町火消

 江戸の初め、消防はあまり考慮されていなかった。各大名家が自家消火のための「大名火消」を私
有していたのみである。そして明暦の大火によって町域が広がると幕府としての官設消防組織が必須
となり「定火消」を設置した。旗本の役人に役宅を与えて、与力・同心を置き、人足の消防夫、ガエ
ン(臥煙)と呼ぶ人足を置き、火事のときに出動して消火に当たった、最初8組8ヶ所、のち10組
10ヶ所に置かれたが、臥煙という一種の中間(ちゅうげん)に荒くれ者が多く、
倶利伽羅紋紋を施
して風紀を乱して
あまり消火に熱心でない。そのころの江戸の町は大火に次ぐ大火で3年から5年
に1回焼け出されるのが宿命といった按配だった。五代将軍綱吉は道路の拡張、火除地の増加をやっ
たが焼け石に水だった。8代吉宗の時、防火のためとはいえ明地をそのままにしておくのはもったい
ない、商業地として認めて欲しいとの嘆願が相次ぎ、それで明地をなくして横町に転換したが、その
代わり瓦葺とすること、燃えにくい塗り壁土蔵造りとすることなどを奨励し、メインストリートの町
屋を強制的に改造したが、大火には持ち堪えられなかった。幕府は財政困難の折からこれ以上大名火
消や定火消に負担はかけられず、財政負担のない防火の手立てはないものかと大岡越前と相談したと
ころ、南の大岡越前守、中の伊丹能登守、北の中山出雲守の三奉行が協議し、儒学者荻生徂徠の「江
戸の町を火災から守るためには、町組織の火消組を設けるべきだ」との進言を受けて、自己負担によ
る町方消防隊を創設することになった。そしてまず享保三年(1718)火災時1町から必ず30人
が駆けつけるという駆付人足制を発足させた。組織と共に作らせたのが「
火消纏」というものだ。
纏のルーツは15世紀頃と言われ、戦場で侍大将の馬印だったが、これを町火消誕生後に組の旗印に
取り入れ「纏のぼり」ともいわれた。
 同年暮、出火駆付組合を設け風上・風脇2町・左右2町・風下の計6町、30人定め人数として1
80人は必ず出動させた。2年後の同五年(1720)、駆付組合を改めて「いろは組合」とし、こ
こに町火消「いろは48組」が誕生した。
 「へ・ら・ひ・ん」の四文字は、「へ」は屁に、「ひ」は火に通じ、「ら」は隠語、「ん」は語呂
が悪いということで、「百・千・万・本」に変え、この「いろは四十八組」に纏が置かれた。この頃
の纏は金銀の箔を置いた大纏と小纏との二種があって、現在の纏の「馬簾(ばれん)がなく、大きな
札をかけて、「東は何町より何町まで、南は何町より何町まで、西は何町より何町まで、北は何町よ
り何町まで、この組合何ヶ町」と記して掲げ、他に幟を1本附属として、

    一、組合の町中に火事ある時は早々駈け集まるべき事
       一、組合外に火事有之候て組合の町に風筋あしき時、境に集まり防ぐべき事
    一、役人下知なき内組合の外へ一切参るまじき事
 

 などの條目を記し、そのほか纏の印をつけた提灯を掲げた。
 この町火消に要する費用は町費をもって賄うよう、それぞれの町会などに分担させた。さらに同十
四年(1735)47組を、1番から10番の10組に大きく分けて統一し た。

   1番組 い・は・に・よ・万      2番組 百・千・ろ・め・も・せ・す
   3番組 て・あ・さ・き・ゆ・み・本  4番組 こ・え・し・ゑ
   5番組 く・や・ま・け・ふ      6番組 ゐ・の・お
   7番組 な・む・う          8番組 ほ・わ・か・た
   9番組 れ・そ・つ・ね        10番組 と・ち・り・ぬ・る・を


 隅田川以東の本所深川は別に16組があった。

   南組 深川   一・二・三・四・六
   中組 本所深川 五・七・八・九・十・十六
   北組 本所   十一・十二・十三・十四・十五


 この町火消は、明治維新によって市部消防組と名を改め、東京全部を第一大区より第六大区までに
区分して各消防分署を設け纏の数も一大区は一番組より十番組まで十本、他の二大区より六大区まで
は、各一番組より六番組まで6本づつ都合40本とし、消防夫も一組40人に限られ組頭、副組頭、
小頭、同副、筒先、纏持、梯子持、刺又持、平人夫と、それぞれ消防署より役割を命じられた。神田
の町火消一番組「よ組」は第一大区一番組となるが、担当地域は江戸時代と変わらずそのままの地域
を受け持った。東京市政裁判所、東京府、東京警視庁と所属を移しながら、引き続き火災警防の第一
線を担当し東京の町を守り抜いてきた。消防組(明治5年)→警防団(昭和14年)→消防団(昭和
22年)と改組されていった。現在の消防団は、昭和23年の消防組織法に根拠を置くもの。 町火
消の名残は、(社)江戸消防記念会に引き継がれており、町火消、市部消防組の後裔で、その心を心と
して町火消以来永い歴史と伝統により、連綿と受け継がれてきた纏、半天、火消し道具等の保存、木
遣、梯子乗り等の技術伝承などの火消し文化を後世に伝えるため市部消防組の有志により昭和14年
に結成され、同29年に 公益法人となり、平成15年末現在88組、約1,000人余の会員が伝
統を守り続けている。

 木遣り
 
「きやり」は本来木材を扱う者の労働唄だ。複数の人員で仕事をする時、危険を排除し上等な仕事
をするため、その力を一つにまとめる掛け声、合図として唄われたもんだ。木遣りは地方また仕事に
よって色々な形で残っているが、木遣りには2種類あり、材料などの重量物を移動するときに唄われ
る「木引き木遣り」と、土地を突き固める、いわゆる地形の際に唄われる「地形木遣り」があり、江
戸町火消の木遣りは地形木遣りの範疇に属する。現代では作業そのものが動力化し、人力に頼る事も
少なくなり、これにつれて木遣りも作業唄から離れて儀式化し、また一部俗謡化するなど聞かせるた
めの木遣りへと変貌した。このように鳶の木遣りは、それ自体鳶職人の唄として生まれたものだが、
町火消しが鳶職人を中心に編成されたため木遣りも自然と町火消しの中に溶け込み受け継がれていっ
た。曲は真鶴のほか、地曲、くさり物、追掛け物、手休め物、流れ者、端物、大間などがある。なお
昭和31年3月3日「江戸の鳶木遣り」8種110曲が東京都技芸として無形文化財に指定され、江
戸消防記念会がその保存団体として文化継承してらぁな。「木遣り崩し」は知ってるよな?

   格子造りに 御神燈上げて
   兄貴ゃ内かと 姉御に聞けば
   兄貴ゃ二階で 木遣りの稽古
   音頭取るは ありゃうちの人
    エンヤラサノーヨイサ ヨーイヤサ
    エンヤラヤレコノセー サノセーハレモワセ
    エンヤラ
ヤー

 
倶利伽羅紋紋
 くりからもんもん タトゥー・刺青・入墨・文身・鯨。太古の昔、漁民が鮫に襲われることから身
を守るために施したのが初めというが、よく判っていないのだ。その後十世紀ほど空白があって突然
定火消の臥煙が、『水滸伝』から題材をとって刺青するようになった。まさかのことがあって焼死し
たとしても遺体を見苦しくしないためというが、どうかなぁ・・・・とにかく刺青は臥煙の専売特許
だったが、それを格好いいと思ったのか極道者たちが真似するようになった。それで怒った臥煙たち
が猛抗議に及んだのはいうまでもない。それで臥煙の総身(七分)に対して極道は五分としたという。
五分とは腕は肘上、脚は膝上までだ。この約束事は固く守られたようだ。現代のやくざ者が五分なの
はその名残だろう。
 倶利伽羅とは、サンスクリット語の「kulika」の音写だ。クリカはインドで八大竜王の一王
の名前であり、『陀羅尼集経』では鳩利迦竜王とも訳されている。倶利伽羅竜王は、岩上に直立する
宝剣に火炎に包まれた黒龍が巻きついている様子で象形され、不動明王の化身として特に崇敬される
剣と火炎は一切の邪悪、罪障を滅ぼすといわれている。富山県小矢部市と石川県津幡町の境に「倶利
伽羅峠」がある。寿永二年(1183)木曾義仲が平維盛の軍勢をその峠の南斜面に当たる深谷に攻
め落としたことで有名だが、由来は峠に祀られた倶利伽羅不動の祠があったことによる。八大竜王は
全て護法の善神だ。なかでも倶利伽羅竜王の形象に表された凄みは、仏法を守りかつ一切の邪悪・罪
障を滅ぼす力を表現するものだった。しかるに江戸時代に入ると博徒が倶利伽羅竜王の絵柄を刺青と
して背負うようになる。それは倶利伽羅竜王を、仏法を守るものから1人の人間を守るものへ、邪悪
や罪障を滅ぼすための力の表現が、他人を威嚇する力へと読み替えられたことを意味した。


■江戸町奉行
 
 正しくは「江戸御町奉行」だ。 江戸の市政・司法・警察に関する一切の事務を 司り、勘定・寺社
の各奉行とともに評定所(閣議)に列し幕政にも参画した。


■江戸豆
 蚕豆(空豆)の異名


■江戸廻し
 大坂から廻船で江戸に荷物を送達すること。


■江戸万歳
 ①、三河万歳を真似て江戸市中を歩いた門付け、乞食。
 ②、万歳裏六段の一つ。江戸の泰平・繁栄を謳歌した万歳歌。


■江戸磨き
 田舎者が江戸で洗練され垢抜けること。


■江戸水替え
 佐渡金山の坑内排水に幕命で送られた人夫。佐渡で使われた言葉。


■江戸味噌

 江戸後期、江戸で製造された甘みの赤味噌。塩分が少なく短期間でできるのが特徴。神田天野屋、
永代乳熊味噌が有名。


■江戸土産
 錦絵・草双紙・浅草海苔


■江戸向き
 ①江戸の方面 ②将軍家・幕府の意向。


■江戸六行
 えどむくだり 江戸で出版された六行の浄瑠璃本。


■江戸六組通日雇
 
えどむくみとおしひやとい 江戸六組飛脚屋に専属する運送人夫。東海道を往復する大名・旗本・
豪商などに従い、その荷物の運搬や雑用を担った者。文政六年(1823)から組合に属さないで道
中通日雇することは禁止された。

■江戸六組飛脚屋

 神田・日本橋・京橋・芝口・本芝・赤坂に設けられた組合。東海道を往 復する大名・旗本・豪商
などに従い、その荷物の運搬や雑用を担う通日雇の調達と通荷物の運搬を行なった。


■江戸紫
 
 紫11色(藤色・薄色・桔梗色・紫苑色・菫色・江戸紫・古代紫・京紫・二藍・ 滅紫・紫紺)の
一種。青み紫。「江戸紫に京鹿の子」は東西の第一のもの。江戸色。

   
紫と男は江戸に限るなり(川柳)


■「江戸名所記」

 浅井了意著 寛文二年(1662)出版。江戸の名所の歴史・古歌・発句・自作狂歌など。江戸に
関する最初の名所記。


■「江戸名所図会」

 神田の名主斎藤幸雄・幸考・幸成の親子三代、挿絵長谷川雪旦・雪提で完 成した。天保七年(1
836)。7巻20冊。江戸とその近郊の神社仏閣・名所旧跡の 場所・由来・故事などを数多くの
絵を添えて説明紹介したもの。


■江戸元結

 江戸製の元結。「もとゆい」が正しいが、「もっとい」とも発音。歌舞伎の「文七元結(ぶんしち
もっとい)」が有名。髷の根元を結わえる紙撚り(こより)。


■江戸戻り

 江戸から帰ってくること。


■江戸戻りの土産

 土産の浅草海苔から「乗りが来た」としゃれて「調子に乗る」に掛けた言葉。


■江戸者

 江戸に生まれたもの。「江戸っ子」とは違う



■江戸者の京談混じり

 江戸者が京言葉を使ってもすぐばれる。馬脚を現す。


■江戸物の梨を食うよう
 
さっぱりとして物事にこだわらないこと


■江戸物
 江戸で生産されたもの


■江戸桃
 源平桃の異名


■江戸屋

 江戸っ子だと自認する者。


■江戸役者
 
もっぱら江戸市中で芝居をする役者。京・大坂や地方で興業しない者。


■江戸宿

 えどやど
 裁判のために出府したものを泊まらせた宿屋。馬喰町小伝馬町組・百 姓組の三十軒組
・八十二組で株仲間。弁護役、奉行所の事務も取り扱った。公事人宿。


■江戸藪馬

 幕府は御用馬として南部藩馬を買ったが、余ったものを浅草寺の「藪の馬場」で売った、その馬。


■江戸山
 一度墓石や石碑に使った石。石屋が使った言葉。


■江戸湯船
 
①江戸の銭湯の湯船 上方のものより狭く奥行きも浅い。周囲に腰掛もない。柘榴口と浴槽の間も
狭かった。②廻船の出入りの激しい港町で、湯室を設け、入浴銭を取って商売したその船。


■江戸煩い・江戸病
 えどわずらい 江戸は大消費地で生産力はない。米が日本人の主食になるのは戦後のことであって
コシヒカリの出現は昭和38年、ササニシキは同43年で、その他の銘柄米はそれ以後に出てくる。
つまり2000年もの間美味い米はなかったということだ。米は農業的生産手段を持たない者、乃ち
都市生活者の食い物だった。米を食い過ぎて日本の糖尿病患者第一号になったのは藤原道長だといわ
れている。もし農民が米を食っていたら、農民に糖尿病患者が出てしかるべきだが、実は糖尿病が一
般化するのは、戦後のことで、開闢以来日本人が初めて金持ちになって、グルメ、グルメと食い物バ
カになったからだ。
 江戸では手っ取り早く満腹感のある米食は使用人に食わせる代用食だった。米以外のものは高く絶
対量が少ないから、それを食べると「おかず食い」と罵って、極力食わせないようにした。江戸近郊
農業が米作りよりも御前菜・蔬菜・青物を中心としたのは、それの方が収入が良いことと、江戸の糞
尿という肥料が大量に手に入ったからだ。元禄の頃から精米といって糠を剥ぎ取る馬 鹿な行為が流
行し、米食い人はいよいよミネラルの欠乏に苛まれることとなったのさ。町に出ればファストフード
はおにぎりにうどんだ。これじゃあ体は持つまいよ。江戸っ子が「蕎麦』好きなのは、ビタミンB1
の不足を補うためで、科学的に理解したというよりは体が自然に要求した結果だ。出稼ぎ者は「脚気
衝心」に罹ってバタバタと死ぬことになる。つまり江戸病は脚気という訳。軍隊では戦闘食は米穀だ
から平時食でも米を食わせた。軍隊で脚気患者が続出したのはいうまでもない。満期除隊で実家に戻っ
て米穀を食わない生活に戻ると脚気は自然治癒した。日露戦争の死亡者の大半は「戦死ではなく脚気
による戦病死」だった。その張本人があの森鴎外(軍医監)だとしたらどうするね? 無洗米を便利
だと思って買って食ってる馬鹿がいる。昔の米は糠取りにゴシゴシ研いだものだが、近頃の米は精米
が行き届いているから洗う必要もない。米の研ぎ方洗い方を実しやかに説明する料理人・料理評論家
の多士済々。愚かといおうか身の程知らずといおうか。
米は洗わずに炊け!


江戸を食う
 
えどをくらう 江戸所払いになること。



江戸を見せる
 
幼い子の頭を両手で挟んで持ち上げる遊び。


江戸を見ぬと牢へ入らぬとは男の範疇(うち)じゃねえ

 やくざ者の言い草



■東 京 の 由 来

 初めに断っておくが東京は地名ではない
 東京の由来は、読んで字のごとく「東の京(みやこ)」だ。坂本龍馬を屠(ほふ)った大久保利通らは
慶応四年(1868)五月十二日に江戸城を接収して「江戸府」を置くも、政権奪取を私的簒奪と見
せぬためには島津幕府にも毛利幕府にもする訳にはいかなかった。そこで野心を疑われぬよう国民の
目先を変える必要に迫られ、世の中は180度転換したと信じさせるため「御一新」に腐心した。国
民が忘れさせられていた「みかど(天皇)」を担ぎ出したのもそうだし西洋流を極端に模倣し江戸その
ものを否定したのもその現れだ。
 



■明治維新は「嘘」から始まった
 大久保利通ら官軍のスローガンは「鎖国攘夷・王政復古」だった。しかし大久保は新政府を樹立し
た後、江戸は三年町に居を構えると攘夷運動どころか、その日から洋服を着て朝食はパンにベーコン
エッグ、ミルクというざまだった。大老井伊直弼が開国したことを倒幕理由として錦の御旗を掲げた
はずなのに、徳川家が大政を奉還するや、大久保のやったことは西洋崇拝に欧米追従、小泉純一郎も
裸足で逃げる有様だった。王政復古も掛け声ばかりで明治2年7月8日には「百官受領」を廃止した。
これは表向き「武蔵守とか、大膳太夫とか、右衛門・左衛門・兵衛を名乗ってはならないということ
だ」と説明されている。しかし勝海舟が安房を安芳と変えて「あわ」と読ませるなど、武士にとって
はさほどのダメージはなかった。百姓や商人で「先祖代々の通り名だから」と拒絶したために斬り殺
された者も100人や200人じゃ収まらないが、大久保の大目論見はそんなところにはなかった。

   
太平の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰)たった四杯で夜も眠れず

 江戸時代は太平(天下泰平)。つまり維新など必要なかったということだ。太平の眠りを揺り起こ
しにきたのは外国で、国内にはその必要はなかった。では誰にとって必要だったのか?

 
ロスチャイルド
 明治維新が途轍もなく必要だったのは、実はユダヤ金融商人ロスチャイルド家だった。ヨーロッパ
を席巻し財産を奪い取るだけ奪い取って、残るのはロシアのロマノフ家の700兆ドルといわれる財
産だけとなった。併しロシア軍は強大で英仏のようにとろくはない。既に100万人からのユダヤ人
を移民移植させて、ヴナロード(農民の中へ)でロマノフ家の悪口を言いふらして革命の機運を醸す
もびくともしない。ロスチャイルドはロシア軍の力を減殺するために遠征させようと考えた。中国、
当時は清国が適当だが、清国に勝たせると清国が強大になってロシアが乗っ取られてしまう。それで
は元も子もない。そこで白羽の矢を立てたのが、日本だ! 日本を軍事大国に仕立て上げ、北進策で
シベリアを窺わせる。ロシア軍はうるさい蠅落しに出かけるだろう。そうすれば日本に力を貸して日
本に勝たせる。そうすればロシア軍の威信は地に堕ち、ロシア国民は漸く革命に気を回すだろう。ここで一気に疊かけて、ロマノフ王朝を殲滅し財産を奪い取る。フッフッフッフ、しめしめ!


王政復古はしたのか?
 「百官を廃する」ということは「律令制度を廃する」ことと同義だ。そして「律令制度を廃する」
ということは京都の公家が全員失業するということなのだ。つまり帝の側近である公家の発言を封止
し、結果的に彼らを政治的無資格者にすることだった。大久保は「みかど」の周りの人々を退けると
いう手の込んだ算段を、遥か遠いところで仕掛けたのだ。大久保は己に忠実な公家だけに役職を与え
て「みかど」の周囲に置き「みかど」を「菊のカーテン」の向こうに押し込んだのだ。これが大久保
が誇らしげに吠えたところの「王政復古」だ。一体どこに復古したんだろうね? 嘘言(うそ)で塗
り固めた騙しのテクニック。大久保は、陰湿狡猾な稀代の詐欺師ような男ゆえに、だからこそ西郷や
龍馬などと比べて国民的人気がないのだ。今の若い人で「維新の元勲」として知っている人が何人い
るだろう? 大久保を描いた書物は数冊しかない。研究者もオタクもほんの僅かで戦後も子孫がロー
キード事件など汚職事件を性懲りもなく引き起こしてる。
 そんな大久保が拵えたのが「困ったもんだの官僚制度」だから、外務省・財務省・防衛庁・道路公
団・社会保険庁・NHKなどなど、官僚や官僚もどきが公金を誤魔化して私腹を肥やすのは仕方がな
い。省庁が伏魔殿と化し、そこに巣食う官僚が、私利私欲の魑魅魍魎なのは大久保様のお陰ってこと
だ。だがネ長いものに巻かれるのを是として喜ぶ日本国民じゃあ、役人にお行儀をするのは無理な話
だわな。道路公団、社会保険庁、NHKで不行跡を恥じて辞任した奴がいるかい? 107人も殺害
したJR西日本の会長・社長・専務・常務が引責したかい? ・・・凡そ構造改革なんぞできるもん
か。できる要素を国民自体が持ってないンだよ。おれおれ詐欺(振り込め詐欺)に引っかかる爺婆を
あざ笑うが、国民はもっと大きな国家主義にコロリと騙されてらぁね。その上いよいよ4月29日が
「みどりの日(昭和節)」となる。明治は近くなりにけりだ。明治維新を大業成就と泣いて感激する
愚か者さえいるのだからお粗末極まりないねえ。国民はもっと賢くならなきゃ。気がつけばまたぞろ
同じ道だよ。小泉純一郎が靖国問題で中国・韓国を怒らせ続けたのは、国民に「中国や韓国が危険な
国で、心を許したら攻め込まれるぞ」と感じさせて、自衛隊の国軍化を納得させよう魂胆がある。
 改憲派は「自主憲法」と叫ぶ。だがしかしアメリカの属国である、言い過ぎだというなら属国状態
である日本が、果たして完全完璧に自主的に憲法を作ることがが可能なのか? 自民党内の国家主義
者たちが、アメリカの影響を一切受けずに自主憲法を制定すると豪語するのであれば、それは「対米
復讐」も含むという宣言となる。つまり近い将来米軍の完全撤退をお願いするということだ。しかし
アメリカ軍は「在日」と誤魔化すが、彼らは別に対中・対露・対鮮作戦のためにそうしている訳じゃ
ない。アメリカ軍は、彼らの歴史上後にも先にもアメリカを攻撃した日本を、二度と再び攻撃させな
いために抑止力として存在しているのだ。ために北朝鮮の存在を容認し、ともすれば裏で通じて朝鮮
半島の対立を助長している。在日米軍の存在理由を、彼らは「東アジアの安定のため」と主張してい
る。だからもし朝鮮半島に平和が訪れてしまえば、アメリカ軍の日本駐留はその意味・主張を無にし
てしまう。小泉がというか、自民党が靖国問題を解決しないのは、不安定要素としてのアメリカへの
貢献、お追従だ。自主憲法なんて絵空事よ。







東京奠都法律上東京は首都ではないのだ!)

  
 数百年来一塊シタル因循ノ腐臭ヲ一新シ大変革セラルベキハ遷都ノ典ヲ挙ゲラル
   ルニアルベシ・・・・遷都ノ地ハ浪華(なにわ=大坂=大阪)ニ如(し)クベカラズ


 内務卿大久保利通は、当初江戸幕府を断ち切る考えから大坂遷都論に燃えていた。 しかし

   江戸を切り捨てると徳川政権が温存され、日本が東西二つの国になる懼れが生じる

 と前島密に聞かされると忽ち江戸遷都に傾いた。

   徳川幕府に引き続いて江戸で政治をやるのであれば、徳川の名、将軍様の権威を忘れさ
   せなければならない。そのためには江戸という名は消さねばならない。あまりにインパ
   クトが強すぎる。江戸の名を変えなければ何時まで経っても徳川の世を懐かしむだろう
   ・・・

 大久保の目標は「自己の保全・維新政府を日本の正当政府として5千万国民に認知させること。徳
川幕府の政治を懐かしがらせないこと」それのみだった。そのために江戸の匂いのするものは全て排
除・除去・払拭・消滅・忘却させることに執心、増上寺も寛永寺も縮小し、江戸の町々の名称を悉く
変更した。そして江戸そのものも改称する必要を強く思考するようになった。大久保らは江戸の名前
を変えようと決心した。
 しかし江戸に代える名前にはいろいろ案があがったが「東亰(とうけい)」には少なからぬ抵抗が
あった。当時日本の首都は京都であり(法的には現在もまだそうだが)、「みかど不在の辺境の地に
京の名を冠するのは不敬の極みである」というのが主たる理由である。大久保は考えた。「みかどの
御座が京(みやこ)なら、みかどを江戸へ住まわせればよい」と。尊皇心の欠片もない大久保らは、漢
風では江戸を東都と通称することに目をつけ「東京」と改めることを決した。彼らは自己保身に必死
だ。反革命を最も懼れた。

 かくて慶応四年(1868)七月十七日、
   朕今万機ヲ親裁シ億兆綏撫(おくちょうすいぶ)ス。江戸ハ東国第一の大鎮、四方
   輻 輳(ふくそう)の地、宜シク親臨を以テ其政ヲ視ルベシ。因テ自今江戸ヲ称シ
   テ東京トセム。是朕ノ海内一家、東西同視スル所以ナリ


 と布告し、京都を「帝都」、大坂を「西京」、江戸を「東京」として東西を治めることが決定し
た。言葉上のごまかしだ。大坂を西京としたことは反東京論を封止するためだ。それがいい証拠に現
在大阪を西京という人はいない。そこで江戸府を「東京府」、江戸鎮台を「鎮将府」と改め、江戸を
東京に改称した。これはあくまで「呼称変更」であって「遷都(首都を江戸に移した)」とは謳って
いない。江戸が漠然とした地域名称である以上、東京もまた漠然とした政治的呼称「東京府のあると
ころ」に過ぎない。明治9年に『東京の地名附蝦夷地名』で西村茂樹は、

   東京ハ東ノ都トイフコトニテ地名ニハ非ザルナリ、

 といい、尾佐竹猛(たけき)は「江戸? 東京?」『明治文化叢説』に


   
江戸ヲ称シテ東京トシ京都を称シテ西京トセン

 といっている。大久保がもう少し頭の質の良い男だったら、皇居を東京という地名にすればよかっ
たのだ。だから「みかど」は帝都から東京城に行幸中であり、いずれ京都にお帰りになられるという
中途半端な状態のままに推移することとなった。つまり天皇御一家も法律的には行幸中(旅行中)な
のだ。だからこそ大久保らは「遷都」といわず(言えず)「奠都(てんと)」と誤魔化すしかなかっ
たのだ。敗戦を終戦といいくるめるの類いだ。「奠」は「さだめる」と訓み、奠都とは「都とする」
「都を作る」ほどの意味だ。これ以後遷都の布告や「東京が首都だ」という法律は一切公布されてい
ない。昭和25年~31年に「首都整備法」という法律が施行されているが、これは東京を首都と見
做した上で発効したもので、首都ど定めた法律ではない。
 しかるにほぼ全ての国民は「東京は首都」だと思っているし、信じている。
 実は「首都のような」「事実上ほぼ首都らしい」というところで、権力政党はこの辺りを明確にし
ようとしない。国歌と国旗はつい先ごろ苦し紛れに法律に謳ったが、もともと明治国家の始まりが嘘
だから白黒をハッキリできないのだ。
 それ故にこそ本当のところは依然として京都が首都」なのだ。
 平成17年から都立大学・都立科学技術大学・都立
保健技術大学・都立短期大学の校4が合体、そ
の名がふるってる。「首都大学東京」だ。「首都大学」だけでいいじゃない。何で「東京」がくっ付
くの? つまり東京が首都じゃないから「東京」を附ける必然があったんだ。「首都機能移転」論も
そうだ。東京は首都でないから「首都移転」と謳えないのだ。「首都機能移転」とは、省庁を各地方
に移転することらしいが、皇居を動かせないから、たとえば国会議事堂を仙台に、総理府・内閣府を
長野に、最高裁判所を大坂に移しても依然東京が首都だというへんてこりんな理屈だ。厳密には現在
も京都が首都だから、首都のような、ほぼ首都らしい東京からは遷都はできないのだ。
 天皇家は保守政権の人質状態にあるといっても過言ではない。だから官僚が妃殿下の人格を無視す
るような動きもするわいな。根本問題として「公務をお願いする」こと自体が不敬だろう。現行憲法
の大原則として何人といえども天皇に指図したり、御意思を封止してはならないんじゃないの? 宮
内庁職員は国家公務員であって天皇家の家人でも使用人でもない。また天皇家で書類選考したり面接
採用する訳でも、選任する訳でもない。何処の馬の骨か判らぬ者がある日突然前任者に連れられてき
て職員である旨の挨拶をして仕事を始める。権力者が何の目的で送り込んできたのか判らない。天皇
家としては政府を信用して唯々諾々と従うのみだ。まさか天皇家の側で「彼は嫌だ」とは断れまい。
また職員は他省庁からの出向が多く「天皇家にお仕えするんだ」という強い意志を持って国家公務員
になった訳ではなかろうから、内心面白くない者もいるだろう。尊皇心のない大久保利通、伊藤博文
らは「みかど」を何と「玉(たま)」と愚弄して呼んでいた。明治天皇は毛利家が長州は田布施に隠
匿していた南朝の裔大室寅之祐だという。孝明天皇は伊藤博文が刺殺している。どうあれ、明治天皇
は自ら南朝と明言したのだから、北朝最後の天皇孝明天皇とは血の繋がりはないということだ。
 アメリカ式民主主義を是とする世の中、公務員の全てが天皇に忠誠を誓ってる訳じゃない。宮内庁
も同前だ。採用時に厳選するといっても「権力者に都合がよいか悪いか」を厳選するのだ。
 以上の理由で東京は現在も政治的名称に過ぎず地名ではない。しかも首都でもない。地名的に扱お
うとしてるのが東京駅だが、東京駅は千代田区東京という町にある訳じゃあない。本来は「セントラ
ル・ステーション」すなわち「中央駅」とすべきであって権力のごまかしがここにもある。その東京
駅、平成24年に開業当時の外観にほぼ復元された。

   春 東京のこよひ花散る啄木忌(山口青邨)
   夏 東京に来て汗ばめる白絣 (細見綾子)
   秋 東京の空とも見えず渡り鳥(鈴鹿野風呂)
   冬 東京の上の冬雲襤褸のごと(松本たかし)




■皇室典範改変騒動

   上からは明治だなどというけれど治明(おさまるめい)と下からは読む(落首)

 慶応四年九月八日改元、明治元年になった。その9月20日~10月13日大久保利通の強請のま
まに「みかど」は東幸、江戸城に入られると大久保は間髪を入れず東京城に改称。「みかど」は12
月8日~22日還御(帰京)、ただちに一条忠香の女寿栄姫と御成婚、美子(はるこ)皇后とされ、
翌年3月7日~28日には還御を信じて江戸に再行幸されたのだが・・・
 大久保らは、徳川家康のように万民から天下の第一人者と認められた訳ではないから、国民から猜
疑の目で見られていた。だから強奪した権力を保持するためには、「みかど」の権威を悪用するしか
なく、それ故にこそ、「みかど」を京都に戻す訳にいかなかった。それで天皇制(皇室典範)という
ものを拵えた訳さ。何故なら「皇統は万世一系の男子に限る」としたのは、自分たちこそが「正当な
る政府」ということを誇示するためだろ? 今百数十年経って明治維新を顧るなら、明治政府は正当
政府だけれども、当時は海のものとも山のものともつかず、徳川幕府に戻っても不思議じゃあなかっ
た。大久保たちが追い落とされる可能性もなくはなかったから、天皇を戴く振りをして、別の天皇は
認めないよという姿勢を貫くしかなかったのさ。そのために何としても「皇室典範」が必要だったん
だよ。もし民主主義の世の中ってえなら、「世継ぎを法律で決める」というのはその意思に反してい
ないかい? なぜ天皇家だけが法律によって跡取りを決められないといけないんだ? 天皇家が、自
由な意思で皇族会議を開いて決めればいいじゃないか、そう思わないかい? 女性でも、女系でも、
天皇家で決めれば何の問題もないだろ? 「皇室典範」という法律こそが民主主義に、自由主義に反
しると思わないのかい? 
 「天皇制廃止論」なる愚かな議論があらぁね。天皇家の存在は〝制度〟じゃあない。天皇家は平和
な一家族であって、〝制度〟とした大久保の考えこそが不遜なのだ。天皇家には名字・苗字・姓名と
いう安っぽいものは付随してない。英国王室は王制が廃されるとただのウィンザー家となるし、オラ
ンダ王室もナッソウ家となるが、天皇家は制度があろうがなかろうが天皇家なんだ。つまり憲法に謳
おうが謳うまいが、蓋し「皇室典範」があろうがなかろうが、天皇家は天皇家なんだ。それ故にこそ
権力者が「天皇に公務をやらせない」と力んでみても、本来そんなものは天皇家の任務じゃあないか
ら、結局「天皇制に依存して止まない」のは、明治以来の権力の側なのだよ。つまり現在天皇家は明
治以来の権力の人質とされているのだ。天皇は皇居にお住まいだからといっても、皇居は天皇家が固
有に所有する地所ではない。総て権力の国有地だ。
 考えてもみろ、「皇室典範」とは「天皇家の家憲」じゃないぞ。天皇家を枠の中に押し込める「権
力の都合書き」なのだ。大久保らが天皇家を牛耳るため「天皇家に強制した法律」だ。聖徳太子や後
醍醐天皇がお作りになった天皇家の家憲じゃあないんだな。皇室典範は「天皇家の継嗣権を奪う」人
権無視の天下の悪法なのだ。天皇の継承を何で10人ばかりの権力の息のかかった学者どもだけで決
めるんだい? しかも小泉純一郎は多勢を嵩に着る今を以て直ぐに決定しようとしたのか? もしか
すると小泉の父親純也は薩摩だから、小泉も悪党の一味なのかも知れない。今度改めようという皇室
典範は「皇位簒奪」を目論む極悪非道人たちの欺瞞の法律ということを知識しなければならないんだ
ぞ。悪運ここに尽きるというか、悪事が進行しているときに「紀子様御懐妊」。何たる僥倖。
 天皇は養子を取ることも禁止されている。それは一つに天皇が権力の下を離れて一人歩きすること
を恐れるからだ。もし徳川家の御曹司を養子にでもされたら・・・ また反政府、反権力の男子が養
子に送り込まれたら・・・ 天皇の継嗣問題に権力が口出しするのは、自分たちの正当性の保全のた
めなのだ。それは麻生太郎外相がいみじくも口を滑らせた「天皇は靖国神社にお参りしろ」発言に要
約されている。天皇は権力の意思のままに動くべきだとの思考だ。権力の意の儘になる天皇の創出、
それこそが女系天皇容認論だ。愛子内親王のお相手に権力の意思を飲んだ男子が、自由恋愛という形
を取って送り込まれる? それが国際結婚だと・・・
 平成18年9月6日皇太孫殿下のご誕生で、悪事は一時的頓挫をする。悲しいことに愛子内親王は
権力・マスコミによって忘却の彼方へ連れ去られてしまうのだ。
 次代天皇を何方になさろうと、それは天皇家の恣意気儘だ。本来権力や国民の関与を許すべきこと
じゃあないだろ? 天皇家にとって女帝論だの女性宮家だの、大きなお世話なのだ。今上陛下がいみ
じくもおっしゃられたのは、「コメントは控えたいと思います」というお言葉だ。コメントを控える
ということは、コメントができない、コメントのしようがない、言い換えれば「嬉しくはない。好ま
しくはない」ということだ。行間ということがあるが、皇室典範の改正案にご不満だということが言
外に滲み出てる。皇位について、国民の過半の支持も得られない権力者たちの口挟む範疇なのか?
 小泉純一郎が、倒閣されることを回避するための選挙で、3分の2の議席を取ったからとてだ、自
民党の得票率は過半を越えてはいないのだ。それが親王・内親王にかかわらず第一子を天皇とするな
ど、お節介も甚だしい増上慢。
 そこで天皇が養子を取れない理由・女帝を忌避し続ける理由はというと、権力的悪党の血筋が天皇
家に侵入することを塞ぐ意図からだ。「万世一系」の堅持はそこにこそ意味がある。お前さん中曽根
康弘や竹下登、森喜朗、小泉純一郎の孫や曾孫が、女系天皇の夫となり、その子が天皇になった時、
尊敬が出来るかい? もっと敷衍するならば、アメリカがブッシュの孫を愛子内親王の相手にと要求
があって、その時小泉純一郎のような朝鮮系対米追随主義者が権力者で、「へえへえ」とお追従で了
承、突然に愛子内親王ご留学、何故か偶然、ブッシュの孫も同じ学校へ。取り巻きがお膳立てして2
人は出会い、かくて恋に落ち、「世紀の恋」と書き立てるマスコミの大騒動で国民はパッション、と
いう稟議もないことじゃなくなるんだぜ。
 男子国民が天皇家の血筋に入り込むことを「皇位簒奪」という。これは日本においてこれ以上ない
犯罪なのだ。この罪を難しく説明するとだ、国民として行ってはならない「八虐(はちぎゃく)」の
第一、「謀反(むへん)」という大犯罪なのだ。この罪を犯そうとした者は蘇我入鹿・弓削道鏡・藤
原道長・足利義満・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・大久保利通といわれている。「民間から皇后陛
下を」というのは、民主主義下では一見耳に聞こえがいい。しかし悪党が付け入る隙間でもある。皇
位簒奪を目論む強欲政治家たちは、いつも皇室の婚姻に無頓着そうに振舞ってみせる。しかし権力者
たちはいかにも皇室の人々が自由恋愛によって御成婚なされているかのように段取りする。そこに外
務省と宮内庁の葛藤もある。海外における皇室の威力は一人の有能な総理大臣や外務大臣の比ではな
い。常任理事国入りにご執心の権力の目的のために、婚姻を利用しようと其欲逐逐たる者は、現在も
将来も皆無な訳じゃあるまい・・・ もし政治家や官僚の息子か孫が、我々の愛子内親王様の婿とし
て入り込んだとしたらゾッとするどころじゃない。女帝論には保守派政治家の衣の内の鎧心(皇位簒
奪)が見え隠れする。天皇家のことは天皇家の自由の事柄、干渉は民主主義に、ましてや日本国憲法
に悖る行為じゃないの? 菊のカーテンは天皇家が引くのではなく、権力者が引くんだよ。新宮がご
成長なされてご成婚と相成ると、またぞろこの問題は再燃する。もしかしてお子を持たれない事だっ
て想像しなければならない。第一子継承論はともかく、お相手が民間人でない女系天皇は考慮の範疇
に入れなければならぬ時節が到来していることだけは事実だ。


■女系天皇化の謀略
 女系天皇を何故2665年もの間、忌避してきたかというと、皇位を簒奪しようとする悪心抱懐の
権力者たちを退けるためだ。天皇の地位をユダヤが狙っている。明治天皇は李氏で、既にユダヤの血
を引いているが、大正天皇以降はユダヤの地は途切れている。
 しかし、大正以後の権力者は、不文律だった皇位継承を明文化して、権力に都合の良い、つまり権
力者の意向に従って靖国神社にお参りするような天皇を作りあげ、権力者の血筋の色濃い皇位としよ
うと企てる。因みに靖国神社は日本神道の神社ではなく朝鮮教の招魂場に過ぎない。
 大久保利通たちは天皇を明治天皇で終わりにしようとした。ところが側室の柳原二位局(その後昇
位されて祐天寺の墓碑には一位局と彫られている)によって大正天皇を授かったので、明治政府は大
正天皇の側室の制を廃して万世一系が根絶やしとなるように仕組んだが、大正天皇は、西園寺八郎に
よって昭和天皇と秩父宮の男系を得られた。大久保の子分山県有朋は、昭和天皇の教育を非人間的に
扱ったが、昭和天皇はその謀略に乗らず成長せられ、しかも長寿を保たれた。権力者たちは皇血を薄
めるため、上皇陛下に自由恋愛と銘打って民間皇后を押し付けた。李氏岸信介だ。その孫の今上陛下にも秋篠宮にもそれを踏襲させた。真子内親王にさえ韓国工作員を宛がおうとしている。
 そして権力者が望んだとおり男系が絶たれる状態となり、待ってましたとばかり女性天皇・女系天
皇を法律化しようとした。小泉純一郎が慌てたのは、国民がボヤーッと、シンデレラや白雪姫のよう
なメルヘンチックな夢を見ているドサクサに紛れて「皇室典範」を改変する犯罪を犯そうとした。つ
まり女系天皇が正当化されると、その旦那さん(何と呼ぶのかな、皇夫陛下とでも呼ぶのか?)は、
必ず権力者側の人間となる。無論国民を欺瞞する演出はプロデュースされるだろう。もしお子がない
まま女帝が死亡したとすると、皇位はこの皇夫となるよ。また女帝が女帝を生み、また女帝が女帝を
生んでいくと、皇血はどんどん薄まり、ユダヤ系権力者側の血はどんどん濃くなっていく。これはま
さに「皇位簒奪」なんだ。悪党たちは、2665年の夢を叶えんとして虎視眈々其欲逐々だ。小泉に
女系天皇で行けと囁いた吉川弘之なる人物(東大出で皇室典範に関する有識者会議座長)の先祖を手
繰れば悪党の一味に相違あるまい。女系天皇を可とするなら、結果として「天皇は誰でもよい」とい
うことになり、権威も、伝統も希薄なものになって大久保が目論んだ通りの天皇家滅亡が完成する。
 秋篠宮紀子が懐妊、皇室典範改正に歯止めがかかって小泉はホッとしたことだろう。これ以上好き
勝手なことをやったら身に危険が及ぶ。運だけで生きてる小泉は、逆の意味で命拾いした。それは敏
感に本能が感知していたろうから、小泉にとっては皇太孫のご誕生は全く救いの神となった。
 憲法改変、皇室典範改変。悪党たちは着々と日本を奪おうとの企てを実行している。愛子内親王の
夫がブッシュの孫だったりしたらどうするよ。小泉ならやりかねなかった。そんなことをしたら、万
世一系派と女系天皇派に分かれて日本は真っ二つ、またぞろ南北朝時代の到来だ。揉め事の種は播か
ぬが賢者というもの。メルヘンの世界に酔っていたら、元も子もなくしてしまうぞ。頭を使ってよー
く考えよう。自ら勉強しよう。
 皇太孫殿下がお生まれになって本当によかったね。でも悪党は滅んだ訳じゃない。


天皇の系譜(天皇の称号は省略、は父子 は兄弟 青字は女性天皇)
 
神武→綏靖→安寧→懿徳→孝昭→孝安→孝霊→孝元→開化→崇神→垂仁→景行→成務/
 以上13代までが神話上の天皇。この世代の在位が100年を超えるのは数代の天皇を1人に集約
 しているものと思われる。
 初代は崇神天皇で前九代は疫病退散のため病気に強い南九州の支配者をプラスしたという。天皇は
武力的制圧者ではなく、連合体の管理責任者の地位だ。
 日本武尊(倭建命)は景行天皇の皇子で、その皇子が成務の後を継いで仲哀。
 
仲哀→応神→仁徳→履中・反正・允恭→安康・雄略→清寧/
 で途絶えたので履中天皇の孫兄弟を探してきて
 
顕宗・仁賢→武烈/
 と繋いだもののまた途絶え、福井から応神天皇5代の孫を探してきて仁賢天皇の内親王と結んで継
 体天皇とする。継体は、国体を継ぐの意だ。ここからが今上天皇まで続く訳だ。
 
継体→安閑・宣化・欽明→敏達・用明・推古・崇峻/
 最後の四人は異母兄弟で、推古は用明の姉君で敏達の皇后。崇峻は末弟。
 
舒明・皇極・孝徳・斉明→天智・弘文
 皇極と斉明は同一人物で重祚(2度即位すること)、舒明の皇后で孝徳の姉宮。
 天武・
持統
 天武は天智の弟(正しくは新羅)、持統は天智の姫宮で天武の皇后。
 
文武・元明元正
 文武は天武の孫宮(草壁皇子の王子 新羅王)、元明は文武の母宮、元正は妹宮。
 
聖武→孝謙 淳仁 称徳
 聖武は文武の皇子、孝謙と称徳は同一人物で聖武の内親王、重祚した。淳仁は天武天皇の孫宮(舎
 人親王の王子)
 
光仁→桓武→平城・嵯峨・淳和
 光仁は天智の孫、桓武(母は朝鮮人)は平氏の祖でもある。平城・嵯峨は兄弟、淳和は異母弟。
 
仁明→文徳→清和→陽成
 仁明は嵯峨の皇子。清和は源氏の祖。
 
光考→宇多→醍醐→朱雀・村上→冷泉・円融
 光考は仁明の皇子、文徳の弟宮。朱雀・村上は兄弟。
 
花山 一条 三条 後一条・後朱雀→後冷泉・後三条→白河→堀河→鳥羽
 花山と三条は冷泉の異母兄弟。一条は円融の皇子。後一条・後朱雀は一条の皇子で兄弟。
 
崇徳・近衛・後白河→二条→六条
 崇徳・後白河は兄弟、近衛は2人の異母兄弟。
 
高倉→安徳・後鳥羽→土御門・順徳→仲恭
 高倉は後白河の皇子で二条の異母弟。安徳と後鳥羽、土御門と順徳は異母兄弟。
 
後堀河→四条
 後堀河は高倉の孫(守貞親王の王子)、後鳥羽の甥っ子。
 後嵯峨→後深草・亀山→後宇多
 後嵯峨は土御門の皇子、後深草・亀山は兄弟。
 
伏見→後伏見 後二条 花薗 後醍醐→後村上→長慶・後亀山・・・・
 伏見は後深草の皇子。後二条・後醍醐は後宇多の皇子で異母兄弟。花薗は伏見の皇子。長慶・後亀 山は兄弟で南朝
 光厳・光明 崇光・後光厳→後円融(以上北朝)
→後小松→称光/
 
後花園→土御門→後柏原→後奈良→正親町
 光厳・光明、崇光・後光厳はともに兄弟。後花園は崇光の曾孫。
 後陽成→後水尾→
明正・後光明・後西・霊元→東山→中御門→桜町→桃園・後桜町
 後陽成は正親町の孫(誠仁親王の王子)。明正・後光明・後西・霊元は異母兄弟。明正は徳川家光
 の外孫でもある。後西は徳川幕府に苛め殺された。桃園と後桜町は異母兄弟。
 
後桃園
 後桃園は桃園の皇子。
 
光格→仁孝→孝明 / 明治→大正→昭和→平成→今上陛下
 光格は東山の曾孫(閑院宮典仁親王の王子)で、後桃園の内親王と結婚。但し仁孝の母宮は側室。
 大正の母君は柳原二位局。(この項『天皇紀』より抜粋)

  明治天皇は自ら南朝系だといっているので、少なくとも孝明天皇とは血の繋がりがないことにな
 る。となると奇兵隊天皇は真実味を帯びてくる。大室寅之祐だ。

 ※孝明天皇はロスチャイルドの指令で、長州藩下忍伊藤俊輔博文(朝鮮人林利助)によって弑逆
  された。ロスチャイルドは、ロシア革命を起こしてロマノフ王朝を滅ぼし、その財産を強奪す
  る謀略を立てていた。併しロシア軍は強大で、革命なんぞ夢のまた夢だった。そこで考えたの
  が、極東の日本、黄金の国ジパングを軍事大国に仕立て上げ、ロシア軍を東方へ追いやろうと
  考えた。そこで鎖国日本を開国する必要に迫られたが、徳川幕府は開国を承知したものの、孝
  明天皇は開国に反対している。ロスチャイルドはトーマス・グラバーに指令を発した。邪魔者
  は消すのみ。「殺させろ」。長州人の下級武士は、大内氏の残留家臣団で朝鮮人が多い。林利
  助も朝鮮系長州人。かくて〝長州ファイブ〟としてイギリスに呼び出された林利助は、甘い話
  を聞かされ孝明天皇は暗殺を唆される。伊藤博文となった利助は孝明天皇を弑逆する。本来明
  治天皇となるべき皇太子祐宮睦仁(さちのみやむつひと)も闇に葬られた。
   こうして南朝系という触れ込みの大室寅之祐が明治天皇に摩り替る。大室寅之祐とは、地家
  作蔵と興正寺基子(すえこ)の子寅吉で、離婚後基子が再嫁した大室弥兵衛の子寅助が夭逝し
  たため寅助に成り代わって大室寅之祐となったもので、地家作蔵がユダヤ系朝鮮人であるとこ
  ろから、明治天皇となった大室寅之祐は南朝系でもない。従って天皇家の血脈は孝明天皇で途
  絶え、明治天皇以降は、ロスチャイルド朝とでもいうべき哀れな天皇家と成り果てたのだ。蓋
  しこれを称して「田布施システム」とはいう。
   噂では、大正天皇は時の権力者大隈重信の、昭和天皇は毛利の血筋西園寺八郎の、今上天皇
  は三笠宮の、皇太子浩宮は徳川恒孝の子だという。奇々怪々、魑魅魍魎の世界だ。

 
明治天皇のカラクリ(李氏客家)
 不思議なことに明治維新を興した明治天皇について学校で習うことはない。また大河ドラマ等で取
り上げられることもない。我々はキヨッソーネが絵描いた写真のような肖像画を示されるのみで、明
治天皇は存在だけの人となっている。残るのは肖像画のみで写真は1枚もない。つまり我々の知る肖
像が明治天皇その人かどうが知るすべはない。
 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言中山忠能の娘慶子で、嘉永五年九月二十二日、
西暦では1852年11月3日の生まれ。だからこの日が文化の日となっているのだ。中山邸で誕生
し、孝明天皇から「祐宮(さちのみや)」と命名され、安政三年九月一日(1856年9月29日)
に宮中に転居した。
 予定より2年遅れて万延元年閏三月十六日(1860年5月6日)、深曽木の儀を行った。7月1
0日(8月26日)に儲君と定められ、准后九條凪子の実子とされ、9月28日(11月10日)に
親王宣下を受け「睦仁(むつひと)」の諱名を賜る。
 山口県熊毛郡田布施の地家作蔵は岸家の出で、父要藏はユダヤ系中国人李家(客家)の人、海賊で
海賊とは廻船業を営む。この岸は「李」を分解して「木子」、「ぼくし、ぼくこ、きし、きこ」と読
めるが、「きし」に「岸」の字を当てて「ガン」と読ませた。岸要蔵は作蔵と信祐兄弟を設け、作蔵
は地家吉左衛門の養子に入り、信祐は岸家(きしけ)を興した。信祐の子は信政と秀助で、秀助は佐
藤茂世と結婚し佐藤姓を名乗り、市助・信介・栄作の三兄弟を生んだ。次男の信介は、岸信政の娘良
子の婿養子となる。こらが〝昭和の妖怪〟岸信介だ。娘洋子が安倍晋三の母親だ。
 さて地家作蔵は、山口にやってきた興正寺昭顕の娘基子(末子、季子 谷口スエ)と結婚、寅吉、
庄吉、朝吉を設ける。昭顕は浄土真宗大谷家の出で、毛利の血も德川の血も入っている。
 基子は、何故か作蔵と離婚し、基子は寅吉と庄吉を引き取って、光良親王の末裔とされる大室弥兵
衛と再婚、先妻の子寅助が夭逝した為、寅吉は寅助の名を引き継いで大室寅之祐となった。
 この間のことは、シナリオライターかプロデューサーがいたのだろう。話が上手くいきすぎてる。
大室虎之祐を貴種に仕立て上げている。彼は明治天皇になるべくか、桂小五郎や伊藤博文に薫陶を受
けている。だから明治天皇は書も和歌も凄いし馬も乗りこなせば、相撲も強く、西郷隆盛を投げ飛ば
したことは有名な話だ。六尺豊かな偉丈夫で、高杉晋作の奇兵隊では力士隊に属していた。
 大室家が貴種かどうかについては不明だが、毛利家が神奈川の森から、光良親王の裔を奉じてやっ
てきたことは事実のようだ。山口萩市の萩は、毛利の本貫地の地名だという。但し、数百年の年月を
経ているため証明のしようがない。神武天皇の遺伝子検査はしていないから、天皇家の血筋が正しい
ものかどうか、これも証明のしようがない。しかし、大室寅之祐が李家の血筋であることは間違いな
い。かくて寅之祐は長州の力によって明治天皇に成りすます。寅之祐は新選組に殺されたこととして
戸籍から抹消されている。
 一方、祐宮睦仁親王は、貴種らしく女性たちに囲まれて育ったため男性的な活動はさせて貰ってい
ない。だから、ある日突然、馬を乗りこなす偉丈夫となって現れたものの、維新のどさくさに紛れて
違和感を抱く人々や反対派を押さえつけ、華族制度を拵えて口を封じた。明治天皇が大室寅之祐の成
りすます華族はいる。明治天皇は生涯、写真を撮らせなかったし、服の採寸もさせなかった。キヨッ
ソーネの肖像画が明治天皇と信じている国民は殆どだが、寧ろ上野の西郷さんの銅像が本人ではない
かという。西郷さんも写真が一枚も残っておらず、幕末の集合写真にもそれと思しき人物は写ってい
ない。「これが西郷さんだ!」といわれる写真が提示されることがあるが、真偽の程は兎も角、みん
な普通の体格だ。大室寅之祐が投げ飛ばしたとしてもおかしくはない。
 追われた祐宮は、暗殺されたとも、僧侶となって一生を終えたとも言われている。
 明治天皇は酒の飲み過ぎで子供が出来ず、大正天皇は大隈重信と柳原愛子の子だという。昭和天皇
は毛利の血筋の西園寺八郎と貞明皇后の子、平成天皇は三笠宮の子、今上陛下は徳川恒成の子ともい
われる。これも天皇を操るため岸家(李家)の差配かもしれない。
 
安倍(李)晋三
 李氏朝鮮の最後の皇太子李垠殿下の長男李晋が、やはり朝鮮系の安倍寛の養子となり晋太郎(太郎
は長男の意)、晋太郎の子が寛信・晋三・信夫で、信夫は岸家を継いでいる。晋三は子ができないの
で、寛信の子の寛人、信夫の子信千世がいるが、寛人が継ぐことになるだろう。長州黒手組、統一教
会、日本会議という莫大膨大な財産を受け継ぐことになる。統一教会は岸信介が拵えたもので、教祖
文鮮明は大成建設にいたのを抜擢してカリスマに仕立て上げた。だら日本人娘に冷酷で、合同結婚で
結婚を強制し、その家族の財産を搾り取るのだ。李一族はユダヤ系だからネ。
 安部が、国民が見向きもしない憲法改正に御執心なのは、李家支配の確立完成である。憲法に謳っ
てなくったって日本国民は自衛隊を認めているし、何も文言で謳う必要はないと考えている。まあ曖
昧模糊たるが好きな日本国民は、自衛隊が憲法違反とは識るがみて見ぬふりをしているのだ。野党の
朝鮮人たちが憲法反対を叫ぶのは、その国民性を知るからだ。
 安部は憲法を改正して明治憲法に近いものに戻し、李氏王権を築き上げ、再び日本国民を絶対権力
に下に置き睥睨しようというのだ。やがで天皇家にイギリスの王家(ユダヤ)から王子様がやってき
て、正々堂々ユダヤ人が天皇となる。
 日韓関係が不味いのは、李氏(晋三)と文氏がそぐわないからだ。
 
麻生太郎
 麻生太郎の家系は、九州石炭王麻生太吉→太郎→太賀吉→太郎となる。本人は藤原系で中臣鎌足の
子孫だと曰わる。とすると、中臣鎌子(藤原鎌足)は百済人なので、麻生家も朝鮮系といえる。明治
維新で復権したんだな。太賀吉の嫁が、吉田茂の娘和子、吉田茂の嫁は、大久保利通の孫娘雪子。父
親は土佐藩士竹内綱で、福井藩士吉田健三の養子となる。併し実際は健三が長崎の売春婦に産ませた
子で、竹内からの養子ということにした。この健三は、維新後ジャーディン・マセソン商会の横浜支
店長となり巨万の富を築いたという。ジャーディン・マセソン商会は阿片戦争を惹き起こした東イン
ド会社のユダヤ人で、ここからトーマス。グラバーがゲベール銃7800挺をやってきて明治維新を
起こさせた。
 余談だが、麻生の娘彩子はロスチャイルド家の分家フレデリック・デホンの嫁になっている。
 ジャーディン・マセソン商会は麻薬を扱っていた訳だから、茂は太賀吉と組んで麻薬を売り捌いて
いた。この利益が天皇家に上納され覚え目出度かったという。麻生太郎の妹信子は三笠宮寛仁親王の
妃殿下だ。東条英機がA級戦犯として処刑されたのは、モンゴルの麻薬を売り捌いて利益を得たこと
が逆鱗に触れ、政治的軍事的罪はないのに、A級戦犯という名目で殺された。東条は太平洋戦争には
反対で、必ず負けると危惧していた。昭和天皇は東条が邪魔だった。それが広島原爆だ。
 ジャーディンは、「ウィリアム・ジャーディン」、マセソンは、「サー・ジェームス・ニコラス・
サザーランド・マセソン」。2人ともロスチャイルドの子分でユダヤ人だ。
 




■日本官僚主義
 かくて江戸は「東京(あづまのみやこ)」となり、「みかど」の在します首都擬(もど)きのサブ
キャピタルとなった。しかも東京は「とうけい」と読まれ、「とうきょう」に定着するのは明治後半
のことだ。大江戸の町々が名前を大幅に変更させられるのは明治2~5年、同6年には完全中央集権
国家にしようとして「地租改正」を始め、翌年「大区小区制」を敷き、専制強圧政治で国民管理を試
みたが反発が強く、全国的に不平武士の抵抗の嵐が吹き荒れた。この抵抗運動に大久保は殺戮に次ぐ
殺戮を以て鎮めようとしたが、全国に広がった反政府運動は勢いを増すばかりだ。その最たるものが
「西南戦争」だが、大久保利通は僚友西郷隆盛を屠っても権力にしがみついた。廃藩置県の時、怖く
て怖くてビビりまくり小便をちびった男がだよ。しかし悪運も尽きる時は来るもので政敵を悉く暗殺
という手段で葬り傲慢の限りを尽した大久保も、明治11年5月14日紀伊国坂を通る仮皇居への順
路を変え、麹町は清水谷の沢道から参内しようとしたところ、待ち構えていた旧加賀藩士の天誅を受
け権力の座から引き摺り下ろされてしまった。これより先大久保は生きていれば天下の宰相になった
だろうと嘱望されていた加賀前田家の家老本多政均(まさちか)の暗殺指令を発し、その通り政均は
金沢城の殿中で刺殺され、その恨みを買っていた。斬殺者たちは表向き「西郷暗殺に怒りを覚えた」
と供述して主家前田家に累を及ぼさなかったが、事実は復讐(リベンジ)だった。天罰覿面、大久保
利通は天国に昇ったか、地獄に堕ちたか、さてさてどっちだろう?

 暴君を失った新政府の役人達は、驚天動地・周章狼狽、二ヶ月後の7月22日、大区小区制を引っ
込め「郡区町村編制法」を施行して旧に復し、東京府は15区6郡となり多少自治権を回復した。同
22年4月1日「市制町村制」により郡部は町村合併を施し自治権はさらに拡大し、同31年10月
1日15区に東京市を設置した。同44年5月1日に「市制町村制改正」があり神田や市谷・深川な
どの冠称付の町名は区名と重複する煩雑を除去するため、各々その冠称を削除した。昭和7年10月
1日東京市は周辺6郡を編入し20区を増設、「35区制」となった。それでも大久保の捨て毒は国
家主義官僚を作り、内務省を以て管理監督・監視束縛することは忘れてなかった。現在も公選とはい
え知事・国会議員には内務省(自治省→総務省)系の者が多い。明治維新の亜流政権としては地方が
権力を侵食することが堪らなく嫌なのだ。東京市の治権力が強まって内務省の力が及びにくくなると
内務官僚は、同18年7月1日「府県制・市制・町村制」を改正して東京府と東京市を廃して新たに
「東京都」を発足させ自治権を掣肘せんとした。しかし同21年9月27日占領米軍の指図で「都制
・市制・町村制」が改められ知事・区長の任命制が公選制に変わった。これには内務官僚は「専制権
の削減である」と猛烈に反対したが、情けないことに、アメリカ人に「私利私欲に走る」との愚を諄
諄と諭され、民主主義の原理や正義は理解はできぬものの、何となく「自分たちのやっていることは
悪いことなんかな」とは感じ、知性があるような顔をして内心は渋々ながら承諾した。
 同22年3月15日戦後焦土からの復興には、疲弊した都心区を再編して立ち直るしかなく合併合
同により「22区制」とした。4月17日には市制町村制を廃して「地方自治法」を施行、自治権が
大幅に拡大し、8月1日板橋区から練馬区が独立し「23区制」が確定し、今日に至ってる。早く地
方に権力を取り戻して分権しないといずれまた国民は内務官僚の恣意のままに戦争に連れ出されるだ
ろう。大久保の残した毒である負の遺産「官僚制度」は軍部独裁という形で日本を敗戦に導き、戦後
も外務省は伏魔殿となり、社会保険庁・道路公団を氷山の一角として真綿で首を絞めるように国家と
国民を苦しめ続けている。
 だから天皇家がいつ京都へ還御されるのかはまだ定まっていない。孝明天皇は弑逆され、長州の朝
鮮部落(田布施)から連れてきた大室寅之祐を明治天皇に仕立て上げたという話もある。だから「東
京を首都とする」という法律が作れない。そのため法律上は未だに京都が首都なのだとか。

天下り人事
 民主主義とは名ばかりの日本政治。天下りは官僚システムであって、彼らが役人の御都合主義で天
下り人事をやってる訳じゃない。国民を完全管理し、国家機構を維持するための絶対行為なのだから
国会議員がどう踏ん張ったって官僚集団に勝てる訳がない。
 例えば今渡辺喜美行革大臣が「天下り禁止法」なんぞ頑張った。安倍の肝煎りだという。お調子者
の山本一太が「省益優先の霞ヶ関文化」をぶち壊すこと。危険を承知で「虎の尾」を踏んだなんぞと
持ち上げている。確かに一見厳しそうなそんな物ができたとして、国民の溜飲を下げるのが目的で実
質は伴わない。役人の人材銀行といっても役人の大半は使い物にならなく、官僚的に有能なのは少人
数だから、そこんところは、裏取引でも、テクニックでも使えば、法に則った天下りは可能だ。却っ
て官僚たちは「法に則った」ことを強調して天下り人事は隠蔽されてしまう。安倍の狙いはそこにこ
そあるといえるのだ。この世の中にその他大勢の国民のための政治を行う権力者なんぞいる訳がない
だろう。自分が権力者になったことを考えて見ろ! 
 もし安倍の「美しい国日本」を実現したとしたら、日米戦争は必至だ! とすると自衛隊はアメリ
カを破滅させる、あの方法を手に入れたのかもしれない! 
 国会議員は1000人に満たないが、官僚はごしゃまんといるのだ。勝てるかい。
 日本がアメリカと戦った3年半のエネルギーは、明治から爪に火を灯すようにして節約と倹約に、
これ努めて蓄えたものだった。ということは、役人たちも悪党ばっかしじゃあない。特別会計も汚職
という公金横領も、悪名を被ることによって、秘かに蓄えているのかも知れないのさ。というは、表
向き昭和天皇に諭されて敗北を認めた時、対米復讐の覚悟は始まったのだ。臥薪嘗胆ということがあ
る。役人も自衛隊も腹に一物背に荷物、日日が何時かは敵を取るの覚悟だ。だから天下り人事は対米
復讐システムともいえるのだ。天下りは、役人の個人的な問題ではなく、官僚システムの歯車の一つ
なのだ。
 対米復讐について、アメリカは百も承知だから、日米安全保障条約などのお為ごかしで、日本統治
を続けている。箱物行政という無駄遣いはアメリカの命令だ。江戸時代、参勤交代で大名を疲弊させ
たように、アメリカは日本の牙を抜き続ける。アメリカが最も恐れるれ仮想敵国は、ロシアでも中国
でもなく、まさに日本なのだ。何のために日本に米軍は存在するのだ。もし日本の防衛ということな
ら、金持ち日本、勝手に守れよ、と云うのが筋だろう。アメリカは日本に対して「自分の国は自分で
守れよ」といえないのだ。完全自主防衛となれば、日本が核装備することを否定できない。日本が核
を持てば、何時の日にかアメリカ本土に打ち込むことは間違いのない事実だ。アメリカはそれが最も
怖い。だから安保条約は切れないのだ。アメリカは日本への駐留理由を「東アジアの安定のため」と
ほざいている。つまり北朝鮮問題だ。東アジアから北朝鮮が消滅してしまうと、東アジアは安定して
しまう。安定するとアメリカは日本から完全撤退しなければならなくなる。と云うことは、アメリカ
が日本を監視し続けるためには、北朝鮮は必要不可欠な国家なんだよ。米朝協議なんぞの猿芝居、チ
ャンチャラ可笑しくって、臍で茶を沸かすぜ。アメリカと北朝鮮は、裏でつるんでるんだよ。拉致問
題なんぞ解決する訳もねえだろ。
 天下りとアメリカの占領、戦後70年以上のせめぎ合い、治まるもんかい!
 北朝鮮のミサイルに三菱マークが付いていたという情報がある。


■自主憲法というまやかし

 「自主憲法制定」と騒ぐ愚か者がいる。「現在の憲法は、アメリカ合衆国の指図(実際はユダヤの
指図)で作らされたマッカーサー憲法だから、日本人の発想で作り直そう」との論だ。「俺は鮮人だ
!」と叫んで死んだという安倍晋太郎の息子晋三がその急先鋒だわさ。自主憲法とは「日本人の、日
本人による、日本人のための憲法」ということだろうが、それは「欧米の文化を考慮せずに作る」と
いうことなのか? もしアメリカが作ったことが悪いというなら、国連平和主義・議会制民主主義・
博愛平等主義等は西欧の文化だから、しかもアメリカが強制したものだから、これを全て否定すると
いうことになる。もし安部がそう思っているのならだよ、自衛隊の国軍化は「対米復讐」の段取りか
(?)、米国主義、中でも安保条約排除というダイナミックなものにならねばならないことになる矛
盾。つまり自民党は対米強調路線を採らないという表明になる。
 逆に欧米文化は否定しない、対米強調、国連平和主義も排除しないということなら、安部自民党の
作る「新憲法」は、欧米、少なくともアメリカに承認されるかその意向に沿った迎合的憲法になるん
じゃないの? つまり結局、自主憲法ではなく、アメリカの意思のままの憲法ということになり、現
在の憲法の作成過程となんら変わらない大同小異の憲法ということになるんだよ。解ってるかい? 
日本国憲法を拵えたのはケーディス大佐以下4人のスタッフだ。彼はアメリカ国籍ではあるが、アシ
ュケナジー(ユダヤ人)だ。
 悪くいおうなら、自衛隊をアメリカ軍の尖兵にするためだけの改変といえるよ。つまり自主憲法と
は謳いながら、後ろからアメリカにせっつかれて改変するということになる。どこが自主なんだい?
 小泉純一郎がアメリカに身も心も捧げたのは本人の勝手気儘、まあ自由なんだろうけどさ、国民を
アメリカに人身御供するのだけは勘弁してくんねえか。自衛隊は憲法に違反している今の状態で丁度
いいんだよ。小泉一流の靖国問題で中国・韓国をいらつかせて反日感情を煽り、「それ見ろ中国が攻
めてくるぞ」と脅して、国民に自衛隊国軍化を承知させようテクニックが見え見えだ。これに騙され
ないことだぞ。小泉純一郎はそこらに転がっている自民党の諸先生方とは精神状態において一線を画
する、「外面女菩薩内面夜叉」。天皇家は平和を願うけれど小泉家は国民を戦争へ戦争と案内した。
イラク、インド洋で未だに、空自と海自にアメリカに対するおべんちゃらをやらせている赤っ恥。お
気をつけなさいましな。安部家もお気をつけなさいましな。安倍晋三の憲法改正の目的は再軍備化じ
ゃあない。まず作り変えやすい憲法をまず作ることなんだ。此度の憲法改変は第一段、さらに何年か
して第二段改変をやって、日米戦争の戦争体験者が死に絶えた頃、明治憲法が復活する。進次郎お坊
ちゃまが家訓に従って小泉一家4代目を継ぐのかい?


■副都心→財政破綻→東京オリンピック計画

 「都心」という言葉があって、東京都の中心地という意味で千代田区を指したが、それは、都庁が
あることと、日本政治の中心地に位置していることにより誰も疑うことはなく自然に受け止められて
いた。ところが高度経済成長で新宿や渋谷が大きく都会化して、都心と同じような機能を持つように
なると、誰がいい出したのか、「副都心」という冠称をつけるようになった。恐らく不動産屋が発明
したものだと思う。それが用語として定着すると、今度は「副都心は何処だ?」ということになり、
誰がどう数えたものか、東京都は新宿・渋谷・池袋・台東(上野浅草)・本所(亀戸錦糸町)・大崎
・臨海の7ヶ所を副都心として指定した。しかし上野浅草までは、まぁ辛抱するとしても、本所以下
はどうだかねぇ。亀戸・錦糸町は駅前だけだし、大崎はツインタワービルが建っているキリ。臨海地
区に至ってはまたまだ空き地だ。
 
京臨海副都心建設株式会社は、東京湾で平成10年3月策定の「臨海部副都心開発基本計画」に
基づいて、東京臨海副都心の都市基盤施設の整備やビルの賃貸等を目的として、同年11月に設立さ
れた。東京都などが出資する第3セクター会社だ。臨海赤字三セク5社の内の一つで多額の負債を抱
えており、財政はすでに破綻している。
 それで東京オリンピックを開催して、この辺りを一気に開発して本物の副都心化しようと目論んだ
訳さ、石原君は。東京オリンピックは、都民の夢ではなくて、石原慎太郎の切羽詰ったあえぎもがき
なのだ。政治家は口で美しい部分だけを表現するからな。そこは用心だ。
 そんなことよか、六本木・赤羽・東品川の方がよっぽど発展してるさ。三軒茶屋だって、目黒だっ
て、板橋だって高層ビルは建ってるぞ。しかも新宿は都庁が越してきたし、日中人口340万人で日
本最高、つまり正しい意味での「都心」だ。千代田区は人口も最低だし、都機能もない。皇居や中央
官衙は国の機能で、新宿は副都心から省くべきだろう。それに副都心などという言葉は全く意味を持
たないのだ。副都心だからどうなんだ?
 さらにお調子者たちがおっ始めたのが「新都心」だ。さいたま、千葉の幕張をいうのだが、それも
いおうなら「新副都心」だろう。都の機能は全くないのに新都心とはこれ如何に? そしたら、札幌
にも、茨城・千葉にも、横浜にも、大阪にも、はては沖縄にも副都心や新都心が現れてかつての県庁
所在地や市の中心地とは別に、離れたところに出来る、県庁所在地並み、中心地並に出来上がるビル
群の地域をいうこととなったようだ。やれやれ・・・




  武 蔵 の 由 来 


 『古事記』に「无邪志」、『万葉集』に「牟射志」とあり、古くは「むざし」と濁ってたという。
意味は不明。解読に諸説ある。
 ①.賀茂真淵の説で、古代には「牟佐国」で武蔵と相模に亘る範囲だった。これを上下二つに分
   け牟佐上(むさがみ)→さがみ、牟佐下(むさしも)→むさし となった。
 ②.本居宣長は、古代「佐斯(むさ)国」があり、佐斯上(むさがみ)が「さがみ」となり、身
   佐斯(むさしも)が「むさし」となったという。
   『地名の語源』では「身」ではなく「主」とし、主佐斯(むさし)だという。こうなる理由
   は判らず説得力に欠ける。
 ③.アイヌ語で、「モ」→静かな、「チャシ」→城、から転じたとする金田一京助の説。別にア
   イヌ語で「ムニ」→草、「サワ」→乾いた原野、「ウシ」→生い茂る、もある。
 ④.「身刺」で、武蔵野は身を刺す茨が多いことよる説
 ⑤.古代朝鮮語のマル・チャチ(大領地)が転じたという説と、別にム・サシ(我らの城)があ
   る。古代関東地方には朝鮮人が多く住み、朝鮮に起因した地名は多い。
 ⑥.鏡味完二・明克父子は、「ボサ(茅や笹の茂み)」の転じたものとする。
 ⑦.野村八郎は、「モシ(ムシ)=芋を表す朝鮮語」の栽培地の意だとする。
 ⑧.馬の牧場が多いことから、馬城(マサシ=牧場)の転とする説。
 ⑨.吉田茂樹は、出雲族が広大な武蔵野に来住して直射日光の強さを感じ、「御射し」から「み
   さし」と名づけたのが「むさし」に転訛したと説く。
 孝徳天皇の大化二年(646)知々夫彦命を知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)とし、多毛比
命を无邪志国造(むさしのくにのみやつこ)とした。
 和銅5年(712)に改正があり、諸国郡郷は好字二字をもって表すことが詔された、この結果、
知々夫と无邪志は合わさって一国となり、「むさし」の韻に「武蔵」の文字を当てた。しかし武蔵に
意味は無く「武器の蔵」を表現したものではない。それで「埼玉県も武蔵だ」といわれて奇異に感じ
るのは、元々は「秩父の国」だからである。このとき「国造」は「国司=国守」・「郡造(こおりの
みやつこ)は「郡司」となった。

   行く雁やお江戸は武蔵うるさしと一茶)
   武蔵野の幅にはせばきかすみかな(嵐雪)
   武蔵野や 畠の隅の花すすき(正岡子規)
   武蔵野や虫それぞれの物語り(幸田露伴)
   武蔵野の小岫
(おぐき)の雉(きぎし)立ち分かれ去(い)にし夫(せろ)に逢はなふよ
   恋しければ袖も振らんを武蔵野のうけらが花の色に出(い)ずなめ
   白鷺のゆかりの色も問ひわびぬ見ながら霞む武蔵野の原(藤原定家)
   武蔵野や草の原越す秋風の雲に露散る行末の空(藤原俊成女)
   逢ふひとに問へど変はらぬ同じ名のいくかになりぬ武蔵野の原(後鳥羽院)
   露をかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原(太田道灌)
   武蔵野といづくをさして分け入らん行くも帰るも果てしなければ「武蔵野紀行」

■武蔵野
 武蔵野台地は、洪積世の所謂敷島隆起時代に、多摩川の隆起扇状地として生成したものと考えられ
この洪積層台地の下部は扇状地なので、西部では砂礫層が発達し、東部に海成砂層が分布している。
そしてその上部には3m~10数mに及ぶ陸成のローム層が堆積し、これが台地を形成している。さ
らに荒川と多摩川とが谷を開析して、各々広い氾濫原を作った結果台地と沖積低地とが画然とし、同
時に台地が崖端(がけはし)を侵食して多くの渓谷を作り、のち一時陸地が沈降したために、それら
の渓谷に海水が浸入して複雑な海岸線を呈し、所謂「溺れ谷」の状態となった訳さ。このころに人間
の住んだ形跡が認められるが、戦後になって関東ローム層あるいはこれに対比されるローム質層から
岩宿文化を始めとして、これに類する「石器文化」の存在が確認され、縄文時代以前の文化「無土器
文化」の遺跡が武蔵野にも14ヶ所発見されているので、武蔵野の人類の生息は、今まで考えられて
いた時代より、さらに遡るものと考えられる。



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